1地家ヤスマサ2012/05/18(金) 10:06:48.57
2地家ヤスマサ2012/05/18(金) 10:07:58.95
テスト
3地家ヤスマサ2012/05/18(金) 10:12:30.75
ちなみに私は6代前までわかりますた。
岸要蔵→岸「地家」作蔵→地家朝平→曽祖父→祖父→父→地家ヤスマサ
4地家ヤスマサ2012/05/18(金) 10:20:52.61
ちなみに地家家 家系図
初代地家某→2代目地家正右衛門→3代目地家正右衛門→4代目吉左衛門
→5代目地家庄兵衛→6代目地家作蔵→7代目地家朝平→8代目曽祖父
→9代目祖父→10代目父→11代目地家ヤスマサ
地家家は300年継続しちょるということ。byおじいちゃん
5日本@名無史さん2012/05/19(土) 09:37:13.52
こっちが本スレ?
6日本@名無史さん2012/05/20(日) 21:41:28.37
ちがう、こっちは糞スレ
7日本@名無史さん2012/05/23(水) 09:56:03.49
w
8日本@名無史さん2012/05/29(火) 10:01:23.21
age
9日本@名無史さん2012/08/17(金) 10:13:54.03
あげ
10日本@名無史さん2012/08/21(火) 10:47:31.87
age
11日本@名無史さん2012/08/21(火) 10:49:03.08
12日本@名無史さん2012/08/21(火) 19:34:12.95
男系が辿れないのってさみしいよね・・・
13日本@名無史さん2012/08/21(火) 20:02:40.01
糞スレいらない
14日本@名無史さん2012/08/21(火) 20:57:24.59
やっと日の目が見られるぞ
15日本@名無史さん2012/08/22(水) 18:44:38.07
>>3
どちらの岸さん?なんか名前が似たようなのあります。
北海道から東北関係ある武家?
ご家紋は?
16日本@名無史さん2012/08/22(水) 19:06:30.16
>>15
北海道にいるのは東北出身の分家がほとんどだろう。
分家を調べてもしょうがない。 17日本@名無史さん2012/08/25(土) 12:13:41.10
私の家は父で40代目
平安時代からはっきりしてます
18日本@名無史さん2012/08/27(月) 21:59:49.07
うちは石器時代から活動してたらしい
19日本@名無史さん2012/09/19(水) 20:32:02.09
お袋の旧姓が、万里小路。
でも、戦前、爵位なし。先祖の墓は京都市内。ただ、その通り沿いに住んでただけか、
20日本@名無史さん2012/09/21(金) 07:35:00.74
>>19
分家がみな爵位を持っているわけがないだろう。 21日本@名無史さん2012/10/09(火) 18:13:57.85
d
22日本@名無史さん2012/10/09(火) 22:16:19.84
23日本@名無史さん2012/10/10(水) 00:44:55.25
>>22
おいおい、移住する前の、本土の住人だって、それなりの家の人間なんて総人口の1割以下だろ?
人口比では大差なくないか?
戊辰戦争で官軍と戦って負けた藩からは武士の入植者が多かったりもするわけで、
全体で平均したらあんまり構成が偏ってるわけじゃないような気がするが。 24日本@名無史さん2012/10/10(水) 12:24:53.59
こっちは糞スレ
25日本@名無史さん2012/10/14(日) 18:16:45.03
あげ
26日本@名無史さん2012/10/14(日) 18:58:16.95
27日本@名無史さん2012/10/23(火) 04:08:55.91
アゲ
28日本@名無史さん2012/10/23(火) 13:00:54.48
正し ×
但し ○
だろう?
29日本@名無史さん2012/10/23(火) 20:37:59.83
なるほど
30日本@名無史さん2012/10/23(火) 22:49:00.20
いや違うよ
正し血族先祖 ×
正しい血族先祖 ○
「い」が抜けてるんだよ。
まあ、どっちにしろ、マヌケなスレだよね。
31日本@名無史さん2012/10/24(水) 07:05:15.74
>>30
明治天皇の弟の玄孫などと世迷言をほざく、地家靖一が立てたスレですから(苦笑) 32日本@名無史さん2012/10/24(水) 08:19:58.87
ほー
33日本@名無史さん2012/10/24(水) 19:37:41.56
次、逝ってみようか
34日本@名無史さん2012/10/27(土) 11:52:41.13
35日本@名無史さん2012/10/28(日) 12:03:10.92
なるほど
36日本@名無史さん2012/10/28(日) 18:59:00.64
200人ばかりの扶養手当を申請してのがいたけどどうなった?
37日本@名無史さん2012/11/01(木) 18:52:15.05
>>31
でも小学生の時、地家君アタマ良かったのよ。
38日本@名無史さん2012/11/01(木) 19:23:28.71
拙者のアタマ、自毛が少なくなり申した。
39日本@名無史さん2012/11/02(金) 12:11:15.15
アタマに来たなもう!
40日本@名無史さん2012/11/03(土) 18:25:30.79
なるほど
41日本@名無史さん2012/11/04(日) 06:42:29.92
先祖供労してます
42日本@名無史さん2012/11/04(日) 18:05:15.55
先祖共々ハゲます
43日本@名無史さん2012/11/05(月) 06:48:04.73
いい流れだ
44日本@名無史さん2012/11/05(月) 12:48:24.76
200本ばかりの養毛手当を申請してのがいたけどどうなった?
45日本@名無史さん2012/11/06(火) 17:32:41.99
問題は神聖な気持ちで申請したかどうかですな
46日本@名無史さん2012/11/07(水) 09:46:37.24
>>37
下小の卒業アルバムもってます。前から何番目で右から何番目の女の子ですか? 47日本@名無史さん2012/11/08(木) 13:03:22.39
大阪市立加美小学校 入学式
48日本@名無史さん2012/11/13(火) 07:31:56.75
朝鮮学校 ?
49日本@名無史さん2012/11/13(火) 12:57:30.50
50日本@名無史さん2012/11/14(水) 02:18:12.50
いくらなんでも北海道で旧家筋っていうのは想像できないよなあ。
全国平均が1割の旧家筋だとしてもまあせいぜいその半分。
それでも多いぐらいだ。
むしろこの前東北に旅行に行って、なぜか関東の旧家のうちのことを
知ってる人もいた事に驚かされたが。
51日本@名無史さん2012/11/14(水) 03:10:24.53
旧家筋の分家ならたくさんいるだろう。
52日本@名無史さん2012/11/15(木) 07:52:41.42
ほー、なるほど。
53日本@名無史さん2012/11/15(木) 18:03:13.26
分家じゃない、地家だよ。
54日本@名無史さん2012/11/15(木) 18:46:55.17
アイヌか
55日本@名無史さん2013/02/23(土) 18:07:07.21
ありゃりゃりゃあ〜ん。
地家くんのスレッドまだあった!!
56日本@名無史さん2013/06/06(木) 10:06:42.71
だめだこりゃ
57日本@名無史さん2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
旧版テンプレート
-----------------------------------------------------------
1高祖父
17曽祖父
2高祖母 25祖父
3高祖父
18曾祖母
4高祖母 29父
5高祖父
19曽祖父
6高祖母 26祖母
7高祖父
20曾祖母
8高祖母
9高祖父 31あなた
21曽祖父
10高祖母 27祖父
11高祖父
22曾祖母
12高祖母 30母
13高祖父
23曽祖父
14高祖母 28祖母
15高祖父
24曾祖母
16高祖母
58日本@名無史さん2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
新テンプレ
┬1 父──┬3 祖父─┬7 曾祖父┬15高祖父
│ │ │ └16高祖母
│ │ └8 曾祖母┬17高祖父
│ │ └18高祖母
│ └4 祖母─┬9 曾祖父┬19高祖父
│ │ └20高祖母
│ └10曾祖母┬21高祖父
│ └22高祖母
└2 母──┬5 祖父─┬11曾祖父┬23高祖父
│ │ └24高祖母
│ └12曾祖母┬25高祖父
│ └26高祖母
└6 祖母─┬13曾祖父┬27高祖父
│ └28高祖母
└14曾祖母┬29高祖父
└30高祖母
59日本@名無史さん2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
最近遺伝子のハプロタイプを趣味で調べる人も増えています
希望すれば、誰でもDNA検査が受けられる現在、生物学的先祖は、安い物で5世代、やや値の
張るもので、15世代くらいは明確に遡れます。
Y染色体ハプロタイプは、
古いテンプレの 1高祖父→ 17曽祖父→25祖父→ 29父→ 31貴男
新しいテンプレの 15高祖父→7曾祖父→3祖父→1父→0貴男
mtDNAは、
古いテンプレの 16高祖母→ 24曾祖母→ 28祖母→30母→31貴男女
新版テンプレの 30高祖母→ 14曾祖母→ 6祖母→2母→ 0貴男女
と継承されています。
60日本@名無史さん2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
61日本@名無史さん2014/10/05(日) 02:43:32.99
400年前の先祖ってわかるもんなの?
62日本@名無史さん2014/10/05(日) 03:57:05.76
先祖が屯田兵として広島から入植してきたらしいんですが、
広島の文献を調べてみたら入植時期の10年くらい前の記録に同じ名字の人が乗ってたんですけどこの人の周辺の人が先祖ってことでいいんですかね。
63日本@名無史さん2014/10/05(日) 15:38:36.19
>>61
400年前と云えば、桃山末期から江戸初期
藩士の家系ならわかると思うけど 64日本@名無史さん2014/10/05(日) 16:14:13.60
>>61
女にたぶらかされた野合の土人には無理だよ。
当たり前だろ? ン? 65日本@名無史さん2014/10/05(日) 17:23:31.35
>>61
わかる人もそれなりにいるんだろけど、全体としては難しいんじゃない
>>62
そう考えていいんじゃない、入植地の地名等は書いてないの? 66日本@名無史さん2014/10/05(日) 19:15:56.12
単なるプライドなら気楽。
プライドを支えるのは、ジーンでもミームでもなく地獄だったりするのにね。
「違和感がない」と「何も言ってくれない」の違いだ。
67日本@名無史さん2014/10/06(月) 17:30:18.05
>>63
ゴメンここで聞かなくてもふつうにわかった
武士の家系だから簡単だった 68日本@名無史さん2014/10/06(月) 19:05:21.00
武士の家系笑
室町時代のハッキリとした出自すらわからんで武士の家系ってか笑
雑多からの成り上がりよ
武士の家系とほざくのは室町時代、列記とした室町守護だいみょう家家臣団や
地侍、土豪、国人くらすがほざけよ雑多士族
近所で最も家柄名門は、旧滅亡守護大名家の分家が江戸時代に帰農した庄屋だが、
武士の家系とかほざいてんのはさぞかし、ハッキリとした室町時代の出自あんだろうな
家系図源氏が根拠ってか?笑
69日本@名無史さん2014/10/06(月) 19:55:18.11
他人の先祖がどうだろうといいだろ
一々噛み付くなよ
70日本@名無史さん2014/10/06(月) 22:09:53.28
>>69
そいつは「あ庄屋」っていうあだ名のついた馬鹿だから放置でいい。 71日本@名無史さん2014/10/10(金) 18:21:54.53
>>61
うちは分かるよ。
それ以前が分からんけどな 72日本@名無史さん2014/10/12(日) 15:01:00.72
うちの場合、超有名大名の息子が豊臣に十万人の浪人の一人として雇われて、
大坂の陣で落ち延びたって説と、歴史好きには有名な荘園を開いた下っ端
四家のひとつという説とがある。
前者はめちゃくちゃ胡散臭く、後者は郷土史の論文に書いてあったけど、
著者に権威があるようでもなく、根拠も不明。
その地元でけっこう由緒がしっかりした家が親戚らしく、その家を中心にして、
うちの先祖が妙に家格を引き上げようと足掻いたり、逆にその家に、うちの
歴史が途絶えないように助けられたりしている形跡がある。
73日本@名無史さん2014/10/31(金) 09:53:15.14
うちは全然大した家柄じゃないんだけど昔の先祖のこともはっきりわかるw
武田の下級武士で勝頼滅亡後八王子で非正規の足軽(幕臣の非正規の臣)をやって維新を迎え今に至る
74日本@名無史さん2014/10/31(金) 10:01:11.28
武田滅亡後に八王子に逃げた北条氏の妻子絡みだっけ?
75日本@名無史さん2014/10/31(金) 13:47:32.24
そうです
正室の実家を頼って甲斐にちかい八王子に逃げてそこで姫は出家し家来は帰農しました
その後は八王子に土着したものが多いですが縁故のある会津に行ったものも結構いたようです
ちなみに勝頼を裏切った小山田の子孫も八王子に土着していまでもいます
うちは武田滅亡後士分に復帰できませんでしたがそのおかげ(?)で維新でも没落せず今に至っています
76日本@名無史さん2014/11/01(土) 04:40:18.32
さこちに住んでいました
77日本@名無史さん2014/11/01(土) 13:53:33.81
八王子といえば千人同心
78日本@名無史さん2014/11/01(土) 15:22:37.26
大久保長安って花魁淵の主犯じゃね?(俺の推測だ!)
ということは、八王子にいる人もそのアレ?
7973,752014/11/01(土) 19:28:35.94
>>78
私が一族や親戚の古老たちに聞いているところによると花魁淵は後世のつくり話だそうです
ただ金山の技術者や人足を殺して金山も穴を埋めてしまうというのは実際にあったそうです
そうですね 武田旧臣のうちそのまま埋もれなかった者は実力で仕官した者、
大久保長安が八王子をまかされた時に縁故で救済された者、縁故のある会津に行った者がいますが、大久保の縁故が数としては一番多いですし、うちもそうです
八王子に流れ着いたときは帰農していたので、一応名字帯刀できるようになったのは大久保長安のおかげですね
大久保はその後姦賊とされてしまいましたが、今でも八王子には大久保長安を祀る神社があります・・・ 80792014/11/09(日) 17:50:46.15
なんか質問あったら応えますよ〜
81日本@名無史さん2014/11/09(日) 18:50:59.54
82日本@名無史さん2014/12/03(水) 17:34:58.76
会ったことも見たこともない、名前しか知らない実の祖母(母が子供のころに離婚)について調べてて
もし今も生きていればこっそり会いに行こうかとさえ思ってたんだけど
戸籍をたどり始めてから現在の戸籍にたどり着くまでのほんの一ヶ月間に亡くなっていたことがわかって大ショックだ。。。
83日本@名無史さん2014/12/05(金) 00:55:37.74
ほらだんねんどしたなぁ。
84日本@名無史さん2014/12/05(金) 12:23:12.42
身近で知ってる最も古い先祖がわかる家は1500年余り前だな。
85日本@名無史さん2014/12/05(金) 22:42:20.33
いま自分の家調べてるけど、もしかしたら庄屋の家系かもしれない。
だったらいやだなあ
86日本@名無史さん2014/12/05(金) 23:34:15.86
なにがやなんだよ町人のせがれが
87日本@名無史さん2014/12/06(土) 01:04:48.72
なんで庄屋さんがイヤなの?
いいじゃない
88日本@名無史さん2014/12/06(土) 01:30:36.22
>>85
どうせなら庄屋より下級武士の方がいいよな 89日本@名無史さん2014/12/06(土) 09:54:28.69
おまえね、それは現代のイメージだろ
現実は、現代でいいかえりゃ、
町長村長宅の大豪邸【長屋もんあり】、レクサス乗り【馬持ってるし】、地域で裕福で美人を選び放題、在地の殿様扱い、下層自衛隊なんぞがでかい口きいてた事実なし【下層武士が庄屋を呼びつけして庄屋から藩に生意気だと訴えられてるケースまであり】
名字対等後免、墓は上士と同格、実質地域武装警察署常態【庄屋は武器をたらふく所持してる】
地域の裁判権も独占、地域の商業権も独占、
下層武士【自衛隊】長屋暮らし【官舎暮らし】マーチ愛用【馬なんてもってのほか】3k【パワハラ上等】村長に呼びつけすらできない【庄屋にぶったぎられたケースあり】
墓は町人とかわらない、 永遠の隷属【人間扱いは上士からうけない】す〜ぱー貧困
90日本@名無史さん2014/12/06(土) 09:56:05.56
江戸時代に下層武士があこがれなんて幻想だ粕
91日本@名無史さん2014/12/06(土) 10:44:08.29
庄屋=農夫
92日本@名無史さん2014/12/06(土) 10:52:36.78
下級藩士=奴隷民
93日本@名無史さん2014/12/09(火) 16:44:00.48
世代ごとに全国各地から街道沿いに大きな都市に移って来て、
最終的に東京で自分が生まれるという。
94日本@名無史さん2014/12/15(月) 22:20:56.30
庄屋っていっても地域によって農民だったり名字帯刀できる下級武士だったりするから差が大きいよ
95日本@名無史さん2014/12/15(月) 22:44:41.60
西日本なら小作からの成り上がり者もいるからな
96日本@名無史さん2014/12/15(月) 22:50:25.91
苗字帯刀御免の農民であって、下級武士ではないだろう。
97日本@名無史さん2014/12/15(月) 23:58:23.94
あのよ、下級武士ごときと一緒にすんなよけがらわしい
俺たちは名字対当がゆるされし名門の庄屋であって、下級武士ごときと格が違うだろ
在地の有望家は下級武士ごときに成り下がらず、武士の地位を捨てても在地の領主としての庄屋の身分を江戸初期大量の名門が選んだ
なんでぼろ長屋にぶちこまれて奴隷扱い受ける底辺なんかにならなきゃなんないのよ、俺たちゃ腐っても鯛だ馬鹿
98日本@名無史さん2014/12/16(火) 00:14:15.04
下級武士がみんな「ぼろ長屋にぶちこまれて奴隷扱い受ける底辺」だと思ってるのなら、
時代劇の見過ぎだろ。
99日本@名無史さん2014/12/16(火) 00:34:47.26
だから現代と一緒なのよ。
経団連会長と総理、知事と地元大企業オーナーでしょ、対等交際は。
100日本@名無史さん2014/12/16(火) 07:16:56.86
>名字対当がゆるされし庄屋
周辺百姓からの年貢を横流し、土下座して得たんだよな
101日本@名無史さん2014/12/16(火) 11:54:59.08
ウィキペディアによると、庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくないそうだ
もともと武士だったのなら苗字帯刀はもとからあったわけで、単に百姓になっても取り上げられなかっただけであって、土下座なんかする必要はない
102日本@名無史さん2014/12/16(火) 20:23:30.80
召し出されなかったから土下座が必要になるんだよ
大坂町奉行組与力だった大塩平八郎の門人への接し方を見る限り、与力と同心は
主従に準じる格式で接し、与力が庄屋の名を呼ぶ場合には殿をつけ、庄屋は与力に
土下座していたようだ。
同じ与力の振る舞いでも、役目を背負って人に会う場合には、相手が大藩の家臣で
あろうとお上の威光を背負って平伏させ、私的な用事で会う場合には、相手が庄屋
程度でも殿をつけて呼んだようだけどね。
103日本@名無史さん2014/12/16(火) 23:25:47.51
庄屋時国家は、藩主前田家ですら立ち寄った際、殿とよび、上座にも座ってないが?
104日本@名無史さん2014/12/17(水) 01:49:06.39
通常「庄屋」っていうと戦後時代に主家なくしたりした土豪出身の元武士の世襲の庄屋のことをいうけど数としては少数なんだよ
ただの農民が選挙で数年やってたなんてのもあるし
105日本@名無史さん2014/12/17(水) 01:49:48.13
戦国時代のまちがいね すまぬ
106日本@名無史さん2014/12/17(水) 02:10:10.38
庄屋身分が確立するのは江戸時代と、以前はいわれていた。
いまでも、畿内とかの例外的な土地以外では江戸時代成立と考えられてるんじゃないの?
107日本@名無史さん2014/12/17(水) 08:54:32.33
村割りをして支配するという体制が確立するのは江戸時代だしね。
美作あたりでは戦国時代に一貫して地元勢力が振るわず、それこそ庄屋に毛が生えたような
支配層が中世そのままの郷村を束ねて他所の大勢力に従っていたようだ。
108日本@名無史さん2014/12/17(水) 17:28:21.50
関東 200軒に一軒の豪農は古い墓と豪邸があるが、一般庶民は小作が多く子分
関西 すごい豪邸はないが、10軒に一軒位の割合で庄屋クラスがいて、分家も平等
109日本@名無史さん2014/12/17(水) 18:27:35.41
>>108
10軒に1軒ぐらいの割合って組頭だろ
関西だと地方によっては年寄と呼ばれてるかもしれんが同じもの
集落ごとに組頭が年貢を集めるなど末端行政事務をやる
そして、その組頭を束ねて村単位の行政事務をやるのが庄屋だ 110日本@名無史さん2014/12/17(水) 18:48:43.04
関西では自作農の割合が高く小作が少ない
111日本@名無史さん2014/12/17(水) 19:13:05.79
そもそも、「村」という組織の規模自体からして、関東と関西で違いすぎるだろ
関西の村なんて人口百人二百人ほど、百に満たない村も少なくないが、関東ではこんな人数だと村じゃなく部落(差別関連のじゃなくて、村の一部分って意味)じゃん。
112日本@名無史さん2014/12/17(水) 22:02:03.21
>>111
東北でも百人程度の人口に一軒の庄屋って普通にある。 113日本@名無史さん2014/12/18(木) 11:02:39.03
「世界がもし100人の村だったら」という本が世界的にヒットしたことから分かるように
そもそも全世界の人にとって、村とはそのぐらいの人口のものであって、関東が異常
114日本@名無史さん2014/12/18(木) 22:51:14.90
>>111-112
すまん、100とか200って人口じゃなく石高だったは
人口はその半分か1/3ぐらいだ@大阪府東部 115日本@名無史さん2014/12/19(金) 09:53:05.25
>>114
関西平野部の村は小さければ100石を切ることも珍しくないけど、平均つーかたいていの村は
300石とか500石程度だ。もちろん河内国でもその状況は変わらない。
村の人口も、なんだかんだで石高とそう大きな乖離はない。 116日本@名無史さん2014/12/19(金) 10:01:47.47
114
向きになって日本語をそういう使い方するのお前か〜
大阪人
117日本@名無史さん2014/12/19(金) 10:02:12.25
旧高旧領取調帳のデータを使って、河内国茨田郡の村高の平均を計算したら、
約433石と出た。相給の村は別村として大雑把に扱ったから、実際の村高平均は
もうちょっと大きくなる。
118日本@名無史さん2014/12/19(金) 11:19:53.11
4公6民だとすると、おおよそ、その6割が村の人口だね
1193052014/12/27(土) 22:34:49.98
埼玉県のうちの村(大字単位)だと庄屋は4家ある。
村の石高はちょうど千石位。
それぞれ三役があるから、今の大字単位に12家の役付きがあった。
120日本@名無史さん2014/12/28(日) 12:24:19.40
明治初期、旧来の村を大規模に合併させて行政村を作った際に、旧来の村を大字と改めた
この場合、そこが実質的に4村に相当するって意味だろうな
1211192014/12/28(日) 17:38:56.27
いえ、実質的に一村です。
122日本@名無史さん2014/12/28(日) 17:59:55.35
四給の村だったんじゃね。
あるいは、枝村のような形で4つに分かれてたとか。
1231192014/12/28(日) 22:57:44.78
旗本複数の領地が混在しています。
山岡鉄舟の家の領地もあり、子供時代に庄屋の家に宿泊に来たりしています。
124日本@名無史さん2014/12/29(月) 00:49:12.49
>>119
うちの田舎も幕末で1200石ぐらいで
庄屋になった家が4家あるな(あと1家もそうかもって言われてるから5家かもしれんが)
戦後、3つの村が合併して町になったけど
他の2村は 一つが室町から世襲の代々庄屋、もう一つが2家、この2家のとこは途中で不手際があって代わったらしい 125日本@名無史さん2015/01/08(木) 08:28:56.55
庄屋は大変だと思う
代官や藩と百姓に挟まれて
最近、郡上一揆って映画見たが百姓から突き上げくらいまくって気の毒だった
ああいうことになると後々人間関係めんどくさそう
126日本@名無史さん2015/01/17(土) 16:16:24.24
ファミリーヒストリーで石田純一の先祖が江戸時代武士で庄屋だったとかイミフなことを言ってた。
127日本@名無史さん2015/01/19(月) 15:36:52.04
江戸時代の庄屋はたしかに百姓身分だが、戦国大名の家臣がなることが多かったわけで、べつにイミフではないと思うよ
石田純一の先祖の場合は、六代前の祖先まで武士で、その家系を遡ると関が原あたりの戦いで紀州徳川の末端につながる武士だったらしい
その六代前の祖先が、ある村の庄屋として派遣されたとのことだ
128日本@名無史さん2015/01/19(月) 17:33:38.07
>>127
戦国時代に武士だった家が江戸時代に庄屋になるならイミフではないが、
石田純一の場合は六代前なら江戸時代中期以降だろう。
その時期に武士から庄屋になったというのなら左遷のようなもんだな。 129日本@名無史さん2015/01/20(火) 12:57:25.79
左遷というよりも、名を捨てて実を取るようなものかと
貧乏武士が一夜にして億万長者になるわけだから、左遷とは違うと思う
130日本@名無史さん2015/01/20(火) 16:11:36.28
貧乏武士だったって番組内で出てたか?
庄屋は必ずしも億万長者ではない。
131もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q 2015/01/21(水) 16:20:02.69
鸚鵡籠中記には、非人になった武士の話が出てるし、当時でもよくあった話だろ。
132日本@名無史さん2015/01/23(金) 22:39:48.40
れっきとした家臣が庄屋職を務めるってのは 聞かないね
郷士が庄屋やったり、庄屋が代官を務めたりってのは聞いたことあるけど
133日本@名無史さん2015/01/23(金) 23:43:23.97
直江兼続とかの歴とした家臣だって、(直轄の/本貫地の)自領においては庄屋と同様の業務---勧農を行ってるじゃん
134日本@名無史さん2015/01/24(土) 00:39:52.58
>>133
同じ業務を行っているからといって同じ立場と言えるわけではない。
ピントがずれてるぞ。 135日本@名無史さん2015/01/24(土) 17:34:24.16
大名家の家臣だったけど、改易後、帰農して庄屋とかならいるな
江戸時代初期は改易とか結構多かったから
136日本@名無史さん2015/03/16(月) 12:54:12.23
明治の頭頃、祖母の名前を孫に付けるのって一般的だった?
父方の先祖には祖母と全く同じ名前を付けられた孫と言うのが存在した。
ややこしい命名するんだなぁと思ったけど、母方にも全く同じパターンの命名が存在した。
親子代々同じ名前なのではなく、祖母と孫が同じ名前。しかも長女ではない。
何なんだろう。
137日本@名無史さん2015/03/16(月) 15:40:12.17
石田の庄屋は自称だろ。
江戸時代に武士が左遷で庄屋なんて事例は皆無に等しい。
庄屋と藩士は別個。
一介の藩士が身分失って庄屋なんてのは、よほどの天下りできる力が藩内にないかぎり、あり得んわ
例えれば一介の町役場の窓口対応公務員程度が左遷されて村長とか頭悪すぎだろ
138日本@名無史さん2015/03/20(金) 23:29:56.96
自分の苗字を考察しましょう
バカな教職員から、田んぼの中にあったから田中など聞いた事が有るだろう
苗字は子々孫々に受け継ぐものである
己の子には字画など気遣うのに、苗字がバカな教職員の言うように単純な事で決まったと思うか
苗字とは考えに考え抜き己のルーツを辿った結果、至った苗字なのだ
自分たちは何処から来たのか、それを知らしめる唯一のツールです
田中・鈴木は確かに難しい。私にも分からない
菊を苗字に持つなら分かる。バカな教職員なら周りに菊の花が有ったとか何とかだろう
菊は天皇家の紋章である。しかしもっと深く突き詰めれば菊とは喜来に由来する事だと知る
何れにしろ喜来・菊は天皇家由来の地を示しているのです。羨ましい
この様に苗字が示す言葉は深いのである
バカな教職員の安い言葉には、くれぐれも惑わされないように気を付けましょう
奴等は教育者では有りません。公務員の役職である教職員でしかないです
139日本@名無史さん2015/03/21(土) 00:20:55.37
>>138
10年前の話だけど高校の日本史の先生が近代の授業(選択科目)で
「江戸時代一般人は名字がなかった」
「多分君らの古い先祖の墓には書かれてないかもしれない」
と言ってたのを思い出した
男系の直系の先祖でも所謂小作や平百姓の子孫って
言うほど多くないのかもと思ったりラジバンダリー 140もっこす ◆lYLkDmgQBa4Q 2015/03/21(土) 00:28:41.57
>>139
一般人とは、百姓のことですよ。
職人とか商人は姓を名乗っています。 141日本@名無史さん2015/03/21(土) 01:50:30.38
百姓という語句はもともと、「さまざまの姓」という意味の言葉で、庶民という現代語と似た意味の言葉だった
それは、庶民も姓を持っているという前提の元で成立した単語だったんだぞ
142日本@名無史さん2015/03/21(土) 15:49:56.27
>>139
江戸時代は公に名乗ることが出来なかっただけで、ほとんどは苗字を持っていた。 143日本@名無史さん2015/03/21(土) 17:34:30.73
私、藩主と同じ名字
144日本@名無史さん2015/03/21(土) 17:46:46.96
実は俺も
145日本@名無史さん2015/03/21(土) 23:01:25.80
んじゃおれは、1000kmぐらい離れた遠い最果ての藩の藩主の分家で家老だとかいう人と同じ苗字な
146日本@名無史さん2015/03/21(土) 23:17:06.31
つうか、藩主自体が一般的などこにでもいる苗字だろ
147日本@名無史さん2015/03/21(土) 23:55:08.93
>>143私。
珍しい部類の名字だよ
江戸時代に藩主になる領主の女性とうちの先祖が結婚。
結婚をきっかけに名字が変わる。
600年位前。 148日本@名無史さん2015/03/22(日) 00:31:13.70
144だが、こっちはそれほど珍しい苗字じゃないらしい
が、近所の親戚以外では始めて見かけたってレベルの珍しさではある
(にもかかわらず、苗字順位検索での順位は決して低くはない。ほかのひとたちはどこにいるんだろ?)
その家老の家との間に親戚関係があるような雰囲気がないので、それぞれの苗字の来歴が知りたいとこではある
なお。家老より、そこの藩の藩主の方が圧倒的に知名度も高く、苗字の人数も多いんだがな。
>>146
どこにでも居るようなありふれた苗字じゃない藩主って、どっかにいるかなあ、よくわからん。
鍋島とかは少なめかな? 149日本@名無史さん2015/03/22(日) 00:55:15.03
江戸時代の藩主にはいない
室町時代までの守護大名は苗字はやはり際立っている
150日本@名無史さん2015/03/22(日) 02:33:24.58
際立つほど珍しい苗字の守護大名も思いつかん
山名も赤松も京極も土岐も武藤も宇都宮とか上杉とかもぜんぜんレア苗字じゃないだろ
斯波、六角、畠山あたりのことをいってるのかな?
151日本@名無史さん2015/03/22(日) 02:40:16.41
六角と京極以外は全部知り合いに居るわ
152日本@名無史さん2015/03/22(日) 12:32:02.07
は?
前田、酒井、木下、中川、土井、本多、浅野、池田、亀井、水野、山口、鳥居、山内、、
きりないが、庶民苗字だらけだろ。
まあ庶民からの成り上がりだから仕方がないが
153日本@名無史さん2015/03/22(日) 15:05:15.68
六角精児
154日本@名無史さん2015/03/22(日) 15:28:16.30
せいじは芸名。本名は全然違う
155日本@名無史さん2015/03/22(日) 16:19:10.91
>>152
守護大名でも土岐や赤松みたいなのは前田とか酒井とか池田水野と大差ないだろ
成り上がった時期が古い以外は。
細川だって、足利氏の分家の一員とはいっても、末端も末端の出で、それら成り上がり勢と大差がない。 156日本@名無史さん2015/03/22(日) 16:32:04.78
いやいやいやいや、なにいってんの?大差ないとかあり得ないわ
157日本@名無史さん2015/03/22(日) 17:52:19.66
龍造寺
158日本@名無史さん2015/03/22(日) 18:53:39.08
>>156
鎌倉末期に倒幕の混乱に乗じて成り上がる前は一介の小豪族、零細武士だったじゃんか。赤松も土岐も。
室町時代の間に格式が上がったから比較にならないように思えるだけさ
戦国時代の水野とかの方が、鎌倉末期の赤松とかより大手なほどに、大差ないだろ? 159日本@名無史さん2015/03/22(日) 19:14:13.74
だめだ馬鹿すぎて、、
160日本@名無史さん2015/03/22(日) 19:17:35.09
お前らの好みの話には興味なし
161日本@名無史さん2015/03/24(火) 22:20:03.72
162日本@名無史さん2015/08/20(木) 11:27:35.25
163日本@名無史さん2015/08/22(土) 20:04:00.36
どう違うの?
164日本@名無史さん2015/08/22(土) 20:24:41.50
畿内は公家や寺社領が入り乱れてるし、国人衆も生き残ってる
規模は小さくても由緒ある家も多い
165日本@名無史さん2015/08/22(土) 21:17:17.28
どう考えても関東地方のほうが畿内なんかより由緒や格が上だとおもいますが、、
166日本@名無史さん2015/08/22(土) 22:54:35.28
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 167日本@名無史さん2015/08/22(土) 22:55:05.10
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 168日本@名無史さん2015/08/23(日) 12:46:32.23
>>136
戦後でもあるよ。
俺んちがそうだ。実家の甥子にまでつけてるから、又従兄弟で同じ名前だ。
誰でも孫につけてもらえるかというと、そうではない模様。
多分、手本にしたいようないいばあちゃんとかなんだろうな。
爺さんも同様。
めちゃくちゃ賢くて有能で、後に請われて村長した爺さんは孫三人がもらってる。
酒飲みで身上潰した爺さんは、誰にも名をもらってもらえなかったw 169日本@名無史さん2015/08/23(日) 13:15:42.75
>>165
韓国があらゆるものの起源を主張するような価値観で? 170日本@名無史さん2015/08/23(日) 20:00:48.79
関東なんてほとんど僭称してるだけだろ
本当の出自なんてわかったもんじゃない
171日本@名無史さん2015/08/23(日) 23:35:49.96
関東は地頭クラスがゴロゴロいるんじゃないの?
172日本@名無史さん2015/08/24(月) 08:54:45.17
なるほど、田舎ほど旧家が残りやすいという価値観での話なわけか。
173日本@名無史さん2015/08/24(月) 15:53:36.12
古い五輪塔とかいっぱい残ってるしな。
174日本@名無史さん2015/08/24(月) 16:08:36.56
>>173
関西でもクソ田舎ならいくらでも残ってる。
関東って、東京一極集中で徹底的に都市化が進んだ結果、他所との相対的評価でなく
自分たちの価値観だけを根拠に「自分たちの土地には歴史的遺物は多い」とか
勘違いしてないか?
君たちは鎌倉の世界遺産化の動きで大恥をかいたわけだけど、それをちゃんと
今後のための資にしてるか?
銭金で買えるものは限られるってことを、田舎者なりに理解したのか?? 175日本@名無史さん2015/08/24(月) 16:52:31.38
摂津なのにクソ田舎って言われちゃった
176日本@名無史さん2015/08/25(火) 10:01:49.88
>>137新田開発の指揮を執って藩主移封で付いていかずってのならあるな 177日本@名無史さん2015/08/25(火) 14:01:52.57
有力農民が郷士身分を失って庄屋ってパターンもありそうだ。
178日本@名無史さん2015/08/29(土) 18:44:09.88
というか、そのパターンが多いでしょ
179日本@名無史さん2015/08/29(土) 22:16:55.45
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 180日本@名無史さん2015/08/29(土) 22:17:20.03
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 181日本@名無史さん2015/09/05(土) 21:00:08.87
>>177よくわからんが郷士[身分]がある藩で郷士身分を失うと
地下浪人(土佐藩)で・・・って感じ?それでも郷士ってなのりそうだが。 182日本@名無史さん2015/09/06(日) 09:16:25.28
>>181
地下浪人は土佐藩独特の制度のようだから、その概念で混ぜ返すと
議論がおかしくなるよ。土佐藩限定の話として語らないとね。 183日本@名無史さん2015/09/06(日) 12:09:21.58
近畿でヂゲなんて言うと大変なことになる
184日本@名無史さん2015/09/06(日) 12:58:46.71
>>183
地下官人なら貴族。お前らよりはよほど高貴な血筋。 185日本@名無史さん2015/09/06(日) 22:03:26.03
186日本@名無史さん2015/09/07(月) 00:07:46.60
だから、近畿でヂゲは別の意味なんだよ
187日本@名無史さん2015/09/07(月) 01:00:48.52
>>182どうも。郷士については言葉の定義や概念に混乱が多いので・・・
郷士身分を失うってのが奇妙で。土佐も八王子も金で売ってるわけで改易された
わけではないし、改易になった在地代官や戦国期の地侍も郷士を自称するしetc 188日本@名無史さん2015/09/07(月) 07:11:25.30
岸和田藩領内の中氏2家はそれぞれ旗本根来氏を輩出した家で、大坂町奉行所が
支配する摂河泉播4国の郷士リストにも載っている家だけど、藩としては郷士として
扱いたくなくて、結構軋轢を生んだようだ。
身分ってのは近世には自家の存続の可否に直結するものだけに、下の立場の側でさえ
決して譲歩しなかった。落ち度もないのに家格を下げるなとばかりに突き上げる。
勝手に自称するだけなら単に領主が無視しているだけの話だろうけど、正式に領主が
認めている場合は領主の判断次第だからなあ。
189日本@名無史さん2015/09/07(月) 11:29:16.67
190日本@名無史さん2015/09/09(水) 21:33:18.50
>>188とはいいつつ領地換えで郷士など認めない藩は多いわけで 191日本@名無史さん2015/09/10(木) 14:51:21.44
そりゃ、下の人間の変な権益などは上にとっては邪魔でしかないからな。
平和が長く続いて下の者の牙が抜けたら、後は締め上げるだけだ。
192日本@名無史さん2015/09/10(木) 14:57:39.19
つまり、信長あたりから続く諸大名の移封転封は、領民の既得権益を
削いで支配を強化する効果があったということだな。
193日本@名無史さん2015/09/10(木) 16:28:53.99
>>192
そう考えると移封って一石3鳥ぐらい在りそうだね。大藩になれば家臣を全て連れて行けない
から置いていく、新しい領主の下では既得権は認めないし、領民との繋がりも切れるし 194日本@名無史さん2015/09/10(木) 17:18:48.32
>大藩になれば家臣を全て連れて行けない
>から置いていく、新しい領主の下では既得権は認めないし、
それ、土民の価値観だから。
たぶん土民にはいつまでも理解できないだろうけど。
大藩がステキとか、完全に土民の勘違いだからね。
今、アメ公がどれだけw
マジ氏ね草
。
195日本@名無史さん2015/09/11(金) 11:50:40.26
公家領が良いよ
196日本@名無史さん2015/09/11(金) 22:12:16.48
金持ちが金払って名目だけ公家の家臣になったらしいが公家の家臣って京都じゃ
一目置かれる存在なの?
197日本@名無史さん2015/09/11(金) 22:26:43.21
いろいろユルイんだよ
198日本@名無史さん2015/09/12(土) 13:19:13.87
>>196
箔はつくわな
朝廷の儀礼に装束来て参列できたり、店に菊の御紋入りの提灯ぶら下げることができたり
自己満は自己満だが、周りからも多少は見る目も違ったろう。悪い意味も含めて。 199日本@名無史さん2015/09/12(土) 16:00:21.47
>>196
一目置かれると思うよ
大事な資金源として 200日本@名無史さん2015/09/12(土) 16:29:10.44
公家の家臣ってお歯黒して眉毛剃るのか??
201日本@名無史さん2015/09/12(土) 20:32:18.50
受領がそのまま続いてる
202日本@名無史さん2015/09/21(月) 14:06:45.96
親戚に鴨氏の末裔ってのがいるな。
そういう家からすると、武士の子孫とかは意味のないことなんだろうな。
203日本@名無史さん2015/09/21(月) 15:21:13.51
204日本@名無史さん2015/09/23(水) 16:46:11.36
戸籍や本を調べたり、人から話を聞いたり、1年近く前からご先祖さま調査をしてるけど
おもしろいなあ
本家は静岡中部の山の方で、南朝絡みの話や武田の遺臣が帰農した話や文書がいろいろある場所
自分の直系のご先祖はまだ戸籍から江戸末期ぐらいまでしか辿れてないけど
周りには古い家もいっぱいある
どんな人達がご先祖さんにしろ、どんなことを考えてどんな生活をしていて今の苗字を名乗ったのか
とか知りたいんだよなあ
205日本@名無史さん2016/05/01(日) 03:48:43.60
まあ民間に伝わる南朝関連の話の大半は江戸時代に作られた創作物だがな
206日本@名無史さん2016/07/03(日) 10:03:15.26
まあ、どこでも他家のは作り話、自家のは本当と思うものだ
207日本@名無史さん2016/07/03(日) 10:52:59.07
いや 伝承ってのは 意外と合ってるらしい
ただ 部分部分を大きくしてる場合があるけど
だいたい 大昔は人口が少なかったし、それなりに生活していくにはある程度の基盤がないとダメだから
208日本@名無史さん2016/07/03(日) 14:48:03.59
>>207
神社の伝承とかでも同様のことは言われてたけど、実際はそれも江戸時代の創作が大半だったんだよな 209日本@名無史さん2016/07/03(日) 20:25:23.74
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 210日本@名無史さん2016/07/03(日) 22:45:38.25
>>208
真実だと証明されてないからといって大半が創作だと証明されているわけではない。 211日本@名無史さん2016/07/04(月) 00:06:02.90
創作ではない(=古くから伝わった話)という可能性が低いことは分かったんだがな
212日本@名無史さん2016/07/04(月) 01:51:46.62
頼朝来訪とか信玄の隠し湯とか少し怪しげだよな
213日本@名無史さん2016/07/04(月) 18:15:24.59
>>212
そのへんはさすがに、水戸黄門来訪と同レベルの信憑性だから、いくらなんでも論外すぎるだろ
神社の伝承の信憑性がいくら低いとは言っても、ゼロよりは高い。
そりゃまあ、ゼロと大差がないって程度の極めて低い信憑性ではあるだろうけども。 214日本@名無史さん2016/07/08(金) 11:42:08.48
某地方の村役を勤める家の話しだが、例に漏れず先祖は城持ちの豪族で同姓の家々が郡内に
ひろがっている。
元々の居住地は山城の麓なの石高が大きくなく零細な家が昔の資料を保持し宗家を名乗っている。
山を下るごとに平地が広がり大規模農家へと・・・そして大きな家一つが系図を弄りもっと前の源OO
から分かれているので宗家とは直接には関係ないと主張、ただ元は一緒だねと。
こういう不毛の議論が熱く続くと・・・
215日本@名無史さん2016/07/08(金) 18:46:59.17
そりゃまあ、庄屋の居館そのものが戦国時代なら城として扱われてるんだから、村役の祖先が城持ちでもおかしくはないな
領地は1ヶ村です、みたいな城持ち。
まあ戦国時代は村の数より城の数が多いってぐらいの時代だしな
216名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 13:02:16.01
そういやー豪族で勢力を扶植していくと支配領域は広がるけども全村支配って国衆レベル
になら無いとないよね?
つまり庄屋でも大きな村だと数軒違う名字で隣の村も同様。同姓の豪族で全て治めるのではなく
大きな豪族が同じ村でも何軒か入り乱れるように支配していく
217名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 15:53:35.81
そのへん、地域によって支配形態がまったく違うんだよな
ひとつの大きな豪族が全損支配する前提で最初から村があるような関東と、
複数の豪族の支配地がモザイク状に村の中に存在して分割支配になってる関西がそれぞれの代表格だが、
どうやらそれ以外の形態も他の地域にはある。
218日本@名無史さん2016/07/14(木) 01:16:15.25
街道から離れた山間部に行くと庄屋でも門が無い家を見るが門を作る余裕(金)が無かったのかね。
219日本@名無史さん2016/07/14(木) 22:06:14.49
>>218
一国一城令の規制対象が庄屋の屋敷にも及んでるから、江戸時代初期頃に門を壊して、それ以後の建て替えや改築でも新しく門を作ったりしなかったってことだろ
濠(といっても幅1mほどのミゾみたいなものも多いが)とか塀も、家の周り一周のうち半分以上は壊さなくちゃいけなくて、
半周だけ残してる庄屋屋敷が多い。全部撤去した屋敷もあるが。 220日本@名無史さん2016/07/21(木) 14:29:18.75
冗談かと思ってたけど、公家が先祖にいたわ。
幕末だな。
221日本@名無史さん2016/07/21(木) 19:55:11.99
それは重畳
可能ならその御先祖の名前も晒してくれ。たぶん無理だろうけど。
222日本@名無史さん2016/07/22(金) 00:24:31.84
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。
223日本@名無史さん2016/07/22(金) 07:26:40.16
一世代重ねるごとに先祖の数って倍に増えるから著名人の先祖が居るのは普通だろ
現代人で先祖に貴顕が一人も居なかったらそっちのほうがすごい
224日本@名無史さん2016/07/23(土) 16:03:03.20
>>221
すまんが晒せないw
幕末は150年前だ。
ばあさんのばあさんが、あれ?違うわ。
ばあさんの母親が公家の出身。
戸籍の除票で確定。
残念ながらその家は絶えた。嫁に行った娘の子孫は全員知ってるわけじゃないけど
20人以上になると思う。
うちの婆さんの子孫だけで13〜くらいいる。
正確にわからんのは、離婚して嫁が子供を引き取ったおじの孫が何人いるか知らんから。
うちのばあさんは、遠方へ嫁に来たが、先祖の故郷にはこっちのほうが近いけどな。
下級の公家らしいから財産もなく養子を取るほどの家じゃなかったのだろうな。
敗戦の混乱もあったのかも。
まあ、今度墓参りに行ってくるわ。
4人のじじばばのうち、このばあさんだけが遠方なのさ。
幕末明治に東京に行かされたらしいから。
爺さんの先祖(俺の実家の名前)は、戦国末に二人(一組の夫婦)だったが、
子孫はおそらく200人を超えるだろう。
同じ名字を受け継いでいるのはごく少数。あと30年経つと、五軒しかないだろう。
Y-DNAを受け継いでいるのはゼロだw
婿養子が多かったから。 225日本@名無史さん2016/07/23(土) 16:18:45.04
200人は違うな。
うちの曾祖父さんの子孫だけで100〜150位になるわ。
爺さんの子孫で生きてるのだけで40人超えてたわ。
戦国末の先祖の子孫は500くらい??
226日本@名無史さん2016/07/30(土) 16:54:32.57
>>223
そうだよな。
少なくとも1600年、民族大移動もなく他民族に支配されることもなく、るつぼの中で
混ざっているから。
庶民の隅々まで貴人の血が行き渡り、逆に貴人にも様々な血が流入している。
うちはばあさんが近年だったが、じいさんの先祖もおそらくはもっと昔に
もらってると思うわ。 227日本@名無史さん2016/07/30(土) 18:44:14.70
いい身分の先祖がいたら女系でもシレっと入れてしまう浅ましさ
228日本@名無史さん2016/08/10(水) 11:53:21.76
先祖に女がいない奴がいるのか。驚いたわw
木の俣から生まれてきたんだろうなあ。
229日本@名無史さん2016/08/10(水) 16:04:28.94
BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
230日本@名無史さん2016/08/10(水) 19:31:42.85
日本列島に稲作が伝わった時期は徐福の生きていた時代より何百年も古いから、徐福が日本に来たかどうかなんて関係ないね。
まあ、来てないんだけどさ。
そんな無意味な話をあちこちにコピペする頭のおかしい人、こりないねえ。
231日本@名無史さん2016/08/13(土) 02:15:24.50
>>225
うちは高祖父の子孫で唯一の男系だよ。男が産まれにくいのか曾祖父も祖父も父親も娘ばかり
うちも娘二人でこれ以上は育てられんから男系終了… 232日本@名無史さん2016/08/17(水) 02:16:09.10
そういうこともあるだろうね。
うちも父方高祖父の子は男子3人いたけど、男子が生まれたのは曾祖父だけ。
曾祖父は4人男子を産んで、そのうち3人が男子を産んだけどそれぞれ一人づつだけ。
その男子は、俺の代では結局4人だけ。
逆に、母方曾祖母は、娘を3人産んだけど、女子を産んだのは祖母1人だけ。祖母は娘を2人産んだけど、子が出来たのは母だけ。
母は男子しか産んで無いので、母方祖母のミトコンドリアを継ぐ女子はもう絶える。
233日本@名無史さん2016/08/17(水) 11:23:26.11
夏休みを利用して図書館に籠って調べものした。信越地方某藩ぶっちゃけ小諸藩
だが、江戸初期はやはりよくわからんポイね。
名主・長百姓あたりは郷士として遇されてるぽいが当時の藩側記録は残っていず
時折発給文書が散見される。旧芦田家臣が主だが他の名主らも同様の扱いだったかも不明。
また、名主自体の記録も不明部分が多い。やはり地方だと体制の整備は100年ぐらい
かかったかもね。1700年代になると大方が天領に編入されてる。この辺が兵農分離の完成かも・・
234日本@名無史さん2016/08/18(木) 14:18:58.96
次男の次男で婿養子とかだと、同じY-DNAでもほとんど付き合いがなくなる。
父方の祖父さんは男兄弟が多く、何人かが婿養子に行き祖父さんも婿に来た。
又従兄弟世代とはほとんど付き合いがない。多くは都会へ出たらしい。
同じY-DNAを受け継いでいても、名前も違うしそのへんで会っても全くわからないだろう。
今の名前の元である曾祖父さんは次男か三男で、若い頃(明治)に家を出て自立し、
遠方で事業を起こして成功し、一人娘に婿を取ったらしい。
おれはたまたまその実家から30Km圏内に住んでいるが、尋ねたこともない。
今その実家があるのかどうかもわからない。行っても相手が困るだろうw
場所柄からすると、江戸時代からそこに住んでいると思われるけどな。
母方は跡取りの家だったのと庄屋もやった一族だから、今でもかなりの付き合いと
先祖代々の墓がずらっと並ぶような墓がある。
この極端さがおもしろい。
235日本@名無史さん2016/08/20(土) 13:51:21.89
>>232
うちの曾祖母さんは一人娘で婿を取り、4人(男2女2)の子を産んだ。
娘の一人は息子しか産まず、もう一人は息子と娘を産んだが、娘は40で独身だから
mtDNAは残せないだろうな。
曾祖父さんはY-DNAを伝えるひ孫は一人だけだ。
ひ孫は10人いて、あと何人かは増えるかもしれんが。 236日本@名無史さん2016/08/20(土) 14:12:38.56
曾祖父さんは7人の子どもと15人の孫と18人のひ孫がいるが、Y-DNAはひ孫には一人だけ。
べつの曾祖父さんは、8人の子と18人の孫と少なくとも24人のひ孫がいるが、
Y-DNAは一人だけだ。
237日本@名無史さん2016/08/22(月) 13:51:05.35
江戸時代の終わりの先祖がどこで何をしていたかが分からんっていうのは不思議だな。
238日本@名無史さん2016/08/22(月) 16:27:05.70
>>237そういうのは武士だった家に多いみたいよ。農家は農地改革まで農地に
縛りつけられてたが武士は新たな食い扶持を探さなければならなかった為移動
してわかる辛くなってるみたい。 239日本@名無史さん2016/08/22(月) 19:01:29.82
武士の場合、秩禄をはたいたら農地を「地券」額面より1割ぐらいで安価購入できる特典が期間限定であったから、
出身地を離れたとこに農地を買って引っ越す人も多かっただろうしな
240日本@名無史さん2016/08/22(月) 19:06:05.31
BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。
241日本@名無史さん2016/08/22(月) 23:33:16.32
教員や警察官など公務員の多くは旧士族だろう。
242日本@名無史さん2016/08/23(火) 03:18:34.20
>>241昔はだろうけどね。自衛隊は九州出身者が多いとか、尚武を貴ぶ土地柄だからだろうか。
旧士族かどうかは 243日本@名無史さん2016/08/24(水) 16:03:17.42
武士の家計簿は読んだか
猪山家は、役人として成功した部類だが
その親戚の武家は、ほとんどが没落してる
244日本@名無史さん2016/08/24(水) 23:47:35.09
うちの祖母方が明治期豪商だったが4人兄弟で長女は婿をとった(出自はしらんが
殊更知らされてないから多分町人だろう)次女が元庄屋の家へ、長男も庄屋から嫁、
三女は某藩家老の家に嫁いだ。相当金積んだんだろうなと思うわ。
245日本@名無史さん2016/08/25(木) 01:12:51.63
>>244
商家は長女が婿を取って、その婿が家を継ぐってのがデフォだったからな
男子に跡を継がせた店は商人仲間からハブられる風習があったそうだ 246日本@名無史さん2016/08/25(木) 22:59:17.53
247日本@名無史さん2016/08/25(木) 23:09:31.56
>>238
そんなわかりずらいレベルの武士なんて下士以下で武士とも呼べないような傭兵上がりの弾除け要因レベルなんだから話にならないから 248日本@名無史さん2016/08/26(金) 08:14:16.88
武士のほとんどは下士だろ。上士(騎馬身分)は少ない
249日本@名無史さん2016/08/26(金) 19:31:49.09
そらそうだろ
大半が戦国時代に身分問わず傭兵として集められた下克上系大名の雑多傭兵が出自だこら
下士なんて大半戦国時代以前の出生地すらわからないような棄民上がりがおおいしな
250日本@名無史さん2016/08/26(金) 19:34:46.39
江戸の武士こそ下士こそ、秀吉みたいな出自だらけだぞ
庄屋は逆に由緒ある地域の名門だらけだけどな
251日本@名無史さん2016/08/26(金) 21:46:15.82
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
252日本@名無史さん2016/08/28(日) 09:18:41.06
「上士・下士」なんて言葉を使ってる時点でレベルが知れる。
253日本@名無史さん2016/08/30(火) 11:04:16.95
地域によって庄屋、村役人の旧領主層の権限はさまざまだと思うけどうちの所では下級武士よりは全然扱い上だったみたいだよ
旧領主の元配下の武将を城勤めの役人として雇わせて庄屋に便宜図らせたりしてたみたいだし乗馬や武装もしていたそうだ
254日本@名無史さん2016/08/31(水) 02:17:59.54
252のレベルも大概w
255日本@名無史さん2016/08/31(水) 09:06:17.18
クダランことをグダグダグダグダいってら
256日本@名無史さん2016/08/31(水) 15:19:04.62
>>253時代によって地方差ももちろんある。江戸初期はほとんど区別なく
100年ぐらいかけてゆっくりと兵農分離をして庶民に落としたが
生意気に金をタンマリため込んで江戸後期には金のを無心されるまでになると。
支配階級を支配地から離すのは結局は破綻するのかね? 257日本@名無史さん2016/08/31(水) 20:48:02.68
>>256
自分のところは江戸時代になってから転封されてきた殿様だったからね
在来の権力者を庄屋層や役人として取り込んで支配を安定化しようとしていたみたいだ
当時は民族浄化みたいな徹底した根絶やしは恨みを買うと避けられてたし取り込む方向に流れたのかもね 258日本@名無史さん2016/09/07(水) 07:41:18.09
うちの先祖は、戦国末期に(関が原が終わった時と伝わってる)村へやってきて
婿入りしたらしい。敗れた側の末端の武士だったのかな。
今の苗字はどっちかよくわからん。
一族以外にも同じ名字の家があるし。
関わりのないところへふらっと来たのか、それとも元々ここいら出身だったのか。
落ち延びた末端の武士が起こした家にしては家格が高すぎるんだよな。
259日本@名無史さん2016/09/08(木) 00:01:06.14
田舎に行くと厳然と家格ってものがあるけどどういった理由で決定されるんだろうな?
田舎行くと年寄りが国会議員を出した家あの家よりもこの家のほうが家格が上っていつも言う
260日本@名無史さん2016/09/08(木) 00:19:26.58
>>258
大規模な国替えがあったときだから、移封された大名に付き従って転居した武士(および、庄屋・名主etc)も多かったんだよ
土地を離れたくなくて残留する庄屋と土地より主従関係を重視して転居した庄屋の両方がある 261日本@名無史さん2016/09/08(木) 04:38:35.17
母の家は信州上田から仙石家と供に兵庫県の出石へ、当時は大工だった。
父方の祖母の実家は越前大野から松平家と供に明石へこちらは武士だった。
262日本@名無史さん2016/09/15(木) 17:39:14.49
>>258
家格が高すぎるってのは
具体的にはどういう感じのことなの 263日本@名無史さん2016/09/18(日) 16:32:37.16
>>258
ああすまん。ほんとの末端の徒士じゃないだろうってこと。
戦国時代の武士のランクって、いまいち分からんからな。 264日本@名無史さん2016/09/18(日) 16:40:34.15
うちの田舎じゃ、1500年前ていどからいたらしい村は名字はほとんど同じだ。
それ以外の近隣の村は、もうちょっとバラエティに富んでいる。
江戸や戦国の領主の名前を付けたようなのは全くない。
最も、江戸期に一時的に領主になった大名は同じ氏族出身と称しているのもいるけど、
10年とか20年しかいなかったし、村の名字はもっと以前から記録にあるから
江戸期にもらった名前ではない。
お殿様の名前を付けたってやつ、あれは眉唾だと思うわ。
普通なら恐れ多くて付けんと思う。
265日本@名無史さん2016/09/18(日) 16:50:07.37
>>238,239
それにしても、せいぜい150年だぜ。
曾祖父さんか、高祖父だよ。
今80歳の人が、自分の親や爺さんの出身地を知らんとか、どういう経過だろ。
不思議だわ。
武士だったら、なおさら先祖のことを伝えていそうなのに。
まあ、うちの田舎の小さな藩のお殿様は分からんが、藩士のその後って知らんけどな。
武家屋敷はとっくの昔になくなってるし、家老の家柄だった人なんか聞いたことがないわ。
地域の有力者は、商家や庄屋かな。
武士はみんな東京へ行ってしまったのか? 266日本@名無史さん2016/09/18(日) 16:58:48.61
関ヶ原と大阪冬の陣夏の陣で負けた大名の領地とか、江戸時代に国替えが
頻繁にあった地域とかは、家臣が地域に根付いていないからさっさとどこかへ
行ってしまったのかな。
あと、近畿は所謂「お殿様」がいいないというか、寺社領や幕府の直轄地が
多くて、武士ってあんまりおらんのよな。
代官って転勤のある雇われのリーマンだし。
267日本@名無史さん2016/09/18(日) 19:36:46.23
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
268日本@名無史さん2016/09/18(日) 22:05:20.40
維新後もその領地、県内に残ってる武士の方が多いとは思うんだ
家臣団で組織作ってるようなとこあるし
ただ、実質的に農地等を持ってないから、職を探して移動する人も多かっただろうね
269日本@名無史さん2016/09/19(月) 01:31:34.96
北海道開拓に赴任する武士も多いし(特に倒幕軍と争った藩の出身者)、
秩禄処分の先行措置で土地を安く分与されて農業をはじめるってコースが政府から推奨されたから、
出身地から離れた村に移り住まざるをえない場合も多々あっただろ
270日本@名無史さん2016/09/19(月) 11:12:54.08
士族の屯田兵は奥羽越列藩同盟からは少ないよ
最多の士族は加賀藩士で官軍側だ
会津藩士は青森の下北半島に移住させられ、そこを開拓してたしな
士族以外の北海道移住者は圧倒的に東北が多いんだけどな
271日本@名無史さん2016/09/19(月) 13:45:56.92
なるほど、士族が参加しちゃうと叛乱への警戒心を強めちゃうからか
叛乱を準備するために開拓に参加してるんじゃないよ、協力したいだけだよと主張するためには士族じゃなく農民が移住する必要があったんだろうな
272日本@名無史さん2016/09/19(月) 13:59:44.40
北海道の屯田兵が起した唯一の反乱が元薩摩藩士によるもの
しかも黒田清隆の親戚
北海道の場合、初期は士族しか屯田兵になれなくて
士族の養子になってから潜り込むケースもあるので
先祖は本州で何をやってたのかまで調べないといけない
273日本@名無史さん2016/09/22(木) 11:36:05.70
うちは、ただの農民だから、どんなに頑張って調べても天明七年に生まれた平三郎さん
にしかたどり着きませんでしたね。墓石に名前が載っているのが、この人だった。嫁さんの
名前はわからなかったけど、天保八年四月十五日に亡くなってるのは読み取れた。平四郎さん
はの五日後になくなってる。天保の大飢饉で飢えて死んだのかなぁ。文政十一年と天保四年に
生まれた娘二人と、文政九年に生まれた平左衛門を残してのことだった。この平左衛門の
五男がうちの家。土地台帳とか見ると、うちの五男の爺さんが三万坪を相続してることまでは
わかってるけど、貧しい農民でもこのくらいの土地は持っていたのかね?戒名を見ても、平三郎
も平左衛門も○○軒○○禅上門とかで、あまり大したものじゃないです。幕末に、親を失って
エタとかヒニンに組み込まれて生きてきたのかなぁとも思っているんだけどね。
ヒニンとかでも農業できるわけでしょ?
274日本@名無史さん2016/09/24(土) 22:33:20.32
相続で3万坪で、その戒名なら相当豪農の一族だよ
戒名からすると禅宗かな
275日本@名無史さん2016/10/14(金) 17:06:45.85
エタがみんな貧しかった訳ではなく、土地を持っていなかった訳でもない。
貧しくなったのは明治になってからだろうと思ってる。
何故なら、屠殺や皮革の利権がなくなってしまったから。
開放されたが、逆に誰でも参入出来るようになってしまって、エリアの独占も
なくなって、商才があるやつ以外は困窮して、豊かになるやつはどんどん
豊かになって別の地域へ出ていった。残ったのは困窮したやつだけで。
みんなが食うや食わずの貧困にあえいでいたなら、エタ村が300年も維持することは出来ず、
とっくに消えていただろう。
276日本@名無史さん2016/10/14(金) 18:16:22.19
278日本@名無史さん2016/10/15(土) 21:21:08.33
279日本@名無史さん2016/10/16(日) 11:44:06.37
280日本@名無史さん2016/10/17(月) 03:32:55.58
>>275
ん?屠殺なんかしたら罪に問われるぞ。
認められていたのは牛馬の死体を独占的に取得できる権利だけ。
権利を認められていたのは村の頭とか年寄とか呼ばれる一部の層だけ。
苗字帯刀と一緒で村の中の特定の家だけが代々権利の世襲を認められていた。
それ以外は小作人とか行商人とかその日暮らしを強いられた。
この権利を認められる認められないは由緒などの違いで決められていたと思われる。
また権利を認められた層とそれ以外の層が通婚していたとは考え難い。
明治以降に困窮したと言われるが権利を世襲していた家は江戸時代に蓄えた財を元に新たな商売を始め成功している。
中には貴族院議員多額納税議員互選資格を獲得した家もある。
しかし権利を持っていなかった層は相変わらず困窮したままだった。
金持ちはより金持ちに貧乏人はより貧乏にの構図である。 281日本@名無史さん2016/10/18(火) 18:36:15.00
>苗字帯刀と一緒で村の中の特定の家だけが代々権利の世襲を認められていた。
>この権利を認められる認められないは由緒などの違いで決められていたと思われる。
東三条・竹中庄右衛門について
『京都坊目誌』に、肥前平戸藩松浦肥前守の家臣が先祖で、わけがあって京都の方に移ってきたと書かれています。
仕事は、天部村の捕手の仕事をしていて、一方で「皮革の製造販売を業とし」ということです。
慶応元年、二五歳のとき天部村の組頭になったとあります。そして、帯刀を許されています。
組頭というのはどんなポストかといいますと、その村を代表する年寄と小頭との間のポストだということです。
また捕手の指揮統率に任ぜられていたということであります。
この方が、天部村が明治に入り三つの町、教業町、長光町、巽町になったときに巽町の戸長に明治五年になります。
そして町のために働くのですが、戸長制度が廃止されると総代になります。
「家職を当主に譲り、自ら隠居して専心協同、夜学校の事務に従事し」とあります。
これらの記述を通して、竹中が村の指導者として尽力をしたといえるでしょう。
282日本@名無史さん2016/10/19(水) 04:25:33.18
被差別部落の内部構造を分析しうる史料は非常に少ないが、
近年、東京大学法学部法制史資料室から発見された『京阪文書』に五十六点、
『京五条坂古証文』に十五点の京都の被差別部落関係の史料があって、
江戸時代初頭の余部関係文書が天部村の内部構造の究明にひと役かってくれた。
もちろん、天部村の内部で年寄、組頭、手下、借家人と階層性の強いことはわかっていたが、
それが居住地域にまで及んでいることがわかってきた。
まず、村内は南北に分れ、北町に番頭の年寄すなわち村の有力者が住み、
南町にも年寄は置かれたが、南町は北町に従属していた。
さらに、北町は東西に分けて西側とか西町の呼名が使われている。
この年寄の下に30人の組頭がいて、その組頭の下に村の住人が手下としてしたがっていた。
組頭になる家は固定されており、その内から2名の者が月番をつとめ、村入用などの取り立てにあたった。
また、この他に3名の小頭がいたが、これは年寄によって選任され、日給を給される立場にあった。
年寄は各家より地料を取り立てて、それを自己の取り分としており、組頭は自分が所有する家作の地料を免除されることで、
給与のかわりとしていることから、年寄と組頭は村役人の地位にあったが、小頭はそれに雇われる立場にあったものと思われる。
一般の住人は手下と呼ばれていたが、この手下にも家持ちと借家の別があった。
家持ちは「手下役人」とよばれていたように、一人前の村民として公役をつとめる義務をもつかわりに一定の発言権も保障されていたが、
借家人は地料をおさめるのみで公役をつとめる義務はなかったが、村政へ関与することも出来なかった。
家持ちと借家人の割合は、1704年 (宝永元) の時点で家持ちが39戸・213人、借家が129戸・519人で、1対2となっていた。
刑警吏役のうち実際の首切りにあたるものを「又次郎」とよんだが、天部村の場合は借家人が又次郎役をおこなっており、
人足として二条城の掃除や刑警吏役に実際に出ていたのは、手下のうちの借家層であったと思われる。
283日本@名無史さん2017/06/23(金) 12:51:28.32
過疎ってるなあ
ファミリーヒストリーという番組がこの3月まで放送されていたぐらいなのに・・・
284日本@名無史さん2017/06/23(金) 14:45:07.36
江戸時代までたどり着けないのがほとんどだろう
役所に行って戸籍から調べたって明治20年くらいで限界だろうよ
それ以外の調査方法は各家庭で違うから何ともな
庄屋とか士族とかなら歴史資料館みたいなところに当たればいいけど
日本人のほとんどは土百姓だったんだぜ
285日本@名無史さん2017/06/23(金) 19:42:04.68
>>284
庄屋とか士族でも郷土資料館に史料が無い家は少なくないだろ。一般百姓が調べにくいって点は同意する 286記憶喪失した男& ◆WSFRN7wyiQ 2017/06/23(金) 21:01:29.21
遺伝解析の結果、弥生人は、中国の呉からではなく、朝鮮半島の北部から来たことが判明しました。
弥生人が渡来したとすれば、2800年前頃、朝鮮北部から、中国江南の稲をもってやってきたということになる。
土師器、鉄製農具、養蚕は、卑弥呼の朝貢からやってきた秦氏たちが三世紀に伝えて、古墳時代が始まった。
弥生人は、中国の春秋戦国時代にはまったく関係ない朝鮮北部から日本へ来た。
O1b2の流入と稲の流入に因果関係はないというのが結論だろう。
あれは、みかんみたいに誰かが中国奥地へ取りに行ったんだろう?
縄文人を中心に考えれば、朝鮮半島から弥生人がやってきたので、
中国大陸の存在を知ったということがあるかもしれない。
新大陸発見だね。そして、稲を取りに行ったと。
287日本@名無史さん2017/06/23(金) 21:35:41.19
弥生人の列島移住は春秋戦国より古いんだが
むしろ殷周革命の前後頃だぞ
殷末に紂王が東征を繰り返していた時代に故国を逐われた人々の一部が移住したか、
もしくは西周の拡大期に東方諸国を攻め滅ぼした際の流民が移住したかってとこだ
時期によっては山東半島に朝鮮半島系の住民が多く住んでいたこともあるらしいし、
その辺の人らが殷または周の征伐によって移住したとしたら、朝鮮半島系の住民が山東半島方面から移住したという可能性も十分にある。
まあ朝鮮半島から直接かもしれないが、いずれにせよ移住の時期は殷周革命の前か直後ぐらいと考えるべき。
288日本@名無史さん2017/06/23(金) 21:36:07.05
あれ、スレチな話題だった、スマン。
289日本@名無史さん2017/06/23(金) 22:16:49.83
>>285
そうなの?
藩によって事情がかなり違いそうだな
廃藩置県の直前に、もう最後だからって足軽にまで由緒書を提出させた藩なんかは
士族なら全員余裕で見つかるよ 290日本@名無史さん2017/06/24(土) 00:51:29.26
うちの地元は旗本領と京都所司代領と大坂城代管理地が入り乱れてる感じか
大名領も飛び地がいくらかあるが、だいたいどれも数百数千石あれば大きい方。小さいのは百石単位
士族の居住とか考えがたいレベルかな?
291日本@名無史さん2017/06/26(月) 04:28:35.07
>>285庄屋と上級武士は公式文書に載ってるから戦災等で焼けてない限り必ず資料は市町村が持ってるし
ちょっとした歴史資料にも引用されてるよ。下級武士ぐらいだと資料はあっても整理されてなくて
公開どころじゃないだろう 292日本@名無史さん2017/11/01(水) 16:18:44.21
NHK「ファミリーヒストリー」が放送再開したのに、相変わらず人がおらん
293日本@名無史さん2017/11/01(水) 17:03:29.37
>>292渡部の母方の家が無くなった事情等はまったく触れなかったな。 294日本@名無史さん2017/11/02(木) 01:52:24.75
295日本@名無史さん2018/01/30(火) 15:33:09.47
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
0DRS1
296日本@名無史さん2018/04/19(木) 20:14:48.34
age
297日本@名無史さん2018/04/22(日) 06:34:32.76
298日本@名無史さん2018/04/23(月) 20:59:20.53
今日坂本龍一やってたな。
足軽の先祖で相当の貧困
明治以降の母方は小作人だって
299日本@名無史さん2018/04/23(月) 22:11:01.47
互いの肛門をしゃぶり合う会
300日本@名無史さん2018/04/23(月) 23:03:19.01
このまえの市村正親の先祖も足軽だったな。先祖が足軽ってどういう気持ちなんだろうか?庶民ではないと思うんだろうか?
301日本@名無史さん2018/04/23(月) 23:17:47.54
下級武士とは言ってたけど足軽とは言ってなかった。
302日本@名無史さん2018/04/23(月) 23:45:11.47
303日本@名無史さん2018/04/24(火) 00:08:10.06
雅子閣下も足軽だったな
304日本@名無史さん2018/04/24(火) 16:19:32.94
先祖が足軽ってのも嫌だな。水飲み百姓も嫌だけどって・・・人口比で考えると
水飲み百姓>>>零細農家>>足軽って感じかね?
305日本@名無史さん2018/04/25(水) 16:32:31.60
足軽でも権利が株として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなったそうだから
下っ端でもそれなりに安定していたんだろう。
306日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:35:21.74
伊藤博文は足軽から公爵にまで上り詰めた。
山縣有朋は足軽以下から公爵にまで上り詰めた。
307日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:41:01.84
>>305
いやいやいやいや、裕福な農家の次三男の就職先になっていたという証拠出してくれないか。
そんな現代のデマの事実などないが?
なんで豪農の次男とはいえ、分家すれば土地の分地でなくとも全うな生活が保証され、もしくは養子か、
すくなくとも徒士株くらい買えるのに、
なんで貧困にあえぐ小作人レベルの生活水準の身分なんか買わなきゃならない?
しかも足軽て、、 308日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:52:52.53
あのな、坂本の家も足軽なんて聞いたことないといっていた。
それくらい足軽なんて明治くらいは人には軽々しく言えないレベルの下層身分
跡形も痕跡残せる財力も泊もない。
足軽は、
- ゾウリ履くこと許されない
〜傘さすこと許されない
〜着る服も素材から徹底制限
〜帯刀も髷も苗字も袴も許されない
〜屋敷も持つことすら許されない長屋住まいの強制
〜三食の飯すらままならない福利厚生
〜不浄と呼ばれる公的現業(衛生、インフラ土木、捕縛、刑務執行など)
〜藩の究極の奴隷民としての立場の強要(パワハラ、セクハラ、暴力、名誉毀損当たり前の日常)
こんな糞足軽が、豪農の就職先だ?
釣りも休み休み言えや
309日本@名無史さん2018/04/25(水) 18:58:43.12
大体、伊藤博文の産まれた百姓の林家は、
>>林十蔵は、わずか5段の田と2段の畑と山林6段しか所有していませんでした。
>>当時はその2倍の土地がないと最低限の生活ができなかったため、他家の小作などもしていました。
こんな貧農が養子に行った先が足軽だろが。
庄屋舐めすぎだ
310日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:07:47.23
しかも足軽以下は口入れ屋からの斡旋が大半
こんな手配師経由の身分を由緒ある豪農庄屋の次男三男が、就職先として買っただ?
嘘も大概にしろ。
>>口入れ屋から雇い入れるということが行われていた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが
百姓とかいてあればみな庄屋となんのか?
手配師経由なんて任侠経由だぞ。
伊藤博文のような貧農の口べらしさき程度の身分だろが。
貧農と庄屋を一緒にするな
311日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:10:30.07
312日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:14:41.11
糞テレビでも、毎回
【百姓は貧困にあえぎ、武士から徹底統制されて苦汁を飲む生活を強いられた】
【武士は絶対!】
みたいな表記で毎回百姓は差別されていたみたいな現代の日差別としてテレビで扱われてるが、
百姓は小作人から庄屋まで全部ふくまろており、
武士も将軍から足軽までイッショクタに表記されており
いつ庄屋ご下級武士ごときには非道な扱いうけた?
下級武士ごとき舐めてたら、単体なら即潰したるっちゅーねん
313日本@名無史さん2018/04/25(水) 19:17:26.60
>>311
なんだその庄屋格とは?
庄屋ちゃうやんけ。
格なんて曖昧さが庄屋には絶対的になれない家と証明さしてるようなもん
314日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:20:04.64
天野八郎
>>上野国甘楽郡磐戸村の名主大井田吉五郎忠恕の次男。
>>幼少時から学問や武道を修め、直心影流を学ぶ。1865年、与力の広浜喜之進の養子とな
315日本@名無史さん2018/04/25(水) 21:28:05.95
316日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:18:35.27
うーむ、でも先祖が足軽て云われたら嫌だな・・・最下級でもいいから馬上か田舎の
旧家がいいかな
317日本@名無史さん2018/04/25(水) 23:28:00.36
大半が水呑百姓
318日本@名無史さん2018/04/27(金) 14:49:51.30
ネットでは先祖が武家が多いけどな
319日本@名無史さん2018/04/28(土) 02:13:45.86
320日本@名無史さん2018/05/04(金) 11:41:12.43
>>289
この人みたいに、「藩が地域一帯を支配していた」と思いこんでるやつが多いのかねえ。
薩摩や長州や紀の国や尾張なんかはそうだろうし、関東は幕府の直轄地だから、
そうだったのかも知れんけど。
藩=ひとかたまりの地域の支配者で地主であると思い込んでるやつ多そうだな。 321日本@名無史さん2018/05/05(土) 19:34:03.23
>>320
そやねん、ほんま、馬鹿だから藩が土地の所有者みたいにおもっとるやつ多すぎんねんまじ 322日本@名無史さん2018/05/06(日) 09:34:47.37
まだ庄屋基地外がいるのか
庄屋は農民
武士より下
323日本@名無史さん2018/05/06(日) 18:44:37.51
恐らく江戸時代に昔はうちもその辺の武士よりも名門の武家であったと言っていたんだろうな。
そのへんの不満のガス抜きが「庄屋」なわけで、庄屋は農民と笑う輩は江戸幕府よりもデリカシーが無い
324日本@名無史さん2018/05/07(月) 18:06:51.79
>>298普通城下住まい以外、つまり農村居住の武士は郷士と呼ぶんだが・・・
黒田家は郷士制度ないのかね?
先祖が郷士なら結構かっこいい感じに聞こえるけど 325日本@名無史さん2018/05/10(木) 18:42:17.99
庄屋は紛れもない農民です。
326日本@名無史さん2018/05/12(土) 00:55:09.39
除籍で幕末まで、檀家寺の過去帳も家事のため幕末まで。
もう手詰まり?
327日本@名無史さん2018/05/12(土) 08:39:07.11
328日本@名無史さん2018/05/15(火) 14:40:18.23
>>325黙れ!小作人
>>326小作人なら手詰まりかな。庄屋・組頭なら郷土史調べれば出てくるでしょ 329日本@名無史さん2018/05/15(火) 15:19:43.06
庄屋なんて雑魚じゃん。
落ちぶれて庄屋になるんだから。
330日本@名無史さん2018/05/15(火) 23:18:59.60
ド田舎で、郷土資料も満足に無いのよ。と言うか、あるけどメインが大正から昭和なのよ・・・それも大火が原因みたいだが。
墓も個人墓は潰されて家族で一つになっとるし・・・
331日本@名無史さん2018/05/17(木) 01:01:08.26
それじゃどうにもならんな。
庄屋でも名家と呼ばれる家なら角川書店だったかな?出ている県別歴史人物事典で苗字を
見てみるといいよ。大体は網羅されてると思う
332日本@名無史さん2018/05/17(木) 20:00:12.81
333日本@名無史さん2018/05/19(土) 13:28:24.60
334日本@名無史さん2018/05/19(土) 14:13:17.94
335日本@名無史さん2018/05/19(土) 18:47:59.09
>>334
後醍醐天皇の崩御後に即位した後村上天皇の時代に行宮となった賀名生の土豪が、そこを訪れたこともないはずの後醍醐天皇から与えられたのですか。
と思ったけど、京都を脱した直後の後醍醐天皇が吉野に向かう前に数日ばかり滞在してたのか
しかし。
>賀名生には、足利尊氏に京を追われた後醍醐天皇が一時滞在。
ダウトですね、尊氏は後醍醐帝を京都から逃がすつもりはなかったのに脱走して京を離れたのですよ。
後醍醐帝が尊氏に京を逐われたという事実はありません。 336日本@名無史さん2018/05/19(土) 21:31:59.01
後醍醐はいずれにしても、
南朝方の当時の有力武家であった家が、江戸時代 は郷士庄屋だ
このクラスが主流なのが庄屋層
かたや江戸武士層はまじ秀吉のような人足レベルが出自の主流
ほんと江戸の武士層は糞レベル
337日本@名無史さん2018/05/19(土) 21:42:14.44
>>334
後村上帝が南朝の御所にしていたのは明白となっとりますがなにか? 338日本@名無史さん2018/05/19(土) 21:44:50.48
339日本@名無史さん2018/05/19(土) 22:13:27.80
その部分に対する異論は書き込んでないけど、どういう反論なの?
340日本@名無史さん2018/05/19(土) 22:39:07.62
天皇の御所に使われたクラスの格式の室町初期の豪族の武家レベルが江戸時代の庄屋層と言いたいんだろ
341日本@名無史さん2018/05/19(土) 23:09:45.03
>>333いや。本の題名とは違って「家」が基本でその中の有名な当主や一族のものが掲載
されているが、各県で編集方針が異なるらしく詳細に載っている県もあれば同姓の郷土史に登場する人物を軽く説明しているだけの県もある。 342日本@名無史さん2018/05/20(日) 09:24:03.10
落ちぶれた結果、武士の身分から転落して庄屋になったのに、何か勘違いしてる馬鹿がずっと住み着いてる。
343日本@名無史さん2018/05/20(日) 21:28:55.23
主人運が悪過ぎたわが家
今川→村上→武田→北条と・・・どうしろと。
以後、天領で新田開発して庄屋になるも身分は農らしいが代官文書とかだと郷士
とあるみたいだけども
344日本@名無史さん2018/05/21(月) 13:35:20.16
家主義の時代に血統は二の次三の次。
ヤマト王権の大王も黎明期は血統関係なかったはず
345日本@名無史さん2018/05/21(月) 18:18:49.94
村上の前に今川ってとこ、ちょっと変わってるな?
他の時と違って大きく移動しないと成立しないし。
346日本@名無史さん2018/05/21(月) 21:02:55.59
>>345そそ。
今川が滅びた後に一族が四散して北条家に行ったのもいるんだけど信濃に逃げたのが
村上に仕えたらしい。ただ、実際は武田の影響下にあって信濃侵攻の先鋒じゃないかと
いわれてる(地元郷土史家談) 347日本@名無史さん2018/05/21(月) 21:11:57.84
ええ?
信濃の村上が信濃を逐われて越後に行った後で今川滅亡だった気がするけど……(←気がする、気がする、気がする
348日本@名無史さん2018/05/21(月) 21:47:20.60
>>347なにか間違ってるかもしれんスマン。
同姓の一族が結構いて四散して別々の行動が一緒になってしまってるのか
自分のなにか勘違いかもしれん 349日本@名無史さん2018/05/21(月) 22:02:46.24
滅亡と書いたのが悪かったのか。桶狭間の後の影響力低下か・・・それでも時系列あわないね
(村上)→武田→北条→庄屋多数 (今川からの発給文書は持っていない、
村上も地域の伝承があるだけ、武田北条家発給文書あり)
今川→北条→徳川家臣数家 (今川北条徳川発給文書あり)
と二手にわかれていて
各家の系図を合わせたりして、たぶん自分の勘違いが入ってる
間違いがあれば史家が何か言うはずだから。。
350日本@名無史さん2018/05/21(月) 22:09:51.55
あと、もう一系統あった
今川→北条 一緒に狭山についていったが何故か家臣ではなく庄屋になった家
351日本@名無史さん2018/05/22(火) 16:20:28.24
関ヶ原他、合戦で破れた家の家臣だった人は、それまでの褒美やらで土地を買って豪農に
なったのがいるらしい。
勘兵衛で、蓄えを配ってる場面があるが、戦国武士の家臣はただで仕えていたわけじゃない。
352日本@名無史さん2018/05/22(火) 21:48:17.28
通常は自分の領地に帰農というか武士身分を認められず庄屋として帰農するがな
353日本@名無史さん2018/05/22(火) 22:19:56.66
351
合戦で負け、主家がDNAレベルで消える家も多数いるなかで、
褒美をもらっているとか、
また、戦国時代の土地の売買が主流ではない時代の売買豪農とやらの実例教えてくれないか?
私は聞いたことすらない。
当時、そもそも室町から続く守護大名に連なりし家臣は、在郷の地侍や土豪の寄親寄子制度
そもそもが土地を大地主だし、
また別の土地に移されても開墾開発地主になって庄屋がほとんどだろ
354日本@名無史さん2018/05/22(火) 22:20:17.28
351
合戦で負け、主家がDNAレベルで消える家も多数いるなかで、
褒美をもらっているとか、
また、戦国時代の土地の売買が主流ではない時代の売買豪農とやらの実例教えてくれないか?
私は聞いたことすらない。
当時、そもそも室町から続く守護大名に連なりし家臣は、在郷の地侍や土豪の寄親寄子制度
そもそもが土地を大地主だし、
また別の土地に移されても開墾開発地主になって庄屋がほとんどだろ
355日本@名無史さん2018/05/23(水) 04:19:22.43
たぶん、土地を買ったんではなく、その金で荒地を開拓したんでは?
土豪開発新田とか?
あちこちに元武士が刀を捨てて新田開発をした話は結構残ってるが
大体金の出所経緯は不明なのが多い
356日本@名無史さん2018/05/23(水) 05:47:39.68
落ちぶれた奴らのどうでも良い話は辞めろ
つまんねーよ
落ちぶれ自慢でもしたいのか
357日本@名無史さん2018/05/23(水) 08:11:36.06
関ヶ原のとき、守護大名だった大名って誰と誰?
358日本@名無史さん2018/05/23(水) 12:47:02.76
室町幕府の滅亡後は守護もなにもないが一応
上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、
佐竹家、宗家,伊達家、毛利家
てか自分でググれ
359日本@名無史さん2018/05/23(水) 17:17:18.79
父方母方直系傍系関わらずとにかく調べまくったけど、明治以前に生まれた女性で名前に漢字が含まれる人が見事に一人もいなかった。
男は平凡な名前でも漢字だから親がどんな思いを込めたかは何となくわかる。ただ、女性の名前は何考えてつけたのか分からん物が多い。
イト、キヌ、きり、とち、まき等・・・身の回りで美しいもの、健やかに育つイメージの植物など。なんとなく想像がつく。
いきの、ユキノ、きう、きやう・・・まず語感から何も連想できない。漢字がないから推測も出来ない。
昔の人は何をもとに女の子の名前つけたんだろ。
あと、見事に漢字がゼロだけど、一般人は漢字使うなみたいなルールや風潮あったの?
360DJgensei artchive gemmar2018/05/23(水) 17:25:24.25
足利 前田 はクリアか。
361日本@名無史さん2018/05/24(木) 05:05:02.54
>>357
関ケ原時点では弱小大名だが、赤松や山名もいる 362日本@名無史さん2018/05/25(金) 22:04:04.51
関東は本当にロマンあったよな
戦国末期ですら、頂点が後北条家というだけで、
在郷は平安からの関東武士団たる開発領主がひしめき合って封建社会を完全に維持できていた。
本当の意味の武士社会が存在していたよ。
しかし、豊臣秀吉の関東征伐により、その秩序は完全に崩壊してしまった。
関東には千葉氏やら秩父氏やら成田氏やら、徳川が認めし超名門とされた関東八屋形衆レベルがことごとくDNAレベルで滅ぼされた。
本当に成り上がりは酷すぎる
363日本@名無史さん2018/05/25(金) 22:20:58.32
関東では、秀吉の関東征伐の時、
平安からの関東武士団が混成する鉢形衆やら、秩父衆、八王子衆、関東北面武士団やら、
関東の広大な板東勢力ですら、どこの在方兵力は500〜多くて3000なのに、
秀吉は
鉢形衆には1300に対し25000、
八王子城には1500に対し30000
関東北面武士団の一つ、忍城には500に対し20000、
など、
関東勢力は少数だが生粋の名門武士団に対し、
秀吉軍団は本当に人数かき集めの、糞みたいな成り上がりの出自不肖の馬の骨集団だからな
こんなやつらに関東の歴史が崩壊させられたと考えるだけで、怒りが込み上げてくるわ
こんな輩が江戸武士だからな
364日本@名無史さん2018/05/26(土) 01:29:29.11
何かもう先祖探しの話題の原型残ってないね・・・
365日本@名無史さん2018/05/26(土) 05:01:37.03
郷土史に記録がない家は探せないし探せても名前だけとか意味ないっしょ
庄屋や大百姓ぐらいなら戦国武将となんとか繋がるか、繋げられるけどね
366日本@名無史さん2018/05/26(土) 11:20:14.56
>>364
探さなきゃわからない、イコール直系でも近親分家ですらない家だろ
単なる遡りまくったDNAレベルの繋りなんて、歴史的になんの価値もない
そんなの遡りゃ皆兄弟だわ近所なんて。
遡って他人の家なんかに根拠求めてもなあ
江戸時代、旗本や御家人層に伊賀や甲賀衆が多くおり、
多くは次男や三男、分家が武士となって、
その本家は地元伊賀での貧農層が多く、
江戸初期、幕府に本家が同じく上京して幕臣に加えることを嘆願するが一切受け入れられなかった
DNAが直系の繋がりあっても、家が別離ならもはや他人
それをDNAですら直系でない家まで遡って、なにがしたいのと思う
367日本@名無史さん2018/05/27(日) 19:59:23.20
先祖に松代藩士がいる身としては、どこかで真田家と繋がっていないかなと微かな
望みを持つがな・・・
368日本@名無史さん2018/05/28(月) 16:47:53.27
藩士は藩士
藩主と簡単につながらない
平社員が社長の親族なんてケースはそうそうないだろ?
369日本@名無史さん2018/05/28(月) 21:17:15.51
下級藩士ごときで舐めてんの?
370日本@名無史さん2018/05/28(月) 21:23:00.48
>>368 それはどうか。藤原氏とはユダヤ人で、郷を形成していたガド族だった。いわば、御車寄せ。藩主はよくわからん。城主。旗本。 371日本@名無史さん2018/05/28(月) 21:44:20.57
なぜ下級藩士?下級とは一言も言っていないが
372日本@名無史さん2018/05/29(火) 16:46:15.26
ファミリーヒストリー
志村けんの総本家、歴史がある割によくわからんのだな。言い伝えとかのこらんもんかな?
唯、16世紀ごろ名主を務める家は強力なバックボーンが必要とのこと、まあ豪族であったと
この辺は2chの総意と同じだが、少し繋げるのは無理があるような気もするな
373日本@名無史さん2018/05/29(火) 21:26:25.84
>>372
志村けんの総本家とやらは名主だったの? 374日本@名無史さん2018/05/29(火) 22:25:24.65
375日本@名無史さん2018/05/29(火) 22:58:06.72
ありがとう。
で、その名主の本家は何がよくわからないといってたんですか?
それから、16世紀の名主は強力なバックボンが必要だとナレーションあったんですか?
376日本@名無史さん2018/05/30(水) 03:50:03.60
天正壬午起請文に志村姓の武士がいる→彼らは甲州街道の警備のため八王子に移り住んだと→そこから東村山近く(本家ってどこだっけ?)に一族に者が越してきた可能性が高い→当時名主を務めた事が傍証→というのは16世紀の名主は強力な力が無ければできないと by平山優
総本家には特にその辺の話は伝わっていないみたい二十数代目とかだからもっと前からいた土着の豪族な気がするけど・・・名前だけ伝わっているのか土着してからの代数
だかは言っていないから分かんない
377日本@名無史さん2018/05/30(水) 06:15:02.63
それと同時に後北条氏の遺臣にも志村姓の武士がいたと番組では言ってたな
378日本@名無史さん2018/05/30(水) 11:26:09.97
また落ちぶれかよ。
もうそんな話はいいわ。
好き好んで落ちぶれる奴なんていないんだから。
庄屋とか名主とかは腹一杯。
379日本@名無史さん2018/05/30(水) 12:46:32.29
東京をルーツとする志村氏は、武蔵の名族豊嶋氏の一族で、武蔵国豊島郡志村郷(東京都板橋区)
を本拠とする鎌倉武士の出身。戦国時代には早くから北条氏の家臣となっていた wiki
こっちの可能性の方が高い気がするけどNHKはなぜ武田と繋げたがるのだろうか?
昔、志村という地名も存在したらしいのに
田舎の名族で家系図を持たない家が結構あって(過去帳はある)何故かと思ったが
明らかすぎて書く意味がないみたい。
志村家も土着の豪族で当たり前すぎて書き記さなかったんじゃないの?
380日本@名無史さん2018/05/30(水) 16:58:45.43
武田の遺臣にも志村姓の武士が多くいたからじゃないの?
381日本@名無史さん2018/05/30(水) 18:40:13.90
つか、武蔵中部とかの旧族って少なからず武田家に仕えてたりするしなあ
武田領に入ったわけでもないのにさ
けっこう移動が多かったのかね
382日本@名無史さん2018/05/30(水) 18:43:36.56
>>379
>田舎の名族で家系図を持たない家が結構あって(過去帳はある)何故かと思ったが
>明らかすぎて書く意味がないみたい。
そんなことは無い。
家系図が無いというのは、その程度って事。
名族と言うのも詐称だろう。 383日本@名無史さん2018/05/30(水) 23:06:50.80
別に同じ名字っていうだけで、無理やり感を感じるよな
384日本@名無史さん2018/05/31(木) 19:29:55.19
ある本家が庄屋で分家が旗本の家では旗本は当然家系図はあるが本家の方に聞いたら家系図は無いとのこと。
分家が仕官のため持ち出したのかもしれんが・・・
また、庄屋が苗字帯刀の許しを得るさい必要とされると言われるが、苗字帯刀を許されたある家の本を
読んでいたら昭和初期に古文書から名前を逐一調べて家系図を作ったと(南北朝から昭和まで)
まあ本当の本当の名族は明らかに天皇から連なる系譜は存在してるだろうけど
田舎の名族じゃ途中で記録が消えてたり、訳わかんなくなってるだろ
385日本@名無史さん2018/05/31(木) 23:31:15.24
今夜ファミリーヒストリー再放送
386日本@名無史さん2018/05/31(木) 23:33:39.41
387日本@名無史さん2018/06/01(金) 07:15:24.77
名族を詐称してる奴が多いから、そういう話は信用出来ない。
388日本@名無史さん2018/06/01(金) 15:13:59.60
もしかしてコ川家も冷泉家も名門じゃないと言ってしまう人??
389日本@名無史さん2018/06/01(金) 23:55:09.73
>>384
田舎の名門じゃなくとも、
江戸の大名家ですら九割自称なんだが。
徳川はあまりに酷すぎる大名家の面々の出自に、
寛政諸家系図伝を編纂して、
林羅山に各大名家から自称でいいからと家系図提出させてるんだが?
信憑性は一切問わないという幕府のお墨付きで家系図提出させた幕府の悩みの種が、大名家の面々の酷すぎる出自
だから高家も創設。 390日本@名無史さん2018/06/02(土) 00:06:34.40
江戸の近世大名家が出自が酷すぎるのは、
江戸初期の学者兼藩主だった鳥取藩主の池田家が、きちんと文献で残してるからな。
>>鳥取池田家の5代藩主で学者の池田定常は「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその多くの大名家の先祖はよくわからないと記してい
江戸の大名家自体が庶民の底辺たる労働者階級の出だらけ。
そこに仕えた藩士なんて、もはや目も当てられたレベルじゃない出自
話にならんわまじ
391日本@名無史さん2018/06/02(土) 00:20:27.26
江戸の武士こそ、江戸の底辺階層と血統的親和性が実はあるという
392日本@名無史さん2018/06/02(土) 08:11:36.66
だからと言って落ちぶれた庄屋が名族ってことはない。
落ちぶれてから、家系が劣化してるから。
百姓同士で血縁結んだりでな。
393日本@名無史さん2018/06/02(土) 08:14:10.30
逆に江戸大名は、江戸時代を通じて家系が良くなり、江戸末期には名族と呼ばれてもおかしくなくなった。
394日本@名無史さん2018/06/02(土) 12:23:53.55
一夫多妻も側室も無い一般人の場合、子どもの数ってどれくらいが限界だろう?
大正生まれのうちの祖母は11人兄弟で、母親は二十歳から40半ばまでずっと妊娠か授乳期だったようだけど、よっぽど体力無いと無理だよな?
男は相手さえいればいくらでも作れるが。
395日本@名無史さん2018/06/02(土) 12:59:20.65
子どもが生まれたら乳母を雇って自分では授乳しないようにすると次の子を妊娠するまでの期間が短くなる
庶民から程遠い例だが、マリアテレジアは16人の子を産んだらしい
世界記録はたしか19人だったか。
この人の場合は双子三つ子と多産子が多かったらしいが。
396日本@名無史さん2018/06/02(土) 16:04:01.81
>>392そりゃなんとも…
農民だって階層化してるから土豪だった家と水飲み百姓が通婚するとは思えない 397日本@名無史さん2018/06/03(日) 18:47:37.92
>>395
世界記録は60超えてるよ。もちろん父親は同じじゃない。
同一両親の多産記録ってどれくらいが限界だろうか。 398日本@名無史さん2018/06/03(日) 23:15:17.65
>>396
所詮は農民内での序列にすぎない
落ちぶれてから加速度的に家系が劣化したと言わざるを得ない
江戸大名は大名同士や公家から嫁をもらうとかしてるから、
江戸期を通じて家系が良質化されてる
比べ物にならないよ 399日本@名無史さん2018/06/04(月) 13:52:53.12
>>398
小作人や下級武士の子孫はそう思いたいのだろうけど現実として少し前の
世代までは華族や旧庄屋との婚姻は別格の扱いだろ 400日本@名無史さん2018/06/05(火) 02:50:51.93
>少し前の世代までは華族や旧庄屋との婚姻は別格の扱い
華族は別格だろうけど、旧庄屋の場合、庄屋だからとかじゃなくて、財力を活かして学歴を手に入れて、
官僚とか学者とか多額納税の貴族院議員とか衆議院議員とかを出した場合に別格になったんじゃないか。
そうじゃない、ただの旧庄屋でも別格?
401日本@名無史さん2018/06/05(火) 03:53:44.38
戦前の総理大臣はほぼ公家と武家出身者で占められてる。
庄屋の生まれは犬養毅のみ。
例外は寺族の清浦奎吾と生家が貧農の広田弘毅ぐらいか。
戦後になると急に豪農生まれの総理大臣が増え始める。
402日本@名無史さん2018/06/05(火) 05:23:14.82
庄屋=農民であり、まったく大した事ない
これが結論
403日本@名無史さん2018/06/05(火) 05:59:03.59
戦後は旧庄屋出身の総理や政治家多そうだな。戦前は藩閥のせいなのかね?
404日本@名無史さん2018/06/05(火) 12:29:15.00
>>400
40年ぐらい前かな。上場している企業の成り上がり創業社長が息子の嫁に旧庄屋の家の娘が欲しくて、つてをたどりかつて疎開していた地方の旧庄屋の娘を貰ったという話があった。そこまでするもんかね?と今でも思うけども 405日本@名無史さん2018/06/05(火) 15:04:07.15
嘘だな。
紀州の田舎から成り上がった松下幸之助が娘婿に欲したのは、公家の血統。
庄屋なんて相手にもしなかった。
庄屋は百姓だよ。
高貴な血統ではない。
そこら辺にゴロゴロいる。
406日本@名無史さん2018/06/05(火) 15:07:36.48
俺の曾祖父は、某外様大名の家臣だったが次男坊だったので、嫁は庄屋の娘。
曾祖父の兄で長男は、ちゃんと武家の娘をもらってる。
407日本@名無史さん2018/06/05(火) 17:02:15.14
商売の家は公家は嫌がるって聞いたことがあるけどな理由はたかられるからと
408日本@名無史さん2018/06/05(火) 22:18:20.40
なんか足軽の子孫が庄屋にひがんでるのかしらんが、
現皇族には例外の大和田を除けば、
旧大名家と旧公卿、大宮司家、旧庄屋しかいないんだよ笑
糞下級武士のような類いまれなる貧困な出自不詳の底辺出身なんて一切いないわけだが。
409日本@名無史さん2018/06/06(水) 00:14:43.28
また、庄屋基地外が出たな
庄屋なんて下層なんだよ いつになったら解るんだ
だから百姓は駄目なんだ
410日本@名無史さん2018/06/06(水) 01:16:51.69
ずっとマニアックな少人数が盛り上がってる感じだけど、普通に昔の戸籍制度や一般人の生活について質問するのはOK?
411日本@名無史さん2018/06/06(水) 07:23:06.95
412日本@名無史さん2018/06/06(水) 08:50:12.26
大正ごろ、養子に出した子を死亡したと届け出る場合ってあった?
どうも辻褄が合わないことがあります。
まず、うちの祖父は戸籍上は次男。実家の仏壇&除籍謄本によると、子どもの頃に死んだ兄がいます。
しかし、親父いわく、養子に行った兄がいて、子どもの頃に祖父と一緒に葬式に出たとのこと。親父の兄弟もその葬式のことを覚えていた。ただ、小さい頃だから名前や年齢はわからない。
祖父の兄弟にきいてみたら、「そんな人知らんなぁ」
謎が多すぎて意味がわからない。
仮説を立ててみた。
@特別な事情があり、実質長男である祖父以外には、兄に存在が知らされていなかった?
→でも、そんな秘密の存在の人の葬式に、祖父はわざわざ子ども連れていくだろうか?
また、兄弟たちに隠し続けるのは可能だろうか?
A戸籍上は大正10年に死んだことになっている長男が実は生きていて、養子に行った日を死亡日として届けているのではないか。
Bよく見ると、曾祖父母の結構の届け出は祖父の出生届と同時に出ており、それまで兄と姉は無戸籍だったみたい。その間に養子に行った兄も生まれていた可能性。
→でも、何故祖父の兄弟は知らない?
皆さんはどう思われますか?
あと、昔は無国籍児ってよくいたの?長姉は8歳まで無国籍だったみたいだけど、生活できんのかな?
413日本@名無史さん2018/06/06(水) 10:38:57.02
お前の勘違い。
414日本@名無史さん2018/06/06(水) 14:51:25.22
明治天皇 :昭憲皇太后 一条家
大正天皇 :貞明皇后 九条家
昭和天皇 :香淳皇后 久邇宮
今上天皇 :美智子皇后 正田家(←名主)
こうみると上級武士の家ぐらいから貰ってもよかったのにね。
ただ、当時それなりの生活をできる旧上級武士の家柄となると数が限られたのかな?
415日本@名無史さん2018/06/06(水) 17:02:28.82
昭憲皇太后は熊本藩主・細川斉茲の孫
香淳皇后は薩摩藩主・島津忠義の孫
416日本@名無史さん2018/06/06(水) 17:16:57.25
美智子皇后の母方の副島家は佐賀藩の下級武士の家系
417日本@名無史さん2018/06/06(水) 19:01:43.35
皇族も
皆
旧会津松平家、出雲大宮司家、徳川家、津軽家、鳥取家そして麻生庄屋家と、
大名家と大宮司家、財閥家、そして庄屋しかいない。
なぜ、いつから庄屋は底辺なんだか聞きたいわ
旧大名家の成り上がりが江戸期を通じて、例え蜂須賀や藤堂レベルの底辺の出でも貴族化していったのは認める
だが、糞下級武士と称するリアルな最底辺出自風情の奴隷職ごときに庄屋の格式が色褪せることなど絶対ないから。
それは明治以降のあらゆる角度から立証できるわけだ、こうやって。
旧名門庄屋は旧大名家には劣るとも、準ずる地位と名誉と財力と特権とを歴史的結果が実証している
418日本@名無史さん2018/06/06(水) 19:31:31.80
>>415
女系入れだしたらマジで百姓とかでてくるんじゃない? 419日本@名無史さん2018/06/06(水) 21:26:57.67
そもそも天皇には蜂須賀や秀吉系の血もふんだんに交じってるのに、何を今さら
420日本@名無史さん2018/06/06(水) 21:56:10.87
小室圭の先祖は日本人?
421日本@名無史さん2018/06/07(木) 01:33:36.99
>>412
祖父の兄に、もうひとり庶子がいたんじゃないか? 422日本@名無史さん2018/06/07(木) 01:42:44.14
>>421
それが戸籍に全く載らないってありえる?ありえたとして、養父の戸籍には実子として載ってしまうの?
そもそも、二人いる祖父の兄弟がその人の存在を全く知らないのも不自然だし・・・秘密を貫いたんだとしても、じゃぁなぜ兄弟には頑なに秘密にしたのに我が子には全く隠してなかったのかと言う不思議さもあり・・・ 423日本@名無史さん2018/06/07(木) 02:06:33.39
>>422
庶子だと戸籍の載り方はさまざま
養家の実子になったり、母方の実家の戸籍に入れられたりすることもあったようだよ
あなたの祖父の兄弟が知らないのは、曾祖父が曾祖母の手前もあり、あまりおおっぴらにできず、秘密にしていたと考えられる
祖父だけは実質長男だったから曾祖父から聞かされていたんじゃないかな 424日本@名無史さん2018/06/07(木) 02:15:49.16
続き
祖父の兄、姉の例を見ても分かるように、かつては届出の仕方でどうとでもなった
祖父の兄、姉も不自然さがあるし、こちらも出生の事情に秘密があるかもね
425日本@名無史さん2018/06/07(木) 02:44:28.48
>>423
届け出次第で養子が実子にもなったのか・・祖父たちとは母親が違うか、同じだったとしたら曾祖母の実家の戸籍に載ってる可能性もあるのかな。
曾祖父は本家の長男なのに遠方に就職した身だから子どもが出来てからも結婚の届け出に時間を要したのは何となくわかるが、もう当時を知る人は誰もいないから確かめようがないなぁ・・・
ちなみに、8歳まで無国籍なら学校も行けないだろうけど、大正時代に入ってもそんな人いっぱいいたのかな!? 426日本@名無史さん2018/06/07(木) 02:47:30.97
その、謎の兄を探る方法って戸籍に載ってない以上はどうしようもないよね!?
427日本@名無史さん2018/06/07(木) 03:09:44.31
>>425
曾祖父夫婦と祖父の兄・姉って年齢構成的に問題なさそう?
戸籍って除籍謄本のことだよね?
誰のまで入手してる? 428日本@名無史さん2018/06/07(木) 05:41:09.86
429日本@名無史さん2018/06/07(木) 10:25:38.80
>>427
曾祖父が28歳、30歳の時だから違和感は無いかなぁ。
除籍は、父、祖父、曾祖父転籍分も全て、曾祖父の弟(高祖母が載っているので)、高祖父、までですね。 430日本@名無史さん2018/06/07(木) 12:41:51.71
祖父ではなく祖母の兄だったりして(親父さんの勘違い)
431日本@名無史さん2018/06/07(木) 15:57:43.47
>>427
あ、書き忘れてたけど、曾祖母は曾祖父より8つ下だから、二十歳と22で祖父の姉と兄を生んでる。
>>430
なるほど、その可能性あるか。
ただ、葬式には祖父と親父しか出てないから、祖母方の親戚である可能性は低いんです・・・ 432日本@名無史さん2018/06/07(木) 18:26:13.20
そのうちの誰かが双子だったりしない?
双子の片方を殺す風習の土地だと
殺すのに忍びない場合、死んだ事にして養子に出すケースが割と多かったらしいよ
433日本@名無史さん2018/06/07(木) 19:45:14.15
とりま父方の男系だけでなく祖母方や曾祖母方の女系の除籍謄本を取りまくるべき
434日本@名無史さん2018/06/07(木) 23:12:37.14
>>432
双子はいないなぁ。
子どもが生まれても何年も無届けってのも何か背景あるのかな?
実は他にも謎があって、何年も無届けだった二人が、戸籍と過去帳で年齢も感じも違うんだよね・・・
まぁ、女性はひらがなとカタカナの違い、男性は仁と二の違いだけだから同一人物とは分かるんだけど。
>>433
そうしてみるか。
曾祖母の田舎と、その息子の嫁である祖母の田舎が完全に同じだから、窓口で怪しまれそうだ・・・ 435日本@名無史さん2018/06/08(金) 00:09:49.39
未婚のまま子が生まれ、母親の戸籍に入籍したものの、数年後結婚したとしたら戸籍にはどう表記されるんだろう?やっぱり「○○より入籍」は書かれるのかな?
上記の無届け二人だけど出生地と「□□の子、父△△認知届け出 大正七年○月×日受付」とだけ書いてある。
先に曾祖母の戸籍で小さい頃に登録されてる可能性あり?
何かめっちゃ気になって仕方なくなってきたわw
436日本@名無史さん2018/06/08(金) 00:20:04.45
曾祖父夫婦の婚姻届けの遅さから、なかなか入籍できない事情があったものと推測される
(両家あるいはいずれかの実家に反対されたとか)
そうであれば、養育にも不安があるわけで、最初の子が里子に出されていても不思議ではない
曾祖父母や祖父母がやりとりしていた年賀状とか、住所録とか、アルバムとか残ってないのかね
437日本@名無史さん2018/06/08(金) 00:28:11.20
>>436
曾祖母は離島の漁師の長男だが、当時最先端の紡績工場で働くため関西へ。斜め向かいに住んでいたのが曾祖母の兄。曾祖母も住んでいたかは明確じゃない。結婚しにくかったのはよく分かる。
二人とも亡くなってだいぶ経つし、家は建て替えたし、祖父母は断捨離名人だったしで、親戚中に散逸した写真数枚しか祖父母を知る手がかりはないなぁ・・・ 438日本@名無史さん2018/06/08(金) 04:52:12.01
>>434役所が遠いと後で用があるときにまとめてということはあったらしいけど 439日本@名無史さん2018/06/08(金) 06:01:48.46
>>417
落ちぶれて庄屋になった時点で、農民階級となり、下層となった。
それは歴史的事実だよ。
事実から目を背けるなよ。 440日本@名無史さん2018/06/08(金) 11:35:16.00
戸籍謄本が親が盛った程厚く無かった(´・ω・`) 言ってた通りの事は載ってたが(´・ω・`)
441日本@名無史さん2018/06/08(金) 12:43:57.88
>>392
百姓どうしとか言うが、普通は近隣の村の庄屋とだな
一般の村民とは結婚しない
村人は村人と。庄屋は庄屋と。階層に分かれてるよ、現代だと知らんけど。 442日本@名無史さん2018/06/08(金) 12:46:30.40
>>439
士農工商と呼ばれる身分制度というのは後代の捏造でデタラメだよ
たとえば、農民と商人の間に身分の差は全く存在しなかったしな
儒教の中にあった適当な言葉を使って過去の制度を悪くいうための言葉にすぎないんだよ 443日本@名無史さん2018/06/08(金) 16:46:14.71
士>>>越えられない壁>>>農工商
444日本@名無史さん2018/06/08(金) 16:59:35.11
少なくとも、江戸時代の制度として庄屋および町庄屋と一般農民の間にも身分差を設定されてはいた
町庄屋>(≒)農村の庄屋>>庶民
だったらしい
445日本@名無史さん2018/06/08(金) 17:06:05.30
>>440
謄本って厚いからステータス高いわけじゃないのでは?
次男や三男で分家繰り返したり、結婚離婚繰り返したりしたらめちゃ増えるよ?
蓮舫なんか16ページくらいあっただろw 446日本@名無史さん2018/06/08(金) 19:49:43.27
消えた養子の大叔父について書いてたものです。
気になって祖父方の曾祖母と、祖母の除籍を取ってきました。
結果、曾祖母に婚前の出産歴は無く、祖父から見た兄貴は存在せず。
念のため確認した祖母の兄弟も、親から聞いていた以外はいないし、養子になった人もいなかった。
可能性として残るのは、曾祖父に庶子がいて、母親の戸籍に入ってたパターン。これはもう他人の戸籍だから探しようがない。
それか、死んだことにされている兄貴が養子に行ったと言う珍説が本当か。
そして、偶然奇妙な出来事に気づいた。祖父方の曾祖母と祖母、つまり姑と嫁にあたる二家の先祖を辿った訳だけど、曾祖母の祖父の家から養子で他家に出たのが祖母の祖父だった。
つまり嫁と姑とが従兄弟関係で、俺の祖母はいとこの息子と結婚したことになる。しかも、そんな関係で祖父の方が遥かに歳上と言うややこしさ。
たぶん本人も知らなかったっぽい。
昔は狭い地域で近親婚繰り返してたのかな。
疑問は晴れなかったけど新たな発見があったわ。
447日本@名無史さん2018/06/08(金) 22:50:14.29
てか封建制って事細かに身分が細分化されて秩序だっていたわけで庄屋と庶民の間なんて殿様と下級家臣ぐらいの差はあるだろ
448日本@名無史さん2018/06/08(金) 23:21:03.21
449日本@名無史さん2018/06/08(金) 23:26:11.38
>>448
見合いで初めて会ったみたいよ。養子縁組だらけで、血縁上はいとこでも他人だわ。
ちなみに、無戸籍児と思ってた兄弟二人は曾祖母の実家の籍に父親空欄で載ってたわ。
あとから認知してうちの戸籍に入ったから、転籍や入籍でなく新規になってたようだ。
でも、結局養子に出た兄貴は分からずじまい。 450日本@名無史さん2018/06/09(土) 03:14:46.12
うち完全に農家だと思ってたら除籍の名前が右衛門だらけだ。
あんま名前は関係ないのかな?
451日本@名無史さん2018/06/09(土) 03:17:12.44
農家ということは農家なんだろう
452日本@名無史さん2018/06/09(土) 03:20:36.94
それとも農家ではなく、特殊な職の家だったとか、
ちゃんと調べてみて、よくわからない職業があったりしない?
453日本@名無史さん2018/06/09(土) 03:49:04.73
いや、正直職業は調べようがない。
ただ、地域が江戸時代から続くみかん山のど真ん中だから勝手に判断。
農家で衛門はやっぱり特殊?
454日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:11:06.59
21衛門
455日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:40:03.62
うちの先祖は○兵衛が多かった
明治になると途端に現代風の名前ばかり
456日本@名無史さん2018/06/09(土) 07:43:04.45
>>442
デタラメだという証明をしなさい
君の妄想にしか思えない
百姓の子孫だから、庄屋を持ち上げているだけにしか見えないよ 457日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:34:06.18
>>450
もと庄屋な感じがする
大夫成り とかの感じの名前だ。 458日本@名無史さん2018/06/09(土) 08:35:55.02
>>456
証明って、すでに複数の成書が出回ってるが。通史の一部として 459日本@名無史さん2018/06/09(土) 10:18:26.54
そんな程度で江戸時代の身分制度全部を否定できるはずがない。
460日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:45:03.59
>>457
元ってのは何故?
大夫成がよくわからない...
ちなみに、地名で検索しても、明治以降の歴史しか出てこないド田舎ですw 461日本@名無史さん2018/06/09(土) 12:49:12.84
農家でも何でも良いけど、
むかーしから住んでいたという意味でしょ
462日本@名無史さん2018/06/09(土) 18:23:41.14
>>460
庄屋という地位、職務は江戸時代のもので明治には公式の地位ではないから、元としか言いようがないってだけ 463日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:45:00.56
464日本@名無史さん2018/06/09(土) 23:59:37.26
除籍見てたらさ、明治11年当時に18歳の男と12歳の女の間に子どもが出来てんの。
何回も見直したけど、養子でも無いし年齢も間違いない。
こんなことってありえる!?
465日本@名無史さん2018/06/10(日) 00:12:57.43
しかも沢山子ども生んだから孫より年下の子がいるwww
変な話、高2と小5が交わったわけか。ありえるかなぁ・・・
466日本@名無史さん2018/06/10(日) 00:52:38.62
連投すみません。
意味不明なことが記載されてる。
名前はボカしてるけど、ちょっと見てください。
戸主:□川○次郎 の戸籍。
母ちの、長男、二男○松、長女、三男、婦、孫3人が記載されている。
妻が居ない。子どもたちにも母親の記載がない。
続いて、二男○松が他家に養子に出て戸主になった戸籍を確認。
父:亡○次郎
母:亡ちの
とある。
想像したくは無いけど、○次郎さんは実母と4人も子ども作ったってこと!?
ただ、年齢考えると、長男生んだ時が○次郎27歳、ちの52歳、末っ子を生んだ時で○次郎36歳、ちの61歳だからまずありえないと思うんだけど・・・
何か背景わかりそうな方いませんか?
467日本@名無史さん2018/06/10(日) 08:51:19.45
>>466
さすがに二男○松の戸籍の記載が間違っているような。他の兄弟の戸籍で確認してみるとか。 468日本@名無史さん2018/06/10(日) 11:09:20.65
兄弟は傍系になるから無理だよ。
469日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:14:45.18
ちのとその父親の除籍謄本を取ってみる
470日本@名無史さん2018/06/10(日) 12:46:12.26
○次郎とちのが亡くなったタイミングにもよるけど、2人のどちらかの記載さえあれば、兄弟が戸主の戸籍が取れるかも?
471日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:28:54.39
兄弟の戸籍には父親しか載ってないわ。
父親の欄が空白はよくある話だけど、母親が空白って捨て子しかありえないよな。
ちゃんと父親を筆頭に家族築いてるに、何でだろうか。
しかも、そこから出た息子は18歳の時12歳の女性と子ども儲けてるし、何かもう色々無茶苦茶だわw
472日本@名無史さん2018/06/10(日) 20:29:30.11
たまたま嫁と姑が同じ名前とか?
473日本@名無史さん2018/06/13(水) 01:31:44.06
戸籍と現住所が解離し始めたのっていつ頃から?
474日本@名無史さん2018/06/13(水) 01:49:23.87
○番屋敷と現在の番地との対比ができれば先祖の居住地跡が正確にわかるのに手段が見つからない
475日本@名無史さん2018/06/13(水) 03:07:43.25
法務局へ行って土地台帳と公図を閲覧したら
476日本@名無史さん2018/06/13(水) 23:14:04.23
土地台帳って、その当時の所有者だけじゃなく歴代も解ったりするの?
477日本@名無史さん2018/06/13(水) 23:31:43.73
除籍でわかる俺の高祖父は、明治2年に父親が死んで相続している。
土地台帳はそれより後に出来たものだけど、高祖父以降しか載らないの?
それとも、それより前、さらに前なんかも載るの?
今日初めて土地台帳と言うものを知ったので、さらに前を辿れるラストチャンスじゃないかとワクワクしている。
478日本@名無史さん2018/06/14(木) 00:23:09.71
>>477
さすがにそれは無理
土地台帳は今でいう土地登記簿のこと
一筆ごとに土地の所有者とかが記載されてるやつ
分筆や合筆、売買や相続なんかで所有者が変われば登記されるんで
遡っていけば元の所有者がわかるけど、せいぜい明治20年代くらいまでだったはず 479日本@名無史さん2018/07/12(木) 14:45:50.99
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
PNM
480日本@名無史さん2018/07/28(土) 22:39:54.23
えらい長いこと停滞してんな。
481日本@名無史さん2018/08/20(月) 10:33:26.29
>>473
制度としては、S27年?の法律からじゃないかな。
それ以前は、戸籍=住民票だったはず。
だから、「赤紙」はすべて本籍に送られた。
地方出身者で都会に出て仕事をしている次男三男等は、急いで連絡しないといけなかった。
次男が結婚すると、新しく戸籍を作ったはず。
国勢調査は、「本籍」と「現住地」で県別の人口なんかの統計を出したんだと思う。
両方がのってるのを見たことがある。
あくまでも「寄留地」ってことで、今の住民票とは違うね。
なんで2つに分けたんだろうなあ。
それと、「戸籍」は東アジアだけらしいが、それにしても住民票と戸籍に相当する
ものは必須だから、なんらかの仕組みがあるんだろうけど。 482日本@名無史さん2018/08/20(月) 10:53:01.04
>>466
庶子だけど、父の戸籍に入れた(母を妻に出来ない事情があった)
次男の戸籍は間違って書いてる。
こんなのが考えられる。 483日本@名無史さん2018/08/20(月) 13:01:43.60
>>471
明治民法、徴兵制、が出来たり確立するまでは、わりといい加減だったみたいだね。
江戸時代はそんなものは必要なかったから。6年に一度の宗門人別帳くらいで。
誰が誰の子供であるかなんて、本人たちがわかっていればいいし、幕府なんて全く
関係ないし、藩も関係ない。
軍人は武士だから、庶民には無縁。
重要だったのは、年貢だけ。明治になって地租改正したけど。
二十歳で徴兵検査ってあたりから、きっちり届けるようになったんじゃないかな。
学校は、明治の大合併のあたりで、「村」に一つ作るけど、そのころでも誰と誰が
同じ年に産まれたって把握出来るくらいの範囲だった。
戸籍を見て就学通知を出すとかやりはじめたのはいつ頃だろう? 484日本@名無史さん2018/08/20(月) 19:32:01.07
>>483
徴兵制のために戸籍制を整えたと言われてるぐらいで徴兵は早くから確立されてるけど?
明治一桁年代から徴兵検査してるじゃん 485日本@名無史さん2018/08/20(月) 21:01:50.45
>>484
西南戦争は士族の反乱だが、徴兵制=士族の否定だと、多くの反対にあった。
明治一桁で「すべての20歳の男」を徴兵していたか? 486日本@名無史さん2018/08/20(月) 21:34:31.67
明治初期は徴兵検査の合格率が数パーセントしかなくて大半が不合格だったからな
検査受けた人の二十人に一人ぐらいしか合格してなかったはず
たしか合格者の全員が徴兵されたわけでもなかったはずだし(?)
487日本@名無史さん2018/08/22(水) 16:35:22.08
平城帝嵯峨帝の大同時代に由緒ある家だけど、百済とか新羅とかいうクソ喰い半島渡来系じゃないよ(^^)
488日本@名無史さん2018/08/24(金) 01:34:33.74
土地台帳って、制度ができた以前の土地所有者は記載されない?
489日本@名無史さん2018/08/24(金) 01:45:15.61
そりゃそうだろ
それ以前なら検地帳に類するものを探すしかないんじゃねえの
490日本@名無史さん2018/08/24(金) 01:49:57.38
>>487
そんな由緒ある家が
レイシストやってるなんてみっともない 491色川高志「クソ関東連合っ!! かかって来いクソ野郎どもっ!!」2018/08/25(土) 15:42:50.34
色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状)
492日本@名無史さん2018/08/26(日) 13:12:25.61
昔庄屋の旧家あたりだど菩提寺過去帳で一発で分かるだろ。
まぁ、大抵の日本人は苗字で鎌倉の武士先祖がわかると言えばそれまで。
493日本@名無史さん2018/08/27(月) 00:52:43.33
うちは菩提寺が1860年に全焼してて、それ以前は皆無。住職に聞いたし、その火事は郷土史に載ってるから間違いない。
法務局に土地台帳を郵送で請求したんだけど、返事は何日くらいで来るもんなの?
494日本@名無史さん2018/08/28(火) 01:13:55.10
土地台帳見てみた。
高祖父の名前が書いてあるだけで、沿革は何もなし。曾祖父が相続した後の事も何も書いてなかった。
宅地になる前は耕地で登録されてるんだけど、家がそこには無かったということなのかな?
あと、耕地を所有ってことは身分は農民確定?
495日本@名無史さん2018/08/28(火) 10:58:54.18
>>494
百姓=農民ではないよ。
武士と町民(城下町等に住む職人と商人等)以外は百姓だ。
時国家は百姓なんだぜw 496日本@名無史さん2018/08/28(火) 11:31:57.18
>>492
それがそうでもない。
うちは、その古い旧家で菩提寺もあるが、一族の誰かが調べ始めたけど諦めたらしい。
過去帳には、誰が親かは書いてないとかで、途中で辿れなくなった。
推測はできないことはないが、確実ではない。
宗門人別帳ならわかるらしいが、それが残ってるかどうかは不明。
江戸時代やそれ以前と思われる墓石があるが、古いやつはもう読めない。
そこそこ広いエリアがうちの一族の墓で、他の家の墓地との比較その他から判断するに
その地域の最も古い家の一つらしいこと、昔も有力者だったと思われること、戦国末期
の神社や寺の資料に出てくる名前が先祖らしいこと、それがわかる家でもそんなものだわ。
所謂「本家」ってやつは、大正か昭和に没落し、子孫も絶えて絶家になった。
近隣に戦国時代の小さな山城があるが、その城主一族は別の家だが、江戸時代は
百姓であり大きな地主だったと聞いている。どこどこまで他人の土地を踏まずに行けたとか。
うちの先祖にもそんな話が伝わっている。
多分、じいさんばあさんの代までは、それらのことはみんなが知っていたと思われる。
オレの親の代にはただの貧乏な農民だけどなw 497日本@名無史さん2018/08/28(火) 11:31:57.18
>>492
それがそうでもない。
うちは、その古い旧家で菩提寺もあるが、一族の誰かが調べ始めたけど諦めたらしい。
過去帳には、誰が親かは書いてないとかで、途中で辿れなくなった。
推測はできないことはないが、確実ではない。
宗門人別帳ならわかるらしいが、それが残ってるかどうかは不明。
江戸時代やそれ以前と思われる墓石があるが、古いやつはもう読めない。
そこそこ広いエリアがうちの一族の墓で、他の家の墓地との比較その他から判断するに
その地域の最も古い家の一つらしいこと、昔も有力者だったと思われること、戦国末期
の神社や寺の資料に出てくる名前が先祖らしいこと、それがわかる家でもそんなものだわ。
所謂「本家」ってやつは、大正か昭和に没落し、子孫も絶えて絶家になった。
近隣に戦国時代の小さな山城があるが、その城主一族は別の家だが、江戸時代は
百姓であり大きな地主だったと聞いている。どこどこまで他人の土地を踏まずに行けたとか。
うちの先祖にもそんな話が伝わっている。
多分、じいさんばあさんの代までは、それらのことはみんなが知っていたと思われる。
オレの親の代にはただの貧乏な農民だけどなw 498日本@名無史さん2018/08/28(火) 12:43:36.31
>>495
土地台帳、読めば読むほど謎だらけ。
まず、「○○村□浦550番地」が除籍謄本に載ってる地名。
現在は「■郡○×町□浦??番地(550は現存しない)」
上記ともに小字は存在せず。
しかし、土地台帳には小字の欄に「小浦駄場」と書いてある。現在、そんな地名は一切存在しない。これは何だろう。
あと、駄場という言葉に差別めいたものを感じるけど、勘違い?
また、土地台帳に記載された番地は「8番耕地550番地」となっている。住所や大字で○番耕地なんて存在するの?
また、もとは耕地で登録され、後に宅地になったけど、先祖は代々そこに住んでいたはず。住んでるのに耕地っありえる?
また、祖父が昭和32年にその土地を相続放棄した過去があるのに、台帳には高祖父の名しか載っていない。
更新せずにそのままってのはあり得るんだろうか? 499日本@名無史さん2018/08/28(火) 12:56:03.37
相続人が所有者変更の登記をしなければ土地台帳はそのままだよ
変更登記し忘れや相続争いで変更登記できなかった結果、
所有者不明の土地がどんどん増えてて社会問題化しはじめてるとか
500日本@名無史さん2018/09/03(月) 01:01:23.92
>>466
襲名の可能性もある
○次郎を先祖代々受け継いでるとか 501日本@名無史さん2018/09/09(日) 01:08:54.04
故人である親戚が家の由緒を調べて書き残してくれた冊子があるんだが
・先祖は美濃から江戸の商家に奉公に出てその店を継ぎ、黒田藩御用達となる。
・そこで岡田勢州公の家臣?の林氏の娘(1836年没)を娶っている。
と書かれていた。
だが林氏がどういう人物なのかどう調べたらいいか分からず詰んでる。
娘の没年から林氏はどの世代の岡田氏の家臣だったのかを調べようと思っているんだが、ネットには江戸中期〜後期の岡田氏の家臣一覧など見つからない。
もしあったとしても、林氏が下級武士なら載っていないだろうしな。
それどころか岡田氏自体あまり有名でもないのか江戸中期以降の岡田氏一覧も見つからない。
どうしたもんか・・・・
502日本@名無史さん2018/09/09(日) 03:32:49.22
なんかさ
世代をどんどん遡ると先祖の数は膨大になって日本人誰でも高名な武家やら公家やらの血を引いていることになるって言ってる奴いるじゃん?
それ有り得ないと思うんだが
今でこそ先祖代々庶民家系の人と先祖が華族の人が結婚して子孫を残すなんてことは普通にありえるけど、それが可能になったのは精々明治から
それより昔は庶民は庶民、貴族は貴族で同じ身分家同士の婚姻がほとんどだっただろ?
だから明治以降に武家や公家家系の血が入っているでもない限り、代々名も無き庶民の家の奴は先祖巡っても百姓の血しか流れていないと思うんだよ
お前らどう思うよ
503日本@名無史さん2018/09/09(日) 11:01:31.98
でもな
富裕層の方が子孫が多いし、子孫なくて断絶するのはたいてい庶民(武士や貴族では、あるにはあるけど少数派)
その人数差の影響もあり、富裕層でも零落凋落して庶民同然になるヤツがどうしても出てくるんだよ
ただまあ、先祖を調べやすい庄屋層以上と違ってホントの一般庶民のトコまで降りてくることは少ないだろうけどさ
504日本@名無史さん2018/09/10(月) 11:36:43.06
>>502
昔は血が濃くなると元気な子が生まれにくくなると言われたのと血統への信仰(?)
からか中央から地方に派遣された役人(当然高貴な家の傍流だろ)に地元豪族の
娘を宛がったりして子孫を残した。その子が子供たくさん産めば次第に下へ下へ
高貴な血がと・・・ 505日本@名無史さん2018/09/10(月) 11:43:16.77
>>496
うちに近いかも。うちは墓の陰刻がまだ読めるので江戸初期まで遡れるが
戦国期小さな山城の城主で武田家に仕えていたが、その城主と繋がる系図はない。
近場の家では伝承の残ってる家もあるし系図のある家もあるが当然矛盾だらけで
近郊の同姓庄屋家が全て矛盾なく繋がることはない。
墓の大きさ戒名等から当時の有力者であったようで当然城主の子孫と思われるが
確証はない 506日本@名無史さん2018/09/10(月) 22:15:28.79
うちの本家の隣町の昔庄屋をやっていた家からうちの家系に関する明治時代に書かれたと見られる記録と、江戸時代に本家の先祖が書いた記録見つかったんだが
・斎藤龍興公の家臣で馬上の武士
・主君(龍興)が戦で負けて禄を失い先祖(初代)は同伴の武士5人と、従者と一緒に帰農
・位牌によると初代は1609年に亡くなっている
・明治時代に落ちぶれるまでは庄屋を勤めたり広大な土地を持つ地域の素封家として有名だった→菩提寺の住職も同じことを言っていた
・6代目(1700年代中期)と9代目(1850年代)の時に初代が帰農した当時の一緒についてきた従者の子孫に名字を与えた→実際に本家の周囲には与えた名字の家が数件ある
ざっとこんな感じだった
記述からするに単なる地侍っぽいから家柄的には大したことはないなw
まあ古文書は嘘ばかりらしいから半信半疑で真実を調査中
家に関するもっと古い記録は別の町の庄屋の子孫の家にあるらしいから、チャンスがあれば見に行くつもり
507日本@名無史さん2018/09/10(月) 23:52:09.98
うちは曽祖父の代に分家したんだけどなぜか曽祖父、曾祖母、その長男も本家の墓に入ってる
分家は本家墓に入れないと思っていたんだがそうでもないのかな
田んぼの中にぽつんと本家の墓があって墓の周囲に木がいっぱい生えていて外から見たら鎮守の森みたいだw
まあ小村の庄屋家系だから大した金もなかったみたいだけど、自分の家系だけの独立墓地(?)というのも悪くない
今度墓の周りに彼岸花植えたいけど本家とは交流全くないから勝手に植えられないし躊躇うわ
508日本@名無史さん2018/09/11(火) 12:52:25.27
除籍全て取り寄せる→
菩提寺見つける→幕末に火事あったから残る記録は除籍と同程度の時代まで→
現地にいた遠い親戚(3人いて、全てかなり高齢)を見つけて聞き取りしたが、「ワシの祖父はこんな名前じゃったんか」みたいにこちらから教えてあげるような状態→
土地台帳取り寄せるが、あまり古い記録は記載されておらず→
町誌読むが、これも大正や昭和初期の記録がほとんど
ここからどうしたら良い!?
509日本@名無史さん2018/09/11(火) 19:28:00.73
墓石は調べてないの?
510日本@名無史さん2018/09/11(火) 19:57:45.21
>>508
過去帳位牌に墓見てるなら、後は地域に残ってる古文書読み漁る位しか無いんじゃね? 511日本@名無史さん2018/09/11(火) 22:14:27.89
まあ、そういう古文書だって火事などで焼けたり災害で流されるか埋もれるかしたり、
いろんな理由でなくなってることも多いから、ダメもとだけどな
うちの地元は焼けてなくなってるらしい
5125082018/09/11(火) 22:37:51.31
件の大火事が、町ひとつほぼ全焼だったのよ。だから町誌にも古い資料が無いんだと思う。
墓は昭和に合一して家族墓。藩領だけど城下ではないから分現帳も無いだろうなぁ。
513日本@名無史さん2018/09/13(木) 12:04:45.26
幕末に火事は痛いね。昭和ぐらいなら郷土誌等は国会図書館にありそうだけど・・・
でも維新のごたごたで資料が散逸した藩もあるし。
505だが江戸初期に庄屋やってた家は藩に出仕して禄を貰ってた家も多いが
個別に知行割当状が残ってるだけで全貌は不明。移封で資料はもうないそう
地方によって辿れる時代には限界があるね
514日本@名無史さん2018/09/13(木) 13:20:04.57
違う話だけど鈴木さん佐藤さんの先祖ってどうやって調べるの?
佐藤一郎なんて同姓同名の人が日本に何千人ているのに?
515日本@名無史さん2018/09/13(木) 13:44:33.11
佐藤と鈴木の大半は明治以前まで苗字がなかった人達だから
諦めた方がいい
516日本@名無史さん2018/09/15(土) 17:20:23.96
1500年代後半に近くの村(A村)の新井家の娘を嫁に貰っているんだが、現在分かっているのはその娘の旧姓(新井)と出身村(A村)、没年、戒名のみ
ちなみに娘の名前も親の名前も分からない。
新井って苗字自体メジャーだから地域の電話帳検索しても物凄い数がヒットして特定が難しい
うちは庄屋をやっていたんだが、その地域の有力一族も新井姓だから恐らく同じく庄屋層かと
昔は同じ身分で婚姻していたらしいからその新井さんをまず調査してみようと思う
517日本@名無史さん2018/09/15(土) 17:27:35.33
苗字で思い出したけど庶民は実は昔から名字を持っていた説が最近は有力だけどな
いくら庶民とは言えどもそこらのうじゃうじゃいる水呑百姓やらまでも名字を持っていたとは考えにくいよな
せいぜい庄屋までだろ持ってたのって
字も読めない書けないごく普通の百姓が名字あったとは考えられないわ
518日本@名無史さん2018/09/15(土) 22:27:36.17
ってか庄屋は苗字帯刀が多いだろ。普段は何だが正式な場では裃に脇差でしょ
519日本@名無史さん2018/09/16(日) 00:14:31.79
>>516
戦国時代とか江戸時代で苗字があるなら、たいていは庄屋だろ?
>>517
もともとは律令期にすべての民に姓を持たせる政策があって、いちおう姓がばらまかれたんだよ
それをどこかの段階で失った無姓が段々増えただけでな
あと、ヒトの入れ替わりが少ない(自由移動が解禁されてはいない)ので、本人が覚えてなくても村の有力者が代表して(?)村民らの苗字を知ってたりな 520日本@名無史さん2018/09/17(月) 05:34:15.89
父方祖父の母親の家系を辿ってるんだけど戸籍が破棄されているらしく祖父の母親世代の戸籍しか分からない
その前の世代、つまり自分から見たら高祖父に当たる人物は前戸主の欄に名前のみ書かれているだけ
一応高祖父は神戸商人でネットで公開されている神戸の郷土史にはひっそりと名前が載っているけれど詳しい記述は一切ない
本当に名前だけしか乗っていないそんなレベル
苗字もありきたりで特定も出来そうにない
悔しいがここで行き止まりか
521日本@名無史さん2018/09/17(月) 13:15:33.12
>>502
江戸中期の農村の調査では、一世代で絶家する割合は下層民の方が多く地主家は少ない。
小作層で14%とかだったらしい。
減った下層へ上層(地主)の次男、三男、その次男、三男・・が埋めていくという構造。
ネットで調べられる天皇の子供、孫、ひ孫・・を調べてみ?
源氏のうち、初代や二代目や当主はある程度系譜がわかるが、次男の次男の次男、
三男の三男の三男・・・なんかは、もはや王族どころか武家の棟梁でさえない。
それでも庶民に比べたら、多くが生き残る。
平安末期の人口800万とか1200万らしいが、、現在は10倍。等しく子孫を残せたわけじゃない。
庶民の多くは絶家になり、上層階級は多くの子孫を残せる。
日本は「婿養子」という習慣があるから、上層の男の末裔が地方の有力者の婿になることも多い。
上層と下層の身分差があやふやなのが日本の特徴で、百姓を母に持つ将軍なんて日本くらいだろう。
天皇家は妻はすべて貴族から選んでいるが、それでも光格天皇の例もある。
貴族の父の妾がすべて貴族ってわけでもないから、天皇といえども母の母の母あたりに
なると名前も不明なのがある。
こうやって1000年以上他国から侵略されずにすごすと、多くの「庶民」は天皇家(藤原も)の
血を引き、逆に天皇家は多くの庶民の血が流れ込む。
現在の皇室は、家康、信長、豊臣その他多くの大名等の血を引くらしい。
武家の娘が公家に嫁ぎ、その娘が摂関家に嫁ぎ。
その武家(大名)の子は多くは側室が産んだ子。
貴賤結婚禁止で、王族との婚姻以外は認められなかった、庶子は後継者になれなかった
欧州とは違うところ。欧州は、各国の王族同士が親戚で、庶民の血は流れ込まなかった。
下へ広がるのは日本と同じだけどな。 522日本@名無史さん2018/09/17(月) 13:52:29.94
母親だけじゃなく父親も庶民な皇帝、劉邦とか朱元璋とかはどうなの?
523日本@名無史さん2018/09/17(月) 14:09:08.27
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
524日本@名無史さん2018/09/17(月) 14:55:57.52
>>523中国って言っても広いからな
奥地に行けば今でも洞窟、高床式に住んでそうな気もするけど・・・さすがに洞窟はないかな 525日本@名無史さん2018/09/17(月) 15:09:17.47
>>523
コピペ耕作、乙
デタラメ以外見当たらないな
>日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し
竪穴式住居は有用だから鎌倉時代頃まで広く使われてた、庶民住宅の本流。
寝殿造り建築物の時代でも主流の住宅様式だ。ましてや、高床式住居とは共存して当然。比較すること自体が無意味だよ
王侯貴族の建物ならともかく庶民住居はコスト制限が厳しいから、多少の新技術ぐらいでは一新することはできないんだ 526日本@名無史さん2018/09/17(月) 15:25:36.31
調査を進めるに当たってずっと本家だと思っていた家がただの名字が同じなだけの違う家だとわかってショックだわ
曽祖父の戸籍とその家の住所が一致したし墓もすぐ近いから絶対に同族かと思ってたのになぁ
うちとその家との間で色々と土地の売り買いがあったらしいからそれでゴチャゴチャになってる
うちの本当の本家は代々の土地を去って岡山に行ったらしいが今はどこにいるか全くわからない
527日本@名無史さん2018/09/17(月) 15:45:54.57
>>526
それは家が違うだけでどうみても同族だろ
住所が同じ、墓がすぐ近くなど
全く関係ないなら同住所や墓が近いなんてことはあり得んよ 528日本@名無史さん2018/09/17(月) 16:50:41.86
>>525
田舎の方はそうだろうな。
ただ学術的には523の通り。
秦氏が帰化した4C後半頃から新羅の土壁の中国系住居が畿内から広がり始め、
6C末に百済から瓦屋根の寺院建築が畿内に伝わって、
瓦屋根の戸建てに移行していった。
すべて畿内が基準。 529日本@名無史さん2018/09/17(月) 19:10:55.74
>>526-8
先祖調査するなら気安く「本家」という言葉を使わないように。
都心部から離れているところは大抵「本当の本家」は都会に出て
リーマンやっていて、田舎に住んでいるのは本来は分家のとこがまあある。
だいたい、どっちが本家かというくだらないがセンティシブな問題を抱えてるため
本家はどこに行きましたとか発言はよくよく注意すること 530日本@名無史さん2018/09/17(月) 20:25:06.73
デビ婦人とかいうのがファミヒスで武士の末裔とか紹介されてるが、
なんの家系図もなんの言われもないし、残ってないのに、
単に実家と、それに近い地侍を勝手に結びつけて、勝手に武士の末裔とか、酷すぎないか?
仮に血統の枝分かれとして、その直系でもなんでもない、枝分かれした末枝でも遡れば武士いうなら、日本人全員武士か豪族の末裔だわな
弾左衛門ですら家系図なら頼朝の末裔なんだから、話にならないわNhk
加賀藩主の前田なんて日本全国五万といるから、ならみんな遡れば藩主前田と血を別けた先祖だな
531日本@名無史さん2018/09/17(月) 21:00:57.46
身分は血統に与えられているのではなく、家単位に与えられているものという大前提がぬけてるからなんだよ
532日本@名無史さん2018/09/17(月) 21:01:31.79
加賀に先祖代々の土地があって明治初頭まで遡れるのなら可能性は高いと思うけど
533日本@名無史さん2018/09/17(月) 21:54:14.76
じーちゃんから戦国時代に先祖はすごい武士だったとか聞かされて来たから勝手に想像膨らませて天皇家から出た某有名な武将の庶流(自分と名字が同じ)の子孫だろうなこりゃとウキウキしてたんだけど先祖を調べていくうちに幻想は崩れたなw
武将どころかただの田舎の地侍やってた百姓だったわ
明治時代に書かれた由緒書には庄屋をやっていましたーとか書かれていたけどそれすら嘘なんじゃないかとめちゃくちゃ疑心暗鬼になっている
だから先祖の言伝えを調べもせずに鵜呑みにしている奴を見ると微妙な気持ちになる
534日本@名無史さん2018/09/17(月) 22:12:14.29
>>532
だからなんなのって話だろ?
身分は家に由来し、血統には由来しない。
だから江戸幕府も寛永諸家系図伝でも、日本全国の成り上がりの出自不肖大名家たちに、
源氏に適当に繋げた偽系図を強制的に提出させてるんだよ、価値なんて血統にはないから。
ただ、あまりに江戸武家は出自が酷すぎるため、体裁目的でやらせたわけだが、
大名の黒田や池田、超名門喜連川ですら養子だらけの世界は血統なんか関係ないし、ましてや直系でもない血筋なんて、本人の自己満足でしか価値はない
しかも武家のみならず、農家も分地禁止令がでてるわけで、直系の家しか土地や家格は相続できない
わかる? 535日本@名無史さん2018/09/17(月) 23:20:51.91
貴族皇族に庶民の血が混ざることはあっても逆はほぼ有り得ないだろ
降嫁したとしてもせいぜい庄屋や大商人止まり
記録に一切ないレベルの有象無象まで降りてくるわけがない
536日本@名無史さん2018/09/17(月) 23:49:35.88
いちおう庄屋階層の人らは同階級の通婚が基本だから庶民と混ざることは少ないんだけど、
嫁に出したり跡を継がせたりする数より多くの子どもを育ててるから、村内で絶家になった家を継がせたり分家を起こさせたりしてるんだよ
そういう分家の一部は零落して庶民に落ちるからね、そのへんから庶民化する道筋がある
537日本@名無史さん2018/09/18(火) 04:59:10.43
>>534
池田はどっちも養子だらけじゃないんだが…
むしろ珍しいぐらい養子がほとんと入ってない 538日本@名無史さん2018/09/18(火) 09:14:05.74
突然申し訳ありません。初めてこのスレに来た新参ですが、どなたか詳しい方がおられるかと思いますのでお助け頂けますと幸いです。
母方の先祖なんですが手がかりが少なすぎて困っています。事情があり曽祖父が明治時代に茨城から中国地方に流れて来たこと、親族が1人を除いて全く先祖に興味を持たなかったことなどがあり、八方塞がりです。
本題なんですが我が先祖は江戸時代以前はよく分かりませんがとりあえず江戸初期は現在でいう久慈郡大子町で大庄屋だったといいます。
藩主が徳川光圀公の時に山を巡った喧嘩を治めた功績で代々「菊池」の苗字と帯刀・麻裃を許されたと言うことなんですが、該当する文献等はございますでしょうか?
また、このような場合は元々の苗字を名乗ることを許されたという解釈でよろしいんでしょうか?それとも全く関係のない名家の名前を頂くということだったんでしょうか?
ちなみに家紋は丸に違い鷹の羽です。長文になりましたが、お知恵を拝借願えませんでしょうか?よろしくお願いします。
539日本@名無史さん2018/09/18(火) 09:38:01.92
茨城県の史料館とか大子の資料館にでも問い合わせてみたら?
あるかどうか知らんけど
540日本@名無史さん2018/09/18(火) 09:56:02.79
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
541日本@名無史さん2018/09/18(火) 10:00:12.32
538です。一応そういう所に問い合わせたんですけど、家の事なので個別の事案にはお答えできませんとのことでした。
唯一話を聞きに行った親族も数年前に他界し、本家の方も曾孫さんの代になっていて連絡の取りようもない状態です。
542日本@名無史さん2018/09/18(火) 11:05:08.44
自分の名字由来検索してみたら
全国人数約2500人ほどの比較的珍しい?名字だった。
それでルーツが清原氏(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)ということだった。
543日本@名無史さん2018/09/18(火) 11:14:18.08
>>541
聞き方が悪かったんじゃねーの?
家のことを強調すりゃ、お役所はそう答えざるを得ないよ 544日本@名無史さん2018/09/18(火) 11:50:33.55
545日本@名無史さん2018/09/18(火) 12:18:08.52
>>543
家の事を強調はしてませんよ。ただ、あくまで公的な機関なので覚悟はしてました。
あと不思議な事にネット検索で唯一出てきた町内の庄屋宅跡?を調べてもうちの先祖と苗字が違うんですよね。
あくまで直系じゃないので自分で動くのも難しいですし…
ありがとうございました。 546日本@名無史さん2018/09/18(火) 13:24:20.91
547日本@名無史さん2018/09/18(火) 16:00:02.05
>>544
全国2500人程度の珍しい名字なら、佐藤さんや鈴木さんよりは遡りやすいんじゃない? 548日本@名無史さん2018/09/18(火) 19:45:23.07
549日本@名無史さん2018/09/18(火) 20:30:20.21
>>538
太子町て、初代水戸藩主から一村皆殺しにされた村方騒動あった場所じゃね? 550日本@名無史さん2018/09/18(火) 20:43:00.17
>>538
その江戸初期は大庄屋と誰が言ってるの?
ただの家の言い伝え?
太子町は江戸初期、大藤ゆう旧佐竹家地侍だった庄屋が、いた。
しかし、水戸藩士二人を斬り殺し、
水戸藩の意向に従わず、
さらに水戸藩にたいして村民に武装させて対峙したことで水戸藩とまるまる村一村が合戦
3ヶ月に及ぶ戦により、水戸藩も多数の死傷者をだすも、村民およそ一千弱は二人を残して皆殺しにされるほど徹底抗戦した村方騒動
水戸藩は庄屋相手に藩士に多数の犠牲が出てしまったことや戦国ままならない時代背景、女子供まで皆殺しにした経緯から
この事件は光國により隠蔽され、明治以降になり徐々に明るみに 。
この村方騒動以降の村政は水戸藩が主導のもと明るみにでない不明な地域 551日本@名無史さん2018/09/18(火) 21:42:35.20
>>550
そういう地域って結構あったと思うけどね。天領(幕領)が年貢安くて規制がゆるゆる
なのは、そういうのをみた他藩の農民に騒動を頻発させてお取り潰しにしたかったのかね? 552日本@名無史さん2018/09/18(火) 21:58:51.31
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
553日本@名無史さん2018/09/18(火) 22:55:30.29
>>551
君素晴らしいな。
そこまで裏読めた奴ほとんどいなかったよ。
おそらく水戸藩が藩士と村方で旧勢力下の庄屋の揉め事をわざと意図的にあみだしてると考える。
水戸藩の文献では、揉め事から恭順させて庄屋をすり替えさせるのが目的と伺える。
しかし、水戸藩が誤算だったのは、まさか村一村がフル武装して合戦挑んでくるとは思ってなかったみたいだ。
見せしめという言葉がかなりでてくる。
当初水戸藩は家老芦沢率いる170の藩兵で攻めるも戦況は水戸藩に多数の死傷者がでて膠着。
3ヶ月に及んだため、増援と共に撫切りという女子供も皆殺しにする心理作戦で庄屋を引っ捕らえて処刑した模様
かなり逸脱したものの、江戸初期の村方の旧勢力を罠ですり替え行うのが目的なんだろうな 554日本@名無史さん2018/09/19(水) 10:31:46.92
>>530懐柔策だと思うけど田舎の豪族って結構旗本になったりしてるからな
枝葉の幹を辿れば武士に行く付くのは当たり前と言っちゃ当たり前
一族の一人を召し抱えるから反抗するなってことでしょ
>>536昔の一族って巨大だけどね。分家なんかしなくて従兄弟の子供とかまで
一緒に住んでる。そういうのまで含めての階層 5555382018/09/19(水) 12:56:38.94
>>550
以後名前を538とさせて頂きます。
大庄屋だったというのは半分家の言い伝えです。
というのも唯一興味を持った親戚が、もう何十年も前に(おそらく40年は前)ツテをたどって大子町にある本家の元へ行ったら驚くような豪邸で、お帰りなさいませとお手伝いの方がいるような家だったそうです。
その際に喧嘩を治めて大庄屋になったという話と系図を見せてもらったとのことです。
水戸藩の揉め事については私が自分で調べた際に驚きました。まさか喧嘩とはその事だったんでしょうか? 文献を調べようと思いましたが中々うまくいかず…という感じです 556日本@名無史さん2018/09/19(水) 13:25:52.62
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
557日本@名無史さん2018/09/19(水) 15:11:55.59
>>554
旗本とかの武士の家系って庄屋と同根のが多いんだけど
武士と農村庄屋に別れたあとも長く親戚付き合いを続けたままの家さえあるらしい 558日本@名無史さん2018/09/19(水) 22:03:25.24
太田南畝は御役目で今の国分寺市恋ヶ窪の名主宅に立ち寄った際に、名主に「自分の先祖は恋ヶ窪の太田目と言う所の出だと伝わるが、太田目という土地はないか?太田姓の土地の百姓はいないか?」と質問した。
土人の名主曰く「無御左候」
559日本@名無史さん2018/09/19(水) 23:41:28.57
>>555
大庄屋は太子町周辺には置かれていないはず
それに庄屋でなく大庄屋なら必ず町の歴史に乗ってるよ
そうでなくとも、明治に区長や戸長や戸長補といったものになってるはず。 560日本@名無史さん2018/09/20(木) 00:43:44.40
何ヵ月もド過疎なのに短期間でこの賑わい。何だこのスレは!
5615382018/09/20(木) 01:13:29.33
>>559
そうなんですか… あくまで口伝なのでどこか間違って伝わっている可能性が高いですね。
謎は深まりましたけど、母方ですしここらで諦
めようかと思います。ありがとうございました。 5625382018/09/20(木) 01:23:26.38
5年間ぐらい色々やってみて思ったんですが、先祖探しって思ったより大変ですね。
親族の協力・理解はほぼ得られませんし、血縁が遠い顔も見た事もない親戚や、行ったことのないような一族の菩提寺を探して訪ねないといけませんし戸籍も直系でないと辿りづらいですし…
当時の記録を読むにしても、それなりの知識も必要になりますし。
今回皆さんにお知恵を頂いて本当に助かりました。また名無しに戻ってこのスレに参加させて頂きます。ありがとうございました。
563日本@名無史さん2018/09/20(木) 02:56:33.40
ここの人って父方母方関わらず皆何かしら先祖の言伝えがある人?
言伝え皆無でどうせ先祖は単なる百姓だろと思って調べてみたら実は庄屋だったとか戦国時代は武家だったとかそういう人いない?
564日本@名無史さん2018/09/20(木) 06:40:09.12
そんなのあるわけない。
実際そういう家は墓やら何やら必ず残ってるもん、全く風邪と共に風化してたなんてあるわけない。
565日本@名無史さん2018/09/20(木) 11:45:24.01
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
566日本@名無史さん2018/09/20(木) 20:17:22.03
>>558
江戸時代の御家人でさえも先祖探しは難航したということか 567日本@名無史さん2018/09/20(木) 20:51:53.39
御家人は八割が紀伊半島出身
伊賀、甲賀、根来、雜賀、柳生、山伏など、
紀伊山中の傭兵を稼業としていた雑民が主だからなあ
568日本@名無史さん2018/09/20(木) 20:57:34.53
>>563
オレは400年あまり前の先祖が住んでいた場所と同じところで生まれた。
墓も当時から続いている。読めないけどw
400年ほど前、その地の有力者の一人だった家に、関ヶ原で敗れたらしい武士が
帰農して婿入りしたと伝わっているらしい。お寺の話によれば。
ひい爺さんの出身地がわかれば、その程度のことはわかるはず。
ひい爺さんの妹が嫁に行った先で生まれた娘の子孫が聞きに来れば教えてあげるよ。
町村合併以前の町史や村史があれば出て来ることもあるよ。
先祖が城下町や港町にいたら、難しいかもわからんけどね。 569日本@名無史さん2018/09/20(木) 21:15:31.60
>>567
吉宗以後ならともかく、もともとは家康直臣がベースだから、三河〜駿河の東海地方東半分と甲信地方や関東の武士がメイン
五大老時代に大阪在城の期間がけっこうあったんで大坂周辺のもいるんだろうが、たいていは東海以東だろ 570日本@名無史さん2018/09/20(木) 22:23:01.69
>>569
いやいやいやいやいやいやいやいや、
下級武士以下を意味する御家人層は、
御家人の組割りでも分かるし、各譜代の下級武士の出自も甲賀がめちゃ多い
三河からの譜代武士は中上級になってる 571日本@名無史さん2018/09/20(木) 23:31:11.79
御家人って下級武士か? 中級か中の下ぐらいじゃないか?
572日本@名無史さん2018/09/21(金) 00:02:51.85
武田旧臣っつたって仕官できたのはごく一部だし信濃って芦田取り潰しで一部幕臣?
伊那だって数家だろ。後は木曽系で数家。関東の北条系なんてほとんど帰農でしょうに
573日本@名無史さん2018/09/21(金) 00:31:17.74
武田旧臣は北条に仕えたヤツも多かったんだが、北条滅亡後に徳川に仕えることになるのが多かったっぽい
あと、本能寺の変後に武田旧領を北条と徳川が侵攻してるから、このときに徳川に拾われたヤツも。特に甲斐は徳川領になったから、少なくないはず。
574日本@名無史さん2018/09/21(金) 00:38:59.80
>>573
お前妄想の嘘ばかりついてんじゃないよ
無知レベルやないか
北条滅亡後の北条貴下は大半が仕官できてない。
城主クラスでほんの数える程度のみ。
浅野家が関東の城主クラスから土豪地侍クラスまで徹底帰農を推奨する触まで出してる
後北条は城主クラスのさらに上の、各方面武士団を統括する評定衆ですら大半が帰農させられてるのに。
なんでそんな無知の癖に妄想と憶測で語ってるの? 575日本@名無史さん2018/09/21(金) 00:43:55.34
それに武田武田ゆーとるが、>>572がかなりいい線ついてる。
ものすごいわかりやすいところで、八王子千人同心も実質百章の取り扱い。
武士として取り立ててはいない。 576日本@名無史さん2018/09/21(金) 12:48:30.25
武田旧臣の幕臣って有名どころは、土屋、米倉、横田、三枝、曲渕、駒井、初鹿野、小田切、大久保、柳澤、跡部、依田、秋山、荻原、志村、小宮山、あたりかな?
577日本@名無史さん2018/09/21(金) 13:17:41.35
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
578日本@名無史さん2018/09/21(金) 15:28:27.05
>>576
真田は入らないのか?
いや、旗本でも御家人でもなく大名なのか 579日本@名無史さん2018/09/21(金) 15:37:25.58
真田信尹は旗本だね後、室賀、屋代といるが数家だね。
580日本@名無史さん2018/09/21(金) 18:00:41.87
coconalaで数千円で手軽な先祖調査をやってくれるサービス見つけたわ
先祖のことをネットで調べ尽くして情報もこれ以上なくてどん詰まり状態だからお願いしてみようと思ってる
581日本@名無史さん2018/09/21(金) 22:11:51.45
先祖探しあるある
・特定の時代の特定の地域の歴史にやけに詳しくなる
・自分と同じ苗字の高貴な人物を見つけて胸が高鳴るが調べていくうちに別人だと分かってガッカリ
582日本@名無史さん2018/09/22(土) 01:10:53.98
583日本@名無史さん2018/09/22(土) 02:10:31.37
>>580
血の繋がった人間にわからないことが、たかが数千円で他人にわかるか? 584日本@名無史さん2018/09/22(土) 04:05:41.72
じゃあ、旧北条家臣だった、水戸藩付家老の中山家(&兄の系統が旗本)なんか珍しい部類だったんだね。
585日本@名無史さん2018/09/22(土) 08:22:58.39
小田原北条氏の旧臣で旗本なんて珍しくないでしょ
伊達与兵衛とか春日佐衛門とか
でも、幕臣よりも譜代大名の家臣にやたらと多い印象
586日本@名無史さん2018/09/22(土) 10:30:41.63
上級家臣ならまだしも中下級家臣では出自の信憑性は怪しい
587日本@名無史さん2018/09/22(土) 12:29:04.16
仁杉って町奉行所与力も北条旧臣系だな
彦根井伊家重臣の宇津木とか、古河土井家の家老の潮田も
588日本@名無史さん2018/09/22(土) 12:30:27.57
上級ってたいてい三河普代とか岡崎普代、安城普代でそ?
徳川家と同程度しか信憑性のない怪しい出自の武士のほうが、むしろ多くないか?
589日本@名無史さん2018/09/22(土) 14:49:05.62
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
590日本@名無史さん2018/09/22(土) 20:50:57.85
たとえ源氏の流れであっても、帰農した時点でもはや武家ではないので庄屋とかは百姓
武家とは主君を持ち戦する者で百姓とは生き方が違う
591日本@名無史さん2018/09/23(日) 21:52:17.74
武主君のために戦うことだけが本文になった奴隷民は江戸の貧困底辺腹切りマシンの雑魚武士だけだから。
室町までの中世武家と一緒にすんな馬鹿
592日本@名無史さん2018/09/24(月) 01:25:06.54
貴族の血が流れている貧乏人家系と、水呑百姓の血しか流れていない大富豪家系だったらどっちがスゲえなってなる?
593日本@名無史さん2018/09/24(月) 09:01:58.06
>>1 養子断絶がダメってどういう意味?
養子になったが、離縁されたという意味? 母親が身ごもってたら血縁は続くが? 594日本@名無史さん2018/09/24(月) 09:03:09.77
夫婦両方が養子という意味かな?
595日本@名無史さん2018/09/24(月) 09:08:16.75
血統重視って中国人や朝鮮人みたいだなw
日本人が重視してきたのは家名ですよ。
596日本@名無史さん2018/09/24(月) 09:17:00.39
>>84 うちもそれ以前だと思うが、古事記に出て来る。神功皇后の時代にかなり活躍。
初代は、武内宿禰の子孫あたりくらいからだからもう年代なんてわけわかめ。
武内宿禰自体が200年も活躍してたし。 597日本@名無史さん2018/09/24(月) 09:38:31.58
>>596 三韓征伐が西暦200年頃(実際は120年ずれているかもとも言われている)だから1800年前の祖先の名前が古事記にも日本書紀にも出て来るから、うちの家系(氏)の祖はこの人からとしている。
その前の時代にも名前は出て来るが、具体的な働きについての記述がない。 598日本@名無史さん2018/09/24(月) 11:25:39.46
家の先祖は祖父の撃ノ信州から出て来たんだが、武内宿禰の従者で船頭だったという言い伝えがある
調べれば調べるほど、らどうやら新平民だったのは間違いないと思う
599日本@名無史さん2018/09/24(月) 11:53:54.05
>>593
もともと先祖探し関連の本スレが別にあって、
そっちとは違って血縁祖先に限定の別スレを欲しがってたてたとかだったような?
本スレが埋まりきったとき、分ける意味ないし合流しようぜと考える人が多かったからか
本スレの次をたてないまま今に至る。
つまりここはもともと隔離スレだったからルールが特殊 600日本@名無史さん2018/09/24(月) 12:27:53.32
高祖父の本籍地の隣の集落が被差別部落だったみたいだけど(ネットで見つけた古い部落名鑑の写しから判明)うちも関係あるのかな?
隣接してても全然関係ない場合も多いみたいだし
601日本@名無史さん2018/09/24(月) 13:31:57.82
602日本@名無史さん2018/09/24(月) 15:07:06.12
>>600
地域によっては、普通の村の中に一部分だけ被差別部落がある場合もあるから分からんな 603日本@名無史さん2018/09/24(月) 18:10:45.54
>>584
そこらは藩主や事情が複雑に絡み合うから短絡的に見ない方がいいとオモ
たとえば件の場合は頼房の母ちゃんの実家は元北条家臣だったよ
>>585
多いのは池田と再婚した督姫(先夫氏直)が亡き先夫の家臣の行く末を気にして
あれやこれやと旦那や大久保長安巻き込んでやってた影響もあるのだろうな
(しかし大久保長安事件でわりもくらったらしいが…)
前田も北条遺臣を囲えーと利家がやっきになってたそうな 604日本@名無史さん2018/09/24(月) 18:56:21.72
605日本@名無史さん2018/09/24(月) 18:56:58.10
>>602
被差別部落はほとんどが枝村で単独の村は珍しい 606日本@名無史さん2018/09/24(月) 19:37:56.41
>>605
大坂とかだと単独の村も多いんだけどな
まあ、地域差ってヤツだ 607日本@名無史さん2018/09/24(月) 19:46:03.12
曾祖母が中国地方の部落民だったんだけど、娘である祖母が言うには村の中にぽつんぽつんと部落民が住んでる場所があるだけだったって
608日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:07:30.37
>>605
なるほど、枝という意味ではお隣なのでそういうことなのかもしれない
一族で嫁をもらったり男子が養子にいった先にその枝が出てこないから近所でも関わりが無かったのかも 609日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:10:38.10
やっぱ大坂か。
なぜ大坂はそんな多いの?
610日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:13:22.21
611日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:17:46.41
>>603
譜代に外様事情をぶつけるお前さん嫌いじゃないw
それはともかくうちの先祖は北条遺臣で帰農したけど声がかかって
復帰したと伝わっていて甲冑とか家系図とか氏康とか氏照の花押入り
書状なんかが数通あるけど鳥取の山の方だから小田原とも遠く離れているし
絶対に嘘だーと思っていたけど可能性としてはあるかも?と思えてきた 612日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:36:52.00
>>609
部落の本場は大坂だろ?
皮革産業で富を築きあげた、一村丸ごと部落の有名な村とかも大坂にはあるんだぞ 613日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:39:45.02
それは知ってる。有名だもんな。
ただ、なんで大坂、播磨周辺あんな多いのかなと。
614日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:53:19.51
>>612
普通の百姓の村の支配を受ける場合がほとんど
穢多身分は普通の百姓村の庄屋の支配で検地、人別帳も庄屋が管理
摂津渡辺村とか少数例 615日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:56:06.57
江戸時代全体の平均だと部落民の人口増加率は日本全体の人口増加率を上回っていたみたいだし、その中でも特に経済的に有利だったっぽい大坂の部落は人口が増えたとかじゃないのかな
他の地域だと、部落民以外が手出しできない生業の関係上、近場に部落がないことで生活が不便だからってんで部落を呼び込んだ地域も(特に関東などでは)少なくないらしいけど、
大坂では部落が足りなくて不便な地域って聞かないし、元から多かったんだろうけどな
616日本@名無史さん2018/09/24(月) 20:57:57.57
>>614
大坂周辺だと、庄屋も含めて部落の一部になってるトコもあるぞ
もちろん庄屋は庶民じゃないけど、外の村を治めてない部落専業の庄屋な 617日本@名無史さん2018/09/24(月) 21:32:32.86
関東にも武蔵国足立郡前野宿村という一村立の部落があるが、
これは例外中の例外
部落と言えば上野国の部落の穢多身分の者達が苗字を名乗った事を本村の名主らに幕に訴えた事件もあった
下層身分の者も苗字を名乗っていた実態が知れる
618日本@名無史さん2018/09/24(月) 21:44:39.24
619日本@名無史さん2018/09/24(月) 22:17:29.00
先祖が諸大名家の藩士とか名主庄屋等の村役人層で戦国時代は土豪だったとか言うパターンが多い中、先祖を調べたら部落だったってのは新鮮だなぁ
部落だからって甘く見ちゃいけないよな
その辺の士族に負けないくらいの由緒ある部落もけっこうあるようだし
俺の知ってる範疇だけど、福岡の由緒ある部落の苗字は公家にもある苗字で菅公の従者で太宰府まで来た者の子孫を自称してる
真相はどうあれ藩主黒田家にその由緒書きを提出して権益を認められていたし、大分には頑なに秦姓を名乗り続けている部落も多く江戸時代にわざわざ禁裏小法師の役を買って都へ登った者もいる
620日本@名無史さん2018/09/24(月) 22:25:20.46
>>544
さすがに天武天皇までは難しいと思う
しかし清原氏の子孫って残ってたんだな 621日本@名無史さん2018/09/24(月) 22:30:30.81
天武系の皇統は絶えたのにな、今の皇統は天智系だし
622日本@名無史さん2018/09/24(月) 23:41:51.72
皇統としては絶えたけど天武天皇の子孫がいなくなったわけではないよ
623日本@名無史さん2018/09/25(火) 01:21:03.23
>>619
静岡市は城近くに本屋敷をもらっていて待遇は旗本レベルの
被差別部落が存在していた
技術を流失させないためにあえて身分を落とし被差別部落という
形にしていた模様
被差別部落といってもきちんと調べれば差別どころか裕福な生活を
おくっていたのもいたんだよ、実際は… 624日本@名無史さん2018/09/25(火) 01:53:16.42
というか静岡県は全体的に一部を除き被差別部落とかに対する
差別や偏見などがあまり見受けらえないしいちいち部落がーと
騒ぐこともあんまりなくて温和なエリア
騒いでいるのは利権絡む連中ぐらい
だからもし先祖探しで被差別部落と近くてもそれが静岡県の場合は
あまり気にしなくてもいいんじゃないかなあ
ただ半島系とかは論外だけどね
625日本@名無史さん2018/09/25(火) 06:30:03.06
大井新右衛門尉【おおいしんえもんのじょう(15??〜15??)】
駿河国駿府の商人。皮革職人頭。
今川氏規より皮革職人頭に任じられ、今川氏規領の皮革職人たちの統括を行なった。
1526年、今川氏親より、駿府の屋敷の安堵状を受けた。
大井輝次【おおいてるつぐ(15??〜15??)】
大井新右衛門尉の男。
1544年、連雀商人たちが今川領内から皮革を持ち出すことを防止するため、荷改めの権限を与えられた。
1559年、今川義元の意向を受け二年分の皮革調達を行った。
大井輝次は今川義元から皮革職人、商人頭として特権を与えられたことで、
重要な戦略物資である皮革の流通統制とその調達の役割を果たした。
626日本@名無史さん2018/09/25(火) 07:00:47.97
式下郡五伝村の起源を伝える確かな史料はこれまでのところ一切見つかっていない。
ただ、江戸時代になって新たに作られた部落でないことは、
磯城郡三宅町大字上但馬の共同墓地の無縁塚に室町時代の五輪塔や戦国時代末期の舟形五輪塔が多数残されていること、
元和元年(1615)に三河国刈谷(現愛知県)から郡山城に入った水野勝成の時に初めて設定された郡山藩皮多高が
120石九升五合設定されていることを見れば明らかであり、五伝村の集落形成の時期は戦国時代以前に求めなければならない。
627日本@名無史さん2018/09/25(火) 10:51:05.63
>>624
静岡は本来部落扱いになるような人達がお茶の輸送に従事したため部落化しなかったケースが多い 628日本@名無史さん2018/09/25(火) 11:45:15.62
話ぶったぎって申し訳ないけど、栃木か茨城周辺の家で元々武士だったという(江戸時代なのかは不明)俺の親戚の家の敷地内に八幡太郎の石碑?か御神体的なやつがあるらしいんだけど、誰がいつ何の為に作ったのか、全く検討もつかないらしいとのこと。
誰かわかる人いたりします…?
629日本@名無史さん2018/09/25(火) 12:01:30.94
>>624
全般的に、関東周辺では部落はあるが差別意識がないか低いらしい
部落差別が厳しいのは主に関西や中国地方など西日本 630日本@名無史さん2018/09/25(火) 12:03:37.83
>>628
栃木で八幡太郎っつうなら足利氏関係かな? 631日本@名無史さん2018/09/25(火) 12:09:17.61
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
632日本@名無史さん2018/09/25(火) 16:47:07.66
儀兵衛と善兵衛って同じ読みできる?
普通ならぎへえとぜんべえだと思うんだが、どっちも「よしべえ」って読むことできる?
江戸時代の先祖なんだけど、過去帳は儀兵衛なのに墓には善兵衛って刻まれてるから、ほんとに同一人物なのか不安
633日本@名無史さん2018/09/25(火) 17:48:52.92
>>630
やっぱ足利周りですかね
ありがとうございます 634日本@名無史さん2018/09/25(火) 18:14:21.85
635日本@名無史さん2018/09/25(火) 18:17:18.69
そういや自分の先祖も過去帳や位牌には「惣兵衛」ってあるのに地域の神社の古文書には「宗兵衛」って書かれてたな
驚いて調べてみると同一人物だった
636日本@名無史さん2018/09/25(火) 19:53:35.80
>>619 秦姓は部落とは無関係だろ。 むしろエリートの頂点だぞ。
大分は、宇佐神宮が有り八幡さまの総本山だぞ。
朝鮮からの技術者が多く移り住んだ土地でもあったから、奈良の大仏建立にもここの技術者たちが招かれてようやくできた。
うちの祖先もかなり関係があるが、大友氏の神社仏閣打ちこわし政策でやられた。 637日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:04:33.07
>>544 そりゃ血が途絶えなければ残るよ。 それに昔は血が繋がっていなくても家は継続してたし。
うちも1000年前までは全ての直系の人の系図が残ってる。 その前は氏(その土地に住んでた)だから個人の足跡は定かではない。 数代飛び飛びの記述しかない。
しかし、その氏の本貫に住むのはうちの家系のみだった。
副将軍が自分の知る限り二人出ている。
日本書紀や古事記を辿ると、孝元天皇にたどり着く様だが。 638日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:14:17.84
>>635 うちの祖先もそうだよ。
史書には別の漢字で書かれたものがいくつかある。
多分昔(1000年以上昔)は、漢字が表音文字との分化が曖昧だったのではないかと思う。
或いは書き間違いというのも沢山有ったのかもしれない。 639日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:22:32.38
>>638 古事記と日本書紀で人名が全く別の漢字になってるのが沢山ある。 640日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:45:06.94
清原氏って源平藤橘と比べるとあまりぱっとしないな、でも自分からしたら天武天皇(清原氏)の子孫って羨ましいw
641日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:51:32.41
>>638
そんなに古く遡らなくとも中世でも音通なら違う字を使うのは結構あるよ 642日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:55:43.03
643日本@名無史さん2018/09/25(火) 21:50:30.62
中世どころか近世でも、重要なのは発音の方で文字表記に当て字を使う例は多かったのでは
本人は正しく使っててもまわりの人は平気で当て字を使う、みたいな感じだったのかも?
644日本@名無史さん2018/09/25(火) 21:59:05.85
>>636
宇佐八幡は関係ない豊後地方の事実として大分市のトンネルの上の有名部落とか豊後大野市や国東の数ヶ所に秦さんの部落あるよ
宇佐八幡の関係では豊前長洲の皮細工山崎氏が有名で宇佐八幡の神職も兼ねた
>>640
大分だと玖珠郡の国人・武士達が清原姓を名乗ってる
穴井氏、魚返氏、高橋氏、小幡氏、帆足氏とか 645日本@名無史さん2018/09/25(火) 22:04:36.27
>>636
豊後府内藩の穢多頭の秦氏が祭る神は宿神だよ
八幡とかどうでもいい 646日本@名無史さん2018/09/25(火) 22:16:06.52
大分に県外の人が来る機会はあまりないと思うけど、大分空港を利用するならぜひとも見てほしいものがある
岩国上空で降下始めて北から空港に着陸する場合は向かって左側の座席から着陸直前に見える海岸沿いの部落
南から進入する場合は見れないから、空港に着いてからレンタカーでも借りて見に行ってほしい
そこは秦さんばかりの歴史ある部落
江戸中期に備前浪人で剣術の達人がその部落に流れ着き、九州全域と四国や大阪からも穢多身分の者が入門した
今でも入門帳が残されているが、大阪の入門者は荒川姓、佐賀は小川とかなり今とつながる
647日本@名無史さん2018/09/25(火) 22:18:10.66
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
648日本@名無史さん2018/09/25(火) 22:20:43.60
とりあえず大分民からのささやかな情報提供です
豊前は、どちらかと言うと北九州市の小倉藩がメインで、ここは部落のメッカだから大分とはまた事情まるで違うと思う
ほとんどが苗字は部落の地名そのままだからな
649日本@名無史さん2018/09/25(火) 23:24:37.89
>>629
西日本は確かにすごいよなあ
西出身の友人が団地エリアみてもしかしてそういうエリア?と
訊いてきた時はびっくらこえたわ 650日本@名無史さん2018/09/26(水) 00:00:09.40
>>640
清原氏で著名な人物といったら清少納言? 651日本@名無史さん2018/09/26(水) 00:03:34.11
秦姓の人って絶対に渡来人の子孫なん?
652日本@名無史さん2018/09/26(水) 00:21:43.75
653日本@名無史さん2018/09/26(水) 00:24:00.21
>>651
そういう事ではない
単に秦を苗字として名乗っているだけ
九州に多いのはそれなりに理由があるような気がするが 654日本@名無史さん2018/09/26(水) 01:05:02.79
秦氏の秦は氏族名だから秦という名字の秦氏はいない
名字が秦であればほぼ間違いなく血縁関係のない他人が後世に名乗ったもの
655日本@名無史さん2018/09/26(水) 01:10:38.54
大分豊後の穢多頭であった秦惣兵衛が剣術道場を開き、
全国から部落の「牢守」などを集めて武道の訓練を行っていたことがわかっている。
656日本@名無史さん2018/09/26(水) 01:29:37.60
歌舞伎役者の七代目松本幸四郎の生家も秦なんだよな
市川海老蔵や松たか子の曽祖父に当たる
この人の血を受け継いでるから成田屋も高麗屋も美形揃い
657日本@名無史さん2018/09/26(水) 01:33:29.71
漢字違いの話が出てたけど、うちの家は昭和でもそれあるよ。
戸籍と仏壇の過去帳を比べたら、
祖父の兄(明治生まれ、大正没)は戸籍が二なのに仏壇は仁。
さらに姉(昭和20年没)は戸籍は平仮名で仏壇がカタカナ。さらに、過去帳に書いてある没年が何故か2歳違う。
末弟が一番謎で、戸籍は繁吉なのに仏壇が繁一。1930年代の話。
過去帳は筆跡から見るに、家族が書いたのではなさそうだが、いくら坊さんが書いたからって、娘や息子の年齢や漢字を派手に間違われたら普通訂正するよな?w
658日本@名無史さん2018/09/26(水) 01:34:21.86
あ、2歳違うのは命日じゃなくて没年齢のことね。
659日本@名無史さん2018/09/26(水) 02:49:06.21
そこまで違うならわざとじゃない?
真名を知られると支配されるとかで役所にはわざと変えて届ける
亡くなればもう心配いらないから寺には本名を教える
660日本@名無史さん2018/09/26(水) 02:56:43.89
>>653
秦氏を騙ったというわけではなく
秦氏ゆかりの土地が秦という名前になり
その土地出身という事で秦姓を名乗ってるのだろうから
九州に秦という土地が多かったという事だね 661日本@名無史さん2018/09/26(水) 03:18:34.60
秦と言えば大久保長安も秦氏と言われてる
ということは大蔵流も秦氏の流れくんでいたのだろうか…
662日本@名無史さん2018/09/26(水) 14:41:47.85
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
663日本@名無史さん2018/09/26(水) 18:33:53.78
>>659
そんな習慣実在するの?
仮にそうだったとして、死ななかったらどうやって生きていくの? 664日本@名無史さん2018/09/26(水) 20:28:07.63
>>663
洞窟に入って死ぬまでお経を唱える→ミイラ仏になる 665日本@名無史さん2018/09/26(水) 20:59:02.23
18点くらいのボケだな。
666日本@名無史さん2018/09/26(水) 21:34:10.93
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
667日本@名無史さん2018/09/27(木) 03:13:07.66
>>663
役所に届けた方の名前で生きていくんだから苦労は無いよ 668日本@名無史さん2018/09/27(木) 03:56:06.25
どういうこと?本人すら本当の名前や生年月日知らないってこと?
669日本@名無史さん2018/09/27(木) 13:46:13.79
親が本人に嘘を教えるならそうなる
670日本@名無史さん2018/09/27(木) 18:47:04.79
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
671日本@名無史さん2018/09/30(日) 01:15:59.62
>>643 それは大いにあるだろうね。
>>644 それはもしかして部落の意味が違っていない?
部落と言っても使い方に2種類あって、
一つはエタヒニンが住んでた差別社会の部落。
もう一つは村の中の集まり、単なる集落としての部落。
自分も九州に住んでいたことが有るが、後者の意味の部落という意味で使ってた。
>>619 は多分九州に住んでいないで、部落の意味を差別社会の部落と思ってたら、九州で部落出身なのにえらくなってる人がいるのに驚いたんだろ。
だから部落の意味が違うことに気がついていない。 672日本@名無史さん2018/09/30(日) 01:26:42.68
>>657 昔は縁起を担いで自分の名前を度々変更することをよくしてた。
俺の母親も、漢字、ひらがな、カタカナと書き方を度々変えてた。
だからその昔は、縁起を担いで漢字でも別の近くの漢字を使うとかしてても不思議ではない。
場合によっては、氏(うじ)の漢字すら変えることもあった。 うちの祖先がそうで、同じ人物なのに古事記と日本書紀で氏の漢字が書き換えられてる。 673日本@名無史さん2018/09/30(日) 16:39:17.49
674日本@名無史さん2018/09/30(日) 16:42:06.91
675日本@名無史さん2018/09/30(日) 17:09:08.12
>>672
だけど、繁吉さんは生後2日で死んでるよ?それでもありえる?
あとは年齢違いの矛盾に説明が付かない... 676日本@名無史さん2018/09/30(日) 17:44:43.39
>>675
年齢の違いは、昔は数え年だからじゃないのか?
俺の祖父も61歳で亡くなったが、墓には63才と刻んである 677日本@名無史さん2018/09/30(日) 18:49:58.95
さすがにそれぐらいは知識あるわw
1910〜1945の人の過去帳が33歳、
1912〜1922の人が10歳、1897〜1987の人が92歳、どう考えてもおかしい。
678日本@名無史さん2018/09/30(日) 19:33:42.69
1912年生まれで1922年没、満年齢ならありうる数値(誕生日前かどうかで違うけど)
1897年生まれ1987年没、数え年令なら当然
なんだが問題は、1910年生まれ1945年没で享年33歳って人か。どうしても合わないな
どれかの数字が誤ってるが、どれが誤ってるかを確認できん
1945年ってのだけは他の数字より信頼性が高い可能性が高いが、死亡状況によってはそれも……
679日本@名無史さん2018/10/01(月) 00:05:33.99
1897〜1987なら数えは91でしょ?
680日本@名無史さん2018/10/01(月) 00:17:55.78
>>679
生まれたとき1歳で、年明けると2歳になる。
12月30日生まれの人なら、生後2日目にはもう2歳になるんだよ
だから死んだ日が早ければ2歳分の違いが出るんじゃね? 681日本@名無史さん2018/10/01(月) 00:32:20.69
出んよw
やってみたらわかるけど、生没年それぞれどんな日付でも、没年−生年+1が数え年になる。
682日本@名無史さん2018/10/01(月) 03:17:44.92
>>675
それならやっぱり役所に嘘の生年月日と名前を届けたんだと思うよ
迷信深い一族だったんだろうね 683日本@名無史さん2018/10/01(月) 03:20:18.90
684日本@名無史さん2018/10/01(月) 15:19:22.70
>>682
でも、妊娠期間考えたら過去帳の日だと辻褄合わないよ? 685日本@名無史さん2018/10/01(月) 15:19:47.73
686日本@名無史さん2018/10/01(月) 16:05:05.62
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
687日本@名無史さん2018/10/01(月) 16:10:53.54
(え? 炊飯器のコピペ貼ってる人って自称京大卒なんだ、どうしてこんな風になったの?
`ー‐―V―――――――――――――――――――――――――――――――――――
;:'´ (23andMeで遺伝子検査したら自分の出自が判明しちゃったらしいよ。
_....._{{ 〃`ー―――――V―――――――――――――――――――――――――――――――――――
, - ' ,..、、.ヾ{{フ'⌒`ヽ、 (なるほど、だから先祖を憎んでるんだ。
/ ,:', -‐‐` ´ '´⌒ヽ ヾ:、 _....、、、、`ー――――V―――――――――――‐――――――――――――――――――
. ,' ,'´ ,ィ ,ィ ,' , `ヽ', ',-<´ , `ヽ. ______ ..._
,' .i /|. /.| { i, i, }. }_,,)) lニ二二ミヽ.、 ':, ,.: '´ ,_.....__`ヽ、 ,..-‐-、),...._
! | ! .,'-.{ ! !|; |`、.}゙!.! |. ! ヽ.l ./ ,! ,,`ヾ:、 ':, ./'´ ̄`ヾ、、ヽ,.:'´ ,:‐:、 ,.-、 ヽ.
', ', |Vァ=、゙、 `゙、!-_:ト,リ', l ! | ゙レ__,〃_/リ !.'; .} ./l_|___ノ! l `、 ', / //`''} }.'; ',
ヽ、', l:!Kノ}. f:_.)i゙i: リ ! l ル' ̄`` ´-、,ノノ l l .!,;:=、`:.`:>=、.j,} |__人(( _ノノノ |
| l!iヾ- ' , .!__:ノ ゙ ,リ l リ'´ .|' ̄ヽ __ `><ノ | {;:'ノ ノtrテ;、.Y ! ,--、 __`彡 ノ
. ',|!!、 r‐┐ ` ノ' /,イ ! __ , ⌒'/!| | !.`ー‐'´, ゙じ' ノ ! h. ._: ´ ソ).(
'i!゙、ヽ、 ゙ー' _, ィ,:',:''´ ! !、 ー' ノイ ! | | !、 !フ `フ'リ ! ル'ヽ.._ _..、(ン ノ )
゙:、ィ、jヾー::: 'iヘ ノ',リ./! .| |ー`┬、' ´ 〃 l. トヾ、.゙`ィ'' ´ヽ、/// \二|`\ー‐‐'´
,、- '´ ヽ、゙、 { `>"、 ! ! ! | `>-、 | |、 ________∧__________________
/\\ ', } //`ヽ| ',.!゙、 !// ゙!/ ! (哀れだよね、本当に哀れな人だよね。
688日本@名無史さん2018/10/01(月) 18:31:33.13
689日本@名無史さん2018/10/01(月) 21:47:46.06
690日本@名無史さん2018/10/01(月) 22:43:59.64
1922年に数え年10歳で死んだ人と、1945年に数え年33歳で死んだ人が兄弟なのはあり得ない。
双子になってしまう。
691日本@名無史さん2018/10/01(月) 23:52:17.85
いちおう理論上は不可能じゃないぞ
産後の状況によっては出産から二ヶ月以下で次の排卵が始まることはあるから、1月初頭に産んで3月初頭の排卵でいきなり妊娠したら12月末には生まれる可能性がある
妊娠期間10ヶ月ってのは、受精直前の最後の生理の時から数えて10ヶ月で、実際の妊娠期間は9ヶ月半が基準だからな。
692日本@名無史さん2018/10/02(火) 10:46:19.38
693日本@名無史さん2018/10/02(火) 14:54:35.42
年子じゃなく双子の計算になってしまう。
戸籍を見ると、大家族なもんで、二人の間にいとこが記載されてる。
双子ならありえない。
694日本@名無史さん2018/10/02(火) 18:33:11.14
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
695日本@名無史さん2018/10/02(火) 19:31:24.10
庶子じゃないの?
696日本@名無史さん2018/10/02(火) 19:56:56.28
それはないなぁ。本題とはずれるけど、うちの曾祖父はよそから出稼ぎに来て曾祖母と子供が出来たのよ。
本家からは長男だからよその土地に行くなと反発があってしばらく結婚できなかったから、件の二人の子供は曾祖母が実家で育てたの。
だから、初めは曾祖母の親父の戸籍に父親空欄で入籍してる。届け出も曾祖母自身がやってる。だから母親が同じなのは間違いない。
で、3番目である私の祖父が生まれた際、出生届と一緒に婚姻届が出された。同時に、婚前に生まれた二人の認知がされ、新たに作られた曾祖父の籍に入籍した。
その歳に写し間違い無いかと確認したが、しっかり同じ生年月日だったよ。
元の戸籍は身分登記簿から転載されたものだから、もしミスがあるならそこかな。
697sage2018/10/03(水) 16:04:39.38
>>696
お兄さんの方の享年が認知された時からの年数を書いたのでは? 698日本@名無史さん2018/10/03(水) 16:49:19.67
認知されたのは1918年だから、益々合わないなぁ・・)
699日本@名無史さん2018/10/03(水) 17:00:42.92
もしかして
双子の片方を殺す習慣から逃れる為に年子と偽って育ててたんじゃないか?
700日本@名無史さん2018/10/03(水) 17:41:11.30
年子じゃなくて、戸籍上は2歳差だよ。誕生日もバラバラ。
701日本@名無史さん2018/10/03(水) 17:53:22.20
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
702日本@名無史さん2018/10/03(水) 17:55:31.98
じゃあ
双子の片方を殺す習慣から逃れる為に2歳差と偽って育ててたんじゃないか?
703日本@名無史さん2018/10/03(水) 19:02:02.42
でも、大正2年に生まれた双子を明治43年と明治45年に届けるなんて不可能でしょ?
とにかく矛盾だらけ。
704日本@名無史さん2018/10/03(水) 19:06:41.01
>>703
じゃあもう・・・草として潜入した帝政ロシアの密偵が作った偽装戸籍ってことでいいんじゃね? 705日本@名無史さん2018/10/03(水) 20:40:12.59
自分の高祖父(文久3年生まれ)は庶子が8人いた。
全員他家に養子に出されたけど。
706日本@名無史さん2018/10/03(水) 20:44:07.30
庶子って認知されない限りは父親側の戸籍ではわからないよね?
707日本@名無史さん2018/10/03(水) 20:49:14.17
しかし8人はスゴい。相当な艶腹家か、金持ちか、だろうなぁ。
708日本@名無史さん2018/10/03(水) 21:13:00.71
あれ?庶子は認知されて初めて庶子になるのか。
じゃぁ、認知されていない婚外子は何て呼ばれたの?
証人が皆死んだからよく知らないんだけど、曾祖父には曾祖母以外の女性との間に出来た子供がいた疑惑があるの。認知はしていないんだけど、探す方法ある?
709日本@名無史さん2018/10/03(水) 23:30:49.81
>>705
ちなみに高祖父の嫡出子は早世した1人を含め5人、非嫡出子が8人だから計13人も子ども作ったことになる。 710日本@名無史さん2018/10/03(水) 23:34:10.94
時代的に、13人くらいなら驚かないなぁ。嫡出より庶子が多いことにビックリだわw
711日本@名無史さん2018/10/03(水) 23:41:58.49
俺の祖父は11人兄弟だったよ
半分くらいは0歳で亡くなってるんだけどね
712日本@名無史さん2018/10/04(木) 00:08:45.90
曾祖母は13歳のときから10人子供を産んだ
うち4人くらいは乳児期か成人前に亡くなっている
713日本@名無史さん2018/10/04(木) 00:20:06.62
同一の夫婦による子供の数ってギネスとかに統計あんのかな?
腹違い認めてしまうと男が元気な限り無限に可能だけど。
714日本@名無史さん2018/10/04(木) 00:26:55.58
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
715日本@名無史さん2018/10/04(木) 00:35:22.17
>>713
マリアテレジアの18人でも世界ランキングに乗れないレベル 716日本@名無史さん2018/10/04(木) 00:49:17.55
>>715
正式にギネスにも項目ある??
あと、昔の戸籍に「○月×日 嫡出子タル身分取得」って見つけたんだけど、これ何だろう?
ちなみに、両親の婚姻後に生まれており、出生の届け出は父親。 717日本@名無史さん2018/10/04(木) 01:05:00.97
>>715
細かいけどマリア・テレジアは16人ね。 718日本@名無史さん2018/10/04(木) 02:50:18.31
血統を辿るのは無理だろう。
家系図や戸籍に実子とあっても実際はわからないし。
719日本@名無史さん2018/10/04(木) 03:09:49.53
系図上の先祖が藩士でも実際は金払って成り上がった下級足軽の息子を養子に貰っていましたなんてこともあるかもな
720日本@名無史さん2018/10/04(木) 09:38:25.73
721日本@名無史さん2018/10/04(木) 12:03:04.76
遼河のあたりって竜より鳥信仰じゃないの?竜神信仰って南方的要素のような
722日本@名無史さん2018/10/04(木) 14:26:47.39
723日本@名無史さん2018/10/04(木) 15:18:13.79
>>721
ナマズをモチーフにした北方の竜信仰とワニ、蛇をモチーフにした南方の龍信仰が
あとから融合したんだよ 724日本@名無史さん2018/10/04(木) 23:23:53.29
史記を見るかぎり、戦国時代から前漢ごろの時代でも南方の竜は蛇ベースだが
女媧とか、ファンタジーのラミアみたいな造形だぞ
725日本@名無史さん2018/10/05(金) 06:55:50.75
>>709
個人的な質問で悪いけど、今いくつ?
多分ないと思うけど、高祖父に会ったことある? 726日本@名無史さん2018/10/05(金) 09:22:47.80
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
727日本@名無史さん2018/10/05(金) 12:20:07.27
>>725
そもそも、高祖父(祖父の祖父)に、夢の中とか三途の川のほとりとか以外で本当に会ったことがある人って、日本中探しても少ししかいない気がする
非常に難しいことだよなあ、年齢的に。 728日本@名無史さん2018/10/05(金) 14:21:13.26
高祖父なんて夢にも出てこねーよ
729日本@名無史さん2018/10/05(金) 14:30:16.15
>>725
高祖父(1863〜1946)
曾祖父(1884〜1963)
祖父(1912〜2001)
父(1961〜)
高祖父は自分の生まれる半世紀前に亡くなっている。というわけで、高祖父どころか祖父でさえ子供の頃に亡くなったので、もちろん会ったことはありませんw 730日本@名無史さん2018/10/05(金) 18:10:07.45
自分の高祖父とか1886年に死んでるわw
731日本@名無史さん2018/10/05(金) 18:11:27.04
戸籍調べるまで曾祖父母の名前すら知らんかった
732日本@名無史さん2018/10/05(金) 19:38:37.97
俺のいとこの子供は高祖父に会ってるよ。もちろん今も生きてる
俺にとっては曽祖父。
733日本@名無史さん2018/10/05(金) 20:12:27.57
ちなみに、イトコの子は今10歳くらい
高祖父は来年99になる
田舎だからか、5世代で同居してるよ
734日本@名無史さん2018/10/05(金) 20:12:37.03
ここの人何歳なの?
私は29だけど周りの先祖探ししている人は30代以上の人が大部分
10代20代の人は先祖に興味がない人多いのかわからんが少ない
735日本@名無史さん2018/10/05(金) 20:15:11.08
18歳から調べ始めて、今21歳です
確かに友達で先祖に興味あるやつ見たことないな
736日本@名無史さん2018/10/05(金) 22:00:22.84
>>735
18から調べ始めたのか・・・そんな若い時から偉いな。
私はもっと年くってから調べ始めたから昔のことを知る高齢の親戚は亡くなってて話も聞けなくて結構調査難航してる
若いうちから思い立ったらすぐに取り掛かるのって大切なことですね 737日本@名無史さん2018/10/05(金) 23:38:55.87
>>736
曽祖父の妹が生きていたので助かりました
祖父は亡くなっていて祖母も両親も先祖のことなんにも知らなかったのでw 738日本@名無史さん2018/10/06(土) 00:42:23.89
うちは男全員、孫が生まれる前か生まれてても物心つく前に死んでるから、曾祖父ですら物凄く昔の感覚だわ。
739日本@名無史さん2018/10/06(土) 02:21:11.23
戸籍見てたら曾祖母の妹が、大正12年に北海道の三菱芦別炭坑社宅において死亡という記載があった。
家は宮城県なんだが、出稼ぎに行った夫についてったのかな
大正のころの炭鉱って罪人とかが働かされてるイメージなんだが。
そもそも社宅で死亡って…死因が知りたい
740日本@名無史さん2018/10/06(土) 02:29:15.42
時代的にも場所的にも労咳なんじゃない?
741日本@名無史さん2018/10/06(土) 07:32:28.92
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 742日本@名無史さん2018/10/06(土) 08:54:19.19
>>739
番地じゃなく建物名が書いてあるの?珍しいな。
昔は病院じゃなく自宅で死ぬことが多かったから、別に珍しくは無いよ。 743日本@名無史さん2018/10/06(土) 10:59:34.42
本家が鎌倉末に建てた菩提寺の謂れに坂東平氏流れとあるから桓武天皇まで繋がったという事で良いかな。
今は東北の単なるそこら農家だが。
744日本@名無史さん2018/10/06(土) 15:18:22.88
>>743
寺や旧家の伝承なんて話大きくなって当たり前だろ
一族の歴史、その地域の歴史を幅広く深く掘り起こしてみてから自分で判断してくれ
何も見つからない可能性が高いと思うけどね 745日本@名無史さん2018/10/06(土) 20:14:32.76
総本家が分かってる東日本の農家なら大概坂東武者が名字の祖先でしょ。
逆に明治に名字もわからなくった流れ者はそれまで。
746日本@名無史さん2018/10/07(日) 22:36:38.37
747日本@名無史さん2018/10/08(月) 02:02:23.47
割合最近まで、江戸時代に家が何してたかよく知らなくて聞いたら「宮司」って聞かされて
調べたら本当だった。ていうか神仏習合の別当寺だった。
ルーツは武家って事になっていて、幾つか言い伝えもあるけど
本当のところは分からない
748日本@名無史さん2018/10/08(月) 02:07:59.07
749日本@名無史さん2018/10/08(月) 08:28:58.13
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
bソなみに、スキbニいう耕作用農給�ェ伝わったのbヘ、最古水田かb200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
750日本@名無史さん2018/10/08(月) 08:47:02.82
>>747
名字を名乗ったのはほぼ鎌倉以降の分割相続や開発領主の武家だから日本人ほとんど源平藤が先祖ということ。
名字を受け継がず明治に名乗った先祖だけがどこの馬の骨、というだけ。 751日本@名無史さん2018/10/08(月) 12:01:10.95
>>747
宮司をやるような人って、当時だと、庄屋とか村形三役とかと同レベルの有力者だけだよ 752日本@名無史さん2018/10/08(月) 20:23:40.34
>>751
やっていたのは明治までなんだけど
いつ頃からやっていたか、古くて分からないんだよね。
県史には「法印○○(うちの名字)氏が永い間、宮司を務めた」と書いてあったけど 753日本@名無史さん2018/10/08(月) 20:42:53.49
明治以後は神社の位置づけが変わったけど江戸時代までは宗教としての自立度が低いから庄屋クラスの財力がないと宮司として生きていけないから
宮司を兼業してた法印○○氏の本業の寺がかなり力を持ってたんなら寺関係だけで生活できただろうけどさ、
その寺の中で有力な地位に就けるのは有力者の血縁だけだし。(庶民では出世できないから)
754日本@名無史さん2018/10/09(火) 00:45:26.65
やっていた寺は修験で
調べると、霞(カスミ)と呼ばれる縄張り、受け持ち区域があったらしいのです。
A寺は村1ヶ所、B寺は村4ヶ所、C寺は村15ヶ所というように定められていたらしいです。
うちがやっていた寺は村13ヶ所を受け持っていたみたいで、ある程度余裕があっから神社の方もやっていたのかも
>>753さんのレスを読んでちょっと見えたというか、ありがとうございます。
因みに最近、家に置いてある御神体を引っ張り出して見たら「神祇伯 資敬王」の署名がありました。
家族が「皇族じゃないのか」なんて言ってましたが、さすがに違いました。 755日本@名無史さん2018/10/09(火) 02:01:46.76
神祇伯を世襲してる皇族「伯王家」から授かった神体なのでしょう
「神祇伯 資敬王」は江戸時代後半、19世紀前半頃の神祇伯ですね
756日本@名無史さん2018/10/09(火) 02:50:44.19
>>754
修験なら本来的に神仏習合なので寺と神社は一体だったと思うな 757日本@名無史さん2018/10/09(火) 09:06:26.82
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
758日本@名無史さん2018/10/09(火) 18:40:31.18
>>755
細かいけど伯王家は皇族ではなく、もともと源氏の流れを汲む神祇伯を世襲する公家。「王」を称してるから間違えやすいけど、皇族以外で王号を許された唯一の例。
江戸時代ともなると伯王家の神道勢力は衰えて、神祇大副を世襲する吉田家(吉田神道)に取って代わられる。 759日本@名無史さん2018/10/09(火) 19:23:44.95
>>758
あー、すまん。伯王家になる前に何代か源姓の時期があるね
花山天皇の子孫だっけ、三十代以上さかのぼらないと天皇まで届かないぐらい遠縁だけど、皇別氏族だね
伯王家の権威が衰えて吉田家が台頭したのは室町時代中期から戦国時代にかけてぐらいであって、江戸時代はその延長に過ぎないのでは。
応仁の乱後、戦国時代になるまでの間ぐらいの時期に急成長して(つか、実質的には新興宗教を開いたような感じだが)神道界を牛耳るほどになってたような。
伊勢神宮を含むいくつかの有力神社が抵抗してたけど、吉田神道の影響から逃れることができた程度で世間での吉田神道の隆盛をとどめることができてないしな 760日本@名無史さん2018/10/10(水) 00:15:11.31
Y-DNAには形態は無関係とかいうが馬鹿にできんぞ。
去年爺さんが死んだが、葬式に来ていたじいさんのいとこってのは爺さんによく似ていて、
爺さんの男兄弟、彼らの息子たちもよく似ている。
「爺さんのいとこ」の母が我が家の出身で、うちは彼にとって母の実家にあたる。
母親がわりと早くに死んで、孫が不憫に思った婆さんがよく面倒を見たらしい。
うちの爺さんと年が近くよく遊びに来ていて中がよかったらしい。大人になっても仲がいい。
彼らの共通先祖は江戸末期にいた、じいさんのじいさん(高祖父)なんだよな。
いとこはY-DNAは違うと思うんだけど、よく似ている。
もしかして親戚に嫁に行ったのか?
761日本@名無史さん2018/10/10(水) 01:09:07.72
俺も爺さんのいとこを知ってるが、雰囲気よく似てたわ。
うちの家系は、俺-親父-祖父-曾祖父とみんな頭の形がそっくり。髪型ではなく、骨から。あと、全員に会ったことある人に言わせれば全員声が似とるらしい。
高祖父は明治に亡くなっとるので誰も顔や声を知らんし写真も残ってないが、多分似てるんだろうなぁと思いを馳せる。
あと、俺と祖父は学業は優秀で友達も多いが真っ直ぐ過ぎてビジネスじみた付き合いが苦手、欲も無いが金も無いタイプ、親父と祖父は厳格で無趣味だが出世して金も貯めるタイプ。
不思議なことに何故か交代交代になっている。だから俺はこの法則を信じて、子どもに養ってもらう計画を今から立てているw
762日本@名無史さん2018/10/10(水) 01:28:05.43
>>760
男であっても姿かたちに関する遺伝は常染色体(XやY以外の染色体)上の遺伝子で伝わるし 763日本@名無史さん2018/10/10(水) 01:49:53.77
>>761
俺も父や祖父に似てるんだが、母方の祖父に似てる人ってあんまり聞かないがどうなんだろうね
曾祖父も1人につき4人いるわけだし 764日本@名無史さん2018/10/10(水) 03:01:58.60
>>763
似てるってのはどのレベルで?
俺、父方とは前述の通りだけど、首から下は完全に母方の祖父だよ。
父方は男子でも40kg台、母方は骨太筋肉質+やや肥満。父は43kg私は85kg。これは「似てる」とは言わない? 765日本@名無史さん2018/10/10(水) 03:03:08.99
曾祖父や曾祖母って4人ずついるが、全員知ってる人ってどれくらいいるんだろう?
大抵の人は名前すら怪しいんじゃないかな?
766日本@名無史さん2018/10/10(水) 08:55:07.77
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
767日本@名無史さん2018/10/10(水) 18:10:49.74
先祖は戦国時代には馬上の武士だったが、仕えていた主人を戦で失ったので数人の家来を引き連れて美濃のとある村に帰農し、そこから代々庄屋や組頭をやっていたらしい
帰農する前の情報は文献もないから高名な武家ではないだろうな。恐らく半士半農の地侍だったと思われる。
でも地侍なら主君を失っても自分がもともといた村に戻ればいいだけなのにどうしてわざわざ違う村に落ち着いたのかがわからん
768日本@名無史さん2018/10/11(木) 13:05:02.59
庄屋やっていたのなら当時の有力者には間違いないだろうが、江戸期にも家系図
作りが流行り装飾的に派手に粉飾されてる可能性はある
うちの先祖も伝説的なもので全然実在を信じていなかったが・・・
郷土史家が高野山の古い供養帳探し出してきて実在が証明された。
こういうこともあるから満更嘘とも言えない所も又、悩ましい
769日本@名無史さん2018/10/11(木) 14:22:45.84
>>767
新しく入ってきた領主が嫌だったとか根切り連座くらいそうだったとか
仕官認めてくれないとかいろいろなパターンが考えられるよ
家中分裂しているような主家ならどっち付く付かないに苦しむし
国境接している主家でも同じく
地侍だからって戻ればオk感覚なんて江戸時代に入ってからだろ
まして騎乗できるクラスならなおさら 770日本@名無史さん2018/10/11(木) 16:18:08.16
地侍って基本騎馬だろ?徒歩足軽数人引き連れて
771日本@名無史さん2018/10/11(木) 17:30:28.76
家々ないし当主によるだろうからなんとも言えない
772日本@名無史さん2018/10/11(木) 18:30:21.22
773日本@名無史さん2018/10/11(木) 18:38:22.04
お前らの家の宗派何?臨済、曹洞が多そう
774日本@名無史さん2018/10/11(木) 21:28:49.80
空腹の科学です
775日本@名無史さん2018/10/11(木) 23:25:24.23
父方は曹洞宗
母方は真宗
776日本@名無史さん2018/10/12(金) 09:47:20.50
父方は本門佛立宗
母方は天理教
777日本@名無史さん2018/10/12(金) 13:34:50.94
>>773
どういう基準でそれらが多いってわかったの? 778日本@名無史さん2018/10/12(金) 13:37:45.80
>>777
一番寺の数多いのが曹洞宗だからじゃね?
俺は父方母方どっちも曹洞だった 779日本@名無史さん2018/10/12(金) 16:07:59.66
一番寺の数が多いのは断トツで浄土真宗でしょ
780日本@名無史さん2018/10/12(金) 17:54:51.17
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
781日本@名無史さん2018/10/12(金) 17:55:26.76
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
782日本@名無史さん2018/10/12(金) 18:11:09.23
>>779
うんにゃ
信者数では浄土真宗がダントツだが、寺の数は曹洞宗がトップだよ。
17000ヶ寺以上ある 783日本@名無史さん2018/10/12(金) 18:29:10.78
十大宗派(寺院数は『宗教年鑑 平成19年版』より)
http://www.kohzansha.com/datalink.html
曹洞宗 (寺院数14614)
浄土真宗本願寺派 (寺院数10275)
真宗大谷派 (寺院数 8607)
浄土宗 (寺院数 6908)
日蓮宗 (寺院数 4636)
高野山真言宗 (寺院数 3544)
臨済宗妙心寺派 (寺院数 3384)
天台宗 (寺院数 3350)
真言宗智山派 (寺院数 2898)
真言宗豊山派 (寺院数 2628)
寺院数でも東西合わせて浄土真宗が一番多い。 784日本@名無史さん2018/10/12(金) 18:42:14.10
信者数ランキング
1 浄土真宗本願寺派
(西本願寺) 792万人
2 浄土宗 602万人
3 高野山真言宗 383万人
4 曹洞宗(禅宗) 354万人
5 真宗大谷派
(東本願寺) 320万人
6 天台宗 153万人
7 法相宗 52万人
8 華厳宗 4万人
785日本@名無史さん2018/10/12(金) 18:45:17.62
曹洞宗と浄土真宗が群を抜いて多いな
どちらも庶民層が支持母体だったからかかな
庄屋クラスは何宗が多いんだろうな
うちは中部地方の小村の村方三役クラスだったが曹洞宗だ
786日本@名無史さん2018/10/12(金) 19:34:50.71
>>785
地方武士や庄屋は曹洞宗らしいね。
浄土真宗は庶民で被差別民も多かったと。 787日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:01:31.05
曹洞宗は元祖葬式仏教と揶揄されるぐらいだから昔から商売上手だったんだろう
788日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:06:34.63
同じ村の中なのに庄屋層とそれ以外の農民が別々の寺の檀家なんてあるの?
789日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:21:59.48
庄屋が曹洞宗ならその村の農民、小作人も皆曹洞宗
庄屋が浄土真宗ならその村の農民、小作人も皆真宗
790日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:23:42.33
>>788
うちがそう
庄屋や組頭だったけどうちとその分家は曹洞宗で他の村民は浄土真宗や日蓮宗 791日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:26:41.27
>>786
調べてみたけど戦国武将はほぼ全員臨済宗で地侍や庄屋層は曹洞宗が多かったらしいから本当にそういう傾向あるかも
北陸なんかは8割が浄土真宗だとか 792日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:32:42.47
一向一揆に加勢してた戦国武将もいなかったっけ?
徳川の家来にもいたような
793日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:37:11.81
宗派なんか地方による偏り激しいんだから件数なんかほとんど意味ないわな。
794日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:39:46.10
雑賀()孫一?
795日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:49:49.37
まだ続いていたの?
人口的には・・(とっぷクラス)・・なんだけど鈴木?
知っている名前なんだけど・・・『広瀬座』というところの話とか、
あと家が川崎に来たときの・・・家、土地の図面?
みたいなものがあるんだけど
どこかに鈴木何やらという名前が書いてあったり
796日本@名無史さん2018/10/12(金) 21:53:37.91
>>792
本多正信とか渡辺守綱とか三河家臣団の半数が門徒方に与した 797日本@名無史さん2018/10/12(金) 22:10:32.03
あと『トトロ』の「さんぽ」という曲
どこかに動画があるかもしれないから観てみて、
へび、クモ、ヤモリ・・・きつね・・・神話?
798日本@名無史さん2018/10/12(金) 22:13:45.86
別に関係ないのかな
尾の生えた人、蜘蛛・・・・・?
きつね、たぬき、天ぷら〜
799日本@名無史さん2018/10/12(金) 22:20:54.27
『きつね、たぬき、天ぷら』
800日本@名無史さん2018/10/12(金) 22:26:25.00
『広瀬座』・・井戸・・『井戸 尾の生えた』
どう考えても、トトロの曲?
801日本@名無史さん2018/10/12(金) 22:37:00.83
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
802日本@名無史さん2018/10/12(金) 23:33:24.45
逆に普通の百姓家系で臨済宗の家ってあるの?
百姓って言っても先祖は身分の高い武士だったとか有力者だったとかそういうのじゃなくて代々のどん百姓の家で
803日本@名無史さん2018/10/12(金) 23:48:29.00
江戸時代中期に臨済宗妙心寺派の白隠禅師という高僧が
それまで敷居が高いとされていた臨済宗を庶民に広めたんだよ
それ以降、臨済宗の寺が一気に増えた
臨済宗中興の祖と称えられる偉大な禅僧
804日本@名無史さん2018/10/12(金) 23:51:20.82
>>803
マジか
なんか普通の家系の人なのに宗派が臨済宗の人がいたから疑問だったんだがそんな歴史があったんだな
いい勉強になったわ 805日本@名無史さん2018/10/12(金) 23:54:42.04
>>783見ても臨済宗妙心寺派の寺だけ異常に多いのがわかるだろ 806日本@名無史さん2018/10/13(土) 00:27:33.44
臨済宗で格式が高いとされるのは京都五山の南禅寺派、天龍寺派、相国寺派、建仁寺派、東福寺派だね
逆に妙心寺派や大徳寺派は林下と呼ばれ格下に見られていた
だから妙心寺派などは主に田舎武士層や町人層に布教した
大徳寺派はあの一休禅師を輩出した宗派だし
807日本@名無史さん2018/10/13(土) 00:54:58.67
黄檗宗なんだけど
808日本@名無史さん2018/10/13(土) 01:01:32.16
支那人
809日本@名無史さん2018/10/13(土) 01:09:54.74
>>807
黄檗宗ってめっちゃ檀家少ないよね。江戸時代に中国から日本に入ってきて中国人の信徒が多かったと聞く。
ご先祖は中華系? 810日本@名無史さん2018/10/13(土) 01:12:30.17
黄檗宗、融通念仏宗、時宗
檀家少ない
811日本@名無史さん2018/10/13(土) 01:39:05.24
インゲン食べて万福寺
812日本@名無史さん2018/10/13(土) 01:50:37.81
>>809
元々は曹洞宗だったらしいけど江戸初期に藩主が黄檗宗に変えたので追従したらしい 813日本@名無史さん2018/10/13(土) 08:25:09.17
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 814日本@名無史さん2018/10/13(土) 20:28:53.28
>>812
そうなんだ!教えてくれてありがとう
中国人以外だとどういう人が黄檗宗信徒になったのか気になってたからこれでスッキリした 815日本@名無史さん2018/10/13(土) 20:52:22.56
816日本@名無史さん2018/10/13(土) 21:21:07.32
>>814
黄檗宗信徒なら大名だと仙台伊達家、鳥取池田家、長州毛利家が有名だよ
幕末までそれぞれの菩提寺は栄えた 817日本@名無史さん2018/10/13(土) 22:17:21.87
安城寺住職に懲役6年 黄檗宗寺院巡る背任事件 「住職としての信用は犯行に必要不可欠」大阪地裁
https://www.sankei.com/west/news/180507/wst1805070014-n1.html
黄檗宗の寺院「安城寺」(松山市)の土地・建物を担保に1億5千万円の融資を受けた不動産会社に損害を与えたほか、
別の会社から3億円をだまし取ったなどとして、背任や詐欺罪などに問われた安城寺住職、
片井徳久被告(57)の判決公判が7日、大阪地裁で開かれた。
香川徹也裁判長は「宗教法人の信頼を悪用した犯行態様は悪質」として懲役6年(求刑懲役7年6月)を言い渡した。
香川裁判長は判決理由で、同寺の自称檀家総代、宇都宮貞史被告(42)=公判中=との共謀を認定。
宇都宮被告が実際の契約などを担ったが、片井被告が犯行の立案段階から深く関与したとした上で、
「片井被告の地位に対する信頼なくして融資はなく、片井被告の存在は犯行に必要不可欠だった」などと指摘した。
判決によると、片井被告は宇都宮被告と共謀。不動産会社からの融資の担保にした安城寺の土地・建物について、
平成26年、別の寺に寄付したとの虚偽の所有権移転登記をし、同社に損害を与えた。
また、建設会社から、宗教施設の建て替え工事の保証金名目で3億円をだまし取った。
公判で片井被告は「背任や詐欺の指示は一切していない」などと無罪を主張していた。 818日本@名無史さん2018/10/14(日) 19:23:37.19
昔、この辺りで自分と名字が同じ戦国武将がいたらしい!伝承や文書は一切ないけど同族に違いない!って早とちりする奴ほど滑稽なものはないよなw
お前の先祖はただの水呑百姓で明治時代に名字決める際にその武将にあやかって勝手に同じ名字にしただけかもしれんのになw
819日本@名無史さん2018/10/14(日) 21:19:08.50
東日本の代々の百姓ならも総本家というのがあって大概鎌倉武士が祖よ。
西日本は判らなくなってるか流れ者が多いだろ。
820日本@名無史さん2018/10/14(日) 21:24:46.06
821日本@名無史さん2018/10/15(月) 09:52:36.45
>>818一応、昔から名乗っていたり許可取ったりはしてるんじゃないかな?
田舎の狭い世間の中で、かつ明確なヒエラルキーが存在ているところで
勝手に「地元にゆかりの或る」苗字を名乗ることはまず許されないと思うけど。
現代とは感覚が違うだろうしね
明治以後越してきたとかじゃないと・・・
逆に或る庄屋が系図を作ったりすれば違う庄屋がまた・・・ということは
十分ありうるけど。 822日本@名無史さん2018/10/16(火) 18:28:28.29
うちの田舎じゃ「系図を売った」という話がある
823日本@名無史さん2018/10/16(火) 18:34:18.48
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
824日本@名無史さん2018/10/16(火) 20:30:21.06
そういえば、江戸時代ってその辺の農民でも普通に左衛門とか名乗ってたのかな?
四郎左衛門とか○○左衛門みたいな感じで。
ついこの前、先祖の戸籍とったら江戸時代まで遡れたんだけど、名前が○○衛門とかばっかりなんだよね。
郷土史家の人に調べてもらったら少なくとも江戸時代は士族じゃなさそうって言われたんだけどよく分からないらしい…
誰かこういうケース知りませんか?
825日本@名無史さん2018/10/16(火) 20:40:16.71
>>824
江戸時代初期までは支配者層である庄屋や武士だけが〜左衛門、〜右衛門、〜兵衛を名乗ってたみたいだけど江戸時代中期以降は普通の農民も上記のような名前を名乗り出すようになったって聞いたことあるよ
だから普通の農民でも〜左衛門って名乗ってたっていうのはよくあることだと思う 826日本@名無史さん2018/10/16(火) 21:23:48.91
武士の〜左衛門、〜右衛門、〜兵衛は諱(通名)で本名は別にあるみたい。
827日本@名無史さん2018/10/16(火) 21:55:41.01
庄屋もそうだけど・・・世襲されてるのは衛門、兵衛で別に名前がある。
828日本@名無史さん2018/10/16(火) 21:58:05.01
そもそも兵衛というのは軍師の様な意味で
武士階級でないが知識あるので雇った人を兵衛と呼んだわけだから
民間人が名乗りやすかったんだろうね
829日本@名無史さん2018/10/16(火) 22:09:40.49
穢多頭の弾左衛門とか長吏小頭の杉本惣兵衛とか
830日本@名無史さん2018/10/16(火) 22:10:31.25
兵衛に軍師なんて意味はねえぞ
831日本@名無史さん2018/10/16(火) 22:15:41.91
黒田官兵衛とか竹中半兵衛とか
832日本@名無史さん2018/10/16(火) 22:37:24.11
兵衛ってのは律令の六衛府のうち左右兵衛から来てるんだが。
武士たちが就任したい官職のうち、比較的ハードルが低いのが衛府所属官人で、そこから中堅(?)クラスの戦国武士らに兵衛などの官職名を持つのが多く出る契機になってて、
その結果が黒田官兵衛とか竹中半兵衛とかだよ
衛府でも長官の督(カミ)つまり左兵衛督・右兵衛督や次官のスケ (左右)兵衛佐、判官のジョウ (左右)兵衛(大少)尉がいて(大志・少志)、一番下が最下級の兵衛ってとこか
兵衛府のほか左右衛門府と左右近衛府があって合わせて6部門で六衛府
室町時代後半ぐらいからか、庄屋などの地域有力者の太夫名乗り(など)で衛門とか兵衛とかを世襲的に名乗る事例が出てくる
833日本@名無史さん2018/10/16(火) 23:12:20.05
銅鑼右衛門
834日本@名無史さん2018/10/16(火) 23:23:26.72
弐拾壱衛門
835日本@名無史さん2018/10/16(火) 23:28:31.58
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
836日本@名無史さん2018/10/16(火) 23:33:49.20
男性で一番長生きした木村次郎右衛門さんは、代々次郎右衛門と言う名前を受け継ぐ家系だったらしいね。
しかも跡継ぎがいない所に婿養子だから、名字も名前も変えさせられた可哀想な人w
衛門っていつまで一般的だったんだろ?リアルで知ってるのは、昔近所に住んでた1904年生まれ70年代没の親戚の爺さんくらいだな。
取引先の先代社長が1920年ころの生まれで左衛門だけど会ったことはない。
837日本@名無史さん2018/10/16(火) 23:39:16.72
デパートの松坂屋の創業家は、今でもその手の名乗りを代々継いでいたはず
この前、新聞の訃報欄でみた記憶があるわ
838日本@名無史さん2018/10/17(水) 00:06:54.23
総合格闘家の才賀紀左衛門
実家の和歌山では代々その名前を継いでいるのだとか
839日本@名無史さん2018/10/17(水) 00:27:50.21
>>837
代々伊藤次郎左衛門を襲名していたようだね
最近亡くなったのは17代目当主で、創業家出身者として最後の社長だったそうだ 840日本@名無史さん2018/10/17(水) 04:07:22.53
>>832
なるほど。代々世襲で名乗ってる所もあるんですね。例えば江戸時代は武士ではないけど豪農で代々っていう家だと、一種のプライドとか誇示みたいなもんなんですかね。
昔はそれなりの家だったんだぞって感じで 841日本@名無史さん2018/10/17(水) 08:18:42.82
>>826
諱(いみな)は本名のほうだぞ。実名(じつみょう)だ
〜衛門とか、こっちのは仮名(けみょう)だろ 842日本@名無史さん2018/10/17(水) 16:47:39.16
矢野弾左衛門集房
843日本@名無史さん2018/10/17(水) 16:57:12.03
うっかり八兵衛
844日本@名無史さん2018/10/17(水) 17:34:30.61
曾祖父に双子の妹がいるんだが、戸籍を見ると片方が産まれてすぐ亡くなってる。
間引きの可能性あるかな?
845日本@名無史さん2018/10/17(水) 17:55:38.89
普通の百姓って諱はなかったの?
山田太郎兵衛みたいに苗字+仮名だけだったんだろうか
それとも太郎兵衛が本名扱いだったのか
846日本@名無史さん2018/10/17(水) 18:08:30.53
江戸時代の百姓の多くは実名を持たないか、もしくは使っていない(苗字も同様)
墓や過去帳にも実名じゃなく仮名で載ってるのが普通
847日本@名無史さん2018/10/17(水) 22:02:11.67
庄屋の場合は石碑建てるときは諱で墓は世襲名とかなんだが何故だろうか?
8488262018/10/17(水) 22:28:57.56
849日本@名無史さん2018/10/17(水) 23:22:12.05
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
850日本@名無史さん2018/10/18(木) 20:58:32.80
〜之丞、〜之進→カッコイイ
〜右衛門、〜左衛門→古風でいいね
〜蔵、〜助、〜吉→普通だね
〜兵衛→ダサい
851日本@名無史さん2018/10/18(木) 21:57:57.90
田舎の一族で善兵衛、善三郎、五右衛門、六兵衛って名前が多い一族がいたんだが
これって生まれた順かね?
852日本@名無史さん2018/10/18(木) 21:59:08.45
寺だったから代々、善超とか善教とかいかにも坊さんていう感じの名前だった
853日本@名無史さん2018/10/18(木) 22:14:06.60
すまん、これ読める人いない?
土地〜ってのが読めない
854日本@名無史さん2018/10/18(木) 22:20:00.76
土地可相成候
855日本@名無史さん2018/10/18(木) 22:31:01.04
>>854
ありがとうございます
どういう意味でしょうか? 856日本@名無史さん2018/10/18(木) 22:43:32.69
857日本@名無史さん2018/10/18(木) 22:46:18.03
>>855
…土地に相成りべく候
前がわからないから意味は決められない 858日本@名無史さん2018/10/18(木) 22:49:24.26
859日本@名無史さん2018/10/18(木) 23:23:44.58
860日本@名無史さん2018/10/18(木) 23:38:38.69
861日本@名無史さん2018/10/19(金) 00:22:03.90
今話題の駿河銀行の創業者一族も庄屋だな
862日本@名無史さん2018/10/19(金) 01:00:41.57
うちもだ
庄屋一族で代々の当主が市右衛門とか市兵衛なのにある代の当主だけ半九郎だわ
これ何なんだろうな
863日本@名無史さん2018/10/19(金) 01:33:19.98
864日本@名無史さん2018/10/19(金) 08:39:20.37
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
865日本@名無史さん2018/10/19(金) 16:31:01.29
小字っていつ頃作られたの?
31年式戸籍には○○村△△字□□10番地と書いてあって(△が大字で□が小字ね)
19年式戸籍では○○村△△10番地となっていて小字が書いてないんだよ
866日本@名無史さん2018/10/19(金) 18:31:14.39
江戸時代の村の名前が「おおあざ」で、村内の集落名とかのローカル名が「こあざ」
江戸時代の村を複数集めて合併した広域名が明治時代の「むら」なんで、旧村名は格落ちしたわけ
たぶんだが、番地が「おおあざのなかで1からふられている」状態で、こあざ名は有ってもなくてもいいという扱いだったんじゃないのかな
公式の地名では存在しない地域名だけど併記してもいい、程度。
それが戸籍ないに書かれる程度まで規定が変わった(つまり復活した)のでは?
867日本@名無史さん2018/10/19(金) 19:51:33.92
>>585
だからお前嘘ばかりほざくなや
なら旗本の北条家臣何人おんねん?
後北条家は大半が鎌倉期や室町よりの板東武士団の在方土豪や地侍衆であり、
それらをただ束ねていただけの連合国みたいなレベル。
それとは別に後北条家の直属の専業武士がおり、確かに僅かながら旗本や家老に雇用されたこの直属の相模周辺の後北条家業武士の旧臣はいたが、それでも極少数。
後北条家の大多数となる主力の在方の土豪や地侍は城主レベルまでことごとく帰農させられてる。 868日本@名無史さん2018/10/19(金) 20:26:09.36
後北条家
↓
↓中枢の直属の首脳
↓
評定衆、馬廻り衆
↓
↓直属の専業家臣団
【小田原衆や下田衆江戸など、相模周辺の南関東地域の専業武士団】
↓
↓
__________
↓
↓ただ単に束ねていたに過ぎない在方
↓
在方武士団
【武蔵、下野、上総を中心とした北関東の鎌倉、室町よりの在方の豪族、土豪地侍衆の名門層】
この後北条家の構成の大多数と成す在方の武士団は、皆鎌倉や室町からの在方支配層の土豪や地侍で、
単に束ねているだけの存在。
これらはことごとく帰農させられてる。
直属家臣団の一部に旗本に召し抱えられているのは確かに僅かながらいるが、
それでも最上位の評定衆や馬廻り衆すら過半数が帰農させられてる。
大名として残ったのは
豊臣勢に買った忍城主の成田家だが、すぐに改易になり、成田家も断絶になるし。
869日本@名無史さん2018/10/19(金) 20:30:43.02
因みに、
後北条家で徳川の旗本になっている極一部は、
最上位の評定衆ではなく、ほとんどがその下の直属家臣団である評定衆の家臣だったもの
ただ後北条家は直属家臣団がすげーのではなく、
在方の支配層はみな鎌倉や平安からの名門関東武士団だらけ。
この在方がことごとく帰農させられてるのが、関東の豪農層が異常にプライドが高い由縁
870日本@名無史さん2018/10/19(金) 20:53:33.68
871日本@名無史さん2018/10/19(金) 21:24:50.39
>>866
ありがとう
やはりその可能性が高いか〜 872日本@名無史さん2018/10/19(金) 21:34:16.15
因みに、庄屋は庄屋でも、
北関東の庄屋を関西程度の庄屋と一緒にされたくない。
全く別物
関西程度の庄屋なんてたんなる野良百姓だろ
北関東の庄屋は真の名門武家だった関東武士団の直系だから。
本当に一緒にされんの迷惑だわ
873日本@名無史さん2018/10/20(土) 01:31:33.26
在方土豪や地侍衆は戦国後期は大分地位がおちてるんじゃないの?
>>関東の豪農層が異常にプライドが高い
こりゃ当たり前と言っちゃ当たり前で鎌倉、足利(栃木)と本場だからね
874日本@名無史さん2018/10/20(土) 02:14:53.16
>>873
関東では在方の土豪や地侍が平安から秀吉の関東征伐まで手付かずでずっと在郷の支配層として蹂躙されず君臨してきた。
それは後北条が室町時代型の支配体系であったため、鎌倉時代のままの在地開発領主層がそのまま根こそぎ残っていた地域
全て秀吉軍団のような出自不詳の成り上がり軍団により壊滅させられた 875日本@名無史さん2018/10/20(土) 02:36:44.84
秀吉の関東征伐を例えるなら、
先祖代々何百年も在郷の村長を勤めてきた 関東の在方の支配層が、
秀吉率いる関西の亀田一家みたいなんや、半グレを大量に引き連れて関東全域に殴り込んできて、僅か2ヶ月で関東の名門支配層をことごとく根絶やしか地位を奪った。
みたいなもんだかんな。
ふざけすぎてるわ
876日本@名無史さん2018/10/20(土) 07:59:48.91
>>874
北条は在来の大名とは大幅に違う統治体系じゃなかったか
室町時代型とか、おかしいな
戦国時代に広まる改良型を、半世紀ほど先んじて早雲か氏綱辺りの頃から導入してるだろ 877日本@名無史さん2018/10/20(土) 11:32:36.31
>>875
後北条家の中でも、鉢形衆がかなりの由緒ある集団だよね。
関東きっての名門とも称する秩父地方の将門由来の板東平氏だった在方開発領主層が多い。
後北条家に従属していただけの集団だったから、鉢形城が落ちる早々に離散して地元に逃げ延びて、ほとんど名主になってるね。
八王子城は女子供、総大将の北条まで皆殺しにされてるからね。八王子衆は後北条家の直参の武士団だから、逃げ延びられる在地がないから立て籠ったんだろうか。 878日本@名無史さん2018/10/20(土) 13:56:53.76
879日本@名無史さん2018/10/20(土) 14:54:57.36
こういうのロマンたっぷりでいいな
うちも7代前の兄は美濃から江戸に移住したらしいが苗字がありきたり過ぎて特定不可能だわ
880日本@名無史さん2018/11/01(木) 18:23:21.65
>>747 武家と宮司は昔だと同じなんだよ。
大きな神社は必ず自分達の軍勢を持ってた。
自分の家系も鎌倉時代に源頼朝から地頭を命じられて奈良から出て地方の統治を任された。
昔は地方を統治するには先ず現地の信仰を大事にすることから始めるから、先ずやったのは新しい神社を京都から持ってきて、地元の小さな神社を併合した。
そして、宮司として神社を守るとともに、一緒に赴任してきた大名の侍大将として働いてた。
そんなものだよ。 時代が下って来ると江戸時代などは武家の姿は殆どなくなり宮司家だけが目立つようになってた。 881日本@名無史さん2018/11/01(木) 18:46:43.29
>>750 うちも源頼朝から地頭を命じられた時(1193年)は、まだ氏姓だった。
苗字をもらったのは南北朝になって後醍醐天皇から(1333年)。
>>751 もっと上の支配者だよ。 神社や宮司の家系が古いのはそういう事情があるから。 882日本@名無史さん2018/11/01(木) 20:55:04.54
883日本@名無史さん2018/11/01(木) 22:49:55.26
>>881
751は「村の神社で」宮司をやるような人は村方三役クラス、もしくは
(江戸時代後半で)神社の宮司をやるような人は最低でも村方三役クラス
ぐらいの意味で読んでください、上は色々だし。
神祇官の二等官という上級職を勤める人が兼業で神主やってる神社だってあるわけですし 884日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:18:52.55
確かに宮司は村や藩の鎮守に指定されてたレベルは、旧豪族や土豪地侍レベルを分家で排出していたレベルやろ
血統的には江戸の武家とは比べものにならない位の由緒なのは間違いないからな
885日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:19:48.22
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 886日本@名無史さん2018/11/03(土) 21:50:09.95
地域によるんでね
地元近所の村方三役の家々は源氏直系だよ
庄屋は足利家分家
顔ほんと皇族に似てるから誰も疑っていない
887日本@名無史さん2018/11/04(日) 00:58:11.41
888日本@名無史さん2018/11/04(日) 11:39:29.19
889日本@名無史さん2018/11/04(日) 13:58:09.99
皇族の顔なんて、明治以前と以降で全く顔立ちが違うんだが?
890日本@名無史さん2018/11/04(日) 14:05:28.90
>>887
関東、東北だろ。
関西以西はなまじ歴史があるだけに由緒がわからなくなった馬の骨先祖が多いのは止む無し。 891日本@名無史さん2018/11/04(日) 14:35:16.94
892日本@名無史さん2018/11/04(日) 16:05:30.72
神武のリアル顔知ってるとはすごいなw
ちなみにうちも元宮司家で歴史だけは長い家だけど由緒怪しいぞw
渡来系と武家系と諸説ある
しかし平安以降地元史料中心に度々名前が出てくる
893日本@名無史さん2018/11/04(日) 16:30:05.56
894日本@名無史さん2018/11/04(日) 16:34:13.78
>>892 宮司家や由緒は結構盛ってるのが多い。
創建年代位までは比較的正しいだろうけど、その前の由緒書きは結構眉唾が多いと思う。 895日本@名無史さん2018/11/04(日) 17:13:49.59
江戸時代ぐらいになると家の成立についての伝説にせよ神社の来歴や由緒にせよ偽作が横行してたもんな
伊勢の大手神社の一つである伊雑宮が来歴を偽作して自分こそ筆頭みたいな神話をばらまいて、神社間でちょっとした戦争状態に陥ったことさえある。
896日本@名無史さん2018/11/04(日) 17:18:11.09
>>894
そうだね
埼玉県に氷川神社ってあるけど、あそこの旧神主家も三家(岩井・東角井・西角井)あって、物部朝臣、菅原朝臣とか名乗ってるが定かではない
江戸の初めごろには小田原北条方系の在地没落武家が新たに神主に加わり四家になったが、権勢を妬まれ御鷹場で鶴を捕ったとかのかどで追放された。 897日本@名無史さん2018/11/04(日) 17:41:33.75
神武天皇って実在したかも定かじゃないのに後世に想像で描かれた髭面のイラスト見て似てるからそうに違いない!って騒ぐのは馬鹿げてないかw
898日本@名無史さん2018/11/04(日) 17:59:50.10
とある武士が自分の腹を切り命懸けで守り抜いた血みどろの家系図「チケンマロカシ」とは?
http://news.livedoor.com/article/detail/15544955/
時に、日本では血筋以上に「家」というつながり(家系)が重んじられ、
それを代々受け継ぐことで一族のルーツを確かめ、助け合って生きる絆を強めたのです。
その記録を「家系図」と言い、かつて武士たちにとって、家系図はとても大切なものでした。
現代ではちょっと考えにくいことですが、家系図は「自分が何者であるか」を示す重要ツールとして、
仕官の際に持参して、自分が「身元の確かな、信頼できる人間である」ことのアピールにも使われました。
言うなれば家系図は、血統書であり、身分証明書であり、時に履歴書でもあった訳です。
例えば「かの武勇名高き何某(なにがし)の子孫であるから、武勇にすぐれているだろう」云々……もちろん、
それを証明する本人の裏づけ(能力・実績など)は必要ですが、武士たちは自分が自分一人ではなく、
一族郎党はもちろん、代々の祖先までひっくるめた「御家(おいえ)」の一員・いち細胞のような感覚で生きていたことがわかります。
自分が恥ずべき振舞いに及べば、それは自分個人でなく、一族郎党や祖先の名誉を損ない、
ひいては子孫たちにまで迷惑をかけてしまう……そんな想いが、武士たちの振舞いに独自の美徳と道理を備わせました。 899日本@名無史さん2018/11/05(月) 12:11:09.09
近世までの「家」は、現代における会社組織みたいに思うほうが妥当
家族とい側面より雇用組織の側面を重く見るべき
家がなくなるというのは多くの従業員たちが路頭に迷うことでもあるから、
自分一人の問題じゃないんだよ
900日本@名無史さん2018/11/05(月) 14:05:30.18
近衞 忠大(このえ ただひろ、1970年7月18日 - )は、日本のクリエイティブ・ディレクター、映像作家、陽明文庫評議員。武蔵野美術大学造形学部映像学科(一期生)卒業。宮中歌会始にて講師 (こうじ)をつとめる。
公益財団法人 十四世六平太記念財団理事(能・喜多流の財団・2017年より)
五摂家である公家の近衞家(陽明家とも)当主で、社団法人日本赤十字社社長近衞忠Wの長男。
家族・親族
高祖父:細川護久(熊本藩第12代藩主・藩知事)
高祖父:池田詮政(侯爵、元貴族院議員)
高祖父:近衛篤麿(第3代貴族院議長、第7代学習院院長)
高祖父:毛利高範(子爵、元貴族院議員)
高祖父:明治天皇
高祖母:柳原愛子
高祖父:九条道孝(公爵、元貴族院議員)
高祖父:高木正善(丹南藩第13代藩主)
高祖父:入江為守(元貴族院議員)
曾祖父:細川護立(元貴族院議員)
曾祖父:近衞文麿(元首相)
曾祖母:近衛千代子
曾祖父:大正天皇
曾祖母:貞明皇后
曾祖父:高木正得(昆虫学者、元貴族院議員)
祖父:細川護貞(細川家第17代当主。元内閣総理大臣秘書官)
祖父:三笠宮崇仁親王
祖母:三笠宮妃百合子
伯父:細川護熙(元首相)
父:近衞忠W(近衞家当主。社団法人日本赤十字社社長)
母:近衞ィ子(三笠宮崇仁親王の第1女子)
妻:近衛桂子(旧宮家の久邇朝建(久邇宮朝融王の第2男子、朝建王)長女)
桂子夫人との間に4人の子供がいる。
901日本@名無史さん2018/11/05(月) 14:43:10.15
軍事貴族出身の武家の子孫は渡来系の血を引いてる場合がほぼ100%だけど、田舎の普通の地侍の子孫ってどうなんだろうな
やっぱり土民の血しか引いてないんだろうか
902日本@名無史さん2018/11/05(月) 15:14:34.09
日本は貴族が生き残ってる国。チャンコロでいうと太原王氏や清河崔氏のような漢〜唐の宰相の家系貴族が現代でも首相を輩出してる貴族野郎の国。
903日本@名無史さん2018/11/05(月) 15:38:02.72
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
904日本@名無史さん2018/11/05(月) 19:03:26.21
>>901
>軍事貴族出身の武家の子孫は渡来系の血を引いてる場合がほぼ100%だけど
って、「新羅三郎っていうからには新羅系の血を引いてるに違いない」みたいなデムパを信じちゃってる痛い子? 905日本@名無史さん2018/11/05(月) 19:47:18.13
>>904
そうじゃない
新羅三郎だって元を辿れば清和天皇に行き着くしその清和天皇は代々遡れば渡来人の血も混ざっているだろ
母系も辿るともっと混ざっていそうだが
だから軍事貴族は新羅三郎みたいに天皇家に繋がる血筋がほとんどということを考えても軍事貴族に渡来人の血が流れているのは間違いでもないだろう 906日本@名無史さん2018/11/05(月) 20:36:28.33
源氏の元祖は北魏!唐の宰相を輩出した名族から嵯峨天皇が肖った。
源氏物語は天皇の側近として宰相職独占してた頃の源氏で、武士の物語と思って読むと自爆する。
907日本@名無史さん2018/11/05(月) 22:52:47.64
平将門の乱の主要登場人物
平貞盛
源護
興世王
六孫王経基
武蔵武芝
藤原玄明
平真樹
藤原維幾
藤原秀郷
この中で根っからの在地勢力は武蔵武芝だが、中央軍事貴族らしいのは誰だろう?
908日本@名無史さん2018/11/07(水) 21:05:07.00
将門追討の恩賞で中央軍事貴族の武士になったのは貞盛と為憲と秀郷。その他は道長四天王世代から武士
909日本@名無史さん2018/11/07(水) 23:41:41.33
武蔵守の百済王貞連の系統って武士にならなかったのかな?
910日本@名無史さん2018/11/08(木) 01:44:30.19
しんえもんさんの顎が割れてるのは、何で?
911日本@名無史さん2018/11/08(木) 05:25:06.36
912日本@名無史さん2018/11/08(木) 07:06:45.25
今日は高祖父の足取りを調べに新幹線で先祖の地の図書館へ行ってくる
そこそこの都会だからヒトの入れ替わり激しくて目ぼしい情報は載ってないかもしれんがやるだけやってみたい
913日本@名無史さん2018/11/08(木) 08:40:59.39
914日本@名無史さん2018/11/08(木) 12:25:50.69
915日本@名無史さん2018/11/08(木) 12:50:15.13
916日本@名無史さん2018/11/08(木) 20:29:19.35
先祖は百姓だけど名主だった、とか自慢ぽく語る奴いるけど
名主は別に偉くなかった。
PTAの役員みたいに、しょーがなくてやることもあった。
村によっては、みんなで押しつけ合い、いつも押しつけ合いに
なるのが面倒で、順番でやるというところもあった。
百姓だけど姓を名乗ってた、なんて威張る奴もいるが、
普通、どんな百姓でも苗字はあった。
公(おおやけ)の関係で名乗れないだけ。
世田谷の某村の資料などを読むと、全員が苗字を名乗っている。
実際に苗字が無い人もいた。そういうのは猟師とか木樵みたいな人たち。
917日本@名無史さん2018/11/08(木) 22:59:25.40
地域によって名主の役割やランクが違うってことを知らんのかな。
918日本@名無史さん2018/11/09(金) 01:22:06.34
>>916 その世田谷の資料って西暦何年くらいの資料だよ。 919日本@名無史さん2018/11/09(金) 02:00:17.79
うちの先祖を調べてみたんだけど、すんごい小さな離島の生まれなんだわ。
で、直系傍系兄弟姉妹全部戸籍見てみたら、うちの家に嫁いだ人・婿養子に来た人みんな同じ小字の出身なの。
島全体でも数百もいないようなド田舎だから、その中にある小字なんて、数えるほどしか人がいないはずなの。
しかも、嫁入りした人は半分以上同じ名字。ただ親の名前は別だから近い血縁ではなさそう。
昔は、○○家は必ず××村から嫁をもらう、とか○○家は必ず□□家から嫁をもらう、とか言う掟があったりしたのかな?
920日本@名無史さん2018/11/09(金) 03:52:08.91
部落は部落同士でしか通婚できないからねえ
921日本@名無史さん2018/11/09(金) 04:46:38.84
史料にみる江戸時代の世田谷 下山照夫編 岩田書院
922日本@名無史さん2018/11/09(金) 10:22:37.76
世田谷の旧家だと宇田川さんとか大場さんが多いイメージ
だいたい彦根藩領だよね
923日本@名無史さん2018/11/09(金) 12:35:37.91
うちの母親の先祖は分かるんだけど、父親の先祖が分からない…。
母親のとこは戦国大名の家臣だったから、割合簡単に分かったけど…。
924日本@名無史さん2018/11/09(金) 13:18:04.53
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
925日本@名無史さん2018/11/09(金) 14:05:59.06
江戸時代って転居とかって誰でもできたの?教えてください。
俺の家は7代前の人が江戸時代後期〜幕末あたりに、どこかから現在俺が住んでる場所にやってきて、家建てて農業始めたらしい。
親が全然興味ないらしく、詳しくはわからんのだ。
926日本@名無史さん2018/11/09(金) 21:23:13.46
東日本の代々の庄屋名主筋の方が下剋上戦国江戸の大名、旗本より由緒が正しかったりするからな。
927日本@名無史さん2018/11/10(土) 00:51:25.76
それ、本当だよね。
928日本@名無史さん2018/11/10(土) 02:44:27.53
純粋に先祖探しについての話題が出来る人がいないね。
929日本@名無史さん2018/11/10(土) 03:40:00.73
自分は図書館で探した。
930日本@名無史さん2018/11/10(土) 07:04:32.22
>>926
庄屋名主村役人は在来領主の家がなってる場合が多いから東西関係無く家柄良い場合が多い。
うちの田舎では村役人が武士で言う馬乗り以上だった。 931日本@名無史さん2018/11/10(土) 07:12:04.48
数人の高祖父から直接昔の話を聞かせてもらった
932日本@名無史さん2018/11/10(土) 08:24:52.75
>>931
高祖父さんが生きてるってだけで驚きだわ 933日本@名無史さん2018/11/10(土) 08:34:50.21
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 934日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:00:46.42
935日本@名無史さん2018/11/10(土) 13:15:40.24
936日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:50:48.30
名主(庄屋)・組頭・百姓代
この三つを村方三役という。地方(じかた)三役とも言った。
組頭は五人組の責任者。
(ただし長い間には五人組のうち何人もが貧農になることもあるので、必ずしも
五人組の中の一人とは限らなくなった。本百姓の中でも富裕な者がなった。)。
百姓代は名主と組頭の監視係。今でいう監事みたいなもの。
年貢は領主から村に対して課せられたもので、百姓の個人的な負担分と
いうものはなかった(村受制度)。
領主から名主に「お前の村は今年は○○石」と年貢の指示があると、これを
名主が本百姓に割りふる。そして組頭が責任をもって自分の属する五人組の分を
集めた。組頭は名主の補佐役・協力者という地位にあった。
937日本@名無史さん2018/11/10(土) 17:51:38.71
ところが名主と組頭が組んで不正を行うことが多かった。
本当は500石と言ってきたのに550石と指示されたと言って余計に集めネコババ
したり、組頭が自分の分を軽くしてその分を他の四人に負担させたりした。
明らさまな不正でなくても、村受け制度の結果、その年収穫が悪くて年貢を払えない
百姓がいれば他の百姓たちが立て替えなければならないわけで、最終的な割り付け
やその償還・利子の支払いにあたって不正が行われることが多かった。
さらに、村の入り用(村の自治のための費用)は年貢とともに集めるので、年貢より
多くの米を集める。そこで、入り用の額を誤魔化すという形で不正が行われる
余地もあった。
(字が読めず計算もできないと誤魔化されることが多かったので、百姓たちは子供に
読み書き算盤を習わせた。これが日本で識字率が高かった理由の一つだという。)。
こうした誤魔化しを監視するために、江戸時代中期から本百姓たちの代表としての
百姓代という役職が設けられたのである。
百姓代の活動を通じて、本百姓たちは年貢の仕組みや村入り用の内容を知り、改革
の意思を持つようになった。特に本百姓たちが問題にしたのが村役人に対する種々の
免租の特典であった。不合理なものというより、村役人たちが勝手に作り出したものが
多かったのである。年貢の割り付けや立て替えも不公平なものが多く、村入り用に
関する不正も多かった。せっかくの百姓代も名主たちと同じ穴のムジナであることが多く
なり機能しなくなる。すると本百姓たちは改革を求めて騒動を起こした。
これを村方騒動という。
百姓一揆が領主に対する反抗であるのに対して、村方騒動は不正を暴いて領主に
訴えるところに違いがある。
938日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:12:15.77
>>751さんのレスを見て(自分は>>747です)うちも庄屋だった事があるのかな、と気になって図書館で郷土史、国会図書館で分限帳?(藩内の村方三役の名前が書いてある名簿)を見ましたが、うちが昔住んでいた村は、村方三役とも別の人の名前が載っていました。
郷土史や藩の記録に断片的に先祖の事が書いてありましたが、江戸時代はすでに別当寺だったようで、家族にも家に伝わる話を色々聞きましたが、昔から寺と神社だったみたいです。
(図書館のレファレンスも利用しましたが、結構助かりました)
元々武家と聞いていると書きましたが、武将だった先祖が残した日記が戦前まであったと家族から聞いたけど他の古文書と一緒に殆ど焼けてしまったらしいのでどうにもならない、、、。 939日本@名無史さん2018/11/10(土) 22:49:55.30
>>925
普通は新田開発だろう。領主が開発したり、村受け開発というのもあり、また商人が
投資として開発事業をすることもあった。
そうやって新たに拓かれた農地に入ったんじゃないの。
>>938
昔は神仏混淆で神と仏が一緒に祀られていたが、全体を管理していたのは
常に寺だった。神社を管理していた寺を神宮寺とか宮寺という。
伊勢神宮や出雲大社にだって神宮司はあったのである。
神宮寺にいて神社と寺を統括していたのが別当。
別当というのは官職の名称で、今でいう「長官」というような意味。
別当が何人もいるとき、その最高位の者を執権という。
神宮寺という寺であるところから分かるが、別当は僧だった。
だからあなたの先祖が別当だったのなら間違いなく仏僧だった。
別当で有名なのが別当公曉(べっとうくぎょう)。源実朝を暗殺した鶴ヶ岡八幡の
別当である。二代将軍源頼家の息子である。
本来将軍になってもおかしくない地位にあったが、父親の失脚によって
僧にされていた。当時鶴ヶ岡八幡は寺でもあり、寺の規模の方が大きかった。
明治になって神仏分離により寺の部分は壊されたが、それにより建物は
三分の一になってしまったという。
別当公曉の例にあるように、領主が自分の建てた寺に別当として一族の者を
送り込むことはよくあった。長男と次男は武士にするが、三男は僧にするという
ような具合。別当という地位に就くのはたいへんなことなので、やはりバックには
武将というような大名レベルの実家があったのだと思う。 940日本@名無史さん2018/11/11(日) 01:07:37.66
>>938
明治維新後、寺だけじゃなく神社もたくさん潰されてるから、そこに残ってた記録類もどうなってることか。 941日本@名無史さん2018/11/11(日) 07:17:45.32
>>938
>国会図書館で分限帳?(藩内の村方三役の名前が書いてある名簿)を見ましたが、
>うちが昔住んでいた村は、村方三役とも別の人の名前が載っていました。
村方三役の名は正確なものか分からない。
実体と分離していたことがあるようだ。
村役人の罷免や交替を要求して起こるのが村方騒動だが、領主に要求しても通らない
ので、自分たちで勝手に別の村役人を決めてしまうことすらあった。
(これに近い事例 http://sito.ehoh.net/noumin11.03.05.23.html)
村方騒動は村方出入(でいり)とも言って、喧嘩のようなものだった。
「打ち壊し」というのを聞いたことがあると思うが、気に入らない名主の家などは
柱を切られて綱で引き倒されてしまうこともあった。
領主に直訴した村役人6人が首を切られた事件があったが、後の研究でこの6人は
当時の村役人とは別の人達であったという報告がなされているものがある。
研究者はたぶん、あなたと同じように分限町を見たのだろう。
そしたらそこに書いてある名前とは別の人たちだったのである。
だが、斬首された6人が領主に対して自分は名主だとか組頭だとか名乗ったのは
事実なのである。 942日本@名無史さん2018/11/11(日) 09:09:00.64
943日本@名無史さん2018/11/11(日) 11:20:07.82
名主・庄屋・肝煎といった村方の指導層が一揆、打ち壊しの中心的役割を果たす場合もあらば標的にされる場合もある
名主・庄屋さんも大変だね
944日本@名無史さん2018/11/11(日) 18:44:18.99
>>922宇田川って世田谷の方なのか杉並の荻窪、南荻窪あたりもでかい農家に
宇田川が多くて豪邸があると大抵宇田川だな。 945日本@名無史さん2018/11/11(日) 19:11:22.22
宇田川……うたがわ? 歌川?
946日本@名無史さん2018/11/11(日) 21:54:29.26
>>939
勉強になりました
寺と神社を兼業していたから別当寺っていう位の認識しかなくて
郷土史その他には「○○神社別当○○院」と書いてありました
>>940
神社は今でも町にあって最近見に行ったんですが(地方です)、神社のすぐ近くにある酒店が昔名主だったようで、むしろそういう家から話を聞く事が出来れば色々な事が判ったのかも知れないけど、気が引けたので止めました
横レスすみません
あまり書くとウザくなってしまうのでこれでやめておきます 947日本@名無史さん2018/11/11(日) 22:24:48.59
>>944
世田谷吉良氏の給人宇田川木工頭の子孫を自称してる
品川区、江戸川区辺りも宇田川の本場で、こちらは上杉の庶流にして関東郡代伊奈備前守忠次の仕えた後に浪人し新田開発 948日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:05:00.09
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
949日本@名無史さん2018/11/12(月) 11:18:15.44
950日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:46:19.37
951日本@名無史さん2018/11/12(月) 12:54:17.30
>>939 うちの地方では、1600年代に神社の境内に寺が建立され、明治になって神仏分離令で寺は別のところに移って独立した。 952日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:29:37.91
別に >>747 へのレスじゃないが
神宮寺の僧を社僧という。社僧は神社の管理だけでなく、神殿の前でお経をあげた。
参拝者も神社・寺を区別していなかった。江戸時代までは仏は合掌、神社では
柏手という決まりもなかった。好き勝手に拝んでいたのだ。
神社に坊主が居たってちっとも不思議に思わなかった。
ところが神仏分離令でそれは有り得ないことになった。
神仏混淆といっても、主体が寺である場合と主体が神社である場合とがある。
1.寺が主体である場合は神社を切り離せばよい。
例:東大寺 境内の鎮守である手向山八幡を独立の神社とした。
もちろん、廃仏毀釈で主たる寺が潰されればそれまで。
2.神社が主体で、それに管理事務所としての神宮寺が付いている場合。
この場合は寺は廃寺になってしまう場合が多かった。
逆に寺に重きを置いて寺として存続を図る場合もあった。
後者の例 京都の曼殊院 天満宮が主体だったが、門跡寺院という格式があったので
寺として存続。さらに天満宮も残した。ま、別当が皇族なんだから特別か。
寺が廃寺となった場合、そこにいた社僧はどうなったかというと、おそらくは神社に移れず
還俗してしまう人が大部分だったと思われる。
いったんは宮司となるが、その後やめていく人も多かったろう。
ただ、別当の中にはそれまでのトップという地位を生かし、神社に移ってからも宮司の
最高位につくような人もいた。
どのような扱いになるかは別当の個人的力量による部分も大きかったろう。 953日本@名無史さん2018/11/12(月) 20:30:11.65
747が祖先は宮司だったというなら、いったんは神社に移って宮司になったのだろう。
しかし現在もその神社はあるものの、そこで血縁者が宮司をやっているわけではないと
いうのなら、神社に移ってから後に宮司をやめたのではないか。
神宮寺に住んでいたからといって別当だったとは限らない。
別当以下階級があった。
http://tobifudo.jp/newmon/jinbutu/shasou.html
さらに、「○○神社別当○○院」というのは何を指して言っているのか不明。
寺院のことなら神宮寺の境内に建てられた小寺院のこと。
詳しいことは調べてくれ。塔頭(隠居した老僧の住む建物)だったりすることが多い。
大きな寺院だと院の中にいくつもの「坊」がある。
神宮寺の名前は別にない。神社と同じ。
鶴ヶ岡八幡宮は寺としては「鶴ヶ岡八幡宮寺」だった。
人間を指して「別当である○○院」ということならきわめて高位の僧だ。
世俗的にも天皇や上皇、将軍などでないと・・・。
そうでないなら修験者。修験者の法名は「○○院○○法師」などとつけた。
この○○神社というのは修験道系の神社かも知れないな。
近くに修験の山があるとか、山伏の祭りがあるとかいう町なら可能性大。
修験道系の神社は明治の神仏分離で簡単に寺を廃し、神社に鞍替えした。
修験道はもともと仏教より神道に近いものなんだろうな。
だから別当その他社僧が神主になるのもスムーズだった。 954日本@名無史さん2018/11/12(月) 23:41:47.54
>>953
家が昔やっていた寺は修験道で、確か明治2年で寺を辞めた事が書いてありました
「明治まで法印○○(うちの名字)氏が永い間宮司を務めた」と県史に記述があったので
明治になっても宮司は続けていたのだろうかと家族に聞いてみましたが、
判りませんでした
曾祖父が継ぐ気がなかったっていう話はしています
因みにやっていた寺は神社の境内にあったようで、今は集会所になっています
寺は神社とは違う名前で、○○院は寺の名前です
郷土史や藩の記録など幾つかの文献を見ましたが、「別当○○院」と書いてありました
(図書館のレファレンス・サービスで調べてもらったのもあります) 955日本@名無史さん2018/11/13(火) 00:35:26.14
>>953
スムーズでも簡単でもなかった神社もあるから
全部がそうだったような書き方はいかがなものかと 956日本@名無史さん2018/11/13(火) 13:32:45.64
955氏のレスで思い出したが三嶋大社は社僧を還俗させるのにかなり
骨を折ったらしく拷問や殺された人もいると何かで読んだな
お隣浅間大社にいたっては宮司が神社に戻れなくなったのをいいことに
薩摩の人間を強引に送りこまれて切り崩しくらったとも…
957日本@名無史さん2018/11/13(火) 15:51:43.31
浅間大社宮司家の菩提寺は廃寺とされたのに三嶋宮司家の菩提寺は
続いたことが不思議だったのだがそういう背景で考えると納得
958日本@名無史さん2018/11/13(火) 17:53:44.37
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
959日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:11:20.33
>>954 明治までわかってるなら、自分の戸籍をとってみたら? 江戸後期くらいまでは辿れるかもよ。
俺も辿り寄せて、江戸後期に婿養子に来た家系だったので少し落胆したことがあったが、昔は当たり前だったんだろうな。
直ぐに朝鮮に行ったのでなんでだろうと思ってたが、多分田畑が少なくて外に出ざるを得なかったのかも。 全てがつじつまが合う。 960日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:45:58.60
>>954
ご先祖は別当寺におられたということなので、それなら本体は神社だったのだろうと
思ったのだが、もしかしたら江戸時代までは寺だったかも知れない。
修験者が里に拠点を作るときは寺にすることが多かった。
その場合、本山は山の中にあるということにし、里に作るのは院や坊という形にした。
(いわゆるお里坊。だから当山派の山伏は金峰山を本山とし、本寺を聖護院などと
いう名前にする。本山派の山伏は熊野三山を本山とし、本寺を三宝院などとした。)。
二十七先達という言葉でググってみるとよい。ほとんどが院や坊である。
ご先祖の寺の名前は△△院で、その別当寺として○○院という寺があった。
○○院というのはいわゆる寺務所のようなもので、院屋とか院室といわれることがあった。
△△院の方は神仏分離で神社とし、○○院は廃寺とした。ということかも。
修験道系の寺は、寺といっても鳥居があったり(鳥居の上にさらに三角の屋根型の
板をつけたりすることがあったが)、僧であっても僧形をしていなかったりするものが
多かった。(本山派なら有髪。総髪にしていた。主立った者は武士のように髷を結わず
長く垂らしていた。天一坊や由井正雪を想像するとよい。勿論今は聖護院でも坊主頭)。
だからここは神社だといえばその日から神社として通用したかも知れない。
あなたのご先祖も、別当だったから僧だったと上に書いたが、普通の僧の格好は
していなかったと思う。ただし、法印は僧の位であるので、僧であったことは間違いない。 961日本@名無史さん2018/11/13(火) 19:48:59.88
神社にするについて、祭神は修験道系の寺はいろいろ祀ってあるので苦労はない。
神仏混淆の中から生まれた牛頭天王を祀る神社が多い。牛頭天王は、こういうわけの
分からない名前はつけるなと明治政府から通達があり(慶応4年 神祇官事務局達)
八坂神社とか須賀神社などという名前になった。
須賀神社だとアニメの「君の名は」に出てくる神社がそうである。
四谷鎮守ということであるが、これも昔は寺のような神社のようなものである。
http://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0384/
ここに
「江戸切絵図には「稲荷山宝蔵院天王社」と記され、天王社とその別当だった
稲荷山福田寺宝蔵院があったことがわかります。」と書いてある。
「稲荷山宝蔵院」だから寺であり、「天王社」だから神社である。
修験道の寺であれば神社になってもやることはほとんど変わらず、ご先祖が神主に
なるのも問題はなかったと思う。普通の寺や神社では坊主が祢宜どもを見下して
威張っていて神仏分離・廃寺で途方にくれたが、そのようなことはなかったはずである。
だからとりあえず神職にはついたのではないか。
だが、明治五年に「修験道廃止令」が出ている。
公的には山伏というものが無くなってしまった。
さらに明治六年に出た通達で修験者のやる呪術祈祷等が禁じられてしまった。
その後も細かく禁止条項が増やされていき、普通の神官のやることしか出来なくなる。
山伏というものは呪いや祈祷、占術で食っているものである。
それが出来なければ商売にならない。さらに明治の世で呪術祈祷でもあるまい。
ごく小さな神社として存続させるなら一家族くらいしか食えない。
ご先祖が神官になっておられたとしても、このへんで見切りをつけたのかも知れない。 962日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:29:46.07
神官とか別当といえば、私の実家はさいたま市の兼業農家なんですが、先祖は氷川神社の社僧で、戦国時代には社僧のまま岩槻の太田氏の出城に仕えて小田原で籠城し、のちに帰農したという伝承があります。
実家は普通の兼業農家で本家も旧名主でもなく、また長屋門等もなく大正期の倉が1つあるだけの家ですが、伝来の刀が大小
一振ずつあり、てっきり戦国時代の物だと思っていたのですが、先日親族に不幸があり帰省したときに衝撃の事実を知りました。
その刀は、幕末期にご先祖が志願して領主の旗本に若党として江戸で仕えた時に帯びていたものであると。
なんで志願してまで旗本の若党になったのかわからないんですが、侍に憧れていたんでしょうかね?
刀と陣笠が残されていますが、ひょっとして鳥羽伏見の戦いに備えて領主が募兵したのか?先祖は従軍したんだろうか?
などと色々思いをめぐらせています。
うちの先祖は百姓なのでもちろん平民ですが、すぐ隣にある村の名主の家は領主と共に甲斐から来たらしく維新まで領主の家士の扱いを受けていました。
963日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:49:41.92
庄屋なのに江戸中期に二代だけ諱もつ家って、
なにがかんがえられるんですか?
964日本@名無史さん2018/11/13(火) 22:56:55.31
>>963
たまたまその二代だけ記録が残っていただけでは? 965日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:15:15.20
>>954
>「明治まで法印○○(うちの名字)氏が永い間宮司を務めた」
すまん。神社+別当寺ということで普通の仏僧ということしか頭に浮かばず、
それで法印を僧の位のことだと思ってしまった。
修験の寺(ないし神社)であるとすると、法印はただ山伏という意味かも知れない。
昔は山伏のことを「法印様」などと呼んでいた。
今は山伏のうち経験豊富で中心的存在の人を法印と呼んでいるらしい。
昔でも頭領格の山伏のことを指して言うような気もする。
いずれにしても「法印○○(うちの名字)氏」というのは「山伏の○○氏」という意味と
捉えるべきかも。
「明治まで・・・・務めた」と過去形なので、神社になってから振り返って書かれている
のだろう。だから「宮司」となっていると思われる。
上にも書いたように山伏が里に建てるのは寺だ。
「○○神社別当○○院」とあるが、○○神社という言い方をするのは明治になって
からである。それまでは祇園社とか天満宮とか山王権現といったような言い方。
あと、>>961 にいろいろ書いたが、一番書かなければならないのは神社における
世襲制の禁止のこと。それと神社は国家の管理するところとなり、神主(神職)は官吏
ないし準官吏となったこと。たしか明治四年かな。
田舎の神社でも諸社という社格を得ると町や村から奉幣(お金)を受けた。
神職は官吏扱いである。
だから無格社というどうでもいい神社でないかぎり、親が神主でも跡をつぐことはでき
なくなった。「曾祖父が継ぐ気がなかったっていう話はしています 」というのはいつの
ことか分からないが、関係あるかも知れない。
官幣大社になるような大きな神社だと、神祇官から神主が送り込まれた。
>>956 「お隣浅間大社にいたっては宮司が神社に戻れなくなったのをいいことに
薩摩の人間を強引に送りこまれて切り崩しくらったとも… 」というのは
そのあたりのことだろう。 966日本@名無史さん2018/11/14(水) 08:22:02.11
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
967日本@名無史さん2018/11/14(水) 09:08:30.26
>>963
1.士分の家から婿を貰った。その婿が自分の息子に諱をつけた。
これで二代
2.困窮した藩は金持ちに金納させ、代わりに士分に取り立てた。
坂本龍馬の家などはそういう金納郷士。士分となっても商人は商人の
まま変わりはない。龍馬は商人の子として育った。竜馬がゆく、なんて
のは全部嘘。ただし、士分だから竜馬には諱がある。
金で士分を得た場合、その地位は一代の場合もあり世襲できる場合もあった。
一代限りの場合、その士分を得た人と、その人が生きてる間に生まれて成人した
息子がいればその人に諱がつくはず。
3.国学の徒になった。江戸の中期に国学が大流行した。
国学の徒は日本における正統とは何かに非常にこだわるので、自分の名に
諱をつけた。庄屋レベルの人だと国学をやった可能性は大いにある。
国学をやった人が、自分と自分の息子に諱をつければ二代。 968日本@名無史さん2018/11/14(水) 15:47:53.95
>>956
その送り込まれた薩摩人宍野半は富士山山頂から何百年と山頂で
下界を見守り続けた仏像を降ろしただけでは飽き足らず富士山中から
仏像を全て排除させるという蛮行をやった人
ただ、浅間大社の宮司を務めるにつれ富士山に異常なまでの畏れを持ち
しまいに新興宗教教祖にまでなってしまったという変わった人
そしてなぜか浅間大社の膝元富士宮ではなく富士吉田で新興宗教を開いた 969日本@名無史さん2018/11/14(水) 19:54:59.47
970日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:36:07.93
>>968
富士(浅間)信仰をめぐって浅間大社と村山浅間神社とが主導権争いをした。
明治になるまでは村山浅間神社が優勢であった。
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b0000001lrf.html
村山浅間神社は山伏が築いた富士山興法寺が基になっているらしい。
村山というのは修験の村で熊野系らしい。
富士の登山代行を請け負っていた。もともと山伏というのは寺社への代参を
主要な仕事としていた。
浅間大社との間で、八合目から頂上までは村山浅間神社の支配とするという
取り決めがあった。頂上に大日堂という祠を有していたようである。
しかし、神仏分離で興法寺がなくなり、一挙に劣勢に陥る。
山頂の支配も失う。
その背景に明治政府の力を背景にした宍野半の活動があることは知らなかった。
寺は駄目になり、官幣大社の威光にかなうはずもない。
地蔵や積み石は全部捨てられた。
村山登山道も使われなくなった。
968のおかげで理解が立体的になった。
新田次郎 芙蓉の人 の、富士山に小屋を建てるなと言ってくる山伏は村山修験
だったのかと思った。しかし観測小屋造りに協力したのもこの人たちである。
修験の人たちが宗教的基盤を作り上げていく過程がよく理解できた。 971日本@名無史さん2018/11/14(水) 22:38:12.22
972日本@名無史さん2018/11/14(水) 23:06:08.66
山伏寺だったのが神社になって、今も加持祈祷してますというのがあった。
埼玉県富士見市の水宮神社
http://www.tojoshinbun.com/mizumiya.html
地域の氏神は氷川神社で、、、と言っている。埼玉の氷川神社は熊野系の山伏(聖護院を
本山とする)がいたらしい。社僧とかしていたのか。もちろん大宮や川越などにもいたという。
埼玉は熊野神社も多いけどね。
明治何年かの通達で神社で加持祈祷とかするなって言われてるはずなんだが、この神社は
平気のへいざである。
加持祈祷をするなら本尊である仏が必要。本山派なら不動明王だろう。
不動明王+護摩炊き でないと加持祈祷にはならないだろう。
しかしこちらは神社としたときに天照大神や大国主命など六柱の神を祀ったという。
ご神体が厨子の中に入っているのだろうか。
こういう神様に病気快癒とか祈ってもらってもなあ
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g1021398-
d9731898-r561211922-Mizumiya_Shrine-Fujimi_Saitama_Prefecture_Kanto.html
写真が面白い。
ハチャメチャだが山伏寺の特徴が少し残っている。
鳥居の上の屋根が本格的なら山王鳥居に近づくかも。
祭壇の厨子のような扉。
山伏は仏像を厨子に入れて担ぎ、里人に拝ませた。その形が残っている。
だが中にお祭りしてあるのは何だろう。わけわからん
立って歩きたいカエルとか輪投げの占い.
お稲荷さんの社は自分で造ってペンキ塗ってるし。境内に二宮金次郎。
明治政府は神道を近代国家にふさわしい宗教にしようと思って頑張ったんだが・・・
上の方の人のご先祖はやめてよかったね。 973日本@名無史さん2018/11/15(木) 01:27:05.60
>>965 なんか色々知らないことを教えてもらってありがたいが、うちの本家の神社と照らし合わせると全く違うけどね。 最初から今まで神社。
うちの神社は明治以降の社格だと郷社。 1300年代に京都の神社から招請してうちの先祖が大宮司となりその後代々受け継いできてる。 うちの名字の本家が代々この神社の宮司。
昔は正五位を貰った事があったみたい。
ずっと神社だし。
宮司をやりながら本職は鎌倉武士だったが世の中の変遷で神主職が本職みたいになっていったみたい。 974日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:40:29.21
>>937
あなたは神仏混淆が分かっていない。神社はあったんだよ、寺にも。
神様なんぞ掃いて捨てるほどあった。由来もたいへんなものだった。
そこいらへんの祠みたいのが延喜式まで遡ってしまう。延喜式からさらに
「そもそもは・・・」で白鳳時代まで遡ってしまったり。
要するに延喜式神名張まで遡って、そこに載ってる神様を「勧請をし」てお遷しした
ことにするからいくらでも古くなってしまう。
まあ寺も同じようなものだ。新しく寺を建立するときは、昔そこにあった大寺の名跡を
継ぐことにするんだ。そうやって建てれば、後は「1300年前何々上人が・・・」とか、
いくらでも寺の由来を語れることになる。
修験の神社で「最初から今まで神社」なんてあるわけないって。
ふつうは神社中心でも四つも五つも寺がくっついていたりした。
別当寺にいて法印で、なんで神主オンリーなんだよ。
法印様で神主でもあったということだろ。
昔は坊主が神も仏も拝んだの。
大げさに言うと、江戸時代までの神社の実体は、明治政府によって闇に葬られて
しまった。国民は洗脳されてしまった。
このことを激しい言葉で語っているブログがあるよ。
https://ameblo.jp/adgjmptw-214c/entry-11059044861.html
明治の神祇官がやったことは宗教革命だったのだ。
役人たちは宍野半みたいな狂信者の集まりだったと言ってもいいくらい。 975日本@名無史さん2018/11/15(木) 06:40:59.92
例えば、(何でもいいのだが上に出てくるから大宮氷川神社を例にとると)、武蔵一宮
であり皇室の四方拝の対象ともされた神社でも寛政の頃はこうだった。
https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/bfd06a3e34f0c2348d9a1101c821a707
境内に天神も稲荷も愛宕神社も住吉神社も石上神宮もある。一方で観音堂も不動堂もある。
主祭神として男神と女神と中氷川様といわれる神(たぶん男神と女神の子)が祀られている。
池の向こうにあるので、おそらく古い時代には上賀茂神社のように白砂を山にして
神の依代(よりしろ)としてあったのだろう。さらに古い時代は、森の中のただの空間(神地のみ)
であった。(沖の島のような祭り方)。
参道を挟むように神宮寺が並んでいる。それぞれ「○○院」という塔頭の形式である。
(大徳寺に塔頭が二十いくつある。みな○○院という寺号である。高桐院などを知っている
だろう。ああいうのと同じ。)。このいずれかに別当が住んでいた。
神宮寺は明治になって全部破壊され、神主の館だけが残っている。今の建物はたぶん明治
以降のものだろうが寺院の形式である。
973のご先祖がずっと神主で最初から今まで神社だったのならすごいことだ。
日本史を書き換えるような発見といっていい。
>うちの名字の本家が代々この神社の宮司。
繰り返しになるが、だって「別当寺に住んでる法印様」だったんだろw
俺の書いたことは全部無駄だと思う。他に読んでくれる人もいると思って書いただけだ。
ごめんな 976日本@名無史さん2018/11/15(木) 08:55:28.66
9779732018/11/15(木) 13:36:34.79
>>975 自分の話が法印様の話とは全く別の話なのは理解してるが、話を一般的な神社と一緒の話としてるみたいだし、ずっと神社であったことがさも珍しい様な話は受け入れ難い。
うちの場合は神仏混淆で神社の中にも仏様を祀ってたらしい。 境内に寺も建ってたらしいが定かでは無い。
うちの神社は小さいが大きな神社だと大昔から何何家が代々宮司をしてるなんて珍しくもないだろ。
出雲大社権宮司 の千家氏に、典子様が嫁がれたが、この千家氏は元出雲氏で一子相伝で出雲大社の神職を行ってたが、1340年以降、千家氏と北島氏に分かれ千家氏が代々宮司を継いでいる。
つまり大昔から代々宮司の例だよ。 978日本@名無史さん2018/11/15(木) 15:25:25.72
>>973さんと、昔家が別当寺だったとレスした自分は別人です。念のため
色々教えて下さった方ありがとうございます 9799732018/11/15(木) 16:58:11.69
>>975 大宮氷川神社を調べてみたが、あそこは社家の角井家が代々宮司を勤めてたんじゃ無いの?
代々宮司を務める家柄を社家と言うんだけど。 社家なんてごまんとあるだろ。
氷川神社全体での社家は、
石井家、角井家、内倉家、氷川家
この4家で氷川神社を守ってた。
ここの寛政時代の様子を見るとその時代は寺の方が勢力があった様に見えるけど。
明治維新後、社家の世襲が禁止されたらしいが、何故うちの神社がお目こぼしを受けたのか知らない。 そう言う見方で調べたことがなかったから。
でも自分で作った神社を他の人が守るなんて変じゃ無い?
西角井正慶 のWikiを見るとやはり明治になって社家を下されてるみたいだね。 しかし、それまで社家は代々神主を続けてきた。
想像するに、ある格以上は許されてたのでは無いかと思われる。 (神社の格か社家の格かは知らないが)
神社の社格を守るためには神社の財産がある程度以上と言う制限がかけられたらしい、うちの神社の場合は氏子が山を寄付してくれてその価値を少し水増しして格の問題はクリアしたらしい。 それでも郷社だから大宮氷川神社の社格よりずっと下。
うちがなぜ続いているのか知らないが、昔から天皇家を助けていた事でお目こぼしされたのかな? 9809732018/11/15(木) 17:58:44.53
>>925 その頃までだったら戸籍を取り寄せるとヒントがわかるかもよ。
多いのは婿養子に入ってきた場合。 田畑が少なくて苦労しただろうけど。 981日本@名無史さん2018/11/15(木) 19:05:03.96
先祖に関係ない長い文章が連続してるから書き込みを躊躇するね・・・
982日本@名無史さん2018/11/15(木) 22:28:45.08
>>979
石井ではなくて岩井だよ
あと、氷川家は氷川神社近隣に城を構えていた太田三楽斉の四男である潮田出羽守の家臣であった金杉氏が小田原落城後に社家になり氷川を名乗ったが一代限りで追放されている 983日本@名無史さん2018/11/15(木) 22:37:27.24
あと、氷川神社にも維新後に交野時万という尊攘派の元公家が大宮司として入り込んだ
今は東角井家が宮司職を世襲
984日本@名無史さん2018/11/15(木) 22:46:05.25
>>968
官幣大社の一覧を見ていたらすごいことに気づいた。
富士山本宮浅間大社と富士山本宮浅間大社奥宮は別々に官幣大社に
列格されているんだな。だから今も別々の宗教法人。
http://www.genbu.net/engi/indexsya.htm
上に書いたように村山興法寺が富士八合目以上を支配し、頂上に大日堂を
置いたが(大日如来のお堂である)、このお堂を浅間大社の奥宮であるとしてしまった。
奥宮である以上、浅間大社の一部であるはずだが、わざわざこれを独立の神社とし、
おまけに官幣大社にしてしまった。
浅間大社の一部とすると、興法寺(これは明治になって無くなったから正確には村山浅間神社
だが)から返還請求がなされかねない。いや、請求されるに決まっている。
そこで浅間大社に累が及ばぬよう独立の神社とし、かつ官幣大社という社格を与えてしまった
のだ。
宍野半がやったのだろうが、ものすごいことをやるもんだ。やりたい放題だな。
浅間大社の祭神を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)にしたのも笑える。
官幣大社にするには天皇家や天皇家の祖神とかかわりのある神でなければならない。
山の神は女といわれているので女神であって、かつ天皇家とのかかわり有りというと
天つ神の皇子ニニギノミコトの妻であるコノハナサクヤヒメが丁度よいのである。
皇室の先祖にあたるからである。神武天皇のひいおばあさんになるのか。
しかし、一介の官吏が千年続いているかも知れない神社の
祭神を新たに勝手に決め、さらに皇室の祖神コノハナサクヤヒメを富士山の山の神にして
しまうなど、おそろしいばかりである。 985日本@名無史さん2018/11/15(木) 22:47:43.89
実は宍野半などの神祇官の官吏は、薩摩でやったことをそのまま敷衍しただけなのである。
幕末、薩摩藩は藩内の寺を全て廃し、僧は全員還俗させてしまった。
徹底した廃仏毀釈をやったのである。
薩摩藩のやり方
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2018/05/11.html
「まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社の
うち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社の
ご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。
しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に
取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。−−−中略−−−
後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、
『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが
実施されるのである。」。
氷川神社にも明治になって官選の宮司が送り込まれ、祭神のすげ替えをやられた。
氷川神社と別のところにある女体社(氷川女体神社)と中氷川社の三社は一体であるので
女体社と中氷川社は合祀。三柱の神は男神と女神とその子供か何からしい神なので、
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと) の三神とした。
稲田姫命 はクシナダヒメで、オロチに食べられてしまうところをスサノオに助けられ妻に
なった女神。大己貴命はオオクニヌシノミコトで、スサノオの娘の婿さんである。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ふざけた選択である。 986日本@名無史さん2018/11/15(木) 23:19:23.98
>>959
前に謄本を取った事があるんですが
自分も幕末辺りまでは判りました
高祖父の前の代まででした
真新しい発見は特になかったんですが
謄本に記載されている、明治大正まで住んでいた場所の住所と、今も残っている神社の住所が一致していたので、やっぱりここに住んでいたんだなと。
幕末以前になると過去帳かなあ
しまいこんであって見た事はないけど 987日本@名無史さん2018/11/15(木) 23:24:45.40
988日本@名無史さん2018/11/15(木) 23:50:33.00
神社のスレか?
989日本@名無史さん2018/11/16(金) 01:38:13.12
浅間大社の話なんか全く関係ないのに長々とご苦労さん。
元の話とどこが繋がってるんだろう?
氷川神社の話も尾ひれが長すぎてほとんど意味をなさない。 自分の神社知識をひけらかすスレじゃないんだよ。
話の流れに沿って要点をまとめる様にしないと嫌われるよ。
もしも話を続けたいならコテハンをつけてほしい。
990日本@名無史さん2018/11/16(金) 07:30:42.36
>>977
出雲大社の千家家はもしかしたら天皇家より古いんじゃないかと言われるぐらいの家。
そういうのを持ち出されてもな。それに研究者によると千家家は少なくとも二回は断絶
しているという。天皇家も宮家をたくさん作ることで皇統を絶やさずにきたわけで、それでも
江戸時代に閑院宮(かんいんのみや)家を作らなければ断絶していたのではないかと
いわれている。現在の皇統は閑院の宮家から出ているのだ。
そういうことを考えても、特別の承継システムの無い宮司の家が現在まで続くというのは
疑問だ。続いているといっても明治以前は歌舞伎の襲名みたいなものじゃないのか。
現在宮司の世襲が認められない中で世襲を貫いている家はあと二つあったはず。
だが、廃絶と併合を繰り返しても八万あるという全国の神社の中で、この三家の例にどれだけ
の意味があるのか。君は佳子様でももらうつもりかよw?
君の家の本家はずっと神社だったというが、神社なんてものは明治になるまで無かったのだ。
上に書いただろ。○○神社なんて称するようになったのは明治から。
須賀神社の例まで挙げてやってるだろ。
神様を主体としていても○○山○○寺○○稲荷明神とかさ。
鶴岡八幡でいえば、鶴岡山八幡宮寺八幡宮だ。
湯島天神は寛永寺の管理下にあったので東叡山寛永寺湯島天満宮であった。
これに喜見院という別当寺が付いていた。湯島天神は天台宗のお寺だったのだ。
神社と寺が別のもので、神社だけど仏様も祀ってたという捉え方が既におかしいんだよ。
それは明治以降の神祇官によって洗脳された考え方で、江戸時代までの人は
これは寺だな、とかこれは神社だな、とは考えなかった。
拝み方も神には拍手で仏は合掌なんてこともやっていなかった。 991日本@名無史さん2018/11/16(金) 07:31:44.72
君の家の本家はずっと神社だったというが、神社なんてものは明治になるまで無かったのだ。
上に書いただろ。○○神社なんて称するようになったのは明治から。
須賀神社の例まで挙げてやってるだろ。
神様を主体としていても○○山○○寺○○稲荷明神とかさ。
鶴岡八幡でいえば、鶴岡山八幡宮寺八幡宮だ。
湯島天神は寛永寺の管理下にあったので東叡山寛永寺湯島天満宮であった。
これに喜見院という別当寺が付いていた。湯島天神は天台宗のお寺だったのだ。
神社と寺が別のもので、神社だけど仏様も祀ってたという捉え方が既におかしいんだよ。
それは明治以降の神祇官によって洗脳された考え方で、江戸時代までの人は
これは寺だな、とかこれは神社だな、とは考えなかった。
拝み方も神には拍手で仏は合掌なんてこともやっていなかった。
神仏習合が分からないのは本地垂迹ということが理解できていないからかも知れない。
ウィキの春日権現の項目がよく書けているので見てみたらいい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E6%A8%A9%E7%8F%BE
春日大社には祭神が四柱。中門の向こうに社殿の屋根が四つ見えるのは知っているだろう。
春日の四神は武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神。
しかし、これらは実はそれぞれ不空羂索観音、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音であるという
のである。仏たちが日本の神の姿をして現れただけで、姿は神だが実は仏。
「観音様や薬師様や地蔵菩薩様だったのか。な〜〜んだ」、てなもん
仮に宮司なんてものがいたとしても、この仏様たちに何をするのだ?
仏は坊主しか扱えまい。興福寺の僧たちは中門の回廊で読経し、法会を行った。
神殿前の僧の読経は今でも社参式という名で行われている。 992日本@名無史さん2018/11/16(金) 07:35:05.85
上記は一部重複 つづき
では、今の神社にあたるものはなかったのかというと、それはあった。
神仏分離後のように厳密に神だけを祀っていたところは無いだろうが、神社と
いえるようなものはあった。
しかし、そういうものは独立してやっていけるわけではなかった。
何故かというと、神様に拝んでもらって金を払う人間などいなかったからだ。
神社など商売にならなかった。金にならないから神社を残すには寺と一緒にして
寺の管理で何とか存続させるしかなかった。
一方、寺は金がかかった。言い方を変えると僧は稼げたのだ。
僧が護摩や祈祷をし、神様が祀ってあるなら神の前で経を唱える。そういうことを
有り難がって人々はお布施をはずんだのであって、神主に金を払うような物好きな人間は
いなかった。
神社だけというのは食えないから、神主は百姓をやっていた。あるいは大工とか。
祭礼のときだけ神主の格好をして祝詞をあげたりした。
神主というのはボランティアのようなものだった。村の鎮守などはこうして守られてきたのだ。
神主をやるのは村の中の役割分担の結果であった。名主などがやることも多かった。
神主の装束も、現在は神社庁の規定もあり整っているが、昔の神社の神主などが着て
いたのは三河万歳みたいなものだった。
神社単独では、こういう形でしか存続できなかった。
993日本@名無史さん2018/11/16(金) 08:27:06.37
NHKのファミリーヒストリーに狩野英孝がとりあげられていた。
実家の神社の歴史が辿られていた。昔火事にあって維新の頃とかの大事なところは
全然分からないという。火事の原因は三角関係での女の放火。
神主だったがずっと農業をやっていたということである。
社格は村社である。当時無格社とされればどんどん併合されてしまった。併合というが
併合されれば結果はうち捨てられて朽ちてしまうだけである。
村社という形でも残れたのは、敷地が広いのが幸いしたのか。
それとも実家は大百姓だったとか。(何か分からないが、狩野の家は神楽や田楽舞い
をやる家だったのではないかという気がする。)。
神社が残る残らないは運もあった。
https://girhythm.yokohama/sakuradayama-jinja
>>979
上記寛政時代の絵図面を見ると参道際の家には「神主」と書いてあるんだから
神主だったんだろ。宮司なんて言われてたのか?俺は知らんけど。 994日本@名無史さん2018/11/16(金) 08:28:12.13
どんなに神仏混淆が進んでも、どうやっても神は僧だけのものにはならなかった。
それは何故かというと、神は怒るものだからである。気に入らないと怒るのである。
(仏は怒らない。ここが大きな違い。)
神社の御神輿を担ぐのでも、ちょっと前までは氏子しか担げないというところが
ザラにあった。氏子以外の者が神輿に触れると神が怒ると思われていたのである。
日本においては、神というのは祈りの対象ではなく、ただ畏れ敬うものであった。
祭りは神のご機嫌をとるためのもので、それ以上の意味は全くなかった。
神は本来人間の触れざるものであり、禁忌のかたまりであった。
だが、現実には触れざるを得ないこともある。
神がいますとして禁足地とされたところでも、まったく放置はできない。
草が生えれば草むしりをし、木が倒れれば片づけをしなければならない。
その他もろもろ、どうしても人の手が入らなければならない部分はある。
それをやる特別の人達がいたのである。(古くは五、六歳ぐらいまでの子供にやら
せていたのだろうが。)。
(そういう人達の流れが後の世の神人(じにん)である。大人になっても童子の
ような髪型や服装をしていた。)。
石上の神杉に触れたら番人に叱られた。あんなことをしたから私の恋はうまく
いかないのだろうか。という意味の万葉の歌がある。
神木に触れるなど許されなかったのである。
強訴のときに神木を運ぶのは春日の神人で、僧は付いていくだけだった。
僧は身分が高く神人を使役していたのかというとそうではなく、僧は神木になど
触れなかったのである。神と特別の関係にあり、隷属民であるが一種聖視され
ていた人々がいた。神地に入っていっても神に罰せられない人たちがいた。
その種の人々の上位に神主たちはいると考えればよい。
神主はどんなり世が変わっても神を祀る以上は必要欠くべからざる存在だった。
だからといって神仏混淆の世でも神主が力を持っていたということはない。
神主は、僧が支配する中での、いわば専門職のようなものになっていた。
995日本@名無史さん2018/11/16(金) 11:40:19.79
なっがいなぁ。一人でやってて楽しいか?
他の人が寄り付かんから止めてくれや。
996日本@名無史さん2018/11/16(金) 12:08:38.12
村の小さな神社でも吉田家支配なら神主には位階受領がある
997日本@名無史さん2018/11/16(金) 12:11:45.74
うぜー
998日本@名無史さん2018/11/16(金) 12:11:54.80
うざい
999日本@名無史さん2018/11/16(金) 12:20:41.88
>>992 なんか思い込みが激しいな。
自分の家系の神社のことしか知らなくて他の神社については知らないと言っても良いが、うちの場合は最初から神社だけだし周りの地元の昔からの神社も一緒に祭り、ある時からは近所のほとんど全ての20位の末社を祭っていた。
収入は氏子からだけではなく、周囲の国人らからの寄付も結構あった様だ。 社領も持っていたし。
また、家系が続かないだろうというのも思い込みだけである。
現在でもうちの家系の人間は本家の周りに何百人かはいる。(特殊な苗字なのでうちの家系以外の人間とははっきり区別できる。) 自分はそこで生まれたが物心着いてからはよその土地で育った。
神主修行をしているうちの家系の人間は今でも十人近くはいるから今の宮司の直系が途絶えたとしてもいつでも同じ家系(血の繋がった)の宮司は補充できる体制になっている。
だって最初に今の苗字を頂いてから700年経つが今だに途絶えていないからね。
江戸時代以降はやはり儲からないから副業をしてたのは事実だが、主に教育関係が多かった様だ。 昔なら寺小屋を開くとか。
今神主修行をしてる人達は色んな神社の禰宜をやったりして一応専業で成り立っている。 1000日本@名無史さん2018/11/16(金) 12:23:51.45
血族先祖に限るなんて銘打ってるんだったらそれこそ遺伝子検査すりゃいいだろ。
男系ならY染色体追うだけで大まかな出自分かるぞ。
lud20221108061901ca
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