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>>1
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>>1乙です。
20年くらい前までは何両かいすゞBA741の廃車体が残っていたものですが
あれよあれよという間に消えてなくなりBU10も日野RBも数えられる限り。 20年前の野田市駅も良かったな。
本数少なかったけど、越谷・流山・柏(木野崎経由・電建梅郷経由)・市内循環・境車庫等いろんな行先あった。
大利根温泉止まりも柏系統+福田中学経由もあったり。
残った茨急の北越谷・岩井も今や風前の灯火…
>>13
その後の茨城急行か。
乗ってみたかったな。
60km位あるのかな。
話変わってしまうが、日光の湯元温泉から沼田までバイクで下りたけど、
あそこも路線あったんだよね。 今の東武バスで最長の路線ってどこだろうね
深夜急行バスなんかは除けば、川越駅〜鴻巣免許センターあたりがノミネートしそう
>>16
日光だろ
JR日光駅-光徳温泉-湯元温泉 >>18
高崎線沿いのこの路線群が残ってたら乗りバスも楽しかっただろうなぁ
浦33が今でも毎時4本とか走ってても絶対にお荷物だろうけどw
浦和パルコの真上にある図書館で
前スレ >>779にあった同人誌が地域図書の棚にひっそりと置いてあったけど
あのサークルって当時他にも同人誌制作してたのかな(他社含め) >>12
浮上ついでに。
野田市からだと北越谷駅〜野田市駅〜紫ゴルフ場行(野08だっけ?)とかもあったよね。
あとかなり前に野田市駅〜吉川車庫もあったそうだけどどこを通っていたのだろうか。 >>20
野田市駅〜吉川車庫は、野田橋わたって吉川町内は江戸川
土手沿いを走り、前新田経由で吉川車庫まで。野田が担当。 >>20
紫ゴルフ場行は野田市駅や野田車庫を通らず、市役所・法務局入口(ノア前)経由だった。
市内循環も厳密には野田車庫経由で、野田市駅・学校裏・弁天前は通らなかったはず。 >>21
ありがとうございます。
江戸川土手通り沿いでしたか。
今はこの土手通り沿いにタローズバスが走ってるようで(間違ってたらごめんなさい)
>>22
ありがとうございます。
そうでした、紫ゴルフ場行は野田市駅通ってなかったですね。
大変失礼しました。
年代はぐちゃぐちゃですが野田市駅だけで境・春日部・北越谷・越谷・吉川・柏・流山方面(車庫発も入れれば市内循環)といっぱいありますね。 平成2年の路線図から
柏03 野田市=柏駅西口
野01 野田市=北越谷駅
野02 野田市=市役所=北越谷
野03 野田市=越谷駅
野06 野田市=福田小学校=大利根温泉
野07 野田市=流山駅
野08 北越谷=紫ゴルフ場
野09 野田市=野田梅郷住宅
野10 梅郷駅=野田梅郷住宅
野11 野田市=工業団地入口
野12 野田市=木間ヶ瀬=東宝珠花
なし 野田市=境車庫
なし 野田市=岩井車庫
これが最盛期かな?
系統番号無しって野田の管轄だったのか?
系統番号の有無って営業所ごとだったから堺の担当だったんじゃないかという気もするんだが
北越谷〜岩井車庫だったかな、観光格下げ車が走っていたよね
>>28
ありがとう
動物公園〜境車庫と同じ埼玉から千葉を経て茨城だけど一度乗って見たかった 最盛期は北越谷〜下妻〜下館って記述を見たことがある。
良い時代だったんだろうな。
そうでも無いか。
ちなみに北越谷から下妻行きは茨城急行だけどね
岩井警察署も茨城急行だけど岩井車庫は東武とややこしかった
当時は山形、仙台行きのバス停も北越谷にあったのを覚えてる
当時はガキだったからそのバスを見る機会は無かったけど
末期は下妻駅〜辺田(岩井)に短縮され2往復だったと思う。
下妻駅前のバス乗り場案内に、うっすら北越谷行きと辺田(岩井)行きの
表記が見えるからもともと区間便があったのかな
しかし、関鉄も含め空白地域になってしまったんだね。
下妻以北は。
モータリゼーションもバスの不便化も全て悪い方向に行ってしまったのかな。
昭和40年代中盤まで柏から草加まで直通の路線があったそうですが
ルートわかりますか?
>>36
1993年だぞ?
その時点だと、北越谷〜岩井警察と辺田〜下妻とに分かれてる。直通はしていない。 野田市は市内のみなら今のまめバスの方がかなり使いやすいな。
客のつきもそこそこあるっぽいし、東武のやり方がもっとうまければ衰退を逃れてたかも。
野田市周辺は野田出張所と境営業所との兼ね合いが複雑なうえに茨城急行が存在して
野田出張所自体も越谷営業所に余裕があるにもかかわらず埼玉県内へ出向いて稼ぎ出すという複雑な事情があるからねぇ。
それに日枝神社とかの東部や関宿は昔はそんなに人口多くなかったし今でも埼玉県内の平地に比べると開発が遅れ気味のような。
運賃表が幕式だったころ、いわゆる正面方向幕の裏と、車で言うダッシュボードの上に小さいものがあって、2つ運賃表があった。
群馬の太田営業所のバスだったが、他の営業所のバスはどうでしたか?
そのあと、デジタル化されて、方向幕の裏一ヶ所になったけど、いわゆる運賃の変わる境目のバス停「×××まで」の表示が無くなってしまって、初めて乗る人には不便になったと感じた。
前後方向幕で、系統と行先の間に仕切付きの時期が有ったよね
草加の松原団地循環/八潮団地系統がそうだった
>>40
初めて乗る人はその「×××」がどこだか分からんから今の方式の方が楽 液晶のやつでいくつか先まで表示されるのあるけど
常時表示しておいて欲しいんだよな
目を放した隙に画面切り替わってわかんなくなる
北越谷〜野田市って昔は下町経由の方が多かったんだね。
茨急になったらほとんどが中野台経由になって、下町経由はほぼ死にかけだけど。
下町>中野台だったのは昔栄えてたっぽい商店街の力があったのかも?
下町から真っ直ぐ行けばすぐ駅なのに愛宕を迂回してたし、
柏系統もわざわざ駅前の野田車庫を通過後ぐるっと愛宕回ってた。
ついに鴻巣駅〜桶川駅東口 が廃止か…
よくもあの本数で今まで残してたなぁ
昔通ってた高校で、スクールバスでも東武バスの定期券が必要だったんだけど
あれは東武バスがスクールを請け負ってたってこと?
ふそうのオンボロ観光バスを使ってたけど・・?
>>50
スクールバスが東武系のバスでないなら、路線維持に学校が赤字分を出してたのかもね >>49 鴻巣駅〜桶川と同じ11/3、加須駅〜大越馬場もラストです。
桶川は昔、宮原まで行ってたのは覚えてる
もしかしたら大宮や浦和まで行ってたのでしょうか
今は各自治体がコミュニティバス走らせてるし、北本市内は丸建自動車が路線作ったから地元の方は不便は無いでしょうね。本数は少ないけど… >>52
昔は大宮-熊谷じゃなかったっけ
俺は鴻巣-上尾の時代に一度乗ったきりだ 昔、熊谷駅〜鴻巣駅 鴻巣駅〜上尾駅 上尾駅〜浦和県庁前の3路線に乗ったことがある。
鴻巣駅〜上尾駅は本数が少なかった。
昭和48年頃まで熊谷〜大宮通しから上尾車庫で分割(熊08旧道経由と熊14新道経由)。
分割を鴻巣駅入口にして熊谷が大52大宮〜鴻巣で大宮乗入復活。
その後に加須担当で宮03宮原〜鴻巣と行田担当で桶川〜鴻巣運行開始。
最終的に加須担当で上尾〜鴻巣間が残り、朝日移管後桶川〜鴻巣に短縮。
当初しらこばと団地には上尾担当で上尾車庫〜しらこばと団地という短距離路線があったが
駅にも入れない(上尾駅東口ターミナル未整備の為上尾駅始発に出来ない)のでは意味がないので
熊谷担当の大52が寄る事になり廃止(昭和50年代半ば頃)。
その上尾駅東口ターミナルの整備が昭和58年、その頃は1番乗り場に大宮行駅東口行の他宮原駅行が、
2番乗り場には上尾車庫行の他に鴻巣駅入口行が出ていた。
上尾始発になって鴻巣駅・免許センター行は5番乗り場になった。
上尾駅東口ターミナル整備前、上尾駅入口停留所の時代は大65大宮商工会館〜菖蒲上町の路線もあった。
その名残で桶川駅東口から細谷経由(昔は栢間経由とも言っていた)菖蒲上町行でも
系統番号に大65を使用していた。系統番号が大60番代で商工会館発着であるように
宮原一丁目から大成陸橋を渡り国道17号を経由していた。
88年さいたま博覧会の時はBUやREの古参車から5E・HTまで多種多彩にシャトルバスがいたな。
中型車もいたと思う。
さいたま博覧会の頃に熊谷に5Eっていたっけ?
初期のCJM搭載の丸目のやつならもう転属してきたのが存在していた頃なのかな
>>58
5Eは新車で東松山にLVが小川町にCJMがいた
それらが来れば熊谷営業所に関係なく5Eは存在したかと >>60
ミクリ行ってる?
ジャンク市あるらしいよ 朝日バスが
熊谷駅〜流通センター〜行田線を廃止するそうだ。
これで、熊谷駅〜行田方面にあった、4路線すべての路線バスが消える。
かつて80年代半ばまでは、「犬塚経由」「旧道経由」「星宮経由」「新道経由」と、
多岐に渡っていた時代が蜃気楼のようだよ。
>>62
あの路線って20年ぐらい前に乗った感じだと朝夕は流通センター内で乗り降りする人が結構多かくて
車社会のこの辺の割にびっくりしたもんだが今はほとんどいないのかね? >>62
昔は熊谷側も熊谷駅を通り越して水戸屋まで運転してたね。
五家宝で知られた水戸屋も廃業したしな。 >>63
20年前なら1本/毎時、朝晩なら2本あった。
学生移動の減少、流通センター自体の低迷、運転手確保の困難による本数削減で、
利用客は目に見えて低迷してた。
>>64
待機所があった頃ね。
1980年代の熊谷は、モータリゼーションの波を受けてたとはいえ、まだまだバスは活気があった。
秩父鉄道バスも走っていた頃だったし。 80年代は毎年のように運賃が値上がりしてたよなぁ・・
>>62,64
1996年頃一時期だけ行田車庫〜熊谷駅〜水戸屋の路線があった。
行ってた大学が熊谷にあったので
何回か見たことがある。
ちなみに熊谷駅をまたぐ路線は鴻巣まで行くのもあった。 >>67
一回吹上団地で高崎線の西側に出て、また箕田で中山道に戻るやつね。
貴殿は立正大学線がピークの時を知っているんだね。
朝8・9時台3分おきとか。BU10が重連して次々荒川大橋を渡っていく姿は圧巻だった。
立正大・山中経由 森林公園行
立正大・西口経由 森林公園行
大里経由 東松山駅行
三ツ木経由 本畠車庫・・・ 思い出すだけで涙がW。 >>68
(熊08)熊谷新島車庫〜熊谷駅〜旧道〜鴻巣駅入口(鴻巣免許センター)ですね。
詳しい事は>>56で出ているので割愛しますが
鴻巣から向かった時に行先幕が熊13は石原新島車庫なのに対し熊08は熊谷新島車庫と表示されていました。
他に熊03見晴経由新島車庫というのがありました。 そういえば森林公園駅〜熊谷駅の系統って末期まで系統番号が東松でしたね。
昔は東松山駅から出ていたのかな?
>>70
否、立正大学行が東松系統。
昔は、森林公園駅を経由して東松山駅まで出てた名残。 あれ、森林公園駅〜森林公園南口とか立正を経由しないのも東松系統だったはず
というか森系統ってなかったような
以前は熊谷駅〜立正大学、森林公園駅〜森林公園駅南口などの区間便も含めて
森林公園駅〜熊谷駅間の全系統が東松05でした。
森林公園駅が出来る前は東松山駅〜熊谷駅の路線だった名残りです。
90年代後半頃に東松05から森01〜に変更されたときに
区間便にもそれぞれ系統番号が付けられた感じですね。
当時は全部熊谷管轄でしたが、森01は小01と交換で森林公園に移管されています。
下館駅の東武撤退から数年で、関東鉄道まで撤退。
先日、数十年ぶりに下館に寄ったら、綺麗になった駅前とは裏腹に
駅前から人が消えていた。
映画館も消え、完全に拠点性を失っていた。
これがどこにでもある地方のモータリゼーションの進展なのか、と愕然としたよ。
>>75
でも下館の人的にはその方が利便性高いんだろ? 鴻巣駅と免許センター
自分が免許取得した時もまだ路線があった。
川越、東松山、熊谷、上尾、行田、加須、羽生
今、東武なのは川越だけ。しかも本数がへった。
移管して残っているのは東松山と加須だけ。
あとは羽生の残党ぐらいか。
20年ぐらい前だと鴻巣駅で多分加須の埼ナンバーのバスも残っていたのを覚えてるわ
川越と東松山のはいすゞ車があふれる鴻巣駅前で日野車だったから目立っていたな
免許更新で免許センターに行く時に座れるから上尾駅東口から鴻03に乗ったなぁ。
ようやく富士重5EのP-LV314Lが出回った頃。
朝日移管後に日野で唯一朝日加須に行った元上尾車?の中型にも乗れた。
日野の中折4枚扉の中型は加須に行った1両だけ移籍時期が早くて側面方向幕を小さく改造していたんだよね。
昔の東武バスどころか「昔の朝日バスを語ろうよ」でもネタが出てきそうだなぁ。
廃止路線や引退した車両も出てきてるし。
>>12
野田市駅〜岩井車庫だけど、1時間に1本しかないから使いにくい。
>>30
ネットで見たら、境町〜東北本線間々田なんて言う路線もあったんだね。
>>57
ペラペラの券だったけど、常備式の往復乗車券を売ってたんだよね。使わないで持ってるよ。 >>81
>ネットで見たら、境町〜東北本線間々田なんて言う路線もあったんだね。
佐川野・小堤と県道190号線を行けば一直線ではあるね
小山〜古河間において東武が国道4号経由で通っていたのに対抗して
関東自動車が遠回りして古河まで伸びてた時期があって
佐川野はその区間の最大集落だった
そこにくさびを打ち込んだ形になるんだけどね 前から気になってたんだけど
http://www.eris.ais.ne.jp/~kunyu/toubu/toubus3804.htm
の埼玉県にある525番目、大宮駅東口から指扇経由川越駅前ってなってるけど
そんな路線が本当にあったのか疑問
なぜなら『地域とともに−西武バス60年のあゆみ−』P146に西武自動車時代の
大宮〜本川越間の乗車券が掲載されているが
発行が(東)大宮駅になっていてこれは東武大宮駅を意味するもので
東武野田線大宮駅に委託販売(かつて西武の大宮川越間は大宮駅東口から出ていた)
していたものになる
もし競合路線だとするとこんな乗車券は存在しえない
共同運行していたという話は聞いていないのでどういう事なんだろう? >>83
東武は上江橋でなく平方経由と思われ。
521と526を合わせた距離が、丁度525のそれと同じになるのがその理由。 昔、湯元温泉に出札窓口があって、バスのみならず電車で浅草まで通しの乗車券を売っていた様な。
「湯元温泉」じゃなくて「湯元温泉駅」じゃなかったかな?
>>83
大宮駅東口〜吉敷町〜武蔵野銀行本店〜(西武大31)〜指扇駅〜(扇01)〜
平方〜(川越06)〜川越駅という経路。
しかも、大宮駅東口周辺は
仲町→ときわ通り→氷川神社前→氷川参道→市役所前→東口駅前通り→仲町
という循環経路。
戦前の総武鉄道から引き継いだ由緒ある路線だったはず。
当時大宮〜指扇で競合していた西武大31(大宮駅西口発着)は朝夕のみの運行だった。 >>82
茨城は撤退が早かったから資料も少ないですよね。
昭和50年代前半には境持ちの路線が殆ど廃止され
(沓掛や下妻、古河周辺)境の路線を持たせる為に
春日部周辺の路線を境に移管した経緯もあります。 境営の路線で調べがついている路線は、沓掛〜半谷〜生子〜境線が昭和51年末で廃止。
古河〜前山〜駒寄〜沓掛〜弓田〜岩井線が昭和55年5月末、前記路線の生子経由が
昭和57年。境〜前山〜若〜下妻が昭和59年末でそれぞれ廃線になってます。
>>81
この前。野田市発岩井車庫行きを見たのですが、ポンチョでした。
もうダメかも知れませんね、あそこは・・・ >>89
時間帯によって使われる車が違うんですよ。
先週の野田市11時発のは、中型車(日野ブルーリボン?)が入ってた。 >>90
なるほど、確かに私が見たのは夜の便でした。
岩井車庫も本当に車庫に成り果て、かつての出張所の面影はありませんね。
隣の葬儀場も含め敷地でしたが・・・・ まぁ、出張所っていっても所属台数30〜40台あってそこらの営業所よりよっぽどデカイ所もあれば
数台しか所属していなくて検査ピットすらないような所まで様々だからなぁ
江戸川台も乗客は減ってきてる中、バスは意外にもどんどん増えてきたな。
ただ、一時期江戸川台〜がんセンター&柏〜がんセンターを無理矢理くっつけた便は意味わからんかったが。
>>92
そうですね、古河も岩井も大きい検査は境でやるから回送ついでの営業系統
があったりしましたね。
下妻なんかは砂沼の近くに出張所構えていた時は別ですが、茨城急行へ譲って
からは駅前の事務所と折り返し場だけでしたからね。
電話点呼だったんでしょうか? >>89
>>90
野田市11時のバスには何度か乗った事があるんだけど、自分が乗った時もポンチョじゃなくて中型車だった。
稲荷前のあたりですれ違う野田市行きも、中型車。
確か大利根ゴルフ場のあたりでは、野田市方面に向かう回送とすれ違うんだけど、これも中型車。
どこまで回送するのかは分からないけど、例えば野田市までの回送なら終点まで
大正大学までの回送なら愛宕駅まで客扱いすれば、僅かでも増収になるのに・・・。
ポンチョは、せんげん台〜山谷〜せんげん台の路線で見た事があるから、そこで使われている車両かも。
自分はこの路線に乗る機会は月に一回くらいだけど、この路線ではポンチョしか見ない。 >>97
どんなルートでしょうか?
バスラマ年鑑で東武の特集やってはいたけどバスラマアーカイブスは出る気配全くなし。
関東バスでアーカイブスを出版して以降年鑑の特集とリンクしてたような気がしてたので
これはアーカイブスが出るかなと期待はしているのだけれど・・・。
業平橋に出版に対応できる程の資料がなく、営業所も撤退と分社化で資料を処分しているので
ネタがないという話を以前から聞いたことがあったのだがそうだとしたら残念。 鴻巣は、80年代半ばまでは、多方面の営業所から来る東武バスの楽園だった。
貸切改造車が、宮原からアリコベール前を通って上尾駅ロータリーに侵入し、
鴻巣に向かう姿を見たとき、胸踊ったよ。
今だったら、携帯カメラで撮影だろうけど、
昔(87年頃)はそんなことできなかったから、残念だよ。
「1970年代〜1990年代前半までの東武バス写真集(路線図変遷付き)一部カラー400ページ」
なんて出たら10,000円でも欲しいよw。
>>99
敢えて言えば、高崎経済大学のナントカ教授の本が近いかな。 都バスみたいに路線図が定期的に配布されていたわけではないので資料が少ないね
東武時刻表のバス時刻表は駅発の時刻のみで詳細な経由地はわからないけど
それでもこんな路線があったのかと結構楽しめる
>>98
以前、境出張所が廃止になった日を聞いた事があるんですが。
東武バスからの回答は「資料が無くわかりません」でした。
公式表記が無いんですよね。
実際調べに調べて判明はしましたが・・・・ >>103
マジっすか?
さすが東武と言うか何と言うか・・・。 しかし鴻巣運転免許試験場行きのバスも激減したんだな。
こんな状態だから、試験場に免停の講習に行くのに車で行く馬鹿が多いんだろうな。
>>108
バスの本数とその行為は関係ない。
本数が減ったとはいえ、朝日バスは数多くある。
むしろ利用者に対し本数が多いくらいだ。 減ったのは川越のみだからなあ
朝日や川越観光はそのままの本数を維持している
元々鴻巣駅〜免許センターの区間における東武川越車のウェイトなんてほとんど無いに等しい状態
気になってるんで教えて欲しい。
昭和60年頃、岩槻駅から真福寺行きのバスがあったと思うのだが。
ちなみにその頃は、上尾駅西口がまだ整備される前で、
今はなきキンカ堂脇や一方通行を川越行きのバスが爆走してた。
東武バス 大宮駅ー平方ー荒子ー大串ー江綱ー東松山駅のルートがあったと思いますが、本数と廃止時期を教えて下さい。
今、某転職サイトで西武バスが募集してますが、どうでしょうか?
因みに、大宮営業所希望です。
東武バス・朝日バスの3社で悩んでます。
>>113
wikipediaに書いてあるよ
>東松山駅 - 亀の甲 - 荒子 - 小見野 - 平方 - 大宮駅
>晩年は1975年に東松山駅 - 平方、平方 - 大宮駅に分割される。平方 - 大宮側は上尾営業所に移管され現存。東松山駅〜平方間は1978年廃止。
正確には大62大宮〜平方間については当時は大宮営業所の担当。西上尾移管はその後。
平方発東松山行の最後は一日2回だったはず。
荒川に架かる開平橋は新橋に移行した後。
廃止後川越駅から出丸行が出来たがしばらくして廃止。 >>116
大62は20年ほど前は大宮担当が主体で、西上尾は少数だった。
当時は大64もあり、それと絡む運用が西上尾の車両で来ていたと思う。
上尾への完全移管の時期は覚えてないが、宮原の西口にバスが来るようになってからかもしれない。
大51の大宮移管の前の可能性もあったがそこまでは不明。 >>117
当初西上尾は大60のみの運行だったと思う。
昭和57年に大宮駅西口にDOM(ダイエーと丸井)が開店した際、西上尾第一団地からチャーター便を運行し、定期化したのが大60。
大64はツーマン路線だった都合もあって長らく上尾本所の担当で大石回りの尾09の一部便が出入庫の為に運行されていて
上尾担当便は柏座下を通っても後乗り整理券方式だった。 118補足
20年前だと大62は共同運行していたかも知れない。
大65が今のルートになったのが昭和60年頃と記憶しているんだけど
それより前は大62は吉野町の運行だったはず。
吉野町と西上尾の移管については旧尾10(上尾駅西口〜日産〜平方)や扇02なんかも絡んでくる話で
昭和50年代に目まぐるしく管轄が変わっている。
昭和57年に西上尾に3扉車が導入され、整理券方式の路線でも運行可能になっているけど
それ以前に整理券装置を搭載していたのは47年式の数両(7110代?)だけだったと記憶している。
予備車として上尾本所に貸し出す為のものでよく平塚線を走っていた記憶がある。
西上尾が大62を運行できるようになったのは3扉車が過半数を占めて運用の制約がなくなったからだろうね。
それとは別に扇02が移管された時か秀明上尾高校が開校してスクールバスを受託した時かに
上尾本所から7337が、川越(神明町?坂戸?)から7254が西上尾に転入してきている。
その他に西上尾に1両か2両前後扉車としては初期の車両がいたはず。大60定期運行化の時に転入?
>>111
真福寺車庫からの岩槻駅入出庫が路線化していたというのは自分も聞いたことがない。
回送に便乗させていたのだろうか・・・?
ただ目の前に国際興業が走ってて回送にお客乗せるとなるとかなり問題があるような・・・。 昔の東武バスの中ドアだけのツーマン専用車は、前ドアを付けてワンマン改造されたものがありますか。
廃車や中古で地方のバス会社にいったのがほとんどなのだろうか。
>>120
越谷営業所の片隅に何台か留置されていて近所の子供の遊び場だったな中ドア車
2000番台だったけど、前ドア付けたクルマは記憶が無い 最初から前ドアが付いた2000番台は中ドアが引戸だったから区別がついた
中ドア車は折戸だったからね
>>120-121
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
改造事例はあったものの手間がかかりごく少数にとどまったようです。
ベース車の条件的には昭和41年式以降、中引扉に限られており、
そもそもドアエンジン自体を装備しない中折扉の車両は改造対象ではありません。
ツーマン車の置き換えを優先した結果、三方シートではない42年式以降のワンマン車は延命され
昭和56年頃ではほぼ現役でした(三方シートの41年式は早期に引退したようです)。
57年頃から一気に42〜44年式の代替が行われたのは記憶があります。
また、中引扉ツーマンは40年から導入されており、
大宮や上尾には昭和50年代初めには中折扉のツーマン自体が存在せず地域の違いがあるようです。
確かに柏や越谷は折扉でしたね・・・。
中引扉ツーマンは当初練馬から配属されていますがいすゞが40年に大きなマイナーチェンジを行っており、
その前のモデルで引扉のツーマンと言うのがまとまって加須に転出しています。 昭和59年当時、朝日新聞が埼玉県内で「ターミナルガイド」という冊子を購読者に配っていた。
内容は埼玉の主要駅のバスの案内が載っていて、そのなかに岩槻駅に『真福寺』行があった。
まさか車庫だとは思わなかったから、その頃は有名なお寺で観光便なのかなと思っていた。
記憶だと北越谷から「下妻駅」行もあった。
まだ小学生の自分には「下妻駅」がどこの何線なのかもわからなかったので、
記憶に鮮明に残ってる。そもそも北越谷駅もどこだかわからなかったのだけど。
春日部駅の「東宝珠花」行。これもなぜか記憶に残ってる。
熊谷は秩父鉄道バスの「観音山」や東武の「立正大学」行。
立正大学行が記憶に残っている理由は、子供心に立正大学を知らず
「立教大学」と間違えじゃないかと思っていたから。
確かに「真福寺」はあったんだけど、記録にないし、
ターミナルガイドも30年も前の話で喪失してるし、モヤモヤしてるんだよね。
ターミナルガイドは記憶が確かなら、上越・東北新幹線の写真が表紙だった。
>>124
真福寺ですが昭和61年の埼玉県バス協会の路線図には載っていませんでした。
この頃熊谷管内では籠原駅発で秩父鉄道と競合する路線では御稜威ケ原工業団地だけが残っていました。
(昔は観音山にも路線があったはず) 昭和50年代 北千住から田島ぐらいまでバスだけで行けたのかしら?
>>126
昭和50年代だと50年代初頭でも少し遠回りしないと無理です。
まだ春日部〜栗橋間が関宿経由でつながっていたので春日部以北はまぁまぁ大丈夫ですが、
日光街道沿いと言うルートは春日部以南で寸断されていたかと。
春日部〜栗橋〜古河〜館林〜関東自動車の佐野行に乗り換えて東武佐野線田島駅、とボケてみる(笑)。
会津田島なら古河から栃木へ出て宇都宮まで、あるいは古河から小山へ出て小山から関東自動車で宇都宮へ出て
宇都宮から関東自動車で鬼怒川でしょうね。昭和50年代では鬼怒川〜会津田島間はありますが会津乗合の片乗入です。
鹿沼〜今市間はその頃あったかどうかですが鹿沼と栃木の間はどちらにせよ東武バスではありません。
問題は春日部以南ですが、例えば春日部に出なくてもいいなら吉川から野田市を目指して関宿で件の春日部〜栗橋線に合流するかですね。 >>127 早速レス感謝です。昭和50年代前半の東武でも会津田島までは東武バスでは行けなかったんですねorz ありがとうございました。 東武バス 白岡駅ー東武動物公園
白岡駅ー春日部駅
大宮駅ー岩槻駅ー岡泉ー幸手
いつごろまで、走っていましたか? どなたか教えてください。
ひろゆき氏の2ちゃんに書き込みがあった。
おそらく反応がないと思うので、知ってる人教えてあげてください。
>>129
廃止時期は全然わからないけど
白岡駅〜東武動物公園西口間は昭和57年に東北線で踏切事故があって
乗ってた電車が白岡駅で抑止されて駅で途中下車したら
誰も乗せずに東武動物公園行のバスが出て行った
出て行ってからあのバスに乗れば東武動物公園駅(杉戸駅)に行けたんじゃないか?
何で案内しないんだと駅前広場が騒然としていた
動物公園西口から動物公園駅まで相当の距離があるというのを
騒いだ人たちは気付いていなかったのでしょう
白岡〜春日部間は平成元年頃乗った記憶があります
菖蒲上町〜白岡駅〜春日部駅西口〜白岡駅〜菖蒲上町でダイヤ半分と言う行路表で
その頃には1日1本、太田新井〜内牧東光園の単独区間でも2〜3名の乗客がいたのを覚えています
岩槻〜幸手間は昭和50年代末にはもうなかったと思います >>130
回答ありがとうございます。菖蒲上町ー加須駅の路線もありましたか? >>131
菖蒲〜加須間は全然記憶ないです
すみません
ただ昭和50年代にはなかったと思います
大宮〜桶川〜加須間ならうっすらと記憶があります
上尾の大51・浦33に混ざっていすゞの車が中山道の上尾車庫以南を走っていて
(昭和48年頃熊谷からの路線は一時的に上尾車庫で打ち切り、
後に鴻巣駅入口分割で大宮〜鴻巣間の大52として大宮乗り入れ再開)
水上公園の応援でもないのに何でいすゞ車が走っているんだろうと方向幕を見たら
菖蒲上町と書いてあってびっくりした記憶があります ちなみに大宮〜桶川〜菖蒲間の系統番号は大65で大60番台である通り始発は大宮商工会館でした。
国道17号を大成陸橋を渡った宮原一丁目まで進み中山道に入っていました
区間便だった桶川発も大65を名乗っていて大宮乗り入れ廃止後もそのままでした
大宮駅西口〜リハビリセンター間が大65を名乗るようになって桶川〜菖蒲間は桶02と幕変えとなりました
>>132 >>133
昨年、桶川駅ー鴻巣駅ー免許センター行きが廃止なりましたが、大宮駅ー熊谷行き昭和50年代まで残っていましたかね? >>134
熊谷から直通で大宮まで行っていたのはツーマン時代。
昭和48年8月のワンマン化の際に熊谷からの直通は上尾車庫までとなった。 スペシャルゲスト
太川さんと蛭子さんだよ みんな秘密ね!
スペシャルゲストいうから
青白塗装のP-LV314L富士重5Eが来るんかと思った
いすゞオーナーズミーティングに姿を見せる訳じゃなく
4年前か5年前のアルピコバス祭り以来姿見せてないよね
来たら楽しいとは思うけど、あくまでマニアが保有する非公式な車両だから、呼べないんじゃない?
塗装も本物の青塗装とは少し違う
≥≥141
どこが違うの?俺わからん!
インターネットアーカイブでMNAの公開してた頃の車両在籍資料とか見れるよ。
>>143
インターネットアーカイブで東武バスギャラリーの掲示板の一部が見れたけど
あの電波飛び交ってるのがもう一度見たい 北越谷〜春日部にかけて国道4号を経由する路線っていつ頃まで残ってたんでしょう?
具体的な起終点が分かると尚有難いです。
(80年時点の人文社道路地図にはバス停の印がある)
>>147
越谷だったか北越谷から旧4号を経由して岩槻へ行く路線はあったようだけど春日部まで行く路線あったっけ? >>147-148
http://www.eris.ais.ne.jp/~kunyu/toubu/toubus3804.htm
ここの444番目に載ってる。
あったことは確かだけどいつまであったのかは記憶がない。
昭和55年時点では多分ないと思われる。
人文社の地図は廃止系統を消し忘れるので有名だから好事家には手放せない存在なのよ。
ちなみに過去レスにあった春日部〜関宿〜栗橋の江川分割は昭和53年らしい。
>>148
元荒川の対岸を行く越谷駅〜北越谷駅〜第六天神社〜平野〜岩槻駅でしょ?
(上記のリンクで452番目) >>148-149
回答有難うございます。
ちなみにその人文社地図には第六天回り岩槻の経路は載っておらず…(停留所が気になる) しかし,
神奈川県郊外今でもこまかく路線網があるのに
埼玉県郊外はほとんど死んでいるのは,
単純にバス需要の差がそうさせるのだろうか?
それともバス会社のヤル気の差があるからなのだろうか?
>>155
地形の問題もあるのでは?
平坦で自転車通勤がしやすい 平坦でない県西部や秩父なんかでも死んでるからなあ
東武エリアと比べて国際興業エリアの飯能あたりのほうが山間路線が残っているから
東武の場合は鉄道直営による高コスト体質がもたらしたと言えそうだが
南河原村には東武バスは乗り入れていたが,
五霞村には乗り入れていたのかな?
>>158
昭和54年の東武時刻表を見ると幸手から大福田へ向かう路線があるね 東武時刻表なつかしいな。
このあたりから私鉄各社がオリジナル時刻表を出版するようになったんだよな。
近鉄時刻表はその前からあったが。
この頃も「昔はこのあたりまにもバスが入ってきたのに今はなくなっちゃってねー,
○○まであるけば県道経由のバスがあるにはあるけど1〜2時間に1本くらいでねー」
という言葉が聞かれたが,いまじゃその「県道経由」すらなくなっている。
>>157
皆野の場合西武がやっていたとしても無理でしょ、多分。
都幾川周辺がイーグルになっても苦戦してるようだし。
>>158
朝日で運行している幸手駅〜五霞役場は元々東武の路線。
他に「五霞村」からは栗橋と関宿方面に路線があった。 都幾川のイーグルは苦戦も何も町が委託してるだけじゃないの?
昭和60年の茨城県地図では江川車庫までの路線が既にないね
昔の水上駅前の東武バスの写真を見ると、前後ドアなのに、後ろドアを使用しないで、前のり前降りにしていた理由はあったのだろうか?
他の群馬県内の営業所は後ろのり前降り、関越交通に移管したら後ろのり前降りになったし。
水上地区だけ、トップドアの路線バスが集中配置していた名残で、埼玉の営業所から移籍した前後ドア車もトップドア車に合わせたとか。
日光もたしかトップドアの路線車と観光バス格下げ車に合わせるために、前後ドア車も前ドアのみだったような気がします。
>>164
山岳路線だから。
曲線かつ勾配のある停留所で前と後(中)を同時に合わせるのはきわめて困難。
箱根のバスと同じ理由。
また降雪が多い場合も前乗前降のほうが運転士の負担を軽減できる。 >>161-162
イーグルが苦戦しているというか撤退したのは嵐山だね。
>>164
日光の前後扉車については運用が限定されていて
原則奥細尾までしか行かない「市内線」という扱いでした。
今の中型車の運用に似ていますね。
丸型の大きなヘッドマークをつけて運行していました。
昔は確か後乗りだったような気がします。
また、今市出張所の車両も西参道まで乗り入れていて
ゴルフ場線(日光営業所の前を通る路線)に入っていた記憶があります。 東武バス江川春日部線。
小学生自分、最末期の路線を自転車でたどるも、
船戸橋で断念…。
この時には白岡春日部線も1本になってたから、
乗りたかったなあ。
スレが寂れているのであげも兼ねて、知らない若い人のために。
つくばエクスプレス開業で大打撃を加えられるかと思っていた路線網も
意外に再編で残ったり、新たな需要を生み出したりしている。影響は最小限に抑えられてる。
しかし1983年開業のニューシャトルは開業規模は情けないほど小さかったけど、
この開業でことごとく沿線の東武バスの主要路線は大打撃を受けた。
大成(鉄道博物館)駅:大宮駅東口〜三進自動車(朝8・日中4本/毎時)大幅減便→その後廃止
加茂宮駅:宮原一丁目利用客減少
東宮原:宮原メヂカルセンター線利用客減
しかも同時に東北線土呂駅開業で稼ぎ頭だった植竹周辺の乗客も大幅減。
新幹線開業による特急廃止で高崎線・東北線とも本数倍増(朝7本→10本・日中2→4本)。
便利になったことで、わざわざ大宮までバスで出る必要がなくなった。
大宮駅〜宮原メヂカルセンター((朝8・日中4本/毎時)大幅減便
しかも混雑路線で料金先払い方式3扉車だった。これが今では・・・。
長くなるので次で。
今羽駅:大宮駅東口〜第二住宅(朝5・日中2本/毎時)大幅減便→廃止。
本郷第二住宅・今羽団地の人が宮原駅まで出るのに1.5キロあったことと、
宮原駅が高崎線の本数が少なくて使い物にならなかったこと、
昭和50年代半ばまで大宮駅までの料金が160円ほどだったこと(既に国鉄は大宮宮原間160円だった)などもあって利用客が多かった路線。
これもメヂカルセンター線と同じく神明橋付近での土呂駅開業と、国鉄の本数増加、バスの毎年の値上げであっという間に客離れが進んでしまった。
吉野原駅:大宮駅東口〜工業団地東・原市団地 →朝4本/毎時廃止
大宮駅東口〜吉野町車庫 →本数大幅減(朝2・日中1本/毎時)
宮原駅〜工業団地東・原市団地 →本数大幅減
吉野原にある工業団地に通勤するための輸送バス。
朝晩は満員御礼の状態で駅とを結んでいた。
ニューシャトル開業後もニューシャトルの高額運賃(今と20円しか変わらない)
宮原駅〜工業団地東線はそこそこの乗客を確保していたが、
やはり上記したバスの値上げと、工業団地自体の活気の低迷で利用客が瞬く間に減って、今では見るも無残な姿に。
疲れたので次回に続きまた書き込みます。
>>169 書き込んだものだけどちょっと余談
私と同じ中年世代は知っているけれど、若い人で東武バスのファンの人は
不思議に思っているかもしれない「大宮営業所」のあの辺鄙な位置。
なんであんな変なところにあるんだろうと思われるかもしれませんが、
当時大成にあった車庫が手狭で、移転を模索していたところ、
工業団地線・原市団地線・宮原メヂカルセンター線・第二住宅線
それに平方〜大宮駅西口(商工会館)線と比較的利用客が多かった
路線を網羅できる位置にあったため、あんな場所になった。
大宮駅東口〜上尾車庫は70〜80年代、超ドル箱路線だったことと、
上尾駅での折り返しができなかったために、旧上尾営業所で扱うことに。
幸か不幸か、その後大宮営業所内の路線が壊滅的打撃を受けていた中、
上尾駅前整備、北上尾駅開業で旧上尾営業所環境が大きく変わり、
今の大宮営業所が旧上尾営業所の役割を担っているというのは、本当に皮肉な限りだよ。 なんでこんなところに営業所が?っていうのは東武ではよくある話だよな
>>171
旧住宅公団分譲の工業団地内にあるバス営業所って普通じゃないのか?
西武の川越とか狭山もそうでしょ >>172 西武バスとは、全く違う話。
>>171が言いたいのはそう言う意味じゃないと思う。
例えば、岩槻営業所や旧加須営業所も、なんでここにという場所にある(あった)。
岩槻は、野田線で大宮経由より北浦和に出た方が安かったので、かなりの本数があったのに
やはり80年代のJR移行の時にバスが毎年運賃を値上げしたことで、一気に衰退。
宮下折り返し便が多くなった今、岩槻営業所が位置的に無駄になっている。
加須もそう。
東武晩年はなんでこんなところにという場所だったけど、
昔、栗橋や大越経由の羽生駅、むさしの村、不動岡高校経由の路線など賑わっていた時期があった。
その後の時代の流れで、相次いで路線が廃止になって、あんなさみしいことになっていた。
今は行田出張所の路線を移管して、朝日バスが運行しているし。
同じ県道沿い、それもあまり離れていない距離に、車庫が二つあったということが
昔の東武バスの栄華を垣間見ることができる。 スカイツリーにある東武バス案内所で
メモリアルフォトブック売ってた
熊谷の格下げ車の型式がLVになってた
けど違うよな
沿革と過去の代表的な車両、新車とラッピング車、
運転訓練車のカラー写真
特にオリジナルバスカードとテレフォンカード
非売品の柄もあって貴重だった
500円だけど損はしないと思う
>>173
延々と国際興業の路線エリアを回送していく岩槻車を見ているとおいそれと車庫を移転できないのが難しい所ですね。
(実に東新井団地からの回送は片柳小学校〜浦和東高校〜真福寺で回送している)
天沼車庫の位置も目の前の浦44は吉野町車庫が担当していて大宮から浦和に回送している状況ですから
加須のように路線の廃止によって孤立する車庫もあれば維持出来てはいるけれど環境の変化によって孤立している車庫もあるという感じですか。
路線廃止で出入庫以外が孤立化した営業所は結構あって現存は草加、廃止・移管だと深谷や本庄宮本町や菖蒲(元々ターミナルが別にあった)等が挙げられます。
>>174-176
クイズラリーの景品で配った初版と一般販売は装幀が違います。
しかし500円とは安いですね〜 深谷地区末期は本庄から回送してたしなぁ
もっとも、直営末期に新設された森林公園が小川町まで長距離回送していたように
東武としては回送距離より営業所の数が多い方がコストがかかっていたのかも?
白石車庫線の終バスは皆谷から森林公園まで回送でその距離約40km!
>>169 続き
原市・沼南・丸山駅
東大宮駅〜砂団地〜瓦葺・がんセンター〜上尾駅東口(毎時2本、その後補助金バスへ)
原市地区が不便だったこともあり、そこそこ需要のあった路線。
しかしニューシャトルができると激変。
原市駅から大宮駅までが13分、沼南駅からも14分でつくので、わざわざ
東大宮に出る理由がなくなった。
志久駅:上尾駅東口〜小室志久〜伊奈役場
伊奈中央・羽貫駅:上尾駅東口〜六道〜伊奈役場
小室志久経由の伊奈役場行はニューシャトル開業後もそれほど本数は変わらなかったけれど、
六道経由伊奈役場行は、伊奈町の中心地を通ることもあり、日中でも毎時2〜3本、朝なら5本あった路線。
伊奈町の唯一の交通手段だったことで、乗車率はかなり良かった。
しかし、ニューシャトルで20分くらいで大宮駅まで出られるようになると、
やはりわざわざ上尾からという人もいなくなった。
拠点性を失ったことが上尾駅前が綺麗に整備されながら、近隣市町村より駅前商店街の衰退の速さを招いた。 東大宮駅からがんセンターに向かうバスがほんのわずかな時期にあったようですが
いつ頃の話ですか?尾山台・原市団地経由ですか?砂団地経由ですか?
>>181
1984年頃までで、砂団地経由だったと思う。
記憶が曖昧。詳しい人お願いします。 >>168
大成は大66以外に大63も通ってた。
大63が西口に移った際に大66は三進自動車行から富士写真入口行に変更。
その後さいたま市の政令市化で宮原駅に伸びたが廃止。
大42については2002年にメディカルセンターから宮原駅へ区間延長。車両は1996年以降中型。 >>183
それはもう1990年代後半前後の話。
投稿者が主張したいのは、全体的に打撃を受けましたよということじゃないの?
そんなこと言いだしたら「三洋電機行」だって抜けてるし。
まあこれは、三洋電機自体がなくなったことによるけど。 >>184
183だが、ニューシャトル開業による影響は記憶がないので、
書いた内容は埼玉に来て、記憶がある1990年以降のもの。
183で書き忘れたが、三洋電機前行もあったな(後に岩谷産業前に変更)。
大宮の東口から出ていた当時の大63と大66の出入庫で、
系統番号は大41だった(西武バス
にも同じ系統番号はあるが無関係)。
大63と大66が西口発着になったのは1994年。その際に大41は廃止、
大66は出入庫の富士写真入口行になった。 三洋電機を語るなら日進経由三進自動車・大宮駅西口と松原住宅経由別所団地のツーマン系統は欠かせませんね。
大41から分かれて何でこんな狭い道を?と思うところに車掌誘導があるとはいえ全長10mクラスのバスが突っ込んでくるのは圧巻でした。
別所団地線が宮原駅西口発になった今でもその片鱗は駅を出てしばらく先で体感できますが。
また三洋電機には大宮商工会館から大成陸橋を渡り宮原一丁目で旧中山道に入る菖蒲上町行きもありましたね。
>>186
昭和28年まで鬼怒川〜田島間で滝ノ原に行く事は出来ました。
会津乗合に移管された後は野岩鉄道開業まで運行されていました。 22時代の最終のみの大41三洋電機前行き、懐かしい。
大42の中型限定もそろそろ解除できないものか…。
>>170
吉野原工業団地整備の一環で開発した土地に
当時は大47と宮05、そして現在の大53の本数を一定数確保する事で
バスターミナル機能を持たせる代わりに
車庫を丸々移転させるという条件だったそうですが、
蓋を開けれ見ればご承知の通りです。
つつじが丘公園の横から宮05や尾52に乗る稀な客以外は
停留所すら不要な状態に……。
今後出方次第では大53が増える=大51と尾52が減便と見ているのですが。
>>189
大42は現状でちょうどいい本数とちょうどいい輸送力ですので。
中型限定の「朝日自動車方式」でこのまま続けると思われます。
むしろ更に別所団地を終日中型化して宮原駅発着路線の完全中型化を行い、
別所団地線の本数増と別所町北端部(上尾市西宮下方面)への延伸を期待したいところです。 「朝日自動車方式」もグループまでは徹底されていない?
川越観光が大型を入れてるのも謎
>>191
川観は単に鳩山ニュータウン系統が運び切れないからで鴻巣とかは中型でやってる
運び切れないという理由なら国際十王も朝日本体(本庄の早稲田)ですらも大型は存在する
限られた時間帯だけのラッシュ輸送なら中型で本数増やす(朝日菖蒲の上尾系統や寄ってたかっての鴻巣免許センターなど)方向だが
その場合人的にも車両的にもコストが増える
大型1両でちょうどいい客数に中型2両持ってくるのが裏を返すと朝日系のデメリット 昭和59年と63年の館林市地図を見比べるとバス路線がなくなってる
過疎ってるからたわいもない事書き込むけど、
蓮田駅〜上大崎〜菖蒲仲橋の路線は、本当に味があってよかった。
本線から外れた集落をだらだら右へ左へと寄っていく様は、
これぞ東武バスの路線という感じだった。
オレンジに塗り替えられたBU10が走る様は、今でも記憶に残ってるけど
写真を撮っておけばよかったと後悔してる。
バイパスが開通して旧道を通るようになったせいで右へ左へいってるように見えるって路線もあるね
0:28位から東武バスが少しだけ映ってる。 >>193
東武バスの館林撤退は1986年3月
館林に最後までいたのは7596 >>198
前中ドア?
前後ドアの6319〜6322は越谷にいたな バスジャパンに東武バスアーカイブ出してくれないかと期待してるんだが
今回のローカル路線バスが水戸-長野だったので東武全盛期だったらなと思うところが幾つもあった
>>202
今回のって古河から境車庫へいって埼玉からまわっていくのが正解だったのかねぇ
太田からは比較的スムーズにいけてたし、太田へは埼玉からアクセスしやすいから1日稼げた予感 >>202-203
全盛期だったら水戸から高崎まで全部東武で途中歩かずにつながったんだろうか。
古河から境車庫とか、もっと手前の土浦から水海道〜岩井〜北越谷とか、とにかく埼玉に入るのが
どうやら正解だったみたいで あの番組って想定ルートは歩かないでも行けるように組んでるのかな?
横川駅まで歩いていかないとならないのは回避ルートあるのだろうか
草津の方から長野に出るバスってあるのかな
>>205
歩き前提
埼玉は前通った時てこずったからねえ 昭和54年の東武時刻表を見ると水戸から高崎までは東武だけで行けるね
そう言えば東武もスポンサーなんだよな
東武ワールドスクエアが提供各社に名を連ねてる
埼玉脱出で群馬に行く事を考えるとアウトになる場所が変わるだけじゃない?
埼玉脱出できても群馬〜長野とかどうする気だったのか
>>210
太田だかで実際に乗車したルートに合流すればあとは上田の案内所の人が言ってた終バスに乗り継げたんだよ 今回は栃木〜群馬あたりのコミュバスで時間食ってるから
あれは埼玉経由で単純に時間計算しても1日丸々浮かせられる
1日浮かせられれば上田から前回通ったルートで長野に出られる
最もそういう失敗も含めて番組として成り立ってるからゴールできるのが正解とは限らないんだけども
というかこの手の元祖のTBSのそこが知りたいって番組の頃は
路線網が充実していたというのもあるが
日本バス友の会や製先スタッフがが事業者に事前に調査し
絶対に失敗しないように手配していたからね。
逆に事前に分かっている(取材許可を得る為に事前申請は必要)ので
事業者が新車を用意してしまうのが悩みの種だったとか。
まぁ新車が導入されない群馬栃木茨城の常勝オレンジ軍団では関係ない話だったんだけどw
製先スタッフがが=制作スタッフが
今でも取材許可自体は事前に申請しないとだろうから
成功がわかっててもそのルートを避けたのかも。
申請しても許可が下りないとこもあるらしいね
大都市圏なんだろうけど
許可が出ないところは車内での撮影がないだけ
外から映るだけのシーンになる
埼玉行っても東武動物公園からがないし、熊谷まで行けば太田に出られるけどそこまでがとんでもないよ。加須、羽生、行田エリアも壊滅的だし。
やはり水戸→友部→笠間へ行ってちょっと歩いてでも岩瀬・下館→小山のルートのほうがよかったと思いますよ。ちょっと南下しすぎたし、古河は
NGワードだと個人的に思っていた。ただ、三国橋を渡って道の駅北川辺まで行けば一気に栃木駅までコミュニティがあったんですよ。
TO〜B Deluxe
貸切あんなにいたのに一瞬で消えちゃったね。ブルーリボンかっこよかった
>>219
2000年の規制緩和でやっていけないと悟ったからグループを巻き込んで大整理
ESPみたいな事故を見ると東武の判断は正しかったのかもしれない >218
桜川市と筑西市は東武どころか関鉄まで撤退してる地域なのでコミュニティバスすらない
水戸線沿いを選ぶとちょっとどころか丸一日歩く距離を歩くことになる
>>218 東武の笠間は94年まであったらしいけど
末期は水戸〜赤塚〜飯島・杉崎・笠間車庫だけだったらしいし
90年の時点で笠間市の境の桃山(茨交が現在も運転)から下館までは
路線がなかったらしい。水戸線に乗ればわかるが岩瀬とか新治当たりの廃れ方は
すごい。関鉄の岩瀬〜筑波山口もなくなってコミもなくて30年前の館林状態だね 岩瀬と言えば益子からの東野バスもあった。形ばかりの本数だったが。
岩瀬と茂木の東野拠点は、駅からはわかりにくい場所にミニマムな車庫を備えていた。
茨城にあった、結城モータープールと小塙車庫って同じ?
>>225 岩瀬は掘っ立て小屋みたいのにCCMが止まってるの見たなあ 当時は珍しくもないから写真撮らなかったのが惜しい >>227
岩瀬の東野、メトロ窓のCCMだった。写ルンですで撮ったがプリントは散逸…
下館八丁台は路線が無くなり、最後は貸切の配置だけだった。車庫も取り壊し、敷地の隅っこにブルリやセレガが停めてあった。 >>228 そうそう メトロ窓でフロントにでっかい幕付けてる奴ね 写真撮っておけば良かったorz 下館八丁台は東武撤退後は東野交通の観光車庫になり
圏央道ができるときに下妻に移転してんだっけ
その下妻車庫は東武バス>茨城急行(工場)>東野交通
だったかと
東武が撤退して子会社にも移管されなかった両毛線の栃木〜水戸線福原は
壊滅的だな。小山なんて新幹線駅なのに路線バスと言えばハイエースとポンチョだし
唯一結城市は古河との境の七五三場と茂呂あたりに東武が来てるがあの本数じゃ
いつ消えてもおかしくない。あと朝日系の時刻表が全く使い物にならないんだけど
あんなんで地元民は使えるの?
子会社以外でも路線移管を引き受けるバス会社が無いほど採算性が怪しい地区だったんだよな
関東自動車も県南から事実上撤退してるからなあ
小山は営業所あるけど一般路線担当してないし
小山市のバスの衰退ぶりは凄いな。
東武→関東自動車→コミュニティバス。
関東自動車も昔は、石橋駅〜自治医大病院〜小山駅
という路線もあったのに。鉄道と平行路線は厳しいか。
東武バスは小山ゆうえんち行きとかあったな。
>>236
関東自動車時代も小山ゆうえんち行きはあった
小山ゆうえんちが無くなって路線も消滅したか? 結局のところ東武と関東でエリア争いやって疲弊して共倒れ。
大島教授の言う群馬での対上毛ならまだ山道で自家用車が普及するまで集落があればバスの需要があったから
どちらかのバスが来て欲しいというのもあったけど、
野木町の佐川野や壬生市街みたいに平地の十字交差点で東武と関東とで奪い合ったら客も半減するし。
東武の旧足利路線って割と引き継がれてるみたいだな
小俣北町〜足利〜行動山とか岡崎山〜富田〜足利〜松田町なんか
分割はされてるけどそのまま残ってて吃驚した。
>>240
足利の山の方はまだ街に出るのにバスの需要があったし
東武撤退後も残す必要性があったから。
問題は越境する路線、特に東毛方面へ。 市が運営してるコミュバスって採算性は度外視で各地区と駅を結ぶようなパターンがほとんどだから
需要があるから走らせてる・・・と考えるには厳しい
さらに東武撤退後からコミュバス運行まで長い空白期間があったから需要は激減してるだろうからね
桐生市内から東武バスが全面撤退の時は、市に移管した山間部の区間だけ飛び地で残ったし、
手前の桐生天神町からの路線は小学生が通学に使っているのに廃止と、当時のNHKテレビのニュースでやっていたな。
館林市は東武バスが全面撤退で路線バスの無い市に一時期なったし。
今は、私鉄が撤退することになれば、市直営がコミュニティバスに切り替えることをやっているからなあ。
コミュニティバスという発想がもう少し早く出ていれば、館林市も路線バスの無い市にはならなかっただろうな。
>>242
それもあるけど、一部の例をのぞいてその自治体の境界内で運行されることが多い。
だから、市区町村外に通院している病院がある、通っている人が多い高校や大学がある場合、通院、通学の役に立たないこともしばしば。 小山市の場合。
東武+関東自動車の2社時代→東武撤退→関東自動車の路線バス廃止で市のコミュニティバスのみへ。
一時期、しおや交通が関東自動車の採算の取れる路線を引き継ぐと言ったけど、コミュニティバスが路線を延長する話が出て、小山市と揉めてやめたとか。
今でも、しおや交通のバス停は放置したままか?
鬼怒川温泉地区でやったように、村営バスより5分前に出て、運賃も安くするような「嫌がらせ」までして、走らせるメリットは内だろうな、観光地じゃないし。それに、コミュニティバスは100円?だし。
群馬の館林営業所が太田営業所の出張所に格下げになった頃。
平日の朝九時頃、回送バスが3台連なって太田営業所に帰ってくるのを見たことがある。
館林方面からの回送?だから、館林駅前発着路線の朝夕の運用、あるいは企業と契約の通勤バスで運行したあとだろうか。
3台とも前後ドアの日野の路洗車だったし、館林が出張所になった時に減車した分のフォローか?
あと、朝一番の尾島三菱電機ゆきは二台だったような。
途中道幅が狭い区間があって、中型限定路線だった。
宝町まで路線短縮前に、木崎駅前(といっても、移転する前の木崎自動車教習所の前にバス停が…)から太田駅まで夕方乗ったけど、尾島三菱電機に出張できた三菱電機関係者と思われる人が一人と俺だけだった。
運転手さんが三菱電機の人にもうすぐこの路線廃止になるんです、なんて話していた。
大手私鉄の東武鉄道が運行している路線バスで、会社全体を見て黒字だから、国から補助金が出ず、県と沿線市町村の補助金だけだから、東毛地区の路線バスは早々に壊滅的になってしまった。
他社がやっていたら、多少は延命しただろうな。
群馬中央バスも伊勢崎駅〜木崎駅の路線があって、1983年当時で、朝夕1本だった?
夕方、木崎駅行きを見かけたけどお客は一人しか乗っていなかったな。
今の朝日自動車レベルまでに待遇落としてたら多少は残っていたか?
運転士不足で山間部の路線は撤退不可避だったかな
朝日どころか東武バス日光ぐらいまで待遇落とさないと維持難しいかもしれん
採算とれるような路線だったら他のバス会社や地元のタクシー会社が引き受けてるだろうよ
北関東の東武撤退地区でもそうやって東武グループ外の会社が引き受けてる路線が結構ある
朝日みたいな純血の東武グループが引き受けてる所ははもう美味しい路線の証だろう
東武って労使双方とも一昔前の頭で、地方分社化の流れが遅かったのが致命的廃止ラッシュを招いたようにも思う。
福利厚生とか保険とかグループ単位で、後はわけちゃえばよかったのにね。
今の東武バスが分社化しているように、1980年代に東武バス埼玉北、東武バス群馬と東武バス栃木、東武バス茨城とか、大きいけど県単位で分社化すれば良かったな。
>>251
比較的採算が取れる地区だったのか群馬は関越交通に移管されてるよ 元々東武労組がバス分社化に反対してたからね
だから東武としては引き受けてくれる会社がなければ撤退しかなかった
でも1980年代の北関東の車社会化の流れは凄かったし
分社化されてても、結局現在までにほとんどの路線は廃止されていたんじゃないかと思う
当時他社が引き受けたドル箱路線すら、今は相当厳しい状態になってる
一方でバス分社化までの流れも、90年代後半になると越谷みたいな都心に近い所まで移管に手を付け始めた事から
会社は東武バスを消滅させる気だと労組も焦ったんじゃないかな
朝日系は東武からの運転手を一切引き受けなかったから、運転手の長時間通勤がますます酷くなるということで
それまでバスの分社化を認めなかった労組も折れざる得なかった
お陰で今は群馬や栃木から都内まで通勤してる運転手までいる始末
東武バスの運転手さんで栃木県や群馬県から都内に通勤!
時が不規則だから自家用車通勤か。
高崎経済大学の先生の本か何かに書いてあったけど、埼玉県内で団地路線が増えた時に、出張あつかいで北関東の営業所の運転手が期間限定で応援にいったとか。
それが、転属でずっとみたいな感じに…
>>246
もし東毛地区が群中+関東でやっていたとしたらもっと早いうちになくなってた可能性もある。
東武が1985年に撤退するエリアなら1980年頃って感じだろうか。
まだ鉄道と一体になったフィーダー輸送という思い入れや
強い労組が廃止をとどまらせた部分もあるしね。 >>259
群中が受け持っていたら史実の群中の太田発着撤退までは何だかんだで持ちこたえそう。
関東自動車が受け持っていたら多分史実の東武バス撤退よりは前倒しになるかも。
東武に関しては労使共に硬直化していたのがとても残念。
地域子会社とか、自らの資本が入ったバス会社への移譲とか他の大手私鉄や大規模バス会社が着手していたようなことをもっと早くやっていれば随分結果は違ったと思う。 労組本部にとってはバス分社化によって労組が分割され弱体化する恐れがあったから
認めたくなかったというのが大きいのではないかな
バス部門側もとっても鉄道と同じ会社であるがゆえに鉄道従業員と同じ給料が貰えて
バス運転手としては相当条件の良い会社として知られていた
ゆえにバス分社化に伴う大幅な給料引き下げで出ていった人が多かった
分社化後に入った人はさらに低い給料で朝日同等か正社員になれなければそれ以下のレベルになっている
今の東武バス地域会社も地域ごとの給料条件というのは表向きの話で
分割させて労組を強くさせたくない会社の思惑もあるんじゃないかと疑ってしまうw
郡中は1983年当時は、新島に太田営業所があって、新島〜太田駅〜新田〜伊勢崎駅〜前橋駅なんてロング路線や、1日一本大間々行、伊勢崎駅〜新田〜(太田バイパス)〜太田駅南口が平日に朝夕一往復あったな。
それに、太田市で郡中タクシーもあったな。
>>262
群中は東武を含めた群馬県の他の事業者よりも意欲的な印象はある。
冷房化を進めるのも早かったし。
群中って決して恵まれたエリアではなかったのにね。
観光地で荒稼ぎ、ってわけにもいかなかったし。それ故危機感あったのかな。 >>261
東京西部の某社の分社化がその理由だと聞いたががそうなんだろうか?
今は分社化しても応援や広域配車が出来るようになったから
(さいたま国際がなくなった理由はかつては出来なかったらと聞いた)
車庫単位で分社化できるようになったけどねぇ。
>>262
その時代だと都市間を結ぶ幹線がそのレベルで支線は壊滅なんだよ。
70年代の群中は営業努力はしていたんだけどエリア的に分が悪過ぎた。
これが群バスのエリアだったらもう少し持ちこたえられたのかも知れんね。 >>265
よく言われたのが、群中の意欲や能力で群バスエリアならかなり盤石な会社ができたと。
群バスの意欲や能力で群中エリアだと、昭和の終わりか平成ひと桁までには貸切専業+自治体バスを受託できるかどうかになっていたかもね。
群バスは人が流失しすぎてダイヤも組むのが大変で、大昔のダイヤや乗番を適宜間引きして作ったようなダイヤ+その後の新路線は新路線完結でダイヤ作っている状態だし。 群馬バスも群馬中央バスは元は同じ会社だからなあ。
内紛があって組合が作った会社が群馬中央バス。
会社を分けるときにエリアが逆だったらどうなったんだろう?
群馬バスは東急系になって、不動産業もやってその後会社が傾いた。
そして組合が作った、新・群馬バスに。
群馬バスの経営者は二度も組合に反発されているから、経営者としてはだめだったんだろうな。
>>267
むしろ群バス労組の二度目は東急が放り出した→第一交通産業にちょっかい出された
ってところが大きいんじゃないかな?
東急は箱根山の合戦で陣取りした地方子会社が重荷になっていたけど
東急そのものがヤバくなったのは別の理由なんだよね。
タクシーを日本交通に譲ったように綺麗に処理できればよかったんだけど。
東武は野心がないのが結果的にうまく行ったが
悪く言えば旧仙南交通も会津乗合や常磐交通も救えなかったって事になる。
まぁ箱根山の陣取りには中立で逃げ切った賢さはあった。 >>268
東武や野心も何も、とにかく何もしなかった感が強い。
赤城山戦争くらい? 東武バスに野心があったら、西武VS小田急(東急)のように、東武VS群馬バス(東急)を派手にやって、群バスエリアの信越線エリアの路線まで食い込んだだろうな。
東急のやり方のように、上毛電鉄を乗っ取って、東武系の子会社にして群バスとあらそわせたとか。
朝日もグループ離脱するしね。
しかも引き受け会社の社名があさひw
東武鉄道の会社としての考えでバス部門を全部朝日自動車にしてしまおうという考えがあったとか。
それを知った組合がバス部門の分社化をのんだというのが前の方のスレにあったけど、朝日自動車が東武グループを離れるとなると、協調関係から敵対関係に変化してしまわないかな。
例えば、東武バス日光と日光交通。東武バス日光のエリアに日光交通が新路線や競合路線を作って対抗とか。
>>272って朝日スレであさひバスって妄想たれてるいつもの子じゃないの?
系列会社というのがどういうものか全く理解してない あれだろ。関西以西のバス会社のスレであさひ美容バスなんたらかんたらと荒らし書き込みを垂れ流している手合い。
あさひ美容外科というのは、関西人には馴染みが深いのかもしれんが関東人は何それ?と反応するのが殆どだろ。
>>270
戦前からの京成との因縁を教訓に
東急も西武も敵に回さなかったのが東武のやり方だからね。
その辺の立ち回りは地政学的にも歴史や背景的にも
東武以外には出来なかっただろう
(しいて言えば同じ振る舞いが出来たのはトロッピーくらいか)。
>>271
片側2列で全列横向き可のフル回転シートサロンが富士重R3が出た時に導入したくらいかな。
貸切冷房車の導入が昭和38年頃、スーパーハイデッカーの導入が昭和60年で関東では早い方なんだけど、
特に目立ったものではなかった。質より量を求めたのは関東大手の必然だからね。
逆にいろは坂対策で昭和40年代中盤に特注の短尺で非冷房車を大量導入したのが後に足かせになるのだが
ライバルが群馬各社や同様に質より量を求めた関東自動車(栃木)、国際興業や秩父鉄道では問題ないレベルだったか。 >>276 片側二列のR3なんていたんだ 驚き。当時のパンフ見たいなあ >>278 そうだったねorz 片側一列と間違えた 東武バスの貸切車は大量のR3のイメージだね。
いすゞ・日野があり、観光の最後の黄金期という感じだった。
側面は、熱線吸収も無い素通しガラスでね。
リヤガラスの営業所記号が4つも5つもある寄せ集めの梯団を眺めるのは、これぞ東武!だったねえ。
あの頃のガイドさんは何処行っちまったんだろうね。
ほとんどは辞めたみたいだけど、一部は東武の他の部署に移ったみたいだよ
車掌とコンビを組んでくる車内検札のおばちゃんは元バスガイドだって言われていたなぁ
車内のケンパチと北千住千代田線連絡通路の特改はツーマンの元車掌さんの活躍場所とはよく聞いた話だったね。
りょうもう号が急行から特急に格上げになって(値上げも)北千住と館林の間だけ、暫くの間元ガイドさんが専務車掌で乗務していた。TOBU徽章付きのガイド制服だったんだよね。
>>281
現行セレガーラになるまではその傾向が強くて、日野はセレガRまでFSが多かったね
今じゃ日光の車もずいぶん世代交代しちゃって良くも悪くも東武らしい車が減った感じ >>283
>車掌とコンビを組んでくる車内検札のおばちゃんは元バスガイドだって言われていたなぁ
実際そうだったよ
昔は女子社員ってバスガイドと元バスガイドしかいなかったんよね 「バス車掌の時代」という本に東武バスの車掌さんの事が書かれているけど、ワンマン化で退職しなかった人は、鉄道部に移籍して駅の改札や車内検札の仕事をしたとか。
東武百貨店はイメージに合わないと受け入れなかったとか。
東武鉄道本社の事務職も中卒(学歴)を理由に受け入れなかったようだ。
日野RS系って導入あったのかな?当時だとスケルトンはR3一辺倒かね
>>288
昭和57年頃にK-RS360Pが数両(5両?)入ってる。
角スケルトンで丸目。 >>289 ありがとう 早速画像検索したけど見当たらなかったorz >>291 何から何までありがとう!しかしRSでも高級感無しなのが笑える さすが東武 RSってのは、車高は無いし。他社は高額な新型車を入れたからには固定窓などプレミア感を必死に出していた様だけどね。
東武の個体は旧セレガで言うFSみたいなもので、身の丈に合っていて、ある意味好感が持てる。華があるのは富士重R3に譲らざるを得ない。
地元じゃないので活躍の光景は見た事がない。俺が見たのは、春日部車庫が貸切の廃車センター状態だった時で、ズラッと並んだ中にRSが居た。
RU6との違いは尻の蓋の仕切り方。廃車が停めてある一画は、共栄高校との敷地の境目で、一本道から眺めるには、激しく人目を憚ることだった。
春日部出張所ってどこにあったんでしたっけ?
道路との間に用水路、送電線鉄塔のそば、左側にこじんまりとした営業所の建物があったって記憶があって
グーグル地図で探すとグランド前バス停のあたりがあやしいけど1回しか行った事が無くて確信が持てない
今朝日バスの休憩所になってる場所とは別だよね?
>>294
地元民だが、グランド前のバス停の所の敷地で合ってるよ
当時から敷地内で残ってるものは今となっては周りに植えてある木くらいかな?
あと、事務所の建物は入って右側でピットと一体だったよ
自分はあそこで除籍された車はHT系数台と朝日になってから7E4台(後に国際バスって貼られた車)しか見た記憶ないんですが、その頃は除籍車置場は森林公園や西上尾だったんですかね? >>295
朝日の転換が先か、車庫の移転が先か、その辺うろ覚えですが
転換時は春日部営業所だったはず…
いつの間にやら杉戸営業所に変わってる
春日部〜杉戸の回送が発生しても
春日部に営業所つくらないメリットがある、
ということですよね
春日部車庫〜共栄学園は回送で、
この区間営業運転し始めたのは
東武の末期の頃だったような
春日部駅〜共栄学園経由〜せんげん台駅、なんてのもありましたもの
この頃はまだこの隣が車庫だったはず。
朝日転換時は春日部車庫はあった。朝日で春日部車庫行もあった。
共栄学園が土地買ってくれたから車庫潰したんだろうと思う。
朝日転換後の春日部の運転士さんは越谷所属で春日部路線だけを担当という立場だったはず。
春日部閉所後は越谷から回送すればいいんだけど杉戸を維持させる目的があったのかも。
春日部の廃車で貸切がいたのは平成6〜10年頃の話。
廃車が西上尾と沼南に集約するようになったのは分社化後。
昔は敷地に余裕があれば自営業所に廃車を留置させていて
余裕のない営業所は余裕のあるところに疎開させていた。
貸切車は日野が多かったから境や下館辺りの車が来てたか。 >>296-297
朝日の営業所がなくなったのは2004年前後だった気がします
東武から朝日に会社が変わった年に学校で営業所訪問に行かせてもらえたのはいい思い出です
営業所が春日部からなくなったのは共栄に敷地を売った?ようなのですが、その後越谷に一度集約した後に春日部駅の路線のみ杉戸になったのは調べたもののよくわからず…
その当時朝日もまだ観光バスを保有していて、杉戸はタクシーと観光バスの営業所だったはずですが
営業所の廃車の件、そのような感じだったんですね
一度貸切車が並んでいる状態を見てみたかったものです 春日部出張所の現状をグーグルマップで見たよ。感慨深いね。
共栄が学校の敷地に組み込んでグランドとして使っているんだね。
送電線の鉄塔が、敷地に◇型に食い込んでいて使い勝手が悪そう、
そういえば鉄塔を挟んだ形で貸切の廃車群が並べられていた。
俺が書いた一本道は、寮とグランド(かつての春日部車庫)の間にあって、
写真でもそれと判る。今となっては学校の敷地内で近づくのは無理だ。
朝日の杉戸車庫は、境がまだ東武だった頃見に行った。
境車庫から動物公園駅行の春日部ナンバーのHT(越谷の配下だったから)に乗車、郵便局の手前で降りて、4号を歩いて行った。住所は電話帳で調べたと思う。
貸切が1台とタクシーが停まっているのを見て、納得して改めて駅に向かった。
>>298
そうか、ありがとう。
春日部共栄高校が舞台になっていたアニメが2007年だから
その頃にはもうグラウンドになっていた訳ですね。 春日部車庫で東武のバスを見ながら、
共栄高校のスクールバスを見るのが
楽しみだったなあ。
コイツ路線バスからの転用じゃね?
っての、いたよね。
>>299
あの辺りは共栄が中学を開校した頃に点々とグランドができたんですよ
>>300
舞台になったのは知っていたものの、アニメに疎いものでいつだったかはわからなかったもので…
>>301
富士重撤退までは基本いすゞ富士を採用していたようで…
エルガが増えた現在でも7EのKC-LVのN尺?が2台在籍していて、1台は以前の東武のような前後折戸、もう1台は前中2枚折戸で国鉄バスのような雰囲気でどちらも興味深い感じです
現在メインで活躍してるエルガはKLからPKGまでいて、全てツーステの前後折戸でこちらも今ではあまり見かけない仕様かも 春日部共栄のスクールには知ってる限り中古車はなかったと思う。
浦和学院高校が富士急の高速下がりで固めていたころに
それなりに新車が走っていた。
ただ開校したときに入ったスクールバスは
完全な路線仕様の富士重3Eを持ついすゞBU04で
開校52年に対し48〜49年式であり年式が合わなかった。
深谷の東京成徳深谷高校は間違いなく東武の中古、日野RB120のツーマンを複数持っていた。
カラオケのDAMの映像に昔の東武バスが出てくる。
いすゞの富士重ボディで東武バスの名前を消してあるが架空の路線だけど、東武のオレンジ色のバス停に止まってボクサー役の俳優が、彼女に見送られるシーン。
カラオケのドラマ仕立ての映像だと、国際興業バスのエルガ、千葉交通のエアポートリムジン用のエアロバスと千葉交通のタクシー。を見たことがある。
ドラマ撮影と同じように貸し切るんだろうな。
しかし、田んぼの中の一本道どこでロケしたのだろうか?
>>306
埼玉の某所にあった奴かと
東武バスの廃車体も結構あったが中にロケに使われたか、変なカラーリングにされていたのが混じっていたこともあるし
周りに田んぼあったし近場ロケで動かす程度は出来たと思う >>306-307
ドラマバスストップで使用された車両じゃなくて?
元々羽生で解体予定で送られてきたものを羽生が車両提供して
収録後何両かは羽生に戻されて解体されたと聞いた。 >>308 フジテレビのドラマ「バスストップ」でも確かに東武バスは使われたけど、それとは違う。
DAMのカラオケの映像に使われているもの。 黄色く塗られたLVはAV車
バスストップの5E7〜8両と7E1両の内「羽生」に「東西バス」として帰ってきたのは多分2両だけで他は劇用車になったはず
内村光良の「担当車」だった6931(元太田)は世田谷のプロダクションにしばらくいた
>>304
昔は東京でもCMしていた。
でも朝日→あさひって違和感あるなあ。 >>311
そうなるなら、東武の株価にかかわるけどいいの?
デマならあなたたいへんだよ。 日光にいたトップドアのRE100って最初から日光配属だったの?
>>315
最初は日光か鬼怒川の配置。
水上や中之条にいたのは群ナンバーが新しく転属車であることが分かる。
ある時期(昭和50年代末くらい)に一定数の貸切車が格下改造され
日光鬼怒川に配属された為、押し出される形で回ってきた。
ツーマン時代でもそのような事があって43年後期の車両が沼田管内に転属したが
1両だけ栃木に回されてツーマンで最後に残った栃木〜小金井・栃木〜古河間で使用されていた。 水上にいた、トップドア(富士重+日野)は元々は日光や鬼怒川にいたバスだったんですね。
前後ドア車は後ろドア締切で使っていた水上地区。
関越交通に移管されて、後ろ乗り、前降りの中型バスばかりになった。
>>316-317
昔は水上も後乗りだったような気がするんだがだとしたらいつから後扉閉鎖になったんだろう?
前扉だけの車両が入ってきたから、
と言っても昭和40年代にも貸切兼用車のような前扉メトロ窓車が貸切塗装でいたようだし
それらが駆逐された昭和50年代前半は水上で貸切格下を見たことがないので
前後扉か中扉ツーマンしかいなかった事になるし。 あぁ日光からの前扉ツーマンが水上にいた可能性があるか。
>>318 高崎経済大学の先生が書いた本の写真に関越交通と東武バスのツーショット写真が乗っていた。
場所は水上駅で、東武バスは前ドアが出入口、後ろがしめきりになっていた。
確か、前のスレに箱根と同様で山道のカーブで見通しが悪いのが理由だとあった。
関越交通は中型バスにしたから、東武バスの大型バスより後方の確認がしやすくなったのだろうか? 水上で最後までいたのは天沼から来た前中扉とか栃木から来たらしい前後扉とか
53年前後の車両だったな。
何の理由かはわからないがK-RC301は配属されなかったようだ。
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mashumaro
太田営業所が前橋営業所の支所になるまえに、一台だけ川重+いすゞのBUかCJMがいたのを覚えている。
埼玉県内からの移籍だろいけど日野車がなかったのだろうな。
あと、都内からの移籍車で前中ドアの日野車もいたな。
日光方面の東武バスって、
行き先が「東武」しか表示してなくて
結局どこ行くか、パッとは分からなかったような思い出が。
>>325
それ、だいたいが回送ですww
僕らはそういう認識でした。
まぁ、最近は回送表示をする方もいますけどね。 「東武」表示って貸切とか方向幕に無い臨時バスに使われる表示じゃ無い?
一部の営業所を除いて「臨時」幕はないし・・・
>>328
定期
日光駅〜営業所
営業所(日光駅)〜奥細尾
臨時用で日光駅休憩所→中禅寺温泉
これくらいは見た事ある。 大体の場合回送は回送でちゃんと幕にコマはありますよ。
回送の表記が緑だったり黒だったりはありましたが。
大抵「東武」表記は幕にない行先か貸切の場合が多く、
前者の場合他所からの借入車が借りた営業所の幕を入れずに
ずっと手書きで運行に入っていたことも。
車掌さんが案内できるツーマン時代は稀にあったそうです。
話はズレるけど
境営業所にいた3ドア車は、側面幕が2個あって
前ドア横の側面幕は「東武」固定だったね。
>>332
3扉車は関東バスや東京ベイシティ・千葉海浜、西武京王と違って
前乗り先払い信用方式で中扉降車と
後乗り後払い整理券方式を1両に合わせるためのものなので
前乗りに対応した前の方向幕と後乗りに対応した後ろの方向幕という形。
初めて大宮に3扉車が入ったときに一部の車両は前乗り専用で後部の方向幕は準備状態でした。
境転出車は前乗りは使わないので「東武」に固定したのでしょう。
そうなると中身もそれしかなかったのか? >>325
後方の表示器のことかな?
あれは「東武」固定だったような。
最近では長らく「日光駅」だったのが
「JR東武日光駅」という表示になった。
「日光駅」が表記上では正解なんだけど。 近隣他社のように営業所の社屋建て替えしないな。
地震対策の観点からも出張所時代からのボロボロな小屋はやめた方が良い。
前橋営業所にも大宮地区の3扉車が転属してきたな。
中扉は締切扱いで、前後ドアのみ使っていた。前ドア横の方向幕は撤去したか、東武や白幕だったか覚えていない。
あと、関越交通にも元東武の3扉車が移籍しているけど、方向幕はどうなっていたかわからない。
>>335
実際問題として昭和43〜46年式の車両には後部方向幕がなく、
47年から後部方向幕を復活させたものの日光には貸切塗装の兼用車はいるわ、
乗合に転用した所謂格下げ車がいるわであったりなかったり。
貸切の後ろに「東武鉄道」と書いてあったので
結果幕のある車両も「東武」表示になったんだろうね。
ちなみに43年以前の貸切塗装していた兼用車も「東武」で固定してあった記憶がある。
平地のツーマンは幕を外して広告枠にしたり幕が残ってても白固定の車両が多かった。 「1910」 副島隆彦 2016年6月16日
大阪市や大阪府のバスの運転手が年収1000万円は許せない、600万円まで落とすと。
なぜなら、普通の労働者たちが年収400万円でようやく働いているのに、何でバスの運転手が1000万円ももらえるんだと。
このものすごくすばらしい主張があった。
これを言われると日本の民主党や共産党は非常に困るんです。
が、先ほど言ったように、金持ちたちの財産を相続税で国家が奪い取る、これを正面から本気でやったらほんとに橋下はたたき潰されました。
労働組合を押さえつけるまでは安倍晋三たちも大好きだからよかったんだけど、
自分たち自民党体制の、金持ちと地主階級、経営者を大事にするという自民党の基本骨格があるわけです。
>>339
自民党とかの件は、どうでもいいして
分社前の東武バスなら年収1000万何人かいた。
それが分社化で3割カット年収700万。
プロパーは年収400万。
この人の希望通りだね。 平成一桁前半くらいまでなら西武でも国際興業でも1000万プレイヤーは存在した。
勤続30年以上で週60時間くらい残業していれば大体4ケタ近かったはず。
分社化と賃金カットは時代の流れなんだろうけど
労働時間の長さと不規則さ、重責を考えれば鉄道職員並みの給与は与えるべきだと思うがな。
そのままの給料だと東武に限らずほ全国のとんどのバス路線が赤字になるって言われているからねぇ
バスに限らずトラックも規制緩和で12時間のっても1万円とかそんな感じになりましたね
軽井沢のバス事故の運転手は往復一泊二日乗って8000円だったとか・・・
6200番台?の廃車寸前のBUが水上公園便のヘルプで越谷に来てた
後部の方向幕の部分に広告が付いていたのを覚えてる
>>336
事務所の建物は最近になって各地で建て替えてる印象だが?
ここ数年で東武らしい営業所の建物が減った気がするし
日光の話題で思い出したが、湯元温泉の車庫の建物の部分っていつ頃なくなったんだ?
10年ちょっと前はそこを中心に何台かバスが止まってた気がするが今じゃただの広い折り返し場みたいだし 東武指令と長谷川玉緒の恐怖のネットバトルについて、知っている方がいましたら教えてください。
>>343
新製時に後部幕のない車両は43年後期〜47年前期、6200代だと47年前後期辺りにに相当しますが
後部幕のところに広告がついていたとなると少なくとも川重車体ではなく
(後部幕がないと川重は「丸坊主」になる)富士重車体になり、
47年前期だと3E車体である可能性はどうでしたでしょう。
前面傾斜のR13車体で前後扉車はなかったはずなので前中扉車でしょうか?
となると足立所属なら後部幕は間もなく後付けでついていたはずで
47年前期に3Eが導入されたという事になりますね。
廃車寸前の頃であれば柏や熊谷や新座でも後部幕の設置は終わっており
幕なしで残ったのは昭和50年代後半に日野と置き換えられる境という事になります。
(後部幕の設置対象は都内・千葉と埼玉の熊谷以南で茨城は群馬栃木と同様対象外)
もっとも境から転出した車両でしばらくの間後部幕なしだった車両が
野田にはいたとも聞いた事がありますのでそういった車両なのかもしれませんね。 新座にBU06が残ってる噂聞いて撮影行ったら廃車になってたのもいい思い出だ
高崎経済大学の先生が書いた本で、前橋駅〜沼田をワンマン化する際に、組合が強くて均等ダイヤが崩れ、渋川乗り換えが多くなったと載っていた。
運転手の拘束時間とワンマン化で労働条件が変わったからみだれうけど、一日の拘束時間が、前橋駅〜渋川新町1往復と前橋駅〜沼田1往復と距離が長いとはいえ、今の運転手さんに比べればなんて楽な勤務だろうと錯覚してしまう。
今は何処の会社も残業当たり前で二日分の仕事をしているし。
さすが、ミニ国鉄と言われた東武の組合だなと感心した。
>>348
大島教授の授業を受けてみたい。
念仏のように群馬の交通が悪くなったのは東武が悪い東武が悪いと唱えているわけじゃないだろうが
著作からはかなりの愛憎を感じた(憎悪ではなく愛憎)。
その辺差し引かないとその辺の著作は読めない部分がある。
まぁ高崎や高経大という「環境」もあるんだよね。 大島教授の本の中に、不便な続行ダイヤという項目があった。
東武バス以外の会社にも言えることだ。
途中まで同じコースを走るバスが同時刻だったり、1〜5分しか間が開いていなくて、その2本を逃すと最大1時間待ち?だとか。
自分の経験で東武電車に接続せず電車到着と同時に発車する、二時間に一本のバスもあったし…
バスのダイヤを作る人が下手なのか、強い労組にかなわないとかだな。
>>352
まあみんな谷塚駅で降りちゃうからね
並行する都営も本数少ないし 具体的に東武バスの路線名をあげていなかったが、群馬、栃木県撤退が決まったあとの、足利東武駅〜東足利線。
両毛線の足利駅に行こうと足利市駅の外にでたとたん。駅のロータリーから出て行く東足利行きのバスのお尻が…
結局、タクシーで移動した。
東武バスの足利営業所が廃止になり、桐生営業所のバスの東足利停泊もなくなった頃だった。
昔は、1時間に3〜4本の東足利〜足利両毛駅〜足利東武駅〜桐生天神町があったから、JR〜東武の移動が楽だった。
今は足利市内は廃止代替バスになったけど本数が少ないな。
>>352 連投します。
その本数といい勝負は23区内のど真ん中を走っている、都営バスの四ッ谷駅〜晴海埠頭。
半蔵門のバス停。
昔勤めていた会社の東京支社に一番近いバス停で、新宿に行く場合四ッ谷駅まで行ってと思ったら、田舎のバス並みに。
麹町から有楽町線で市ヶ谷乗り換えをかんがえたけど、真夏で、麹町駅まで歩くのがだるかったので、かなり待ったな。
年よりは、階段の昇り降りを嫌うからバスにのるんだよな。 >>352の問題は本数ではなく、運転間隔ね。
そこそこ本数があるのに2時間近く開いている。こういうのが東武には多い。 春日部営業所があったころ春日部駅東口〜西宝珠花線で今朝日が継承してるのとは別系統で
立野経由西宝珠花行きというのがあって一回だけ間違って乗ったところいつもと違う道走るんで
ひどく焦ったことがあったんだけど詳しく路線記憶してる人いないですかね。
1989年の道路地図見ると確かに今通る路線が無い路線有るね
立野出て北側を直進して、倉常・平野・芦橋・木崎・集会所前・上芦橋・上吉妻・西親野井入口・一本松を経由して西宝珠花車庫方面へ抜けてく
>358
おお、一本松という停留所名で記憶が蘇りました。ありがとうございます。
一本松の次からは今ある路線に合流して局前→西宝珠花となってました。
確か境移管と同時に廃止されてたような。
今は、春バスの庄和北ルートのNが、走ってるね。
上吉妻から宝珠花局前まで、道幅狭いけど大型車で走ってたのかな?
当時は子供で大型中型の区別がわからなかったですけど、一本松のあたりは狭隘で沿道の木々の
枝がガリガリ轟音をたてて車体側面をこすりながら走ってましたよ。
当時の西宝珠花線は車庫じゃなくひとつ手前の「西宝珠花」が終点で「春○○」と系統番号があった。
境になったら無印になってしまったのがさびしかったですな。
>>357
今残っているのが立野経由。
廃止されたのが芦橋経由。 西宝珠花はその先に立派な車庫あったけど東宝珠花はただの転回場だったな。
関宿工業団地入口もね。
Y字路使って転回してた。
最終から2便だけ
春日部発東宝珠花経由工業団地入口行だったね。
>>365-366
昭和41年に最初に導入されたRB120の中の一両です。
引退はいつ頃だったのでしょう?
昭和50年代初めには前橋の同型と違い姿が見えなかったという話ですが。 >>367
昭和50年代ならまだ走っていたと思う
富士重ボディの車両は白青だったのに対し、こいつはクリーム青だった記憶が 昭和40年代まで草加と柏を結ぶ路線があった。草加営業所のRB10が柏に来ると異彩を放っていたのが懐かしい。
松原団地のやつは均一運賃のワンマン?
車掌らしき人物が確認できなくて残念なんだが。
白シャツ来てる二人が降車客一人一人に接してるけど乗車券回収ではなくただチラシを配ってるだけみたいだし。
>>368
青白塗装の試作ですね。
前橋の3831・3832も白の部分が内装色のベージュに近いイメージのクリームでした。
松原団地循環の中型化は昭和54年頃と記憶していますがその時期までRB120は生き残っていたのでしょうか?
>>369
平地はいすゞ、山は日野という原則で埼玉県南はいすゞ車が配属されていて、
草加にもいすゞ車が配属されていたのですが色々なところの画像を確認すると明らかに日野RB10の初期型がいたようで
例外なのか実際には混在していたのか気になるところです(上尾や大宮でもRB10/120は実例がありました)。
>>370
東武でワンマン車が初めて運行されたのが松原団地循環です。
駅から団地までなら非常に近距離で昔から初乗り均一だったと思います。
降車時に前扉も開けて降車させていたのは前払い団地系統のメリットですね。 >>371
松原団地にちょうど中型が入ってくる頃まで住んでたけど昭和54年だった
東口発着も含めて草加は日野車だったイメージ 客寄せのために日中の閑散時間帯にツーマンバス復活させると面白いよね
客寄せなら青クリームや青縞のリバイバルカラー復活よ。
マニアがどかどか集まってくるでえ。
>>379 野田の下町交差点を野田橋方向に右折した直後をとらえてますな。
茨城からくる茨急&東武(岩井)の北越谷線は全部下町経由だったはず。どちらも整理券番号が多くて幕式運賃表示のまあ細かいこと細かいこと。
昭和57、8年頃すでにこの路線で茨急シマシマ見るのはかなりレアだったね。 東武バスのツーマン専用車は、廃車後は地方のバス会社に移籍したのだろうか。今の岩手県交通に日野+富士重中ドア引戸が移籍したがあるようだけど。
東武バスの中ドアのみのバスを改造して、前ドアを付けて、ワンマンバスにしたバスはあるのだろうか。
>>382
ワンマン改造については東武OB氏が書かれているので過去ログ読んでくださいね。 >>382
過去ログによると日野RB120が帝国・富士重で問わず岩手県南バスと函館バスに複数台、
いすゞBU10(川重40年までのモデルと富士重?)が南部バスへ移籍している。
他にスクール用に四国に渡ったとのこと(事業者・車種不明)。
自家用スクールには昭和43年の大東文化大の他、昭和50年前後に成徳深谷や埼工大深谷(現在の正智深谷)にRB120が入っている。
除籍数から考えればもっと移籍した車両があると思うのだけれど・・・。
ワンマン改造は改造車が不調なのと羽生工場の閉鎖(三進自動車と足利自修への外注化)により
数両で中止したとのこと。
推測だが昭和45年以前にはワンマンは限られた路線のみでしか使用せず
昭和46年以降は都内均一区間や団地路線を除いてワンマンを前後扉にするという方針で固まっているため
前中扉の需要自体が限られていたのではないかと思う。
前中扉ワンマン車をツーマンとして使用している例は大宮(吉野町・天沼)や太田では定期的に存在していた。
また、原則として昭和41年度までは三方シート、42年度以降は前向きシートになるが
46年度の新車大量導入に当たり三方シート車を優先的に大量の除籍をしており、
種車自体が限られてきたと思われる。
経年三方シート車を改造しても46年以降は異端車になるし42〜43年車は種車自体多くない。
43年後期に導入された日光の前扉車だけ改造しても問題は少ないと考えられるが
コストに見合う効果を考えたら新車をという方向になったのかも知れない。 >>382
昭和50年代半ば以降、越谷に中ドアBUが何台か打ち捨てられていたなぁ 松原団地循環と同時にワンマンスタートした柏の豊四季団地循環はようけ乗ってるけど、
松原団地のほうは朝日に移管されたところから察するとそれほど利用者いないのかね。
>>387
建て替えで住人減ってるから路線自体今後どうなるか 東武鉄道80年史でも活躍するワンマンバス、として松原団地循環、綺麗に写ってるじゃないか。
ま、豊四季と違って松原団地は下手に駅に近すぎるのが難点だな。 >>389
懐かしいな、系統番号枠付きのやついたなぁ 松原団地線、というより越谷営業所自体が移管されたからねぇ
あの頃の東武ってドル箱路線とか気にせずに営業所まるごと移管してたから
朝日になったからといって黒字じゃ無かったとは言い切れないのが面白い
越谷なんて新車投入営業所だったわけだし
分社化が1,2年遅れていたらどのくらい路線図が塗り変わっていたか興味深い
順当にいけば、草加、三郷、吉川、上尾、岩槻、川越、坂戸,あたりが移管されていたと推測出来るが
豊四季台団地は柏からも豊四季からも遠くてまさに東武バスを走らせるために作られたような団地。あの団地とTXがなければ西柏も怪しかったね。
>>391
営業所の移管の無頓着さにも東武のダメな体質が見え隠れしているような気がする。 朝日バスの経営を安定させるために黒字の営業所も移管したんじゃなかったかな
松原団地線はもともと草加だった
HTで前乗り先払いだった
30年くらい前に前橋駅から赤城山大洞行きという路線があったような。あれ、乗りたかったなあ(o^o^o)。
朝日バス移管後、中途半端だった弥栄団地循環が北越谷発着に固定化されて本数、利用者共に大幅に増えたな
>>393
移管の目的はバスの分社化なんで将来的には東武バスをなくすつもりだったんでしょ
東武バスそのものの分社化は労組が大反対してて出来なかったわけで
会社の真意を知った労組が折れて分社化を認めたから東武バスは分社化
以降は移管する必要がなくなった 親父に連れられて筑波山へ行くとき土浦駅から東武バスに
乗った記憶があるのですが記憶違いでしょうか?
東武も都営みたいに車両や路線など
客の目に触れる箇所は変えずに、
運転士だけ鳩移管のようにすれば
広域ネットワークが残ってたのに。
そんなの関東最強を誇った東武労組が認めるわけないでしょ
下手にやろうとすればすぐストライキはじめるような感じだったわけで
>>391
草加、三郷、八潮、吉川は都内に路線を持ってるから朝日に移管されなかった、とかあり得る? 無いと思う
朝日って足立区もコミュバスかなんかで走ってなかったっけ?
コミュバス移管が先に移管されてたから、コミュバス移管はその地域が移管される前触れなんても言われてた
足立区のコミュバスの委託先は
しっちゃかめっちゃかでよ、
東武、国際興業のような区民にとって毎度お馴染みの会社もあれば、
朝日だの日立自動車だのに加えて、新日本観光とかいう、
よその区で商売してるうえにPASMOもSuicaも使えない謎会社呼んで来てたりするから困るんだよ。
バスヲタの皆さんは、一度でもいいからバス業界に入社して、
いかに自分の思うように会社が動けないかを知ってみるのがよろしいかと思います。
>>391
上尾は駅東側の路線(大宮駅ゆき以外)が朝日に移管されている。 >>404
はるかぜは委託ではなく事業者の自主運行。
新日本観光は足立区にある事業者だよ。
東武がまともにバス事業に取り組んでいれば
はるかぜは不要だった。 >>407
小型バスで大型が入れない道に路線を引くという発想が
バス業界でなかったからね。小型バスでは利益が出ないと。
今は労働条件が厳しいから低賃金で、きついダイヤしけば
小型バスでも利益はでるかもしれないが。 >>398
土浦駅〜北条〜下妻(乗り継ぎ?)〜菅谷〜古河駅、
要するに国道125号をひた走りで路線がありました。 >>407
それであれ、コミュニティと称して一昔前の都バスと同じ200円もとってんのか。
隣の荒川区なんか京成に委託してて150円で乗れるのによ。 東武が営業所と車庫引き上げて後がまの茨急も縮小してて、なおかつ公費負担のコミュニティのまめバスが現金のみ100円均一赤字でも苦しんでる野田に、
いまだ東武が路線残してるのはすごいよ。
>>410
はるかぜはコミュニティバスだけど、自治体が主体的にやって運行を事業者に委託するよくあるコミュニティバスじゃないからな。
PFI方式で自治体は最低限のバス停や環境整備しかしてくれない。
普通のバスに近い。だから運賃もそんな感じ。
足立区内の路線バスが微妙だったからこんなことに。 >>411
むしろコミュバスが黒字の市町村ってあるのかね ムーバスは吉祥寺という人口が多くかつ道が狭い一方通行だらけの地域に
リエッセ走らせたというのが成功の要因で
関東や小田急が独自にリエッセ走らせればすむ話なので
コミュバスの成功例とするよりは
朝日の花田線が儲かっているのと同じなのかも知れんね
コミュバスは自治体によるけど公共交通がない地域に走らせたり、病院を結んだりって
福祉方面を重視して路線を敷いてる自治体が多いから、黒字目的に走らせてるわけじゃない所が多いからねぇ
バス会社的にも貸切バスのような料金貰えて、しかも車両代も自治体から出して貰えるから美味しいらしいよ
>>416
赤字補填の一般路線だと赤字の分だけ補填するから赤字にはならないけど黒字にもならない計算になるし
車両は他の路線との兼ね合いもあるが自由である反面自腹なんだよね。
その違いが典型的なのは上尾市循環バス「ぐるっとくん」と東武時代から赤字補填をしている上尾市運行バス(上尾〜東大宮間)。
同じ地区(上尾市原市地区)に上尾市が別の補助を出しているので上尾市運行バス自体が補助打ち切られ廃止されてもおかしくないのだが
地域的なものがあるのか今のところ運行が保たれている。
他の地域(大石や大谷地区)では東武の路線廃止=ぐるっとくん運行なのでその辺どうなのよって気はするが。 昔野田で、市の強い要請で野田市駅と市役所回る路線つくったら
コミュバスでも何でもないから補助もなんもなくてすぐお釈迦なったことがあったな。
昭和40年代までは市街地循環的な循環路線が結構あったんだけど
放射線状の路線の方が便利で結局大宮の天沼循環などくらいしか残らなかった。
大宮や熊谷市街地は3〜4ルートもあった。
野田市はワンマン初期の頃にやって失敗したものを今更やろうとしたというのが敗因。
ただあの頃はコミュバスという概念がなかったし、
自治体全額負担で貸切免許で無料市内循環をやる程に市の財政に予算がない場合仕方なかったろう。
コミュバスが制圧しているエリアで路線バスが残っているのは大抵の場合
コミュバスのエリアから外へ出る(市の中心部・本拠地や行政区域の外)か
それらに向かって短絡している場合が多い。
>>417の指摘する上尾市はその両方を持っていて
東大宮駅(さいたま市)〜原市地域〜上尾市役所〜上尾駅を短絡的に結んでいる。
上尾市内循環だと上平(六道経由伊奈学園高校方面)まで回ったりするしね。
確かに政治的福祉的な物は考えられるが清河寺回りの大宮や大石回りの上尾車庫が廃止されてから
上尾市内循環が運行されてるから廃止代替の意味はあっても廃止置き換えではないよ。 >>405
本社企画にバスヲタを置いて動かしている事業者もあるよ(ニヤリ
西武や関東バス、国際興業なんかもそれでうまく回ってた。
頭がよくコミュ力があればヲタの方が理解している分だけ有能。
野球嫌いなプロ野球選手はいないって事さ。 >>420
コミュバス自体は一般路線とは被らないようにするのが普通じゃない?
民業圧迫と言われかねないし >>422
被るようにすべきとは言ってないのだが?
コミュバスの中で民営が残れるのは自治体の外に出られるのと短絡的に結んでいるからという事例を挙げただけなんだが。
逆にコミュバスが短絡できるのならそれでもいいんじゃないですか? 前後扉でシートは何も考えず大量に並べただけ
こんなのが昔の東武のイメージ
なんかまたクズどもが荒らしてるな
これだから昔の東武ヲタは
>>419
大宮近辺の昔からあるバス停だと、以前の行き先やら路線図が消されつつも剥がれて残ってるものがあるね いよいよ今週バスまつりだというのに東武はさぼってんじゃないよ
>>429
そもそもオタに馴れ合うって感覚がないだろ
本社にオタがいて企画発案が通る社風なら出来るだろ
その辺が近隣他社(国際興業や西武)とは違う
取りあえず他がやってて鉄道で実績があるから
ファンフェスタをやってみようっていう感覚
花上嘉成さんのような人がバスにもいれば変わったかもしれないがな
しかし前回の大宮営業事務所見ててわかったけど
オタが集まったところで業務に支障が出るだけだな
規制線で区切ってはいたから最初の竹ノ塚程にトラブルは起きなかったが
通り道と止める場所を占領してるんだから支障は大きかったように見えた
今後は沼南か西上尾の廃車置場ででもやればいいんじゃね 交通の便と、車種の豊富さを考えて大宮にしたんだろうけどなぁ
>>433
日産(日産ディーゼルではない)590系。
戦前から昭和30年代初め頃まで日産自動車との取引があった。 >>409
じゃあ今の土浦〜下妻は東武から関東鉄道に移管された路線? >>438
「移管」じゃなくてダブルトラック(競合)からの「撤退」じゃ?
それに昭和40〜50年代にエリア調整が理由以外で
グループ外に「移管」という例が思い浮かばない。 >>439
そんなに賑わってた時代があったんですかねえ。
まず土浦に東武というのが全くイメージになくて。 茨城というと水戸は有名だが土浦もありましたよね。
古河=菅谷=下妻=北条=土浦
元は関東鉄道との競合路線で下妻を境に古河と土浦に路線があり
調整で関鉄が古河から撤退する代わりに東武が土浦を撤退
昭和55年頃まで土浦=下妻が走っていたそうです。
関東鉄道の株主には東武鉄道もいて問題なく土浦まで走れたのでしょうね。
マニアでも知っている人は少ないと思いますよ。
土浦駅に東武がいた頃の画像ってネットで検索しても見たことがないので
本数的にも少なかったのでしょうね。
市立図書館に行けば画像が出てきそうな感じもします。
土浦行きの方向幕を出した東武バスを見てみたいですね。
>>441
昭和55年なら記憶がありそうなんですが、
年代が微妙にずれているのか全く記憶にありません。
関鉄が古河に来てたのも今更ながら驚きです。 >>442
土浦市史の巻頭のカラーページ
昭和49年の土浦駅バスターミナルの写真があって関鉄バスの他に国鉄と東武バスが写っている。 尾久に1973年の水戸駅北口バスターミナルのバス写真が出品されてて、その中に笠間の5209が写っている。
ん、
…ちがう。♯6510(本庄から松は74837591
6802は川重のCJM500で千葉県内(柏か沼南かは知らん)の配置じゃ。大事なことなので繰り返す! 6802は川重。
P-LV314の初号車が6803で5E架装の東松山配置じゃ。
だからP代以降の新型式車(LV314とLV324どちらも)は
6803(銀サッシ青クリーム)と2113(7E)によって導入されたものと考えられる。
ソースは鳩山ニュータウン住民の(当時は新荒子ってカキ…(ry
俺の記憶と、R254で児玉車庫手前の川を渡った直後の空地にいた廃車体を見た二十数年前の記憶や!
9607#いや、結構マジ。
だってすごく信頼できた某サイトですら、登録番号の下2ケタで42と49をそのまま載せてたからさ
9298 所沢948
9299 所沢950
9300 所沢951
の現実が曲げられかねないまま後世に…
当時、朝の通勤時に何の情報も心構えもなく、朝7:36のニュータウン北からの
高坂駅行きに9244が3ドアで来た日の興奮を、当時の2ちゃんに書き込めて良かったよ。
下妻駅=辺田(岩井)って路線も元東武の路線?
それとも茨急オリジナル?
あぁ、スマン
間違えた鴫
9297 所沢948 ※坂戸
9298 所沢950 東松山
9299 所沢951 東松山 →川越で最後のご奉公
9300 所沢952 東松山
9301 春日部 草加
次の新車は
9357 9358 9359
9397 9398
9417
東松山出張所管内(とはいえニュータウン北)の話で恐縮だが、冬に雪が積もった時の
運行は、今に当てはめれば神レベルの凄さ”!
…夜中に雪が積もるよ!ってときは、夜のうちに母の指令により
窓を5pだけ開けて寝ろ→石油ストーブをガンガン
→まだ暗いけど、布団の中まで聞こえるう、ん?あれ?
朝630にはバスがチェーンをかけて「シャリシャリン…」
その音で飛び起きて、朝メシも5分で済ませて急いでバス停へ。
鳩山町民、考えることが皆同じで、乗ろうにも長蛇の列。走れば自家用車が立往生w
「あ、**さんちのクルマじゃねw?」
逆に、昼過ぎからチラチラ雪が降り始めて、運行途中の高坂駅でチェーンを装着するのも
速かったよ!
高坂駅のファミマの前で、運転士が前ドアを開けて悩んでると、後続到着便の乗務員さんが「おい、これで
大東文化の坂は無理だよっ!」
「スミマセ〜ン!チェーンはめるので10分ほど出発が遅れますけど、お待ちくださ〜い!」
あとは高02も巻き込んで、本務+後続到着乗務員のコンビで
暮れゆく冷えゆく空もなんのその。
本当に、大型のHT235BAですら5分も掛からずにチェーンをガッチリ巻き終えて
発車してたのはすごい。
たぶん、あの乗務員方々には多分に沼田とか中之条の方が紛れてたのではないか?
と予測。
とうじ、あの技術がなければ高01沿線人民(〒350-0313)は、幽閉されてたと重。
古いのは、7823が日野車体のモノコックで比較的遅くまで残ってたよね♪
東松山新製3兄弟の2141・2142・2143…最後は2143が久喜にいたんだっけ?
俺のお気に入り※大東文化の坂を4速でいつも登り切ってた9417は、バスラマに
2回目の特集がされた時には、もうどこにもいなかったよね。
あの動物公園→大東文化の坂の走り方で、乗客の側も
車両ごとの登坂性能を何となく解ってて、9417は別格の粘りだった。担当乗務員の腕… 鴫
パパ曰く昔は(BU10だろう)「ニュータウンに入る最初の坂で止まっちゃって降ろされた」→そこから歩きw
鳩山高校(本線)停留所のすぐ先で、住宅街の路地に首を突っ込んで折り返すバスを見た俺w
〜たぶん着後・回送入庫食休なんだろうけど、小学3年生には衝撃的光景だったわ♪
別のどこかで同じように路線バスの運行管理の泊まり勤務では役に立ったぉ!
>>446の続きw
鳩山NT〜高坂駅で3ドアの9244(HT2MMAA→菖蒲へ?)が走ってたのは、ほんの一瞬
※いゃ、ホントに1週間あったかどうか。 移管された直後なんてwwww
PHXEV ってくらい草生えるレベルやぞ♪(通報は自粛しようね♡
20**/04/0* 鳩山町♡ニュータウン北→高坂駅
LV314+7Eの前後折戸なのは判るとしてだ。。。。
突然!!!
何の変哲もない、東上線の以北の駅向けのバスだよ!
〜なぜか習志野&春日部ナンバーに!!揺られて高坂駅に向かう鳩山町民w
〜GWには該当バスもちゃんとナンバー変更しましたからね♪
>>447
東武は、下妻駅前=東若=国玉神社=岩井局前
茨急は、下妻駅前=下妻上町=宗道=沓掛=岩井局前=辺田 >>452
7823は96年まで東松山に在籍していた。
東松01で一度だけだが乗ったことがある。
それから2143は加須に転属(熊谷22か1015)。 >>455
東武の下妻〜岩井があったとはびっくりです。それも東若経由とは...
東若はいろいろな路線で賑わっていたんですねえ。 ギリ車掌が乗っていたころに乗車した記憶がある
浦和近辺で
>>457
廃止間際は土休日の下妻発岩井行きの片便1本だったよ
乗りに行ったら途中から岩井までオバちゃんが乗ってきて
運転手さんと楽しそうに談笑していたのを覚えているよ >>459
東若で左折して西若経由になるんですかね?
でも昔の西若バス停は結城岩井線より西側にあったと思うので西若通過? 下妻と言えば過去レスで出てたけど栗橋駅行きという路線があった
その経由でどんな需要があったのか不思議だ・・・
>>458
昭和55年末か56年1月頃まで天沼管内では浦和西高方面(西高止まりだった気がする)で
ワンマンバスに車掌を乗せたワンツーマンで運行していた
吉野町は55年の夏頃までツーマン車がいた記憶がある >>391
朝日自動車が川越進出したら良かったのに。
最近迄タクシー川越営業所残っていたから。
草加はかつて朝日自動車のタクシー営業所あったけど、上尾や吉川に関しては東武系列のタクシー事業者が無かったのも移管免れた一因。 川越は川観の縄張りだから移管されてたとすれば朝日でなく川観と思われ
>>463
川観も北本、毛呂で路線バス始める前は知っている人が少ない零細企業だったからね。
朝日タクシーも川越市駅の構内営業が殆どだったら無線で呼ばれる事も少なかったんだろう。 >>461
北越谷に引っ越してきて、駅前で「下妻駅」行きのバスを見た時の衝撃
「どこ?」 >>460
国道125号線を八千代方面に進行して東若から左折して交差点でまた左折して
県道を南下し道路脇に池がある公園脇を通過して国玉神社前を通過して岩井市内に
行った記憶があります。バスも確か13時台に1本しか走っておらず免許維持路線でした。
その後2年ほどして廃止担ったと記憶しています。 他に下妻から岩井方面に1日に8本程度、茨城急行が宗道・沓掛経由で走っており
沓掛では関東鉄道も石下駅から1日5本ほど沓掛経由で岩井まで走っていました。
岩井局前から愛宕駅・北越谷まで茨急と東武が競合で走っていて何時か乗車しようと
計画していて急に東武が撤退してしまい未乗車になってしまいました。
下妻から東武バスとか乗ったなんて、うらやましいな。
自分なんか茨城の東武バスは境車庫=東武動物公園しか
乗ったことないわ。
あとは茨急の下妻=古河に廃止間際のれたぐらい。
>>468
その辺になるとはっきりした記憶があります。
下妻からの東武だと境行きもありました。
境行きが廃止、古河行きが茨急移管、古河行きが区間廃止、の順ですね。 結城駅から山田・北茂呂経由境車庫行きの東武バスも乗ったことがあります。
昭和60年頃走っていたので水戸線経由で結城で下車し夕方に乗車
お客さんは自分を含め3人しかいませんでした。境車庫には自分だけ下車
境で宿泊して明朝、野田市駅行きのバスに乗った記憶があります。
野田市からは流山・東宝珠花・柏駅西口・大利根温泉行・紫ゴルフ場
などがあり、当時珍しかった流山行きに乗りました。
茨城の東武バスですが12月にグループから離脱する東野交通も
茨城に路線を有していました。
宇都宮=真岡=下館 東武からの移管
真岡=岩瀬
茂木=片庭=笠間
茂木=塩子=石塚
笠間=片庭=赤沢=塩子=茂木
笠間=笠間稲荷=石寺=七会村役場=塩子
こんな路線もありました。廃止後笠間近辺は茨城交通へ移管
>>472
この中で純粋に残ってるのは宇都宮〜真岡だけか
笠間近辺だと笠間〜七会〜赤沢〜岩下入口が、つい最近まで茨交で残ってたけど廃止された
水戸〜石塚〜野口〜御前山〜ツインリンクもてぎ があるけどこれはちょっと違うか 益子-岩瀬の東野は平成初頭位まで存在した。
水戸-茂木-宇都宮の国道123号路線は国鉄と茨交の相互乗入れで東野は無関係かと。
笠間や石塚に東野が来ていたのは驚きでこの辺りから福島県まで東野の版図が広がっていたとは。茨交への移管は東野鉄道の時代か。
茨交時代は2ドア独特仕様のレインボーRBが印象深い地区。
>>474
茨城交通の石塚や笠間に行くと昔話が聞けるよ
東野交通も岩瀬や笠間に車庫があって茂木から塩子を通って石塚まで
来ていたんだよ、大昔は水戸駅まで東野交通が走っていたんだけど
なんて聞いたことがあります。 水戸=石塚=御前山=茂木=宇都宮は国鉄バスと茨城交通の競合路線で
水都西線とか呼ばれていたと思いました。
現在
茂木=ツインリンクもてぎ JRバス関東
休日運行ツインリンクもてぎ・御前山車庫=水戸 茨城交通
に分断されて運行しています。
東野交通の茂木=逆川=片庭=笠間の路線は移管後茨城交通の時に2度ほど
利用しました。ほぼ全区間に渡り利用客はゼロでした。
東野は他の東武グループ各社と比べるとあまり東武っぽくないイメージだったな
車両によるイメージが強いと思うが、なんで東野ってふそうが多いんだろう?
朝日系の路線カラーも採用当初から使われてた朝日と川観と除けば、各社の自主的な使用って感じじゃないのかね
観光バス塗装と比べると強制的なものはないんじゃないかな
独自カラーを使ってながらだんだん朝日カラーになってきた関越交通を見てるとそう感じる
逆に板東や茨急なんかは入れる気配ないしw
公式サイトなんかも朝日と共通の入れてるのもあればオリジナルの所も
そういうので東武本体(およびその指揮的な存在である朝日)との関係の距離差が出てる
>>480
関越の塗装に関する見解は岩手県交通に近い。
オリジナル→親会社から中古車→塗り替えるのが勿体ない→この際新車も同じ塗装で
ただ関越が東武朝日から離れることは今後もないので朝日塗装化が進捗することになるだろうね。
中古車の塗り替えが勿体ないと言えば日光交通の阪東車もだけど
国際十王の東武車みたいに短期の予定ならそれでいいのかも。
昔の東武バスではないのでsage 東武バス 大宮駅ー平方ー東松山駅の路線とルート廃止時期、本数を教えて下さい。
東武ダイヤルバスが路線バスを東武から引き継いだときも、東武カラーで社名変更のみで、東武バスから日光の定期観光バスを引き継いだ日光交通も車両がそのまま移籍したから車体の社名変更のみだった。
ダイヤルバスと日光交通が合併して、東武バスからの移籍車よりも、朝日自動車からの路線車が多くなると、朝日自動車カラーで社名変更のみがふえてしまったな。
東武バスの聖地の東武バス日光にはなんとか残ってほしいな。
トップドアの非冷房の日野車が観光バス格下げの路線車と混ざって走っているのが昔の日光。
日光とかよく知らんけど、いまだに舗装されてなくて砂利道のイメージあるな
>>484 ボンネットバス全盛の時は砂利道だった。
日光駅から足尾に行っていた東武バスのツーマン時代は悪路て、箱形のバスがなかなか入れなくてボンネットバスの時代が長かったと
バスラマインターナショナルで昔東武バスを特集した時に、定期観光バスのガイドさん(昔は路線バスの車掌さんだった方)が答えたインタビュー記事が載っていた。 >>482
172 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/13 18:24:06 ID:h4OakUGD
>>139
平方〜開平橋〜県道339号〜県道76号〜古名交差点〜県道27号〜東松山駅だったかな?
系統番号は東松xxだったはず。
大宮駅〜平方、平方〜東松山駅に系統分断されて、
東松山駅〜平方は晩年は日中1往復という有様だったとか。
やはり乗り通す人が少なかったのが廃止に繋がった原因っぽい。
東松山から大宮だと電車で池袋あたりのほうが時間的に近いしねぇ・・・。
173 :刹Б ◆5SgToeiBus :04/11/13 19:42:16 ID:O3M0flA8
>>172
東松山駅〜r27〜久米田〜r33〜吉見高校入口〜r76〜消防組合前〜r339(役場回り)〜開平橋
というルートだった模様。主要停留所だと、以下の通り。
東松山駅〜百穴入口〜亀甲〜前河内〜徒歩橋〜一本木〜(川島町)役場前〜大橋〜出丸支所〜入間川大橋〜平方開平橋西詰
系統番号がつけられた昭和48年頃にはもう分断されていたようで、[東松08]という番号だった。
その後昭和52年頃に廃止。川島町内の廃止部分の代替として、川越駅を軸にしなおして
[川越11]川越駅〜神明町〜釘無〜大橋〜役場前〜川島農協〜落合橋〜神明町車庫〜川越駅
[川越12]川越駅〜神明町〜釘無〜出丸
を開通するも、あえなく廃止されてしまった。 そういえば出丸の折返場にセンタアンダフロアエンジンのBT51改が止まってたのを見たことあるなぁ。
BT51改はいつ頃廃車になったのでしょう?
川越06の上尾乗り入れ時点ではまだいて上尾駅西口に姿を見せていたのですが・・・。
>>485
日光にボンネットが入っていたのは昭和34年頃まで。その後はBD系に置き換えられた。
最後にボンネットが入ったのは山岳地帯ではなく熊谷だと聞いた事がある。
いすゞはすでにリアエンジン車を販売していて東武も導入していたが
特段理由のない熊谷にボンネットが導入された理由とは何だったのだろう? 熊谷営業所でボンネットバス?そんな悪路あったのだろうか?
晩年中型バス限定でやっていた路線とか。
あとは、運転手さんの好みだろうか。
熊谷は変なゲテモノがよく入ってた気がする
UDの中型車とか
貸切落としが入らなかったのが不思議なぐらい
太田営業所の中型は日野+富士重ボディだったので、てっきり熊谷も日野車かと思ったらUDだった。
関越交通の水上車庫ってただの折り返し場?
元東武バス水上出張所?
>>493※引用文献参考書※
上毛新聞社発行、大島登志彦著「群馬県における路線バスの変遷と地域社会-第二次世界後の東武バスを中心として-」
高崎経済大学の先生の本によると
館林駅〜五号道路〜茂林寺入口〜分福センター〜南大島〜明和役場前〜上大輪〜瀬戸井〜赤岩統合中学校
と出ています。
1980年9月1日の時刻表も掲載されていて、1日11往復で、日中は分福センター経由となっています。
館林駅の始発が6:20、最終が19:55
赤岩統合中学校の始発が6:22、最終が20:47です。 >>495
ご教示いただきましてありがとうございます
川俣駅を通るルートでしたか
1980年の時刻表とは東武時刻表でしょうか?
1979年発行の東武時刻表第2号には館林駅発の時刻のみで赤岩統中発の時刻は掲載されていませんね >>496 東武時刻表かどうかは、著者の高崎経済大学の先生に聞いてみないと判りません。
何を参考にして、紙面オリジナルの時刻表を作ったのか。
館林駅、分福センター、赤岩統合中学校の3地点の時刻のみ記載されています。 >>497
ありがとうございます
駅や営業所で配布されたポケット時刻表の場合も考えられますね 間違って別スレに書いてしまったので…
1983年4月時点の東武バス東武伊勢崎線太田駅(北口)発着路線。*共管を含む。
@太田駅〜妻沼駅入口〜熊谷駅
A太田駅〜広沢〜桐生天神町
B太田駅〜葉鹿下町〜桐生天神町
C太田駅〜中野〜館林駅
D太田駅〜新宿〜足利両毛駅
E太田駅〜植木野〜足利両毛駅
F太田駅〜太田呑竜〜青年の家
G太田駅〜太田6丁目〜下浜田〜冠稲荷入口〜牛沢〜東毛病院
H太田駅〜太田6丁目〜由良局前〜宝団地
F太田駅〜太田6丁目〜由良局前〜宝団地〜木崎十字路〜木崎駅〜尾島一丁目〜尾島三菱前
>>500
太田駅〜太田駅入口〜南一番街〜バイパス入口〜西小泉駅〜赤岩統合中学
をわすれていました。
熊谷駅ゆきと桐生天神町ゆきは日中2〜3本ありました。
他の路線は朝夕の運転の館林駅ゆき、尾島三菱ゆき、西小泉駅ゆきは、西小泉駅発着の熊谷駅ゆきの送り込みもかねてなのか1日数えるほど。
宝団地ゆきは一時間に一本、東毛病院ゆきは二時間に一本、足利両毛駅行きの二つの経由は1日朝夕中心で1日10本もなかった。
青年の家ゆきは途中の太田呑竜への参拝客を日中1日4本くらい。
まだ、太田の本町通り(昔の名前で言うと、県道前橋古河線、今は国道に格上げされています。)は工事中で伊勢崎方向へ一方通行。
太田駅行きは太田6丁目から一本北側の北裏通り経由。
1983年から太田営業所の変化は6月から鉄道の東武熊谷線の代替急行バス、熊谷駅〜バイパス〜妻沼の運行開始で、国道407号で妻沼に向かう回送バスを多く見ました。(逆も)
反面11月、植木野経由の足利両毛駅行きの廃止にしたのをきっかけに、太田駅発のローカル線は毎年廃止の嵐でした。
長文失礼。 >>501
太田駅発と館林駅発の赤岩統中が廃止されたのはいつ頃でしょうか?
太田駅から中野経由の館林駅までの路線は中野付近で2つのルートに別れてましたね
この路線はいつ頃まで運行されていましたか?
また、足利から本中野までの路線と中野付近で交差していましたね >>502 *高崎経済大学の大島先生の本の年表部分から引用します。*
@1983年6月1日 太田駅〜赤岩統合中学廃止して、西小泉駅〜赤岩統合中学(4回)を新設。
A1983年11月1日
太田駅〜植木野〜足利両毛駅(7回)廃止。
B1984年2月1日
足利東武駅〜館林駅(2回)廃止。
C1984年3月21日
太田駅〜中野経由・向地経由〜館林駅(計3回)廃止。
太田駅〜宝団地〜尾島三菱(4回)廃止。
太田駅〜宝団地(18回から8回に減便。日中1時間に一本でなくなる。宝団地は宝町にバス停名変更。) >>502 赤岩統合中学行きの廃止は
@1984年4月11日
西小泉駅〜赤岩統合中学(2.5回)廃止。太田駅〜西小泉駅の区間はいしを経て一年後に全廃。
因みに、同じ日に太田駅〜太田呑竜〜青年の家(4回)も廃止。
A1985年4月5日
館林駅〜田島経由・分福センター経由〜赤岩統合中学(計5回)廃止。
館林駅からの赤岩統合中学行きの方が太田駅、西小泉駅の路線より長く存続したことになります。 >>504
詳細な内容をご教示いただきありがとうございます
館林〜赤岩統中は昭和54年の東武時刻表を見ると12本運行されています
廃止時にはかなり減便されていたわけですね 東毛地区・足利地区のバスは昭和50年代後半くらいに需要以上の減便やったのが致命的だった気がした。
それまではギリギリ通勤・通学・買い物・通院などに使えるダイヤだったけど、やりすぎてその辺の需要にもごく一部の路線を除いて対応できなくなって客ががらっと減った思い出がある。
>>504
自分の記憶が確かならば太田駅北口〜西小泉駅のバスは確か1995年ぐらいまで1日1往復だけ残ってたはずだけど?
太田駅〜桐生天神町線が93年に廃止になった後、北口からの東武バスは熊谷行きと前述の西小泉行きが駅出て左側の本屋の前から発車。
大根経由伊勢崎行きの群中バスが駅出て右向かいのところから出てた気がする。 太田駅〜西小泉駅線と太田駅〜赤岩統合中学線の太田駅と西小泉駅の間は別ルート。
最後まで残ったのは、東別所経由の太田駅〜西小泉駅線
>>↑追記
高崎経済大学の先生の本によると、1999年4月1日に太田駅〜西小泉駅線が廃止に。
同じ日に、前橋営業所の出張所になっていた旧太田営業所(前橋営業所太田出張所)が、熊谷営業所太田出張所に変わった。
バスのナンバーも、群馬ナンバーから熊谷ナンバーに変更に。
その半年後の10月1日に太田出張所が廃止→朝日自動車太田営業所に。
太田駅〜熊谷駅、西小泉駅〜熊谷駅、妻沼聖天前〜熊谷駅を朝日自動車が担当。
鉄道の代替バス、急行熊谷駅〜妻沼は東武バスの熊谷営業所が担当。
>>508
なるほど、経由が違っていた訳か。
スマソ
余談だけど赤岩渡船の橋が出来たら、熊谷〜葛和田の国際十王の路線が、太田駅まで延びて来ないかな?
そうすれば実質、赤岩統合中〜太田駅の復活になる…ってか橋が完成するまで葛和田線が残ってるかどうか分からないけど >>509
東別所経由は99年まで残ってたんですか。
てっきり95年辺りで廃止されたかと思ってました。
熊谷〜(旧道)妻沼太田西小泉線が朝日に移管された時になぜか(バイパス経由)妻沼線代替バスは東武熊谷管轄になったんですよね。
結局その半年後に旧道経由と同じ朝日太田に移管されましたけどね
で朝日移管時にそれまでの急行バス扱いから普通バス扱いになってバス停も大幅に増えましたね。 1983年から1987年まで太田市に住んでいたので、その時代の東武バスの衰退ぶりをリアルタイムで見ていました。
高崎経済大学の大島先生の本を東京千代田区神保町の書泉グランデで見つけた時は迷わず買いましたから。
最初に出た本には、先生の自作東武バスの路線図がついていましたよ。
ただ、ルートが記載されていないので群馬県内で東武バスが通っていた道とバス停名的なものですね。
反響がありましたので…
※引用文献参考書
上毛新聞社発行 大島登志彦著「群馬県における路線バスの変遷と地域社会-第二次世界大戦後の東武バスを中心として-」
*巻末の年表から足利、太田関連の路線を抜粋。1985年以降
@1985年
4/7 館林駅〜赤岩統合中学(5回)廃止
4/10 足利東武駅〜本中野線(4回)、足利東武駅〜赤松台線(3回)廃止
8/10 足利両毛駅〜新宿〜太田駅(4回)廃止
10/1足利東武駅〜大沼田線(3回)、足利東武駅〜西小泉駅(2回)廃止
10/14 館林駅〜三野谷線(8.5回)廃止。
513からの続き。
A1986年
4/1太田駅〜東毛病院線(5回)、太田駅〜宝町(6回)廃止。
B1987年
1/1 館林市内路線バス全廃。
館林駅〜古河駅(8回)、館林〜桐生線(0・5回)、館林〜小保呂線(1回)廃止。
館林駅〜藤岡線(4回)、厚生病院〜藤岡線(1回)、館林駅〜厚生病院線(1回)廃止。
館林管轄のダイヤは富士通のチャーターバスと場外車券場売場線のみに。
3/1 足利東武駅〜入名草線(4・5回)、足利東武駅〜飛駒線(4・5回)廃止。田沼町代替バス運行開始。
3/1足利東武駅〜大岩線(休日2回)、足利東武駅〜毛里田小学校線(平日2回)廃止。毛里田小学校チャーターバス(市場〜毛里田小学校前)運行開始。
C1988年
7/11桐生天神町〜太田駅を17回から10回に減回。桐生天神町〜広沢六丁目線(3・5回)を新設。
10/11 足利両毛駅〜松田線を7回から4回に減回。
D1989
10/1 足利両毛駅〜松田線廃止。
※1990年は太田、足利地区に変化なし。
E1991年
4/1 太田営業所館林出張所廃止。
10/11 桐生天神町〜太田駅10回から6回に減回。桐生天神町〜広沢六丁目 3・5回から2・5回に減回。
F1992年
4/1 太田営業所足利出張所廃止。車庫も廃止され、車両は東足利停泊に。
10/1 桐生天神町〜東足利線が足利東武駅で分割される。直通便は28回から5回に。足利東武駅で乗り換え券発行
分割後、桐生天神町〜足利東武駅(17・5回)、足利東武駅〜東足利(13・5回)
☆1993年
4/1桐生天神町〜広沢六丁目(2・5回)、桐生天神町〜太田駅(6回)廃止。代替バスなし。
10/1 桐生天神町〜足利東武駅〜東足利線減回。
☆1994年
10/1桐生天神町〜足利東武駅〜東足利線減回。
☆1995年
10/1 桐生天神町〜足利東武駅〜東足利線廃止。
足利市内は小俣〜行道、松田〜岡崎山に代替バス(足利中央観光バスに委託)
桐生市内はおりひめバス境野経由一本木線
☆1996年
4/1 前橋営業所桐生出張所廃止。桐生地区の東武バス全廃。
☆1997年
8/11 太田駅〜熊谷駅線ダイヤ改正。
熊谷駅〜太田駅直通便は減回。 熊谷駅〜旧道〜妻沼聖天線(平日16回)新設。
☆1999年
4/1 太田出張所が熊谷営業所の出張所になる。車両はすべて熊谷ナンバーに。
4/1 太田駅〜東別所〜西小泉駅廃止。
10/1太田出張所廃止。
>>516
参考になります
館林から小保呂と古河への路線は同一経路だったのでしょうか? >>517 高崎経済大学の大島先生の本の中の館林市内の路線バス全廃の章の文章から判断すると、古河駅行きと同一経路です。 >>518
花山入口へ行くのに小保呂行きで行っていましたが古河駅行きでも良かったわけですね。 >>519 館林市市内の路線のはっきりとした経路が不明で、
高崎経済大学の先生の本の内容ではわからないし、
私自身館林市市内の東武バスには一度も乗ったことがありません。
太田駅〜熊谷駅を一番よく利用していました。
(JR高崎線に乗るために。) 水戸から笠間と下妻から古河まで東武に乗った経験があります
小学生の頃は、土浦から北条まで東武バスに乗って
関鉄に乗り換えて北条から筑波山とか今となっては良い思い出です。
>>522 前橋、宇都宮、水戸と北関東の県庁所在地に昔の東武バスは路線を持っていたことを思うと、関東は神奈川県以外東武バスの路線バス(高速路線バスを除く)が走っていたことに、今さらながら気がついた。 地元では東武=日野のイメージしかなかったから、たまに出かけていすゞとか見たときは
衝撃を受けたなぁ。日野でもたまに富士ボディのやつがあったけどあれは何でだろ
>>526 東武バスは日野といすゞ。
北関東は日野。
日野で富士重ボディがあるのは、富士重工のお膝元群馬県の伊勢崎市や太田市を走っていたからか。
あるいは、純正よりも富士重ボディを好んでいたからか。
エルガも東武バスだけ、富士重工ボディがさいようされたりしたし。 富士重が地元というのも大きかっただろうが、いすゞに関して言うと川重車体がアイケーコーチ、いすゞバス製造になった当時の生産能力、出来映えに相当不安があったんじゃない?
エルガはKL-の時代に富士重が辞めちゃったけど、PKG-までは西工で架装出来たし。東武が未知の西工に手を出すとは思えず、Jハズの優良ユーザーの中の一社となりましたな。
キュービックが入らなかったのは組合の都合っぽい
1枚窓がダメだったらしくて、どうしても導入しないとならない場合は特注の2枚窓になってたw
いすゞと日野の割合は昔は結構同じぐらいだったんだけど、どんどん日野の割合が増えた気がする
新座、東松山、そして沼南もいすゞから日野に置き換えられた
沼南の頃になると新車の数が減っていたから何年もかかって、最後は途中で辞めていすゞに戻ったけど
浦和あたりを走るやつもたまに富士重のがあった
フロントガラスと言えば、ブルーリボンとエルガを並べると
ほぼ同じ形をしてるんだよな、やはりあの形の窓は運転手にとって見やすいのか
>>527
富士重工業の地元だからと富士重ボディを採用していたのなら、
UDがほとんど入らなかったのは何故だろう。
本社のまわりが東武の縄張りなのは昔も今も変わらないのに。 富士重工からは鉄道車両も調達していたからじゃない?
日産ディーゼルは朝日自動車が調達していたけど。
川越観光もUDのを桶川の富士重工の路線に使ってたな
今は普通のエルガミオになってるけど
東武としてUDを入れたのはお試し?4R105と1979〜80年に熊谷に何台か入れた富士4EのRMだけだったか。
日産と東武は芙蓉繋がりがあった筈だが、それよりもいすゞ・日野との腐れ縁が優先しているのは謎だよねえ。
東武バスの太田営業所が朝日自動車に移管されるときに、太田市に富士重工の工場があると言う理由で、富士重工+UDの中型が入った。
あと、いすゞのキュービックのフロントガラスが一枚で、破損した時に丸々一枚交換になるのを嫌ったり、組合の反対とかで東武バス以外にも仙台市営バス、静岡鉄道(当時)が富士重工+いすゞのLVを多く入れていた。
静鉄はその後東武顔といわれるキュービックのノンステップを一台いれて、今でも相良営業所管内の路線で使っている。
>>536
太田の初期車はフロントにUDのロゴマーク付きだった。
増備車と本庄分はロゴマーク付かなかったけど。 朝日自動車の太田営業所の初期は日野RJとUDのRN?の前後ドアの中型ツーステでしたね。
しかもオートマだったので驚いた。
東武バスの太田営業所時代は日野やいすゞの大型車ばかりで、それが一気に中型だらけになって、お客さんが多いときはどうなるかしんぱいしました。
熊谷駅からの太田駅ゆきの最終バスは東武バス時代の1986年頃は22時台でしたけど、今は平日は23時台まで遅くなって、ライバル?の矢島タクシーのおおたシャトル500を意識しています。
ところで、今でも矢島タクシーのおおたシャトル500は車内アナウンスは無しですか?初めて乗る人は不安ですね。
芙蓉グループというのは安田善次郎を軸に集まった富士銀行・安田信託銀行に由来する中財閥の集合体で
三菱・三井・住友と言ったトップダウン型のコンツェルンではなく
それぞれの企業体(例えば根津家や大倉家)が安田グループを軸にしているというのだけが集まりの根拠。
日産の元になる鮎川財閥は日立製作所を生み日立と東武は長い付き合いがあるが
日産には義理立てがないと言えばないらしい。
かといって日産を嫌っていた訳ではなくボンネット時代は日産自動車製の車両を入れていたし
最近まで朝日自動車のタクシーは約半数をセドリックにしていた。
日産ディーゼルを避けた理由は2サイクルにこだわった事や
日産自動車には付き合いがあったが民生ディーゼルには接点がなかったというのが理由だと聞いた事がa
る。
日野のブルーリボンHTとかHUの、上昇下降式側面窓は
上下が同寸法なのと上側が大きいタイプがあって、東武は同寸法のやつだったけど
あれってわざわざ選択するものなのかな?
>>529
最近だとウエスト以外は日野指定だった営業所もいすゞの導入が続いているね
>>535
RNは和光の循環バスを川観から引き継ぐ時に車両も譲渡されたっていうだけだから、東武として入れたかった訳ではないよ
あの車両、遡ると川観の前は朝日にいたんだよな 自治体のコミュバスは予算にもよるが、自治体が車両購入費を出すパターンが多いんだが
新車購入費を気前よくだしてくれる自治体が多い中、予算が厳しい所だと中古車を探さないとならないこともある
だから新車でも車両を自治体が指定してきたりして、営業所指定の車両にならないこともあるよ
>>542
元々日野といすゞが綺麗に分かれたのは乗合が昭和40年代後半、貸切は昭和50年代前半であって
昭和50年代末には貸切予備車として経年のいすゞ貸切車が群馬県内に配属された事もあり
そんなに長い間ではありません。
昭和40年代中盤には平地のかなりの範囲で日野といすゞは混用されていたようです。
ただ昭和40年代中盤と昭和50年代後半、そして平成初期に車種統一を考慮した大移動があった為
どの営業所はいすゞ指定、日野指定だという説になったのでしょう。
推測ですが近年の混用は営業的な補償もあるのでしょう。
都内に日野HRを入れた代わりに埼玉の日野を使用している営業所に
いすゞLV(新7Eノンステ銀サッシ)を入れたようなものです。
ノンステがATのブルリIIよりMTが選べたLVの方が都合も良かったでしょう。 もしも4R105をきっかけにUDと取引してたら
3EボディのU20Lが上尾にわんさか・・・
あんま変わらないかw
観光仕様を無理矢理に路線バス化したゲテモノが好きだったw
>>547
北越谷にも顔出してたな
岩井所属車だったのかな? >>547
新島車庫所属で上尾駅東口行きにそんなのが来て
あまりのゲテモノぶりに乗らなかったお婆さん
時刻表では次のバスは約45分後でしたよ
熊谷から森林公園東松山方面に行くには快適だったろうけど、
中山道チンタラ走るにはカッタルかったはず 高速路線バスのようにヘッドライトの間の行灯を方向幕に改造せずに、おでこに新たに方向幕を作った、貸切車格下げの路線車。
中ドア付きに改造したバスは、入口横に縦長の方向幕。
普通は入口横の方向幕は右から左で一番左が、行き先(終点)
元貸切車は上から下だったような。
一度桐生営業所所属の元貸切車に乗ったことがある。(足利両毛駅から足利東武駅まで)
観光格下げ車なつかしい。エアサスがシューシュー音を立ててたな(笑)
太田営業所にも元貸切の路線車が一台(中ドア付き)がいたけど、熊谷駅〜桐生ボートの専属のようで、熊谷駅〜太田駅の路線には入らなかった。
座席が多い分、立ち席スペースで詰め込みがきかないからさけたのだろうか。
特に、埼玉県内は鉄道代替の急行妻沼ゆきもあったけど、今のように各停じゃないから、太田熊谷線が朝夕のラッシュ時は混んでいた気がする。
平成はじめの頃だと太田に貸切落としいっぱいいたよ
熊谷行きによく使われてた
神奈川県民だけど1973年に日光修学旅行行った時に乗ったバス、日野のRBのトップドアだったのを卒アルの写真で見た。
>>544 平成にはいって増えたんですね。
私は昭和の終わり頃のはなしでした。
平成に入って、前橋営業所太田出張所になった頃でしょうか。 >>556
平成2,3年頃なのでまだ太田営業所時代じゃないかな
当時熊谷駅に入ってくる貸切落としは太田と小川町の車だけでしたからね
小川町には1台だけだったので熊谷駅に乗り入れるのはレアでした
太田のは本当にバリエーションが豊富で、前面ライト回りをREの廃車部品かなんかで固めて路線車風にしたやつは変態度がヤバかった
後ろも廃車部品の窓を使って方向幕を車体にはめ込んだのとか、テールランプを路線車のに変えたやつとか同じ個体がいないような状態でした
今から考えると魔境ともいうべき光景でしたが、ほとんど写真を撮っていなかったのが残念
熊谷営業所には貸切落としはいませんでしたが3Eと都内からやってきた前中扉の5Eが占めているなか、
茨城からやってきた日野の中型がいたり面白い時代でした
時期的に新車が配置される営業所には7Eも登場してましたが
熊谷に配置されるのは、この数年後に東松山が日野車に置き換えられた際に転出してくるのを待たないとなりませんでした 貸切改造車は今思えば面白かったな
当時はガキだったから、全く写真は撮ってないのが残念
>>560
なつかしすぎる!取って付けたような方向幕といいw 太田営業所に貸切落としがたいりょうにいた頃、沼田、渋川、水上が関越交通に移管されて、それらの営業所にいたバスが集められたのでしょうか。
>>560
この手も個体差があって、寄り目ではなくライトが離れぎみの車はマトモに見えたな >>560
それでも日野車はライトベゼルがデカイからまだまし。いすゞ車は…察してねw そういえば、いすゞ車もBUあたりの川崎車体っぽいヘッドライトペゼルになってるのもいたなぁ
しかし、この手の改造って、方向幕設置、中ドア設置だけでも結構改造費がかかりそうなのに
塗装塗り替えたり、ライト周り改造したり、後部も改造したり・・・
方向幕以外は廃車発生品を使っているんでしょうが、それでも結構な金額かかっていそう
当時、足利自修の裏手には廃車になった車両のパーツが大量にストックされており、
もうイチから作れるんじゃないかってほど技術力が半端ないw
貸切落としは途中から中ドア増設をやめて、外観はおでこの方向幕のみの改造になった。
昔、観光格下げだった
本庄駅―伊勢崎駅が今
元東武のノンステップが
走ってるんだから
時代は変わったと思う
>>562
その頃は時期的に水上も渋川もまだ東武だった頃でしょう
関越交通もまだ路線バスはじめる前だったのでは… >>566
スケルトン化で扉ぶち抜くのが困難になったからね >>567
そのノンステも既に10年落ちなので、結局歴史を繰り返しているかと
貸切格下車は、結構手の込んだ改造をした割に何年もしないうちに消えましたからね
時期的に平成初期頃はNOx法の関係で新車を大量増備したので
玉突き転属で余剰になった大量のP-LV314やP-HT235などの貸切格下より若い車が
NOx法エリアから追い出されて群馬地区に出回ったのが大きいのかと シューシュー音のエアサス車はいつごろまであったんかねぇ
今のエアサスよりも、ずっとふわふわしてて、カーブを曲がるときなんて
左右の揺れがしばらく止まらなかった
格下げの話はいつでも大人気ですな。
俺はR3に中扉をぶち開け、バンパー取っ払って汎用のに付け替えて、ヘッドライトは丸目4灯にして、オレンジクリームの路線色に塗った姿を想像していたが、勿論そんなのは出現しませんでしたと。
>>572
東武のR3は不遇な車種な気がしますね
時期的に東武の観光バス撤退で余剰車が溢れていたのに
路線車もNOx規制で大量にP代車が群馬に転出してきた頃だったせいか
日光を除いてほとんど残らなかったですから 格下げ車
網棚は撤去して車内広告枠に
補助席やカーテンも撤去してあった
リクライニングも固定に
観光バスらしさは無かったな
埼玉県だけは後ろにも方向幕
付いてたな
>>574
日光の格下げ車?
日光は定期観光みたいな路線が多くて、昔から観光格下げが使用されてきたから
群馬や埼玉て見られた観光格下げとは別物だと思う >>571
日野車はシューシューいってて揺れが収まらない印象。あれは酔うわ。
いすゞ車はシューシュー音聞こえなかったな >>573
R3も不遇だったけど日野車体のブルーリボンも…いずれにせよ貸切の大量撤退があった以上やむを得ないのですが。
系列に流した例はともかく、系列外には東武独特のケチ仕様が祟ってそれほど出回らなかったようで。ベーシックな車と見るかお買い損な車と見るか…
今は共栄の校庭に吸収された春日部出張所や西上尾出張所の奥地に大量に並べられたこれらの廃車群を思い出します。 >>577
他社も比較してみると
日野三菱ふそうのエアサスはふかふかしすぎ、揺れ出したらしばらく揺れる
いすゞUDのエアサスはあまりエアサス感ない、けれども揺れ出したら止まらないってことはなかったような >>578
今ならそれでも新免業者がお買い上げになったかもしれないけど、あの時代だとね。 日光営業所は普通の路線バスの車両と貸切落としの両方で、貸切落としは、トップドアのまま、カンテラ方向幕改造。最近はヘッドライトの間の行灯を改造しているだけ。
普通の路線バスの車両は前後ドアだとちゃんと後ろ乗り前降り運賃後払い整理券方式にしていたようだ。
で現在の話、東武ダイヤルバス(現、日光交通)に東武バスや朝日自動車から移籍したバスは、前後ドアでも貸切落としに合わせて、前乗り前降り運賃後払い整理券方式にしている。
>>578
今でも東武に残ってる車だと、セレガRのFSは最後の東武らしい車な気がする
>>581
日光の場合、貸切落としに合わせてというよりも土地柄なような・・・
栃木って今県内の全社が基本的に前扉しか使ってなかったはずだし 昔、前後扉とか前中扉の車両を導入して
前以外はしめきりにして使う事業社があったけど
あれは何のためだったのだろうか
>>583
乗ってからだいぶ先で整理券を取って運賃をごまかす不逞の輩が多かったんじゃないかなぁ。 神奈中バスも最近になって、前乗り前降り運賃後払い整理券方式から中のり前降り運賃後払い整理券方式に変えたけど。
何かの資料か、サイトで見たけど、後ろや中扉をワンマンバスで入口すると、危ないと当時の運輸省が許可しなかったとか。
その後、安全が確保できることで認められたとか。
群馬県内もワンマン化初期の頃は、各社バラバラで最終的に今の後ろ乗り前降り運賃後払い整理券方式になったとか。
群馬も東武時代にトップドアの日野REが水上あたりに存在してなかったっけ?
栃木あたりからか転属してきた可能性も否定出来ないけど
・東武バスが宇都宮駅〜西川田駅の路線があった頃は、後ろのり前降り運賃後払い整理券方式だった。
関東自動車や東野バス、JRバス関東と乗車方法がちがった。
JRバス関東の宇都宮支店も一時期中のり前降り運賃後払い整理券方式にしたけど、元に戻した。
・東武バスのトップドアが水上駅に停まっている写真を雑誌で見たことがある。
前後ドアが移籍してきても、水上地区は前のり前降り運賃後払い整理券方式だったのはなぜ?というのをこのスレで質問したら、箱根と同じで山道のカーブで後ろの確認が難しいと答えをもらった。
関越交通に移管した時に全て中型車になったためか、後ろのり前降り運賃後払い整理券方式になった。
雑誌の写真に移管路線の関越交通のバスは後扉、路線が移管されていない東武バスが前ドアを開けた水上駅の写真が載っていた。
太田市内の東武バスは1983年以降に徐々に廃止されていたけれど、高崎経済大学の先生の本によると1970年代から廃止が進んでいたようだ。
地方の中小私鉄ならまだ残っていたり、なんでこの路線が?というのがあったが、大手私鉄で賃金や組合の関係もあっただろうし、車社会が加速したのだろう。
市内にある私大の関東学園大学行きや近所にバス停がなく、東武バスが撤退したあと、太田市のコミュニティバスの宝泉線(現在廃止)が開通するまで無かったし。
群馬中央バスの伊勢崎駅〜太田バイパス〜太田駅南口の「下浜田」が近いと言っても、平日朝夕1往復しかなく。
東武バスの東毛病院行きの「浜町入口」を利用するにも二時間に一本、どちらもバス停から徒歩15分かかる距離だった。
学生は大学が車通学を認めていたので、免許取得までは、一時間に一本の東武伊勢崎線での電車通学をしている人もいた。
そのために大学は現在もスクールバスを出していない。
>>576さん
昭和40年代初頭にスタンダード貸切車と全く同じ仕様の貸切兼用車(?)が登場し、
43年に路線車が複数導入された以外昭和45年頃まではこの仕様が続きます。
43年までの兼用車は前方向幕を持ち、44〜45年は貸切の社名表示のところに方向幕があります。
48年に貸切兼用車として導入されたのが最後となります。
普通の路線車は43年の他は46年以降になります。
また格下は早いうちから行われていますが前方向幕がカンデラ式になったのは前橋など日光以外に格下車が出始めた頃の話で
以前は社名表示のところに方向幕を設置していました(43年度までは上述の兼用車が貸切車として他の営業所にもいた様子)。
>>580さん
P-RU608BB辺りが早期退役した後に東北地方の旅館の自家用送迎にいくつか東武中古が出回っています。
東北にある中古業者が東武からの仕入れに強かったのでそのルートで販売したようです。
ごく限られた数ですが、他社に移籍出来た車両もあります。岩手観光バスや秋北バスの国際興業塗装HD-IIとかは有名ですね。 >>581さん
昭和46〜48年に前後扉の一般的なRE120が導入され原則いろは越をしない運用(奥細尾・馬返・ゴルフ場線)に入っていました。
後乗りを強調する為他の営業所より大きく丸い表示板をフロントにつけていました。
>>586さん
ナンバーからして転入車です。
昭和46年以降の普通のタイプの前扉車新製配属は日光と鬼怒川だけです。
日光にRC320Pの格下車が配属される事になり水上に玉突き転入しています。
ちなみに前扉のみ扱いの理由は>>587さんのご指摘の理由、車種によって違う乗降口を揃えようとしたのが半分、
神奈中がこだわっていたのはお客さんの乗降を目視するという理由もあったようです。
>>584さんの理由は・・・う〜ん・・・。
ただ水上でもRE120全盛期は後扉からお客を乗せていた記憶があります。 >>589-590補足です。
昭和43年後期に富士重車体のRE100前扉車(ツーマン)が日光に導入され
日光のワンマン化進捗によりそのうち1両が栃木に転出、ツーマン最後の日まで運用されていたようですが、
複数台が沼田か水上に転出したと聞いたことがあります。
川場村に平成10年頃までその廃車体がありました。 日野のツーマン車は、富士重工と帝国の両方のボディで、中ドアひとつの折戸仕様(昔、小豆島バスにあったものと同じ感じで、手動ドア)と、
中ドア一つで引戸仕様の二種類があった。
中ドア一つの引戸仕様は、東武バスから岩手県南バス(今は合併して岩手県交通になっています。)に移籍したものもあるようです。
東武のツーマン中ドア車は他に移籍した会社があるのでしょうか。
あとは、東武東上線沿線の私大のスクールバスになったものもあるみたいですね。
確か、東武バスの運賃値上げで大学生が暴動を起こして、大学と東武バスが協議して、大学行きの路線バスを無くす代わりに、スクールバスに切り替えて、その際に現物支給ではないけど、バスとバス停を大学側に渡したとか。
大学名を失念してしまった。
昔の東武バスの値上げって何でそんなに揉めたんだろうな
高校の時、スクールバスに乗るのに何故か東武の定期券が必要だった
スクールバスが3台しかなく、全員登校するには路線にも振り分ける必要が
何か無駄にカネ払わされているような気がしたけど、
趣味的には色々な車両を楽しめるので良かったかな
>>597 情報ありがとうございます。
昔のバスの写真集で中ドア引き戸のツーマン仕様のいすゞ車が池袋駅西口ロータリーを走っている写真があって気になっていました。
あと、高崎経済大学の大島先生の本だと、群馬県内はワンマン化に際して前後ドアの日野のワンマン専用車を導入して、他社のように中ドア車に前ドアを増設してワンマンバスにした車両がないとあったので、気になりました。
水上とかにいた、トップドアのツーマン車はワンマンの機械を設置してトップドアのワンマンバスになったと思います。 >>598(592)さん
ワンマン改造事例としては上述
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1187201954/784
にて大宮(吉野町)で2両試作した時点で終わっているという事ですが、
帝国車体の日野RB120のワンマンは新製配属された草加・前橋・大宮以外にも存在しました。
草加の車両が転属した可能性もありますが熊谷駅に姿を見せていたという情報がありました。
(熊谷駅に姿を見せる日野車は太田と本庄(深谷))
またこれとは別に昭和50年に大宮から社5023が本庄に転出しています。
こちらも日野RB120ですが、富士重車体です。
トップドアですが、昭和43年「度」と46年以降のグループに分けられ
43年「度」車はツーマンのまま除籍、46年以降の車両は最初からワンマンです。
43年「度」の車両は富士重でも3Eではなく前世代のR13バス窓です。
尚、この43年「度」車は平地のツーマンとは異なった形状を持ち、
フロントウインカーがゲンコツ式ではなくバス協埋め込み式、
前方向幕横のマーカーがないという44年度の仕様になっています。
また社番も5300代末、日光にデフォルト配置されたナンバーも栃2い2200代と
44年度のようです。
資料を見ると東武にツーマンが導入されたのは43年度までとなっていますが、
納期が遅れたか何かの理由で44年に納入されたのでしょうか。 東武バスいつ頃まで、車掌さんが乗務されてましたでしょうか?
伊奈役場ー大宮駅まで、路線ありましたでしょうか?
前中扉、前後扉、どうして地域ごとに分けちゃったんだろう。
この辺も効率よくしとけば発注時点でのコスト抑えられただろうに。
なんか趣味的にはともかく東武っていくら何でもこれじゃ非効率すぎるでしょ、ってことをしばしばやる会社だったよね。
昨日、葛生に行って来たけど昭和54年の時刻表を見ると東武バスの路線が2系統あるね
>>602
前中扉は前のり前払い
前後扉は後のり後払い
埼玉県北や群馬だと都内からの転属車があったから必ずしもこの通りではなかったけど、基本はこんな感じ
前中扉は前のりだから側面方向幕も前扉の横についてる
他社で後のりで前中扉を採用してる会社でも側面方向幕の位置は違っていたりした >>604
国際興業なんかは側面方向幕は前中扉間だったね
運賃箱の設定と出口入口は転属や均一区間かどうかで設定を変更したりで
前乗り中降り運賃先払いでも中乗り前降り整理券制でも、整理券発行機用のスペースを確保するかどうかの差異はあるにしてもほぼ同一仕様で入れられるはずなのに入れられなかったあたりがやっぱり東武らしいといえば東武らしい 国際興業はもともと中扉上でしょ
冷房車以降はダクトの関係で車掌席?中扉後ろに
U-LVの2世代目でようやく前中扉間になった
昔の国際興業は東武と逆方向に割り切り過ぎ。
前乗り中乗りどちらもある神奈中なんかが前中扉間に設けたりしたこともあるのと対照的に、中扉より後ろ側か中扉上部にもあったり。
どうせ転属で中乗り地域に行ったり、両方やる営業所もあるだろうくらいの発想だと。
8000番台で初めて都内仕様を作ってみたくらいですぐやめたからな
群馬バスの昔の写真を見ると、前後ドアで後ろ乗り前降り運賃あとばらいなのに、前ドア右横のすぐのバス窓に側面方向幕なんてのもあったな。
移籍車の場合、側面方向幕を移設改造しない会社もあるからな。
関東バスから上毛電鉄バスに移籍した3ドア車も側面方向幕を移設しなかったし。
LED化されても、前乗り中降り運賃先払いの会社から中のり前降り運賃後払いの会社に移籍してもそのままの会社(宮城交通、岩手県交通など)が今でもあるのは改造費の節約か。
前後扉はなんかあか抜けない感じがした。
前中扉やトップドアにはそんな印象ないが。
前後扉は関西には多かったけど関東は少なかったな
まあ、低床化でどこも前中扉に…
群馬県だとワンマン化するときに、大量に前後ドアの日野車を入れて、中ドア一枚やトップドアのツーマン車と入れ換えたようだから前後ドアのバスが多いような気がする。
後ろドアの後ろの柱には車掌用のドアスイッチが付いたバスがあったし、前後ドアの車掌乗務の運用もあったんだろうな。
後ろドアを締め切りにして、前ドアでトップドアのツーマン車同様に乗り降りさせたとか。
他社で前後ドアのバスでツーマンで使うときはそうしたし、車掌さんはドアステップに立ち、肉声でバス停案内、ドアの開閉は運転手さんがしていた。
コスト考えない東武らしい仕様の極みは、やはり大宮、天沼、西上尾にいた3扉車かもね
料金先払い路線では、前乗り中降り
料金後払い路線では、後乗り前降り
両方の路線で使えるように3扉車にしたんだからな・・・
でも面白いのは同じく前乗り路線の北本団地線があった菖蒲出張所には3扉車の配置がなかったこと
前後扉車で前乗り後降りをやっていた
この時期の菖蒲は新車が配置されない営業所だったせいかもしれないが
太田や前橋に転属した3扉車は中扉は閉め切りになっていたな
>>612
関西は色々特殊だったね。
ノンステップの時代まで前後扉にギヤもODなしでトップがギヤ比1.0の加速型で。
前後扉に無理やりこだわっていたのは本当に謎だったけど、ギヤ比に関しては高台の新興住宅地が少なからずあったからか、と。
ただ特殊な仕様が祟って、中古にするとちょっと相場より安くなりがちっていうことはあったらしいけど。
>>614
メーカーに三扉なら前乗り中後降りか、中後乗り前降りならなら理解できるけど、それは三扉車の間違った使い方みたいにいわれてもそうやったというからよっぽどだよね。 関西は均一区間の路線でも後払いが多いから、詰め込みがきく、前後ドアの採用になったのだろう。
前中ドアだと、入口の中ドア付近にお客がたまって、動かないから、中ドアより後ろの立ち席スペースが空いている。
ノンステになって、入口が中ドアでも前ドアでも、ノンステの部分の前中ドアの間に、立ち客が滞留しているからなあ。
617名74系統 名無し野車庫行2017/06/25(日) 19:24:40.03
>>616
とはいえ、中乗りのほうが一段あたりのステップが後乗りより段差が低くなるし、つり革や握り棒など捕まる場所を確保してアナウンスで誘導すれば滞留にも十分対応可能。
だけど、関西公営や東武はアナウンス対応を極度に嫌ったゆえの後ろドアかも。 学生の頃は東武と国際興業を利用してたけど
東武はドアが完全に閉まらないうちに発車する感じだったな
あと、国際は駅などの終点でエンジンをかけっぱなし、東武はマメに切る
時々国際でエンジン切ってる車を見ると異様に感じた
>>615
今みたいに前中扉しか無くて前乗りか中乗りの選択しかない時代ならともかく、3つあるドアの使い方位ユーザーの考えでいいじゃん。と言いたくなる。東京城西に縁の薄かった俺はKNK関東乗合が前乗り後降り(えっ?中降りじゃないのかよ)なのには相当面食らったけどね。
東武の3扉には側面幕が2つ付いていて、照明が白熱灯(2扉車は蛍光灯)な所に東武のケチ精神が遺憾なく発揮されていて苦笑した。 関東バスの3ドア車の場合は、前入口、中終点のみ出口として開放、後ろ出口。
関東バスは後輪で下車したお客を巻き込まないためということらしい。
3ドア車の初期車には、中ドア後ろに車掌台(車掌さんのスペース)があって、ツーマンの時は前後ろ締め切り、中ドアのみで車掌さん用のマイクとドアスイッチ、連絡用ブザーが付いていた。(関東バスの本を見てわかった。)
京王バスと西武バスの3ドア車は、前中車と同じで前入口、中ドア出口、後ろドアが終点のみ出口だった。
東武バスの大宮地区にいた3ドア車が前橋営業所に移籍してきたけど、中ドア締め切り、後ろのり前降りだった。
二つある側面方向幕は、後ろドア前はしっかり幕がはいっていたけど、前ドア後ろは、幕を取り払って中身が丸見えか、白幕だったような気がする。
後ろのり確定だし、ケチな東武じゃ廃車になった前後ドアの方向幕を再利用しているかもしれないし。
東武バスの3ドア車
先払いのときでも
北浦和と上尾駅西口は
朝の混雑時は3ヶ所
全部解放して客を
降ろしてた
それ以外は中ドアと後ろドア
の2ヶ所が終点での出口だった
関西系と違って東武は後扉も折り戸だったから
停車・出発を焦っている感じはある
>>621
転属してきた車両は代替で廃車等になった車両の方向幕が載せ替えられてた
95年式以降は側面幕が大型化されたから流用出来なくなったけど 大宮地区の3ドア車は、乗車時に運賃を支払う、申告制だったな。
東京ベイシティ交通と同じ。
前出だけど、前払いだと終点の駅で3ドアを解放して下車時間を短縮するため。
磁気式のバスカードが出たあたりで、3ドア車も後ろのり前降り運賃後払い整理券方式になった。
東北本線の土呂駅開業前は大宮駅〜メヂカルセンター?が3ドア車だった気がする。
>>601
東武バスが全路線ワンマン化されたのは昭和56年4月。
伊奈役場〜大宮駅(駅前通り)間は昭和40年代中盤頃まではあった。
上尾車庫〜六道〜伊奈役場〜東大宮駅〜導守〜大宮駅前通り
途中小室志久〜東大宮駅間の経由が南平塚・砂団地から志乃崎・原市団地入口に変更されていたらしい。
ツーマン末期は東大宮駅で切られていて昭和54年頃まで運行されていた。
>>602
前後扉のメリットは座席数の確保と流動性・乗車効率の良さ。
前中扉の場合中扉から後ろへの立席客の効率が悪く、中扉が引戸の場合座席数が少なくなる。
1980年代前半に内輪差による巻き込み事故が問題化した際もホイールベースより後ろの後扉設置は安全性が高いと評価されていた。
逆に前中扉のメリットは中引扉の設置が容易で降車が早いのとツーマン兼用が容易な事か。
西武・東急・京急は1960年代〜70年代初頭に前乗り前後扉を導入したものの前中扉との整合性などから
前中扉に統合され、関東は3扉化の上で後扉降車を行っている。 >>605他
国際興業は都内と県内の異動が多い。前乗り先払いと中乗り後払い整理券方式が混在するのは川口と練馬のみ。
ただその国際興業でも都内仕様と埼玉仕様があって転属時は車外マイクの位置などの調整が必要だった。
中扉上に方向幕があったのはツーマン時代の名残のようなもので大抵の事業者は昭和40年代前半まではその位置に設置されていた。
国際興業の幕位置は昭和52年にサブエンジンクーラー搭載のBU04(5000番台)が登場した際に車内冷気吹出口と方向幕が干渉する為
車掌台に移動した。その後CLM470にモデルチェンジした後の56年まで冷房車と非冷房車が並行し、
中扉の戸袋前に設置されたのは平成3年から。
>>613
東武以外の群馬県内の初期ワンマンはツーマン使用の可能性が低いあるいはほぼない場合、早めに前後扉に移行した経緯があり、
前乗り先払いの前後扉車が存在した。整理券方式に移行する際に方向幕を移設したものの殆どの車両は撤去跡が残っていた。
群バスの他、上信にも多数そうした車両が存在した。 >>614
三扉車の登場は昭和57年。当初は兼用とせず後扉前の方向幕は装置が入っていない車両が多かった。
まずは置き換え対象が43〜46年式の前中扉車で導入時期から47年以降の前後扉が対象にならなかった。
北本団地線が前乗り先払いだった理由は開設当時担当が西上尾で菖蒲には後に移管されている。
単区間なのでそのまま引き継いだと思われる。
>>617
国際興業では朝の学生ラッシュやギャンブル輸送、後のJリーグ輸送などで何度も運転士さんがマイクで後ろに詰めるよう諭しても、というのは何度も見た。
ただ、昭和60年式のLT(1013〜)のように中扉より後ろを左右両方とも二人掛けシートにした(実質立席がほぼ取れなくなる)車両も存在したが・・・。
>>625
中型(RJ)の導入が平成8年なので以前はすべて大型車で運行されていた。
採算性の問題もだけど植竹は道路事情もあまりよくないので中型固定はやむを得ないのかも。
道路事情と言えば別所団地を含めた宮原西口発着系統は完全中型化すべきじゃないのかと。
朝夕の別所団地線はそれなりに乗るが駅出て右折〜新大宮バイパスまでの道幅は大宮からツーマンで来ていた時代と変わってないはず。 国際興業は、整理券発行装置の自動放送テープで、「整理券をお取りください/要りません」の後に
「危険物の持ち込みはお断りします」などいくつかの案内パターンがあったが、そのひとつに
「中ほどへお進みください」的なものがあったような気がする
東武が大量に中型車を入れた平成8年度は各地で混乱を引き起こしたな
大型の本数そのままで中型を入れたもんだから、積み残しが発生するような路線がいっぱい出たと聞く
結果的に中型車は予備車扱いになっていく所が多かったような
運転士にとってもはじめてのフィンガーシフトの車両で最初は慣れずにスムーズな変速が出来ない事が多かった
他社の話で、東急の場合、中ドア折戸のツーマン専用車を大改造してワンツーマン車にしたな。
前ドア増設、中ドア引き戸改造で中ドア上と後ろの方向幕はそのままで、前ドア入口脇に、サボで経路表示をしていた。
そのうち、中ドア上と後ろの方向幕を鉄板で覆ったり、車体更新時に撤去して1980年代位の非冷房の新車まで、前のみ方向幕、横はサボで表示していたな。
営業で入国回送するバスで、正面は表示していたけど、営業所行きのサボをバスに積んでいないと横はサボなしだった。
目黒営業所が三軒茶屋線に中型専用車を入れたころから、前ドア横と後ろの方向幕が復活して前横後ろが連動するようになって、バス正面の系統番号サボも廃止になった。
30年以上前に、前橋駅から赤城山大洞行きがありましたよね?乗りたかったなあ(*^□^*)。
何年か前、越谷市の統計年報(確か1980年のだった)を図書館で見たときに七左→川口という片道路線を見つけたけどこれは昔あった越谷ー川口の出庫便ということでいいのかな?
ちなみに片道一本だけでした。
前橋駅〜赤城山大洞は、前橋営業所の中ドア増設の元貸切車が使われていたな。
桐生営業所にも元貸切車の路線バス車両がいて、桐生市内や桐生天神町〜東足利とかで運行していた。
太田営業所にも元貸切の路線バスがいたけど、太田駅〜熊谷駅線にはいることがなくて、熊谷駅〜桐生ボートの公営ギャンブルのバスに使われていたな。
埼玉県内が混雑するから、つり革のない、通路の狭い元貸切車を使わなかったのだろう。
赤城大洞
末期は前後ドアの
ブルーリボンが専属だった
有料道路の無料化で
運賃の改訂があったので
運賃表の端に
赤城線使用可
って貼ってあったのを
覚えてる
>>631
東急の場合廃業した金華車体等深い取引関係のあった車体メーカーがあった事、
新車メーカーも常に競合状態であって大規模な改造を引き受けざる得なかったという経緯があった。
中折扉ツーマンを前中(中引扉)ワンマンに改造するにあたって側面の三分の二を切り取る大手術を施工した。
東武の場合は自社羽生工場と系列の足利自修、三進自動車で殆どの工事を賄えたが
前扉スタンダード貸切(乗合と同じバス窓のロマンスシート車)の前扉を塞ぎ中扉を折扉で新設した例や
昭和50年代半ばに1両だけ三扉の試験に前中扉に後扉を増設した例がある。
ワンマン改造でごく一般的な中引扉ツーマンに前扉増設も行っているが過去レスによると不調の為数台で中止し
早期にワンマンと置き換えすることになった。 >>633
赤城大洞自体はまだ停留所はあり今でも前橋から行く事は可能。
但し東武時代と周囲の雰囲気は変わっている。
>>634
七左町まで回送となると越谷営業所からどんなルートで来たのか興味深いところ。
現在朝日が運行している越谷〜岩槻間の荻島小学校止まりのような形と思われるが・・・。
>>635-636
前橋には一部に普通の前後扉車に補助椅子が付いた車両がありそれらの車両が赤城線に従事していた。
貸切格下げ車が青白塗装に塗り替えられ登っていた時期もあった。
青白塗装でかつ短尺である46年以前の非冷房車(RC300P改)となると前橋と鬼怒川にはいたものの他では見られなかった。
青白塗装の冷房車(47年以降のRC320P)は渋川や下館にも存在した。
>>637
最近は自治体の広報で古い写真を公開したり地域史を得意とする出版社によって古い写真が掘り起こされたりで眼福。 >>633さん
前橋駅〜赤城山大洞線、ありましたね。私、20年ほど前に前橋で100円運賃を始めるというニュースを聞いて、乗りに行ったときにもこの路線が
東武バスで残っていました。元貸切車を2扉に改造した車、懐かしいです。
>>635さん
太田〜熊谷線は昭和の時点でも結構、需要があったのですか? ちなみに、この系統、30年前には日中でどのぐらいの本数だったのでしょうか? >>643 東武バスの太田駅〜熊谷線は1983年ころは、朝5時台で熊谷駅行きが4本〜5本で熊谷駅から東京への通勤対策たみたいだ。
熊谷駅から太田駅の終バスは曜日関係なく22:00だった。
太田駅〜熊谷駅の日中は一時間に3本ぐらいで、西小泉駅〜熊谷駅は朝夕の運行だった。
1983年6月に鉄道の東武熊谷線が廃止になって、急行運転のバイパス経由の熊谷駅〜妻沼(現ニュータウン入口が日中一時間に2本くらいで、昔からある太田〜熊谷線の妻沼発着便が消滅しました。
鉄道の代替バスは太田営業所〜妻沼を回送で運転されていました。
無冷房車に「急行 鉄道代替バス」の鉄板のヘッドマークというか、プレートがついていました。 >>644さん
ご教示ありがとうございます。昔から、熊谷駅〜太田駅間はメインルートだったのですね。では、この系統と熊谷駅〜妻沼間の急行バスはこの頃から
朝日バスに移管されるまでの間に本数の大きな増減はありませんでしたか? >>646 私が群馬県太田市に住んでいたのは、1983年4月〜1987年3月の大学在学中なので、東武バスから朝日自動車に急行熊谷駅〜妻沼線に関してはリアルタイムでは知りません。
高崎経済大学の先生の本や、バスファンのサイトを見る限り。
朝日自動車太田営業所が開設した当初は、太田駅〜熊谷駅と西小泉駅〜熊谷駅、妻沼聖天前〜熊谷駅のみの担当で、
東武バス熊谷営業所が存在している期間のみ、急行妻沼ゆきのみ東武バスが運行していたようです。
東武バス熊谷営業所が国際ハイヤー(今の国際十王交通熊谷営業所)に移管される時に、急行妻沼線が朝日自動車の太田営業所に移管されて、バイパス経由も急行運転から途中バス停を増やして各駅停車にしたとか。
大学時代は一年生の時は「飯田」バス停に近い学生寮(現存せず)、二年以降は、歩いて10分位の所に両毛観光の太田営業所があるアパート住まいでした。
両毛観光が国際十王交通に吸収されて、両毛観光の太田営業所が、朝日自動車の新太田営業所があると、ウキぺディアの記事で知りました。
長文失礼。 >>635
熊谷太田線も今じゃ中型車で間に合うもんな >>648 東武バス熊谷営業所太田出張所を閉鎖して、朝日自動車に移譲して、朝日自動車太田営業所になった時点では、日野のRJとUDの富士重ボディの中型と、中型バスしか配置されなかった。 太田移管当時は朝日も余裕あったから、中型とは言えほぼ全車新車で入っただけでも十分すごいけどね
東武時代はあちこち玉突きされまくったようなのしか来なかったし・・・
最末期は熊谷の出張所扱いになったから、全車熊谷ナンバーに付け替えたのはある意味壮観だったが。
越谷の出張所になった境もだが。川向こうで、県も違うのに春日部ナンバー………
群馬県内の東武バスの営業所は日野のメーカー指定で、富士重工が伊勢崎にあった関係で、富士重ボディの日野車がいたな。
太田営業所も日野だけだったけど、熊谷営業所の出張所になる前に一台だけいすゞ+川重のBUかCJMがいたのは、熊谷営業所の車種指定がいすゞだから、先行して運転手さんになれてもらうためだったのかとおもった?
あと、印象があるのは都内から移籍した前中ドアの日野車。側面方向幕を移設せず、前ドア横のままだった。
他社の話になるけど、宮城交通も移籍車は、極力改造費を押さえるためか、中乗り前降り運賃後払い整理券方式なのに、前ドア横に改造せずに残っているし。
>>647さん
いえいえ、昔の熊谷太田線を知る方の貴重な話を聞けただけでも幸いです。2回もわざわざ、誠にありがとうございます。
>>652さん
都内の営業所流れの前中扉車、新車が入らない営業所管内を中心によく見ましたね。私は子どもの頃、菖蒲に住んでいましたが、97年頃まで前中
扉車が走っていました。以前の東武バスの広域転配を象徴する光景でした。 既に、前の方に書いたけど、前橋営業所に大宮地区にいた3ドア車が移籍して、中ドアを締め切りにして使っていました。
同じ頃1988〜89年に上毛電鉄バスが日産ディーゼルの非冷房車の元関東バス(東京)の3ドアを中古で一台だけ購入しました。
方向幕は廃車になった、前中ドアのUD車の物を使っていたようで、後ろの方向幕と、正面の右側にある系統幕は関東バス時代のまま?で白幕表示。
側面方向幕を移設せず、前ドア横のままでした。
前橋駅〜前橋病院線で使われているのを前橋駅前で見ました。ちなみに群馬テレビの入社試験日だったので覚えています。
>>97 1987年、久喜から熊谷(籠原)の友人の家に行くときに、菖蒲乗換えで白岡に出て高崎線に乗り換えた。
帰りは夜遅くバスも無いだろうと思い大宮回りで帰った。
一度きりしか乗らなかったので経路は全く記憶していない。
1987年の時点では菖蒲で分断されていた。
乗り換えの待ち時間も一時間とかそんなに長くなかった。 >>657 桶川かもしれない。かなり昔のことではっきり覚えてないから。
1987年だとまだ、宇都宮線側の久喜駅前のロータリーが狭くて、東武バスがターンテーブルに乗って方向を変えていたな。
反対側(東武伊勢崎線の方)は広場があって、東武バスと大和バスが来ていた。
団地の名前は忘れたけど、東武バスの終バス後、乗り合いタクシーがその団地まであって、タクシー会社か団地の自治会か乗り合いタクシーの運行を支援する住民と思われる、おばちゃんが手売りで乗り合いタクシーの切符を売っていたな。 まだ菖蒲に東武バスがあった頃、菖蒲仲橋で運転手さんが終着したバスを降りて、無賃乗車しようとしたとみられる若い男の人を追い掛けてるの見たよ。
今となっては、さすが東武だなという感じだけど、東武バスの運転手さんがお金払わずに降りたとみられる客を追い掛けたの見たことある人いる?
私、この後は見てないけど、菖蒲仲橋は交番があるので、もし、捕まえたらこの追い掛けられた人、交番に突き出されていたのかね?
終点でもないと、なかなかバスに客を乗せたまま追い掛けられないんじゃない?
料金が足りなかったのか、降りちゃった人に大声で呼んでるのは見たことあるけどそのくらいかな
聞こえなくても追い掛けるまではしなそう
消防の頃途中停留所で30mくらい追いかけられたことある
100円玉だったと思ったら50円玉を出してしまって
運転士に追っかけられて財布の中見たら確かに50円余計にあった
すみませんって謝って50円渡した
その間バスはエンジンかけっぱなし客も乗せっぱなし
今から思えばそっちの方がヤバくね?
>>660さん
>>661さん
レスthx! やはり、終点以外で運賃払ってない人をドア開けたまま追い掛けるのは、他の乗客の方々からみても「さっさと発車しろ!」となりますし、
これ隙にと運賃払わずに脱走も可能・つまりはまた新たな無賃乗車を誘発してしまいそうですよね。
この間、東武バスに乗りましたが、運転手さんは逐次、「左曲がりま〜す!」などとアナウンス・降りるときもきちんと、「ありがとうござい
ました」と言ってくれて、もはや、往年とは様変わりしていました。やはり、東武バスさんも接客にも、意識改革したのですかね。 >>662
余計な意識改革の裏で、
マイクに気を取られすぎのヘタクソな
運転手も増えたのと、身勝手な客も増えた。 >>663 東武バスだけじゃなくて、全国的にそんな感じ。
無愛想で運転が荒い、テクニックがある運転手さんはみんな定年退職しました。
年齢的に、ツーマンから全路線ワンマンに変わるのをリアルタイムで体験した人たち。
あるバス会社のOB運転手さんが教えてくれたのが、
「運転が荒いと、お客も身構えて乗るから、車内事故がすくないんだ」と。
確かにその運転手さんが現役時代にいた営業所は同じバス会社の他の営業所より運転が荒いなと、子供でも感じたし。
座席は深く座り、手すり、つり革はしっかり掴む、お客も自然と身に付くなと。 東武だと熊谷や加須以北のラインと、東松山や上尾以南の地域で平成以降も運転手の走り方に差があったなぁ
以北は60km以上でかっ飛ばす運転手が多かったけど、以南は空いてる道でも40kmぐらいでまったり走らす運転手が多かった
このラインって新車が入ってたラインとも一致するけど、社内でも何か差があったのかね
>>665
単に走行環境による部分が大きいのでは?
上尾や天沼では飛ばしたくても飛ばしようがないし。
しかし菖蒲は環境的には飛ばしやすくとものんびりしたイメージがあった。
熊谷は乗降の少ない県道クラスの道では確かに飛ばしてた。 一応労働組合のグループは分かれていたね
北部地区は晩年までワンマン化反対してた
高崎経済大学の先生の本で、前橋駅〜渋川駅〜沼田の路線がツーマンからワンマンに変わった時に、ラウンドダイヤが崩れ、日中の沼田直通が減り、渋川乗り換えが増えたと。
群馬地区の組合が強くて、ハンドル時間(運転の拘束時間)、ワンマン手当てと揉めに揉めたらしい。
その結果、前橋駅〜渋川新町は残ったが、渋川〜沼田が大幅減便。
関越交通に移管されてたあと、渋川〜沼田が今はあるかどうかわからない。
>>669
かといって行き過ぎた資本関係者優遇と声だけは大きい肉屋を支持する豚が跋扈した結果が今であって 671名74系統 名無し野車庫行2017/12/17(日) 09:22:44.50
>>664
ワンマン化の過程で、運転士の立場や給料を良くするために車掌兼運転士みたいな位置づけにしてワンマン化した会社は当初からマイク使いまくりだったな。 >>671
そういう待遇をした事業者もあったのかもしれないが、運転手マイク放送は、テープ放送機器が設置されなかったので嫌でも喋らなければならないケースがあったのも事実。
東武はどうだったのか知らずのレスで、すまん。 東武は直営時代にマイク使ってる運転手居なかったし
当時の組合の強さからして、恐らくワンマン化の条件としてテープ放送機器取り付けを条件にした可能性
東武バスの熊谷営業所にUD+富士重ボディの中型が何台かいた。
その前のツーサイクルエンジンのUDのバスは、バスラマの記事によると、上尾市に日産の工場がある関係で前中ドアの大型バスを入れたと書いてあった。
あとにも先にもUDの大型は試験的に上尾営業所に入れたバスだけだと。
あのテープって、間違って2回押しちゃったら巻き戻せるの?
最近でも川越観光が富士重工線に富士重工車体のを専用で入れてたけど今は普通のエルガミオになってるね
>>679
音声合成の今のは停留所名をもう一度クリックすれば大丈夫な筈。
8トラ時代は結構面倒らしくやってるのは見たことが無い。 今だったら電子化されちゃって大したことないけど、
アナログ時代の装置類の連動はすごいよね
整理券、運賃表示器、方向幕、音声放送と
整理券発行機もしゃべるやつあったし
>>680
富士重工線ってスバル撤退後もやって行けてるのかい? 東武バスの車内車外アナウンスのテープがどういう順番で録音されていたかわからないけど、静鉄バスは次のような感じだった
@このテープは※※線※※経由※※行きのテープです→バス停通過スイッチをおす→Aお待たせしました※※※線※※経由※※行きです。(整理券をお取りください)→B始発の場合、系統番号、路線名経由地行き先をいったあと、次は※※※※です。
バス停でバスが止まりドアが開くと、下車のみで出口だけでもAの放送がながれる。バスがドアを閉めて発車すると関知するシステムがあるのかBの次は※※※と流れる。
バス停を通過する場合は、バス停通過スイッチをおして、車外アナウンスの部分を飛ばす。
>>683
スバル車作ってるのって群馬工場じゃないのん? >>685
川越観光は群馬走ってないじゃん
川観の路線は旧富士重工埼玉製作所へ行く路線だよ
ここは汎用機器製造してたけど去年撤退しちゃった 川観の富士重工線っていわゆる半公営路線だからなぁ
赤字でも問題ないはず
朝日自動車の路線バスの方はMT車まだ残っていますでしょうか?
群馬県の東武バスは8トラテープを使っていたな。
群馬中央バスに乗った時に、なんとカセットテープと8トラの両方を使っていた!どっちがどっちかわからないけど
@入口専用の「整理券をお取りください、危険物の車内への持ち込みはできません」のアナウンスの繰り返し。
A行き先とバス停名の「次は※※です」のいつものテープ
入口が開くと、@のテープの音声とAのテープの「××行きです」の音声が重なってでていたな。
1980年代の話。
距離が長いと8ドラでも往路と復路が別テープだったりしたな。
8トラは埼玉でもバス共通カードに対応するまで使われていたような気がする
バス共通カード導入時に料金箱と運賃表示器が新しくなって、音声合成に変わったはず
東武バスの太田熊谷線に熊谷駅前から乗って太田駅に向かう場合「奈良小学校」のバス停を過ぎると、廃線になった、東武熊谷線の踏み切りがあって、
「踏切通過のため一旦停止します。」のアナウンスがテープから流れた。
1983年6月廃線当日、熊谷駅で東武熊谷線の妻沼ゆきの最終を見送ったあと、太田駅行きの東武バスに乗って下宿に帰る車中オタ席に座ってたんで、運転士さんに
「このアナウンスが流れるのは今日が最後ですね」といったら、
明日から、「妻沼と熊谷の間はバスがバンバン通るからねえ」と少し張り切っている答えが帰ってきた。
大学一年の時の思い出。
下宿のおばさんに、夕飯はいらない今日が最後の東武熊谷線に乗ってくるといったら、東武熊谷線の存在事態を知らなかったようだった。
利根川に鉄橋ができ、小泉線と繋がっていたら別だったけど、群馬側はあまり廃止に反対とか声が出てなかったし。
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朝の連ドラひよっ子で車掌さんがいるバスあったよね
東武でも多分昭和40年代半ばまで女性の車掌いたのを思い出した
あの頃のバスは青と茶の縞々だった
ドアは自動ドア出なくて手動で車掌さんが開け閉めしてた
ところが同じ時代の都バスには車掌さんがいた記憶がない
多分都電が無くなってその代わりにワンマンの都バスに変わったんだと思う
都電の車掌は記憶にあるけどバスの車掌は記憶にないな
都電荒川線のワンマン化は結構、遅かったと思う
昭和52年前後だったかな
ワンマン化された頃だったか新装化記念とかで花電車が走ったな
スレ違いすまん
>>696 1982年に、都営バスの目黒営業所が担当していた、東京駅南口〜等々力(今は東急バス単独で、当時は共同運行)で車掌さんを見た。
春休みで、東京の親戚の家に遊びに行ったとき、目黒通りのバス停で、成城学園駅行きを待っていると、都バスが停まって、中ドアが開いた。
お客は前ドアに向かうが開かない。すると、車掌さんが「こちらからです〜」と案内。
前ドアのガラスの所に紙で締切、入口は中ドアと書いたものが貼ってあった。
大学に入って、猪瀬直樹さんの「日本凡人伝」という、過去に雑誌で色んな職業にインタビューしたものをまとめたものに、過去にインタビューした恩師の記事があると知り、購入したら、目黒営業所の車掌さんのインタビューした記事が出ていた。
1980〜82年頃の取材で、その時点で、目黒、大塚、渋谷、新宿に車掌さんが1人づついたとある。
目黒営業所の車掌さんの担当路線が、廃止になった、目黒駅〜日本橋三越に変わったので、山手線の外側に来なくなった。
今思えば、乗っておけばよかったと思った。
日野の非冷房車で白とブルーの美濃部カラーのバスだった。
中ドアは自動ドアの引き戸で、車掌台(車掌さんの立つ場所にドアスイッチがあるもの) >>695
過去レスのまとめも含めてになるけど
東武が最後にツーマンを廃止したのは昭和56年4月、栃木〜古河・栃木〜小金井間等
昭和55年頃までは各地にツーマン路線が残っていた
ツーマン車両が最後に導入されたのが昭和43年
前中扉のワンマンには当時ツーマン機能は搭載されていたが
積極的に使用していた都営や国際興業や西武に比べ使用実績が多くなくツーマン車が延命されていた
昭和40年からツーマンの中扉が自動引扉車が導入されるが都内と埼玉でも限られた営業所に配属され
柏ですらも最後まで手動折扉車が配属された
日光と群馬県内の一部を除いて昭和42年式からはロマンスシート、41年以前は三方シート
昭和46年頃からワンマンが大量導入され、余剰になったツーマン車が最短5年程度で除籍され(41年導入46年除籍)、
岩手県南バス(→岩手県交通)や函館バス。南部バス等に移籍した
昭和40年代に大規模な車両移動があり大宮・上尾・川越がいすゞから日野に変更され、いすゞ車が広域配転されている 昭和50年代の足立区内でも車掌用のスペースがあってドアスイッチも見掛けたな
昭和63年頃に東松山駅〜熊谷駅の路線で、
車掌スイッチが付いてる車に数回乗った事がある。
(乗ったのは、全ていすゞ・前後扉・現行塗装)。
過去ログでは、車掌スイッチありの新車増備はワンマン化時までとあったから、
16年位使用した個体もある訳か。
車掌スイッチで思い出したけど、5Eで車掌台がついてる謎仕様があったな。
(乗ったのは、いすゞ・前中扉・現行塗装)。
車掌スイッチは無かった(当たり前)
>>701
東松01だと熊谷営業所管轄だから16年はあり得ますね 1983年頃の群馬の太田営業所の前後ドアの日野車非冷房・紺とクリーム塗装でも、後ろドア直後の窓のサンのところに、車掌さんのドアスイッチがあった。
使われたかどうかは不明。
太田営業所の路線は全てワンマン化されていたし、元ツーマン路線はナローサイズのバスでワンマンに変わっていたし。
一番後ろの5人掛け最左の前にあったスペースに緑色のボタンがあったけどそれですかね
モップとか清掃用具が押し込まれてた記憶が
>>704 ドアスイッチはレバーだから、緑のボタンは運転手さんへの合図用。
地元の静鉄バスだと、一回鳴らすと停車、二回鳴らすと「車内通過(下車客なし)」だったけど、東武バスは判らない。
静鉄バスだと、前後ドア車の場合、前ドア直後に車掌台(車掌さんのスペース)をもうけて、前乗り前降りでやっていたし、車掌台がなくなって、ツーマンも出来る前後ドア車には、普通の車でいうと、グローブボックスのあたりに、マイクとドアスイッチがついていた。 いすゞ
2000番→6000番→2000番→6000番
日野
1000番→3000番→5000番→7000番→9000番→5000番
三菱
3000番
日デ
8000番
東武バスの群馬の太田営業所は東武伊勢崎線の太田駅北口にあった時代。
タクシーは東武系の朝日自動車専用。
東武バスの回数券や定期券は、バスのりばの前にあった、書店が委託販売していた。
群馬中央バス系の旅行会社も北口にあって、新島にあった、群馬中央バスの太田営業所ではなくて、旅行会社の窓口で、群馬中央バスの定期券や回数券を売っていたと思う。
古河駅〜館林駅までの路線って、廃止直前にそこが知りたいのバス旅で出てたんだな
昭和61年に
>>691
20年前、当時住んでいた菖蒲の車両に「バス共通
カード」が導入されて、「こんな田舎にもバス
共通カードが!!」って驚いたものだよ。
今じゃ、この「バス共通カード」すら懐かしの領
域だけどね。 田舎でも磁気カードが終わりつつあるね
メンテもできなくなってきているのか、読み込みづらくなってるし
磁気カードで最後まで残るのはテレホンカードかな?
>>711
その前にオレンジカードだろう。
国鉄発行のオレンジカードが存在するから。
国鉄発行カードを今使うと、使われた会社がまるごとその分の損を被る。
それを返金などするとなると、法律から変えなきゃいけなくて大変なことに。
国鉄って組織がなくなっちゃってるんだから。
それから考えると電電公社まるごとNTTに変わってるんだから、
テレホンカードの廃止はどうにかなるんじゃないの? 例えオレンジカード廃止で半金対応となっても
国鉄時代のオレンジカードを返金するような人はほとんどいないと思うけどねw
今持ってるような人はコレクターぐらいでしょう
>>634の統計ネタにいくつか。
昭和53年の年報に北越谷〜せんげん台とか北越谷〜岩井車庫の路線が載ってたけど担当が茨急じゃなくて東武になってた。
これって途中から茨急に担当が変わったってことなのかな?担当はどこだったんだろうか。
あとせんげん台駅〜武里団地循環という路線も載ってた(担当は東武で右と左の両回り(右回りの運行回数が49・左回りは58)有) 本格的に路線バスに進出する前の慣らしみたいなのよくやってたからそれじゃないのかね
朝日でいう幸手駅〜五霞線とか、川観でいう北本駅〜富士重工線みたいな
>>714
北越谷〜岩井車庫は茨急/東武共同だったっけか
観光バス格下げ車なんかが走ってたイメージ 館林営業所が太田営業所の出張所になったころ、平日朝9時ごろ、3台くらいまとまって館林方面から回送で太田営業所に戻ってきた。
館林地区の朝のラッシュ時運用か企業の特定輸送だろう。
あと、朝一番の尾島三菱電機行きは、中型というか大型ナローが二台。
由良局前〜宝団地の道が狭いため大型が入れないから、朝の通勤対策かと思った。
1983〜84年頃で、尾島三菱電機ゆきも朝夕のみの運転で日中は宝団地ゆきだけだった。
朝日自動車太田営業所のウキぺディアの所に過去に書き込んだ内容と同じ+群馬中央バス。
1983年東武バス太田営業所の路線。
@太田駅〜妻沼中町〜熊谷駅
A熊谷駅〜妻沼中町〜西小泉駅
B急行 熊谷駅〜バイパス〜妻沼 ※鉄道の熊谷線代替バス
C太田駅〜桐生天神町 ※桐生営業所と共管※
D太田駅〜太田呑竜〜青年の家
E太田駅〜浜町入口〜下浜田〜東毛病院
F太田駅〜由良局前〜宝団地
G太田駅〜由良局前〜宝団地〜木崎駅〜尾島三菱電機前
H太田駅〜植木野〜足利両毛駅
I太田駅〜新宿〜足利両毛駅
J太田駅〜新島踏切〜下小林〜館林駅
※今現存なら、太田バイバスの交差点を左折して、イオン太田経由になるな。
K太田駅〜東別所〜西小泉駅
L太田駅〜太田駅南口〜南一番街〜バイパス十字路〜(太田バイバス)〜西小泉駅〜赤岩統合中学
★群馬中央バス
@新島車庫(群馬中央バス太田営業所)〜太田駅〜藤阿久〜新田〜伊勢崎駅〜駒形〜前橋駅 ※伊勢崎駅行きが多い中前橋駅行きもあった。
A新島車庫〜太田駅〜世良田〜伊勢崎駅
B新島車庫〜太田駅〜大間々車庫 ※1983年当時すでに1日1往復。東武桐生線とほぼ平行していた路線?
C太田駅南口〜警察入口〜(太田バイバス)〜新田〜伊勢崎駅
※平日に朝夕1往復づつ。
>>714
東武の北越〜野田〜岩井は境担当
野田〜北越間は野田担当
元々野田から北越は野田〜越谷を引っ張った東武と
岩井から南進してきた茨急の競合路線だった
茨急が東武の完全子会社になっても競合は変わらなかった
武里団地循環は春日部の担当だと思った 北越谷駅〜野田市駅方面
昭和53年
茨急バス 北越谷駅−岩井警察署前、北越谷駅−下妻駅
東武バス 北越谷駅−野田市駅(2系統)、北越谷駅−紫ゴルフ場、北越谷駅−岩井車庫
昭和55年
茨急バス 北越谷駅−岩井警察署前、北越谷駅−大正大学
東武バス 北越谷駅−野田市駅(2系統)、北越谷駅−紫ゴルフ場、北越谷駅−岩井車庫
どちらか不明 せんげん台駅−岩井警察署前、愛宕駅、野田市駅、大正大学
埼玉県道324号線(蒲生岩槻線)を走っていた、
大間野−蒲生駅入口−麦塚が、新越谷駅−蒲生駅入口−麦塚に変わり、
昭和54年頃新越谷駅−蒲生駅入口−柿の木二区になった。
大間野−麦塚時代は昭和45年頃で1日22本あったのに対し、
昭和54年に新越谷駅−柿の木二区になったときは1日3本だった。
柿の木二区に延長されたときに松原団地駅−柿の木二区(1日11本)が新設されたので、その分減便されたのかな?
>>720 せんげん台駅から大正大学は茨急バスだったような気がする。
1983〜84年頃、東武電車の車内から駅前ロータリーを見たときに、停まっていたバスは東武じゃなかった。 草加駅−工業団地経由−新善町(昭和45年1日4本)
昭和55年に新田駅西口−新善町と草加駅−工業団地経由−松原団地駅に分離。
昭和58年に新田駅西口−新善町−松原団地駅になった(1日20本)
草加西高校ができて、上野学園短大も新善町あたりあったからなぁ。
上野学園短大は今はなくなり、宅地化が進み、多少路線変更されたが、
現在朝日バスが引き継いで、だいぶ本数も多くなった。
昔も今も変わらないけど、伝右川沿いが道幅狭い。
それに比べ、松原団地循環は土日祝1本だけになってしまった。
>>721
大間野ー麦塚は越谷に廃車で転がっていた中扉BUの幕にあったけど、今思えば何処に転回場があったんだろう? >>724
昭和48年頃の東武バス路線一覧が掲載されているサイトがあるんだけど
そこで大間野ー麦塚線の各停留所を見ると、大間野(光福寺)と書いてあった。
確かに現在も国道4号大間野交差点そばに光福寺が存在します。
光福寺の構内スペースで折返ししていたのでは?
この頃、系統番号が埼玉県内にもできたのですが、「蒲01」だったようです。 >>726
つくばエクスプレスが開業した頃に桑袋団地行きが花畑車庫までになった
大鷲神社行きが桑袋団地行きになってからもう久しいな 昭和40年代後半まで浦和駅−草加駅ってのがあったらしい。
新郷支所(現:新郷農協)までは川11と同路線。
昭和50年頃?の末期は草加駅−里局入口(現:国際興業の鳩ヶ谷高校付近)
東武バスエリアとして草加と浦和でつなげておきたかったのかな?
西武も浦和駅−草加駅があったらしいが、東武と同じルートかは不明。
西武が草加まで来ていたというのは凄い時代だなぁ。
>>728
西武バスの源流は浦和東部に路線網を擁した東浦自動車。1973年4月、国際興業バスとの路線調整により創業以来の浦和駅以東から撤退した。 >>729
源流は東浦自動車のようですね。
「西武バス60年のあゆみ」を見ると、
昭和7年に東浦自動車を設立して、その時に浦和駅−鳩ヶ谷間が開業し、
草加駅まで延伸したのは、昭和30年頃のようですね。
失礼、スレ違いで申し訳ないです。 RP誌の東武鉄道特集でS39年の路線図にバスの主要路線も載っていた。
見ると大和町(現・和光市)から川越までR254を経由しない路線もある様に描かれている。
そんな路線が実在したのだろうか?
昭和30年代の埼玉なんてとなりのトトロに出てくる場所そのままみたいな場所だったからな
車も普及してなかったし、バスを幅効かせていた時代だった
>>731
>RP誌の東武鉄道特集でS39年の路線図にバスの主要路線も載っていた。
なんて書籍ですか?見てみたいですね。
和光市駅もまだ大和町駅の頃ですね。
昭和39年頃の事業者・路線単位で起点・終点・主経由地・所要時間・通し運賃ほかが一覧が載ってる書籍があったけど、
細かいルート(各停留所)まではわからないですね。
>>732
ネコバスが来る前のバスみたいな感じですかね。
中扉のみ(手動)、車掌もいる。
トトロ見てしまったw >>731
>>733
東武鉄道六十五年史で最大版図と称された時代の旅客案内版だね。
東武電車沿線案内と謳っておきながら苗場スキー場、会津田島、(会津乗合乗換)東山温泉までカバーする凄まじい路線図だ。
流石に下館〜水戸の岩瀬あたりから東は図でも見切ってしまっているが、土浦は何とか収めている。
池袋〜254〜川越も載っている。拠点としての池袋を死守していれば今頃は。。。
鉄道ピクトリア949号特集東武鉄道、2300円。7月下旬発売で、まだ売ってる本屋もあるよ。 鉄道ピクトリアルね。
他社バスの扱いが、会津乗合が前出の若松以外に、会津田島〜湯の花・檜枝岐。
鬼怒川〜塩原温泉の国鉄バスと思しき路線。
三峰口〜大輪の西武自動車。
鬼石〜万場の上信電鉄。
東野鉄道が滅茶滅茶弱くて、氏家〜矢板〜大田原だけ。図の表現からして、那須観光など行ってくれるなと言わんばかりw
>>728
草加駅−浦和駅
国立公文書館 デジタルアーカイブで見たところ、上記路線の免許申請書類が閲覧できた。
昭和26年頃の申請で、相互乗入(西武・東武)の内容だった。
西武が浦和−鳩ヶ谷、東武が鳩ヶ谷−草加を既存運転していたところから、
浦和−草加直通運転が目的で相互乗入の申請をしたらしい。
申請内容から当時全線40円、西武・東武それぞれ1日3回。
これが昭和40年代まで続いたと思われる。 >>734
>拠点としての池袋を死守していれば今頃は。。。
いや・・・
もし城北乗合を国際興業ではなく東武が引き継いだとしたら
熊野町循環や日大病院を持っていた訳で意味はあるが
川越街道を遠路はるばる行った先での池袋だから撤退はやむを得ない。
ここら辺が東急が渋谷を持っているのとはちょっと違う訳。
それに東武が撤退した結果川越街道を独占した国際興業も直進する路線は儲かってるようには見えない。
同じような時期に東武は浅草からも手を引いている。浅草も千住方面からの行きつく先だったからね。 >>738
確かに有楽町線が池袋から営団成増まで延伸したときは、
国際興業は大打撃喰らいましたからね。
更に2年後埼京線開通でも大打撃を受ける。
ただ、綾瀬駅−六ッ木都住・八潮駅だけが朝日へ移管している理由がわからない。
東武バスエリアなのに、この路線だけ朝日なのか? 池袋にオレンジ色のだるまポール一本残しとけば…って話なんだけどね。
こういう所で東武の社風が激しく出ていると思う。「辞める時は綺麗さっぱり」池袋といえどもね。
で、だるまポールが大化けして、池袋を拠点に東武の高速バスが!となりそうな時代が来たのだけれど、ここでまた社風が出た。
「コケるつもりでやっては見るよ?」
「やっては見たが本当にコケた」
新宿日光鬼怒川線なんかがそうだね。
必死にバス部門を店仕舞いしようとしているのに、下手に高速に活路を見出されては巧くなかったのだろう。
>>740
はるかぜ(コミバス)路線になっていたのかぁ。
はるかぜは平成12年位から運行開始だったはず。
当時やってた東武が、綾瀬駅−六ッ木都住線が対象になって、東武が名乗り出なかったのね。
わざわざ、越谷から来るのも面倒だろうな。朝日も。 >>741
池袋にポールを残しておけば、池袋〜群馬方面の高速バスは東武単独で
運行できたんだよな。
ポールがなくても、東武の敷地内にバス停作る分には文句なかったんだろうけど
誰がどう考えたって、デパートの店舗にして化粧品でも売っていた方が
もうかるわけだし 東武の群馬エリアでは伊香保経由で四万くらいじゃないかな、高速出して客乗りそうなのは。
本当なら沼田辺りは都市間需要があってしかるべきだけど前橋ですら・・・
単純に関越が都心まで直接繋がってないから、時間が掛かりすぎて需要が見込めないだけでは
でも不思議なのは前橋も宇都宮も高速バスは微妙なのに、水戸だけは本数多いよね
>>746
免許維持的路線を残してポールを維持していた西武が、
関越と首都高が外環挟んで直結する前から
新潟などあちこちに高速バスをだしているわけだが。
前橋・宇都宮に比べて水戸方面の高速バスが多いのは、新幹線がないからかも。
在来線特急相手だったら高速バスは所要時間でもそこそこ対抗できるけど
新幹線だと所要時間は太刀打ち出来ない。 高速バスに乗る客層っていうのは国鉄時代急行列車に乗るべき客が殆ど。
それなりの設備とほどほどの料金、フリーケンシーな本数と需要。
対都市間需要では急行あかぎ≦なすの<<<ときわ<アルプス
という感じ。
その次に>>747が指摘する新幹線の存在が出てくる。
ただ新幹線料金を払うとなると急行より割高になってちょくちょく乗れないので
本当にかぶるかどうかは未知数だと思う。
あと宇都宮や高崎・前橋は割合普通列車も充実していたので時間かかってもいい客は普通列車で移動していた。 >>747
免許維持的路線と言っても昔は宿20もまともな本数あったからなあ
そう言えば東武単独群馬路線だと下落合とか練馬駅とかには停まれないんだな
こりゃ不便だ 路線バスを維持しているから高速バスを運行できるとするなら西武の場合宿20もだが
練45の貢献が大きいと思われる。
ただ東武の場合その理屈では関越道に直接つながる目白通りに路線域を持てないので
川越街道を北上し成増に停めたと仮定して和光陸橋から環八に出て谷原に出るか、
外環の側道あるいは笹目通りから東上線近くの道を整備してもらった上で和光から乗るか。
ただ関越交通がやっているように下落合駅は無理としても練馬区役所なら止められるはず。
バスベイを区で整備した公共物とするなら構内権や排他的な占有権が発生する訳じゃないですし。
そもそも東武は箱根山戦争の時代でも西武とは直接対立していない。
野心のなさが上手い逃げ道を作ったようなもの。
もし西武がエリアガーって言う事があったとしたら西武と友好的だった上信電鉄を巻き込めば解決。
まぁ全部俺の妄想だけどね(笑)。
>>750
>バスベイを区で整備した公共物とするなら構内権や排他的な占有権が発生する訳じゃないですし
路線権とすれば生じるんだよ
そもそも路上の停留所なら私道でない限り国や地方公共団体が整備したものだろ?
公有地に乗り入れたり私有地確保すればそこに停留所作って自由に運行できるなら端から一般路線の存在関係ないわけだしな
>もし西武がエリアガーって言う事があったとしたら西武と友好的だった上信電鉄を巻き込めば解決
おいおい単独でって話なんだぜ
組むなら西武そのものでいいだろうよ 都心〜群馬方面の高速バスといえば、
新宿・練馬→関越道→本庄・伊勢崎
がJRバスがやってるけど、新宿じゃなく池袋起点なら、
東武がやっててもいい感じがする。
>>752日本中央バスが新宿〜高崎・前橋を運行していたような気がする。
板橋区にも営業所があるし。 >>738-739
国際興業さんに限らず、都市の路線バスは新規の鉄道路線開業で衰退する運命に
あるんだよね。国際興業さんは平成なってからも埼玉高速鉄道開業で路線再編
してるし、東武さんでもニューシャトルや最近ではつくばエクスプレスの開業
時に路線再編してるしさ。ニューシャトルが未開通なら、今頃、上尾駅〜
伊奈役場線は今の朝日さんの久喜菖蒲線並の本数が設定されてたりして。
また、伊奈地区も東武バスで継続だったのかも。 >>754
最後はどうかな
菖蒲の移管は森林公園同様に東武バスの分社化決定後だけらな
この2つは最初から運転手の希望退職数が多ければ移管するという予定だったし 尾久に昔の東武バスの写真がかなり上がってますね
柏営業所
千2い1178
千2こ・・43
千2こ・・70
千2こ・・81
千2こ・・82
千2こ・112
千2こ・114
千2こ・115
習志野22を・・35
習志野22を・113
習志野22を・115
習志野22を・129
習志野22を・489
千2こナンバーは1968〜1970年しか使ってないからこの間の新車か
野田営業所
習志野2え・・13
習志野22を・114
習志野22を・119
習志野22を・192
習志野22を・210
習志野22を・296 社番2932
習志野22を・492
習志野22を・522
茨22あ1050
中禅寺営業所
栃2い1894 社番5062
栃2い2030 社番5160
栃2い2235
栃2い2237 社番5394
川越営業所
埼2い3190 社番5512
埼2い3191
埼2い3192
埼22い・・32
埼22い・・33
埼22い・・34 社番5511
沼田営業所
群2い3194
群2い3225
群2い3737 社番5097
群2い4214
群22あ・219
群22あ・368
中之条
群馬22あ・・77 社番5075
今年で34になる俺だが、子どもの頃、菖蒲に住んでよ。当時、父・母と列車乗ってどこか
行くときは白岡までバスだったが、前扉の窓が4枚のバスが来ると嬉しかったな。もう少し
新しい型だと、前扉の窓が連続だったっけ? このスレのみんなも昔、前扉の窓が4枚の
バスに当たると嬉しかったかな?
昔の北関東スレから転載
東武鉄道は昔からの組合が強くて、バスも直営だった。
北関東から撤退したあと、残る地区を分社化して東武バスにすることも反対していた。
組合が言うことを聞かなかったので、埼玉の北部を朝日、川越観光、国際十王に移管しはじめて、最終的に全部移管すると会社が組合に言ったら、子会社の東武バスになる条件を飲んだとか。
もし、バスが日光を含めて、子会社に移管されていたら「東武バス」は過去のものになっていた。
正確には会社が東武バスが無くすつもりだと名言したわけではなく、組合が会社の意図に「気付いた」から
会社が名言してていたらとんでもないストライキが起きていた可能性がある
東武が北関東も東武バスにやらせていたら、東武バス群馬、東武バス栃木、東武バス茨城、あるいは一社で東武バス北関東になっていたかもしれないな。
一般家庭に自家用車が普及するのがあと30年遅かったら。とかかなり無理な前提を設定すれば東武北関東2(3?)県分社はあったかもな。
つーか、東武って地域愛に根ざすものが皆無に近いよな。偶々ビジネスやってんのが北関東ってだけで。
そもそも地域愛があれば北関東からそもそも撤退しないだろうが…
東武に地域愛あるとしたら日光だけだと思うよ
北関東で唯一東武バスが残ってるのが日光だし
群馬なんかはもう鉄道もイヤイヤやってるようなもんでしょ
>>769 群馬から東武バスが完全撤退することが決定したあとも、自社の路線バスと鉄道の東武伊勢崎線が接続しないバスのダイヤでやっていたから、地域愛はないな。
足利市駅で改札を出て、東武バスで両毛線の足利駅に行こうとしたら、ロータリーから出て行くバスの後ろ姿。
あと五分発車を遅らせれば、一時間に一本の準急Aの上りと下りからのお客が乗れた。
本社に苦情を入れたら、バスの発車を3分送らせた。
桐生天神町〜東足利の末期ですでに、足利東武駅〜東足利の運転で1日数えるほどしかバスがなかった。
足利東武駅〜桐生天神町も日中一時間に2本はあったかも知れない時代。 首都圏から離れて久しいんだが、昔池袋西口って東武の路線バスが走ってたよな?
今池袋西口の東武路線バス(高速とか深夜バスじゃなく)って無くなっちゃったの?
>>773
池袋に東武バスが来てたって、40年前にはすでに無くなってたんじゃないか?
あっさり撤退しちゃったから、後に高速バスが流行りだした時に
池袋発着の東武の高速バスを設定できず、日光・鬼怒川方面の高速バスが
新宿発で要町までしか近付けなかった。
東武線の特急列車がJR新宿駅まで直通するようになって、そのバスも廃止になったけどな。
池袋までのバス路線の免許を維持していたら、池袋〜群馬方面の高速バスを
東武単独で運行できたのにね。 そうだっけかな。東上線がクリーム色してて、JRが発足して山手線がステンレス車に変わる頃、昭和60年前後だったと思う
駅を降りると青の東武、緑の国際興業、その中間くらいの色の西武バスが走ってたよ
自分は国際興業バスに乗ってたので池袋駅発の東武バスに乗った事は無かったが…
戦後東武で池袋発着路線は元々、池袋駅東口−川越(市)駅、池袋駅南口−志木立教学院、池袋駅東口−竹間沢、池袋駅東口−成増駅と池袋駅−グラントハイツ(光が丘のあたりのアメリカ空軍の家族宿舎)
くらいじゃなかったかな。
末期は池袋駅−グラントハイツが分割され、
池41東武百貨店−練馬車庫
池42練馬車庫−グラントハイツ
実質池41が池袋発着の最後の東武バスではないかと。
昭和48年位に系統番号付いて数年でこの路線も消滅。
池袋から撤退したと思われる。
練馬車庫(出張所)は昭和53年8月31日廃止。(国際興業の練馬車庫あたり)
>>774
関東バスと共同運行なのに池袋に入れなかったってのがよく分からんのよね
国際興業が拒否する理由もないし
富士急が東京の業者として新宿から長野県内へ高速バス走らせてるんだから
東武が池袋から高速バス出しても何も問題ないと思うんだがなあ
曲がりなりにも隣の区までは路線バスが来てるんだし
>>775
完全な思い違い
西武バスが西口に乗り入れたことないから >>777
関東バスの池袋乗り入れは国際と相互だし関東の一存で東武を乗り入れさせるのは難しかったんじゃね?と言っておく。
東武がヤル気があればその位のハードルは何とかすると思うが、そもそも北関東撤退は既定路線と思われ今更対群馬の高速路線を作る気は無かっただろう。 >>777
当時幼稚園児だったし、思い違いかな?
ただ池袋で東武、西武、国際興業の3色の路線バスが同じ視界に入ってた記憶は明瞭なんだよなぁ >>780-781
大昔の都営バスが白地に青帯だったから
それと勘違いしてたのかもよ。
濃い青色の東武に比べて、都営バスの青は物凄く淡い水色って感じだけど >>781
青白の時代だったよ
Wikipediaの「1970年代の塗色」とか紹介されている奴だけど1970年代に自分は生まれていない
水色ではなかったし、池袋が地元の母親が東武バスだと言っていたので都バスの間違いではないと思う >>784
むかし東武バス豊島出張所があって川越街道を走っていた。
当時、池袋にも乗り入れていましたよ。
1974年頃出張所が閉所になり撤退しました。 >>784
でも駅を降りると青の東武、緑の国際興業、その中間くらいの色の西武バスが走ってたというのは有り得ないんだよ
路線車の貸切でもない限り そしたらバス停があったわけじゃなくて通りがかったバスだったのかな
降りた駅は池袋で間違いないけど西口じゃなかったとか
池袋西口に西武バスは入ってこない
東武が東口に乗り入れていた記録はあるが青白塗装のずっと前の話
東武が練馬営業所を撤退する時には縞々塗装の大半が青白に塗り替えられていたはずだが
その頃には西口(南口)発着だけが残っていたので西武を含めた3社が顔をそろえることはなかった
東武バスの池袋東口ー立教学院バスは実際に見てます。 今のBIC本店からYAMADAアウトレット館
までの一画に映画館数並んでいた頃で、BIC本店隣のビル(地下に土風炉)の前から出ていました。
アウトレットの前からは国際興業の千川行が出ていて。
池袋西口に西武バス というのはン十年生きてますが確かに見たことがありません。
ところで、東武バスの桐生ー東京駅路線のルートをご存知の方居ませんか?
>>792
大さっぱに言えば東京駅八重洲口〜日本橋〜後楽園〜巣鴨〜浦和〜大宮〜熊谷〜太田〜桐生〜桐生天神町
こまかい経由地や停留所、休憩場所などは自分もわかりません >>793
>>794
有難うございました。 リンク先のページ、凄いINFOばかりですね! この東京駅・桐生線のルート、
東武博物館まで出かけて直接確認してみようか とも考えていたので非常に助かりました。 >>794のリンク先のデータだけど国道17号戸田橋〜県庁裏〜桜木町〜宮原一丁目は戦後まもなくには開通しているので
浦33と被るのは確かに宮原一丁目以北になるんだけど
昭和37年に現在の17号、宮原一丁目〜吉野町インター〜上尾市役所〜現在の鴻巣警察〜の間が完成している
その時点で鴻巣までは旧中仙道は経由しなくなったので浦33や大51との重複はないはずなんだがその後も鴻巣ではわざわざ駅入口に寄っていたのだろうか?
熊谷の休憩場所は駅横の操車場なのか?それとも妻沼方面の乗り場に着けた状態で開放していたのか? >>792
池袋駅南口−志木立教学院は国際興業もあったような。
共管路線だったのかな?
あと長距離急行バスは東京−野田・下妻・境方面は昭和42年3月20日廃止
東京−桐生は昭和47年7月26日廃止(46年8月9日から休止状態)
>>795
東武博物館の図書室って友の会会員じゃないと入れないのではなかったっけ?
東武の社史見ると昭和40年5月1日 池袋発着便を東口から西口に変更
と記載有。(西口変更=東武百貨店になったのかな) >>797
志木立教行ですが、私の記憶では東武だけだったです(1961−66くらい)ただ、発車待ちをしている
バスを早朝目撃しただけですから、他の時間帯に国際興業バスが動いていた可能性は否定できませんね。
乗車場にある時刻表を一度見たことが有って、一日あたりの本数がやたらと少ないことに子供ながら驚いた
記憶があります。
それと東武バスの池袋発着・東口から西口変更の件、東武デパートも変更理由かとは思われますが、
池袋ショッピングパーク(ISP)が完成したことによって、それまで東武バスが使用していた島式発着場が
消失したことも大きいのではないかと。 大昔現在のヤマダ日本総本店の正面前に3本の島式発着場
(この呼称で正しいでしょうか)が存在しており、都バス・東武バスが使っていました。 現在、ISPの
地下駐車場に向かう入り口の辺りです) >>798
その頃は都電も走っていましたからね。
「よみがえる東京」という書籍に白黒ですが、その頃の池袋駅前(東口)の写真が載ってます。
「昭和40年代バス浪漫時代」という書籍に、カラー写真で昭和41年池袋駅西口での
東武バス写真が載っています。(前面表示幕が池袋駅南口東武百貨店)
昭和39年に発行された、「全国バス路線便覧(昭和38年3月31日現在)」という書籍があるのですが、
そこには、池袋駅東口−志木立教学院は東武バスが運行回数が1日10回、
池袋駅南口−志木立教学院が国際興業バスが運行回数が1日10回と掲載されています。
東武が東口で国際が南口(西口)のようです。
ただ、国際は池袋駅−志木駅も当時あったようですが、志木駅行きは池袋駅東口発だったようです。
その書籍上の東武バス池袋駅発着路線は川越・志木立教学院・成増・グラントハイツ(光が丘あたり)
の4路線が掲載されてました。
その後、西口起終点変更されたようですね。 >>799
そう、都電も動いていた時代です。 お教えいただいた2冊、早速チェックしてみることにします。 「池袋駅南口」という表示、
と言いますか、南口というのは大昔に目白駅側に存在した高架道の出口付近を指しているんですよね 今は余り使われなくなって
しまった呼称、懐かしいです。 その南口から国際の志木立教行が出ていたとなれば、私が見かけなかったのも当然ということにw
ひとつ分からないのは、その「南口」のどのポイントがバスの発着点だったのか?と。 現在だとみずほ銀行からESOLAに通じている
車道のどこか、ということになるのでしょうか? 昭和39年であれば、既にバラック街は撤去されており、現在と概ね同じ街・道の
造作だったと記憶しています。 今の芸術劇場・池袋西口公園は一面の野原で、大きなバッタが取れたりしましたw >>800
youtubeに
昭和29年「池袋」 駅前、ヤミ市、映画館、ガード、商店
という動画がありました。
静止画を連続させた動画ですが、
池袋駅東口のバス乗り場の雰囲気は伝わりました。 >>801
そうです。画像にも残されてますね。西武側は西武百貨店の確か2Fに改札が有りました。
この昭和38年の方の画像、今のBICカメラ本店の前辺りの車道に白くて長いバスが2台、
そのちょっと先にも2台見えているようです。私が>>797で触れた島式発着場が在った
エリアはISPを作るための工事中であることが見て取れます。
>>802
凄いものがw 0:54辺りで観れる映像(左上にシルヴァーナ・マンガーノと書かれた
看板)、これが今のBICカメラ本店前付近となります。中央の電信柱(産婦人科)の
右側に白くて丸いものが〜これがバスの発着場のポールです。1:06で観れる映像も
大体同じ箇所ですね グリーン系のバスは国際? 3:28の左下に見えているのが島式
発着場です。 >>803
グリーン系のバスは国際?
→ボンネットの都バスじゃないですかね?
(その横の黄色オレンジ系のバスと手前の木に半分隠れた軍用バスっぽいのも気になる)
薄緑系と灰系のツートンで細めのオレンジラインが2本入っていて、
2本のライン間に「東京都」と書かれてると思います。
また、昭和末期の東武東上線みたいなセイジクリーム塗装の都バスもあったようです。
「昭和30年代バス黄金時代」という写真集(書籍)を参考に。
東武バスもグラントハイツ行きのバス写真が載ってます。
池袋のこの時代だと都電もそうですが、トロリーバスもいたと思います。 >>804
都営無軌条電車池袋駅 - 千駄ヶ谷四丁目間開業は翌年の6月だよ
実際には昭和29年だけじゃないような気もするが >>804
確かにボンネットバスですね キャプチュアして拡大してみたところ、確かに
東京都と読めるような。バスの車体カラーリングの件になると、未だ勉強中
ですので何とも・・ ところで拡大して気づきましたが、池袋東急という
ロードショー館の入り口上に上映中の映画の看板が有り、そこに「巨像の道」
とあります。この映画、日本公開が1954年8月らしいので、画像の撮影日も
1954年の夏〜 ということになりますか。 >>800
池袋東武百貨店は後に隣接する東横百貨店を買収し増床するのはご存知と思いますが
増床前の東武百貨店は現在の南半分と別館として現在も東武百貨店から空中通路でつながっているみずほ銀行のあるビル
(現在も東武百貨店の所有で事務所棟として使用)になります。
東武バスの指す南口は東口の西武バスがそうであったように百貨店行という表現になり実質西口です。
国際興業が北口から出て行ったのと分ける為のようですが・・・。 >>807
>東武の社史見ると昭和40年5月1日 池袋発着便を東口から西口に変更
で、池袋東横が東武に譲渡されたのは1964年6月1日
>池袋東武百貨店は後に隣接する東横百貨店を買収し増床する
は間違い
誤 増床前の東武百貨店は現在の南半分と
正 増床前の東武百貨店は現在の本館の南半分と
誤 現在も東武百貨店の所有で事務所棟として使用
正 現在も東武鉄道の所有で事務所棟として使用 >>798
今、バス浪漫時代を見ております。国際の2枚の次ページに東武バス登場w
確かに行く先表示が「池袋駅南口東武百貨店」とありますね 車内の乗客が
見て取れますから、駅前ロータリーを回って降車させるポイントへ向かう
ところを撮影したものでしょうね となると、今のビックカメラ西口店前辺り
とか、またはその裏手とかに発着ポイントが存在したのかもしれません。
この時代確かにこの辺りを歩いているのですが、どうもバス発着点ポイント
が曖昧なんです。
>>807
東横から東武へ という切り替わりなのですが、大昔に祖母・父から聞いた話
では、そもそも西口には東横しかない というのが了解で、それが東武百貨店
というのが建設される と聞いて皆びっくりした と。東横はどうなるんだ?と
いうわけですw その話に絡むかどうか、PCに残しておいた池袋駅西口の画像へ
のリンクを。当時在った店舗やらが確認できます。これ、どこから入手したのか
記憶がないのですが、オリジナルは、恐らく1962年以前に作成されたものか?と。
右端上部に「東武バス営業所」がありますね
https://imgur.com/a/DXfcwb8 >>809
1078-1と書いてあるのが東武事務館だけどその近くに最近まであった一品香があるなあw
あとはのとやくらいしか分からん >>796さんのレスで「浦33」が出ていますが、この系統、懐かしいです。最盛期は
大宮〜鴻巣の系統もあったぐらいなのに、現在、高崎線沿いを行くバス路線は
コミュニティバスを除けば、大51しか残ってないですね。「浦33」は減便を
繰り返して、10年以上前、ついに廃止になってしまいましたね。それにしても、
さいたま新都心駅〜中山道〜大宮駅間だけが形を変えてとは言え、再び増便し
たときには驚きました。 >>811
旧大宮市の統計資料で「統計季報」に載っていた情報ですが、
戦後だと、大宮−熊谷・大宮−行田があったようです。
浦和発着便は一時上尾車庫より北上し桶川まで行ってたのですが、上尾車庫まで戻る。
大宮発着便も行田から北本まで短縮され、廃止。
埼玉県内に系統番号が付き始めた頃(昭和48年?)、熊谷駅−鴻巣駅入口・上尾車庫(熊08系統)
というのもあったようでですが、その後新島車庫−熊谷駅−鴻巣駅になり、
最後は朝日に移管され、4年前に廃止された桶川駅−鴻巣駅(免許センター)
廃止前は朝と夜の2便だけだった記憶があります。 今は免許維持路線と化した王30
昭和の終わり頃は都営バスと1時間に3〜4本は運行していたな。
定時運行がダメだったと聞いたけど、定時運行できないのは環七から亀有駅に行く曲がり角と
北区神谷町から環七に合流するところで渋滞に巻き込まれるからだよね。
西新井駅と北綾瀬駅の間は徒歩で50分。存続に向けて足立区ともう少し協議してほしかった。
分社化の際に退職者が多くて菖蒲・森林は朝日に移管されたわけだけど、
1年分社化が遅れてたらどこが移管されたんだろう。吉川とか坂戸あたりかな
でもあのまま労組が折れなかったら足立や西柏、川越含め全て朝日化してたのかね?
今も東武バスで残っている路線はほとんどが住宅・団地路線になっちったね。
その中で今でも都市間路線が多いのは川越。上尾は今も東武バスのエリアだけど、
東松山・桶川・鴻巣なんて周りは朝日カラーのバスばっかり。昔は全部東武バスだったのにな
>>814
噂では森林公園の次は西上尾が川観に移管される予定だったという噂を聞いたことがある
上尾駅東口の路線を朝日に移管したり前兆はあった >>816 上尾が川越観光になってたら北本.桶川の路線もそっちに移ってたんだろうな
それにしても毎日森林公園から20キロ近く何台も回送してるのは滑稽だね
川観は鶴ヶ島の西武文理にしても小川町の循環にしてもエリア広すぎだわ 川観は東武バスの移管予定がなくなったもんだから、上尾市内循環とか和光市内循環を東武バスウエストに押し付けてきたからなw
>>818 和光市についてはもともと東武鉄道で受け持ってて、川越観光に移管したと思ったら
また東武バスに戻ったもんな。
まあ今も川観だったら森林公園から40キロくらい回送するんかもなw 和光市内循環は元々川越観光の川越営業所管轄
森林公園移管以降は川越営業所はなくなったんで東武バス新座営業所に車両を泊めてた
上尾市内循環も西上尾に停泊してた
訂正
上尾市内循環は東松山営業所管轄→森林公園移管以降は西上尾停泊
>>820 その場合運転士も現地出退勤なのかな?
西上尾なんて今でも敷地が広いんだから桶川・北本路線の車置いとけば良いのにな
地域が違うけど朝日越谷の足立区はるかぜも八潮車庫に車置いておくんだってね 法律で出勤退勤の点呼は運行管理者の元でとらないとならないので、森林公園から車で行ってたみたいですよ
上尾駅はともかく、北本駅なんかは西上尾からでも10kmぐらいあるので
森林公園から車で向かう手間を考えると森林公園から持って行った方が良いのだと思います
森林公園〜北本なら30分程度ですが、森林公園〜西上尾は1時間近くかかりますからね
川越観光自動車と言っていながら、川越営業所を廃止にして森林公園にまとめてしまったから、回送距離が伸びる。
川越観光のエリアを考えたら、桶川か鴻巣に営業所か出張所あるいは夜間停泊の車庫があればよいのに。
あとは、朝日自動車と同居の営業所か。
20kmぐらいは回送距離としては長いものではないですよ
鳩山町の東京電機大はロイヤル観光が受け持ってますがこの会社も車庫は鴻巣で20kmぐらいありますし
飯能付近を走ってるイーグルバスも川越から回送してきてます
森林公園営業所自体も元は東武が回送距離が長くなってもまとめた方がコスト削減になるから作ったものですからね
朝日でも行田方面の路線は行田出張所移管時に加須営業所にまとめられて加須から回送してきてます
和光市循環バスがお試し運行の頃は北村ボディの観光車を充当していた。
回送距離が長くても誰も困ってないだろ?
回送のぶんだけ走行距離や人件費が増えるから
その分運賃が高いとか
回送距離が長いせいでバスが遅れがちとか
そういうのがあれば
>川越観光のエリアを考えたら、桶川か鴻巣に営業所か出張所あるいは夜間停泊の車庫があればよいのに
と思うのも分からんではないが
そういう問題は起きてないんだから社外の人間がとやかく言う話ではないよな
>>827
> 回送距離が長くても誰も困ってないだろ?
> 回送のぶんだけ走行距離や人件費が増えるから
> その分運賃が高いとか
> 回送距離が長いせいでバスが遅れがちとか
> そういうのがあれば
今後は人手不足でそうなると思うよ。
そんな遠くない将来に。 >>828
営業所には運行管理者を置かないとならないわけで、これは例え1台でも置かなくてはならない
運行管理者は要資格なので運転手以上に人が見つからない 上からの圧力と運転手からの圧力、双方の板挟みに耐えられないで辞める人多いから不足してるしね
回送距離の話題で盛り上がっていらっしゃいますが、上尾の東口も朝日さんに移管に
なって、営業所のある菖蒲からわざわざ回送していますね。上尾の東口だけ朝日さんに
移管したのは、>>816さんの言う通り、西口側を川観さんに移管する予定があったから
てすかね? もし、菖蒲が朝日さんに移管される予定が無ければ、上尾の東口の路線は
引き続き、ウエストさんの上尾営業所管轄・菖蒲もウエストさん管轄でしたかね? 基本的に高崎線の西側は川観、東側は朝日って感じにしてた模様
北本駅〜富士重工線だけ例外で高崎線の東側なのに川観が持ってるけど
当時は朝日の車庫は、茨城県の境営業所しかなかったから仕方ないのかも
>>833
吉野町を朝日とすると、さいたま市内の路線もうまく東西に分けられるのね
吉野町管轄で西側の路線は少ないし、あってもみんな大宮駅から北西に向かう路線で西上尾からで自然な感じ >>832 たまに東武の吉野町車庫に朝日菖蒲の車が休憩しに来るみたいだね。
他には越谷の車が吉川車庫に休憩とか。あそこは早朝5時台に吉川車庫→越谷行きが2本あるから、
もしかしたら夜間滞泊するダイヤがあるのかも。 中山道を行く東武バスって随分減っちゃったんだね。
昔は浦33 浦和県庁〜大宮駅〜上尾車庫とか大52 大宮駅〜鴻巣駅入口、鴻巣駅入口〜新島車庫
とかあったけど、今は大51 大宮〜宮原〜上尾が高頻度運行されてる以外は、ずっと北の熊谷駅〜籠原〜深谷駅(現国際バス)だけに。
少し前までは朝日に移管された桶川〜北本〜鴻巣免許センターがあったけど、最後は2往復だけになって消えましたね
昔は、埼玉の深谷市にも東武バスの深谷営業所があって、深谷駅発着の路線がいくつもあったみたいですね。
国際十王交通に移管された深谷駅〜熊谷駅以外に利根川を越えて、東武伊勢崎線の堺町駅や伊勢崎駅に行く路線があったとか。
深谷駅〜境町駅は1982年当時は朝夕の運行で1983年には廃止になったと、通学に使っていた大学の先輩から聞いた。
バスと上り浅草行電車の接続も悪いと言っていた。
どちらも一時間に一本で接続が悪いのは東武クオリティか。
>>837 昔は新上武橋を渡ってく系統があったんですね。今じゃ深谷駅〜籠原間も1日数往復しかない
それにしても東武バスで境町というとどうしても茨城県の方を思い浮かべるw 深谷出張所は1980年代の大整理で消滅しましたね
今は武蔵観光が深谷駅〜寄居車庫で運行してる路線だけが名残りですかね
ちなみに「出張所」という名称は法令の改正で付けられなくなってしまったので
東武バスの場合は自社での格付け(常務が何人居るとか)で分けていたせいもあって
分社化の際には旧出張所クラスを営業所、旧営業所クラスを営業事務所としましたが
法律上はどちらも同じ扱いです(笑)
出張所も東武の都合で社内では2種類存在してまして
営業所に依存してる小さい所と、営業所とは検査部門などを除いて独立してる大きい出張所がありました
>>836
北鴻巣、北上尾、さいたま副都心と新駅が出来たのも響いてるな >>839 寄居車庫は武蔵観光に移管されて尚東武時代のまま建物・敷地が残ってるね
あと寄居〜本庄.深谷線共に東武のダルマポールの円盤だけ取り替えてそのまま使ってる
>>営業所に依存してる小さい所... 坂戸・吉川・花畑
>>営業所とは検査部門などを除いて独立してる大きい出張所... 森林・西上尾
って感じですかね >>838 国際十王交通になった当初、熊谷駅〜深谷駅は東武バスと同じ本数だったような。
ダイヤ改正で籠原駅止まりが出来て本数が増えたとおもったのは、籠原駅〜深谷駅の減便だったとは。 先日車が使えなくて電車で鴻巣から羽生まで行ったけど遠回りでもどかしかった
羽生へ行く路線が残ってたらなあ
>>844
普通鴻巣から羽生なら
バスで加須まで行かないか?
>羽生へ行く路線が残ってたらなあ
でも普段は乗らないんだろ? 客が少なくて廃止になったような路線を嘆いても仕方ないことだろう
当時少なかったのなら、今あったとしても少ないだろうから・・・
だいたい鴻巣〜加須〜羽生と比べても高崎線と秩父鉄道経由の方が若干早いからなぁ
残ってたとしても本数少なかっただろうから、間違いなく電車の方が早い
>>844 朝日自動車に移管された鴻巣駅〜新落合橋線ていうのが昔の羽生行きの名残だね
その新落合橋行きも3本だけ先の「真名板十字路」ていう羽生・行田・加須3市の境まで行く便がある。
でも日中で使えるのは平日の1往復だけだし、羽生駅まではまだ4キロくらいある >>847
真名板十字路のバス停の少し先に羽生市のあい・あいバスの停留所あるけどね
日中の便からしか乗り継げないしそれも一時間弱待つから歩いた方が速いけど >>848 「小子松」ていうバス停がすぐ先にあるんだね。しらんかった
それはそうとイオン羽生って真名板の割と近くだね。
新落合橋を全部イオン行きへ振り返れば... 客増えないねw >>812さん
>>836さん
昭和50年代頃は、高崎線沿いを行く東武バス路線が豊富にありましたね。私は鴻巣市の
箕田地区に住んでいますが、「熊08」など、もろ近所ですよ! この系統は箕田団地の
近くも通っていたのですかね? それにしても、「大51」だけが今も高頻度で生き残ってるのは沿線人口が多いからですかね?
>>840さん
もし、上越新幹線が無かったら、高崎線の普通列車の
本数が制限され、宅地開発が現状通りにされなかったため、ご指摘の「北鴻巣」だの
「北上尾」だのいう駅は今もなかったのかも知れませんね。 高崎線沿線沿いだと上尾駅〜鴻巣駅〜免許センターが朝日に移管後も残りましたが
既に本数も減っていた頃だったので朝日移管から桶川駅始発に短縮されて廃止されてしまいましたね
>>850
>それにしても、「大51」だけが今も高頻度で生き残ってるのは沿線人口が多いからですかね?
大宮に出る時の利便性の問題じゃね?
あのくらいの距離ならバスで大宮行く方が便利だからじゃね? >>847-849
真名板十字路って、何気、すごいとこじゃない? 行田・羽生・加須と3市の境界付近に
あって、しかもそれなりの規模の十字路もそんなにないんじゃないか? 4つの自治体にまた
がっている十字路は全国になかなかないのでは?
もっとも、この辺りは車ないと生活に不便だよね。高校生なんかは今や、学校の行き帰りは自転車か親御さんの送り迎えに頼るしか無さそうだ…
スレに関係ないカキコなので、sage >>850 上越新幹線と北陸新幹線がなかったら。
高崎線に長野、新潟方面の特急と高崎線の快速と普通のパターン。
国道17号線経由の
@上尾車庫〜熊谷駅〜新島車庫
A熊谷駅〜籠原駅〜深谷駅鉄道平行路線も特急街道化した高崎線の普通列車のカバーで最低でも日中毎時二本は運転されていたと思います。 >>854
クルマの普及率が現実ほどに上がってなければこうなるだろうね
現実のクルマの普及率になっていれば現状並みだろうね 昔の東武といえば都内.埼玉.北関東問わず灯油ヒーター完備
今寒冷地は朝日グループに移管したけど向こうは灯油のままかな?
日光の世界遺産巡りは灯油に改造されてるように見えた
平成3年頃、前橋駅〜城東町2丁目〜群大病院行きの路線は東武パスが運行していて
平日の日中は10分間隔だった。
何で城東町2丁目と書いたかと言うと、中央郵便局に用があってバスに乗ったから。
その後、群馬から東武が撤退した後に、中央郵便局に行くのにバスに乗ろうとしたら
東武ではない会社が運行する前橋駅から群大病院行きのバスの運行経路が変わってて
城東町2丁目を通らなくなってた。
>>858
前橋中央郵便局だったら城東町二丁目じゃなくて一丁目じゃね?
今だったらマイバスが目の前に停まる >>859
でも、そのバスも1時間に1本位しかないんじゃないの?
東武の時代は、待たずに乗れたから。 >>858 東武バスでも、群大病院経由の南橘団地行きではないですね。
中央前橋駅、城東一丁目、県民会館前を通る路線ですか?
前橋市内から撤退した群馬バスも中央前橋駅経由の群大病院行きを運行していました。
今、群大病院を通るのは群馬県内の東武バスの路線を引き継いだ、関越交通だと思います。
広瀬団地行きは日本中央バスが引き継いで、当初は東武バス並みの本数を維持していましたが、今は一時間に一本と大幅減便になった見たいです。
国道50号を走っていた、前橋駅〜二の宮は永井バスが引き継いでいます。
二の宮〜伊勢崎駅は東武バスが路線を廃止して、そのままになってしまったようです。
元々は前橋駅〜二の宮〜伊勢崎駅の路線だったのを二の宮で分割してしまいました。これもワンマン化による組合の労働時間交渉の影響です。
かたや、群馬中央バスの前橋駅〜駒形〜伊勢崎駅や路線バスをやめた上毛電鉄の群馬県庁前〜中央前橋駅〜赤坂〜伊勢崎駅はワンマン化しても、ある程度の時期まで運転されていましたね。
長文失礼。 >>860
>でも、そのバスも1時間に1本位しかないんじゃないの?
そのくらい確認しろよ 東武バス前橋営業所時代は群大病院経由南橘団地行きの方が本数が多い。
中央前橋駅や県民会館前を通るのは群馬バスの小坂子や石井ゆきのイメージ。
東武バスだと赤城山大洞行きだったような?
北前橋に東武バスの前橋営業所があったので、北前橋発着の広瀬ゆきや玉村ゆきもあった。
前橋駅〜渋川新町は渋川営業所と共同管理だった。
そう言えば、昔、「尾09」いう、上尾駅西口から大石方面に大回りして、高崎線を
渡ってから上尾車庫に帰る路線があったようだけど、これはいつ頃まであったのかな?
また、この路線はどのぐらいの本数で走っていたのかな?
>>864
平成元年くらいまではあった
1〜2時間に1本、畔吉よりは少なかった
西上尾車庫の前乗り車が来る場合上尾車庫で折り返し上尾駅西口へ
上尾車庫の後乗り車が来る場合上尾駅西口から別の路線(清河寺経由大宮か平方方面)
に入る為の送り込みだった >>865
レスサンクス。
この系統、上尾周辺の高崎線西側路線の旧・上尾営業所担当便の送り込みの
性格があったんだね。それに、「北上尾」駅ができる前は、大石地区の方々が
この系統で上尾駅に向かう需要もあったようで。しかし、ここができると
大石地区の方々はこぞって「北上尾」を利用するようになり、この系統も
廃止されちゃったんだね。そして、平方発着の路線が旧・西上尾出張所の
管轄になったのもこの煽りかな? >>865 大宮地区の3ドア車前のり運賃先払い申告制。磁気式のバスカードが導入される前まででしたっけ?
大宮地区の3ドア車が前橋営業所に移籍して、中ドアを締め切りにして、前後ドア車にあわせて、後ろのり前降り運賃後払い整理券方式でした。
上信電鉄が東京の関東バスのUDの中古を入れた時も、3ドア車なので中ドアを締め切りにして使っていました。 3扉はタマ自体が少なかったせいか転出してもあまり見かけなかったが
都内の前中扉の転出は北部地区のあちこちで見かけたな
昭和末期の熊谷とか非冷房車の置き換えで前後扉より多いんじゃないかってぐらい繁殖してた
>>866
大宮(商工会館→駅西口)〜平方方面は元は大宮営業所の管轄。指扇方面も大宮の管轄。
但し西上尾車庫・西上尾第一団地・第二団地の系統は当初から西上尾の管轄。
上尾駅西口〜川越駅間は川越の担当。但し上尾〜平方折り返しは大宮の管轄、
これも整理券対応が広く可能になった西上尾で一本化。
尚、廃止された日産ディーゼル止まりと日産回り第二団地は西上尾管轄で前乗路線。
西上尾車庫・団地〜大宮間だけを受け持っていた時代は群馬の方からと思われる前後扉車がいた。
その後指扇移管か秀明高校スクール運行開始時に上尾の古参とどこからかバス窓の前後扉がやってきたが
3扉の整理券車が定着した時点で消えた。
3扉登場時は整理券装置も後扉側の方向幕もなかった(大宮も大多数はなかった)。
後に改造されてほとんどの車両が整理券対応になったが3扉車が出る直前に僅かに前中扉があって
これは大宮や上尾にいた時には整理券改造はされず運用は固定されていた。
後に本庄に転出した車両があると聞いたのでそれは改造されていただろう。
西上尾には他にポンコツの中では比較的新しい7100代の車両が整理券対応になってた。
上尾の予備車にも活用されていた。
>>867
バス共通カード導入時で後乗化、但し朝の上りの西上尾団地発は前乗先払い継続だったような気がするが
その前に上尾から転居しているのでどうなったかは分からない。 今から9年前、那覇バスの元東武3扉車見かけたけど
那覇空港とレンタカー営業所間の庸車だった。
再後部ドアは締切りだったような。
元東武の3扉車、関越交通にも移籍していた見たいですね。
東武バス同様に中ドアを締め切りにして使っているはず。
>>871
そここそが、今の「平方」バス停なんだよね。昔の「平方」バス停はその「平方神社前」の
次のバス停で、平方行きのバスはここにあった折返場で折り返してたよ。
てか、今、平方行きのバスはどこで折り返してるのだろうか? フェニックスの駐車場じゃなかったかな?
違ってたらすまん
>>873-875
平方の終点は指扇系統だけフェニックスゴルフ場の前。
大宮系統は平方神社(橘神社)から橘高校を抜けた先、丸山公園南側に折返場がある。
昔はフェニックスに入る角を左折、行き止まりになっている先に旧開平橋があって、
対向車、場合によってはバス同士が出合い頭になる為東武の誘導員が配置された。
平方のターミナル跡地は今も更地状態で残っていて土地の形状も当時のまま。
但し私有地なので立ち入りは出来ない。
旧ターミナルを中心にした平方の街並みは今もそんなに変わっていない。数軒家が建て替わった程度。
当時の雰囲気はそのまま残っているので『平方神社前』から降りて散策するのもいい。 >>877
昔の橋はどこもそんなもんよ
昭和40年ぐらいまでは国道でもこんな橋がゴロゴロしてた
江戸時代から変わらないんじゃないかというような木造の橋に砂利を敷いて車を通らせていたりね・・・w 東武バスに「昔の地図とかありませんか?」と問い合わせたら
「無い」って。見たかったのに残念。
>>879
そういうのはほとんど残ってないんじゃないかな
営業所の人で昔の路線図を保管してたりっていうのはあるかもしれないけど
会社単位で把握なんてほとんどしてないと思う
しかも保管されていても引っ越し、閉所、移管になった営業所は事務作業で大部分は破棄されてるだろうし
自分で国会図書館なりで路線免許関連の調べるしかないと思う 地図で昔の路線を辿るのは愉しいよな
とっくの昔に廃止されてるのに地図では修正されてなかったりしてさ
だからオークションでバス路線記載ありと地図を高く出す人がいてる。
古い地図(昭和40年頃)で確認したのだが、
大宮駅東口を出て、裏参道から右折して、大宮公園を抜ける路線があったようだけど、行先はどこだったのだろう?
裏参道ー土手宿ー赤鳥居ー大宮公園ースポーツセンター前ー大宮公園駅ー盆栽西ー盆栽東ー盆栽入口
という経路。それとも市内循環線的な路線かな?
>>883
大宮公園循環じゃないかな
大宮公園内の道路も付け替えで今と変わってる
あと産業道路の旧道を本郷町方面に抜けていた路線があったみたい >>884
「大宮公園循環」という路線があったのですね。
盆栽入口の後は寿能住宅の方へ産業道路を南下して、
大宮駅に戻る路線だったのかも知れないですね。 日光鬼怒川方面のバス
「東武」しか表示してなくて
どこ行きなのか瞬時に分かりづらいというか
西武観光バスと伊豆箱根バスによるバス苗場ホワイトスノーシャトルは
三国峠越えの路線はそれこそ東武鉄道での運行以来だよね?
>>887
猿ヶ京に停まるのは初めて。関越と通過に関する協定結んだのか。
元々わざわざ三国越えしなくても苗場なら湯沢側から入ればいいのに。
かぐらみつまた捨ててまで猿ヶ京に停まるメリットが見当たらない。 まさか路線バスが逆走とは しかも“常態化”?
4/8(月) 17:58配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20190408-00000058-ann-soci
All Nippon NewsNetwork(ANN)
[ 前の映像 | 次の映像 ]
東京・足立区の竹ノ塚駅近くで路線バスが立て続けに2台逆走する様子をカメラが捉えていた。大事故につながりかねないこの危険な運転、他にも複数の運転手が「逆走した」と話していることが分かった。
目を疑う光景は5日に東京・足立区で起きた。片側1車線ずつの道路。青信号の交差点に近付いていく。そこにはこちらを向いたバスが。逆走か…。しかし、本当に目を疑ったのはこの後。映像の投稿者が道を譲り、バスが右折を始めると、そこにはまたバスが。なぜ、こんなことが…。
現場は東武伊勢崎線竹ノ塚駅から西に50メートルほどの地点。バスはこのT字路を右折し、迂回してバス停に向かう。映像によれば、このT字路は当時、渋滞していた。バスは渋滞を避けるために反対車線を逆走したとみられる。
住民によれば、こうした状況は今回が初めてではないという。異常事態の背景には竹ノ塚特有の事情がありそうだ。それは、開かずの踏切。ただ、今回の2台は運行に遅れはなかったという。また、他の運転手も何人かが逆走したことがあると話しているという。交通の専門家によれば、運転手らの間で悪い習慣がはびこっていた可能性も考えられる。
警視庁によれば、こうした逆走は道交法の通行区分違反にあたる恐れがある。
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テレビ朝日系(ANN) 竹ノ塚って何年か前、踏切事故で係員に責任をなすりつけたところだよな。
ろくなところじゃねーな本当に。
>>888
東京から苗場プリンスホテルに行くのに、
関越で新潟県まで入ってから苗場に行くってこと?
それって余計時間がかからないか?
群馬県側で観閲を降りて一般道に入ったほうが早いと思うけど。
ただ、関越と違って一般道だけに除雪が完璧ではないから、雪がひどい場合には関東の運転士だと不慣れで立ち往生する可能性はあるけど。 対向車線に...また1台 路線バス 相次ぎ逆走
4/8(月) 20:07配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190408-00010018-houdoukvq-soci
FNN.jpプライムオンライン
東京・足立区で、路線バスが相次いで逆走。
車の前方を右折していくバス。
バスが走っているのは、対向車線。
さらに、もう1台のバスが後ろから続いてくるが、赤信号のため停車し、対向車線を塞いでいる。
動画撮影した男性は「怖かったですよ。突っ込んでこられると思いました」と話した。
この映像は4月5日、東京の東武鉄道・竹ノ塚駅前で撮影されたもので、東武バスによると、運転手の1人は、「次のバス停の時刻に間に合わないと思い、逆走した」と話しているという。
警視庁は道交法違反の疑いで捜査している。
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FNN
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最終更新:4/9(火) 12:35
FNN.jpプライムオンライン 関越道の関越トンネルが開通する前は、猿が京経由で新潟県入りだったからな。
1984年1985年のどちらか、大学の先輩が苗場プリンスホテルでの松任谷由美のコンサートに行くときに、三国峠が雪で通行止に。
上越新幹線で上毛高原駅で降りたら、東武バスの苗場プリンスホテル行きの臨時バスに乗車したら、ユーミンのコンサートスタッフもの乗っていたとか。
三国峠まで行き、通行止が解除になって、東武バスを先頭に東京からのユーミンのコンサートのツアーバスが後に続いたとか。地元の道を熟知したドライバーが先頭なんだと。
長文失礼。