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源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは->画像>5枚


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1 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:11:40.61
誰ですか?

2 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:40:50.01
北条泰時 足利義満 徳川綱吉

3 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:29:00.34
参考
日光東照宮
祭神
主 徳川家康
相伴 豊臣秀吉
源頼朝

家康は吾妻鏡を愛読

4 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:57:39.89
源頼朝は源氏嫡流

足利尊氏は源氏嫡流

徳川家康はなんちゃって源氏嘘流

5 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:00:49.58
日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

6 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:04:51.17
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

7 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:24:32.42
>>4
頼朝が嫡流というのも後付けだとも言われてるけどな。

8 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 02:41:36.31
源頼朝

9 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 08:53:05.97
三河の源氏なんちゃって伝承は徳川が源氏に擦り寄るために創作したお花畑物語
よって創作部門第一位は徳川家康

10 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 12:08:58.83
平成の世は仮冒平家ばっかりじゃん。

11 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:54:41.33
>>1
「重要」を詳しく定義しろよ

12 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:36:57.23
>>11
甘えとらんで、それくらい自分で定義しろ

13 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:04:15.35
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する

14 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:05:01.34
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する

15 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 14:56:59.46
以後500年間の武家源氏の権力デフォを確立したから尊氏だろ。

16 :日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:12:27.73
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

17 :日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:21:13.68
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び

18 :日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:46:28.26
岡崎市民の三河人いい加減にしろ

19 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 00:10:23.15
大雑把に
軍人としてなら
家康>尊氏>>頼朝
政治家としてなら
頼朝=家康>>尊氏

こんなもんだろ

20 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 00:23:09.86
足利尊氏が最も重要だゼッ!!!
なにしろ京の都に幕府を開いたからナッ!!

21 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 10:04:47.05
・武家政権確立
・500年中興の祖
・250年稀な安定

好きなの選べば

22 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:47:01.88
>>17
尾張は関係ないだろ
何でしゃしゃりでてくるのか?
田舎者は困ったもんだな

23 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 21:16:17.56
全部。
それぞれ個性が違うし、時代環境も違う。
それぞれの時代にそれぞれ適応してた。

24 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 21:42:12.56
頼朝は尾張出身で地元の尾張熱田神宮に祈願したし
尊氏は尾張熱田神宮を参拝して祈願したし
家康も尾張熱田神宮に祈願した

みんな尾張にゆかりがあるね

25 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 01:34:32.49
>>24
んなこと言ったらみんな相模にゆかりがあるし、
みんな武蔵にゆかりがあるし、
みんな駿河にゆかりがあるし、
みんな山城にゆかりがある。

26 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 01:42:06.07
関東
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
三河
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候(甲陽軍鑑)

27 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 05:38:49.86
>>24>>25
頼朝は父親が元下野守で
尊氏は本領が下野にあって
家康は下野国日光東照宮に祀られた。

28 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 06:33:51.98
>>24
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)


三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)


当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw

29 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 07:12:30.24
>>26
三河ワロタw
>>28
それでも三河ファンタジーを信じる健気さに
三河基地外のお前にまたワロタw

>>27
>頼朝は父親が元下野守で
鋭い
下野すげー

30 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 07:25:47.56
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝




万年パシリ乙w

31 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 07:30:27.19
■鑁阿寺(足利氏菩提寺)

1234年、大御堂を建立

(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏

(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘



万年パシリ乙w

32 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:14:19.80
足利尊氏の200年ほど前の先祖の母方外祖父の一人の
コピペを繰り返し貼らなければいけないほど
三河は有名人に飢えているって話だな

33 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 12:17:05.13
源頼朝の母親と足利義兼の母親が、三河の藤姓熱田大宮司家出身の姉妹だった、中世はこれが全て
足利氏は三河守護になったのではなく、源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との所縁で三河守護になれたが重要

34 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 12:53:50.74
霜月騒動で三河の頼朝譜代はやられたが、尊氏はその敵討ちしただけだろうw


・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭


これ全部やられちまったんだからよ

35 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:16:13.07
そりゃ〜やっぱり頼朝だろう。幕府政治の原型をつくったのは
頼朝だし。

36 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:32:12.86
>>33
頼朝も尊氏も軍事貴族の清和源氏出身だというのがすべてだろ

熱田神宮家がいつ軍隊出して頼朝や尊氏を将軍にしたんだよw

37 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:11:13.05
>>34
追加

12年後に、吉見義世(範頼流)が処刑されて、頼朝縁者追放は完結した
尊氏は三河の代表としてよくリベンジしたわな

38 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:15:08.04
>>37
足利尊氏が200年前の先祖の母方外祖父の母親の血筋の
代表のわけがなかろうがw

39 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:18:02.29
三河のおもしろさは、有名人がことごとく絡んでくる所だわな
とにかくド派手ですわw

吉見氏

■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)

・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する

40 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:23:19.61
三河を知り尽くしていた男、足利尊氏
マメすぎるwお前は家康とやらかよw


足利尊氏関連史跡

■天恩寺(岡崎市)
足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所


■勝楽寺(西尾市)
創建、お手植えの松あり


■その他
【岡崎市】
・滝山寺/足利宗家の氏寺、寺領寄進
・高隆寺/七堂伽藍造営
・真福寺/持地院建立
・満性寺/太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営
・竜泉寺/日静(尊氏の母の弟)開基、元は上野一族(足利一族)の竜泉寺城
・総持寺/高一族屋敷跡に、高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義詮の支援あり
・長瀬八幡宮/社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に
・糟目犬頭神社/庇護(百貫文寄進)、三河鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
・八剣神社/足利尊氏の墓あり、近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった

【豊田市】
・長興寺/三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ

【幸田町】
・安国寺/三河安国寺、全国66ヶ国2島の安国寺の一つ

41 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:24:34.26
>>40 続き

【西尾市】
・実相寺/安国寺(全国66ヶ国2島の安国寺)に指定、尾張国の安国寺の代わりらしい(尾張国にあった記録なし)
・金蓮寺/真言宗光福寺の子院を現在の場所に移転、金蓮寺として再興
・饗庭神社/新田開発し、一宮、二宮、三宮を鎮守、その内の二宮、饗庭命鶴丸氏直(花一揆武士団大将)が関係
・幡頭神社/参拝、弓矢奉納

【豊橋市】
・赤岩寺/阿弥陀如来坐像奉納

【新城市】
・冨賀寺/真応上人(尊氏の従兄弟)が住職、祈願寺として寺領を寄進し、本堂・中堂・護摩堂・阿弥陀

42 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:40:47.64
>>40 >>41
伝説が混ざりすぎ
尊氏関連ならこっちのほうがよっぽど凄いんだが
尊氏が200年前の先祖の外戚の母方が三河出身であったことを誇りにしていて
自分の三河の血を自慢してたのならば当然これより凄いのが三河にあるよね?

■等持院(京都市)
足利尊氏創建
尊氏以降、代々の足利将軍の菩提寺
足利歴代将軍の木像・足利尊氏墓あり

■等持寺(京都市)
尊氏が自邸内に建立した寺
後に廃絶したため等持院が法灯を継ぐ

■御所八幡宮(京都市)
足利尊氏が将軍御所内に清和源氏の守り神である八幡宮を勧請したもの

■天龍寺(京都市)
足利尊氏建立
この寺の創建のために尊氏は「天龍寺船」を送った

■鑁阿寺(足利市)
足利義兼創建の足利氏氏寺
本堂は国宝

■足利学校(足利市)
足利義兼が復興

43 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:13:59.79
知らんわけないだろw舐めてんのか?万年パシリ
すぐ前に鑁阿寺のレスもあるだろが

マイナーな頼之創建の地蔵院や師直創建の真如寺にも行った事があるマニアだ


義兼の母親を菩提寺した法界寺(樺崎八幡宮)はどーした?
三河絡みで隠蔽か?w北関東に足利ゆかりは極めて少ない、一覧にしてあげてみなw



・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼

44 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:20:20.29
よくみりゃ足利学校が義兼と書いてやがるな、万年パシリの田舎猿
伝承以下だろがw

三河の伝承は嘘、三河以外は正しい伝承か?笑わしよるな、万年パシリ


正しい伝承の例(笑)
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい

・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した

45 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:04:46.73
>>32
南朝鮮人の捏造歴史・パクリ文化を盲信する
ウリナラファンタジー信者にソックリだよな
裏を返せばコンプレックスの塊
何も無いから何でも創れる盗れる

46 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:15:08.58
>・滝山寺/足利宗家の氏寺
>藤原季範(額田冠者(三河国額田郡


虚言妄言のオンパレード王者では
三河の徳川家康と三河岡崎じじぃが一番

47 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:38:24.45
>>43
嘘つき三河狸がほとんど無関係な寺社ばかりあげて
42クラスの寺社をあげられない馬鹿だということは分かったよ

脳なしなので話題そらしているが42がきいているのは
42クラスの寺社が三河にあるのか、ということ
で、ないのが事実

無能なコピペを毎日繰り返すニート三河狸。

48 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 23:30:40.73
>>40
>滝山寺/足利宗家の氏寺 ×

空気を吐くように嘘ばかりつくなよw

滝山寺は三河土着の足利一門の氏寺 ○


足利宗家の氏寺は鑁阿寺や等持寺
岡崎三河に足利宗家は存在しない



滝山寺は足利宗家じゃねーぞw
足利一門の氏寺だろw

49 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 01:38:01.79
滝山寺
・正しい家時の没年を記載

鑁阿寺
・家時の位牌の没年を間違える(笑)



何で間違えたかと言うと、法要を鑁阿寺でやっていないからだろ
間違えを指摘する関係者すらいなかったとか笑い殺すつもりか?w

50 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 04:55:25.91
そういえば鑁阿寺って国宝なんだな

地元の高校生の喫煙スポットなんだが火事にはなってないな

てか韓国窃盗団に盗まれた仏像とか、日本て国宝のセキュリティが
世界に例のないくらい甘いな

51 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 09:49:49.94
滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角

1220年代〜1330年代まで

【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する

52 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 09:52:08.02
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する 14世紀
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進する、同時期、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納する
【1335年】足利尊氏(8代目足利氏当主)、中先代の乱で足利直義と三河で合流、滝山寺に千寿王と赤橋登子を預ける
【1330年代】輔阿闍梨貞円(高師泰・高師直の弟)、滝山寺に入山

53 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 20:51:33.98
徳川家は新田源氏を祖ですと愛知県三河岡崎市

それを知った群馬県太田市がそれでは徳川家の発祥地は太田市新田ですねと告知

それを知った岡崎市が太田市新田は発祥の地ではありませんと怒り新党

今だに出目がフラつく得体知れずの徳川がすごい
足利氏や源氏は得体が知れていてつまらん

54 :日本@名無史さん:2014/01/11(土) 09:42:08.17
源頼朝

55 :日本@名無史さん:2014/01/11(土) 10:11:18.29
源頼朝はS体質で恐怖政治で失敗
足利尊氏は乱交プレー体質で幻想政治で失敗
徳川家康はM体質で忍耐政治で成功

よって足利尊氏の圧勝

56 :日本@名無史さん:2014/01/12(日) 00:28:16.03
足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ

これは間違い


承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、縁故者の足利氏に給されて、一族が移り住んだ


三河守護になるならないは関係無し

57 :sage:2014/01/12(日) 18:02:02.44
>>56
正解

三河バカがコピしている尾張熱田大宮司が三河の藤姓熱田大宮司家に
怠慢や諸問題で職を手放し譲渡したかのように捏造拡散しているが大きな間違い

そもそも藤姓熱田大宮司家は神官職についてからは
神宮という職務がら(武家や公家とは違う)本貫を尾張に変更
当然、氏寺も三河バカが捏造寺伝書を拡散する
滝山寺ではなく尾張にある

58 :日本@名無史さん:2014/01/12(日) 20:41:55.13
>>53
そりゃそうだ。wikiにすら古事記坊主と書かれてるレベルの出自だからなww
チカウジなんて出生地すらわからん人間やからなあ

59 :日本@名無史さん:2014/01/12(日) 20:50:27.19
ただ、新田庄世良田得川なんて単に自称しただけで円もゆかりもないだろ

60 :日本@名無史さん:2014/01/13(月) 19:28:58.12
義国流の三河と下野への関わりはタイムラグは無い
しっかり下野に土着していないから、三河と下野を比べた場合、三河を選ぶわな
鎌倉殿にも繋がる三河の人脈は華やかだからw

・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条

61 :日本@名無史さん:2014/01/13(月) 19:37:03.84
義氏が三河守護になって、三河にやってきた時、範頼の息子も坊さんで三河にいたんだよな
吉見氏が、室町幕府の幹部として優遇されたのも、全部三河繋がり
これが中世〜近世、日本を支配した三河ネットワークですわ


吉見氏

■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)

・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)

正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する

62 :日本@名無史さん:2014/01/14(火) 01:30:46.39
>>53
徳川家の前身の松平家の発祥地は、三河国の松平。

63 :日本@名無史さん:2014/01/14(火) 02:11:36.39
>>62
松平という家は三川の糞山奥にあるが、
初代親氏は別に三河出身でないどころか出自も出身地すら得たいしれないから世良田得川を称したんだろ
松平時自体が問題じゃなく、その松平家を婿養子とは名ばかりの乗っ取りした親氏自体が徳川家の祖なんだから、
現実的にいや遺伝的発祥はどっちもかんけいない

64 :sage:2014/01/14(火) 21:38:06.27
徳川家康って最初は藤原氏の末裔を名乗っていたんじゃねえ?
ってことはハイブリット家系???
凄いじゃんwwww

65 :日本@名無史さん:2014/01/14(火) 23:27:59.40
途中から本姓を変えるなんて当時はよくあることで、
正直別にすごくない。

66 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 02:07:37.22
影響力から言えば
当然古いほうが影響力がでかい

67 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 12:47:15.09
少なくとも指導者の資質としては尊氏は後の二人より明らかに落ちるな。
「いい人」であることは幕府の指導者としての資質としては必ずしもプラスではない。
やはり、最初に確固とした武家政権を築くのに力のあった頼朝が歴史気的影響としては大だろう。

68 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 14:30:38.63
成り上がり度とプラスアルファ
一位 頼朝 (流人しかも譜代の郎党は実は皆無→武士トップ&公卿、
実は存在しない清和源氏嫡流捏造成功
利害関係がドライな主従関係の時代に御恩と奉公確立)
二位 家康 (一応譜代がいる小土豪→武士のトップ&大臣&孫娘が皇室に嫁ぐ&死後に神格化
奇跡の260年の泰平の基礎)
三位 尊氏 (有力御家人&一門多数&譜代多数&頼朝によってageられた源氏の血筋→将軍
大混乱の時代を勝ち残れたことは評価できるが足利時代は混乱の連続)

69 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 15:10:30.13
>>68
譜代は土豪じゃなく山の名かにすんでた山賊崩れじゃん
土豪とは言わない
結局秀吉一門見れば成り上がりは蜂須賀みたいなリアル荒くれ集団従えて力による統治でしょ
松平も山奥の、譜代とかほざく山賊集団従えて平野に降りてきたでしょ
そもそも山奥の山中住みが土豪とか、・・・
秀吉は川並衆みたいな川賊を従えて物流や職人技で他を圧倒し
松平は生粋の山賊上がりを従えて東海を圧倒した
土豪なんて後ずけの正当化だよ

70 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 15:57:41.68
>>68
清和源氏嫡流は当時決まっていなかったとはいえ
頼朝の父・祖父は保元の乱に勝利して嫡流の座を武力で奪い取ってきたのだし
頼朝はその嫡子なのだから捏造といえるほどでもないよ

家康の捏造のほうが酷いだろ
そもそも清和源氏の血を引いていないのだから

71 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:05:34.23
>>69
家康の先祖の出身には色々ありそうだけど
家康の頃には先祖の代からの家臣というかお仲間がいたでしょ?
(麗しの主従関係は後付けの話で実際は裏切りでもなんでもありのドロドロしたもんだと思うけど
)

72 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:08:24.65
>>70
義朝敗北、頼朝流刑の時点で勝ち取ったものは全てチャラ。

73 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:12:04.62
ちなみに頼朝挙兵の少し前の時点では
八条院側近で公卿の頼政の立場や地位のほうが上だし
保元平治の頃の各源氏も義朝やその所属勢力の同盟者であって
義朝の支配下にはいない。

74 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:56:28.90
>>68
頼朝の兄弟皆殺し見れば納得するわ
嘘で塗り固めて成り上がった張りぼてが見事に行動と心境に写し出されてるからな
まあ頼朝自体も担ぎ上げられただけのそこらの馬の骨だから暗殺されたわけだ

75 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 17:22:03.50
三河の源頼朝がつき、三河の足利尊氏がこね、三河の徳川家康とやらが食った天下餅か?w

家康とやらは、源氏が構築した三河ネットワークに、ただ乗りしただけだな
三河の王以外が、天下を取れた可能性はゼロだわな

76 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 19:29:40.82
天皇家だろうが公家だろうが家格の高い武家だろうが
正当な嫡流がスンナリ収まるってことは平安末期〜戦国の中世では寧ろ希

けど家康の場合は捏造して三河と近辺に源氏捏造古文書や寺伝書やら創作して
吾妻鏡やら中世文献を都合よく箇所箇所、編纂させ
近江や相模・武蔵・伊豆から源氏ゆかりの仏像やら武具やらを三河に奪取させて
三河源氏ファンタジーを造った努力の人
だから三河岡崎の縁起・由緒が分かる重要な手がかりである古文書で
国宝級重要文化財級はもとより
愛知県指定の重要文化財級の古文書は一切ないのは当然www

77 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 09:14:05.32
>>72
チャラになってないよ。
その証拠に、平家打倒を呼びかけた以仁王は諸国源氏に放棄を呼びかけ、
頼朝にも挙兵を命じる令旨を送っている。
チャラになっていたなら、挙兵できるはずもない流人の頼朝にそんなの送らないよね。
武家源氏の嫡流として平家さえ弱ればいつでも挙兵できると思っているからそんなものを送るわけで。
平家と不和をきたした後白河法皇自体、頼朝の流刑を解いて平家追討の院宣を与えている。
勿論、頼朝がすべてチャラになった庶民以下の罪人ならこんな院宣与えない。

78 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 12:14:32.80
>>77
まず令旨は頼朝にだけ出されたものではない。
近江、美濃、尾張、甲斐、義仲などの諸源氏(ちなみに義仲な倶利伽羅峠まで都では無名な存在)、八条院支配下にある藤原系武士(小山氏)などにも出されている。
頼朝はその中の一人に過ぎない。(伊豆知行主頼政に近い伊豆国人からの推挙か)
数打ちゃ当たるの中のどさくさで出されたうちの一人で、差ほど期待されていたかも不明。
ちなみ後白河院が令旨と同時に赦免したとか院宣出したというのは後の結果を知ってるフィクション「平家物語」だけの内容。
頼朝が赦免されたのは挙兵から三年後の1183年に出された「十月宣旨」の時でそれまでは都では罪人扱い。

79 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:33:03.58
75
足利の植民地がなんかいってんの?
三河幻想っていつからかね〜

80 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:35:07.90
その藤原ってのがいつから定着したかが謎なんだよな〜

81 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:43:22.31
源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家の親戚として三河に拠点を設けましたが?

・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)


・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条

82 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:47:56.41
何回言っても理解できないクルクルパーだなw



足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ

これは間違い


承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、その所領が縁故者である足利氏に給されて、一族が移り住んだ

83 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 15:00:10.05
>>78
だから、完全チャラになっていたならそもそも頼朝に令旨が届かないでしょ

絶対に挙兵できない相手になんで手間もお金もかかるのに
使者使ってそんなもん送るんだよ
送った以上は挙兵を期待していたはずなのに

それに源氏の多くは平治の乱で敗れて流人や乳母に隠されて養育されていた
そんな状態からでも挙兵できたのは
やはり清和源氏が平家に並ぶ武の血筋だったからに他ならない

84 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 16:38:01.36
>>83
憶測激しいわ
仮に源氏の血筋が根拠と言うなら、その血筋を流用して使用したのが後の頼朝だろうな
だから兄弟に情どころかいつタマとられるか気が気でなく、暴挙に出たあげく自分も消されたんだろう

85 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:12:17.43
>>83
頼朝挙兵成功の理由の要因は東国武士同士の対立に上手く乗ったことなんだよな。
東国武士の平家方豪族に圧迫されていた非平家方豪族をやっつけたい、
その為には反平家の旗頭が欲しい。そこにたまたま頼朝がいただけ。
反平家方豪族は旗頭はそれなりの血筋があって前歴でもいいから官位をもっていて都に人脈があれば
別に源氏でなくても誰でも良かった。
たまたま坂東で令旨をもらっためぼしいのが頼朝しかいなかったのと
頼朝と坂東武士がうまく時流にのっただけ。
ちなみに伊豆の豪族は当初頼政の孫の有綱をかつごうとしたけど
有綱が坂東から逃亡したからピンチヒッターで頼朝を担いだという説がある。

お金と手間に関しては挙兵のスポンサー八条院は大富豪だから問題なし。

味方は多いほどいいからね。

86 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:16:43.04
ついでに書くと最終的に勝利したのが頼朝と坂東武士団だから彼らが
反平家の中心勢力だと思われるけど
決してそうだとは言い切れない。
近江や美濃、寺社勢力のほうがむしろ期待されていたと思われる。
事実富士川直後に彼らは挙兵し平家の当初の交戦相手は畿内の勢力だった。

87 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:43:50.46
>>83
逆に考えようか。
全盛を誇る平氏と戦うということは
当時の人から見れば狂気の沙汰でしかない。
地位や財産のある人は失いたくないものがあるから挙兵しない。
少なくとも先陣は切れない。
しかし失うものが何もない流人は
自棄を起こせばなんでもできる。

しかも伊豆は頼政の支配下にある。
脅しつけてでも頼朝を挙兵させることができる。
そしてそれを導火線にして反乱の火の手を拡大させる。
成功すれば御の字で成功の果実は頼政が頂く。
失敗したら流人の反乱で処理して口を拭う。
頼朝は導火線の着火点位位の役割で
令旨を出されたじゃないのかな?

88 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:00:45.37
>>84
>>85
頼朝が源氏の血筋を引いて無くても令旨が届いたのかい?

それをまず考えてみるといいよ

89 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:11:46.00
>>88
源氏の血をひいてない小山氏(藤原氏)も令旨をもらってますが。

90 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:29:49.20
面積最大の八条院領、三河国加茂郡高橋荘・高橋新荘

・立券:藤原季兼(三河四郎大夫)か?
・寄進:藤原季範(額田冠者)か?
・荘司(治承年代):足助重長、長田忠致


藤原季兼(三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝

91 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:08:01.06
中央集権に近い政権別

江戸幕府>>>>>>>>鎌倉幕府>>>>>>>>室町幕府

政権樹立後安定させた機関

江戸>>>>>>>>>>鎌倉>>>>>>>>>>>>>>>室町
長きにわたる平和が
各藩の士族の世襲による増加により財政疲弊をおこして
廃藩置県の時に、スムーズに中央集権化がなされたところを
評価するならば  家康が最強
豊臣政権があのまま続いてたら、欧米勢力に植民地化されていたであろう

92 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:21:44.47
>>87
以仁王の挙兵から探ろうぜ

>>90
徳川の創作物語を平成の世にしつこく語り継ぐお前は悲惨
痴呆板愛知県岡崎スレに逝けw

93 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:38:27.65
>>89
小山氏は藤原秀郷流の武門の家だろ
もともと兵を揃えた家だよ

頼朝は平治の乱で全くゼロの状態になったというのだから
つまり、百姓以下
百姓もしくはそれ以下に令旨を与えた例を挙げろ

94 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:04:05.64
>>93
チャラになった=百姓以下とは極端な解釈。
チャラというのは
・義朝以前から積み上げた都の武者としての地位
(といっても武家源氏のトップに立つ棟梁を意味しない)
・義朝が入り込んだ人脈
・それらを背景に従えた利害関係むき出しの東国武士との主従関係
がチャラになったという意味だよ。

95 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:07:17.70
>>97
以仁王の挙兵自体が、計画の最中に情報漏れて
バタバタした想定外の出来事だけどね。

96 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:17:16.09
>>91
といっても江戸幕府も直轄地以外は各藩が自分たちのやり方で政治していた連邦政府に近いモンだったんじゃない?
鎌倉期は武士は土地を支配する権利だけもってただけ。しかも御家人じゃない武士も多数いたし
朝廷も武士も手出しできない寺社という厄介な存在もいたよね。

室町が一番グダグタという点には異論はない。

97 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 01:10:54.22
>>94
史実で挙兵後、あれだけ多くの家来が従ったってだけで、
「チャラになってない」ってことがわかりそうなもんだが・・・

頼朝は決して唯一の「清和源氏嫡流」でなく、鎌倉幕府を開いたからこそ嫡流になった、
っていう程度なら、それは正しいけど、
「チャラになった」ってのはどう考えても言いすぎ。

98 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 05:25:32.44
>>97
言いたいことはわかったけど
あなたの書き込みは頼朝の下に東国武士が従った理由を
頼朝の血筋のみに求めようとする見方のようにも読み取れたんだよね。
頼朝の先祖と東国武士との間には累代の主従関係があったという見方は最近は否定傾向。
源氏と東国武士との間に利害関係があるうちは主従であるけど
利害関係がなくなると主従関係は抹消される。
都での地位を失い、無力となった1160年時点の頼朝と東国武士との主従関係は完全に消滅(=チャラ)
ただし、東国武士同士の対立が深まり1179年の治承三年の政変で東国での知行国主の交代で
緊張が高まったらかつて都の武者だった頼朝の利用価値が急激に高まった。
この事態は1160年時点では誰も予想できなかった事。
つまり、血筋+時代状況+頼朝の人脈と過去の履歴+頼朝の能力
で頼朝の成功をみるべきで頼朝の血筋のみに成功の要因を見いだすべきではないと言いたい。
(血筋のみに求めようとしていると読み取ったのが誤解ならばお詫びします)

99 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:44:15.58
なによりでかいのが鎌倉氏(平氏)の娘を嫁にしたことだろ
じゃねえと平氏筋が従う理由がないからな、あとは将門あたりの
失敗が大きいかも
同族で纏まる機会をこいつが潰してるもん|( ̄3 ̄)|

100 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:45:52.35
あ〜頼朝じゃなくて義家かな?

101 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:49:06.91
つうか京に対する対抗筋だから失敗すればもとから殺されるだけの運命

頼朝公のシャレコウベっていってな|( ̄3 ̄)|

102 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:32:30.28
まとめといたよ

■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数

103 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:34:33.60
B藤原範季
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

104 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:36:01.88
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)

105 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 20:54:12.13
糞みたいなコピペ連投はやめろよクズ

106 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 18:20:27.85
日本のテロに「隠れたメッセージ」があった

http://music.geocities.jp/jphope21/0202/9/189_1.html

そこに、重要な事項があった。

( http://music.geocities.jp/jphope21/0103/36/249.html )

107 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 21:59:05.83
頼朝が搗き、尊氏が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは家康

108 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 23:17:46.00
頼朝に決まってる
鎌倉幕府はもはや革命

109 :日本@名無史さん:2014/01/23(木) 21:52:08.45
>>107
三河のが抜けていないかい?

くだらないセンゴク、家康とやらだけ(今川もか?)は守旧派だったわけだな
上層部を三河武士が占める武家政権を変革する必要はないわけだから

110 :日本@名無史さん:2014/01/23(木) 22:02:42.89
>>102
崇徳院の妾、兵衛佐局(皇子垂仁親王の乳母は池禅尼
)は、武衛の親戚の記録があって、三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるらしいな
もう一人の妾は三河権守の娘



これも三河ネットワークか?w

111 :日本@名無史さん:2014/01/23(木) 22:20:02.96
三河厨土人は脳に蛆わいてんの ?

112 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 00:24:17.57
頼朝居なくても義仲が決起してただろうし尊氏居なくても
新田が北条倒してただろうし家康居なかったら豊臣が幕末まで
天下握ってただろうから三人とも要らん!!

113 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 00:47:04.00
>>112
一番差がつくのは足利と新田
新田が足利に変わるのは無理

114 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 00:58:10.91
そういや義仲って瞬間的に将軍にならなかったか?

115 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 01:14:43.43
>>114
義仲が任官したのは「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」とする説が有力らしい

116 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 01:31:19.94
尾張のドン百姓に政治は無理だわなw
織豊時代(笑)は20年位だっけ?w
日本を統治したとは言えまへんw

117 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 01:55:59.49
>>113
新田には運営ノウハウが無さそうだよね
100年くらい幕府中枢から弾かれてたんだろ

118 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 12:07:08.25
当時新田は朽ち果てた地方の源氏一門
兵を挙げるにも100騎くらいしかなかった
源氏嫡流の足利に対して家格も求心力を全く及ばなかったし
新田義貞自身も武将・政治家として評価は低いよね
ただ楠木や北畠と上手く共闘していれば時代は変わったかもしれない

119 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 16:43:15.61
>新田
頼朝に嫌われたのがケチの付き始めだねぇ
源氏の名乗りを許されないわ、庶流に次々と独立されるわで踏んだり蹴ったり
途中合流した一族は、義貞が上野陥落させるまでは様子見してたんじゃなかろうか

120 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 16:56:21.93
>>113 >>117
北条倒したのは新田だろ
尊氏は都にあって六波羅探題を攻めただけ

まさか、鎌倉攻めを指揮したのは当時4歳の千寿王
千寿王には4歳にして戦のノウハウがあったと?

121 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:00:51.74
たかが4歳
されど4歳
昭和平成の4歳タラちゃんと比べちゃいけない

それだけ源氏棟梁足利家の嫡男が新田に付く影響は大なんだよ
事実、千寿王が加わったわずか数百騎の軍勢だった新田勢には、
上野・下野・上総・常陸・武蔵の関東各地の足利一族と
源氏一党が続々と集結を始め、その日の夕方には二十万騎に達したわけ

122 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:12:53.02
>>117
代わりに修正したよ



三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き、三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは三河の家康とやら

123 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:31:32.84
>>121
に十万騎とか本気で信じてるのか?
全国統一の秀吉の小田原征伐ですらに十万なのに、
本気であの時代に関東だけでに十万集めたとでも思ってるのか?
関東の覇者後北条ですら三万レベルなのに、なんだって?

もう一回いってくれや人数を!

124 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:53:47.53
そう興奮するなモチつけw

誰もあの時代に二十万騎きっちり揃うわけねーじゃんw
太平記や難太平記や鎌倉の北条方も古文書などに記述はあるが
当時の今川始め、書いた本人達も盛りに盛った数字くらい
理解していたはずw
けど千住王が加わっって新田の軍勢が以上に膨れ上がったのは事実って
ことだ

125 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 20:32:46.16
やっぱこういうの聞くと源氏の正体はファンタジー国家からの渡来人じゃないかと疑ってしまうよ、、
実際疑惑はいっぱいあるしさ
盛りにもってよくて二千強を二十万とオオホラつくところはもう皆さんお馴染みの渡来人レベルにだ

126 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 20:49:59.99
戦国は云うに及ばず源氏も平家も似たり寄ったり
その凝縮系が家康三河・三河厨土人ってことだなw

127 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 20:58:51.88
渡来人とやらにどんだけ夢みてるんだ?
日本はもとより物部系の国ですがなあ|( ̄3 ̄)|

128 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 21:02:27.95
まあありえるとしたら天皇関係でやたら天神地祇って言葉がでてくるからそれ関係の渡来してきたやつらはいるかもな
半島あたりが過去は先進地帯だのってのは幻想だからあきらめろ

129 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 21:12:32.67
日本人なんか元を糺せばみな渡来人だしww
日本列島で人類が発祥したとでも思ってんの?w

130 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 22:28:52.15
>>127物部こそ得たいの知れない渡来系ですがな?

131 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 22:39:18.65
三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き
三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは三河の家康とやら

132 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 09:21:06.08
>>131
そこまで女系優遇だったのならば源氏三代がほろんだら当然に
藤姓熱田大宮司家から次の将軍が迎えられるべきだったのに。
源頼朝じゃなくて三河頼朝、三河尊氏なんでしょ。
藤姓熱田大宮司家って、鎌倉幕府や室町幕府内で
将軍の出身氏族としてどんな役職についていたの?

133 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 09:32:09.91
>>109
悪りぃ三河が抜けたワw

近江尾張の頼朝が搗き
相模下野の尊氏が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは得体知れずの三河山賊の家康とやら

その家康の捏造糞を貪り食うは三河厨の岡崎土人とやら

134 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 15:40:25.83
坊門姫は、三河の藤姓熱田大宮司家の血を引いとるがな
役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな

135 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:31:26.45
火病ってる三河バカは全く学習能力ないな

尾張の熱田神宮の初代藤姓熱田大宮司藤原季範から代々
尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった
宮司職として本貫も氏寺も藤原季範の代から尾張に変更してから平成の現代に至るまで
尾張になっている
三河は熱田大宮司職とは全く関係ない
三河に土着した親父も季範の大宮司職とは全く関係ない

つまり初代「藤姓」熱田大宮司は尾張なんだよ
三河藤姓熱田大宮司家は妄想の家で現実は存在しない
あえて史実に忠実に書くなら
尾張藤姓熱田大宮司

マスカキ・クズレスばっかで三河の恥をこれ以上晒すなよw
現実を観ろwww

136 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:48:41.16
>尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった


室町期以降の話だろw


頼朝同母

・坊門姫
・希義


土佐吉良氏

希義→希望(吉良八郎希望)

土佐吉良氏の歴史を記した『吉良物語』を見ると、希義は平田俊遠の弟三郎経遠の女のもとに通い、希義が討たれたあとに女は男子を生んだという。
これを希義に心を寄せていた夜須七郎が聞き付けて、頼朝の高聴に達した。頼朝はこれをにわかに信じなかったが、のちに希義の子と認め、土佐郡吾川郡のうちに数千貫の土地を与えた。
さらに、三河吉良庄に馬の飼場三百余貫を賜り、吉良八郎希望を名乗った。そして、吾川郡大野荘に吉良峯城を築城し、土佐吉良氏の始めとなったである。



史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw

137 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:57:54.38
源頼朝関連史跡
尾張
・頼朝が生まれた産湯(頼朝は名古屋でうまれたぎゃ〜)

三河
■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する

一覧
【西尾市】光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂【豊橋市】赤岩寺/弥陀堂、普門寺/観音堂【蒲郡市】長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり、全福寺/現在は廃寺、丹野御堂【豊川市】財賀寺/観音堂【新城市】鳳来寺/弥陀堂

■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営、源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨

■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進

【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築

138 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:58:36.87
【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請

【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建

【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納

【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領(1000町歩)寄進

【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営

【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進

139 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 17:05:00.39
>>135
初代藤姓熱田大宮司藤原季範の誕生からだから平安末期だな

140 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 17:22:14.07
>>120
当時幕府軍の主力は西国の謀反軍を鎮圧するため京周辺に集結していた
鎌倉は京周辺にいた幕府軍の主力が壊滅した段階で既に死に体だった
だから六波羅探題を陥した足利が鎌倉を陥した新田よりも評価された

141 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 18:15:03.04
なぜ源頼朝と足利氏は、尾張を無視するのか?



三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)          ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む

142 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 18:20:26.12
なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)

143 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 19:12:45.80
>>134
坊門姫は頼朝の妹で親父は頼朝と同じ
正統な源氏の血筋だろw

父系で頼朝と同じ源氏の血を引かないにもかかわらず
母系の藤姓熱田大宮司のみの血の力で頼朝に重用されないと
頼朝の母系重視・藤姓熱田大宮司重視とは言えない
坊門姫は熱田大宮司を継いだわけでなし母方の藤原姓を名乗ったこともない
父系重視で重用されたとしかいえん

144 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 19:25:54.92
なぜ尾張は無視されるのか?親戚の一人もいないだぎゃ〜
これではただの、頼朝が生まれたと主張する頭の悪い田舎者だぎゃ〜



頼朝の従兄弟

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏



鵜殿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html


吾妻鏡 元暦二年(1185)二月

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。
南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。
褒美に馬を引き出しました。
その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので
、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。
忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、
「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」
そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。
源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。
信仰心も厚いのでなおさらだとさ。

145 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 08:56:29.70
>>136
>役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな
>室町期以降の話だろw
>史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw

三河バカにかかったら
父系も母系も室町時代も平安時代も史実も時代考証も関係なしってことか

146 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:39:32.15
>>144
お前の大好きな頼朝の女系熱田大宮司を出してきてやったぞw

古代豪族尾張氏ー尾張員職ー女ー藤原季範ー由良ー源頼朝

頼朝は古代豪族尾張氏の血を引いてるんだね。
三河人の血は引いてない。

熱田神宮の有る場所=尾張
熱田神宮に近い尾張誓願寺は熱田大宮司の自宅があった場所で、頼朝生誕の地の碑が建つ。

147 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:14:59.46
>>146
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる


名古屋は一切関係無し
ダサいダサ過ぎるw


頼朝の名古屋飛ばしが無慈悲過ぎるw

148 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:29:50.88
ごめん傍からすまんが、仮に移住してきたとしても、
尾張国の人であることには間違いないんでないの?少くとも三河とは全く関係ないし。

149 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:34:08.69
頼朝に関しては、自分に近い源氏は粛正、母方、乳母関係者優遇は常識だろ
頭の悪いレスばかりしやがって、万年パシリの尾張猿め

150 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:10:08.66
>>148
尾張に住んだ事すらないw熱田神宮の社領を守り切れず、三河の実力者にすがりついたはいいが、大宮司職を乗っ取られたw

尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)



三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)

151 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:13:43.18
まあ三河は関係ないな。

152 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:22:24.64
>>45
まあそう言うことだ

153 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 14:02:42.52
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)



当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw
頭の悪い田舎者、名古屋人のセンズリねたじゃねーつーのw

154 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 14:52:36.19
>>135
納得

三河バカが叫んでいる
頼朝・尊氏の根幹が藤姓熱田大宮司家なら
尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん
尾張サゲのカスレス連発で必死だけど
自分で自分の首を絞めているってことくらい気づけよw

155 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 15:47:54.77
三河厨土人は妄想ファンタジー史しか語らないなあ
お前はなに人だ?w

156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

157 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:11:47.40
>藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間


またお前はまちがえているなw
この間も間違えていたいただろう、低能め


こいつは同姓同名、後白河院とは年代がちがうだろw


藤原季兼
平安末期の管絃に堪能な殿上人。父方の祖父敦家,父敦兼,母方祖父顕季と名だたる管絃堪能者が居並ぶ家系に生まれる。
『尊卑分脈』に「正四下備後守」と注される季兼が,にわかに殿上を許されたのは崇徳天皇の御遊の際であった(『今鏡』)。
『古今著聞集』には,保元3(1158)年の復活内宴でひちりきを奏した話(巻3)や鳥羽院の八幡御幸で神楽庭火の本歌をとなえた話(巻6)などが載っている。
『梁塵秘抄口伝集』には「資賢,季兼など語らひ寄せてもきゝ」と親王時代の後白河天皇の今様先達のひとりでもあったことが記されている。




時系列さえ掴めていない、馬鹿丸出しの田舎猿め

158 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:19:54.73
えーか低能、生没年は1044-1101年
馬鹿向けにわかり易くまとめておいた、これさえ理解できない、クルクルパーめ



三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)          ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む

159 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:39:14.02
>>158
お前の言う三河人第一号・藤原実範の前の家系図は?
馬鹿なの?

160 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:44:40.71
>>158
>藤原実範
この前を何故書かない?

藤原実範の父藤原能通はキ生まれ都育ちの貴族。

で、その息子がいきなり三河人???

血統主義で一度でも女系で三河人の血が入れば
その子孫は永遠に三河人だと言い切るお前が

なんで都人の息子を三河人だというんだ?

161 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:49:19.05
>尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん



だったら足利王国は尾張にできていたはずだろw
現実は、尾張は要らないとばかりの尾張無視w

162 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:50:14.53
なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)

163 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:53:46.61
なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)

室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代・渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動

164 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 18:46:12.47
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

165 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 18:46:51.30
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

166 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 18:56:39.98
>>161
足利は下野国足利庄に発祥し、
承久の乱後に三河の地に来た外様。

どこまで馬鹿なの?

167 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:04:40.19
>藤原実範
この前を何故書かない?

藤原実範の父藤原能通はキ生まれ都育ちの貴族。

で、その息子がいきなり三河人???

血統主義で一度でも女系で三河人の血が入れば
その子孫は永遠に三河人だと言い切るお前が

なんで都人の息子を三河人だというんだ?

168 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:06:14.74
クルクルパーはこれだからw親戚がいっぱいの縁故地でしたがw



D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)


E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

169 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:25:51.71
>尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん



後醍醐天皇追悼の一大イベント

天龍寺供養参列者
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html



当然、三河だらけですが、尾張は一切ありませんなw
いやいたか?w尾張だぎゃ〜と主張する、三河守の千秋三河守惟範(三河国設楽郡千秋)さんがw

170 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:24:04.72
三河バカが爆走しているお陰で

なぜ幕府の開祖は人気がないのか スレと

区別がつかない件についてe

171 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:41:52.43
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。

172 :日本@名無史さん:2014/01/29(水) 14:46:16.78
滝山寺の嘘縁起のコピペ繰り返して暴れてたのは
三河馬鹿だったかw

173 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 00:07:27.38
頼朝や家康が尊氏みたいに兄弟2頭政治をやったらどうなっていたんだろうね
室町幕府と鎌倉公方みたいな2大拠点をやってたらどうなっていたんだろうね

174 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 12:12:54.56
>>173
駿府で大御所やってる時は、実質的に江戸と駿府の2拠点になってたけど

江戸幕府初期は江戸と伏見が活動拠点だったし

175 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:36:35.24
足利歴代将軍の木像の中で
尊氏が一番優しげな貌しているな。

176 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:36:28.26
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


やってんだよねじゃねーよw万年パシリの猿

177 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 23:04:25.71
>>174
江戸と駿府を未来も継続しようと思わなかったはず
一般的な史実は承知の上で
改めて、
京都ではなく
頼朝は京都ではなく
鎌倉に家康は何故に幕府を開いた
のかが不思議なんだよね

178 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:08:08.30
範頼を追加しておいたよ



■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数

179 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:10:42.46
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

180 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:11:21.94
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)

181 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 08:24:42.32
>>154
それでも猿のマスカキを止められない三河バカ
よっぽど尾張の藤姓熱田大宮司家と熱田神宮と尾張が大好きなんだな

182 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:10:34.64
頼朝はオナニーネタだみゃ〜
頼朝は名古屋生まれだみゃ〜か?w

183 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 13:54:39.26
三河バカ、とうとうご臨終かw

184 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 20:08:43.73
で、結局は武家も滅んで今じゃ一般市民ですよ
彼等にとって何のための800年だったのか・・・

185 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 20:19:57.77
歴史古い順
上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成26年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市(街))(物流の一大拠点経済の中心)商人が増え出す 商業都市として栄える(大阪市)石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)跡地に大阪城(難波津や渡辺津が船場となり商工業が更に発展)
大阪市(難波宮、難波京)
奈良市(平城宮、平城京)
京都市(平安宮、平安京)
江戸(東の京、東京)
江戸城を築いたのは大阪の源氏
東京へはまだ遷都されていない為現在でも首都は東京じゃない

186 :日本@名無史さん:2014/02/11(火) 08:27:25.79
wikiだが

藤原範季
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3


>どのような伝を辿ったのか不明だが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の子・範頼を引き取って

>後白河法皇の指示か奥州藤原氏との縁によるものか不明だが、源義経を庇護し



わからなければ、三河の藤姓熱田大宮司家を調べろつーの、間抜けめ
恐らく二人の援護者は藤原範忠(頼朝母の兄)
三河守になれた範頼は言うまでもないが、三河守護所があった明大寺の由来は義経創建と言われる妙大寺
これが三河ネットワーク


http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/7065229.html

187 :日本@名無史さん:2014/02/16(日) 07:35:27.93
必死にwikiまで
晒して都合が良いとこだけ拝借・捏造して
人間として恥かしくないのかねw

188 :日本@名無史さん:2014/02/16(日) 22:57:46.59
ホント恥ずかしい行き恥さらしのカスだなぁこいつはw
同じ人間であることが恥ずかしい

189 :日本@名無史さん:2014/02/21(金) 22:25:01.62
難太平記 足利歴代について

(義兼は)頼朝右大将の側近となられたが、なお世にはばかって狂人のふりをされてその代は無為に過ごされた


大げさと思ったが、当時、三河の藤姓熱田大宮司家が緩やかに分裂していたとしたら、範頼がやられたことで義兼がびびった気持ちもわからないではない



中立グループ
・藤原範忠(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範季(範頼の養父)
・源義経(嫁は比企尼の次女の娘)
・源範頼(嫁は安達盛長と比企尼の長女の娘)
・足利義兼


親源氏グループ
・藤原範雅(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範経(藤原範雅の息子、1185年に頼朝の後押しで大宮司)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・源頼朝

190 :日本@名無史さん:2014/02/21(金) 22:53:44.45
源頼朝⇒鎌倉神君
足利尊氏⇒無し
徳川家康⇒東照神君

初代将軍の結論は
(*◎д◎)♂ これでハッキリしてる

191 :日本@名無史さん:2014/02/21(金) 23:04:00.72
【ネット署名を受付中】

「朝日新聞」社長と「河野洋平」氏の証人喚問要請
http://www60.atwiki.jp/team_japan/pages/30.html

〜 慰安婦問題は全てここから始まった。 〜

192 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 00:24:33.42
訂正


難太平記 足利歴代について

(義兼は)頼朝右大将の側近となられたが、なお世にはばかって狂人のふりをされてその代は無為に過ごされた


大げさと思ったが、当時、三河の藤姓熱田大宮司家が緩やかに分裂していたとしたら、範頼がやられたことで義兼がびびった気持ちもわからないではない



中立グループ
・藤原範忠(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範季(範頼の養父)
・源義経(元服に藤原範忠が立会い、嫁は比企尼の次女の娘)
・源範頼(幼少期は三河の藤姓熱田大宮司家が庇護、嫁は安達盛長と比企尼の長女の娘)
・足利義兼(藤原範忠の実の孫)


親源氏グループ
・藤原範雅(由良御前の兄)
・藤原範経(藤原範雅の息子、1185年に頼朝の後押しで大宮司)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・源頼朝

193 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 01:14:32.73
頼朝でしょうな

194 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 08:12:13.20
 
             _,,..--――--,,..
           /:::  ハゲ     \
          /:::"            ヽ   ←ジャムリン
          ,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟   i
       `. `Y..      / ー-' ヽ        '.    
        >イ ヽ  ::.| ト‐=‐ァ' |:     i    ボクはジャムリンです♪
       ノ∧  丶、 ` `二´'      }ィ´`フ
 _人_    /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く  V
 `Y´    /::::::://:::/:::::|  ><  /:::丁´:::::::::::::V゚}∩  *  ボク、ジャムリンは 
       /::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
.     /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::}    っ     ウィキペディアに悪意に満ちた編集・加筆してます
    //:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧  , ィ´
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    `ー七:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ |:::::::::::::::::/
     //:::::::::::::::::::::::<>::::::::::/::::/  ヽ:::::::::::/
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195 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 09:05:37.21
みんな信長よりは下。

196 :日本@名無史さん:2014/02/24(月) 23:23:35.67
小保方さんと小弓公方は関係あるでしょうか?

197 :日本@名無史さん:2014/03/01(土) 17:00:55.83
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝

鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥 尊氏

鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康

198 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 06:08:03.74
>>197
尊氏は
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう
では?

199 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 09:33:36.33
後醍醐天皇を見切って北朝を造った尊氏ってことだな

200 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 12:47:08.95
面白いスレだな
>>96
江戸幕府は「強い中央政府ありきの地方分権体制」だからな
各藩の自治を認めていた
大名に中央政治には関わらせないことにしたってあるけどそもそもが地方分権論者だったし家康
大名連中も自分の領地は自分で自治したいって連中だし
この「強い中央政府ありきの地方分権体制」がよかったんだと思う
中央集権と地方分権の融合の産物=江戸幕府
>91の維新後にスムーズに中央集権に移行できたのもこの体制のおかげかも

>室町が一番グダグタという点には異論はない
室町幕府は中央集権しすぎちゃった鎌倉幕府の反省ありきで成立した政権なんで(´;ω;`)

豊臣は組織を構築してから外征した方がよかったて今振り返ってみるとわかる
外征してる時間を政権作りにもっとまわしていればもうちょっと長く続いたかも
結局秀吉の死後に権力争いで豊臣政権が崩壊したし。ちゃんと正式に組織を作って役割分担しておけってことだな

201 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 12:55:41.28
>>197
「鳴かぬなら・・・」って有名だけど、信長・秀吉・家康の実態をよく示してるとは思えないんだよね。
特に秀吉。「鳴かしてみしょう」とか、そんな良いもんじゃない。
むしろ↓こんな感じだと思う。


● ある日、森を歩いていたら、水辺を散歩している美しいお姫様に会いました。

信長は「明日から俺の側室になれ。ならぬなら殺す。明日、嫁入り道具一式と一緒に俺の屋敷に来い」
その日お姫様は逃げだして、行方不明になってしまいました。

秀吉は何を思ったかいきなり、その場でお姫様に飛びかかり、陵辱してしまいました。
次の日、哀れにもお姫様は自殺してしまいました。

家康は丁重にお姫様に向かってこう言いました。「もしよければ私と結婚してください」
数日後、盛大な婚儀が行われました。子孫は幸福に繁栄しましたとさ。

202 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:07:53.31
頼朝と尊氏って
どっち方がより多くの軍勢を率いたの?

203 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:09:14.23
>>201

頼朝は屋敷に帰った後、配下に命じてお姫様の居館をつきとめ、兵を出してお姫様を連れてこさせました。
お姫様は頼朝の側室となりましたが、子を儲けることはありませんでした。

尊氏は「ボクと結婚してくれない?だめかな?」と言いました。お姫様に断られると、
その妹を連れてこさせて結婚しました。年端のいかない娘と戯れまくっている尊氏をみて、家臣はみな、
「殿はこんなょぅι"ょ好きだったとは・・・」とドン引きでした。

204 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:24:12.17
>>201
チンギス・ハンは何も言わず、無言で配下に合図をすると、その場でお姫様を拉致して
家に連れ帰りました。

ルイ15世は知らぬふりをして家に帰り、次の日臣下に命じてお姫様を拉致させ、
自分の邸宅の中の密園に住まわせました。

カエサルは何を思ったかいきなり、お姫様の目の前で
「見よ、私の美しき禿頭を!私は女のあなたにとって男であり、男のあなたにとって女である!」
といって、服を脱いで踊りはじめました。
お姫様はカエサルの妻となりましたが、夜な夜な奇妙な性癖になやまされる日々でした。

205 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:41:51.08
実朝は「ああ、あなたは美しい。どうか私のために、これを受け取ってください」と言って、お姫様に形見を渡しました。
次の日、実朝は惨殺された死体として発見されました。

義満はお姫様に「そなたは誰の娘かね?」と尋ねました。
次の日、お姫様は父親の命により義満の側室として輿入れさせられました。

家光はお姫様には目もくれず、傍らで遊んでいた少年を拉致して帰って行きました。

206 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 16:34:36.04
>>201
201は何か秀吉に恨みでもあるのかww
晩年はあれだが凌辱は幾らなんでもやらんと思うんだがな
でもホトトギスの鳴かせて見せようよりは確かに殺してしまえのほうかな秀吉は

>197の鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥は家康にあってるかもw個人的にツボったw
>198も鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょうは尊氏にあってる

鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう時鳥 尊氏
鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康

各幕府初代将軍三人はこんな感じかな。これは広めたいw
個人的に頼朝も殺してしまえとも違うんだがいいのが思いつかない
あと秀吉はこれ 鳴かぬなら殺してしまえ時鳥
信長はどうしよう。鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥も違うしな 

207 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 09:04:32.95
>>200
徳川幕府のうまいところは
地方の藩に自治をやらせて、そのかわりに不手際があったら
その藩の藩主に責任とらせて改易することだな。
中央集権やりすぎると、怒りの矛先が中央政府に行くし
地方分権やりすぎると、中央政権の全国への統制力が崩壊するし。

208 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 13:41:31.89
うまいっつーか、幕府の成立過程からして、中央集権は無理。
地方分権しか有り得ないが、参勤交代などを進め最大限、擬似集権的にするより他に
選択肢はなかったはず。

結果として適度な分権がうまく機能したってのは事実だが、
それは徳川幕府が、与えられた状況の中で最大限良い体制を作ったってこと。
もし初めから中央集権なら中央集権で、良い体制もあり得るので、
概念として「適度な分権」が「完全な集権」よりも良い、って話じゃない。

209 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 18:49:39.73
江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。

しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。

関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。

210 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 23:43:11.65
>まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが
ついでに言えば神社仏閣を破壊し耶蘇に改宗した日本人の女子を東南アジアに
売り捌いていた宣教師達を一網打尽にした報告も渡っているからね
信長じゃなくて良かったわ
信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部

211 :日本@名無史さん:2014/03/09(日) 12:37:36.33
>>208
> 概念として「適度な分権」が「完全な集権」よりも良い、って話じゃない。
202だが、地方分権が中央集権より上とは思ってないよ
自分の書き方がわるかったかな?

>>209
秀吉は結局中央集権体制の組織は作ってないぞ
だから秀吉死後に権力争いになった
>しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし
>南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
>それだけの蓄積が日本にはあった。
なんかvipとかにいる典型的な秀吉マンセーだな

209のいうように関ヶ原の戦いで武断派による功績が大きかったからは間違いじゃない
208の徳川幕府は与えられた状況の中で最大限良い体制を作ったも事実
何もかもお思い通りに事が運ぶなんてことはあり得ないんだから
むしろその状況でどう上手く立ち回ることが政治には必要だろう
秀吉だって何もかも思い通りに事が運んだ訳じゃないし、そこをうまく対処して
権力を掌握していったんだろ。それは悪いことじゃないし、政治に悪も善もないだろ

>幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康
弱体国じゃないだろ
あと藩王って何?藩主ならまだわかるんだが。インドの藩王国?それとも明治後の琉球王?
改めて言うけど幕藩体制も最初からこう呼ばれてた訳じゃない
藩は○○家中と呼ばれてた。藩主は当主だし
>210
>信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部
意味が分からない

212 :日本@名無史さん:2014/03/09(日) 14:08:15.99
>>210

>信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部
家康でも同じだったかもな

213 :日本@名無史さん:2014/03/09(日) 17:20:19.10
信長は兵站戦略発想がないので、
ロジスティクス思考がない。
それを構想したのは武田や豊臣。
なので、織田軍では九州すら平定できない。

214 :日本@名無史さん:2014/03/10(月) 09:26:22.43
>>213
羽柴秀吉に任せればいい。

215 :日本@名無史さん:2014/03/10(月) 22:25:37.98
波乱万丈の中の波乱万丈は何度も都や鎌倉を取っては取られ
京を何度も追い出せれ九州迄落ち延びて復活した尊氏こそが
素晴らしい

216 :日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:51:01.44
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「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。

京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。

年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。

217 :日本@名無史さん:2014/03/11(火) 01:00:52.16
『西遊草』
著者:清河八郎(山形県=出羽国東田川郡清川村出身の幕末尊攘派志士。剣は北辰一刀流)
源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは->画像>5枚
京師は高位貴官の在る王城にも似合ず万事軽薄鄙吝を専となし、何事も陰等に事をはかろふ故、遂に弁舌の工みと相成、内大小相違するなり。
それ故近辺のうわさにも「京の弁舌」といひて、人を欺く習ひと相成、歎ずべきの至りなり。
其故男児らしき英偉磊落の気風はさらに無し。うちめうちめと計ろふなれば、少しく侠心のある人々は、とても永住のならぬ地なり。
(岩波文庫)

218 :日本@名無史さん:2014/03/11(火) 01:25:15.01
>>215
田楽キチガイの尊氏なんて一番どうでもいいよw

219 :日本@名無史さん:2014/03/11(火) 23:30:47.94
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。



だよねじゃねーつーのw

220 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 02:44:26.93
>>215
尊氏て勝ったり負けたりで軍事能力測りにくいね
良いときは寡兵でも乾坤一擲な勝利を物にしたり、駄目なときは大軍率いても駄目だし

221 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 02:57:48.17
躁状態の時は大将自ら飛び込んでいくだけの話だろ

222 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 20:27:12.45
>>219
★すっかり正体が割れてしまった運営三河グループによる【荒らしの作法】

・敵味方に分かれての自演バトル―本部マニュアル指示通りの典型的な煽り手法
→左右イデオロギー、地域対立(会津vs長州など)、○○ヲタ(作品、俳優)間の憎しみあい〜反日がー、長州がー、信者がー、ヲタがー。
→喧嘩ごっこの猿芝居で罵り合い、そこに煽られ熱くなった「関係者(一般人)」が参入すれば、もっとも安直にレスが稼げる。
・自らのよってたつ立場=極右とは相容れない(と勝手に決めつけた)大河への犯罪性も露わな尾張や関東や京都あんどの誹謗中傷
→清盛に対する王家がー、汚盛がー、キモ盛がー、反日がー、在日がー、チョンがー、草加がー、犬HKがー。
・脈略なしの完全茶番レス稼ぎ→同じく清盛の時のID粘着、無言連投、MVP連投、マルチポスト、AA貼り、極右政治宣伝など。
・歴史薀蓄雑談でのスレ占拠→ドラマが盛り上がらず一般人が乗ってこないと見るや、延々とスレチ談義の花を咲かせて穴埋め。
・低視聴率が出るやニュース板にスレを立て、大河板と同じメンバーが同じ内容で猛バッシングをかける。そこにネトウヨが押しかけ判で押したようなNHK攻撃を
開始する。さらに一般人クレーマーや業界人(特に民放ドラマ)も参入するので、あっという間にスレが埋まる。実況と並ぶ荒稼ぎのための美味しいツール。
・作品・俳優・脚本家・P等中傷スレ、ネタスレを個別に乱立させる→スレ立て自体がアジェンダ・セッティング。悪質なスレタイでイメージ崩壊を狙い、
2ちゃん世論をミスリードする。
・荒らしとは性格が異なるが、自分たちが規範とするところの独善的な「本格大河」を振りかざしてイマの大河を酷評、マイナスイメージの固定化を図る。

223 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:09:36.78
頼政を枝化したよ


■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数

224 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:21:08.30
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐

D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

225 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:24:53.57
E藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Fへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Gへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Hへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

G藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

226 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:26:37.55
H藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)

227 :日本@名無史さん:2014/03/13(木) 21:15:16.16
>>135
納得

228 :日本@名無史さん:2014/03/14(金) 16:08:05.84
>>185
今の大阪の衰退ぶりを見ると、何か寂しくなるわ・・・

229 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 17:48:11.21
家康の狸親父さえいなければな

230 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 18:23:50.83
>>185
島津(薩摩) 源頼朝の庶子→父系は渡来系秦氏族の惟宗氏(京都の下級貴族)、母系は武蔵国(埼玉県)の比企氏。
大友(豊後) 源頼朝の庶子→相模国足柄郡(神奈川県)の藤原姓近藤氏族。
伊達(陸奥) 藤原北家の末裔→常陸国新治郡(茨城県)の伊佐氏の末裔。
大内(周防) 百済聖明王の末裔→周防国(山口県)の渡来系多々良氏族。
朝倉(越前) 皇室の末裔→但馬国造(兵庫県)日下部氏の末裔。
太田(武蔵) 丹波(京都府)の清和源氏多田氏族→相模国造(神奈川県)の族、大田部氏の末裔。
織田(尾張) 平重盛の末裔→剣神社(福井県)の神官、藤原姓または忌部姓とも。
徳川(三河) 上野国新田郡徳川(群馬県)の清和源氏新田氏族→出自不明の三河(愛知県)の豪族。

231 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 20:02:56.08
>>230
朝倉氏は、但馬国造(兵庫県)日下部氏だから、一応、皇室の末裔。
太田氏も摂津源氏で正しいと思う。
徳川氏は、たぶん、地祇系の賀茂氏。
伊達氏は、伊佐氏で、これは、平繁盛の末裔の可能性もある。

232 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 20:45:03.39
だから徳川はちがーべや
親氏が加茂市という証拠出せや

233 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 22:25:00.35
>>231
>伊佐氏で、これは、平繁盛の末裔の可能性もある
伊達氏とこの常陸平氏の伊佐氏とは多分別系統
元は下野出身の地方豪族だと思われる

234 :日本@名無史さん:2014/03/24(月) 07:09:15.14
兄の源頼朝と兄に殺害された有能な義経

兄の足利尊氏と兄に殺害された有能な直義

兄の徳川家康と兄にこき使われた無能な弟達

無能な弟を待つと幕府は安定するね

235 :日本@名無史さん:2014/03/24(月) 12:05:51.38
家康の弟達は、異父弟で徳川家の継承権がないから家康にとって恐れる存在ではない。
松平定勝あたりは結構有能だったらしいが。

236 :日本@名無史さん:2014/03/25(火) 20:46:31.66
尊氏の直義殺害の場合は賛否あるよな

237 :日本@名無史さん:2014/03/25(火) 20:52:20.17
文系と理系でこの辺は意見が分かれるだろw

238 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 19:46:47.65
文系は古文書を開き想像し
理系は急死の病状を検証するって
ことね

239 :日本@名無史さん:2014/03/31(月) 14:31:13.60
戦時中は足利尊氏って言っただけで非国民扱い
またそんな暗黒時代が来るかもね
教科書から削除されたり

240 :日本@名無史さん:2014/04/07(月) 19:47:54.58
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。



だよねじゃねーつーのw

241 :日本@名無史さん:2014/04/09(水) 09:10:31.12
ネット版のホストみたいなの発見。

イケメンなら稼げるんだろうけど。
話が上手けりゃ稼げるかな。

誰かレポ頼む。
メンガでググると出てくる。

242 :日本@名無史さん:2014/04/09(水) 20:39:19.64
>>240
粘着必死だが
バ カ 丸 出 し だ ぞ
岡 崎 三 河 屋

>>1310年頃の足利荘担当の足利奉公人は高頼基(南右衛門入道)

ところで奉公人って何だ?w

243 : 忍法帖【Lv=8,xxxP】(1+0:5) :2014/04/12(土) 11:10:10.09
gygj

244 :日本@名無史さん:2014/04/13(日) 16:52:12.99
家康

245 :日本@名無史さん:2014/04/13(日) 21:26:57.17
鎌倉神君
足利大逆賊
東照大権現

246 :日本@名無史さん:2014/04/14(月) 21:40:49.14
>>219
>後白河法皇


この時点でただの間違いとは言えんだろw
中学生以下w

247 :日本@名無史さん:2014/04/14(月) 23:14:04.79
平清盛という気も

まあ、それはギャグとしても、頼朝はある意味古代を終わらせてるよな。

248 :日本@名無史さん:2014/04/15(火) 21:20:15.78
三河屋は論破されて逃亡中です

249 :日本@名無史さん:2014/04/16(水) 11:54:12.50
清盛がつき、頼朝がこねし、天下餅をすわりしままに食うは北条

250 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 07:57:33.66
>>27
下野最強

徳川以外の頼朝と尊氏は毛野一族の末裔だしな

251 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 08:29:38.77
>>250
頼朝は清和天皇の末裔(清和源氏)
足利も清和源氏の源義家の末裔

毛野一族とは姻族の血にはあるだろうが、末裔とは言わない。

252 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 10:27:04.56
その論法でいったら新田も上野だから毛野になるなw
新田後裔を称する徳川の毛野じゃねえか

253 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 10:28:04.12
失敬

>>252
×新田後裔を称する徳川の毛野じゃねえか
○新田後裔を称する徳川も毛野じゃねえか

254 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 13:26:49.33
ただの万年パシリだろw


■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

255 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 13:32:52.49
実績のない田舎者は、都合よく夢想しがちだよなw こんな感じで現在も実績あるのか?
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め

リーマンショック後の不交付団体
■平成 21年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000032095.pdf
・全国の不交付団体 151市町村
・西三河の不交付団体 13市町村の内10市町村
豊田市、みよし市、岡崎市、安城市、刈谷市、高浜市、知立市、碧南市、西尾市、幸田町
■平成 22年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000075077.pdf
・全国の不交付団体 74市町村
・西三河の不交付団体 13市町村の内7市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、西尾市、幸田町
■平成 23年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000124636.pdf
・全国の不交付団体 58市町村
・西三河の不交付団体 10市町村(西尾市合併により3町減る)の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町
■平成 24年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000169057.pdf
・全国の不交付団体 54市町村
・西三河の不交付団体 10市町村の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町
■平成 25年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000240073.pdf
・全国の不交付団体 48市町村
・西三河の不交付団体 10市町村の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町

256 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 13:33:56.40
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め

平成22年度生活保護率(主要自治体)

5.30% 大阪市 141,026人

4.33% 函館市 12,187人

3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人

2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人

1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、

0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 豊橋市 2,278人
0.54% 豊田市 2,287人   ←三河国
0.46% 岡崎市 1,734人   ←三河国

257 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 15:26:14.64
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

258 :日本@名無史さん:2014/04/24(木) 07:03:42.88
>>252 >>253
徳川は自称だから論外だろ
家康の松平・徳川創作源氏物語から
三河岡崎の源氏ファンタジー歴史が生まれた

259 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 18:46:33.09
頼朝って草木も頼朝になびくって凄くない?
実質、何百年と続く 武士の世の始まりだし

260 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 20:20:24.78
武家社会は戦国時代で完全に終焉しただろ

そもそも徳阿弥こと親氏が古事記でなかった保障もないしな
そんな古事記まがいの子孫が名門武家をことごとく滅ぼし天下統一したのが江戸時代

武士の歴史は戦国時代で終焉してんだわ

261 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 21:02:47.80
いや戦国もたいがいだろ
織豊ってか三好あたりからもう名門も何も無い、武士の歴史は終わってた
礼節ってもんがないと武家とは言わんな

誰が勝っても、所詮ボス猿のサル山社会
でも、本能だけじゃなく知恵もあった徳川はやはり一枚上手だった

262 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 21:49:25.52
::::::::        ┌─────────────── ┐
::::::::        |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな… 
:::::   ┌───└───────────v───┬┘
:::::   |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 … 
┌──└────────v──┬───────┘
| ジャムリンめ、氷鷺ごときに殺られるとは  
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…      
└────v─────────┘
  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡     
T 爪| / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   
/  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\
  海獺        Ks aka 98     池脱兎   

263 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:16:39.32
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。



だよねじゃねーつーのw

264 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:37:58.55
クソワロタ

265 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:19:52.89
武士の世、戦国時代あたりで終わっていたら
徳川は武士じゃないの?
小学生でもそんなこと言わないよ。
もう相手しないのが一番なのかorz

266 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:51:14.50
武士といっても、もう武士の意味合いも成り立ちも生い立ちも違う別次元に変貌してるという話なんだよ
それくらい分からないかな?偏差値いくつ?
鎌倉御家人と徳川幕府御家人て全く意味合いも質も真逆だよな?
与力も旗本も同心も鎌倉と江戸時代では全く質も意味合いも成り立ちも別次元になってる

それこそ室町までの武士は土地という価値観が重要だが、
江戸時代は土地なんて完全無視
戦国時代以降は
秀吉みたいなのがごろごろ大名にまでなってる
完全に鎌倉時代から続いた武士層は戦国時代でほぼ消滅してしまってるし
本来的武士という性質的武士は戦国時代以前以降で完全に解離している

武士というものを語るなら同じカテゴリーでは絶対語ることてきない

267 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:55:45.18
それこそ戦国時代以前は極端な話楠木ですら武士として扱うか迷うレベルの質だったりする。
それこそ地侍でも豪農か武士か難しいという程の質のレベル

だが江戸時代は足軽中間までもが武士という範疇
もう別次元

268 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 13:23:30.77
なんで、本物の武家社会は終わってしまったんだっろうなぁ

でも、徳川は知識があったから
システムとしてのバーチャル武家社会を再現したって意味では評価できる
自身が仮想源氏となって、源氏長者に就任し
伝統的武家観念の保全・奨励に努めた
武士観念の崩壊の一途にあった戦国より遥かにまし

しかし、戦国や江戸時代の形骸化した武士道を
本物だと思って有難がっている現代人は哀れだな

269 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 14:39:03.52

、!

270 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 10:55:07.76
本物の武士道(棒)

街道歩いてる坊主をとっ捕まえて屋敷に連れ込んで身ぐるみはぐのがそれか

271 :日本@名無史さん:2014/05/04(日) 07:43:17.73
>>268
本物の武士道っていつの時だ?
まさか鎌倉・南北朝・室町なーんて思っていないよなw

272 :日本@名無史さん:2014/05/04(日) 08:23:06.92
▽幕末の剣聖
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
▽幕末三剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
島田虎之助(大分県中津市出身、直心影流)
※比留間与八(埼玉県日高市出身、甲源一刀流)
※大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
※伊庭秀業(東京都台東区出身、心形刀流)
▽中西道場三羽烏
寺田宗有(東京都文京区出身、天真一刀流)
白井亨(東京都千代田区出身、天真白井流)
高柳又四郎(東京都出身、戸田流高柳派)
▽天保の六剣士
男谷信友(東京都墨田区、直心影流)
長沼恂郷(東京都港区出身、直心影流)
杉浦源次兵衛(茨城県笠間市出身、香取神道流)
千葉周作(宮城県古川市出身、北辰一刀流)
加藤田平八郎(福岡県久留米市出身、加藤田神蔭流)
大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
▽幕末著名流派別最強剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
中西子正(東京都千代田区出身、中西派一刀流)
千葉栄次郎(東京都中央区出身、北辰一刀流)
岡田十松(埼玉県羽生市出身、神道無念流)
桃井直正(静岡県沼津市出身、鏡新明智流)
岡田惣右衛門(埼玉県幸手市出身、柳剛流)
▽明治の剣聖
榊原鍵吉(東京都港区出身、直心影流)
山岡鉄舟(東京都墨田区出身、一刀正伝無刀流)
下江秀太郎(栃木県鹿沼市出身、北辰一刀流)

273 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:04:23.40
>>257
三河wwwワロタwww
捏造源氏で源氏の名を穢し
名ばかり武士集団の三河武士でまたまた源氏の穢し

三河・岡崎は日本中の恥さらしwww

274 :日本@名無史さん:2014/05/19(月) 18:36:58.83
>>257
と、口では勇ましかったが結果的には
上方兵がマジで攻めてきたとき大半は戦わずに逃げまどい、
戦った者も信濃の中心の城を一日で落とされて滅亡(笑)

275 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 00:16:23.36
>>273
馬鹿にされすぎて発狂したか?w
誰か、いい精神病院を紹介してやれw

276 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 07:43:20.38
日本史板随一の馬鹿三河厨

277 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 08:00:03.30
と言ってるやつらは怖くもなんともないんだよな

278 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 09:28:42.72
三河馬鹿ってあらゆる時間帯に現れ
誰一人読まない無駄なコピペをエラーが出るまで貼る基地外だよね?
ニートなの?

279 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 21:15:49.69
日本史板でボコられたら
そくり同じ捏造ソースをコピペして
大河太平記板にも寄生して楽しそうw

280 :日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:31:23.47
【古河公方館推定復元模型(茨城県古河市)】
http://mirai660.net/castle/kogakuboyakata_model.html

281 :日本@名無史さん:2014/05/31(土) 16:12:07.55
独力で、利権まみれの南関東とガチ勝負している地域、三河以外にどこがある
足利とかいうだっぺ君が対等に話ができる相手でないだろうが


【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。


総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市)            ←相模国
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)                  ←摂津国
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市)            ←武蔵国
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市)          ←武蔵国
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)              ←武蔵国

06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市)        ←武蔵国、相模国
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市)       ←武蔵国、相模国
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市)          ←武蔵国
09位 名鉄西尾線(愛知県安城市〜西尾市)              ←三河国
10位 名鉄豊田線(愛知県みよし市〜豊田市)             ←三河国

11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市)         ←武蔵国
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区)                ←武蔵国
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市)       ←武蔵国、相模国
14位 名鉄三河線(愛知県豊田市〜碧南市)              ←三河国
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区)              ←武蔵国

ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.ht

282 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 10:12:05.29
>>278

趣味は鉄オタと歴史音痴の岡崎三河創作物語が大好物
関東に異常にコンプレックスを持っている
60代ナマポ不正受給者で在日らしい

283 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 10:24:35.37
糞野郎なんだな

284 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 15:35:23.24
>歴史音痴


頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

285 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 19:53:25.65
三河馬鹿はこの辺は否定しないんだなwww

・岡崎三河創作物語が大好物
・関東に異常にコンプレックスを持っている
・60代ナマポ
・不正受給者で
・在日らしい

286 :日本@名無史さん:2014/06/02(月) 22:04:58.93
> 関東に異常にコンプレックスを持っている


上から目線で馬鹿にしているだけだろw

287 :日本@名無史さん:2014/06/05(木) 19:35:40.68
>>286
それが典型的コンプレックスじゃね?

288 :日本@名無史さん:2014/06/05(木) 20:46:19.83
>典型的コンプレックス


これの事か?w


http://toppy.net/myamya/myamya40.html
>かわりに鎌倉幕府を開いた源頼朝でもいいと思うのですが。彼は熱田神宮の隣りで生まれていますから。
>こうして見ると、日本の歴史は名古屋っ子が作ってきたと言っても過言ではありませんね

289 :日本@名無史さん:2014/06/06(金) 06:40:54.79
>>288
おいおい自分で糞レス撒き散らしておきながら
名古屋と関東の区別もつかねーのかよwww

290 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:16:39.91
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・1044年、頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄弟)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼 (三河四郎大夫 )は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼( 三河四郎大夫) 、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で過し没する(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・同時期、藤原季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(鳥羽殿)
・1090年、季範(額田冠者)生まれる
・季兼(三河四郎大夫)は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を5男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する

291 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:35:00.91
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する  ←足利王国の誕生

292 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:44:03.07
三河馬鹿ってなんで歴史音痴でスレタイが読めないの?

293 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 08:16:10.08
>歴史音痴


頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

294 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:17:11.19
三河馬鹿ってニートだよね

295 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 10:00:18.26
三河馬鹿って岡崎市民の恥部じゃないの

296 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 15:50:09.68
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後の鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1184年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1199年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)

297 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 15:50:50.80
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を5男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生

298 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 16:01:53.16
誰も読まないコピペを貼り続ける三河馬鹿

299 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 17:27:00.36
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後の鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)

300 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 18:15:12.57
三河馬鹿は同じコピペしかないのかよw
無能w

301 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 21:24:31.25
>>289

ワロタw

302 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 21:38:37.09
>>135
そう言うこと
同様なことを
熱田神宮が
昔から平成の今も
神宮史をもとに
藤姓熱田大宮司家の本貫は
尾張で始まり
尾張にて継続していると
きちんと説明している

三河バカは藤姓熱田大宮司家を捏造愚弄するのもいい加減にしろ

303 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 21:48:18.48
徳川家康 愛知県生まれ
源頼朝 京都府または愛知県生まれ
足利尊氏 京都府生まれ

京都府と愛知県ばかり

304 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 23:00:12.24
美川馬鹿はタヒねよ粕

305 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:24:06.03
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる

306 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:29:51.86
12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する

13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生

307 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:36:05.27
>>303
とーちゃんが三河にいたのに、スルーして京都に行くかよw三河は通り道だぞw


■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。

308 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 07:53:45.34
頼朝や尊氏の母方をさかのぼった先祖の一人が
その昔一時期三河に住んでいたことがあったからって
日本史の大勢からはどうでもいいことなのに
毎日何を必死になってるんだ、三河コピペ馬鹿は

309 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 08:35:07.96
肝心の頼朝・尊氏・家康に関する知識が完全欠落しているのが
三河馬鹿の浅はかなところ

310 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 08:49:08.68
熱田大宮司家はもともと尾張出身の尾張氏
その地を母系で受け継ぐのが藤姓熱田大宮司家

源頼朝の母系を遡るのならば藤姓熱田大宮司家の母系も遡らないと
源頼朝は尾張氏の血を引いてるんだってね

311 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 12:57:31.64
元暦元年(1184)6月20日

臨時除目

頼朝推薦

権大納言:平頼盛
侍従:平光盛
河内守:平保業
讃岐守:一条能保
三河守:源範頼     
駿河守:源広綱
武蔵守:平賀義信



名古屋飛ばしが明確なんだがw
尾張氏の何を語れと?w
尾張に頼朝ゆかりはありませんw
あるのは産湯伝承w

312 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:33:02.86
尾張氏ー尾張姓熱田大宮司家ー藤姓熱田大宮司家ー源頼朝
尾張氏ー尾張姓熱田大宮司家ー藤姓熱田大宮司家ー足利義兼…足利尊氏

ほら、源頼朝も足利尊氏も母系を遡ると尾張氏になるんだよな!
藤姓熱田大宮司家は女系を辿ると尾張氏にいきつく
三河馬鹿の出る幕なし

313 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:37:58.75
伊勢から上総くらいまでを繋いでた東海道沿いの水軍衆っていたよね?

314 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 14:59:45.95
http://toppy.net/myamya/myamya40.html
>かわりに鎌倉幕府を開いた源頼朝でもいいと思うのですが。彼は熱田神宮の隣りで生まれていますから。
>こうして見ると、日本の歴史は名古屋っ子が作ってきたと言っても過言ではありませんね



頭の悪い田舎者乙w

315 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:02:09.04
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)


三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)


当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw




頭の悪い田舎者乙w

316 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:16:27.54
尾張員職(熱田大宮司)-女(尾張氏)−藤原季範ー由良御前ー源頼朝

尾張員職(熱田大宮司))-女(尾張氏)−藤原季範ー藤原範忠-女ー足利義兼…足利尊氏



三河馬鹿はまずこの家系図を頭に叩き込めw
頼朝も尊氏も尾張氏の血を引いている

317 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:23:45.01
>>315
頼朝出生地について
1.^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
2.^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。
3.^ 『尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
4.^ 『系図纂要』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。

以上、wikiから

三河馬鹿はこれらの史料を完全否定し
頼朝の三河生まれを証明する最有力史料を挙げられるの?
日本史板なのに史料提示をしない人だな

318 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:23:55.74
何が言いたいのかね?
お前さんは(^ー^)ノ
大宮司家の正体晒しか?

319 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:25:53.79
最近知ったんだが
名古屋君、家康とやらの母方が水野で尾張だぎゃ〜
家康は名古屋だぎゃ〜とか言っているらしなw

その発想は無かったわw


こりゃ完全に日本は中の朝鮮人と言っても間違いではないw

320 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:27:23.16
>>317
江戸時代の書物なんですがw
アイゴーw

321 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:28:41.99
お前の言う朝鮮人とやらの基準はなんなんだ?
どうも最近、虫が飛んでて目につくわ

322 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:37:01.98
頼朝については、名古屋市教育委員会が深く立ち入らない事で察してやれw

323 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:37:40.72
>>320
で?
お前は頼朝が三河生まれだという平安時代の史料を出せるの?
そんなもんないだろうがw

324 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:38:39.23
岡崎市教育委員会は頼朝が三河生まれだなんて言ってないもんなあ
完全に三河馬鹿の脳内

325 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:41:04.32
何を察するんだ?

326 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:41:42.58
常識的に考えれば頼朝は京都生まれ
由良御前の姉妹は女院に出仕して宮仕えしており、
由良御前も宮仕えしていた可能性がある
当然、都で暮らしていた
由良御前が三河で暮らし頼朝を三河で産んだなんて言ってるのは
三河馬鹿以外ない

327 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:46:34.34
頼朝が三河で生まれたとか一切言っていませんがw
レスを出してくださいよ

疲れる老人だなw

328 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:57:59.49
>>327
>藤原季範(額田冠者、三河国 額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)

季範の本拠地は京都だろ

329 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:58:11.44
誰が出した説だっけ?

330 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:00:45.42
なんで老人なの?
何でそう思ったかその結論に至った心理状況に興味があるなあ

331 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:06:25.70
チミ達もーえーわw

332 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:10:40.78
>>320
「平家物語」に
「頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける」
というくだりがある。
平家物語の時代に、頼朝は幡屋(尾張国幡屋)で生まれたと言ってるんだが。

333 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:13:20.82
331
お前がもーいーよ(・ω・)ノ

334 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:14:30.82
332
義朝が殺されたのが尾張か美濃どっちか

335 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:18:58.57
>>334
義朝の話などしてないだろ
話題そらすな

336 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:19:59.68
332
なんで源氏の大将となるとか書いてあるんだよ?
まだ義平生きてるぞ

337 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:21:56.33
335
バーカw

338 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:22:29.94
>>336
いいから、話題そらしやめろ。

お前、マジで史料読んだことないんだな。
平家物語読んで来い。
文脈が分かるよ。

339 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:24:13.52
>>337
反論できないとバカとはな。

これで頼朝尾張生まれの同時代史料が見つかったな。

お前も反論したいならまともに史料探せ。

340 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:24:52.10
>>332
だから、その程度の事知らんわけねーだろ

平治物語は玉葉愚管沙レベルの資料なのかい?
ただの軍記だろw

341 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:26:39.66
源氏の大将ならまだ義光一派が継ぐ可能性もあったし義賢なんかも
ライバル候補だけど?
義仲が挙兵したのも源氏の大将としてでなかった?
ちょっとその平家物語りが書かれた年代を疑った方がいいね

342 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:31:02.97
事実、冨士川の戦いで平氏を破ったのは甲斐源氏(武田諸氏)単独の力だって分かってる?
そのあと頼朝についたが勢力争いを受けて宗家は遠征軍により滅んでる

343 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:32:29.27
>>340
少なくとも時代は近いわな。

で、お前の言う額田冠者というのは玉葉愚管沙に出てくんの?

344 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:33:30.78
>>340
あと季範が三河国額田に住んでいたという記述も
玉葉愚管沙からの抜き出し頼む。

345 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:36:03.30
>>340
お前がこの程度のことでも知っていたら>>315みたいな恥ずかしい書き込みドヤ顔でしないだろw
無知、乙。

346 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:36:23.11
>額田冠者

尊卑文脈



そういや平治物語だと季範が熱田季範と記載されているんだよな
適当にも程があるw

347 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:38:03.19
武田忠頼が頼朝に殺されたから石和信光が武田継ぐことになったんだよな

348 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:40:49.53
>>346
尊卑文脈って何だよw
尊卑分脈ね。

あれは室町時代成立。
同時代史料ではない。
藤原道長の娘が源高明の妻になっていたり、
平安時代のことはかなり不明瞭、適当にも程があるw

349 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:41:01.00
346
そりゃまた別の話
現在のあれやこれやはそういった資料を元にしてないか?
本当に子孫か戦国時代の下剋へてるから分からないけどな

350 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:43:55.01
348
古文が古くなると転写するから原本はあったんじゃねえの?

351 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:53:52.12
>>348
漢字にうるさい奴だな、ここはつーチャンネルだよ
ダサい奴めw


平治物語 入浴中に襲撃を受けて殺害された
愚管抄  義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害した


これも愚管抄が正しいだろうな、所詮はただの軍記だからw
何故自演が知っていたのか?


真福寺(愛知県岡崎市)に、鎌田政清の兄貴(大無房)がいて、遺体を引き取り、真福寺に葬った
(現在も墓は旧大善院の谷にある)


真福寺は天台宗な


平治物語はただの軍記w

352 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:57:20.21
尊卑分脈を否定するなら、今後日本史などウリナラファンタジーでいいんじゃね?w

353 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:58:58.96
天台宗ですか〜

354 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:04:25.24
>>346
季範は熱田大神宮宮司なのだから熱田季範で何も問題ない。
馬鹿じゃね?
逆にお前の主張する額田表記がどこにもないんじゃねーの

355 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:06:34.67
仏教破滅の音が聞こえてくる

356 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:06:46.09
>>352
逆切れする三河馬鹿w
尊卑分脈がいつ成立したかも知らなかった
とんでもない無知であることを露呈したなあ

玉葉愚管抄レベルの書物に何度もはっきりと書いてあるんじゃなかったのー?
今後、三河馬鹿の書き込みはウリナラファンタジーでいいってことですね。

357 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:10:54.90
熱田季範なんて平治物語しか出てこねーよw
作者は熱田神宮→熱田→熱田季範(キリ なんだろw
所詮は軍記だからw


>額田表記

だから尊卑文脈と言っているだろ
尊卑文脈は適当(キリ と言われれば、そーですかと言うしかないw

358 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:12:10.96
>尊卑分脈がいつ成立したかも知らなかった


知らんわけねーだろw
尊卑文脈は適当(キリ と言われれば、もはやそーですかと言うしかないw

359 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:13:44.86
頼朝でしょ、
幕府の創始者。帰化人朝廷?から歴史上邪馬台国以来、日本人に政治を持ってきた。

360 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:14:47.25
???

361 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:17:12.82
>>350
それを言い出したら江戸時代成立の尾張誌にだって
当然参考にした原本はあるだろ
しかし同時代一次史料でなければ信憑性は薄いわけだ

三河馬鹿は後世史料を完全否定して
同時代一次史料である玉葉愚管抄レベル以外信用できないといっておきながら
自分のほうは後世史料である尊卑分脈を出してきてドヤ顔してるから馬鹿だといってるの
尊卑分脈なんて間違いだらけだし一次史料でもなんでもない

362 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:24:21.76
すまんすまん、熱田季範は保元物語だったわw
保元の乱はいいが、季範は1155年に死んでいるんですけどw
いずれにせよ軍記は適当だなw

363 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:29:15.79
>>361

じゃあ熱田季範にしておけw


熱田大宮司だから熱田季範は正しい、尊卑文脈は適当、額田冠者は間違い(キリ 



これでいけw

364 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:34:04.01
お前ら何をそんなに焦っているんだ?(・ω・)ノ

365 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:39:50.33
>>361

熱田大宮司だから熱田季範は正しい(キリ
額田冠者は間違い(キリ、尊卑文脈は適当(キリ、間違いだらけだし一次史料でもなんでもない(キリ



東大京大学習院に乗り込んで、主張してこいw
俺はお前を支持するw

366 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:49:28.02
お前に指示されてもうれしくないだろうことは文脈で分かる(・ω・)ノ

367 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 18:13:49.71
>>365
心配しなくても東大京大学習院の教授は尊卑分脈を一次史料だなんて言ってないからw

そんなこと言ってるのは尊卑「文脈」だといって聞かない三河馬鹿だけ

368 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 22:49:28.14
三河バカ
反論まだぁ〜w
藤姓熱田大宮司は昔から尾張だと
熱田神宮が昔から今までも
断言しているのだが
本貫も氏寺も尾張熱田だと
断言しているのだが
熱田神宮にある最古の文献の熱田神宮史を
もとに断言しているのだが
反論まだあ〜w

369 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:14:50.61
>>367
自演は慈円の間違いだろはまだかよw


ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw

370 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:23:18.71
>>368
本貫ってこれの事?w
全部三河でんがなw


千秋 三河国設楽郡千秋
野田 三河国設楽郡野田
星野 三河国宝飯郡星野
一宮 三河国宝飯郡一宮
萩 三河国宝飯郡萩
篠田 三河国宝飯郡篠田
長山 三河国宝飯郡長山

371 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 06:48:49.19
>>369
>自演は慈円の間違いだろはまだかよw

三河馬鹿がとうとう壊れたなw
このスレのどこにそんなことが書いてあるんだよ

372 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 07:31:52.28
ハイどうぞw
頭の悪い奴めw



351 日本@名無史さん 2014/06/18(水) 16:53:52.12
>>348
漢字にうるさい奴だな、ここはつーチャンネルだよ
ダサい奴めw


平治物語 入浴中に襲撃を受けて殺害された
愚管抄  義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害した


これも愚管抄が正しいだろうな、所詮はただの軍記だからw
何故自演が知っていたのか?


真福寺(愛知県岡崎市)に、鎌田政清の兄貴(大無房)がいて、遺体を引き取り、真福寺に葬った
(現在も墓は旧大善院の谷にある)


真福寺は天台宗な


平治物語はただの軍記w

373 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 07:34:46.56
しかしアレだな
頼朝の幡屋武者王は、いかにも嘘くせーなw

374 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 07:46:19.33
>>372
>何故自演が知っていたのか?

そんなもん自分で書いた三河馬鹿ぐらいしか覚えてねーわw

375 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 12:58:38.72
恐らく、新聞を墨から墨まで読んで、誤字脱字を指摘するのが趣味のくだらない奴なんだろうが
それすら出来ない奴だったかw
頭の悪いゴミめ

376 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 13:27:08.62
>>375
このスレで分かったことは三河馬鹿が
頭の悪いゴミだということだけだよ

377 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 19:51:44.63
>新聞を墨から墨まで読んで

隅から隅までの間違いだろの指摘はどーした?w


ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだと言っただろ
頭の働かないダサい奴め



369 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:14:50.61
>>367
自演は慈円の間違いだろはまだかよw


ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw

378 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 21:08:12.30
■真福寺(愛知県岡崎市)

推古天皇二年(西暦594年)物部の守屋の次男真福が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、
滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、
(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。
これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。
■名  称 霊鷲山降劒院真福寺
■建  立 聖徳太子建立 三河国最古寺院
■本願施主 物部の大将守屋の次男 真福
■国宝なし
■重要文化財 木造慈恵大師坐像

どうよ尾張ザル関東ザルたちよ
これが滝山寺とともに三河が日本史を築いた証だ
これが三河ネットワークの凄さだ
関東には聖徳太子建立なんて
こんな凄い古刹はないだろ

ダサいや奴めw

379 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 21:36:53.06
頼朝からすれば足利は家人の一人でしかないし
家康は頼朝の真似っこに必死だったし

ぶっちぎりで頼朝だろ
敵じゃないね

380 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 22:01:44.91
なぜだろ
何故か足利尊氏に惹かれる

381 :日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:26:10.34
結局、
尊氏と頼朝って
どっちが強いの?

382 :日本@名無史さん:2014/06/23(月) 22:05:14.38
>>372>>378
そんなに自慢したい
飛鳥時代から続くオラが岡崎村の寺なのに
坐像一体だけ重文指定なんだな
江戸初期に一部消失したとは言え
寺伝やら古文書の類はファンタジーなのね
滝山寺と一緒だなw

383 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 01:11:09.13
まぁアレだ

パゴヤの頼朝=旗屋武者王には負ける(笑)w

384 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 01:32:09.73
>>381
圧倒的に尊氏

385 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 20:20:44.67
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季範(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる

386 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 20:23:43.40
12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する

13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生

387 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 05:44:38.27
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。

長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)

388 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 06:09:00.70
>>381
武力だけなら尊氏だろ。頼朝は政治力の勝利だ。

389 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 22:28:49.10
>>385
三河岡崎バカって

藤姓熱田神宮の反論は結局何〜にも出来ないのねw

次は真福寺と滝山寺の反論まだぁ〜w

390 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 22:35:20.65
頼朝は旗屋武者王(笑)だぎゃ〜
名古屋だぎゃ〜

391 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:15:19.30
>尾張国造


国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



ダサいダサ過ぎるw

392 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:52:54.65
畿内の河内やら古代からの優れた地方豪族である尾張氏や毛野氏
頼朝も尊氏とも接点も多い
残念なことにそのころの三河は土人と獣の動物天国
やっと鎌倉時代になって足利家の植民地となって人が住むようになった

393 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 00:10:08.30
>尾張氏(関西人)


国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



ダサいダサ過ぎるw

394 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 23:27:30.36
>>392
てか
その頃は三河って名前や岡崎って名前なんか無かったよ
単なる原っぱ

395 :日本@名無史さん:2014/06/28(土) 00:35:54.56
何でもいいが、パゴヤは出入り禁止なw
源頼朝、足利尊氏、徳川家康とパゴヤは関係ねーからw
何回も言わせんな、パゴヤ

396 :日本@名無史さん:2014/06/28(土) 00:44:04.74
愛知県東部の人間はなぜ戦いが強いのか
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1367681761/

397 :日本@名無史さん:2014/07/10(木) 08:16:46.91
歴史なんてタイミングと偶然がほとんどだろ
みんなそれぞれ違う時代に同じ環境で生きてたら
多分誰も何も出来ずに終わるだろう

398 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 23:04:30.76
>>393
出雲もだろ
丹波の出雲氏が移住して来て国の名になった

399 :日本@名無史さん:2014/09/20(土) 16:11:38.80
徳川最強

400 :金田一少年の事件簿:2014/09/20(土) 22:44:00.53
歴代江戸幕府将軍の格付け

S 徳川家康
A 徳川家光
B 徳川綱吉、徳川吉宗、徳川慶喜
C 徳川秀忠、徳川家綱、徳川家宣、徳川家治
D 徳川家斉、徳川家慶、徳川家茂
E 徳川家継、徳川家重、徳川家定

401 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 09:05:00.67
>>397
そりゃその通りだ。(・_・)

個人が優れているから、英雄になるわけじゃない。
生まれた場所、時代、身分、全てがマッチしたからこそ、英雄になれる。(・_・)

402 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 09:46:09.42
>>401
ほんと最近思うけど運命って決まってるんだって思うよ
日本史上最悪な時代は第二次大戦
あの時代に生まれたらどうしようもないわw

403 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 09:56:19.46
>>396 >>397 >>399 >>401 関が原スレでは家康の兵は弱兵で意見が一致。

404 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 10:06:19.32
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

405 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 11:44:19.42
>>404
『甲陽軍鑑』は徳川時代になって書かれた可能性が高いから、
そこの三河賛美を素朴に認めるわけにはいかんよ。(・_・)

406 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 12:34:29.19
この3人より恵まれた環境で、天下とれなかった奴はカス

407 :日本@名無史さん:2014/09/29(月) 22:34:19.65
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

408 :日本@名無史さん:2014/10/01(水) 15:09:40.45
>>393
>国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
>大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる

お前、バカ丸しで出イタすぎる

409 :日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:12:08.61
頭の悪いニートの三河馬鹿が暴れ出したな

で、源頼朝の母方を辿ると古代豪族・尾張氏になるという事実は
いい加減理解できたのかね?
ニート君

410 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 23:17:43.77
重要なのは頼朝

411 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 22:19:23.14
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

412 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:07:01.72
頼朝、尊氏、家康
仕えるなら尊氏がいい
アタフタしたい

413 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:15:48.93
足利尊氏=織田信秀
足利義教=織田信長

414 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 00:21:46.04
Yoritomo

415 :日本@名無史さん:2015/02/05(木) 18:42:08.03
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

416 :日本@名無史さん:2015/02/05(木) 21:21:26.09
三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw

417 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 16:05:10.75
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

418 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 17:41:17.69
出現に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取り始めた頼朝だが
結果に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取りきった家康

419 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 18:28:58.32
三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw

420 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 18:59:45.96
家康の頃は、国司は名義だけで実態が消滅してるだろう。

421 :日本@名無史さん:2015/03/09(月) 00:09:31.72
足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)
源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは->画像>5枚
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。

422 :日本@名無史さん:2015/03/09(月) 13:03:37.09
1310年頃に三河にいた事が確認できる頼重だが、それ以前の1305年頃からいれば、当然生誕地は三河と言う事になる


■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。

423 :日本@名無史さん:2015/03/11(水) 08:16:07.13
元暦二年六月大十六日丁卯。典膳大夫。近藤七等爲關東御使。帶 院宣。巡檢畿内近國。成敗土民訴訟。然間。當時其誤不聞。二品内々被感仰之處。尾張國有玉井四郎助重云者。本自爲先猛悪。
令懷諸人愁之由謳歌。近日殊又有違 勅之科。仍件兩人爲尋沙汰。雖遣召文敢不應。還及謗言。于時久經等言上子細之間。爲俊兼奉行。今日被仰助重云。違背 綸命之上者。不可住日域。依令忽緒關東。不可參鎌倉。早可逐電云々

424 :日本@名無史さん:2015/03/12(木) 09:15:30.67
やっぱり頼朝だな

425 :日本@名無史さん:2015/03/27(金) 18:05:46.70
かりに頼朝の血筋が100年後まで続いていたら
子孫の男子は少なくとも数百人に達していただろうから
そのときには足利氏は源氏でも末流扱いだろう

426 :日本@名無史さん:2015/03/28(土) 00:29:16.13
日本史は、清盛登場から足利義満が死ぬまでが一番おもしろいな

427 :日本@名無史さん:2015/03/28(土) 16:36:08.19
>一番おもしろいな


頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

428 :日本@名無史さん:2015/04/06(月) 02:45:45.65
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

429 :日本@名無史さん:2015/04/07(火) 11:53:41.63
>>400
家光の評価が異常に高いけどさ、これは忠臣・松平伊豆守のおかげだよ。
家光自身は凡庸で弟の方が優秀だったというのは定説だからね。

430 :日本@名無史さん:2015/04/08(水) 16:14:30.48
http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv
野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世

学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス)

431 :日本@名無史さん:2015/04/20(月) 01:15:28.36
スレタイの「源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは?」

この3名、歴史的に重要じゃなかった人物だと思いますよ。

432 :日本@名無史さん:2015/04/27(月) 13:55:44.16
頼朝 家康 尊氏の順

433 :日本@名無史さん:2015/05/02(土) 14:06:33.12
>>432
同じ戦力で正面から戦をすれば
尊氏>家康>>>頼朝

434 :日本@名無史さん:2015/05/02(土) 16:26:25.61
頼朝はまともな戦力で戦った時は以外と強い。

対佐竹 勝利
対奥州 勝利


負けた時は戦力的に問題外過ぎ

平治 敵三千以上 自軍 八百(しかもうち三百は途中で敵に寝返り)

石橋山 敵三千、味方三百

435 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 00:17:29.82
源頼朝は大阪の天皇の分家の源氏で
摂津国の源氏を祖とする河内の源氏

436 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 11:24:28.44
>>431
頼朝≒泰時
尊氏<義満
家康(やはり徳川15代では飛び抜けた存在)

437 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 14:18:53.08
>>428
武蔵国→備中伊勢氏に無双されてしまうw
信州→弱兵だと侮っていた尾張兵と近江兵が襲来すると逃亡、唯一戦場となった高遠城はわずか一日で陥落w


結局、かつて東国に強い武士がいたのは、蝦夷討伐のための関西から精兵の派遣先だったからってだけ。
それがなくなったらただの雑魚地域。

438 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 15:22:20.14
>>437
北条の兵は相模伊豆の兵士で武蔵と同じように強いと言われてんだから
そこに並べるのはちがうだろ

439 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 16:30:35.17
>>438
早雲はほとんど領土を持ってない状態から30日で伊豆一国を切り取ってるからなあ。
大元はそのときに働いた備中か京都から連れてきた手勢だろう。

440 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 16:39:12.11
>>439
最近の研究ではだいたい明応2年から明応7年の約5年間で、ということになってるよ。

441 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 17:44:28.28
「夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒」
夷(えびす)の種(ともがら)は衆多くして、逓(たがい)に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。
(『藤原保則伝』古代政治社会思想)

「戦士勇山東之民一兮当千、豈以皇畿近州之嬰児、対東関蛮夷之勇健乎」
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや。
坂東武士の勇健は一騎当千の強さである。畿内近国の赤ん坊のような弱い武力で、強健な東国武士に手向いできようか。
(『吉田定房奏状』中世政治社会思想・下)

442 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 17:49:31.68
河内物部氏は個人としてはパッとした人物を出せずに滅んだし、○○源氏なんて言っても住居は京や鎌倉。
渡辺党は埼玉、楠木も埼玉の武蔵七党出身。
鴻池→島根、住友→福井、三井→三重。
幕末は超が付くほど悲惨。
大阪は剣も戦も日本一弱い。
戦国時代を除いても人物は愛知の方が遥かに出てる。
それも派手な尾張よりも堅実な三河に人物は多い。

443 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 18:59:17.26
渡辺←嵯峨源氏(京都)
楠木←橘氏(奈良)
鴻池←近江源氏(滋賀)
住友←蘇我理右衛門(大阪)
三井←近江藤原(滋賀)

甲子園優勝回数
1位 大阪21
2位 愛知18
3位 兵庫13

日本一強いのが大阪人

444 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 19:14:57.14
甲子園()

445 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 19:23:31.97
日本人メジャーリーガー通算war
2位 野茂英雄 大阪
3位 黒田博樹 大阪
5位 ダルビッシュ 大阪
6位 大家友和 京都
7位 上原浩治 大阪
7位 長谷川滋利 兵庫

1位は尾張のイチローだけどね
三河って誰かいるのかなあ

446 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 15:55:18.66
イチローはゴキローだろw
岩瀬がいるな
岩瀬と言えば幕末三俊の岩瀬忠震

447 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:11:19.96
長州ネトサポのプロパガンダ
縄文土器は朝鮮土器
天皇は夫余(穢族で後の満州族)
弥生人も朝鮮北東部の穢族
すり替えのプロパガンダはスレ一覧見れば分かるよな
お探し学者が無茶苦茶なこじつけするのも長州プロパガンダ
考古学、人類学、遺伝子学全て無茶苦茶な歪曲は長州プロパガンダ

448 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:12:16.01
イチローのほうが格上だね

449 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:23:25.71
先祖代々パシリが勝てるのか?勝てるわけないだろがw

最大の皇室領荘園だった豊田市に繋がる鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家、トヨタグループが、今も昔も、皇室を庇護する日本の番長なんだからよw


■三河国高橋荘・高橋新荘

豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる

450 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:24:47.72
■三種の神器
現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎


■伊勢神宮(八咫鏡)

大宮司

鷹司尚武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E6%AD%A6
大給松平家’三河国加茂郡大給松平、三河県豊田市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%A6%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6


伊勢神宮崇敬会
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/yakuin.html
>会長 豊田章一郎(三河吉田藩山口村)


■熱田神宮(草薙剣)

大宮司家

千秋家(三河国設楽郡千秋、三河県新城市)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html

熱田大宮司千秋家譜について
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

451 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:25:25.06
■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史


1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる

■日光山
源頼朝が母方の従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた

源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝

足利義兼(初代足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼

寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

452 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:26:08.32
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ


源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁


・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている


・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁

・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁


■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)

木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。

453 :日本@名無史さん:2015/05/19(火) 15:35:26.91
また三河馬鹿か

454 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 10:52:17.70
平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」

455 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 11:43:44.17
いいかげんにしろよ三河乞食

456 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 13:23:18.24
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

457 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 13:23:50.75
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

458 :日本@名無史さん:2015/05/29(金) 01:18:33.72
3人とも重要だけど、足利尊氏は確実に2ランク位落ちる。

459 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 06:13:20.09
1頭…足利尊氏
2オデコ…足利義詮
3目…足利義満
4鼻…足利義持
5口…足利義量
6顎…足利義教
7首…足利義勝
8肩…足利義政
9鎖骨…足利義尚
10胸…足利義稙
11みぞおち…足利義澄
12ヘソ…足利義晴
13下っ腹…足利義輝
14ひでぇ奴…足利義栄
15お尻…足利義昭

おkかな

460 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 10:48:11.19
頼朝の源氏直系、信長の織田氏はエゴイスト過ぎて子孫が政権維持できず
秀吉の豊臣氏も唐入りの野心で金を食いつぶして二代で崩壊
北条、足利両氏も政権崩壊後は影響力維持できず
藤原と徳川両氏のみが政権崩壊後も影響力を駆使し続けた
この両一族の権謀術数DNAは現在まで引き継がれている

461 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 12:13:54.16
こんな感じ

頼朝: 田舎侍のみこしに過ぎないと思っていたが、意外にずるがしこく、京都にも精通し、後白河院がバカだったので、関東に一大勢力を築いた。体制を維持するという視点はなかった。残された人たちは常にバトルロワイヤル。

尊氏: 気前がよくなんだか武士の受けがいいので、どんなに窮地に陥ろうとついてくる武士がいた。そんな感じでずるずると死ぬまで楽しく生きた。体制の維持については人任せだった。そのため、おもしろくないと人はついてこないというタレント主義の足利幕府が作られた。

家康: 地道に勢力を伸ばし、最後には天下人となった。後継育成と体制の維持という視点を生前から持っていた。
 

462 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 20:10:55.46
>>460
織田信吉とやらがいつ天下を取ったんだよ
みゃ〜みゃ〜泣きながら真っ黒けの炭になった濃尾平野の間抜けはスレ汚した

463 :日本@名無史さん:2015/06/11(木) 12:43:10.39
江戸庶民は
徳川家康なんか知らないだろう
草紙や舞台で取り上げるの禁止だったし

464 :日本@名無史さん:2015/06/12(金) 07:10:07.72
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。

465 :日本@名無史さん:2015/06/18(木) 19:09:46.57
最近になって尊氏が意外と重要なんじゃないかと思い始めてきた
後醍醐という強烈なカリスマ性を持った天皇に対して、
南北朝の初期に北朝の優位を決定づけ、観応の擾乱で勝利

敵としては一番やりづらい相手で、いつ足をすくわれてもおかしくない感じなんだが、
あのストレス状況でも田楽に狂ってたような意味不明な性格で乗り切った感じw

466 :日本@名無史さん:2015/06/21(日) 17:10:24.26
徳川家康は、1590年初めて江戸に入国しました。藁葺き屋根の家が百ほどの大湿地帯に過ぎませんでした。
徳川家康は、後世にもっとも影響を与える日本人です。
入国当時湿地が広がり農業に適さない寂れた場所、いかにも粗相で町屋など茅葺きの家、百ばかり、ここもかしこも潮入りの芦原の寒村に過ぎなかったという。

467 :日本@名無史さん:2015/06/21(日) 18:47:34.13
江戸湊は頼朝の挙兵の時から要衝だったけどね
江戸湾−旧利根川−香取海の結節点として栄えた湊
だから頼朝は江戸氏を孤立させるために房総・豆相の水軍で江戸湾を封鎖して武蔵へ侵入

468 :日本@名無史さん:2015/06/21(日) 23:55:22.06
三河人の日本発展の貢献度は際立っているよなw

469 :日本@名無史さん:2015/06/26(金) 07:23:32.06
甲陽軍鑑
・東国武士はどこも強敵
・特に信濃勢は恐るべき相手
・武蔵武士は個人の戦闘能力が高い
・東海では三河が最強
・三河武士は戦慣れしている
・三河勢5千で関西勢2万に対抗できる
・家康軍の戦死者を見ると敵に背を向けている者は一人も居ない
・信長軍は数は多いが一兵、一兵は大したことない
・信長軍限定では美濃兵が最強
・尾張から都までの間では一戦ごとに我々と力の差が開いて行く
・尾張>伊勢>近江>山城(最弱)

470 :日本@名無史さん:2015/06/27(土) 09:05:01.87
仕えるなら尊氏がいい。尊氏が人気あったのはわかる

471 :日本@名無史さん:2015/07/01(水) 00:21:00.85
しかし、その治世は安定しないだろうがね。
結局は仕える物が仲違いしちまうのさ。

472 :日本@名無史さん:2015/07/02(木) 04:08:36.40
九州に逃げ出したくせになんだが逆転の高氏、ミラクルすぎて、
見方にすると頼りなく、敵にすると怖いw

473 :日本@名無史さん:2015/08/02(日) 22:55:23.03
うい

474 :日本@名無史さん:2015/10/26(月) 01:11:00.03
尊氏は負け方が上手いというか、後で見ると上手く負けたようにみえる
大事な場面では結構勝ってるし

475 :日本@名無史さん:2015/10/27(火) 01:22:20.37
尊氏は天下取った武将ではぶっちぎりのラッキーマンだからなあ
能力以上の戦功を挙げ、能力以上の部下を得て、能力以上の地位を得た
本人に能力が無い事は尊氏本人が一番、解ってるから、源氏の棟梁なのに異様に自信がないw

476 :日本@名無史さん:2015/12/06(日) 23:18:41.07
頼朝も尊氏も、武家の棟梁だな。
本人の才能があまり見えない。でも、人がついてくる。
武力でも策謀でも仁徳でもなく、棟梁だから武士がついて言っている感じ。

家康は、一つ一つ地位と人脈と石高と武力を積み上げていって権力を掌握したのと違って
そんなもの何にもないのに、頼朝も尊氏も人がついて言っている感じ。

477 :日本@名無史さん:2015/12/22(火) 00:28:47.98
だから早々簒奪されたり、早々形骸化したんだろ。
能力以上の物を得るとなる典型だよね。

478 :日本@名無史さん:2015/12/24(木) 02:43:29.90
家康も結局、信長という駿馬に付いてっただけのラッキーマンという見方も出来る
もし信長がいなかったら天下どころか三河一国手に入れられたかも怪しい

479 :日本@名無史さん:2015/12/26(土) 21:56:56.57
今川くらいは下克上して簒奪したんじゃないかな。
すると史実とは反対に乱世の梟雄という扱いになるね。
まぁ史実でもエグいが。

480 :日本@名無史さん:2015/12/27(日) 23:21:01.12
三河のショボい豪族から265年続いた長期安定政権の創設者になったっていう結果が全てだよ
○○がいなかったらみたいなIFは何も意味がない

481 :日本@名無史さん:2016/01/01(金) 12:16:20.90
足利幕府は関東へ下らなかった点が評価できる。

都人となって、宮廷文化を採り入れたしのう。

独自の北山文化・東山文化を産み出したぞよ。

482 :日本@名無史さん:2016/01/01(金) 15:33:21.29
>>476 頼朝に最初挙兵に応じたのは、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、
天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉 だけで、後は日和見と感じだぞ。
尊氏は、鎌倉幕府で北条氏に次ぐ御家人で一族郎党多数であった。頼朝
は海の者とも山の者ともわからん状態だった。
>>481 関東へ下らなかったではなく、関東へ下れなかったの。下っていたら
関東の地方政権になっていた。

483 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 14:17:48.85
>>479
徳川家康は初代今川氏今川国氏の血を引くのに、何で下克上せなあかんのか?

484 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 14:21:21.98
徳川家康は源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子を引き継いでいる
こんな奴はどこにもいない

485 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 21:01:37.38
まあ後から作った血筋だけどなw
戦国三英傑に貴種はいないよ
それぞれ平家の末裔、天皇の落胤、源氏の末裔と家系を捏造しまくりw

486 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:17:36.40
松平信光の正室が一色氏の娘と書いてあるのは、今川氏の正史である今川記
松平親忠の正室は鈴木重勝の娘、鈴木重勝の父親が足助重範と楠木正成の娘の子と記されているのは熊野国造家の和田家の系図



貴種だからこそ、天皇と懇意だったのさ


存牛(松平信光の孫、松平親忠の子)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/存牛



出自の悪い田舎者は恥ずかしレスをするよな

487 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:45:02.85
おいおい、後から捏造されてる記録を信じるなよw
松平氏は長親以前はほとんど記録が残っておらず、伝聞だからいくらでも捏造出来た
正室の出自も怪しい上に、正室から生まれた記録も無いしな
アホはもっと本読めよカスw

488 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:54:17.58
出自の悪い田舎者の罵倒が気に触ったのか?w
田舎者というのは煽られ耐性がないわなw

こう言った間抜けに限って、本だけでなく新聞をすみからすみまで読んで賢いつもりでいるんだよなw

489 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:56:36.78
煽るだけしか出来ないとはお粗末だな
徳川史観に染まったアホが湧き出てくるのも正月ならではw
マトモに本を読んだことすら無いんだろうな

490 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:59:08.23
尊氏以外かなり重要

491 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:00:35.27
徳川氏の出が良いなんて言ってる辺り、戦前生まれなお爺ちゃんでしょ。
相手にするだけ無駄だよ。

492 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:06:51.29
この平成の世で相手を出自が悪いとか言い出すってどんだけだよwしかもネットでw
こりゃ相当なジジイだな

493 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:15:35.40
尊氏は面白い
行き当たりばったりな事ばっかやってるのに、それが全部ズバリになるんだよなw
政務は弟が、軍事は高兄弟が、で、本人はカンバン

494 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:23:58.86
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが



■三河国高橋荘・高橋新荘

豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる

495 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:31:00.97
地の力っておいw新年から笑かすなよジジイw

496 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:31:12.97
徳川家康とやらは、この最大の皇室領の荘官だった足助氏の血を引いている
辻殿の兄(母親は源為朝の孫)、その兄の正室は安達盛長の娘
徳川家康とやらは、いい遺伝子が入っているよな

ホレホレ反論してみろ


源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ

源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁

・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている

・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁

・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁


■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)

木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。

497 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:33:41.32
>>495
現代社会においても稼ぐ力で勝てる相手か?
これが地の力だ、ワーキングプアの貧乏人め




関東〜関西間の日本地図


年収1000万円以上世帯が8%を超える地域(「世帯の年収マップ」より)
源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは->画像>5枚

498 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:33:52.19
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

499 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:35:09.44
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

500 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:36:02.72
ついに荒らしになったお爺ちゃん。

501 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:37:09.29
ジジイな事は否定しないのなw

502 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:43:36.29
反論って「血を引いてない」で終わりなんだがw
無関係な事象を羅列してどうするんだよこの爺はw

503 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:59:26.70
貧乏土人親に生まれた貧乏土人に系図の話をした俺が悪かったよw
土人に分かるわけねーもんなw

504 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:05:49.98
反省してこれからは本くらい読めジジイ
残り少ない人生無駄にすんなw

505 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:21:40.07
平成の時代に出自がいい悪いはないと言っちゃう貧乏土人親から生まれた貧乏土人だからな

あのな、一つ教えてやる
財閥系企業の幹部の有名大学生の息子が、車の窃盗をしたとする 
初犯なら送検されるが間違いなく不起訴
もっと上級なら送検もされず、被害者に親が謝罪弁償して釈放
これは日本社会が出自で区別する紛れもない現実だ
大騒動を起こして、補助金詐欺で立件されるべき小保方晴子も、父親が徳川に繋がる三菱系幹部だからこそ、未だに処分があやふやだろが



本なんか読んでるからまぬけなレスをするんだよ
外に出ろよw

506 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:24:54.38
このお爺ちゃんは何と戦ってるんだよ?

507 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:47:36.50
どん百姓ほど出が良いとか言い出すんだよな

508 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 01:06:51.66
誰も読んでないのに妄想長文垂れ流しまくるとはヒマなジジイですな。
火病ってるっぽいから突つけばもうちょっと楽しめそうw

509 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 17:50:10.36
馬鹿は本など一切読まないほうがマシだわなw
こういう奴な限って、本だけでなく新聞ガー、テレビのニュースガーなんだろうな
まさに世の中の汚物といっても過言ではないw

510 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 18:18:32.95
確かに、ここまでアホな爺は今更本読んでも無駄だわなw

511 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 19:11:44.63
必死に連投するなよw
お前こそ誰と戦っているんだよw

512 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 19:52:59.57
連投してるのはジジイだけやろ常考。

513 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 20:04:53.35
流石は3連投は無いわなw
3連投からは必死さが伝わってくるよなw

514 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 20:50:52.22
出自の次は連投かよ
相変わらずボキャブラリーの少ない爺さんだわw

515 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 21:05:56.11
一人だけ会えるなら尊氏だな
人間としては魅力がありそうだ

516 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 21:18:51.63
確かに尊氏はいいひとっぽいアニキ分なイメージがあるね
しかし、躁鬱病だったらしいので、日によっては、かなり変わりそうだけど
何故か尊氏の鎧がメトロポリタン美術館に有るんだよね

517 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 23:37:49.53
あやふやじゃないけどな

518 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 23:59:20.19
逆に、嫌なヤツなのは圧倒的に家康だな

519 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 00:12:47.50
頼朝も大概でしょ
つーか尊氏も弟殺しとかしてるし大概と言えば大概(頼朝、家康より甘かったのは間違いないが)

520 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 15:36:24.12
あれは弟も悪い
南朝に走るなんてどうかしてる
頼朝は島流しで頭がおかしくなったとしか思えない
だいぶ平家一門に対する不平が関東豪族にあったのでたまたまうまくいった
家康は法治主義者というイメージがある

521 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 17:39:53.63
本を読んで、系図に詳しいようだが
こんなポンコツ脳では、時間の無駄じゃないっすか?w
頼朝の曽祖父と後白河が今様仲間ってなんすっか?w



156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

522 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 19:17:05.77
>>521
頼朝にも尊氏にも三河土人の血が一滴も流れていないのに
勝手に捏造する
くやしいのう、三河馬鹿w

523 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 19:22:42.84
お前はポンコツ脳なんだよw

524 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 19:24:21.69
ポンコツ脳はお前だろう、24時間365日貼りつく耄碌爺、三河馬鹿w
頼朝にも尊氏にも三河土人の血は一滴も流れていないのに勝手に捏造する
くやしいのう、三河馬鹿w

525 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 20:31:08.86
源氏は痛いと思う
平家は手堅い
家康も手堅い

526 :日本@名無史さん:2016/01/06(水) 20:05:28.43
>>505 もう、親子とも大手を振って歩けない。親が死んだら、晴子も終わり。

527 :日本@名無史さん:2016/01/06(水) 23:28:04.08
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

528 :日本@名無史さん:2016/01/06(水) 23:28:46.67
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

529 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 18:07:41.22
これ、どーみても中学生以下だろw
徹底的に馬鹿にされてもノコノコ現れるとは面の皮が厚い奴だ





156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

530 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 20:05:02.78
>>520 尊氏も南朝に下ったことがある。

531 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 20:30:11.68
三河三河うるさい
別のスレでやってよ

532 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 21:16:55.41
三河を外したら語るべき根幹が除外されてしまうだろ
尾張パゴヤは部外者にも関わらずレスしてくるけどな
尾張パゴヤは頭の悪い貧乏糞カッペだから図々しいw

533 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 21:38:30.65
3人の中で最も戦争で強いのは足利尊氏かな。
メンタルは3人中最も弱いけど。
つーか日本史を通じて最も戦争強くて、
名を成した人物では最もメンタル弱いか。

これほどメンタル弱いのに戦争最強いというのは
たとえて言うなら「ヒキコモリの戦争ヲタ」だったのか。

534 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 22:18:42.98
正一位を贈られた将軍をみればいい。

室町時代の将軍には、誰も贈られていない。
時の将軍の力をもっても授けられなかったのだ。

室町時代の将軍ゼロ。徳川時代の将軍には14代まで授けた。
15代慶喜には授けられなかった。不平等条約を勝手に結んだからです。

豊臣秀吉・織田信長にはその後、正一位が与えられた。
明治になってからです。ここが日本の凄い所だった。
日本というより、陛下の凄さでしょう。
歴史とそれに尽力した人への理解する能力。

江戸時代は、天下泰平の世です。民の平安という事です。
故に、江戸将軍は14代まで正一位を与えられたのだ。
室町時代の為政者傲慢の時代を打開した織田信長、その後を受け継いだ豊臣秀吉。
その後の江戸時代。民の為に尽くしたから正一位なのです。

535 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 22:51:16.18
正一位ってそんな観念的な基準で決まってたの?

536 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 00:36:25.25
明治政府は南朝が正統だからな

537 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 06:31:14.86
 義満の贈太上天皇を受けなかった義持。

538 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 11:52:49.30
>>534
みゃ〜みゃ〜泣きながら真っ黒けの炭になった間抜けと天下を取ったと思い込んだはいいが、死後、子孫を根絶やしにされた間抜けはスレ違い

539 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 15:46:03.44
頼朝には大江
家康には本田
尊氏には…

540 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 20:00:17.49
>>534
不平等条約って慶喜じゃなくね?
はい論破

541 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 20:54:03.75
>>536
そうともいえない

542 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 21:28:29.76
尊氏がメンタルが弱かった具体的な事例があったか
メンタルが弱くて、鎌倉から福岡をまたにかけて戦えないだろう

543 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 00:25:27.98
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

544 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 00:26:01.96
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

545 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 14:23:28.98
頼朝が義経を討伐したのは、鎌倉政権としては当然な判断
まあ、範頼誅殺は言い訳出来んがw
尊氏が直義を死に追いやったのは、観応の擾乱絡みで、
元々は文治派(保守)VS武闘派(革新)の争いが発端で、収拾がつかなくなった感じ

546 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 18:54:17.52
義経より範頼のがヤバイよ、承久の乱の首謀者は高倉家だっただろ
範頼がその気がなくても、息子や孫が担ぎ上げられていただろう
頼朝の将来を見通す力は超一流

547 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 21:40:51.75
>>541
いや南朝が正統と明治帝はのたまわったよ
ただ明治帝は北朝だったwww

548 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 21:48:38.24
結果的に北条に乗っ取られて子孫が断絶してるのに未来を見通すも糞もないだろ

549 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:00:53.18
>>548
身内を粛清して数少ない息子のみに後継者を限定した結果
血筋が絶えたのは頼朝と秀吉って似てるな

550 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:01:38.71
結果的にそうなったが
初代が頼朝と母方の従兄弟である事が強烈なプライドの源泉の足利氏が、義家流が武家の頂点に君臨する体制に戻したでしょ
足利と必死になって姻戚を結んだ北条だったが、足利と惨めに跡形もなく消え去った

551 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:03:19.99
>>549
秀吉はスレ違い
スレが汚れる

552 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:19:45.13
>>545
義経粛清で鎌倉幕府が2つに割れなかったことは頼朝の功績だと思うよ
たとえ息子の代で北条に乗っ取られたとしてもさ

553 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:24:43.27
>>550
頼朝時代の御門葉(頼朝の一族)といえば
「吾妻鏡」で平賀、安田、加賀美、大内などが挙げられていて
足利など御門葉とはいえ相当順番が後だぞ

554 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 00:42:27.14
足利氏のブライド(当人の気持ち)に吾妻鏡に記載されている序列が何か関係あんの?

555 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 01:13:12.79
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

556 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 01:13:41.38
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

557 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 01:45:40.06
939 日本@名無史さん 2015/02/09(月) 20:14:06.46
俺は前歯の裏凹んでるぞO型だしな

558 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 08:40:50.12
阿野氏というのも、ぱっとしないね。

559 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 18:19:42.99
頭の悪い田舎者、尾張パゴヤの馬鹿レスを晒し上げw



156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

560 :日本@名無史さん:2016/02/01(月) 08:10:18.64
あなたは40代ロサンゼルス新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

561 :日本@名無史さん:2016/03/12(土) 04:59:24.16
>>542
新幹線もない時代に鎌倉、京都、九州を
行ったり来たりした尊氏はすごすぎ

生まれる時代があと700年遅ければマイルが貯まりまくったろう

562 :日本@名無史さん:2016/03/14(月) 20:51:59.69
>>561
そんなに交通発達してりゃあ、頼朝が流刑なった意味はないよなあ。

mmp2
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