長島昭久氏、民進離党会見詳報(1)「『アベ政治を許さない!』と叫ぶことを求められた。熟議も提案もない」と痛烈批判
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170410-00000523-san-pol 私にとって今回の行動の大義は、「真の保守をこの国に確立したい」、この1点にあります。
私は2年前の夏、安保法制を採決する本会議場に一人茫然(ぼうぜん)と座っておりました。
前日までの激しい党内論争に敗れ、失意のどん底で党議拘束に従い、安保法案に反対票を投じました。
実は当時、私は党内論議と並行して、ツイッターを使ってさまざまな方と議論を戦わせていました。
そのとき、安保法制の賛否をめぐる左右の主張の対立の激しさ、醜さといってもいいかもしれません。衝撃を受けました。
議論がかみ合うどころか、単なる罵り合い、傷つけ合いに陥っていました。
これをネットの世界の出来事と片付けるのは簡単ですが、実は現実にも同じような罵り合い、
果ては議員同士の殴り合いが、委員長席周辺で繰り広げられました。
このまま国家の基本にかかわるような問題、特にこれから憲法改正という
戦後政治の根幹にかかわるような究極的のテーマが控えています。
こういった国家の基本に関わるような問題で、左右の衝突が繰り返され、
過激な極論や暴論のぶつかり合いが続くようでは、日本社会における保守とリベラルの分断、亀裂は
抜き差しならないところまで行くのではないか。深刻な危機感を抱きました。
その恐ろしさは、今日のアメリカの分断状況を見れば想像に難くないと思います。
そのような国家を二分する争点において、対立する双方の意見を調整し
国会における熟議に反映させる責任を担うべきは、私たち国会議員です。
そして、そのような社会の分断、国家の亀裂を生じさせないようにするのが、
この国の保守政治家の責務ではないかと考えるに至ったのです。
それ以来、私は、党議拘束の桎梏(しっこく)に身もだえするような重圧を感じながら、
「真の保守」とは何かについて考えてまいりました。
「党内ガバナンス」という魔法の言葉によって、一致結束して「アベ政治を許さない!」と叫ぶことを求められ、
過去に自分たちが推進し、容認してきた消費税も、TPPも、ACSA(物品役務相互提供協定)も、
秘密保護法制も、安保法制も、憲法改正論議も、共謀罪も、すべて反対、徹底抗戦、廃案路線で突き進む。
行き詰まると、院外のデモ隊の中に飛び込んで、アジる、煽る、叫ぶ。
そこには熟議も、建設的な提案もない。与野党の妥協も政策調整の余地もない。
国民世論の統合を期待されている国会において、
かえって国民の中にある分断の萌芽をさらに拡大しているようにしか見えませんでした。
もちろん、これは野党だけの責任ではありません。
政権の側にしばしば見られる独善こそ厳に慎むべきものだと申し上げておきたい。
そこで、「真の保守」とは何か。それは、わが国の歴史と伝統を貫く「寛容の精神」だと思います。
ですから、「真の保守」は多様な意見を包摂することができるのです。
実はこの間気付いたのですが、リベラルといわれている皆さんの方がけっこう過激でありまして、
権力に対するルサンチマンのようなものがあって、寛容さに欠ける言動がしばしば見られます。
政府や保守的な主張に対する攻撃は時に激烈であります。
「市民連合」なる組織を率いるある政治学者が、一国の総理に向かって「お前は人間じゃない。叩き斬ってやる」などと叫んだりしていました。