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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1514650470/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf 纒向学研究 第2号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ40に追記
九州説
「距離は5倍以上間違ってるけど方位は絶対に間違わないよ!」
「陳寿は短里を知らなかったけど方位は完璧に知っていたよ!」
後漢書(424頃)
「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」
隋書東夷伝(628)
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
混一疆理歴代国都之図(1402)
九州説
「魏志は聖典にして改竄すべからず! 後漢書は大陸人が許しても我々は許せない!」
>>1000 >
>>995 >東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは纏向に来てる
つまり畿内は中心ではないと。
畿内説は根拠がなかったと。
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
畿内説の掟
その1 畿内に邪馬台国ありきから始める事
その2 倭人伝については気にしなくてよい
その3 遺物の年代比定はばれない様に3世紀に持って行くこと
その4 都合の悪いときは無視し他説攻撃に転ずること
その5 間違っていようが言い張ることが最善の道
その6 先輩の言う事には、何も考えず服従すること
その7 発掘調査でヤバイものは見て見ぬふりをすること
その8 ただひたすらに畿内説を信じる事 信じればよし
九州説の掟
その1 九州に邪馬台国ありきから始める事
その2 倭人伝については聖典のごとく崇め奉ること
その3 遺物の年代比定はばれない様に4世紀以降に持って行くこと
その4 都合の悪いときは無視し他説攻撃に転ずること
その5 間違っていようが言い張ることが最善の道
その6 先輩の言う事には、何も考えず服従すること
その7 発掘調査でヤバイものは見て見ぬふりをすること
その8 ただひたすらに九州説を信じる事 信じればよし
>>839 >とりあえず
張政が邪馬台国と狗奴国との紛争に派遣されたついでに調べた程度で簡単に正確な方位が明らかになったというなら
それを後漢書が書き直す理由も更に後の史書が書き直さない理由も無いんじゃないですかね? 後漢書はいい加減だ!みたいな批判が何処かの史書にあるんですかね?<
後漢書が、書き直した事は、魏志と比較すればすぐ判る。
書き換えた理由は、誇張や誇大化の傾向が直ぐ判るから、
范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」だろう、という事もすぐ判る。
右翼大和説者らと同じ。
>>841 >魏志は九州説にとって
「神聖にして疑うべからず」ものなんだな <
いや、人間には、常に大量の不可知部分がある限り、常に推論ミスや判断ミスが出るものであり、
陳寿でも同じ。
だから、人間が出来る事は、常に最もベターを求めて、それへの漸近努力をすべきである事。
>>67 漢籍の知識がほとんどない者が、すぐ判ると高慢に言っても無意味
>>980 古事記より
故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、
伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、
竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。
>>63 イレズミの中心である必要なんて
どこにも無いからな
博多湾岸みたいにイレズミも卜占も痕跡ゼロだと候補から外れるだろうけどね
>>67 > 後漢書が、書き直した事は、魏志と比較すればすぐ判る。
書き換えた理由は、誇張や誇大化の傾向が直ぐ判るから、
范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」だろう、という事もすぐ判る。<
誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な文章をよろしく
>>68 倭人伝、古田本、Yahooの情報だけじゃ
常に最もベターを求めて、それへの漸近努力をしてない
>>67 いくら筆者を侮辱しても
史料を無かったことには出来ないよ
>>68 その努力をしないで結論先にありきなのが、九州説
九州説は、自分に都合の悪いことを言う人を中傷することが多いね
>>72 実力ないのに「高慢」で「威張りたがり屋」なら
ザラコクに勝る者なし
>>842 >>卑弥呼や難升米ら、倭國のトップクラスには、
鯨面文身をしていた、という記載がないから、していない。<
>文身で階級を分けていたということは、誰もがしていたということ。
卑弥呼もしていただろう。<
卑弥呼がしていれば、大事件だから、面会した魏使らは、必ず書いている筈だが、
「男子無大小皆黥面文身」という事は、女である卑弥呼は、鯨面文身をしていない、
「大小」は、当然、部下の部族内での身分の上下。
難升米ら、卑弥呼直属の「大夫」は、魏から「率善中郎將」などを受理しているから、
鯨面文身をしていなかった可能性が高い。
>神武一行が畿内大和に攻め込んで嫁探しをした時に、神武の代理で大久米が土地の姫に、なぜ目の周りにそんな刺青があるのかと尋ねられている。
畿内には刺青の風習がなく、大久米らの出身地の九州北部には刺青の風習があったということらしい。
よって、刺青は九州北部の風習。<
成程。有難う御座います。
>>76 ブーメラン。
ザラコクへの個人攻撃がその見本。
>>71 外す根拠としては不十分。
そもそも刺青なんて証拠が残りにくいからね。
>>79 中傷常習ウソツキ常習のザラコクを弁護する九州説の
お里が知れる
>>78 >「男子無大小皆黥面文身」という事は、女である卑弥呼は、鯨面文身をしていない、
後から自分でも気がついたよ。
卑弥呼は女性だから、刺青をしていなかったかもしれない。
>難升米ら、卑弥呼直属の「大夫」は、魏から「率善中郎將」などを受理しているから、
>鯨面文身をしていなかった可能性が高い。
これは魏志倭人伝を信じるなら、していた可能性がある。
ただ、中華では刺青をしている者は文明社会の一員と見做さない風習があるから、どちらとも言えない。
倭人の祖とされる呉の太伯は、自ら刺青をして文明社会と決別した。
>>80 じゃ、どうして余所の地方ではシッカリ痕跡が残ってんの?
???
>>81 内容の批判はともかく、イジメはカッコ悪い。
>>847 >日本の学者も中国の学者も信じないんだから
論争はもう完全に終ってる <
日本の大和説学者らや、NHKや右翼マスコミや文部省などの勢力が、
まだ大和説を放棄しないから、論争が終焉していない。
>>84 ごく稀に見つかる程度で、分布を論じることはできない。
>>83 文明社会との訣別というか、王位継承権の放棄な
『史記』周の太王には太伯、仲雍、李歴の子がいて、末弟の李歴とその子は聖徳を備えていた。
太王は李歴を後継にしたいと考えていた。太伯と仲雍はその胸中 を察して荊蛮の地に落ち延び、
文身、断髪して周の人として位に立てられる資格のないことを示した。
太伯はその地で慕われ位について呉の太伯と称した。
『記』
大久米命
神武 倭の 高佐土野を 七行く 媛女ども 誰れをし枕かむ
神武
かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
伊須気余理比売
大久米命 あめつつ 千鳥ましとと(千人力) など黥ける利目
大久米命
媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目
嬢子「仕え奉らむ。」
>>850 >>陳寿は、「邪馬壹國女王之所都」から大体「南水行二十日」に投馬國がある事を知っているから、
女王國が南北にかなり長い事を知っており、 だから、「ちょうど東」なんていう筈がない。<
>俺の説が正しいから通説は間違いだ という循環論法<
史料批判をして、史料の客観性や信頼性の確率の高さを確認した上での、
それらからの帰納的確率的推論であるから、
「結論先にありき=循環論法」にならない。
九州程度の出土量だと
倭人伝の鯨面文身、卜骨の記述が実際と一致していたかどうかも疑わしい
>>852 >卑弥呼や倭の五王は畿内に実在した これは考古学的に堅い・・・<
「南≠東」などの文献や、金印や弥生銀座や祇園山や平原や七支刀や横穴式石室墓や沖ノ島など
文献考古の証拠があるから、
「卑弥呼や倭の五王は畿内に実在した」は、✖。
>>853 魏志倭人伝があるから、
大和説が存在出来ない。
>>94 史料批判をして、史料の客観性や信頼性の確率の高さを確認するほど
ザラコクは漢籍にあたっていない
久米(くめ)氏族の発祥として、和名抄にいう肥後国球磨郡久米郷の存在が指摘されます。
人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲(くまそ)の地。
古代においてメとマは同音とされ、久米はクマとも発音されます。
歴史学者、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と述べ、久米は狗人、熊襲に拘わるとしました。
新撰姓氏録は阿蘇祖族、山部氏族を隼人同族の久米氏の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魏志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとします。
狗奴国はもとより句呉の太伯の子孫とする説があり、大宰府天満宮所蔵の翰苑は
「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記し、
旧隼人町の大隅国一宮、鹿児島神宮には句呉の太伯が祀られています。
久米氏は隼人系の海人といわれ、久米族とでも呼ぶほうが相応しい異能の集団。
大久米命は黥利目(入墨目)で、入墨は海人の習俗とされます。
そして、のちの隼人が天皇や王子の近習とされ、宮中の守護にあたります。
橿原神宮から橿原神宮前駅へ向かう参道の右手は久米町。
古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において、大久米命に与えたとされる地。
久米氏の氏神と氏寺が町中に並びます。
久米寺に鯰(なまず)の奉納額がみられ、古く、久米氏族が鯰をトーテムにしていたとされます。
鯰の伝承といえば、阿蘇の大鯰の逸話が知られます。
阿蘇の開拓神、健磐龍命の神話では、健磐龍命は大鯰を退治して田畑を拓きます。
この逸話は中央から下向した氏族に鯰トーテムの民が服属する図式を示すといわれ、阿蘇の古い民は鯰の信仰をもつとされ、阿蘇の古社には神使として鯰が祀られます。
>>854
>>私の「会稽東治」の「治」は、
「支配下として治めている所」という普通名詞的な理解だ。<
>あんた一人がどう理解しようと
世間では「治」には「支配下として治めている所」という意味はない <
「治」単独の基本的な意味は、「支配」を示す。 >>98 ザラコクは考古学者の研究成果を完全否定しているから考古学的根拠を持ち出すのは ✖
>>103 >「治」単独の基本的な意味は、「支配」を示す。
「支配下として治めている所」という意味はない
却下
>>856 >>弥生銀座の那珂八幡の庄内よりも古い、という説明であったから、
その時点で列島最古だ。<
>九州の中では古い という話が 列島最古 に変化してしまう脳って かなり腐敗が進んでない?<
弥生銀座の那珂八幡付近で、
播磨や河内や纏向からの庄内からの庄内同士の共存があるんだから、
それより古い三雲が、列島最古だ。
呉の太伯の末裔が狗奴国であったとは。
そしてそれは阿蘇の一族、肥後熊本のナマズを祀る氏族であった。
ナマズといえば、肥前河上の淀姫(壹與?)もナマズを祀る。
邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼はもとは同じ氏族で、有明海沿岸の火の国の王家の一員か。
>>109 文句つけてばかりだけど、自分の意見はないの?
古くは、地震を起こすのは日本列島の下に横たわる、
あるいは日本列島を取り囲む竜だと言われていたが、
江戸時代頃から、大鯰が主流になった。
>>107 那珂八幡付近で播磨や河内や纏向からの庄内からの庄内同士の共存があって、三雲がそれより古いと
なんで三雲が列島最古になるの?
論理がないよ
郵便ポストが赤いから最古だと言ってるのと同列だ
>>110 学者の年代にケチをつけてるのはザラコクや伊都チョンボ厨
卑弥呼が肥国王家の女王であったなら、記紀に該当する人物が登場しない理由がわかる。
記紀は筑紫の天孫族の末裔の伝記だからだ。
卑弥呼は倭国大乱で天孫族を筑紫から追い出した側なので、卑弥呼の件は黒歴史なんだよ。
>>110 通説支持だから、特につけ加えることは、ない
何も知らない素人がしったかぶると
>>107みたいな不恰好なことになる
>>116 なるほど。
ググると大阪とか愛媛とかが引っかかって来ますね。
でもここで問題としているのは、ナマズを祀る氏族が九州と畿内にいて、しかもその移動の経緯も記紀に残されていることですね。
そしてそれが文身で知られる呉の太伯と関わっていて、記紀でも黥を指摘されていると。
そして呉の太伯の末裔を名乗る狗奴国がそこにいたとする文献が存在する。
熊本はもとは熊ではなく隈と書き、神(王族)のこと。
九州北部の倭国は王統がしばしば入れ替わったが、その中で有明海沿岸にいたのが肥国王家。
倭国大乱で筑紫の日向(伊都国)から天孫族が東征し、代わりに肥国から伊都に入ったのが卑弥呼。
だから卑弥呼は呉の太伯の末裔。
卑弥呼が狗奴国の卑弥弓呼の対処に苦慮したのは、それが夷狄ではなく同族の王位争いだったから。
これを解決するため、卑弥呼は倭王の地位の承認を求めて魏から金印による冊封を受けた。
魏志の元ネタである魏略では、倭人が呉の太伯の末裔を名乗ったことが記録されているが、魏志では呉の太伯の話は削除されている。
>>122 つまり、畿内の天孫族と、卑弥呼の肥国は別の国。
>>857 >「日本の縄文時代から九州は鯨面文身の痕跡は非常に少ない」
って日本語の意味、わからない?<
鯨面文身は、縄文以来の毛人縄文人の習俗であり、
九州では、非縄文の弥生の先進部族が渡来して来て、在地縄文人を支配したから、
九州では、鯨面文身の痕跡が減った、という日本語の意味が分からないの?。
卑弥呼は倭王として筑紫の日向で即位したので、王墓は伊都平原にあるけど。
弥生先進部族であったはずの天孫族を追い出して黥面文身の呉の太伯の末裔が天下を取ったから、さあたいへん。
>>127 >九州では、鯨面文身の減った、という日本語の意味が分からないの?。
縄文時代の鯨面文身の痕跡は無いから痕跡は減ってない
もともと極端に少ない
>>861 >>いや、仮説ではなく、史料実態だ。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
であり、侏儒國が足摺付近であるから、<
>そう言うの。史料実態って言うのか? 仮説というよりトンデモ説って言わないか?<
足摺岬西方沖の沖の島には、江戸期まで小人族が住んでいた、
という記録がある。
?
もっとも、弥生文化は江南の呉越からの伝播だけど。
稲作到来の時期も呉の太伯の後でぴったり。
>>118 >
>>110 >通説支持だから、特につけ加えることは、ない
俺の書いたテンプレを読めと素直に言いなよ。
>>862 >会稽東冶がどこにあるかは 12000里と関係ないだろ<
大和説者は「会稽東冶」だと主張するが、陳寿の記載は「会稽東治」だ。
そして、12000里が長里なら、赤道付近になってしまって、
長里説は✖になってしまうのに、
大和説者が長里説にしがみついているのだ。
>>141 赤道付近だろがなんだろが
会稽東冶の場所は動かない
>>142 魏略逸文に江戸時代のことが書いてあるわけねーだろ
>>141 >そして、12000里が長里なら、赤道付近になってしまって、
なりませんが、何か?
>>141 >大和説者は「会稽東冶」だと主張するが、陳寿の記載は「会稽東治」だ。
「会稽東冶」=「会稽東治」
同じ場所
>>141 >陳寿の記載は「会稽東治」だ。
三国志の12世紀の版本が「会稽東治」
後代の史書は會稽東冶、現代中国では會稽東冶と訂正されている
古田本の、宮内庁書陵部に2種類あったという箇所の引用よろしく
>>77 范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」からくる
誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な例は出せないと
「魏志の元ネタである魏略では、倭人が呉の太伯の末裔を名乗ったことが記録されているが、魏志では呉の太伯の話は削除されている。」
これについても「講釈師、見てきたようなナントヤラ」で答えられないと
魏略と魏志の書かれた年代、内容を比較するといいよ。
魏略と言っても唐代に書かれた
対句練習用の幼学書の複写本の逸文は史料価値無し、参考程度
『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
松野連が自称してるだけ
9世紀に諸蕃なら3世紀には日本にいない
>>863 >会稽郡治からどっち方位か? 8分法で北北東〜東北東が「北東」
つまり67度30分以下は北東になる <
これ、当然インチキね。陳寿の記載は「会稽東治之東」だから「東」ね。
だから8分法では「東北東〜東南東」の間で、真東から±22.5度の間。
北緯30度位の上海から、やはり北緯30度位の九州南端までが700kmであるから、
そこから北へ700km位が東から45度の方向の東北であり、
だから、北へ350km位の位置が、上海から大体東北東。
しかし、九州の南北長は約300kmであるから、九州は、上海から「東〜東北東」の間にすっぽり入る。
だから、九州は、上海からほぼ東。めでたしめでたし。
>紹興市越城区を基準点として<
これもインチキ。「会稽東治之東」だから、紹興付近の会稽からからではなく、
それの東の支配地(上海付近)からの「之東」。
>三雲公民館 64度07分13秒 東北東より北・・・高良山頂 66度09分56秒 東北東より北
結論:北部九州を東というのは無理 <
これも全くのドジ。
例えば、64度07分13秒というのは、真北からの角度。
つまり、真東からは、25度52分47秒で「ほぼ東北東」。
三雲が東北東なら、それより南の九州全域が「東〜東北東」で、
やはり、「ほぼ東」になる。
>>846 >>魏使らも陳寿も、国までの距離は、その居住外縁部までの距離での説明であり、
投馬國も、その北側の外縁部までの距離だ。<
>そこが佐多岬か屋久島なんだろ? 不合理じゃないか <
違うね。
投馬國の北の外縁部は、筑紫南端部付近から二千余里になるから、
宮崎や熊本県南部付近になるんだろう、と思うよ。
>>159 >「会稽東治之東」だから、紹興付近の会稽からからではなく、それの会稽からそれの東の支配地(上海付近)からの「之東」。
上海は北だし、となりの呉郡であって、会稽郡じゃない。
無理して会稽東治に仕立て上げたら、詐欺。
>>162 >投馬國の北の外縁部は、筑紫南端部付近から二千余里になるから、
なんでそうなる?
>>162 投馬国は宮崎県西都市妻の都万神社を中心とする国。
>>162 >宮崎や熊本県南部付近になるんだろう、と思うよ。
考古学的根拠が全く無いテキトーな比定
入れ墨の話から思わぬ方向に話が進んだが、いずれも整合性が取れているのだな。
畿内説がまともに反論もできずに難癖ばかりつけているのが笑える。
>>168 そんなふうに
他人に説明できないでいる説は
破産した珍説
>>865 >「當在會稽東冶之東」なんだから、ちょうど東と言っている。
角度を広くとる必要なし<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者の、
都合の悪い史料を否定抹殺するダマシの手口の特徴は、
このように、
史料は、陳寿らの大体の記載をしているにも拘わらず、
史料記載が「絶対断定している」と極論インチキ解釈をして、
それと実際の事実との差異の存在を「間違いだ」と騒ぎ立てて、
抹殺してしまう手口。
世間の皆さま、大和説者のサギの手口に
騙されないように、気をつけましょうね。
彼らが、
「ちょうど東」などというように、史料事実を絶対断定したら、
それが要注意なんですよ。
>>174 >史料は、陳寿らの大体の記載をしているにも拘わらず、
陳寿本人はだいたい、じゃなくて
「当在」=「ちょうど」
と言ってますが?
>>173 伊都国王であった彦火火出見の係累の地なので、その末裔である畿内大和と共通点は多いだろう。
だが畿内が影響を及ぼしたのではなく、年代順からいえば九州投馬国の影響を畿内大和が受けたのだよ。
>>867
>定説である福州市鼓楼区からの方位
三雲公民館 49度17分18秒
岡本遺跡 49度46分50秒
太宰府天満宮 50度01分28秒
高良山頂 50度59分30秒
阿蘇山頂 53度42分34秒
纏向遺跡 55度23分17秒
西都原古墳群 57度28分18秒
佐多岬 61度14分30秒
屋久島空港 64度12分58秒
九州全土が無理<
通説定説者の、「会稽東治→会稽東冶」の曲解改竄が、
「無理」の原因。 後世の人が、日向国(宮崎県)と筑紫日向(福岡県)を混同することになったのも無理はない。
倭国を代表していたのは、金印で冊封された筑紫の日向(福岡県)。
卑弥呼は倭国の女王、墓は伊都平原。
>>178 「会稽東治→会稽東冶」が曲解改竄
だという理由は?
>>869 >「・・・の証拠は?〜の証拠は?」は 畿内説なら誰でも言うよ どこも異常でない<
自分側も証拠提示をして、議論を戦わせるのではなく、
幾ら説明して上げても、知らん振りして、
永久に「証拠は?」を叫び続ける、という事が、
大和説者のの脳の異常性の証拠。
>>871 >30代健常者の平均歩速は毎秒約140cm
50分歩いて10分休憩を日の出から日没まで続けると、1日約50km進むことになる<
未だに、古代の道は、
未舗装で悪路や藪道もあって、とてもまともに歩けたものではない、
という実態を知らん振りしている・・・・サギシの大和説者がおる。
>>874 >帰納的推論なら仮説だろ<
論理の出発点が、
史料の信頼性や客観性の史料批判に拠って、確率の高さレベルを確認した上での、
帰納的確率的推論をしているのだから、
確率の全くない仮説ではなく、確率の高い説だ。
>>877 >(大和説者が)信頼性と客観性が確認された史料事実を否定抹殺する、
という事をした上での挙証である という証拠は?<
例えば「南→東」など。
>>186 漢籍の知識がほとんど無いから
史料の信頼性や客観性の史料批判はできない
>>188 >(大和説者が)信頼性と客観性が確認された史料事実を否定抹殺する、
信頼性を否定している
>>879 古田説が、
有効数字1桁程度の精度しか得られないから、
6倍位も違う長里ではなく、「1里90〜75m」の短里だ、と言ってきた、
という事を隠し、
読者に、古田さんが「ピタリ正確」とかいっている、と言って、
欺いてきたのが大和説。
>>185 >未だに、古代の道は、
>未舗装で悪路や藪道もあって、とてもまともに歩けたものではない、
>という実態を知らん振り
そうだって証拠を出してくれたら、信用しないでも無いんだがな!
>>184 古田が宮内庁書陵部に三国志版本が2種類あったと言っているという証拠よろしく
>>880 >>「萬二千余里」の対象は、「邪馬壹國女王之所都」への里数ではなく、
「女王國」への里数説明だ。<
>不弥国から距離ゼロと言ってきた九州王朝説が 死にました w<
古田説は、不彌國から邪馬壹國の入り口までが「ほぼ距離0」説であるのに、
それを、女王国が「不弥国から距離0」だ、
と断定した大和説の嘘吐きダマシがたバレて、
大和説が死にました。w
>>886 >俺が書いたのは、
>>153 >古田が信頼したのは、どろぼう喜八郎
>俺が書いたのが
>>225 >筑紫版外三郡誌みたいなのはまだ屋根裏から落っこちてないの?<
一升瓶の話が出たのは、そんな最近の投稿ではないよ。
私が2chに継続投稿を始めたのが、part170頃からであり、
その頃から、「尿入り?一升瓶」での誹謗者が、の各Part事に数回ずつ投稿されていたよ。
それは、皆同じ人物のようであったんだよ。
>>897 >東南と書いてあるのに北東に行くわけ? <
東南と書いてあれば、東南に向かった。
>>900 大和説の頭の中は、「南→東」などの嘘吐きダマシで、
ムチャクチャだな。
>>904 理由もなく、史料事実根拠を否定曲解する大和説は、ダメな説。
>>197 お前のレスは
Part311
>>866 >そして、お前との長い議論が始まって、途中でお前がまた、
>突然「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを書いたから、
>私は和田キヨエが主犯である、という説明投稿をした。
その途中で突然書いたという「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを引用してみ
>>923 お前ら「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説患者は、
国民にも迷惑で害になるから、日本人を辞めろ。
>>930 >輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂「先主傳」
は、外縁部間距離ではない<
陳寿自身の見聞ではなく、
漢代の記録であるから、外縁部間距離記載であったのか?は、不明。
むしろ、「一日一夜行三百餘里」の「三百餘里」は、
「一日一夜行」だけの説明である事になるから、
襄陽〜長坂の全体の距離ではなく、
「一日一夜行」のような事が途中であった、という情報であった可能性もある。
>>931 説以前に、大和説者って、マジで頭の病気だろ、
サイコパスすぎる。
>>205 >「一日一夜行」だけの説明である事になるから
一日一夜は一昼夜
襄陽(城)から當陽之長坂まで三百餘里
>>940 >>何日かの内の一日は、夜も走った<
>一日一夜は一昼夜、135kmを数日かけたら急追ではない <
一日15kmなら、135kmは、9日かかる。
>>未整備な荒れ地では、長里では全く無理。<
>慢話だから未整備に限定できない 古田里の日に約15kmくらいだったら軍隊より遅め<
まあ、自分で実験してみな。
前も足元も見えない位の藪道があれば、
人も馬も、、トゲでズタズタになってしまって、血だらけになってしまうよ。
>>205 >「一日一夜行」のような事が途中であった
精騎で急追して何日間で當陽之長坂の劉備に追いついたかもわからなくなってしまう曲解
>>208 >一日15kmなら、135kmは、9日かかる。
一日15kmは精騎で急追ではない
>>208 >前も足元も見えない位の藪道があれば
自慢話をするのに距離が短くなる条件下での話はしない
>>941 >先に襄陽を発った劉備たちと荊州の民は「日行十餘里」
いくらなんでも古田里の日に約765m余りは遅すぎる<
そりゃそれなら、当然、「歩行1日200里」と比べたら、遅すぎる。
まあ、漢代の長里記録であったとしても、1日4.5kmでは、ちょっと遅い。
しかし、家財道具や子や孫らも連れた住民がいれば、
やはり相当に遅かったんだろうが、
長里記録であったのか?短里記録であったのか?の判断材料にはならない。
>947
>>陳寿が、会稽の東の治、と書いたから。<
>陳寿が会稽の東の治と書いたって 「東治」が 東の支配地域 なんていう意味にはならない
文字の意味を捏造するな<
「治」の原義は「治する=支配する」。
>>950 >未整備は悪路や山道だと決めつける理由は?<
倭地でも、弥生銀座には大道が幾つもあるが、
對海國や末盧國では苦労しており、
雑木林の原野であっても、草が密生していれば、
とてもまともに歩いたり騎馬で走れる、というものではない。
>>952 >>陳寿が地名を書いていないから<
>書いているぞ、東治と。 今の福州だ。<
書陵部の王朗の「東治」も、」
「東治」という地名であったとすれば、現地にそんな地名の場所が存在しないから、
「東の支配地」という普通名詞的な使用であった事になるだけだ。
>>959 >>(陳寿は)少し北になる上海方面から東方だ、とした方が適切だろう、と思ったから。<
>あり得ないね そこは呉郡で、会稽じゃないから<
陳寿は、その呉郡がつい最近まで会稽郡であった事を知っているし、
漢書の「会稽海外」記載との関連を示しておく必要もあったから。
>>960 大和説は、「南→東」などのような嘘吐きダマシのウソの、
捏造やりすぎ 。
>>973 >大和が天下を取る前に、九州北部が天下を取っていた時期があり、邪馬台国ほその頃の話なんだよ<
賛成です。
>>975 >15キロを歩くより1000メートルの山を登る方が大変だぞ
それより遥かに高く険しく迷いやすい山を幾つも上り下りして確認しなければならない
街道で歩数を数えるだけですむ距離を測る方が遥かに簡単だ<
賛成です。
>>976 >>古田さんが、第1書でので王朗の「東冶」の記載を、どっちの本から採られたのか、
という事が問題だ。<
>その箇所引用してみて<
古田第1書の「王朗」の記載の前後を少し探したが、
見つからなかった。
>>212 家財道具といっても逃げてるのだから必要最小限のものだから
日に約765m余りはいくらなんでも遅すぎ
散歩より短い
>>220 >古田第1書の「王朗」の記載の前後を少し探したが、
>見つからなかった。
見つからない?
引き続き古田が宮内庁書陵部に三国志版本が2種類あったと
言っているという証拠をよろしく
>>983 >なんで同じ国で単位の混在なんて有りうるんだ?
度量衡の統一は国家の象徴じゃないの?<
周髀算経や礼記の周制への復古は、魏朝が決めた事で、
呉は関係がないから、魏朝の短里を使うものもいれば、
従来の長里を使うものもいたから混在であり、
蜀は、元々漢朝系であったから、
むしろ漢代の長里を使う事が多かった、という混在。
>>986 >いつ、どこで誰になんと説明したんだ? 隠して誤魔化さずに
ちゃんと理由を明らかにしろよ <
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
相手の説明に知らん振りして同じことを質問し続ける大和説者は、
・・・・である事が自明であるから、
同じ事を繰り返し書かされるのは面倒臭いので、嫌だ。
また、世間の人々に説明する必要を感じたら、書いておくつもり。
大和説者は、「南→東」などの嘘吐きダマシの誤魔化しばかりだから。
>>213 みずにつかるに台をなすすなわち治なり(もゆるおとこ
>>219 つまり陳寿は知らなかったけど短里が使われていますって?
たいほうの
いへんをしるは
いとの女王
こうそん窮し
はんしゃすばやき(まきむくむりや
>>1000 >(鯨面文身)東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは纏向に来てる<
東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは、出雲系の銅鐸祭祀部族なんだろうなあ。
梁書の出雲の文身國の呼称とも、整合するし。
という事は、魏使らが筑紫で目撃した鯨面文身部族は、出雲系住民であったのか?。
げいめんぶんしんはしなかいえんがんのふうぞくやろ?
おかやまの土偶は拡散後(かいけつ
>>230 >
>>219 >つまり陳寿は知らなかったけど短里が使われていますって?
多分そう。
でもちょっと怪しんで、日程も合わせて記載した。
後世のバカがそれを続けて読むものだと思い込んで畿内説を創作した。
>>234 5000里だけはいちり400mやな(かいけつ
とういでんりはざっくりいっていちり90mぜんご(統計解析済み
>>234 でもたぶん後世のバカって陳寿の記述を見て
短里が使われてる!って思い込んで
その証明に無駄な年月を費やしてる人間の事だと思うぞ
>>237 とういでん
そのりのながさ
いっしゅんで
こんぴゅうたあが
90はじく
太宰府の
ぶんしょによれば
すべてきゅうしゅう
だがはやまるな
やまいはそのあと
57のりずむにのりてよっぱらう
やまいはたぶんさんいんかきび(あるいはしこくやきょうと
きゅうしゅうにふりなるりくぎょう
ひとつきながすぎ
わえのちょっかん
ことしはえんがこうとうかぶはぼうらく
しろうとはてをだすべからずとくにろうじん
わえのちょっかん
>>238 人間は才能あるやつが訓練すれば
一日100キロでも走れる訳だしな
だから大月氏国クシャーナ朝に金印が贈られたりした
一日15キロしか歩けない人間たちとかコメディだ
>>237 >短里が使われてる!って思い込んで
>その証明に無駄な年月を費やしてる人間の事だと思うぞ
短里が使われているのは明白であるのに、それに無駄な反論を試みるために人生を費やしている自分の愚かさは棚にあげるのですね。
>>242 道路が舗装されていないし、荷物を抱えて参勤交代のような行列ないしキャラバンで移動することを前提とするはず。
超人的な人間を前提とした記述は当時も資料として意味を成さなかっただろう。
外交官が輿にでも載せられて移動する姿を想像するといい。
>>62 大和説
「距離は5倍以上間違ってるし、方位は絶対に間違いよ!」
「陳寿は短里を知らないし、方位は完璧に間違いよ!」
>後漢書(424頃) 「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」<
5世紀の南宋の范曄が後漢書として「女王國」と書けば、
そりゃ魏志の卑弥呼の事であり、
魏志の「南」と「狗奴國」を、
「東」や「拘奴國」と勝手に書き換えている事になるから、
この文は、✖ね。
>隋書東夷伝(628) 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」<
「則魏志所謂邪馬臺者也「」という魏徴らの注的記載は、
「邪馬壹國と邪馬臺國」とを「同じだ」というインチキをしているから、✖。
>混一疆理歴代国都之図(1402) <
はるか後代に、実地に計測確認する事無しの知的退化での、
想像で書いた地図だから、✖。
大和説
「地位の低い陳寿が書いた魏志は間違いだから、聖典にせず改竄すべし!」
「後漢書は南宋のお偉いお方が書いたから、我々はすべし絶対的聖典にすべし!」
>>66 大和説の掟
その1 大和天皇家一元列島支配の人種差別戦争的な皇国史観を絶対信仰する事
その2 安部政府文部省や右翼マスコミやキョクウ教育界の教えを絶対信仰して崇め奉ること
その3 遺物の年代比定は大和説に都合がよい様に言いくるめること
その4 都合の悪いデータはこっそり隠して話題にせず、他説攻撃に転ずること
その5 間違っていようが、他説の人格攻撃を言い張ることが最善の道
その6 文部省や上司の言う事には、何も考えず服従すること
その7 発掘調査でヤバイものは見て見ぬふりをすること
その8 ただひたすらに大和説を信仰する事 信じればよし
>>67の訂正
後漢書が、書き直した事は、魏志と比較すればすぐ判る。
范曄が書き換えた理由は、范曄の誇張癖や誇大化癖という性格的なものであり、
范曄が「高慢で威張りたがり屋」だろう、という事もすぐ判る。
>>245 後漢についての歴史書は、東観漢記、後漢紀、八家後漢書と数多くの史家が著している中で
三国時代以後、司馬遷『史記』・班固『漢書』・東観漢記は「三史」と尊ばれた
唐代以後は范曄『後漢書』が東観漢記に取って代わるようになった
隋書に邪馬壹國は書かれていない
混一より前の時代に、実地に計測確認した優れた地図は?
地位の低い陳寿が書いた魏志は間違いだと言ってるのは誰?
陳寿は、国史を掌る著作郎(六品)から杜預・張華の働きかけにより治書侍御史(兼中書侍郎・領著作郎(兼任))に昇進、
『華陽国志』では太子中庶子(五品 (600石、天子の侍中に相当))『晋書』陳寿伝では、「起爲太子中庶子、未拜」
太子廃位により就任しなかったが、除せられたという事実は、陳寿の西晋朝における地位を物語っている
地位は低くない
245-247を書いたのはザラコクだな
ここまで無知な男なのか
呆れたものだ
「三史」の著者
『史記』の司馬遷は宮刑(去勢する刑罰)、『漢書』の班固は獄死、『後漢書』の范曄は一家全員処刑
と比べると、蜀漢出身の陳寿の西晋での経歴は不遇というほどではない
>>244 答曰「翻能步行日可二百里。自征討以來、吏卒無及翻者・・・」
が短里だと言い張ってる人間が
>>242dで笑われてるんだが
状況を理解してる?
九州説
「距離は5倍以上間違ってるけど方位は絶対に間違わないよ!」
「陳寿は短里を知らなかったけど方位は完璧に知っていたよ!」
後漢書(424頃)
「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」
隋書東夷伝(628)
「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
混一疆理歴代国都之図(1402)
九州説
「魏志は聖典にして“南→東”や“邪馬壹國→邪馬臺國”や“當在會稽東治之東→大較在會稽東冶之東”など勝手に書き換えてはならない!
根拠は出せないが、後漢の范曄が“高慢さ”や“威張りたがり屋”」で誇張や誇大化の傾向なのは、魏志と比較すれば直ぐ判る。
日本の文部省や大陸人が許しても我々は許せない!」
>>253 少ないからおかしいと指摘されてるのに
強弁でごまかす醜態
>>255 言いたいことはそれだけ?
何が何でもキナイセツに持って行こうとしているだけでしょ。
沖ノ島の祭祀を見るに、倭国の国家祭祀の中心は4〜6世紀でも九州北部なんだよなあ。
沖ノ島は中央の管理のもとに祭祀が行われてる
九州説ってなんでこんなにバカなんだろうな
あと宗像は福岡の中央勢力に近い位置でありながらここと一定の距離を保っている
かえって東の出雲などと繋がりを持って独自勢力を維持しているのが見える
つまり九州説の大好きな伊都国だのとは別勢力的な立場を見せているわけだ
「九州なら何でもいい」とか思い込んでるアホは何も知らないのがよくわかる
九州で見つかった卜骨って
有明海岸の限られた地区にまとまってるんだよね
それって壱岐からか吉備からか知らんけど
そこは外来者の住み着いた村で
九州そのものには卜占の風習はなかった
ってことじゃないの?
>>69 大和説者が、
漢籍の知識を沢山持っている、といくら高慢に誇っても、
その裏で「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしていたのでは、
無意味。
>>263 大和説者が、 漢籍の知識を沢山持っていると言っているんじゃなくて
中国の三国時代以降や現代の史家
彼らを信頼できないと言ってるのが高慢無知なザラコク
>>71 筑紫は、卑弥呼や壹與が女王であるから、」男子がする鯨面文身がすたれるのは当然だが、
大和は、卑弥呼や壹與がいなかったのに、鯨面文身が少なかったのでは、
そりゃ、大和は、正真正銘の田舎だったんだわ。
>>72 ><(後漢書)誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な文章をよろしく <
古田第1書。
>>265 九州は縄文時代の鯨面文身の痕跡となる異物はほとんどないが
弥生時代に北部九州沿岸は少しだけ出てる
>>73 >倭人伝、古田本、Yahooの情報だけじゃ
常に最もベターを求めて、それへの漸近努力をしてない<
全てを知る事は出来ないのだから、
知り得た範囲内で、「最もベター」を求めればよい。
>>74 >いくら筆者を侮辱しても 史料を無かったことには出来ないよ<
だから、信頼性や客観性の史料批判をすべし。
>>75 「最もベター」を求める努力をせずに、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解をしているのが、大和説者。
>>76 大和説者は、自分に都合の悪いことを言う人を中傷する、ことが多いね。
>>81 「南→東」などウソツキ常習や、誹謗常習の大和説を、
弁護する大和説者の、 お里が知れる。
まだ入れ墨が九州文化だとか喚いてるのか・・・
入れ墨を施した顔を描いた弥生時代の土器や埴輪の出土は吉備や東国が中心だ
本当に何も知らないんだな
まぁだからキュウシュウセツとかやってんだろうけどよ
島本町民以外の皆さん
大阪府三島郡島本町では
「いじめはいじめられた本人が悪い」ということですよ
>>83 >>「男子無大小皆黥面文身」という事は、女である卑弥呼は、鯨面文身をしていない、<
>自分でも気がついたよ。 卑弥呼は女性だから、刺青をしていなかったかもしれない。<
「かもしれない」ではなく、「していない」。
>>難升米ら、卑弥呼直属の「大夫」は、魏から「率善中郎將」などを受理しているから、
鯨面文身をしていなかった可能性が高い。<
>これは魏志倭人伝を信じるなら、していた可能性がある。
ただ、中華では刺青をしている者は文明社会の一員と見做さない風習があるから、どちらとも言えない。
倭人の祖とされる呉の太伯は、自ら刺青をして文明社会と決別した。<
卑弥呼直属の「大夫」と、部族の「大人」とを区別しているから、
大夫らも、鯨面文身をしていなかった可能性が高い。
>>277 有棺無槨も皆黥面文身も倭人の風習だから
卑弥呼も自称大夫らも、鯨面文身をしていなかったなら
女王の墓にも当てはまらないな
>>96 >九州程度の出土量だと
倭人伝の鯨面文身、卜骨の記述が実際と一致していたかどうかも疑わしい<
魏の使者らは、山口付近から足摺付近の沖の島付近までしか行っていないんだから、
安芸や吉備以東に鯨面文身者がいくら居ようと、
「南≠東」で、魏の役人たちの記録には始めから関係がなく、
九州地方に存在していれば、それが魏志の記載の証拠になるだけ。
>>100 大和説者は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている嘘吐きダマシ人種であるんだから、
漢籍に当たって史料批判をして、史料の客観性や信頼性の確率の高さを、
幾ら確認しても、 何の価値も信頼性もない。
>>279 始めから邪馬壱国は北部九州だと決まっているから
どこでどれだけ出ようが関係ないということだな
>>278 理屈抜きで幼児のようにむずかる九州ジジイがみっともない
九州には、せごどんの前に神なし、せごどんの後に神なし
>>278 「男子無大小皆黥面文身」
だから卑弥呼は非該当
まだわからないの?
縄文人は男女ともいれずみをした
弥生人の源流、中国人や半島人にはその習慣はない
>>101 >新撰姓氏録は阿蘇祖族、山部氏族を隼人同族の久米氏の流れとして、久米(くめ)は熊襲の球磨(くま)であり、魏志倭人伝の狗奴国(くな)もそれに纏わるとします。
狗奴国はもとより句呉の太伯の子孫とする説があり、大宰府天満宮所蔵の翰苑は
「女王国の南の狗奴国は、自ら 太伯の後であると謂った。」と記し、
旧隼人町の大隅国一宮、鹿児島神宮には句呉の太伯が祀られています。<
凄い情報ですね。
もっと教えてほしいですね。
>>105 大和説考古学者は、
「南→東」などの史料事実を否定曲解をしているから、
幾ら考古学的根拠を持ち出しても、信頼性が殆どなく、✖。
>>106 >>「治」単独の基本的な意味は、「支配」を示す。<
>「支配下として治めている所」という意味はない <
「会稽東治」は、会稽の「東の支配地」、という意味になる。
>>292 どうして、そんな変な意味になるの?
「治」という漢字には、そんな意味は全然ないのに
?????
>>109 >素人が年代を決めても無駄 <
素人の年代決定に、大和説の玄人考古学者が論理的に反論出来なければ、
いくら口先で「無駄」と誹謗しても無駄。
>>288 一次資料を無視して後代資料をありがたがる九州説
>>295 そのど素人の年代決定が
カケラほども論理的でないと
再三指摘されているわけだが
つまり無駄素人
>>112 >那珂八幡付近で播磨や河内や纏向からの庄内からの庄内同士の共存があって、
三雲がそれより古いと なんで三雲が列島最古になるの?
論理がないよ 郵便ポストが赤いから最古だと言ってるのと同列だ<
現在のところ、
弥生銀座の那珂八幡付近や播磨や河内や大和の庄内よりも古い庄内のある地域は、
三雲以外に、見つかっていないから。
>>298 >現在のところ、
>弥生銀座の那珂八幡付近や播磨や河内や大和の庄内よりも古い庄内のある地域は、
>三雲以外に、見つかっていないから。
それ、誰が唱えてる説?
76歳の素人おじん?
>>114 日本の考古学者の考古年代比定は、
それ以前に「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている嘘吐きダマシである事がバレてしまっているから、
(ついうっかりの考古報告以外には)、信頼性が全くないの。
>>298 那珂八幡付近や播磨や河内や大和の庄内より
三雲が古いって、誰が言ってるの?
>>115 >テンプレに書いてある<
テンプレは、
「南→東」の史料事実の否定曲解をしている嘘吐きダマシである事がはっきりしているから、
信頼性が全くなく、
「テンプレに書いてある」だけでは、返事にも反論にもならないよ。
「テンプレに書いてある」事を引用するか?、内容説明するか?しないと、ダメだよ。
>>120 「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている嘘吐きダマシの大和説考古学らの話を、
何の批判もせずに隷従妄信し、主張した大和説者は、
当然、「嘘吐きダマシ」の批判を受ける事になる。
>>129 「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説講釈師、
見てきたようなウソをつき。
おいおい畿内説さんよう
銅鐸はどうなんだよ?
オタクら畿内説は銅鐸の本場だろう?
銅鐸がどうなって
どうやったら銅鏡百枚貰った邪馬台国になんのか?
テンプレにぜんっぜん書いてないぜw
>>304-306 埋め荒らしコピペしている暇があれば
266から言われてる(後漢書)誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る古田第1書の箇所の引用をせよ
>>133 >>九州では鯨面文身の減った、という日本語の意味が分からないの?。<
>縄文時代の鯨面文身の痕跡は無いから痕跡は減ってない もともと極端に少ない<
これまでの話を整理すると、
筑紫と吉備と尾張は、
縄文時代には元々文身国の出雲の支配地であったから、鯨面文身地域であったんだし、
そこへ、天孫族が出雲に国譲りをさせて、筑紫に侵入して、
呉王夫差の後裔で火の国山門に渡来してきた(非鯨面文身の)姫氏と合同して、
委奴の地に倭奴國を立て、
そして、その後、(非鯨面文身の)卑弥呼が女王になったんだから、
筑紫の鯨面文身は、在地の縄文系部族の中でしか残っていなくなった。
>>309 何をどう聞いて、そんな妄想を思いつくんだ?
>>143 >赤道付近だろがなんだろが 会稽東冶の場所は動かない<
倭人伝の陳寿の記載は、「会稽東治」だよ。
>>306 >銅鐸がどうなって
>どうやったら銅鏡百枚貰った邪馬台国になんのか?
>テンプレにぜんっぜん書いてないぜw
書いてあるなあ
>>7-9 >>311 >倭人伝の陳寿の記載は、「会稽東治」だよ。
つまり福州付近
アンカ違い修正
>>307 >銅鐸がどうなって
>どうやったら銅鏡百枚貰った邪馬台国になんのか?
>テンプレにぜんっぜん書いてないぜw
書いてあるなあ
>>7-9 >>145 >>そして、12000里が長里なら、赤道付近になってしまって、<
>なりませんが、何か?<
434m×12000=5208kmで、
郡は北緯38度付近で1度は111kmだから、掛け算して赤道までは4218kmだから、
5208kmが南北距離としても、赤道をはるかに超えてしまうし、
東南としても、その場合の南北距離は、1.414で割り算して、2983kmで、
北緯10度位になり、
いずれにしても、赤道前後だよ。
>>315 なりませんが?
12000は間違いって説だもの
>>146 >>大和説者は「会稽東冶」だと主張するが、陳寿の記載は「会稽東治」だ。<
>「会稽東冶」=「会稽東治」 同じ場所<
魏志倭人伝では、「会稽東治」であり、
「会稽東治」≠「会稽東冶」であり、
違う場所。
>>315 75m×12000=900kmで、
郡は北緯38度付近で1度は111kmだから、
割り算すると8度超で、九州通り越しちゃいますが?
短里説破綻ですね
>>147 >>陳寿の記載は「会稽東治」だ。<
>三国志の12世紀の版本が「会稽東治」<
裴松之も宋明清の校勘学者は誰も「会稽東治」の校勘をしていないし、
張元済も「会稽東治」のままだ。
>後代の史書は會稽東冶<
高慢が書き換えをした後代史書の後漢書の「東冶」は、裴松之や宋明清の校勘学者も張元済も採用していない。
>現代中国では會稽東冶と訂正されている<
現代日本や中国のような思想宗教的国家権力下の学者の「史料事実の訂正」は、信頼性がなく、根拠にならない。
>古田本の、宮内庁書陵部に2種類あったという箇所の引用よろしく<
王朗の「東治」記載は、
福州にその地名が存在せず、
「東の支配地」という普通名詞的な使用になる文言になり、
書陵部紹煕本の写真を撮った張元済の本には「東冶」である。
>>320 >現代日本や中国のような思想宗教的国家権力下の学者
これを客観的に証明してくれ
できないなら畿内説スレでやる意味は無い
>>149 >范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」からくる
誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な例は出せないと<
古田第1書の「『後漢書』主義の大河」に、表にして挙げられている。
>「魏志の元ネタである魏略では、倭人が呉の太伯の末裔を名乗ったことが記録されているが、魏志では呉の太伯の話は削除されている。」
これについても「講釈師、見てきたようなナントヤラ」で答えられないと <
それは私の文ではないし、
私が「魏志の元ネタである魏略」なんていう筈がないし、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説の・・・・のお前に、
答えて上げる必要もない。
>>320 >「東の支配地」という普通名詞的な使用になる文言になり、
ならないよ
「東治」にそんな意味はない
>>150 >だいたい東治なんて言葉が無い<
裴松之も宋明清の校勘学者も張元済も校勘していないし、
書陵部紹煕本には「王朗の行った場所」説明としての「東治」という文言もあるから、
「言葉がある」。
>>322 古田本を買って読め、としか言えないの?
自分で説明できないの?
>>324 つまり会稽東治は福州でいいんだ
九州説死にました
w
>>326 ザラコクよ、詐欺って、何?
証拠がなければ中傷だよ
> 古田第1書の「『後漢書』主義の大河」に、表にして挙げられている。
具体的に宜しく
“「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説”てのを
何千回もコピペするより話が早いでしょ
>>163 >「会稽東治之東」だから、紹興付近の会稽からからではなく、
それの会稽からそれの東の支配地(上海付近)からの「之東」。<
>上海は北だし、<
揚子江河口の南岸、という意味。
>となりの呉郡であって、会稽郡じゃない。<
いや、元の会稽郡から分郡されて出来た地域。
>無理して会稽東治に仕立て上げたら、詐欺。<
杭州から東の臨海郡であれば、「東治」と改めて記載する必要がないのであり、
だから、「会稽の東治」としての特記したのは、
杭州から東北東の「揚子江河口の南岸の先端」を意図していることになる。
>>165 >>投馬國の北の外縁部は、筑紫南端部付近から二千余里になるから、<
>なんでそうなる?<
筑紫までが萬里なので、
その先の二千余里になるから。
その道里を計るに会稽の東してこれを治めるの東に当たる(東治は地名に非ず
>>330 >揚子江河口の南岸、という意味。
原文の「東」が、なんで南岸という意味になるの?
ザラコクは「南→東」の詐欺師なのか?
藁
>>166 「南→東」などの嘘吐きダマシや、
全てにおいて、まともな理由が無いのが、大和説。
>>333 読み下しがメチャクチャ
漢文の勉強したことないだろ
>>332 >筑紫までが萬里なので、
倭人伝の里程数字が間違いなのを認めるんだね?
はい、九州じゃは、死亡
>>169 >>宮崎や熊本県南部付近になるんだろう、と思うよ。<
>考古学的根拠が全く無いテキトーな比定<
免田式土器。
>>340 中国語でそうなる
って証拠は?
??
?
>>172 そんなふうに、
自説の説明が全く出来ず、
他人に説明を要求する事しかできない大和説は、
破産した珍説。
>>341 古漢語のことを指す日本語ですが、何か?
>>173 >そこ(西都原は大古墳群)は、畿内の影響下<
いや、大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだから、
西都原は、直接的には伊都国の影響下であり、
大和は間接的。
>>350 まあつんつんすな
日本人の言語脳を刺激するべく三国志執筆したんとちゃうやろ?
おじいちゃん読みとけんのはしゃあない
>>353 >いや、大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだから、
そんな断定する証拠は?
????
かいけいてのは越のまえ呉が支配してたろ?
たいはくのあとやん
東して日本列島の一部を治めた(かいけつ
>>175 >>史料は、陳寿らの大体の記載をしているにも拘わらず<
>陳寿本人はだいたい、じゃなくて 「当在」=「ちょうど」 と言ってますが?<
始めから、「南北二千余里」になる女王國や倭地に対して、
会稽という狭い地域の東に「ちょうど」という事があり得ず、
だから「當」は、「まさに〜べし」という「大体の推定」を示す事になる。
>>176 >東を東北に拡大するのがサギの手口 <
それ、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者の手口。
つうかカリカリしてるおじいちゃんは一杯いれて落ち着きなはれ(だれも喧嘩売ってないし
>>183 >「会稽東治→会稽東冶」が曲解改竄 だという理由は?<
東冶の東には、14万戸の人口が住める土地が全く存在しないから。
>>189 >漢籍の知識がほとんど無いから 史料の信頼性や客観性の史料批判はできない<
人間は全ての事を知る事は出来ないのだから、
それまでに知り得た範囲内の知識や人類の常識で、確率的史料批判をする。
>>194 >>未だに、古代の道は、
未舗装で悪路や藪道もあって、とてもまともに歩けたものではない、
という実態を知らん振り<
>そうだって証拠を出してくれたら、信用しないでも無いんだがな!<
嫌だ。
對海國や末盧國の移動を挙げてある。
>>359 だめ
会稽東冶は県をいくつも含む広域だよ
はい、論破
くそじじいどもはまだぶんみゃくも理解してないなー(煽ってみる
ちんじゅの表現したかったんは位置関係よりも断髪文身の風俗の理由やろ?
ちんじゅはたいはくのあととよーかかんかったから代わりにかいけいが東して治めたとしたんよ?(あん?
>>195 >古田が宮内庁書陵部に三国志版本が2種類あったと言っているという証拠よろしく<
張元済が写真に撮った「東冶」の版本と、
大和説者が紹介した「東治」の版本。
>>201 >その途中で突然書いたという「尿入り一升瓶」のヘイトスピーチを引用してみ<
大和説者の・・・・の命令のいう事を聞くのは、怖いし、探すのは時間の無駄だし、
私はずっと記憶で書いているんだから、
お断り。
かいけいじんが東に移動して日本列島の一部を治めたのはちんじゅの考えであってわえの考えではない(あしからず
>>204 排他的人種差別の殺人戦争の、国粋皇国史観の大和説者は、
ウソばかりついているね。
>>207 >>「一日一夜行」だけの説明である事になるから <
>一日一夜は一昼夜<
そういう日もあった、という話の可能性もある。
>襄陽(城)から當陽之長坂まで三百餘里<
おそらく外縁部間の里数。
>>373 >おそらく外縁部間の里数。
だという理由は?
>>209 >>「一日一夜行」のような事が途中であった 、という可能性もある<
>精騎で急追して何日間で當陽之長坂の劉備に追いついたかもわからなくなってしまう曲解 <
「何日間」という事も書かれていない、という事が記載実態。
あーあしたはわえのせいじんの儀か(質もんなければねます^^
>>368 >私はずっと記憶で書いているんだから、
>お断り。
証拠を出すのを断る、というのは
古田は、宮内庁書陵部に三国志版本が2種類あったとは言っていない
ということでFA?
>>210 >>一日15km(短里で200里)なら、135kmは、9日かかる。<
>一日15kmは精騎で急追ではない <
馬が一頭しか通れないような狭い道なら、
一頭が5m間隔としたら、5000頭ならそれだけで25kmの縦列になってしまい、
急追どころの騒ぎではなくなってしまう。
>>211 >>前も足元も見えない位の藪道があれば <
>自慢話をするのに距離が短くなる条件下での話はしない <
何これ?。襄陽〜長坂の話ではなかったのか?。
>>260 中央ってどこですか?
博多ですか?
それとも畿内バカですか?
>>275 >入れ墨を施した顔を描いた弥生時代の土器や埴輪の出土は吉備や東国が中心だ
畿内には刺青がなかったわけだから、畿内は邪馬台国ではありませんね。
>>309 >呉王夫差の後裔で火の国山門に渡来してきた(非鯨面文身の)姫氏と合同して、
呉の太白が黥面で知られる人物なんですが、それはどうなるの?
>>327 >つまり会稽東治は福州でいいんだ
むしろ九州でしょ。
少なくとも畿内ではない。
>>221 >家財道具といっても逃げてるのだから必要最小限のものだから
日に約765m余りはいくらなんでも遅すぎ 散歩より短い、
長里でも、1日4.5kmは遅過ぎる。
という事は、何らかの誤情報であった可能性がある、という事だ。
>>343 >倭人伝の里程数字が間違いなのを認めるんだね?
イミフ
>>371 >ややや(レスして気付いた
>天孫降臨やん!
記紀と魏志倭人伝は、実は矛盾せず説明できるんですよ。
>>228 「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
今日もウソばかりついているんだね。
キナイコシに日本人はもういないよ
日本人じゃない交錯院が両度揉んだいで必死になってるだけ
日本人はみーんな考古学的に気づいて騙されなくなっちゃったから
南をあきらめて
鋳語句人の領土に矛先をむけたんでしょね
同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。
魏略逸文(3世紀)
■<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>■
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。
后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。
紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。
太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。
虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、呉仲とも。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの
>>1 アホの
>>1 >>387 後漢書の誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る古田第1書の箇所の引用はまだ?
>>237 でもたぶん後世のバカって、
陳寿の記述を見て 長里が使われてる!って思い込んで、
その証明に無駄な年月を費やしてる人間の事だと思うぞ 。
>>242 人間は、整備されたいい道でなら、才能あるやつが訓練すれば
一日42.195キロでも走れる訳だが、
藪道のような悪路では、1kmも走っても歩いても、
草木の棘で、全身がズタズタだな。
だから大月氏国クシャーナ朝に金印が贈られたりした ?。
一日90キロも歩ける人間たちとか、コメディだ。
ザラコクがここで言張ってるのは古田説じゃなくて
ザラコク個人の解釈だな
>>393 陳寿の記述を見て縮尺が狂っているとしか思えないのが普通だと思うが
マルコ・ポーロの東方見聞録より精度が高いし努力に好感は持たれそうだけどな
>>396 精度の問題なのか、それとも東夷の世界だけそのような単位だったのかはわからないが、帯方郡から一万二千里と表現された女王国が福岡県であったことは確かでしょう。
>>397 一万二千里と表現された女王国の境界から
水行二十日と水行十日陸行一月行ったところが女王之所都
畿内に前方後円墳があろうがなんだろうが、それは魏のあずかり知らぬ事で、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は筑紫のこと。
副葬品、年代などからは、平原遺跡に葬られた女王が倭国女王である卑弥呼でしょうね。
>>398 倭国の境界は帯方郡から七千里の狗邪韓国ですよ。
女王の都が帯方郡から一万二千里の福岡。
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
>>404 柳田説は、平原は卑弥呼のお袋さん世代説
>>407 NHKで卑弥呼は伊都国から選ばれたって言ってたぞ
>>406 伊都国と奴国を合わせて女王国
狗邪韓国から南が倭人の地
>>410 柳田は前からNHKで平原は卑弥呼のお袋さん世代と言ってる
>>411 半島の南に5万戸の領土があって、北部九州沿岸が南側の九州勢力と敵対して
本州とも関係ないなら
韓国史
伊都国はワシントンのような政治外交軍事の王都
博多奴国は東夷最大の商都
これらが筑紫倭国の女王国
記紀における呼称は筑紫の日向
>>414 投馬国のことなら宮崎県西都市都万
あくまでも筑紫の支配下
本州も四国も倭人の地として魏志に記載されている
倭国の本体は対馬海峡と福岡県
>>414 韓伝と倭人伝は分けて書いてある。
あんたは半島へ帰れ。
>>418 半島の南に投馬国は俺の支持してる説じゃないから
九州説のジジイは一人一説で会話の流れ関係なく
同時に主張するからな
九州説は九州の考古学者が誰も支持してないんだから
ぼけ老人同士で九州説スレで素振りしてろよ
残念だけど日本の歴史学者考古学者
これほど眉唾なレベルは世界的にも珍しいガチ
>>424 そう評価するお前は世界的にはどういうレベルなんだよ?
>>425 レベルを名乗るほどのものではありません
ただ舞台を静かに見守る暗闇の観客ではあります
神の手という前科があるからな。
畿内説にしがみついていると二の舞になるぞ。
三角縁をわざわざ中国に埋めてくるくらいだからな。
日本人学者が信じられないなら
九州の遺跡年代も信じられなくなるぞ
結局こういうこと
畿内説(学者の言ってる通説) vs 九州説(素人の妄想)
という構図
真実なんてどうもいい
みんなで乗ろうドサクサ畿内説
>>431-432 正面から反論のひとつも言えないで
そんな悪口ばかり言ってるのは
九州説敗退のあらわれだ
w
>>248 >隋書に邪馬壹國は書かれていない <
「邪靡堆」に対する魏徴らの「則魏志所謂邪馬臺者也」の注釈的付加文は、単に、
魏徴らの「魏志の邪馬壹國と後漢書の邪馬臺國とは同じである」という、
勝手な解釈を示すものである、というだけであり、
史料事実ではない。
>>251 >「三史」の著者
『史記』の司馬遷は宮刑(去勢する刑罰)、『漢書』の班固は獄死、『後漢書』の范曄は一家全員処刑
と比べると、蜀漢出身の陳寿の西晋での経歴は不遇というほどではない <
ちょっと違う。
張華の失脚により、陳寿も逼塞状態になり、その時に三国志を著述した。
だから皇帝は、
直属の家臣であれば三国志を提出する事を命じれば済むのに、
わざわざ家臣を陳寿の元に派遣して、写本させてなければならなかった。
>>252 >答曰「翻能步行日可二百里。自征討以來、吏卒無及翻者・・・」
が短里だと言い張ってる人間が
>>242dで笑われてるんだが 状況を理解してる?<
長里だ、と言い張っている大和説者が、
私の「問題点の指摘」に、全く反論できないで、退却してしまっている、んだが、
状況を理解している?。
>>254 大和説
「魏志は間違いが多いから、一旦棚上げにして根拠にせず、
後代史書や現代大和説学者の意見を採用する」
「“南→東”や“邪馬壹國→邪馬臺國”や“當在會稽東治之東→大較在會稽東冶之東”など、
勝手に書き換えろ!」
「後漢の范曄が“高慢さ”や“威張りたがり屋”」で誇張や誇大化の傾向があっても、魏志と比較すれば信用できる」
「現代ぼ日本の文部省やぼ中国政府が許しているから、我々は許す!」
>>436-437 だから早く後漢書の范曄が“高慢さ”や“威張りたがり屋”」で誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る古田第1書の箇所の引用はまだ?
畿内説スレで珍説九州王朝説の本を買って読めとかステマか荒らしかでしかないぞ
>>255 魏使らが見聞出来たのは、狗邪韓國から北部九州や山口や足摺付近までだ、と指摘され、
縄文以来梁書まで、文身國の出雲が文身の習俗の中心あって、
北部九州は、大陸からの「鯨面文身のない部族の女王」をいただいたから、
北部九州の文身発掘が本州よりも少ないのだ、と指摘されてるのに
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、強弁でごまかす醜態。
>>256 >チョンの平均は9cm 日本男児なら童貞はバレンタインまでに卒業しろよ!<
ほらまた出て来た、
排他的人種差別のヘイトスピーチのキョクウの札損戦争狂の・・・・が。
こんな投稿を許すとは、
スレ主も、5chも、、PC会社も、、文部省も、安部政府も、
同じ穴もムジナか。
>>258 「南→東」などの嘘つき騙しの敗者の大和説人種は、
性根から腐っておるな。
>>260 沖ノ島は、縄文末からの「海峡倭人の天孫族の天國」の、
倭國の伊都国系の阿毎氏が中心の祭祀島。
阿毎氏の別種分家の旧小国の大和が祭祀に参加出来たのは、
ヲホドの継体が磐井を倒して、倭国の王家の一員として参画出来るようになった、
6世紀以後。
>>442 沖ノ島の祭祀を見れば、卑弥呼より後もずっと倭国の国家祭祀の中心は九州北部であったことがわかりますね。
>>261 宗像は、天照一族を祀りながら、出雲の陶ケンも出土しているから、
出雲系と伊都国系の共有的な地域。
伊都の天孫族成立を守護したのが宗像。
別氏族であるが、伊都を支持する勢力であったことにかわりはない。
>>262 >九州で見つかった卜骨って 有明海岸の限られた地区にまとまってるんだよね
それって壱岐からか吉備からか知らんけど そこは外来者の住み着いた村で
九州そのものには卜占の風習はなかった ってことじゃないの?<
卜骨は、
魏や卑弥呼の支配下から少し距離をおいた「家」の、
一大國の壱岐に沢山見つかっているから、在地天孫族系の祭祀。
しかし、卑弥呼の祭祀は、類「鬼道」であるから、当然「ト骨」は採用されず、
筑紫では「ト骨」は下火になった。
>>436 ザラコクが指摘した問題点ってなに?
潰されてないの、一つでものこってる?
>>435 >ちょっと違う。張華の失脚により、
お前はいつものように勘違いをしている
張華が、賈后が皇太子司馬遹の殺害を謀ることを諌めたため免職となったのは299年
捕らえられ、三族皆殺しとされたのは300年
陳寿の「魏書」を読んだ荀勗が死んだのは289年
陳寿が死んだのは297年
>>449 壱岐で盛んに行われていたのだから、魏の使いが潮待ちの間にでも占ってもらったのだろう。
>>447 >筑紫では「ト骨」は下火になった。
前の時代から出てない
>>444 宗像は甕棺がないから糸島や筑紫とは別勢力
>>264 大和説者が、自分らは 漢籍の知識を沢山持っていると言っている。
また、中国の南宋の范曄の高慢な書き変え以後、
中国の高官者の中でも日本でも、高慢で無知蒙昧の現代大和説者らも、
陳寿の記載が都合が悪いから、「間違いが多いから信頼できない」、と言いだした。
>>267 縄文から梁書頃まで、列島の文身の中心は出雲。
筑紫は、大陸から姫氏や天孫族の渡来に拠って、鯨面文身の習俗は衰え、
隋代には「其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也」になった。
>>269 >古田第1書からその箇所の引用よろしく<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの、
・・・・大和説者の命令を聞くのは、薄気味が悪いし怖いから、嫌だ。
自分で勝手に読め。
>>270 大和説者は、史料事実や史料実態や人類の常識を、もっと知り得る。
足りてない。
>>456 >陳寿の記載が
陳寿じゃなくて12世紀の版本が
地理観は3世紀だからしょうがない
>>455 だからこそ、記紀にある通りに天孫族を支持する別氏族なんですよ。
>>275 まだ入れ墨が九州にはない、とか喚いてるのか・・・?。
梁書が出雲を文身国と記録したのだから、縄文以来の鯨面文身の中心は出雲であったのであり、
入れ墨を施した顔を描いた弥生時代の土器や埴輪の出土は、出雲系の吉備や東海が中心ので、
筑紫は、大陸からの天孫族や姫氏の渡来に拠って、鯨面文身部族が減ったんだよ。
本当に何も知らないんだな。
まぁだから「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とかを、やってんだろうけどよ。
>>278 >有棺無槨も皆黥面文身も倭人の風習だから
卑弥呼も自称大夫らも、鯨面文身をしていなかったなら 女王の墓にも当てはまらないな <
何?、この支離滅裂な文章は?。
有棺無槨は、筑紫の風習だし、
皆黥面文身は、縄文以来の出雲系部族の風習だし、
卑弥呼も自称大夫らも、中国の臣下になったんだから、
鯨面文身をなったんだから、していられなかったんだし。
>>464 >中国の臣下になったんだから
臣下になる前はしてたのか
レーザーかなんかで消したのか?
>>284 理屈抜きで幼児のようにむずかる大和説の・・・・サギシらがみっともない。
論争に完敗した・・・・大和説が、幼児のようにむずかって、思考停止しました。
大和説には、せごどんの前に神なし?、せごどんの後に神なし??。
>>463 >梁書が出雲を文身国と記録したのだから、縄文以来の鯨面文身の中心は出雲であったのであり、
九州説は、いつも
根拠のないことを
断定ばかりしているな
ちぇすとおおおー!!!
知恵を捨てよ、考えるなと言うこつ
>>286 大和説って、大和天皇家一元列島支配の皇国史観教の、
漠然とした精神論ばっかりだよね。
>>288 >「男女多黥臂點面文身」隋書俀国伝<
筑紫は、支配者層には
「其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也」だから、殆ど鯨面文身は残っていなかったが、
民間では、
海岸漁労の出雲系住民を中心に、まだかなり鯨面文身者が残っていたんだろうね。
>>471 >鯨面文身者が残っていたんだろうね。
男子だけの風習ではなかったということだな
>>296 一次資料を無視して、後代の書き換え資料をありがたがり、
時には書き変えてしまう、
嘘吐きダマシの大和説。
>>295 そのど玄人を称する大和説者の年代決定が、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしているんだから、
カケラほども論理的でないと、
再三指摘されているわけだが。
つまり無駄素人
>>471 >「其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也」だから
筑紫の話じゃないぞ
>>476 それは真っ赤なウソ
畿内説だ採用する年代観は考古学者の提唱している通説だから
九州説はウソばかりついてるね
>>481 畿内説の人が素人考古学者になってるからな。
>>482 ウソを誤魔化そうとしてもダメ
使ってる年代観はプロの学者のものだ
>>299 >>現在のところ、
弥生銀座の那珂八幡付近や、播磨や河内や大和の庄内よりも、古い庄内のある地域は、
三雲以外に、見つかっていないから。<
>九州で、だろ? なんの意味もない <
九州以外には見つかっていないし、
庄内の高温焼成の技法は、
中国の黒陶灰陶や、瓦式土器やガラスや、青銅や鉄の溶融などの技法を、
取り入れる事が出来た筑紫以外には考えられないから。
>>308 >埋め荒らしコピペしている暇があれば
266から言われてる(後漢書)誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る古田第1書の箇所の引用をせよ<
「南→東」などの嘘吐きダマシをしている事がはっきりバレた・・・・大和説者の命令を聞くのは、
嫌だ。
>>312 >書いてあるなあ
>>7-9<
テンプレは、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシである事がバレているから、
怖いし時間がもったいないし無駄で無意味だから、読む気もしないし、読まないなあ。
必要だと思えば、テンプレの名前を出さずに、自分の説だ、とでもして、
引用転写してくれたら、読んであげる事もある。
>>313 >倭人伝の陳寿の記載は、「会稽東治」だよ。<
>つまり福州付近<
福州付近の東治の東には、14万戸の人口の島は、全く存在しないから、✖。
>>487 そうやって「書いてない」とウソをつくわけか?
>>492 福州付近の東治の東に14万戸の人口の島が全く存在しないと
なぜ通説が✖になるの?
理由は?
小耳に挟んで勘違いして屁理屈連呼で指摘から逃れてきた76年の人生
>>487 畿内説を知ろうとしないで
どうして畿内説の批判ができると思うんだ
>>485 珍説九州王朝説の第1書の資料とやらを答えられないなら
それを根拠に「南→東」と改訂した後漢書の范曄が
「高慢さ」や「威張りたがり屋」で誇張や誇大化の傾向が直ぐ判ると繰り返すだけのお前は
この畿内説スレではステマか荒らしかでしかない
荒らしには早々にお引き取り願おう
>>316 >なりませんが? 12000は間違いって説だもの<
なりますが。
だって、「自郡至女王國萬二千餘里」は、
魏使らが実地にある程度確認し、魏略も魏志も記載した、
史料事実そのものだもの。
>>501 大宰府の幼学書のコピーなら「臺」の字使ってるぞ
>>318 >75m×12000=900kmで、 郡は北緯38度付近で1度は111kmだから、
割り算すると8度超で、九州通り越しちゃいますが?<
「計其道里、當在會稽東治之東」自身が「大体の位置推定」であり、
九州は、揚子江河口の東〜東南東の間にきちんと入っているから、
「ほぼ東」でぴったりであり、
「東冶」のように、14万戸の島が全く存在しないのではなく、
大和説の長里説では、赤道付近に行ってしまって、揚子江河口の東には全く合わず、
大和説と長里説長の両方とも破綻ですね。
>>505 >九州は、揚子江河口の東〜東南東の間にきちんと入っているから、
ダメだね
それは会稽よりずっと北
>>321 >>現代日本や中国のような思想宗教的国家権力下の学者<
>これを客観的に証明してくれ できないなら畿内説スレでやる意味は無い<
陳寿や裴松之や張元済の「東治」を、
「東冶」というような全く合わない土地に変更したのは、
范曄であり、魯弼。
>>505 >「ほぼ東」でぴったりであり、
史料に書いてあるのは「ちょうど東」。
九州説は、史料を歪曲改ざん嘘つきダマシしてるな。
>>323 >「東の支配地」という普通名詞的な使用になる文言になり、<
>ならないよ 「東治」にそんな意味はない<
なるよ。
中国には「東治」という「地名の固有名詞」はないし、
「東の治」というしかない。
>>325 >古田本を買って読め、としか言えないの? 自分で説明できないの?<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者は、
・・・・ケダモノサギシであるし、怖いから、
書き出して上げないの。
>>510 「東の治」に「東の支配地」という意味はない
>>511 なら議論にならないからさっさと畿内説スレから出ていけ臆病者
>>327 つまり会稽東治の福州では、
その東方に14万戸の人口の島が存在していないんだ から、
大和説死にました。
w
>>511 証拠が出せずに罵って誤魔化したので
九州説サギシ確定
w
>>515 会稽東治(福州)の東方に14万戸の人口の島が存在していないと
どうして 大和説が死ぬの?
理由は?
会稽東治(福州)の東方に14万戸の人口の島が存在していたら
そこ掘ってる
論争不要
>>334 >>揚子江河口の南岸、という意味。<
>原文の「東」が、なんで南岸という意味になるの?<
会稽郡から分郡された東部の呉郡のの東の先端が、揚子江の河口の南岸付近になるから。
大和説者は、やっぱり「南と東」の詐欺師だったのか? 藁
>>520 会稽郡から分郡された東部の呉郡の東の先端は、揚子江の河口の南岸付近ではない。
嘘はダメ。
>>520 会稽郡じゃないからダメだろ
詐欺するな
>>520 後漢書の「南→東」の反論を
古田本を買って読めとしか言えない荒らし負け犬九州説は
畿内説スレからさっさと出ていけ
古田はツガルの時点で、「しくじり先生 俺みたいになるな!!」のほうに
路線変更していたほうが、ひふみんのように稼げてたかもしれない
おじいちゃんら残りの人生有意義にすごしなさい(5chで阿呆ループやめれ^^
かわいそうやから新ネタをひとつ
渤海国の朝貢が能登半島経由なんしってるかー
どんだけゆーても対馬経由せんかったそうじゃ
ちなみにらくろーたいほーは三国志執筆期間まえにはワイをうちて日本海に達していたかも
>>520 卑弥呼も陳寿も生まれてないころ分割された呉郡を
会稽東治だと言い張るのは
サギだね
>>343 >>筑紫までが萬里なので、<
>倭人伝の里程数字が間違いなのを認めるんだね?<
倭人伝の里程数字が間違いでなかったんだし、
だから、大和へは全く行けないね。
はい、大和説は、死亡 。
>>528 倭人伝の里程数字が間違いでなかった
って証拠は?
????
>>354 「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の・・・・ケダモノ詐欺師の言語も、
オカシくなって来たnow。
>>530 罵倒しかできないの?
反論できないの?
論破され尽くした九州説は惨めだね
>>356 >>いや、大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだから、<
>そんな断定する証拠は? ???? <
旧唐書や唐会要や新唐書など。
>>357 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
・・・・ケダモノ詐欺師が 、
また、議論に負けて逃亡した。
>>532 旧唐書にも唐会要にも新唐書にも
「大和は倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」
なんて史料事実はないよ
>>533 証拠は?
出せないだろ?
九州説はウソばかりついてるね
>>364 >まあ三国志の殆どはいちり400mや(ぼそっ<
何だい?、少し、
「大和説者同士の仲間割れの喧嘩の」
でも始まったんかな?と思ったら、やっぱりまた、大和説の長里説に逆戻りかよ。
魏志だけではなく、三国志なら、大半は短里だよ。
>>366 だめ。
東冶自体は小さな町だし、
県をいくつも含む広域であっても、
その東には、14万戸の人口が住めるような島は、全く存在しないんだ。
つまり、高慢で誇大な書き換え男の范曄の大失敗。
はい、また大和説が論破された。
>>529 >倭人伝の里程数字が間違いでなかった
間違いだという証拠プリーズ
倭人伝を信用しないなら、いっそのこと邪馬台国もなかったことにすれば?
>>538-539 何も反論できない敗者
それが九州説
>>502 >史料事実だと何?
>
>論路的に語れないの?
何が言いたいのか不明
>>477 >畿内説は在地首長のゆるやかな連合説なので多元史観
畿内説は東遷説
>>545 根拠はハッキリしてる
会稽郡を分割して呉郡が置かれたのは129年
>>374 >>おそらく外縁部間の里数。<
>だという理由は?<
陳寿の三国志における地域間距離記載の原則であり、
例外は、漢代記録や上表文の転写をした場合などに限られるから。
>>547 >何が言いたいのか不明
史料事実だと何なのか
論理が書いてないから
論路的に語ってない
九州説には論理がない
だから相手が何を言ってるか理解できない
>>377 >証拠を出すのを断る、というのは
古田は、宮内庁書陵部に三国志版本が2種類あったとは言っていない
ということでFA? <
いや、嘘つき騙しの・・・・ケダモノ詐欺師の大和説者に、探して上げても、
全くの無駄骨であり、無意味で無価値だから。
>>541 会稽東冶は県をいくつも含む広域だよ。
その東には、14万戸の人口が住めるような島は、全く存在しないんだ。
つまり、倭人伝の道里・方位は間違っている 。
はい、また畿内説が強化された。
>>554 ほら、証拠を出さない言い訳をしてる
詐欺師だな
>>555 九州がありますよ。
畿内より先に九州につきますよ。
12000里では会稽までたどり着けないんだから
短里説破綻ですね
>>382 >>呉王夫差の後裔で火の国山門に渡来してきた(非鯨面文身の)姫氏と合同して、<
>呉の太白が黥面で知られる人物なんですが、それはどうなるの?<
紀元前1000年頃の姫氏の太白が、
鯨面文身を(出雲が盟主であった)列島に伝えた、という可能性もあるが、
卑弥呼ら姫氏の口述説明は、結局は、
自分らは、姫氏の(鯨面文身の)太白の後裔の、
紀元前5世紀の、(鯨面文身をしていなかった)呉王夫差の後裔である、
という説明をしたんだろう、という事。
テンノウ(ジンム?)よりも、
凄い存在がいたという事なんだよ
そういう事を、認めたくない一派も、
いたんだろうね
ほとんどジンム??の配下、部下のような事になっていたり
そのほうが妄想だよ
>>396 陳寿の記述を見て、縮尺が狂っているとしか、考えられない大和説学者が、
・・・・アホだとは思うが、
はるか後代で、列島へも来ておらず、
後代での伝聞でしか書けなかったマルコ・ポーロの東方見聞録より、
魏使らや陳寿らの方が、
精度が高いし、努力に好感は持たれそうだけどな。
>>564 このように、いつも
九州説は結論を言い張るだけ
根拠を言わない
他のスレの話になるけど、
このような事を言っている人もいた
三下、無名のヤー公が〜何やら
>>398 >一万二千里と表現された女王国の境界から水行二十日と<
「南至投馬國}には、途中移動があった事を示す説明がないから、
魏使らが通った主行程ではなく、側副傍線行程説明であり、
「水行二十日」は、その側副傍線行程の(不彌國からの)所要日数を示すだけ。
>水行十日陸行一月行ったところが女王之所都<
「水行十日陸行一月」の日数説明対象は、
その前の「女王之所都」への所要日数説明文言であり、
女王之所都は、郡からの行程全体の目的地であるから、
「從郡至倭」からの所要日数説明である事になる。
>>400 >>畿内に前方後円墳があろうがなんだろうが、それは魏のあずかり知らぬ事で、
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は筑紫のこと。
副葬品、年代などからは、
平原遺跡に葬られた女王が倭国女王である卑弥呼でしょうね。<
>その年代は素人だけが言張ってる年代<
いや、21枚の「尚方作」の鏡は、
明帝の下賜鏡が元になっていた、という事は、避けられない事実。
それを「素人だけが言い張っている」とヘイトスピーチして、
大和説の年代論拠を全く説明出来ない大和説者は、
ド素人以下の・・・・詐欺師。
大和説論者なんていないのに、誰と闘ってるんだ、爺さんはw
倭人伝統の邪馬台国とはヤマトを指す。
それだけの話だね。
九州?そんな場所に有るわけねーだろw
ジンムでしょ?
神倭・・・倭猿という事になるんだけど、
確か邪馬台国のスレで見たんだよ
『倭猿』
>>404 >柳田説でしょ<
そうですね。
柳田氏も、この頃は、平原の年代を卑弥呼の頃に上げようとしているみたいだし、
平原の21枚の「尚方作」鏡が、明帝の下賜鏡が元になっている、
という事が避けられなくなって来たから、
大和説学者らや大和説者らの中にも、かなりの動揺があって、
平原を卑弥呼や壹與の頃にしよう、とする人もあり、
分裂気味なんでしょうね。
やー公
ヤクザ、暴力団と出てこない?
他の邪馬台国スレでも、なぜか刺青の話をしていたり
>>569 >「素人だけが言い張っている」とヘイトスピーチして
事実
>いや、21枚の「尚方作」の鏡は、 明帝の下賜鏡が元になっていた
それも素人だけが言い張っている
>>573 >平原を卑弥呼や壹與の頃にしよう、とする人もあり
いない、素人の連呼だけ
>>412 >柳田は前からNHKで平原は卑弥呼のお袋さん世代と言ってる<
石野は、もう10年位前から、祇園山が卑弥呼の墓の可能性がある、と言っていたし、
天誅も、伊都国が魏使や郡使の接待建築があったように説明していた。
>>578 祇園山は集団墓地
天誅という学者はいない
シロートにもわかる
ヤー公の上に・・・中華(漢人?)・・・みたいな話
>>421 「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの大和説者らは、
葛城説や狗奴國説や阿波説や祇園山説や東遷説などのように、一人一説で、
会話の流れ関係なく 同時に主張するからな。
それだけ、どれも確定な論拠が全くない、という事あんんでしょう。
アニメ、漫画の話をしている人がいたでしょ
首だったか背中に印、実際は、ただの奴隷だったという話
>>423 「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しのの大和説は、
国民の過半数が誰も支持してないんだから、
・・・・アホ同士で、排他的人種差別の殺し合い戦争の準備や稽古でもしてろよ。
貴族は貴族(貴族)で別にいた、
と言っている人もいた
貴神?三貴子?
実際は系統が違うとか
>>429 >日本人学者が信じられないなら 九州の遺跡年代も信じられなくなるぞ <
いや、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、・・・・アホだから、
時々「ついうっかり」の都合の悪い史料事実を、
それを知らずにしゃべってしまう事があるから、
やはり、半分×人種なの。
だから、もっとしゃべって欲しいの。
似ている人物がいるのかな
三貴神(子)と倭健?
同じような人物がいなかった?
>>430 結局こういうこと。
大和説(史料事実の否定曲解の・・・・アホ学者の言ってる通説) vs 九州説(史料事実に拠った素人の帰納的推論)
という構図 。
>>431 大和説にあらずんば、・・・・アホ学者にあらず 。
>>432 「南→東」などの嘘つき騙しのドサクサ大和説なんてどうもいい 。
みんなで乗ろう、「史料事実からの帰納的推論」の九州説。
>>590 畿内説・・・学者の通説
九州説・・・おじいさんの夢
ザラコク妄想・・・勘違い期間76年
>>433 正面から反論のひとつも言えないで、 そんな悪口ばかり言ってるのは、
大和説敗退のあらわれだ。 w
>>449 大和説は、また三国志や倭人伝の無視や否定曲解ですか?。
『倭猿』
なぜ倭猿は人殺しばかりするのか
と言っている人がいたり
人殺し=『もののけ姫』でいうと(三貴子)神殺し
>>450 >>ちょっと違う。張華の失脚により、<
>お前はいつものように勘違いをしている
張華が、賈后が皇太子司馬遹の殺害を謀ることを諌めたため免職となったのは299年
捕らえられ、三族皆殺しとされたのは300年
陳寿の「魏書」を読んだ荀勗が死んだのは289年
陳寿が死んだのは297年<
どこが違うんだい?。
陳寿が三国志の執筆が終わったのは何時で、
皇帝が家臣を陳寿の家に派遣して、三国史の筆写をしたのは、何時なんだい?。
>>594 >畿内説・・・学者の通説
学者の妄想でしょ
>>455 >宗像は甕棺がないから糸島や筑紫とは別勢力 <
宗像は、出雲の陶ケンがの出ているから、部族としては、出雲系に近いが、
地域的には、筑紫や伊都国の支配下。
>>460 >また、中国の南宋の范曄の高慢な書き変え以後、
中国の高官者の中でも日本でも、高慢で無知蒙昧の現代大和説者らも、
陳寿の記載が都合が悪いから、「間違いが多いから信頼できない」、と言いだした。<
>陳寿じゃなくて12世紀の版本が 地理観は3世紀だからしょうがない<
当たり前だよ。
何が言いたいの?。
>>461 >やっぱりまた勘違いで連呼してたんだな<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、やっぱり、
・・・・詐欺師だから、
古田第1書を読まないで、ヘイトスピーチを始めたな?。
別に古田本を読まなくても、誰でも、例えば、
天誅の、漢籍の書棚の
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin
で、倭人伝と後漢書倭伝とを比較してみれば、
范曄の書き換えがよく判る。
>>600 まあ、記紀で筑紫に降臨する邇邇芸を宗像三女神が守護したとされているわけですからね。
>>465 >>中国の臣下になったんだから<
>臣下になる前はしてたのか レーザーかなんかで消したのか?<
「難」氏は、河南省と韓に本貫があるから、
会稽や呉や出雲にも関係がなく、
おそらく、鯨面文身をしていなかった。
>>468 大和説者は、いつも、
根拠を言って上げても、言ってない事にして、
根拠がないと、ヘイトスピーチ街宣ばかり断定しているな。
>>472 >>鯨面文身者が残っていたんだろうね。<
>男子だけの風習ではなかったということだな<
鯨面文身者は、3世紀には男ばかりに見えたが、
7世紀初頭には、海岸地域の狩猟漁労者を中心に、女性も鯨面文身をする人も現れた、
という事だろうなあ。
>>479 >「其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也」だから 筑紫の話じゃないぞ<
「又經十餘國、達於海岸」は、
若しも隋使らが通っておれば、国名や海岸名を書かなければならない筈なのに、
書いていないから、俀人からの伝聞情報であるし、
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」というように、
竹斯國以東には俀の都がない、という断りを入れなければならなかった、という事は、
小野妹子が隋の文帝に名乗った日本国を方向を否定するためだった、
という事になるから、
隋使らは、筑紫の東隣の秦王國から、
(東は否定され北は海なので)南へ「後十日」行った、という事になる。
隋使らは、南へ「後十日」行ったら、
南を書かなければならない筈なのに、
書いていないから、又東へ行って、十餘國を經て海岸に達した
倭人伝の南はやはり間違いであった。
ギリシャ→ローマ
九州→畿内
こんだけことなんだけど
畿内→九州だって言い張るからおかしくなるんだよな
ギリシャが後に東ローマ帝国になってるから
ローマ→ギリシャだと言い張るみたいな話でさ
倭人伝と後漢書倭伝とを比較してみれば、
12世紀の三国志版本の「東治」が「東冶」の間違いであることがよく判る。
>>481 >>その「ど玄人」を称する大和説者の年代決定が、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしているんだから、
カケラほども論理的でないと、 再三指摘されているわけだが。 つまり無駄素人。<
>それは真っ赤なウソ
畿内説だ採用する年代観は考古学者の提唱している通説だから<
その考古学者も「南→東」の嘘吐きダマシを妄信隷従しているんだから、
素人と同じあり、大和説者らと同じ穴の貉仲間。
大和説者はウソばかりついてるね。
>>602 で、九州説のお前のいう後漢書の范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」で誇張や誇大化の傾向が全く判らないんだが
お前の妄想だったでFAか?
>>611 >その考古学者も「南→東」の嘘吐きダマシを妄信隷従しているんだから、
>素人と同じあり、大和説者らと同じ穴の貉仲間。
そんな悪口いくら言っても
プロの学者を→「ど玄人」を称する大和説者
だということには出来ないので
ザラコクはウソばかりついてるね。
>>607 >「自竹斯國以東、皆附庸於俀」というように、
>竹斯國以東には俀の都がない、という断りを入れなければならなかった、
それは漢文を知らない人の誤読
竹斯國以東にずっと附庸国が並び、その先に俀の本国があって都がある、と読む
ザラコクも村本も嘘ばかりつくから相手にされないんだぞ、いい加減学習しろよ。
>>483 >ウソを誤魔化そうとしてもダメ 使ってる年代観はプロの学者のものだ<
口先で誤魔化そうとしてもダメ。
「南→東」などの史料事実を否定抹殺する嘘吐きダマシをするのは、
始めから「プロの学者」ではなく、
「思想宗教的に結論先にありき」の・・・・素人アマチュアのものだ。
>>617 知りもしないことを勝手に決めつけても
ダメ
>>488 >庄内式の焼成温度は弥生土器と変らない<
壁の厚みを弥生土器よりも薄く丈夫に出来た、という事は、
焼成温度を弥生土器をの時よりも高くした、
という事だ。
>>617 あなたは
「『ど玄人』を称する大和説者」
と言っちゃってる時点で
嘘つきと確定してるんですけど
>>491 >こいつも逃げてばかりだな<
天誅の漢籍の書棚:
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin
で、倭人伝と後漢書の記載を比較したら、直ぐに判る事だ。
>>496 >畿内説を知ろうとしないで どうして畿内説の批判ができると思うんだ <
大和説が、始めから「南→東」などの嘘吐きダマシをしている事が、判っているからだ。
一つのウソを付けば、
他の史料事実に対する解釈も、どこかで無理をする事になって、
れんさはんのうのように、次々とウソがバレるからだ。
>>497 >珍説九州王朝説の第1書の資料とやらを答えられないなら
それを根拠に「南→東」と改訂した後漢書の范曄が
「高慢さ」や「威張りたがり屋」で誇張や誇大化の傾向が直ぐ判ると繰り返すだけのお前は
この畿内説スレではステマか荒らしかでしかない 荒らしには早々にお引き取り願おう<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシが、
世間の人々を騙そうとするのを見るのは、黙過し難いから、嫌だ。
何度も言うが、
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/menu01.html
の、倭人伝の記載と後漢書の記載とを比べて、
内容が変わってしまうような書き換えがあったところを見れば、
直ぐに判る事だ。
>>500 大和説者は、いまだに「うん臭い屁」を出し続けているからなあ。
>>502 >史料事実だと何? 論路的に語れないの?<
史料批判に拠って、客観性や信頼性が確認された史料は、
事実である確率が、非常に高い、
という事になる。
>>504 >大宰府の幼学書のコピーなら「臺」の字使ってるぞ <
幼学書って何か?は知らんが、
後代の内容説明文書になった時点で、客観性と信頼性が半減する。
つまり、3世紀の魏志記載に関しては、その幼学書は半分×書。
>>631 つまり、史料批判をしない古田説の振り回す「史料事実」は
信用に値しない
ってことだね
>>506 >>九州は、揚子江河口の東〜東南東の間にきちんと入っているから、<
>ダメだね それは会稽よりずっと北<
いや、北ではなく、
杭州から東北〜東北東方向であり、
会稽の東の「治」地域に十分含まれる。
古田が史料批判をしたつもりだった泥棒の書いた本は
捏造された偽書であるという評価が既に定着し、公的団体も偽書であることを公表している
古田はしくじり先生となってしまった。
>>508 >>「ほぼ東」でぴったりであり、<
>史料に書いてあるのは「ちょうど東」。
九州説は、史料を歪曲改ざん嘘つきダマシしてるな。<
「當在〜」は、「まさに〜に在るべし」という推定であり、
「ちょうど〜」という断定をしていないから、
お前の断定が✖。
「南→東」などの嘘吐き大和説者は、また、
史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシのサギをしているな。
>>634 >杭州から東北〜東北東方向であり、
証拠は?
言い張るだけ?
????
>>636 >「當在〜」は、「まさに〜に在るべし」という推定であり、
>「ちょうど〜」という断定をしていないから、
という証拠は?
「和田さん!! 私はあなたを裏切らなかった・・・」
>>512 >東侯官治は「東治」と呼ばれている<
それなら、「東冶」という固有名詞があるんだから、
「東治」は「東の治」であり、普通名詞的な熟語。
>>634 >杭州から東北〜東北東方向であり、
>会稽の東の「治」地域に十分含まれる。
杭州市は会稽郡治より西ですけど。
>>514 >なら議論にならないからさっさと畿内説スレから出ていけ臆病者<
嫌だ。
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの、
・・・・犯罪者的大和説者が、国民を騙す事は、黙過し難い。
>>516 >証拠が出せずに罵って誤魔化したので九州説サギシ確定 w <
古田第1書や、天誅の漢籍の書棚の、証拠のありかを説明したのに、
罵って、ヘイトスピーチし続けたので、
大和説者のサギシ確定。
>>521 会稽郡から分郡された(会稽郡の東部であった)呉郡の東の先端は、
揚子江の河口の南岸付近である。
嘘はダメ。
>>644 杭州は呉郡なのに会稽東治だと言い張る古田説って
史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシで
国民を騙す事だけど、黙過し難くないの?
>>522 >会稽郡じゃないからダメだろ 詐欺するな<
原文は(会稽郡ではなく)会稽なんだから、杭州の東方全域になる。
詐欺をするなよ。
>>646 100年以上も前に分郡されてる呉郡を
会稽東治だと言い張るフルタ説の神経が
わからない
>>523 >呉郡は会稽郡の東部ではない<
会稽郡から分郡されて出来た呉郡は、会稽郡の東方地域であったから、
会稽のでほぼ東の「治」域になる。
hdhotinjsdionjsrpighnjs[iproghnshnrrowsjmhn-gosrghrposnhposnrehyoprnhyp0odhynedp0iynhedynohep
>>653 >会稽郡から分郡されて出来た呉郡は、会稽郡の東方地域であったから、
真っ赤なウソ
w
>>653 「治」域なんて言葉はないし
捏造はいかん
>>524 >後漢書の「南→東」の反論を<
何だ?、これは。
今の議論は「魏志の東治と後漢書の東冶」の問題が始まりだ。
古田本や大和説者の天誅の「漢籍の書棚」に書いてある、と言って上げているのに、
それを書き出せ、としか言えない荒らし負け犬大和説者は、
掲示板の邪魔だから、 さっさと出ていけ。
>>653 会稽郡を分割して呉郡が置かれたのは129年なんだが?
どうして陳寿が呉郡を会稽東治と呼ぶの?
>>525 >古田はツガルの時点で、「しくじり先生 俺みたいになるな!!」のほうに
路線変更していたほうが、ひふみんのように稼げてたかもしれない<
何だ?、この意味不明文は。
古田さんは、埋もれそうになった史料の価値を確認された、日本の歴史学の功労者だ。
しくじり古田先生が宮内庁書陵部には三国志版本が2種類あったと言っている
というのもウソだろう
>>527 >卑弥呼も陳寿も生まれてないころ分割された呉郡を 会稽東治だと言い張るのは
サギだね<
この「尿入り大量の一升瓶」男も、変な男だなあ。
自分から、
会稽郡から、呉郡や臨海郡の分郡があったのが、250年代だ、
と書いておいて、いつの間にか、何の釈明もなしに、
2世紀前半の事だ、と言い換えて、ヘイトスピーチを始めている!。
勿論、「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」も、
「会稽郡」と絶対特定したものではなく、
単に「一般的地域呼称としての会稽」「だ。
この男は、全くの・・・・サギシだねえ。
>>531 罵倒しかできないの?、
反論できないの?、
論破され尽くした大和説は惨めだね。
>>668 >会稽郡から、呉郡や臨海郡の分郡があったのが、250年代だ、
>と書いておいて
証拠は?
>>533 反論証拠や根拠は?。
出せないだろ?。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、ウソばかりついてるね。
>>668 >会稽郡から、呉郡や臨海郡の分郡があったのが、250年代だ、
>と書いておいて、
また毎度の自分の記憶違いを、他人が書いたようにウソをつく
>>540 いつも、
反論証拠や論理をまったく出さないのが、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説だな。
>>546 何も反論根拠も反論論理の出せない敗者 。
それが「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの大和説。
>>675 なんでそんな嘘つくの?
すぐバレるのに・・・
>>551 >根拠はハッキリしてる 会稽郡を分割して呉郡が置かれたのは129年<
始め250年代と言っておいて、最近急に129年だ、と変更したはダマシ?だな。
しかし、そんな事はもう関係がない。
「計其道里、當在會稽東治之東」の「会稽」は、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、漢書の東鯷人の「会稽海外」の会稽であり、
要するに、陳寿執筆頃に、「昔から会稽と呼ばれていた」会稽という場所の事だ。
そして、「東治」は、「昔から会稽と呼ばれていた」会稽の東の「治」の地域だ。
それは当然ピンポイントではなく、広域であり、
その広域の東にある14万戸以上の人口がある島は、九州だ。
>>553 「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説は、
論理を構成する頭がない。
だから相手が何を言ってるかも、理解できない。
>>541 >東冶自体は小さな町だし、
古代の大国だった閩越国の都だ
小さな町じゃないよ
>>678 会稽は北緯30度より南の広い地域
会稽東冶も数県にわたる広域だよ
>>678 >「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、呉郡を含まない
>>678 >始め250年代と言っておいて、最近急に129年だ、と変更したはダマシ?だな。
自分の記憶違いを他人のせいにして罵るなんて、最低だな
>>678 >そして、「東治」は、「昔から会稽と呼ばれていた」会稽の東の「治」の地域だ。
会稽の東に「治」の地域なんて地域はないよ。
。
そもそも「治」って城だからピンポイントだし。
>>555 >会稽東冶は県をいくつも含む広域だよ。<
「東冶」は、小さい町であり、
范曄も、「県をいくつも含む広域」だとも書いていない。
そして陳寿は「きちんと東治」と書いて、広域である事を示している。
>その東には、14万戸の人口が住めるような島は、全く存在しないんだ。
つまり、倭人伝の道里・方位は間違っている 。<
だから、范曄の後漢書の「会稽東治→会稽東冶」の書き換えが間違っており、
陳寿の「会稽東治」が正しい事になり、
だから、陳寿の倭人伝の道里・方位は正しかった。
>はい、また畿内説が強化された。<
はい、また大和説が✖になった。
>>686 >范曄も、「県をいくつも含む広域」だとも書いていない。
三国志に「会稽東冶五県」って記述があるんだよ
はい、論破
>>686 >だから、范曄の後漢書の「会稽東治→会稽東冶」の書き換えが間違っており、
根拠なし
>陳寿の「会稽東治」が正しい事になり、
東治でも福州
>だから、陳寿の倭人伝の道里・方位は正しかった。
論理的因果関係なし
>>556 >ほら、証拠を出さない言い訳をしてる 詐欺師だな<
ほらまた、
書陵部には、張元済が写真に撮った「東冶」本と、
ここの大和説者が示した「東治」本の、
二つあった、という証拠を出した事を、
この男(おそらく尿入り一升瓶男)も隠している!。
詐欺師だな。
>>558 >12000里では会稽までたどり着けないんだから 短里説破綻ですね<
長里なら、赤道付近にまで行ってしまうんですから長里説破綻であり、
短里なら、会稽の東治のほぼ東方にほぼ九州があるから、陳寿の判断で正しい事になるね。
>>689 モノクロ写真って、いくらでも修正きくって知ってる?
失脚した権力者が集合写真から消えてる国だぞ
>>690 >長里なら、赤道付近にまで行ってしまうんですから長里説破綻であり、
行かないよ
里程・方位が誤りだって説だから
>>690 >短里なら、会稽の東治のほぼ東方にほぼ九州があるから
証拠がない
結論を言い張るだけ?
>>689 書陵部に宋本三国志が1つしかないことは確定した事実だ
サギは無理だよ
>>627 負け惜しみの時間稼ぎするな
さっさと古田が挙げてたわ箇所の答えを言え
>>644 ケダモノサギシと汚い言葉を連呼している九州説古田教徒が国民のためとか良く言えたもんだな
議論から逃げる卑怯者に国民のためとか恩のお仕着せがましさにも程があるが
とりあえずやっぱり
古田第1書の「『後漢書』主義の大河」に、表にして挙げられているとやらの
范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」からくる
誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な例は出せないと
九州説敗北
ウソ情報で場繋ぎしないと、九州説はニッチもサッチも行かないのが今の実態だよ
古田自身が書陵部本と張元済の百衲本の異同について、
>明らかに写真技術上、「筆入れ」と呼ばれる修正を行なっているのだ。
>現在書陵部本には欄外に多くの筆跡(墨、朱)の書き入れがある。代々の書きこみだ。
>校異もあれば、他愛のない覚え書き類もある。これら皆、百衲本には出ていない。
>おびただしい代々の印も百衲本ではほとんど消されている。
>北宋咸平本の「牒」について、書陵部本の「補紙」を参考にして、新しく“版を作っている”のだ。
>原本(書陵部本)の「誤刻」ケアレス・ミスである。これを「百衲本」は“正しく”訂正しているのだ。
>中国側では「復元より復源へ」この意識が貫かれているのである。
>わたしたちにとっては何とも“やりすぎ”と思われよう。
と書いている
>>698 自A至B は始点から終点
從A至Bは経由地から終点の場合がある
>>565 このように、いつも大和説は、
ヘイトスピーチの結論を言い張るだけで、
自分の反論や自説の根拠や論理を言わない。
>>566 >邪馬台国はヤマトだよ、和名抄見てもわかるだろう。<
「邪馬台国」なんてないし、「邪馬壹國」は「ヤマト」とは読めないし、
和名抄が「邪馬台国」なんて書いたら、
そりゃ、和名抄が嘘吐きダマシになるな。
>>703 「このように」って、どのように?
ザラコクさん、またデッチ上げですか?
>>704 それは宋本に無いってだけだから。
原本には、邪馬臺國とあった。
>>571 >倭人伝統の邪馬台国とはヤマトを指す。 それだけの話だね。<
倭人伝には「邪馬台国」なんて書かれていない。
それだけの話だね。
>九州?そんな場所に有るわけねーだろw<
大和?。
「南≠東」なんだから、
そんな場所に有るわけねーだろw。
後漢書の范曄も畿内説者も誇張、誇大化のケダモノサギシだかららしい
つまりただの人格批判だな
>>576 >>いや、21枚の「尚方作」の鏡は、 明帝の下賜鏡が元になっていた<
>それも素人だけが言い張っている<
何?、大和説の玄人は、言ってないって?。
そりゃ、その大和説の玄人学者とらやらは、
「南→東」などの嘘つき騙しもあるし、
素人以下の詐欺師だ。
>>702 経由地だったり始点だったりする理由は?
>>580 >祇園山は集団墓地<
じゃ、石野も嘘つきだ。
>天誅という学者はいない <
そりゃ、天誅というのは、掲示板用のネームだ。
しかも、漢籍の書棚の筆者であり、
イリヒコという投稿子の「畏友」であり、
ハイエナやmkpoやsagami noという女性も「大先生」呼ばわりして褒めたたえ、
「天や天皇に代わりて誅を実行する」という殺人的名称だ。
>>588 >祇園山集団墓地説なら九州説だろw <
石野は、卑弥呼の墓として、祇園山も可能性が十分にある、と言ったんだよ。
という事は、石野は、祇園山の墳裾の主体墓群は殉葬だった、という説だ。
>>594 大和説・・・「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・似非学者の通説
九州説・・・国民の過半数の支持
安部政府や右翼マスコミや学会教育界・・・国粋皇国史観大和説の排他的人種差別の弱肉強食戦争主義
>>608 >隋使らは、南へ「後十日」行ったら、
南を書かなければならない筈なのに、<
いや、「俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎」してくれて案内してくれたし、
道なりとしても南しか残っていないんだから、としても「南」と書く必要がない。
>書いていないから、又東へ行って、十餘國を經て海岸に達した <
皇帝から命ぜられた使節なんだから、俀の都への行程が判るように書かなければならないのに、
「又經十餘國、達於海岸」では何も分からないし、「海岸」では、列島中の全ての海岸になってしまって、
全く、行程説明にならない。
だから、隋使は、海岸へも行っていない。
>倭人伝の南はやはり間違いであった。<
倭人伝の南も、やはり南で正しかった。
>>610 倭人伝と後漢書倭伝とを比較してみれば、
「東冶」の東には」14万戸以上の住民が住める島が全くないから、
後漢書の間違いであった事は直ぐに判る。
だから、
12世紀の三国志版本の「東治」が「東冶」の間違いではなく、
「正しい」という事もよく判る。
>>614 >そんな悪口いくら言っても
プロの学者を→「ど玄人」を称する大和説者
だということには出来ないので<
「南→東」などの嘘つき騙しをする学者は、プロの詐欺師のようなものだから、
「ど玄人」。
大和説者はウソばかりついてるね。
>>615 それは漢文の常識や人類の常識を知らない人の誤読。
>竹斯國以東にずっと附庸国が並び、その先に俀の本国があって都がある、と読む<
何故、「都斯麻國と一支國」の附庸かどうか?を書かなかったの?。
それの説明だ出来ない読みは、誤読。
また何故「皆」という文字が必要だったの?。
それが説明出来ない読みは、誤読。
また、「海岸」だけでは、隋使の説明通りに来ても、海岸名がないから、
何処の何という海岸なのか?が書かれていなければ、迷子になってしまう。
何故「海岸」だけなの?。
それが説明出来ない読みは、誤読。
>>616 大和説者も、大和説学者も、
嘘ばかりつくから、信用されず、相手にもされないんだぞも。
いい加減学習しろよ。
>>618 「南→東」などにように、
方向を決めた根拠を知りもしないで、勝手に決めつけても ダメ。
>>620 >あなたは 「『ど玄人』を称する大和説者」 と言っちゃってる時点で
嘘つきと確定してるんですけど<
私にヘイトスピーチした大和説者が、「ど素人」と言ったから、
それじゃ大和説者は「ど玄人」になるんかい?ということになるから、
「ど玄人」と呼んだんだよ。
>>623 >そんなこと言ってる専門家、いる? <
そんな事は知らんよ。
庄内の「壁を薄い厚みに出来た理由」を考えれば、人類の常識ですぐ判る事だ。
魏志倭人伝は、行きの道しか書いてないじゃん。
どうやって帰ってきたの?
>>728 道を書いたんじゃなくて国の位置関係を書いたものだからだろ
>>729 なるほど・・・。
魏の使者は、あっちに行ったりこっちに行ったりと迷走してた?
倭人伝には
魏の使者がどこを通ったなんて
ひとことも書いてない
>>731 倭人の状況だけを書いたのか・・・。
民俗学みたいなものなのか?
>>733 当時の、倭の国が、魏の国の「強敵」となった思えない。
魏が邪馬台国の位置を書かない意味が分からない・・・。
もしかして、どうでもよかったのかな?
それなら分からないでもないw
>>718 魏志が東冶を東治と間違えて書いた事により
当時の知識限界である東冶の東に14万戸以上の住民が住める島がある
という間違いをせずにすんだだけで
東治が正しいという証明にはならないぞ
>>624 「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の犯罪者は、まだ逃げ回ってるのか?。
>>633 つまり、史料批判をしない大和説が振り回す「史料」は、「史料事実」とは言えず、
信用に値しない、
ってことだね。
>>720 >何故、「都斯麻國と一支國」の附庸かどうか?を書かなかったの?。
>また何故「皆」という文字が必要だったの?。
国名記載を省略した国々を一括で説明しただけ
国名の挙がっている国々は前史に照らして自明
>また、「海岸」だけでは、隋使の説明通りに来ても、海岸名がないから、
行程の他の箇所でも国名より細かい地名の説明はない
竹斯國のどこの港に着いたかなど説明もないが、迷う心配もない
倭国本国の海岸に達すると言っていることが分かるので、なんの問題ない
>>737 畿内説は史料批判をしてるから
現に南は間違いだという主張をしてる
>>635 安本や大和説者らは、筆跡鑑定などの史料批判をしたつもりだったが、
肝心の「丑寅原稿」の筆者は、
娘さんの章子さんが清書したものである「嘘つき騙し鑑定」であった事がバレ、
更に、喜八郎さんの本当の「撥ね字の悪筆」原稿も見つかり、
安本が桐原詐欺師を使ったり、
右翼マスコミや右翼興信社が動いて和田キヨエをたぶらかして偽証言をした事もバレ、
更に古田さんらの寛政原本の発見と、笠谷鑑定に拠って、「江戸期のものであった」事も判り、
「真書であった」という評価は、識者の中では既に定着し、
喜八郎家が秋田家や安部総理家と親交を結んでいて、
喜八郎さんの葬儀には、安部家から「シキビ」の花も贈られた事も判った。
>>637 「一升瓶の小便だよ!キヨエ。 おれらの小便で、古色をつけた事にするんだ!!」
>>717 >皇帝から命ぜられた使節なんだから、俀の都への行程が判るように書かなければならないのに、
別に、そんなことはない
高表人など、細かい経路はわからない
>>740 和田側の口で言ったことを無批判に採用してるだろ
客観性なし
>>638 安本:「俺を裏切るんじゃねえぞ!桐原!!。
前もって連絡を取っていた事は絶対に隠して、古田から何でも偽領収書を貰ってこい」
>>739 >娘さんの章子さんが清書したものである「嘘つき騙し鑑定」であった事がバレ、
いや、誰が書いてたって
江戸時代の「古文書」と現代人の筆跡が同一だったら
偽書確定でしょ
>>643 >>杭州から東北〜東北東方向であり、 会稽の東の「治」地域に十分含まれる。<
>杭州市は会稽郡治より西ですけど。<
人間は集落を造って生きて行くには「淡水」が必要。
会稽地域の杭州には十分な川がある。
川があったって、杭州市は会稽郡治より西ですけど?
なんで会稽東治になるの?
>>646 >>会稽郡から分郡された(会稽郡の東部であった)呉郡の東の先端は、
揚子江の河口の南岸付近である。<
>嘘はダメ。<
国民を騙す嘘はダメ。
>>746 古田説は「西⇨東」の嘘つきダマシw
w
w
w
>>748 国民を騙す嘘はダメ。
呉郡は会稽郡の東部ではない
>>748 古田説は「北⇨東」の嘘つきダマシw
w
w
w
>>647 >杭州は呉郡なのに会稽東治だと言い張る古田説って<
杭州は、会稽山の近くで、大きな河川もあるから、
おそらく、会稽地域の中心的>集落であったんだよ。
史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシで、国民を騙す事だけど、
良心の呵責をえないの?、。
>>648 嘘はダメ。
呉郡地域は、会稽郡から分郡されて別れたんだから、
元々始めから、会稽郡の中の地域であった。
>>754 まだウソつくの?
呉郡は会稽郡の東部ではない
>>650 100年以上も前に会稽郡から分郡された呉郡から地域は、
もともと会稽と呼ばれた地域であったから、呉郡が会稽東治になる、
という事が判らない大和説者の脳神経は?。
おそらく、あれですね。
怖いから、気を付けましょうね。
しかし古田説というのは日本古代史に巣食う癌細胞のようなものだな
古田が残した信者がすべて死に絶えるまであと20年はかかりそうだ
もともと会稽は越の都
越王勾践が呉を滅ぼして領土を併合したが、越も楚に滅ぼされた
漢が会稽郡から呉郡を分割したのは129年
陳寿が呉郡のどこかを会稽東治と書く可能性はゼロ
当然ながら「夏后少康之子封於會稽」の会稽は呉郡を含まない
史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシって
古田説ズバリでは?
会稽郡治からどっち方位か?
8分法で北北東〜東北東が「北東」
つまり67度30分以下は北東になる
紹興市越城区を基準点として
三雲公民館 64度07分13秒 東北東より北
岡本遺跡 64度31分56秒 東北東より北
太宰府天満宮 64度46分08秒 東北東より北
高良山頂 66度09分56秒 東北東より北
結論:北部九州を東というのは無理
>>651 >杭州は会稽じゃないよ ウソはダメ<
漢書が「会稽海外」と書き、
漢書や魏使らが「夏后少康之子封於會稽」と書き、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた「会稽」は、
当然、会稽山や紹興のようなピンポイント地点ではなく、広域であり、
「会稽郡」とまとめられる位の広域であり、
だから、会稽山や紹興のある地域の近所の杭州も、「会稽の中心域」だ。
このように、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
都合の悪い史料記載を「ピンポイント的絶対断定」して、
それと実態との「差異をあげつらって」、
それで都合の悪い史料を抹殺する嘘吐きダマシのサギをするんですよね。
、
>>651 >杭州は会稽じゃないよ ウソはダメ<
漢書が「会稽海外」と書き、
漢書や魏使らが「夏后少康之子封於會稽」と書き、
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた「会稽」は、
当然、会稽山や紹興のようなピンポイント地点ではなく、広域であり、
「会稽郡」とまとめられる位の広域であり、
だから、会稽山や紹興のある地域の近所の杭州も、「会稽の中心域」だ。
このように、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
都合の悪い史料記載を「ピンポイント的絶対断定」して、
それと実態との「差異をあげつらって」、
それで都合の悪い史料を抹殺する嘘吐きダマシのサギをするんですよね。
>>752 会稽山の近くで、大きな河川もあるのは
紹興だよ
>>763 だから会稽東冶は広域だと言ってるのに
全然ひとの話を聞いてないな
>>763 >当然、会稽山や紹興のようなピンポイント地点ではなく、広域であり、
>「会稽郡」とまとめられる位の広域であり、
杭州は会稽郡じゃないよ
都合の悪い史料を抹殺する嘘吐きダマシのサギをするって
古田説のことだよね
>>652 >そもそも、そこに東治が存在しない<
「会稽東治」の「東治」は、地名ではない。
会稽の東の「治」地域、
というような、普通名詞的熟語。
>>657 「南→東」の嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの大和説者は、
ヘイトスピーチのウソの宣伝ばかりしているな。
>>769 西にある杭州を東治だと強弁してる誰かさんは
「西→東」の嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの古田説者で、
ヘイトスピーチのウソの宣伝ばかりしているな
東冶は、宮内庁書陵部蔵12世紀の版本では東治と誤植されております
會稽東治も會稽東冶と読み替えて
三國志をお楽しみいただきますようお願いします
三国志に「會稽東冶」が2ヶ所、「會稽東治」が1ヶ所出てきてたら
誰だって「會稽東治」は誤植だと思うでしょ
人類の常識w
>>661 >会稽郡を分割して呉郡が置かれたのは129年なんだが?
どうして陳寿が呉郡を会稽東治と呼ぶの?<
「夏后少康之子封於會稽」や、
漢書の「会稽海外」を意識しているから、
「会稽」を起点ししたいから。
>>664 大和説者の著作は、
全て「南→東」などの嘘吐きダマシを元にして書いたから、
全て偽書だな。
>>770 「治」はピンポイントの場所だから
「治」地域なんて改変はインチキだね
>>774 呉郡を会稽東治にでっち上げる理由にならない
>>774 「夏后少康之子封於會稽」の会稽は呉郡を含まない
>>666 「南→東」などのように、直ぐにバレるウソを付く大和説学者。
>>784 ニセ情報って、具体的になに?
ニセだって証拠は?
>>672 「南→東」の嘘吐きダマシの「尿入り一升瓶」大和説者は、
また毎度の、
自分の記載間違いを、こっそり書き直しておいて、
他人が前の記載を信じて返事を書いたら、
それで、相手をヘイトスピーチするらしい。
>>677 「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
なんでそんなに嘘をつくの?。
すぐバレるのに・・・。
>>680 >>東冶自体は小さな町だし、<
>古代の大国だった閩越国の都だ 小さな町じゃないよ <
確か、福州に含まれる位の小さい町だった筈。
>>683 >>「夏后少康之子封於會稽」の会稽であり、<
>「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、呉郡を含まない<
会稽郡から分郡してから呉郡が出来たんなら、
会稽は、呉郡を含んていた事になる。
>>762 史料だけでなく考古学の成果も採用しているだけだろ
それを畿内説スレでウソツキサギシ脳神経は?などと暴言を吐く古田九州説の脳神経は?
>>284 自分の書き違い?で、前の通りで返答した他人を罵るとは、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者なんて、
最低だな。
>>786 >自分の記載間違いを、こっそり書き直しておいて、
ザラコクが最初に「杭州」を書いたのが
Part310
>>804 >「夏后少康之子封於會稽」の会稽の事だから、大体会稽山のある杭州の近所。
>>808 >九州は、杭州の東北東〜東であり、妥当。
これに対して「呉郡」を最初に書いたのが
>>812 >杭州は呉郡だろ
呉郡の分割時期を最初に書いたのが
Part311
>>162 >呉郡は漢代に會稽郡から分割した
呉郡の分割年代を最初に書いたのが
Part311
>>292 >呉郡は129年に分郡、会稽東部は257年に分郡されている
ザラコクの「前の記載を信じて」は、記憶違い
>>687 >>范曄も、「県をいくつも含む広域」だとも書いていない。<
>三国志に「会稽東冶五県」って記述があるんだよ はい、論破<
三国志にあったって仕方がない。
三国志は、3世紀の「会稽東治」の記載であり、
5世紀の後漢書の「会稽東冶」の記載が問題。
>>688 だから、范曄の後漢書の「会稽東治→会稽東冶」の書き換えが間違っており、
陳寿の「会稽東治」が正しい事になり、
だから、陳寿の倭人伝の道里・方位は正しかった。
それだけの事。
>>794 いつまで畿内説スレで具体的な根拠も示さず
後漢書が間違い魏志が正しいだけを繰り返すつもりなんだろうな?
>>793 >5世紀の後漢書の「会稽東冶」の記載が問題。
書かれたのが5世紀でも、書かれているのは3世紀のことだ
後漢書は正しい。
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
>>798 間違いだという主張に反論するんじゃないの?
>>789 >会稽は、呉郡を含んていた事になる。
越王勾践が呉を征服併合したのは「夏后少康之子封於會稽」の二十余世後
「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、呉郡を含まない
>>788 >確か、福州に含まれる位の小さい町だった筈。
閩越国の都城だよ
小さい町じゃない
>>800 「思想宗教的に結論先にありき」の・・・・素人アマチュアのものだ。
>>804 間違いだというのが定説なんだから
間違いじゃないというなら理由を言え
と
>>803 二世皇帝孫亮がクーデターで廃位されて
会稽王に落とされ、さらに侯官侯に落とされる
そういう位置付けだな
新唐書には、日本はむかし金印を与えた倭奴国。
筑紫に三十二代いた後、神武のときに大和に移ったと書いてあるんだよね。
三十二代じゃなくて二十三代の間違いじゃないかとも言われてるけど、徳川十五代で三百年だから少なくともそれより長く九州にいた計算。
倭奴国が光武帝から金印を受けたのが西暦57年。後漢書
卑弥呼が親魏倭王の金印を受けたのが西暦240年。
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程。
そこにある奴国が倭奴国のことだろう。
>>692 >>長里なら、赤道付近にまで行ってしまうんですから長里説破綻であり、<
>行かないよ 里程・方位が誤りだって説だから<
ウソを付くな、詐欺師。
魏志の里程・方位は、「大体」という近似で書かれているのであり、
「魏志の里程・方位が誤りだ」なんて証拠はないよ。
>>694 >書陵部に宋本三国志が1つしかないことは確定した事実だ
サギは無理だよ <
私は、近世の張元済の「写真からの本」から転写された古田本の「東冶」しか知らなかったのであり、
現代の5chの大和説者が、書陵部の「王朗の記載の箇所」には「東治」となっている、と言い出したから、
二つある、と言っているだけだ。
もしも一つであったんなら、張元済の写真本が古いんだから、
現在の書陵部本が、誰かに書き換えられた可能性もある。
>>695 >負け惜しみの時間稼ぎするな さっさと古田が挙げてたわ箇所の答えを言え<
何を答えるんだい?。
古田本の「王朗」のところの記載が「東冶」だったことは、
古田第1書の「会稽東治」の項に書かれている通りだ。
ている5chの大和説者の言う「東治」の記載本なんて、私は見ていないから知らんよ。
>>814 古田がウソ書いたってこと?
ザラコクが記憶違いなのに無理に言い張ってるってこと?
どっち?
>>696 >ケダモノサギシと汚い言葉を連呼している九州説古田教徒が国民のためとか良く言えたもんだな<
「南→東」などのような、史料事実を否定曲解のウソで、国民を騙していたことは事実だから、
お前らは間違いなくケダモノサギシだよ。
>議論から逃げる卑怯者に国民のためとか恩のお仕着せがましさにも程があるが<
国民の3割位が、いまだに大和説のウソに騙されている事は、黙過し難い。
>とりあえずやっぱり
古田第1書の「『後漢書』主義の大河」に、表にして挙げられているとやらの
范曄の「高慢さ」や「威張りたがり屋」からくる
誇張や誇大化の傾向が直ぐ判る具体的な例は出せないと 九州説敗北<
必要がない。
今議論している後漢書の「会稽東冶」の記載そのものが、
東冶の東方には、倭国が全く存在していないんだから、
范曄の書き換えが間違っていた、という事になり、
魏志の「会稽東治」を「高慢な書き変え」をした事の例になっている。
>>813 >現在の書陵部本が、誰かに書き換えられた可能性もある。
古田は、
張元済の百衲本写真版は、「復元より復源へ」で、書陵部本に様々な修正をしている
と書いている
>>697 ウソ情報や口先での誤魔化しで場繋ぎしないと、
大和説はニッチもサッチも行かないのが今の実態だな。
>>699 >古田自身が書陵部本と張元済の百衲本の異同について、
>明らかに写真技術上、「筆入れ」と呼ばれる修正を行なっているのだ。
>現在書陵部本には欄外に多くの筆跡(墨、朱)の書き入れがある。代々の書きこみだ。
>校異もあれば、他愛のない覚え書き類もある。これら皆、百衲本には出ていない。
>おびただしい代々の印も百衲本ではほとんど消されている。
>北宋咸平本の「牒」について、書陵部本の「補紙」を参考にして、新しく“版を作っている”のだ。
>原本(書陵部本)の「誤刻」ケアレス・ミスである。これを「百衲本」は“正しく”訂正しているのだ。
>中国側では「復元より復源へ」この意識が貫かれているのである。
>わたしたちにとっては何とも“やりすぎ”と思われよう。
と書いている<
ご紹介、 有難うございます。
という事は、大和説者が上げた王朗の「東治」記載も、
「書き入れ」や「校異」や「覚書」などを書いていた、という可能性がある訳ですね。
>>819 古田は、書陵部本のほうは本文には「筆入れ」をしていないから
張元済の百衲本写真版を何とも“やりすぎ”と言っているんだろ
>>706 >それは宋本に無いってだけだから。 原本には、邪馬臺國とあった。<
裴松之時点でも、「邪馬壹國と邪馬臺國」の校勘が行われていなかったから、
写本は全て「邪馬壹國」と書かれていた、という事になる。
という事が、陳寿原本も「邪馬壹國」と書かれていた。
>>821 裴松之と范曄は同時代だから、裴松之が見た倭人伝も邪馬臺國
>>708 >「南≠東」が正しいって証拠は?<
間違える理由が全くないから。
>>709 >後漢書の范曄も畿内説者も誇張、誇大化のケダモノサギシだかららしい
つまりただの人格批判だな<
范曄の誇大は、部分的だから半分×。
しかし大和説の「南→東」などのダマシは、大和説全体の存在に関わるのものから、
殆ど✖。
だから、同じではなく、全く違う。
>>710 なんの根拠もない「史料事実の否定の断定の連発」。
それが大和説。
>>821 >裴松之時点でも、「邪馬壹國と邪馬臺國」の校勘が行われていなかったから、
行われていなかったって証拠は?
>>823 >間違える理由が全くないから。
それ、証拠じゃなくて
単なる、あなたの考えでしょ?
>>819 >という事は、大和説者が上げた王朗の「東治」記載も、
>「書き入れ」や「校異」や「覚書」などを書いていた、という可能性がある訳ですね。
妄想してないで、ホンモノを見れば?
ちゃんと本文が「東治」になっている
「校異」や「覚書」の記載ではない
>>823 自分の考えを「証拠」と言い張っちゃうのが九州説
>>824 >范曄の誇大は、部分的だから半分×。
>しかし大和説の「南→東」などのダマシは、大和説全体の存在に関わるのものから、
>>殆ど✖。
>だから、同じではなく、全く違う。
ただの人格批判に変わりはないでしょ
>>813
>もしも一つであったんなら、張元済の写真本が古いんだから、
>現在の書陵部本が、誰かに書き換えられた可能性もある。
その非常識な考えの論拠は崩壊した
↓
>古田自身が書陵部本と張元済の百衲本の異同について、
・・・
>原本(書陵部本)の「誤刻」ケアレス・ミスである。これを「百衲本」は“正しく”訂正しているのだ。
・・・
>と書いている >>816 古田九州説信者は笑えるほどのサギシだな
魏志の写本が「会稽東冶」を「会稽東治」と誤写した事と当時の地理感覚の未熟さを利用して
「会稽東冶」や「自女王國東度海千餘里至拘奴國」を「高慢な書き変え」をした事の例にし仕立てあげたのか
>>725 >おうむ返しだから意味をなさない投稿だと<
おうむ返しをされた人は、その人がの書いた批判がその人自身に当てはまっている、
という事の指摘をされた訳で。
邪馬台国と敵対していたクナ国は熊襲でいいの?
邪馬台国が九州でも大和でも?
>>727 >つまり素人爺さん75の妄想なのだな><
つまり大和説学者やその追従隷従大和説者は、
庄内土器の壁が、何故薄くなったのか?や、何故薄くしなければならなかったのか?、
などという事を、考えた事もないアホであったんだろう、
という事だな。
>>834 「お前こそバーカ」と言い返しても
それは当てはまってるという指摘ではない
単なる思考停止
>>836 いや、それも無知な素人の妄想
内面ケズリで熱効率をよくする工夫だ
ということが十分研究されている
>>732 >倭人の状況だけを書いたのか・・・。
民俗学みたいなものなのか?<
いや、魏使らが記録したのは、同然皇帝や上司にや報告するために、
女王之所都への行程の案内や説明を書いたんだよ。
>>734 >当時の、倭の国が、魏の国の「強敵」となった思えない。
魏が邪馬台国の位置を書かない意味が分からない・・・。
もしかして、どうでもよかったのかな? それなら分からないでもないw <
この男も、大和説学者らと同じように、
倭人伝の行程記載が大和説にとっては都合が悪いから、
「どうでもよかった」として、否定抹殺したいのかな?。
>>735 >魏志が東冶を東治と間違えて書いた事により<
この大和説者も始めから誤魔化している。
実態は、後漢書が、魏志の「東治」を「東冶」だと、意図的に書き換えた。、
>当時の知識限界である東冶の東に14万戸以上の住民が住める島がある
という間違いをせずにすんだだけで
東治が正しいという証明にはならないぞ<
裴松之らが「東治」の校勘をしていない、という事が、
写本には「東治」と書かれていた事になり、
陳寿原本も「東治」と書かれていた事になった。
>>841 >裴松之らが「東治」の校勘をしていない、という事が、
>写本には「東治」と書かれていた事になり、
>陳寿原本も「東治」と書かれていた事になった。
それ、論理的におかしいの気づかない?
裴松之の見た写本に「東冶」と書かれていれば
当然「東治」の校勘などしない
>>738 >>何故、「都斯麻國と一支國」の附庸かどうか?を書かなかったの?。
また何故「皆」という文字が必要だったの?。<
>国名記載を省略した国々を一括で説明しただけ<
皇帝への報告で、「国名記載を省略」なんてズボラをした事が判れば、
隋使は首が飛ぶ可能性があるし、
「海岸」なんて特定不能でな言葉を使われたら、
皇帝に「こいつ、頭がおかしいのか?」と思われるし、
「皆附庸」と書いておいて、都があったら、「こいつ、嘘つきか?」と思われるし、
「都斯麻國」と「一支國」の所属や附庸関係を書かなかっても、
「こいつ、やっぱり頭がおかしい」となってやっぱり首が飛ぶ。
>国名の挙がっている国々は前史に照らして自明<
はいはい、皇帝に「自分で前史を読んで調べろ」と命令するんかね。
そりゃ、首が何個あっても足りない。
>>また、「海岸」だけでは、隋使の説明通りに来ても、海岸名がないから、<
>行程の他の箇所でも国名より細かい地名の説明はない<
ズボラした事がバレて首が飛ぶ。
>竹斯國のどこの港に着いたかなど説明もないが、迷う心配もない <
「どこの港」なんて書かなくても「竹斯國」という国名で判る。
>倭国本国の海岸に達すると言っていることが分かるので、なんの問題ない <
どこの海岸なのか?も全く判らない書き方だから、首が飛ぶ。
>>739 >畿内説は史料批判をしてるから 現に南は間違いだという主張をしてる<
大和説者の、
「南」が間違いだ、
という直接的史料批判など、見た事がない。
>>844 >・・・直接的史料批判など、見た事がない。
そりゃそうだろ
畿内説の本も読まない
テンプレも読まない
と明言してるザラコクだもの
見た事あるわけがない
>>843 >「どこの港」なんて書かなくても「竹斯國」という国名で判る。
じゃあ「達於海岸」も倭国で判るよね?
>>742 >>皇帝から命ぜられた使節なんだから、
俀の都への行程が判るように書かなければならないのに、<
>別に、そんなことはない
高表人など、細かい経路はわからない<
「 表仁浮海數月方至。
【自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。】
表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。」
のような失敗遣使であったから、行程は詳しくは書かなくても、
当然皇帝には詳しく報告説明している。
>>843 >皇帝への報告で、「国名記載を省略」なんてズボラをした事が判れば、
>隋使は首が飛ぶ可能性があるし、
現に「又經十餘國」と省略されてる
ザラコクの「首が飛ぶ」妄想など、間違いなのは一見して明らかだ
>>846 >当然皇帝には詳しく報告説明している。
それも空想でしょ?
そもそも史書が帰朝報告を全て載せるという保証もない訳で
勝手に想像しても意味がないのでは?
史書であって帰朝報告ほど詳細には書いてないんだろうな
書記みたいな人の現地人とのやり取りから得た情報を記載した
日報みたいなものを参照にして
というか、行程を詳しく説明するなんて、勅使の本来業務じゃないんじゃないの?
>>844 会稽東冶の東にあると誤解したんだから
南は東の間違いじゃないとね
行程って、「行き」だよね。
「帰り」は書いてあったっけ?魏志倭人伝
>>854 申 維翰とかは自分で本を出したから往路も復路も細かく載せてるわけで
報告書を史書に再録する人なら、バサっとかい摘んで載せるさ
>>847 自分の口から
「当然皇帝には詳しく報告説明している」
と言っちゃったんだから
首が飛ぶ幻想は一笑に付されてオシマイ
誰がどう見ても、会稽東治は会稽東冶の書き間違いでしょ
現実に「会稽東冶」という地名があって、頻繁に「東治」とも書かれたりしてるんだからね
倭人伝の行程を書いていた筆者が、倭が台湾くらい南にあると誤解してる
わということは行程は間違ってる
南は西の間違いだったら中国に戻っちゃうね
ということは東の間違いで決まりでしょう
あらら・・
会稽東冶が福州(定説)で
自動的に畿内説確定でないの。
福州市鼓楼区を起点にして
三雲公民館 49度17分18秒
岡本遺跡 49度46分50秒
太宰府天満宮 50度01分28秒
高良山頂 50度59分30秒
阿蘇山頂 53度42分34秒
纏向遺跡 55度23分17秒
西都原古墳群 57度28分18秒
佐多岬 61度14分30秒
屋久島空港 64度12分58秒
全て北東
会稽東冶の話はもういいんでない
畿内説にも九州説にも特に有利になる話でもないし
古田のあら捜しでしかない
緯度も経度も無い時代に朝鮮半島の南の方だから長江下流の東の方だろうって事でしょ
正確には北東、東北東だけどだいたい東の方なんだから
その意味じゃ畿内も九州も北でも南でもない「会稽東冶の東」なんだから
感覚的には間違っちゃいない
冶と治の違いで古田説の揚げ足とっても誰も得しない不毛な議論だ
>>865 同意する。
正直、飽きたしどうでもいい。
>>743 大和説者は、安本派や右翼マスコミや和田キヨエ情報などを無批判に採用してるだろ。
客観性なし。
>>745 >>娘さんの章子さんが清書したものである「嘘つき騙し鑑定」であった事がバレ、<
>いや、誰が書いてたって
江戸時代の「古文書」と現代人の筆跡が同一だったら
偽書確定でしょ<
いや、喜八郎さん一人が「撥ね字傾向の悪筆」であり、
一生懸命押さえて丁寧に書こうとしても、中心線が曲がってしまうような、下手糞字。
それに対して、秋田孝季や、和田家の吉次や「りく」や権七や末吉や長作や章子さんや、藤本氏らは、
全員それぞれの(撥ねずに)「押さえ字」の整ったそれぞれの字が書ける。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/furuta01.html http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai2/hisek-6.html http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/gikante4.html など、参照。
>>865 会稽東冶の重要性がわかってないんじゃないの?
>>868 どっちにせよ
現代人の書いた偽書ってことに
変わりないじゃないか
w
>>865 いや、決定的に畿内説が有利になる話だろう
だからこそ古田が必死に定説を批判してた
>>865 >正確には北東、東北東だけどだいたい東の方なんだから
北東であって東北東ではない
>>869 うるせえ。
どっち派だろうが、お前は荒らしだ。
>>868 別に「嘘つき騙し鑑定」じゃないってことで、おk?
>>872 畿内説には致命的だろう。
東だろうが北東だろうが、畿内にピンポイントで着くことは難しく、九州に先に着く。
>>877 どうして畿内説に致命的なの?
理由は?
??
>>877 陳寿は東と書いているんだから
勝手に北東にしちゃ
いかんだろう
>>868 江戸時代の「古文書」と現代人の筆跡が同一だってことへの反論になってないのでは?
>>877
>東だろうが北東だろうが、畿内にピンポイントで着くことは難しく、九州に先に着く。
三雲公民館 49度17分18秒
岡本遺跡 49度46分50秒
太宰府天満宮 50度01分28秒
高良山頂 50度59分30秒
阿蘇山頂 53度42分34秒
纏向遺跡 55度23分17秒
西都原古墳群 57度28分18秒
佐多岬 61度14分30秒
屋久島空港 64度12分58秒
全て北東 筆者が、倭国を実際よりはるか南だと考えていたことは、間違いない
風俗と行程を突き合わせて、そう納得しているんだから
行程が間違っている、という結論が出る
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
>>888 >松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
>これを前提として
わかってないから、前提から崩壊
>>747 >川があったって、杭州市は会稽郡治より西ですけど?<
「会稽」と呼ばれたの地域は、
だいたい「杭州〜会稽山」付近だろうとしか判らず、不明の筈だし、
「会稽郡治」のあった場所も不明の筈ですけど?。
>なんで会稽東治になるの?<
「会稽東治」は、「会稽」と呼ばれた地域の東方の「治」地域だから、
「会稽郡治≠会稽東治」なんだけど。
>>865 後漢書の「会稽東冶」や「自女王國東度海千餘里至拘奴國」のそれらは
魏志の記述は正確であると主張したい古田たち九州説にとって非常に都合が悪いらしい
会稽郡治の東にあるどこかの県治のことだったら、そこの県名を書くだろう
三国志に「會稽東冶」が2ヶ所、「會稽東治」が1ヶ所出てきてたら
誰だって「會稽東治」は誤植だと判断するよ
会稽郡治は会稽郡の最北端にある
そこからどう東に行っても北緯30度を上回らない
>>749 大和説は、
「南⇨東」の嘘つきダマシや、
「会稽地域→ピンポイント」の嘘吐きダマシや、
「東治→東冶」の嘘吐きダマシや、
「東治→郡治」の嘘吐きダマシ
w w w w 。
>>896 「南→東」の根拠になって
返す刀で短里がバッサリ斬られるからな
躍起になって否定しないと九州説が負けるのを分かってるのね
>>750 国民を騙す嘘はダメ。
呉郡は、会稽郡から分郡して出来たので、
呉郡地域には、会稽の東の「治」地域が存在する。
>>751 国民を騙す嘘はダメ。
大和説は、
「南⇨東」の嘘つきダマシや、
「会稽地域→ピンポイント」の嘘吐きダマシや、
「東治→東冶」の嘘吐きダマシや、
「東治→郡治」の嘘吐きダマシ。
w w w w 。
>>755 まだウソを付くの?。
呉郡は、会稽郡から分郡して出来たので、
呉郡地域には、会稽の東の「治」地域であった地域が存在する。
>>908 存在しないよ
呉郡地域は会稽の北だから
>>757 しかし、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説というのは、
日本古代史に巣食う右翼国粋皇国史観の、戦争癌細胞のようなものだな。
・・・・大和説学者らが残した信者がすべて死に絶えるまで、
あと70年はかかりそうだ。
>>758 もともと「会稽」は「夏后少康之子封於會稽」の都。
それが3世紀の陳寿らの認識であり、
それまではずっと「会稽郡」という纏まりで呼ばれるようになっていた。
漢が会稽郡から呉郡を分割したのは129年らしい。
だから、陳寿らは、当然呉郡のどこかを会稽東治と書く可能性は、十分にある。
>>759 当然ながら「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、
後の呉郡や建安郡や臨海郡地域も含んでいた。
>>913 その可能性はゼロ
「夏后少康之子封於會稽」の会稽は
のちの呉郡を含まないから
>>913 呉郡だけど会稽東治ですって
国民ナメてないか?
>>760 史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシって,
「南→東」などの史料事実否定曲解の・…ケダモノ大和説に、ズバリでは?。
>>761 >会稽郡治からどっち方位か?<
嘘を付くな。
女王國は、「会稽東治」の東方だ。
>8分法で北北東〜東北東が「北東」 つまり67度30分以下は北東になる<
九州は、「会稽東治」の、「東〜東北東」の中に入る。
>結論:北部九州を東というのは無理<
結論:九州の女王國の位置が問題なのに、
東北東の北部九州ののだけにして、
それを「東北」だとすり替えた批判をしたこの男は、
稀代の悪質な・・・・ケダモノサギシ。
>>919 >九州は、「会稽東治」の、「東〜東北東」の中に入る。
証拠は?
>>919 >結論:九州の女王國の位置が問題なのに、
>東北東の北部九州ののだけにして、
じゃ、女王国はどこ?
>>764 >会稽山の近くで、大きな河川もあるのは 紹興だよ<
紹興では、「斷髮文身以避蛟龍之害」をするには、海岸から遠過ぎる。
杭州の方が海岸にも近い。
>>765 >だから会稽東冶は広域だと言ってるのに 全然ひとの話を聞いてないな<
「東冶」は、
その東方に14万戸以上の大きな島がないし、
会稽郡から分郡されて建安郡にされたから、会稽の中心ではないし、
会稽の中心付近と思われる会稽山からも遠すぎるので、
✖ね。
>>766 >>当然、会稽山や紹興のようなピンポイント地点ではなく、広域であり、
「会稽郡」とまとめられる位の広域であり、<
>杭州は会稽郡じゃないよ<
杭州が、後に会稽郡から分郡された呉郡に入っていたんなら、
そりゃ、元は会稽郡であったのであり、
会稽山にも近いから、「会稽」と呼ばれた地域そのものだ。
>>767 都合の悪い史料を抹殺する嘘吐きダマシのサギをするって、
「南→東」などの史料事実を否定曲解した大和説者のことだよね。
>>770 >「治」地域なんて言葉はないよ <
「東」も「治」も、漢字であり、
地名を示す固有名詞ではないよ。
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1515555075/ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
>>771 会稽山の北の海岸付近にある杭州を、
「会稽」地域ではなく、「会稽東治だ」と強弁してる誰かさんは、
「南→東」の嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの大和説者で、
ヘイトスピーチのウソの宣伝ばかりしているな。
>>772 張元済が写真に撮った宮内庁書陵部蔵の紹煕版本では、
王朗の話は「東冶」とされておりますが、
現存の書陵部の本は、朱筆の書き込みやメモ書きのような注書きが沢山あって、
王朗の話の所は「東治」になっているそうです。
一体誰がそんな朱筆や注書きを書き込む事だ出来たんでしょうかねえ。
宮内庁が紹煕本を買い入れた時、そんな朱書きや注書きのある本を購入する筈がなく、
当然綺麗な版本を購入した筈であり、
まさか、大正天皇や昭和天皇や宮内庁の平職員がする筈もなく、
そりゃ、朱書きや注書きをする権限のある、宮内庁直属のトップ学者しかいない訳です。
世間の皆様、
そのようなふちらな権力学者やその思考を推定して、
三國志をお楽しみいただきますようお願いします。
>>773 三国志に「會稽東冶」が2ヶ所、「會稽東治」が1ヶ所出てきてたら
誰だって、
「東冶」は、分郡前の(福州付近の)地名であり、
「東治」は会稽(郡域の)東側の「治」地域である、
と理解するでしょ。
人類の常識w。
>>777 「郡治」なら、ある程度ピンポイントの場所だが、
「会稽東治」なら、会稽という場所の東の「治」地域しかならないのに、
それを否定曲解する大和説者は、
「南→東」などのインチキと同じように、
史料事実を否定曲解の嘘つき騙しのの、インチキ人種だね。
木工寮?
ここのトップも、
ナギ・ナミの子孫だよ
古代の話
>>779 陳寿が若い頃に会稽郡から分郡された呉郡の東部地域は、
陳寿の執筆時の頭では、「会稽東治」だ、と認識されても、
何らおかしくない。
>>781 >「夏后少康之子封於會稽」の会稽は呉郡を含まない<
陳寿は当然、会稽郡地域から分けられて分郡された呉郡地域は、
会稽地域の一部 であった、と認識している。
アニメ、漫画の話なのかな
古代の話
誰か?と誰か?は、
本当は兄弟なんだよな〜と言っている人がいたり
>>796 大和説者は、
文献史料だけでなく、考古学の史料も採用しようとしているんだろ?。
それを大和説スレで、
「南→東」などのように史料事実を否定曲解の嘘つき騙しをし、
「金印や祇園山や平原」の考古史料を否定抹殺の暴言をはく、ウソツキサギシ脳神経は、
どうなっているだい?。
>>792 >ザラコクの「前の記載を信じて」は、記憶違い <
もっと前の議論だよ。
始めは、お前は、(魏代の)260年の建安郡の分郡の前の、
250年代に、会稽郡から呉郡と臨海郡の分郡があった、と説明していた。
しかし、この投稿のお前の説明を見ると、いつの間にか?、
「漢代」と書き替えていて、更に、129年だ、という説明に変わって行った。
という事は、お前は「魏代の250年代」と書いたのが間違いであった、と気付き、
こっそり判らないように「漢代」と書いて置き、
それから、129年に書き換えて、世間を騙して誤魔化した、
という事になる。
>>795 大和説者らは、
いつまで大和説スレで、具体的な根拠も示さず、
「後漢書が正しくて魏志が間違いだ」だけを繰り返すつもりなんだろうな?。
>>795 >>5世紀の後漢書の「会稽東冶」の記載が問題。<
>書かれたのが5世紀でも、書かれているのは3世紀のことだ <
陳寿の魏志は、同時代の魏使らの「倭地の実地の見聞計測記録」を元にした、
客観性と信頼性の高い記録であるが、
5世紀の范曄の後漢書は、現地の倭地の実地の見聞計測記録はなく、
魏志などの前史の記載を「自己の拡大解釈」しての「内容紹介」をしているだけの、
半分×文書だ。
『イザナギ イザナミ』画像を見てみて
宮内?木工何やら・・・???・・・〇△▢とか
>>940 >250年代に、会稽郡から呉郡と臨海郡の分郡があった、と説明していた。
そんなおかしな説明だあったって証拠は?
>>923 >その東方に14万戸以上の大きな島がないし、
だから「南至」の南は東の間違いね
>会稽郡から分郡されて建安郡にされたから、会稽の中心ではないし、
だから会稽東冶なんだが
もと閩越国の都で会稽郡南部の中心地
>>801 >>会稽は、呉郡を含んていた事になる。<
>越王勾践が呉を征服併合したのは「夏后少康之子封於會稽」の二十余世後
「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、呉郡を含まない<
お前は、会稽郡が、それまで呉地を含んでいて、
129年に、呉郡を分郡した、というように書いた。
>>926 >「東」も「治」も、漢字であり、
>地名を示す固有名詞ではないよ。
現実に、あちこちで
のちの福州が「東治」と書かれているわけだが
>>802 また「南→東」などの史料事実の否定曲解をする、
嘘吐きダマシの大和説が、思考を停止したを。w
>>803 >>確か、(東冶は)福州に含まれる位の小さい町だった筈。<
>閩越国の都城だよ 小さい町じゃない<
「都城」レベルでは、小さい町だ。
>>905 「南→東」などの史料事実を否定曲解をする嘘吐きダマシの大和説は、
「思想宗教的に結論先にありき」の・・・・素人アマチュアのようなものだ。
>>924 >杭州が、後に会稽郡から分郡された呉郡に入っていたんなら、
>そりゃ、元は会稽郡であったのであり、
>会稽山にも近いから、「会稽」と呼ばれた地域そのものだ。
100年以上前から会稽郡から外されてる杭州が
「会稽」と呼ばれた地域そのものなわけないでしょ
>>806 「南→東」などが嘘吐きダマシだ、というのが、国民の定説なんだから
嘘吐きダマシじゃないという方が、その理由を言え。
>>949 会稽郡では会稽郡治についで大きい町だよ
日本の神話と言うのも、
おかしな話だよ
頭の良い人は気づいている
>>946 だから勾践が呉を征服併合した後の話でしょ
もっと前の、「夏后少康之子封於會稽」の頃の会稽は、呉郡を含まない
実在していたとして
天つ神=三貴子
国つ=スサノヲ=ジンムだと言っている人がいたり
>>807 >二世皇帝孫亮がクーデターで廃位されて
会稽王に落とされ、さらに侯官侯に落とされる
そういう位置付けだな <
ふーん。
孫亮の頃は、会稽が「王をおかれるような地域であったんだな。
>>932 「治」地域なんて言葉はないから
誰もあなたみたいな珍解釈はしないよ
>>815 >古田がウソ書いたってこと?
ザラコクが記憶違いなのに無理に言い張ってるってこと?
どっち?<
宮内庁のトップクラスの学者が、天皇の許しも得ずに?勝手に、
書陵部の紹煕本に「朱入れ」や「注書き」などの史料操作をしたらしい、
という事。
>>817 >>現在の書陵部本が、誰かに書き換えられた可能性もある<
>古田は、 張元済の百衲本写真版は、「復元より復源へ」で、
書陵部本に様々な修正をしている と書いている<
古田さんは、「朱入れ」や「注書き」などの操作を加えた人物がいた、という事も書いておられる。
ちなみに、いま福州は福建省の州都で
横浜の倍くらい人口がある町
ネットでは有名な話
宇宙(日本)の始まり=朝鮮半島w起源説www
このようにバカにしているような話ばかりなんだけど、
本当は認めていると言う話なのかな
>>962 古田さんは、「朱入れ」や「注書き」などの操作を加えた人物がいた、という事も書いておられる。
張元済が写真を撮る前にな
w
>>820 >古田は、書陵部本のほうは本文には「筆入れ」をしていないから
張元済の百衲本写真版を何とも“やりすぎ”と言っているんだろ<
古田さんは、王朗の時の書陵部本の記載が、
「東治であったのか、東冶であったのか?」については、コメントしておられない。
という事は、
古田さんが見た時は、書陵部本の王朗の記載では「東冶」であった可能性が高い。
>>961 何も知らずに、そんなデタラメを書ける神経がすごい
さすが古田信者
>>966 >「東治であったのか、東冶であったのか?」については、コメントしておられない。
という事は、
言ったら自分の説に癒合が悪いって
気づいてたんだね
九州トンデモ説が最後に逃げ込むのは、いつも陰謀説だなw
>>961 >宮内庁のトップクラスの学者が、天皇の許しも得ずに?勝手に、
>書陵部の紹煕本に「朱入れ」や「注書き」などの史料操作をしたらしい、
畿内説って最低だな。
>>822 >裴松之と范曄は同時代だから、裴松之が見た倭人伝も邪馬臺國<
ダメだよ。
裴松之がに確実に見たのは、当然3世紀からの魏志の写本なのであり、
范曄の後漢書を実際に見たのか?は不明であり、
だから、范曄の「邪馬臺国」という考えを、裴松之が知っていれば、
というレベルの話。
そして、魏志に「邪馬臺國」写本があったんなら、裴松之は確実に考証校勘をしている、
から、
していなかった、という事は、魏志写本には、「邪馬臺国」写本はなかった、
という事になる。
45 岡上@yata2016[] 2018/01/08(月) 21:48:12.50
伊都国東遷スレにあったが、このトリップ失敗は何だ?
>>826 >>裴松之時点でも、「邪馬壹國と邪馬臺國」の校勘が行われていなかったから、<
>行われていなかったって証拠は?<
書かれていない、という事。
ザラコクは古田が言っていることとは全く異なる妄想をしている
古田が言っているのは、
>>819 >現在書陵部本には【欄外に】多くの筆跡(墨、朱)の書き入れがある。代々の書きこみだ。
>校異もあれば、他愛のない覚え書き類もある。これら皆、百衲本には出ていない。
>おびただしい代々の印も百衲本ではほとんど消されている。
古田本しか読んでいない狂信者なのに、しくじり教祖の言葉すら勘違いをする
>>972 ためしに@を、#に変えて名前欄に入れてみたら?
>>827 >>(南と東)間違える理由が全くないから<
>れ、証拠じゃなくて 単なる、あなたの考えでしょ?<
掲示板や5chに、「まともな理由が全く書かれていない」という事が証拠であり、
人類や国民の常識であり、
国民の7割が大和説を支持していない、という事も証拠。
>>971 >范曄の後漢書を実際に見たのか?は不明であり、
>だから、范曄の「邪馬臺国」という考えを、裴松之が知っていれば、
>というレベルの話。
なにを言っているのか、意味がわからない
>>828 >>という事は、大和説者が上げた王朗の「東治」記載も、
「書き入れ」や「校異」や「覚書」などを書いていた、という可能性がある訳ですね。<
>てないで、ホンモノを見れば? ちゃんと本文が「東治」になっている
「校異」や「覚書」の記載ではない <
これじゃダメだな。
「校異」や「覚書」もないし、「書き入れ」もない。
逆に言えば、張元済の写真とほぼ同じものであり、
「東治」の部分が書き換え済みである、という疑いがある事になる。
>>829 長里説が✖だ、という事は、既に確定しているからね。
>>830 「南→東」などの史料事実の否定曲解を、
証拠だ、と言い張る大和説者。
>>831 >>范曄の誇大は、部分的だから半分×。
しかし大和説の「南→東」などのダマシは、大和説全体の存在に関わるのものから、
殆ど✖。
だから、同じではなく、全く違う。<
>の人格批判に変わりはないでしょ<
半分×の後漢書と、
殆ど✖の大和説とでは、
確率が全く違う。
>>832 >>もしも一つであったんなら、張元済の写真本が古いんだから、
現在の書陵部本が、誰かに書き換えられた可能性もある。<
>その非常識な考えの論拠は崩壊した ↓
>古田自身が書陵部本と張元済の百衲本の異同について、
・・・ 原本(書陵部本)の「誤刻」ケアレス・ミスである。
これを「百衲本」は“正しく”訂正しているのだ。 ・・・ と書いている<
それは、王朗の「東治」の話ではない。
>>833 >古田九州説信者は笑えるほどのサギシだな
魏志の写本が「会稽東冶」を「会稽東治」と誤写した事と当時の地理感覚の未熟さを利用して
「会稽東冶」や「自女王國東度海千餘里至拘奴國」を
「高慢な書き変え」をした事の例にし仕立てあげたのか <
魏志写本は、全て「会稽東治」であった、という事は、写本版本群での事実であり、
だから、「会稽東冶」と書き変えた范曄は、
自己の「間違った解釈」に拠って、高慢にも「会稽東冶」に書き換えた半分×人間であり、
それを追従した大和説人種は、完全・・・・アホ人種だ。
>>835 >邪馬台国と敵対していたクナ国は熊襲でいいの?<
確率は高いだろうね。
>邪馬台国が九州でも大和でも?<
「邪馬台国」なんてないし、大和は「南≠東」だけでも✖だよ。
>>838 >いや、それも無知な素人の妄想
内面ケズリで熱効率をよくする工夫だ ということが十分研究されている <
内面削りも、ガラスのような高温溶融状態を経ていなければ、
脆くて、内面削りだけでも割れてしまうもの。
>>842 >>裴松之らが「東治」の校勘をしていない、という事が、
写本には「東治」と書かれていた事になり、
陳寿原本も「東治」と書かれていた事になった。<
>それ、論理的におかしいの気づかない?
裴松之の見た写本に「東冶」と書かれていれば 当然「東治」の校勘などしない<
何度も書いている。
宋明清代の多種の版本の全てが「東治」であった、という事は、
それらが底本にした魏志写本も、全て「東治」であったのであり、
という事は、写本は全て、「東治」であった。
>>845 >>・・・直接的史料批判など、見た事がない。<
>そりゃそうだろ 畿内説の本も読まない テンプレも読まない と明言してるザラコクだもの
見た事あるわけがない <
30歳前までは、大和説の本も読んでいたし、
2chに転身してからも、テンプレは3回読んで、反論も3回書いておいた。
>>846 >>「どこの港」なんて書かなくても「竹斯國」という国名で判る。<
>じゃあ「達於海岸」も倭国で判るよね?<
「海岸」では、「国名」でないから、判らない。
>>848 >>皇帝への報告で、「国名記載を省略」なんてズボラをした事が判れば、
隋使は首が飛ぶ可能性があるし、<
>現に「又經十餘國」と省略されてる
ザラコクの「首が飛ぶ」妄想など、間違いなのは一見して明らかだ <
「又經十餘國」も、「自竹斯國以東、皆附庸於俀」だから、隋使は行っていないし、
「又經十餘國」にも、「国名」が書かれていないから、
行程説明にならず、隋使の首が危ない。
>>850 >そもそも史書が帰朝報告を全て載せるという保証もない訳で
勝手に想像しても意味がないのでは?<
都斯麻國、一支國、竹斯國、秦王國、だけを書いて、
肝心なその後の国名の記載をこっそり書かずにズボラしたら、
やはり、首が危ない。
>>851 >史書であって帰朝報告ほど詳細には書いてないんだろうな
書記みたいな人の現地人とのやり取りから得た情報を記載した
日報みたいなものを参照にして <
隋使であっても、高表仁であっても、
きちんと途中の行程を記録提出しないで、それがバレたら、
そりゃ首が危ない。
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