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引き続きご検討おねがいします 前スレで推薦されていたもの
田中利幸『空の戦争史』(講談社現代新書)
中村好寿『軍事革命(RMA)− <情報>が戦争を変える』(中公新書)
安達正勝『物語フランス革命』(中公新書)
越澤明『復興計画 - 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで』 (中公新書)
神野直彦『財政のしくみがわかる本』(岩波ジュニア新書)
竹内淳『高校数学でわかるマクスウェル方程式』(ブルーバックス)
桜井弘 編『元素111の新知識』(ブルーバックス)
>>370 牧野雅彦『ヴェルサイユ条約―マックス・ウェーバーとドイツの講和』 (中公新書)
内田義雄 『戦争指揮官リンカーン―アメリカ大統領の戦争』 (文春新書)
小和田哲男 『戦国の城』『戦国の合戦』(学研新書)
泉三郎 『岩倉使節団という冒険』 (文春新書)
津田左右吉『支那思想と日本』(岩波新書)
岩波ジュニア新書って、ジュニア用というともったいないってのがあるな。
下手な濫造新書より、ジュニア新書の方がわかりやすく、本質的に高度なことを言ってたりする。
ちくまプリマーにも中公ラクレにも大人向けの内容のものあるぞ
中公ラクレは、そもそもジュニア向けじゃないでしょ。
いつのまにか4スレが落ちててビビったw
スレ立て乙
前スレで推薦されていた新書の感想書く。
平田オリザ『演劇入門』(講談社現代新書)。タイトルから予想されるような、演劇史の概説でもなければ、演劇鑑賞初心者のための作品案内でもなく、
またアカデミックな演劇理論を講じたものでもない。「戯曲を書く・演劇を作る」ためのハウツーを実作者の立場から論じ、
そこから言葉や社会における「リアル」とは何かを考えていこうというスタンス。
戯曲の書き方については、映像作品のシナリオとの違いを明確にしつつ、実にシステマティックというか工学的にその組み立て方を説明している。
どちらかというと理系的・合理的な思考をする人のようだ。後半では、演出・俳優の問題と絡めて、
「他者との対話」「コンテキスト」といった言語論やコミュニケーション論的な方向に分け入っていく。
また演出家と俳優との間にある権力性についても、クリアに考えられている。
通読すると、この人は日本の演劇及び社会において、まずはモダニズムを確立することが必要だと考えているらしいことがわかる。
60年代から続くアングラ系の小劇団などでは、作品は非常に前衛的なのに、劇団の内部は古臭いドロドロした村社会だったりするのが気に食わない、という感じだろうか。
こういうきれいに整理された方法論を持ち、クールで明晰な頭脳を持った芸術家というのは、ある意味ユニークかもしれない。
ところで、個人的には演劇などほとんど見たことないし、ましてや戯曲を書いてみたいと思ったこともなく、
平田オリザの戯曲も一つも知らないわけだが、この本を読んで特に演劇に興味が出たということもない。
一般的にも、「映画はたまに見るけど演劇なんか見たことない」という人がほとんどではなかろうか。
だいたい上演する場も持っていない素人が戯曲なんか書いてどうしようというのか。
一応、高校の演劇部などが対象だとは言っても、戯曲を書こうなどという人はごく一部だと思うのだが。
どうもこの人は演劇人口の裾野を広げようと企んでいるらしく、なにやら野望の臭いがプンプンする。
実際、鳩山内閣官房参与になったりしてたし、『芸術立国論』などといいう著作もある(これはまだ読んでないが)
別に利権が目的ではなくて、純粋に演劇を広めて社会を良くしようと考えているのだろうが、いずれにしろ理念を上から押し付けるのはちょっと勘弁と言う感じ。
伊藤之雄『元老・西園寺公望』(文春新書)。従来の西園寺公望像に若干の変更を加えた評伝。
冷静で地道であるが情熱や気迫に欠けた政治家という従来のイメージに対して、頑固で時に激怒する性格であり、決して情熱に欠けていたわけではない点、
粘り強く状況によっては柔軟に事に当たるが、自分が重要と考える事案に関しては決して後には引かないという一面を強調している。
長寿ながら常に病気がちだった体調面の事情や、三号まで抱えた女性関係と家庭の事情なども詳しく書かれていて、美化されざる実像に迫っている。
グルメとして食い意地のはった側面も容赦なく暴露されている。晩年には軍部の増長と粘り強く戦うが、ジリジリと押し切られていく経緯が詳細に描かれている。
穏健なナショナリストというのが著者による西園寺の総評のようだ。
これを読んだ後、岩井忠熊『西園寺公望−最後の元老−』(岩波新書)(書かれたのはこっちの方が先)も読んだ。
いずれにしろ地味な人なので、ある程度日本近代史に興味がないとちょっと退屈。
ロシア史
http://shinshomap.info/theme/history_of_russian.html こうしてみるとロシア史の新書ってあまりないね。
革命とソ連の歴史はそれとして非常に重要だから通史には組み込みにくいしね。
ソ連終了後のロシア現代史もこれはこれで重要だし。
>>10 おまえ平田とかww
正気でいってんのか?平田ってどんな奴か知らないんだろ
>>15 多分このスレに貴方以上に演劇にうるさい人はいないと思うよ。
ぜひ新書を推薦してもらいたい。
>>10-12 ところで、
>>10-12 を読むかぎり、
どうもベストに推薦しているようには思えないんだが、
評者としてはどっちのつもりなんだろう。
読んでみた結果、これは自分も推薦します、推薦しません、
という結論の部分も書いてほしい。
明らかに絶賛してれば言わずもがなだが、これはどちらか微妙だ。
>>16 最初に推薦したのは他の人だからなぁ。
自分も推薦したい時は推薦しますと書くけど、
微妙な時には「推薦しません」とはっきり書くのは気が引ける。
よほどひどいと思わない限りは「いいとこもあるし悪いとこもある」としか言えんな。
>>17
なるほど、スタンスがよく分かった、ありがとう。
平田オリザについては前スレで、
220 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 01:36:12
演劇なら平田オリザ『演劇入門』『演技と演出』講談社現代新書は?
どちらもだいぶ前に読んだっきりなんでまったく内容覚えてないが。
と名前が挙がっただけなのを覚えていたから、
今度のレビューは初めての積極的な推薦かもしれなくて、
その辺の意向を知りたかった。
レビューは読書の参考にしてます。今後ともよろしく。 おまえら仏教好きだな。俺もそんなに嫌いではないが。
新書でも啓蒙書でもないけど、京極夏彦の『鉄鼠の檻』って読んだ?
禅の入門書として最適だと思う。あと鈴木大拙とか無門関とか読めば?
末木文比士の『日本仏教史』(新潮文庫)でも当たってみたらどうよ。
>>25 それって最近CMでやってるやつ?
メガネかけた坊さんのやつ?
経済本が少ない気がする。
経済といえばマンキューとかスティグリッツだよな
>>21 頭悪すぎ。あれは禅ではない
それでもとっかかりとして「鉄鼠の檻」を読むのであれば、新書ではないが秋月龍みんの「公案」をすすめる
経済学はまともな学者が書いた本はエコノミスト様の本に埋もれる。
>>29 まさに「悪貨は良貨を駆逐する」のね。
経済学以前の言葉だが
あと教育学もひどいよ。「俺の教育論」が書いてあるだけの本ばかり。大学で研究する先生がかわいそうだよ。
新書が雑誌化しているという指摘はうなづけるね。昔なら総合雑誌の特集で書いてアタ町菜事が新書に置き換わった。
ネットを見るようになってから、総合雑誌とか論壇雑誌は読まなくなったな。
以前は気になる記事を立ち読みぐらいはしたけど、それすらやらなくなった。
俺は論壇誌六冊読んでいる。つまり世界以外。ネットの情報などはゴミ。
次号が発売されるまでに読むだけで大変だ。
そう。
昔は大学生の頃、それを読むことがスタンダードだったな。
アメリカ史にアメリカの20世紀〈上〉1890年~1945 年 (中公新書)はどうかな?
読んだことある人いる?
「インド文明の曙―ヴェーダとウパニシャッド (岩波新書)」辻直四郎
これは名著だね。
インド勉強しようと思ったら、はずせない本だと思う。
>>43 文藝春秋中央公論正論WILL新潮45VOICE
>>42 アマゾンにはレビュー一つもないな。本当に名著なのかよ
一〜二冊しか本を出していないマイナー著者でも名著ならアマゾンにレビューは数件はあるし、
レビューが1つもないとか眉唾すぐる
アマゾンレビューなんぞを名著の判断にするとはアホすぎだろ。
辻直四郎(1899-1979)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E7%9B%B4%E5%9B%9B%E9%83%8E を眺めただけで帝大の偉い先生なのは分かるし、
『インド文明の曙』で検索をしてみれば、
大学新入生向けのブックリストや、
シラバスやレジュメの参考文献にもよく出てくる。
これが名著らしいのは確かだ。
問題は、特にインド学を専攻しない一般読者にとって、
いま読んでも面白い文章なのかどうか。
たとえばウェブ上の文献案内には、
>辻直四郎、「インド文明の曙:ヴェーダとウパニシャッド」(岩波新書)、1967
>ヴェーダに関する入門書。著者渾身の書であるが、
>日本語が難しい。とはいえ、必携。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/sanskrit/washo.htm とするものもある。
なお、そこでは新書判に近い「CenturyBooks」の
>針貝邦生、「ヴェーダからウパニシャッドへ」、清水書院、2000
のほうを「記述は辻博士の本より明解」な入門書としている。
例えばこれが
>>47 のいう
>いまでは入門書、専門書ともに良い本が出ているから
に当たるんだろう。この辺を読み比べれば判断がつくかも。
最寄のブクオフに行ってみたけどなかったな。ちょっと探さないとダメみたい。
復刊されてるのかな?
まぁネット通販で買うのが早いんだろうけど、
amazonの古書通販だと、ちょっとプレミア付いてたりするのなw
amazonのレビューこそ良書を導く羅針盤となる。
それに載ってないってことは駄本決定
ちょっと古い本だと名著でもアマゾンにレビューがない本なんていくらでもあるよ。
ネットだとそこそこ良い本が名著扱いになってたりするね。
隠れた本というので誰もレビューしてないとかよくある。
既にベスト入りしてる中でAmazonレビューが無いのはこのあたり。
やはり古いものに多いね。
梅原猛『哲学の復興』(講談社現代新書、1972年)
小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』(平凡社新書、2001年)
尾佐竹猛『湖南事件』(岩波新書、1951年)
奥井智之『60冊の書物による現代社会論』(中公新書、1990年)
詫摩武俊『性格』(講談社現代新書、1971年)
>>64 それもし読んだら、そのうち俺がここに感想書くわ。
amazonには書かないけど。昔amazonにレビュー書いたらボツられたり改竄されたりしてムカついたので。
>>62 例をあげてみろよ。
レビューもないような本に名著はないよ。
勝手に名著って崇めてるだけ
小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書)はリストに入ってる?
>>68 入ってない。俺も良書だと思いますけどね。
アマゾンは変なレビューがけっこうあるから、基地外見たさには楽しめる。
>>41 >有賀夏紀『アメリカの20世紀』上(中公新書)
上だけ読了。あまり期待しないで読んだが割と面白かった。貧富の格差による階級が形成された19世紀末から、
「革新主義」による繁栄と大衆消費社会の成立、そして大恐慌を経て、第二次大戦参戦、日本への原爆投下まで。
経済史・社会史的な叙述が中心。「革新主義」というのは著者も認めているように多義的なので、ちょっと捉えにくい概念だ。
マルクス主義の影響力が強かった日本では「革新」と言うと社民主義的な政治勢力を指していたが、
ここで言う「革新主義」はもっと広い意味で使われている。「技術革新」の「革新」の意味に近いか。
(日本でも80年代以降になると「革新・進歩主義=左翼」という図式は崩れてくるが)
20世紀初頭以来のアメリカ的理念である「革新主義」は科学主義・合理主義でもあったと述べられているが、
一方でアメリカ人というのは非常に宗教的な人々でもあるわけで、その二つの傾向がどのように関係しているのか疑問に思った。
並立しつつ対立しているのか、表裏一体のものなのか。
大恐慌とニューディール政策に関しては一章を費やして詳しく書かれている。
この辺は現在の世界不況に絡んで、いまだに経済学者の間で議論が絶えない部分でもあり、
「軍需によって恐慌を脱した」という著者の見解がどこまで正しいのかはよくわからない。
しかし第二次大戦下の米国内では豊かさを享受したのは確かなようだ。
戦争に関して、軍事や戦闘についてはほとんど書かれておらず、もっぱら銃後の社会状況に焦点が当てられている。
黒人や女性、貧民、日系移民など、社会的弱者に重点的に注目している。
岩波だったら、もっとイデオロギッシュにアメリカ的な弱肉強食社会を糾弾したりするところだろうが、
変に思想的になることなくバランスがとれた記述。下巻は気が向いたら買う。
http://blogs.dion.ne.jp/morningrain/ ↑既出だが、この人は良さそうな新書を上手く選んでレビューしていて参考になる
ベストに入っている竹田青嗣『哲学ってなんだ』(岩波ジュニア)がずいぶん前に問題になってた(アンチも多い模様)ので読んでみました。
体裁としては近代哲学入門なのだが、かなり竹田の思想に偏った特殊な内容だと思う。
岩波ジュニアというのは中高生対象だが、子どもを自分の思想で洗脳してやろうという態度の著者が多いのだろう。
思想的に偏っていると言っても、岩波にありがちな左翼的に偏っているわけではなく(むしろ反マルクス主義的なスタンスが鮮明)、
竹田と西研のほぼ二人だけで共有されている現象学原理主義的な社会思想である。副題に「自己と社会を知る」とあるように、
竹田の在日としての出自を起点としてアイデンティティの問題と近代社会をどう捉えるかという問題が提出されており、
それらに対して答えを出せるのが近代哲学だとしている。2章では哲学の方法の基本原則を三つ挙げている。
@概念を使うA原理を提出するBつねに一からやり直す(再始発)である。この@とBについてはほとんど異論はないと思う。
が、問題となるのはAであって、ここから敷衍して
「哲学とは絶対的な真理を捉えるものではなく普遍的な理解を深く広範なものにしていくための思考方法である」と定式化される。
これは竹田現象学独自の見解であって、明らかに現代哲学の共通見解ではないだろう。
3章では哲学上の難問として、「嘘つきパラドックス」・「アキレスと亀」・「カントのアンチノミー」が取り上げられる。
カントのアンチノミーについての解釈は、正統的なものなのかどうかはわからないが、これはこれで筋は通っていると思う。
ところが、最初の嘘つきパラドックスの扱いがちょっと不味い。普通は論理学的分析を中心に扱われるものだが、
これに対していきなり現象学的本質観取を適用してしまっている。竹田は、哲学とはパズルを解くことが目的ではない、と言う。
分析哲学でもそれ自体を目的としているわけではないが、パズルを解く事は重要だ。
著者は暗黙のうちに分析哲学・言語哲学的アプローチを切り捨ててしまっており、哲学入門としては偏った態度となっている。
4章ではカント・ヘーゲル・ルソーについて説明し、キルケゴール・ニーチェ・ハイデガーに少し触れた後、フッサール現象学の説明。
ここでは、自由論・市民社会論に絡んで、ヘーゲルとルソーを高評価している。同意するかどうかは別として、この部分は思想として面白いし有益な議論だと思う。
現象学については、今まで竹田や西研の本を読んできたものにとっては「またか」という感じのものだろう。
アカデミックな現象学と竹田現象学とのズレというのも問題になるのだろうが、素人の自分としてはそこはどうでもいい気がする。
それより現象学を思考の原理とすること自体に疑問がある。例えば「科学」の普遍性と現象学による基礎付けの問題など。これについては色々思うところはあるが省略。
5章では、ヘーゲル・フロイト・現象学を参照しながら、改めて自己とアイデンティティの問題を論じている。
この辺は思春期の頃に読んだら何か感じるところもあったかもしれないが、今は別に〜という感じ。
まとめると、哲学入門書としては偏っていてオススメできないが、思想ヲタ向けの思想本としてはまぁいいんじゃないのというところ。
長文レビューするほどの本じゃないがなぜかすげえ長文になってしまってすいません。
自分は竹田と西研の本は割と読んでいて、西の『哲学的思考』も読んだし、『完全解読ヘーゲル精神現象学』(講談社選書メチエ)も買って読んだ。
後者はあまり評判良くないが、個人的には樫山欽四郎訳の『精神現象学』を読んでてさっぱり理解できなかったところ、アンチョコとして十分役にたった。
だから哲学アカデミズム方面から差別されている事に関しては擁護したい気持ちもある。
だいたい、アカデミックな哲学者が一般向けに書いてる本も、トンデモっぽいのは山ほどある。
哲学者って自分勝手な妄想を書き連ねても許されるのかと呆れるくらい。その中では竹田・西田の思想はむしろ常識に近く穏健な方だろう。
竹田は最近ヘーゲル関連の新書も2冊ほど出しているが、古本屋で安いのが出たら買うかもしれない。
思想としてはほとんど同意できないし興味も持てないが、柄谷行人あたりと本格的な論争をしたら面白いとは思う。
いままでにも相互批判とかやってきてるんだろうけど、自分はよく知らない。
何を読んだらいいか迷ったときには、とりあえず世間で話題になってるのを読んでみるのもいいのではないか。
オレは最近、内田樹の『日本辺境論』を読んだよ。内田は大嫌いだからしんどかったけどw
犯罪関係だと、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』(光文社新書)の続編である、
浜井浩一『2円で刑務所、5億で執行猶予』(光文社新書)は読んでおくべき。
著者の言い分に同意するかどうかは別として。
あと河合幹雄『日本の殺人』(ちくま新書)ね。
頼藤和寛「わたしガンです ある精神科医の耐病記」(文春新書)はいいぞ。闘病記だけど
名著だ。避けたくなるようなテーマの本だけど、一度は読んでおいた方がいい。
新書じゃないけど「人みな骨になるならば」を偶然読んで感激して、一時この人の著作を読んでいた。
人生を考えるのにいい本だよ
それよりなぜいつから癌を告知するようになったのか知りたい。
もし癌になっても治療する金もないし、とっとと死にたいね。
気軽に安楽死させてくれるような制度にならないかなぁ。
楽に死ぬ方法って実はほとんどないよね。
>>64 梅原猛『哲学の復興』(講談社現代新書)。初版が昭和47年(1972年)という古めの新書。
1章では、デカルトの二元論と西欧近代主義・理性中心主義を批判し、生と死を視野に入れた生命主義的哲学を提唱する。
仏教の優位も主張している。これといった特徴もないごく典型的な近代批判。現在で言えばディープエコロジーの理念に近いか。
2章では平和主義を論ずる。まずカントの永久平和論を検討。次にヘーゲル・マルクス・ニーチェにおいて闘争を肯定している事を確認。
さらに、マルクス主義・毛沢東主義における「正義の戦争」肯定を批判。ここでは平和主義に基づいて左翼が批判されているわけである。
そして再びデカルトにおいて生命尊重の理念が欠けている点を批判。さらに旧約聖書の殺伐さと比べて仏教の殺生戒に見られる生命尊重を称える。
3章ではサルトル批判。「病める哲学者」というサルトル評は割と当たっていると思った。
4章ではトインビーを参照しながら中国について論じる。当時は文革真っ最中だった点に注意。
最後に西欧近代文明の行き詰まりと、日本古来の「自然主義」の弱さ(自然に甘える傾向)を指摘し、
「欲望の文明」からの脱却を訴えて終わり。時代背景を考慮しつつ、思想史的位置づけを考えながら読むと面白いかもしれない。
が、要は素朴な近代批判なので、いまさら特に目新しい部分はない。
皮肉な意味でちょっと面白かったのは、平和論の部分で、冷戦を背景とした「全面核戦争による人類滅亡」への怖れが平和主義の基盤となっている点。
今となっては、戦争のイメージはすっかり変わってしまい、人類滅亡を盾に平和主義を唱えても説得力は薄くなった。
自分は梅原猛という人には全然興味ないので、他に本も読んだことないし、業績も知らない。
ただ別の人の本で出ていた、脳死・臓器移植問題に関する発言は興味深かった。
脳死を人の死と断定することには反対だが、仏教的な慈悲の行為である「菩薩行」として本人の意思で臓器を提供するのは認めて良いとのこと。
ちょっと御都合主義っぽくもあるが、落とし所としては悪くないと思う。
>>64 詫摩武俊『性格』(講談社現代新書)。これも古い新書で、1971年発行。
まず結論から言うと、古くさすぎて読む価値なし。この時代の心理学がどんなものか興味のある人だけ読むがよかろう。
第二章で、クレッチマーと宮城音弥による性格類型論について長々と書かれているが、なんらかの客観性があるようにも見えず、
かと言って鋭い人間観察眼を感じるでもない、血液型占いみたいな記述が延々と続く。
類型論に対する批判と、もう少し客観性のある特性論についても説明されているが、こっちの方はサラッと流されている。
後半は発達心理学に関する説明のようだが、人間はだいたいこんな感じで育っていきますよ〜
というような常識的に誰でも知っているようなことしか書かれていない。
最後の「共感性」に関する部分だけはちょっと面白いかもしれない。
「頭悪い」とか「偉そう」とかただの罵倒しかねえのか
>>110に関連して、やはり心理学なんかは新しい本の方がいいということで、
村上宣寛『心理学で何がわかるか』(ちくま新書)をオススメしておきます。
まぁエビデンス重視を掲げている割には、ちょっと乱暴なところもあるような気もしますが。
なんでもそうですけど、鵜呑みは禁物ということで。
既にベストに入っている中では、認知系の下條信輔、市川伸一、行動系の杉山尚子などは
今読んでも充分面白いと思います。
あと、さっき読み終わったんだけど、
輪島裕介『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)は個人的に非常に満足した。
演歌の系譜学。昭和歌謡にまったく興味のない人が読んで面白いかどうかはわかりませんが。
祥伝社は、祥伝社新書より『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健 著)を
発売した。価格は798円。
2006年秋、韓国ではパチンコが禁止され、総店舗数約1万5,000店、総売上高は約3兆円にも
のぼっていたパチンコ店が姿を消した。なぜ、韓国にはパチンコ全廃を実現できたのか?
パチンコ依存症の問題を取材してきた著者が、日本と韓国のパチンコ事情の共通点と
違いを検証。日本における政界や警察、広告、メディアとパチンコ業界との癒着等、
ほとんど報道されることのないパチンコ業界の裏側にひそむ問題を浮き彫りにする。
journal.mycom.co.jp
>>122 ドイツ史ということで、浜本隆志『魔女とカルトのドイツ史』(講談社現代新書)を読んでみた。
ドイツ史の裏面に流れるカルトの水脈を辿り、ナチスと関連付けたもの。
第一章は子供十字軍、異端審問、鞭打ち苦行、「舞踏病」、ポグロムについて。第二章は「ハーメルンの笛吹き男」、
第三章は魔女狩り、第四章ではナチス、第五章では群集心理・集団妄想についての社会学・社会心理学的な総括。
第六章ではドイツの基層文化を宗教学・民俗学的に分析し、ドイツの民族文化にカルトに感染しやすい特殊性があると主張している。
この本では、古代中世以来の前近代的カルトと近代の惨禍であるナチスとの連続性を強調しており、
差異に関してはあまり注目していない。近代合理主義の暴走という側面を強調する近代批判の論調は多いので、
そちらの方はスルーしたのかもしれないが、片手落ちの印象がある。
ドイツ文化のカルト親和的な特殊性というのも、直感的にはありそうではあるが、実証的根拠はどうなのかとも思う。
細かいところだが、一章で出てくる集団ヒステリー性の舞踏症状を「舞踏病」と称するのはいかがなものか。
神経性疾患としてのハンチントン舞踏病とはっきり区別するように注記すべきではないか。
2004年発行だから、割と新しい本なのだが、分析の枠組みが素朴すぎるような気がする。個々の事例は面白いし読みやすい。
普通のドイツ史に興味あるなら『ハプスブルク家』(講談社現代新書)あたりを最初に読んだほうがいいでしょう。
書き忘れたが、『魔女とカルトのドイツ史』も『ハプスブルク家』も既にベストに入っている。
>>132さんのレビューは最高です。
いつも勇気づけられています。もっと続けてください
今年の新書のベストを書こうと思ったら、今年出た新書はほとんど読んでない事に気がついた。
本読むの遅いから全然追いつかないんだよね。
欲しい本全部買ってたら破産するし、積ん読で圧死するしね。
図書館で新書借りる気にもならないし。
じゃあ2009年のまで入れた個人的ベスト5
@浜井浩一『2円で刑務所、5億で執行猶予』(光文社新書)…2009年
A輪島裕介『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)…2010年
B石黒浩『ロボットとは何か』(講談社現代新書)…2009年
C濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書)…2009年
D浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』 (講談社+α新書) …2010年
面白そうだと思いつつも買ってないのは結構ある。
なんか今年は中公が不調で岩波が結構頑張ったような印象があるけど、どんなもんでしょ?
人文は相変わらず中公が面白かったと思うけどなあ。
経済関係が人気あったから印象弱いけど。
岩波は今年ほとんど買ってないことに気付いた。
>>142 もしよければ今年の中公で良かったのを教えてください。
お。書ける。
今年の岩波はかたい本が多かった印象があるね。
老舗なんだからこれくらいの堅さで良い。
創刊したばかりの「歴史新書y(洋泉社)」は歴史好きなら楽しめると思う。
>>140 中公新書の本がないじゃん。
やる気あんの?
>>146 自分で選んでて「中公入ってないなぁ、光文社2冊も入ってるなぁw」とは意識してたけど。
今年読んだ中では印象に残ってるのがないんだよね。
試しに『石と人間の歴史』(中公新書)というのを買ってきた。
正月にでも読む。
ロボットとは何かってのは有名だよな、よく名前を聞く。
>>144 すごく個人的な興味から読んだのであまり参考にならないかもしれないけれど、
清水克行『日本神判史』はすごく面白かった。
年末年始をワクワクして過ごしたいから、知的なワクワクできるような本を教えて。
もちろん、新書じゃなくてもいいから。
知的なワクワクというのは、本人にとって簡単すぎてもダメだし理解不能すぎてもダメな絶妙なところにあるもの。
それは本人にしかわからない。
大学生だしどの本も簡単ってことはないと思う。
だから難しすぎない本でなければ何でもいいからおすすめ教えてください。
こういう自信がある奴は高校生用の入門書読んどけよ。
岩波ジュニア新書かちくまプリマー新書で面白そうな本を買ってこい。
今年もありがとな、おまえら。
もっと、来年は書き込めよ
>>162 おい、うそつき。書きこんでないじゃねーかよ
オレ、宮台の『日本の難点』を遅まきながら読んだので後で感想書くよ。
ちゃんとしたレビューじゃなくて、チラ裏的なことをだらだら書くと思うけど。
>>170 佐藤信夫の?いくらググってもそんな本出てこないんだけど…
神国日本 (ちくま新書) 佐藤 弘夫 (新書 - 2006/4) でしたわ
>>172 それかなり前に買ったけど読まずに積んであるわ。今度読もう。
ベストって古い本ばっかりじゃね。
2010年、2009年のベストとかを考慮しながら新しくどんどんいれていこうぜ
新書の積ん読だけでも300冊ぐらいあるので、とても2010年出版までたどり着けません
全くの初心者なら大竹文雄『経済学的思考のセンス』(中公新書)が無難か。
ゲーム理論方面から入るのもひとつの手なので、梶井厚志『戦略的思考の技術』(中公新書)でもいいかも。
岩田規久男はせっかちな人には読みにくいのではないかと思う。
因果関係を一歩一歩踏みしめるように地道に説明していく文章なので、粘り強い人じゃないと退屈するはず。
正直、経済学が面白いと思える人ってどれくらいいるのか疑問。
経済学って独特の難しさとつまんなさと陰鬱さと冷酷さがある。
だからエコノミストと言われている人でさえ、あまり理解していないことが多い。
>>174 日本語についての本ってたくさん出てるけど、どれがいいのかわからんね。
言語学とか国語学とかいろんなアプローチがあるだろうしね。
新書では金田一京助とか外山滋比古あたりから読めばいいんじゃないすか。
俺は去年くらいに、文章読本の類(谷崎・三島・井上ひさし・丸谷才一等々)をまとめて読んでみたが、
結局、斎藤美奈子の『文章読本さん江』が一番面白かったわ。新書じゃないけど参考まで。
見てわかるように、文章読本を何十冊よんでも別に文章なんて上手くならん。
しょせん本人の才能だわな。
ハウツー本系全て(会話,勉強法etc)に言えることだけど
何冊読んでも自分の能力は上がらないのが鉄則。
2、3冊読むぐらいなら効果はあるのだろうけど、そこをいきすぎて自己啓発マニアとか受験術マニアになるとどうしようもないw
新書は分量も手ごろで読みやすいけど、ゴミみたいな内容のものが
増えたな。そのうち新書の出版が下火にならないか心配
新書出版は、自転車操業状態。
数打ち当たるだから、ゴミ本がほとんど。
内容よりもタイトルでいかに買わすかが勝負。
衝動買いにささえられているのが新書である。
知らん。言語学・日本語学関係は見通し悪くて、素人としてはうかつなことは言えんな。
学術的な責任は持たないけど、一応
井上ひさし『私家版 日本語文法』 (新潮文庫)をお勧めしておくか。
日本語なら山口仲美の岩波から出てる日本語の歴史なんていいんじゃねぇの。
>>192 ああそれブックオフで買って積んである。そのうち読むわ。
>>172でお薦めされた佐藤弘夫『神国日本』(ちくま新書)を読んでみました。
森喜朗の「神の国」発言事件を受けて、改めて日本の神国思想についてイデオロギー的レッテルを外して考えてみようという本。
Wikiの宗教系新書のベストには既に、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書)、井上順孝『神道入門』(平凡社新書)、
菅野覚明 『神道の逆襲』 (講談社現代新書)の三冊が入っている。自分は一応三冊とも読んでいるが、内容はあまり覚えていない。
が、末法辺土たる辺境の小国日本に仏が神の姿を借りて顕現するという「本地垂迹」をもって「神国思想」の元とする説は、
末木文美士『日本宗教史』とほぼ同じだと思う。つまり本来「神国」とは日本の優越を誇る思想ではない、と。
この本では、古代から中世にかけての神観念の変容を分析しながら、神仏習合の成立を追う。
後半では、蒙古襲来及びナショナリズム高揚と神国思想を単純に結びつける通念が批判される。
蒙古襲来の前に、院政時代における寺社勢力関の紛争による権力秩序の危機を鎮めるために神国思想が説かれ、
また念仏などの新仏教弾圧の論理として神国思想が説かれていることが指摘される。
神国思想は蒙古襲来という外的要因よりも、国内秩序の危機に際して、権門内部の融和と協調を促すイデオロギーとして浮上した。
最後の天皇の権威の変遷と神仏との関係が述べられる。中世になると天皇の存在は神国の目的ではなく神国が存続していくための手段となる。
近世から近代にかけて、神国思想は自国中心主義へと旋回するが、その過程については軽く触れるにとどまっている。
全体的に「神国思想=自国中心主義」という通念に対する批判だが、根底から覆すというほどではなく、修正程度のものだろう。
菅野覚明『神道の逆襲』のような強い思想性もないし、癖がなくて読みやすいと思う。
『神国日本』のついでと言ってはなんですが、自分は背景となる日本の中世に関する歴史を全然知らないので、
補う意味で今谷明『室町の王権』(中公新書)というのも読んでみました。副題「足利義満の王権簒奪計画」。
まず、院政の成立から世俗権力喪失に至るまで、ざっと天皇家権威の変遷を概観した後、
足利義満が天皇の権力と権威を簒奪していく政治的策謀を追っていく。後円融院がじわじわと精神的に追い詰められていく過程で、
ドメスティックバイオレンスに至ったり、自殺未遂事件を起こしたりして、自ら権威を失っていく様を生々しく描き出している。
実質的な権力を奪うだけではなく、祭祀権・国家祈祷権を得ることが権威の獲得のために重要であることがよくわかる。
結局、義満は、乗っ取り完遂目前で急死してしまい、計画は頓挫する。その後は紛争の調停者の役割を負うことなどによって天皇の権威は回復していく。
信長・秀吉の時代になっても、皇室の権威を無視することはできず、秀吉などは積極的にその権威を利用していくわけである。
徳川体制では天皇の力を封じ込めることに意を尽くすことになる。中世における政治の本質を明快に描き出した名著。
文章は無駄のない名文なのだが、難しい漢語や歴史的用語が頻出するので、読みやすいとは言えない。
自分も歴史に疎くてちょっとハードルが高かったが、たぶん日本史好きの間では夙に評価が高い本だと思うので、お薦めしておきます。
>>196さん、レビューありがとうございます。
いつもあなたのレビューに元気づけられております。
あなたのレビューは僕の心の支えです。
>>193 その本いいぜ。面白い。
俺も日本語とか漢字とか言語学とかに造詣が深い人におすすめの本とか聞きたいんだけど、誰かいないのかな。
>>198じゃないが、高島俊男は有名すぎて結構知ってるんじゃない。
日本語でいったら金田一とかはどうなの?
それとか大野晋とかさ。
金田一の三代目も何か新書を出してたな。三代目っつっても推理漫画のあれじゃなくて。
殺人日記でも出してるの金田一はじめは?
なぜ僕が行くところ行くところで必ず殺人事件が起きるんでしょう?って。
>>203 山口仲美ってテレビに出てたのか。知らなかった。
平凡社から日本語の歴史シリーズとかってなかったけ?
殆ど何も知らないけど
>>192 山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書)読みました。バランスよく読みやすく書かれた日本語の歴史概説。
まず奈良時代については、万葉仮名の発明、そして現代より発音の数が多かった事が述べられる。
平安時代は文章に関して、「漢式和文」「万葉仮名文」「草仮名文」「ひらがな文」「宣命体」「漢字カタカナ交じり文」の成立と使われ方を説明。
鎌倉・室町時代では、係り結びの衰退・連体形と終止形の同一化といった古代語の変容に焦点を当てる。
中世には早くも現代語に連なる言葉の変化が現れたというのは驚き。江戸時代は、洒落本や人情本の会話部分に注目し、当時の話し言葉を復元する。
町人言葉に関しては現在の話し言葉とかなりの共通性が見られるようになってくる。
明治以降では、言文一致体に向けての苦闘の歴史をたどる。これは日本近代文学の歴史とも重なってくる。
特に難しいところもなく、知りたいことはだいたい網羅されていて、高校古文の副読本としてもお薦めできる良書。
ただ序文で語られる著者の言語観が素朴すぎる感じがするのがちょっと不満なところ。(ここには現代言語学と日本語学との乖離という問題が潜んでいるような気がする)
それと、著者は言文一致を無条件で支持しているようだが、個人的には文語体の良さというのもある程度残して欲しい気もする。
たとえば、聖書の句を引用するときなどは文語体の方がいいと思うのだが、どうでしょうか。
言語繋がりで、去年評判になった、今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書)も読んでみた。
「異なる言語の話者は、世界を異なる仕方で見ているか?」という問いに対して、心理学的にアプローチする。
地道な実験と実証を積み重ね、言語が思考に与える影響について納得できる知見が得られる良書なのでお薦めしておく。
自分はスティーブン・ピンカーの『思考する言語』を読んだ時、言語と思考の共通性・普遍性を強調し差異を軽視しすぎる
少し独断的な分析に釈然としなかったので、『ことばと思考』の後半で軽くピンカーが批判されているのには納得した。
(自分はNHKブックスで出ているピンカーの本は全部読んでいるので、ピンカーの主張も一応理解できるのだが)
もちろん、一方では極端な社会構築主義を採る社会学者とか実証性を軽視する精神分析学もあるので、
そういったものへの批判としてもこの本は有効だろう。
あと言語関係では、白井恭弘『外国語学習の科学』(岩波新書)もお薦めしておく。
世の中には個人的経験と独断に頼った英語学習法がいっぱい流通しているわけだが、
そういったものに騙されないためにも読んでおいたほうがいいかも。
>>209 もっと日本語、言語学系でお勧めの本教えてよ
>>208 知ったか乙。お前は現代言語学について何も知らないのによく言えるな。
>>211 知ったかじゃないならお薦めの新書を書け。さもなくば消えて首でも吊れ
まぁただ知ったか扱いしても代わりとなる良書でも紹介してくれないと批判の意味ないよね
まぁ確かに、知ったかもいい加減痛いから批判してもいいんじゃないかな。
言わないと本人も気づかないし。
言語の専門家にそんな上から目線で論じられるなんてさすがっす
長文けなされたくらいでイラッとするなら最初から書くな
>>220 おまえ思い込みが激しいって周りのひとに言われね?
>>198 漢字なら大島正二の新書は外せまい。『漢字伝来』『漢字と中国人』。
藤堂明保『漢字の過去と未来』もおすすめ。
>>224 高島俊男と大島正二辺りはすでに定番じゃね
今週の本棚・情報:新書大賞に村山斉さん
書店員や書評家らの投票で選ぶ「新書大賞2011」(中央公論新社主催)が、村山斉(ひとし)さん
の『宇宙は何でできているのか−−素粒子物理学で解く宇宙の謎』(幻冬舎新書)に決まった。2010
年に刊行された新書の中から「最高の一冊」を選ぶ賞で、今回が4回目。
以下の順位は(2)藻谷浩介著『デフレの正体』(角川oneテーマ21)(3)内田樹(たつる)著
『街場のメディア論』(光文社新書)(4)大竹文雄著『競争と公平感』(中公新書)(5)瀧井一博著
『伊藤博文』(同)。詳細は、同社刊行の『中央公論』3月号に発表されている。贈賞式と記念講演は3
月8日に東京・八重洲の八重洲ブックセンター本店で。
毎日新聞 2011年2月13日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/book/news/20110213ddm015040037000c.html 一位はともかく二位が藻谷か…
日本の人文系インテリのレベルがわかるな。
内田樹あたりをチヤホヤしててくれた方がまだ無害なんだが。
ウィキが全然更新されないんだけど、どうなってるの?
>>227 これって、去年までみたいに新書大賞の本が出るんじゃなくて
雑誌の中央公論の発表だけになるのかな?
もし、そうなら非常に残念だけど、今の新書の粗製濫造状態なら
仕方がないでしょうね。
中央公論のサイトから、新書大賞の記事のごく一部
http://www.chuokoron.jp/2011/02/post_63.html ちなみに、前スレが終わった新書スレ
新スレが建っていないようですが、需要がないのかな?
新書大賞の過去のやつが見れるサイトない?
てかそういう受賞作品が見れる一覧ないかな?
日経の経済書ベストとかさ。
漢字だったら日本の漢字とかがいいような気がするな。
岩波新書のね。
森島恒雄の『魔女狩り』が面白かったんだけど、ここでの評判はどんな感じなんだろ
構成がきちんとしてて、キリスト圏に馴染みのない俺でも読めるくらいには面白かったんだが
「YES」と会社に宣言したら、欲しかった人生がおとずれた! (「ドリームスキル・クラブ」シリーズ) [単行本]
後藤 克也 (著)
>>240 森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書)読んだ。欧州中世の異端審問から魔女裁判の歴史について詳細に書かれた新書。
ほぼ同じ題材が論じられている、浜本隆志『魔女とカルトのドイツ史』(講談社現代新書)と比べてみると、
浜本の方では社会心理学的・民俗学的な分析が主体だが、森島の方では全体的に宗教的な狂信と欺瞞の悪を糾弾する姿勢がが強い。
拷問と処刑の詳細など残酷なエピソードが目白押しなので、読む側としては感情を刺激され、
「キリスト教って最低」「中世って暗黒すぎる」という感想に収斂しがちになってしまう。
それはそれで仕方ないと思うが、偏った歴史観になってしまうので、中世の他の面を綴った歴史本も読んだ方がいいのかもしれない。
第二次世界大戦物でおすすめ教えて。
日本に関してね
>>246 探せば腐るほどあるよ?
加藤聖文『大日本帝国崩壊』中公
入江昭『日本の外交』中公
戸部良一『外務省革新派』中公
大江志乃夫『日本の参謀本部』中公
池田清『海軍と日本』中公
山室信一『キメラー満州国の肖像』中公
遠山茂樹『昭和史』岩波
東郷和彦『歴史と外交』講談社
もう後ろの、同じレーベルの本の名前が列挙されてるところを見てくれ……
太平洋戦争 決定版 (歴史群像シリーズ)1〜10
新書じゃないけど
日本語論って言ったら素人目からしたら金田一春彦が有名な気がするんだけど、実際のところ評判とかはどうなの?
初日は本棚から本が全部飛び出し、新書の積ん読タワーも崩れた。
家にいたら本に潰されていた。
>>260 潰されてしねばよかったのに。
蔵書は俺が全部もらったのに、残念。
核兵器のしくみ (講談社現代新書)
原発事故で原子力に興味を持った人にオススメです
闘う言語学者、小島剛一
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20101019/p2 知らなかったけど、この新書は隠れた名著っぽいね。絶版ではないようだ。
このスレ落ちそうだから何か書き込んどく。
今読んでるのは小林正弥『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)
まだ半分だが、それなりに掘り下げられてるしよくまとまってると思う。引っかかるところはいくつかあるが。
面白いかというと、この手の話はもう飽きたかなというのが正直なところ。
新書でもコツコツ真面目に読んでると頭は良くなるな。
数年前の事を思い出すと本当に馬鹿だったもんな俺。
もちろん今も馬鹿かもしれんけど、馬鹿かもしれんと反省できる程度には頭良くなったのは確かだな。
新書ってバカにされるけど、バカにされてるのは勝間とかそういう類の本だろ
入り口は読みやすい物から入っていくのはかまわんと思う。
最初からハードなのに挑むと挫折するおそれがある。
まず読書を習慣化する必要がある。
俺も最初は新潮新書とかPHPのを読んでた。脳に負担が少ないからな。
慣れてきたら意識的に選んでいかなければいけない。
ゴミ本を速読多読してる奴がいるけど、あれはオススメできない。
批判するためにあえて変な本を読むというのはアリだが。
微妙なのはどう考えてもひどいタイトルなのに、
じつは良書だったりするやつは本当に損
募金したら「自分勝手」「偽善者」と批判された女性
5月05日17時25分 提供:アメーバニュース/国内
質問サイト・ヤフー!知恵袋で、地震の募金をして批判を受けた女性の質問が話題となっている。5月5日9:00現在、閲覧数23万件以上というアクセス数を記録している。
その質問は「地震の募金で偽善者といわれましたが・・。」というものだ。
その女性は職場の年上女性と買い物に行った際、おつりを募金箱に入れようとしたら「なんで500円玉まで入れるの???」と、
質問攻めにあい、その後もしつこく募金金額について聞かれたようだ。
そのため女性が軽自動車を買おうとしていたお金を全て募金したことを話すと、
「それって自己満足じゃない???募金する人って偽善者だと思うんだよねーーー」
「それで貯金なくて老後に生活保護うけたりしたら一緒じゃん!!!!」
「自分勝手じゃない!!」とスーパーで言われたと言う。女性は話してしまったことを後悔していると共に、ストレスがたまり、知恵袋に投稿した模様だ。
これに対して「あなたのように誰にも言わず自分の気持ちだけで募金される事は素晴らしいと思いますね」
「ただの募金を偽善扱いすれば、何をしたって誰もが偽善者でしょう」「貴女の事を悪く言う人はいませんよ。安心してくださいね」
「あなたは間違っていません!!」などの回答が寄せられた。
http://news.ameba.jp/20110505-225/ 森島と浜本の魔女狩りの本はいずれも文章が良質で読みやすい。魔女狩りはきわもの的な興味しか持たれてないようだが、
ヨーロッパ人の精神構造を理解する上で糸口になると思う。反捕鯨運動のエキセントリックさと魔女狩りには通底するものが
あると感じる。必読だよ
またか…末木文美士・国際日本文化研究センター教授が東日本大震災を「天罰」と主張
http://togetter.com/li/130222 一部で「まさか末木氏がなあ…」という感じで叩かれている天罰発言ですが、自分は発言の是非はともかく、全く意外という感じは受けませんでした。
というのは、以前この人の『日本宗教史』(岩波新書)を読んだ時、「割と原理主義に好意的な人だな」というちょっと嫌な印象を持ったから。
その時書いたレビュー↓
http://www6.atwiki.jp/nasakenai/pages/148.html 「一神教より多神教の方が寛容だというのは嘘だ」というのが末木先生の主張だが、
やっぱり一神教が原理主義化すると怖いよ。魔女狩り然り反捕鯨然り。
原理主義の意味をわかってない人はさすがにバカすぎる
いわゆる名著を教えてよ。
お前ら一杯知ってるんでしょ?
福田歓一『近代の政治思想』岩波新書、1970、
梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波新書、1969、
の2冊を買ったから、読む。
まだ新大学生だからね。
本ばかり買ってると、満足に昼メシすら買えやしない!
>>293 岩波くらいなら図書館でかりたらいいのに
>>295 読んではないけど
ひろさちやが書いてて悪質ってことはないと思うよ
初期仏教から上座部→大乗→密教と歴史的な変遷をたどりながら、
それぞれの違いを明確にしてて、とてもわかりやすい本だったと記憶してます。出家と在家の違いを入院患者と通院患者に喩えたり、
どこから菩薩になるのかを図で説明してたり。
手にとってみるのが吉。
>>295はひろさちやっていう作者であってるから間違ってないんじゃないの
>>289にバカと言われたので、小川忠『原理主義とは何か』(講談社現代新書)を読んでみたが、
これは意外に良かった。全体像をザックリと概観できる。
>>305 この分野については全く判らないから買ったんだけど、
扱う守備範囲も広めで、それ故に浅くなりすぎてないと言えるかな。
テーマはキリスト教の思想・考え方。
高校で世界史をやった人なら、楽しめるかと。
一応は、対談方式になってるから、読みやすいね。
他にもキリスト教系の本でいいのないの?
講談社学術文庫から出てる「キリスト教の歴史」ってやつどうなのか気になってる。
◆岡崎勝世『聖書vs.世界史』講談社現代新書(1996)
史学史におけるキリスト教の立ち位置を記述。
聖書の内容そのものを説明するのではなく、
「聖書の内容が真実だと信じられたために従来の歴史学でどのような珍妙な説が唱えられてきたか」を主題に設定している。
視点はおおむね客観的で、毒舌的な文言は皆無。
史学史だけでなく、哲学史に興味がある人も読んでおいた方がよい。
各章が各時代区分(古代・中世・近世・近代)に対応しており、
1つの章につきそれぞれ5人くらいの学者が紹介されている(古代と中世は少なめ)。
1人に割かれるページは2ページから7ページほど。
俺はこの本を読んで初めてリシャール・シモン(旧約聖書は嘘ばかりという説を確立した人)を知った。
◆飯山雅史『アメリカの宗教右派』中公新書ラクレ(2008)
ブッシュ政権の末期に書かれた本。
アメリカの宗教右派についての概要が分かる。
色々な有名人や団体の名前が出てくるので、憶えたければメモが必要。
存命の者も含めて既に歴史的な評価が定まった人物の紹介が多いので、時論的な割には情報の消費期限は長い。
宗教学よりも政治学的なものを求める人に向く。思想の内面に踏み込んだ記述は少ない。
(図書館コードでいうなら100ではなく300に置かれるべき本)
類書に中公新書の『アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ』があるが、こちらは内容を忘れた。
去年の冬頃から新書の質が一気にガクッと落ちたよな
本当にこれといって印象に残るモノも感銘を受けたモノもない
だからこそ、そろそろ何か凄いヤツが出そうな気がしてる
最近は岩波と平凡社が頑張ってる印象があるけどな。
個人的に積ん読がMaxに達してるので最近のは全然買ってないが。
去年出たのでも欲しいけどどうせ読みきれないから買ってないのが結構あるわ。
あわてて買わなくてもそのうちブックオフに出てくるかもしれないしね。
というかここ数年、新書の8割はブックオフで買ってるわw
日本語に関する本が読みたいんですが、新書文庫単行本でおすすめの本はないでしょうか?
岩波の「日本語の歴史」は読みました
個人的には、フランス・ドルヌ&小林康夫『日本語の森を歩いて』(講談社現代新書)
が内容が濃くてびっくりした。ただし割と本格的な内容なので難解。
もう少し気軽なものが読みたければ、高島俊男の『お言葉ですが…』シリーズが10巻以上出てるから、それ読めば?
>>333 俺のおすすめは、
井上ひさし『國語元年』(中公文庫)
ぜんぜん学力なくても読めるしね。
これで面白いなぁ、と思ったら、言語学からのアプローチでも、
国語学(日本語学)からのアプローチでも、いかようにも。
なんか井上ひさしアンチがいるようだな。
あの人の資料収集の徹底ぶりはすごいよ。
晩年の政治的振る舞いは嫌いだけどな。
まぁリアルでは品性下劣な奴だったらしいけどな。
平和とか言ってる一方で奥さん殴って離婚したりしたんじゃなかったっけ。
だがそれと個々の書いた物の評価は別。
ゴリゴリの嫌煙主義者だって「100年前のナントカ大統領は煙草を吸っていたから悪人だ!」とは言わないよ
当時はそれが当たり前の習慣だったんだから
>>334>>335 小林康夫の日本語の森を歩いてと初耳です。はじめてききました。
ちょっと本屋に行ったときにでも拝読してみます。
高島俊男の「お言葉はですが」は定番ということもあってほとんど読んでしまいました。
他に何かおすすめとかってありますかね?
外山滋比古は?っていうか高島俊男を全部読んでるくらいなら、こっちが教えて欲しいくらいだわw
ぼちぼち読んでますわ、いろいろと。本読むの遅いから積ん読が減らなくて大変。
日本語関連エッセイでは林望の『日本語の磨きかた』『日本語へそまがり講義』(PHP新書)というやつ。
そつはないけど、これといった特徴もない軽い読み物だったな。
あと川北稔『イギリス近代史講義』(講談社現代新書)も読んだ。
岩波ジュニアの名著『砂糖の世界史』の著者。
これあちこちで評価が高いので、読むのが楽しみだったんだけど、
自分的には引っかかるところが結構多くて微妙でした。
詳しくは論じませんが、要するに経済史を記述する上で世界システム論と標準的な国際経済学とのズレをどう考えるかという問題ですね。
まぁ面白いところも多いので一般的にはオススメの新書だと思います。
もう新書は全部電子書籍にして欲しい。家に本の形で置いておく気にならない。1冊200円くらいで。ブックオフで100円で転売されるよりマシだろ
俺は割と全体をパラパラ見てから買うので電子化はちょっと嫌。
冒頭の2,3ページだけサンプルにされてもよくわからない。
俺も電子化は困るな
本の形で置きたくないなら図書館で読めよ
社会科学の本だと、まず終章を読んで作者の価値観やイデオロギーの偏向を知る、
自分が最も詳しいテーマの節を読み、どこまで事実や用語法に誤りがないかを確認する(ここに間違いがあれば本の全文が信頼できない)
という読み方がデフォだから、小説と違って積極的にネタバレしてもらわないと買えない。
全部の電子化はダメだけど、電子化が主流になってもいい気がする。
検索できるのは大きいわ。
ここはもうあれだろ、本スレが荒れた時の避難所くらいの意味しかないだろ。
レビュー書いても、内容について具体的に批判してくれるならいいけど、
ただ意味なく叩くだけの奴が多いんだよなこのスレw
いや、ほんとに意味もない書き込みもあるだろ
文面からそれが信用できる書き込みか、個々人が判断するしかないね
合田正人『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書)読了した。
ちゃんとしたレビューは書けないし書く気ないので、意味ない感想だけ書き殴っとく。
これ知的高級連想ゲームだね。関連する哲学者や現代思想家の名前が芋づる式にだらだら出てくる。
あと複雑系とか科学の断片的な話題など。この人のレヴィナスの入門書もそんな感じで散漫だった。
それだけに参照すべきものはだいたい網羅されてる感じはする。
割とわかりやすく書かれてるけど、やっぱり吉本と柄谷の本をある程度読んでないと意味不明だろうなと思う。
俺は吉本の『共同幻想論』は通読したけど、『心的現象論序説』は半分で挫折、
『言語にとって美とはなにか』は20ページで挫折しました。あと『最後の親鸞』とかは読んだ。
柄谷の本は10冊ぐらいは読んでいる。
で、結論としては、この手のインテリが何を考えてるのかだいたいわかったからまぁよかったかな。
俺にはあんまり関係ないけどな。
吉本や柄谷がそういう芸風だから、どうしても真似しちゃうだろうね。
読んでる本の影響は大きいよ。
吉本とか柄谷とかオワコンにこだわるやつの気が知れないよ ´・ω・`;
俺は終わってないからこそ問題だと思うけど。
現代思想や現代哲学というか人文系全体で共有されているある種の価値観、
たとえば市場経済に対する紋切り型の敵意とか、実証性の軽視とかが、
思想全体を貧しくしている。
しかし彼らがそういう思想を持つのはそれなりの理由があるわけで、
そのあたりを内在的に検討しないといけないと思う。
ただ吉本なんかは80年代に高度消費社会を肯定的に評価していたわけだが、
これも単に右肩上がりの経済に無自覚に乗っかっただけの薄っぺらなもんだよな。
東とかは「市場経済に対する紋切り型の敵意」を批判してるでしょ?
徐々に終わりつつあるんじゃないの
先日、内田樹の『街場のメディア論』読んだけど、終わる気配はなかったがなw
左翼・右翼・ポストモダンを問わず、思弁的な事をやってる知識人はみんなそっち系の感じ。
もちろん、一方には紋切り型の市場原理主義は厳然としてあるのも確かだけどね。池田信夫とかね。
ま、どっちもどっちではなかろうか。
広井良典『コミュニティーを問いなおす』(ちくま新書)が09年の大佛次郎論壇賞、
内田樹『街場のメディア論』(光文社新書)が2011年の新書大賞で3位。
そして昨年のサンデルブーム。311の大震災も相俟って論壇の主流は共同体主義に傾いてる感がある。
その中でも保守主義的なものから左翼的なものまでいろいろあるんだろうけど。
古川隆久『昭和天皇』はどうなの? 評判良いみたいだけど
そういう評判の良い本があるなら何でもっとはやく書き込まない。
原武史の『昭和天皇』(岩波新書)がそこそこ面白かったから、もういいやって感じ。
古川先生のは何か斬新な視点でもあるの?
積ん読をちょっとずつ消化中だが、正直あまり推薦したいような本はない。
有名かどうかは知らんけど、岩波新書の昭和天皇が出た時はそこそこ話題にはなったな。
移民について書かれた新書ってないですか?
「移民と現代フランス」は翻訳がひどいそうで
移民か〜…面白いネタのはずだが、新書では見かけないな。
なんかあったかな?
>>399 どうやら新書では上記の「移民と現代フランス」以外は無いっぽい
古いけど、中公のこれはどう?
林瑞枝 フランスの異邦人―移民・難民・少数者の苦悩
http://www.amazon.co.jp/dp/4121007166/ >>401 ありがとう。しかし確かに古いですなw
30年も経てばまた状況が変わってきていそうですが。
いちおう図書館で目を通してみます
じゃあ、新書じゃなくても良いから何か良い移民の本教えて
「物理学とは何だろうか 上・下」(朝永振一郎)
敗戦後日本の散文の最も美しいものの一つ。
「私の万葉集 一〜四」(大岡信)
日本語詩歌の源泉。
ここで聞くことじゃないけど、半藤一利の本ってどうなの?
有名すぎて一冊も読んだことないんだけど。
では落ちる前に読んだ本の感想を
鈴木眞哉『刀と首取り』(平凡社新書)
日本刀の歴史における実際の使われ方を実証的に明らかにし、日本刀にまつわる神話を解体する。
また日本刀の主な使いどころであった「首取り」の実態に関して史料を引きながら詳述している。
戦場において日本刀の武器としての重要度は高くなく、初期には弓矢、鉄砲伝来以降は鉄砲が主体で、日本の戦争は元々遠戦志向だった。
接近戦においても槍が主体であって、刀は脇役であった。そして戦場における刀の用途は主に「首取り」であった。
論旨明晰でわかりやすいが、繰り返しが多くややクドい。武術や軍事に興味がある人なら面白く読めると思う。
田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書)
上の『刀と首取り』以上に、既成の歴史学の通念に対する批判が辛辣であり、近世史学の根本的見直しを提言する姿勢が強い。
講談社現代新書で『貧農史観を見直す』というのがあったが、その流れにある歴史啓蒙書だろう。
今までの近世史学では、支配者側からの視点で法や制度の建前的な表面だけを見ているようなものであって、百姓の活き活きとした実態を取り逃がしているという。
たとえば、「定免制」という数年間分の作量の平均を基準とした年貢の固定化について、
通説だと幕府の方が年貢の増額と安定化を意図して百姓に強制した制度であったかのごとくだが、実際は百姓の方から検見制よりは定免制の方を要望したのである。
ちょっと考えてみれば、年貢が固定していた方が、努力して豊作を目指すインセンティブが生じるのは理の当然かもしれない。
検見制で、豊作の時はその分年貢を増額されていたら、努力する気が失せる。他にも百姓が主体となって制度を変えさせたり、勘定奉行を罷免させたりした例が紹介される。
身分についても、農工商に関しては、身分の上下は建前であって、実際は職分に過ぎなかった。
侍も含めて、身分間の移動は少なくなかったという。それに百姓は文字通り「百姓」であって、農業だけではなく、ものづくりをやり、商売もやった。
また田畑永代売りの禁止についても、ほとんど有名無実で、実際には売買は盛んであった。
村から村への人の移動、商品の流通も盛んで、江戸時代というのは資本主義が芽生え育った時代である。
百姓一揆の関しても、従来は追い詰められた貧農のやぶれかぶれの暴動というイメージが強いが、実際はもっと理性的で秩序があり目的の明確な抗議の方法だったと言う。
近世史学における経済史的見地の欠如を痛烈に批判していて自分には面白かった。
南川高志『ローマ五賢帝』(講談社現代新書)
一般には「平和と安定の時代」とされる五賢帝時代の陰の部分を実証的に明らかにしている。
また一般に世襲より優れたものだと言われる、優秀な者を選んで皇位を継がせる「養子皇帝制」も、実質的なものではなかった事が暴かれている。
後世では賢帝という評価が定着したハドリアヌスにしても、政治的勢力の均衡に苦慮し、即位の際には元老院議員の処刑、
後継者決定の際には姪の息子のフスクスと義兄のセルウィアヌスを処刑するなど、血なまぐさい事件を起こしていて、古代では暴君との評価だったという。
これらも政治力学的均衡を取るためのやむを得ぬ措置であったことが、婚姻や血縁関係・諸勢力の繋がり方を
「プロソポグラフィー的研究法」で実証的に調べていくことで明らかにされる。特に後継者騒動の際のいくつかの謎は鮮やかに解決されているようだ。
哲人皇帝のマルクス・アレニウスも、帝国内を統めるために、パルティア戦争やマルコマンニ戦争を戦わなくてはならなかった。
本来は政治や戦争より、静かに哲学をしていたかった学者肌の人物だったということで、人間的には非常に興味深い人である。
五賢帝時代に対して、既にあるイメージを持っている人には目からウロコの内容かもしれない。
ただ、俺のように「五賢帝って誰?」レベルのゆとり君にはとっつきにくい。もっと初心者向けかと思っていた。
そもそもシーザーが大活躍する時代や、カリグラやネロのような暴君が大暴れする時代に比べても地味な時代である。
先に高校世界史レベルのローマ史をおさらいしておくか、モンタネッリ『ローマの歴史』(中公文庫)のような気楽に読める入門書を併読するといいかもしれない。
H.G.ウェルズ『世界史概観』上(岩波新書)
約220ページ×上下巻で世界通史を詰め込んでいるので、かなりスカスカの内容かもと思っていたが、結構中身は濃い。
最初の三分の一は、地球の誕生から人類の誕生・石器時代という先史時代を扱っていて、狭義の歴史の叙述はその後に始まる。
1944年という時代に書かれた本(65年に改訂・66年に邦訳出版)なので、60年以上前の知見であり、古生物や原始人類に関する情報などはかなり古くなっていると思われる。
しかし当時の科学の水準に依拠した、それなりに緻密な叙述で、ほとんど違和感はない。
ヨーロッパ中心史観・白人中心史観も退けられているが、やはり今読むとその残滓がそこはかとなく感じられる。
ギリシア史とローマ史に関して、もう少し詳しくわかりやすく書いてあることを期待していたが、さすがにこのスペースでは厳しかったようだ。
インド・中国、アラブにもちゃんと目を配っており、構成は見事だと感じた。歴史観としては、知の歴史・理性の歴史という観点をとっているように見受けられた。
宗教も科学も理性の進歩という価値観で評価されているようだ。もっとも、精神分析や文化人類学の知見も取り入れられていて、単純な進歩史観は薄まっている。
こうした観点からなのか、ローマの時代についての著者の評価は低い。知的にはあまり進歩しなかったという見方をしている。
それに対して、哲学・数学・科学の進歩に寄与したアラブに対して賛辞を惜しまない。十字軍と教会の権勢の高まりと退廃について述べて上巻は終わる。
H.G.ウェルズ『世界史概観』上(岩波新書)
約220ページ×上下巻で世界通史を詰め込んでいるので、かなりスカスカの内容かもと思っていたが、結構中身は濃い。
最初の三分の一は、地球の誕生から人類の誕生・石器時代という先史時代を扱っていて、狭義の歴史の叙述はその後に始まる。
1944年という時代に書かれた本(65年に改訂・66年に邦訳出版)なので、60年以上前の知見であり、古生物や原始人類に関する情報などはかなり古くなっていると思われる。
しかし当時の科学の水準に依拠した、それなりに緻密な叙述で、ほとんど違和感はない。
ヨーロッパ中心史観・白人中心史観も退けられているが、やはり今読むとその残滓がそこはかとなく感じられる。
ギリシア史とローマ史に関して、もう少し詳しくわかりやすく書いてあることを期待していたが、さすがにこのスペースでは厳しかったようだ。
インド・中国、アラブにもちゃんと目を配っており、構成は見事だと感じた。歴史観としては、知の歴史・理性の歴史という観点をとっているように見受けられた。
宗教も科学も理性の進歩という価値観で評価されているようだ。もっとも、精神分析や文化人類学の知見も取り入れられていて、単純な進歩史観は薄まっている。
こうした観点からなのか、ローマの時代についての著者の評価は低い。知的にはあまり進歩しなかったという見方をしている。
それに対して、哲学・数学・科学の進歩に寄与したアラブに対して賛辞を惜しまない。十字軍と教会の権勢の高まりと退廃について述べて上巻は終わる。
H.G.ウェルズ『世界史概観』下(岩波新書)
絶対王政の時代から第二次大戦まで(付録では60年代に出た改訂部分が載っていて、そちらは戦後の冷戦時代まで記述されている)
この下巻のほとんどが近代と現代の記述に割かれていて、著者の同時代の問題意識からか、両世界大戦(特に第二次)については詳細に述べられている。
旧版のラストでは、なぜかまた生命の誕生について再論していて、妙に悲観的なムードで終わる。
改訂版では第一次世界大戦後の状況から書き直されている。スターリンや毛沢東に対する評価は辛辣であり、またアメリカのマッカーシズムの赤狩りについても批判している。
近代から現代に近づくに従って、政治家や国家の愚行に対する批判的口調が熱を帯びてくる。
通史と言うには近現代史の比率がバランス的に多めではあるが、名著と言っていいと思う。
以上はすべて既にベストに入っているもの
あと二重投稿してしまいました本当にごめんなさい
レビューのお手本みたいな文章だな。
読んだことないけど内容が想像できるし読みたくなってくる。
ほめてんだかけなしてんだか。
落ちちゃうのであげ!
小林登志子『シュメル−人類最古の文明』(中公新書)「シュメル」という古代文明の名については、自分の記憶の中に全く存在しておらず、
こんなの世界史で習ったっけ?などと思っていたが、メソポタミア文明の中でも最古のものということである。
考古学的要素も強く、遺跡や遺物の図版が豊富である。最初に三笠宮崇仁による推薦文が載っている。
序章ではメソポタミア史とその風土について、ざっと概観している。
第一章は世界初の文字の発明について詳論していて、この章がもっとも興味深い。
文字の前身としてトークンとブッラという物が存在していた事や、交易の記録の必要から文字が発明されていったことなど。
文字よりも経済の方が先なのかという驚きがある。そして粘土板に書かれた文字だったからこそ長い時の試練に耐えて残ったという点にある種の感動がある。
紙だったら残っていなかったであろうし、現代の電子メディアの情報は後世に残せるのかという思いもよぎる。
第二章では食と農について。シュメル人はビールやパンやなつめやしなどを食していた。
第三章ではハンコについて。最初はスタンプ印だったが、後に円筒印章が一般化する。
第四章では「ウルのスタンダード」と称するモザイクパネルに描かれた像や王碑を手がかりに当時の戦争の実態を推測。
第五章では王が弱者救済のために行った徳政について。また法の起原を探る。現存する最古の法典として「ウル・ナンム法典」が紹介される。
ただしこれは厳密には法典とは言い難い要素があるらしい。
第六章ではアッカドとの関係を始めとする当時の国際情勢を叙述。この辺から少しわかりにくくなる。
第七章では当時の教育・学問・文学について書かれている。学校の実態なども結構くわしくわかっているようだ。
第八章では宗教について。このあたりもゴチャゴチャしていて、あまり面白くないし頭に入りにくい。
キメラ的な怪獣ムシュフシュや霊鳥アンズーは印象に残る。
第九章では旧約聖書に出てくるバベルの塔のモデルになった「ジグラト」という塔について述べられる。
そしてウル第三王朝の滅亡へと時代が進む。滅亡の原因は、異民族の侵入に加えて、土壌の塩化による大麦の収穫減、飢饉による国力の減退だったとのこと。
最後にシュメル文化の継承について語って終わる。個々の文化や文物についての解説は面白く読めるのだが、歴史の流れはちょっとわかりにくい。
あと、この著者が女性であることは読み終わってから改めて名前を読んで気づいた。本文を読んでいる間は女性っぽい感じは受けなかったのだが。
林健太郎『ワイマル共和国』(中公新書)。第一次世界大戦後からナチスが政権をとるまでのドイツの歴史。
史上最大の民主主義憲法と言われたワイマル憲法を持った共和国がなぜ長続きしなかったのか、そしてなぜナチスの台頭を許したのか、その経緯を詳細に描く。
左翼政党と右翼政党が複雑に入り乱れ鬩ぎ合う政治的混沌、ヴェルサイユ条約による過酷な賠償金の重荷、
ソ連との関係、ようやく経済復興がなりつつあるところに襲来した世界恐慌、右翼陰謀家達の失敗、これらがナチス台頭の前提条件となった。
分けても、恐慌に対して財政緊縮政策を取った点を経済政策上最大の失敗として指摘しているのは見事。
(知られているとおり、ナチスによる政権奪取後、ヒトラーはアウトバーンなどへの公共投資により失業を解決し景気を回復させた)
63年初版の割と古い本だが、左派に対しても容赦なく厳しい評価をしているので、おそらく当時は左翼からの批判は多かったであろう。
しかし、今読むとバランスもとれており明らかに妥当な分析と感じる。むしろ今こそ読むべき名著だと思う。
以上2冊は既にベストに入っているもの。
芝健介『ホロコースト』(中公新書)。先に『ワイマル共和国』を読んだので、その流れで長らく積ん読だった本書を手に取った。
ホロコーストについては『夜と霧』などを読んで「知ってるつもり」なのだが、まとまった歴史書は一冊も読んだことはなかった。
ナチス関係の新書は今までにもたくさん出ているようだが、ホロコーストについての新書はこれが決定版か。
冷静な筆致でユダヤ人に対する迫害と大量虐殺の過程が淡々と記述されている。
序章では、ヨーロッパの歴史上に伏在した反ユダヤ主義の潮流をざっとたどり、第T章から第X章まで、ナチスのユダヤ人政策の変遷を追っていく。
まずユダヤ人の追放→次にゲットーへの隔離→ソ連侵攻の際の行動部隊による大量射殺→強制収容所・絶滅収容所と進んでいく。
追放やゲットー政策が行き詰まることによって、絶滅政策が場当たり的に採用されていったということらしい。
収容所というとアウシュビッツが有名だが、その前段階の「ラインハルト作戦」におけるいくつかの絶滅収容所での犠牲者は、アウシュビッツより多い。
しかし、証拠隠滅と生存者が少ないことから、その全貌はなかなか明らかにならず知名度が低かったが、近年やっと研究が進んできたとのこと。
終章では歴史学におけるホロコースト研究の歴史と現状を述べている。犠牲者数については約600万という数字に充分な根拠があることが示されている。
また外交と戦争を中心とした国家史を記述する伝統的な歴史学ではホロコースト研究は軽視された、と述べられており、これはちょっと意外であった。
実証は困難であろうが、それだけに歴史家はその解明に全力を尽くしていたのだと思っていた。
ドイツの伝統的歴史家フリードリヒ・マイネッケの『ドイツの悲劇』という戦後すぐ出版された現代史書ではホロコーストに全く言及されてないそうである。
戦後すぐでは不明のことが多かったとは言え、完全無視とはひどい話だと思った。
人間悪の極致と言えるこの残虐行為がたかだか80年前の出来事であったこと、この一見異常な行為が反面、凡庸なありふれた悪でしかなかったことに今更ながら恐怖する。
そして現在イスラエルがパレスチナに対して行なっていることを考えるとさらに複雑な気分にもなる。
ナチスに関しては、もう一冊まとまったものを読んだほうがいいかもしれない。
他に最近読んだものを列挙しておく↓
蟹澤聡史『石と人間の歴史』(中公新書)→地質学の権威が書いた、石の文化の歴史。ちょっとマニアック。鉱物オタ向け。
日端康雄『都市計画の世界史』(講談社現代新書)→自分には読みこなせなかった。都市計画図は豊富なので、そういうのを見るのが楽しい人向け。
長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー新書)→中身が濃く平易で丁寧な説明。科学啓蒙書のお手本。
阿部彩『子どもの貧困』(岩波新書)→良書だとは思うが、少し引っかかるところも(もしかしたら後で詳しく書く鴨)
>>426 >たかだか80年前の出来事?
すまん70年前だったか
宮本太郎『生活保障・排除しない社会へ』(岩波新書)読了。
これは良書。福祉・社会保障関連新書の決定版か?
ただ、一点引っかかる点が…(詳しく書く気はないが、マクロ経済政策の軽視がどうしても気になる)
スウェーデン型福祉社会政策に興味ある人は上の『生活保障』と共に
岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)も読んでみてください。
氏家幹人『かたき討ち』(中公新書)読了。この人は新書をたくさん出しているが、自分が読んだのはこれが初めて。
主に江戸時代の仇討ちの諸相をたどっっているが、正攻法ではなく絡め手というか、ややひねった角度からアプローチしている。
一章では室町時代に始まった「うわなり打」という習俗が取り上げられる。本妻や先妻が後妻を妬んで打つというもの。
殺すわけではなく、先妻が親しい女どもをかたらって後妻の家に押しかけて暴れる。これが習俗化することによって、深刻な紛争を防止するガス抜きになった。
本来の仇討ちとはかなり距離があるが、めちゃくちゃ面白いのは確か。二章は「さし腹」。これは恨む相手を名指しした上で自ら切腹することによって、
その相手も切腹に追い込まれるということである。これも普通の仇討ちとは違う復讐だが、面白すぎる。現代では、いじめられっ子の自殺がしばしば問題になり
「自殺するくらいなら戦え」などと言われたりするが、復讐のための自殺というのは案外日本の伝統から来ているのかもしれない、などと思った。
三章は「太刀取」。これは敵(かたき)が逮捕されて死刑が決まった時に、犠牲者の遺族が自分の手で処刑させてくれということ。
四章以降でも、衆道がらみの仇討ちや、女の仇討ちなど、正統からちょっと外れた事例が紹介される。特に衆道ネタは実に濃い。
七章の「狙われている者に頼まれたら、必ずかくまうのが武士の作法だった」という話も面白い。
九章・十章では、仇討ちに関する制度と法について論じられる。
十一章では「妻敵討」という、姦夫姦婦つまり間男と不貞妻を寝取られ夫が討つという、これまた周辺的な事例が検討される。
十二章では仇討ちを当時の人々がどう受容していたのかに触れて、その演劇性が指摘される。
十三章では再び手続き論で「帳付」について。最後に敵討ちと武士道のあり方・考え方の歴史的変遷をざっと素描する。
よく言われるように、江戸時代初期には荒々しい戦士のリアリズムとしての武士道がまだ残っているが、後期では武士道は美学化し観念化するわけだ。
全体的に読みやすく、史料の引用もすべて現代語訳されており、サービス満点で娯楽性も高い。
ただ紹介されている諸エピソードが、当時の典型的な事例なのか特殊な事例なのかは注意して判別しながら読む必要があるだろう。
復讐と倫理・法の関係や、現代の死刑問題を考えるのにも役立つかもしれない。
小島剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書)
名著であるとのネット上の評判を読んで買ったもので、結論から言うとやはり名著だった。
著者は言語学者で、トルコの少数民族言語の調査のため、トルコを何度も旅している。
一章では、自転車やヒッチハイクでトルコを旅した時の、トルコ人の人情豊かな歓待ぶりが綴られている。
二章からは「トルコのもう一つの顔」すなわち陰の部分を掘り起こしていく。
まず大きなものとしてはクルド人問題だが、トルコ当局はクルド人の存在自体すら公式には認めていないらしい。
そしてクルド語やその他の少数民族言語もトルコ語の方言だとして、独立した言語だとは認めていないと言う。
(言語学的には方言とは言えないほどかけ離れているとのこと)
著者は学問的良心に従って、少数民族と言語の調査を進めていくが、当局の妨害やトルコの知識人らの無理解に阻まれ苦闘する。
また、外国人である著者を歓待する親切でお人好しのトルコ人が、同時に少数民族や異端の宗教を露骨に差別するのである。
それが人間というもんだと言えば身も蓋もないが悲しい事実。
最後にトルコ政府は、著者を懐柔しコントロールしようとする。
著者はこれに対して大人の対応をし、妥協しつつ監視されながらも最大限に機会を利用して研究を敢行する。
このあたりの駆け引きはスリリングである。そして最終的には国外退去命令を受けてしまう。
内容も興味深いが、特に驚くべきは著者のコミュニケーション能力である。
短期間で様々な少数民族言語をマスターしてしまう語学力もさることながら、
民謡を歌っては現地の人々の心に溶け込み(著者は音楽好き)、折り紙で子供の心を捉える。
外国どころか日本中を旅しても友達ひとりすらできるかどうかわからない自分には羨ましい限り。
91年出版の本で、20年前の事情であるから、その後のトルコの状況については新たに情報を得なくてはならない。
これの続編も単行本で出ていて、より本音剥き出しで書かれていてさらに面白いらしい。
名著と言っていいと思うが、ちょっと気になるのは「できすぎ」感。
著者の行動や会話を著者自身が再現し構成していて、後半は小説みたいになっている。
もう一つの名著『ルワンダ中央銀行総裁日記 』もそうだったが、著者がかっこよく描かれすぎてる感はある。
もっとも著者が言うには、謙譲の美徳などトルコでは通用しないとのこと。
モース研究会『マルセル・モースの世界』(平凡社新書)読了。複数の研究者による、一応入門を意識して書かれた概説書。
第一部では、モースの弟子でもあった岡本太郎との関わりを導入として、モースの人類学的直観がどのようなものであったのかを描き出している。
第二部の第一章では、レヴィ=ストロースに連なる思想的系譜を考える上で、モースにとっての「フィールド」として社会主義協同組合運動があったことが指摘される。
二章では、モースの学問的師として、母方の叔父であるデュルケムと並ぶ影響を与えた、シルヴァン・レヴィというインド学者が紹介される。
ヴェーダなどの文献を読むことによって、最初の主著『供犠論』が準備された。
第三章ではその『供犠論』と同時期に出筆された「社会主義的行動」という論文について。モースの宗教論と社会主義的思想に共通するものは何か。
第四章では、モースが従来の宗教論に対して、どのように認識論的枠組みを修正したかが検証される。
第五章は未完の『ナシオン』という著作について。しかし、この「ナシオン」なるものが(英語で言えばネイションなのだろうが)
モースにとってどのようなものなのかわかりやすくまとめられているわけではない。
次の第六章はよく知られている『贈与論』についてであり、これだけはわかりやすかった。文章も他のよりわかりやすい(筆者は佐久間寛)
ただしこれも、従来の交換・所有の面から『贈与論』を見る一般的な見方とは異なり、
モースの社会主義思想や当時の経済学批判と連動した生産面についての考え方に焦点を当てた、一段階レベルの高い議論をしている。
いずれにしろ、現代の左派・右派・ポストモダン問わず「市場主義批判」的思想全般の大元締めと言っていいのではないか(柄谷行人・内田樹・中沢新一・広井良典・佐伯啓思etc…)
第七章ではモースの芸術論・音楽論での影響と「全体性」ということについて。(近代西欧的な「芸術のための芸術」ではなく、社会や人間の生活全体に関わる芸術、というようなこと)
正直、第六章以外は文章も生硬なものが多く、内容も初心者にはハードルが高い。少し歯ごたえがある方が好きな人にはいいだろう。
そういえば平凡社新書の『闘うレヴィ=ストロース』も難しくて初心者向けではなかった。
自分はモースの本は一冊も読んだことがないので、ちくま学芸文庫から出ている『贈与論』くらいはそのうち読もうかと思う。
評価 ★★★
今回から五段階で★を付けてみた。もちろん私の独断なので気にしないでください。
★★★★★=名著・新書ベストに推薦
★★★★ =良書・オススメ
★★★ =まぁまぁ
★★ =いろいろ不満
★ =読まなきゃよかった
ちなみに小島剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書) は★★★★★です。
きだみのる『気違い部落周游紀行』(冨山房百科文庫)きだみのるは上の『マルセル・モースの世界』でも、モースの弟子としてチラッと言及されている。
じつは岩波新書の『にっぽん部落』がベストに入っているのだが、これは絶版なので自分は読んでいない。このまま復刊したら岩波をほめてあげたいが。
『気違い部落周游紀行』の方が絶版ではないし手に入りやすいと思う。
ちょっと事前のイメージと違い、著者は教養を前面に出し、最後までインテリとしてのアイデンティティーを捨てない。
村民とは一定の距離を取り、その知識人と民衆との微妙な距離感から一種のユーモアを引き出している。
ある意味、上から目線とも言えようが、決して蔑んでいるわけではない。文化人類学的な参与観察といった趣。
「気違い」というのは、村民の前近代性を表象しているようだが、それほど不合理な行動をしているようには見えず、やはり「気違い」というのは失礼だろうと思う。
部落は助け合い共同体ではあるのだが、人々の示す本性はむしろ、利己的で小狡く嫉妬深い。
近代的都会の感覚からは不合理に見える行動も、部落の中で生きるにはそれなりに理にかなっている。
教養も近代性もないが、彼らなりに筋の通った生活の知恵や土着の倫理を、著者は少しの揶揄を交えつつ愛情込めて描き出している。
著者はこの本を出したことで、結局村には居づらくなったらしい。さもありなんというところだが、ちょっと悲しい顛末ではある。
名著 ★★★★★
ヨーロッパや中東あたりの近現代史の新書でおすすめある?
ニュースに騙されるな 椎名健次郎
★★★★★
テレビ局や記者クラブの実情を体験者が
ここまで大胆に書いた本はなかったと思う
厨房ではないが
情報提供
■下山の思想(五木寛之)(200Pくらい)
評価 ☆☆☆☆
文字数少なめ、サクサク読めた
世代が違うと理解し辛い場所がある、戦争の時代を生きた人なら共感できるそう
現代社会を下山の時代に例えてる点が面白かった
適菜収が公式サイトでこのスレで選ばれたことを宣伝文句に使用しているんだけどどう思う?
俺は匿名スレでこういうことをされると自演し放題になっちゃうから、
商業利用ないしは本人の公的な使用が発覚した段階でスレから外すべきだと思う。
あまりにも評価が高いものはまた別だが、適菜収の新書がそれに該当するとも思えないし。
>>444 こんな場末のスレの宣伝効果なんて微々たるもんだし気にすることはないんじゃないの?
ニーチェの超訳だって、ネタとして面白い程度の評価だったし。
だからその程度の評価なのに
本人が公式のサイトに引用しとるのが問題なのよ
まあこのスレで紹介されたという一文を見て
はたして宣伝効果があるのかというのは俺も思うけど
こういう例があると自演して自分のサイトに載せる奴が出てくるかもしれんし
単純にスレの議論の中立性を守る意味で厭だな〜と思うわけです
> 本人が公式のサイトに引用しとるのが問題なのよ
どういうふうに問題があるの?
匿名スレという設計上、自演を排除できないからな。
しかし所詮2chだし、「2ch厨房が選ぶ」と銘打ってあるし、
権威を帯びるおそれはないけどなw
>>444 自己愛が強そうで、一般大衆を見下してる様なところが
2ch厨房と同類だよな。だから選ばれて嬉しかったんだろうw
そういや、ステマって言葉をよく見かけるようになったな。
この過疎スレでやっても意味ないだろうけど。
新書初心者です。
新書は、一冊でザックリその分野が理解出来るものと理解してるのですが、合ってますか?
>>451 入門書や概説書みたいなタイトルなのに、中身はそうじゃない、というのも結構多いので注意。
人間関係を上手くやっていく本、神経図太くなる本、
対人関係のストレスを解消する本などありますでしょうか?
対人恐怖症の本はいくつか読んだけどいづれも一般論の域を出ない感じでした。
新書はだいたい一般論だからねぇ
自己啓発的なことを期待するのはお門違い
古川隆久も原武史も両方とも
大正天皇、昭和天皇という題の著書があるね(全部が新書ではないが。)
大正は古川<原、昭和は古川>原 かな?
>>451 遅レスですが、新書一冊ってこんなもんかもね。 つ
私は昔から「異業種の人から、業界話を聞く」のがたいへん好きなのである。
あまりに熱心に話を聞くので、相手がふと真顔になって「こんな話、面白いですか?」
と訊ねられることがあるほどである。
私が読書量が少なく、新聞もテレビもろくに見ないわりに世間の動向に何とかついて
いけるのは、「現場の人」の話を直接聞くことが好きだからである。
新書一冊の内容は、「現場の人」の話5分と等しい、というのが私の実感である。
(さよならアメリカ、さよなら中国、内田樹ブログ)
>>444 このスレで選ばれたことを書いてるの?
すごいな。こんな場末のスレまでチェックしてるんだ
磯部潮『発達障害かもしれない』(光文社新書)読了。医学博士・臨床心理士の著者による、発達障害に関する基礎知識。
ここではあまり重症ではない軽度発達障害…高機能自閉症、アスペルガーを中心に、LD(学習障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)にも言及する。
まずは、現代の精神医学の定説では、自閉症とは生得的な脳の障害だということを強調し、世間の無理解に警笛を発する。
著者は、医者でさえ「社会的ひきこもり」と「自閉症」の区別がついていなかった例を挙げているが、いまだに知識人の間ですら無知がまかり通っていると思われる。
(吉本隆明・上野千鶴子・養老孟司らが、自閉症に関する偏見に満ちた俗説を垂れ流していたのは、そう古いことではない)
診断に際しては、アメリカ精神医学会の診断基準「DSM-W」か、WHOの「UCD-10」が用いられる。
また、自閉症やアスペルガーやその周辺も包含した「自閉症スペクトル」という概念も場合に応じて用いられる。
先天的な脳の疾患*であるため、基本的に根治は不可能なので、可能な限りで社会に適応できるように「療育」するということになる。
学会の定説だけでなく、著者独自の考えを述べた部分も多く、中には憶測レベルのものも見られた。
精神疾患については依然としてわからない事だらけであり、著者もわからないことについては「わからない」とはっきり書いている。
しかし、わからないからと言って何もしないわけにはいかないので、臨床の現場では、経験と勘によって仮説を立て試行錯誤していくしかない事はあるだろう。
その限りで仮説だと断った上で「こうではなかろうか」と書くことは許されると思う。
ただ、「環境ホルモンや食品添加物の影響も少なからずあるのでは」などと書くのは、あまりにも根拠薄弱なのでまずいと思う。
(一応「確たる証拠はみつかっていない」と断ってはいるのだが)
こうした憶測を安易に書いてしまうと、発達障害に対する世間の俗論を批判できなくなってしまうのではないか。
若干の不満はあるが(重症の場合には言及されていないなど)こうした知識が広まる事は重要だと思うので、評価高めの星4つ★★★★。
*最近では「環境要因」も大きいという研究結果が出されている。ただし、この場合の「環境」とは「母胎内環境」などが主だと思われる。
以下参照↓
http://d.hatena.ne.jp/bem21st/20110706/p1 福田歓一『近代民主主義とその展望』(岩波新書)。1977年第一刷発行の岩波黄版。序章では現代史についてザッと触れる。
第一章は民主主義の歴史、第二章は民主主義の理論を検討、第三章・終章では民主主義の現状と展望、という構成になっている。
歴史編では、まず古代ギリシアのデモクラシーを検討する。これは近代民主主義に影響を及ぼしたものの基本的には別物である。
古代ギリシアでは自由民の共同体としてのポリスは初めから与えられたものであるのに対して、
近代民主主義は理論上は「社会を構成する原理」として我々が立てるものである。
この「主義」としての近代民主主義の直接の起原は、一つはアメリカ独立と憲法、もうひとつはフランス革命であった。
民主主義思想の祖と言われるロックやルソーも民主主義という語の近代的用法を確立したわけではない。
実質的な政治運動として起こったのはイギリス・ピューリタン革命である。
ここで「民主主義とは長い歴史の中で直線的に成長してきたのだ」というような通念が批判される。
英国で長い歴史を持っていたのは「立憲主義」であって、民主主義とは異なる。
この立憲主義がいかにして議会制民主制を確立し近代民主主義に繋がっていくのかが詳細に述べられる。
イギリスとフランスの革命やアメリカの独立、その他少数者の抵抗運動といった複数の契機が、法や制度や思想の変革につながり、
構成原理としての民主主義が生じた。さらに共産主義の流れも民主主義と合流する。
第二章の理論編では「自由と平等」という価値原理、「代表」と「多数決」という機構原理、「討論と説得」「参加と抵抗」という方法原理がそれぞれ検討される。
第三章では、大衆化の問題、管理社会の問題、共産主義社会の問題、非西欧社会(インドや中国)の民主主義などについて。
終章では、民主主義の条件として近代的な人間個人の人格の自立(の歴史性)や、国家・ナショナリズムの問題、冷戦や軍備競争の問題などを指摘している。
この本が発行された当時の時代による制約は若干ある。当時はまだ冷戦が続いている時代。
著者はソ連に対してはかなり厳しい見方をしているが、中国の「下からの民主化」についてはかなり楽観的である。
文革の惨状がまだ伝わっていなかったのだろうか?自分が感じた違和感は僅かにそれだけであった。
正直、自分は政治学とかあまり興味が持てない方なのだが、これは文句なしの名著★★★★★
難しい言葉は使われていないが、これはまさにフーコー的な系譜学であり、正確な理解のためには精読が要求される。
新書としては品切れ絶版?であるのは解せない。岩波青版の『近代の政治思想』の方は在庫があるようだ。
働き方の教科書って何新書だよと思ってググったらどうやら新書じゃないようだな
朝永振一郎『物理学とは何だろうか・上』(岩波新書・黄版)。近代科学史を辿りながら、物理学とは、どのような学問なのかを考察する。
第T章では、天動説から地動説への移行と、ケプラー、ガリレオ、ニュートンの業績を辿る。科学における、実験・観察・仮説演繹法の意義など。
第U章ではワットの蒸気機関の改良から始まって、熱力学の誕生を語る。カルノー機関について詳しく説明されている。
比較的わかりやすい説明だとは思うが、やはり図があった方がよかったと思う。
カルノー、トムソン、クラウジウスなどによって誕生した熱力学から、エントロピーの概念も作り出され、これについても説明されている。
数理的な仮説演繹法によって、理論体系が整備されていくのだが、こうした科学的な思考法というのは、我々一般人には、なかなか実感レベルまで降りてこない。
明晰な文章で書かれた理系啓蒙書の名著なのだが、一般の人に勧めるのは躊躇する。理系脳を持っていない限りは、理解するのにそれなりの訓練が必要。
朝永振一郎『物理学とは何だろうか・下』(岩波新書・黄版)。上の後半では熱力学の歴史が詳しく書かれていたが、下巻ではそれに引き続いて、統計力学の産みの苦しみを描いている。
マクスウェルとボルツマンが熱力学に確率論を導入したわけだが、そうなると、古典力学と確率論の整合性が理論的な問題となってくる。
統計力学というのは、とうの昔に完成されきっていたものだと自分は思っていたのだが、これが書かれた時点でもまだ理論的な問題が残されているというのは意外であった。
マッハやツェルメロがボルツマンの理論を厳しく批判していたというのは初めて知った。分子の運動は力学的に決定論的であるにもかかわらず確率論を導入するのは矛盾ではないか、
とい疑問が出てくるのだが、これは結局、確率論を分子の運動の側ではなく、人間が測定する過程に導入するのだという理屈によって整合化される。
この結論に至るまで紆余曲折があるのだが、かなり難しく、説明不足の部分もあるので、素人には理解しがたい部分が多い。
思っていたより専門的なトピックに踏み込んだ内容であった。
最後の「科学と文明」は科学論の講演であり、倫理的社会的な概論。
ここではゲーテによる近代科学批判が取り上げられている。実験によって「自然のベールを剥ぎとる」ような物理学のあり方とは違う科学の可能性を「地球物理学」の成果に見ている。
全体として名著だとは思うが、統計力学の話題については、ちょっと難しすぎて、文系の人に勧めるのは躊躇する。
逆に理系の人のとっては数式が省略されすぎているために却ってわかりにくい面もあるかもしれない。学部生向けの熱力学・統計力学の教科書や入門書と併読するといいだろう。
新書では、竹内淳『高校数学でわかるボルツマンの原理』、竹内薫『熱とはなんだろう』(両方ともブルーバックス)がある。後者は既にベストに入っている。
名著だけどいまいち一般性がないし自分の学力では難しかったので星4つ★★★★
青山拓夫『分析哲学講義』(講談社現代新書)。分析哲学の入門書的な体裁ではあるが、途中から著者が自分の哲学を実践し始めるために、
初心者には付いて行くのが大変な部分もある。永井均などと同様に、哲学においては「実技」が重要だという考え方の人のようだ。(この人は永井均らと一緒に本も出している)。
ただ基礎もできていない者にとって、いきなり実技はきつい気もする。この本ではフレーゲ・ラッセルから説き起こしているが、
分析哲学の基礎たる論理学の中身についてはほとんど解説していないし、論理式も使っていない。
講義1では分析哲学の歴史・対象・手法について、ザッと概観。述語論理学の確立と言語の分析への転回を指摘する。
講義2から5までは、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、クワインなどの理論を追いながら、意味とは何かについて言語の分析を中心にして考察する。
講義6では「意味の貨幣」という比喩を使い、「原初的自然」や哲学的自然主義との関係から「意味」について探求する。
講義7ではクリプキが登場し、固有名についての理論を検討。様相論理学・可能世界意味論について解説される。
講義8では「心の哲学」についてザッと駆け足で概観する。講義9では時間論について、マクタガートやダメットや入不二基義らの論を踏まえながら、
著者自身の思考を展開している。著者の研究者としての目下の興味は時間論にあるそうで、やや突っ込んだ考察となっており、なかなか難しい。
エントロピー増大をもって時間の矢とすることにも色々な問題があるらしく、一筋縄ではいかない。
哲学的な問題というのは、そもそも問題の意味を理解するのも難しいことが多いし、しかも哲学的な問題を自分なりに考えたことがあまりない人にとっては、
たとえば哲学的パラドックスが提出されても、それのどこがパラドックスなのかわからないことも多い。
そういう意味では読者を選ぶだろう。巻末の文献案内は非常に充実。文献リストを眺めているだけでワクワクする。読めるかどうかは別にして。★★★★
大庭健『「責任」てなに?』(講談社現代新書)。分析哲学系の倫理学。
この人は、永井均との独在性をめぐる論争で見かけて、その際にいささかの反感を覚えたので、ずっと敬遠していた。
この本も買ってから数年間、積ん読のまま放置。先に分析哲学の入門書を読んだので、その流れでついでに読んでしまおうと手に取る。
第一章では、倫理的責任の概念について、法的・政治的な責任概念や宗教的責任と区別しながら、規定していく。
ここでは「リスポンシビリティ」という原義から出発して、人と人との共生を前提とした、応答・呼応可能性、信頼関係の維持にコミットメントし引き受けていく態度と規定される。
レヴィナスの思想から拝借したと思しき考え方だが、レヴィナスは人間の無限責任を主張して宗教的な領域に踏み込んでいるのに対し、
著者はあくまで人間の有限性を前提としていて、宗教的な責任までは論じていない。しかし、冒頭でこのように責任を規定してしまうと、最初に結論ありきの議論に見えなくもない。
「人間には責任を負う責任がある!以上!」みたいな感じ。
第二章では、決定論と因果性、自由・意志の問題という、カント的な問題系が検討されるが、ここではカントの名は出てこないで分析哲学的に論じられる。
責任倫理の問題を考える上で、この辺の問題から考えるのは順当であろう。ムーアやフランクフルトの説が紹介され、このあたりの話が個人的には一番面白かった。
ところが、この章の終わりに著者の見解が早足で開陳されるのだが、これは正直よくわからないものであった。
著者は、複雑系の科学で扱われる「自己組織化」の局面では因果的決定論が成立していないと言い、そこに自由意志の余地があると言うのだが、
なぜ「自己組織化」では決定論的ではないのか、たとえ非決定論的だとしてもなぜ自由意志が存在すると言えるのか、全く意味不明である。
このあたりは先日読んだ朝永振一郎『物理学とは何だろうか』の統計力学における古典力学的決定論と確率論の整合性を論じた部分や、
青山拓夫『分析哲学講義』のエントロピーと時間論の部分ともリンクするので、興味のある人は合わせて読んで考えてみてほしい。
第三章では、行為と無為の非対称性などについて論じられている。ここで経済学から「機会費用」の概念が持ち出されるのだが、その扱いに混乱が見られる。
「機会費用」の概念が「行為と無為の非対称性」の根拠になりうるかのように書いてある。これはむしろ逆だろう。
普通「機会費用」の概念は「行為と無為の原理的な非対称」(何かをすることが、しないことよりも常にコストが高いということ)が錯覚であることを言うために参照される。
行為と無為のどちらを選ぶのが経済的に合理的であるかは、両者の(機会費用を含めた)コストとベネフィットを勘案して決めるわけだが、
どちらを選ぶべきかは当然ながら場合によって違うとしか言えないはずである。そして著者は結局は「行為と無為の非対称性」を否定しているのだから脱力してしまう。
このあたりは単純に思考の混乱を呈しているとしか思えない。
第四章では「責任の主体」と題して、主に集団の責任について論じている。
第五、六章は「役割と自己」「解離傾向」と題して、要するにある種の独我論(厳密に言えばメタ独我論か)が批判されている。
つまり社会の中の自己とは別に「本当の自分」がいるかのような考え方が、責任の放棄につながるという議論。
実際に槍玉に挙げられているのはネーゲルだが、暗に永井均が批判されているようである。
確かに、社会や他者から完全に切り離された「この私」を想定してしまうと、他者への倫理的責任という思想は意味を失い、
何をしても許されるという「善悪の彼岸」が現出する。(酒鬼薔薇の事件を想起)。
最初に結論ありきで倫理的責任の実在を確信している著者にしてみれば、こうした独我論に怒りを覚えるのは当然だろう。
個人的には「善悪の彼岸」を直視しない哲学は不徹底だと思うが、こうした倫理的な怒りもある意味合理的なものだとは思う。
第七、八章では、戦争責任や右翼テロについて。このあたりはウヨサヨ抗争を煽り立てるようなネタだが、とりあえずスルー(責任放棄w)。
終章では、責任の呼応可能性を社会システム論的モデルで基礎づけている。著者に対する印象としては、
まじめで誠実でちょっと怒りっぽいめんどくさいおっさんという感じ。長々と書いたが評価はどっちつかずの星3つ★★★
大庭健か。岩波だったかの新書でニーチェは弱いものいじめの哲学だとかいうふうに悪意的に曲解して
意味不明な批判をやってたキチガイという印象しかない。
この人、哲学やってるくせに、ニーチェ的による近代の倫理観j批判に対して何も応答しないところがダメダな。
『はじめての分析哲学』も分析哲学としてはわりといい本なんだが、変なウヨサヨネタを入れないで欲しい。
真っ当な左翼と言うより奴隷道徳的左翼って感じがして、本業の分析哲学分野の業績が霞んでしまう。
ブルマ&A.マルガリート『反西洋思想』(新潮新書)。これはなかなか要点が把握しにくく、感想を書くのに苦慮した。
内容をある程度要約しようと思ったのだが、まとめきれず挫折したので、細かい中身については実際に読んでみてください。
ブルマはオランダ生まれのジャーナリストで、マルガリートはイスラエル生まれの哲学者。後者は当然ユダヤ人であろう。
ここではイスラム過激派などが持つ西洋文明に対する敵意に満ちた偏見を「反西洋思想=オクシデンタリズム」と呼んでいる。
「オリエンタリズム」が西洋による東洋への善意の偏見というか余裕のある上から目線であるのに対して、
オクシデンタリズムには被害者意識と激しい憎悪がこもっている。オクシデンタリズムの系譜のルーツに遡ると、実はヨーロッパの中で生まれたものだという。
脱宗教=世俗化、近代化、都市化、資本主義化が最初に進んだのは西洋なので、それに対する反感・反動が起こったのも西洋が最初だということだろう。
日本においては戦前の「近代の超克」論がその典型として言及されている。
マルクス主義も自由主義同様に進歩主義の一種だからオクシデンタリストの攻撃の的になるが、一方で毛沢東やポルポトの中にもオクシデンタリズムが見出される。
著者らは、反合理主義・反近代主義一般と狭義のオクシデンタリズムを一応区別しており、宗教的原理主義などとの同一視も慎重に避けているが、
どこに境界を置いているのかは、やや恣意的でわかりにくい。拡大解釈すれば、アダムとイヴが知恵の実食った原罪にまで遡れるんじゃないの?とも思う。
古今東西の思想史を広範に分析していて、その教養の深さには圧倒されるが、ぶっちゃければ、ユダヤ人・イスラエル人としての問題意識や政治的スタンスが、
問題の範囲を規定しているようにも見える。これは極論かも知れないが、イスラエルの安全保障に資する事を最大の目的とした思想史分析ではなかろうか。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』同様に「敵を知るため」の戦略的分析という印象。
イスラエル寄りだからと言って分析自体にバイアスがあるわけではなく、むしろ敵を知るためだからこそバイアスを排し、冷静で客観的だと言える。
この新書はどうやら品切れ・絶版らしい。古書店で安く見つけたら買っておいて損はないと思う。★★★★
山井教雄『まんがパレスチナ問題』(講談社現代新書)。『反西洋思想』との関連で、パレスチナ問題を簡単に知っておこうと思って読む。
ベストに入っている、広河隆一『パレスチナ・新板』(岩波新書)はだいぶ前に読んだが、ほとんど頭に残っていないので。
イラスト部分が多いため、文章による情報量は少ない。細かいところまで詳しく書かれているとは言えないが、パレスチナ紛争全体の流れをザッと概観するには適している。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教三兄弟の由来から、一応、911とイラク戦争まで。
こうした難しい国際政治的な問題に、完全に中立的・客観的立場を貫くのは不可能に近いと思われる。
が、ここではユダヤ人少年とパレスチナ人少年のキャラを登場させ、双方からの視点で意見を言わせることによって、ある程度の客観性を保つことに成功している。
著者は、サダトの現実主義を高く評価しており、それに対してアラファトに対する評価はかなり厳しい。
イスラエルのシャミルやシャロンはいかにも憎々しげに描かれているが、まぁこれは人情として仕方ないかというところ。
最後に二人の少年が、ネルソン・マンデラを見習って「融和」を目指そう、と誓い合う結末はなかなか泣けるが、やはり甘いかな〜とも思う。
既に知識のある人には物足りないだろうが、無知な自分には丁度良い入門書だったので星4つ★★★★
臼杵陽『イスラエル』(岩波新書)。
イスラエル建国前夜から2009年現在までの歴史をたどりながら、多文化社会としての現実と国家統合の理念との鬩ぎ合い及び政治の変遷を描き出している。
ごく単純なイメージとしては「イスラエル=ユダヤ国家」であるが、何世紀も世界中に離散していたユダヤ人が移民してできた国だから、
当然、多文化・多民族で、人種すら多様であり、たとえ同じユダヤ教徒であっても一枚岩とは言えないのである。
またイスラエル国民はユダヤ教徒だけではない。アラブ人ムスリム、ドルーズ教徒、ギリシア正教徒、カトリック教徒もいる。
第一章では、この複雑極まる多文化・多民族社会の現状についての基礎知識が書かれている。
宗教的・政治的な立場も細かく分かれており、さらに社会的・経済的な階層性もあって、一読しただけではとても把握しきれないし、要約も不可能。
宗教と政治の関係もなかなか複雑。たとえば「超正統派」と呼ばれる最も厳格なユダヤ教徒は国から特別扱いされているが、
これは国家が宗教の上位に立つことを許さないので、シオニズムとは対立する。
第二章ではシオニズムの歴史をたどる。このシオニズムにも様々な潮流がある。
第三・四章では建国の経緯。第五章では第三次中東戦争と領土拡大。
第六・七章では、テロ・紛争と和平の試みの経緯。政治的には次第に右派が優勢になっていく。
どちらかと言うと、複雑な社会や内政についての叙述に力が入れられていて、中東戦争の経緯などはあまり詳しくは書かれていない。
しかし、アラブ・パレスチナとの対立関係の中で、イスラエルを一枚岩の国家だと錯覚しがちだった無知な自分にとっては啓蒙的な内容だった。
シオニズムの思想についても自分の知らなかったことがたくさん書かれていた。
たとえば、ホロコーストの犠牲者に対して、当初シオニストは冷淡であった(無抵抗で殺されるのは英雄的ではない、抵抗して死ぬのが名誉という価値観)
が、その後シオニズムが国家統合の理念として弱体化してくると、ホロコーストの犠牲を統合の象徴として祭りあげていったという話などは興味深い。
あまり読みやすいとは言えないが内容の濃い良書。★★★★。
先に読んだ『まんがパレスチナ問題』と比べてみると、細かい点だが、第一次中東戦争に関する見解に違いが見られる。
『まんが』の方では、戦力はアラブ側の方が圧倒的に強く当初はイスラエルが劣勢だったが、一時停戦によって武器の調達や体制の立て直しを得てきわどい勝利を得たと書いてある。
これに対して、この『イスラエル』の方では最初からイスラエル側の方が戦力優勢で、停戦前に趨勢は決していたとしている。どっちが正しいのか
余計なお世話かもしれないが、こういうしっかりしたレビューは2chのレスなんかではなくて
ご自身でブログか何かをやられてそちらに記載された方がいいのではないかと思う。
何というか、ほとんど誰も見ないスレできちんとした内容のレビューが朽ち果てていくのは勿体無い気がするので。
何言ってるんですか、ROM数も知らないんですか?
ざっと計算しただけでも1000万人ぐらいはこのスレみてますよ。
>>491 いや、このスレに愛着あるし、Wikiの方にスレは保存しとけばいいしね。
>>492 …
まぁ過疎スレだから恥ずかしげもなく長文書けるってのもあるし。
もし何万人も見てたら逃げるわ。
イスラエル、パレスチナ関係の割と最近のものでは、
中公新書から高橋正男『物語・イスラエルの歴史』と船津靖 『パレスチナ - 聖地の紛争』が出てるな。
買おうと思ったけど、ちょっとしんどくなったのでやめた。
>>488-
>>489 久しぶりにこのスレ覗いたんだが・・・ちょっとそれ買ってくる。
主題の近い新書を三冊紹介します。
塚原史『人間はなぜ非人間的になれるのか』(ちくま新書)。これはタイトルから予想される内容としては、
人間の残虐性を人類学的・社会心理学的に分析したようなものかと思ってしまうが、かなり異なったものであった。
近代芸術史をたどりながら、近代の人間主義の中から非人間的な観念や現実が生じてくる逆説を追ったもの。
問題意識としては、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』と似たものだと言えるが、なぜかそれはほとんど参照されていない。
第一章では、個から全体へと題して、近代における都市化と群集の現象を見る。
第二章ではダダや未来派などのアヴァンギャルド芸術運動とファシズムやナチズムとの関係。ここでは「無意味」がキーワードとなる。
第三章では岡本太郎の太陽の塔の謎をバタイユからの影響を元に解明する。この謎解きは面白いので必読。この章では「未開」がキーワード。
第四章では精神分析とシュールレアリスムの出現を見る。ここでは当然近代知における「無意識」の発見が鍵となる。「私」という主体の自明性が疑われてくる。
終章ではベンヤミンとボードリヤールを参照し、「シミュラクル」に満たされた高度消費社会の非人間性に焦点を当てる。
フランクフルト学派の議論などをある程度知っていれば、さほど新奇な論考ではないのだが、
いかんせん「人間的」はともかく「非人間的」とは何かがはっきりしていないので、タイトルの問いと本文の内容がどう関係するのか、最後までよくわからない。
(ナチスの非人間性と高度資本主義の非人間性は同じものだろうか?同根だとしても一緒くたにするのはあまりにも大雑把な話だろう)
特に岡本太郎の太陽の塔の謎と主題がどう繋がるのか理解困難。
おそらく、岡本太郎の表現は「未開」を呼び出すことによって、反近代的な非人間性を表現すると同時に、
近代的な非人間性へのカウンターパンチにもなっているという両義的な芸術というようなことなのだろうけれど、正直難解である。
結局表題の、「なぜ」については明確な回答は出ていないように見える。近代前衛芸術史として見れば、それなりに面白い。
タイトルの問いの答えが結局わからなかったのはさすがにあれなので星3つ★★★
石井洋二『フランス的思考』(中公新書)。マルキ・ド・サドを正面から取り上げている新書は珍しいので買ってみた。
(自分の知る限りでは丸善ライブラリー新書で稲垣直樹『サドから「星の王子様」へ』というのがあるくらい)
序章ではタイトルについて「フランス的」なんて実体はないかもしれないけれど、云々と、まず言い訳じみたことから述べられている。
次に「周知のごとく」とか初心者に配慮しない書き方はしない、と言う。読者へのハードルを下げたのはいいけれど、著者自身ののハードル上げたな〜、と思っていると、
「アプリオリ」などという語をなんの説明もなく使っていて、ありゃりゃと思う。まぁ「アプリオリ」の意味などわからなければググればいいわけだが、
それなら最初から初心者向けですみたいなことを書く必要はないじゃないかと思う。こういうどうでもいいところで引っかかってなかなか読み進めない。
合理主義と普遍主義についてざっくりと整理していて、まずはフランスの合理主義的伝統の起点としてデカルトが参照される。デカルトは本論でも参照点となる。
冒頭で「思考の快楽」という言い方が出てきて、結局これが全体を貫くキーワードになっているようだ。本論に入ってからは割とサクサク読み進められた。
第一章ではサドについて。自分もサドについてはある程度読んでいて(と言ってもごく表面的に知ってるだけ。澁澤龍彦によるサド翻訳と『サド侯爵の生涯』その他のエッセイ、
三島由紀夫の『サド侯爵夫人』、ドゥルーズの『マゾッホとサド』、バゾリーニの遺作映画など)、多少のイメージは持っており、特に目新しい内容もなかった。
ここでは、絶対的な孤独のエゴスイスト(唯一者)達による共同体の思想が、モーリス・ブランショなどを引きながら提起される。
第二章は、シャルル・フーリエのユートピア思想について。過去の文明のすべてを懐疑に付し、新しく定義された人間の様々な情念のエネルギーを編成して作られる奇妙な共同体である。
後継者によって実験的なコミュニティも作られたがことごとく失敗し、結局は空想に留まった。これについては浅田彰が一時取り上げていたのでなんとなく知っている。
最近では哲学者の國分功一郎氏がブログ等でしきりに言及していたのを見かけた。
第三章ではランボーの、「人が私において考える」「私は一個の他者なのです」といった言葉を取り上げ、
デカルトの「我思う故に我あり」と対置される。「主体の充足性」に対する反逆である。
第四章ではアンドレ・ブルトンのシュールレアリズム宣言が検討される。それはあらゆる二項対立や差異を廃棄しようとする思考の革命だった。
第五章ではバタイユのエロティシズム論を紹介。不遜な言い方で恐縮だが、これも自分は大体知っていることばかりで退屈であった(もちろん深く理解しているわけではないが)。
第六章ではロラン・バルトの晩年の講義を紹介。これは割と面白かった。バルトは母の死をきっかけに小説を書こうと決意し、
プルーストの『失われた時を求めて』をなぞるように小説を書く準備を延々と行う(という事について講義する)が遂に小説は書かれない。
目標には到達することなく、「書くことの快楽」を味わい続けた。これが、反合理主義的・反普遍主義的なバルト的「教養」の概念と合致する、とのこと。
一つ一つの章は難しくないのだが、これらがどう関連してひとつの主題に繋がっているのかを理解するのは結構難しい。
終章ではこれらがまとめられ、「進歩などする必要はない…その場にとどまって、ただ考えることの愉悦に身を浸せばいい。」と述べられ「明るい不条理」と総括される。
すなわち冒頭の「思考の快楽」に回帰する。身も蓋もない事を言うと、「ってことは脳のオナニーみたいなもんすか?」という感じもする(別に非難する意図はない)
実際、サドの絶対的利己主義者の共同体は不可能であり、フーリエのユートピアは空想に終わり、バタイユのエロティシズムはただ蕩尽され、バルトの小説は遂に書かれない。
まったく現実社会の改善には役立ちそうもないネタばかりだが、まぁ面白ければいいじゃないかということで(適当
サドを取り上げたユニークさを評価して星4つ★★★★
酒井健『シュルレアリスム』(中公新書)。シュルレアリスム運動の歴史と思想を概説したものだが、ほとんどアンドレ・ブルトン中心にページが割かれている。
アラゴンの去就については少し詳しく書かれているが、他のエルンスト、デュシャン、マグリット、マッソン、ミロ、ダリと言った美術家については、
ラスト近くにあっさりとまとめられているのみである。シュルレアリスムの周縁にいたバタイユについてはたっぷり言及されている。
これは著者がバタイユ研究者でもあるから読む前から予想はできていたことである。ベンヤミンについてもバタイユほどではないが、ある程度詳しく言及されている。
第一章では、第一次大戦の戦争からの影響を検討する。ここでは同じく戦争から大きな影響を受けたユンガーのその後の思想的遍歴と対比しつつ、
シュルレアリスムの誕生の意味が吟味されている。戦争はブルトンやマッソンらの自我に対して両義的な影響を与えた。
戦争は近代的自我を揺るがすと同時に、近代的自我の暴虐そのものでもあったわけである。
シュルレアリスム運動には近代的自我への反逆という意味が込められていた。自我については、著者は『自我の哲学史』(講談社現代新書)も出している(絶版?)。
第二章では、シュルレアリスム誕生に際しての、狂気と夢という契機を検討。ブルトンは精神科医であった。狂気に惹かれると同時に、狂気の危険性に恐怖した。
ダダイズムからの継承、フロイトの精神分析の影響、自動書記という技法、かけ離れたイメージのぶつかり合いから超現実を生み出す方法など。
第三章では、都市文化との関係について。まず、ブルトンよりも過激な近代批判的立場を取ったバタイユについて詳述される。
次にアラゴンの「パッサージュ」について。都市のショッピング・アーケードをそぞろ歩き、都市の中の非近代的生を見出す。これはベンヤミンに影響を与えた。
アラゴンは文体を重んじ、シュルレアリストの中では近代的理性の働きが強い方であった。そのためか、後には社会主義リアリズムに転向し、ブルトンと離反した。
次にブルトンの代表作『ナジャ』について紹介。これはメンヘラの実在モデルが存在し、彼女は結局心を病んで精神病院で死ぬ。
ブルトンはメンヘラ女子に惹かれるが結局は見捨てるわけである。狂気とどのように関係するべきかという問題が現れている。
第四章では政治と芸術との関係について。ベンヤミンはシュルレアリスムがもっと深く社会主義にコミットすることを望んでいたのだが、
ブルトンはもっと芸術の自由を求めていた。アラゴンは社会主義リアリズムに行ったわけだが、ブルトンはトロツキーにシンパシーを持っていた。(実際トロツキーに会ってもいる)。
バタイユはブルトンよりももっと過激な反近代性を持っていて、ブルトンと反目した。
最後に、エルンスト、マグリット、デュシャン、ミロ、ダリについて簡単に触れて終わる。
著者の考える精神の自由度という基準で単純に序列化すると、バタイユ>ブルトン>ベンヤミン>アラゴン、という感じになるのだろうか?
叙述がちょっとブルトンとバタイユに偏っていて、シュルレアリスム入門としては初心者向けではないかもしれない。★★★★
今思い出したが、シャルル・フーリエについては、重田園江『ミシェル・フーコー』(ちくま新書)にもちょっと出てきた。
最近また注目されてるんでしょうかね。
>>506 酒井健(バタイユ)と酒井潔(ハイデガー)は別人だってw
竹下節子は、他のamazonレヴュー見るとかなりトンデモ著者のようだけど、
『キリスト教の真実』以外読んだ事のある人、どうですか?
>>510 ありゃりゃ、ほんとだ…まったく気づかなかった。これは大変失礼しました。。
>>511 そんな謝り方で許されると思ってんのか?ちゃんと謝罪文をうpしろ
松屋の新作牛めしを食べました。
ふわふわしていておいしかったです。
タレの味もさらにおいしくなりましたね。
味噌汁が無料で付くのが嬉しいですね。
店員さんの愛想もよくサービスも行き届いていました。
お金ができたらまた行きます。
すき家のゼンショーはブラック会社として有名だが松屋はどうなのかね?
松屋は味噌汁がタダでついてくるから最高だよ。
でも、豚丼辞めたのがなー。
一ノ瀬俊哉『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)。これは出版された当初はかなり評判になったと記憶するが、遅まきながら最近やっと読了。
昭和の人々が徴兵され兵士となっていく過程と軍隊での生活と、戦時下の日本社会に徴兵制がもたらした不平等・不公平を様々な資料を元に明らかにしようとする。
後者の論点は、赤木智弘の戦争待望論に応える形で提出されている。
第一章では徴兵の実態をたどる。徴兵忌避のために身体毀損・詐病・逃亡を行った例が興味深い。章の終わりでは学歴によって待遇や命の安否まで差がついた事実を指摘。
第二章では軍隊での生活を詳述。これは平時と戦時下では兵士達の心情に大きな差がある。平時では厳しくはあるが、どこか牧歌的な明るさがある。
まるで体育会系の合宿のように楽しそうな雰囲気すらある。それは一つにはやがて必ず除隊の日が訪れたことによる。もう一つは軍隊は人生の修練道場だという通念があったためだという。
戦時下においては軍紀は乱れ、古参が初年兵の上に君臨し、階級制度は機能せず、私的制裁が蔓延する。
こうした軍紀の乱れにも関わらず、実戦において兵士が命がけで戦ったのは、「力と勇気」の価値観による相互監視が機能していたからだ、と著者は分析している。
少年兵についても触れられている。ガ島以降の航空消耗戦に直面して航空兵の大量速成に駆り出され、少年兵は訓練不足のまま飛び立ち大量の戦死に至った。さらに特攻要員とされる。
少年兵の間でも臆病はタブーであり「生きて虜囚の辱めを受けず」が規範であったが、その相互監視が解けた時には投降することができた。
第三章では銃後の社会、夫や息子を徴兵に取られた後の家族の実態について。銃後の家族の困窮に対しては、公的な扶助・手当、大企業による保障などがあったが、
そこには様々な不公平・不平等があった。他に一見瑣末な現象ではあるが、軍事郵便における不平等、戦死者墓石の不平等などについて考察している。
最後に軍隊内での食の不平等について分析。第四章では戦死の伝えられ方について詳しく追求している。軍は戦死者遺族の感情を重視していた。
だが実際には遺骨が帰ってこないという事態は頻発していた。戦後は軍が崩壊してしまったため、戦死を伝える公的な仕組みも崩壊してしまった。
生き残った戦友による遺族への伝達などが行われる。役所による死亡認定事務の困難などが詳述されている。
最後に「戦争が社会を公平化する」というテーゼはほとんど正しくないと結論されている。
声高に反戦を唱えるのではなく、事実を冷静に吟味し、当時の人々の生活と心情をつぶさに再現することによって、戦争の悲惨を際立たせている良書。
※ひとつ気になったのは、軍隊における「食」の問題については詳しく述べられているが、「性」に関してはスルーされている点。
まぁこれは慰安婦問題が絡み、ウヨサヨ抗争含めていろいろ面倒くさいし、それのみを論じた本はたくさんあるので省いたのだろう。★★★★
本村凌二『馬の世界史』(講談社現代新書)。著者は、馬好き、競馬好きの西洋古代史学者。馬が世界史に果たした役割の大きさを論じている。
1章では馬についての生物学的な来歴と人類によって家畜化された起原について考察している。人類が家畜化に成功した動物の種類の少なさを指摘し、
馬との出会いは人類にとっての僥倖であることを強調している。2章では馬が曳く戦車の登場について。
3章では「ユーラシアの騎馬遊牧民の活躍と世界帝国」と題して、スキタイ人や匈奴らの活躍と古代帝国との関係を考察。
第四章では、ギリシア・ローマなど地中海世界における馬の文化について。古代ギリシャやローマの戦車競走やクセノフォンの『馬術論』、
アレクサンドロスやローマ軍の騎兵隊などを概観する。だがこの古代地中海世界では「馬と人間が織りなす文明のダイナミズム」は希薄である。
ここで古代ギリシアの神ポセイドンは、元は「馬の神」であったものが「海の神」に変わっていったことが指摘される。
すなわちこれは、ある時点で、馬による陸上交易よりも海域交易が発達してきたということである。
近代においては大航海が近代世界システムをもたらしたわけだが、この古代地中海世界ではそれを先取りしていたわけである。
補論では、インカやアステカなどのアメリカ古代文明においては馬は全く知られていなかった事が述べられている。
また海路の利用もあまりなかったためユーラシアの古代文明などと違って発展しなかった。
第五章ではゲルマン民族大移動とローマ帝国解体の時代におけるフン族の活躍。またフン族と匈奴が同じ民族かどうかという問題が検討されている。
さらに中央アジアにおける「夷狄」の活動が歴史に果たした役割の重要性が強調されている。
6章ではイスラム世界でアラブ馬が生み出された経緯が推理されている。また十字軍とイスラム軍の騎馬について比較されている。
7章ではヨーロッパ中世における馬事情。トゥール・ポアテイエ間の戦い以降、キリスト教国側にも武装騎馬軍団が編成され騎士の時代が到来する。
8章ではモンゴル帝国について詳しく述べられる。ヨーロッパ人による歴史観ではモンゴル帝国の歴史的重要性が過小評価されていると著者は言う。
騎馬による交易や流通の進歩が、海路による交易の拡張と共に近代資本主義に至る道を準備した。
この点に関して、モンゴル帝国が「世界史」をもたらした、という岡田英弘の説に言及している。この章では朝鮮と日本の馬についても軽く触れられている。
9章では近世・近代に入る。ルネサンス期には馬術・馬産・獣医学が進歩した。またアメリカ新大陸が発見されると馬も上陸し急激に繁殖する。
先住民も17世紀には騎乗をマスターしていく。しかしヨーロッパの軍事においては火器と歩兵の重視へと戦術が転換し、騎兵中心の軍事力に陰りがみられるようになる。
一方で馬車が登場する。ヨーロッパの馬車の発展はハンガリーでの改良に負うとのこと。
最後に「馬とスポーツ」と題して、近代以降の馬術の発展や、イギリス発祥の競馬の歴史について語られる。
ポロとか馬術競技は一般の日本人にとってはせいぜいオリンピックの時に注目されるくらいのもので、ハイソなイメージもあってあまり馴染みがないが、競馬ファンは依然として多いだろう。
自分は競馬もやらないので、サラブレッドの由来や名馬の血統の話など聞かされてもあまりピンとこないのだが、著者の文章からは馬好きの熱い思いがほとばしっているのはわかる。
ちょっと前までは「競馬はロマンだ」などと熱く語る競馬狂のオッサンがたくさんいたような気がするが、最近では衰退しつつあるような気もする。
全体として情報量が多く楽しい豆知識も豊富、馬への熱い思いも詰まっているし、騎馬遊牧民を中心とした大胆でダイナミックな世界史像も提起されている良書だと思う。
ただし一箇所「この純潔の故にアラブ馬にはことのほか優性遺伝の力が備わった」などと書いてあって、意味不明。遺伝の「優性」には「優秀な種を残す」というような意味はないはず。
これさえなければ余裕で星5つなのだが、こういうのが一箇所でもあると他の部分の信頼性も一気に低下してしまう。で星4つ★★★★。残念ながら絶版のようだ。
加藤文元『物語・数学の歴史』(中公新書)読了。数学の通史を時代を追ってただ淡々と述べるのではなく、
著者の数学観に基いて、数学の発展の上で重要と考えられるいくつかの契機を重点的に論じている。
まず第1章、「数学の芽」と言えるのは何か、という問いに対して、著者は「割り算」だと述べている。
加減乗除の中で除法だけは他の演算と異質である。例えば、16÷7という割り算に対して、どのような答えを期待するのか?
「16÷7=2…余り2」なのか「2,285714…」なのか「16/7」という分数なのかは文脈によって異なる。
古代文明においては、文明によってどの答えを要求するかが異なっている。そして古代エジプト、古代ギリシア、古代中国の数学の萌芽についてそれぞれ述べている。
ただ、これだけの論拠では、なぜ著者が割り算を数学の萌芽としたのかよくわからないのだが、
著者によると、割り算には格段に人間の精神の息吹が感じられ、ここからより深い数学が生まれてきたのだとのこと。
第2章では、改めて数学とは何かについて、科学哲学における科学の規定などを参照しながらさぐっていく。
数学における「正しさ」の認識において、ミクロ的側面とマクロ的側面があることが指摘される。
また、計算や論理・演繹と並んで直観・「見ること」も数学において重要であると言う。そして西洋の数学だけでなく東洋の数学を視野に入れると、
「演繹的構造」はギリシア数学から近代西洋数学に至る潮流に限られており、数学の特性とは言えない、としている。
第3章では「西洋数学らしさ」として、古代ギリシアのピタゴラスやユークリッドが取り上げられ検討される。
ユークリッド「原論」に代表される、論証の形式化・儀式化・ゲーム化という特徴が抽出され、中国の数学との違いを際立たせる。
第4章では「古代から中世へ」と題して、西洋においてはアルキメデスとディオファントスが取り上げられ、中国においては『孫子算経』が紹介される。
次に10進表記の作られた歴史とアラビア文化の果たした役割について触れている。さらに円周率の計算の歴史を外観。
第5章では微積分の出現。ニュートン、ライプニッツ以前の微積分の萌芽についても触れている。
第6章では、オイラーの膨大な業績の一つとしてゼータ函数(著者は「関数」ではなく「函数」の字を使用している)に触れられ、和算では関孝和が出てくる。
第7章では非ユークリッド幾何学の出現。ガウスの先駆性が称揚される。第8章ではガロア理論。対称性という概念が浮上してくる。
ここでは、「ガロア理論を知っているが二次方程式の公式を知らない人」が「二次方程式や三次方程式を解く」という斬新な設定によって、
ガロア理論のイメージの一端をわかりやすく描写している。
第9章では「射影幾何学」について。第10章では19世紀の数学を概観。ガウスやリーマンの業績として、楕円函数論や代数函数論などが挙げられる。
このあたりになってくると、自分にはもう何がなんだかお手上げである。さらに多様体の概念や、集合論が登場する。
多様体については入門教科書に目を通したことがあるので、多少はイメージが掴めたが。
第11章では「フェルマーの大定理」についての歴史。これについては、アンドリュー・ワイルスによる解決が話題になり、サイモン・シンなどによる一般向けの解説書が出て、
その経緯を知っている人は多いだろう。最後の第12章では、非ユークリッド幾何学の「モデル」について紹介し、また、多様体の概念の確立を契機として、ブルバキが登場する。
最後にグロタンディークの「スキーム」と「トポス」を紹介する。これらについては、言葉で説明するだけ無駄ではないかと思われる。
一般読者としては「わからなくて当然」と割りきって読むしかないだろう。著者の強調する、数学のマクロな美的直観なるものについても、
ある程度本格的に勉強した人が何となくわかるといった類のものであろうし、一般人には全く雲をつかむような話である。
我々としては、わかったつもりになるよりも、実際に大学の数学教科書を開いてみて、うわあ学部レベルですらわからんwwwと絶望を実感した方が有意義かもしれない。
一つ引っかかったのは、「古代ギリシア的な意味での証明は…仮説演繹法である」と述べている部分。
普通、科学哲学などで言われる「仮説演繹法」における「仮説」は反証可能なものとして設定される。
仮説を演繹して得られた帰結が実際の観測や実験と合致しない場合は、仮説が否定されたり修正されたりするわけである。
これは数学の証明の構造とは違う。著者の勘違いなのか、「仮説演繹法」をそういう意味で使う用法があるのか、ちょっとわからない。
著者の数学観の当否については、もちろん自分には全く判断できない。数学をやっている人の同意がどの程度得られるのか知りたいところ。
名著なのかもしれないが、先の「仮説演繹法」の件が引っかかっているので星4つ★★★★
松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書)。革命・ソビエト樹立から91年の崩壊まで(この本では「ソヴェト」と表記されている)
革命の経緯についてはあまり詳しくは書かれていない。著者は、ソ連や社会主義を擁護する気はまったくないが非難する意図もない、と言っており、
基本的にはニュートラルでドライなスタンスで書かれているようだ。著者は「教訓としての歴史」を訴えるような意識には乏しいが、
ソ連という壮大な歴史的実験から「学び得ることは学び尽くすべき」と言う。
外政に関しては、第二次大戦から戦後の冷戦、東欧諸国への介入、中国との関係、キューバ危機、アフガン介入など、自分もだいたい知っていることではあるが、
わかりやすく整理されていて流れをつかみやすくなっている。内政については、主に農業集団化などの経済政策の失敗について詳しく分析されている。
「大テロル」を始めとするスターリンによる圧政については、その実態や民衆の受け取り方はどうだったかなど、冷静に検証している。
それによると、必ずしも民衆の全てがスターリンの圧政を憎悪していたわけではなく、没後のフルシチョフによるスターリン批判の時代となっても
スターリンを支持する人々は少なくなかったとのこと。著者は社会主義・共産主義に対しては何の思い入れもなく冷徹な分析を行なっているが、
共産主義と祖国の未来を信じて革命と労働に身を捧げた人々に対して敬意を払うことでは一貫している。
また、共産党は決して民意を無視していたわけではなく、むしろ積極的に民衆の要望を掬い上げようと努力しており、
一般にイメージされているよりも「民主的」だったとのこと。当局の「善意」にも関わらず経済が失敗したという事実がポイントなのだろうと思う。
社会主義としては本来ありえないはずだが、60年代には失業も多かったとのこと(物資は常に不足していたにも関わらず)。
また治安の悪化にも悩まされた(スターリン死去後の大赦によって犯罪者が大量に釈放されたため)。
また社会主義は利潤追求第一ではないので公害はないと言われていたが実際には資本主義国以上の環境汚染にも見舞われた。
著者は冒頭で、社会主義の良かった部分も公平に評価すると宣言していたが、これを読む限りではほとんどいいとこなしである。
ペレストロイカにおいては、改革が遅々として進まなかったことが指摘されているが、
ソ連崩壊後、急激な市場経済化のハードランディングによって、人々にさらなる混乱と痛みをもたらしたわけだが、このあたりについてはほとんど述べられていない。
一応、経済改革に成功した中国との比較には触れているが、ペレストロイカの失敗についてはもう少し掘り下げて欲しかった気はする。
全編にわたってゴルバチョフによる回想を主に参照している。思想的な臭みがなく自分には読みやすかった。★★★★
エンツォ・トラヴェルツ『全体主義』(平凡社新書)。著者はユダヤ問題などを研究しているイタリア人学者。
「全体主義」をめぐる言説の歴史を系譜学的に辿る。序章で、「全体主義」の言葉の内には、「事実」「概念」「理論」が混在しており、
「受容の仕方の違いが相互に干渉して絡みあい、使用者によって同じ言葉が意味を変える」と指摘している。
つまり「全体主義」という言葉は、時代状況や使う人の立場や思想によって使い方が変わり、それぞれ政治性を帯びているわけである。
そして、イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ソ連のスターリニズムの歴史を追いながら、その中で「全体主義」の概念がどのように誕生し、
また様々な思想家によってどのように使われ論評されてきたかが詳しく分析されていく。なお日本の「天皇制ファシズム」については全く言及なし。北朝鮮にも言及なし。
また、毛沢東、ポルポト、東欧の共産国などは軽く言及はされているがほぼ分析の対象外となっている。
取り上げられている思想家・政治家・文学者は非常に多い。それぞれの思想家の「全体主義」に関する考え方の微妙な差異を慎重に見極めながら分類し位置づけていくので、
内容は濃いが叙述は錯綜していて読むのは結構大変。ただ最後の「結論」の章では著者自ら全体をわかりやすく整理しているのでありがたい。
著者が最も注目しているのは、自由主義陣営による、ファシズム・ナチズムとスターリニズムを同一視し両者の差異を無視した「全体主義」の使い方である。
要するに、ナチスと共産主義を同じ「全体主義」であるとすることによって、反共と自由主義・資本主義擁護のイデオロギー性、
および、ユダヤ人虐殺というナチスの特殊性を隠蔽することになる。(左翼によるスターリニズム批判を自由主義陣営が取り込んでいったという面もある)
全体的に分析は公平かつ客観的であり、著者自身の思想的バイアスはほとんど感じられない。ただしラストの、
「強制ではなく社会関係の物象化を通して行為や思考が画一化される時代……市場の征服が権力の目的であるような時代、つまり「グローバリゼーション」の時代…」
という一文には、著者の思想的スタンスが端的に現れている。基本的にはマルクス主義を基盤とした(ネグリみたいな)グローバル資本主義批判の立場だろう。
論旨明晰で内容は割と高度。政治思想史の本としては良書なんだろうと思う。しかし自分の興味と微妙にずれていたので星3つ★★★
>>534 まず通読してから、再度、本をパラパラめくりながら要点らしきところをまとめていく。
全体が把握できない時は一章ずつ要約していく。それに適当に感想を付け加えて出来上がり。
だから自分のはレビューというより、ここに書いてるもの自体がメモに毛が生えたようなもん。
自分のための覚え書きであって、人様に読んでもらえるようなもんじゃないかもね。
そうなんだ
俺は図書館で借りてるから線引くわけにもいかんし
読書ノートつけたほうがいいな
何書いてあったから思い出せないこと多いし
自分は、読んだ本の感想文というか読書メモは必ず書く!と決めてから3,4年たつが、
いまだに書くのがものすごい苦痛な事が多いw
これは内容がまとめにくいな〜という本の時は何日も後回しにしてしまう。
しかし頑張って書く訓練をしてれば、そのうち頭も良くなるぞと自分に言い聞かせて無理やり書いてる。
頭がよくなるかは知らないが、わからない状態→わかる状態の変化はあるわけで。
それに関連した数学板からのコピペ。
現代数学の系譜11 ガロア理論を読む6
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/math/1342356874/334 334 名前:現代数学の系譜11 ガロア理論を読む[] 投稿日:2012/09/02(日) 22:59:51.06
>>324 前スレでも紹介したわんこら式数学の勉強法(抜粋)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/math/1338016432/187-189 http://wankora.blog31.fc2.com/blog-entry-1295.html Author:かずゆき 京都大学理学部を数学専攻で卒業
わんこら式数学の勉強法(受験生、小学生から中学生、高校生、大学生、社会人まで通用)
これを参考に効率ではなく『拘りを捨てて出来ることをやる』を常に念じて自分にあわせてやってください。
問題を見てすぐに解答、解説を読みます。
英語なら英語を読んですぐに対応する日本語を読みます。
最初に30秒ぐらいで出来た範囲をすぐに7周ぐらい繰り返す感じでやります。
1,最初の周は問題も解答も意味わからんわ〜って感じで読むだけで超高速で終わらせます。
2,またその範囲を、意味や理解などすぐに拾えるものだけ拾って一周します。
3,またその範囲を、すぐに拾えるものだけ拾って一周します。
4,またその範囲を、すぐに拾えるものだけ拾って一周します。
5,またその範囲を、すぐに拾えるものだけ拾って一周します。
…こんな感じで7周ぐらいやってみてください。
これで、だんだん理解出来ていったり、処理が速くなったり、覚えられてきたら成功です。
拾えるものだけ拾うって言うのは
○こういう意味だから、こうなのか
○これとあれは似てる
○こういう計算になるから、こうなる
○語呂合わせ などです。
最初の周は意味わからないスピードにするのがポイントです(限界突破) 2周目からは、スピードを余り落とさないで意味を拾えるだけ拾っていきます。
ほんまに速すぎたり、めっちゃ難しいのは、何も拾えずに出来ないので注意して下さい。拾えるものを拾おうとしたり、計算を紙に書いて確認して結構時間かかっても大丈夫です。
繰り返すたびに整理していって、話を簡単にしていくようにします。
こんな勉強法が良いのでは? 数学の本が最後まで読めないという勉強法は古いように思う
証明の細部は飛ばして、まず全体像をつかむ、定理と証明の組み立ての構図をつかむ、その後、細部の証明を読む
全体像がつかめていれば、証明は自分で見出すことも可能だろう
455 名前:現代数学の系譜11 ガロア理論を読む[] 投稿日:2012/09/17(月) 08:38:11.71
>>454 つづき
http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~yasuyuki/sem.htm
セミナーの準備のしかたについて 河東泰之
抜粋
セミナーの準備のしかたは個人ごとに自分にあったやり方でやればいいので,別に特定のやり方を押し付けるつもりはありませんが,一つの例としてやり方を説明します.
まず,当然書いてあることを理解することが第一歩です.書いてあるのはすべて,なぜなのか徹底的に考えなくてはいけません.
「本に書いてあるから」とか「先生がそう言うから」などの理由で,なんとなく分かったような気になるのは絶対にアウトです.
そして「全部完全にわかった」という状態になるまで,考えたり,調べたり,人に聞いたりするのをやめてはいけません.
まだ準備は終わりではなく,始まったばかりです.
本を閉じてノートに,定義,定理,証明などを書き出してみます.すらすら書ければO.K.ですが,ふつうなかなかそうはいきません.
それでも断片的に何をしていたのかくらいは,おぼえているでしょう.そうしたら残りの部分については,思い出そうとするのではなく,自分で新たに考えてみるのです.
そうして,筋道が通るように自分で再構成する事を試みるんです.
これもなかなかすぐにはできないでしょう.そこで十分考えたあとで,本を開いてみます.するといろいろな定義,操作,論法の意味が見えて来ます.
これを何度も,自然にすらすらと書き出せるようになるまで繰り返します.普通,2回や3回の繰り返しではできるようにならないでしょう.
さらにそれができるようになったとしましょう.今度は,紙に書き出すかわりに頭の中だけで考えてみます.
全体の流れや方針,ポイントは頭の中だけで再現できるものです.
このようにして,何も見ないでセミナーで発表できるようになるんです.
数学の論理は有機的につながっていて,全体の構造を理解していれば,正しく再現できるようになります.
以上のような準備をきちんとするには当然,膨大な時間がかかります.1回の発表のために50時間くらいかかるのは,何も不思議ではないし,100時間かかっても驚きはしません.
実験系統の院生は,朝から晩まで(あるいは晩から朝まで)実験しているんですから,数学だってたっぷり時間をかけないと身につかないのは当然です.
>>539-542 確かに何にでも「訓練」は必要ですね。スポーツでもゲームでも同じ。
ただ、どんな訓練法がいいのかは、ジャンルや個人によって違うでしょうね。
それに自分の意志で努力を継続できる人はやはりごく一部の優秀な人だけで、
我々のほとんどは強制されないと無理ですね。
片岡剛士『円のゆくえを問いなおす』(ちくま新書)読了。副題「実証的・歴史的に見た日本経済」。
第一章では「円高が深刻化しています」とひとまず断言した上で、日本経済の現状を概観。
日本企業への影響、円高のデメリットがメリットを上回っている点、政府の対応、日銀の金融政策などを一通り見ていく。
第二章では為替レートとは何か、という基礎的な解説から始まる。
為替レート・名目実効為替レート・実質実効為替レートという3つの指標、購買力平価説・金利平価説、などを説明。
その後、浜矩子らの「円高ではなくドル安だ」(※1)といったグローバル要因説が批判される。
そして為替レートに影響するのは国と国の間の通貨比率であり、中央銀行の金融政策である、と結論される。
第三章では、まず経済政策の3分類「経済安定化政策」「成長政策」「所得再分配政策」(※2)、
マンデル・フレミング効果、国際金融のトリレンマなどを説明した後、為替相場制度の歴史を概観する。
そして大恐慌について現在主流の説とされる「金本位制が大恐慌の主因」説を紹介する。
また70年代の日本経済における低成長化とインフレの原因についても最新の説を提示している。
この高インフレについても日銀の金融政策の誤りを指摘しているのは新鮮でもあり、また一般常識と食い違うところだろう。
(※1)は第一刷では「円高ではなくドル高だ」と誤植されている。名指しで他人を批判する部分で誤植はまずい。
(※2)の「再分配」は「再配分」と誤植されている。分配と配分は区別するのが慣例。紛らわしいけれど。
第四章では、まずアメリカからの圧力(プラザ合意)による「円高シンドローム」を検討。
しかし95年以降はアメリカは「強いドル」政策に転換したので、現在の円高についてはアメリカの圧力では説明できない。
もう一つは政治家や日銀総裁らの「強い円」信仰が指摘される。ここで、なぜプラザ合意直後の円高は日本経済にダメージは与えなかったのか、
そして現在の円高はなぜ問題なのかが説明されている。それによると実質実効為替レートへの交易条件の改善が寄与する割合が大きい場合は、円高の害は少ないということ。
90年代〜現在は交易条件の悪化と円高が同時進行する「過度な円高」である。
そして「変動為替相場制では各国の名目金利および予想物価上昇率に応じて為替レートが決まる」のであれば、過度な円高とは取りも直さずデフレのことである。
円高とデフレは貨幣的現象であることが再確認され、結局、中央銀行の金融政策が決め手となる。章の最後ではユーロ危機について触れている。
第五章では「円高とデフレを止めるために何をすべきか」と題して、リフレ論が展開され、日銀とFRBの金融政策を比較したりしている。
また「デフレと金融政策に関する10の論点」として、リフレ論に対するありがちな反論・疑問に答えるFAQが置かれている。
「おわりに」では全体の論旨をまとめている。
力作ではあるが、やはり既にリフレにある程度好意的な人たちの間で消費されて終わるのではないか、と自分はちょっと悲観的。
まず純然たる初心者向けとは言えない点。一応、第二章では初歩的な事柄を説明しているが、もともと頭の良い人は別として、これらを初めて読んでサラッと理解できる人は少数だろう。
また既に自己流の経済理解で頭が固まっている人も脳内を修正するのは困難だろう。なんでもそうだが、経済学の論理や因果関係を理解するにも多少の訓練がいる。
そしてここに書いてあることを理解できたとしても、それがどこまで正しいのか判断するのはまた難しい。
一般に因果関係の実証は難しいが、経済学では厳密な実験が困難ゆえなおさらだろう。だから「他の可能性」はどこまでいっても排除できない。
よって相当おかしな事を言っているエコノミストでも淘汰されにくい。いくら批判されても浜矩子や藻谷浩介はビクともしないだろう。
通俗エコノミストだけでなく、アカデミックなマクロ経済学者でもこうしたリフレ論に冷淡もしくは懐疑的な人の方が多いのは周知の通り。
自分はこの本の内容に納得したが、かと言って、斎藤誠や大瀧雅之などのマクロ経済学の大御所先生を批判する能力があるわけでもない。
全体の構成に関しては、著者はできる限りわかりやすく整理しようと苦闘した跡がうかがえるが、やはり経済書に慣れていない人だと見通しが悪いと感じるかもしれない。
初心者は先に岩田規久男の『国際金融入門』(岩波新書)あたりを読んでから取り掛かるといいかもしれない。
安達誠司『円高の正体』(光文社新書)は同趣旨のものだが、あっさりしすぎていて、既にリフレ派の議論を知っている人には目新しさはないし、
リフレに懐疑的な人を説得できるものでもないと思う。現代日本における問題の重要性を鑑みると星5つ付けたいところだが、
やはり誰にでも勧められる本ではないので星4つか…★★★★
長谷川眞理子『進化とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書)。進化生物学の入門書。
この人の新書は、性淘汰を解説した『オスとメス=性の不思議』(講談社現代新書)がベストに入っているが、本書はより基礎的な内容。
第1章では、種の多様性・生物の生活史やサイズの多様性、環境への適応ということを様々な具体例と共に見ていく。
これらを説明するためには進化という考えが必要になる。
第2章では、生物の定義、遺伝・DNAについて説明した後、DNAの複製に伴う間違いや組み換えによって個体変異が生じることを説明。
また生命の誕生はただ一回きりであり、すべての生物が共通の祖先から派生してきたものだという。
第3章では自然淘汰と適応について解説。この章の後半では、進化論についてのありがちな誤解を正している。
すなわち「進化には目的はない」「進化とは“進歩”ではない」「適応は万能ではない」。
第4章では変異と淘汰の種類について詳しく述べる。さらに中立進化についても簡単に説明している。
第5章では、種とはなにか、種の分岐とはどういうことかが述べられる。
第6章は「進化的軍拡競争と共進化」。アリと蝶の共生、虫と植物の「食う・食われない」競争、カッコウの托卵など、さまざまな共生や騙し合い・軍拡競争の面白い例が紹介されている。
第7章では「最適化」について説明。第8章ではゲーム理論が導入され、「タカ・ハトゲーム」などを説明。
また、多くの生物で雄と雌の数の比が1:1になっているのはなぜか、という問題をフィッシャーの理論によって解く。
この7章と8章では初歩的な数理的分析が登場し、進化論では工学や経済学に似た手法を使っていることがわかる。
第9章では、雄と雌はなぜあるのかなど、性の起源と性淘汰について掘り下げている。
第10章では進化論学説史の概説。博物学の時代から、リンネの分類学、ウィリアム・ペイリーのデザイン論、ラマルクの獲得形質遺伝説などを経て、ダーウィン、ウォレス、メンデルが登場する。
岩波ジュニアということで中高生を主な対象としているのだろうが、手抜き一切なしの良質な内容で万人にお勧めできる。
基礎をきっちり押さえた上で、動物の面白い生態の具体例も豊富(自分も知らなかった事が多い)。
また現代の研究でわかっていることとわかっていないことの峻別、自分の専門でカバー出来ている部分と漏れている部分も明確化しており、科学的知的誠実さという点で申し分ない。
欲を言えばより進んだ学習のための文献案内があればよかった。初心者向けの進化生物学入門書というのはあまり良い物がないのだろうか。
これは数少ない良質な入門書ということで星5つ進呈★★★★★。あとこれは1999年発行で既に13年経過しているが、研究の進歩が早い分野なので、そろそろ改訂版が欲しいかも。
個人的に気になった事(批判ではない)。著者は「自然主義的誤謬」(「自然の事実が〜である」から「〜であるべきだ」を導出する誤謬)に注意を促しているが、
同時に「進化を知り…生命の流れを知ると、みんな一人ひとり個人的に、自分自身が生きていく上で、何か重要なものを見いだせるのではないでしょうか?」とラストで述べている。
また冒頭でも「生物の美しさと多様性とを同時に説明する唯一の理論」という風に「美しさ」という主観的な価値観を入れている。
自然から直接に普遍的な規範を導くのは誤謬でも個人的な価値観を読み込むのは自由なのかもしれない。
(また「自然主義的的誤謬」がなぜ誤謬なのかと突っ込んで考えるとよくわからないし、実際に「誤謬ではないかもしれない」という議論もあるらしい)。
しかし自分は進化には美しさなどよりもどちらかと言えば残酷さを感じてしまうし(自分が淘汰される側の弱い生き物だという感覚があるのだろう)それもまた自然な感情だと思う。
そしてこうした“自然”な感情が、進化論への誤解や歪曲や拒否の原因となることもある。ならばやはり進化を論じる際には「残酷」というような感情や価値観は括弧に入れた方がいい。
とするなら「美しい」という価値観も平等に括弧に入れた方がいいのではないか、と思う。
もう一つ、これも批判でも何でもなく個人的に気になったことにすぎないのだが、「進化には目的はない」と述べつつ、実際には進化的な究極要因が目的論的に記述されていること。
まぁ機能論的に限定して記述しようとしても、どうしても目的論が紛れ込んでしまうだろうし、言葉や人間の認知の枠組みの問題なのだろうけれど、中には混乱する人もいるのではないかと思う。考えすぎか。
小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』(ちくま新書)。著者は霊長類研究者であり、現在は名古屋工業大学院で環境教育を担当している人。
この本では、主に進化心理学から環境問題を論じている。第一章では生物にとっての「環境とは何か」と問うているが、
ここでは環境よりも、生物とは何か、遺伝子・ニッチ・生態系とは何か、そして進化とは何かについて基礎的な説明をしている。
環境問題に対するアプローチとしては大きく「人間中心主義」と「自然中心主義」に分けられるが、著者は、ディープエコロジーに代表される後者に批判的であり、一応前者の立場に立つ。
第二章では、自然人類学の最新の研究に基づいて、人類の進化と文明の芽生えについて概観。
第三章では、人間心理の進化について、認知心理学や行動経済学の知見を参照しながら論じる。
まず進化心理学において基本となっている「リバースエンジニアリング」という考え方について説明している。
元はIT用語だが、ここでは機能や目的から構造の意味を探ることを指している。心の成り立ちについては「モジュール説」を採用している。
そして、「群れ」ができるメカニズムを進化論によって説明し、ヒトの集団サイズについてのダンバーの理論を紹介。さらに性淘汰と集団形成の関係について論じる。
第四章では「環境との認知」と題して、環境リスクを人間がどのように認知しているか、また環境リスク認知の性差に関する研究を紹介。
そして行動経済学の知見から確率に関するヒトの認知の歪み、ヒューリスティック、感情の進化、「内集団ひいき」や利他行動の進化などについて論じる。
第五章では「共有地の悲劇」などの社会的ジレンマについて、ゲーム理論の基礎を講じながら考察。このあたりはゲーム理論の啓蒙書などでもお馴染みの話題。
第六章では環境倫理を考えるにあたって、再びゲーム理論を使って「道徳の進化」を論じていく。(同時に「自然主義の誤謬」にも注意を促している)。
自分としては今までに読んだ、進化論・ゲーム理論・認知心理学・脳科学・行動経済学などの啓蒙書で断片的に触れた知識と重なる部分が多かった。
その分、新鮮さはあまりなかったが、スラスラ読めた。ただ「環境」がテーマであるはずが、あまり環境自体の話題は掘り下げられておらず、
もっぱら「人間の本性」と道徳性の問題に焦点が当てられているようだ。タイトルの『ヒトは環境を壊す動物である』というテーゼについても掘り下げが甘くて肩透かしの印象。
また第四章の「環境リスク認知についての性差」の研究は、あまり納得できるものではなかった。
「昇進のために環境の悪い地に赴任することを受け入れますか」というような質問に対して受け入れると答えた人が女より男の方が多い、という話なのだが、
これを生物学的な性差によるものとするのはあまりにも説得力がないのではないか。
むろん自分は社会構築主義者ではないのだが、この事例ではどう考えても社会的な要因の方が強いのではとしか思えない。
自分はNHKブックスから出ているスティーヴン・ピンカーの啓蒙書を読んで進化心理学の面白さを知ったけれども、近作の『思考する言語』などもちょっと勇み足と感じる部分が多かった。
進化心理学は竹内久美子などによって通俗的な紹介のされ方をしてきた不幸な経緯もあり、一般の誤解を解きながら啓蒙していく必要もあるだろうが、
この学問自体まだまだ取扱い注意なのかなという気がする。★★★
※同姓同名の別人で文化人類学者の小田亮という人がいて同じちくま新書から『レヴィ=ストロース入門』を出している(これは良書なのでおすすめ)。
石川幹人『だまされ上手が生き残る』(光文社新書)。進化心理学の入門書。上記の小田亮や長谷川眞理子の本とかぶる部分が多い。
序章では「恐怖」という感情を取り上げ、恐怖の生得性、生存に有利であることなどを指摘。また近親相姦タブーの生得性を述べ、
「至近要因」(生理的メカニズムなど)と「究極要因」(進化的要因)という概念を説明。
第1章では、進化生物学の基礎を簡単に説明している。既に長谷川眞理子の入門書を読んでいれば、飛ばしていいところ。
ただ、「退化」とは「進化」の反対語ではなく、進化の一種であることを指摘しているところは目を引く。
これは長谷川眞理子の本では「進化は進歩ではない」と述べているところに対応する。
石川の本では、本文とは別に、「進化心理学は何でないか」と題して、進化論と進化心理学に対する誤解を解くコラムを設けている。
第2章は「遺伝子の生存競争」で、ハトータカ戦略の話や、カッコウの托卵の話など、これも長谷川の本の内容とかぶっている。
第3章は、オスとメスの話。性淘汰の話なども出ててくるが、性差の生得性について論じている部分が多い。
正直、このあたりの議論は(小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』と同様に)乱暴な印象が否めない。
自分は社会構築主義的なジェンダー論に詳しいわけでもないのだが、現代の日常的な男と女のステレオタイプを短絡的に進化にこじつけているように見えてしまう。
進化心理学自体が粗雑なわけではないのだろうが、啓蒙書レベルで語った場合、厳密さが犠牲になっているのではないか。
無駄な反発をくらわないためにも、もう少し繊細な語り口が必要ではないかと思う。
第4章では、人類の歴史のおいて長い狩猟採集生活がもたらした、心の進化について。ここでも認知能力等に関する男女の性差について述べている。
第5章では、さらに認知心理学やゲーム理論などを導入しながら、「協力行動」の進化について論じる。
「協力」は全員に利益をもたらすが、「裏切り」や「タダ乗り」は協力行動を脅かす。そこで人間は裏切りやタダ乗りに対する憤りの感情を進化させた。
このあたりは思い当たる所が多くて面白い。先日あった生活保護不正受給バッシングなどは、こうした原始的な道徳感情の噴出だろう。
第6章は第5章の続きで、群れの協力行動に必要な「信頼」の進化について。ここでは贈与や貨幣や記号など、経済人類学や文化人類学との接続を試みている印象。
第7章では、狩猟採集生活に適応した人類の、現代社会への不適応について考える。例えば「肥満」は慢性的な飢えを生き抜いてきた人類が豊かな社会には適応できていない例である。
またイギリスの進化生物学者ロビン・ダンバーの説によれば、人間が密な交流を結べるのは150人が限度ということで、より大きな集団になると戦争など様々な問題が起こる。
最終章では嘘と自己欺瞞について論じ、意識とクオリアの進化の謎に触れたあと、「だまされ上手の極意」として、進化心理学の知識を応用して幸福に生きるハウツーが書かれている。
この「だまされ上手」というキーワードはなかなか含蓄があって面白い。(光文社新書らしいキャッチーなタイトルで若干いかがわしさもあるが)
6章で論じられる「貨幣」にしても、単なる紙切れに価値が宿っているかのようにみんなが「騙されてやる」ことによって経済が回るわけである。
宗教や道徳も同じだろう。「神」という嘘をみんなが信じることによって絆が生まれみんながハッピーになれるわけだ。
とすると進化論が宗教や道徳感情によって拒否されがちな理由も、宗教や道徳の本質が「嘘」であることを暴いてしまうからなのだろうということがわかる。
また「上手」の意味するところは、騙されきってしまうと色々と弊害も出るので「上手く」騙されよう、ということだろう。
実はこの本の中で一カ所、自分には意味がわからないところがあって、それは第1章でモグラの眼の退化を説明した部分。
土の中で生活するモグラには視力は必要ないので眼が退化するわけだが、眼はあってもなくてもいいという意味では中立なのに、なぜすべてのモグラの眼が退化するのか?
この説明として、眼が退化したモグラの個体の中に、土の中で生きるのに有利な変異が生じたからだ、と言う。これは変ではなかろうか?
眼の見える方のモグラに有利な変異が起こる可能性だってあるはずだからだ。むしろ最初は眼の見える個体の方が多いのだから、有利な変異が起こる確率も大きいはず。
素人考えでは「不必要な機能の維持にはコストがかかるから、不要なものはない方が有利だから」ではないかと思うのだが、著者はそういう説明はしていない。
自分が何か根本的に誤解しているのかもしれないが(退化が発現する群の方が突然変異率が高いとか、中立進化が関わる問題だろうか?)いずれにしても説明不足だと思う。
人間の心や社会の諸相を統一的に理解できるような気がするという意味では面白いし、進化論に対する誤解を解くために労力を費やしているのは評価できるが、
竹内久美子などによって植え付けられた胡散臭いイメージが拭い去られるところまでは行ってないので星3つ★★★。
太田朋子『分子進化のほぼ中立説』(ブルーバックス)。副題「偶然と淘汰の進化モデル」とあるように、
遺伝子浮動(ドリフト)と自然淘汰の両方の効果が関わる分子レベルの進化を論じたもの。
「ほぼ中立」とは、純粋な中立進化ではなく、ごく弱い淘汰が加わる進化のことである(弱有害突然変異仮説)。
「進化とはほとんどが中立進化だ」という意味ではない(自分は最初そのように誤解していた)。
「ほぼ」は副詞なので、「ほぼ中立である」なら自然だが、「中立説」という名詞を直接修飾するのは違和感がある。
しかし「準中立」とすると「純」と紛らわしいという問題が生じるので「ほぼ中立説」という命名に落ち着いたのだろうか。
言葉の段階で既にわかりにくいわけだが、内容はさらに難しく、やや専門的な叙述になっているので、正直、後半は自分には理解できない部分が多かった。
よって自分の能力では要約は不可能。
一応用語解説が付いているし、先に(ベストに入っている)木村資生『生物進化を考える』(岩波新書)を読んで、
「中立説」についてだいたいのことがわかっていれば、全然読めないということはない。
ポイントは「集団が大きいときは遺伝的浮動の力が弱く、淘汰が有効に働いて、弱有害突然変異が集団から除去される」が
「小さな集団では遺伝的浮動の力が大きくなって、弱有害突然変異が中立のようになり、集団中にある程度広がる」ということである。
もっと縮めて言うと、集団大の時は淘汰・集団小の時は中立ということ。
著者の説明は初心者にはちょっと不親切な感じはするが、よくわからないながらも理系の頭脳の切れ味の良さみたいなものが感じ取れて、読んでいてなかなか気持ちよかった。
後半の「ロバストネス」(遺伝子は違うのに表現型が同じ)と「エピジェネティクス」(遺伝子は同じなのに遺伝子発現が変化)の話も面白い。
しかし分子・遺伝子レベルの話と形態レベルの話がどう繋がるのかはやはりよくわからない。普通に考えて、形態レベルではほとんど淘汰が働くのだろうとは思うが。
難しいけれど、生物学の本当の面白さが垣間見れるということで星は4つ★★★★(よく理解できもしないものに偉そうに星をつけたりするのはいかがなものかとも思ったが、まぁいいか…)
高護『歌謡曲』(岩波新書)。主に1960年代から80年代までの「歌謡曲」史。一応「はじめに」では、戦前から戦後、1950年代までが短くまとめられている。
1章は60年代、2章は70年代、3章は80年代、という構成になっていてわかりやすい。特に70年代と80年代前半の記述が充実している。
原則的に、シンガーソングライター(作曲者として言及される場合は別)やGS以外のロックバンドはほとんど省かれている。
しかし、例えば加山雄三「君といつまでも」や寺尾聡「ルビーの指輪」は自作曲であるが、大きく取り上げられている。
確かにこの2曲は大ヒットしたせいか歌謡曲の範疇と感じられる。あるいは作曲のみ自作で作詞は作詞家が行なっているためかもしれない。
ニューミュージックの中でも歌謡曲に接近したアリスやさだまさし、あるいは矢沢永吉やサザンには言及されていないのは、作詞作曲共に自分でやっているからだろうか。
むろん、シンガーソングライターまで網羅しようとすれば収拾がつかなくなってしまうのは明白なので、この限定措置は妥当なのだろう。
終章では「90年代の萌芽」として、ダンスビートの系譜(特にユーロビート)についてのみ簡単に論じている。
90年代に小室サウンドが一世を風靡し、和製ヒップホップやR&Bが定着し、現在の集団アイドルも基本的にダンスビート歌謡であるから、この着眼点も妥当だと思われる。
要所要所で詳論されている歌手と楽曲の選択もおおむね納得できる。
70年代歌謡の中では割と軽視されがちな黛ジュンと奥村チヨが大きく扱われているのは、歌謡曲オタとしてはニヤリとさせられる。
一方でアイドルの起源の一人と考えられる天地真理の扱いが小さい(作曲家・森田公一の紹介のついでという扱い)のはちょっとガッカリではあった。
80年代では松田聖子と中森明菜が、ガッツリ論じられていて、特に明菜の評価が高いのが意外だった。
簡にして要を得た音楽的分析がすばらしく、歌詞の分析も鮮やか、楽器や機材の知識も散りばめられており、痒いところに手が届く出来。
溢れんばかりの歌謡曲愛を迸らせつつ、オタク的な視野狭窄はなく、もちろん昔の竹中労や平岡正明の歌謡曲評論みたいな思い入れ過剰・思想性過剰でもなく、バランス感覚に優れている。
欲を言えば、50年代が端折られているので、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの全盛期が省略されている点(美空については60年代の章で詳述されるが)がちょっと残念か。
輪島祐介『創られた「日本の心」神話・「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』 (光文社新書)※と合わせて読むべし。
個人的には星5つレベルだが、歌謡曲オタ向け、もしくはオッサン・オバサン向けで読者が限定される事を鑑みて星4つ★★★★
※…こちらの本は文句なしの星5つで、歌謡曲に興味がなくても読む価値あり。内容は、演歌の「系譜学」と言えるだろう。
すなわち起源の虚構性や歴史の物語性を明らかにしながら、それらの虚構がどのように作られていったかを分析している。
岩根國和『物語・スペインの歴史』(中公新書)。著者はスペイン文学者であり、セルバンテスの研究者。
あとがきで自ら、スペイン史の執筆は自分の任ではないのではないかと思ったと書いているが、「物語」というコンセプトならばやってみよう、とのこと。
したがって、標準的でバランスのとれたスペインの通史を期待すると裏切られる。
T章は「スペン・イスラムの誕生」。西ローマ滅亡後、西ゴート族の圧政下にあったスペインをイスラム帝国が攻略し統治する。
イスラム帝国内の内部抗争と弱体化を突いて、キリスト教勢力が国土回復を図る。U章ではイサベルとフェルナンドのカトリック両王がイスラムを破り、国土を奪還する。
当初は寛容な政策をとっていたが、次第にイスラムとユダヤに対する迫害が強くなる。
この地では異端審問がヨーロッパの他の地域より長く続き、ルター派なども迫害の対象となる。この章の後半では異端審問の模様が詳しく語られる。
V章では、トルコ帝国に対抗すべく、スペイン・ヴェネチア・教皇庁の間に神聖同盟が締結される。そして、レバント湾にてトルコ艦隊とスペイン艦隊の海戦となる。
総司令官は国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の私生児ドン・ファン・デ・アウストゥリアであり、艦隊の中にはセルバンテスもいた。
この章ではレバント海戦の模様が詳しく描かれる。またこの戦争でセルバンテスは左手を負傷するが、この左手が切断されたのか、不具になっただけなのかという問題についてなぜか細かく追求している。
W章では全編にわたって、セルバンテスがトルコの捕虜になった話が展開されている。セルバンテスは何度も脱走を試みては連れ戻されるが、処刑は免れている。
最終的には高額の身代金が支払われ、どうにか身請けが成功した。
X章ではスペイン無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペイン継承戦争を経て凋落するまで。
終章では「現代のスペイン」と題して、まず悲惨なスペイン市民戦争とフランコ将軍独裁について少しだけ触れる。
フランコが第二次大戦時にはヒトラーからの援助要請をきっぱり断ってスペインの立て直しを図ったことについては著者は評価している。
フランコ死去後には王政復古、民主化、社会主義労働党政権、そして現在の国民党政権となる。
もう一つの話題は、バスク民族主義のETAのテロ活動について。ここではETAの残忍なテロ事件を列挙し、厳しく非難している。
しかしただ単にテロを非難しているだけで、テロリスト側の主張やバスク人達の置かれた状況など、民族問題に対する分析が全然ないのは、ちょっとどうかと思う。
やはり通史としてはバランスを欠いていて、全体が見通しづらい。戦争の叙述などは臨場感たっぷりに描かれているが、省略されているところは思い切り省略されていて、
世界史全体の中での位置づけもわかりにくい。ある程度世界史の知識が頭に入っている人でないと楽しめないのではないか。
またいくら著者がセルバンテスの専門家とはいえ、一章まるまるセルバンテスの話だけというのもいかがなものか。
その前の章でもセルバンテス左手の負傷という瑣末な点について妙に深く追求しているのはやりすぎの感がある。
やはりこのあたりの話は、セルバンテスの伝記で書くべきことではなかろうか。
文章については、常套句が多く、紋切型の言い回しがちょっと鼻につくのだが、「物語」というコンセプトを鑑みれば、むしろ評価すべきところか。
結局、歴史の物語化をどこまで許容できるかによって、評価は異なってくるのかもしれないが、物語としてもそれほど面白いわけでもない。
ちょっと不満ありで星3つ★★★。
>>559タイポ
T章は「スペン・イスラムの誕生」
↓
T章は「スペイン・イスラムの誕生」
渡辺啓孝『フランス現代史』(中公新書)。第二次大戦終了後のフランス解放から、シラク大統領の時代まで。
まず第一章ではフランス解放後の、エピュラシオン(ナチ協力者などへの報復的懲罰)の模様と、終戦処理、ドゴール臨時政府の成立、そしてドゴールの辞任までを素描。
第二章は、第四共和政の成立と展開。冷戦下の外交と、国内政治における諸勢力の興亡、復興と高度成長、そしてインドシナ紛争、アルジェリア紛争勃発。
こうしてフランス帝国の没落が始まる。このアルジェリア紛争の経緯はいろんな意味で香ばしく、ここだけを詳しく書いた本を読みたくなる。新書では出ていないようだが。
第三章はドゴール時代。第五共和政の発足。ドゴールはアルジェリアの独立を容認する。
ドゴールはフランスの「自立」と「偉大さ」を求め、対外的には東西両陣営のいずれにも従属しない均衡政策を採った。
経済的には豊かになり消費社会が到来したが、雇用問題の悪化などを背景に、68年には有名な五月危機が起こる(左派などは「五月革命」と称することが多いが、ここでは「五月危機」と書かれている)。
そしてドゴールの引退と死去。
第四章ではポンピドゥー大統領とジスカール・デスタン大統領の時代を扱う。石油ショック以後の高度成長の終了とスタグフレーションを招いた時代。
第五章はミッテラン大統領の時代。86年にはシラクが首相となり、大統領が左派で首相が保守というコアビタシオン=保革共存が成立。
その頃、ルペンを代表とする極右の「国民戦線(FN)」も勃興する。国内的には移民問題が浮上する。また、ヨーロッパ経済統合の準備として緊縮財政が行われる。
96年にはミッテランが前立腺癌で逝去。第六章ではシラク大統領が登場し、97年にジョスパン社会党内閣が成立して第三次コアビタシオンとなるまで。
全体的に政治史としては詳細で、経済史にもかなり踏み込んでいる。社会や文化の側面はあまり触れられていない(第三章で社会階層や消費社会について述べられているくらい)。
しかし経済史に踏み込んでいると言っても、当時の経済に対する診断と経済政策は正しかったのか否かは、これを読んだだけではよくわからない。
これらは経済学者による本格的な分析が必要なところであるが、自分のいい加減な印象で言えば、フランスの現代史は経済失政の歴史であるかのように見える。
経済政策論で言う「政策の割当」が滅茶苦茶だったのではないか。現在のユーロ圏におけるドイツ以外の国の惨憺たる経済状況を見るにつけ、感慨深い。日本も人ごとではないが。
文章は単調かつ無味乾燥(アマゾンレビューを見るとこの点を批判している人がいる)だが、自分はあまり気にならなかった(むしろ『物語・スペインの歴史』での陳腐な文学的レトリック満載文章の方が辛かった)。
無味乾燥とは言っても、ドゴール、ミッテラン、シラク達の肖像はそれなりに生き生きと描写されている。政治史のまとめとしては、これで充分だと思う。
ただ、著者の責任ではないかもしれないが、アルファベットの略語が次から次へと出てくるのは勘弁してほしかった(CFLN・CNR・CDL・FFI・CGT・SFIO・MRP・UDSR・RGB等々々…略語フェチかw)
略語だけの索引が欲しかったくらい。一応星4つ★★★★(ちょっと甘め)
>>557『歌謡曲』
これ書き忘れたけど、一刷では沢田研二のヒット曲『勝手にしやがれ』の元ネタの映画を、フェリーニだと書いてある(むろん正解はゴダール)
ちょっと恥ずかしい凡ミス。二刷では訂正されてるかな?
他のデータはたぶん正確だと思うが。
あけおめことよろ今年も謙虚に生きていきたいと思います(ドヤ顔
田中美知太郎『ソクラテス』(岩波新書)ギリシア哲学の泰斗によるソクラテス入門。
限られた資料の中からソクラテスの実像を浮かび上がらせようとする。
実証的な態度でソクラテスの出自や生活的事実にアプローチしていくのが少し意外であった。
どうやって生計を維持していたのか、というような形而下的な事実をまずは追求している。
有名な悪妻伝説については、実際は誇張であると推定している。
次に、当時のギリシアの思想状況とソクラテスへの知的な影響、そしてソクラテスが知的世界にどのような影響を与えたのかが検討され、
なぜソクラテスが死に追い込まれたのかの手掛かりを探る。
四章ではソクラテスの行動を制限した霊のごときものである「ダイモン」について詳しく検討される。
五章では、ソクラテスが、デルポイの神託を受け、そこから「無知の知」(この本では「不知の知」「無知の自覚」と書かれている)という解釈を引き出す経緯。
六章ではソクラテスにとっての「知」とは何かが問われ、それは「徳」や「正義」という倫理的な知であることが述べられる。
最後に再び、ソクラテスが訴えられ死刑にされた原因を考察。
決して奇矯な思弁にはのめり込まず、常識から出発し、あくまでも現実的な思考を積み重ねている。
しかし同時に、執拗に問い続け、決して考え続けることをやめない思考のスタイルは、本物の哲学者らしいと言える。
自らの「思い込み」の外に出ようとする意志を感じる。これは最近の哲学者や思想家の一般向けの発言にはあまり感じられない点である。星5つ★★★★★
斎藤忍随『プラトン』(岩波新書)。あまり初心者向け入門書という体ではなく、ある程度の教養のある読者に向けたプラトン概論という趣。
トインビーやラッセルなど現代の歴史家や哲学者による様々な批判に対する反論が述べられ、やや論争的な内容となっている。
「死」や「知と美への恋」や「政治」や「イデア」といった主題を検討しながら、プラトンの思想に迫っていく。
「死」の章では、神話やホメロス叙事詩において、死がどのように考えられていたかを詳しく追っていき、プラトンについては最後の一行で言及されるのみであるのにはちょっと驚いた。
ここでは、ギリシアの伝統的思想における「死の肯定」、人間は早く死ぬ方が良いという思想があったことが述べられる(但し自殺はいけない)。
「恋」の章に入ってもしばらくは「死」についての考察が続き、半ば頃でやっとソクラテスが登場する。少年愛が、知への愛の契機となることが指摘される。
「政治」の章ではプラトンの「ポリティアー」(「国家」)が詳しく分析される。
「ポリティアー」はマルクス主義者やラッセルやポパーによって、全体主義的、反民主主義的だとして激しい批判にさらされたが、著者はそれらに対して反論を試みている。
「イデア」の章では、「洞窟の比喩」をいかに解釈すべきかが問題とされる。最後に、プラトンの著作が簡単に紹介され、この部分が最も入門的になっている。
プラトン本人よりも、神話のアポロンや、ホメロスの叙事詩についての論考の割合の方が多い感じであった。
神話や宗教、叙事詩やギリシアの思想全体との関係におけるプラトンの思想の位置付けを考察する内容。ちょっと難しい。星4つ★★★★
上尾信也『音楽のヨーロッパ史』(講談社現代新書)。
音楽史というよりも、音楽と歴史の関わり、すなわち音楽と宗教・政治権力・軍事との関係性を追ったもの。また楽器についても詳しく書かれている。
T章では、古代オリエント、旧約聖書に出てくる音楽と楽器(角笛・ラッパ)、古代ギリシア・ローマ(竪琴)等。
U章では中世キリスト教における音楽。グレゴリオ聖歌やオルガン、天使の奏する楽器など。またイスラムの影響の大きさにも言及。
V章では、十字軍や百年戦争など、中世の戦争・軍事にまつわる音楽。そして王権と祝祭で用いられる音楽など。
W章では、音楽が宗教改革の宣伝に使われたことなど。X章では再び戦争に使われた軍楽について。
オスマントルコの軍楽、イングランドの内戦・清教徒革命(清教徒革命では世俗音楽が弾圧されたことにも言及)、
イタリアではルネサンスからバロックへ、フランスでは、太陽王ルイ14世による戦争と祝祭のための音楽など。
このあたりからいわゆる近代クラシック音楽の歴史が始まる。
Y章では「国歌と国家」と題して、各国の国歌の成立とナショナリズムの関係を論じていく。また近代の革命と世界大戦に伴う音楽について述べる。
アマゾンレビューでも言われていたが、ある程度、世界史と音楽についての知識がないと、耳慣れない固有名の羅列が多くてピンと来ないかもしれない。
文章が悪いという評価もされていたが、自分はそうは思わない。むしろ名文の範疇ではなかろうか。
ただ文章からは音楽は聞こえてこないわけで、頭に入りにくいのは仕方のないところか。
図版も豊富なのだが、これを見て何かを感じろと言われてもちょっと無理があるかもしれない。★★★
森本恭正『西洋音楽論・クラシックに狂気を聴け』(光文社新書)
著者はクラシック・現代音楽系の作曲家・指揮者。アカデミックな音楽学研究者という感じではないのだが、短大教授で、アメリカの大学で講演もしている。
まずクラシックとは本来アフタービート(アップビート)であり、日本人にはその感覚がない、という指摘から始まる。西洋人もその事はほとんど自覚していない。
そして著者は、どんなジャンルの音楽でも聴くだけで演奏しているのが日本人か西洋人かわかるようになったという(ホントか?)
クラシック音楽の本質は、アフタービートに基づくスイングであり、それがジャズやロックにも継承されているのだ。黒人由来ではないのである。
そこからさらに、西洋人と日本人の音楽を聴く脳の違い、右脳と左脳という話になっていく。著者の音楽観については個人的に首肯できる部分も多い。
ジャズやロックについても、確かに黒人の影響は強いが、西洋音楽との連続性の方が大きいというのは、ポピュラー音楽史的にも現代の主流の説だろう。
はっきりとアンチ・クラシックであり黒人音楽びいきの中村とうようなども、初期のジャズにおける白人的要素の強さは指摘していた。
割と同意できるところは多いのだが、疑問点も多い。右脳左脳談義は少々眉唾で、疑似科学的ヨタ話にとどまっていると思う。
おそらく現在の音楽心理学や脳科学ではもう少し緻密な知見が積み上げられているはずだろう。
西欧人には言語の特性などからアフタービートの感覚が自然に身に付いていると言うが、それは本当か?とも思う。
Youtubeで古いR&Bやポップスなどのライブ動画を見ると、時おり白人の観客が思い切りオンビートの宴会手拍子をしているのを見ることができる。
昔の白人もリズム感は日本人とあまり変わらなかったのではないかと思ったりするのだがどうなのだろう。
それから、日本VS西欧という図式の中の議論が中心で、黒人音楽や他の非西欧音楽との関係は、いまひとつはっきりしない。
ハンガリー民族音楽を研究していたバルトークの音楽が、クラシックには珍しいオンビートであるとか、
ベートーベンの第九・喜びの歌が非西欧的なオンビートであるなどの興味深い話題はあるのだが、全体の論旨とどう繋がっているのかちょっとわかりにくい。
また、日本の三味線の「さわり」を始めとして非西欧地域の弦楽器がノイズを伴っているのに対して、西欧音楽の楽器はノイズを排除していったのか、という議論もなかなか面白いのだが、
そうした西欧/非西欧の文化に対してどういう態度をとるべきかに関しては、著者の立場は両義的で複雑である。
結局、非西洋人としての日本人が西洋文化を学ぶ際の矛盾と屈折という明治維新以来の問題がいまだにくすぶっているということか。ネタ的には面白い本だが…星3つ★★★
平川秀幸『科学は誰のものか』(NHK出版生活人新書)読了。STS(Science Technology and Society・科学技術社会論)の入門書。
この先生は震災以降に原発問題などで積極的に発言していて、最近はネットでも名前をよくお見かけするが、この本は震災以前のもの。
第1章では、60年代には科学技術に対する明るく希望に満ちたイメージがあったが、70年代になるとそれに暗い影がさしてきたことを述べている。公害・環境問題と核の恐怖である。
第2章では「ガバナンス」という概念を提起。「統治」だと上からの権力で治めるニュアンスがあるので、民主的な意味を込めて「ガバナンス」と言うらしい。
市民活動、公共空間、双方向的コミュニケーション、参加型テクノロジーアセスメント、コンセンサス会議、シナリオワークショップ、サイエンスカフェ等々。
第3章では科学とは何かという科学論の初歩。科学の不完全性や不確実性について。
第4章では、科学と社会・政治との関係を考える。アーキテクチャー権力の問題、「緑の革命」の失敗(市場の失敗・南北問題)等。
第5章では、3章で出てきた「不確実性」を参照しつつ、リスクをどう扱うべきかを論ずる。
第6章では個人の努力だけでは解決できないことがあることを指摘し、市民活動のような社会参加を呼びかける。
第7章では、エイズ治療新薬のための臨床試験のあり方について、活動家達が疑問を突きつけ改善させた事例が紹介される。
これは興味深い例で、SF作家グレッグ・イーガンの短篇で、まさにこのテーマを取り上げたものがあった(臨床試験でプラシーボを渡された患者は治る可能性がない、という倫理的問題)
全体として穏当な主張で、科学と社会の橋渡しという重要な仕事を担う学問らしい。
ただ少し気になったのが、STSとか「ガバナンス」を始めとして、カタカナ語が多すぎじゃないのかと。
非知識人とのコミュニケーションを目的としてるはずが、横文字が多いというのはどうなのか(コミュニケーションも横文字だが)。
職業・階層関係なく誰でも参加できる、と言いながら、実際には横文字言葉に拒否反応しないような一定レベル以上の知的階層の人しか参加していないのではないか。
別にそれが悪いとも思わないが、直接民主主義が可能であるかのような幻想があるのではないかとも思った。★★★
戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版新書)。
自分はちょっと勘違いしていて、「科学哲学」の入門書かと思っていたが、微妙に違っていて「科学リテラシー」の啓蒙書である。
もちろん科学哲学の成果にも基づいているが、科学哲学自体を詳しく検討しているわけではない。二部に分かれており、
第一部では、科学的思考の方法について基礎的なレクチャーを行い、第二部では、政治や社会と科学の関係、STSなどの話。
第一部第一章では、まず「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」を区別し、後者を「メタ科学的概念」とし、これを身につけることを第一部の課題としている。
さらに、「事実と理論」「科学と疑似科学」のような、白か黒かの二分法的思考を廃し、程度問題として考えることを勧める。
すなわち科学とはグレーゾーンの中で、より良い理論を目指してよりマシな方向に進歩していくものだということである。完全な白や完全な黒はありえない。
師匠の内井惣七氏と同様、ベイズ主義的な立場だろうか。著者は他の考え方は最初から排除しており、やや天下り的。
本当に「マトモな科学者」はみなそう考えるのだろうか?という疑問は残る。たとえば、白とグレーと黒という三分法で考える科学者もいるのではないか。
しかし著者は二分法でも三分法でもなく、連続スペクトル的な科学観に沿って議論を進めていく。
よって、疑似科学問題にしても「疑似科学」と断定するのではなく「疑似科学っぽい」とグレーな言い方をしている。正確さを期すがゆえに曖昧な言い方をしているわけだ。
ではより良い理論の条件とは何か。著者は「天動説と地動説」や「プレートテクトニクス」などの科学史の例を見ながらそれに答えていく。それは、
「より多くの新奇な予言をしてそれを当てる事ができる」「アドホックな仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くの事柄をできるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」、という3つの条件である。
3章では「科学的説明」とは何かについて。それは、
「原因を突き止めること」「一般的・普遍的な仮説・理論から、より特殊な仮説・理論を導くこと」「正体を突き止めること」 である。
4章では推論の方法として「演繹」と「非演繹」を説明。後者は「帰納」「投射」「類比」「アブダクション」に分けられる。
また演繹と非演繹の合体による「仮説演繹法」について説明。ここでは「アブダクション」によって仮説を立て、そこから演繹によって予言を引き出すという、推論の方法の一種としている※。
第5章と6章では実験の方法論(対照実験やコントロール)や統計リテラシーについての基礎的な話。
ポパーの反証可能性の指標と、反証が出たからといってすぐに理論が捨てられるわけではないという話もこの中で説明されている。
統計の話題の中では、センター試験の成績と二次試験の成績の相関の話が面白い。入学者だけを母数としたら負の相関が出てしまったそうである。
落ちた人も含めないと正の相関にならないのだ。
第二部では原発事故を題材に、放射線リスクについて具体的に考えながら、「市民」に必要な科学リテラシーについて論じていく。
現代社会では、科学・技術だけでは解決できない問題の領域があり(トランスサイエンス)、それを解決するには市民の主体的な参加が必要であるという。
素人であっても科学の暴走を防ぐ責任があるのだ。これを著者は「シビリアンコントロール」と称している。
これは、STSでは「ガバナンス」などと言われる事だが、著者は市民の責任を強調するためにあえて刺激的な言葉を使っている。
市民は、問題の枠組み(フレーミング)を提議するべきであり、個々の科学知識というよりも、メタ科学的な方法によって科学の営みをチェックできることが重要ということ。
良識的な議論ではあるが、ここで立てられている「市民」というのは、いかにも丸山真男的というか近代的な主体であり、我々愚民にはいささか荷が重い感じがする。
著者は内田樹などの言葉を引いて、市民は「大衆」であってはならないと言うのだが、
これは一歩間違うと、テクノクラートや為政者の過失の責任を、自己責任の名のもとに一般市民に押し付けるための詭弁にもなるのではないか。
第二部の論旨に関しては、もう少し「社会科学」の分野で検討されるべきではないかという気がする。
「社会科学」の科学性について著者がどう考えているのかはこの著書ではよくわからない。価値観が完全に分離されない限り「社会科学」は狭義の科学には分類されないのかもしれない。
この本で扱われる「科学」はほとんど「自然科学」を想定しているようである。冒頭では、「相関」「有意差」といった統計用語が「メタ科学概念」に分類されているが、
それはなぜ「メタ」なのかと突っ込んで問われるとなかなか難しいところ。このあたりの説明もしてほしかった。
全体として初心者向けで読みやすいが、一言で言うと「啓蒙主義的」な感じがする。「グレーゾーンの中でよりマシな方向を目指す」という科学観は決め打ちされており、
他の異端的な考え方…素朴な科学絶対主義も、ファイヤアーベントのような過激な相対主義や懐疑主義的な反科学思想も最初から無視されている(冒頭で言及されている竹内薫はファイヤアーベント信奉者)、
両極端が止揚され乗り越えられた結果が、グラデーション的科学観となる、という感じか。
この先生の以前の一般向け著作…『論文の教室』(NHKブックス)などを読んだ印象では、もう少し面白みというかサービス精神のある文章を書く人だと思っていたのだが、
この本では「市民の啓蒙」を意識したせいか、やや堅苦しくエンタメ性は薄い。自分が読んだのは第二刷だが、第一刷からだいぶ修正・改訂がされているとのこと。★★★★
※「仮説演繹法」についてググって調べてみると、「演繹によって予言を引き出す」だけでなく、その後の検証の過程も含めて説明しているものもある。
「検証」すなわち「帰納」の過程であるから、その意味で「仮説演繹法」とは「帰納法」の一種ということになる。
おそらくヒューウェルによってこの言葉が作られた時には「演繹による予測」の方法だったものが、ポパーらによって援用されていくうちに検証過程も含む意味になってきたのではなかろうか。
原義によるなら「仮説演繹法」という命名でも妥当だが、後者の意味だと混乱しやすい。「数学的帰納法」が実質的には演繹法であるのと同様に紛らわしい言葉だ。
新書ベストというスレの趣旨に合わないかもしれないが、ここらで変な本を紹介してみます。森山徹『ダンゴムシには心はあるのか』(PHPサイエンス・ワールド新書)。
それなりに期待して買った新書。一見まともな理系本。動物行動学や認知科学・システム論の本だろうと予想。
ところが「心とは何か」と題した第一章を読み進むにつれ、困惑が雨雲のごとく脳裏に広がっていく。
まずは心の科学を開始するにあたって、「心とは何か」についての考察を展開しているわけだが、妙に思弁的な話で、腑に落ちる感じがしない。
著者の「心とは何か」についての理論はおおむね以下のとおり。心とは「行動する観察対象における、隠れた活動部位」であり
「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を抑制している」ものである。
しかし「未知の状況」では、「自律的」にある行動の抑制を解き、その余計な行動を「自発的」に発現させる。
よって、対象を「未知の状況」に置き、「予想外の行動」を発現させてみれば、隠れた活動部位すなわち心の実体を現前させることになる、と言うのである。
また、我々は、他者や動物の「行動の発現を抑制している隠れた部位」の働きを「気配」として感じるのだ、とも言う。
(「気配」というのも怪しい言葉だが、認知科学的に基礎づけるのは可能なのかもしれない)。よくわからないながらも、なかなか面白そうな着眼点ではあるし、
哲学における「心の哲学」や現象学のようなものに照らしてみれば、それなりに正当化できる部分もありそうではある。
しかしそうした既成の哲学を参照したり哲学者との議論を蓄積した形跡はない(参考文献にも哲学関連のものは挙がっておらず、認知科学や動物行動学関連ばかりである)
もっとも哲学も独断の宝庫だから、哲学的に議論したところで客観性が増すとは限らないが。
著者は、動物や虫だけではなく最終的には石ころなどの無生物にも心が見いだせると言う。
一種のアニミズムであり、文化的・宗教的には目新しいものではないが、それが科学として成立するものかどうか疑惑が生じる。
もっとも、物理学でも「素粒子の自由意志」※という考え方があるらしいし、科学にならないとも断言できない。
※(→筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』岩波科学ライブラリー)
また、よくわからない文脈で著者の幼少の頃のエピソードが述べられており、これがまた奇妙な印象を残す。曰く、
「著者が3歳の頃、友達の家に遊びに行った時に廊下に木製の薬箱を見かけた。それを見た瞬間、著者は自分が走りだし薬箱に躓いて転び
頭を打ち出血するという光景がありありと目前に浮かんだ。次の瞬間に、実際に自分が走りだして躓いて転び頭から出血した」という話である。
つまり自分の衝動的な行動をその直前に予見視した、というのだ。
著者は「想像したことを身体が勝手に実行したのだ」と解釈しているが、どうも自分にはこれは「記憶の改変」の事例ではないかと感じられる。
実際には予見などしておらず、衝動的に走って転んで怪我をした後に、「予見をした」という記憶が作られたのではなかろうか。
いくら幼児とは言え、頭から出血するところまで予見しながら、その通りの行動をしてしまうのは不自然ではないか?
真実は藪の中だが、自分の記憶に疑問を持たない認知科学者というのもどうかと思うし、ここでも独断的なものを感じてしまった。
実はこの第一章で読み続ける気力がだいぶ失せてきたのだが、第二章でようやくダンゴムシが登場して、少し面白くなる。
ダンゴムシというのは気色悪くもあるが、よく見るとなかなか可愛らしい(写真あり)。実験ではダンゴムシの「交替制転向」という本能に注目する。
例えば障害物などに突き当った時に右に曲がったら次は左に曲がり、左の次は右に曲がるという性質がある。
捕食者に追われて逃げる場合、右に曲がった次に、すぐまた右に曲がったら、敵のいる方に戻ってしまうわけで、交替制転向は生存戦略の上で理にかなった進化だと考えられる。
実験では、ダンゴムシをいろいろな「未知の状況」に置き、この交替制転向の行動に変化が見られるかどうか観察する。
するとダンゴムシの一部は「予想外の行動」を示し、著者はこれを自律的な「心の発現」だと解釈する。
実験自体は面白いと思うが、いろいろ疑問点は多い。
例えば著者は「未知の状況」「予想外の行動」と言うが、この「未知」とか「予想外」というのは誰目線なのか?本当にダンゴムシにとって「未知」で「予想外」と言えるのか?
はっきりした基準があるように見えないし、著者の恣意的な主観による解釈ではないのか?(まぁ実験室で自然界にはない状況を作れば「未知」だとは言えるかもしれない)
そして「予想外の行動」が現れたことについては認めるとしても、それが「心の現前」だと解釈するのは飛躍しすぎと感じる。それは単なる予想外のバグじゃないのか?(虫だけに…)
また行動が「自律」かどうかについても明確な判別基準がないように見える。もっとも科学の研究というのは一見トンデモない発想であっても強い信念で突き進むことによって新しい発見に繋がるものなのかもしれない。
しかしこの強い信念が間違っていた場合には修正がきかず本当にトンデモない方向に逝ってしまうリスクもあるのではないか。
自分はこれを読みながら、アフォーダンスとか、郡司ペギオ幸夫などの奇抜なシステム論の人達を連想していた。
するとあとがきで、著者は大学院で郡司氏の指導を受けていたことが判明、妙に納得してしまった。
自分には意味不明なところが多くて評価不能だが、さしあたり「奇書」のカテゴリーに入れておくのが妥当な気がする。
トンデモとは断定しないが先日紹介した戸田山先生の本に即せば、黒に近いグレーといいうことで星2個★★
私物化してるみたいで恐縮ですが、このスレがある間は書かせて頂きますのでよろしく。
上村忠男『ヴィーコ』(中公新書)。17〜8世紀のナポリ出身の哲学者ヴィーコの学問論を中心に解説した入門書。
まえがきによると、著者は大学院でイタリア・ファシズムの研究を進めるに当たって、「そもそも学問とは何か」という疑問に突き当たり、
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を紐解く中でヴィーコに出会ったとのこと。
第一章ではナポリ大学の開講式で講演した『開講講演集』を検討してヴィーコの学問観をを探る。
ここでは「人間の自然本性」に従えという提言、「クリティカ」(真偽の判断に関する術)に対する「トピカ」(論拠の在り処の発見にかかわる術)の重要性、
「実践」とは単なる「理論の応用」ではなく、実践特有の意義があること、などが述べられる。
「トピカ」とはいかなるものかについては、ここではまだあまり詳しく説明されていないが、現代の用語で言えば「ヒューリスティック」に近いのだろうか。
さらに現代風に超訳すれば、論理的・演繹的・コンピュータ的な真偽の判断(クリティカ)に対する、人間的・直感的な発見の方法(トピカ)の重視、という風に自分は理解した。
第二章では、近代の自然学における、数学的・デカルト的な演繹的方法への批判について。
またヴィーコの科学論と、当時のナポリの科学アカデミーである「インヴェスティガンティ」の知識理論との関係が検討される。
第三章では、デカルト批判とともに、「真なるものと作られたものは置換される」「真理の基準は当の真理自体を作り出した」というヴィーコの知識理論を説明・検討する。
また伝統的なキリスト教神学がヴィーコの知識論に与えた影響が指摘される。このあたりの議論はなかなか難しいが、
簡単に言えば、人間が作ったもの、作り得るものは人間が理解できる(それ以外は神のみぞ知る)というようなことか。
第四章では、法と人間社会に関するヴィーコの思想を検討。1725年に出た『新しい学』では、政治哲学の論証可能性について「コペルニクス的転回」が生じたとする。
まずヴィーコは、「万民の自然法」の解明とためには、哲学者の「道理」・文献学者の「権威」は拠り所とするに値しないと言う。
これらの人間および神に関する一切の学識について白紙に戻さなくてはならない。その上で、原始古代の人間世界の起源に立ち戻るべきであると言う。
そして「人間の世界は人間によって作られてきた」という事実に永遠の真理を見る。
よって原始の社会の諸原理は「人間知性の自然本性的なあり方のうちに、ひいては私たちの理解の能力のうちに見出される」ということになる。
前章との関係で言えば、法や社会は人間が作ったものであるから理解し得るはずのものである。
さらにこうした「人間の自然本性に基づいた制作」という確実な足場を見出した以上、そこから幾何学的演繹的な推理・証明も可能になる。この演繹的証明は「神的」なものでもある。
第五章ではこうしたヴィーコの到達した思想と、キリスト教的プラトニズムとの関係について論じている。この章の論点も多岐にわたっていて要約が難しいので省略w
第六章では、「最初の人間たち」の思考を推理することの困難、人類の「共通感覚」への着目が語られた後、
ヴィーコの方法とは、「世界をあたかも一冊のテクストのように見立て…意味のコンテクストを“知性の内なる辞書”を頼りに読みといていこう」というものだという。
そしてこれは、本居宣長の方法に近いと言う。本居宣長は、「漢意(からごころ)」の主知主義的・理性主義的錯誤の危険性を認識しつつ、
感情的自己移入の不可能性をも自覚していた。また、レヴィ=ストロースやフッサールとの共通性を指摘している。
第七章では「最初の諸国民は詩的記号によって語っていた」というヴィーコの思想と、レトリック(修辞学)の伝統との関連が示される。
また現代の哲学者ガダマーの思想と比較されている。第八章では「バロック人」としてのヴィーコが語られる。
『新しい学』に附された口絵のように、寓意画などを使用する思考の方法はバロック的なものだという。
また寓意画のような視覚の知とはヴィーコの重視する「トピカ的な知」でもある。最後の「結語」では、以上の濃密な内容を簡単に要約している。
啓蒙書としてはやや本格的なものだが、ヴィーコの思想自体は、現代の科学批判などに通じる部分が結構あって、特に理解が困難ということはない。
ただ翻訳されたヴィーコの引用文はやはり読みにくく、それに影響されたのか、著者自身も時おり、とんでもなく長く複雑な構文の文章を書いていて、ゲンナリさせられる部分もある。
ヴィーコの思想に現代的な意義があるのかどうかはよくわからないし、自分がどの程度理解できたのかもよくわからないが、人文系教養書としては上質なものだと思うので星4つ★★★★
言われなくても読んでおくべき岩波新書青版をオススメ順に力の限り紹介する
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-662.html 20冊紹介されてる中で自分は12冊が未読。
コンプリートしようという気もないが、そのうち何冊かは読む予定。
>>589 偉そうに。言われなくても?
誰もお前求めてねーからやめろ
>>596 はい、そうです。
聖書の記述に沿ったような入門書を探しています。
>>597 聖書の何が知りたいかにもよるんじゃないの。
聖書の成り立ちの歴史とかそういうこと?
聖書の新書
http://shinshomap.info/theme/read_the_bible.html 俺はこの中では『聖書vs世界史』しか読んでないから、どれがいいとかわからんな。
『聖書vs世界史』にしても内容忘れたし。
ただ
>>599の新書リストの中で選ぶとすれば
古いところでは、赤司道雄『聖書』(中公新書)とピーター・ミルワード『聖書は何を語っているか』(講談社現代新書)あたり
新しいところでは、大貫隆『聖書の読み方』(岩波新書)あたりに絞られてくるだろうな。
初心者向けのを求めているなら、「面白いほどよくわかる」シリーズの『聖書のすべて』とか
図解雑学『聖書』などでいいんじゃないかな。
もっと高度なのが欲しいならキリスト教徒に訊いてくれw
>>599 その聖書本いいよな。俺もおすすめ。
あとは「捏造された聖書」とかもおすすめ。
角山栄『茶の世界史』(中公新書)。『〜の世界史』というタイトルの新書はたくさん出ているが、その初期のものだろう(初版は1980年)。
『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)の著者である川北稔はこの人の弟子にあたるらしい。
二部に分かれていて、第一部は「文化としての茶」第二部は「商品としての茶」というタイトルになっている。
ただ、タイトル通りの内容になっているかどうかは微妙。文化としての茶に注目していても、同時に商品としての側面を無視できないし、逆も同じだろう。
第一部は、ヨーロッパがアジアて茶を発見し、文化として受け入れ広がっていく過程、つまりヨーロッパ目線で記述されており、
二部は明治以降の日本が官民一体で世界市場に向けて茶を輸出するべく悪戦苦闘していく経緯、つまり日本目線で述べられている。
著者は「文化VS商品」という図式にこだわっており、目次にもそれが反映されている。
ヨーロッパ人は16世紀後半に、中国や日本の茶文化を知り、特にオランダ人は日本の茶の湯文化に大いに驚いたという。
イギリスには1630年代中頃にオランダを通じて入ってきて、コーヒー・ハウスで売られる。コーヒー※は茶より少し前に入ってきていた。
最初は薬効が宣伝され、後には宮廷における東洋趣味に乗って文化として広がっていく。また、最初は緑茶の輸入が多かったが、だんだん紅茶の割合が増加していく。
ちなみに「緑茶が船で運ばれて来る途中で熱帯の暑さで自然に発酵して紅茶となった」という話は俗説であるとのこと。
次いで、イギリスにおいて、コーヒーやココアを抑えて茶が一般化した理由を考察。理由としては、水が適していた点、伝統的な代用茶がすでにあった事など。
コーヒーに関しては、コーヒーの供給確保の国際競争に負けたことで衰退したらしい。
ココア・チョコレートは高かったことと、ハリケーンでイギリス領のカカオが壊滅した事件などが影響して衰退したとのこと。
なお、壊血病対策(ビタミンC確保)のために茶が普及したという説が紹介されているが、著者は否定的(紅茶にはビタミンCは乏しい等)。
フランスやドイツでは茶はあまり普及しなかった。次に中世・近世において、食い物を手づかみで食っていたような西洋の食文化が、
中国などに比べて貧しかったことを指摘し、西洋はそうしたコンプレックスをバネに紅茶文化を発展させていったことが述べられる。
しかし、この点は著者のバイアスが強い感じがある。箸で食うよりも手づかみで食う方が文化が貧しい、とは必ずしも言えないだろう。
ところで、紅茶には砂糖とミルクが付き物であり、紅茶の普及と共に砂糖の需要も増大していく。
こうして砂糖植民地の確保が課題となり、紅茶文化は「紅茶帝国主義」として展開していく。
アフリカ西海岸における奴隷貿易と西インドの奴隷制砂糖植民地、そしてイギリス本土との三角貿易が展開していく。
さらに中国に対しても、茶の輸入の決済のためにイギリスから銀が流出することが問題となり、
この貿易不均衡是正のためにインドで栽培したアヘンを中国に輸出する。これがアヘン戦争に繋がる。
イギリスに産業革命が起こり、インドの綿業を壊滅させる。19世紀になるとインド茶の製造が開始される。
第二部では日本の開国から話が始まる。最初の日本の二大輸出品は生糸と茶であったが、次第に茶の割合は減っていき、明治20年代末には綿にも抜かれて脱落していく。
官民一体となって、イギリス、オーストラリア、アメリカへと、市場を求めて販路拡大に勤しむのだがが、結局はセイロン茶などに敗れていくことになる。
この第二部の内容の方が著者の専門における本領らしく、日本の茶輸出ビジネスの盛衰が豊富な資料とともに詳細に記されている。
しかし、お茶業界に特に思い入れもない者としては、正直あまり興味が持てる内容ではなかった。単に比較劣位の産業が衰退しただけじゃないの?という冷めた見方をしてしまう。
日本の茶輸出産業史なので、「世界史」という感じも薄い。ただ、アメリカでは一時期、日本から輸入した緑茶が飲まれていた(しかも砂糖とミルク入りで)というのは意外な話で面白い。
コーラやスタバのコーヒーを飲んでいる現代アメリカ人は、何代か前の先祖が緑茶を飲んでいたことを知っているのだろうか。
日本の茶が敗れた原因としては、生産性が低く、品質が悪く割高、しかもマーケティングや宣伝が拙劣だったとのこと。
商売が下手な上に、しばしば粗悪品を納入して信用を失っていた(少し前の中国みたいなことをやっていた)というから負けるのは当然であった。
そもそも官僚主導の産業政策が成功する余地があったのかどうかという疑問もあるが、著者はその点は論じていない
最後に再び、「商品」の世界(大量消費・大衆社会・資本主義)を批判し、茶の湯などの「文化」の復権を主張して終わる。
最初にも書いたが、今読むと、「商品VS文化」という図式化がどうも陳腐に感じる。これが書かれた当時は新鮮だったのかもしれないが。
著者はどちらかと言えば保守寄りで、ナショナリスティックでもあるが、帝国主義の理解などに関してはマルクス主義とほぼ同じ見解を踏襲しているようだ。
面白さは期待したほどではなく、文化についての考え方にも古臭さを感じたが、この手の新書のパイオニアに敬意を表して星4つ★★★★。
※コーヒーに関しては、臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る』(中公新書)がベストに入っている。
橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書)
20世紀初頭のオーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタイン※1の「後期」の哲学における主要な考え方である「言語ゲーム」の入門とその応用。
第1章ではヴィトゲンシュタインの経歴と時代背景を素描。ウィーンの同じ工業高校にヒトラーも通っていたとのこと。
第2章は、20世紀における、フレーゲ、ラッセルによる論理学の展開、カントールの集合論、数学基礎論の展開を簡単にまとめている。
このあたりは他に多くの啓蒙書が存在するということで、あまり詳しい説明はされていない。
3章では、ラッセルに弟子入りして哲学を始めた事と、第一次大戦やロシア革命などの時代背景が述べられる。
4章では、第一次大戦に従軍しながら書き上げた『論理哲学論考』(以下『論考』と略す)について解説。
この著作でのポイントは、まず、命題の構造と出来事・世界の構造は「論理構造」において一致し、「言語と世界が一対一に対応する」こと。
そして、「世界」は丸ごと『論考』という書物の中に押し込めてしまえるということである。
これは、無限集合においては、その全体集合と真部分集合の間に一対一対応が付いてしまう事に対応し、
また「世界」が一つの書物に押し込められるというイメージは、この哲学が一種の「独我論」である事に対応する。
このあたりはなかなか説得力があるが、著者独自の解釈だろうか。また戦争と宗教的思想がそれに与えた影響を論じている。
宗教的・倫理的影響としては、従軍当時に熟読していたというトルストイ『要約福音書』が重要とのこと。
さらに、『論考』の最後の命題7「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」について。これは一種の自己言及的パラドックスの論理であって、
それまでに述べてきた命題すべてを消去するような「…なおこの書物は自動的に消去される」と言うことに等しい。
『論考』とは読まれた後に消滅すべき書物であり、「間違った哲学にふりかける消化薬のようなもの」である。
第5章では『論考』によって哲学の問題はほぼ消滅したと考えたヴィトゲンシュタインが哲学をやめ、小学校の教師をしたり、姉の新築の建築をやったりするが、
次第に『論考』の言語理論「世界と言語が一対一に対応する」の間違いに気づき、哲学を再開する。そして「言語ゲーム」のアイデアを得る。
第6章ではいよいよその「言語ゲーム」の説明。言語ゲームとは「規則(ルール)に従った人々のふるまい」である。
『哲学探求』(以下『探求』)※2では、石工の親方と助手の建築作業を例にして、この「言語ゲーム」を描写する。
「言語の意味」とは人々が現にルールに従って行動していることによって根拠づけられる。
「私的言語」や「数列モデル」に触れた後、この章の後半では、ナチスの台頭とともにユダヤ系であるヴィトゲンシュタイン一家が危機に陥っていく経緯が述べられる。
第7章ではクリプキやネルソン・グッドマンの議論を参照しながら「ルール懐疑主義」とその解決の方向が論じられる。
例えば、一つの数列からはどんなルールでも読み取ることができる。著者は常識的な「規則」に対して、無理に読み取られた奇妙な規則を「奇則」と名付けて、
それが「奇則」であることは「見ればわかる」と片付けている。しかし時には「奇則」が採用されてしまうこともあり、それがナチスだったとも言う。
第8章では「言語ゲーム」の考え方を法学に応用。H.L.A.ハートという法哲学者の法理論を「言語ゲーム」的に解釈している。
ここでは規則を「一次ルール」と「二次ルール」に分けている。前者は、審判のいない草野球のように、法がなくても皆が自然に暗黙のルールに従っている状態であり、
後者では法が明文化され人々はそれを参照しつつ従っている。章の後半では、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における法の位置づけについて整理している。
第9章では「言語ゲーム」で仏教を分析。第10章では江戸時代の日本思想、伊藤仁斎・荻生徂徠・山本闇斎らの儒学及び朱子学批判と、本居宣長の国学を扱う。
著者は日本の歴史・思想史も言語ゲームの蓄積の歴史と考える。第11章では、ヴィドゲンシュタインの哲学の「前期」と「後期」のつながりを考える。
また信仰や価値観との関係を論じ、文明の衝突や相対主義を超える可能性を「言語ゲーム」の思想に見出す。
読んだ感想としては、非常に感心した部分と、強い違和感を覚えた部分が混在。
「言語ゲーム」の考え方を社会の原理の根底に据えようという著者の態度は、「現象学」を社会の共同性の原理に据えようという竹田青嗣の思想を思わせる。
自分はいずれにも違和感を覚える。また、著者の思考が「演繹」だけに偏っているような気がする。論理の整合性だけで満足しているような印象。
そもそも「言語ゲーム」というアイデアを社会学や思想史に応用することについて、ヴィトゲンシュタイン自身はおそらく同意しないと思われる。
本書でも述べられているように、ヴィトゲンシュタインの哲学は、哲学的病いに対する薬であり、個々の問題に対して慎重に処方すべきものであり、
万能薬のように使われることは想定していないのではないか。もっとも後世の人間が過去の遺産をどう使おうと自由なのかもしれないが。
また著者が「ルール懐疑論」を「見ればわかる」と簡単に片付けているのもどうかと思う。
ヴィトゲンシュタインは「哲学病」に対する医者であろうとしたが、自身が患者も兼ねていた(そういう面ではニーチェにも似ている)。
懐疑は自分の実感でもあったのだと思う。そして現実に「正しいルール」を読み取ることが困難な、ある種の発達障害のような人もいるわけである。
「異常なルール」を「奇則」などと名付けるのは、そうした少数者を切り捨てるように見え、どこか無神経な感じがする。★★★
※1 他の本や翻訳では「ウィトゲンシュタイン」と表記されることが多いが、著者は「ヴ」と表記している。
※2『哲学探求』の和訳がアップされているサイト→
http://www.geocities.co.jp/mickindex/wittgenstein/idx_witt.html ただし、全訳ではないようだ。
大栗博司『重力とは何か』(幻冬舎新書)。著者は超弦理論で世界的な業績を持つ一流物理学者。現役バリバリの理系研究者が新書を書いたということで、かなり話題になった。
一流の研究者が必ずしも啓蒙書を書くのが得意とは限らないが(というより、現役の研究者は自分の研究が忙して、啓蒙書など書く隙がない人が多いと思われるが)、
この人は珍しく非常に啓蒙に乗り気な人で、かなり熱を込めて書いている。
第一章では「重力の七不思議」と題して、重力の不思議な性質をまとめている。同時にニュートン力学レベルにおける重力の概念がだいたいわかるようになっている。
第二章では、特殊相対性理論の説明。このあたりの話題については、昔からブルーバックスなど多くの啓蒙書が出ているわけだが、
最先端の理論を説明する場合でも、相手が一般人であれば、いちいちごく基礎的な話から始めなくてはならないのが理系啓蒙書の辛いところだろうとお察しする。
亜光速における時間の伸び縮みや、E=mc^2の説明など、数式をほとんど使わずに、上手く説明している。
第三章では一般相対性理論を説明しながら、重力はなぜ生じるのかを論じる。
時空の歪みの理論と、その実証的証拠として、「水星の軌道」「重力レンズ効果」「重力波」「GPS」を提出する。
第四章では、ブラックホールと宇宙創世ビッグバンの話。
ペンローズとホーキングの理論によると、アインシュタインの方程式を使って宇宙の過去に遡ると、初期宇宙には特異点が生じ、アインシュタイン理論は破綻してしまうと言う。
第五章では量子力学・場の量子論・素粒子論。このあたりについてもブルーバックスなどの啓蒙書が多くあるわけだが、ここでは30ページほどで簡単にまとめている。
第六章では超弦理論が解説される。著者は「超ひも」ではなく「超弦」の語を使っているわけだが、
「弦が振動する」というニュアンスを伝えるためにも「弦」の方が妥当だということらしい。ここではトポロジーが導入され、素人にはもう理解し難くなってくる。
第七章ではブラックホールの情報問題が論じられる。「ホーキング放射」や「負のエネルギー」が登場し、難解だが面白い。
ホーキングによると、ブラックホールが蒸発すると、ブラックホールに投げ入れられた情報は失われ因果律が崩壊するので、
相対論と量子力学のうち、量子力学の方を修正する必要があると考えた。
しかし超弦理論とホログラフィー原理によって、ブラックホールの情報問題は量子力学のみの問題に還元されたとのこと。
量子力学は重力の関わらない理論なので情報は失われない。著者はこの問題が解けたことを、超弦理論にとって大きな成功だと言う。
最後の第八章では、超弦理論の実証的展開を展望している。
金の原子核同士を亜光速で衝突させる実験で、クォークが解放される「クォーク・グルーオン・プラズマ」が、粘性のない「完全流体」となることが発見された。
しかしこの結果は超弦理論のホログラフィー原理で予言されていた。また、高温超伝導の原理が、超弦理論を使って解明されることも期待されている。
最後に、マルチバース宇宙モデルや人間原理が紹介される。ただし著者は、なんでも人間原理で割りきってしまうことに対する批判も述べている。
「最初から人間原理で考えていると、実は理論から演繹できる現象を見逃して「偶然」で片付けてしまうおそれがあるから」である。
前に幻冬舎新書で出て結構売れた、村山斉の『宇宙は何でできているか』と同様、幻冬舎にしては良心的な科学啓蒙書であるが、
これを読んでも「わかったような気になる」だけにすぎないとも言える。きちんと理解するためには、高度な知能と長年にわたる専門的な知的訓練が必要なのだろう。
自分などはこれから一生かけて勉強しても理解できないだろうが、これを読んだ小中学生の中から、また大栗先生のような世界的な物理学者が誕生するとすれば素晴らしいことだ。
我々凡人は「わかったつもりになる」ことだけは自戒した上で、気軽に楽しんで読めばいいと思う。★★★★
香取眞理『複雑系を解く確率モデル』(ブルーバックス)。相転移や臨界現象の複雑系を扱う統計物理学※の入門書。
第1章では、水の三相を扱う「格子ガスモデル」について。格子のマス目に(様々な圧力の設定に従って)分子を配置し、
隣同士の分子が相互作用する確率を決めてシミュレーションする。すると臨界点ではフラクタル構造を示す。
第2章では、磁力の謎を解くために、量子力学と統計力学を使った「イジングモデル」を紹介。多くの電子のスピンの向きがマクロで揃うと磁力が生じる。
スピンの向きが揃うと、パウリの排他律によって電子同士が距離を保つので、電子間のクーロン力が働かずポテンシャルエネルギーが低く、
2つの電子の向きが逆だと近づけるためクーロン力が働きポテンシャルエネルギーが高くなる。
エネルギーは高い状態から低い状態に変化するので、スピンは揃うようになる。だが温度が上がるとエントロピーが増えて乱雑化の方向にも向かい、
「キュリー温度」という「共時性相転移の臨界温度」では磁力がなくなるのである。
これもスピンの向きを上下の矢印にして格子に配置してモデル化する。著者はこのモデルが森林生態のモデルに似ていることに注目する。
第3章では、「伝承病伝播モデル」と、「パーコレーションモデル」を紹介。
伝染病モデルは格子のマス目に人が一人づつ住んでいる状態を考え、前後左右に感染者が1〜4人いる状態ごとに感染する確率を決める。
周囲に感染者が1人いる場合の感染率をλとすると4人いる場合は4λである。簡便化のために感染者は一週間で自然治癒するものとしておく。
こうして感染率λを様々に設定してシミュレーション。するとある感染率以下では伝染病は有限時間内に撲滅されてしまうが、
ある臨界値をを超えると無限に蔓延していく「蔓延相」へと相転移する。この臨界感染率を今のところ理論計算では求めることはできない。
ある人の隣に感染者がいる確率を求めるのが難しい(そのまた隣の周囲にどれだけ感染者がいるのか知らねばならず、そのまた隣の…となる)ため。
また「感染者による、感染プロセスに対する遮蔽効果」(感染している最中の人には感染しない)もある。
「パーコレーション・モデル」とはコンクリートなどに水が染みこんでいくモデルである。
水は細かいひび割れや樹状の隙間を通って染みこんでいくので、モデルはあみだクジのようになる。これも、見た目のわかりやすさに反して非常な難問だという。
第4章では「自己組織化臨界現象」における「べき乗則」を説明し、「砂山くずしのモデル」を検討。
べき乗則とはスケール変換をしても形の変わらない(部分と全体が相似)べき乗関数・分布に従う物理法則である。
砂浜などでサラサラの砂で山を作ると、ある程度以上の勾配を持った山を作ることはできず、無理に積み上げると「なだれ」を起こして、また同じ勾配に落ち着く。
これをブロックの階段のようなモデルにして、隣のブロックとの段差がある程度以上増えると、ブロックが隣に転げ落ちるようにする。
隣に落ちて隣もその低い隣との段差が増えと、そのまた隣へと転げ落ち「なだれ」になる。
これをさらに一般化して、段差だけを考え、大きさを決めた二次元正方格子にして(砂山を上から見た形)、
「なだれ」がその正方形の外まで落ちたらそれっきり「散逸」するものとする(本物の砂山と違いそれ以上でかくならない)。
こうしてブロックをランダムに積んで「なだれ」の規模や継続時間の分布を調べる。
1回のなだれに巻き込まれた格子(サイト)の総数sをなだれのサイズと定義すると、サイズごとの頻度分布P(s)はべき乗分布に従う。
第5章では、統計的定常状態とはどういうものかについて簡単に紹介する。熱平衡状態のような定常状態では、エネルギーはある平均値の周りで揺らぎながら安定している。
またミクロなレベルでは、たとえばスピン反転の向きが上から下へ遷移する確率と下から上へ遷移する確率が対称で釣り合っている(詳細釣り合い)。
これに対して、伝染病のモデル(コンタクト・プロセス)では、自分が感染している状態から自然治癒には遷移するが、
自分が健康で周囲も健康な状態から感染はしないので、ミクロでは非対称である。しかしマクロでは定常状態になる。これを非平衡定常状態と言う。
最後に、場の量子論と融合させた統計的場の理論に言及。エピローグでは、確率モデルの研究における空間構造を考慮することの重要性が認識されてきたこと、
それにはコンピュータの発達と研究者の間で「臨界現象」への関心が高まってきたことを述べる。
統計物理学と複雑系に関する優れた入門書だが、97年発刊で、こうした分野の進歩の早さを考えるとやや古いかもしれない。
この本で「まだわかっていない」と書かれている事項も、今ではわかっているものがあるかもしれない。
理系の啓蒙書で最先端の研究を扱う場合の宿命だろう。絶版になっているのは、賞味期限切れということかもしれない。
しかし基礎的な部分で定説が覆っているようなことはないと思われる。自分には少し難しかった。星4つ★★★★。
※「統計物理学」とは聞き慣れない学問だが、「統計力学」よりも広く、複雑系科学などを含んだ名称のようだ。
複雑系やカオスについての入門書は新書でもいくつか出ているようだが、初心者向けとしてどれがいいのかはよくわからない。
蔵本由紀『非線形科学』 (集英社新書)などは、基礎を学ぶためのものというより、研究現場の雰囲気を知るための本だったと思う。
統計力学の基礎については、竹内淳『高校数学でわかるボルツマンの原理』(ブルーバックス)がある。
べき乗則については、新書ではないが、マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』(ハヤカワ文庫)という啓蒙書が出ている。
清水徹『ヴァレリー』(岩波新書)。副題は「知性と感性の相克」。
近代フランスを代表する「知性の人」として知られるヴァレリーの評伝。詩人・文芸評論家でありながら、理数系の学問にも傾倒したという万能型知識人である。
この新書では「知性」の面よりも「感性の人」としての側面に注目し、特に恋愛遍歴を重点的に追っている。
第1章ではヴァレリーが17才の時に出会った、20才年上のロヴィラ夫人への片想い。同時期に詩人マラルメに出会う。
それ以前から詩を書いていたヴァレリーだが、マラルメとの出会いと共に、その及び難さに直面したためか、詩を書くのをいったんやめている。
またある嵐の夜に「ジェノヴァの夜」と言われる一種の内面の「クー・デタ」を体験する。
具体的にヴァレリーの心の中で何が起こったのかはよくわからないが(宗教的回心に似ているがヴァレリーは一貫して無神論者である)、
どうやら「知性の人」への変化のきっかけになったらしい。やがてヴァレリーは自己省察や日々の思考を「カイエ」と呼ばれる膨大な手記として書き継いでいくようになる。
第2章では「ジェノヴァの夜」以降に変化したヴァレリーが書いた『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という評論と、
『ムッシュー・テストと劇場で』という小説について。ムッシュー・テストはヴァレリーによって創造された「知性の人」の理想像である。この頃に陸軍省に就職し、結婚もする。
第3章は、ロンドン旅行とヴァレリーがそこで受けた刺激についてや、ドイツ帝国の勃興について論じた「方法的制覇」という評論のことなど。この評論は第一次大戦を予見したものとして後に評判になった。
第4章では第一次大戦の勃発、そして、ずっとやめていた詩作を再開し、長詩『若きパルク』の制作に着手する。ナショナリストであるヴァレリーは第一次大戦の帰趨に心は惑乱する。
戦争は詩にも影響を与え、フランスの勝利によって、『若きパルク』の結末も明るいものになった。
戦後に発表された『若きパルク』は評判になり、さらに『曙』『篠懸の樹に』『海辺の墓地』などの代表作が発表され、ヴァレリーは大詩人という評価を確立する。
第5章で、ヴァレリーは聡明で知性に満ちた貴婦人カトリーヌに出会い、熱愛関係になる。この時ヴァレリーは49才。妻子ある中年の不倫だが、家庭生活は恋愛とは別に平穏に営んでいた。
やがて、カトリーヌの自立心の増大、結核の悪化、様々なすれ違いが重なって、カトリーヌの方から関係を切られることになる。
第6章では、女流彫刻家ルネ・ヴォーティエへの恋。これはルネも他の男に片想いしていたためもあって、報われなかった。
既に50代後半の妻子あるインテリのオッサンが、千通ものラブレターを書送るというのは、日本人の感覚では「微笑ましい」の範囲を超えていて、
すげえなと思うばかり。今だとヘタすればストーカー扱いではなかろうか。
7章では、ヴァレリーの崇拝者であるエミリーとの交際。ヴァレリーはルネへの未練を残しながらも、自分のファンの据え膳を食った形。エミリーはヴァレリーやマラルメについての論文を発表した。
8章では、ヴァレリー最後の愛人ジャンヌ・ロヴィトンについて。ヴァレリーは既に60代半ば。ジャンヌは作家になるためのコネと結婚相手探しを兼ねて、劇作家のジロドゥーなどと二股三股かけていた。
ヴァレリーはこの恋愛から刺激を受けて、『我がファウスト』『孤独舎』といった対話劇を書き、さらにまた詩を書き始め、『コロナ』『コロニナ』という詩集が出来上がる。
しかし、ある日ジャンヌは自分が結婚することをヴァレリーに告げ、ヴァレリーはあっさり振られる。傷心のヴァレリーは健康も衰え、最後に未完の散文詩『天使』に手を入れた後、没する。
最後の「カイエ」では「心情」の勝利が書き記されており、「知性」が「感性」に敗北したかのようである。
読んだ感想としては「いい歳こいて元気な爺ィだな」に尽きる。最後のジャンヌとの別離にしても、そこまで落ち込むか?という疑問が。
年齢差を考えれば単なるパトロン扱いでも仕方ないだろう。しかもヴァレリー本人は老妻と別れる気などないのである。
これはヴァレリーの妻目線で見たら、相当ひどい話ではなかろうか。今でもフランスは不倫に対して寛容だというイメージがあるが、
フランスの恋愛文化では、ヴァレリーの行動は普通なのだろうか。家庭にまったく波風が立たなかったというのが不思議な感じがする。
日本の文士も浮気しまくりで、それが作品の題材だったりもするが、日本の場合は男の「遊び」は許容され、「本気」の不倫はスキャンダルになることが多いのではないか。
ヴァレリーについて何も知らなくても読める評伝ではあるが、ヴァレリーの「感性」の面中心の話なので、「知性の人」としての側面を知りたいという要求にはあまり応えてくれない。
そして、正直のところ、よく知りもしない他人の恋愛話など、たいして面白いものではない。
確かに引用されるヴァレリーの恋文は実に文学的で、一般人のものとはレベルが違うなとは思うが、そんなプライバシーを根掘り葉掘り追求するのも悪趣味な気がする。
『ムッシュー・テスト』というのは自分は一応読んだことがあるが、実にわけのわからない小説であるし、ヴァレリーの詩も難解なものが多いが、本書でこれらの意味がわかりやすく解説されているわけではない。
(今回、ヴァレリーの評論集『精神の危機』(岩波文庫)も併読してみた。前述の「方法的制覇」も収録されている。こちらは意味は一応わかるが、時代状況との関係を知らないと深くは理解できない)
またヴァレリーの文学史的・思想史的位置付けについてもあまり書かれていないので、初心者向け入門書とは言えないかもしれない。
日本の文学や知識人への影響も大きいと思われ、その辺りの話があるかと期待したが、それもここでは扱われていない。
フランス近代文学史について既にだいたいのことを知っている人や、ヴァレリーの詩※に親しんでいる人向けか。
本の内容が悪いわけではないが、自分の興味に応えてくれなかったので星3つ★★★。
※『ヴァレリー詩集』が岩波文庫で出ている。作品「海辺の墓地」の中の「風立ちぬ」の一節は堀辰雄の小説で有名。松田聖子の歌にも「風立ちぬ」というのがあるのを知っている人もいるだろう。
(ただし岩波文庫では口語訳で「風吹き起る」になっている)
http://junko717.exblog.jp/ 高い鼻を咲かしてくれ!
「そろ、そろ出番だ、お前のお鼻でも束ねるか?」
渡邊美樹の鼻(フラワー)ワタミの介護 控室。
渡邊美樹の悪口「会長って 鼻がヘン」厨房の男性が話していた。
「何か、鷲鼻、付けてる鼻、魔女の鼻」話してた。
>>604 >>605 >>606 角山栄さんの「茶の世界史」はいいね
昔、図書館で借りて気に入って購入した
「砂糖の世界史」と「茶の世界史」どちらもいい
どちらも図書館にある
「砂糖の世界史」は黒人奴隷の章がきつかった
岡田斗司夫ね。ずいぶん前にブクオフで買ったけど未だに読んでないなぁ…
中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書・青版)。著者は著名なフランス文学者であり、日本近代文学に関する著作も多い。元東大総長の蓮實重彦の師匠でもある。
この新書では、詩歌や戯曲や評論については省かれているが、明治から大正までの代表的な小説家をほぼ網羅している。
まず明治最初期に開花期の風俗を滑稽にとらえた戯作・戯文が流行し、明治10年〜20年には政治小説と翻訳小説が登場した。
そして坪内逍遥が『当世書生気質』『小説神髄』を発表する。次にロシア文学に影響を受けた二葉亭四迷による『浮雲』が発表される。
言文一致体によって、現実と乖離した知識人の姿と、順応的で出世主義的な人物の成功を描いた。
彼は近代小説の真髄を正しく我が国に移植したが、そのために孤立を強いられ、作品はわずか3作に終わった。
また明治18年には尾崎紅葉が中心となって硯友社が結成される。同人誌「我楽多文庫」が発刊され、山田美妙などが参加。
紅葉の弟子には泉鏡花・徳田秋声などがいる。硯友社には属していないが紅葉と並んで重要なのが幸田露伴。
また同時代では、森鴎外・島崎藤村・北村透谷・饗庭篁村・斎藤緑雨・樋口一葉が挙げられている。
続く日清戦争終結から日露戦争終結までの10年間は、ロマン的な文学の全盛期とされ、詩や評論が前面にでて小説は第二線に退いたとされる。
川上眉山・広津柳浪・泉鏡花などの観念小説、小杉天外・永井荷風(初期)のゾライズム、徳富蘆花・内田魯庵などの社会小説がこの時代の傾向。
そして自然主義が現れる。自然主義の影響は、一見これに対立したように見える耽美派・白樺派や、鷗外・漱石といった孤立した巨人たちにも及んでいる。
自然主義の小説家としては、まず国木田独歩、そして田山花袋・島崎藤村・岩野泡鳴・徳田秋声と続く。
ここで、西欧文学における自然主義の影響が、日本の小説においては私小説として現れたのはなぜなのかが問題となってくる。
西欧では自然主義とその根底をなした科学主義の思想はロマン主義に対する反動だったのに対して、
日本においては自然主義がむしろロマン主義思想の一部をなしていたことによる、と著者は説明してる。
大正期になると、耽美派と白樺派が登場する。耽美派としては、永井荷風と谷崎潤一郎が挙げられ、特に著者は荷風を非常に高く評価している。
孤立した大作家として森鴎外と夏目漱石にそれぞれ改めて一章づつを当てた後、白樺派として、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などが挙げられる。
ここでは「心は心を抱きたがっている」と「心に直接触れる芸術」の思想を唱えた武者小路が重視されている。
大正期には世界的には第一次大戦とロシア革命といった大変動が起きているが、当時日本の文学者はそうした世界の流れからは孤立していた。
しかし大正4,5年から大正12年の大震災までの数年間に若い才能が異常な密度で輩出した。
広津和郎・葛西善蔵・宇野浩二・佐藤春夫・室生犀星・久保田万太郎・久米正雄・山本有三・菊池寛・芥川龍之介などに言及。
最後に芥川龍之介の自殺の意味を、その直前の谷崎潤一郎との論争と合わせて考察。
自分はここに出てくる作家の中で多少なりとも読んだことがあるのは半分くらい、名前だけ知ってるのは8割くらい。
個人的には作家の名前がずらずら出てくるだけで割と楽しめるので、このレビューでも作家名を羅列してみました。
知らない作家についても、今後読むかどうかはともかくとして、興味は惹かれた。
ここに出てくる作家の作品は青空文庫で読めるものも多いので(武者小路実篤や志賀直哉や谷崎潤一郎などまだ著作権が切れていないものは載ってないが)、
気が向いたら読んでみてもいいのではないか。年表・人名索引付き。星4つ★★★★。
こうした公式的な文学史に対して、フーコー的な方法を使って文学史そのものが捏造されていく過程を分析したものとして、
柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)があるので、興味のある人は併読してみてもいいと思う。
中村光夫『日本の現代小説』(岩波新書・青版)。『日本の近代小説』の続編。
「現代」と言っても、この新書の初版が1968年(昭和43年)だから、その時代までということになる。
大正期、横光利一・川端康成らの「新感覚派」やプロレタリア文学から始まって、
最後に(当時の)新進作家代表として、石原慎太郎・開高健・大江健三郎が挙げられて終わる。
だから「内向の世代」は入っていないし、丸谷才一・中上健次・村上龍・村上春樹なども入ってない。
左翼思想と転向の文学史について概観できたのは良かったが、自分が戦後の左翼作家(野間宏など)を読んでみたいかというと、否である。
作家の名はたくさん出ていて、読書ガイドとしては悪くないが、こちらには索引が付いていないので不便。
あと『日本の近代小説』にもこちらにも、内田百閧ェ載ってないのにはちょっとガッカリ。
百間は随筆が主で小説作品は少ないので省かれたのかもしれないが、宇野千代は出てくるのである(この人も小説は寡作でエッセイが主)。
内容を詳しく紹介しようとすると、また作家名を羅列するだけになるので省略。星3つ★★★
>>630の「多少なりとも読んだことがあるのは半分くらい、名前だけ知ってるのは8割くらい」
というのは、文字通り読んだら計算が合わんわな。
「名前だけ知ってるのも含めたら8割くらい」と書くべきだったな。
コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』(ブルーバックス)。
量子力学における「多世界解釈(マルチバース)」を中心に紹介しながら対立する諸解釈を検討し、付随する哲学的問題などを考察する。
第1章ではスクラッチカードのモデルを使って、量子論の不思議な帰結であるEPRパラドックスや、その解釈の試みを戯画的に描く。
EPRパラドックスとは、一つの電子のスピンや光子の偏向を測定することが、遠く離れた別の粒子の測定結果に
瞬間的に影響を及ぼすように見える現象(エンタングルメント・量子絡み合い・量子もつれ)。
第2章では、光や電子における粒子と波の二重性についての考察。「状態の収縮(波の収縮)」や
ハイゼンベルクの不確定性原理を説明するために「波に粒子が乗っている」という「ガイド波」仮説が検討される。
第3章では、前述のエンタングルメントの存在を実験によって証明され、ガイド波解釈を採ると、超光速による情報伝達(非局所性)を認めなくてはならなくなる。
第4章では、まず、超光速が一種のタイムマシンを可能にする仕組みを相対性理論に従って説明する。
(著者としては「タイムマシンが可能」という事態はパラドックスを招くので出来れば避けたい)。
そしてこうしたパラドックスを含む「量子力学の基本問題」なるものを4項目にまとめている。
第5章では改めて量子力学の歴史をたどり、先人たちが採用したコペンハーゲン解釈などを検討。ボルンの確率波の理論では、確率の扱いが問題となる。
確率とは通常は、人の「無知の尺度」であるとされるが、量子論の確率波解釈ではそれでは済まない(真のランダム性・真の非決定性があることになる)。
第6章では、重ね合わせ状態空間を表すために、ヒルベルト空間が導入される。重ね合わせ状態において、システムの構成要素が互いに強く相互作用する場合、
実現する確率の高い持続的パターンと、状態が調和せず消えていくパターンが生ずる。
いくつかの互いに影響を及ぼさないパターンに分岐していくプロセスを「デコヒーレンス(干渉性の喪失)」という。
第7章では、ニュートン力学における「謎の遠隔作用」を、電磁気学や相対論が克服してきた近代科学史を振り返りながら、
量子力学においても「局所性」を保つように理論を整備すべきことを説く。第8章では、前述の「局所性」の要請に合う解釈として、多世界解釈が導入される。
第9章と第10章では、エンタングルメントの実在を実証する実験と、それを利用する「量子コンピューター」※1の話題。それらを無理なく解釈できるのが多世界解釈である。
第11章では、多世界解釈にともなう確率概念の処理(測度論)について触れた後、多世界解釈を採る学者達の紹介。
第12章では多世界解釈がもたらす世界観と様々な哲学的な問題を検討する。
個人のアイデンティティと確率に関わるパラドックスの一つである「眠り姫問題」※2も多世界解釈で考えると明確になってくるという。
第13章では多世界解釈と対立するペンローズの説を紹介。ペンローズは、「重力による収縮」の説と、人間の脳が量子コンピュータであり、
波の収縮は文字通り心の働きによるという説を唱えている。
第14章では、やはり多世界解釈に反対する実験家アントン・ツァイリンガーの説を紹介。
この人は、量子論的宇宙は有限の情報しか持てないという所に注目し、非局所的な情報の相互関係があると考える。
第15章では多世界の証明の可能性や最新の宇宙論との関係を考察し、今後を展望する。非常に面白いが、自分がちゃんと理解できたかどうかは不明。
最新科学の難しい内容を、あの手この手の比喩を駆使して説明しているわけだが、アマゾンレビュー※3にも指摘されているように、誤解の危険は否めないだろう。
素人としてはSFでも読むような感じで読むしかあるまい(実際、多世界とアイデンティティ問題のネタを扱ったたSFは多い)。
理系の話題ではあるが、「解釈」の話になると、不思議な哲学的問題が出現するので、文系にとっても興味を惹きやすいと思う。
ただ論理的思考に「意味」を必要としないような純理系的な感覚の人にとっては「解釈」の問題がそれほど重要だとは感じないかもしれない。
科学というより哲学的な面白さを評価して星4つ★★★★
※1 竹内繁樹『量子コンピュータ』(ブルーバックス)がベストに入っている。
※2 眠り姫問題
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B2%A4%EA%C9%B1%CC%E4%C2%EA 和田純夫『量子力学が語る世界像』(ブルーバックス)。著者は、上のコリン・ブルース『量子力学の解釈問題』を翻訳した人で、この人も多世界解釈支持者。
内容は重複するので細かい説明は省略。コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』と比べると、細かい枝葉は大胆に省略しており、話題の拡がりを抑制して、
基礎的なエッセンスだけを詳しく説明している感じ。奇抜な比喩なども控えめである。
微妙でめんどくさい問題には深入りしていないので、多世界解釈の簡潔さと論理的な堅牢さが目立っている印象。
哲学的な面で言うと、人間の意識は物理的な世界に従属しており、物理は人間の意識を超越している、という実在論的な世界観と言える。
しかし人間は一つの世界に閉じ込められていて多世界を俯瞰することはできないのに、多世界の実在を確信するというのは、何によって保証されるのだろうか。
著者は「科学と論理」と言うのかもしれないが、徹底した唯物論・実在論を採ると、多世界のすべてを俯瞰する超越的な視点、すなわち神が要請されるような気もする。
それでも神を拒否するとすれば、「科学主義」になるだろう。
実在の確信ではなく「多世界解釈」も人間が科学を行うための「便宜」の一つに過ぎないというプラグマティックな捉え方をすれば、人間中心主義的になるだろう。
自分はこのプラグマティズムの方が無難だと思うが、著者の「確信」にもある種の魅力があるのも確か。★★★★。
森田邦久『量子力学の哲学』(講談社現代新書)。副題は「非実在性・非局所性・粒子と波の二重性」。
上の『量子力学の解釈問題』と『量子力学が語る世界像』と同じ題材を論じているわけだが、そのニ著が「多世界解釈」を主に支持しているのに対して、
この本の著者は「時間対称化された解釈」を主に支持している。そして、前ニ著の著者が物理学者であるのに対して、この著者は哲学者である。
上のニ著と重複する部分は省略して、「時間対称化された解釈」についてだけ簡単に紹介しておく。
これは、現在の物理量の状態の確率が、過去の状態だけでなく未来の状態にも影響されて決まるのである。
時間の流れや因果律についての日常的な直観からすると、多世界解釈以上に不思議な感じがするが、ミクロの物理ではむしろ時間対称であるのは普通のことである。
著者はこの解釈の一種に多世界解釈を加えたものを支持している。
最後に「ハーディのパラドックス」なるものを図解し、これに「時間対称化された量子力学」を使うと「マイナスの確率」というものが出てきてしまうことを述べている。
これも人間の自然な認知能力をあざ笑うような珍現象で、目眩のするような面白さがある。
以上、および「多世界解釈」以外にも、「裸の解釈(2種)」「単精神解釈」「一貫した歴史解釈(多歴史解釈)(2種)」「様相解釈(2種)」といったいろいろな解釈が紹介されている。
多くの話題を詰め込んでいる分、説明不足感が否めない。自分は上記二冊を先に読んでいたのでなんとかついていけたが、これをいきなり読んでいたらほとんど理解できなかったかもしれない。
この手の新書としては読者の知的好奇心を刺激すればそれで成功と言えるだろう。ただ、これはないものねだりになってしまうが、
「解釈」という行為そのものの科学における位置づけについて、哲学者ならではの視点でもう少し掘り下げて欲しかった。★★★
(余談だが、この人の名前でググったら、とあるブログでボロクソに叩かれていた。自分の著書で条件付き確率の問題を間違えた上に、訂正の際の言い訳が潔くなかったらしい。)
古澤明『量子テレポーテーション』(ブルーバックス)読了。この人は実験畑の人で、実際に量子テレポテーション実験を成功させている。
不確定性原理を所与として、量子もつれ(エンタングル)と量子重ねあわせの原理を使って、量子情報を送信する方法を説明している。
原理自体はそれほど複雑ではないし、数式はなるべく使わず図版を豊富に使い、割と歯切れのよい文章で読みにくくもないのだが、いまひとつ勘所が上手く伝わってこない。
特に「量子もつれ」とは何かが説明不足だと感じた。実際にそういうクレームが多かったのか、著者は『量子もつれとは何か』という続編も出している(こちらは未読)。
説明がやっかいなところに差し掛かると「大学へ行って物理学を勉強してください」とか「拙著をお読みください」
と、逃げる態度をあからさまにしている部分が多く、啓蒙書ではやむを得ないところだが、人によっては腹が立つかもしれない。
ひとつ気になったのは、量子テレポテーションの送信は超光速ではない、と最初に述べている部分。
本文ではこの点について説明がないのだが、上の『量子力学の解釈問題』では超光速(というか同時)であるとしているのと齟齬をきたす。
どちらが正しいのか、自分で調べる能力もないし面倒なのでしてません。
序説で著者は、高校生の物理離れを憂いていて、物理を学ぶ若者を増やす目的で執筆したらしいが、
どちらかと言うと、物理のセンスのない生徒を選別して諦めさせる効能の方が強そうだ。★★★
似たような内容、同じくらいのレベルの啓蒙書を4冊も読んだわけだが、互いに補い合って理解が助けられた。
もちろん、能力が高い人はこんな無駄なことはせず、本格的な教科書に進むべきだが、自分はそんなものは読めないので仕方がない。
森田邦久『科学哲学講義』(ちくま新書)。『量子力学の哲学』の著者による、科学哲学入門書。
第1章は、演繹・帰納・アブダクション、帰納的推論の正当性、必然性とは何かについて論じている。
必然性については「可能世界」という概念が、あまり詳しい説明抜きで唐突に導入されている。
第2章は「因果性」ついて。「因果」の実在に対する懐疑は「帰納」への懐疑と同様、ヒュームによって提起された。
これには時間論も関わってくる。この話題は詳しく論じられていて、おそらく著者の本領だと思われる。
『量子力学の哲学』と重なる部分もある。
第3章は、科学で扱われる原子や電子のような物は、目に見えないのに本当に実在すると言えるのか、と問われる。
第4章では、科学と科学でないものはどう区別されるのか。科学と疑似科学の線引き問題。
このあたりは、
>>576の戸田山和久の本や、ベストに入っている伊勢田哲治の本でも扱われており、割と馴染みのある話題である。
ポパーの「反証可能性基準」やクワインの「全体論」について説明される。
第5章は、前章を引き継いで、科学の合理性について論じる。
クーンの「パラダイム論」、ラカトシュの「研究プログラム説」、「研究伝統説」、「社会構築主義」などについて説明。
第6章では、反進化論や超心理学といった疑似科学と見做されている事例を検討しながら、科学的説明とは何か、
そして科学と他の知識体系との違いに関する著者の考えをまとめている。
全体として、一応初心者を意識して書かれており、一見とっつきやすそうな感じなのだが、実はそんなにやさしくない。
後半の話題は他の科学哲学入門書でも広く扱われていることもあって、理解はしやすいのだが、
第1章で「可能世界」の概念を使って「必然性」について分析する部分や、
第2章で、因果性を「反事実条件文」を使って分析する部分などは、初心者にとってはかなりの壁になる。
「因果性」については他の科学哲学啓蒙書ではあまり扱っているのを見たことがないので、新鮮だったし面白いのだが、
やはり説明不足ではないかと思う。個人的には「因果性」だけで一冊出して欲しかったが、
それだと読者が限定されてしまって販売戦略上まずいのだろう。★★★
桜井英治『贈与の歴史学』(中公新書)。非市場経済や文化としての「贈与」については、文化人類学や経済人類学でよく扱われるが、
タイトルだけ見ると贈与文化に関する通史かと期待させるが、そうではなく、この本では、日本の中世(主に室町時代)の贈与慣行について述べられている。
文化人類学の影響を受けた現代思想などでは、「贈与」は功利性や市場経済と対立するものとして言及される事が多いが、
日本中世における「贈与」には、功利性の側面が強く、市場経済との連続性をもって表れていると言う。
第1章では、マルセル・モースの『贈与論』などを参照し、贈与の「四つの義務」…(提供の義務・受容の義務・返礼の義務・神に対する贈与の義務)を出発点として考察を進める。
そして「神への贈与の義務」が、租・調といった税となっていく過程を追う。また、「人への贈与」が義務化し、税と化していくこともあった。
第2章では、贈与が宗教性を脱して世俗化し、また、義務化していく過程を詳述している。贈与が「先例」となると、定役化・義務化しやすくなるのである。
そこで、贈与を行う人々は、それが先例化しないように微妙な駆引きを行ったりした。この「先例」の力とは「法」の起源でもある。
また、当時の贈与交換の儀礼において、双方の「相当」の観念、すなわち贈り物同士の価値の釣り合いにこだわっていた。
贈られた側が価値不足と感じた場合は贈り物を突っ返したりもしていた。「相当」という等価交換への厳格さが、中世の「礼の秩序」を形作っていた。
一方で、厳格な制度と化した贈与は、人格性からは切り離されていった。つまりかなりドライな側面を持っていた。
第3章では「贈与と経済」と題して、贈与と市場経済がどのように共存し連続していくかを見ていく。
著者は、日本の中世には貨幣経済・商品流通・信用経済が発達し、市場経済が成立していたと考えている。
13世紀後半には、年貢を貨幣で納める体制(代銭納制)が定着している。そして、贈答品市場が存在し、人々は贈り物を市場で調達し、贈られた品を市場で売り払っていた。
神社には神馬が奉納されるが、神社が贈られた馬を全て飼い続けるのではなく、博労に売却していた。また贈答儀礼そのものが物資調達手段となっている場合もあった。
室町幕府の財政も贈与儀礼に頼っていた。将軍が京中の禅宗寺院に「御成」と称して訪問しては「献物」を貰ってまわっていたのだ。
次に贈与と信用経済の関連では、「折紙」という贈り物に添えられる目録が大きな役割を果たす。
先に「折紙」を贈り、贈答品は後から贈るという慣行から、「折紙」が約束手形のような機能を果たすようになる。
債権債務関係の会計処理同様に、贈答の相殺をしたり、折紙の譲渡も行われる。
賄賂としての贈与では、折紙を先に渡して、利益供与を受けた後で現物を贈るという仕組みによって、贈り損を避ける機能もあった。
神仏へのお供えでも、折紙を先に供えて願いが叶った時だけ後から現物を供えた、という話は面白い。
こうした証券化などの、贈与の非人格化・省力化は、贈答品の本質が「使用価値」から「交換価値」へ移っていく事を意味する。
それは贈与があと一歩で贈与でなくなる臨界点を示している。しかし、こうした中世独特の贈与の信用経済は、15世紀末から16世紀初頭には急激に廃れ、
パーソナルな社会関係が復活してくる。歴史が直線的に進行するとは限らないという一つの例である。
第4章では、「儀礼のコスモロジー」として、「御物(ごもつ)」と称する内裏や将軍家のお宝の扱われ方や、贈与における動産と不動産の扱いの違いや、労働の贈与について論じている。
御物は、貴族達の共有財産という性格を帯びており、しばしば困窮した貴族に貸し出され、借りた貴族はその御物を質に入れて資金を調達したとのこと。
最後に本書で扱った「贈与」は、純朴な無償の贈与=「純粋な贈与」ではなく、「義務的な贈与」と「商業的な交換」との境界線上で展開されたものであることを確認している。
著者も述べているように、本書で扱っている時代は中世後期のみとかなり限定されているが、贈与と経済の問題を考える上では普遍的な広がりを持っている。
特に、市場経済を批判して、贈与と共同性の倫理の復権を持ち出すような、ある種の知識人の思想がいかに紋切り型なのかがわかる。星5つ進呈★★★★★
うわっ出だしの文章がおかしいwww推敲すりゃよかった
>>646 俺は最近、純文学を意識的に読んでるよ。読むの遅いからたいした量じゃないが。
面白さはよくわからんし、しんどい。マラソンしてるのと同じ。読んだ後の達成感はあるが。
>>647 俺とまったく同じ境遇w
だんだん慣れてくるよね
平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書)。副題は「資源、食糧問題から開発製作まで」。
アフリカを中心とした開発援助問題とその歴史について論じたもの。第1章では、近年盛んになった中国のアフリカ援助について。
中国の経済成長に伴う、資源需要の増大により、資源獲得のために、中国はアフリカに莫大な援助・投資を投じ、大きな影響力を発揮するようになっている。
第2章では、資源輸出によってアフリカが経済成長しつつある現状を論じる。それは開発なき成長であり、
かつての「オランダ病」のような、いわゆる「資源の呪い・資源の罠」という問題を妊み、成長の果実が末端・農村にまで行き渡らず、格差をもたらしている。
第3章では、アフリカの農業生産性の低さが、低成長と格差を生んでいることを指摘している。またこれは全世界的な食料安全保障上の脅威でもある。
第4章ではODAなど戦後の開発・援助の歴史と、開発経済学や援助の理念の変遷を概観。
第5章では、南アフリカなどから勃興したグローバル企業の活躍と、アフリカの経済成長への寄与を述べている。
また、BOPビジネスと呼ばれる、貧困層を対象したビジネスの興隆を指摘。今日のCSR(企業の社会的責任)のあり方についても論じる。
第6章では、長期経済低迷している日本の、あるべきアフリカ開発援助戦略について論じて終わる。
論旨明晰で、問題点がわかりやすく整理されており、問題解決の方向性も明確。
自分は「食糧危機」というのは現状ではあまり差し迫った問題とは思っていなかったのだが、
アフリカの農業生産力が上がらないと将来的には危機となる、という話には蒙を啓かされた。
あと、「世界システム論」の開発援助史上の位置づけなどは個人的には興味深かった。
6章の、日本の長期低迷の主因が市場の閉鎖性にあるかのような議論には、こじつけっぽくてあまり説得力は感じなかった。
予備知識としては、ミクロ・マクロ・国際経済学の初歩の考え方に多少慣れていた方がいいが、開発経済学の知識は特に必要ないと思う。
ただ、「グラントエレメント」といった耳慣れない外来語が説明なしで用いられている部分は若干あった。
数少ない経済系新書の良書ということで星5つ★★★★★。
この本については既に優れたレビュー↓がネットに出ているので詳しくはそちらを参照してください。
平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書) 10点
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52022462.html マルクスからカント、そしてヘーゲルへ
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20130401/p1 安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』(ちくま新書)。
著者は教育学・教育心理学・行動遺伝学者で、主に双子の調査によって行動・心理への遺伝と環境の影響を研究している人。
副題は「すべての能力は遺伝である」となっているが、これは明らかに最近の新書によく見られる販促のための「釣り」で、
「はじめに」では「すべては遺伝子の影響を受けている」と言い直されている。編集者の良識が疑われる部分だが、
これを許してしまった著者も、自分の意図が歪んで伝えられる危惧を持たなかったのだろうか。心理学者にしては甘い判断だと思う。
まず第1章では、「バート事件」と言われる、知能の遺伝研究に関する事件について。
知能の遺伝的影響を主張したバートの論文が、環境決定論者達によってデータ捏造が指摘されたが、それは冤罪だった可能性が高いという後年の知見を紹介する。
そして、データ捏造説を無批判に引用し、行動遺伝学を軽視する行動心理学者の鈴木光太郎を名指しで批判している。
第2章では、もともと環境決定主義者として教育学を目指した著者が、遺伝の重要性を認識するようになった経緯と、
双子研究によって、遺伝の影響と環境(共有環境と非共有環境)の影響を測定する統計的方法について説明する。
第3章では、遺伝子操作による出産が当たり前になった世界を描く『ガタカ』というSF映画を例にとって、遺伝子診断の現状と、それにともなう生命倫理的な難問に触れる。
第4章では、「環境こそが遺伝子を制約している」という著者の考え方が示される。
第5章では、遺伝と社会・経済の関係を考える。収入と遺伝の関連、教育投資の見返りなど。
また、経済学・社会学・法学・教育学などの根幹の設計思想を、遺伝の知見が覆すと述べている。
第6章では、行動遺伝学を前提とした教育のあり方や、人種・民族差や優生思想などについて、進化心理学によって見出される人間の本能的な利他性や、
ロールズの正義論などを動員して、公平や平等といった倫理的な問題を論じている。
多くの感情的抵抗を被りやすい題材や倫理的難問に果敢に挑みつつ、やっかいな泥沼に足を取られるほどには深入りせず、とりあえず穏当な結論を導いている、という印象。
個人的には、こうした題材については、ずいぶん前にスティーヴン・ピンカー『人間の本性を考える−心は空白の石板か』(NHKブックス)などを読んでいて、
心理的抵抗感に関してある程度は克服しているつもりだが、改めて遺伝の問題を突きつけられると、自分の能力の限界を見せられるようでやはり多少嫌な気持ちになる。
この遺伝的影響を否認したがる心理的バイアスというのは、本能的な道徳感情に由来するだろう。この感情自体ある程度生得的なものだ。
「努力すれば夢は叶う」「誰にでも無限の可能性がある」という信仰を否定される事は、努力へのモチベーションの低下や、教育の無力感に繋がりやすいだろう。
心理的抵抗感を克服したとしても、次には『ガタカ』のような倫理的難問が立ち塞がるわけで、なかなか大変な話である。
道徳というのは、様々な信仰、極端に言えば「嘘」によって支えられている面もあるわけで、こうした身も蓋もない科学的真実を我々みんなが知ることが本当にいいことなのかどうか、
誰もが納得する説明ができているかは疑問。少なくとも学問の世界では遺伝の問題をごまかさずに直視することは正しいとは思うが。
あと細かいことを言えば、生得的なものがすべて遺伝というわけではなく、母体内環境という要因もあるはずだが、そこは説明されてなかった。
副題など多少の不満はあるが、行動遺伝学の知見が、今もなお人文系や社会科学系で『不都合』なものとして黙殺されているとすれば、
それ自体が重大な問題として提起する価値があるだろう、ということで星4つ★★★★。
ちょっと付け加えると、遺伝の影響を否認もしくは過小評価したがる感情バイアスが
実害をなす場合というのも確実にありますね。
「誰でも頑張ればなんでもできる・できないのは頑張ってない証拠」という精神主義の傾向とか。
一番ひどいのは子供の発達障害を母親の育児責任に帰すもの。
しつこいようですが上の本に関してちょっと追加。たまたま関連するエントリーを見かけたので。
コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20130622/paul_and_greg_2013_4 コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)・続き
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20130623/paul_and_greg_2013_4_2 上のエントリーの「続き」の方で、
グレッグ・マンキューが遺伝の影響の強さについて言及している。
こうして見ると、「遺伝の寄与の強さ」の知見が、
「教育機会の均等化に政策コストをかけるのは無駄」というような方向に政治利用され、
格差容認の方向に行きがちなのかなとも思う。
ロールズとかアマルティア・センなどの思想で対抗できるのか?
広井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)。2009年大佛次郎論壇賞受賞作。
新書大賞を受賞していたかと自分は勘違いしていたが、そちらはエントリーされただけであったようだ。
社会が成熟し、もはや経済成長せず「定常型社会」となってきた現代の日本におけるコミュニティの意義を論じている。
この「成熟社会」「定常型社会」「もう経済成長はしない・成長を目指すべきではない」というのは何度も強調される。
このあたりの著者の思想については岩波新書の『定常型社会』※を始めとして、他著で既に詳しく論じられており、
本書では大前提とされているが、一応4章でも簡単に解説されている。
「定常化」の論拠として、「人口減少」「資源・環境制約の顕在化」「貨幣で計測できるような人間の需要の飽和」が挙げられている。
また巨視的な歴史のサイクルとして人口変動などを見ると現代は3度目の定常化を迎えているという。
またコミュニティについて考え始めるに当たって、まず農村型コミュニティと都市型コミュニティに分類し、
前者の情緒性・閉鎖性と後者の普遍性・開放性を対比しつつ、人間には両者の要素が必要だとしている。
これらを前提として、第1部では、コミュニテイという主題を考えていく「視座」として、都市というテーマを考え、
コミュニティの空間的な中心について論じ、グローバル化との関係を考える。
第2部「社会システム」では、社会保障・福祉制度、都市計画、土地、住宅、環境などについて論じる。
ここでは、「ストックをめぐる社会保障」として、フローではなくストックの再分配、例えば、土地所有制の見直しと公共化などを提言している。
とにかく市場経済に頼るのではなく、ストックを公や共によって有効利用しようという考えのようだ。
3部では「原理」と称して、科学論や医療論(ケアとしての科学)、独我論とコミュニティの閉鎖性の関係、
「普遍性」と「多様性」の問題、宗教・スピリチュアリティの必要性などを論じている。
「成熟社会」「反経済成長論」を前提もしくは主題とした新書は現在ものすごく多く、
これはその中の代表作ということで、今回ようやく読んでみたわけだが、正直、予想以上につまらなかった。
一方に「空虚なイデオロギー」としての経済成長主義があるのは確か(例えばアベノミクスの「成長戦略」とか「コーゾーカイカク連呼」など)なので、
それらに対する反発として、反成長主義にも一定の正当性はあるのだろう。ただ、反成長と言っても、
「もう成長はしない」「成長するべきではい」「成長を目指すべきではない」はそれぞれ意味が違うので、各々の立場が何を言わんとしているのかまず整理すべきだろう。
また「実質成長」と「名目成長」を分けて考えるという作業もした方がいいかもしれない(生産性を上げるのか景気対策をするのか)。
確かに科学技術の進歩や効率化は人を幸福にするとは限らないし、このままどんどん効率化が進めば労働者がどんどん必要なくなって失業者だらけになるかもしれない。
しかし科学技術の進歩や効率化を止めるというのは非現実的だろう。あるいはアーミッシュのように強力な宗教的伝統でもあれば別だが。
だとすれば、失業を増やさないためには、少なくとも当面は名目成長率を上げる必要はあるのではないか。
まぁこういうのに賛同する良心的インテリという人達はたくさんいると思うので、そういう方たちに喧嘩を売るつもりは毛頭ないが。
ただ、著者が理想とする北欧的な福祉社会やスローライフ的な「贅沢」は経済成長抜きで本当に可能なのだろうか?と疑問を呈しておく。星2個★★。
※著者の『定常型社会』(岩波新書)は随分前に読んだが、内容ほとんど忘れた。
内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)。いじめ研究の第一人者と言われる社会学者による、いじめの社会理論。
まず第1章では、巷の識者による、混乱した「いじめの原因論」を列挙する。それらをまとめると、
「人間関係が希薄でありかつ濃密である」「若者は幼児的であると同時に計算高い小さい大人でもある」「秩序が過重であり、かつ解体している」
といった互いに矛盾するかのような主張になる。こうした混乱は、「秩序」を「単数」と考えている事による、と著者は言う。
「秩序と無秩序」という単純な二分法ではなく、複数の秩序が存在すると考える。秩序を「場のノリ」が優先するような「群れの秩序(群生秩序)」と
「市民社会の秩序」に分けて考えれば、いじめの空間では前者が過重であり、後者が解体している、と整理できる。
第2章では、いじめの秩序を分析する。そのメカニズムは、自分たちが群れて付和雷同することによって醸成された場の情報(空気)が個人に「寄生」して
個人の「内的モード」を切り替えてしまい、その切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が、さらに次の時点の集合的な場の形を導く。
そしてその場の情報がまた…という形で連鎖するものである。
また、心理と社会の認知情動システムとして見ると、「不全感」(なんとなくムカつく・存在自体が落ち着かない)から
「全能感」(世界と自己が力に満ち全てが救済される感覚)への暴発として捉えられる。
全能感の内部にも、暴力の全能感→群れの全能感→暴力の全能感→…という再生産サイクルがあり、また、全能感と不全感の間にも再生産サイクルがある
。著者はこの全能感を成立させる道筋を「全能筋書」としてモデル化し、「破壊神と崩れ落ちる生贄」「主人と奴婢」「遊びたわむれる神とその玩具」と三類型に整理している。
命名が妙におどろおどろしいが、いじめの実際を思い浮かべれば意味はだいたいわかると思う。
第3章では「癒しとしてのいじめ」として、いじめる側といじめられる側の心理を分析している。
両者に共通する価値観として「タフであること(逆境に耐え事態を上手く切り抜ける強さ)」に注目している。これも一種の全能感である。
またいじめの場の秩序形成の契機として「祝祭」と、空間占有の全能感(「属領」)を挙げている。
第4章では、いじめを形成する要素として前章までで詳しく説明されていた「全能感」と、もうひとつの要素である「利害」のマッチングについて分析。
「全能感」の方は合理的な利害を超えて暴力を暴走させることもあるが、いじめの不利益が大きなものであればブレーキとなりうる。
利害と全能感が一致すると、動かしがたい政治空間となる。よって「利害計算」と「全能図式」を一致させないようにする方法を考える必要がある。
政治権力は利害図式から構成されているので、制度を変えることによって利害構造を変えられる。
第5章では、学校という制度がいじめに及ぼしている影響について。閉鎖空間で「ベタベタ」する関係を強制する「学校共同体主義」を激しく批判する。
群生秩序を蔓延させる制度を変えるべだきとして、これを「生態学的設計主義」と称する。
第6章では、まず、短期的な教育制度変革の政策として、「学校の法化」と「学級制度の廃止」を提言する。
前者は学校内にも市民社会のルールを貫徹して、暴力には警察で対処するというようなこと。
後者はクラスを廃止して、強制的にベタベタさせる共同体の拘束を緩めようということ。
中長期的には義務教育制度を削減し、代わりに権利としての教育を拡充し、教育バウチャー制度などを取り入れて、大胆な教育の自由化を提案している。
最後に「中間集団全体主義」として、中間集団が全体主義に奉仕する面を強調し、共同体主義に対する嫌悪を露わにしている。
自分はこの人の本を読んだのは初めてだが、以前に著者のネットでの発言などを見たことがあるし、いじめ理論や学級制度撤廃論についても多少知っていた。
ただ教育制度改革についてここまで過激な考えを持っていることは今回初めて知った。どうも、この人のいじめ論には理論だけがあって実証や実験への志向がない。
また教育学や社会心理学など他の分野や現場の教育者との連携が現状でどの程度進んでいるのかわからない。
フィールドワークはしているが、これだけを読むと理論に合致する例だけをピックアップしているような印象は拭えない。
諸概念が明晰に整理されていて、巷の通俗的ないじめ論よりも普遍性を達成しているのは確かだろうが、
理論だけで政策化できると考えているとすれば、独断性・独善性において通俗論者と五十歩百歩だろう。
「学級制度撤廃」は著者が昔から主張していることであり、その当然考えられる副作用についても長く議論がされてきているだろうし、
著者も既に答えを持っているのだろうが、ここでは全く考慮されていない。
例えば、学級がなくなっても自発的な小集団はたくさんできるだろう。そうした小集団ではいじめは起きないだろうか?自発的な集団であれば離脱はたやすいと本当に言えるだろうか?
小集団に入れない子に居場所はあるだろうか?(もちろん「いじめを伴う孤立」より「いじめなき孤立」の方がずっと良い、などの答えを出すことは可能だが)、
クラスがなくなれば担任が個々の生徒をケアできなくなるし、不可視性が高まるが大丈夫だろうか?(「透明な社会」を非難する著者としてはそれで良いと言うのだろうか)
学校の周囲でも「市民社会」が成立してない場合はどうすんの?など……
いずれにしろやってみないとわからない。実験校を作って実際にやってみようという動きはあるのだろうか?
一校だけで効果を検証するのは難しいだろうが、少なくとも副作用の程度についてはわかるだろう。そして副作用が大きければ考えなおすべきである。
しかし著者は「まず小さな規模で実験してコツコツ実績を積み上げて」という発想はないようだ。そもそも中間集団を嫌悪しているので、ボトムアップ的な実践はできないのかもしれない。
中間集団をすっ飛ばして抜本的な改革をするとなると、強大な権力が要請されるが、それでいいのか?といった問題もある。
もっとも、こういうありがちな自由主義批判やら近代主義批判みたいなものをスッパリ無視するのも清々しいとも言えるが。
著者の主張する「自由」は経済システムを考慮していないし、弱者主体の自由なので、リバタリアンの「自由」とは異なるが、その原理主義的な態度はリバタリアンと共通するものがある。
他にも「全能感」という精神分析風の概念の妥当性とか、古典的な共同体暴力のモデル(ルネ・ジラールの「スケープゴート」モデルや今村仁司の「第三項排除暴力」など)との関係とか、
考えたいことはいくつかあるが、長くなったのでここまで。星3個★★★
小山田和明『聞き書き・築地で働く男たち』(平凡社新書)
著者は築地の仲卸業者の家に生まれ、現在は小揚会社に勤めている人(小揚会社とは卸売業者から委託されて競り場での商品管理を行う荷役会社)。
大学では歴史学を学び、民俗学や文化人類学も勉強している。幼い頃から売れ残りの傷んだ不味い干物を食わされ続けて、魚は嫌いになったとのこと。
一応業界内の人ではあるが、外側から見ているという感じもあって、適度な客観性をキープしている。
まず「築地市場の基礎知識」として、築地市場の簡単な歴史、仕組み、そこで働く各業者(卸売業者・小揚業者・仲卸業者・その他の関連業者)についてまとめている。
次の章から、各業者の体験談が8編まとめられている。登場するのは、マグロの仲卸業者、練り物・干物など加工品を扱う業者、
ターレと呼ばれる市場で使われる運搬車を扱う業者、元仲卸業者である著者の父、小揚会社の社長、魚を入れる箱(昔は木箱・今は発泡スチロール)を扱う会社の社長、
「小車」という人力で魚を運搬する車を作る職人、仲卸業者の配達員、の8人である。
最初は社長クラスばかりにインタビューしてるのかな、と思ったが、最後の人は60才過ぎた今も長時間の肉体労働をしている労働者である。
市場の制度や施設や技術の移り変わり、戦後経済史と市場の歴史の関連、現場で働く人々の諸相、仕事の細かいスキル、様々なエピソードが興味深く語られる。
魚の臭いが充満し、やくざが常駐し、喧嘩や事故の絶えない荒々しい現場の活況が生々しくて面白い。
印象的なのは、人々の語りに、業界で成功した人にありがちな自慢や美化の臭気がなく、過去の失敗も正直に話しているところ。
著者のまとめ方も上手いと思う。最後の配達員のおじさんの話など、失敗談だらけであり、全然立派じゃないけれど、読むとしみじみとした感動がある。
外部の社会学者やルポライターでは、こうした業界の人々の懐に飛び込むようなインタビューはできなかったろうし、
逆に業界にどっぷり浸かっている人では客観性が保てなかっただろう。この著者にしか書けなかったルポだと思う。★★★★
有田隆也『生物から生命へ−共進化で読みとく』(ちくま新書)
この人は(新書ベストにも入っている)『心はプログラムできるか』(サイエンス・アイ新書)の著者でもある(ずいぶん前に読んだので著者名には覚えがなかった)。
共進化モデルと最新の人工生命研究について解説する本だが、最初に「モノ的生命感からコト的生命感へ」という大風呂敷を広げているのが特徴。
「モノからコトへ」というのは廣松渉の哲学からの引用だと思うが、廣松への言及はない。また「要素還元論的手法から構成論的手法へ」という方法論の違いも強調している。
共進化という生命のプロセスの研究には、現象を自分で作って理解していく「構成論的手法」が重要だとのこと。
そして、著者達の行なっている人工生命による進化のヴァーチャルな実験は、従来の「シミュレーション」とは違うということも何度か強調される。
つまり従来のシミュレーション、たとえば台風のシミュレーションではコンピュータ内で本当に台風が生じているわけではないけれど、
人工生命の進化実験では、コンピュータ内で生じているのは本当の「進化」そのものであって「進化のシミュレーション」ではないと言うのだ。
なるほど、と思う反面、ちょっと強引な気もする。人工生命はリアルな生物ではない以上、やはり「生物の進化のシミュレーション」ではなかろうか?などとも思うが、
著者によれば、これこそ「構成論的手法」に対する典型的な無理解ということになるだろう。
「人工生命」は「生物のシミュレーション」ではなく、それ自体が「コトとしての生命」だということらしい。
著者の思想には、他の一般的な生物学者の「構成論的手法」への無理解に対する憤懣や、自分達の研究に対する過剰な思い入れが込められているようだ。
本論では、進化論と共進化に関する基礎的解説(適応度地形など)、病原菌とヒトとの共進化、協力行動とネットワークの共進化、
人工生命研究の最先端、ニッチ構築の原理、文化と生命の共進化、言語と生命の共進化、と続く。
最後にまた「コト的生命感」の大風呂敷に戻り、いきなりアートについて論じ始め、生命とアートに共通する創発性に関する思弁を展開している。
要するに、進化論、ゲーム理論、情報理論、さらにネットワーク理論や複雑系システム論まで統一した方法を使うと、
「生物」の枠を超えて、生命・文化・言語・芸術など、より広い世界の原理を統一的に扱えるわけである。
それ故、やや誇大妄想的な大風呂敷を広げているようにも見えるわけだ。本論は科学的で怪しい部分はないのだが、
「創発」というところに焦点を合わせて思弁を展開すると、どうしても神秘主義的な口調になりがちなのかもしれない。
進化論に馴染みのない人は、先に長谷川眞理子の進化論入門書やドーキンスの本などを読んでから読む方がいいだろう。★★★
内田亮子『生命をつなぐ進化のふしぎ』(ちくま新書)。副題は「生物人類学への招待」となっていて、主に人類の進化を扱ったもの。
第1章では、著者が体験した、とある数学者が進化生物学に対する無理解を示したエピソードが紹介され、生命の進化における偶然と必然をどう考えるかが論じられる。
第2章では、オランウータンの食性およびエネルギー代謝と繁殖のスピードに関する研究を紹介し、人類進化において食と歩行が果たした役割を論じている。
現代人の肥満の問題についても言及されている。これは社会の変化に対して生物としての人間の進化が追い付いていない例としてよく出されるもの。
第3章では、社会性の進化について。霊長類の社会や脳の研究を土台として、人類の社会性がどのように進化していったのかを考える。
「信頼」を醸成するホルモンであるオキシトシンの話題や、暴力行動、狩猟採集社会における分配と平等、互恵的懲罰など。
このあたりの話は、新書ではないが、山極寿一『暴力はどこからきたか』(NHKブックス)とある程度共通する内容なので、興味のある人は併読してみてください。
第4章では雄雌の配偶と繁殖について。フェロモンの話題や、異性の体臭に対する男女の好みについてのちょっと変わった研究なども紹介されている。
第5章では動物や人間の発生・成長・子育てについて。女子割礼について少し言及している。普通はジェンダー論の方向から考察されたり批判されたりする文化制度だが、
著者は、父性を確実にするために女の生殖を制限するという生物学的戦略が根幹にある事を指摘しており、その点を考慮することから解決を検討する事を提案している。
第6章は老化について。第7章は死について、である。人類進化に関する様々な話題が盛り込まれているが、一般向け啓蒙書としては、テーマが絞り込まれてなくて散漫な感じがする。
前述の山極寿一の本のように「暴力」などの何か統一したテーマがあれば、もう少し読みやすかったかもしれない。
巻末に膨大な参考文献(ほとんど英語)が載っている。とても誠実で、学者らしい学者という感じ。★★★★
渡辺政隆『ダーウィンの夢』(光文社新書)著者はスティーヴン・J・グールドの『ワンダフルライフ』などを訳したサイエンス・ライター。
文体の感じから、わりと若い人かと思っていたが、1955年生まれだから50代後半でキャリアは長い。
地質学・古生物学を中心に参照しながら生命の誕生から生物進化の歴史をたどる。序章では、バージェス頁岩層を著者が訪れた話。
『ワンダフル・ライフ』に描かれたカンブリア大爆発の奇妙な生物の化石が発見された場所である。
第1章では、生命の誕生についての諸説。古い説である「雷放電説」「宇宙からの飛来説」に加えて、最新の有力説である「熱水噴出孔説」が紹介される。
第2章では、最古の単細胞生物の誕生から、細胞内共生説について。
第3章では、アメーバや粘菌について。有性生殖が生じた理由については、いまだに決定的な説がないとのこと。
またオーストラリアのエディアカラ丘陵から出たクラゲ形の奇妙な動物群について言及。
第4章では、カンブリア大爆発に関して、なぜ多様化したのかが問われる。ここで、生態学的地位(ニッチ)という概念が説明される。
アンドリュー・パーカーによる、目の進化が生物の多様化を促進したという「光スイッチ説」も紹介されるが、これは広く認められたものではないとのこと。
第5章では、進化発生学(エボデボ)の祖として、津田梅子の研究などが紹介される。多くの生物で共通する「ホメオティック遺伝子」や「ホメオボックス」の発見など。
第6章では「魚類」の誕生について。もっとも生物学上は「魚類」という分類は存在せず、「硬骨魚綱」「軟骨魚綱」「無顎綱」などの総称にすぎないとのこと。
ここでは脊索動物の起源に関する最新の研究が紹介されていて、人類の最古の祖先とされていたカンブリア紀の「ピカイア」よりもさらに前にナメクジウオのような原索動物がいたとのこと。
第7章では、魚が上陸するに至る過渡期について考察。俗に言う、浮き袋が肺に進化したというのは間違いで、実は肺の進化が先で、浮き袋は肺から進化したという。
また、陸上への進出の誘引は、池や川の干上がりだと言われていたが、当時、水中と比べて地上には捕食者・競争者が少なく、食べ物が豊富だったからとのこと。
水中から陸上への進化における最大の難関は、肺の進化ではく、重力によって内蔵を圧迫することであった、と著者は言う。
体重を支えるために、胸鰭から腕が進化しなくてはならなかったのだ。
第8章は、両生類と節足動物の時代。第9章は、始祖鳥に関する論争の歴史をたどりながら、恐竜から鳥への進化について論じる。
第10章では、改めてダーウィンの伝記と、ビーグル号の航海について振り返る。
この章では、イリエワニというワニが時速40キロで走るというトリビアがちょっと怖くて面白い。襲われたら人間は絶対に逃げられないという。
第11章では、人類の進化と、アフリカから全世界へと散らばっていく旅の過程について、簡単にまとめている。
終章では、バージェス動物群以降の最新の発見について概観している。
キャリアの長いサイエンス・ライターだけあって、一般向けの本を書き慣れているのか、妙にこなれた感じがする。
当時まだ出たばかりの村上春樹『1Q84』や「崖の上のポニョ」を引用したりして、一般読者に対するつかみはソツがなく、文章のまとめ方も上手い。
ただ、個人的には、このソツのなさがちょっと鼻につく。★★★
野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』(生活人新書)
著者は仏文教授で、レトリックの本も出している。これは文章術の本で、文章心得を12条にまとめた上で、レトリック指南も行っている。
その12条は以下の通り;「1条・短い文を書こう」「2条・長い語群は前に出そう」「3条・修飾語と被修飾語は近づけよう」「4条・係り−受けの照応に注意しよう」
「5条・読点は打たないようにしよう」「6条・段落は大切にしよう」「7条・主張には必ず論拠を示そう」「8条・具体例や数字を挙げよう」
「9条・予告・まとめ・箇条書きなどで話の流れをはっきりさせよう」「10条・文末を工夫しよう」「11条・平仮名を多くしよう」「12条・文体を統一しよう」となっている。
具体的にどうすべきなのかは説明されないとわからないものもあるが、2条の「長い語群は前に出そう」や5条の「読点は打たないように」などは、このままで役に立ちそうだ。
ただ後者は、単に「読点を使うな」ということではなく、「使わずに済むような文章を心がけよ」ということで、読点を打つべき場合についても解説されている。
自分の感覚では、縦書きよりも横書きの場合に多く読点が必要になるような気がするが、そのあたりは触れられていない。
著者の文章観は「書くとは引用である」ということで、「定型表現をたくさん覚えて使え」という主張に集約される。
他の文章読本では「紋切り型」を避けるべき事を主張したものが多いが、著者はそれに異を唱えている。
こうした文章観を前提とした上で、ここでは芸術的・文学的文章よりも実用的文章を、わかりやすく・明晰に・論理的に書く技法について論じられている。
著者の文章もセンテンスが短く、論理的で、おおむね読みやすくなっている。ただ冒頭では「孜々として」などという難しい言葉が出てきており、
「わかりやすい文章」というテーマといきなり矛盾しているので、読んでいてしばらくは違和感があった。
そもそも「平明な達意の文章」という言い方自体、現代人にとってそんなにわかりやすくはない。
また「平仮名を多めに」と言っている割には、「巷間に流布する」「平にして凡」「〜にしくはない」のような文語調や漢文調の言い回しも目につく。
まぁ本全体から見るとそれほど多くはないので、バランスを考えてアクセント的に使っているのだろう。
著者が使用を推奨する「定型表現」というのは古いものが多いので、現代人にとっての「わかりやすさ」と矛盾することもあるようだ。
自分に使いこなせるかどうかは別にして、論理的な文章構成法やレトリックの解説が結構面白かったので感心して読みすすめられ、これは文章読本としては上質かなと思った。
ところが後半で「野口悠紀雄は“比喩を用いて一撃で仕留めよ”と檄を飛ばす」という文章に遭遇。この「檄を飛ばす」の用法は間違いではなかろうか?※
定型表現や辞書の重要性も論じられている中で、こういう誤用はいかがなものか。ということで星4個のところを1個減点で★★★。
※…と思ったら、辞書的な意味では間違いとは言えないようだ。(檄を飛ばす=自分の主張を広く知らせる)
自分は、政治的扇動のニュアンスがないと間違いだと思っていたが。
参考:「檄を飛ばす」の本当の意味→
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/51/index.html 速水健朗『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)。ラーメンの歴史を主軸に、日本の文化や社会を論じた本。
第1章は、日本の食生活の変化について。戦後にアメリカの余剰生産物であった小麦が日本にもたらされ、小麦食普及のキャンペーンが行われた事など。
第2章では、戦後にフォーディズム的大量生産が導入される過程を、安藤百福によるチキンラーメンの発明と普及の物語を中心に描く。
第3章では、戦後日本におけるラーメンと文化の関わりあいの歴史を、テレビドラマや漫画や事件などに見ていく。浅間山荘事件とカップヌードルのエピソードなど。
第4章では、田中角栄の思想と政治による国土開発の過程と、ご当地ラーメンの誕生について。
第5章では、90年代以降の社会とメディアの変化(湾岸戦争の報道やTVバラエティにおける「ガチンコ!」「電波少年」などのリアリティショーの流行)と、
ラーメンの和風化およびナショナリズムとの関係を論じる。戦後の文化や食に関する豆知識は、自分は知らなかったことが多くて面白かった。
(細かい内容については、既にあちこちで紹介されているので端折ります)
だが、「ラーメンとナショナリズム」というテーマに関しては、こじつけ以上の説得力は感じなかった。
確かに現在、ラーメンは国民食であり、ほとんど和食と言っていいものとして日本人に認識されているだろうが、中国起源という物語が忘れられているわけではない。
また「ご当地ラーメン」において、伝統の捏造による想像の共同体といった議論を展開しているが、これは地域のレベルであって、
これだけでは国家としての統合の幻想を作るものとは言えない。愛郷主義・民族主義・国家主義が一致するとは限らないし、時には対立することもある。
著者は内田樹の論を引用して、イタリアのスローフード運動の地域主義的側面を強調し、これを単純にナショナリズム的としているが、
これはイタリア北部の分離独立運動と連動しているのだから、イタリア全体を統合するナショナリズムとは対立するはずだ。
こうした批判を見越してか、著者は、阿部潔や浅田彰による「表層的な模造としての共同体」とか、
大澤真幸による「文化的・趣味的共同体としてのナショナリズム」といった議論を参照している。
こうした新しい形態のナショナリズムは、旧来の国民国家統合としてのナショナリズムとは違うというわけである。
簡単に言えば、ネタだとわかった上で演じるナショナリズムということか。ジジェクとか北田暁大なども似たようなことを言っていた記憶があるし、割りとよく見かける分析である。
例えば西部邁や小林よしのりのナショナリズムでは、「伝統」が物語=虚構であることを認めた上で伝統を重視しているわけだが、
そういうものとラーメンを結びつけるのはやはりネタとしても無理があるのでは、と思った。読み物として充分に面白いのは認めるが、評価は星3つ★★★。
伊達宗行『「理科」で歴史を読みなおす』(ちくま新書)。著者は物性物理学の専門家。歴史については趣味的な研究のようだ。
主に日本の科学史を論じたものだが、通史ではなく、数の文化や古代の天文知識や鉱物資源の利用技術などのテーマが、著者の興味に沿ってピックアップされている。
第一章は、人類の進化から旧石器時代を概観した後、縄文時代の文化を考察する。言語や人口分布、交易ルート、土器の発明と煮炊きによる食の革命など。
また、当時の夜空が歳差運動により現代と異なり、北極星は日周運動の中心から遠く離れ、北斗七星は現代よりコンパクトに回転し、日本から南十字星も見えたとのこと。
そして縄文人がドット数字を用いていた証拠となる土版から、彼らが太陰暦を使っていた可能性や天文台により太陽観測をしていたらしいことを著者は推測している。
第二章では主に弥生時代の文化について。世界的には鉄が発明され、日本にも伝播してくる。
稲作も始まり、当時温暖だった北方にまで広まるが、その後古墳時代にかけて寒冷化し北上した稲作は壊滅したとのこと。この章の後半では古代の数詞について推測する。
少し紹介すると、1から10までは「ひとつ・ふたつ・みっつ…とを」であるが、11・12・13…は「とをあまりひとつ・とをあまりふたつ」と言う。
20・30・40はそれぞれ「はた・みそ・よそ」、100・200・300は「もも・ふたほ・みほ」、1000は「ち」、10000は「よろづ」、である。
百(もも)や千(ち)八百万(やおよろず)は漢字の読みとしては今日でも残っている。
大陸などで行われていた「結縄」という文字や数詞の代わりに縄を結んで記録する文化についても触れている。
これは日本古代のものは残っていないが、沖縄のものが明治まで残っていた。
第三章では、中国の数詞・漢字の輸入による現代数詞の確立を見る。
現代数詞は「イチ・ニ・サン…」と読むわけだが、ここで「億(オク)」までは「呉音」である(ただし「九」の「ク」は呉音で「キュウ」は漢音)。
その上の「兆(チョウ)」「京(ケイ)」「垓(ガイ)」…「極(キョク)」といった巨大数詞の読み方は「漢音」であることが指摘されている。
これは最初に数詞が流入したルートが呉音文化圏からだったからである。また仏教語も呉音であるから、同時期に入ってきたと推定できる。
後に唐文化を輸入した時には漢音が推奨され、「兆」以降の巨大数詞の漢音読みもこの時輸入された。
更にその上の「恒河沙・阿僧祇・那由他…」といった超巨大数はまた呉音になるが、これは仏教と関係するからだろうとされている。
他にも今昔物語・古事記・万葉集などを参照し、漢字による日本語表記や数詞表現について様々な話題が語られる。
さらに磁石の知識、黄金の発見、算木・算盤、和算の出現など盛りだくさん。
第四章は「金銀銅の社会史」。鉱物に関する解説では物性物理学者である著者の本領が発揮されている。
現在では「資源のない日本」と言われるが、過去には鉱物資源は豊富だった。
古代から近世にかけて採り尽くされてしまったのだ。まず縄文時代には、琥珀と翡翠が装身具等で使われ流通していたが採り尽くされた。
黒曜石と瀝青も使われたがこれは残った。金については、まず西日本で取れる砂金は10〜11世紀まで、東日本の金は江戸期に枯渇する。
奈良の大仏や梵鐘などに使われた銅の生産は10〜12世紀に衰退する。この頃なんと大陸の銅銭を銅材料として輸入してたとのこと。鎌倉の大仏も銅銭で作られたらしい。
室町から戦国時代にかけては銀の精錬法も発達し輸出が始まる。江戸時代には長崎での交易を通じて金銀が海外に流出していき、新井白石はこれについて警告を発していた。
鎖国のため海外の金銀の相場を知らず買い叩かれたらしい。
第五章では、日本に限らず、数の文化や遊びをいくつか取り上げる。ピタゴラスが発見し凶数とされた無理数の話、
フィボナッチ数列や黄金比の話、日本が最初に採用した用紙規格(AB版)の豆知識、魔法陣の話など。魔法陣の作り方も解説。
第六章では、世界の科学史をざっくり概観している。ここでは自然(ラテン語でナトゥーラnatura)と対になる概念として、技芸(アルスars)という言葉に注目し、
古くは哲学や芸術と一体であった西欧科学の伝統と本質について論じ、また日本における科学の受容の歴史とその問題点を指摘している。
著者は物理学者で歴史家としてはアマチュアゆえ、かなり自由気ままに仮説を立てていたりして、
学問的にはどうなのかというのは判断できないところがあるが、好きなことを好きなように研究する楽しさはすごく伝わってくる。
ただ、人類の進化を論じた第一章の冒頭で引っかかった所がある。それは「人類は苦難に遭うことで、それを乗り越えて進歩してきた」(p17)という部分。
ここでは「進化」と「進歩」がきちんと区別されていない。現代の進化論では進化に進歩の意味を含めると間違いになる(いわゆる自然主義の誤謬)。
おそらく著者は科学と人知の進歩を素直に顕揚する、健全な進歩主義者なのだろうが、少し無頓着かなと思った。評価は星4つ★★★★。
安いけれど読みごたえある新書ってなにかないか?
岩波ジュニア新書とかプリマーで探したいが、
ネット書店の割引クーポンがあと2時間しか使えないんだ。
一回読んだらそれまでの内容が薄いものは結局、高くついたなあと思い、
えらく損した気分になるもので。
ここのテンプレのなら大丈夫?
誰も答えられないところを見ると中身の濃い新書なんかないってことなんだろうな。
単なる値引きクーポンだし、
カネをドブに捨てずに済んだということで寝るわ( ̄q ̄)zzz
俺も期待して読んではガッカリの連続だから自信持ってオススメできるようなのはないわ
中途半端に仕事してたら冷たい目線で見られたりするんじゃないのか
芥川也寸志『音楽の基礎』(岩波新書・青版)。簡潔かつ手際よくまとめられた音楽入門書。
T章では、音のない状態すなわち静寂の意味から説き起こし、倍音など、音響学的な音の分析、そして音楽の素材について述べる。
U章では、まず「記譜法」として楽譜の歴史と形式について説明する。次にCDEFGABの音名と音階について。
音階はドリア・フリギア・リディア・ミクソリディア・エオリア・イオニアなどを始めとして、現代音楽や民族音楽・日本の音楽で使われる音階についても説明する。
さらにピュタゴラス音階・平均律音階・純正律音階について説明。最後に五度圏などを参照しながら調性について説明※
V章では「音楽の形成」として「リズム」「旋律」「速度と表情」について述べる。著者は音楽において根底的なものとしてリズムをもっとも重視している。
西欧音楽のリズムの単調さに対して、民族音楽や日本の謡曲のリズムの複雑さを指摘している。
W章の「音楽の構成」では「音程」「和声」「対位法(カノンやフーガ)」「形式(ソナタやロンドなど)」について説明。
「音程」についての説明が「音階」の説明より後に来ているのは、ちょっとわかりにくい構成ではなかろうか。
「和声」については割とわかりやすく整理されていると思う。ただ、トニック・ドミナント・サブドミナントをT・D・Sと略記しているのは、Dが音名のDと紛らわしい。
T・W・Xで書いてくれた方が自分にはピンとくる。「調性」もなかなか難しいところなのだが、ちょっと説明不足な気がする。
楽典というのは数学的な面倒くささもあって、なかなか頭に入りにくい。
せめて中学の音楽の授業で習うくらいのことは理解してないと、いきなりこれを読んでもお手上げかもしれない。
古い本だが、既にベストに入っていることでもあるので星5つ進呈★★★★★
※この辺のことを詳しく説明している新書としては、小方厚『音律と音階の科学』(ブルーバックス)があるが、あまりわかりやすくはなかったと思う。
F.P.マグーン『フットボールの社会史』(岩波新書・黄版)。1985年に出た新書。原著は1938年刊行。
原著者はハーヴァード大の古期中期英語英文学教授。翻訳者は忍足欣四郎というサッカー好きの英文学者。本来通俗書ではなく学術書として出されたものらしい。
主にイギリスにおけるフットボールの、発祥から19世紀後半までの歴史を、多くの一次資料を引用しながら検討している。
イギリス以外の他国の状況については、イタリアとフランスについて若干の言及があるのみ。
フットボール自体の歴史というよりも、イギリスにおけるフットボールに関連する古文書研究というおもむきである。
原著ではスコットランドに関する章があったが、この翻訳では割愛されている。
1章では、最古の記録から中世末(1500年)まで。最古の記録では、まだ蹴球と言えるものなのかどうか曖昧である。13世紀には死亡事故の記録が現れる。
また、国防を理由に、弓術を推奨し蹴球は禁じられた。この頃チョーサーの詩などに蹴球ボールを比喩して使った詩句が現れ、教会の木彫りに蹴球を描いた像らしきものが現れる。
2章はルネサンス期から1,642年まで。この時代には詩歌やエッセイでの言及は増えてくる。ゲームは粗暴で、相変わらず事故は多く、禁止の法令がなんども出された。
1581年に蹴球擁護の嘆願書が出されたが、この頃としては異例であり、影響力を持たなかった。
3章では、戯曲での言及を追う。シェイクスピアのリア王でも「この浅ましい蹴球選手め!」という台詞がある。
4章では共和制時代から王政復古時代まで。「清教徒が登場すると蹴球は衰退した」という通念があるが、これは間違いで、徒弟・農民の間で盛んであった。
ここではフランスの事情に少しだけ触れており、ラブレーが引用されている。
5章では18世紀から19世紀半ばまで。6章では、オックスフォードやケンブリッジなどの大学での蹴球について。
このあたりから、下層の民衆のものであった蹴球に上流階級も加わっていくのだろうか。本文では、あまり階級との関連については掘り下げられていない。
著者自身は当然上流の出だと思われるが、階級の差について鈍感なのか、あるいは階級を問題化する視点そのものがないのか。
7章では、パブリックスクールで行われるようになる。蹴球協会が結成され、統一ルールが検討され、ラグビー協会が独立する。
8章では「告解火曜日」という祝日に開催されてきた蹴球大会の慣習についてまとめている。
言い伝えでは非常に古い起源を持つとされているが、著者は否定的である。また儀式を起源とする説にも批判的である。
最後に訳者による解説では協会成立以降の経緯をまとめている。
冒頭で記したように、一次資料の引用が主体となっており、詩歌や俗謡などの引用が多くを占め、
事故の記録や禁止の法令以外には散文的なわかりやすい記録というのは19世紀まではあまり出てこない。
また蹴球の様子を描いた絵画なども非常に少ない。これらは自分の感覚ではかなり不思議なのだが、なぜそうなのかという説明はされていない。
やはり下層の民衆による粗野な娯楽だったので、言説を支配する上流では無視されていたのだろうか?
「社会史」と銘打たれている割には社会の分析はあまりされていない。
また、ほぼイギリスの事情だけしか述べておらず、その他の国の事情はほとんどわからない。
啓蒙書の体裁を取っていないので、新書として出したのは失敗ではなかろうか。
こうした研究書を底本として翻訳者が世界のサッカー史をまとめたほうが良かったかもしれない。
フットボールといういかにも面白そうな題材だが、あまり気楽に読める本ではなかった。星3つ★★★
長島伸一『大英帝国』(講談社現代新書)。副題は「最盛期イギリスの社会史」。
産業革命をなしとげた19世紀のイギリス、ヴィクトリア女王の治世の社会史を、同時代に生きたナイチンゲールの証言などを元に描き出している。
この時代は1820年代〜60年代の自由主義の時代と、それ以降から第一次大戦までの帝国主義の時代に大きく分けられるが、
著者はさらに自由主義の時代を、産業革命完成期の前半期と、成熟の時代である後半期に分けている。
産業革命による機械性大工業化は、都市化をもたらした。そして、公害・失業・貧困を生み出していく。
鉄道網の整備によって物と人の移動も頻繁になり、教育制度やジャーナリズムも発達して、大衆化も進んでいく。
しかし1873年の世界恐慌から始まる長期停滞から、衰退への道をたどっていく。とはいえ不況期に至っても大衆化と生活向上は進んでいった。
だが失業と窮乏も目立つようになり、当時行われた社会調査によって貧困の実態に明らかになるにつれ、イギリスはやがて福祉国家への道を選んでいく。
2章ではこの時代のイギリスの階級社会を概観する。
3章では、当時の国際情勢を概観しつつ、イギリスにおける奴隷制廃止の運動および奴隷貿易廃止への動きを追う。
奴隷貿易廃止後は、植民地経営を、植民地の自治をある程度認める方向に転換し、英・印・中の新たな三角貿易が定着する。
中国から紅茶を大量に輸入していたイギリスは、対価の銀の流出に悩まされ、綿をインドへ、インドから阿片を中国へ輸出することにした。
こうしてアヘン戦争が起こる。
4章では「ジャックと豆の木」の民話が、イギリスの植民地政策を寓意しているという説が唱えられる。この物語には英国の侵略を正当化する心理が描かれているという。
5章では、レッセフェールの伝統を出発点としつつ、初等教育の大衆化や、統計的な社会調査が行われる中で貧困対策の必要が認識されるようになり、
国民にナショナル・ミニマムを保証する福祉国家の思想が生まれてくる過程を描く。
6章では、大衆化と消費社会の進展を描く。鉄道やガス灯によって、交通や照明も進歩し、大衆の食事も改善し、サービスの商品化も進む。
ロンドン万博が開催され、旅行が大衆化され、海水浴などのレジャーも行われるようになる。但し、その質は階級によって異なった。
7章では、さらに大衆社会の諸相をいくつか取り上げている。「リスペクタブル」と呼ばれる、労働者の中でも中流に近づいた上層労働者も現れる。
女性の解放はなかなか進まなかったが、19世紀後半には中流階級女性の就業機会は開かれてくる。
サッカレーが『虚栄の市』で語ったように、大衆社会における都市は、見たり見られたりすること楽しむ舞台装置である。
コーヒー・ハウス、パブ、コンサート会場、オペラ劇場、安芝居小屋などが、庶民の娯楽として栄える。処刑見物も大衆の粗野な楽しみとしてお祭り騒ぎとなっていた。
また、庶民の健全な娯楽としては、ピクニックがあり、イギリスに亡命中で貧窮生活を送っていたマルクスもこれを楽しんでいたというエピソードが語られる。
スポーツも盛んになり、フットボール、クリケット、クローケー、ローン・テニス、サイクリング、アーチェリー、ローラースケート、アーチェリーなどが行われるようになる。
見るスポーツとしては、ボクシングなどがあった。最後に国民的娯楽の殿堂として「ミュージックホール」が紹介される。
ここでは、歌・踊り・道化芝居などのバラエティーショーが演じられ、「スター」という言葉もここから生まれた。
本書は、時代はイギリスの19世紀に限られているが、雑多な話題が詰め込まれていて、焦点が絞りこまれていないという印象。
大英帝国の植民地政策にしろ、奴隷制廃止の経緯にしろ、民話の分析にしろ、貧困対策と福祉国家への道筋にしろ、階級にしろ、大衆消費社会の描写にしろ、
それぞれ本1冊費やして論じることができる話題だと思うが、欲張ったせいで、どれも掘り下げ不足という感じになってしまった感じ。
ただ上の『フットボールの社会史』よりはるかに読みやすい。この時代のだいたいの全体像を見たい人には合っていると思う。★★★★
読みなおしてみたら「感じになってしまった感じ。」とか書いてるのを発見w
このスレはレベルが高い
「新書」から引っ越してこよう
橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)
大澤が生徒役、橋爪が先生役になり、大澤が橋爪に対して、キリスト教に関する素朴な疑問を投げかけ、橋爪がそれに答えるという構成になっている。
第1部は、ユダヤ教ないし旧約の教義と歴史、第2部は、イエスキリストの登場とキリスト教の歴史、第3部は、プロテスタントの出現と西洋近代の形成について。
冒頭から橋爪が全知の教師然として自信満々で語る態度に違和感を覚える。宗教社会学の先生とのことではあるが、
どう見てもキリスト教の専門家ではないのに、なぜ権威を持っているかのように語れるのか。ちょっと池上彰を連想した。
概ねウェーバー(本書では「ヴェーバー」と表記)の宗教社会学をベースにして論じられているようだが、個々の説について、出典をはっきり示していない場合が多く、
また、過去にどのような神学的議論がされてきたのかを一切無視して、いきなり橋爪自身の見解や解釈を述べるところも多い。
橋爪の説にしても、神学的根拠があるのか、単なる独自の思いつきなのかはっきりしない。
ただ、自分は宗教や歴史に関して無知なので、怪しいなと思いつつも、割と楽しく読んでしまった。
最初に「キリスト教文明の中からいかにして西洋近代が形作られてきたのか」あるいは「西洋近代の母体となったキリスト教の宗教としての特殊性とは何か」
というようなウェーバー的なテーマがあり、そうした社会学的な興味からキリスト教そのものを分析するということになったのだろう。
「予定説」から資本主義的な勤勉が生じたのはなぜか、という問題に対する橋爪の回答は、ウェーバーに即したものなのか、独自の説なのか、これも曖昧なのだが、
いずれにしてもアクロバティックな論理で、よくわからない。これについては自分もいろいろ考えることができて、それなりに楽しかった。
なお、この本については出版直後から宗教学や神学関係者から猛烈な批判が浴びせられており、ネット上でも批判がまとめられている※。
これによると、宗教学・神学のみならず史実のレベルで間違いだらけとのこと。中には高校世界史レベルのミスもあるようだ。
問題はこうした批判に著者らがどう対応したかだが、以下のような著者のコメントを知って愕然とした。
曰く「この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。」事実が書いてないのなら内容を要約しても仕方がないので、要約は放棄しました。
橋爪大三郎という人については好きでも嫌いでもなかったが、これによって印象は悪化した。
この居直り方に既視感があったのだが、内田樹『日本辺境論』の序文で似たような責任回避をやっていたのを思い出した。
批判を受ける前に先手を打って開き直るところは内田先生の方が一枚上手である(さすが武道家)。
大澤真幸先生は、この本では生徒役なので、ミスの責任はあまり問われないわけで、意外と立ち回りが上手いと思った。★★
※→
http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html 八木雄二『中世哲学への招待』(平凡社新書)
タイトルでは中世哲学全般の入門書のようだが、内容はほとんど、13世紀のスコラ哲学・神学者であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについてのもの。
彼の思想は難解をもって知られ、精妙博士と呼ばれた。「はじめに」で、日本人のキリスト教に対する無関心と、近代思想の通念である中世暗黒史観を批判した後、
「その一」では中世哲学の歴史を簡単に区分し、ヨハネスの生涯を素描する。
「そのニ」では「神の存在証明」についてのキリスト教思想の歴史。また、神の存在に関連して、「なぜ悪が存在するのか」という神学的問題にも触れる。
ここではこうした神学的思考の中に、既に科学的思考の芽が含まれているということを強調している。
「その三」では、普遍と個別化の問題について、中世哲学の議論を概観しつつヨハネスの見解を中心に論じる。
大雑把に言って、普遍こそが真に存在するという考えはプラトンに由来し、実在するのは個別者だという考えはアリストテレス的なものである。
ヨハネスの思想はイデア論か唯名論かという二者択一の単純なものではなく、普遍の実体性を認めつつ個別者の実体性に重点を移した。
「その四」では、三位一体論についての議論から、その「父と子と精霊」の3つのペルソナが人間精神の3つの働き「記憶」「理知(知識)」「意志(愛)」に照応するという思想が生まれてきたことを論じる。
「記憶」はプラトンの「イデア想起説」と関連し、ヨハネスは、習い覚えたものではなく、最初から無意識に持っているものを「記憶」としている。この生得的な記憶が理解を可能にする。
三番目の「意志」と「愛」が同一視されているが、これは「記憶」と「理知」の問題が「認識論」であるのに対して、「愛」の問題は「実践論」であることによる。
ここでの「愛」は盲目的な愛ではなく理知的な愛であり、世界の理解に基づいて目的と手段を選択し愛を実践するのが「意志」である。また「神の愛」は人間の意志の力を超える。
「その五」では前章を引き継いで、愛と自由意志について論じる。まず、自由・意志と理性の関係についての西欧の伝統的な考え方を説明する。
西欧哲学の伝統では、自由であるために、目的の善と、その手段に関わる理性的判断の正しさは不可欠とされた。
自由・意志と理性は不可分であったのを、ヨハネスはこれを分離し、意志を理性からある程度独立させた。これは哲学・倫理的にいろいろと興味深い帰結をもたらす。
現代の可能世界論に繋がる面もあり、近代科学の前提となった思考でもある。この辺りの議論は面白いが長くなるので省略。
「その六」では、時間と宇宙についてのヨハネスの思想を紹介。ヨハネスは時間を空間的に理解することを拒み、「一瞬」の中に存在を捉えた。
この思想はニュートン・ライプニッツの微積分の考え方を準備したとも言える。
冒頭で記したように、著者は中世暗黒史観に対して怒っており、中世哲学と近代思想や現代科学との連続性を強調している。
ただ現代の話が引き合いに出されるところや、欧州キリスト教文化と日本文化を対置させているところには少し怪しい部分もある。
たとえば欧米では、見知らぬ客を無条件で歓迎するキリスト教的な歓待の習慣があり、日本は外からの客に冷たいなどと言っているが、
日本でもマレビトを歓待する習俗は古来からあるし、欧米でもよそ者に冷たい閉鎖的な村はいくらでもあるだろう。
著者は環境保全のボランティアにも関わっているが、このボランティアの精神もキリスト教に基づく欧米と日本では違うと言う。
日本でのボランティアは滅私奉公のイメージがあるが、欧米では本人の自由意志が最重要である。これについては、なるほどと思うけれど、
本当にそうなのかはよくわからない。欧米と日本の対比にこだわりすぎじゃないかとも感じた。
自分はタイトルから、中世神学やスコラ哲学全般を初心者向けに概説したものを期待していて、こんなマニアックな思想家についての本だとは思わなかった。
トマス・アクィナスのようなもっとメジャーな人について先に知りたかったとも思うが、初心者が読んで理解不能ということもなかった。
近代哲学を理解するためには、このあたりのことを知っておくのが有用だろう★★★★(ググってみたらどうやら絶版らしい)
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』(文庫クセジュ)
先に読んだ八木雄二『中世哲学への正体』は、ほぼドゥンス・スコトゥス中心の入門書だったが、こちらは西欧キリスト教思想に関する通史になっている。
神学のみの歴史というわけではなく、神学と哲学が相互に影響を与えあいながら発展していく過程を描いている。特に「啓示」と「理性」の関係を軸に据えて記述されている。
著者自身も神学と哲学の中間に身を置いていて、信仰に対しては、神学ほどには接近せず、哲学ほどには離れずといったスタンス。
第一章では、ユダヤ教の中からキリスト教が誕生してから、15世紀くらいまでの全般的な流れをたどる。
ヘレニズム文化・ギリシア思想との関係、布教におけるギリシア語やラテン語の問題、グノーシス主義との対決、啓示とロゴスの問題、
神の本性の問題(神は感覚や感情を持たないのか)、三位一体論争、肯定神学と否定神学、などの話題が雑然と提出される。
第二章では、改めて西方における初期キリスト教思想から中世神学・スコラ哲学までを代表的な神学者とともに解説する。
初期にはテルトゥリアヌス、アウグスティヌス、アンセルムスなど。
13世紀にはアリストテレス哲学が流入し、アルベルトゥス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ロジャー・ベーコン等が登場。
14世紀にはオッカムやビュリダンといった人たちの思想の中に科学的思考の萌芽が見られる。一方でエックハルトのような神秘主義者も出てくる。
他にも自分は名前を見たこともない多くの神学者・思想家が紹介されている。そして結びでは八木雄二『中世哲学の正体』と同様に「中世とは暗黒の時代ではない」ことが強調されている。
第三章は「近代の葛藤の誕生」と題して、ルネサンスと人文主義(ユマニスム)、宗教改革(ルター、ツヴィングリ、カルヴァン)、
近代科学の誕生(クザーヌス、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン)と続く。
さらに近代哲学の、デカルト、ライプニッツ、パスカル、スピノザといった人たちのキリスト教思想を検討する。
これらの近代哲学者にしろニュートンのような科学者にしろ皆キリスト教徒であった。
18世紀にはヴォルテールらの啓蒙思想の登場でキリスト教思想は縮小し、また、ロックらによって理神論あるいは自然宗教に引き戻されていった。
カントに関しては、キリスト教の合理主義化の到達点だと著者は評している。またルソーは市民的宗教の思想を抱き、市民革命を予見した。
第四章は、19世紀の状況だが、著者はこの時代はキリスト教思想の崩壊の時代と見ている。
フランス革命を重大な契機として、カトリック教会は保守反動化し、勃興する近代科学にも対応できず無力化していく。
哲学では、ヘーゲル、ニーチェなどの思想を検討する。ヘーゲルは哲学と神学を統合しようとして、キリスト教思想の完成者であり破壊者であるという両義的な存在となった。
ニーチェはプロテスタンティズムを激しく批判し、相対的にカトリックの優位を唱えた。キルケゴールはヘーゲルに抗して実存的信仰の立場をとった。
神学者としては、信仰を近代人に適応させようとして非宗教的なところまで行ってしまったシュトラウスや、
近代科学と矛盾する教義を排し、自我意識を基盤とした信仰を唱えたシュラエルマッハーが紹介されている。
近代科学に関しては、特に進化論への対応について論じられている。結論としては進化論と信仰との両立は不可能ではないとのこと。
さらに実証的歴史学と聖書注解学との関係や、カトリック思想の復興についても詳しく論じられている。
第五章では、現代のキリスト教思想の状況をざっと見渡している。
プロテスタント神学者カール・バルトは、神の超越性・絶対的他者性と啓示の外部性を強調し、信仰と宗教の対立という問題を提出している。
哲学ではハイデガーの影響が無視できない。カール・バルトやキルケゴールの影響を受けた急進的神学として、ヴァハニアンの「神の死の神学」というものも紹介されている。
最後に現代言語学や言語哲学が神学にもたらしている問題と、現代フランスにおける神学・哲学者(ポール・リクールなど)に触れて終わる。
キリスト教誕生から中世までについて記した第一章と第二章は、内容が凝縮しすぎていてややわかりにくい。
近代以降は知っている名前が多く出てくるせいか、割と把握しやすかった。
入門書とは言っても、キリスト教に無縁な日本人にむけて書かれた本ではないので、とっつきにくいのは仕方のないところ。
どちらかと言うと、宗教より哲学に興味のある人向けか。★★★★。
著者の経歴を見てちょっと驚いたのだが、この人はエコノミストでもあるらしく、経済関係の著作もあるとのこと。
ありがとう、こっちへも顔を出した意味があった
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』(文庫クセジュ)
買って、読んでみることにした
恐縮です
>>715『中世哲学への正体』
>>716『中世哲学の正体』は誤りで『中世哲学への招待』に訂正します
堤未果『(株)貧困大国アメリカ』岩波新書
これは、TとUにもまして衝撃的だった
たとえば、知的財産権を設定した遺伝子組み換え種子と
強烈な除草剤とを組み合わせて販売して
他の作物を一切栽培できないようにして
一国の農業を丸ごと支配できるアメリカのアグリビジネス
はじめは「援助」の美名の元に行われるから、それに気づくことは難しいと
これは、日本の近未来農業を考えるために読んでおいてよかった
TPP交渉は二国間協議ではないからまだ安全という
最近行われる議論もなるほどと思わせる
山竹伸二『「認められたい」の正体』(講談社現代新書)。
近年、社会評論などでよく取り上げられる「承認欲求」や「承認不安」について、現象学や精神分析に依拠して論じたもの。
第1章では、黒沢清の映画や、近年の無差別殺傷事件などを参照して、現代は承認への不安に満ちた時代であり、「空虚な承認ゲーム」が蔓延っていると言う。
第2章では、まずミルグラムのアイヒマン実験を参照して、伝統的な価値観がゆらぐ不安の中で権力に服従する人々の心理と承認欲望について論じる。
他に、マズロー、カール・ロジャーズ、フロイト、アドラーらの心理学における欲望論を概観。さらにこれらの源流にあるヘーゲルの承認論に触れる。
次に著者の立場として現象学を用いて、承認の欲望の本質を考えていく。まず承認を与える「他者」を「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」に分け、
それぞれの他者による承認を考える。第3章では発達心理学と精神分析を参照しながら、子供が、親や友人や世間の承認を求めながら成長していく過程を考える。
子供は成長していくにつれ「一般的他者」による承認を求めるようになり、普遍的価値を内面化して自己承認ができるるようになりつつ大人になっていく。
ここでは、ベイトソンのダブルバインドとか、共依存といった「歪んだ承認関係」にも触れる。
この章では現代の発達心理学を参照すると言っている割りには、古い精神分析の援用が大半を占めている。
第4章では、近代において伝統的価値が崩壊したために、自由と承認の葛藤が生じていることを論じる。この葛藤から「本当の自分」が社会に抑圧されているという世界像も生み出された。
第5章ではこうした承認不安と空虚な承認ゲームからの脱出の処方箋を考察。それには自由と承認の両立が必要である。
そして人が自由を実感するためには「自己決定による納得」が必要である。自己決定をするためには自己の欲望と当為(〜すべし)についての自己了解が必要となる。
このとき「一般的他者」からの視点で内省することが重要だ。こうした自己了解によって自由と承認の両立が可能となる。
では現代において「一般的他者の視点」を可能にするような普遍的価値はあるのだろうか、という問いに対して、著者は「道徳的価値」の普遍性をあげる。
そしてアダム・スミスの「中立的な観察者」やルソーの「一般意志」なども引用し、「一般的他者の視点」を成熟させていくべきことを説く。
読んでいる途中で気づいたが、この人は、現象学による近代的相対主義の乗り越えを企図している竹田青嗣の一派に属している。
自分なりに一生懸命に内容を要約してきたが、正直苦痛であった。
実は第1章冒頭で「現代は承認の不安に満ちた時代である」と何の実証的論拠もなく断言している時点で、かなり読む気をなくしてしまった。
せいぜい「そういうことを問題にするのが論壇で流行っている」ということが言えるだけではないのか。この人は精神科医でも臨床心理士でもないので、具体的な経験談すらない。
そもそも人間は社会に承認されなければ生きていけない動物であり、承認欲求があるのは当たり前であって、そこにはなんら謎を感じない。
人間の子供は親に承認されなければやはり生きるのは困難だし、異性に承認されなければ子孫も残せない。
確かに「承認欲求」「承認不安」という言葉を使うと、人間のいろんな行動を説明できる。
例えば自分がチラシの裏に書いとくべき読書感想文をこうして2chでわざわざ公開するのも承認欲求の賜物であるし、
ブログなどで堂々と書かずに過疎スレにコソコソ書いているのは承認不安があるからだ。しかしこんな分析に何か意味があるだろうか。
つまらないと思いつつも一応「承認」「欲望」に関する思想の系譜をヘーゲルから精神分析や社会学まで知ることができればいいか、と思って読み進めたわけだが、
そうした思想史的な整理はあまりなく、竹田青嗣流「現象学」と精神分析による著者の図式的な自論が語られているだけであった。星2個★★
佐々木孝次『甦るフロイト思想』(講談社現代新書)。上の本を読んで「精神分析って何?」という疑問を持ったので読んでみた。
著者は、あの難解で名高い『エクリ』(自分は以前に一巻だけ読んでギブアップ)の翻訳者の一人。
したがって、ラカンの理論を解説した入門書かと思ったが、ラカンについての説明はあまり多くない。かと言って、フロイトについての初心者向けの説明もほとんどない。
「みかけ」といった著者独自の用語や、森田正馬や森有正の思想を参照しつつ、日本人特有の欲望に関する議論を展開している。
充分な説明のないまま精神分析的な思考法でどんどん話が進むので、精神分析に慣れていない読者は置き去り気味になると思う。
一見難しい言葉は用いていないが、普通の言葉でも精神分析の思考文脈で理解しなくてはならないので、概念として簡単とはいえない。
著者はできる限り分かりやすく書いているつもりのようだが、これでどうして一般読者に通じると思えるのかが不思議。
1章では漱石の小説『道草』を題材に、夫と妻が互いに相手の「形式主義」に不満を覚えるという関係性を分析する。
ここでは既に、鏡像へのナルシシズム的な段階(想像界)から、「他者」の介在による欲動と欲望の分離(象徴界)といった、フロイト・ラカン的な論理が展開されているのだが、
教科書的な叙述がされていないので、あらかじめ多少なりとも精神分析の知識がないと何を言っているのかわからないと思われる。
2章では改めてフロイト理論に沿って欲動と欲望の違いを説明。と言ってもわかりやすくはない。
単純化して言えば、欲動は生物学的なもので欲望は社会的なものだ、と考えればいいのだと思うが、晩年のフロイトの欲動論では「死の欲動」というのも現れてくるのでややこしい。
ただ、ここでは「死の欲動」には深入りしていない。
3章では日本人に多いと言われる対人恐怖症をとりあげ、森田正馬の療法を批判的に参照しつつ、日本社会の「形式主義」に原因を求める。
4章では、森有正の「二項関係」という概念を使って人間関係を分析。「二項関係」とは、「相手」と「相手の相手としての自分」との関係、すなわち「汝-汝」の関係と言われる。
ここでは、森有正の理論と、フロイト・ラカンの理論をすり合わせるようなことをやっている。そして、日本の文化に何かが決定的に欠けていると指摘する。
要するに、二項関係の外の視点、つまり「意味」としての第三者が欠けている、と言いたいようだ。
5章では、さらに日本人の人間関係における「ふり」の果たしている役割を考え、精神分析がこれに対応できるのか、ということを論じている。
「ふり」とは「〜のふりをする」の「ふり」で役割演技みたいなことだろう。
6章では、ラカンに影響を与えたヘーゲル研究者のコジェーブが、日本の文化を評した言葉「スノビスム」を検討。
ここで言うスノビスムとは、ヘーゲル的な歴史の終わりを実現した日本文化を指している。これはバブル時代の文化を思い浮かべればわかりやすいのではなかろうか。
飢えも葛藤もない平和で豊かな世界だがどこか退廃的で虚しいわけだ。
7章では「叫び」という概念を提出する。形式主義とスノビスムの文化から「意味」が抜け落ちているので、苦しみを訴える言葉は意味を構成せず「叫び」となる。
8章では再び森有正の思想とラカン理論をすり合わせるようにして「一人称-三人称関係」というものを考える。
社会とは「一人称-三人称」関係で構成されるものだが、日本では「汝-汝」の二項関係が強く支配して、一人称を弱体化させるとのこと。
これもやたら難解な話になっているが、ごく簡単にいえば個人が自立していないということだろう。ラカン用語を使うと、日本では想像界の力が強くて象徴界の成立を妨げるという感じか。
9章ではラカンの用語としての「他者」を問題とする。ラカンの言う(大文字の)「他者」とは、第三者、父、神、言語秩序、などを含むわけだが、これだけでは何のことだかわからないだろう。
これも簡単にいえば、母と子の密着や、鏡像的なナルシシズムに介入して、社会の一員としての個人を作り出すものなのだろうが、
著者はラカンの理論を詳しく説明する気もないらしく説明不足。(ファルスとか去勢といったラカン用語も出てこない)。
またここには欲望の問題が関わり、「他者の欲望を欲望する」とか「欠如としての欲望」といった論点が出てくる。
いずれもいかにも難解で謎めいているが、日常的な経験に照らしてみれば理解できなくもない。
動物的な食欲性欲のような欲動ではなく、人間的な欲望を持つ限り、それは既に言語や他者に媒介されている(「金持ちになりたい」「キレイになりたい」「出世したい」「権力がほしい」)。
そして欲望の対象とは既に失われているものである(既に手に入ったものは魅力がない、常に今ここにないものが欲しい、隠されているものが見たい)
言葉によって生まれる欲望は、いつも別のもの(言葉)に対する欲望であるから、言葉は、実はその言葉とは別の意識されていない言葉に対する欲望を告げている。
よって言葉は無意識と密接な関係をもつ。そして言葉をこのような人間の世界の言葉にするのは「他者」の働きである。日本的な形式主義やスノビスムに抗するためにも「他者」という契機は重要だ。
「汝−汝の関係」というと堅苦しいが、下世話に言えば電車の中とかで人目も憚らずイチャついているカップルみたいなもんだろう。社会も第三者の目も存在しない二人だけの世界。
10章ではこれまでの論旨をまとめており、「汝の鏡像を殺せ」というラカンの言葉を引用している。
これも身も蓋もない単純化をすれば、鏡の世界=想像界から出てオトナになれ、というような意味だろう。
本書は、精神分析について初心者向けの説明をせずに、精神分析を知らない一般人に向けて、精神分析の論理で語った代物で、意図不明と言うしかない。
著者が言いたいことは、要するに「三人称」とか「他者」の機能の弱い日本では精神分析は困難だ、ということでしかないようだ。
これは結局、精神分析が役立たずである理由を、日本人のあり方に押し付けただけとも言える。
「日本が一神教ではない」とか「空虚な形式としての天皇制」ということも大いに関係すると思うが、この本では宗教への言及はほとんどない。
精神分析、特にラカン派の奇怪な思考法に触れてみたい人は読んでみてもいいもしれない。★★★。(何しろ内容が難しいのでレビューも長くなってしまいました…)
※ラカンの理論というのは、わかりやすく説明しようとすれば不可能ではないと思うのだが、自分はわかりやすい入門書を見たことがない。
ベストに入っている新宮一成『ラカンの精神分析』もほとんど意味不明だったし、福原泰平『ラカン』(講談社)というのも読んだが、文章がひどくて読めたものではなかった。
斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)はわかりやすそうだったので読み始めたが、序章を読んだらアホらしくなって中断。
ラカン入門書としては他にジジェクの本が出ているが、自分は未読。
佐々木中の『野戦と永遠』上(河出文庫)は、一応読める日本語で明晰に書かれているので、ラカン入門としては意外にいいのではないかと思う。
もっとも、ラカンの「難解さ」自体に意味があるとも言えるので、わかりやすさを求めるのは間違いかもしれない。
つまり、難解さの誘惑によって頭のいい人の「欲望」をかきたてて「釣」り、ラカンとその学習者との間に非対称的な関係を作り出す。
この関係性がラカン理論自体と相似形ともなっている。それと、わざとわからないように書くことによって「人間の心なんて簡単に理解できると思うなよ」ということを言いたいのかもしれない。
ありがとうございました
「汝−汝」関係はマルティン・ブーバーですよね
ラカンは、コレージュド・フランスの講義の前夜には鏡の前で話す顔の角度まで考えて
わざとわかりにくく語ったという「伝説」があるくらいですから
わかりにくいのは仕方がないような気がします
たしかにわかりやすいラカン入門書はありませんが
大橋洋一『新文学入門』(岩波書店)のラカンの解説が意外にわかりやすいですよ
小林千草『女ことばはどこへ消えたか』(光文社新書)。著者は1946年生まれの国語学(日本語学)教授で、小説家でもある。
女ことばの来し方行く末を論じている。著者は、ある日ファミレスで「ヤンママ」が子供に向かって「ちげーよ(違うよ)」という言葉を使っているのを見てショックを受ける。
男女の言葉の差がどんどんなくなってきている現状のひとつの例としている。一方で「おひや」「おかか」という室町時代の「女房詞」が現代でも使われていることを指摘している。
第一章では、100年前の女ことばを検討するために、夏目漱石の小説(主に『三四郎』)で使われている女ことばを拾っていく。
女性の笑い声「ほほほ」、文末の「〜わ」「〜よ」「〜てよ」「〜て」「〜ね」「〜の」「〜こと」「〜もの」など。これらの女ことばを、
小説を丁寧に読み解くことによって、その微妙な心理の彩やニュアンスを掬いあげている。
第二章では200年前に遡り、式亭三馬『浮世風呂』に書かれた、当時の庶民の女たちの生き生きした会話を見ていく。
ここでは、世代や階層・教養や出身地域の違いなどによって、女ことばの違いが書き分けられている。特に下層の少女達の、落語に通じるような乱暴で勢いのある江戸弁が面白い。
また、この時代の女ことばと、その100年後の『三四郎』や二葉亭四迷『浮雲』での女ことばとを比較している。
第三章は、「おことば」「もじことば」のルーツを遡る。「おことば」とは名詞に「お」をつけて尊敬や丁寧を表すことば。『三四郎』からは「おあにいさん」が参照されている。
『浮世風呂』からは「おかちん(餅)」「おむし(味噌)」が参照されているが、これは「かちん」「むし」だけでも室町時代の女房詞に由来する婉曲語である。
章の後半ではこれらの様々な女房詞を紹介する。「もじことば」はこの女房詞における造語法のひとつで、鯉→こもじ、鮒→ふもじ、ツグミ→つもじ、などとして元の言葉をぼかす。
他にも、そうめん→ほそもの、葱→うつほ、塩→しろもの、豆腐→かべ、といった言い換えがある。現在でも使われている女房詞として「おかず」「お冷」「お手元」などがある。
第四章では、現代女子学生の言語実態を調査した結果を検討している。
若者語と思われる「〜じゃん」「やっぱ」「きもい」「きれいかった」「きもちかった」「ちがくて」「私って〜な人」「ちげーよ」
を日常的に使っているかどうかを女子短大生にアンケートで尋ねている。また女子学生はこれらの言葉使いに関して反省のコメントなどを述べている。
第五章では、女優の田中絹代の言葉遣いや太宰治『斜陽』のお嬢様言葉に触れつつ、現在形骸化したお嬢様言葉を無理に使うことに対しては批判している。
また現在もっとも女らしい言葉を残している人々としてニューハーフに言及。最後の「付録」では『源氏物語』・『平家物語』・狂言・能などの女ことばに触れている。
全体を通して感じたのは、女ことばの由来については多くの知識が得られるが、なぜ日本語に女ことばが生まれたのかという点については、掘り下げられていないということ。
そうした点を考察するには、ジェンダー・フェミニズム的な分析が必要になると思うが、ここでは視野の外に置かれている。
また、第一章では夏目漱石の小説のみが参照され、かなり細かい文学的な分析がされているが、漱石だけで大丈夫か?とも思った。小説と現実の差も気になる。
小説を参照するにしても女流作家の方が女ことばのニュアンスはよくわかっているのではないかとも思うのだが、100年前だと女流の数も少なかったから仕方ないのかもしれない。
四章の若者言葉の調査に関しては、言葉の選定が微妙な感じもするし、それらの言葉が使われる具体的な状況についての考察が不十分な気もする。
「きれいかった」などは、調査でもある程度明らかになっているように、西日本のいずれかの方言由来ではなかろうか。
「私って〜な人」は一時期流行った自己呈示の話法だが、もともと使う場面は多くない言葉だ。
また「ちげーよ」は若者同士であっても、ごく親しい間でしか使わないはずである。強い否定の言葉だから、気心がしれた間柄でないと喧嘩になるかもしれない。
言い換えると「ちげーよ」を普通に言い合うことによって仲間意識の確認になっているのだと思う。
こうした由来や機能の異なる言葉を若者言葉として一緒くたにまとめてもあまり意味がないかなという気がする。
個人的にはもっと、現代小説やラノベ、映画やTVドラマ、漫画やアニメ、歌謡曲・J.ポップの歌詞、などにおける女ことばの変遷、及び現実とのズレなどが知りたいところ。
たぶん研究している人はどこかにいるとは思うが。★★★
中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)。先に読んだ、小林千草『女ことばはどこへ消えたか』で自分が感じた疑問に対して、ジェンダー論の立場から解答されている。
「女ことばの伝統」とは、「言説」によって歴史的に作られた伝統であり、イデオロギーであるという主張であり、小林千草らの言語観とは根本的に対立する。
「言説」という用語を使っていることからわかるように、M.フーコーの系譜学の方法を採用している。
第1部では「規範としての女ことば」として、鎌倉時代から江戸・明治までの、女性の言葉遣いに対する規範の言説をたどっていく。
女のおしゃべりを諌め、慎みを説く規範は中世から現代まで連綿と継承されていく。
女房詞は、元々は高い身分の者が使う言葉と認識され、性差の意識は薄かったが、規範の言説によって次第に女が使うべき言葉とされるようになった。
小林千草の本で書かれているような、女房詞という起源から現代の女ことばへと自然に発展していったのではなく、そこには意図的な力が加わっているのだ。
第2部は、“「国語」の登場”と題して、近代国民国家を統合するための国語の制定に伴って、女ことばの規範が成立していく過程を論じる。
明治の知識人は、標準語を「教養ある東京人の話す言葉」とすることを提案し、方言や女性の話す言葉を排除した。
ここには「ひとつの国語」の思想と「男女の言葉の違い」という矛盾があるが、それは「“国語”とは男が話す言葉だ」という前提が潜在しているということである。
次に、「女学生」という(作られた)カテゴリーと「女学生ことば」の成立過程を分析している。
明治初期の女子学生の中には「僕は〜」「〜したまえ」などの書生言葉を使う者もいたが、これがまずメディアから批判される。
その後「てよだわ言葉」が使われ始める。これは当時の女子学生が、良妻賢母思想へのささやかな抵抗として使い出したと思われる言葉だが、
下賎な起源を持つ下品な言葉として批判される。ただし当時の女子学生が「てよだわ言葉」だけを使っていたわけではなく、書生言葉や外来語・漢語など多様な言葉を使っていた。
ではなぜ、「てよだわ言葉」が「女学生」の典型的な言葉として固定観念化したかというと、まず坪内逍遥らが翻訳小説で西洋女性の話し言葉として採用し、小説を通じて広く普及したからである。
「てよだわ言葉」は最初は軽薄さを示すものとして見られ、後にはエロ小説に使われセクシュアリティを表象する。現代風にわかりやすく言えば、萌えキャラ立てに使われたというようなことだろう。
ここまでの段階では女ことばは、「国語」から排除されることによって否定項として国語統合の役割を果たした。
第3部では“女ことばが日本語の「伝統」である”という通念が言説によって捏造されていく過程を分析する。
国語から排除され貶められていた女ことばが、日本語の美しき伝統とされるようになるのは戦中である。
まず女房詞と敬語が女ことばの起源であるとする言説が国語学者から出された。また女房詞が宮中から出たことから天皇家との連続性を強調する言説も現れた。
さらに、他国にない女ことばが存在する日本語の優位性も主張される。日本語の優位性を証することは植民地政策上も必要だった。
「ナショナリズムの時間的矛盾(国家は過去と未来に向かわなくてはならない)」解消のために、女性性を過去(すなわち伝統)に、男性性を未来に結びつける必要があったのだ、と著者は分析している。
戦中期には、文法書や国語教科書にも女ことばが組み入れられ、言葉の性差を強調した。女ことばが国語になったと言ってもあくまでも周縁に位置づけられた。
このことは戦時総動員体制の下で女性を国民に組み入れ銃後の守りに当たらせたこととパラレルである。
戦後は男女平等の理念の下、進歩的知識人によって女ことばが批判されるようになった。
しかし、「女性の先天的な女らしさに基づく自然な女ことば」を擁護する言説が現れる。女ことばは天皇制から切り離されつつも国語の中に残されていった。
なぜ女ことばが存続させられたかについては、敗戦・占領によって自信や誇りを失った日本人が、天皇制・家父長制・儒教的家族制度の存続の欲求があったためとのこと。
冒頭で述べたとおり、小林千草の本では解決されなかった「なぜ日本語には女ことばがあるのか」という疑問に対してかなりすっきりした解答が与えられている。
また、ご覧のとおりフェミニズム及び社会構築主義どっぷりでもある。マニュアル化・単純化されたフーコー的方法を使うことについての、カルスタやポスコロに対するのと似た不満はあるし、
現在の平等の理念から過去を断罪する態度も散見されて正直辛い部分もあるが、そこら辺にはあえて目をつぶって星4つ★★★★
思想のない小林千草と思想だらけの中村桃子の対比は興味深いですね
これは人文系の学問では、京大系と東大系にほぼきれいに分かれますよね
児玉聡『功利主義入門』(ちくま新書)。功利主義を中心とした、倫理学全般についての入門書。
「はじめに」では「倫理を学ぶ2つの仕方」として、社会で生きていく上で守るべきルールを学ぶという道徳教育的なものと、
倫理の根拠を問うような批判的思考の二種がある、として、本書では後者の立場をとる。
第1章では、「倫理は相対的か」「宗教なしの倫理はありえるか」「人間は利己的だから倫理は無駄か」
「自然に従うだけではいけないのか」「倫理学は非倫理的か」といった倫理と倫理学に対する素朴な疑問に答えていく。
最後の「倫理学の非倫理性」というのは「トロッコ問題」のような倫理的ジレンマに関する思考実験が、しばしば残酷な話であるというようなこと。
第2章では、功利主義の思想家ベンタム(本書では「ベンサム」ではなく「ベンタム」と表記)の思想を解説。
「最大多数の最大幸福」の原理や「功利計算」の意味を検討し、その特徴を「帰結主義」「幸福主義」「総和最大化」の3つにまとめている。
第3章では功利主義に対する様々な批判を検討。映画「シザーハンズ」のエピソードから「お金を拾ったらどうするか」という問題を考える。
普通の正解は「警察に届ける」で、シザーハンズは「その金で友人や大切な人にプレゼントを買う」と答えたのだが、功利主義者は「貧しい人にあげる」と答える可能性がある。
ここでベンタムと同時代の功利主義者ウィリアム・ゴドウィンが登場。彼は、功利主義の原理を徹底し、家族など身近な人間をえこひいきすることは許されないと説いた。
社会全体の幸福のために有用な人物と身内の2人が命の危険にされされていて、どちらか一方しか助けられないのであれば、迷わず前者を助けるべきだと言う。
ゴドウィンは自由恋愛主義者で結婚制度にも反対していたが、メアリ・ウォルストンクラフト(初期のフェミニスト思想家)に迫られて結婚を承諾してしまう。
また後に彼の娘(メアリー・シェリー;『フランケンシュタイン』の作者)は詩人シェリーと駆け落ちしてしまう。
こうした経験からゴドウィンは功利主義思想に修正を加える。
第4章では、この修正を加えて洗練された功利主義について解説。ゴドウィンは、他人の幸福に対する感受性を育むものとして家族や身近な者に対する愛情も肯定するようになる。
第5章では、現代の公共政策における功利主義的思考を論じる。災害医療における「トリアージ」などについて説明し、
ロールズによる批判なども参照しながら、19世紀前半のイギリスにおける公衆衛生政策と功利主義の関係を論じる。
功利主義による公衆衛生の改善を目指した思想家として、チャドウィックとJ.S.ミルが挙げられる。前者はパターナリスティックであり、後者は自由主義的であった。
喫煙規制の問題などにも触れつつ、自由との兼ね合いにおいて功利性実現のための介入はどこまで許されるのかという問題を考察し、リバタリアン・パターナリズムという思想も紹介。
第6章では「幸福」とは何かについて考察。まず、ベンタムやミルの「幸福=快楽、不幸=苦痛」説や、それに対する批判を検討する。
また経済学などで採用されている「選好」「欲求」といった概念を説明し、これに対する批判としてアマルティア・センによる「適応的選好」の問題(奴隷の幸福)や「愚かな選好」(麻薬など)の問題を指摘する。
第7章では「道徳心理学と功利主義」と題して、統計に基づく理性的な判断と共感に基づく心情的判断の間のギャップなどの心理的バイアスについて考える。
功利主義は理性を重視するが、最新の脳科学や心理学の知見によって、倫理に対する感情の役割が無視できなくなる。
そこで倫理的動機を生み出す方法として「直感的思考の強化戦略」「共感能力の特性利用戦略」「理性的思考の義務付け戦略」の3戦略を提案している。
長々とまとめてきたが、ぶっちゃけて言うと個人的にはあまり面白くなかった。自分が倫理については善悪の彼岸から考える癖がついているからだろうか。
どちらかというと最初にちょっと紹介されている「メタ倫理学」の方に興味を惹かれる。あと「有用性」やプラグマティズムとの関係もできれば知りたかった。
5章の公衆衛生の問題に関しては、喫煙規制問題などはさほど難問とは思えず、それより予防接種の問題※の方が特に日本においては深刻ではなかろうか。★★★
※社会全体のリスクはもちろん、個人のリスクから言っても予防接種はある程度強制すべきだが、周知の通り予防接種には小さな確率にしろ副作用の可能性がある。
万一、子供が予防接種の副作用で死んだ場合、「予防接種はするべきではなかった」とその親が考えるのは自然だろう。では予防接種をどこまで強制できるのか?
内藤淳『進化倫理学入門』(光文社新書)。著者は法哲学者で、法や人権に対して自然主義的基礎付けを行っている。
サブタイトルは「“利己的”なのが結局、正しい」とあり、内容はこれに尽きる。
ここで真っ先に気になるのは、いわゆる「自然主義的誤謬」論に対して、いかに反論・対処もしくは問題回避しているのかという点であるが、
驚くべきことに、そもそも問題として認識していない模様。ドーキンスの「利己的遺伝子」論や、スティーヴン・ピンカーなどを参照して、
利他性も利己性に還元できることを説明し、そこから一足飛びに「利己性=正しい」を導き出している。ある意味清々しいほどの素朴な「自然主義」。
利己性を公理とするのはかまわないのだが、利己的遺伝子にとっての「利」と、人間個体にとっての「利」ですら既に異なるし、
時には対立する事をどう考えているのか不明(後者が前者から生じたものだとしても、前者=後者ではない)。
せめて、利己的遺伝子から生物個体レベルでの利己性と利他性、そして人間の社会性・利他性・倫理・自由・意志などが、
どのように進化してきたのか、ゲーム理論などを援用して説得力あるシナリオを描いて欲しかった。
例えば、一般に道徳・倫理は利己性を否認するが、これは道徳・倫理の本質的な属性と考えるべきだろう。
それはなぜか、という事も利己性を出発点として進化論的・ゲーム理論的に説明できるはずである※。
ドーキンスや佐倉統を絶賛している割には、進化論やゲーム理論をちゃんと理解しているのかどうか怪しい感じもする。
経済学や功利主義の知見も取り入れるべきかと思うが、あまり参照されている様子はない。
本来、酷評するのであれば、内容を詳細に検討して公正に批評するべきなのはわかっているのだが、
そういう気力すら失わせる脱力物件。己れの自然な感情に従って星1個進呈★。
(言うまでもなく、倫理学とか法の自然主義的基礎付けなるものに関して自分は何も知らないので、根本的に勘違いしている可能性はあるのでご了承ください)
※まず人間は未来を予測し高度な目的を立てることが可能なように進化してきているので、
目先の利益と未来の利益を比べて後者が大きければそちらを選択することができる(未来へのコミットメント)。
この点でも目先の利によってしか選択できない進化及び利己的遺伝子の利とは違うのではないか。
また人間は他者との協力による利益を得るために、約束を守りそれを信頼する(他者へのコミットメント)。
特に囚人のジレンマ状況の際に、双方が利己的に振る舞うと双方が利益を失うので、双方が利己心を捨てる事が必要になる。
つまり利益を得るためには利益を忘れることが必要になる。道徳はこの矛盾した選択を可能にするための仕掛けであると考えられる。
(しかし相手がお人好し戦略を取るとわかっていれば依然として裏切り戦略が有利なので、「裏切り者を罰する」(いわゆるしっぺ返し戦略)という道徳のもう一つの面も進化したのだろう。)
・更に蛇足
そもそも利己性を否定するのが道徳の原則だと思うが、一方、日本には「情けは人のためならず」ということわざもある。
これは利他性=利己性ということをぶっちゃけているようにも見えるが、やはり半分は嘘であり、嘘であることに意味があると思う。
つまり、他人への「情け」が自分にとって損になる可能性・裏切られる可能性を隠しており、隠すことで道徳的標語として機能しているのだ。
石川幹人『人間とはどういう生物か』(ちくま新書)。著者は認知情報学・人工知能の専門家。
「意味」や心の謎について考察。著者は人工知能開発の困難に直面し、コンピュータは「意味」を持てないと結論している。
フレーム問題などを指摘し、「意味の全体論」を唱えている。このあたりの考察には特に目新しさはないが、
自動翻訳機開発の難しさなど、技術者としての実感から論じているのは貴重かもしれない。
将棋ソフトやクイズに答えるコンピュータについての技術的な話は面白い。
「コンピュータは意味を解さない」という説の論拠として「中国語の部屋」の思考実験を考えた哲学者サールの立場に近いようだが、サールへの言及はない。
後半では、マイケル・ポランニーの暗黙知理論などが持ちだされる。また人間の高度な認知能力が進化の力だけで発達したという説に対する疑念が提出される。
遺伝アルゴリズムは目的に達するまでの効率が悪く、大きな進化を説明できないという。
そして、キリンの首の進化のためには、高い位置の頭に血を送るための強い心臓や、全身の重心など、様々な要素が同時に進化しなくてはならず、
それは確率が低すぎて進化するには時間が足りないはずだ云々。ここまで来て、正直「?」という感じ。
普通はキリンの首の進化などは初心者向け入門書でも「前適応」の概念を使って説明されているはず。
「前適応」では説明できないという論拠があるのかもしれないが、納得できる説明はないし、しかもどうやら進化を目的論的に考えているフシがある。
この著者は
>>552でも紹介したように進化心理学の入門書も書き、自ら遺伝アルゴリズム研究に携わり、
デネットの『ダーウィンの危険な思想』の翻訳者でもあるのだが、そんな人が進化の原理を根本的に誤解しているなどということがありうるのだろうか?
自分は本当に
>>552と同じ著者かと疑ってググってしまったくらいである。
>>552では進化の力を過大視しているような感じだったが、転向したのだろうか?
というか、もともと進化について根本的に誤解していたために、以前は過大視し今回は過小視しているのだと見るべきかもしれない。
最後に著者は、意味の進化に量子論的過程が加わっているという仮説を唱えているが、自分はもはや真面目に読む気を失っていたので読み飛ばした。
どう評価していいかよくわからない困惑物件。★★
戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書)。かなり話題になった自然主義の哲学入門書であり、既に優れたレビューがネット上にもいくつかあるようだ。
ちなみに
>>743>>745の2 冊は、これの前フリのつもり。これの内容を要約すると考えただけでも気が重くなり、読後しばらくは感想文は書けず放置。今やっと書けた。
『哲学入門』という直球のタイトルは一見普通だが実は挑発的。文体は
>>576のようなお行儀のいいものではなく、やや攻撃的な翻訳調で、山形浩生氏がクルーグマンなどを翻訳する時の文体に近い。
著者の立場は科学的自然主義的唯物論で、デカルト的二元論はまず最初に切り捨てている。
意味・機能・情報・表象・目的・自由・道徳といった「ありそうでなさそうでやっぱりあるもの」=「存在もどき」を自然の中に書き込むというプロジェクトが自然主義の哲学である。
「ありそうで」というのは日常的な感覚としてありそうということで、「なさそうで」というのは科学的・客観的にはないんじゃね?ってことで、
「やっぱりある」というのは、やり方次第で客観的な世界に科学的に位置づけられますよってことだろうか。
そして「客観的にはないけど主観的にはある」というような二元論的答えを拒否しているわけである。
また単純な還元主義や、解釈主義・遠近法主義も退け、「存在もどき」は自然の中に涌いて出た(進化論的・発生論的)と考える。
「意味」に関しては、サールの「中国語の部屋」の議論を批判し、ミリカンの目的論的意味論を採用。これには「本来の機能」の自然化が必要で、それは進化の歴史によって説明される。
ここで著者は分析哲学が概念分析ばかりやってきたことを批判し、哲学は「概念を作る」仕事をするべきだと言う。
「情報」については、シャノンの情報理論を採用したドレツキの哲学を紹介。
確率を基にして定義された情報理論では、、情報は出来事から出来事へ流れ、解読者は必要なく、情報は自然の中にある。
この情報概念から情報内容・情報の意味論が構築され、「知識」も情報の側から定義される。
「表象」は「志向性」を持つとされ、情報もまた不完全ながら志向性もどきを持つ。情報の志向性もどきから志向的表象がどう進化したかをたどる。
ここではドレツキの情報概念をミリカンが批判して、生物にとっての志向的記号はどのように得られるかを論じる。
局地的で反復する自然記号が、「消費者」としての生物側の需要によって志向表象となるのがミソ。
次は「目的」の進化。人間の高度な「目的手段推論能力」も、原始的な「オシツオサレツ表象」から徐々に進化した。
「オシツオサレツ表象」とは事実を知らせる(記述面)と同時に行動を指示(指示面)する表象のこと。一種の「アフォーダンス」である。
ここから記述面と指示面がだんだん分離してくるための諸条件を検討し、試行錯誤・学習、さらには人間のように心の中でシミュレーションできる生物が進化してくるシナリオを描いている。
さらに目的手段推論能力が他の能力の進化の副産物か否かという論点では、著者は副産物ではないだろうと結論している。
以上で「自由」と「道徳」を自然の中に書き込む準備が整う。
自由意志に関しては、決定論と自由は両立するというデネットの説を取り上げる。
デネットは自由の概念について、行為を始動する不動の第一者がいるという「行為者因果説」(※1)を退ける。著者も行為者因果説は自由概念のインフレだと言う。
そして「自己コントロールとしての自由」という自由概念のデフレ化を提唱。この自由概念なら決定論と両立可能であり「持つに値する自由」だと言う。
(ここで量子力学の確率論的非決定論は自由を保証するものではないという論点が出される。自由のためにはむしろ決定論が必要。)
そして最後に「道徳」について。これも「責任」を介して自由意志と関連がある(自由意志がないとされるものには責任は課せない)。
これもまずデネットの見解を紹介。デネットは、言語を介した反省的思考により、責任主体としての「自己」を自分で構築する自由が得られる、とする。
この「自己」とは実体ではなく「知覚・理由・行為を統合する組織化のされ方」であり、身体の外まで拡張された自己(「延長された表現型」byドーキンス)として進化してきたものであり、
言語によって構築された「物語的自己」である。そして自由があるから責任があるのではなく、責任があるから自由があるとする。
もうこのあたりは、進化論を除外すればカントなどとあまり変わらないし、物語云々などは著者も指摘するようにポストモダン系に近い。
著者はこのデネットの説に対しては不満を表明し、自由意志を完全に捨ててしまう、ダーク・ベレブームの哲学も紹介する。
こちらは、犯罪者の責任というものも存在しない(※2)ので、罪人は伝染病患者のごとく隔離されるだけである。
これはこれで、非常にすっきりするし、意外に大きな問題は起きないのではないかと著者は言う。
最後に、自由意志の存在が疑われる決定論的世界における「人生の意味」について、哲学者トマス・ネーゲルの思想に共感しつつ、著者の見解を述べて終わる。
やはり要約は無謀だったか。自分で読み返しても何がなんだかわからん…
自分はミリカンは知らなかったが、デネットの『自由は進化する』『解明される意識』とか著者の『知識の哲学』などは読んでいるので、後半の議論はある程度馴染みがあった。
自分の関心は「自然主義」の妥当性自体の方にあるが、ド素人なりにいろんな疑問が湧いてくる。
まず素朴な疑問として、デカルトのコギトとかカントなどの超越論とか永井均の独在性などを本当に抹消できるのかという点。
「主観」なんて錯覚かもしれないが、これを残しておくメリットが何かあるからこそ、この錯覚が温存されているのだとすると、これを無理に抹消すると何か不都合が起こるのではないか。
あるいは、主観の中身を科学の力で客観の側に全部移したとしても、空っぽの主観は残るのではないかとか、残しておいたらなんでいけないの?…など。
もうひとつは科学にとって本当に二元論より自然主義の方が有用なのだろうかという疑問。主観と客観を分けて相互不可侵にすると、
主観の錯覚は温存されるが、客観の側が錯覚に汚染されることはないのだから、二元論の方が科学にとっては有用かもしれない。
自然主義はむしろ自然の中に亡霊を解き放つことになるのではなかろうか。
細かい論点では「本来の機能」などについてはやはり引っかかるが、他には、「情報」を自然の中に書き込むことに成功したとしても、では情報の基礎になる「確率」はどうなのかという疑問が出てくる。
著者は、量子力学から、確率は「無知の尺度」ではなく自然の中にあるものと認められるようになったと考えているようだ。
しかしもし量子力学の多世界解釈が有力だとすると、まだ「無知の尺度」という解釈も生きているのではないか。
とすると、確率の前に「知識」が来ることになり、確率→情報→知識というシナリオは崩れる。
こんな素人の思いつき程度の事は専門家がとっくに議論し尽くしているのだろうが、俗世を忘れてこんな思弁にふけるのが一番楽しい気がするということで5つ星進呈★★★★★
※1「行為者因果説」を奉じる人は「リバタリアン」と言うそうだが、政治思想のリバタリアンと紛らわしいですね…
政治思想的リバタリアンより、サルトル的な実存主義に近いなぁと思ったら、著者自身があとがきでそのように書いていた。
あとこれをインフレと言うのは違和感がある。原理主義的と言うならわかるが。「自由意志」の概念分析を徹底して追求していけば、そうした不可能な一点に至るのは必然だし、
それが不可能な概念だからこそ自由は幻想だ、とする方がしっくりくる(本書ではそうした説も紹介されている)。自由の概念をデフレ化するのは自分にはごまかしに見えてしまう。
また、SF作家グレッグ・イーガンの短編「決断者」(ハヤカワ文庫『ひとりっ子』所収)はまさにこの件をネタにしていた。
イーガンはデネットなどの影響を受けつつも、デカルト的な直観を捨て切ってはいないのが面白いところ。
※2 このあたりを読んでいると、自分は18世紀のド変態文学者サド侯爵を連想する。サドはスピノザの自然主義的哲学を文字通り悪用して悪の哲学を作った。
サドの小説の登場人物は「悪は自然の本質だから自分はそれに従うだけだもんね」とか嘯いて悪逆非道の限りを尽くす。
ところが時に、悪人は「悪をなすべし」というカント的当為にコミットすることがある。すると自由意志が生じて、自然主義から逸脱する。
サドの悪の哲学は、このスピノザ的自然主義とカント的定言命法の世界の間を揺れ動く。
四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)。2006年に出た本。
この著者は昔から「かわいい文化」に対して批判的だった事を、自分はなんとなく知っていて、
近頃のオタク文化に対する見解は如何にと思って読み始めたもの。
第1章を読むと、一応、中立的に書き始められてはいるものの、やはり批判的スタンスは変わっていないのがわかる。
まず、海外に日本のオタク文化・かわいい文化が輸出され、人気を博していることを指摘。
「セーラームーン」「サンリオ」「ポケモン」など。2006年の本だから、少し情報は古いし、
もともと著者はリアルタイムでオタク文化を追いかけている人ではないから、一般的なおっさんの印象に留まる。
2章では、日本文化における「かわいい」の淵源と語源をたどっている。「かはゆし」の起源は今昔物語である。
さらに遡ると、枕草子の「うつくし」に至る。
橋本治という人も、つとに、枕草子の「うつくし」の感覚は女子高生の「かわいい」と同じだと指摘しているのだが、
著者は橋本には言及していない。もっとも、枕草子を読めば、多くの人は現代の「かわいい」の感覚と同じだと感じるだろう。
また、「かはゆい」にはもともと、「痛ましい」「気の毒」という意味があったのだが、
中世末期になると、そうした否定的な意味が脱落していったという。
ここでちょっと引っかかるのは「かわいそう」という現在でもある言葉との関係なのだが、それについての言及はない。
「かわいそう」は漢字では「可哀想」と書くし、「かわいい」とは全く別の系譜なのだろうか?
「痛ましい」という意味の「かわいい」が「かわいそう」に受け継がれたとも考えられると思うのだが、
これを明確に反証するような記述もされていない。
調べればわかるかもしれないが、めんどくさい。
3章では、大学生に「かわいい」に関するアンケートをとって、現代人の「かわいい」感覚について考察。
4章では「きもかわ」という感覚に焦点を当て、「かわいい」は「グロテスク」と隣合わせであることに本質があると論じる。
典型例としては「ET」。同情や保護欲を喚起する弱さとは、グロいものでもあり、かわいいものでもあるということ。
5章では、李御寧『「縮み志向」の日本人』や、スーザン・スチュワート『憧憬論』などを参照しつつ、
ミニアチュール、プリクラなど、小さい可愛らしいものに価値を見出す日本文化の特質を論じる。
6章では、子供時代への郷愁、ノスタルジアに焦点を当てる。これは過去を美化するゆえに歴史と敵対する。また成熟を拒絶する。
ここではヘンリー・ダーガーが参照される。
7章では「Cawaii!」「CUTiE」「JJ」「ゆうゆう」といった女性誌を比較分析。消費社会が「かわいい」神話をいかに醸成し利用しているかを論じる。
8章では、「萌え」の聖地、アキバを探索。男女のジェンダーによる萌え感覚の違いや、ゲイの感覚との比較も試みている。
例えば、腐女子の感覚と、リアルなゲイの感覚は「全く異なる」と断じている。
だが、この辺は、違うといえば確かに違う(実際、腐女子を敵視しているゲイも多いだろう)が、全く断絶してるかといえばそうでもないのではないか。
このあたり、外から、オタク文化やゲイ文化にちょっと触れただけで安易に断定している感がある。
9章では、日本の「かわいい」文化の海外進出と、グローバリズムについて述べる。
エピローグでは、「かわいい」と紙一重のところにある、禍々しさやグロテスクについて指摘し、特に結論もなく終わる。
自分としては、結論のなさや掘り下げ不足については、別に不満はない。この程度で充分じゃないかと思う。
「かわいさ」の文化における、「歴史の隠蔽」「成熟拒否」「弱者支配の政治性」といった事に対する警戒感も、
御説ごもっともという感じで、別に言うことはない。
9章で、著者は、「かわいい」の美学は、日本に特殊なものか、人類普遍なものか、と問うているが、
これは、「自然主義」的に考えて、生物学的な普遍性があるのは当然と思われる。
「かわいさ」とは、第一義的には保護欲をそそることであり、おとなの保護欲をそそるというのは、無力な子供にとって重要な生存戦略だろう。
親の側から言えば、自分の遺伝子を持つ実子か親族の子供以外を「かわいい」と感じる利己的遺伝子的メリットはないわけだが、
おおむね一般的に子供が「かわいい」ということは、子供の生存戦略が成功しているということだろう。
哺乳類の子供がおおむね「かわいい」のも生物学的必然だと思う。
もうひとつは、女性が男性の保護を求めるための「かわいさ」もあるだろう。男性も女性を保護することが繁殖戦略に適うのだろう。
この2つの「かわいさ」が混同されてしまうと、ロリとかショタになるのかもしれない。
実際は、文化のレベルの話を、生物学的レベルにこじつけるのは危険なので、一応分けて考えた方がいいわけだが※
、一応生物学的レベルも視野に入れておいて欲しい気もする。★★★
※「文化的遺伝子(ミーム)」とかを想定して論じることもできるのだろうが、これも実証が難しいわけで、
いずれにせよ「お話」の域は出ないだろう。とするなら、やはり文化は文化で分けて論じた方が無難だと思う。
廃墟スレがなかなか落ちずにずっと残ってるってのも辛いもんがあるな…
愛着あるスレゆえ、荒らされる前に安楽死してほしいスレ
なんか、レビュー主体になって、スレの方向がわけわかんなくなったよな。
簡単な紹介とか、質問とかで、まったり進んでたのに。
アウトロー関連の新書を三冊読んだ
夏原武『反社会的勢力』(洋泉社新書y)
著者は、暴力団・裏世界・犯罪・詐欺・知能犯罪に関する著書が多い
ジャーナリストであり、漫画「クロサギ」の原作でも有名。
この著書では、2011年「暴力団排除条例」が東京都と沖縄県でも施行され、
すべての自治体で実施されるようになったことを受けて、それに伴う問題点や、
「反社会勢力」と一般市民の関係がどう変わっていくかを論じている。
第一章では、反社会的勢力とは何かを説明しており、
暴力団・共生者(フロント企業(企業舎弟)・総会屋・企業ゴロ・
社会運動標榜ゴロ・特殊知能暴力団)、グレーゾーン(関東連合など)について紹介。
第二章では、暴排条例によって、
社会と暴力団の切り離しが図られるようになったことについて検討されている。
これによって、暴力団と持ちつ持たれつでやってきた一般社会の側も
態度の変更が迫られている。
寺社への参拝や、幼馴染などの個人的な付き合い、
小売店の暴力団への掛け売りなども条例に引っ掛かってくる。
テキ屋も規制・解体され、祭りの衰退に繫がっていることを著者は批判している。
また現場の警官にも「やりにくくなった」という声がある。
著者はおおむね「切れすぎる刀」としての暴排条例には批判的である。
第三章では種々の「ブローキング」を紹介。
ブローキングの対象として「戸籍」「偽造カード」「産廃」「中古船舶」
「不法入国」「宗教法人」などがある。
産廃の実態や、宗教法人そのものが売買される話は参考になる。
第四章では、大相撲八百長や紳助引退の事件と、暴排条例との関係や、
その背後の警察や裏社会の動きについての裏話を暴露している。
自分のような世間知らずには、実に勉強になる。
裏の社会がどのように動いているのかわかって面白い。★★★
溝口敦『暴力団』(新潮新書)2011年発行。
このジャンルでは大御所の有名ジャーナリストによる、
暴力団に関する基礎知識を解説した入門書。
第一章では、まず、暴力団対策法による暴力団の定義から解説。
指定暴力団22団体を列挙。
そして、山口組を例にとって、組織の構成、役職などを説明している。
準構成員・暴走族・愚連隊・共生者・企業舎弟などについても簡単に説明。
第二章ではシノギの手口について解説。覚醒剤・恐喝。賭博・解体屋・産廃など。
第三章では、ヤクザの人間関係や人間性について論じている。
第四章は、海外マフィアについて。イタリアやアメリカのマフィア、
香港の三合会、台湾や中国の流氓、コロンビアのカルテルなど。
三合会幹部のインタビューが採録されている。
また台湾の流氓の凶暴な生態が紹介されている。
第五章では、暴力団と警察との関係について。
暴対法や暴力団排除条例によって、暴力団が追い詰められている現状など。
また芸能人との関係についても述べられており、島田紳助の事件にも触れている。
第六章では、関東連合などの半グレ集団について解説。
暴力団の動きが規制されていく反面、こうした半グレ集団が勢力を伸ばしてきた。
第七章では、一般人が暴力団に出会ったらどうしたらよいか、というノウハウを伝授。
最後に、暴力団はジリ貧になりつつあることを重ねて指摘している。
著者は意外なほど暴力団に対して厳しい眼で見ているが、
ヤクザに脅され刺されたこともあるのでそれも当然か。
暴力団を潰したらマフィア化してかえってやっかいなのではないか、
という意見に対しては、マフィア化しても急に凶暴化することはないし、
そうした意見で暴力団を擁護するのはよくないということで、
「退場してもらってよいのではないでしょうか」と書いている。
裏社会の話題にうとい善良な市民向けの初歩的入門書だが、
ところどころに深く切り込んだ話題も折り込まれている。★★★
続編も出ているが自分は未読。
鈴木智彦『潜入ルポ・ヤクザの修羅場』(文春新書)
著者はヤクザ専門のジャーナリスト。
ヤクザ専門雑誌『実話時代』の編集部に入社し
『実話時代BULL』編集長を務めた後フリー。
著者の体験に基づき、暴力団と暴力団ジャーナリズムの歴史と現状を語る。
序章では、警察が山口組に矛先を定め、強硬姿勢を示している現状を見る。
第一章では、著者が歌舞伎町の「ヤクザマンション」に居を定めていた頃の、
様々なエピソードが語られる。マンションのバルコニーからヤクザが転落して、
鉄柵の鉄棒に串刺しになっている現場を目撃した話など。
第二章では、暴力団専門ライターとしての著者の経歴と、
暴力団ジャーナリズムの歴史を語る。
第三章では、加納貢という愚連隊の帝王と言われた男の伝説と真の姿、
その惨めな晩年についての物語。
著者は、この加納をネタに記事を書くために、最期まで面倒を見ていた。
加納は金持ちのボンボンであり、自由の理想を追い求め、財産を食いつぶし、
ヤクザと違って舎弟を食わせる甲斐性もなく、
結局は、社会不適合の生活無能力者として死んでいった。
第四章は、著者が、大阪西成に居を移してからのエピソード。
博奕の話や、飛田新地の実情などが詳細に語られている。
終章では、ヤクザそのものが斜陽産業であり、食えない稼業となってきており、
ヤクザ専門ジャーナリストという職業も行き詰まっている現状が語られる。
最後に「もうヤクザの時代じゃない…」と言って拳銃自殺したヤクザの末路が語られて終わる。
ヤクザや愚連隊の元トップなどと親密な関係を築き上げながら、
地を這うような泥臭い取材を続けてきた著者の体験が、
ほろ苦い調子で語られている。
様々なエピソードが、あまり整理されずに詰め込まれており、
時系列などもちょっとわかりにくいが、
裏社会のカオスな実情が体感できるように書かれていて、
読み物としては、以上三冊の中で一番面白い。★★★★
佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』(集英社新書)
現代宇宙論における、マルチバースや人間原理、著者のインフレーション宇宙理論などを平易に解説。
第一章は、宇宙探索の歴史と現状、地球外生命の可能性、ビッグバンや宇宙背景放射など、宇宙論の初歩的解説。
第二章では、暗黒物質や暗黒エネルギーといった、宇宙の最新の謎や、インフレーション理論、
真空の相転移といった概念を説明し、人間原理について触れる。
第三章は「人間に都合よくデザインされた宇宙」として、英の天文学者マーティン・リースが提唱した、
「宇宙を支配する6つの定数」について説明する。それは、N(クーロン力と重力の比)、ε(核融合率)、
Ω(臨界密度と現実の宇宙の物質密度の比)、λ(真空のエネルギー)、
Q(重力結合エネルギーと星や銀河の静止質量エネルギーの比)、D(次元)の6つである。
これらの数字がわずかでも違うと、生命ないし人間はこの世に生じて来られず、
あたかも人間のためにこれらの数が「ファインチューニング」されているかのようだという話。
ただし、複数の条件を同時に変えるとチューニングの幅は広がる。
第四章では、インフレーション理論について、少し詳しく説明しながら、
素粒子物理学と宇宙論の接点について解説。
第五章では、人間原理とマルチバースの理論について説明。
スティーヴン・ワインバーグは、マルチバースを前提に人間原理を主張した。
次に、インフレーション理論からも、マルチバースが生じることを説明。
次に、超弦理論・ブレーン宇宙の理論では、「カラビ=ヤオ空間」に多数の膜宇宙がくっついているとする。
次は量子力学における多世界解釈によるパラレルワールド。
また、マックス・テグマークは、事象の地平線の彼方に別の宇宙があると考える。
第六章では、地球外生命の探索などについて触れながら、人間原理についての著者の考えを述べる。
学者の中でも人間原理に対する態度はいろいろあり、
例えばホーキングは人間原理を重視する考えを述べており、デビッド・グロスは強く批判している。
著者は基本的に後者に共感しており、人間原理の濫用をいさめている。
最新宇宙論の話題について、わずか200ページで、初心者向けに平易に書かれている。
さすがに、このページ数で素人に多くを理解させるというのは困難で、
やや説明不足気味のところもあるが、それでも思ったより情報量が多い。★★★★
青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(講談社現代新書)副題は「人間原理と宇宙論」
著者は女性の理論物理学者で、サイモン・シンの一連の科学啓蒙書などを多く翻訳紹介している人でもある。
本書は、宇宙論における「人間原理」の考え方を、科学史・科学思想史を紐解きながら科学的に位置づけている。
「まえがき」によると、著者が初めて人間原理の考え方に接した時、
「無内容で非生産的な、宗教的な願望にまみれたトートロジー」だとして、拒否反応を示したとのこと。
「人間が現に存在しているこの宇宙が、人間が存在できるような宇宙だからといって、だからどうだというのだろう?」
と思ったという。しかし、英の天文学者マーティン・リース『わたしたちの宇宙環境』を翻訳していく過程で、
「人間原理、要検討派」に鞍替えしたという。しかし、信仰に目覚めたり、人間中心主義者になったわけではない。
第1章では、古代の天文学・占星術・哲学における、宇宙観の変遷をたどっていく。
古代ギリシアの数学者エウドクソスからアポロニオスを経て、プトレマイオスに至る、
精緻を極めた天動説が完成していく過程を、わりと詳しく追っている。
また、地動説によって「人間中心主義を転換させた」と一般に誤解されている、
コペルニクスの思想を、正確に捉え直している。
コペルニクスは、別に太陽を宇宙の中心に置くことを狙ったわけではなく、
「等速円運動の原理」の回復を目指した結果として
「偉大な球(地球を運ぶ天球)」の中心を、宇宙の中心としたのだ。
コペルニクス自身は人間中心的な考え方を崩しておらず、
そもそも当時は宇宙の中心が良い場所とは考えられてなかった。
コペルニクスが人間中心主義を否定したという誤解の基づく「コペルニクスの原理」は、後の啓蒙主義者が広めた。
第2章では、まず、古代地中海世界に生まれた、「原子論者の“無限宇宙”」「プラトン・アリストテレスの“有限宇宙”」
「ストア派の“有限宇宙+無限空間”」という3つの宇宙観を解説。
次にニュートンの自らの重力理論に基づく宇宙観を解説。
さらにアインシュタインの、有限だが果てのない閉じた宇宙、ビッグバン・モデルの登場と定常宇宙論との相克、と続いていく。
ビッグバン・モデルは、宗教的な天地創造論を思わせるとして、当初は科学者の反発も強かった。
ハッブルによって宇宙の膨張が観測された後も、ビッグバン・モデルには観測データと合わない不都合があり、
なかなか受け入れられなかった。
第3章では、「あれこれの物理定数は、なぜ今のような値になっているのだろうか」という問いを発し、
まず、さまざまな数字の「コインシデンス(偶然の一致)」を検討する。
ハーマン・ポンディは、電子の電荷(e)・電子の質量(m)・陽子の質量(mp)・重力定数(γ)・
光の速度(c)・宇宙の物質の平均密度(ρ0)・ハッブル定数の逆数(T)の7つの定数から、
4つの無次元量を作り、そこに現れる10の40乗という数字の一致に注目した。
ディラックやガモフもこの問題を考察した。
こうした中で、1974年にブランドン・カーターという物理学者が
「大きな数のコインシデンスと宇宙論における人間原理」という論文を発表した。
この頃にはビッグバン・モデルが最有力となっていた(65年に背景放射が観測されたため)。
カーターの人間原理は、「目的論」的に解釈される限り科学的には受け入れられないものだが、
「弱い人間原理」については「観測選択効果」として考えられる。
ここでの「観測選択効果」とは、観測者がいる時間と場所によって観測結果が異なる、といういわば当たり前の原理である。
変化していく宇宙の歴史の中で、人間が観測できるのは、人間が生存できる時期の宇宙だけである。
人間が観測できる宇宙が、人間の生存に都合よくできているのは当たり前なのである。
しかしまだ「強い人間原理」の謎が残っている。
第4章では「多宇宙(マルチバース)」の宇宙論によって、
「強い人間原理」も「観測選択効果」の一種と考えられることが指摘される。
この宇宙が人間の生存につごうよく「ファインチューニング」されているように見えるのは、
無数の宇宙の中で人間が存在できる宇宙に人間が存在しているというだけのことである。
この章では、エヴェレットの多世界解釈に少し触れ、
また、アラン・グースと佐藤勝彦のインフレーション・モデルをやや詳しく説明している。
第5章では、まず素粒子物理学の歴史を簡単にたどる。
次に真空のエネルギーに関して。アインシュタインの宇宙項(λ)の話題や、
スティーヴン・ワインバーグの人間原理を使った真空エネルギーの値の予測などについて説明。
最後に、ひも理論から導き出される多宇宙論があり、それによると宇宙の青写真は10の500乗通りもある。
そして現代の宇宙論では、多宇宙ヴィジョンはデフォであるとのこと。
終章では「グレーの階調の中の科学」と題して、多宇宙ヴィジョンや人間原理に対する著者の考えが述べられた後、
「宗教的真理と異なり、科学的知識は永遠に白黒確定することはないのかもしれない。
むしろ永遠にグレーの階調にあるからこそ、科学的知識は強まり、広がるのではないだろうか」
と著者の科学観がまとめられている。
科学史上の風説・俗説・誤解を正しながら、科学思想の変遷を丁寧に追っていき、
人間原理について科学的に納得できる解釈を提出している。
久々に突っ込みどころの見つからない完璧な科学啓蒙書を読ませていただいた。文句なしの星5つ★★★★★
岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)2013年発行
著者は臨床教育学者で、刑務所受刑者に対する更生支援を行っている。
論旨はタイトルに尽きるが、若干誤解を招きそうである。
実際には、反省を否定しているわけではなく、むしろ囚人が主体的に真の反省に至ることを目標にしている。
正確には「反省を強制すると」と書くべきだろうし、その方が常識的にも理解しやすいはずだが、
インパクトを重視して、逆説性を強調したのだろう。
要するに、不満や抑圧を抱えたままの犯罪者に対して反省を強要すると、
犯罪者は自己の内面に向き合うことのないまま、表面的な反省のポーズだけが上達していくとのことである。
著者の更生支援の方法としては、囚人に社会や親に対する不満などの本音を吐き出させ、
心を開かせ、他人を受け入れる心理に導いていく。
そして自分の心の痛みに気付いて初めて他人の痛みにも気付くことができるとのこと。
例として酒井法子の謝罪会見を参照し、反省することの問題点を指摘している。
いじめ問題では、尾木ママを批判し、いきなり被害者の立場を思いやることを強制するのではなく、
加害者の視点から始めて、まずは、いじめる側の本音を語らせることを推奨している。
最後に、我慢することや、他人に迷惑をかけないこと、男らしく生きること、などを中心とした教育を批判。
他人に頼ったり甘えたりすることが苦手な者が犯罪者になりやすいとしている。
著者の理論としては、親による抑圧とか幼児期のトラウマを強調しており、
やや古くさい精神分析風のモデルに依拠しているようだ。
「反省させてはならない」というのは一見逆説的だが、よく考えれば納得できる話である。
犯罪者は社会に対して漠然とした恨みつらみや憎悪を抱いているわけで、
そうした不満を心の底に押し込めたまま形ばかりの反省をしても、
真の反省にはならないであろうことは容易に想像できる。そういう意味では著者の指摘と実践は重要である。
ただ、親による抑圧を重視しすぎる著者の理論は疑問であり明らかに間違いだと思う。
なんでもかんでも親の抑圧に還元するのは、過去の捏造という精神分析にありがちな暴力になりかねない。
理論としては「心のバランスシート」モデルで理解した方が妥当だろう。
つまり、犯罪者は、親を含めた社会から様々なものを奪われたり被害を被ってきたと深層意識で感じており、
社会に対して巨額の「貸し」があると感じている。
支援者がそうした犯罪者の不満を聞いてやり受け入れてやれば、犯罪者は「貸し」が解消されたと感じる。
そうすると始めて自分の被害者に対する「借り」が真に実感できるようになる、ということではないか。
また、イジメに関して「まず加害者の視点から」というのは考え方としては正しいと思うのだが、
これをホームルーム等で話し合うのは明らかにまずい。
いじめっ子の本音を自由に発言させたら、それ自体がいじめられっ子に対する集団リンチになりかねない。
やるなら個別面接か、いじめっ子だけを集めて話しを聞くべきだろう。
だいたい実際にイジメの真っ最中だったら、まず被害者の保護が最優先であり、
「加害者の視点から話し合って」などという悠長なことは言ってられないはずである。
正直、著者の教育観や人間観には、視野狭窄な思い込みが多く、一見柔軟なようでいて硬直している部分もあり、
支持できないところも多いのだが、非常に重要な洞察※を含んでいるということで、
あえて高く評価しておきたい。星4つ★★★★
※ 重要な洞察というのは「素朴な道徳感情に基づく行いや制度が非常にまずい結果を生むことがある」ということである。
「悪いことをしたのだから反省しろ」というのは、一般人のごく自然な道徳感情であり、これを否定するのは非常に難しい。
著者の主張や実践も、厳しい道徳観を持っている人々には理解されにくいだろう。
そういう人が犯罪者の「本音」を聞けば、即座に「自己中」「エゴイスト」「甘え」と言いたくなるはずであり、
著者のメソッドが広く受け入れられることはないだろう。
自然で素朴な道徳感情が災厄をもたらしている例は、経済問題でもよく見られる。
最近ではユーロ圏のギリシャ問題などは典型だろう。
ブログでやるといいと思う
そんだけ毎回丁寧な論評書いてればアフィ貼っても踏んでくれるぞ
確かにブログでやってほしい。上から目線で恐縮だが、ここまで詳しく書いてくれてたらこのスレじゃなくても読みたいと思う人はいると思われ。
リクエストしてええか?
「新しい労働社会」(岩波新書)やってほしい
深川図書館特殊部落
同和加配
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
江東区立深川図書館特殊
銅和加配
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る 見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る 見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る 見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談 見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた
一般書籍よりもおすすめてきにネットで得する情報とか
グーグル検索⇒『稲本のメツイオウレフフレゼ
BDUAE
江東区立深川図書館特殊
銅和加配
在特
奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る 見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る 見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る 見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談 見ぬふり
公務員による恣意行為
etc
なんのための施設か? →特殊な関係用
翌日、被害者を公務員が脅していた
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