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論破された、頭のおかしいキナイコシが、畿内説が破綻した腹いせに、マルチで荒らしているね。。。
邪馬台国纏向説とは、大和朝廷が東遷して、纏向に邪馬台国を作成したという説ですね。。。
>>14 その通りです、、、
しかし、5年前の大規模調査で、完全に破綻してしまいました。。。
邪馬台国鹿児島
https://ncode.syosetu.com/n2362di/ 天照から神代三代は鹿児島
答え書いてた
種子島が侏儒国であると比定される動きが、一部に出ている。
これは、種子島から発掘 された弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、
「極端な」短頭、低頭、低 身長特徴を持ち、魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致していると の見解による。
この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、
本州などには 見られない特徴で「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである。
👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、畿内説を鮮やかに論破されているね。。。。
そして、今、論破されたキナイコシは『ボーボボ』 と、意味不明な呟きをするしかないようだね、、、
>>19 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。
>>21 そうだろうね、、、2013年が致命的だった。。。
2013年に何があったか明らかにできない妄想嘘つき
>>1 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
真夜中にキナイコシが、複数のスレッドで一人で呟いているね。。。。
516日本@名無史さん2018/02/08(木) 02:29:53.59
このスレにも、いたような気がする
・さすが天皇だな、自分だけは助かろうと
とか、本当に嫌っている人々がいるのかな
25 名前:日本@名無史さん 2018/02/08(木) 02:40:24.22
スレ乱立犯晒し上げ
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
キナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
九州説が追い詰められて
こんなスレをでっち上げて
ひとり虚しくウソをついて暴れている
>>1 邪馬台国あまり興味がないが、関連スレ目立つので一言
魏志倭人伝だと邪馬台国は鉄器国家です
纏向周辺に鉄があった3世紀末には卑弥呼は死んでいる
纏向と卑弥呼は無関係だよ
卑弥呼の死が日本列島の鉄器分布を改革して、やっと近畿地方にも行き渡るようになったのでしょうね
謎の人物達が現れて、高度な話題で、キナイコシを追い詰めているな。。。
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
キナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。
畿内説が破綻し、自論を論破されたキナイコシが、重複偽スレッドを乱立しているね。。。
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
畿内説が破綻し、自論を論破されたキナイコシが、焦って重複偽スレッドを乱立しているね。。。
自論を論破されたキナイコシは、発狂してしまったね、、、、
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
キナイコシが、焦ってインターネットの偽の畿内説スレッドで暴れるだけになってしまったね、、、、
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
ここはウソばかりつく異常者の乱立させた有害スレ
ウソが書いてある
重複偽スレッドで、キナイコシは、里の長さのことでも鮮やかに論破されてしまっているね、、、
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。
僕たちの訳分では、魏志倭人伝の作者は、まず倭人の住む土地があって、それを倭地と書いたのだよね、、、
そうだね、、、
そしてその中に倭国があって、さらにその中に、女王国や伊都国やマツラ国等がある。。。
倭人のいる地域は、倭国の範囲を超えて広がっているのだったね。。。
そうそう、12000里は、女王国の入り口までの距離だ。。。
そして、女王国の入り口は伊都国と奴国の間にあるのだったね。。。
そうだね、女王国の入り口は、帯方郡から水行二十日で到着したマツラ国から、熊本城までの陸行一月の途上だったね。。。
だから、一里が何メートルかに関係なく、邪馬台国は九州にあることがはっきりしているのだったね。。。
今日も、優れた考古学者たちに、畿内説のキナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
>>54 入り口までは七千里。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
↑
今日も異常者が一人で暴れているな
どうして九州説は異常者ばかりなんだろう
異常者が多いのではなくて、九州説を信奉し続けるためには、異常者であることが必須条件だということなのだろう
今日も、優れた考古学者たちに、畿内説のキナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
↑
今日もスレ立てた愚かな異常者が一人で暴れているな
うんにゃ
畿内説は破綻したのは
畿内の同和地区と邪馬台国国の關係が解明しないからね
今朝も、優れた考古学者たちに、畿内説のキナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
↑
今日もスレ立てたアホな異常者が一人丸痴で暴れているな
自論を論破された畿内説のキナイコシが、悪口を呟くだけになっているね、、、
>>75 奈良県に、鍵穴型の古墳が何個かつくられた纏向遺跡、という遺跡があります。。。。
邪馬台国纏向説は、その遺跡が邪馬台国だという説です、、、
>>76 その説は、2013年に破綻してしまったのではないのかな、、、
>>77 そうです。。。
もう5年経ちました。。。
重複偽スレッドで、キナイコシは、東は南ではないことでも鮮やかに論破されてしまっているね、、、
纏向が卑弥呼と無関係なのは、3世紀前半の鉄製品がないというだけでも、致命的な証拠になります。
そして、もう1点指摘することができるのですが、同様に3世紀前半の硯がないということも大きいでしょうね。
魏志倭人伝では、卑弥呼は皇帝に上表文を送っていますからね。
硯は、鉄のように錆びたりしませんからね。
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの異物は4世紀以降のみである。
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの遺物は4世紀以降のみである。
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
纏向というより、畿内全体でみた場合でも、文字文化は博多湾岸を経由しなければいけませんが、3世紀後半になっても、土器の動きは、畿内から九州への一方通行です。
文字を伝えるのは物ではなく人ですが、畿内への人的資源の移動が証拠立てられないというのが、実情ですね。
西暦230年代、畿内に文字を理解できた文化があったことを証明出来ないことは、畿内説にとって、大きな痛手です。
>>79 あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。
このただ一つの纏向説スレッドに、謎の人物達が現れて、高度な話題で、キナイコシを追い詰めているな。。。
矛や鉄や文字の考古学が、邪馬台国の決め手になるのではないのかな。。。
レベルの高い話題について行けないから、嘘をつきまくりのスレを乱立させまくりで荒らすしかない
>>1 今朝も、優れた考古学者たちに、畿内説のキナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
3世紀前半に、卑弥呼を共立した倭国が朝鮮半島に進出した最大の理由は、鉄でしょうね。
魏志倭人伝は東夷伝の一部ですが、東夷伝に倭人が弁韓に鉄を採りに来ているという記述があります。また、実際に、弥生時代を通して玄界灘近辺には鉄が溢れています。
公孫や曹魏との交流も、弁韓での、鉄の採掘を認めて貰うためであるとするのが、合理的です。
渡海という危険を冒して、鉄を獲得していたわけですから、女王の都の建設や警備に鉄器が使われていないとする理由はありませんね。理由があるならお示し願いたいです。
ところが、西暦230年代、卑弥呼が中国と交流を始めた頃、纏向には鉄が全くありません。仮に、ホケノが230年代(そんなことをいう学者さんは現在は皆無ですがね。)だとしても、それは鉄器が有力者の副葬品になるほどの希少品だったことの証拠になるだけです。
そして、大陸とやりとりするための文書作成の道具、硯もありませんしね。
纏向は、邪馬台国ではありませんよ。
不正確な書き方が、気になりますので、修文します。
弥生時代末期に、卑弥呼を共立した倭国が朝鮮半島に進出していた最大の理由は、鉄でしょうね。
魏志倭人伝は東夷伝の一部ですが、東夷伝に倭人が弁韓に鉄を採りに来ているという記述があります。また、実際に、弥生時代を通して玄界灘近辺には鉄が溢れています。
曹魏と(ひょっとしたら公孫とも)の交流も、弁韓での、鉄の採掘を認めて貰うためであるとするのが、合理的です。
渡海や他民族との軋轢という危険を冒して、鉄を獲得していたわけですから、女王の都の建設や警備に鉄器が使われていないとする理由はありませんね。合理的な理由があるならお示し願いたいです。
ところが、西暦230年代、卑弥呼が曹魏と交流を始めた頃、纏向には鉄が全くありません。仮に、ホケノが230年代(そんなことをいう学者さんは現在は皆無ですがね。)だとしても、それは鉄器が有力者の副葬品になるほどの希少品だったことの証拠になるだけです。
そして、大陸とやりとりするための文書作成の道具、硯もありませんしね。
纏向は、邪馬台国ではありませんよ。
>>91 畿内説が破綻し、一方的に論破されてしまったキナイコシが、発狂してしまい、悪口しか言えなくなってしまったね。。。
このただ一つの纏向説スレッドに、謎の人物が現れて、高度な話題で、キナイコシを追い詰めているな。。。
そういえば、熊本城の地下の、卑弥呼の遺跡には鉄も硯もあったのではないのかな。。。
卑弥呼の生きていた時代の纏向には、鉄も硯もないのだね。。
>>97 優れた考古学者達が指摘するように、矛や絹もないのではないのかな。。。。
重複偽スレッドで、キナイコシは、「里=約100m」だということでも鮮やかに論破されてしまっているね、、、
>>99 あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。
僕たちの訳分では、魏志倭人伝の作者は、まず倭人の住む土地があって、それを倭地と書いたのだよね、、、
そうだね、、、
そしてその中に倭国があって、さらにその中に、女王国や伊都国やマツラ国等がある。。。
倭人のいる地域は、倭国の範囲を超えて広がっているのだったね。。。
そうそう、12000里は、女王国の入り口までの距離だ。。。
そして、女王国の入り口は伊都国と奴国の間にあるのだったね。。。
そうだね、女王国の入り口は、帯方郡から水行二十日で到着したマツラ国から、熊本城までの陸行一月の途上だったね。。。
だから、一里が何メートルかに関係なく、邪馬台国は九州にあることがはっきりしているのだったね。。。
弥生時代までの文字文化の痕跡はそう多くありません。
特に漢字は、大陸との交流でしか使いようがありませんからね。
周という文字が読める土器が出るくらいでも、話題になるくらいです。
福岡以外で、硯は出雲でも出土したようですが、熊本はどうだったでしょうか。
それとあと一言だけ。
帯方郡から水行二十日の地点は投馬國ではありませんか。
陸行一月の開始は水行十日の後ですよ。
女王国の入り口というか境界は、楽浪帯方から七千里ですよ。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
>>110 後漢書では博多湾付近に在った倭奴国が倭国の極南界
魏志倭人伝では狗奴国との境が倭国の南の端で
倭国の入り口というか境界は朝鮮半島南岸ですね。
>>111 そうですね。
狗邪韓国が女王の境界ですね。
古墳の年代について調べていると、どうしても邪馬台国論争の問題が絡んでしまいますね。卑弥呼の塚が弥生墳丘墓なのか古墳なのか、です。
古墳の年代にとって、纏向は重要な地域です。畿内や、列島規模でみても、古墳時代の原点であります。
しかし、西暦240年前後、纏向は無文字であり、無鉄です。
少なくとも、考古学的証拠は皆無です。
この文明発生前の地域が、鉄の産地を跨いで中国大陸と文字による交流が可能だったとするのは、不合理ですね。
3世紀全般や4世紀に視野に広げれば、卑弥呼の死後ということですが、舶来鏡や鉄器等の大陸の文物は入ってきているのだから、介在するものがいたようですが、直接的な相互交流の証拠には不十分です。
後漢書では倭の西北界が拘邪韓國ですね。
朝鮮半島には南西部に前方後円墳がありますね。畿内の影響があった最古の証拠でしょうね。
ただ、どんなに引き上げても、5世紀中葉のようです。
邪馬台国の時代に畿内の影響があった考古学的証拠になりません。
魏志倭人伝では、倭国は対馬以南です。倭人の地の領分で、官が置かれ統治されていた領分が倭国との認識のようですね。官が置かれていなかった朝鮮半島や、女王国の東に海を千里渡った領分は倭種の地です。
卑弥呼の前の男王のときや、倭国大乱後の卑弥呼の共立の当時、倭国は統一体だったのでしょう。
共立後、しばらくして狗奴国の卑弥弓呼素が反乱したのですね。
そして、魏国はそれ以降、再び台与を共立するまで、倭国を女王の属国と女王国と男王国=狗奴国の3グループに分けて認識していますね。女王国は一万二千里から、卑弥呼の宮が邪馬台国と考えるのが合理的です。(このあたりはスレの住人さんに同じような意見の方がいますね。)
>>115 魏に何回も朝貢したり使節を受け入れてるのに
無文字なんてことは有り得ないよな。
【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
>>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/02/153406
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
「神武天皇から開化天皇までの記紀は嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする
井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、
「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。
いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、
これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。
「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡(佐賀県)をもって、人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、
「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。
多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。
要するに、「邪馬台国・九州説」とは、次の荒唐無稽な馬鹿げた妄想に耽る歴史偽造屋の戯言なのだ。
『魏志倭人伝』を一読したとき、多少の教養があれば、それが特記する「卑弥呼」が、
第七代孝霊天皇の皇女「やまとととびももそひめのみこと」にそっくりだとすぐさま感じてこそ常識ある日本人。
「ももそひめのみこと」は、大和朝廷における神宮の斎宮であった。
鉄を産出する吉備の国を制圧した第七代孝霊天皇が(180年頃に)造営した“ミニ都”纏向遺跡は、
天理市の柳本駅(鉄道・桜井線)の南あたりが北端ではないか。そして、この線より南側で田原本町に入った所に、孝霊天皇の御所と政庁が建立されていたと推定される。
仮にそうだとすれば、纏向の“ミニ都”は、三世紀初頭の日本では破格の大きさとなろう。 私のように、纏向遺跡を『古事記』や『日本書紀』の中に“発見”して、吉備の国を制圧してトテツモナイ富を得た孝霊天皇が“ミニ都”を造営したのかな、
その皇女「ももそひめのみこと」は神宮斎宮と摂政とを兼ねていたのだろうか、
魏の遣使は大阪湾までの大海用の船から大和川の河口で降り河川用舟艇に乗り換え、
両岸から大勢の日本人農夫が引くロープで牽引され大和川を遡行して、
「ももそひめのみこと」が祈祷する祭祀の都へと向かったのだろうか、などと想像する時、
纏向遺跡は生き生きと生命を得て千八百年間の時を超越し現在に飛び跳ねる。
>>130
纏向遺跡は倭国(阿波)の豪族古墳造営の前線基地ですよ。
纏向での役目が終わったので、佐紀盾列古墳群などへ解体移設されている。 @阿波 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
畿内説を論破されてしまったキナイコシが、追い詰められて、発狂したのではないのかな、、
ただ一つの、この邪馬台国纏向説スレッドが、予想以上に盛況だね、、、
話題のレベルが高くて、畿内説を論破されてしまったキナイコシが、ついてこれないようだね。。。
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良
このスレ立てた奴が独りで暴れてるな
あきらかに偏執狂だろ
畿内説を論破されてしまったキナイコシが、このスレッドの話題のレベルが高すぎて、ついてこれないで、悔しさのあまり、おかしな言いがかりをつけているな。。。
畿内説を論破されてしまったキナイコシが、三角縁神獣鏡の同型鏡を分析することは、無理なのだろうね、、、
いくら岡上がにくくても、これは別人だろう。
岡上は畿内説なのに無理押しをしないから、畿内説の主流派の根拠をことごとく否定してしまう。
まあ、畿内説は身内から見ても嘘つきの集まりということで。
>>123 上表文は倭王印で封泥または押印されなければいけませんから、卑弥呼の膝元から送られていますね。邪馬台国に文字文化があったことは間違いありませんよ。
>>128 邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。今のところは玄界灘沿岸以外だと、島根県か三重県ということになりますか。
山陽、畿内、四国は厳しいのではと思います。
東夷伝に朝鮮半島で倭人が鉄を入手したとありますが、鉄は貴重だから、再利用されて残っていないことも考えられますから、代わりに鉄文化とリンクしているものを見つければいいのです。
畿内の古墳との関連でならば、まず、割竹形木棺の伝播を考えるべきでしょうね。
ところが、畿内の古墳で、引き上げても250年とされるホケノの前の年代に割竹形木棺がないのです。(私には見つけられませんでした。)
それと、畿内は古墳時代の原点であることは、間違いありませんが、鉄器使用開始の指標となるホケノのこの割竹形木棺の墓制は、滋賀県野洲市が発祥なのです。少し遅れて平原1号、それから半世紀遅れで纏向へと伝播しています。
。。。
117 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/10(日) 20:27:43.84
なんか罵倒ばっかりですね。
世間では景初四年実在説のほうが有力ともおもいませんけど。。。
785 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2017/09/12(火) 09:57:28.01
>>683 仕方ないよ、、、、
あの2013年の調査以前から、国家に否定されているのだものね。。。
あれは、天皇の妹の墓なのだからね。。。
234 1 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/06/09(金) 23:37:22.40
今日は何か盛り下がってますねぇ。。。
まぁまともに考えてみたら、倭国大乱後の女王墓である平原が重要じゃないわけないですよね。
>>152 割竹型木棺の製作に鉄器が必要ということでしょうか。
滋賀県は「畿内」というよりも、日本海航路による筑紫勢力の圏内であるように思います。
>>150
>邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
じゃあ、ここに来る意味はなにですか? @阿波 >>150
>邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。
倭人に文字文化が有ったとは確認されていません。
そんな、確認されていないものより、鉄鍛冶炉遺構や辰砂採掘遺跡ですね。 @阿波 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 まあ、魏志倭人伝にない前方後円墳を根拠にされても困るよな。
邪馬台国とは別にそのような集団がいたというだけだし。
>>159
その「俺様ルール」に対応できないのかな? @阿波 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 邪馬台国時代の遺物の出土状況
邪馬台国と周辺国
>>166-167
九州の中の蛙 大海を知らず。 @阿波 割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作らなかったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。
割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作ったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。
よく、勘違いされることですが、寿陵でもないかぎり、葬儀に該当する、セレモニーは棺の方が墳丘墓より、重要です。
現代でも同じことでしょう。
墳丘墓や古墳は、王権の継承者ための、継承セレモニーのアイテムです。
だから、葬礼での種族の分類は、棺によって考えるべきですね。
>>155 タイトルの纏向の語に反応しましたね。
古墳好きですからね。
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
http://2chb.net/r/history/1518118699 キチガイキナイコシはスレを使いきったら次を立てるという常識が通じない
だってキチガイだもんなw
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
2013年が、致命的だった、、、、
纏向遺跡自体は、西暦200年頃、誕生していますね。
纏向石塚が、210年頃の築造ですから、ある程度の人口集落があった証拠になります。
でも、鉄器が皆無の年代です。勿論、それ以降も文字については、3世紀全体を通しても、その痕跡はありませんから、邪馬台国とは無関係です。
そして、卑弥呼が魏と接触し始めた230年代もまだ無鉄器です。
250年頃以降、ホケノ築造ですから、纏向の鉄器時代は、卑弥呼死後ですね。
卑弥呼死後、鉄入手ルートにつながった、もしくは、近江方面の鉄入手勢力に征服されたということになります。
http://2chb.net/r/history/1518118699 キチガイキナイコシはスレを使いきったら次を立てるという常識が通じない
だってキチガイだもんなw
桜井茶臼山古墳は興味深いですよ。三角縁神獣鏡が出土していて、宗像との関わりもあるようです。纏向とは少し離れていて、纏向遺跡には、無い要素があります。誰の古墳でしょうかね。
九州北部から運ばれた内行花文鏡が大事にされていた古墳だよね。
被葬者の出身地はどこだったのかな?
>>186-187 北部九州説はじめ、だれにも分からない
実は、考古学的に墳形以外に纏向の古墳とヤマト王権の関連を見出すことはできません。ヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚古墳も、そうですね。
対照的に、桜井茶臼山古墳の副葬品は、大和王権の祭祀を思わせるものが多い。北部九州の影響を強く受けています。
時期的には西暦300年頃過ぎ、天皇家に系譜が繋がる人物が初めて畿内に権力を獲得して、ここに埋葬されたのでしょうね。
何百枚もの三角縁神獣鏡が、庄内式と全く共伴関係にないことは、不思議ですね。ほとんどは、布留式期に模倣して制作された国産鏡とするのが合理的でしょう。画文帯を模倣したものか、中国製の三角縁神獣鏡を模倣したものかは、わかりませんがね。
邪馬台国論争にとっては、ややこしいことをしてくれたものです。
難升米が曹叡に拝謁したタイミングを考えれば、下賜鏡は景初三年の作でしょう。
下賜鏡が三角縁神獣鏡かどうかは、わかりませんが、もしそうならば、紀年銘くらいはあったかもしれません。
景初三年鏡が出土したのは、出雲なのですが、残りの99枚はどうなったのでしょうね。
邪馬台国が九州ならば、銅鏡などは珍しくもなんともありませんから、鋳つぶして、リサイクルした可能性もあります。
そうではなかったとも、最終的には、倭国を併呑した大和朝廷によって、奈良の大仏にでもなったのですかね。
桜井茶臼山古墳の副葬された三角縁神獣鏡の破片が、紀年銘が正始元年とあるものと、一致したようですね。
恐らく、舶来鏡でしょう。西暦240年代頃はどこにあったのかが、問題になりますが、共に副葬されていたものから類推すると、やはり、九州北部ということになりそうです。
邪馬台国の条件として、まずは、西暦240年に文字文化と鉄文化があったことです。
そして、それ以前から、曹叡が卑弥呼の好物と認識したものがあったことが必須です。絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
残念ながら纏向は全く該当しません。
畿内説は、あの2013年の大規模調査で破綻した。。。
レベルの高い謎の考古学者が、難解な論理で、追い詰めてしまったのではないのかな、、、
畿内説を論破されたキナイコシが、偽の邪馬台国畿内説スレッドで、方格規矩鏡と超大型内行花文鏡のことでも、鮮やかに論破されてしまったねw
>>195 レベルの高い謎の考古学者達の投稿を、僕たちが編集して、次回のスレッドのテンプレートにすればよいのではないのかな。。
26日本@名無史さん2018/02/08(木) 08:24:07.85
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
31日本@名無史さん2018/02/08(木) 15:52:01.39
>>1 邪馬台国あまり興味がないが、関連スレ目立つので一言
魏志倭人伝だと邪馬台国は鉄器国家です
纏向周辺に鉄があった3世紀末には卑弥呼は死んでいる
纏向と卑弥呼は無関係だよ
3231を補足します2018/02/08(木) 15:55:25.72
卑弥呼の死が日本列島の鉄器分布を改革して、やっと近畿地方にも行き渡るようになったのでしょうね
81日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:04:51.65
纏向が卑弥呼と無関係なのは、3世紀前半の鉄製品がないというだけでも、致命的な証拠になります。
そして、もう1点指摘することができるのですが、同様に3世紀前半の硯がないということも大きいでしょうね。
魏志倭人伝では、卑弥呼は皇帝に上表文を送っていますからね。
硯は、鉄のように錆びたりしませんからね。
82日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:32:17.00
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの異物は4世紀以降のみである。
85日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:00:27.33
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
86日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:15:50.93
纏向というより、畿内全体でみた場合でも、文字文化は博多湾岸を経由しなければいけませんが、3世紀後半になっても、土器の動きは、畿内から九州への一方通行です。
文字を伝えるのは物ではなく人ですが、畿内への人的資源の移動が証拠立てられないというのが、実情ですね。
西暦230年代、畿内に文字を理解できた文化があったことを証明出来ないことは、畿内説にとって、大きな痛手です。
9392です。2018/02/14(水) 11:43:56.94
不正確な書き方が、気になりますので、修文します。
弥生時代末期に、卑弥呼を共立した倭国が朝鮮半島に進出していた最大の理由は、鉄でしょうね。
魏志倭人伝は東夷伝の一部ですが、東夷伝に倭人が弁韓に鉄を採りに来ているという記述があります。また、実際に、弥生時代を通して玄界灘近辺には鉄が溢れています。
曹魏と(ひょっとしたら公孫とも)の交流も、弁韓での、鉄の採掘を認めて貰うためであるとするのが、合理的です。
渡海や他民族との軋轢という危険を冒して、鉄を獲得していたわけですから、女王の都の建設や警備に鉄器が使われていないとする理由はありませんね。合理的な理由があるならお示し願いたいです。
ところが、西暦230年代、卑弥呼が曹魏と交流を始めた頃、纏向には鉄が全くありません。仮に、ホケノが230年代(そんなことをいう学者さんは現在は皆無ですがね。)だとしても、それは鉄器が有力者の副葬品になるほどの希少品だったことの証拠になるだけです。
そして、大陸とやりとりするための文書作成の道具、硯もありませんしね。
纏向は、邪馬台国ではありませんよ。
108日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:03:38.08
弥生時代までの文字文化の痕跡はそう多くありません。
特に漢字は、大陸との交流でしか使いようがありませんからね。
周という文字が読める土器が出るくらいでも、話題になるくらいです。
福岡以外で、硯は出雲でも出土したようですが、熊本はどうだったでしょうか。
それとあと一言だけ。
帯方郡から水行二十日の地点は投馬國ではありませんか。
陸行一月の開始は水行十日の後ですよ。
110日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:20:52.05
女王国の入り口というか境界は、楽浪帯方から七千里ですよ。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
111日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:31:02.11
>>110 後漢書では博多湾付近に在った倭奴国が倭国の極南界
魏志倭人伝では狗奴国との境が倭国の南の端で
倭国の入り口というか境界は朝鮮半島南岸ですね。
112日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:32:01.45
>>111 そうですね。
狗邪韓国が女王の境界ですね。
114一介の古墳ファンです。2018/02/15(木) 11:42:29.30
古墳の年代について調べていると、どうしても邪馬台国論争の問題が絡んでしまいますね。卑弥呼の塚が弥生墳丘墓なのか古墳なのか、です。
古墳の年代にとって、纏向は重要な地域です。畿内や、列島規模でみても、古墳時代の原点であります。
115日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:43:14.12
しかし、西暦240年前後、纏向は無文字であり、無鉄です。
少なくとも、考古学的証拠は皆無です。
この文明発生前の地域が、鉄の産地を跨いで中国大陸と文字による交流が可能だったとするのは、不合理ですね。
116日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:44:25.73
3世紀全般や4世紀に視野に広げれば、卑弥呼の死後ということですが、舶来鏡や鉄器等の大陸の文物は入ってきているのだから、介在するものがいたようですが、直接的な相互交流の証拠には不十分です。
118日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:45:54.10
後漢書では倭の西北界が拘邪韓國ですね。
朝鮮半島には南西部に前方後円墳がありますね。畿内の影響があった最古の証拠でしょうね。
ただ、どんなに引き上げても、5世紀中葉のようです。
邪馬台国の時代に畿内の影響があった考古学的証拠になりません。
119日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:47:18.68
魏志倭人伝では、倭国は対馬以南です。倭人の地の領分で、官が置かれ統治されていた領分が倭国との認識のようですね。官が置かれていなかった朝鮮半島や、女王国の東に海を千里渡った領分は倭種の地です。
120日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:48:45.52
卑弥呼の前の男王のときや、倭国大乱後の卑弥呼の共立の当時、倭国は統一体だったのでしょう。
共立後、しばらくして狗奴国の卑弥弓呼素が反乱したのですね。
121日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:50:41.81
そして、魏国はそれ以降、再び台与を共立するまで、倭国を女王の属国と女王国と男王国=狗奴国の3グループに分けて認識していますね。女王国は一万二千里から、卑弥呼の宮が邪馬台国と考えるのが合理的です。(このあたりはスレの住人さんに同じような意見の方がいますね。)
123日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:30:16.01
>>115 魏に何回も朝貢したり使節を受け入れてるのに
無文字なんてことは有り得ないよな。
124日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:39:12.30
【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。
125日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:39:39.32
【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
139日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:45:18.87
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。
140日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:45:36.75
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良
149日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:51:27.77
>>123 上表文は倭王印で封泥または押印されなければいけませんから、卑弥呼の膝元から送られていますね。邪馬台国に文字文化があったことは間違いありませんよ。
150日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:52:20.41
>>128 邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。今のところは玄界灘沿岸以外だと、島根県か三重県ということになりますか。
山陽、畿内、四国は厳しいのではと思います。
151日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:53:17.90
東夷伝に朝鮮半島で倭人が鉄を入手したとありますが、鉄は貴重だから、再利用されて残っていないことも考えられますから、代わりに鉄文化とリンクしているものを見つければいいのです。
畿内の古墳との関連でならば、まず、割竹形木棺の伝播を考えるべきでしょうね。
ところが、畿内の古墳で、引き上げても250年とされるホケノの前の年代に割竹形木棺がないのです。(私には見つけられませんでした。)
152日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:53:58.85
それと、畿内は古墳時代の原点であることは、間違いありませんが、鉄器使用開始の指標となるホケノのこの割竹形木棺の墓制は、滋賀県野洲市が発祥なのです。少し遅れて平原1号、それから半世紀遅れで纏向へと伝播しています。
154日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:12:47.37
>>152 割竹型木棺の製作に鉄器が必要ということでしょうか。
滋賀県は「畿内」というよりも、日本海航路による筑紫勢力の圏内であるように思います。
160日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:42:09.88
まあ、魏志倭人伝にない前方後円墳を根拠にされても困るよな。
邪馬台国とは別にそのような集団がいたというだけだし。
166日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:11:35.22
邪馬台国時代の遺物の出土状況
167日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:14:08.13
邪馬台国と周辺国
172日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:13:40.04
割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作ったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。
173日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:18:38.26
よく、勘違いされることですが、寿陵でもないかぎり、葬儀に該当する、セレモニーは棺の方が墳丘墓より、重要です。
現代でも同じことでしょう。
墳丘墓や古墳は、王権の継承者ための、継承セレモニーのアイテムです。
174日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:20:59.46
だから、葬礼での種族の分類は、棺によって考えるべきですね。
175日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:05:07.68
>>155 タイトルの纏向の語に反応しましたね。
古墳好きですからね。
183日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:02:14.39
纏向遺跡自体は、西暦200年頃、誕生していますね。
纏向石塚が、210年頃の築造ですから、ある程度の人口集落があった証拠になります。
でも、鉄器が皆無の年代です。勿論、それ以降も文字については、3世紀全体を通しても、その痕跡はありませんから、邪馬台国とは無関係です。
そして、卑弥呼が魏と接触し始めた230年代もまだ無鉄器です。
250年頃以降、ホケノ築造ですから、纏向の鉄器時代は、卑弥呼死後ですね。
卑弥呼死後、鉄入手ルートにつながった、もしくは、近江方面の鉄入手勢力に征服されたということになります。
186日本@名無史さん2018/02/19(月) 10:16:22.67
桜井茶臼山古墳は興味深いですよ。三角縁神獣鏡が出土していて、宗像との関わりもあるようです。纏向とは少し離れていて、纏向遺跡には、無い要素があります。誰の古墳でしょうかね。
187日本@名無史さん2018/02/19(月) 11:06:23.07
九州北部から運ばれた内行花文鏡が大事にされていた古墳だよね。
被葬者の出身地はどこだったのかな?
188日本@名無史さん2018/02/19(月) 11:20:37.31
>>186-187 北部九州説はじめ、だれにも分からない
189日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:04:20.13
実は、考古学的に墳形以外に纏向の古墳とヤマト王権の関連を見出すことはできません。ヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚古墳も、そうですね。
対照的に、桜井茶臼山古墳の副葬品は、大和王権の祭祀を思わせるものが多い。北部九州の影響を強く受けています。
時期的には西暦300年頃過ぎ、天皇家に系譜が繋がる人物が初めて畿内に権力を獲得して、ここに埋葬されたのでしょうね。
190日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:07:42.55
何百枚もの三角縁神獣鏡が、庄内式と全く共伴関係にないことは、不思議ですね。ほとんどは、布留式期に模倣して制作された国産鏡とするのが合理的でしょう。画文帯を模倣したものか、中国製の三角縁神獣鏡を模倣したものかは、わかりませんがね。
邪馬台国論争にとっては、ややこしいことをしてくれたものです。
191日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:13:59.46
難升米が曹叡に拝謁したタイミングを考えれば、下賜鏡は景初三年の作でしょう。
下賜鏡が三角縁神獣鏡かどうかは、わかりませんが、もしそうならば、紀年銘くらいはあったかもしれません。
景初三年鏡が出土したのは、出雲なのですが、残りの99枚はどうなったのでしょうね。
邪馬台国が九州ならば、銅鏡などは珍しくもなんともありませんから、鋳つぶして、リサイクルした可能性もあります。
そうではなかったとも、最終的には、倭国を併呑した大和朝廷によって、奈良の大仏にでもなったのですかね。
192日本@名無史さん2018/02/19(月) 13:34:42.84
桜井茶臼山古墳の副葬された三角縁神獣鏡の破片が、紀年銘が正始元年とあるものと、一致したようですね。
恐らく、舶来鏡でしょう。西暦240年代頃はどこにあったのかが、問題になりますが、共に副葬されていたものから類推すると、やはり、九州北部ということになりそうです。
193日本@名無史さん2018/02/19(月) 14:18:36.60
邪馬台国の条件として、まずは、西暦240年に文字文化と鉄文化があったことです。
そして、それ以前から、曹叡が卑弥呼の好物と認識したものがあったことが必須です。絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
残念ながら纏向は全く該当しません。
>>197 ここは、纏向説スレッドだから、纏向説が破綻している根拠だけを抜き出して、纏めればいいのではないのかな、、
http://2chb.net/r/history/1518118699 キチガイキナイコシはスレを使いきったら次を立てるという常識が通じない
だってキチガイだもんなw
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、畿内説を鮮やかに論破されているね。。。。
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
>>1さんがどういう意図でスレを立ち上げられたかはよくわかりません。
纏向を邪馬台国の首都とするのか、纏向が邪馬台国そのものに一致させるのかもわかりません。
しかし、魏と交流していた240年頃の卑弥呼が、纏向以外の地にいたことは断言できますね。
考古学的には240年代までの纏向には、鉄文化も、文字文化も、鏡も、鉄剣もありませんからね。
邪馬台国の都の訳がありませんよ。
もっとも、「それじゃあ、おまえは邪馬台国をどこだと思っているんだ?」と問われても、
わからないと答えるしかありませんが。
距離や方角などについては、魏志倭人伝に記載されている行程をどのように解釈すべきか、文献学上の裏付けが必要なのでしょうが、その方面は全く無学なのでね。
しかし、考古学的には、繰り返しますが、邪馬台国の条件は、西暦240年に文字文化と鉄文化があって、それ以前から卑弥呼の好物の絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹があったことです。
畿内説は、あの2013年の大規模調査で破綻した。。。
畿内説を論破されたキナイコシは誰に質問しているのだろうか。。。。
このスレッドに現れた謎の考古学者は、ほとんどの倭人に文字文化がなかったといっているようだが、、、
>>236 そうだね、だからこそ、文字が発達した邪馬台国が倭国の中では、考古学的に特徴的になるといってるようだね、、
>>237 発狂したキナイコシは、そんなこともわからないのだろうね。。。
よく調べてみると、熊本城の地下から、文字の痕跡が発見されるのではないのかな。。。
>>236
倭人に文字文化があった根拠は
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>234 倭人全体で考えれば、繊維質上に文字は残ってないようですが、弥生後期までに、硯や、文字が刻まれた土器が出ています。
上位層では、「太伯」「大夫」という漢語を文字で代々伝えたと思いますよ。渡来した時のままの言語体系を数百年続け、該当する漢語の発音を、口伝だけで伝え、再び、漢人に対し特定させるほどの正確さで発音したことも、否定はしきれませんが、可能性は低いでしょうね。
ただ、私が主張したかったのは、倭人全体に文字文化があったことではなく、邪馬台国の首都で、卑弥呼か、卑弥呼の側近が漢語を解し、詔を読み、上表文を書くほどの文化レベルに達していたということだけです。
遠距離の首都同士の国交ですからね。会話ではなく、読み書きのやり取りが必要ですからね。
そして、正誤を卑弥呼は確かめなければなりませんから、文字を解せる者は複数人いなければいけませんね。
文字が刻まれた土器ではなく、墨書きされたものだったでしょうかね。
3世紀の熊本にも阿波にも、文字の痕跡はないようですよ。
通訳がいたんだから、中国人を雇っただけということもある。
>>245 上表文は倭王印で封泥か押印されます。そうして、魏皇帝は内容の真偽を確かめるのだし、そのために、印を送りました。
だから、卑弥呼のいる邪馬台国で書き上げなければいけません。意思疎通に悪意の他者が介在しない工夫です。
上表文を書いたのが、中国人であって、倭人側には内容の正誤を確かめるすべがないとしたら、卑弥呼は倭王印で押印しづらかったと思いますよ。
本当にいなきゃあしょうがないわな
中国人を複数雇えば良いよ
三世紀の墨書土器は、わりと各地から出てる。
一文字が多いので呪文っぽい雰囲気。
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
>>244 まだ、熊本城の地下が発掘されていないからね。。。
>>246 発狂したキナイコシは、そんなこともわからないのだろうね。。。
少し、荒れ気味のスレ進行ですね。
あったことは証明できますが、なかったことは証明できませんからね。3世紀の熊本にも文字はあったのかもしれないし、雇われ中国人がいたのかもしれません。
でも、複数の中国人を邪馬台国まで招致し、漢語を読み書かせたのならば、つまり、邪馬台国にはその程度の文字文化はあったということです。
>>253
読み書きできない程度では、大袈裟に「文字文化」と言えないのでは? @阿波 >>254
倭人に文字文化があった根拠は
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 http://2chb.net/r/history/1518118699 キチガイキナイコシはスレを使いきったら次を立てるという常識が通じない
だってキチガイだもんなw
連続句読点爺は嘘スレや偽スレを乱立させるキチガイだもんな
連続句読点爺は嘘スレや偽スレを乱立させるキチガイだもんな
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、畿内説を鮮やかに論破されているね。。。。
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
纏向が邪馬台国ではないという理由は、すでに何点も提示しましたが、有効な御反論を頂けなかったのは残念です。
また、私は熊本や徳島の弥生時代の文字の事情は知らないですし、スレの論点と離れてしまうようですよ。
いまのところ、考古学的には3世紀前半の纏向で文字の痕跡は見つかっていませんが、邪馬台国で文字が伝われたかどうか、魏志倭人伝の金印と上表文の記述に対する評価次第でしょうから、この辺りの文献史学の決着待ちというところですか。
いまのところ、考古学的には3世紀前半の纏向で文字の痕跡は見つかっていませんが、邪馬台国で文字が使われたかどうか、魏志倭人伝の金印と上表文の記述に対する評価次第でしょうから、この辺りの文献史学の決着待ちというところですか。
纏向の古墳群が2世紀以前からの土着勢力のものであったとしても、ホケノ以降は近江を通して日本海側からの影響を受けていることは、棺と鉄のことで説明しました。
また、纏向とは少し離れる南側の後続する大王墓が、より、九州地方との副葬品の組み合わせに酷似してきます。
こうしてみると、纏向の3世紀後半(卑弥呼没後)というのは、他地域との交流によって、急激に発展し、権力が集約していったようです。
冷静に判断すれば、4半世紀ほど、纏向は曹魏と接点を持った240年頃の邪馬台国の時代に間に合っていないのです。
本当のところ、邪馬台国には興味がないのですが、古墳の学術研究の始点が、邪馬台国問題に振り回されてしまうのは、苦々しいですね。
キナイコシが、重複偽スレッドで、畿内説を鮮やかに論破され、腹いせにこの本物のスレッドを荒らしに来るのではないのかな。。。
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
今日も、優れた考古学者たちに、畿内説のキナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
難升米が謁見したのが明帝であると、文献史学的にこれ以上はない形で時間軸が明示されたのですから、考古学もこれを基に邪馬台国を探すべきでしょう。
つまるところ、西暦230年代であり、それ以降の考古遺物は卑弥呼の塚比定に限って、引き合いにだすべきでしょうね。
邪馬台国の条件としては、鉄と文字、卑弥呼の好物それから、人口でしょうか。その他の魏志倭人伝に紹介される産物や風習は、倭人のものであって、邪馬台国限定のものではありませんからね。
従って、文献史学と考古学の突合せは、鉄と文字、卑弥呼の好物(金や銅鏡)、七万戸と、西暦240年以前の考古遺物です。
纏向遺跡でいえば、庄内式以前ということになり、あっけなく、候補から消え去ります。
畿内説が破綻し、キナイコシが論破されてしまったのは、もう誰の目にも明らかなのではないのかな。。。
今日も、ただ一つのこの纏向説スレッドに、レベルの高い謎の考古学者が現れて、畿内説を鮮やかに論破してしまっているよ、、、
>>286 キナイコシを何度も論破し、キナイコシが最も恐れている岡上氏ではないのかな、、、
畿内説が破綻して、自論を論破されてしまったキナイコシが基地外になってしまったね。。。
纏向遺跡の庄内式期終末期に、かろうじて、ホケノが築造されたのかもしれませんが、すでに、布留0から始まる後続の布留式期が始まっています。
そして、この時期には、巻向駅近くの、掘立建物群は廃絶されています。つまるところ、卑弥呼の宮として引き合いに出された掘立建物群は、実はホケノ前の無鉄器時代だったのであり、同時に存在した可能性が考古学的にほぼ無いのですね。
この時期より前、纏向の他の古墳にも近江の刳り抜き棺は採用されていません。
ひょっとすると、掘立建物群廃絶の時期に、纏向は近江の勢力に征服されたのかもしれませんね。仮に、そうでもなくても、強い影響下に入ったことは間違いありませんね。時期的に、卑弥呼の没年付近だね。
今、キナイコシが、偽の重複スレッドで箸墓古墳が那珂八幡などの(後からの)模倣だと論破されてしまったね、、、
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
連続句読点爺も、本当に自分が嘘つきだってことを、認識できないのではないかな
大物主への年貢を入れる倉庫なんだから
大物主が滅ぼされたら当然廃絶されたのだろう。
近江勢力というのが、出雲の配下であり、纒向の倉庫を運営していたということかな?
興味深い。
>>298 出雲で負けた集団が近江を通って纏向に落ち延びた
今日も、ただ一つのこの纏向説スレッドに、レベルの高い謎の考古学者が現れて、畿内説を鮮やかに論破してしまっているよ、、、
畿内説が破綻して、自論を論破されてしまったキナイコシが頭の病人になってしまったね。。。
纏向が近江方面から強い影響を受け始めたのは、掘立建物群廃絶の後、しばらく経ってからですね。
以降に土器の様相が、布留式に変化していきます。
刳り抜き棺、鉄器、布留式土器はリンクして、入ってきます。これら3つの要素の発祥地は異なるのでしょうが、全て、南近江を経由している可能性が高いですね。
出雲と近江の関係はわかりませんし、従属関係の証拠もないですね。
はっきりいえることは、近江が朝鮮半島の鉄資源の入手ルートを2世紀ごろには確立していたことです。
>>310 そりゃそうだ。
筑紫王肝いりの扇谷遺跡を足場にして
琵琶湖沿いに続々と北部九州倭人が近江入りしたのだからな。
畿内説が破綻して、自論を論破されてしまったキナイコシが、妄想と現実を混同するようになってしまったね。。。
狂人呼ばわりされるのが嫌なら、はじめから嘘をつかなきゃいいのに
畿内説が破綻して、自論を論破されてしまったので、キナイコシは嘘をつくのではないのかな。。。
邪馬台国=伊都国説が破綻して、自説が論破されまくったので、連続句読点キチは嘘をつき続けるしかないんだな
鍛造技術が扇谷に達した時期は、前2世紀頃だから、池上曽根よりも随分前ですね。九州地方とも、殆ど時間差を感じません。これは、当時から日本海沿岸航路による技術交流があった証拠です。扇谷が営まれた頃は九州と同じ大王の支配下だった可能性は強いです。
しかし、時代的には、近江に鉄器が入ってきた頃とかけ離れているね。近江が日本海航路からの鉄文化の影響を受け始めたのは、2世紀頃でしょう。纏向が、無鉄器どころか、無人に近い僻地だった頃です。
>>310 >出雲と近江の関係はわかりませんし、従属関係の証拠もないですね。
建築様式の類似性から、近江が出雲配下であったことは確実だろう。
円形に配置された建物も、神無月に神々(各地の首長のことか)が集まった祭り事を想起させる。
日本海沿岸の倭国の一部。
奈良盆地とは交通が結びつかない。
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
>>317
稲作の伝播とともに、北部九州では弥生前期末〜中期前葉には遼東半島から朝鮮半島西北部で生産された鋳造鉄製品が流入し、その破片を研磨加工した鉄器の使用がみられる。
中期後葉には朝鮮半島産の鉄素材を用いた鍛冶技術による鋳造鉄器の生産が始まる。
北部九州の鍛冶炉の定着と時期を置かず、徳島市矢野遺跡では規模・構造ともに北部九州に劣ることのないT類鍛冶炉による鉄器製作が確認される。
類似施設は徳島市名東遺跡・鳴門市光勝院寺内遺跡・拝原東遺跡・芝遺跡にも認められる。
先進技術のいち早い導入は吉野川下流域の特徴である。 @阿波 >>320 そこまで筑紫倭国の勢力範囲だっただけ。
>>321
>そこまで筑紫倭国の勢力範囲だっただけ。
魏志倭人伝にある「丹山」が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 キナイコシが、重複偽スレッドで、鮮やかに論破されたせいで、また腹いせにこの本物のスレッドを荒らしに来るのではないのかな。。。
連続句読点キチが、別スレッドで鮮やかに論破されたせいで、腹いせに偽スレを立ているのか
キナイコシが、重複偽スレッドで、鮮やかに論破されたせいで、狂人になってしまったのではないのかな。。。
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
瀬戸内は潮流が複雑で意外に強いですから、手漕ぎでは、対岸や有人島への渡海以外は難しかったでしょう。
周防から河内までのルートというものがあったとしても、弥生時代までは陸路を併用したでしょうね。
池上曽根や、淡路、阿波への鉄のルートは、むしろ、山陰から、岡山、兵庫南部へ抜ける陸路を選んだのではないでしょうか。その最初は、凹線文土器が山陰に波及する頃ですかね。
鉄に先んじて、玄界灘沿岸から東瀬戸内沿岸に移動してきた、人や物、技術も殆ど、日本海ルートから、中国山地の峠を越えてきたのだろうな。
>>328
>池上曽根や、淡路、阿波への鉄のルートは、むしろ、山陰から、岡山、兵庫南部へ抜ける陸路を選んだのではないでしょうか。
太平洋ルートですよ。 倭国(阿波)から関東まで行ってるでしょ。 @阿波 邪馬台=伊都説を追い詰め過ぎたな
狂人連続句読点爺=
>>1が、焦って偽スレ・ウソスレで暴れ続けているな
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/ 研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
今日も、考古学のことを全く理解できていない八咫バカが、偽スレで発狂しているな
邪馬台国纏向説とは、大和朝廷が東遷して、纏向に邪馬台国を作成したという説ですね。。。
その通りです、、、
しかし、5年前の大規模調査で、完全に破綻してしまいました。。。
考古学やるなら、阿波へおいで。
「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。 専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。
粘土槨は、墳頂部の地表面から約50〜70cm下で発見された。箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。
全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。
先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。
同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。
徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。
山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波
甑形の分布で考えても、3世紀末までに周防灘と河内を結ぶ航路があったことは考えにくいですね。
文物は山陰から瀬戸内沿岸へ、峠を越えて、滲むように南下しています。
甑土器が奈良や徳島に到達していないことは、当時、両地域が倭国の範疇ではなかった可能性が非常に高いですね。
もっとも、魏志倭人伝にあった皇帝の詔で、卑弥呼を倭人の王としたのだから、倭人の居住域全てを倭国と考えるべきでしたね。
だから、西暦240年代以降、中国にとって、倭国は近畿地方も含むな。
魏志倭人伝にあった丹のある山とは、丹生か宇陀だから、倭人はこのあたりにも居住していたことになるしな。
2世紀や、3世紀の上位層の正体や変遷については、墓制での水銀朱や鉄の使われ方にもっと注目すべきですね。
地域や時期ごとの墳の形や大きさの分類以上に、興味深いですね。
なんといっても、この時期までの鉱物は出どころが限られているからな。
102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101 いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ
徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ
聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w
ホント学者は使えねえ
見ての通りです
大規模調査だと言い張っていたものがわずか1.5時間の立ち入り調査だと知り、完全に精神が破綻してしまいました
最近、この本物のスレッドの盛り上がりが、素晴らしいのではないのかな。。。
予め、次のスレッドを作成した方が、良いのではないのかな。。。。
(帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
(帯方郡から)南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬(八女)国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
(女王国の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
邪馬台国畿内説は、大物主の倉庫を邪馬台国の宮ということにしたいのだな、、、
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
近江を経由して、近畿南部や東海方面に鉄の土木器が流入したことで、水銀朱の採取量が格段に増量したのではないですかね。
時期的には卑弥呼の死後10年後頃まででしょうか。
これ以降、国内の墳墓に水銀朱が使用されるようになったのです。
卑弥呼の死が、それまで鉄の入手が困難だった地域にも、大陸との交流を可能にしたきっかけがあったと考えるのが合理的ですね。
そして、それまでは、無鉄器地帯だった纏向以南にも、鉄が出土する時代が到来します。
これはまだ仮説の段階なのですが、宇陀地方の水銀を採掘にやってきた近江の鉄器勢力が押し寄せたのでしょうね。
近江を経由して、近畿南部や東海方面に鉄の土木器が流入したことで、水銀朱の採取量が格段に増量したのではないですかね。
時期的には卑弥呼の死後10年後頃まででしょうか。
これ以降、国内の墳墓に水銀朱が使用されるようになったのです。
卑弥呼の死が、それまで鉄の入手が困難だった地域にも、大陸との交流を可能にしたきっかけとなったと考えるのが合理的ですね。
そして、それまでは、無鉄器地帯だった纏向以南にも、鉄が出土する時代が到来します。
これはまだ仮説の段階なのですが、宇陀地方の水銀を採掘にやってきた近江の鉄器勢力が押し寄せたのでしょうね。
やはり、纏向の掘立建物群の勢力は、ホケノを作った勢力に侵略された可能性がありますよ。
畿内説が破綻し、キナイコシが論破されてしまったのは、もう誰の目にも明らかなのではないのかな。。。
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/ 研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
邪馬台国伊都説が破綻し、岡上が発狂したのは、もう誰の目にも明らかだな
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
邪馬台=伊都説を追い詰め過ぎたな
狂人連続句読点爺=
>>1が、焦って偽スレ・ウソスレで暴れ続けているな
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
2013年が、致命的だった、、、、
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
外部リンク:www.nikkei.com
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
外部リンク:www.nikkei.com
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
2013年が、致命的だった、、、、
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
国土地理院によって、畿内説が奈良湖に沈んだ、、、、、
>>390 暴力でスレを埋めても、畿内説が社会の鼻つまみになるだけだぞ
畿内説が破綻し、キナイコシが論破されてしまったのは、もう誰の目にも明らかなのではないのかな。。。
畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
国土地理院の発表が、致命的だった、、、、
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、
いや本当に、病院に行った方がいいと思う
冗談抜きで診断名つくよ
2013年の大規模調査っていってる人、妄想はシゾフレニアの特徴的な症状だよ
まあ、シゾフレニアだけの症状ではないけれど
今日はどこのスレも静かだなww
九州説の連中は、何かに中ったのかな?
理由
【考古学】阿南・若杉山遺跡で「辰砂(水銀の鉱物)」採掘の坑道発見 国内最古か[02/19]
http://2chb.net/r/scienceplus/1520121974/ まさかの四国説で終了
いやいや、四国にあるのは前から分かってたし、紀伊半島にも辰砂の鉱山はあるよ
今回のは実際の鉱道が見つかったってだけで、九州説の頭おかしい人たちが
これで納得する筈ないでしょ
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波
パーフェクト超人になるつもりなの?
スーパーフェニックス。
人(神)馬一体に見える先生、師匠。
あとは・・・鼻マンモスマン。
>>405 >いやいや、四国にあるのは魏使には前から分かってた
つまり、倭國は九州のみではないってことだ
九州説の主張がまた一つ灰燼に帰したねww
東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、
(帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
(帯方郡から)南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、
畿内説よ九州説が優位なのはわかるが
相対的的でしか無い
>>413 >九州説が優位なのはわかる
この時点で分かってないよww
九州が優位なところを「具体的に」挙げてごらんww
>>413 >九州説が優位なのはわかる
この時点で分かってないよww
九州が優位なところを「具体的に」挙げてごらんww
ヤンキーゴメンゴメンスイッチ押死テ昔カラ戦争シテルンデシタッケ忘レテマ死多世モヤシテ殺ッテマス100麻薬王薬害盗難ケタチガイ違反重々振戦
http://2chb.net/r/welfare/1442312377/ 論破された、頭のおかしいキナイコシが、畿内説が破綻した腹いせに、嘘の内容のマルチで荒らしているね。。。
墳形は、遺族が依頼した設計者といいますか、デザイナーの趣向であって、一族ごとの葬制とはいえませんね。何度か書きましたが、その辺は棺や副葬品の方が、判断材料になります。また、郭や、水銀朱の有無などもです。
その上で、言いますと、前方後円墳を、陸橋のついた円形周溝墓からの発展系列として考えれば、発祥は纏向石塚なのでしょうかね。つまり、瀬戸内地方から影響を受けているわけです。
庄内期といいますか、掘立建物廃絶期までの纏向は、墳形でも、土器の機能的な製作技巧でも、瀬戸内地方から一方的に影響を受けているわけです。東海や近江からの顕著な影響は双方向的にみても感じられません。
考古学的に、北部九州に通ずる瀬戸内航路の存在も確認できません。
纏向石塚程度の墳丘は積み上げることはできた人口がある、でも、文字も鉄もない片田舎の僻地です。
つまり、纏向は邪馬台国ではあり得ません。
ところが、布留土器が出るころになって、片田舎の僻地から、日本有数の都会になるのですね。水銀朱を大量採掘できるようになり、次々に、前方後円墳を作り上げたわけです。
西暦でいえば、260から300まで頃でしょうかね。その直前に、北部九州への日本海航路を利用できる鉄器勢力に併合されたと考えるのが合理的ですね。
魏志倭人伝には、卑弥呼死後、国中遂に定まるとありますね。
これを契機に、近江勢力の鉄輸入が安定し、畿内に進出していったように思えますね。
近江系のこの頃の土器は、朝鮮半島でも出土していませんでしたね。
魏志倭人伝には、卑弥呼死後、国中遂に定まるとありますね。
これを契機に、近江勢力の鉄輸入が安定し、畿内に進出していったように思えますね。
近江系のこの頃の土器は、朝鮮半島でも出土していませんでしたかね。
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
>>425
>これを契機に、近江勢力の鉄輸入が安定し、畿内に進出していったように思えますね。
これを契機に、倭国(阿波)勢力の鉄輸入が安定し、畿内に進出していったように思えますね。
ただし、奈良盆地への進出は伊勢や東海、吉備より遅れての進出ですね。 @阿波 また転写保存
329の
>>982 >>倭奴國が奴國と伊都国に分離されて<
>弥生時代は、国が大きくなっていく時代 分離する理由が一切ない<
元の倭奴國の地域が、
倭国乱の後の魏志の頃には、倭奴國の名前が消えて、奴國と伊都国が出来ている状態だから。
また転写保存の続き。
339の
>>62 大和説者は、「南→東」などの嘘吐き騙し人の人種だから、
安部政府文部省や靖国信者や右翼マスコミや、
学会教育界ややくざ暴力団や男女に拘わらず、
頭の病院へ行け。
330の
>>66 >邪馬台国と大和朝廷の官は瓜二つ。・・・<
邪馬台国なんて存在しないし、
大和に朝廷なんてなかったし、
「南≠東」で「大和は倭国から別れた別種の旧小国」であるだけであるから、
この投稿も×。
330の
>>68 >ヤマトの南は河内と和泉。
狗奴国の官は河内彦<
「南≠東」に拠って×。
330の
>>69 >大阪や畿内は、卑弥呼を共立した勢力に征伐された。<
「南≠東」に拠って、卑弥呼共立は九州付近であったから、×。
>大阪や畿内は大和朝廷の最初の被害者と言えるだろう。<
大和に朝廷なんかなかったから、×。
330の
>>70 >邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。<
邪馬台国なんて存在しないし、
「ヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯」も、南≠東に拠って×。
>ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。
殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、
新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。<
卑弥呼共立は、九州付近の話だから、「南→東」の大和は×。
>女王国、大和朝廷を作ったのは、
出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力と
半分縄文系勢力に乗っ取られた古い海神。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。<
女王國は九州付近であり、大和は朝廷ではなかったから、×。
330の
>>72 >でも、東遷説は畿内の土器編年が未整備で、古墳時代の開始がもっと遅いと
考えられていた頃には一定の妥当性があったんだよ
弥生時代は九州優位、古墳時代には畿内が中心なのは明らかだとして、<
大和は、白村江まで筑紫倭国から別れた別種の旧小国であったから、×。
>その隙間に邪馬台国をどう入れ込むか、という論立てだったから <
邪馬台国なんて存在しなかったから、×。
330の
>>76 そして、東遷説よりもトンデモ度が高いのが、
「大和→畿内」のインチキ自称の畿内説。
今でも、・・・・のようにようにのさばってるのは、むしろこっちだな 。
330の
>>77 今なおのさばっているのは、
「日本国は筑紫倭国から別れた別種の旧小国」に拠って×になった、
「大和+ 東遷」説だろ。
死を前にして、
大和皇国史観の人種差別的殺し合い戦争病の、
民族病が進行している。
330の
>>83 >九州には弥生中期後半から瀬戸内系土器が支石墓、甕棺墓分布域を除く
九州の広範囲に流入が始まるから<
倭国の東征の支配下になった瀬戸内地域の住民が、
在地の土器で水などを確保して、
憧れの倭国の都(後の弥生銀座)に出稼ぎに来たから。
>後期の一時期を除いて継続的に本州からの流入が増えた結果が
斉一性の高い庄内式の受容という形で見えるようになるんだな <
庄内も、三雲が発祥で、近畿はそれをまねて、
保水性や生活性に優れた土器としt、製作拐帯して、
筑紫に出稼ぎに来た。
330の>>93
>>継続的に本州からの流入が増えた結果が<
>本州? 実質、倭国(阿波)からの流入でしょ。 @阿波 <
阿波は、元は、出雲系であり、
出雲→吉備→讃岐→阿波の勢力拡大があったところへ、
鏡片が出ているから、倭国の姫氏系の東征が入り、
また、出雲や讃岐を経由した?画分帯の楽浪系流民の渡来も重なり、
元の在地の出雲系が忌部として、諸国の祭祀者的な役割を果たした地域。 330の
>>117 「南→東」などの嘘吐き騙しをしゃべり続けている大和説者は、
マジで頭の病院行った方がいいぞ。
330の
>>122 傍目から見れば、誰がガイキチさんなのかは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの有無を見れば、
明白。
330の
>>123 >ここの存在意義あるのか?<
世間の人々に、
大和説者という人種が嘘つき騙しの・・・・人種である、
という事を知らしめる、という存在価値ならある。
330の
>>144 >>壹與は「壹」が姓で「與」が名前だし<
>これまで九州王家は阿毎氏だと言っていたのに、<
倭奴國は、委奴の地で阿毎氏と姫氏が合同したは国。
共立卑弥呼は、その姫氏から別れた分家で大野付近に移った姫氏の出。
壹與は、阿毎氏系の娘で、卑弥呼の宗女になった。
>いきなりその王家の始祖の姓が「壹」だって? <
阿毎氏(=アマのイ氏)であり、「委奴」や「伊都」の「イ」。
>これは今までのその場しのぎと比べても桁外れにすごいな
相変わらずザラコクはバカなんだなww
じゃあ讃珍斉興武には姓はないんだww <
東海姫氏國だから、「姫」が姓。
330の
>>145 >>>(唐津港)上陸地の砂浜などに遺跡が見つかる筈もなく
>そんなところをクニの位置を示す代表点として記載するわけないだろ?
上陸地点が「クニの位置」にはならないって自分でも認めてるんじゃん! <
超着地は、居住外縁部。
>末慮国から伊都国へ向かう旅程を書くときに、上陸点を起点にするわけがないよな? <
出立地は、国内移動の里数記載がないから、
到着地から50里以内。
330の>>146
>>「出発」が「始度一海」
「途中」が「千余里」だ。<
>古田武彦氏だってこんなバカなことは言わないぞ?
古田さんとかいって、弟子のつもりなんだろうけど、ザラコクが古田派を
名乗ってるって知ったら、草葉の陰で泣くだろうな <
古田さんの解釈通りであり、
生野真好氏も、同じ解釈の筈だ。 330の
>>154 質問なんだが、大和説者って、
「南→東」などのような嘘つき騙しの異常者しかおらんの?。
330の
>>159 >>筑紫では薄葬令を守らなければならなかったが <
>墳丘長80メートル弱の那珂八幡古墳が薄葬令に従っていると考えるのか?
吉備の楯築墳丘墓や出雲の西谷九号墓のようなローカル首長墓が大型化してるのを
薄葬令に従っていないから倭國じゃない証拠って言ってたのに?
本当にその場しのぎでいい加減だよな!<
那珂八幡の円墳部分が径48m位だから、
薄葬令を守ろうとしていた、と考えられる。
330の
>>163 >>祇園山は、(布留ではなく)庄内だから、定式化後にはならず、×。<
>本当に、近視眼的に自分の説に都合のいいところしか見ないチェリーピッカーだよな 二段築成の時点で弥生墳丘墓じゃないんだよ<
一段目とやら自体が、全くの不定形であり、凹凸も激しく、二段築成になっていない。
>他にはそんな弥生墳丘墓は一つもないんだから
同じく九州の弥生墳丘墓で貼り石があるのは一つもない<
筑紫地域では、初めての「高冢」的な画期的な、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墳墓。
>甕棺墓の編年も無視しているし、<
通説の編年自体が、糸島平野〜福岡平野部の甕棺と100年位以上の空白があり、
通説編年の方が信用出来ない。
>庄内土器も周りの弥生墓地からの混入を考えるのが当然<
祇園山古墳群とは100m位離れていて、「混入」があり得ない。
>歴史学も人文「科学」なんだが、ザラコクには「科学」は難しいようだ<
この「南→東」の嘘つき騙しのケダモノには、科学が無理なようだ。
330の
>>165 >庄内ってのからして、出所不明の情報では?<
最も近い祇園山古墳群から100m位離れていて、混入説は無理であるし、
通説報告書の4世紀以後では、庄内そのものが無くなってしまっていて、×だ。
330の>>166
極度の無知無学での「南→東」などの嘘つき騙し
↓
大和皇国史観狂学者の本でトンデモ情報注入
↓
老人性痴呆で脳撹乱
↓
大和説者ら 330の
>>167 大和説者は、
それにプラスで「科学を無視または理解の出来ない」もあるよね。
最初の無知無学と被ると言えば被るけど。
330の
>>175 >祇園山古墳から庄内式は出てないけど、<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm では、
「都出比呂志氏の表でも、赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期
(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
なかでも祇園山のほうを最古としている。」とされている。
>報告書では甕棺が狐塚二式で 西新式に併行するから庄内式期併行の築造と推定したんだろ<
「裾部外周から出た第1号甕棺(K1)に使用された甕形土器」に関しては、
「石野博信氏は、一般に弥生終末期とされる西新・庄内式期を古墳時代早期と位置づけるが、
この時期に九州では集団墓から離脱し、大型墓が展開するとして、
福岡県の妙法寺墳丘墓・祇園山墳丘墓を例にあげる。」
「柳田康雄氏も、北部九州で墳丘をもつ特定個人墓が確認されるのは、
西新式土器を出す弥生終末から古墳時代初頭であると記している。」
>久住編年では甕棺は最終UC期だから庄内式期ではなく布留1式中〜新相期<
石野氏と柳田氏と、久住が議論すればよい。」
330の
>>193 これ、大和説は負けましたぁ、と叫んでるようなものなのにね 。
330の
>>196 見事なまでに脳疾患ぞろいだな、大和説。
330の
>>205 こんなふうに力づくで他の意見を圧殺しようとした時点で、
自分たちの説の敗北を認めてるんだよ。
大和説は終わりだね 。
「南→東」などの嘘つき騙しの醜い老人 の・・・。
330の
>>212 論破されたら荒らしで報復って、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、人間として最低だろ?。
330の
>>217 「南→東」などの嘘つき騙しのの大和説者が、
しつこく一方的な迷惑行為をしてるのを
あたかもお互い様であるかのようにデッチ上げてるな。
実に大和説者らしい、インチキのやり口だ。
330の
>>218 結局、「南→東」などの騙しの大和説者は、
荒らしと中傷の嘘つきばっかりだなあ。
つまり大和説の負けで、もう勝負がついたってことだね 。
330の
>>222 >>(土器は単なる生活用品であり)最初の「高冢」や「最初の前方後円墳」は、
支配権力の存在根拠になるから。<
>つまり畿内で決まりだね <
最初の「高冢」は祇園山で、「最初の前方後円墳」は那珂八幡など、ね。
330の
>>223 >この人は供献土器とか精製器種とか、まるで知らないんだな<
「供献土器とか精製器種」とかの命名自体がインチキ臭く、
一般生活用品の一種であった可能性は十分にある。
330の
>>227 漢文も、「南→東」などのように、自由自在に書き換えたり読み替えたりして、
勝手にあたらしい中国語を発明する大和説者。
w
330の
>>228 >>「當在會稽東冶之東」ではなく、「當在會稽東治之東」だよ。<
>どちらも同じ場所 <
後代の「高慢な自己解釈に拠る書き換え魔」の後漢書の記載は根拠にならず、
宮内庁書陵部の紹煕本の王朗の「東治」は、
張元済の写真には「冶」であったようだから、
張元済の写真以後に加筆された事になり、×であり、
だから違う場所。
330の
>>229の訂正
後追いなのは、石塚古墳の方で、
大和が那珂八幡などの学習模倣や、影響下なのは変わらないww。
330の
>>230 >>竹島と済州島の間を通って、ほぼ真東に向かって来たんだよ。<
>「經都斯麻國」より後に 「又東至一支國」って書いてあるんだけど?<
都斯麻國は、上陸せずに、はるか遠くの大海中から見たにすぎず、
竹島と済州島の間を通って、ほぼ真東に向かって来たら、至一支國する。
調べてみるとわかる、審判・・・・ウマヤド関係の話でしょ
キャラクターの解説などを読んでみると
>ストーリー展開からもしくは
>「死神/タナトス」「審判/メサイア」と認識する人が多い。
裁判長、刑務所・・・デッドオアアライブ?
330の
>>233 >>土器編年で、同じ土器でも、大和は筑紫よりも50年位新しかった。<
>そんな変な土器編年をしたのは誰? 学者じゃないよね?<
もう30〜40年位前の、通説大和説の考古学者の編年表。
330の
>>235 >>「大和の土器が筑紫よりも先行した」という「結論先にありき」の嘘吐きであった、<
>いや、多くの学者が発掘調査に基づいた研究をしてきた結果として明らかになった結論だよ<
いや、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者が、
それまでの「大和の巨大古墳は4世紀」という事では、箸墓が卑弥呼の墓にならないから、
大和の土器編年や年輪やAMSのインチキで、50年位古く造作したんだよ。
330の
>>255 >>竹島と済州島の間を通って、ほぼ真東に向かって来たんだよ。<
>どうしてこんな何もかもおかしなことを書く人が学問板にいるんだろう?
竹島から真東に行ったら、能登半島にしか着かない
竹島が対馬の間違いだとしても真東に行ったら九州には着かず中国地方 行くことになる
隋書が方角が間違っていることを認めたくないだけで、ここまでむちゃくちゃを言うから
ザラコクは・・・・なんだよな<
「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。
度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國 」
の「竹島」だよ。
330の
>>257 >>(後代史書の自己解釈に拠る高慢な書き換え例)
後漢書、梁書、北史、通典、太平御覧、書紀。<
>日本語分かるか?
ザラコクがどの史書を軽視してるかじゃなくて、
「どういう根拠」があって、そういう判断をしてるのかって訊かれてんだぞ?
根拠なしの恣意的な決めつけだから答えられないだけだろ!<
膨大で面倒だから名前だけ。
例えば、
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html でも見て、比べてみろ。
330の
>>259 >>古田第1書でも読んでみてね<」
>古田氏の信者なら、その主張内容を広く世間に広めないとダメじゃないかww
つまり、古田氏の主張はザラコクから見ても「世間の目には極力
触れさせたくない、独善だけの、恣意的な捏造・曲解だけからなる批判を受けたら
ひとたまりもないもの」と判断してるってことだな
そうじゃないなら、簡単に紹介するくらいはできるだろ?
ああ、今度はザラコクの能力的に無理なのか
ザラコクは・・・・だからなww<
・・・・の要求や命令を聞くのは、嫌だ。
引用を始めたら、一か月以上かかるだろうから。
こんなニセスレで返事をしたことにして逃げる気なんだ
本当にザラコクは・・・・だなぁww
もうここ、ザラコク隔離スレでよくね?
ニセスレの使い道としてはすごく有効だわww
330の
>>261 >>始めから相手にする気がしない。<
>はい、逃げ口上いただきましたww<
はいはい、・・・・と分かれば、
うっかり相手をしていると、オーム事件のように殺されるかも知れないから、
逃げるが勝ち。
330の
>>263 >>宇木汲田遺跡そのものが、卑弥呼の頃に存立していたのか?がそもそも疑問<
>だろ?<
それを、お前は根拠にして、騙そうとした。
>九州北部の国とされている土地はどこも繁栄の時代が古すぎる
卑弥呼の時代に王墓は見いだせない<
王墓なら、(魏の薄葬令があっても)祇園山と平原。
>これが古墳時代に入ると、さらに目立たない一地方にしか過ぎない存在になる<
白村江まで、繁栄が続いていた。
330の
>>264 >>唐津港も判らず、 伊都国も糸島水道よりずっと西よりまでを測っただろうなあ<
>そう思うなら、自分で計ってその数値を出してごらんよ それが「根拠」を挙げるってことだぞww
まあ、やってごらん 自分がどこまでバカか分かるだろうww<
Yahoo地図や古田本で確認したら、道のり距離で30〜35km位だな。
それが500里だから、1里は60〜70mの短里だ。
>>476 >古田本で確認
wwwwwwwwwwwwwwww
「古田本はバイブル」
バイブルと一緒にしたら、キリスト教徒が泣くぞww
つくづく宗教だよな
異端審問のつもりなんだろうな、ザラコクは
話が通じない訳だ
古田さんとか呼ばずに教祖様って呼べばいいのにwwww
330の
>>266 >>「自昔」からなら、66国位なら、(九州付近で)十分だな<
>ならそれを数えて示してごらん
その100余国の頃のクニが、のちの郡単位の大きさという前提で実際に数えてみて、
全然足りないって示されたんだから 反論したければ「根拠」を挙げてどうぞ<」
「郡単位の大きさ」が、「自昔〜5世紀」にそのまま存在した、
という事がそもそも判らんではないか。
狗邪韓國〜次有奴國此女王境界所盡。其南有狗奴國」の北部九州で30国位であれば、
中九州と南九州も含めれば、66国位になる、というだけだ。
>道のり距離で30〜35km位だな
ちゃんと計ったら、そんなに誤差が大きい筈ないだろ?
Yahoo!mapならキロメートルの小数点以下3位、メートル単位まで出るぞ
本当に仕事のできない、ごまかしだらけの、いい加減なやつだな
ザラコクは・・・・だからしょうがないかww
>狗邪韓國〜次有奴國此女王境界所盡。其南有狗奴國」の北部九州で30国位であれば、
これが根拠なしだって言ってんだよ
本当に頭沸いてるな、ザラコクは・・・・だからwww
330の
>>267 >伊都国(福岡市の左。糸島半島のつけね)から 左周りで、筑紫平野を左から右へ周回して、
太宰府を経由して奴国(福岡)に戻るという 伊都国のすぐ南の山地を避けて一周したのが
魏志倭人伝で述べる傍国の20カ国だよ。
北九州のこの狭い範囲だけで20カ国。九州全体と近畿方面を
含めればざっと100カ国ぐらいだと 魏の役人だって思うよ<
ダメだよ。
魏使らは、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
までしか行っておらず、
「近畿」は知らないんだよ。
>侏儒國
侏儒國まで魏使が言ったなんてことは、古田本にも載ってないぞww
教祖様の教えを超えた解釈をしちゃあいけないだろう?
信徒の風上にも置けないやつだ
異端審問で磔にされるぞww
まあ、ザラコクは・・・・だから、平常運転だな
いつでもどこでも、嘘だらけwwww
330の
>>269 >使譯所通三十國の30国レベルは、国造がある国のレベルだぞ
国造の「国」をなんだと思っているんだ?<
3世紀の話に、8世紀資料にある「国造がある国」なんか、根拠なるもんか。
330の
>>273 >>古田第1書に、近似的計算がなされている<
>その「計算」を示さないと「根拠」にならないんだって
示したが最後、計算がおかしいことがすぐにばれるから
「計算がある」ことまでしか言えないんだろ?<
古田短里説に拠る計算であり、
・・・・のお前らには言っても仕方がないから、お前らには言わないよ。
自分で古田本を探せばよい。
>「島巡り仮説」はもう言わないのか?
「対馬が正方形」じゃないと「成り立たない」島巡り仮説は?ww<
「対馬が正方形」なんて、言う筈がないし、言った覚えもない。
南北対馬の中の浅茅湾の南北地域の「方四千余里」に相当する地域だろう、
とは言った事がある。
>3世紀の話に、8世紀資料にある「国造がある国」なんか、根拠なるもんか。
でもザラコクの大好き、別種の小国って書いてあるのは「10世紀の旧唐書」だぞww
根拠になる訳ないよなwww
二度と言うなよ! 自分の言葉に責任が持てるならな!
まあ、ザラコクは・・・・だから、自分の言葉に責任を持つはずがないよな!!!
だってザラコクだものwwww
>自分で古田本を探せばよい。
ほーら逃げたwww
卑怯者ww
330の
>>277 >位置説明と移動説明は、根拠もないしなり立たないぞww<
倭人伝に両方とも書かれている。
>魏志倭人伝の末慮国と伊都国間の「東南陸行五百里、到伊都國」の東南は北東の誤りだし<
移動説明の出発方向だから、誤っていないし。
>旧唐書の大理から安南の間の「東至安南如至成都」の東は南東の間違い <
「東至安南」は「如至成都」のように 「通水陸行」の話だ、と説明されているし。
330の
>>279 >「水行十日陸行一月」が全行程であるという読み方は
大陸の史書の記載法としてあり得ない<
漢文での数量説明の対象文言は、その直前の文言になる事が原則であり、
「水行十日陸行一月」の直前文言は、「至邪馬台国」ではなく、
「女王之所都」であり、
「之所都」という事は、行程全体の目的地であるから、
出発点の郡からの所要日数説明であった事になる。
>移動説明の出発方向だから、誤っていないし。
これがとことん頭悪いよなぁ
スタート後進む方向が変わったら、その都度方角を改めて記さないと
「移動説明にならない」だろ
次の国にたどり着けなくなっちゃうww
詭弁にすらならないボロボロのバカ理論を一生懸命書いてるwwww
ザラコクは本当に・・・・だよなぁ
>「之所都」という事は、行程全体の目的地であるから、
バカ炸裂ww
この前は「倭國之極南界也」の「極」を動詞だと言い張って
「倭國之」が主語だって言ってたんだぜ
もうザラコクに何かを教えるのは私も諦めたよ
もう頭の悪い珍獣としてあしらうことにした
だってザラコクは・・・・だものwwww
330の
>>282 >釜山ー対馬北端間<
>北端に対馬国はないんだよ そういうごまかしだけに支えられているのが九州説 <
この男が、始めから「對海國」とは言わず、「対馬」と書いたから、
「釜山ー対馬北端間」の距離を計算して上げたんですよね。
それをこの男は「対馬国」と言ったかのように、嘘を付いている。
>>釜山ー五島列島間が直線距離で240キロ <
>釜山ー五島列島を計っても意味がないだろう?
対馬ー五島列島間はどうして計らないんだ?<
この男が、
「釜山ー対馬間が直線距離で96キロ 対馬ー五島列島間が直線距離で116キロ」
と言い出したから。
>「東至安南」は「如至成都」のように 「通水陸行」の話だ、と説明されているし。
バカ丸出しww
これは移動説明なのかい?
それとも位置説明なのかい?
どちらだとしてもまた成都に向かう方角だとしても、どうやっても東にはならないんだよww
周回遅れだからまだたどり着かないことにしてごまかすぞきっと
卑怯者だからww
>それをこの男は「対馬国」と言ったかのように、嘘を付いている。
すぐ人のせいにする卑怯者、その名はザラコク
魏志倭人伝の旅程の話の時に、対馬の北端を出す時点で卑怯者
まじめに議論する気がないチェリーピッカー
「対馬ー五島列島間はどうして計らないんだ?」に対する答えが
>「対馬ー五島列島間が直線距離で116キロ」 と言い出したから。
本当に日本語が通じない無能!ww
>>宇木汲田遺跡そのものが、卑弥呼の頃に存立していたのか?がそもそも疑問
>それを、お前は根拠にして、騙そうとした。
だまされるだまされないじゃなくて、じぶんで調べろよ
宇木汲田遺跡が廃れたあとはもっと内陸の千々賀遺跡とかに末慮国の中心は移っていくんだよ
だからなおさら、唐津港が末慮国のスタート地点というのはあり得ないし、
ますます移動説明だから出発方向が南東」というのもあり得ない
まあ、ザラコクは・・・・だから、何を言ってもムダだけどね
馬の耳に念仏
ザラコクの耳に正論wwww
330の
>>287 >>循海岸の全水行では、歴韓國乍南乍東も7千余里も全く不可能。<
>循海岸を波打ち際を海岸線に沿って出入りすると思っているのが頭悪すぎ
湾があったら湾口をショートカットするだろ?
要するに「循海岸」は半島西側から南側の「包絡線」に沿って水行するんだよ 「包絡線」は分かるか?
でこぼこしているところに例えば糸を張って、最短距離になるように引いた線のことだぞ?
半島の包絡線を考えれば、半島の南西角まで南に行って、そこから東に向かうことになるだろ?<
それは普通の沖合航行の話。
しかし陳寿は(普通の航行ではなく)敢えて「循海岸水行」と特記したのだから、
海岸沿いの波うち際航行をした事になる。
>それが「乍南乍東」にあたる<
この男の航行では「南乍東」にしかならず、
最初に「乍南」があった、という事と矛盾するから、×。
>>歴韓國乍南乍東の文言自体が、圧倒的近回りの韓國陸行を示している。<
>「循海岸『水行』」と書いてあって、陸行の陸の字もないのに、
陸行を主張するのがバカすぎ<
「循海岸水行」は、郡からの「出発」の説明。
沖合洋上航行では、歴韓國が出来ないんだし、
前項で書いたように、乍南乍東にもならない。
330の
>>294 >倭人伝に書いてあるのが次の国の入り口までの距離だって
古田流珍妙解釈をすると、部分里程の合計が総距離にならないよ <
陳寿の最低里数記録は百里単位であるから、
の50里以下の里数は、書かれていない事になり、総合計にも算定されていない事になり、
記録記載してあった里数を合計すればよい事になる。
>しかし陳寿は(普通の航行ではなく)敢えて「循海岸水行」と特記したのだから、
>海岸沿いの波うち際航行をした事になる。
もう何度言っても言い足りない
ザラコクバカすぎ
書というのは人にものを伝えるためにあるんだから、人の常識に沿って
書いてあるんだよ
ここで循海岸=海岸に循い、というのは「半島の概形に沿って」って意味だよ
しかも「敢えて特記」してあるから、海岸沿い航行に決まってるといいながら
「陸行」を主張するって頭の中どうなってるんだ?
二重人格か?ww
330の
>>296 >>イ氏の「委奴國」系の出身であったらしい<
>ではなぜ「壹」與と書かれているんだい?
伊都国の「伊」與ではなくて?<
邪馬壹國の「壹」であり、
「伊」よりも「壹」の方が、
(二心なく)天子一人に忠を尽くす」の意味があって、名字として適切だから。
>50里以下の里数は、書かれていない事になり、総合計にも算定されていない事になり
そんな バカ理論は 『ない!』
本当に本当にザラコクは・・・・だよなぁ
日本語の読みでは全部「イ」でも、中国語では違う発音だったりするんだよ
伊も委も壹も同じなんてことは、大陸の史書ではない
それにザラコク理論wでは、壹与は姫姓か、阿毎せいじゃなかったのか?
せめて自分の書き込みの範囲内くらいは整合性を取れよ!
でもまあ、無理か
ザラコクは・・・・だからな
330の
>>298 >>「1歩≒1尺」<
>換算が「≒」では成り立たないんだよ 度量衡を軽視しすぎ
秦の始皇帝の「度量衡の統一」がどれだけの偉業か分かってないから
こんなトンチキなことを言い出すんだろうなww <
周代でも混乱していたし、周髀算経でも近似にしかならなかったから。
>周礼に戻したのは、暦だけだぞ
それも先帝の忌み日の正月を避けるためと理由もはっきりしている
魏晋里をなんだと思ってるんだ?<
暦は、太陽などという明確ななど計測対象があるが、
「歩と尺」は、周代でも混乱があって、明確に「=」には出来なかったから。
>周代でも混乱していたし
周代に混乱していたから、春秋戦国時代のあと統一を果たした秦の始皇帝が
度量衡の統一をしたんだろうが!
時系列を理解してないだろ
>「歩と尺」は、周代でも混乱があって、明確に「=」には出来なかったから。
頭悪すぎ
知らないことを知ったかぶりで強弁するなよ
ザラコクめが
>嘘の内容のマルチ
畿内説が論破されたとか破綻したとか、2013年の大規模調査とかのことだな
>>427 徳島にも鉄器を持った勢力がやってきて、水銀朱の増産化があったかもしれませんね。
徳島のことは勉強不足で、3世紀後半以降に他地域に与えた影響がどんなものかわかりませんが、逆に、それまでに畿内からの影響が徳島にあったことは無いでしょうね。
実のところ、畿内の土器のデザインや墳形が、全国に影響を与え始めたのは、布留式期からなんであって、卑弥呼の死から、相当期間を経た後なんですね。
土器でいえば、祭祀に使われたとされる小型精製土器で、墳形なら前方後円でしょうか。でもね、小型精製土器って、本当に畿内が初源でしょうかね。
布留式土器が山陰の土器の影響を受けたものだという人もいますね。
ちなみに、庄内式というのも、デザイン様式が河内湾沿岸域固有というだけであって、機能的特徴やその製作方法は山陰や吉備系のものなのですね。だから、それと酷似したものが、九州や東日本で出たといっても、一概に河内湾沿岸から拡散したことにはなりません。
他地域で、庄内式土器が直接持ち込まれたか、豊中から作り手が移動したかもしれないと言い切れるのは、纏向だけが唯一の地域でしょうね。
卑弥呼の時代、河内湾沿岸は纏向などより、断然、都会ですよ。北岸から南岸へ水運も利用したから、地域としての一体感もあったでしょう。だいたい、大阪平野一帯ですね。
人口は、恐らく近畿地方で最大ですね。しかし、3世紀前半までに限っていえば、この河内湾沿岸をもっても、考古学的には列島規模に影響力があって鉄入手のための玄界灘の交易を支配した場所とはいえません。それは、近江も同じなのですね。纏向は論外です。
3世紀前半、通行権の有無はわかりませんが、河内湾沿岸にも玄界灘沿岸への交通網はあります。実は一旦、日本海側に北上するんですよね。
地域間のネットワーク網の道程を考察するには、土器のデザイン様式の判定ではあいまいですから、器種の方が相応しいのですよ。
できれば、拡散しすぎていないものがいいですね。
西暦240年前後の河内湾沿岸域から玄界灘の道程を探るのならば、断然、甑ですね。
分布で、西日本の交通網が浮かび上がってきますよ。
大まかにいうと日本海沿岸を東西方向に一本の幹として、南方向に何本かの枝が伸びているのですね。
櫛のような形のネットワークですね。大阪から玄界灘へは日本海側を経由しています。
卑弥呼の時代、瀬戸内を東西方向に貫く道も航路もありません。
そして、布留式以降の土器の斉一性は畿内が始発かという問題ですが、庄内式期からすでに、この櫛のようなネットワーク網の日本海側の部分、つまり、玄界灘から山陰を経て北陸なんですが、土器はそのラインの影響を強く受けていた時代なんですね。
列島規模の斉一性を鑑みても、布留式期の祭祀用土器がこのラインのいずれかの地域で生まれて、まず東西方向に伝播してから、河口ごとに南下し、分水嶺を越えて、櫛状に拡散した可能性が非常に高いのですよ。
今日も、優れた考古学者たちに、キナイコシが、偽の畿内説スレッドで、鮮やかに論破されているね、、、
このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の考古学者が現れて、邪馬台国纏向説を叩き潰してしまったようだね。。。
2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/ 研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
>>508
>逆に、それまでに畿内からの影響が徳島にあったことは無いでしょうね。
無いですね。 逆に阿波から畿内への影響ばかりですね。 例えば、軽量薄型土器・水銀朱・青石・積石塚 など @阿波 650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな
660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm 664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003
674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm >2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。
>優れた考古学者たち
>偽の畿内説スレッド
>鮮やかに論破
>謎の考古学者が現れて
>邪馬台国纏向説を叩き潰してしまった
偽情報というか、悪意に満ちたウソ・妄想
>.>515
>櫛のような形のネットワークですね。大阪から玄界灘へは日本海側を経由しています。
卑弥呼の時代、大阪から玄界灘へは通交はありません。 当時の大阪にそんな力はありません。
>卑弥呼の時代、瀬戸内を東西方向に貫く道も航路もありません。
それは正解。 @阿波
>>525 というか、脳に病気でも患ってないと口から出ないセリフだな。
>>424 >魏志倭人伝には、卑弥呼死後、国中遂に定まるとありますね。
いろいろ疑問はあるけれど、この辺りの時系列には賛成かな。
>>529
>いろいろ疑問はあるけれど、この辺りの時系列には賛成かな。
その「卑弥呼死後、国中遂に定まる」とある「国中」とは、倭国(阿波)国内の事ですよ。 @阿波 つまり、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではなかったということなのだね。。
国中が定まったから、倭国全体の交易が安定したのです。
無鉄器地域だった纏向への鉄器供給が開始した時期に重なりますね。
その担い手は近江の交易勢力だった可能性しかありません。
理由は前に刳り抜き型棺のことで説明しましたね。
そういえば、箸墓の被葬者も近江出身の可能性がありますね。
2世紀には、稲部の鉄器工房が作られています。
彼らは、弁韓の鉄のことを、卑弥呼共立前から知っていました。実は、近江土器が朝鮮半島の南部で出土しています。
受口状口縁というものですね。
さらに、滋賀県の専門家が実物を分析したところ、内側の摺り跡が見つかったのですね。福井県と北近江に跨る地域の土器の特徴です。
だから、作り手は、日本海航路を交易した者と関わりのある、琵琶湖北部沿岸から若狭湾までの範囲の女性と考えて構わないと思いますよ。
倭国乱、邪馬台国と狗奴国の対立、卑弥呼死後の混乱が収束して、近江勢力の鉄器の輸入が安定したと考えるのが合理的です。
そして、近江から、東海や纏向への鉄の供給が始まったのです。
もしかすると、侵略かもしれませんね。
纏向でいえば、掘立建物が廃絶され、鉄が初めて流入してきた時期です。西暦250年前後だと思いますね。
纏向が邪馬台国だった訳はありませんよ。
近江は纒向とは関係ない。
日本海沿岸の筑紫倭国の勢力圏。
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、優れた謎の考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を叩き潰してしまったようだね。。。
畿内説を論破されてしまったキナイコシが、このスレッドの話題のレベルが高すぎて、ついてこれないで、反論することも諦めたようだな。。。
重複偽スレッドで、キナイコシは、桃のアルコール発酵のことでも鮮やかに論破されてしまっているね、、、
しかし、なぜ魏志倭人伝とは関係がない桃のことが話題になるのだろうか。。。
重複偽スレッドで、キナイコシは、一大卒の支配や女王国以北のことでも、畿内説を鮮やかに論破されてしまっているね、、、
僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるの光栄なのだけれども、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。
岡上氏は、テンプレートを貼り付けているあの狂った奈良の老人には脅威のようだね。。。
仕方ないよ。。。
端から見ていると学識とIQの差がありすぎるのだもの、、、
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、
重複偽スレッドで、キナイコシは、蛸壺漁についても鮮やかに論破されてしまっているね、、、
偽スレ・ウソスレで、岡上は、未だにウソを書き込み続けているな
>>1 邪馬台国纏向説とは、大和朝廷が東遷して、纏向に邪馬台国を作成したという説ですね。。。
その通りです、、、
しかし、5年前の大規模調査で、完全に破綻してしまいました。。。
2013年とか 大規模調査とか言うのが岡上でいいんでしょ?
重複偽スレッドで今日も狂人のキナイコシは、優れた考古学者達に畿内説を鮮やかに論破されてしまっているね、、、
優れた考古学者達の一人は、やはり岡上氏というのか。。。
そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
あのレベルの低い重複偽スレッドには、もったいなかったけれども、、、、
>>562 仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いあの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、
>>562 仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
畿内説者のレベルの低いあの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、
>>537 弥生時代、近江が九州の影響下にあったことは間違いありません。
でも、近江が、古墳出現期の纏向に影響を与えたことは、布留式以降の割竹形木棺や、鉄、水銀朱の使用で、合理的に説明できます。
また時代が少し遡りますが。近くの唐子鍵でも近江式土器が出ていたと思いますよ。
どちらにしても、考古学的には、纏向も近江も邪馬台国では有り得ません。
230年代以前の文字の痕跡がありませんからね。
もう一つは、卑弥呼の好物で説明できますね。
曹叡が卑弥呼の好物と認識したものが絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
だから、邪馬台国には230年代以前からこれらの好物があったのです。
考古学的には、230年代以前の纏向で発見されたものは、なさそうですね。絹は布留式期の可能性が高いですからね。
桃のアルコール発酵のアイデアは、面白いですね。
傍の掘立建物で、消費したなら、発掘された地層は、庄内式期なのでしょうかね。残念ながら、卑弥呼の好物ではありませんがね。
倭人の好んだ酒も、中国人が一般的に酒と認識していた米酒でしょうからね。
甑があれば、発酵しやすい状態に米を蒸せますよ。逆に、甑がなければ、1次発酵に手間取ったでしょうね。
じゃあ、ここは岡上隔離スレで!!
阿波隔離スレもよそにあるし、キウス隔離スレとかも作れるといいな
偽スレは有効活用しなくっちゃ!
>>565 >。。。 と、、、 が付いてたら岡上って習ったよ
そんなこと書くから、意識して付けなくなっちゃったじゃないかww
>>570
>阿波隔離スレもよそにあるし
よそってどこ? @阿波 >>572 >よそってどこ?
邪馬台国畿内説 Part327 っていう偽スレ
>>565 岡上が句読点を間違えたのは記憶にない。
岡上と孝霊はまともな文章を書く。
>>566 徐々に九州北部の影響が畿内に浸透していっただけじゃん。
畿内が音頭を取ったわけではなく、畿内はただの後進地域。
>>574 自演?
>岡上が句読点を間違えたのは記憶にない。
句読点を間違えたなんて言ってないだろ?
文末に「、、、」「。。。」を付けるのが岡上の特徴って話だ
>>575 >徐々に九州北部の影響が畿内に浸透していっただけじゃん。
逆
畿内第V様式土器の頃から、順番にきっちり北部九州で畿内様式甕が出ていて
庄内式の頃には、北部九州でも庄内式土器を作るようになり
布留式土器の時代には、九州様式の土器はまったく作られなくなる
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf >>573
>邪馬台国畿内説 Part327 っていう偽スレ
今読んだらそのスレ、進呈してくれるってことになってるね。 要らないんだけどw 適当にどこにでも行くから。
そのスレ、話の成り行きで投稿が多かっただけだから。 @阿波
>>577
>畿内第V様式土器の頃から、順番にきっちり北部九州で畿内様式甕が出ていて
庄内式の頃には、北部九州でも庄内式土器を作るようになり
布留式土器の時代には、九州様式の土器はまったく作られなくなる
畿内第V様式土器=東阿波型土器様式のことですね。
筑紫忌部たちが、北部九州で東阿波型土器の工法で土器を作っただけのことを
そんなに大層に言わなくともw @阿波 >>578 >適当にどこにでも行くから。
いやいや、出てこなくていいって
他の人に干渉されずに、存分に阿波説を展開してくれればいいから!
>>580
>いやいや、出てこなくていいって
どこへ行こうが別にどうってことないでしょ。 所詮、学者が避けて通ってる説なんだから。 @阿波 × 学者が避けて通ってる説
○ 学者がスルーしている説
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
>>582
どっちでも同じ。 深入りしたくないから、スルーしている。 @阿波 畿内説を論破されたキナイコシが、発狂して、新しい重複偽スレッドを自分で埋めた挙句、僕たちと同一視している岡上氏に罪を擦り付けることにしたようだね、、、
また畿内説邪馬台国Part331の投稿の転写保存
331の
>>245 >邪馬台国≠ヤマト王政説です<
邪馬台国なんて存在しません。
331の
>>249 >伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。<
魏志記載の里数表示や、倭人伝の行程記載や、
書紀や風土記の「伊都国は怡土の地」などの記載と合わないから、×。
331の>>251
>要は、倭国=「阿波」
日本=倭国(阿波)から遷都した「大和」 と言ってるんでしょ。 @阿波 <
「南≠東」だから、×。 331の
>>254 >ただ、手間をかけた逆茂木を持つ環濠集落や高地性集落が近畿以西の
広い範囲に見られることから、かなり広域の緊張状態がそれなりに長い期間
続いたことは想定してよいと思います
でなければ、高地性集落を作る理由がないですから <
倭國乱は、高地性集落期間ほど長期には続きません。
おそらく、倭国の持続的な東征があった事が原因です。
331の
>>274 >関の向こう側に追いやられていた尾張の勢力が中心となって、
ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。<
大和は朝廷ではないから、×。
331の
>>276 >>宋明清代の校勘学者に校勘された文字<
>ではそれがどの部分か明記しない限りは、卑彌呼の同時代文書かどうか分からないねww
宋・明・清代にも、間違いがあると思われてた訳だ <
全部で三国志全体で校勘対象になったのは4000字余りであって、
倭人伝は2000字余りであったから、倭人伝の中の文字では、2字位の文字が校勘対象であった事になり、
確か、「都支國と郡支國」と、「黄幢と黄憧」だったと思うよ。
だから、方向や里数や「邪馬壹國」や「壹與」や「二年」や「東治」などは、校勘対象にはなっておらず、
間違いとはされなかった訳だ。
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
269日本@名無史さん2018/02/22(木) 14:07:17.92
纏向が邪馬台国ではないという理由は、すでに何点も提示しましたが、有効な御反論を頂けなかったのは残念です。
>古墳は墳形の規格が埋葬者の出身家系を
意味するという。
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。 @阿波
[石井町/曽我氏神社古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2 このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の優れた考古学者たちが現れて、邪馬台国纏向説を叩き潰してしまったようだね。。。
「樋口遺跡」 弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。 @阿波
樋口遺跡 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7 「水銀朱の精製工房跡か」「加茂宮ノ前遺跡 石器や辰砂出土」 徳島新聞 2017年2月23日
徳島県教委と県埋蔵文化財センターは22日、阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で見つかった弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(1〜3世紀)の竪穴住居跡の内外から、
古代の赤色顔料の水銀朱が付いた石器15点と水銀朱の原料の辰砂原石10点が出土したと発表した。
遺跡の南西約5キロには辰砂の採掘遺跡として全国で唯一確認されている若杉山遺跡があり、同遺跡に関連する水銀朱の精製工房跡とみている。
辰砂は硫化水銀の鉱石で、これを原石から取り出して精製した水銀朱は、古墳時代初期を中心に棺内部や死者の体に塗るなどして使われた。 防腐剤としての役目のほか、死者の魂を鎮める目的もあったとされる。
出土した石器のうち、石杵8点(全長約10〜23センチ)は辰砂を砕く際に使われ、磨石2点(10センチ四方)は擂りつぶすときに用いられた。石臼1点(縦20センチ、横17センチ)はその土台だったとみられる。
それぞれに水銀朱が付着している。辰砂原石は全長2〜5センチ。石器と原石は5棟ある竪穴住居跡のうち3棟の内部や周辺で見つかった。一部が埋まった状態で、捨てられたとみられる。
精製に伴って出る石片などがないため工房は特定できないが、工房があった集落と断定した。
弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。
水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。 @阿波
1、はじめに
芝遺跡は四国、徳島県南部海岸沿いの海部郡海陽町(旧海部町)芝・野江に所在する。
阿南室戸国定公園内の海岸沿いに位置し、高知県との県境に近い。
芝遺跡は、現在の海岸線より約2キロメートル程内陸に入り、海部川の右岸、母川とに挟まれた沖積平野の微高地および尾根の先端付近に位置する。
海部川の河口では砂堆が発達し、ラグーンを形成していたと考えられ、郡内一の沖積平野を形成している。(海部町史1971、寺戸1995)
2、調査成果
芝遺跡では3面の遺構面を確認した(3)。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。
第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。
この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。
したがって、竪穴住居では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。 @阿波
阿波咋は畿内を征伐して大和朝廷を作った中心勢力の一つ。
関東東北の先住民を征伐した主力でもある。
戦犯として責任をとれよ。
>>602 全国の国土開拓に多大な貢献こそすれ、戦犯とは何事か。 ご先祖に対し、無礼であろう。
つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。
>>601
3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。
図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。
この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。 @阿波 >>605
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。
以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。 @阿波 >>606
4、周辺の遺跡の様相
本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において
若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに
限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 @阿波 >>607
5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 @阿波 僕たちが愛してやまなかった邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、どうやって生きて行けばよいのだろうか。。。
岡上ってびっくりするほど意味のあること書かないよね
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、
土器の伝播というのは、実物であれ、製法であれ、人間の移動の証拠であることは間違いありません。
しかしながら、部族集団の大入植や侵略、奴隷の大量移送があったのか、商集団の最小ロットや、家族単位の移動だったのかは、殆ど見分けがつかないのですね。
極論をいえば、土器づくりの工人が一人いて、需要が見込める地域にサンプルとして、土器を数点持ち込み、熱効率や使いかって等の機能性、または洒落たデザインがその地でウケが良ければ、しばらく居ついて、需要がつきたり、地元民に上手に模倣されるまで生産するわけです。
そんなことが、例えばですが、庄内式土器の最初のころ河内湖沿岸→纏向→姫路(→博多?)という経路で行われていたかもしれませんね。
弥生後期までは、墓形の企画も同じことがいえますよ。墓づくりの技術集団が、各地の求めに応じて、渡り歩いたとも言えますからね。円形、方形周溝墓、ホタテ型とか、それぞれの技術集団がいただけかもしれません。
前方後円墳体制というような政治体制ができていたとしても、それは、定型化が始まる布留式期以降からです。卑弥呼の時代とは無関係です。
四隅突出だけは、私の予感でしかありませんが、同一部族のような気はしますがね。
部族集団の入植や、政治体制への参加を論ずるには、レガリアの模倣の観点で見直す必要がありますね。具体的にいえば、やはり王墓の副葬品であり、弥生後期から古墳出現期では、鉄製品、勾玉、鏡、耳飾りになる訳ですね。
庄内式期、纏向の唯一の王墓である纏向石塚の副葬品は、全くの不明です。でも、この時期の層の出土状況からは、鉄製品、勾玉、鏡、耳飾りがあるような集落とは全く程遠い状況だったわけです。
むしろ、布留傾向の土器がでるころ、つまり、早くても250年以降ですが、近江を通じて、北部九州を模倣したレガリアでの副葬が始まっています。卑弥呼を共立した倭国体制への参画が始まった証拠でしょうね。
纏向が邪馬台国の可能性は、全くありませんよ。
つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。
>>618 その人がここに一人で書いているのだね?
邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。
>>622 邪馬台国熊本説は九州説の中でも異端だろ?
詳しく語ってごらんよ
>>620 >私の予感でしかありませんが
じゃあ無意味だな
予感は科学じゃない
西暦240年も隋の時代も都は変わらない
隋書?国伝
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
夷人は里数を知らない。
ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。
>>626 >>
魏志倭人伝に道のりが示されているのね。。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、
邪馬台国纏向説とは、大和朝廷が東遷して、纏向に邪馬台国を作成したという説ですね。。。
その通りです、、、
しかし、5年前の大規模調査で、完全に破綻してしまいました。。。
確かに、墳形の分布に政治体制や血縁を認めることは、科学的態度ではありませんし、四隅突出墓自体は、スレの趣旨から離れてしまいまいそうですね。
でも、もう少しだけ言わせてもらいますと、北陸にこの墳形が伝播し作られていた期間、この地域で言う法仏式から白江式までは、畿内で言う庄内式期です。
そして、その直後に、加賀で布留傾向甕が誕生した可能性があるのですよね。そして、布留傾向甕は過去に例をみないような短期間に広域に拡散しています。
四隅突出墓体制なるものがあったとして、それが終焉した時期にその地から全国に一斉に波及したのが、布留傾向甕なのです。卑弥呼の死からは、少し経った時期ですね。纏向が倭国の片田舎から、ようやく鉄器時代に入る直前の西暦250年以降ですね。
纏向が邪馬台国だった訳はありません。
【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。
>>634
>10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
したがって、日本各地に散見する布留式土器は倭国(阿波)の東阿波型土器の工法が拡散したのである。 @阿波、 >>634
>10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
手直し
したがって、日本各地に散見する布留式土器は倭国(阿波)の忌部一族によって、東阿波型土器の進化工法が拡散したのである。 @阿波 岡上、またクズスレ立てたのか_・・・
心の病気か?
>>634 その情報は、米田さんの胎土研究が元になっているのですか。確かに、庄内式は姫路が初源でしたね。
河内と勘違いしていました。先日お示した、土器づくりの工人の辿ったルートも手直ししなければいけないですね。
>>619 胎土分析を突き詰めると、確か、畿内から九州に庄内式の現物が搬入されたと言い切れるものは、筑後川下流域の河内型だけでしたね。
三雲から出た大和型は、砂礫構成での花崗岩質の含有の具合から福岡市の土を使用した可能性も高いのですよ。
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。
比較的、卑弥呼の死の年代に近いとされる箸中山の大王墓は、無鉄器時代の纏向を築造の直前に侵略した、鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた功績者のものの可能性が高いですよ。
少なくても、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。
墳形が在地の首長墓である纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。
だいたいの纏向と邪馬台国への見解はこのスレで、数点お示ししました。大和の東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無であることが、ご理解いただけたと思います。
要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。
>>646 この妄想がやめられないんだねww
単に、始めて考古学者が箸中山古墳の墳丘上を歩いて観察することが許されただけ
妄想の大規模調査ww
>>647 >無鉄器時代の纏向
そんなものはないww
>>647 >鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた功績者のものの可能性が高いですよ
編年無視だといろいろな妄想ができますね
纏向の建設開始は庄内0式土器の時代の3世紀初頭で、卑弥呼の遣使よりも前
ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい
つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ
>>630 >その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが捏造
そんな読み方は誤読・曲解以外にはない
邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。
誤読された方がいらっしゃるようですので、加筆修文致します。夜間使用するプラウザの都合でSAGEづらいのでご容赦下さい。荒らし行為ではありません。
纏向遺跡では、布留傾向土器が出る地層より、下層には、鉄器が出ません。掘立小屋や纏向石塚築造時を示すと予想される遺物はありますが、鉄器がでない層です。在地の集落規模の首長の時代です。
箸中山の大王墓の被葬者は、古墳築造の直前に、掘立小屋を建てた在地の集落規模の首長時代の纏向を侵略したのですよ。鉄器でヤマト王権を列島規模に拡大させた大王自身か、功績者である可能性が高いですね。
少なくても、箸中山の大王墓の被葬者は、死の前後まで、三国に分裂していた中国に干渉されるような乱中にあった共立王のものではありません。
箸中山の大王墓の墳形が纏向石塚と似たのは、畿内付近の墳丘技術者集団のデザインというだけです。
西暦200年前後に纏向に最初に入った勢力は、掘立建物を作り、纏向石塚を作りましたが、無鉄器勢力です。鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)も持ちません。
鉄器をもった別勢力が、布留傾向土器が作られ始める250年以降に侵入し、箸中山やホケノを作ったのです。掘立建物勢力は鉄器をもった別勢力によって、制圧されたのでしょうね。
布留傾向の前の時代の大和東南部が、邪馬台国の首都である考古学的な根拠は絶無です。
要は、卑弥呼と曹魏が交渉を始めてから20年ほどは経っている布留傾向が出る時代より前に、朝鮮南部や博多からは纏向に文物が一切入っていないのです。特に、鉄製品、文字関連品、卑弥呼の好物(絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹)が出ないのは畿内説にとって致命的です。
纏向が邪馬台国の可能性は、全くありません。
>>654 >掘立建物
これは、掘立柱の建物のことか?
結構な大規模建築も掘立柱で作られているのは知ってるよな?
掘立柱の建物はけして文化レベルの低い集落ではない
掘っ立て小屋に近い語感の単語を意図して使っているだろう?
それから、鉄器用の砥石も出ているし、石庖丁が消えるのも奈良盆地は比較的早い
奈良盆地で鉄器が不足していたと考える理由はない
鉄器が「ない」ではなく、「見つからない」理由を考えた方が真実に近づける
>>651 >ちょうど卑弥呼の共立に伴って新しい都を築き始めたと見ればよい
>つまり、そこ纏向が女王之所都=邪馬台国で、畿内説そのままだよ
開拓の最前線が王都にはならない。
>>656 >開拓の最前線が王都にはならない。
開拓の最前線じゃなくて、纏向は計画都市だよ
纏向編年が、纏向大溝の土器一括資料がもとになってるのは知ってるだろう
最初に物流のために運河的な大溝の開削から始めて、計画的に
祭祀空間を作っているんだよ
開拓ではない理由は、九州説がよく言う「纏向遺跡には田畑がない」こと
からも分かる
>>660 その福岡の大溝とやらは、どこにあるんだい?
環濠集落の環濠も、確かに溝ではあるが、あれは目的が違うぞ
大宰府政庁跡のほぼ正面から
大溝跡らしいものが発掘されてる。
ただし、すでに人口が多いところには
条坊都市を作るのは難しかったのか
西側には部分的にしか都市の痕跡はなく
不完全なものだった。
完全形態は近江大津京を経て
藤原京が完全条坊都市らしい。
>>662 >大宰府政庁跡のほぼ正面から
>大溝跡らしいものが発掘されてる。
それ時代いつ頃?
>条坊都市を作るのは難しかったのか
これだったら何百年も後だぞ
ただの環濠集落の溝や古墳の周溝なら
日本中にあるだろ。
大溝という言葉は条坊都市の区画を分ける
水路のことを指すことが多い。
ググると、那珂遺跡、藤崎遺跡、井尻遺跡などで弥生時代の大溝が見つかっていたようだけど。
畿内説は軍国主義史観
日本の3000年の歴史などとプロパカンダした戦前の大日本帝国思想の残滓に過ぎない
その証拠に畿内説支持者には歴史修正主義・日本第一主義など所謂エスノセントリズムの信奉者が多い
日本は歴史的に世界の辺境後進地帯であり韓半島や中国大陸から先進文化を下賜されてきた。
その視点から考えれば邪馬壹国は九州に他ならない
そりゃ大きい溝はみんな大溝だろうが、纏向にあるような運河みたいな水路とは別物って話よ
那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、纒向と何が違うのかな?
纒向纒向と言う人は井の中の蛙なのではないかな?
>>668 >弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していた「らしい」
「確認できるようなソース」や「根拠」を挙げてくれるかな?
668がそうだというつもりはないけれど、九州説の人で
嘘・捏造が当たり前で、根拠なしのでたらめを言う人がいるからさ
>>668 >那珂遺跡は弥生中期から水運のために縦横に大溝を整備していたらしいけど、
「確認できるようなソース」は?
申しわけない。イメージで掘立小屋とタイプしてしまってますね。正確には、高床式建物と思われる建築物でしたね。
もっとも、漢魏洛陽城宮城と比較するわけではありませんが、 辻地区の庄内期の建築群は、決して大王の宮室と確定しうる大きさではありません。例えば三内丸山の柱なんて、縄文中期のものですから、もっと大きな建築物が出てきたって不思議じゃないわけです。
でも、私は何処そこが邪馬台国だとは主張していませんから、弥生末にもっと大きな建築物が何処にあったのか?、と尋ねられても、わかりません、と答えるしかありません。
鉄器に関しては、布留傾向以後は出てるのですから、やはりその時期に大きな転機があったと考えるべきです。砥石は須恵器の層以外にあったことは、知りませんでしたね。庄内期なのですか?
いずれにしろ、鉄よりも庄内〜布留1式を通じて文字使用の痕跡が全く見られないことの方が、纏向説にとって致命的です。
纏向周辺の発掘調査率は日本有数ですから、文物が出ないことの言い訳にはなりえませんよ。
このただ一つの邪馬台国纏向説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしてしまったようだね。。。
せっかくだから、溝や掘立柱が珍しくないことを、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://2chb.net/r/history/1521001812/ また、荒れ気味のスレ進行になってきましたね。
「いやなら、見るな」が5chへの正しい対処ですよ。
纏向遺跡は布留傾向期の前後で、個人的には2期に分けて考えたい遺跡です。
仮に前者を纏向庄内遺跡、後者を纏向布留傾向以後遺跡と呼称しましょうか。下層が纏向庄内遺跡で上層が纏向布留傾向以後遺跡です。すると、纏向布留傾向以後遺跡は纏向庄内遺跡に覆いかぶさるだけでなく、箸中山やホケノあたりまでの範囲に南限を広げていますね。
纏向庄内遺跡の範囲に関しては、柵付き高床建築群が中心の位置で良いと思いますよ。纒向矢塚古墳の編年が難しいですが、位置的にはここか纏向石塚が西限でしょうね。集落の端に墓をつくったのですね。中心と一端が想定できるわけですから、範囲の全容も想像できます。
西限近くに纏向勝山もありますが、纏向布留傾向以後遺跡です。他の3つの前方後円墳も纏向布留傾向以後遺跡です。
纏向庄内遺跡は、どんなに言いつくろっても、辻地区を中心に数百m四方で、発掘調査が100回位は繰り返されたわけです。
その上で、朝鮮半島で採取した鉄も、国交に不可欠な文字の痕跡も、曹叡が卑弥呼の好物と認識した絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹も出ないわけです。絹(?)が出た層は布留傾向以後ですからね。
つまり、考古学的に、纏向庄内遺跡が邪馬台国であった訳がありません。可能性は絶無です。
>>746 他人の説に反論があるなら
閉じこもって独白しててもムダ
>>747 御忠告ありがとうございます。
専門外ですので、インターネットで発信するしかないのが実情なのですよ。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
誰も来ないニセスレで独白を続ける岡上の鬼気迫る狂気
畿内説は軍国主義史観
日本の3000年の歴史などとプロパカンダした戦前の大日本帝国思想の残滓に過ぎない
その証拠に畿内説支持者には歴史修正主義・日本第一主義など所謂エスノセントリズムの信奉者が多い
日本は歴史的に世界の辺境後進地帯であり韓半島や中国大陸から先進文化を下賜されてきた。
その視点から考えれば邪馬壹国は九州に他ならない
畿内説はネトウヨのような存在だ
>>815
じゃあ、コピペじゃない、意味のある文を書いてみなよ
というだけです。
ちなみに他国が起源主張の嘘を嫌うのは、「嘘」だからです。そこいらへんのことはまた別のページに。
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