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邪馬台国畿内説 Part362 ->画像>20枚


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1◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:05:07.45
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1531400560/


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:07:04.28
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:07:23.68
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:07:42.95
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:08:05.35
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:08:25.00
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

7◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:08:45.97
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:09:02.18
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

9◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:09:19.50
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:09:39.84
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

11◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:09:57.57
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

12◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:10:19.22
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

13◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:10:35.68
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

14◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:10:52.78
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

15◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:11:13.47
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

16◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:11:32.55
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

17◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:11:55.48
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

18◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:12:28.00
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

19◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:13:07.60
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

20◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:13:29.09
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

21◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:14:00.35
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

22◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:14:23.30
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

23◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:14:53.34
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

24◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:15:10.02
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

25◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:15:26.13
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

26◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:15:47.49
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。

27◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:16:08.17
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

28◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:17:05.51
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
 
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
 
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
  
 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
 
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等
 
 

29◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:17:30.17
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

30◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:18:01.48
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

31◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:18:21.75
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。

32◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:19:00.87
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!
 
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
  
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
  
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
  
 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
 

33◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:19:24.99
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

34◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:19:49.28
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

35◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:20:08.69
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

36◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:21:06.72
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
 
 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
 
 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
 
 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
 
 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
 

37◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:21:26.85
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

38◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:21:50.50
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

39◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:22:11.46
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

40◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:22:31.50
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

41◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:23:01.16
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

42◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:23:38.58
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。

※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

43◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:24:00.59
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

44◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:24:21.89
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

45◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:24:47.60
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

46◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:25:15.75
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

47◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:25:37.28
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

48◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:25:58.97
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

49◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:26:25.67
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

50◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:26:53.34
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

51◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:27:49.04
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
 
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
 
 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
  
 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

52◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:28:13.64
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

53◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:28:37.75
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

54◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:29:21.96
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

55◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:29:41.41
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

56◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:30:44.38
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
  
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
  
 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
  
 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
  
 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

57◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:31:07.19
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

58◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:31:29.95
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

59◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:31:51.21
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

60◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:32:28.28
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

61◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:33:03.34
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

62◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:33:48.17
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1

63◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:34:13.05
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

64◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:34:52.51
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

65◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:35:13.00
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

66◆UiepmfCeDJqf 2018/07/16(月) 04:35:39.62
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし

67日本@名無史さん2018/07/16(月) 07:58:17.93
邪馬台国はヤマト国
生駒葛城山系の東側

他の畿内、なにわや河内、和泉は邪馬台国ではない。

ヤマトは山外、山の向こう側の土地という意味
カワチ河内やヤマシロ山背と同じく、地形に由来する地名

68日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:07:45.20
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
混血が進んでどんどん人口が増えたんだろう。

2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。

69日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:07:59.48
山の外ならむしろ河内ではないのか?

70日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:08:36.41
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)

71日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:08:49.16
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。

スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。

結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした邪馬台国、大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。

大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。

72日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:09:30.16
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

73日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:09:33.20
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

74日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:09:57.20
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。

こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。

75日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:11:47.42
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

また、久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。

76日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:12:45.18
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。

77日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:14:02.06
かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。

畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。

魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。

卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。

魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。

神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。

大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。

78日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:15:49.39
短里のいかがわしさが、一気に吹き出したな

79日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:16:23.63
三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。

あま市など東海地方には石作神社が散見される

石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。

近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか?

80日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:18:29.28
やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、

おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布

白澤、人面の牛、牛妻

白も牛と繋がってくる

新羅も本来はシラ

白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉

81日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:20:37.11
>>985
>>判っている事は、「苑」は宛と襄陽の間のどこか?であって、宛と襄陽の真ん中辺の新野よりは、宛や襄陽の緊急時に出動に不便な場所。<

>九州王朝説はデタラメだなあ 原文は「今屯苑、去襄陽三百餘里、諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴、乃表徙治新野、習水軍于二州、広農墾殖、倉穀盈積。」常識では「いま宛に屯す」だが、<

おや?。ようやく、張元済本の原文を出して来たね?。しかし、書陵部本の方はまだ。

>非公式古田説では「いま屯苑(だ)」と動詞なしに変な読み方をする<

古田第1書では「屯苑=屯した苑」という意味での引用をされたが、
大和説者が「屯苑」という固有名詞だと書いた、という誹謗をする人間がいたので、 最新のミネルヴァ書房本では、「苑に屯した」というような注釈を入れられた。

≧現在地が宛でないと言い張るなら、この文章には「宛」城はまったく出てこないんだから 「宛と襄陽の間のどこか?であって」なんてナンセンスだ
「宛」との位置関係は問題にしてないことになるからね<

上表文に余計な事を書けばアホに見られるから。

>それに「諸軍散屯」なんだから、現在の駐屯地は宣池の近くではない 「諸軍散屯」なんだからね<

宣池の名前を出した、という事は、宣池を中心とする散屯だ。

>そして現在の駐屯地は襄陽から300里も離れていて緊急時に対応できない だから新野の方が襄陽に近いんだ <

新野が川沿いで便利で、(山越えよりも)早い、という事もある。

>新野〜襄陽は鉄道で65km 300里というのは、それより遠いんだ
およそ知性ある人間にとって、短里なんて存在してないのは一目瞭然だろう <

新野と襄陽の間の山間部にいたのなら、新野よりも襄陽にずっと近くなり、
宛からなら4分の1位にずっともなり、長里よりも短里である事の方がはるかに適切。

82日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:20:50.80
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。

出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。

猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。

その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。

猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。

伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。

更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。

サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
津ツはノという意味かな。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。

83日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:22:48.84
ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
紀元前後の話かな
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。

ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。

環大阪湾の倭人、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ。

84日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:25:16.91
南海トラフ地震は津波の堆積物でいつ頃あったか分かっている。紀元前後、次は二世紀半ば。

色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。

隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。

山幸彦系の天武朝に隼人の乱が起きたのは当然と言える。

85日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:32:11.59
(wikiより)
葛城・金剛山高天台 - 奈良県御所市高天
奈良県南部の御所市高天。金剛山の麓に広がる台地上に位置する。古くは葛城といわれた地域である。
付近は天上の神々が住んだ高天原の伝承地で、ここに所在する高天彦神社は延喜式では最高の社格とされた名神(みょうじん)大社で、
祭神は葛城氏の祖神高皇産霊(たかみむすひ)神。鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、また能の葛城や代主などの舞台もこの地とされることから、中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。
なお、高天原の石碑はこの地区にある寺の駐車場のところにある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここは神(王)が住む水源。
高天彦神社の周囲には縄文時代からの遺跡もあり、
境内には土蜘蛛(奴婢)が埋められた径百余歩の塚(小山)がある。

なによりも重要なのは大和朝廷の発祥地であること。
邪馬台国とはここを中心にした場所以外にない。

ヒミコことヒメ(踏鞴五十鈴)媛も、その土蜘蛛(奴婢)が埋められた径百余歩の塚に埋葬されたのであろう。

86日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:34:15.81
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?



後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。

 ○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば      津守経国

 八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。

 ○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば

   淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ          仁徳天皇


難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。

八十島祭にかつて幣帛が供えられていた海神二座、今では不詳となっているが。
空想だが、ヤマタノオロチとサルタヒコだったのかもしれない。

87日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:38:23.82
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

この歌は古代史を要約した和歌なんじゃないかな

白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな

天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨?

88日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:39:03.57
ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり

大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。

天武朝では、月は嫌われていたのかな

桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな

天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし

89日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:39:30.56
>>81

>新野と襄陽の間の山間部にいたのなら、新野よりも襄陽にずっと近くなり、

新野と襄陽の間に山間部とかないよw

90日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:40:01.97
アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが

息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向

にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも

91日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:40:39.57
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。

祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。

天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと

92日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:44:58.58
和歌の父母

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに

難波、この、安積山(アサカヤマ)、山の井

重要なキーワードが散りばめられている

93日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:50:17.03
古代史に於いて、
上町台地〜泉北丘陵、ナニワ〜イズミ、大阪湾の汀はかなり重要なポジションにあると思うが、無視する人が多過ぎる

94日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:50:26.81
>>81
>古田第1書では「屯苑=屯した苑」という意味での引用をされたが、

文法メチャクチャだな

95日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:51:48.85
>>992
〉京都は畿内だから、京都説も畿内説の一つだろう。
桜井市が畿内の中心だとか思っている?<


畿内なんてなかったし、「南≠東」で、京都も桜井も×。
有り得る事は、どちらも倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国。

96日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:54:20.81
もう一つ古代史で重要なのは、白と表現される勢力

イトシロ石徹白の地の役割ってなんだったんだろう
イトって何なんだろう

郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れは興味深い

五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。

97日本@名無史さん2018/07/16(月) 09:59:46.14
>>993
>(屯宛の地は)「宣池」付近で、新野に「転屯」した方がベターな地、
という事しか判らない。<

>漢文が読めない? 襄陽から遠くなっちゃったらベターじゃないんだが <

要は襄陽への短時間性や至便性の問題。
距離は近くても山越えになったんでは、迅速な大軍移動など出来ない。

98日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:02:15.25
>>81
>宣池の名前を出した、という事は、宣池を中心とする散屯だ。
・・・
>新野と襄陽の間の山間部にいたのなら

支離滅裂だな
山間部なのか池なのか、ハッキリしろよ

だいたい新野と襄陽は川の上流下流だ
間の山間部とか、有るわけないだろ

99日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:03:30.96
>>998
>九州王朝説がどれほどトンデモか、よくわかる
お「短里」で、襄陽から20キロちょいのところに駐てた魏軍が
「緊急時に対応するため」3倍も遠くに引っ越しするなんて 支離滅裂だよ<

山越えよりも河川の舟行の方が、はるかに迅速に移動出来る。

100日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:03:33.14
>>97
何処にそんな山があるの?
なんて名前の山?

101日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:07:34.56
>>999
>それ、方角が反対です<

「行護軍将軍」は、当然、
「一か所にいる事」よりも、「駆けずり回る」事の方が仕事です。

102日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:09:22.30
>>1000
大和説は、「南→東」などのように、嘘つき騙しのトンデモだなあ。

103日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:09:39.28
>>101
長安を中心にな

104日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:16:34.32
>>67
>邪馬台国はヤマト国 生駒葛城山系の東側 ・・・<

邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」などに拠って×。

105日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:24:13.32
>>101
涼州軍閥と連戦したあと祁山の事件があったんだから、どう考えても夏候淵が駐屯していたのは長安だよ。
その間に洛陽に返って来たという記録も無い

106日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:36:08.74
>>68
>攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。
彼らが平和な世界を破壊したんだな。<


攻めて来たのは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍。
「出雲など山陰」は、どちらかと言えば縄文毛人系で、独立的であった。

107日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:46:27.01
戦争殺戮大好きな反日古田の会

108日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:52:47.99
>>71
大和朝廷なんてなかったから、×。

109日本@名無史さん2018/07/16(月) 10:55:22.02
>>73
邪馬台国も大和朝廷もなかったから、×。

110日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:01:35.68
>>101
甘粛省まで救援に行くのに邯鄲まで往復する時間が惜しいのだと
定説の長安じゃなくて洛陽で言わせるセンスが
実にあきれる
完全に脳がブッ飛んでるだろ

111日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:26:14.51
キナイコシは敗北しました

112日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:30:42.00
>>111
この人も脳死済みだな

113日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:37:42.38
どうも古田一派はなぁ
・・・
東南に何百mか進んだあと東北に何十kmか行くことを
「東南陸行」と称したり、みたいな
バランスの悪い思考をするねぇ

114日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:38:42.57
王都は纏向では無い 奈良は王家の墓
王都は京都できまり

115日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:42:10.76
あら、きょうとい。

116日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:44:04.48
>>74
〉第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。<

つまり、寺澤は、「自昔・・・東征毛人五十五國」という一級史料事実を考慮しない騙しをしている、
という事のようだね。

117日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:45:24.87
>>75
天皇も皇后もいなかったから、×。

118日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:47:25.99
>>76
畿内も大和朝廷も皇后も皇子もいなかったから、×。

119日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:50:23.08
西洋史においては、
古代ギリシアにおけるエーゲ文明の成立から西ローマ帝国の崩壊(476年)まで


中国史においては
秦王朝の成立(紀元前221年)から、後漢王朝の崩壊(220年)


韓国・朝鮮史においては
新羅の成立(紀元前57年)から後三国時代の終わりまで(936年)


それに比べ日本の古代は新し過ぎる・・・・・・朝廷により抹殺されてしまった
よって、邪馬台国はヤマト王権と全く関係ない、ヤマト王権が抹殺した

120日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:51:22.83
>>116
史料は無視しないけど
珍解釈は考慮しないよ普通

121日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:51:48.85
>>77
畿内も邪馬台国も大和朝廷もなかったし、
「南≠東:に拠っても、×。

122日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:53:25.69
>>851(前スレ)
>だから、お前の漢文の訳が「張元済本の苑を全部宛に変えてあった」からおかしいんであって、

失礼だなぁ。
>>210(前スレ)
のは書き下しただけで訳していないよ。()内は理解しやすいように補足してあるだけ。

123日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:53:41.12
>>78
魏志での長里説のいかがわしさが、一気に吹き出したな。

124日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:54:24.09
>>117
九州王朝説は証拠も論理もなかったから、×。

125日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:54:56.74
>>123
どこに?

126日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:55:11.78
>>79
大和朝廷なんてなかったから、×。

127日本@名無史さん2018/07/16(月) 11:59:40.04
>>82
畿内なんてなかったし、
卑弥弓呼も、「南≠東」に拠って、×。

128日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:01:28.82
>>83
畿内も大和朝廷もなかったから、×。

129日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:01:50.55
>>975(前スレ)
>そうだね。この男は、どうしても、書陵部本と張元済本の該当箇所の提示しないで、
>勝手に「間違えたまま」とするインチキ詐欺師であった訳だね。
提示するとかしないとか関係ないでしょ。
書写や刊行本を作るときの原理原則で「間違えたまま」になるのだからさ。

>結局この男も、唐代史家や現代大和説者らと同じく、「自己解釈に拠る書き換え」を肯定するインチキ詐欺師であった訳ね。
(再掲)書き換えはないんだよ。逆もないわけ。ただ誤記だけがある。
肯定してないでしょ。的外れな誹謗中傷だね。

>「海」と「馬」の誤記なんて、可能性が全くないよ。
そんなの希望だって。書写する人の能力に左右される。

>前代にあった、というのが史料事実であり、史料実態。
この男は、科学や学問には向いておらず、宗教や詐欺師に向いている男。
補強材料もないのに言い張っているだけでしょ。
学問には慎重さが必要なんだよ。
反論に誹謗中傷で返していて学問になるの?

130日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:04:32.41
>>122
つか、城もないよな山の中(笑)が荊予二州総司令官の治所だと言い張る人々って、どういう頭の構造しとんのかね

131日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:05:11.00
>>85
邪馬台国も大和朝廷もなかったし、
卑弥呼も「南≠東」に拠って、×。

132日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:12:04.31
>>67
鋭い。
その生駒葛城山系の東側に高天原が有るしね。
大和朝廷の発祥地だし。
そういうとアホがすぐに何遺跡なのかと聞いてくる。
日本では太古の王の痕跡は神社になってる。
式内社の中でさらに霊験あらたかな名神大社をみればいい。

遺跡云々は考古バカの言う事。

133日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:38:20.79
遺跡を云々しないのは只のバカの言う事。

134日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:42:56.65
畿内説って負けてない負けてないって掛け声だけだよな

135日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:46:56.24
>>133
名神大社の発掘などできないのだから考古バカは消えるが良い。
最も大事なのは神社伝承を含む文献史や地名の成り立ちなどの「謂れ」

日本は外国のように征服されて血筋を絶やされたような国ではないのだから、
卑弥呼に関係する信仰も伝承も残ってる。

136日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:47:38.20
>>134
他説に対する悪口雑言もあるよ

137日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:53:01.26
>>134>>136
そうだ、という証拠は?

138日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:53:23.09
>>132
式内社の名神大社
でも
弥生集落遺跡でも倭国(阿波)。  @阿波  

139日本@名無史さん2018/07/16(月) 12:56:22.55
>>135
式内社の名神大社
でも
弥生集落遺跡
でも
卑弥呼に関係する信仰や伝承 でも倭国(阿波)。  @阿波  

140日本@名無史さん2018/07/16(月) 13:07:50.46
>>137
スレ読んでれば分かるよ

141日本@名無史さん2018/07/16(月) 13:13:29.54
>>140
ほら、逃げた
やっぱりウソだったんだね

142日本@名無史さん2018/07/16(月) 13:28:21.55
>>139

阿波の名神大社は3社
大和 50社 山城 29社 摂津 18社 筑前 16社 陸奥 15社
但馬 14社 近江 13社 紀伊 12社 河内 9社 尾張 8社

143日本@名無史さん2018/07/16(月) 13:31:42.71
>>142の訂正

社 → 座

144日本@名無史さん2018/07/16(月) 13:59:11.16
オナニーテンプレを見さされる側になってみろよ

145日本@名無史さん2018/07/16(月) 13:59:32.02
>>141
どこが逃げてるのかな

146日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:00:53.50
>>142
それ全部、倭国(阿波)を発った忌部一族が興した所だね。  @阿波

147日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:15:43.21
>>89
>>新野と襄陽の間の山間部にいたのなら、新野よりも襄陽にずっと近くなり、<

>新野と襄陽の間に山間部とかないよw<


川が南北に流れ、東側が遠くからの山地があり、窪地に池にがあるんなら、
窪地付近は、最低山地だろうなあ。

148日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:20:01.83
>>103
>長安を中心にな<

長安は督すれば済むだけ。

149日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:29:28.11
>>147

Google Earthでも一目で確認できる山がない平地を山地と言張る反日どろぼう

150日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:38:19.41
>>135
記紀を読むといくつかの勢力が滅亡している。
最終的に現在の天皇家が生き残っているが、それだけ見て万世一系を唱えるのはナンセンス。
卑弥呼の王統だって消えてしまった勢力の一部であった可能性が否定できない。

151日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:38:54.17
>>105
>涼州軍閥と連戦したあと祁山の事件があったんだから、どう考えても夏候淵が駐屯していたのは長安だよ。
その間に洛陽に返って来たという記録も無い <

淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である。
その上、『魏略』には太祖時点の史料がある。
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石、旋軍並止罷。」(「後漢書志」百官一、劉昭註)
これは「都に護軍中尉を置き、(都に)護軍将軍を置く。」の省略形であるから、護軍将軍の官は「都」に置かれているのである。
したがって山尾氏の立論の基礎たる在長安説は成立できない。

152日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:39:17.99
出雲には名神大社は2座しかないのに
式内社は187座と、大和 286座 伊勢 253座の次に多い

153日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:42:52.11
>>107
戦前の「万世一系皇国史観」の殺人テロや侵略戦争戦争大好きな、
キョクウの大和説者の会。

154日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:43:20.87
>>150
記紀
でも
式内社の名神大社
でも
弥生集落遺跡
でも
卑弥呼に関係する信仰や伝承 でも倭国(阿波)。  @阿波  

155日本@名無史さん2018/07/16(月) 14:48:42.34
イタコ芸人なら阿波

156日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:00:11.36
>>150
>可能性が否定できない。

だーかーらー、「可能性が否定できない」って言い出したら、なんでもありにしか
ならないんだって
そうなったら、科学ではないし、議論も検証もできない

例えば「>>150は卑弥呼の生まれ変わりである。その可能性は否定できない」って言われても
確かに否定できないけれど、だからどうした、って話にしかならないだろ?

もうちょっと、他人を説得できる根拠を積んでおくれよ

157日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:11:05.27
>>152
>出雲には名神大社は2座しかないのに
>式内社は187座と、大和 286座 伊勢 253座の次に多い

倭国(阿波)では、式内社50座のうち、神話に登場する神名を冠した神社が13座
一方、式内社大和286座のうち、2座 出雲は187座のうち、0座   推して知るべし  @阿波

158日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:20:21.21
>>157

>神話に登場する神名を冠した神社が13座

全国的に見て、神社名に神の名を冠するのは畏れ多かったんだろう
阿波の場合は有名人になりきるイタコ芸人の故郷だから

159日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:21:08.64
>>977 (前スレ)
>「屯苑≠屯宛」であり、「宣池付近の場所が宛と襄陽の間のどこか」という実態には、何ら変わりがない。
「苑」なんて地名ないし。田んぼしかないよ。

>書陵部本と張元済本の両方の該当箇所を見なくっちゃ、議論が進まない、という事を拒否するお前がインチキ詐欺師。
なぜこちらで何もかも準備しなきゃならないんだよ?
君の怠慢までこちらの所為にされてはたまらんね。

「今屯苑,去襄陽三百餘里,諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴,乃表徙治新野,習水軍於二州,廣農墾殖,倉糓盈積。 」

>いや、「屯苑」は、当然宛と襄陽の両方に対しての「屯所」。
「宛」に対して必要ないよ。

160日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:32:22.86
>>151
>淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である

夏候淵は「行」護軍将軍ですけど

161日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:34:00.05
>>978(前スレ)
>屯する場所を苑から新野に変更した、という事だから。
大軍を収容する宿舎とか必要なんだよ。

>水害の危険のあるところで多くの動物を飼育しないでしょ。だから不適切。<
>「宣池」がある場所。
結局「苑」の意味も理解しないで言い張るだけですか。

>全くのアホだなあ。新野は、宛と襄陽の真ん中辺なんだよ。だから、宛と襄陽の両方の変事に備えているんだよ。
吳の支配域からより遠い宛に、突然侵攻されないでしょ。

>書陵部本では、根拠になり難いし、 「四書文庫」なんて全く知らんが、また現代通説本ではないのか?。
「欽定四庫全書」と間違えたわ。

162日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:34:07.28
>>158
>全国的に見て、神社名に神の名を冠するのは畏れ多かったんだろう

訂正
倭国(阿波)では、式内社50座のうち、神話に登場する神名を冠した神社が「19座」
式内社以外でも、倭国(阿波)の神社の祭神はほとんどが古事記神話の神である。

一方、全国で倭国(阿波)にしか無い式内社が「13座」

この事実からも、古事記神話は倭国(阿波)で起きたことを記した記録。  @阿波

163日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:37:48.75
>>979(前スレ)
>漢代の記録や上表文などには、長里記録が当然残っている可能性もある事は、何度も言っているし、
>最近の古田史学では、短里の使用は明帝の頃からだった、という話もある。
>要は、魏使らの記録や陳寿の地の文では、原則として短里で記録記載されている、 という事だ。
定まっていないね。
可能性を何度も言っても何も変わらんよ。
具体例を示さないとね。
言い張れる材料がないなら断言するべきでないよ。

164日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:43:47.15
>>980(前スレ)
>まだ、「屯苑≒宣池付近」の場所は確定しておらず、未定なままだよ。
>判っている事は、宛と襄陽の間のどこか?であって、
>宛と襄陽の真ん中辺の新野よりは、宛や襄陽の緊急時に出動に不便な場所。」
襄陽から三百里なんだよ?

さてここで追加情報。
《晉書》卷一帝紀第一 宣帝
「太和元年六月,天子(明帝)詔帝(司馬懿)屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。」
司馬懿は明帝から宛に屯せよと命令されていた。
後任の「假節都督荊、豫諸軍事」である王昶が宛に屯するのは当然のことだよね。

165日本@名無史さん2018/07/16(月) 15:50:31.80
>>162

日本の場合は平安時代中期に延喜式神名帳が編纂される時点で
○○(地名)神社といえば古来○○神を祀っている神社というのがわかったんだろうが
阿波は、この度建立した神社は犬神ではなくて○○神を祀ってますということを
地元民にもはっきりわかるように神社名にしたというのもあるだろう

166日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:10:35.73
>>165

記紀神話の倭国(阿波)以外、全国的に見て、神社名に神の名を冠するのは畏れ多かったんだろう  @阿波

167日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:29:11.96
阿波の神様は犬神様

168日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:30:26.76
>>156
だよな

「可能性が否定できない」・・・俺も時々使っちゃおうかなww

169日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:42:23.73
>>151
>淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である

その夏候淵は定軍山で死んでるんですけど?

170日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:44:47.75
「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」

スレ主が誤魔化し方のバリエーションをたくさん示してくれているな。

171日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:06:38.37
>>170
おお、結構厳密に言葉を使ってるな

172日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:13:37.43
>>171
厳密?  断定できる根拠がないときの言い回し

173日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:16:49.72
九州説は、なんでも断定しちゃうからねw

はっきりしていることと、解釈の余地があることは厳密に区別しないと
畿内説でも、「可能性がある」レベルのことはあるけれど、それはそこまでのことで
不確実なことを基礎にその次へ推論を進めたりはしない

そこの差が大きい、というが大きすぎるんだよ

174日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:19:43.30
>>151
>魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石、旋軍並止罷。」(「後漢書志」百官一、劉昭註)
>これは「都に護軍中尉を置き、(都に)護軍将軍を置く。」の省略形であるから、護軍将軍の官は「都」に置・・・


こりゃ傑作だ
古田ってホント漢文読めないんだな

「都護軍校尉」を置いた話を「都に」置いたと誤読したのか

笑えるわー

175日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:34:00.62
俺がスレ主なら恥ずかしくて生きてられないだろうな
そういう図太さだけは感心する

176日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:37:37.87
>>175
なにが、はずかしいの?

177日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:43:42.02
見てると、九州説の人にとって、このスレのテンプレが
本当に邪魔でしょうがないみたいだねww

まあ、たいていの戯言は既に論破済みで、そのまとめになってる
つまり、九州説の存立余地が皆無なことを示すテンプレになってるからね

178日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:48:06.54
>>110
>甘粛省まで救援に行くのに邯鄲まで往復する時間が惜しいのだと
定説の長安じゃなくて洛陽で言わせるセンスが 実にあきれる 完全に脳がブッ飛んでるだろ<

軍事行動の中心となるべき「行護軍将軍」だから、どこにでも行くさ。

179日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:49:16.71
>>174
古田信者は基礎学力ないから、往々にしてこういうアホをやる

180日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:49:51.44
>>111
大和説者らは、全員、という脳病で廃人済みだな。

181日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:54:58.10
>>113
>どうも古田一派はなぁ ・・・ 東南に何百mか進んだあと東北に何十kmか行くことを
「東南陸行」と称したり、みたいな バランスの悪い思考をするねぇ<

そんな事、言わないねえ。
「東南」は出発時点での出発方向記載、
「陸行」は、途中移動の説明の「陸行五百里」の記載の一部。
そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ。

182日本@名無史さん2018/07/16(月) 17:57:29.38
>>114
>王都は纏向では無い 奈良は王家の墓 王都は京都できまり <

王都が、邪馬壹國女王之所都の事を言ってんなら、
「南≠東」で×。

183日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:00:48.21
>>178
長安で八面六臂の活躍した話のすぐあとに甘粛で発生した事件対応の話題だろ
長安での話だと分からない奴は、チエオク

184日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:04:53.62
>>182
「南≠東」は「会稽東治之東」で×。

185日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:08:07.48
>>181
>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ

そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は
頭ヘンだよね
つまり九州説はアホということで結論なー

186日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:10:33.24
>>176
たとえば、スレに粘着していて気に入らないレスにけちをつける狭量なところ

187日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:11:12.92
>>173
九州説の場合、魏志倭人伝など文献で確認できることは断定的に書いているよ。
そうしないと史学としては前に進まないからね。
畿内説が文献を無視している一方で、文献に書いていないようなことも断定的に書くのと大違いだ。

188日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:14:49.25
>>122
>>だから、お前の漢文の訳が「張元済本の苑を全部宛に変えてあった」からおかしいんであって、<

>失礼だなぁ。 >>210(前スレ) のは書き下しただけで訳していないよ。()内は理解しやすいように補足してあるだけ<

変な男。
「書き下し」文なんて「訳」文であって、元の漢文ではないよ。
そして結局お前は、
張元済本の「苑」となっている漢文の方は提示したが、
「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
という事は、書陵部本の方も「苑」となっていて、
お前がウソを付いていた事になって、提示出来なかったんではないか?。

189日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:17:11.03
>>124
大和説は、結局、証拠も論理も全て否定されたから、×。

190日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:17:28.46
>>186
彼がそんなことしてるって証拠は?

191日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:19:31.94
>>188
>「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。

そんな本がある、という話そのものが
ザラコクの捏造じゃないの?

192日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:21:41.20
>>187
>九州説の場合、魏志倭人伝など文献で確認できることは断定的に書いているよ。

じゃ、断定だけして、確認した証拠を出さないのは何故?

193日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:34:25.76
>>190
>>176が証拠になってますよ

194日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:38:14.45
>>192
魏志倭人伝や記紀は自分で確認できるだろ?

195日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:39:33.63
>>187
>九州説の場合、魏志倭人伝など文献で確認できることは断定的に書いているよ。

wwwwwwww腹筋クラッシャー再び!
短里や島巡り仮説が、文献で確認できるんだよな!!!

もう、大笑いw

196日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:44:36.12
スレ主って何してる人なんだろ、相当暇だよね

197日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:46:51.50
>>129
>>そうだね。この男は、どうしても、書陵部本と張元済本の該当箇所の提示しないで、 勝手に「間違えたまま」とするインチキ詐欺師であった訳だね。<

>提示するとかしないとか関係ないでしょ。<

張元済本の原文に方は提示していたけれど、書陵部本のに原文の方は、まだ提示していないよ。

>書写や刊行本を作るときの原理原則で「間違えたまま」になるのだからさ。<

書写は、全書写で0.5%位の間違いがあるが、版刻では、原則として間違いは0.5%以下だよ。

>>結局この男も、唐代史家や現代大和説者らと同じく、「自己解釈に拠る書き換え」を肯定するインチキ詐欺師であった訳ね。<

>(再掲)書き換えはないんだよ。逆もないわけ。ただ誤記だけがある。肯定してないでしょ。的外れな誹謗中傷だね。<

写本では誤記があるが、後代史書では唐代史家らも現代大和説者らも、「意図的な書き換え」だよ。

>>「海」と「馬」の誤記なんて、可能性が全くないよ。<

>そんなの希望だって。書写する人の能力に左右される。<

字形も意味も違い過ぎるから、誤記ではなく、意図的な書き換え。

>>>>アホ男に言っても判らんのだろうが、 後代にあった文言よりも、後代にはなかった文言の方が古文。<

>>>誤記なら前代にも存在しないでしょ。<

>>前代にあった、というのが史料事実であり、史料実態。この男は、科学や学問には向いておらず、宗教や詐欺師に向いている男。<

>補強材料もないのに言い張っているだけでしょ。 学問には慎重さが必要なんだよ。 反論に誹謗中傷で返していて学問になるの?<

後代の知見に拠る書き換えがあった、という形になっている事が史料事実なの。

198日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:50:08.95
>>130
>つか、城もないよな山の中(笑)が荊予二州総司令官の治所だと言い張る人々って、どういう頭の構造しとんのかね<

「屯苑」だから、「屯」所だよ。

199日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:53:46.17
>>132
>鋭い。 その生駒葛城山系の東側に高天原が有るしね。 大和朝廷の発祥地だし。
そういうとアホがすぐに何遺跡なのかと聞いてくる。
日本では太古の王の痕跡は神社になってる。 式内社の中でさらに霊験あらたかな名神大社をみればいい。
遺跡云々は考古バカの言う事。<

大和朝廷なんて存在していなかったから、この男も、考古バカだ、という事。

200日本@名無史さん2018/07/16(月) 18:56:25.66
>>139
>卑弥呼に関係する信仰や伝承 でも倭国(阿波)。  @阿波<

「南≠東」に拠って、×。

201日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:06:47.05
>>198

「苑」が「屯」所なら治所を移すという話と繋がらない

202日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:09:09.84
>>198
あのね
「乃表徙治新野」
って書いてあるでしょ

つまり今まで屯していたのは州治なの
郡太守より格上の刺史よりまた格上の
2州を統括してる征南将軍仮節都督諸軍事の治なんだよ

203日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:10:06.28
>>153
>記紀を読むといくつかの勢力が滅亡している。
最終的に現在の天皇家が生き残っているが、それだけ見て万世一系を唱えるのはナンセンス。
卑弥呼の王統だって消えてしまった勢力の一部であった可能性が否定できない。<

卑弥呼の東海姫氏は、倭王武の次の倭國王哲で倭王は終わって臣下になったが、
松野連家や紀氏として新撰姓氏録に存続し、
松野氏姫氏系図では、関ヶ原で負けた宇喜多に仕えた記載の後、消失したが、
尚も、熊本などに「松野」姓の人々が存続しているらしい。

204日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:19:38.12
昨日のNHKを見ても、日本人は黒潮の民と言えるかもな

205日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:24:04.23
>>156
>だーかーらー、「可能性が否定できない」って言い出したら、なんでもありにしか
ならないんだって そうなったら、科学ではないし、議論も検証もできない
例えば「>>150は卑弥呼の生まれ変わりである。その可能性は否定できない」って言われても
確かに否定できないけれど、だからどうした、って話にしかならないだろ?
もうちょっと、他人を説得できる根拠を積んでおくれよ<

だーかーらー、自然や歴史における学問や科学においては、
「確率の高さ」が問題であり、
議論価値がある。

206日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:29:53.69
>>205
算出根拠のない確率って・・・



そりゃ価値ねーよ


w

207日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:43:31.77
>>204
黒潮でどこから来たの?
やはり呉の太伯の末裔?

208日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:44:56.95
>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ

そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は
頭ヘンだよね
つまり畿内説はアホということで結論なー

209日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:47:37.53
>>159
>>「屯苑≠屯宛」であり、「宣池付近の場所が宛と襄陽の間のどこか」という実態には、何ら変わりがない。<

>「苑」なんて地名ないし。田んぼしかないよ。<

張元済本における史料事実だよ。

>>書陵部本と張元済本の両方の該当箇所を見なくっちゃ、議論が進まない、
という事を拒否するお前がインチキ詐欺師。<

>なぜこちらで何もかも準備しなきゃならないんだよ? 君の怠慢までこちらの所為にされてはたまらんね。
「今屯苑,去襄陽三百餘里,諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴,乃表徙治新野,習水軍於二州,廣農墾殖,倉糓盈積。 」<

これはこれは、有難うございます。
という事は、やっぱり書陵部本でも「苑」であった、という事であり、
始めに書陵部本は「宛」になっている、と言っていたお前は、ウソを付いていた訳だ。

>>いや、「屯苑」は、当然宛と襄陽の両方に対しての「屯所」。<

>「宛」に対して必要ないよ。<

三国時代にあっては、どこからの急襲があるやも知れず、守備兵だけでは足りない事は幾らでも有り得るよ。

210日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:47:47.43
追い詰められるキナイコシ

211日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:52:11.07
>>160
>>淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である<

>夏候淵は「行」護軍将軍ですけど<

当然都に勤務待機していて、事あらば、どこにでも行く、
とう事が仕事だから「行」なんだけど。

212日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:52:29.26
ザラコクさんは本当に邪魔

出雲と吉備、美作あたりの四隅突出墓の時代の関係とかを論じたいのに、
ザラコクさんがバカ過ぎてそこまで手が回らない

213日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:55:49.99
>>208
>>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ

>そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は
>頭ヘンだよね

やっとザラコクさんも分かったか!
そうなんだよ! 古田史学の会が主張するような
出発方向だけの記載で「案内人や道標任せ」だったら、邪馬壹国の位置が
分かるはずないよな

ザラコクさんは、出発方向が記載されていて、その後は案内人や道標任せで行くって
主張していてかつ位置が分かるっていってるけどさww

214日本@名無史さん2018/07/16(月) 19:58:01.02
>>213
ごめん、>>208はザラコクさんじゃないかな?

ザラコクさんと同レベルのオウム返しだからザラコクさんかと思ったww

215日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:06:34.26
>>161
>>屯する場所を苑から新野に変更した、という事だから。<

>大軍を収容する宿舎とか必要なんだよ。<

だから「苑」では散在していた。

>>>水害の危険のあるところで多くの動物を飼育しないでしょ。だから不適切。<

>>「宣池」がある場所。<

>結局「苑」の意味も理解しないで言い張るだけですか。<

「神宮外苑」位しか、直ぐには思いつかないよ。

>>全くのアホだなあ。新野は、宛と襄陽の真ん中辺なんだよ。だから、宛と襄陽の両方の変事に備えているんだよ。<

>吳の支配域からより遠い宛に、突然侵攻されないでしょ。<

青龍三年では、まだ蜀もあったのではないか?と思うし、
呉も遠回りして宛を攻撃する事もないとは言えない筈。

>>書陵部本では、根拠になり難いし、 「四書文庫」なんて全く知らんが、また現代通説本ではないのか?。<

>「欽定四庫全書」と間違えたわ。<

四庫全書では、また、後代権威学者の「自己解釈に拠る書き換え」が十分に有り得る書だな。

216日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:12:42.21
>>215
>十分に有り得る書だな。

「十分に有り得る」ww
いつもの根拠なしご都合解釈w

217日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:25:10.64
>>163
>>漢代の記録や上表文などには、長里記録が当然残っている可能性もある事は、何度も言っているし、
最近の古田史学では、短里の使用は明帝の頃からだった、という話もある。
要は、魏使らの記録や陳寿の地の文では、原則として短里で記録記載されている、 という事だ。<

>定まっていないね。<

魏使らや陳寿らは、定まっていたという事であり、
魏の役人たちは、漢代記録や上表文は、そのまま記載し、
魏代初期の記録は、長里と短里の両方があった可能性がある、という事だ。

>可能性を何度も言っても何も変わらんよ。 具体例を示さないとね。
言い張れる材料がないなら断言するべきでないよ。<

いずれもYahooでの議論になった例であり、
textreamに変わってから、
古い議論が全部出せなくなり、抹殺されて消失してしまったし、
もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。

218日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:26:27.72
ザラコクさんの得意技 半分×書ww

原典の典拠を示しての反論をされると、半分×書ということにして、
その記述を間違いと言い出す

その一方で、同じ書でも都合のいいことは正しいという なぜなら×なのは
半分であって正しいことも書いてあるのが当然

何が正しくて、何が書き換えられた部分なのかは、ザラコクさんが決めるww

チェリーピッキングもここに極まれりだな

219日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:49:52.27
>>217
>もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。

覚えてない程度のものは、どうせたいしたことはないんだよww
結局、根拠も理由もなく言い張るだけってことだなw

九州説クオリティ、乙!

220日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:51:42.67
>>164
>>まだ、「屯苑≒宣池付近」の場所は確定しておらず、未定なままだよ。
判っている事は、宛と襄陽の間のどこか?であって、
宛と襄陽の真ん中辺の新野よりは、宛や襄陽の緊急時に出動に不便な場所。<

>襄陽から三百里なんだよ?<

長里であれば、ほぼ宛に届いてしまって散屯する必要もないし、宣池もあった筈だが見つからないから、
長里ではない。

>さてここで追加情報。
《晉書》卷一帝紀第一 宣帝
「太和元年六月,天子(明帝)詔帝(司馬懿)屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。」
司馬懿は明帝から宛に屯せよと命令されていた。
後任の「假節都督荊、豫諸軍事」である王昶が宛に屯するのは当然のことだよね。<


後代の唐代に書かれた晋書では、
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」などの例に拠って、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をしている史書である事になり、
信頼性が落ち、
そんな半分×書での「屯宛」では、根拠になり難いな。

221日本@名無史さん2018/07/16(月) 20:59:08.03
>>169
>>淵の任ぜられた「護軍将軍」は「都」にあって「司直」「武官選」を司る職である<

>その夏候淵は定軍山で死んでるんですけど?<

「行」していた時に亡くなったのであり、
長安に常駐していなかった、という事の証拠にもなる事だよ。

222日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:01:08.52
>>220
>そんな半分×書

半分×書なんていうチェリーピッキングがデフォルトのザラコク理論ww

223日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:03:59.97
>>221
そういう意味じゃなくて、
「都護軍将軍」は、「都」「護軍将軍」と切ったらダメなんだよ

「都護」の「軍」の「将軍」なんだからさww

224日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:04:05.40
>>171
>>「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」
スレ主が誤魔化し方のバリエーションをたくさん示してくれているな。⇔

>おお、結構厳密に言葉を使ってるな<

殆ど皆、「確率は低いですが」と白状しているように、見える。

225日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:16:23.20
>>173
>九州説は、なんでも断定しちゃうからねw<

九州説者は、殆ど全て、確率が非常に高い(例えば「99.5%」位)事を根拠にするが、
大和説者は、「南→東」などのような、
確率が極めて低い(例えば0.5%以下)の事を根拠にしている。

>はっきりしていることと、解釈の余地があることは厳密に区別しないと
畿内説でも、「可能性がある」レベルのことはあるけれど、それはそこまでのことで
不確実なことを基礎にその次へ推論を進めたりはしない<

ここでもこの大和説男は、
「畿内」なんて存在もしていない(確率が殆ど0%)文言を、
あたかも確率が高くて存在していたかのような言い方をして、
国民を騙そうとしているから、
「南→東」などの騙しと同じく、
嘘つき騙しの詐欺師。



そこの差が大きい、というが大きすぎるんだよ

226日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:28:05.31
170日本@名無史さん2018/07/16(月) 16:44:47.75>>171
「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」

スレ主が誤魔化し方のバリエーションをたくさん示してくれているな。

227日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:30:41.54
>>174
>>魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石、旋軍並止罷。」(「後漢書志」百官一、劉昭註)
これは「都に護軍中尉を置き、(都に)護軍将軍を置く。」の省略形であるから、護軍将軍の官は「都」に置・・・<

>こりゃ傑作だ 古田ってホント漢文読めないんだな
「都護軍校尉」を置いた話を「都に」置いたと誤読したのか 笑えるわー <

この男も、・・・・だな。
行護軍将軍が、「行=地方で行動する」」護軍将軍、を意味するように、
都護軍校尉が、まさか「都護」の軍校尉ではあるまいし、
「都を護軍する校尉」の意味であっても、
何らおかしくない。

228日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:31:31.26
>>227 


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えサギジジイ!

229日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:34:21.88
>>176
>>俺がスレ主なら恥ずかしくて生きてられないだろうな
そういう図太さだけは感心する<

>なにが、はずかしいの?<

「確率が少ししかない」という事を意味する言い回しばかりであったから。

230日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:38:20.83
>>177
見てると、大和説の人にとって、このスレのテンプレが、
本当に邪魔でしょうがないみたいだねww。

まあ、たいていの戯言は既に論破済みであり、その事の言い訳になってる。
つまり、大和説の存立余地が皆無なことを示すテンプレになってるからね。

231日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:41:28.35
>>179
大和説信者は基礎学力や脳がないから、
「南→東」などの明確な嘘つき騙しだけではなく、
往々にしてこういうアホもやる。

232日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:49:31.75
>>183
>長安で八面六臂の活躍した話のすぐあとに甘粛で発生した事件対応の話題だろ<

長安に常駐していなかった、という事の証拠だろ?。

>長安での話だと分からない奴は、チエオク<

夏侯淵が長安に常駐していなかった、という事が分からない奴あh、チエオク。

233日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:53:05.65
>>184
>「南≠東」は「会稽東治之東」で×。<

「会稽東治之東」が九州でほぼぴったりだから、
「南≠東」が〇。

234日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:57:15.00
奈良は京都から見て村はずれ

村はずれに墓は作る

邪馬台国の王都は京都

奈良は墓地

235日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:58:07.87
>>185
>>そして、途中どう進むのか?は、案内人や道標任せ<

>そんな記事で邪馬台国の位置がわかるという奴は頭ヘンだよね
つまり九州説はアホということで結論なー <

魏使らが、案内人も道標も無しに「女王之所都」まで行った、なんていう奴は、
頭が変だよね。
つまり大和説や反古田狂はアホということで結論なー。

236日本@名無史さん2018/07/16(月) 21:59:33.96
インダス文明しかり
黄河文明しかり

大河に文明は起こる

大和川なんて屁

淀川水系に大国は有ったのだよ

237日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:06:02.12
ただし邪馬台国とは関係ないけどね。

238日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:15:15.44
>>188
>変な男。
>「書き下し」文なんて「訳」文であって、元の漢文ではないよ。
はぁ?「書き下し文」と「訳」の区別もつかなければ、漢文を読めるわけがないですな。

>「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
>という事は、書陵部本の方も「苑」となっていて、
>お前がウソを付いていた事になって、提示出来なかったんではないか?。
失礼だなぁ。そんな主張してないよ。
ずっと誤字だと言ってるだけなんだが。

239日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:18:26.81
>>197
>書写は、全書写で0.5%位の間違いがあるが、版刻では、原則として間違いは0.5%以下だよ。
数字の根拠なし。

>写本では誤記があるが、後代史書では唐代史家らも現代大和説者らも、「意図的な書き換え」だよ。
そんなこと言ったら《三國志》の刊行本でもあり得るでしょ。
気に入った文献だけ「書き換え」が無くて、気に入らない文献は「書き換え」が有ると勝手に認定しているだけだね。

>字形も意味も違い過ぎるから、誤記ではなく、意図的な書き換え。
そんなの希望だって。

>後代の知見に拠る書き換えがあった、という形になっている事が史料事実なの。
君の仲間内だけだろ。

240日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:18:46.61
卑弥呼の墓は、日本で最も聖なる土地にある、日本で最も古い神社の境内にある。

高天原(御所市高天)にある高天彦神社だ。

鳥居をくぐった境内に、径百余歩の塚(小山)があり、
魏志倭人伝の記述通り、その周囲に奴婢が埋葬されている。

埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。

邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚

卑弥呼やその一族は、死後に高天原の神々になったのだ。

241日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:20:27.15
>>209
>張元済本における史料事実だよ。
他で確認も出来ないし、地名かどうかも分からんだろ。

>という事は、やっぱり書陵部本でも「苑」であった、という事であり、
>始めに書陵部本は「宛」になっている、と言っていたお前は、ウソを付いていた訳だ。
失礼だな。なっているなんて言ってないよ。
そちらの勝手な決めつけだ。
こちらはずっと誤記と言ってきたよ。

>三国時代にあっては、どこからの急襲があるやも知れず、守備兵だけでは足りない事は幾らでも有り得るよ。
適当な思いつきだろ。

242日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:22:48.40
>>220

「苑」は荊州治所の「宛」の誤植なので
襄陽〜南陽市宛城区の直線距離が約116kmで、300里だと1里約387mだから
道なり距離で公里の約434.16mに近い数値
王昶が半分の距離の新野(襄陽から直線で約60km)に治所を移しで
(三州口?で)水軍を習練し、開墾、穀物を盈積した

243日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:28:44.09
>>195
>短里や島巡り仮説が、文献で確認できるんだよな!!! もう、大笑いw<

短里や島巡りは、文献の記載実態そのものだったんだよね。

244日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:32:22.47
>>215
>だから「苑」では散在していた。
付近には他にも城があるのだから成り立ちませんな。

>青龍三年では、まだ蜀もあったのではないか?と思うし、
>呉も遠回りして宛を攻撃する事もないとは言えない筈。
三國志読んでいないから適当な事をいう。
この頃には既に蜀の荊州の領地は無くなっていた。
呉の拠点江陵から一番近いのが襄陽ってこと。
魏の領内を遠回り?退路絶たれて全滅だよ。

>四庫全書では、また、後代権威学者の「自己解釈に拠る書き換え」が十分に有り得る書だな。
また勝手な「書き換え」認定か。

245日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:33:56.92
>>243


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えバカジジイ!

246日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:34:42.57
>>201
>「苑」が「屯」所なら治所を移すという話と繋がらない<

「苑=宣池などがあったところ」では、
緊急援軍に不便で間に合わない事があってはいけないから、
新野に屯地を移したんだよ。

247日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:42:10.56
>>202
>あのね 「乃表徙治新野」 って書いてあるでしょ
つまり今まで屯していたのは州治なの<

今まで屯していたのは、「苑=宣池付近」だよ。

>郡太守より格上の刺史よりまた格上の 2州を統括してる征南将軍仮節都督諸軍事の治なんだよ <

「苑=宣池付近」に、そんな身分の人が治していた、なんて書かれていないでしょ?。

248日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:45:59.51
>>246

征南將軍、假節都督荊・豫諸軍事の王昶が
治所でもない、鳥獣を養うような不便なところに駐屯していることはない

249日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:47:18.71
>>206
>算出根拠のない確率って・・・ そりゃ価値ねーよ w<

史料の確率は、史料批判に拠って概数的に得られるの。

250日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:53:13.75
>>218
>何が正しくて、何が書き換えられた部分なのかは、ザラコクさんが決めるww<

いや、史料批判で決まる。

251日本@名無史さん2018/07/16(月) 22:58:50.91
>>223
>そういう意味じゃなくて、
「都護軍将軍」は、「都」「護軍将軍」と切ったらダメなんだよ
「都護」の「軍」の「将軍」なんだからさww<

じゃ、「行護軍将軍」は、「行護」の「軍」の「将軍」になるんかい?。

252日本@名無史さん2018/07/16(月) 23:00:10.89
>>217
>魏使らや陳寿らは、定まっていたという事であり、
>魏の役人たちは、漢代記録や上表文は、そのまま記載し、
>魏代初期の記録は、長里と短里の両方があった可能性がある、という事だ。
漢代記録は漢の役人の仕事だよ。両方とか運用出来ないね。
そもそも陳寿には蜀の地勢しかわからないだろ。

>いずれもYahooでの議論になった例であり、
>textreamに変わってから、 古い議論が全部出せなくなり、抹殺されて消失してしまったし、
>もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。
掲示板のデータなんていつか消えるものだよ。
その時も自分からは何も出してないんでしょ。

253日本@名無史さん2018/07/16(月) 23:02:08.98
>>234
>邪馬台国の王都は京都<

「南≠東」だから、×。

254日本@名無史さん2018/07/16(月) 23:03:08.45
議論じゃなくて、反日どろぼうがデマを撒き散らしているのを
日本人が訂正していたんだろ

255日本@名無史さん2018/07/16(月) 23:07:31.57
>220
>長里であれば、ほぼ宛に届いてしまって散屯する必要もないし、
>宣池もあった筈だが見つからないから、 長里ではない。
宣池も宛からは遠いから新野に移したというだけ。

>後代の唐代に書かれた晋書では、
>「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」などの例に拠って、
>後代の「自己解釈に拠る書き換え」をしている史書である事になり、
>信頼性が落ち、 そんな半分×書での「屯宛」では、根拠になり難いな。
また勝手な「書き換え」認定ですね。
そんなこと言ってたら全ての文献が半分×書になるね。

256日本@名無史さん2018/07/16(月) 23:41:55.86
>>251
どこで切るか、教養がないから間違う
そして恥をかく
それが古田説

257日本@名無史さん2018/07/17(火) 01:23:16.89
テンプレ 畿内説の自信の無さがにじみ出てるなww

「想起される」
「推認できる」
「成り立つ余地があろう」
「保証されているようにさえ映る」
「可能性を考慮する必要がある」
「解釈もあり得よう」

258日本@名無史さん2018/07/17(火) 01:49:05.32
畿内説は実は東遷説だな。

【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」

259日本@名無史さん2018/07/17(火) 01:50:23.47
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

新唐書

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。

260日本@名無史さん2018/07/17(火) 01:51:03.59
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

261日本@名無史さん2018/07/17(火) 02:20:32.95
九州説が論破されると
いつもおバカな連続コピペが始まるね

262日本@名無史さん2018/07/17(火) 03:00:36.48
うん

ま、倭奴国を九州北岸の那の津当り、倭国を九州全体、
「(案今名邪摩惟音之訛也)」の邪摩惟を遷都後の大和と考えれば、すべて合理的に理解できるな、、、

263日本@名無史さん2018/07/17(火) 07:17:36.23
などと妄想する不合理人間

264日本@名無史さん2018/07/17(火) 07:18:43.42
>>259
>倭国はいにしえの倭奴国のことである。
>四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

倭国(阿波)の四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
倭国(阿波)の王の姓は海人・阿波・阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。  @阿波

265日本@名無史さん2018/07/17(火) 07:35:55.22
>>259
>日本国は倭国の別種である。

日本国(奈良)は倭国(阿波)の別種(遷都地)である。


>その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。

その国(奈良)は倭国(阿波)から見て、日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。


>またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

またあるいは「日本(奈良)は古くは小国だったが、倭国(阿波)の地を遷都により併合した」とも。  @阿波

266日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:10:25.12
>>238
>>変な男。 「書き下し」文なんて「訳」文であって、元の漢文ではないよ。<

>はぁ?「書き下し文」と「訳」の区別もつかなければ、漢文を読めるわけがないですな。<

古代中国人は、漢字を並べた漢文として、句読点も無しで書き、読んだんだよ。
「書き下し」や「訳」は、その時点でその人間の読み方や解釈が入ってしまって、
原文とは必ずしも一致しなくなるもの。

>>(この男は)「宛」となっていたという主張した書陵部本の漢文を未だに提示していない。
という事は、書陵部本の方も「苑」となっていて、
お前がウソを付いていた事になって、提示出来なかったんではないか?。⇔

>失礼だなぁ。そんな主張してないよ。 ずっと誤字だと言ってるだけなんだが。<

議論をずっと読んで来た人は、お前が、
書陵部本には「宛」であった、と(ウソno)主張していた事を知っているよ。

267日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:16:34.78
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)

268日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:17:10.52
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。

269日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:34:57.81
>>329
>>書写は、全書写で0.5%位の間違いがあるが、版刻では、原則として間違い初めて0.5%以下だよ。<

>数字の根拠なし。<

Yahooでの議論で、大和説派のハイエナと自称する男が、三国志の全文字数を概算して約80万字と算出し、
その内で、写本→版本の移行があった宋明清代の考証校勘に供された「三国志内での差異発生の全文字数」が4000文字余りであった、という事で、
割り算して、全写本版本での差異発生確率は、0.5%。

>>写本では誤記があるが、
後代史書では唐代史家らも現代大和説者らも、「意図的な書き換え」だよ。<

>そんなこと言ったら《三國志》の刊行本でもあり得るでしょ。<

若干あるよ。紹興本の「對海國→對馬國」のように。

>気に入った文献だけ「書き換え」が無くて、気に入らない文献は「書き換え」が有ると 勝手に認定しているだけだね。<

どちらの方が「古本」や「古形」であったのか?の史料批判をすれば、簡単に判断が付くよ。

>>>(海と馬は)字形も意味も違い過ぎるから、誤記ではなく、意図的な書き換え。<

>そんなの希望だって。<

唐代頃の人は、「海→馬」の書き換えをやっても、「馬→海」の書き換えはしない、という事が人類の常識なんだって。

>>後代の知見に拠る書き換えがあった、という形になっている事が史料事実なの。<

>君の仲間内だけだろ。、

正常な思考の人の「人類の常識」の書き換え。

270日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:36:36.42
>>240
>卑弥呼の墓は、日本で最も聖なる土地にある、日本で最も古い神社の境内にある。
高天原(御所市高天)にある高天彦神社だ。<

「南≠東」に拠って、×。

271日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:38:10.30
要するに
この人の言うことは
いつも又聞きの曖昧な記憶の
怪情報なんだよね

272日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:42:09.10
>>267
>皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
>※「筑紫」=北九州

※「筑紫」「筑紫城」=倭国(阿波)筑紫城 所在地:阿波市市場町大影字境目 


>日本と倭国は別種。

日本(奈良)と倭国(阿波)は同族だが場所は別。


>日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本(奈良)は古くは小国だったが、倭国(阿波)の地を遷都により併合した。


>日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は倭国(阿波)にいた。(新唐書)  @阿波

273日本@名無史さん2018/07/17(火) 08:48:14.86
>>241
>>(苑や、宣池?)張元済本における史料事実だよ。<

>他で確認も出来ないし、地名かどうかも分からんだろ。<

「屯苑」は「苑に屯する」だから地名だし、宣池も地名だし、
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、孤立的な単一情報など、幾らでも有り得る事だし・・・。

>>という事は、やっぱり書陵部本でも「苑」であった、という事であり、
始めに書陵部本は「宛」になっている、と言っていたお前は、ウソを付いていた訳だ。<

>失礼だな。なっているなんて言ってないよ。 そちらの勝手な決めつけだ。
こちらはずっと誤記と言ってきたよ。<

どっちが「誤記だ」、と言って来たの?。
張元済本の「苑」が誤記だ、と言って来たが、
今になって、「書陵部本」も「苑」であった事を認めたんだろ。

>>三国時代にあっては、どこからの急襲があるやも知れず、守備兵だけでは足りない事は幾らでも有り得るよ。<

>適当な思いつきだろ。<

新野が、宛と襄陽のほぼ中間になる、という事からの、推論。

274日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:21:52.89
>>242
>「苑」は荊州治所の「宛」の誤植なので<

宮内庁書陵部本でも張元済本でも、「苑」であるから、
三国志の全写本版本でも「苑」であった可能性が高く、誤植にならないし、
更に、「宣池」が「宛」付近には見つからず、「苑」は「宛ではない」という事の証拠にもなる。

〉襄陽〜南陽市宛城区の直線距離が約116kmで、300里だと1里約387mだから
道なり距離で公里の約434.16mに近い数値
王昶が半分の距離の新野(襄陽から直線で約60km)に治所を移しで
(三州口?で)水軍を習練し、開墾、穀物を盈積した <

「宛の宣池」を探してから、言い出しな。

275日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:24:59.86
だから刺史治を宛から新野に移したのに

276日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:28:36.34
>>274
>更に、「宣池」が「宛」付近には見つからず、「苑」は「宛ではない」という事の証拠にもなる。

「諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴」
とはっきり書いてあるんだから
「宣池」が「宛」付近ではなくて当然だ

何をトンチンカン言ってるんだ?

277日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:34:04.54
こんなふうに古田説は
あらゆる局面で日中両国での定説に逆らい続けるトンデモ歴史創作だから
学識者から相手にされないのも当然だな

278日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:39:41.55
>>244
>>だから「苑」では散在していた。<

>付近には他にも城があるのだから成り立ちませんな。<

変な男。どの辺の事を言っているのか?は知らんが、
「他にも城がある」んなら、ますます「苑」であった可能性が高くなる。

>>青龍三年では、まだ蜀もあったのではないか?と思うし、
呉も遠回りして宛を攻撃する事もないとは言えない筈。<

>三國志読んでいないから適当な事をいう。 この頃には既に蜀の荊州の領地は無くなっていた。
呉の拠点江陵から一番近いのが襄陽ってこと。 魏の領内を遠回り?退路絶たれて全滅だよ。<

魏が襄陽を守ろう、とするんなら、当然、
新野よりもはるかに襄陽に近い場所に屯するもの。
それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、
襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。

>>四庫全書では、また、後代権威学者の「自己解釈に拠る書き換え」が十分に有り得る書だな。<

>また勝手な「書き換え」認定か。<

どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、
これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。

279日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:45:44.58
>>278
>それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、
>襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。


何も知らないから妄想する
荊州と予州という広大な地域を所管する刺史治なんだ
つまり地方政治のカナメの府
端っこの、しかも敵地の近くギリギリに移転するわけないでしょ

280日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:48:41.28
>>278
>どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、
>これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。


じゃあ「見てきた」って
証拠もなく言い張ってるわけだね?

281日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:51:03.03
>>248
>征南將軍、假節都督荊・豫諸軍事の王昶が
治所でもない、鳥獣を養うような不便なところに駐屯していることはない <

だから、辺鄙な「苑」から便利な「新野」に屯地を移した。

282日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:52:45.48
そもそも「有急不足相赴」 だから近くに移転するのに
3倍近い距離ほども遠くに移転してどうする
古田説は支離滅裂だ

283日本@名無史さん2018/07/17(火) 09:54:00.91
>>281
なんで辺鄙なところに2州の統合政府があるんだ?

284日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:05:05.85
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

285日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:09:01.58
>>284
いつ覗いても事実の正反対を呟いてるね

286日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:09:12.54
>>252
>>魏使らや陳寿らは、(短里使用ga)定まっていたという事であり、
魏の役人たちは、漢代記録や上表文は、そのまま記載し、
魏代初期の記録は、長里と短里の両方があった可能性がある、という事だ。<

>漢代記録は漢の役人の仕事だよ。両方とか運用出来ないね。<

陳寿は、自分の実体験確認情報と、蜀や魏の役人の記録などを元にして、三国志を書いた。

>そもそも陳寿には蜀の地勢しかわからないだろ。<

晋の仕えていたんだから、魏や晋の地勢も知っている。

>>いずれもYahooでの議論になった例であり、
textreamに変わってから、 古い議論が全部出せなくなり、抹殺されて消失してしまったし、
もう一々覚えていないから、出せないし、出さないよ。<

>掲示板のデータなんていつか消えるものだよ。 その時も自分からは何も出してないんでしょ。<

内容には大して関心がないが、
Yahooや5chの「万世一系皇国史観」の、嘘つき騙しの大和説への偏向姿勢は、
国民のためにならず、黙過し難い。

287日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:10:50.87
>>284
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、

288日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:11:41.10
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

289日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:16:41.82
他のスレにも書いていることなんだけど

お前の言う、テンノーというのは、どういう意味なんだよ。
たまにテレビなどに出てきたりする人?

290日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:20:11.74
これも何度も書いていることなんだけど

そろそろ頭の病院に行くか、
刑務所(死刑)にでも行ったほうが良いぞ

291日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:22:26.23
長安から鄴まで往復4千里だよ
魏で短里なんて使われてない

292日本@名無史さん2018/07/17(火) 10:55:04.08
>>254
議論じゃなくて、
「戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロの侵略戦争狂の大和説者や、
右翼学会教育界や、Yahooや2chや読売産経などの右翼マスコミが、
デマを撒き散らしているのを、
日本人が訂正していたんだろう。

293日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:04:06.80
>>255
>>(襄陽から三百里が)、長里であれば、ほぼ宛に届いてしまって散屯する必要もないし、
宣池もあった筈だが見つからないから、 長里ではない。<

>宣池も宛からは遠いから新野に移したというだけ。<

記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。

>>後代の唐代に書かれた晋書では、
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見」などの例に拠って、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をしている史書である事になり、
信頼性が落ち、 そんな半分×書での「屯宛」では、根拠になり難いな。<

>また勝手な「書き換え」認定ですね。
そんなこと言ってたら全ての文献が半分×書になるね。<

ならんね。
ほぼ同時代の実見記録は、客観性も信頼性も確率も高いが、
後代史書の「前史の実見記載の、自己解釈に拠る書き換え」記載は、客観性も信頼性も確率も落ちる、
と言っているだけ。

294日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:10:30.73
>>256
「戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロや侵略戦争思想という「結論先にありき」で、
史料批判もせずに、都合の悪い史料事実を抹殺したり曲解したりするから、
間違うし、そして恥をかく。
それが、大和説。

295日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:17:07.17
>>261
大和説が論破されると、
いつも、まともな反論論拠を言えずに、
おバカな、「根拠は?」や、口先ヘイトスピーチなどの連続が始まるね。

296日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:17:58.30
>>293
>記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。

いや、そんな記載ないから

297日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:19:24.81
>>263
などと妄想する、「南→東」などの嘘つき騙しの不合理人間。

298日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:21:05.97
>>264
>倭国(阿波)<

「南≠東」に拠って、×。

299日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:21:42.68
>>295
根拠を聞くのは極めてまともな反論なんだが

だって、根拠を聞かれて答えられなかったら
根拠のない主張をしてたって証明されるだろ

300日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:30:35.45
>>271
要するに、
大和説者の言うことは、いつも、、
「南→東」などの史料事実の否定曲解や、
「戦前の万世一系皇国史観」という結論先にありきでの口先誹謗や、、
又聞きの曖昧な記憶な怪情報なんだよね .

301日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:35:24.41
>>275
>だから刺史治を宛から新野に移したのに<

だから、史料事実は、
屯地を「苑」から新野に移した、という事になっている、
って言っておいたのに。

302日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:37:30.03
「南≠東」とか、さしたる根拠もなく言い張りたいトンデモ説が


もう必死ですわw

303日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:39:09.05
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当はもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。

304日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:40:05.75
>>276
>>更に、「宣池」が「宛」付近には見つからず、
「苑」は「宛ではない」という事の証拠にもなる。<

>「諸軍散屯,船在宣池,有急不足相赴」 とはっきり書いてあるんだから
「宣池」が「宛」付近ではなくて当然だ
何をトンチンカン言ってるんだ?<

だから、「苑」地は「宛」ではない、と言ってんだよ。
何をトンチンカン言ってるんだ?。

305日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:41:35.88
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。

306日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:42:09.96
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。

307日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:42:41.88
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。

308日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:42:57.01
最有力の説は、粗末な土間の掘立小屋の生口の倉庫遺蹟説だね。。。

309日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:43:24.73
>>577
こんなふうに、
大和説や、学会教育界や、安部政府や、右翼マスコミらは、
あらゆる局面で、史料事実や史料実態に逆らい続けるトンデモ歴史創作だから、
国民の7割から相手にされないのも当然だな。

310日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:48:07.66
>>797
>>それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、
襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。<

>何も知らないから妄想する 荊州と予州という広大な地域を所管する刺史治なんだ
つまり地方政治のカナメの府
端っこの、しかも敵地の近くギリギリに移転するわけないでしょ<

それなら新野でも、「端っこの、しかも敵地の近くギリギリ」になるじゃんか。
この・・・・大和説男は、ここでも自己矛盾を晒しだしている。

311日本@名無史さん2018/07/17(火) 11:50:29.84
>>280
>>どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、
>これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。<

>じゃあ「見てきた」って 証拠もなく言い張ってるわけだね?<

見て来たから、言って上げてんの。

312日本@名無史さん2018/07/17(火) 12:00:33.63
>>282
>そもそも「有急不足相赴」 だから近くに移転するのに
3倍近い距離ほども遠くに移転してどうする 古田説は支離滅裂だ<

どこから「3倍近い距離」なんて事になるのか?は知らんが、
新野は宛と襄陽の真ん中辺。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、支離滅裂だ。

313日本@名無史さん2018/07/17(火) 12:03:34.64
>>281
>なんで辺鄙なところに2州の統合政府があるんだ?<

そうですよね。
大和説者は、何だか、
宛から新野へ、2州の統合政府を移転させたいらしい。

314日本@名無史さん2018/07/17(火) 12:09:29.08
>>274

「苑」という地名はないので中国では当時の荊州治所であった「宛」に訂正されている
危急時に襄陽に赴くのに不足の理由の一つとして「船在宣池」を挙げ
治所を新野に移して水軍を習練しているので「宣池」は荊州治所であった「宛」の近くにはない
曹操が赤壁の戦いの後、南征のため鄴に人工の玄武池を造り水軍を訓練したので
「宣」は天子が居住する正殿であるから「宣池」は玄武池のことを指しているのかもしれない

315日本@名無史さん2018/07/17(火) 12:34:16.70
論破されて、幼稚化したキナイコシが、現れないのではないのかな。。。

316日本@名無史さん2018/07/17(火) 13:58:49.45
根拠が理解できない知恵遅れだからしゃーない

317日本@名無史さん2018/07/17(火) 14:30:42.13
>>314
さすがにそれでは水軍の駐屯地として用をなさない
最低でも襄陽の防衛戦に出撃できる漢水かその支流に出入りできる大淀だろう
そのために宛にある司令部との連携に問題が出たのが新野移転の主因ではなかろうか

318日本@名無史さん2018/07/17(火) 16:01:27.89
連続句読点男のコミュ障ぶりが際立ってるなあ

319日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:22:02.36
>>291
>長安から鄴まで往復4千里だよ 魏で短里なんて使われてない <

次に山尾氏のあげられた例を見よう。
(建安)十九年、趙衢・尹奉等謀討超。姜叙起兵鹵城、以応之。
・・・超奔漢中、還囲祁山。叙等急求救。諸将議者、欲須太祖節度。
淵曰「公在業*、反覆四千里、比報、叙等必敗、非救急也。」遂行。(魏志第九)
氏は淵(夏候淵)のいる場所を「長安」とし、
上の淵の言葉を「長安から業*まで往復四千里もして曹操の指令を待つわけにいかぬ」という意味だとされる。
すなわち長安 ーー 業*間、片道一六五〇里(劉昭註)、往復三三〇〇里を概数で「四千里」と言ったもの、とされるのである。
しかしこの時、夏侯淵は「長安」にいたのではなく、「都」(洛陽もしくは遷都中の許)にいた・・・。
(1) (建安十七年)太祖乃還業*、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等屯長安。(魏志第九、夏侯淵伝)
ここで「長安に屯している」のは、朱霊・路招等であり、淵ではない。

320日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:28:05.28
>>296
>>記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。<

>いや、そんな記載ないから<

書陵部本でも張元済本でも「屯苑」であったから、「苑」の屯していて、
その付近に「宣池」があった事になり、
その「苑」から新野に「屯地を移した」という事になったんだから。

321日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:44:35.46
>>284
>いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、<

仕方が無いよ
ど素人が いろんなところから引っ張って来て 
継ぎ足し、継ぎ足しテンプレを創った結果が支離滅裂になっちまったのだよ
相手にすべきテンプレでは無い 出来の悪いラクガキだから

322日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:48:22.24
>>299
>根拠を聞くのは極めてまともな反論なんだが
だって、根拠を聞かれて答えられなかったら 根拠のない主張をしてたって証明されるだろ<


人は全て、自然や歴史の全てを知る事が出来ないのであり、
知り得た範囲以内や、記憶している範囲内から、帰納的確率的な推論をするしかないもの。
それは「証拠は?」という質問をする大和説者にとっても同じ事で、
「証拠は?」と言う質問の応酬は、いずれは不可知領域になってしまい、
そうなると、大和説者も議論で負けた形になってしまうもの。

だから、「証拠は?」の質問を言い続ける大和説者は、一種の・・・・であり、
相手にしていない。

323日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:51:29.52
>>302
「南≠東」などに反論出来ないトンデモ大和説者は、
もう必死ですわw。

324日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:53:26.70
畿内説の研究者のほとんどは
南→東は誤写としているが 根拠は「畿内に邪馬台国ありき」からの後付け
倭人伝の全ての南が東になっていたらいいのだがネ
誤認とする一部の研究者もいるが、憶測の憶測で根拠づけたりえない

325日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:01:24.32
>>302
「南≠東」などに反論出来ないトンデモ大和説者は、
もう必死ですわw。

326日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:01:58.21
>>302
「南≠東」などに反論出来ないトンデモ大和説者は、
もう必死ですわw。

327日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:02:15.98
>>302
「南≠東」などに反論出来ないトンデモ大和説者は、
もう必死ですわw。

328日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:06:29.96
畿内説のバカどもは
南→東は間違いと言い

会稽東治の東は正しいと言う・・
・・・九州説でも会稽東治の東は容認するが畿内説を論破済み

方向音痴集団が畿内説論者

329日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:10:58.98
>>314
>「苑」という地名はないので中国では当時の荊州治所であった「宛」に訂正されている<

中国であれ、唐代史家であれ、現代大和説者であれ、
史料記載の「苑」や「宣池」が不可知であったからと言って、
勝手に、「苑は宛の間違いだ」なんて嘘つき騙しを断定してよい筈がない。
まるで「南→東」などの嘘つき騙しと同じパターン。

>危急時に襄陽に赴くのに不足の理由の一つとして「船在宣池」を挙げ
治所を新野に移して水軍を習練しているので「宣池」は荊州治所であった「宛」の近くにはない
曹操が赤壁の戦いの後、南征のため鄴に人工の玄武池を造り水軍を訓練したので
「宣」は天子が居住する正殿であるから「宣池」は玄武池のことを指しているのかもしれない<

勿論「宣池≠玄武池」であるから、これも分裂幻覚妄想の嘘つき騙しの嘘つき騙し症状。

330日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:38:11.43
三種の神器か

天智天皇の時までは三種だったが、何故か天武朝になると、神璽は剣鏡になるんだな
どういう意味があるのか?

一説によると鏡は日、勾玉は月を表していると言われている
草薙剣は元はヤマタノオロチのものだった

勾玉だけが皇居にあるのはどういう意味なんだろうか?

331日本@名無史さん2018/07/17(火) 18:46:01.50
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」

寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。

「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」

大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆している。
これにて畿内説は完全に終了だが、纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。

332日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:02:48.67
>>331
>寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
>つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
>纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。

ウソだよ
憶測交じりで内容を捻じ曲げている

寺澤先生の本文中の言葉
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
 あろうと考えている。」
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
 大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」

>大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆している。

これもウソ
寺澤先生の本文中の記載
「征服など物理的強力を前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
 直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。

>これにて畿内説は完全に終了だが、纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。

これもウソ
纒向学の御大、寺澤先生本人が
「仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」」
「倭国新政権の大王都 ・ 纒向遺跡」
ってはっきり書いてるんだからww

>それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。

また大嘘書いてる 論文本体のURLを書いても、読みに行かない人間はだませると思ってるのかね

333日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:10:38.72
三種の神器は奈良時代に創られたのです
邪馬台国とヤマト王権は関係無いのです

邪馬台国を解くカギは
3世紀まで、どの地の文明的な遺物が発掘されてるかですよ

九州 出雲 阿波・・・・・遅れて畿内

334日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:12:49.70
>>332

寺澤氏でいいの


先生じゃねーし

335日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:13:51.21
畿内説のバカどもは
南→東は間違いと言い

会稽東治の東は正しいと言う・・
・・・九州説でも会稽東治の東は容認するが畿内説を論破済み

方向音痴集団が畿内説論者

336日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:15:36.19
324日本@名無史さん2018/07/17(火) 17:53:26.70

畿内説の研究者のほとんどは

南→東は誤写としているが 根拠は「畿内に邪馬台国ありき」からの後付け

倭人伝の全ての南が東になっていたらいいのだがネ

誤認とする一部の研究者もいるが、憶測の憶測で根拠づけたりえない

337日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:17:23.40
>>284
>いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、<

仕方が無いよ
ど素人が いろんなところから引っ張って来て 
継ぎ足し、継ぎ足しを無意味にして テンプレを創った結果が支離滅裂になっちまったのだよ
相手にすべきテンプレでは無い 出来の悪いラクガキだから

338日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:19:18.01
畿内説では無いが

畿内説を強化するには

卑弥呼が居た王都は平安京の底に眠っているとしたほうがいい

339日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:20:00.40
丹後半島は地政学的に凄いところだな
天然の良港、真水、平地、等々条件が揃っている
もっと評価されてもいいかもしれない

丹後半島の歴史に詳しい人いないかな?

340日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:20:55.35
畿内説では無いが

畿内説を強化するには

卑弥呼が居た王都は平安京の底に眠っているとしたほうがいい

341日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:22:14.39
>>339

それが 京都説です

342日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:28:04.34
>>336
>畿内説の研究者のほとんどは
>南→東は誤写としているが 

こんなウソを平気でつくから九州説も困ったものだ

343日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:28:25.36
>>329

中国には古地名が書かれたさまざまな古文献があるので
曹魏の評価が低く、誤植が多い版本しか残らなかった三国志の「苑」は、
荊州治所の「宛」の誤植であろうと、訂正されているのであろう
北部九州に「ヤマイ」などという古地名がなかったのと同じ
日本国内の犯罪の誘発を目的とした反日どろぼうの会だけが
誤植のような文献のゴミを拾って詐欺商売をしている

344日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:49:15.91
>>334
>寺澤氏でいいの

>先生じゃねーし

研究者には敬意を払って先生呼びにしてるんだよ
柳田先生とか 森浩一先生とか

研究家は「氏」で呼んでる
安本美典氏とか

まあ、個人的な使い分けだから、気にするなw

345日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:54:13.79
キウスにマジレス
馬の耳に念仏

346日本@名無史さん2018/07/17(火) 19:59:42.18
>>284
>いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、<

仕方が無いよ
ど素人が いろんなところから引っ張って来て 
継ぎ足し、継ぎ足しテンプレを創った結果が支離滅裂になっちまったのだよ
相手にすべきテンプレでは無い 出来の悪いラクガキだから

347日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:01:57.70
>>344
じゃあ
>>1もザラコクも岡上も
先生じゃん
君も先生じゃん

348日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:06:41.11
>>334  どうでもイイよね

「研究家」とは - 研究する人。研究者

「研究家」≧研究する人。研究者

349日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:38:44.48
>>314
曹操はあくまで漢の丞相であって天子ではないのだが・・・

350日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:41:43.43
>>347
世間では、アカデミックポジションに就いていて、コンスタントに学術雑誌で
査読つき原著論文を発表している人を研究者っていうんだよ

ザラコクさんやお鏡さんは、妄想家w

351日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:45:51.31
結局はポストを獲得したかどうかの権威主義だろ。

352日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:52:03.08
>>349
正始年間ならもう魏の武帝だよ

353日本@名無史さん2018/07/17(火) 20:56:41.83
>>317

そういうこともあるだろうが、呉との水上戦というより
「諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴」の「船在宣池」というのは、
諸軍が散屯しているのはその必要性があるから散屯していたわけで
襄陽の危急時に各地から兵をすばやく運んで集結するのに
船がその必要な場所にない、ということではないかと思うんだが
241年に樊城が包囲されたときは、治所の「宛」からの荊州刺史の胡質と都督荊豫諸軍事の夏侯儒の兵は間に合ったが
司馬懿が大軍を率いて到着するのに1月かかっている

354日本@名無史さん2018/07/17(火) 21:15:26.81
>>351
畿内説の研究者はネ
銭とポストのためには、なんでもやる
困ったもんだ

355日本@名無史さん2018/07/17(火) 21:20:56.79
考えるのは寺澤氏の勝手だが 支持は得られない

> あろうと考えている。<
この自信の無さは何だ

「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
 あろうと考えている。」

356日本@名無史さん2018/07/17(火) 21:47:26.28
>>351
>結局はポストを獲得したかどうかの権威主義だろ。

そのポストに就くために「コンスタントに学術雑誌で査読つき原著論文を発表」する
必要があるんだよ

実力の世界だよ

357日本@名無史さん2018/07/17(火) 21:48:01.42
>>354
自演乙

358日本@名無史さん2018/07/17(火) 21:48:01.88
>>354
自演乙

359日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:01:48.65
>>355
>考えるのは寺澤氏の勝手だが 支持は得られない

チェリーピッキングで騙し損なったら、今度は中傷に走るのか?

古代のことでは確定的なことはそうそう分からないんだから、
「邪馬台国であろうと考えている」というのは、実はかなり踏み込んだ書き方だよ

360日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:09:43.78
>>354
>畿内説の研究者はネ

九州説の研究者はね、いないんだ、一人も
残念だったねぇ

361日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:28:42.04
>>332
>纒向学の御大、寺澤先生本人が
「仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」」
「倭国新政権の大王都 ・ 纒向遺跡」 ってはっきり書いてるんだからww<

じゃ、寺澤も「南→東」などの嘘吐き騙しになるから、×人間ね。

362日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:29:51.11
>>352
曹操は生きている間は、漢の丞相

武帝は死後の諡?だよ

363日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:33:42.60
>>338
>卑弥呼が居た王都は平安京の底に眠っているとしたほうがいい<

「南≠東」だから、×ね。

364日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:36:25.66
>>342
「南→東」などのような、
こんなハッキリしたウソを平気でつくから、
大和説者も困った人種だ 。

365日本@名無史さん2018/07/17(火) 22:57:41.19
>>343
>中国には古地名が書かれたさまざまな古文献があるので
曹魏の評価が低く、誤植が多い版本しか残らなかった三国志の「苑」は、
荊州治所の「宛」の誤植であろうと、訂正されているのであろう<

宮内庁本と、沢山の版本を比べ廻った張元済本のどちらもが、
(宛ではなく)「苑」であったんだから、「誤植」ではなかったんだろう。
後は、「苑」の校勘が行われたのか?を調べるべき。

>北部九州に「ヤマイ」などという古地名がなかったのと同じ<

これは×ね。。
後漢書の李賢注が「邪摩惟」という文言の存在を記録している。

結局、
日本国内の「戦争や犯罪の誘発を目的」とした「万世一系皇国史観」狂の大和説者だけが、
「都合の悪い苑」を「誤植だ」とするインチキ詐欺商売をしている。

366日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:07:42.31
「邪摩惟」は「ヤマイ」と読まない

読んだら病

367日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:11:01.80
>>365

「ヤマイ」という古地名がないから「邪摩惟」は隋書の「都於邪靡堆」が正しい

宗教指導者に憧れたマヌケな詐欺師古田は誤植を拾うだけではネタ不足であった為
「反日のススメ」の根拠にどろぼう偽書にまで手を出すことになり、
連呼とオウム返ししかできない程度の反日どろぼうだけが残った

368日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:11:07.46
>>353
>そういうこともあるだろうが、呉との水上戦というより
「諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴」の「船在宣池」というのは、
諸軍が散屯しているのはその必要性があるから散屯していたわけで
襄陽の危急時に各地から兵をすばやく運んで集結するのに
船がその必要な場所にない、ということではないかと思うんだが
241年に樊城が包囲されたときは、治所の「宛」からの荊州刺史の胡質と都督荊豫諸軍事の夏侯儒の兵は間に合ったが
司馬懿が大軍を率いて到着するのに1月かかっている <

それで、その時、新野の屯軍は、どうしたの?。出撃したの?。

369日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:12:55.70
>>368

新野の屯軍て?

370日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:13:19.37
>>365
>>365
>日本国内の「戦争や犯罪の誘発を目的」とした「万世一系皇国史観」狂の大和説者だけが、
>「都合の悪い苑」を「誤植だ」とするインチキ詐欺商売をしている。

いや、「宛」の間違いだというのは
中国で昔からの定説
当然ながら「苑」と校勘が行われている

それを「苑」で正しいと言い張っているのは
日本の古田一派くらい

371日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:22:00.43
>>367
>「ヤマイ」という古地名がないから「邪摩惟」は隋書の「都於邪靡堆」が正しい<


唐の李賢は、「邪摩惟」という地名の存在を知ったから、
後漢書の邪馬臺國に、【案:今名邪摩惟、音之訛也。】という注が、
(正否はともあれ)書けた。

372日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:24:44.09
>>371

「案:今名邪摩惟、音之訛也。」となっているのは版本だから
書けたのではない

373日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:31:09.53
>>369
>新野の屯軍て?<

青龍3年に上表文が出されて、「(宣池などがある)苑から新野に屯地を変えた」んなら、
241年の戦いには、当然新野の屯兵も参戦した、と思うから。

374日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:35:42.39
>>373

青龍四年の詔で(卿校以上は各一人づつ)司馬懿は王昶を薦挙した
王昶伝を読むか、上のほうに書いた

375日本@名無史さん2018/07/17(火) 23:36:19.58
>>370
>当然ながら「苑」と校勘が行われている <

宮内庁本も張元済本も「苑」であったんだよ。
誰が何本で、校勘をしているの?。

376日本@名無史さん2018/07/18(水) 00:11:37.38
>>266
>古代中国人は、漢字を並べた漢文として、句読点も無しで書き、読んだんだよ。
>「書き下し」や「訳」は、その時点でその人間の読み方や解釈が入ってしまって、 原文とは必ずしも一致しなくなるもの。
中学生が習う「書き下し文」に対して、自説を披露しても何もにならんよ。

>議論をずっと読んで来た人は、お前が、
>書陵部本には「宛」であった、と(ウソno)主張していた事>を知っているよ。
失礼だなぁ。
Part359〜362に「書陵部本には」「書陵部本では」なんて書いてないよ。

377日本@名無史さん2018/07/18(水) 00:16:20.70
>>269
>Yahooでの議論で、大和説派のハイエナと自称する男が、三国志の全文字数を概算して約80万字と算出し、
>その内で、写本→版本の移行があった宋明清代の考証校勘に供された「三国志内での差異発生の全文字数」が4000文字余りであった、という事で、
>割り算して、全写本版本での差異発生確率は、0.5%。
他人の又聞きなんて根拠にならないよ。再確認したの?
その人のブログを見たけど「全写本版本」なんて書いてなかったよ。

>どちらの方が「古本」や「古形」であったのか?の史料批判をすれば、簡単に判断が付くよ。
史料批判する為には背景も理解する必要がある。
三國志をほぼ読んでいないだから、まともに史料批判が出来るわけがないよね。

>正常な思考の人の「人類の常識」の書き換え。
勝手に「人類の常識」にしてしまう厚顔に驚くよ。

378日本@名無史さん2018/07/18(水) 00:17:59.70
>>273
>不可知部分が殆どである自然や歴史においては、孤立的な単一情報など、幾らでも有り得る事だし・・・。
孤立的な単一情報は参考程度にするのが普通。
別情報が見つかってやっと検証できる。

>新野が、宛と襄陽のほぼ中間になる、という事からの、推論。
やっぱり思い付きレベル。

379日本@名無史さん2018/07/18(水) 00:29:40.64
>>278
>「他にも城がある」んなら、ますます「苑」であった可能性が高くなる。
宛〜襄陽には名前も場所もわかっている城が他にもあるのに、
総司令官がそれらの城に入らず無名の「苑」にいるわけがないよね。

>魏が襄陽を守ろう、とするんなら、当然、 新野よりもはるかに襄陽に近い場所に屯するもの。
>それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、
>襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。
どなたかが>>353に「芍陂の役」のことを書いてくれてたよ。
この被害があった上での対策だね。だから宛の援軍とか考える必要ない。

正始二年(241年)に夏侯儒が都督荊豫州諸軍事で「芍陂の役」後、中央に召還される。
正始中に王昶が假節都督荊、豫諸軍事と書かれているから、王昶の荊州への派遣も上表文も「芍陂の役」後だね。

>どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、
>これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。
一事が万事で一括りなんでしょ。
それぞれ個別にみる必要があるはず。

380日本@名無史さん2018/07/18(水) 00:33:06.60
>>293
>記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。
そんなこと書いてないね。

>ならんね。
>ほぼ同時代の実見記録は、客観性も信頼性も確率も高いが、
>後代史書の「前史の実見記載の、自己解釈に拠る書き換え」>記載は、客観性も信頼性も確率も落ちる、
>と言っているだけ。
どの文献も結局のところ寄せ集めさ。
散逸したほぼ同時代の文献の価値を認めないで、勝手な「書き換え」認定してるだけでしょ。

381日本@名無史さん2018/07/18(水) 02:28:05.14
♪邪馬台国ドンと来い!♪138
http://2chb.net/r/history/1529860126/261-265

382日本@名無史さん2018/07/18(水) 05:44:32.78
「宛」と「苑」・・書き間違いかどか知らんが
「東」と「南」は似ても似つかない文字

極論だが 畿内説は
倭人伝の「南」の記述をすべて「東」の間違いとすれば良いのだが・・できないよな

383日本@名無史さん2018/07/18(水) 05:52:54.77
>>381
調査費用の多寡の問題もあるな

384日本@名無史さん2018/07/18(水) 05:54:13.81
>>337
>相手にすべきテンプレでは無い 出来の悪いラクガキだから<
ww

385日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:00:41.22
寺澤説
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
 あろうと考えている。」

>>1
「邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありません」

386日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:30:02.06
>>332
>纒向学の御大、寺澤先生本人が
「仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」」
「倭国新政権の大王都 ・ 纒向遺跡」 ってはっきり書いてるんだからww<



寺澤氏は断定的なことは言っていないはずだが?

387日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:33:16.68
>>382
>「宛」と「苑」・・書き間違いかどか知らんが
>「東」と「南」は似ても似つかない文字

文字が似ているかどうかではなく、
大陸中華の地理観、常識では、
倭國は南北に長くのびる洲島の上にあることになっていたから
意識的に「南」にされたんだと思ってるよ

書き「間違い」ではなくね

388日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:38:45.68
>>386
>寺澤氏は断定的なことは言っていないはずだが?

少しスレを遡って読んでもらえば、もう少し長く引用してあるよ
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
 あろうと考えている。」
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の
 大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」

まあ、「あろうと考えている」という書き方だから、断定はしてないね

389日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:50:22.08
>>387
常識ですか うーーーん

390日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:53:35.87
寺澤教の信者が適当に断定してしまったのだ

391日本@名無史さん2018/07/18(水) 07:55:52.64
>>388
寺澤氏は阿波の「若杉山遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」などをどう見ているんだろうか。
そんな遺跡が畿内から発掘されないから、黙殺する程度の人なんでしょうかね。  @阿波

392日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:18:01.17
日本は侵略や征服された歴史がないので王権の痕跡は神社として残る。

4世紀前半の崇神ゆかりの大神神社、
その前時代が卑弥呼の時代だ。

つまり邪馬台国の王都の場所。


ならば大神神社より古い名神大社は限られる。

高天彦神社、葛木御歳神社、高鴨神社、葛木水分神社とその下の長柄神社。

邪馬台国とは葛城なのだ。

名神大社だけを見てもはっきりわかる。

王都が纏向などにあるものかバカ。

393日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:19:47.28
>>378
>>Yahooでの議論で、大和説派のハイエナと自称する男が、三国志の全文字数を概算して約80万字と算出し、
その内で、写本→版本の移行があった宋明清代の考証校勘に供された「三国志内での差異発生の全文字数」が4000文字余りであった、という事で、
割り算して、全写本版本での差異発生確率は、0.5%。<

>他人の又聞きなんて根拠にならないよ。再確認したの? その人のブログを見たけど<

そりゃ、ハイエナも「南→東」などの嘘つき騙しのずる賢いアル中だっからから、
私に簡単に論破されてしまった事は、自分のプログには書かなかったんだろう。

>「全写本版本」なんて書いてなかったよ。<

宋明清代の考証校勘に供された「差異」文字は、当然、
それまでの「写本版本」の全てで発生した差異の積み重ねの結果。

>>どちらの方が「古本」や「古形」であったのか?の史料批判をすれば、簡単に判断が付くよ。 <

>史料批判する為には背景も理解する必要がある。<

「海と馬」の場合にも、背景を史料批判しておいた筈だよ。

>三國志をほぼ読んでいないだから、まともに史料批判が出来るわけがないよね。<

別に全部読む必要がないし、史料批判には、三国志以外の存在情報も、人類の常識に従って、批判する必要がある。

>>正常な思考の人の「人類の常識」での書き換え。<

>勝手に「人類の常識」にしてしまう厚顔に驚くよ。<

「南→東」などのような、史料事実の否定曲解をするような大和説者やお前は、
人類の常識知らずの、分裂幻覚妄想の・・・・なんだろう。

394日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:24:52.35
>寺澤氏は断定的なことは言っていないはずだが?

そりゃ言えないさ、2世紀末から始まる纏向なら、
2世紀前半の其国の男王を説明できないから。
だから寺沢は唐古鍵にも含みを持たせるような発言をしてた。
つまりどっちつかず、大した男ではない。

395日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:26:46.99
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。

396日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:26:47.76
東遷説と批判されたと書いているからね。
圧力に負けたんだよ。
これまでの著作を読んでくれればわかる、という表現に苦悩が滲んでいるよ。

397日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:27:23.24
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。

398日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:29:03.95
倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。

399日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:31:19.88
>>392
岡上みたいにバカなこと言う奴がいるんだな

ww

400日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:32:43.91
大和の王権が、記紀でわざわざ筑紫の末裔を名乗る意味はなんだろう?
それは筑紫に倭国の正統があったという前提が日中の間にあったからではないか。
記紀は白村江の敗戦の後に書かれている。

401日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:34:01.68
>>392
これは鴨厨だろ。
スレ主と同じ畿内自生説。
岡上は東遷説。

402日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:34:56.14
>>378
>>不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
孤立的な単一情報など、幾らでも有り得る事だし・・・。<

>孤立的な単一情報は参考程度にするのが普通。<

史料批判に拠って、「否定抹殺」不能な情報である、という存在確認が出来れば、
推論の根本的な出発情報である事になる。
それが科学であり、学問。

>別情報が見つかってやっと検証できる。<

これが、大和説者の「都合の悪い史料事実」の否定抹殺の手口。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、単一情報なんて、幾らでも有り得、
それを史料批判も無しに、否定抹殺していれば、
当然、どんでん返しや、事故や、人類滅亡的な大災害が起きる。

>新野が、宛と襄陽のほぼ中間になる、という事からの、推論。<

>やっぱり思い付きレベル。、

実際に、襄陽付近での戦闘があれば、新野の「屯」軍が参戦しない筈がない、
という事の、情報確認。

403日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:35:35.56
>>400
>大和の王権が、記紀でわざわざ筑紫の末裔を名乗る意味はなんだろう?

ウソコケ

404日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:39:50.48
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書)

405日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:43:49.51
>>397
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。

406日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:44:53.59
ちなみに彦渚は神武の父親の彦渚ウガヤフキアエズ命のこと。
つまり新唐書は記紀とほぼ同じ内容となっている。

407日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:45:38.19
倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、

408日本@名無史さん2018/07/18(水) 08:47:53.73
>>403
神武は筑紫の日向の高千穂宮を出発したと書いてあるよ。

409日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:04:44.64
>>408
好きな地名を付けてもよいぞ ハ〜イ

410日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:07:21.58
>>402
ただ「筈がない」って想像するのが「情報確認」なわけないでしょ

411日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:10:26.01
畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の無いことを呟き始めたな。。。

412日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:11:13.83
倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。

413日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:11:32.76
>>412
同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。

414日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:12:16.86
>>379
>>「他にも城がある」んなら、ますます「苑」であった可能性が高くなる。<

>宛〜襄陽には名前も場所もわかっている城が他にもあるのに、<

Yahoo地図で、「宣池」を探したが、見つけられない。

>総司令官がそれらの城に入らず無名の「苑」にいるわけがないよね。<

上表文は、明らかに、新野に移転前は、宣池付近の苑が「屯」の中心であった、というつもりだ。

>>魏が襄陽を守ろう、とするんなら、当然、 新野よりもはるかに襄陽に近い場所に屯するもの。
それを、真ん中辺の新野に屯した、という事は、 襄陽だけではなく、宛にも直ぐに援軍出来るようにしたかったため。<

>どなたかが>>353に「芍陂の役」のことを書いてくれてたよ。この被害があった上での対策だね。だから宛の援軍とか考える必要ない。<

芍陂の役で、新野の屯軍が動いたのか?、の情報がみつけられないので、 何かおかしい。

>正始二年(241年)に夏侯儒が都督荊豫州諸軍事で「芍陂の役」後、中央に召還される。
正始中に王昶が假節都督荊、豫諸軍事と書かれているから、 王昶の荊州への派遣も上表文も「芍陂の役」後だね。<

また変な事をいうねえ。 王昶の上表文があったのは青龍3年だった、と書いたのは、お前ではなかったのか?。

>>どんな例であったのか?は、もう覚えていないが、 これまでにあっちこっちで、何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来たから。<

>一事が万事で一括りなんでしょ。 それぞれ個別にみる必要があるはず。<

新唐書以後の、「大和日本国の万世一系列島支配」思考で、学者の意見が纏まってしまえば、
その後の中国文書は、どうしても、半分×書になってしまい、 信頼性や証拠性が半減してしまうもの。

415日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:14:46.94
テンプレートに書いてあることの根拠が、本当はもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまった。。。

416日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:16:57.52
>>414
「苑」が「宣池付近だなんて情報は全く無いんだが

417日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:23:05.72
>>380
>>記載では、宣池は、「苑」の付近にあった事になっている。<

>そんなこと書いてないね。<

書陵部本や張元済本の、例の「上表文」を再掲してみな。

>>ならんね。
ほぼ同時代の実見記録は、客観性も信頼性も確率も高いが、
後代史書の「前史の実見記載の、自己解釈に拠る書き換え」記載は、客観性も信頼性も確率も落ちる、
と言っているだけ。<

>どの文献も結局のところ寄せ集めさ。<

何だ?、都合が悪くなると、史料批判も放棄して、「全部否定」か。

>散逸したほぼ同時代の文献の価値を認めないで、勝手な「書き換え」認定してるだけでしょ。<

この男は、
自分等が悪く「ほぼ同時代記録の陳寿の三国志」の価値を認めが悪くなかった事を隠して、
後代史書の「勝手な書き換え」を承認している、と見える。

418日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:27:44.85
>>385
>寺澤説
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
 あろうと考えている。」
>>1説 「邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありません」<

寺澤もスレ主も「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師。

419日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:40:07.57
>>386
>寺澤氏は断定的なことは言っていないはずだが? <

誰かも書かれたように、
寺澤もスレ主も大和説者も、「南→東」などのような嘘つき騙しになる事を、
「匂わせ」宣伝宣伝しているから、
・・・・詐欺師である、という事になるんだが・・・。

420日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:47:22.99
『他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって いう論文があるなら出してごらん?』
「いや、普通に考えればなにも内行花文だけが独占的に太陽を象徴している必要はないわけで、おまえは何に見えるの?」
『そっちが答えないのに、こちらが答える道理はないだろ? そしてこっちの要求は、日本史板の趣旨に合うが、そちらの要求はただの難癖 レベルの低いやつはこれだから困るww」
「(難癖?レベルが低い?ただの質問なんだけど?)日本語わかりますか?何に見えるの?』
『マンホールの蓋』
「(は?突然何を言い出すの?)いや、マンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?」
『太陽に見えるから太陽の象徴というマイルールを認めろというなら、マンホールに見えるからマンホールの象徴という主張と差異はまるでないことに 気がつかないとww 』
「いやいやいや、だからそもそもマンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?そこが既におかしいよね?」
『マンホールというのは外来語だから、3世紀の人間がマンホールという用語そのもので 考えていた可能性は否定できるが、
ここでマンホールというのは、暗渠や水路などの蓋という 機能面について(以下略)』
「(だめだコイツとは会話が成り立たないわ)」

421日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:49:49.03
>>387
>>「宛」と「苑」・・書き間違いかどか知らんが
「東」と「南」は似ても似つかない文字 <

>文字が似ているかどうかではなく、大陸中華の地理観、常識では、
倭國は南北に長くのびる洲島の上にあることになっていたから
意識的に「南」にされたんだと思ってるよ 書き「間違い」ではなくね <

後代のアホ学者らの「地理観」など、根拠になるもんか。
魏使らは陳寿は、九州から東は、
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
とはっきり書き分けており、
唐会要の「正北抵新羅」に拠って、
倭國はほぼ九州付近だ、と断定している。

422日本@名無史さん2018/07/18(水) 09:56:00.33
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、

423日本@名無史さん2018/07/18(水) 10:26:02.17
>>32
http://eroolove.chuko.net/2018/04/24226

エロいお姉さんwwwwwwwwvvwwwwvvwwwww

424日本@名無史さん2018/07/18(水) 10:38:40.18
>>392
>4世紀前半の崇神ゆかりの大神神社、 その前時代が卑弥呼の時代だ。
つまり邪馬台国の王都の場所。<

「南≠東」に拠って×。

>ならば大神神社より古い名神大社は限られる。<

8世紀以後の「名神大社」の選択は、
当然記紀の「倭国の存在や歴史の抹殺」という嘘つき騙し思想の元での選択であるから、
根拠にはならない。

425日本@名無史さん2018/07/18(水) 11:05:37.56
>>381
邪馬台国と沖縄 上  木村政昭
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚
地名、間切が一致  城は北谷沖海底遺跡か
邪馬台国と沖縄 中  木村政昭
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚
城壁に似た構造物 1800年前の人工的石塊列も
邪馬台国と沖縄 下  木村政昭
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚

沖縄で決まりやん
この説に反論できる奴いるの?

426日本@名無史さん2018/07/18(水) 11:44:27.35
もうやけくそ状態やんけ

427日本@名無史さん2018/07/18(水) 11:59:18.79
>>410
>ただ「筈がない」って想像するのが「情報確認」なわけないでしょ<

順番が反対。
史料批判に拠って存在確認された情報から、帰納的確率的な推論をするんだよ。

428日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:03:28.36
>>416
>「苑」が「宣池付近だなんて情報は全く無いんだが<

宣池が、「宛」や「新野」にあった、
という情報は全く無いんだが。

429日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:10:34.82
>>420
うそつき

>『マンホールの蓋』
>「(は?突然何を言い出すの?)いや、マンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?」
>『太陽に見えるから太陽の象徴というマイルールを認めろというなら、マンホールに見えるからマンホールの象徴という主張と差異はまるでないことに 気がつかないとww 』
>「いやいやいや、だからそもそもマンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?そこが既におかしいよね?」

『マンホール』
「へぇ、まずはマンホールが弥生時代にあったことを証明してこいよ。」
『だれが弥生時代にマンホールが有ったって言ったんだ? アホ!
 マンホールの蓋に見えるって言ったんだろが! アホンダラめ』
「結局、マンホールを象徴してるといいたいの??
 コミュ障とは、会話が成立しないねぇ」
「3世紀の人達はマンホールを知らなかっただろうから、あとは太陽しかないな。」
[本当に論理性がないなw
 太陽に見えるだけで、太陽の象徴という主張に十分というなら、
 マンホールに見えるならマンホールの象徴と認めないといけない
 マンホールというのは、それくらいバカな主張なんだよというのを
 はっきりさせるための例示だ
 太陽に見えるから太陽の象徴って言い張るのは、それくらいのガバガバさで
 事実上何の論証にもなっていない]
「太陽に見えるだけで、太陽の象徴という主張に十分というなら、
 マンホールに見えるならマンホールの象徴と認めないといけない
 迷言すぎるwwww」

430日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:10:58.62
「平原鏡はマンホール論の学術論文まだですか???」
[「太陽に見えるだけで、太陽の象徴という主張に十分というなら、
  マンホールに見えるならマンホールの象徴と認めないといけない 」
 これが理解できないなら、バカすぎるぞ]
「で、お前は太陽以外の何に見えるのかな?
 マンホール??
 wwwww」
[冷静で知能のレベルの違う人間には、稚拙な煽りが通じないことも理解できないのか
 ほれ、必要なのはこれだ
 つ「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
   いう論文があるなら出してごらん」]
「何に見えるか聞いてるだけだよ?
 なんで答えないの?日本語わからないの?
 論文を提示しろとはいわなから、ね??」
[学問板で意味のある質問はこういうやつだよ
 つ「他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって
   いう論文があるなら出してごらん」]
「そんなん別に関係ないし。
 こっちは何に見えるか聞いてるだけだよ?
 なんで答えないの?日本語わからないの?」
[そっちが答えないのに、こちらが答える道理はないだろ?
 そしてこっちの要求は、日本史板の趣旨に合うが、そちらの要求はただの難癖
 レベルの低いやつはこれだから困るww]

431日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:11:43.70
『オレにはマンホール蓋にみえるからお前が悪い』
「でも内行花文鏡が一番太陽に近いだろ?」
『マンホールの蓋に一番近い』
「で?弥生時代にマンホールがあった証拠は?
 あなた、文脈無視してもダメだよ?」
「文脈無視の文盲は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。」
[マンホールというのは外来語だから、3世紀の人間がマンホールという用語そのもので
 考えていた可能性は否定できるが、ここでマンホールというのは、暗渠や水路などの蓋という
 機能面について言及している言葉であり、水路に渡した板などもこの概念に含まれるし、
 肥溜めなどの蓋も当然考慮に入れられるだろう
 そうした蓋は、もちろん木製で作られていただろうが、鏡としては不必要に大きく作られた
 平原1号墓の破砕鏡を見て、3世紀の人間が肥溜めの蓋のようだと考えた可能性があるということだ
 これを考えているのが現代人だから、それをマンホールの蓋という現代の用語で記しているだけで
 本質においては変わらない
 3世紀の人間が、マンホールの蓋のようだと考えた可能性は否定できない]
[ということで、3世紀に「肥溜めの蓋がなかった」ことを証明してね!
 話はそれからだww]
「もう病院行ってきた方がいいぞ。マジレス。
 親切心だぞ。感謝しろよ。」

どっちが頭悪いかは、明白だねぇ
相手が二人いることにも気づいていないし

432日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:14:06.41
>>421
>倭國はほぼ九州付近だ、と断定している。

でも、ガバガバザラコク理論でも、當在會稽、東冶之東は、
九州最南端の佐多岬に引っかかるってだけなんだろ?

北部九州説では、そこは倭国じゃないはずなんだが?ww

433日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:19:51.05
畿内説を宣伝するキナイコシが、マンホールのことで論破されているな。。。

434日本@名無史さん2018/07/18(水) 12:51:51.26
カグツチが切られてできた神々、勢力の研究が必要だな
邪馬台国、女王国と関係が深そうだな

435日本@名無史さん2018/07/18(水) 13:36:22.56
>>425
>・・・沖縄で決まりやん この説に反論できる奴いるの?<

不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっているから、
沖縄は×。
沖縄は、東テイ人の一部の国であった可能性ならある。

436日本@名無史さん2018/07/18(水) 13:36:47.39
>>428
無かったら何なんだ
九州説は頭がおかしいのか?

437日本@名無史さん2018/07/18(水) 13:38:33.02
>>426
>もうやけくそ状態やんけ<

大和説は、もうやけくそ状態やんけ。

438日本@名無史さん2018/07/18(水) 13:56:27.57
>>432
>>(正北抵新羅に拠って)倭國はほぼ九州付近だ、と断定している。<

>でも、ガバガバザラコク理論でも、當在會稽、東冶之東は、
九州最南端の佐多岬に引っかかるってだけなんだろ?<

女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり、
邪馬壹國なども含めた女王國の主要国の範囲は、
会稽東治の「東〜東北東」の間に入る。

>北部九州説では、そこは倭国じゃないはずなんだが?ww<

狗奴國を含めない女王國は、ほぼ「九州」説。
狗奴國を含めた倭國も、「九州」説。
「邪馬壹國」は、ほぼ「筑紫」説。

439日本@名無史さん2018/07/18(水) 14:11:37.88
>>438
でも、「當在會稽、東冶之東は、九州最南端の佐多岬に引っかかるってだけ」なんだろ?

北部九州は、「當在會稽、東冶之東」にならないんだろ?
自分で認めてるじゃないかww

440日本@名無史さん2018/07/18(水) 14:57:29.58
>>438
>女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり

それで道里が判明してると考えるなら、「女王国以北」と矛盾するので間違い
道里は判明してないのだと考えるなら、「計其道里」と矛盾するので間違い

441日本@名無史さん2018/07/18(水) 15:44:02.62
完膚なきまでに論破されてしまったキナイコシは
ラクガキ程度のテンプレを提供するだけの男になった

442日本@名無史さん2018/07/18(水) 15:48:41.78
これは、誰の発表だろうか、、、

440 名前:日本@名無史さん 2018/07/18(水) 14:57:29.58
>>438
>女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり

それで道里が判明してると考えるなら、「女王国以北」と矛盾するので間違い
道里は判明してないのだと考えるなら、「計其道里」と矛盾するので間違い

443日本@名無史さん2018/07/18(水) 15:54:55.51
>>442
少し、レベルの劣った発表ではないのかな。。。

444日本@名無史さん2018/07/18(水) 15:58:27.07
>>443が負け犬すぎる

445日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:01:23.47
論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきたな。。。

446日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:02:45.93
>>444
連続句読点の畿内説連呼厨の人は、論理を追いかけるだけの知能がないか、
それを理解するのに十分な教育を受けていないんだよ

気の毒なことだけれど

447日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:02:58.99
>>443
そうだね、、、
もっとも、僕たちの魏志倭人伝の翻訳でも、投馬国は女王国以北になるのだけれどもね。。。

448日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:05:02.46
>>447
ただし、畿内説を宣伝するキナイコシの440番の発表は、キナイコシの頭の悪さを発表してしまっているな。。。

449日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:06:01.11
だいぶ前から反論を諦めて悪口だけになってる連続句読点男が
>>445みたいなことを言って失笑を買うのが
九州説の現状・・・という
お寒い状況

450日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:07:31.27
>>448
よっぽど痛手の指摘だったようだなあ

451日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:07:37.86
>>449
そうだな。。。
女王国から船で東南に1年という道里を、明らかにした国のことも、魏志倭人伝に書かれているのになw

452日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:08:32.41
「会稽東治之東」について

これは大まかに東という事でいいでしょう
太陽は夏至には東北東から出て、また冬至には東南東から出ます。
また当時は地球は球体だとわかっていませんでしたから、東はもっと広範囲かもしれませんね

「南至投馬國、南至邪馬壹國」について
魏使は倭国の現地に行っているので誤差はわずかだと思います
南が東にひっくり返ることは考えられません

453日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:09:20.06
>>451
なるほど、、、
つまり、畿内説を宣伝するキナイコシの440番の発表は、キナイコシの頭の悪さを発表してしまっているのだね。。。

454日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:09:35.20
>>447
なら、その説は会稽東冶の東で沈没だね

455日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:11:56.27
畿内説を宣伝するキナイコシは、440番の発表で、上手いことを言えたと自分に酔ってしまったのではないのかな。。。

456日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:12:47.69
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

訳文

(ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、
その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。

457日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:12:49.82
>>455
だが、実際には、畿内説を宣伝するキナイコシの頭の悪さを発表してしまっているのだね。。。

458日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:13:09.10
>>452
この程度の筋の悪い反論しかできない九州節は死に体だね
実地検分ならまだしも、筆者の机上計算が「大まかに東」では済まない
この記述で南が東にひっくり返るんだよ

459日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:13:44.18
>>435
沖縄は狗奴国じゃねーか

460日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:15:37.55
>>457
ほら、もう反論を諦めて悪口だけになってる
九州説は論破されてるんだな

461日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:17:07.01
ガセネタかも知れないが一応貼り付け

・・・・・
魏志倭人伝には、邪馬台国と狗奴国の間には21もの国があると書いてあるそうです。
そんな地理関係が成り立つのは、九州と沖縄だけだと原田さんはおっしゃってます。
で、その21カ国とはどこかというと、奄美21列島。
実際にはもう少し多いのですが、今でも役所が置かれてるのは、21島だそうです。

そして、魏志倭人伝には、その21国の南に狗奴国があって、
人々は鮫避けやハブ避けのために刺青をしているとか、
似たところを挙げるとすれば、台湾島や海南島であるなどと詳しく書かれています。
沖縄でしょうね、狗奴国は。

462日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:18:54.05
>>452
>魏使は倭国の現地に行っているので誤差はわずかだと思います

じゃ、どうして「会稽東治之東」だなんて誤認したの?

463日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:19:35.46
魏志倭人伝では、奴国から熊本城への途中の国々は順番が明記されていたな。。。

464日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:20:35.43
>>461
原田だれ?

465日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:21:13.81
その他のかたわらの国は、使いや通訳の行き来していない、旧100余国の残りの30国だな。。。

466日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:22:17.23
>>465
旧100余国の残りの70国ではないのかな。。。

467日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:23:59.55
 もはや九州説に残されている道は
 ウソと荒らしだけか




w

468日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:24:19.62
>>438


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



早く言えよテメエ! 

469日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:29:47.79
>>452

帯方郡使ならば、たびたび倭国を訪れ、常駐もしていたと書いてある。

「魏使」というのはどのだれを指してのことか???
そこんとこ、明確に書いてくれい。

470日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:32:18.10
昔から畿内対九州みたいな対立はないんだな
あるのは、
女王卑弥呼が治める、邪馬台国を都とする女王国対その他
言い換えると
征服王朝対地元民
そういう争いが延々と続いたんじゃないかな

471日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:53:54.12
>>436
>(宣池が宛や新野に)無かったら何なんだ<

「苑」を宛や新野に比定する説は、×である可能性が高い、という事だ。

>九州説は頭がおかしいのか?<

「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者は、
頭がおかしい、という事だ。

472日本@名無史さん2018/07/18(水) 16:54:27.85
畿内説を宣伝するキナイコシは、論破されると、無駄な改行の後に、wを記入するので、わかりやすいな。。。

473日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:02:42.66
反論できない負け犬は笑われて当然だよー

474日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:05:53.12
>>439
>でも、「當在會稽、東冶之東は、九州最南端の佐多岬に引っかかるってだけ」なんだろ?<

変な「ごちゃまぜ詐欺」をするなよ。
魏志は「計其道里、當在會稽東治之東」であり、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をした後漢書は、「其地大較在會稽東冶之東」だよ。
そして、九州なら、會稽東治から「東〜東北東」であり、魏志に「ほぼぴったり」だ。

>北部九州は、「當在會稽、東冶之東」にならないんだろ? 自分で認めてるじゃないかww<

お前の「「當在會稽、東冶之東」がインチキなのであり、
北部九州にあるのは、「邪馬壹國」などの、女王国の中心地域だ。

475日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:06:24.42
水行 日数だから 道里 のうちに入らんよ
当然 女王国より南になる
何も矛盾しない

476日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:07:03.02
>>471
>「苑」を宛や新野に比定する説は、×である可能性が高い、という事だ。

通説というか、盤石の定説が
よりによってまた
可能性が低いなどという

理由は?

477日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:09:13.96
>>473
なるほど、、、
確かに、畿内説を宣伝する反論できない負け犬キナイコシは、笑われて当然だねw

478日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:11:37.39
>>475
>水行 日数だから 道里 のうちに入らんよ

じゃあ投馬国まで「計其道里」は不可能だね?
ほら矛盾したな


はい、論破

479日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:14:32.36
>>477
九州説は致命的なな反論を受けて負けてるのに
こんなウソしかつけないとは
笑われて当然だねw

480日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:18:51.60
>>474
>そして、九州なら、會稽東治から「東〜東北東」であり、魏志に「ほぼぴったり」だ。

その「會稽東治」って、どこ?



古田説は、また詐欺するの?

481日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:27:33.79
定説に出てくる地名を、史料にある誤字などを悪用して否定し、なんの根拠もない場所に恣意的に移動して古代の地理を歪める
これが古田説の基本戦法

482日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:29:16.99
>>474
>そして、九州なら、會稽東治から「東〜東北東」であり、魏志に「ほぼぴったり」だ。

いや、Part360の>220で
「ウソのゴリ押ししても、無駄。
 佐田岬は北緯30度59分10度。
 「会稽東治」の揚子江河口の上海の緯度は北緯31度位。
 従って、「会稽東治之東」は、九州島の最南端の佐田岬付近。」
って自分で言ってたじゃないかww

前スレの>328でも
「会稽東治の上海が北緯31度位。
 佐田岬も北緯31度位。
 だから、東は間違っていない、って、論破して置いたよ。」
って、書いてるし

でも、佐田岬は北部九州じゃないし、北部九州は会稽東治の東じゃないよな?w

483日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:31:59.92
>>475
>水行 日数だから 道里 のうちに入らんよ
>当然 女王国より南になる
>何も矛盾しない

でも、原文は
自女王國以北、其戸數道里可得略載
となっていて、女王国=邪馬台国の道里は略載できることになってるんだよね
邪馬台国までは、水行十日、陸行一月という日数表記なんだけれど、
これが道里ってことだよね?

はい、論破w

484日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:40:01.07
その佐田よりも上なのが『天王宮』なんだけど

485日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:41:02.93
『天王宮 山王院』

パトラ?みたいな名前の家

486日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:45:04.38
この四半世紀、敗北の味しか知らない九州説みじめ

487日本@名無史さん2018/07/18(水) 17:52:23.81
>>486
>この四半世紀、敗北の味しか知らない九州説みじめ

というか、すでに「説」として成り立たないところまで来てるからなぁ

488日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:06:12.69
>>487
もう九州節だね
唄うだけ 嘯くだけ

489日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:09:15.38
>>483
女王国と邪馬台国は別国よ何言ってんの。

490日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:11:36.35
>>489
このように

理由を決して言わないのが
九州説

491日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:14:20.18
>>440
>>女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり<

>それで道里が判明してると考えるなら、「女王国以北」と矛盾するので間違い<

魏使らは、投馬國へは行っておらず、
不彌國のなどの「女王国以北」の国々を、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史」
の伊都国があるから、
陳寿は、不彌國から「水行二十日」の投馬国も、伊都国の検察諸国の一つである、と認識している事になり、
問題にならない。

>道里は判明してないのだと考えるなら、「計其道里」と矛盾するので間違い<

道里は、「南方へ水行二十日」の位置だ、と「可得略載」」されており、問題はない。

492日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:19:01.64
>>491
じゃあ投馬国は「女王国以北」になるから
ザラコク珍説は成り立たないね

493日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:22:30.53
倭人伝の恣意的な
オレ様読みだけに依存してきた九州説が
21世紀まで生き残れなかったのも
ある意味、必然だな

494日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:22:34.85
>>449
大和説者は、
陳寿の「簡略化した説明記載」法、という史料実態が読めず、
魏志の説明の言葉尻の、曲解断定したことを言って、
失笑を買うのが九州説の現状・・・、
というお寒い状況。

495日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:29:00.89
>>450
>よっぽど痛手の指摘だったようだなあ<

大和説者は、
投馬国が「不彌國から南に水行二十日の南九州にある」、
という魏志説明が、
よっぽど痛手の指摘だったようだなあ。

496日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:30:52.22
それにても老婆だよ、神話なのか何なのか知らないけど、
なぜか詳しい

兄に大家(おおや)さん、大家さん
と言っていたり

たしか以前書いたはず、
大家(おおや)という名前の家ではないw

497日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:32:44.39
>>495
そう思っちゃう理由は?

498日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:34:31.08
>>495
いや、それって畿内説側の思うツボだから

499日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:37:01.35
>>494
都合の悪い史料は「それは、大体だ」で誤魔化そうとする古田説のサギっぷりが失笑を買いました。

500日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:38:07.54
>>454
>なら、その説は会稽東冶の東で沈没だね<

この大和説者も、
後代の5世紀の「自己解釈に拠る書き換え」の失敗をした半分×書の後漢書を根拠にして、
3世紀の魏使らの実見記録を否定した瞬間に、
沈没だね。

501日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:41:51.64
謎の震災後も、北斗の拳【再】を観ていたり、
あっちのほうには原子力があって・・・と詳しかったり


むかーし(311被災地のほう)住んでいたことがあり、
山の上のほうに住んでいて、凄い土地を持っていたとか

502日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:43:32.92
>>456
>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
訳文 (ここまでに紹介した)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、
その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。<

投馬国は、不彌國から行くべき側副傍線國であった、という倭人側からの説明。
魏使らは、実見していない。

503日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:46:30.37
結婚するときも、
あの家は、離れなんかもあるような家(よくわからないけど凄い家?)だよ
と言われていたとか


老婆が嫁に来るときの話

504日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:47:30.31
たいほう郡から、一万二千り、に邪馬台国ありと書いてるだろうが、
九州までで一万里だから、北九州に決まってる。
ただし、北九州とまきむくに、同時期に発展した国があったのは土器の異動から見てまちがいない。
マキムクの国は、神武東征で征服された。

505日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:49:11.32
何か知ってる人がいるのかな?

『松傾』のような名前の家

506日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:49:57.34
>>458
この程度の筋の悪い反論しかできない大和説は死に体だね。

>実地検分ならまだしも、筆者の机上計算が「大まかに東」では済まない<

陳寿の机上の計算だから、「大まかな推定」。

>この記述で南が東にひっくり返るんだよ<

魏使らは、周髀算経や礼記の、
(午前と午後の太陽方向から)東西南北を簡単に決める方法や、
指南魚のような方位磁石も知っているから、
「南と東とを間違えない」。

507日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:52:40.47
>>459
>沖縄は狗奴国じゃねーか<

沖縄では、卑弥呼らとの不和や戦争が起きない。
有り得る事は、沖縄は、東テイ人の20国の中の一国。

508日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:55:46.44
>>460
ほら、もう反論を諦めて悪口だけになってる。
大和説は,論破されてしまってるんだな。

509日本@名無史さん2018/07/18(水) 18:57:14.89
『大家』〜『母屋』〜『離れ』もあるような家、
しっかりと繋がっているし、パーフェクト超人のような説明

510日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:00:16.59
広瀬川というところがあったんだよ・・・(老婆談)、

『旧広瀬座』というところの話

511日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:09:03.58
>>461
>ガセネタかも知れないが一応貼り付け
・・・・・ 魏志倭人伝には、邪馬台国と狗奴国の間には21もの国があると書いてあるそうです。<

そんな事は書いていないね。
単に「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」と書き、
「女王國以北以外は其餘旁國で不詳」として、
「・・・次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國」と書かれただけ。

>そんな地理関係が成り立つのは、九州と沖縄だけだと原田さんはおっしゃってます。<

この「原田」って言うのは、まさか原田実の事?。原田実なら、嘘つき騙しの偽書説派であったから、
信頼性が全くない。

>で、その21カ国とはどこかというと、奄美21列島。
実際にはもう少し多いのですが、今でも役所が置かれてるのは、21島だそうです。<

投馬國が、南九州全域だから、其餘旁國は北部九州〜中九州。

>そして、魏志倭人伝には、その21国の南に狗奴国があって、
人々は鮫避けやハブ避けのために刺青をしているとか、
似たところを挙げるとすれば、台湾島や海南島であるなどと詳しく書かれています。
沖縄でしょうね、狗奴国は。<

沖縄では、卑弥呼との不和や争いが起きないから、×。

512日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:16:55.40
>>462
>>魏使は倭国の現地に行っているので誤差はわずかだと思います<

>じゃ、どうして「会稽東治之東」だなんて誤認したの?<

陳寿の「机上の計算」での位置の推定文であり、
九州は、会稽東治の「東~東南東」の範囲内であり、
「誤認」になっていないの。

513日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:18:57.64
>>467
もはや大和説者に残されている道は、
ウソ付き騙しと、荒らしだけか。

514日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:23:18.06
>>513
などもウソをつき続ける敗残の九州説

515日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:28:21.59
>>469
>帯方郡使ならば、たびたび倭国を訪れ、常駐もしていたと書いてある。
「魏使」というのはどのだれを指してのことか???
そこんとこ、明確に書いてくれい。<

楽浪郡と帯方郡は、景初二年に魏の支配下になっており、
魏皇帝の詔書携えた「郡太守から派遣された梯儁等や、張政等」は、魏使になる。

516日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:34:41.32
>>473
>反論できない負け犬は笑われて当然だよー <

大和説者は、反論が出来ない負け犬になると、
口先での誹謗を書いて、
その後ろに「w」や「ww」や「www」などのヘイトスピーチ的な文字を書いて、
世間の人々を騙そうとするらしいな。

517日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:43:52.53
自郡至女王国万二千余里。
・帯方郡から女王国(女王の都のある邪馬台国)まで1万2千余里である。

自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。
・女王国及びそれより北(の国々について)は、戸数と道(方角)と里(里数)は大略記載できた。しかし、その他の国々については詳しくはわからない。


投馬国の場合だが、戸数5万戸と方角の南は、明確に書かれている。
しかし、行程所要の日数だけで、行程里数は書かれていない。
このことから、投馬国は女王国(女王の都のある邪馬台国=肥後邪馬嘉)の南(宮崎都万)に位置するという推論になる。

518日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:52:50.12
>>517
>・女王国及びそれより北(の国々について)は、戸数と道(方角)と里(里数)は大略記載できた。しかし、その他の国々については詳しくはわからない。

自分で、女王国=邪馬台国には道里が略載されてるって認めてるじゃないか
つまり、水行十日陸行一月も、道理の記載法なんだよ

であれば、

>しかし、行程所要の日数だけで、行程里数は書かれていない。

としても、これは道里が略載されている女王国以北の国ということになる

>このことから、投馬国は女王国(女王の都のある邪馬台国=肥後邪馬嘉)の南(宮崎都万)に位置するという推論になる。

なりません
残念でした

519日本@名無史さん2018/07/18(水) 19:58:25.65
>>516
さすれば、その魏使以前に倭国を訪ね、あるいは常駐したという帯方郡使の役目は何だったのか。
公孫康により開かれた帯方郡は、韓・倭を監督支配するためのものであったという。
その郡から派遣された役人が、日がな一日、アワビなどとらえて、食っては寝、食っては寝、の乱痴気騒ぎばかりだったとは思えぬが。

520日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:03:36.41
芝居とか、
そういうものばかり観に行っていたという話じゃないの?

老婆談のほうが先で、
その後に三国志の時代?

521日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:05:26.94
>>518
× つまり、水行十日陸行一月も、道理の記載法なんだよ


水行十日陸行一月、はあくまで所要の日数であり、里数ではない。
女王国に関しては「自郡至女王国万二千余里。」←この文にて「行程里数」が示されているのである。

522日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:06:18.44
老婆も、
母親というの亡くなってから創価に入ったんだけど、
そもそも、老婆の親戚というのが創価だったと言っているし

523日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:07:02.79
>>518
× つまり、水行十日陸行一月も、道理の記載法なんだよ


水行十日陸行一月、はあくまで所要の日数であり、里数ではない。
女王国に関しては「自郡至女王国万二千余里。」←この文にて「行程里数」が示されているのである。

524日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:10:01.81
馬の乗って・・・芝居(小屋、演劇場)などを、
そういうものばかり観に行っていた

と言っているし

そういう職だったのかな?

525日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:12:49.20
>>475
>>「苑」を宛や新野に比定する説は、×である可能性が高い、という事だ。<

>通説というか、盤石の定説が よりによってまた 可能性が低いなどという 理由は?<

通説であれ、「盤石の定説」だ、と自慢しても、
史料事実や史料実態を否定する事になる説は、
始めから「確率が殆どない」という事だ。

526日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:18:37.82
孫悟空?そういう話もそうなんじゃないの?

あの写真の母親の話をしていたり、
馬に乗り、どこかの城に通っていて、寺院・・・・とか

527日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:20:20.18
キュウリ=河童ではないとしても


母親?母親のほうの家が何やらと言っているし、
馬のに乗り、腰に刀を差し・・・

528日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:22:01.84
ガセネタかも知れないが一応貼り付け

・・・・・
魏志倭人伝には、邪馬台国と狗奴国の間には21もの国があると書いてあるそうです。
そんな地理関係が成り立つのは、九州と沖縄だけだと原田さんはおっしゃってます。
で、その21カ国とはどこかというと、奄美21列島。
実際にはもう少し多いのですが、今でも役所が置かれてるのは、21島だそうです。

そして、魏志倭人伝には、その21国の南に狗奴国があって、
人々は鮫避けやハブ避けのために刺青をしているとか、
似たところを挙げるとすれば、台湾島や海南島であるなどと詳しく書かれています。
沖縄でしょうね、狗奴国は。

529日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:23:38.71
>>478
>>水行 日数だから 道里 のうちに入らんよ<

>じゃあ投馬国まで「計其道里」は不可能だね? ほら矛盾したな はい、論破<

投馬國は、
「自女王國以北」の不彌國からの、「其戸數道里可得略載」した中の、
(魏使らが行っていない)した側副傍線國として、
倭人の計測にかかる「南へ水行二十日」という「道里」が記録されている。

はい、論破。

530日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:26:50.23
>>479
大和説は、
「南≠東」などの致命的なな反論を受けて負けてるのに、
こんな「投馬國への道里」が書かれていない、などというウソしかつけないとは、
笑われて当然だねw。

531日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:27:42.11
>>523
>女王国に関しては「自郡至女王国万二千余里。」←この文にて「行程里数」が示されているのである。

その萬二千里は実測値じゃないんだが?

532日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:29:40.16
>>530
>こんな「投馬國への道里」が書かれていない

ザラコクさんや、これを主張しているのは、九州説のほうなんだが?
論破しちゃいかんだろうが、立場的にww

しかも、ザラコクさんと同じく投馬国は九州南部って言ってるんだよ

533日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:29:51.28
文壇でいけば

畿内説の研究者は各々

直木賞を目指す研究者にしか映らない

534日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:31:43.99
どのスレッドの話なのか、
わからないんだけど


超時空設定?
ねつ造のような事をしている人々がいるのかも

535日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:32:14.55
>>529
×「南へ水行二十日」という「道里」が記録されている。

「南へ水行二十日」の南へ・・・、は、たしかに道(方角)である。
しかし「二十日」は、二十里ではなく、だれがどう見ても日数である。
日数と里数は、明確にくべつしなければならない。
キミはいい年こいた畿内の学者なんだろ。古代中国人にわらわれるぞえ。

536日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:34:02.39
卑弥呼の居た地は京都なんだよ^^^

倭人伝に記述で畿内説に合致するのは京都しかない

537日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:42:14.07
>>480
>>そして、九州なら、會稽東治から「東〜東北東」であり、魏志に「ほぼぴったり」だ。<

>その「會稽東治」って、どこ? 古田説は、また詐欺するの?<

大和説のwwの紹介では、
魏代には会稽の東地域は会稽郡の治下にあったが、
魏代末に会稽郡から分郡されて呉郡となり、
陳寿執筆時点では、会稽郡ではなく、呉郡になっていた上海付近の地であったらしいよ。

しかし、陳寿は、魏志という魏代の史書を書いているんだし、
女王國の風習などが「夏后少康之子封於會稽」の会稽の地と関係がある、としており、
上海付近は、魏代には殆ど会稽郡の治下にあった事あり、
だから「郡」を省いて、「会稽東治」と表現した、という事だな。

538日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:42:28.94
奈良の有名な神宮は橿原しか無いよね??


石上神宮(天理市)をもっと表に出すべきだ!

539日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:46:14.09
>>481
史料に出てくる地名や方向や距離を、
誤字だ、などと改竄否定し、
なんの根拠もない場所に恣意的に移動して古代の地理を歪める。
これが「戦前の万世一系皇国史観」狂の大和説者の基本戦法。

540日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:49:05.03
>>535
>「南へ水行二十日」の南へ・・・、は、たしかに道(方角)である。

またおかしなことを言い出してるな
道だけで、方角と読むなんていうのは、大間違い

道里 dàolǐ
[milage] 路程,里程

541日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:50:45.31
しばらく前によそのスレで「女王之所都」の「所都」は全てという意味だから
女王之所都で「女王の全て」と読むとか言ってたバカがいたが、その類かな?

542日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:51:37.32
>>538
>奈良の有名な神宮は橿原しか無いよね??

大神神社とか有名だと思うがな?

543日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:54:53.61
>>482
>>そして、九州なら、會稽東治から「東〜東北東」であり、魏志に「ほぼぴったり」だ。<

>いや、Part360の>220で 「ウソのゴリ押ししても、無駄。佐田岬は北緯30度59分10度。
「会稽東治」の揚子江河口の上海の緯度は北緯31度位。
従って、「会稽東治之東」は、九州島の最南端の佐田岬付近。」
って自分で言ってたじゃないかww
前スレの>328でも 「会稽東治の上海が北緯31度位。 佐田岬も北緯31度位。
だから、東は間違っていない、って、論破して置いたよ。」 って、書いてるし
でも、佐田岬は北部九州じゃないし、北部九州は会稽東治の東じゃないよな?w<

誰か?、「女王國」や「倭國」の範囲が「北部九州だけだ」なんて言ったか?。
「邪馬壹國」や「女王國や倭國の中心」という事なら、「北部九州」と説明しても、
「女王國や倭國」としては、投馬國が南九州にある事を知っているから、
私は、原則として「北部九州」なんて言わないぞ。

544日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:56:49.57
本当に、おかしな話ばかり、
母親だという人だけ素足(裸足)に下駄

裸足の女神?西遊記のテーマ?

545日本@名無史さん2018/07/18(水) 20:58:53.88
どのスレだったかな、
同じ話をしたところ

サザエさんの話じゃないのか?
という書き込みをしている人がいたり

546日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:02:24.41
蚕を飼っていて、機織りもしていたと言っていたり

ミルキーガール?何やら〜という曲?

547日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:03:36.47
>>483
>>水行 日数だから 道里 のうちに入らんよ 当然 女王国より南になる 何も矛盾しない<

>でも、原文は
自女王國以北、其戸數道里可得略載
となっていて、女王国=邪馬台国の道里は略載できることになってるんだよね<

まず、女王国=邪馬台国が、全くの嘘つき騙しであり、×ね。

>邪馬台国までは、水行十日、陸行一月という日数表記なんだけれど、 これが道里ってことだよね?<

「水行十日陸行一月」という数量記載は、
その直前の文言である「女王之所都」の説明になるから、
出発地の郡からの所要日数説明になり、
「邪馬壹國」の説明になっていないね。

はい、論破w。

548日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:05:56.68
>>486
この半世紀、敗北の味しか知らない、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、みじめ。

549日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:06:15.29
『何者にもなれない お前たち』〜『松傾』

時は回りだす 再び?という曲があったでしょ、
ミルキーガールとか

550日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:07:56.89
倭国と日本の違いが神宮

倭国は九州中心

日本は畿内中心

邪馬台国は九州

畿内説の研究者はそもそも、日本からのアポローチであるべき

落ちこぼれの、地方公務員ごときががのさばる畿内説

国公立の教授に成れっこない畿内説ってとこ


磯田は邪馬台国なんてどこでもいい立場・・

551日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:08:06.63
>>487
この半世紀、敗北の味しか知らない、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、みじめ。
というか、すでに大和説は、
「説」として成り立たないところまで来てるからなぁ。

552日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:13:44.11
>>488
大和説派、今ではもう、
「戦前の万世一系皇国史観」宗教の、殺人テロや侵略戦争の、
・・・・右翼のお経でしかなくなってしまったねえ。
唄うだけ 嘯くだけ。

553日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:14:51.58
畿内説は、そもそも倭国の認識からしてなってない。
国号の変更をもっと重く見るべきだ。

554日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:15:45.93
>>542

そこが畿内説の不思議なんだよね
邪馬台国=ヤマト国との主張者もここは避けてるね


はっきり モモソは記紀の産物で畿内説と関係ないと主張すればいい
(畿内説は皇国史観と揶揄されないためにも) 

555日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:16:11.52
>>490
このように、
史料事実に関する理由を決して言わないで否定曲解して、
ヘイトスピーチ宣伝ばかりするのが、
大和説。

556日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:19:09.88
>>492
投馬国は「女王国以北」の不彌國からの側副傍線國になるんだし、から、
問題にならない。

557日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:20:41.12
>>543
>誰か?、「女王國」や「倭國」の範囲が「北部九州だけだ」なんて言ったか?。
>「邪馬壹國」や「女王國や倭國の中心」という事なら、「北部九州」と説明しても、
>「女王國や倭國」としては、投馬國が南九州にある事を知っているから、

つまり、「女王国や倭国」の範囲の「端っこの方がほんのちょっと」、
会稽東治の東にわずかにかかっていれば、間違っていないと、
ザラコクさんはそう言いたいんだね?

本当に都合のいいことですわよね?ww

558日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:21:31.37
ミルキー?

何の話をしていたんだろう

ピッコロはペンギンだよな〜
と言ってる人がいたり(数年前の、とあるスレ)

ドラゴンボールの話でも、
なさそうだし

559日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:21:33.94
>>493
倭人伝の「南→東」などの、
嘘つき騙しの恣意的なオレ様読みだけに依存してきた大和説が、
21世紀になって、生き残れなかったのも、
ある意味、必然だな。

560日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:23:11.19
>>494の訂正
大和説者は、
陳寿の「簡略化した説明記載」法、という史料実態が読めず、
魏志の説明の言葉尻の、曲解断定したことを言って、
失笑を買うのが、
大和説の現状・・・、 というお寒い状況。

561日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:25:29.79
>>547
>まず、女王国=邪馬台国が、全くの嘘つき騙しであり、×ね。

魏志倭人伝全体では、「女王国」の使い方にぶれがあり、単純に「女王国=邪馬台国」とは
言えないが、
「自女王國以北其戸数道里可得略載」と「自女王國以北特置一大率檢察諸國」に関しては
明確に起点表現となっており、この2文に関しては、「女王国=邪馬台国」でよい
というより、それ以外の読み方では破綻する

いつも言ってるけれど、個々の検証なしで「嘘つき騙しであり、×ね」とか書くのは
低脳、無能の所業だよww

562日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:25:38.37
これほど見事に、論破された畿内説は、もう、高度なお笑い芸人のネタになったのではないのかな、、、、

563日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:25:47.15
>>498
いや、それって大和説側のドツボだから。

564日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:27:56.63
>>499
都合の悪い史料は「それは、間違いだ」で誤魔化そうとした大和説のサギっぷりが、
満座の失笑を買いました。

565日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:30:10.55
>>562
WWW、確かに。。。

566日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:32:56.02
>>514
これなども、「南→東」などのウソをつき続ける、
敗残の大和説。

567日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:32:58.03
数年前の信オンというゲームのスレッドの話なんだけど、
セイントセイヤの話をしていたり、なぜかヒドラ(市)の話

568日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:33:10.94
廣瀬神社も有名だろ

廣瀬大忌祭の祝詞は興味深い
食物神、白、
歴史が沢山含まれているわ

569日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:37:15.50
>>1=寺澤??

寺澤老人を世に出すためのスレかいな
学会では下っ端じゃねーか

有名大学の教授でもない一地方公務員が寺澤・・それも天下り先自分で作るバカだし桜井市教委も馬鹿
特殊法人改革が奈良でもヨロシク・・
纏向学研究センターは独立法人でいいんでねーか

570日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:47:58.08
>>518
>自分で、女王国=邪馬台国には道里が略載されてるって認めてるじゃないか<

邪馬台国なんて存在しないし、「女王國=邪馬壹國」でもないよ。
邪馬壹國の中に「女王之所都」がある、って言ってるだけ。

>つまり、水行十日陸行一月も、道理の記載法なんだよ<

つまり、水行十日陸行一月という数量記載は、
その前にある魏使らの目的地である「女王之所都」の説明であるから、
出発地の郡からの所要日数になる。

>であれば、
「しかし、行程所要の日数だけで、行程里数は書かれていない」としても、
これは道里が略載されている女王国以北の国ということになる<

ならない。投馬國なら、
起点と終点説明の間に「途中移動説明文言」がないから、魏使らは移動していないし、
魏使らが移動した場合に書かれる筈の「里数」記載もないから、
魏使らは、移動していない。

なりません。残念でした。

571日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:49:13.53
>>569
あんたは行政知らない
独立行政法人なら桜井市は絡む必要皆無
だから、桜井市教委の一部としたほうがよかったのだよ・・地方公務員の私利私欲

誰かが指摘したように 纏向の研究調査は橿原考古学研究センターで充分だよ

公式発表が桜井市教委と纏向学研究センターじゃ✖

学会発表でもねーしな

村おこし  村おこし

572日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:53:51.25
>>519
>さすれば、その魏使以前に倭国を訪ね、あるいは常駐したという帯方郡使の役目は何だったのか。
公孫康により開かれた帯方郡は、韓・倭を監督支配するためのものであったという。
その郡から派遣された役人が、日がな一日、アワビなどとらえて、
食っては寝、食っては寝、の乱痴気騒ぎばかりだったとは思えぬが。<

卑弥呼共立以前の事であり、
伊都国に留まって、伊都国王に面倒を見て貰って、
実地の見聞を記録していたらしいよ。

573日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:56:54.80
九州説も畿内説も一致してるのに馬鹿が

邪馬台国以北を持ちだすなよ・・ど素人

倭人伝読め

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

574日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:58:24.63
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳


以上は畿内説では悦明つかないんだよね

575日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:58:54.10
>>528
この・・・・貼り付けは、反論済み。
原田実であれば、詐欺師。

576日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:03:09.26
>>569>>571=キウス

577日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:11:21.50
>>572
さよう
その実地検分の記録こそ、帯方郡役所の初仕事である東夷倭人・倭国調査報告書となり、
三国志東夷伝倭人の部(いわゆる魏志倭人伝)の景初2年までの部分の原典となったのである。

578日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:13:40.39
>>574
まさに、そのとおりだ

579日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:13:53.94
横からすまん
このスレ畿内説のスレでなく、畿内説を論破するスレとしか映らないな
5ちゃんだからヨシとするがテンプレどおりに事が運ばないが
このスレ立てた奴は優秀と思う
中身よりレス稼ぎは上手だな 
こう言う商売上手も好きだが

あまりにもエロチックなCM大杉

580日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:15:28.77
>>574
畿内説では説明できないよな

581日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:16:46.25
>>574
畿内説では説明できないよな

582日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:18:26.34
>>574
畿内説では北を西にすれば説明がつくよ

583日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:25:05.89
神宮とか大社なんて・・・
邪馬台国と関係ねーーよ
ヤマト王権は仏教を導入したんだろうが
記紀と真逆じゃん

584日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:30:49.47
>>531
>>女王国に関しては「自郡至女王国万二千余里。」←この文にて「行程里数」が示されているのである。<

>その萬二千里は実測値じゃないんだが?<

このwwの投稿は、
魏志では、侏儒國や裸國や黒歯國の記載がある事で、
wwの分裂幻覚の・・・・妄想であった事で、終わっているんだが。

585日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:33:39.55
奈良盆地が3世紀に温暖だった証拠は?

586日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:35:21.72
神宮とか大社なんて・・・
邪馬台国と関係ねーーよ
ヤマト王権は仏教を導入したんだろうが
記紀と真逆じゃん

587日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:35:25.54
つまり、畿内説は、完全に、破綻したのだね。。。。。

588日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:35:40.52
神宮とか大社なんて・・・
邪馬台国と関係ねーーよ
ヤマト王権は仏教を導入したんだろうが
記紀と真逆じゃん

589日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:37:38.05
>>532
>>こんな「投馬國への道里」が書かれていない<

>ザラコクさんや、これを主張しているのは、九州説のほうなんだが?
論破しちゃいかんだろうが、立場的にww
しかも、ザラコクさんと同じく投馬国は九州南部って言ってるんだよ<

関係がない。
所要日数記載を、魏使らの「道里という距離」として受け止めるか?、
倭人からの「道里」の日数説明として受け止めるのか?、
の違いであるだけ。

590日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:40:45.67
>>568
どんなローカル基準だよ。

591日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:41:34.06
思考停止した?

592日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:42:25.75
実況見分に来た郡使が九州までしか来ていない時点で、もう邪馬台国がどこかわかるよな。

593日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:42:48.75
>>541
しばらく前によそのスレで「女王之所都」の「所都」は全てという意味だから
女王之所都で「女王の全て」と読むとか言ってたバカがいたらしいが、
大和説者は、その類かな?。

594日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:45:26.63
>>588
賛同します
記紀は編纂8世紀なのですが
記紀に仏教は出て来ないのですよね
ヤマト=邪馬台国であれば当然ですが
畿内説のヤマトと飛鳥以降の朝廷とは関係無いのでしょうか

イミフかも
要するに
邪馬台国=自然神(太陽?)=ヤマトとすれば
仏教を取り入れた朝廷(記紀では解明できない)は理解できないということです。

畿内説の言うヤマトとはなんぞや・・宗教的に見て ヤマト王権≠天皇?????

595日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:51:15.57
いろいろ間違えてるぞ

596日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:51:20.45
>>557
>つまり、「女王国や倭国」の範囲の「端っこの方がほんのちょっと」、
会稽東治の東にわずかにかかっていれば、間違っていないと、
ザラコクさんはそう言いたいんだね? 本当に都合のいいことですわよね?ww<

陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」からして、
行程説明記載からの「近似的な位置計算の推定」であったんだから、
「東〜東北東」という位の一致があれば、十分なの。

597日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:51:37.55
>>547
>「水行十日陸行一月」という数量記載は、
>その直前の文言である「女王之所都」の説明になるから、
>出発地の郡からの所要日数説明になり、
>「邪馬壹國」の説明になっていないね。

理由が全く理解できない

598日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:52:18.75
白妙を纏った天香久山

石が海神を乗っ取る牛鬼伝説

カグツチ系の勢力がイザナミ系の勢力を乗っ取ったことを表しているのかもしれない
卑弥呼亡き後か台与の頃かその辺りかもしれないね

男王が総スカンをくらい、卑弥呼、台与と女王が擁立されたのは母系の力だろうな
何れにせよ、邪馬台国側、初期のヤマト政権には男王足り得る血がなかったんだろう

599日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:54:15.12
>>596
それ、もう自己矛盾を指摘されて論破されたろ?

600日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:54:15.22
廣瀬大忌神、廣瀬大忌祭の祝詞は興味深い
崇神が鎮魂したのは、どういう意味があるんだろう

601日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:57:26.21
>>550
>>磯田は邪馬台国なんてどこでもいい立場・・

磯田先生は日本史の大家だが邪馬台国論争には距離を置いていると思う
余りにも、物証や文献が乏しいからかな
NHKで1年前に纏向を訪れた時も「初めて来ました」と言ってたし

602日本@名無史さん2018/07/18(水) 22:59:37.45
意味深だな

571日本@名無史さん2018/07/18(水) 21:49:13.53
>>569
あんたは行政知らない
独立行政法人なら桜井市は絡む必要皆無
だから、桜井市教委の一部としたほうがよかったのだよ・・地方公務員の私利私欲

誰かが指摘したように 纏向の研究調査は橿原考古学研究センターで充分だよ

公式発表が桜井市教委と纏向学研究センターじゃ✖

学会発表でもねーしな

村おこし  村おこし

603日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:04:39.57
>>588=>>594=キウス

604日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:05:32.11
>>574
畿内説では北を西にすれば説明がつくよ

605日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:07:31.67
>>561
>まず、女王国=邪馬台国が、全くの嘘つき騙しであり、×ね。<

>魏志倭人伝全体では、「女王国」の使い方にぶれがあり、<

ブレなんてないよ。
倭地の中の「共立されたの女王の国」として、はっきり区別されているよ。

>単純に「女王国=邪馬台国」とは言えないが、<

邪馬台国なんて存在しないし、
邪馬壹國は、女王之所都のある国であり、女王共立国の一つだよ。

>「自女王國以北其戸数道里可得略載」と「自女王國以北特置一大率檢察諸國」に関しては
明確に起点表現となっており、この2文に関しては、「女王国=邪馬台国」でよい
というより、それ以外の読み方では破綻する<

「可」は 可能性の肯定であり、
「得置」というような強い断定とは違うよ。

>いつも言ってるけれど、個々の検証なしで「嘘つき騙しであり、×ね」とか書くのは
低脳、無能の所業だよww<

いつも言ってるけれど、個々の検証の結果、
「嘘つき騙しであり、×ね」とか言っているのであり、
wwのような、低脳、無能の所業ではないんだよww。

606日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:13:55.34
>>605
検証なんてしてないくせ

607日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:18:01.47
>>594
日本は倭人が創った国じゃ無いから
強いて言えば渡来人+倭人が創った国が日本
邪馬台国は九州だよ 
倭人+渡来人が九州から制圧し、畿内に創ったのがヤマト
倭国は倭人の地・・・朝廷は倭人オンリーの圀を制圧した

インディアン嘘つかない(倭国は原住民の圀 ヤマトは原住民を制圧した国)

608日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:26:29.52
>>607
それ常識だから叫ぶな

609日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:29:23.48
キウスの自演病が酷いな

610日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:46:38.26
>>607

2行目まではいい
3行目から韓国起源説の亜種

611日本@名無史さん2018/07/18(水) 23:52:28.75
倭人は縄文系と渡来人の混血
ヤマトより東方に住むのは倭種、混血だろうがより縄文色が強いのかな

612日本@名無史さん2018/07/19(木) 00:01:10.30
東遷説は騎馬民族説の変化魍魎だな

613日本@名無史さん2018/07/19(木) 00:06:38.99
倭人が渡来人なんじゃない?

614日本@名無史さん2018/07/19(木) 00:15:00.31
倭人が呉の末裔としても、渡来して500年以上経っている
間違いなく混血しているだろう

615日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:15:43.50
>>393
>私に簡単に論破されてしまった事は、自分のプログには書かなかったんだろう。
そんなこと聞いてないよ。80万字の根拠だよ。
ところで百度でこんなの見つけたんだがね。
「裴松之的注文共达36.7万余字,比陈寿正文的32万余字多出八分之一」
本文が80万なのかと思っていたが、そうじゃないんだな。

>宋明清代の考証校勘に供された「差異」文字は、当然、
>それまでの「写本版本」の全てで発生した差異の積み重ねの結果。
積み重ねの結果はわかるが「写本」なんて既に残っていないだろ。誇大表示だね。

>「海と馬」の場合にも、背景を史料批判しておいた筈だよ。
馬の批判だけのようだがね。

>別に全部読む必要がないし、史料批判には、三国志以外の存在情報も、人類の常識に従って、批判する必要がある。
読まなきゃ同時代情報は分からないよ。
また誰も知らない人類の常識ですか?

>「南→東」などのような、史料事実の否定曲解をするような大和説者やお前は、
>人類の常識知らずの、分裂幻覚妄想の・・・・なんだろう。
また誹謗中傷?

616日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:19:36.95
>>402
>史料批判に拠って、「否定抹殺」不能な情報である、という存在確認が出来れば、
>推論の根本的な出発情報である事になる。
>それが科学であり、学問。
抹殺って血なまぐさい言葉が好きだねぇ。
否定不能な情報ってそれこそ別情報ではないか。
推論というが妄想の出発点になってしまうよ。
学問というのなら誹謗中傷を混ぜるなよ。

>これが、大和説者の「都合の悪い史料事実」の否定抹殺の手口。
>不可知部分が殆どである自然や歴史においては、単一情報なんて、幾らでも有り得、
>それを史料批判も無しに、否定抹殺していれば、
>当然、どんでん返しや、事故や、人類滅亡的な大災害が起きる。
抹殺連呼して人類滅亡だって。怖いねぇ。
情報を扱う一般的な真っ当なやり方だよ。
情報が多いほど、正確性は高いと考えるのは当然。
単一情報は、正確性が低いから参考情報として判断は保留とする。否定もしてない。
単一情報なんて、幾らでも有るけど、他の情報なしに、それをどういった根拠で正しいとするの?
単一情報を過大評価すると、妄想がついて回るのは必然。

>実際に、襄陽付近での戦闘があれば、新野の「屯」軍が参戦しない筈がない、
>という事の、情報確認。
王昶が新野に屯するまでは、新野に居るのは守備隊程度。
参戦すれば、新野が危なくなる。
宛から援軍が来るまで襄陽と樊城には耐えてもらうしかない。

617日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:20:02.99
日本に渡ってきて・・・
という話なんだけど

本当に、お前の家の話なのか
と言ってる人がいなかった?

618日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:22:15.80
>>414
>Yahoo地図で、「宣池」を探したが、見つけられない。
サービスを提供しているのは香港だけで中国本土ではしていないんじゃないのか。

>芍陂の役で、新野の屯軍が動いたのか?、の情報がみつけられないので、 何かおかしい。
誤解があるね。

>また変な事をいうねえ。 王昶の上表文があったのは青龍3年だった、と書いたのは、お前ではなかったのか?。
別の人だね。その人は青龍の文の後の正始中を見逃したのではないか。

>その後の中国文書は、どうしても、半分×書になってしまい、 信頼性や証拠性が半減してしまうもの。
ほらね、一括りにしてる。
半分×書といいながら実際は全否定。

619日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:23:22.55
悪く言うと、寄生、背乗り?
本当は、そういう人ばかりなんじゃないの?


家の写真、見たことがあるでしょ、
キュウリの葉、葱の華・・・その他の写っている写真

620日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:26:29.84
>>417
>何だ?、都合が悪くなると、史料批判も放棄して、「全部否定」か。
?なぜそんなことを言われるのか全く分からないが?
日記ではないのだから、他から寄せ集め情報で出来ているのは当然。
元の情報がどれだけ保存されているかが重要であって、成立が後代だからというだけで、一括りで切り捨てるのは乱暴だよ。

>この男は、
>自分等が悪く「ほぼ同時代記録の陳寿の三国志」の価値を認めが悪くなかった事を隠して、
>後代史書の「勝手な書き換え」を承認している、と見える。
君こそ、三國志以外の「ほぼ同時代記録」を「勝手な書き換え」認定して、全否定しているんだろ。

621日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:26:44.56
松傾?

家は、このような名前の家なんだけど

622日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:34:58.11
よくわからないんだけど、
キュウリの葉が写っているでしょ河伯、河童?

『松傾』
実際は、このような名前の家なんだけど

623日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:43:35.47
それにしても、おかしいんだよな、
いまの福島県?のほうに住んでいたことがあるんだよ
と言っていたり


謎の埼玉名字辞典?老婆談と同じような記載があったり、

馬に乗り、駆け抜けたじゃなくて、駆け落ち?
同じことを言っていた

624日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:46:23.36
〜〜〜〜〜〜〜〜その後、川崎に来たのかな?
でも福島県のほうに住んでいたというのは事実

625日本@名無史さん2018/07/19(木) 02:59:42.75
同じ家なのかな?親戚?

>甲州へ、駆けおちす

確か同じような話をしていたんだけど、
家の老婆は凄い記憶の持ち主だったのかな、語り部か何か?

626日本@名無史さん2018/07/19(木) 03:03:15.38
関係する人物などを調べてみると
戦国時代〜安土桃山時代と書いてない?

627日本@名無史さん2018/07/19(木) 03:25:32.11
これは老婆のよりも二〜三世代ほど前の話


銀というのもいたとか、
当時住んでいた家には凄い刀が〜・・・・漫画?

628日本@名無史さん2018/07/19(木) 03:39:21.09
『箕輪伝説』

こういう漫画などは、
あまり関係ないのかな?

でも関係ありそうなんだけど

629日本@名無史さん2018/07/19(木) 03:47:11.49
箕輪?三ノ輪?ミノア?

「市」という名前

630日本@名無史さん2018/07/19(木) 03:48:10.07
セイントセイヤ?

631日本@名無史さん2018/07/19(木) 04:03:50.18
他の地方の事は、わからないけど

『甲州 箕輪』『会津 箕輪』

確実に、この辺りに住んでいた

632日本@名無史さん2018/07/19(木) 05:37:00.49
どう調べてみても

二本松、霞ヶ城?の辺りが出て来るし

633日本@名無史さん2018/07/19(木) 06:43:29.21
>>630
とかげの可愛い嘘

634日本@名無史さん2018/07/19(木) 06:45:31.70
天皇崇拝が歴史の真実を歪めてるのは確か

635日本@名無史さん2018/07/19(木) 07:26:52.33
3世紀畿内が文明的に九州に比べ劣っていたのは何故?

636日本@名無史さん2018/07/19(木) 07:31:17.45
奈良を掘っても無駄
王都は平安京の奥深く眠っている

637日本@名無史さん2018/07/19(木) 07:50:31.97
>>597
>理由が全く理解できない

理解できなくて当然w
ザラコクさんの戯れ言が理解できたら大変だよ?ww

638日本@名無史さん2018/07/19(木) 07:54:57.31
>>596
>行程説明記載からの「近似的な位置計算の推定」であったんだから、
>「東〜東北東」という位の一致があれば、十分なの。

じゃあ新羅の南もそれくらいの一致があれば十分だろww

正北抵新羅だから九州ってのは破綻したなww

だいたい「新羅の南の土地は倭國」ってだけの情報を無理読みしてるだけなんだがな

639日本@名無史さん2018/07/19(木) 07:59:16.09
>>596
>>(ハイエナのプロぐに載っていない件)私に簡単に論破されてしまった事で、自分のプログには書かなかったんだろう。<

>そんなこと聞いてないよ。<

お前は、ハイエナのプロぐに載っていないから、私が嘘を言ったのだろう、という宣伝をしたんだよ。

>80万字の根拠だよ。<

ハイエナは、一枚或いは裏表で2頁の文字数の平均を求め、 それに三国志全体の厚みからの枚数や頁数の概数を掛け算して、全体の文字数を概算したんだよ。

>ところで百度でこんなの見つけたんだがね。
「裴松之的注文共达36.7万余字,比陈寿正文的32万余字多出八分之一」
本文が80万なのかと思っていたが、そうじゃないんだな。<

「百度」ってなにか?は、知らんが、 合計が約70万字であったんなら、ハイエナの計算は、大体あっていたんだな。

>>宋明清代の考証校勘に供された「差異」文字は、当然、それまでの「写本版本」の全てで発生した差異の積み重ねの結果。<

>積み重ねの結果はわかるが「写本」なんて既に残っていないだろ。誇大表示だね。<

宋明清代には、当然など写本そのものや、底本写本などは残されているされてもの。
何百年も経った宮内庁本も残っていたんだろ?。

>>「海と馬」の場合にも、背景を史料批判しておいた筈だよ。<

>馬の批判だけのようだがね。<

「馬」根拠は、隋代以後に存在し、
「海」根拠は3世紀の魏志にのみ存在し、隋代以後には存在しない、 という事で十分だな。

640日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:01:07.87
>>605
>>「自女王國以北其戸数道里可得略載」と「自女王國以北特置一大率檢察諸國」に関しては
>>明確に起点表現となっており、

>「可」は 可能性の肯定であり、
>「得置」というような強い断定とは違うよ。

相変わらず漢文が読めないのに、とくとくと謎理論を書くから馬鹿にされるんだよ
「可」は「得略載」にしか掛からない
前半部分には何の影響もないよ

本当にザラコクさんは九州説の負の広告塔ww

641日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:04:22.22
>>618
>半分×書といいながら実際は全否定。

そんなことはないよ
自分に都合のよい部分だけ正しいとするための「半分×」なんだよ
チェリーピッキングの権化ww

642日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:04:25.38
>>636
日本は外国勢力に滅ぼされた経験がないので王権の痕跡は古い神社となって残っている。
4世紀初頭の崇神の大神神社「以前」が邪馬台国に直結する神社だ。

葛城に大神神社「以前」の名神大社が数社集中している。

高天原(御所市高天)の周辺だ。

邪馬台国の王都とは葛城だ。

纏向ではない。

643日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:12:29.46
>>615
>>別に全部読む必要がないし、
史料批判には、三国志以外の存在情報も、人類の常識に従って、批判する必要がある。<

>読まなきゃ同時代情報は分からないよ。<

個人は、自然や歴史の全てを情報を知る事は出来ないのであり、
知り得た情報の範囲内から、帰納的確率的な推論をするしかないんだよ。
勿論、この男(ww?)も、「全ての情報」を読んでいた筈がなく、
自分も出来ていない事を相手に要求して、口先議論に勝ったような言い方をして、
世間の人々を騙そう、とする詐欺師。
まるで、昨今の安部政府のような詐欺師。

>また誰も知らない人類の常識ですか?<

自然や歴史の殆どは不可知部分。

>>「南→東」などのような、史料事実の否定曲解をするような大和説者やお前は、
人類の常識知らずの、分裂幻覚妄想の・・・・なんだろう。<

>また誹謗中傷?<

周髀算経や礼記や指南魚などの方位磁石を知っている筈の魏の役人たちは、
「東と南をほぼ間違えない」んだよ。

644日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:22:32.02
これは、誰の発表だろうか、、、

440 名前:日本@名無史さん 2018/07/18(水) 14:57:29.58
>>438
>女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり

それで道里が判明してると考えるなら、「女王国以北」と矛盾するので間違い
道里は判明してないのだと考えるなら、「計其道里」と矛盾するので間違い

645日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:22:59.95
>>644
少し、レベルの劣った発表ではないのかな。。。

646日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:23:44.61
>>645
そうだね、、、
もっとも、僕たちの魏志倭人伝の翻訳でも、投馬国は女王国以北になるのだけれどもね。。。

647日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:24:15.49
>>646
ただし、畿内説を宣伝するキナイコシの440番の発表は、キナイコシの頭の悪さを発表してしまっているな。。。

648日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:24:49.27
>>647
そうだな。。。
女王国から船で東南に1年という道里を、明らかにした国のことも、魏志倭人伝に書かれているのになw

649日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:25:30.99
>>648
なるほど、、、
つまり、畿内説を宣伝するキナイコシの440番の発表は、キナイコシの頭の悪さを発表してしまっているのだね。。。

650日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:26:25.24
>>616
>>史料批判に拠って、「否定抹殺」不能な情報である、という存在確認が出来れば、
推論の根本的な出発情報である事になる。 それが科学であり、学問。<

>抹殺って血なまぐさい言葉が好きだねぇ。<

お前ら大和説者や安部自民や右翼マスコミや右翼学会教育界などの右翼人種は、
「南」を抹殺し、九州説を抹殺し、
「万世一系皇国史観によって殺人テロや侵略戦争」で近隣諸国民を抹殺する事が好きだねえ。

>否定不能な情報ってそれこそ別情報ではないか。<

「南」は、史料事実そのものだ。

>推論というが妄想の出発点になってしまうよ。<

不可知部分が殆どである自然や歴史においては、「知り得た事実からの推論」が学問や科学の出発点だ。

>学問というのなら誹謗中傷を混ぜるなよ。<

学問の世界に、史料事実の否定抹殺や、
「万世一系皇国史観」などのような「結論先にありき」の断定宗教思想を混ぜるなよ。

651日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:27:18.39
2018/07/09(月) 09:15:15.35に、キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と質問したな、、、、

652日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:28:31.47
どうして、キナイコシは古代中国人の誰一人として、「洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、」と言わなかったと考えてしまう狂人なのかな。。。

653日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:28:53.14
そうだね。。。
キナイコシは全ての古代中国人の生涯を、自分が把握したと夢想しているのではないのかな。。。

654日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:30:40.70
キナイコシが、眠っているのではないのかな。。。

655日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:37:59.74
個人は、自然や歴史の全てを情報を知る事は出来ないのであり、 知り得た情報の範囲内から、帰納的確率的な推論をすると、纏向遺蹟の古墳は、天皇の一族のもので、掘立小屋は古墳を作るために大物主が捕獲した生口の為の食料の倉庫ではないのかな。。。

656日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:39:48.19
キナイコシが、なかなか眠りから醒めないな。。。

657日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:42:10.64
>>656
畿内説を宣伝するキナイコシは、真夜中に、『箕輪伝説』のことを、発表していたので、眠いのではないのかな。。。

658日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:47:21.57
>>616
>>これが、大和説者の「都合の悪い史料事実」の否定抹殺の手口。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、単一情報なんて、幾らでも有り得、
それを史料批判も無しに、否定抹殺していれば、 当然、どんでん返しや、事故や、人類滅亡的な大災害が起きる。<

>抹殺連呼して人類滅亡だって。怖いねぇ。<

戦前の「万世一系皇国史観」の殺人抹殺テロや侵略戦争を連呼していれば、
最後は勝ち残った勝者一人が残り、そのものの寿命が来れば、確実に人類滅亡になる。 怖いねえ。
人は皆、一人では生きて行けないもの。人類も生物も皆兄弟。地球は全生物の財産。 奢る大和説者、久しからず。

>情報を扱う一般的な真っ当なやり方だよ。<

知り得た全ての情報の資料批判をして、客観性や信頼性を推し測って、
それから帰納的確率的な推論をする事が、もっともまっとうなやり方だよ。

>情報が多いほど、正確性は高いと考えるのは当然。<

その情報を、自説に都合が悪いからとして、否定曲解しているのが大和説者。

>単一情報は、正確性が低いから参考情報として判断は保留とする。否定もしてない。<

お前や大和説者は、貴重な単一情報を、大和説にとっては都合が悪い、というだけで、否定抹殺している。

>単一情報なんて、幾らでも有るけど、他の情報なしに、それをどういった根拠で正しいとするの?<

史料批判に拠って、正しさの確率を推定するの。

>単一情報を過大評価すると、妄想がついて回るのは必然。<

思想宗教的な結論先にありきでは、妄想がついて回るのは必然。

659日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:52:05.40
思想宗教的な結論先にありきの典型

それがzarakoku

660日本@名無史さん2018/07/19(木) 08:55:24.33
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

661日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:01:07.43
>>616
>>実際に、襄陽付近での戦闘があれば、新野の「屯」軍が参戦しない筈がない、
という事の、情報確認。<

>王昶が新野に屯するまでは、新野に居るのは守備隊程度。<

王昶かどうか?は知らんが、「苑→新野に屯地を移す」話は、青龍3年であって、
次の「襄陽付近での戦争」が起きたのは、241年であった筈。

>参戦すれば、新野が危なくなる。<

襄陽付近での戦闘が始まれば、新野は、参戦してもしなくても危なくなる。

>宛から援軍が来るまで襄陽と樊城には耐えてもらうしかない。<

司馬懿の援軍が来たのは、1年後であったんだろ?。

662日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:09:48.50
伊都スレに書き込み→畿内説スレを連投で荒らす→伊都スレに書き込み

663日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:31:28.70

664日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:48:03.85
>>661
新野の「屯」軍なるものが存在したという根拠がない

665日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:51:06.99
>>618
>>Yahoo地図で、「宣池」を探したが、見つけられない。<

>サービスを提供しているのは香港だけで中国本土ではしていないんじゃないのか。<

知らない。 娘はグーグルなら判るかも?と言ったが、目が悪くて、グーグルの出し方から判らない。

>>芍陂の役で、新野の屯軍が動いたのか?、の情報がみつけられないので、 何かおかしい。<

>誤解があるね。<

「三百里」情報そのものが、何らかの混乱があったかも知れぬ。

>>また変な事をいうねえ。 王昶の上表文があったのは青龍3年だった、と書いたのは、お前ではなかったのか?。↔

>別の人だね。<

wwではなかったようだ。

>その人は青龍の文の後の正始中を見逃したのではないか。<

同じ投稿に書かれていた記憶になっている。

>>その後の中国文書は、どうしても、半分×書になってしまい、信頼性や証拠性が半減してしまうもの。<

>ほらね、一括りにしてる。<

個々の史料やその部分記載に拠って、事情が違うし、不明なんだから、一括りなどする筈がない。

>半分×書といいながら実際は全否定。<

思想や宗教に拠っての、「結論先にありき」の記載の本は、 大多数の部分が、信頼性がない。

666日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:52:46.71
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。

667日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:52:47.67
>>664
王昶がが治所を移した後は確実にいたんじゃないの?

668日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:53:20.81
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。

669日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:53:48.61
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。

670日本@名無史さん2018/07/19(木) 09:55:42.35
>>666
何の話を聞いても同じことしか言わない連続句点男の脳が破綻している

671日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:00:48.72
たまにキナイコシが誰かに認定する、連続句点男とは何者だろうか。。。

672日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:01:19.52
連続句点男は、畿内説を妄信するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者ではないのかな。。。

673日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:02:02.99
狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。

674日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:02:29.99
>>673
反論することを諦めてしまったのではないのかな。。。

675日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:22:27.91
>>435 >>459 >>461 >>507
邪馬台国は沖縄
狗奴国は台湾
その間に先島諸島が21島ある(尖閣諸島含む)
服属しなかった狗奴国はそれが台湾であるなら民族文化的に異人種だから当然

676日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:29:56.21
>>620
>>何だ?、都合が悪くなると、史料批判も放棄して、「全部否定」か。<

>?なぜそんなことを言われるのか全く分からないが?<

>>ほぼ同時代の実見記録は、客観性も信頼性も確率も高いが、
後代史書の「前史の実見記載の、自己解釈に拠る書き換え」記載は、客観性も信頼性も確率も落ちる、
と言っているだけ。<
に対して、
>どの文献も結局のところ寄せ集めさ。<
という否定をしたから。

>日記ではないのだから、他から寄せ集め情報で出来ているのは当然。
元の情報がどれだけ保存されているかが重要であって、成立が後代だからというだけで、一括りで切り捨てるのは乱暴だよ。<

切り捨てなんてしないね。
後代の「前代史書記載の書き換え」があった記載があれば、信頼性が半分しかない、として、
参考資料しかない程度だ、言っているだけ。

>>この男は、 自分等が「ほぼ同時代記録の陳寿の三国志」の価値を認めなかった事を隠して、
後代史書の「勝手な書き換え」を承認している、と見える。<

>君こそ、三國志以外の「ほぼ同時代記録」を「勝手な書き換え」認定して、全否定しているんだろ。<

後代史書の「勝手な書き換え」は史料事実であり、史料実態。
そのような後代史書は、「半分×」であり、「全部×」ではない。
当たり前の事。

677日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:33:44.60
其餘旁國二十一ケ国
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35442141.html

No.233379 35【其餘旁國遠絶不可得詳】
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/1/233379

邪馬台国 九州周旋説
1 通説の問題点
https://ameblo.jp/y52yd/entry-10986563152.html

678日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:34:48.75

679日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:38:13.77
中国正史から見た倭人諸国の統一 1
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/14.htm

274.黒潮の東テイ人国@屋久島紀行
http://pentacross.seesaa.net/article/391807269.html

東〔魚是〕(テイ)人@ー倭国と東〔魚是〕国
http://35546864.at.webry.info/201105/article_4.html
http://35546864.at.webry.info/theme/d96aa1d0de.html

680日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:53:09.60
>>676
>後代史書の「勝手な書き換え」は史料事実であり、史料実態。

この人の日本語も、わかんねえなあ

681日本@名無史さん2018/07/19(木) 10:59:40.68
>>637
>>理由が全く理解できない <

>理解できなくて当然w ザラコクさんの戯れ言が理解できたら大変だよ?ww<

漢文では、
数量説明の叙述位置は、
(形容詞的な使用のように説明対象文言の前に付ける場合を除いて)、
原則として「説明対象文言の直ぐ後ろに書く」、という事が、
大和説者は理解出来ないはらしい。

勿論、「戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロや侵略戦争狂の・・・・wwでは、
始めから、信頼性が全くない。
というが理解出来ない、」

682日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:05:59.98
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

683日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:06:34.88
>>682
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
テンプレートは、その大規模調査で、リアルに破綻した説の、詐欺まがいの宣伝だから。

684日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:07:18.56
仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。

685日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:10:17.28
>>638
>>(陳寿の計其道里當在會稽東治之東は)
行程説明記載からの「近似的な位置計算の推定」であったんだから、
「東〜東北東」という位の一致があれば、十分なの。<

>じゃあ新羅の南もそれくらいの一致があれば十分だろww<

九州は、新羅のほぼ真南であるから、十分であるが、
大和は、釜山と京都が北緯35度線上であるから、新羅のほぼ真東であり、
(新羅の真南でないから)、×だよ。

>正北抵新羅だから九州ってのは破綻したなww<

正北抵新羅だから、ほぼ真東にある大和説は、破綻したな。

>だいたい「新羅の南の土地は倭國」ってだけの情報を無理読みしてるだけなんだがな <

だいたい、「南→東」などの嘘つき騙しをしていた大和説が、インチキ騙しであったんだかな。

686日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:10:28.25
>>681
>漢文では、

漢文読めないくせによく言うよww

ザラコクさんは、誰かが読んで訳してくれたものしか読んでないじゃないかww
二次情報しか見てない人間が何を言ってるんだかww

687日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:10:29.01
>>681
戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロや侵略戦争狂の・・・・

などと、あることないこと毎日口汚く罵ってる人の言葉は
始めから、信頼性が全くない。

688日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:22:35.32
>>675
先島諸島 さきしましょとう [日本大百科全書(ニッポニカ)]

沖縄県の宮古(みやこ)、八重山(やえやま)両列島の総称。
本土からみて、沖縄本島より先にあるための命名(明治時代)。単に先島とも呼称する。
沖縄諸島とともに琉球(りゅうきゅう)諸島(沖縄県すべての島の総称)を構成する。
宮古島、石垣島、西表(いりおもて)島を中心に18島の有人島のほか、尖閣(せんかく)諸島などの19島の無人島からなる。
琉球王府時代には、人頭税やマラリアなどで苦難した地域として知られ、台風常襲地域でもある。

689日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:27:22.31
>>640
>>「自女王國以北其戸数道里可得略載」と「自女王國以北特置一大率檢察諸國」に関しては
明確に起点表現となっており、《

>「可」は 可能性の肯定であり、 「得置」というような強い断定とは違うよ。<

おや、これは間違えたね。
「可」は、 可能性の推定の肯定であり、
「特置」は、強い断定、だね。

690日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:29:50.00
>>642
>邪馬台国の王都とは葛城だ。<

「南≠東」に拠って、×だ。

691日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:34:18.82
葛城の土蜘蛛
神武東征の際に征伐されたとある
また脛が長かったと言われている
ナガスネヒコと似ているな

葛城の土蜘蛛は征服に抗った忠義の厚い先住民だったのかな?
その後の葛城の勢力は何なんだろう?

692日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:38:06.02
>>689
>おや、これは間違えたね。
>「可」は、 可能性の推定の肯定であり、
>「特置」は、強い断定、だね。

これが、ズルコクさんのやり口だよ
さすがは不の広告塔ww

>>640での
「「可」は「得略載」にしか掛からない
 前半部分には何の影響もないよ 」
この部分が、ザラコクさんの無知・インチキ・ごまかしを指摘しているのに
そこを無視して、自分のミスタッチの修正で返信したふりをしている

本当に情けない、だめ人間の極地ww

693日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:38:53.95
>>690
「南≠東」は「会稽東治之東」に拠って、×だ。

694日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:47:54.31
九州説は、「会稽東治之東」に拠って、×だww

695日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:55:28.60
>>659
思想宗教的な結論先にありきの典型、とする

それが大和説学者。

696日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:14:02.49
>>695
もう、畿内説だ、九州説だと言い争いしている場合じゃないだろに。  @阿波 

697日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:18:22.52
>>695
という証拠は?

698日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:25:56.43
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。

699日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:27:34.75
九州説は、ズルコクとウソコク
たった二人のようだ

700日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:29:26.30
畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の分からないことを呟き始めたな。。。

701日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:30:04.61
>>700
テンプレートを論破され、追い詰められたからではないのかな。。。

702日本@名無史さん2018/07/19(木) 12:35:07.08
>>701-702
徹底的に論破され、追い詰められて、狂ってしまった九州説が
意味のわからないことを呟いて荒らしてるんだよ


つまりお前だが

703日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:03:32.33
『紙幣 素戔嗚尊』(須佐之男?)

画像をググると、
なぜ牛頭天王 百済国王、このような画像が出て来るんだろう

『何者にもなれない お前たち』?

704日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:05:06.35
百済というのも「えびす」と言われていたとか

『紙幣 えびす』?

705日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:08:11.81
畿内説を宣伝するキナイコシは、論破されると、無駄な改行をするので、わかりやすいな。。。

706日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:20:49.63
『ボーボボ』?

あの写真を貼り付けてみるしかないのかな、
確か、キュウリの葉、葱の華・・・

『松傾』と同じ名前の家の写真?

707日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:27:18.68
ゴミスレ

708日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:28:41.99
老婆談?

家(松傾、親戚?)の親戚の話なんだけど、
印刷会社だったかな、仕事をしていたんだか、そういう家と結婚した人もいるんだよ

と言っていたり

709日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:33:28.97
呟き荒らしが連句読点男なのは。もう明らかですね

710日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:45:35.73
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、キナイコシ自身がやっている呟き荒らしの罪を他人に擦り付け、論破された話題から、話を逸らしているな。。。

711日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:47:46.38
謎の人物に、このスレッドがゴミだと認定された今、纏向遺蹟が何だったかの話題を進めるために、適切なスレッドを作成した方が良いのではないのかな。。。

712日本@名無史さん2018/07/19(木) 13:59:29.29
>>711
おまえは誰だかバレてるから謎じゃないよ

713日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:07:41.10
畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、謎の人物の正体の究明に話を逸らしているな。。。

714日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:19:50.28
結局、九州説で極端に頭の悪いのは

連続句読点 つぶやき荒らし、キナイコシ連呼厨 伊都クズ
ザラコク
キウス

の3人しかいないんだろ?

715日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:24:01.06
畿内説を宣伝するキナイコシは、テンプレートが論破された時、魏志倭人伝の究明にとっては、あまり意味のないことを書く癖があるな。。。

716日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:32:20.77
新野の「屯」軍のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、魏志倭人伝の究明に対して、やる気を失ったのではないのかな。。。

717日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:38:23.27
>>716
つまり九州説は、宛まで300里なので短里が存在してないことが明るみに出て、打ちのめされてるわけだね

718日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:39:26.76
宛まで300里なので短里が存在してないとは、どういうことなのだろうか。。。

719日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:40:41.08
>>718
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。

720日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:41:35.92
>>719
僕たちの翻訳では、魏志倭人伝の作者は、まず倭人の住む土地を倭地と書いたのだよね、、、

721日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:42:01.51
>>720
そうだね、、、
そしてその中に倭国があって、さらにその中に、女王国や伊都国やマツラ国等がある。。。

722日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:42:38.67
>>721
倭人のいる地域は、倭国の範囲を超えて広がっているのだったね。。。

723日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:43:17.03
>>722
そうそう、12000里は、女王国の境界までの距離だ。。。
計算すると、伊都国と奴国の間だね。。。
だから、1里の長さは考える必要は無いのだよね。。。

724日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:43:56.63
>>723
その通り、、、奴国からが女王国だったね。。。
卑弥呼の都の邪馬台国は、そこから南にある熊本城だ。。。

725日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:45:08.36
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。

726日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:45:27.49
キナイコシはテンプレートが論破された時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。

727日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:45:40.39
僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。

728日本@名無史さん2018/07/19(木) 14:47:44.62
それにしても、新野の「屯」軍とは、卑弥呼にとって、味方なのだろうか、、、敵なのだろうか。。。

729日本@名無史さん2018/07/19(木) 15:21:26.89
>425
邪馬台国が沖縄の北谷海底遺跡
狗奴国は与那国海底遺跡を中心とする与那国島だろうね
水没したような地形は遠浅の肥沃な地形だろうから繁栄の中心だったろうし
台湾先住民は山岳民だから接点も衝突もなかったはず
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚

730日本@名無史さん2018/07/19(木) 15:31:22.78
>>728
九州説の敵だな

731日本@名無史さん2018/07/19(木) 17:37:00.24
>>687
事ある毎に、「反日だ」とか「在日半島人」だとかの、
毎日ある事ない事を口汚く罵って、ヘイトスピーチ投稿をしている、
大和説者やwwらの言葉は、
始めから、信頼性が全くない。

732日本@名無史さん2018/07/19(木) 17:45:11.22
>>694
「会稽東治之東」は、九州に、ほぼぴったりであり、
大和説は、「南≠東」に拠って×だ。

733日本@名無史さん2018/07/19(木) 17:47:31.35
>>702
徹底的に論破され、追い詰められて、狂ってしまった大和説が、
意味のわからないことを呟いて荒らし始めてるんだよ。

734日本@名無史さん2018/07/19(木) 17:58:44.18
>>731

毎日口汚い反日ヘイトスピーチを大量投稿をしたら
日本では嫌われるのは当たり前
どこの国でも同じ

735日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:00:18.84
>>717
つまり大和説は、「宛」ではなく「苑」であった事が明るみにでて、
300里が長里ではない事になったんだから、
打ちのめされてるわけだね。

736日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:13:44.30
>>733
大和説?

それなら東遷説だよ

737日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:17:30.22
>>735
「苑」だって300里にならない理由はない
「宛」が正しいけどね

738日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:29:20.49
反日も何もない

自分の家(??)を批判しているだけなんだけど、
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?

調べてみて、わかったはず、
まだわからないの?

739日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:32:02.16
伊達郡の川俣町という掲示板

なぜか家の話をしていたり、
香野建設(むかーし結婚した家と同じ名前、住んでいたところも近所)と
いう家の話とか

「すさのお」という人が書き込みをしていたり

740日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:40:55.38
何の用紙なのか知らないけど、
父親、母親、結婚、死亡・・・・いろいろと書いてある用紙とか

香野という名前も書いてなかった?
老婆も、飯野という町に住んでいたんだよと言っていた、
あと機織りをしていたとか


ストーカーがいるのかな

741日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:44:56.69
実際に住んでいるところは川崎(神奈川県)というところ、
あの写真などを貼り付けているところも

742日本@名無史さん2018/07/19(木) 18:50:15.69
つーちゃんねる(5ちゃんねる)じゃなくて、
あの掲示板(伊達郡川俣町)に行って聞いたほうが良いのかな、
いまは付き合いもないような、親戚が書き込みしているのかな?

743日本@名無史さん2018/07/19(木) 19:00:40.14
駆け落ちが何やらという話もしていたり、
銀というのもいたよとか、どういう事なんだろう


キュウリの葉、葱の華・・・、
あの松の木の立てられている写真(松傾?)


『何者にもなれない お前たち』?
 兄、弟、妹(5月15日生れ)

744日本@名無史さん2018/07/19(木) 19:14:10.30
それとも『松傾』というのは、すさのお?じゃないのかな

『何者にもなれない お前たち』画像を調べてみると
「✞」のようになっていたり

745日本@名無史さん2018/07/19(木) 20:39:26.63
キナイコシはなんで阿波のまともな指摘を無視するんだろうね。

746日本@名無史さん2018/07/19(木) 20:41:38.51
 魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
 末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
 魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
 どちらかは間違いだね
 隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね

 旧唐書でも
 「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
  東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
 とあって、内容を確認すると
 陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
 「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
 となっているけれど
 実際には成都から安南は「東南」

 大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
 どうしてだろうね?
 探せばまだまだいくらでもあると思うよ
 大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

747日本@名無史さん2018/07/19(木) 20:42:24.71
だから、ここの検証抜きの「東≠南」には何の意味もない

748日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:07:10.28
>>746
もうその事実だけでも九州説は唯一の拠り所を失うよなぁ

749日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:13:17.38
>>746
>魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
>末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね

末廬國から伊都国を、本当は「東南陸行→佐賀平野」なのに、畿内説は「北東→糸島」って間違ってるね

>魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
 
狗奴国はクナ国と読み、拘奴國はコウナ国と読む、どちらも正しいね

750日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:21:41.25
>>746
>魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
 末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね<

陳寿の行程記載は、
人類の常識通りに「出発説明+途中説明+到着説明」に順に記載しており、
末盧國からの「東南陸行五百里到伊都国」も、
「東南」が出発時点での出発方向で、目的地の伊都國は見えておらず、
「陸行五百里」が途中説明で、案内人や道標などの道なりに進むのであり、
「到伊都國」が到着説明になっており、
東南は、間違っていないね。

>魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
 どちらかは間違いだね <

後代の後漢書は、前史の魏志の記載を「自己解釈に拠る書き換え」をしているから、
後漢書は信頼性が低く、根拠にならず、後漢書の間違いだろうね。
 
>隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね<

竹島 から「東」に進んで、済州島やツシマを見て、
そのまま東に直進して一支國に至ったのであり、何も間違っていないね。

751日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:29:34.10
>>750
>済州島やツシマを見て、
>そのまま東に直進して一支國に至ったのであり

「自己解釈に拠る書き換え」をしているね
信頼性が低く、根拠にならないな

752日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:38:28.81
>>746
>旧唐書でも
 「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
  東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」 とあって、内容を確認すると
 陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
 「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
 となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」<

「如至成都,通水陸行」は、地図を見れば判るけど、
大理から一旦「成都へ至る道沿いや川沿いに、東へ向かう水陸路を採って」おり、
昆明付近から川沿いに安南へ向かっているので、
「如至成都,通水陸行」は、通行路説明をしており、
「東至安南」の「東」は、間違っていなかった事になるね。

>大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ どうしてだろうね?
 探せばまだまだいくらでもあると思うよ 大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね<

結局、どれも「方向を間違っていなかった」のであり、
周髀算経や礼記の、
「午前と午後の太陽位置を結んで東西を決め、更にそれに直角に南北を決める」事や、
指南魚のような方位磁石を使える魏使らは、
東西南北を間違える事はなかったんだよね。

753日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:42:12.90
>>747
>だから、ここの検証抜きの「東≠南」には何の意味もない<

だから、検証の結果、中国の識者は、東西南北を間違える事はなかった訳で、
従って、「南→東」とした大和説者は、嘘つき騙しの詐欺師であった訳で、
だから、大和説は、×ね。

754日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:50:14.56
>>753
>だから、検証の結果、中国の識者は、東西南北を間違える事はなかった訳で、

あなた、検証なんて何もしてないでしょ
妄想しただけ
だって証拠を出してない

そんなことだから古田妄説は、×ね。

755日本@名無史さん2018/07/19(木) 21:53:06.62
>>750
>「東南」が出発時点での出発方向で、目的地の伊都國は見えておらず、

はい
一寸千里とか使わなかったかった証拠
出ましたぁ

ww

756日本@名無史さん2018/07/19(木) 22:14:14.22
「出発説明〜」であれば、「南→東」も否定できなくなる

757日本@名無史さん2018/07/19(木) 22:23:42.31
>>753


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?


で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?



今言えウソブキ老いぼれ!

758日本@名無史さん2018/07/19(木) 22:41:55.54
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。

こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。

759日本@名無史さん2018/07/19(木) 22:46:02.13
東遷説には与しない
by 寺澤 薫

760日本@名無史さん2018/07/19(木) 22:56:42.64
>>759
お前みたいなのが攻撃するから、一応そういう建前にしておいただけだね。
だからこそ、結論を明言せずに、これまでの著作を読めばわかる、としか書けなかったんだよ。
誰が圧力をかけたんだ?

761日本@名無史さん2018/07/19(木) 23:05:00.71
>>760
九州イタコw

762日本@名無史さん2018/07/19(木) 23:29:39.43
寺澤説を要約すると

古墳時代社会への移行は、大和での純粋な内的発展や大和が主導的立場となる外部勢力との連合などによるものではなく、
大和が外部から圧力を受けることによって客体的に成し遂げられたものだが、ここでいう外部からの圧力とは移住によるものではない

てなとこだな
伊都クズには理解できないだろうがなw

763日本@名無史さん2018/07/19(木) 23:44:05.14
東遷なんて言葉を見ると脊髄反射する輩が多いのだろう。
だが、人も物もない大和に強大な権力が自生するはずもない。

764日本@名無史さん2018/07/19(木) 23:45:36.15
つまり古墳時代を成立させた勢力は、大和の外にいたんだよ。

765日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:18:08.44
でも大和には住み着いていない

766日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:36:36.91
最大勢力は大和に移住せず、大和の外から影響を与え続けたと言うこと。
寺沢氏は、東遷は否定するが、東征は否定していない。

767日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:37:45.76
そして大和は独自の銅鐸文化を捨て、博多湾沿岸の銅鏡文化、それも内行花文鏡を至高とする文化を受け入れた。

768日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:38:58.09
大和から筑紫へは土器(とその中身)が流入
筑紫から大和へは権威の象徴が流入
これは植民地と宗主国の関係そのままだよ

769日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:43:24.51
>>763
>人も物もない大和

論文原本がそのまま読めるんだから、素直に読みなよ
「こうしてみると、「ヤマト」国の重層構造は、「層富」国や
 「葛城」国に比べて明らかに層が厚い。国邑つまり「国」都が
 限定しにくい二国に比べると、「ヤマト」国の国邑は明らかに
 唐古 ・ 鍵遺跡なのである。このことは言い方を換えれば、
 「ヤマト」国の部族的国家としての結合性(結束性)や求心性の
 強さに比べると、他の二国の脆弱性や分立性が指摘できるかも
 しれない。藤田三郎氏はこの点に注目して、第V様式以降を
 念頭においての唐古 ・ 鍵遺跡を頂点とした奈良盆地のピラミッド構造を
 想定している(図13)55)。重要な指摘であろう。」

ちゃんと唐古鍵を国邑として、人も物もしっかり集積してるよ

770日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:45:51.23
>>752
>大理から一旦「成都へ至る道沿いや川沿いに、東へ向かう水陸路を採って」おり、

ウソつき
そんなところに水行路はない

水行は安南(ハノイ)に向かうソンホン川の下流部のみだ
ザラコクさんは「検証せずにいい加減をいう」の実例ww

771日本@名無史さん2018/07/20(金) 00:58:02.90
>>769
>「こうしてみると、「ヤマト」国の重層構造は、「層富」国や
> 「葛城」国に比べて明らかに層が厚い。国邑つまり「国」都が

比較相手がショボすぎるだけだよ。
井の中の蛙だよ。
筑紫や吉備と比較しているわけではない。
葛城はないよな、程度の話。

772日本@名無史さん2018/07/20(金) 01:17:31.82
狗奴国は与那国であり、先島諸島の東テイ(魚是)人の中心勢力
これが沖縄盟主の邪馬台国と対立していた

773日本@名無史さん2018/07/20(金) 03:53:25.23
>>693
>お前は、ハイエナのプロぐに載っていないから、私が嘘を言ったのだろう、という宣伝をしたんだよ。
甚だしい被害妄想だな。そもそもこの件の情報はその人が出したものではないのか。

>ハイエナは、一枚或いは裏表で2頁の文字数の平均を求め、 それに三国志全体の厚みからの枚>数や頁数の概数を掛け算して、全体の文字数を概算したんだよ。
個人的な興味レベルの数字だな。

>「百度」ってなにか?は、知らんが、 合計が約70万字であったんなら、ハイエナの計算は、大体あっていたんだな。
やっぱり未確認か。
よくまぁ未確認の数字を根拠に使うね。

>宋明清代には、当然など写本そのものや、底本写本などは残されているされてもの。
>何百年も経った宮内庁本も残っていたんだろ?。
北宋の刊行本を作った頃には、まだ写本が残っていたようだ。
しかし金の侵攻(1127年)で北宋の刊行本も版木もほとんどが奪われ失われた。
地方で戦火を免れた北宋の刊行本から復刻したのが南宋の刊行本と言われている。

>「馬」根拠は、隋代以後に存在し、
>「海」根拠は3世紀の魏志にのみ存在し、隋代以後には存在しない、 という事で十分だな。
薄っぺらいな。誤字のある12世紀の刊本で判断出来ないだろ。

774日本@名無史さん2018/07/20(金) 03:58:04.83
>>650
>お前ら大和説者や安部自民や右翼マスコミや右翼学会教育界などの右翼人種は、
>「南」を抹殺し、九州説を抹殺し、 「万世一系皇国史観によって殺人テロや侵略戦
>争」で近隣諸国民を抹殺する事が好きだねえ。
このスレで「抹殺、殺人テロ、戦争」を使っているのは一人だけだよ。

>「南」は、史料事実そのものだ。
そんなこと言い張っている奴が、史料批判なんか出来ないだろ。
相反する事を言っている自覚がないのかね。

>不可知部分が殆どである自然や歴史においては、「知り得た事実からの推論」が学問や科学の出発点だ。
妄想の出発点だ。非存在ならなおさら。

>学問の世界に、史料事実の否定抹殺や、
>「万世一系皇国史観」などのような「結論先にありき」の断定宗教思想を混ぜるなよ。
断定しているのは君だけだろ。
保留の意味がわからないのかな?
史料批判によって誤字と判断しているだけなんだがね。
せめて議論の作法やマナーを守りなよ。

775日本@名無史さん2018/07/20(金) 04:09:51.07
>>658
>戦前の「万世一系皇国史観」の殺人抹殺テロや侵略戦争を連呼していれば、
>最後は勝ち残った勝者一人が残り、そのものの寿命が来れば、確実に人類滅亡になる。 怖いねえ。
>人は皆、一人では生きて行けないもの。人類も生物も皆兄弟。地球は全生物の財産。 奢る大和説者、久しからず。
すごい妄想だな。なにかの新興宗教なのかね。
このスレでそれを連呼しているのは君一人だけなんだが・・
欠史八代は造作だと思ってるのに、萬世一系と言われてもな。

>知り得た全ての情報の資料批判をして、客観性や信頼性を推し測って、
>それから帰納的確率的な推論をする事が、もっともまっとうなやり方だよ。
そんなやり方を指導する本があるならお目にかかりたいもんだ。

>その情報を、自説に都合が悪いからとして、否定曲解しているのが大和説者。
都合なんて誰も考えてないよ。
自分が結果ありきだから、他人も同じとは思わないでほしいね。

>お前や大和説者は、貴重な単一情報を、大和説にとっては都合が悪い、というだけで、否定抹殺している。
保留という言葉の意味が理解できないようだ。
単一情報を貴重と思い込む時点で「結果ありき」だとは思わないのか?

>史料批判に拠って、正しさの確率を推定するの。
単一情報では保留にするのが精一杯。
単一情報で正しさの確率?。数値なんか出せないだろ。「結果ありき」なんだよ。

>思想宗教的な結論先にありきでは、妄想がついて回るのは必然。
自分がそうだからといって、他人も同じと思わないでくれたまえ。

776日本@名無史さん2018/07/20(金) 04:17:22.36
>>661
>王昶かどうか?は知らんが、「苑→新野に屯地を移す」話は、青龍3年であって、
>次の「襄陽付近での戦争」が起きたのは、241年であった筈。
王昶は青龍四年に司馬懿に推挙された。
正始中としか書かれていないため、「芍陂の役」の正始二年(241年)時点で王昶が洛陽に居たのか徐州に居たのかは判断できない。
正始二年(241年)時点では夏侯儒が征南将軍・都督荊豫諸軍事であることから、
王昶が征南將軍・假節都督荊・豫諸軍事にとなり宛に遷り上表文を出すのは、それ以降と思われる。

>襄陽付近での戦闘が始まれば、新野は、参戦してもしなくても危なくなる。
参戦すれば城ががら空き。

>司馬懿の援軍が来たのは、1年後であったんだろ?。
司馬懿の援軍は洛陽からで、一か月後。

777日本@名無史さん2018/07/20(金) 04:30:13.75
>>665
>知らない。 娘はグーグルなら判るかも?と言ったが、目が悪くて、グーグルの出し方から判らない。
「googleマップ」と検索するだけだ。
中国の「百度地図」のほうが詳しいけどな。

>「三百里」情報そのものが、何らかの混乱があったかも知れぬ。
それはない。

>思想や宗教に拠っての、「結論先にありき」の記載の本は、 大多数の部分が、信頼性がない。
全否定を肯定するようだね。

778日本@名無史さん2018/07/20(金) 04:34:21.62
>>676
>切り捨てなんてしないね。
>後代の「前代史書記載の書き換え」があった記載があれば、信頼性が半分しかない、として、
>参考資料しかない程度だ、言っているだけ。
「〇〇(文献名)」だからと一括りに切り捨ててるよね。

>後代史書の「勝手な書き換え」は史料事実であり、史料実態。
>そのような後代史書は、「半分×」であり、「全部×」ではない。
>当たり前の事。
君の言う史料実態と史料批判は相反してる。
都合の良いものは史料実態で〇。
都合の悪いものは史料批判で「半分×」。
批判に対する保険で「半分」にしているだけで、やっていることは「全部×」だよね。

779日本@名無史さん2018/07/20(金) 05:57:02.20
>>381
邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
http://2chb.net/r/history/1331559630/540-545

780日本@名無史さん2018/07/20(金) 06:13:55.22
奈良は墓地と考えるべきであろう
エジプトの王家の谷
王都は淀川水系沿い・・京都が有力

781日本@名無史さん2018/07/20(金) 06:15:13.33
邪馬台国とは関係ないが

782日本@名無史さん2018/07/20(金) 07:06:18.74
河内王朝 葛城王朝 三輪王朝・・・・・

初期ヤマト王権は畿内の連合体

邪馬台国⇒ヤマトとは考え無いほうが良いのでは???

783日本@名無史さん2018/07/20(金) 07:19:15.88
法則

トンデモ説は理由を言わない

784日本@名無史さん2018/07/20(金) 07:27:40.66
ああああ
纏向に住居跡がああああああ
欲しいーーーーーーーーーーーー

785日本@名無史さん2018/07/20(金) 07:36:08.33
>>784
キウスさん、またイタコ病の発作ですか?

786日本@名無史さん2018/07/20(金) 07:43:28.87
>>784
奈良盆地にいくらでも集落があるだろう

東京都庁内に都職員の住居がないのがおかしい、って言ってるのと
同じ程度におかしなことを主張しているのは分かるかい?

787日本@名無史さん2018/07/20(金) 07:59:37.70
>>748
「中国人指揮者は、東西南北を間違えなかった」という実態だけでも、
もう大和説は、拠り所を全て失うよなぁ。

788日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:10:33.45
>>751
>>済州島やツシマを見て、 そのまま東に直進して一支國に至ったのであり<

>「自己解釈に拠る書き換え」をしているね 信頼性が低く、根拠にならないな<

史料事実は、
「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國」
であり、
至った場所としては「行至竹島」と 「又東至一支國」しか書かれておらず、
その間は、「在大海中」であった事になり、
「対馬島から壱岐島」の東南移動は、していなかった事になるんだよ。

789日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:16:29.96
>>754
>>だから、検証の結果、中国の識者は、東西南北を間違える事はなかった訳で、<

>あなた、検証なんて何もしてないでしょ 妄想しただけ だって証拠を出してない<

知り得た範囲内の検証では、中国人指揮者は、誰一人、
東西南北を間違えた人はいなかった。
そんなことだから、大和説者や右翼学会教育界や右翼マスコミは、
「南→東」に拠って×は、

790日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:23:54.64
>>755
>>「東南」が出発時点での出発方向で、目的地の伊都國は見えておらず、<

>はい 一寸千里とか使わなかったかった証拠 出ましたぁ ww <

はい、一寸千里は、原則として、
南北間の(可視出来ない)千里単位の区間の計測であり、
可視出来れば、簡易三角測量などの方が有効。

791日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:32:23.61
>>756
>「出発説明〜」であれば、「南→東」も否定できなくなる<

投馬國の「南」は、移動記載ではなく、始めから四至方向の位置説明であったし、
邪馬壹國の行程説明の「南」は、その直前の不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
南方向に出発したらすぐに邪馬壹國の入り口に着いてしまって、
東には全く行っていないので、

大和説は全く×ね。

792日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:42:53.41
いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、

793日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:43:44.50
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。

794日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:49:10.53
>>793
ほらな

イタコ病

795日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:52:39.13
>>759
>(寺澤)(一)大和にとっての外的強力とは
いかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、<

寺澤は、意図的に、
中国史料記録に拠って「倭國は正北抵新羅の九州」にあり、
その倭國が「東征毛人五十五國」した事を、隠蔽し隠した話をして、
世間の人々を騙そうとしている詐欺師である。

>(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、<

単に、倭国の東征の結果として、
倭国の地方の市を監督する「大倭」職の旧小国があっただけである。

>(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、
その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。<

大和は、出雲系の銅鐸祭祀の毛人住民がいた所に、倭国の東征の文化が取って代わっていった、
というだけ。

796日本@名無史さん2018/07/20(金) 08:57:08.69
>>791
それだとぜんぜん「会稽東治之東」にならないから
古田説は全く×ね。

797日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:00:50.50
>>795
なんかもう宗教団体の教義を繰り返しスピーカーで街頭に流し続ける信者みたい

798日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:03:12.46
>>792
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
テンプレートは、その大規模調査で、リアルに破綻した説の、詐欺まがいの宣伝だから。

799日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:03:31.67
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている

800日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:04:17.80
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

801日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:04:41.79
>>752
>寺澤説を要約すると 古墳時代社会への移行は、
大和での純粋な内的発展や大和が主導的立場となる外部勢力との連合などによるものではなく、
大和が外部から圧力を受けることによって客体的に成し遂げられたものだが、
ここでいう外部からの圧力とは移住によるものではない
てなとこだな 伊都クズには理解できないだろうがなw<

寺澤の、
倭国の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「倭国の地方の市を監督する旧小国」の無視隠蔽は、
寺澤も、「万世一系皇国史観」という「結論先にありき」の・・・・アホ人種であった、
という事を示すんだろうなあ。

802日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:05:16.64
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。

803日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:05:43.51
畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。

804日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:06:08.92
これは、誰の発表だろうか、、、

440 名前:日本@名無史さん 2018/07/18(水) 14:57:29.58
>>438
>女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり

それで道里が判明してると考えるなら、「女王国以北」と矛盾するので間違い
道里は判明してないのだと考えるなら、「計其道里」と矛盾するので間違い

805日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:06:33.41
>>804
少し、レベルの劣った発表ではないのかな。。。

806日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:07:27.40
2018/07/09(月) 09:15:15.35に、キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と質問したな、、、、

807日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:08:25.85
キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。

808日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:11:22.36
キナイコシに元気がなくなったな。。

809日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:11:40.24
新野の「屯」軍のことで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、魏志倭人伝の究明に対して、やる気を失ったのではないのかな。。。

810日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:12:19.10
>>801
>寺澤の、
>倭国の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
>「倭国の地方の市を監督する旧小国」の無視隠蔽は、
>寺澤も、「万世一系皇国史観」・・・

いや、そんな古田説特有の不合理なゴリ推し珍解釈
まともな歴史研究者は全員無視してるし
「万世一系皇国史観」とかも無関係

811日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:15:45.80
>>809
こういう、いつもウソつく人って
扱いが楽だよね

つまり自分が打ちのめされ恥かいて、やる気失って
荒らし専門に堕落したって
告白だから

812日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:17:21.81
>>804
それが九州説の致命傷だったらしいですね。

813日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:17:22.98
まともな歴史研究者にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。

814日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:17:58.31
>>805
そうだね、、、
もっとも、僕たちの魏志倭人伝の翻訳でも、投馬国は女王国以北になるのだけれどもね。。。

815日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:18:18.79
>>814
ただし、畿内説を宣伝するキナイコシの440番の発表は、キナイコシの頭の悪さを発表してしまっているな。。。

816日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:18:46.94
>>815
そうだな。。。
女王国から船で東南に1年という道里を、明らかにした国のことも、魏志倭人伝に書かれているのになw

817日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:19:13.81
>>816
なるほど、、、
つまり、畿内説を宣伝するキナイコシの440番の発表は、キナイコシの頭の悪さを発表してしまっているのだね。。。

818日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:20:08.96
>>806
どうして、キナイコシは古代中国人の誰一人として、「洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、」と言わなかったと考えてしまう狂人なのかな。。。

819日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:20:31.60
>>818
そうだね。。。
キナイコシは全ての古代中国人の生涯を、自分が把握したと夢想しているのではないのかな。。。

820日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:20:49.53
>>807
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。

821日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:21:54.81
>>820
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。

822日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:22:21.87
>>821
帥升とは何者だろうか。。。

823日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:23:29.76
>>769
〉「こうしてみると、「ヤマト」国の重層構造は、「層富」国や
 「葛城」国に比べて明らかに層が厚い。国邑つまり「国」都が
 限定しにくい二国に比べると、「ヤマト」国の国邑は明らかに
 唐古 ・ 鍵遺跡なのである。このことは言い方を換えれば、
 「ヤマト」国の部族的国家としての結合性(結束性)や求心性の
 強さに比べると、他の二国の脆弱性や分立性が指摘できるかも
 しれない。藤田三郎氏はこの点に注目して、第V様式以降を
 念頭においての唐古 ・ 鍵遺跡を頂点とした奈良盆地のピラミッド構造を
 想定している(図13)55)。重要な指摘であろう。」
ちゃんと唐古鍵を国邑として、人も物もしっかり集積してるよ<

これも×だろうなあ。
葛城も唐子鍵も、元は銅鐸祭祀的な出雲系が中心であった事がははっきりしており、
東南部の「脱銅鐸」の倭国の民の流入地域とは、別部族であり、
欠史八代の間に、婚姻に拠って、一時的な平和な時代があったらしい、
という事も否定出来ない。

824日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:23:48.99
>>816
おまえ、相当アタマ悪いだろ
そこに戸数かいてないぞ

825日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:24:28.52
もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。

826日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:24:51.43
キナイコシはテンプレートが論破された時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。

827日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:25:13.17
狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。

828日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:25:36.23
>>827
反論することを諦めてしまったのではないのかな。。。

829日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:29:38.59
>>802
観光関係の宣伝目的ではないのかな。

830日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:31:29.08
寺澤氏とは、何者だろうか。。。

831日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:32:23.41
>>830
観光関係の宣伝係ではないのかな。

832日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:38:07.59
図星を突かれて、焦っているのではないのかな。

833日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:40:43.81
寺澤芳雄 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/寺澤芳雄
寺澤 芳雄(てらさわ よしお、1928年2月24日 -2016年9月29日)は、日本の英語学者、東京大学教養学部名誉教授。中世英語、英語史専攻。 目次. 1 来歴; 2 著書; 3 共編著; 4 翻訳. 来歴[編集]. 東京生まれ。1953年東大英文科卒、同大学院修了、1969年東大 ...

寺澤芳男 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/寺澤芳男
寺澤 芳男(てらさわ よしお、1931年10月3日 - )は、日本の実業家、政治家。 野村證券副社長、ローンスタージャパン会長、東京スター銀行会長、多数国間投資保証機関長官(初代)、参議院議員(1期)、経済企画庁長官(第49代)、参議院外務委員長等を歴任 ...

834日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:41:13.16
寺澤氏とは、何者だろうか。。。

835日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:41:51.91
>>770
>>大理から一旦「成都へ至る道沿いや川沿いに、東へ向かう水陸路を採って」おり、<

>ウソつき そんなところに水行路はない
水行は安南(ハノイ)に向かうソンホン川の下流部のみだ
ザラコクさんは「検証せずにいい加減をいう」の実例ww<

Yahoo地図での、
https://map.yahoo.co.jp/maps?lat=33.60616970&lon=130.41811380&ac=40&az=&z=10&fa=pa&ei=utf8&p=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C
で確認すると、大理から東方には、揚子江の四川盆地に繋がる川が何本も見えており、
特に、南華〜楚雄には揚子江に繋がる東流の川の存在がはっきり描かれている。
そして、楚雄から東に峠を越えれは、昆明になる。
従って、大理から楚雄のルートは、「如至成都」の通水陸行ルートになっている。

836日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:44:47.13
[寺澤 wiki]で検索すれば、良いのではないのかな。。。

837日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:46:01.42
寺澤ひろみ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/寺澤ひろみ
寺澤 ひろみ(てらさわ ひろみ)は、日本のハーモニカ奏者。父はベーシスト、複音ハーモニカ奏者の寺澤博義。 目次. [非表示]. 1 来歴; 2 受賞歴; 3 アルバム; 4 テレビ・ラジオ. 4.1 現行; 4.2 過去. 5 著作; 6 脚注; 7 外部リンク. 来歴[編集]. 東京都江戸川区出身。

寺沢徹 - Wikiwand
www.wikiwand.com/ja/寺沢徹
寺澤 徹(てらさわ とおる、1935年1月4日 - )は、東京都生まれの元マラソン選手で、元マラソン世界最高記録保持者。 ... 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 寺澤徹, Portal:陸上競技. 寺澤徹, 1964. 選手情報. フルネーム, 寺沢徹. ラテン文字 ...

838日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:52:44.56
どういうことだろうか、、、

寺澤説を要約すると 古墳時代社会への移行は、
大和での純粋な内的発展や大和が主導的立場となる外部勢力との連合などによるものではなく、
大和が外部から圧力を受けることによって客体的に成し遂げられたものだが、
ここでいう外部からの圧力とは移住によるものではない

839日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:55:42.44
>>838
外部からの圧力とは、九州の帥升による、生口捕獲の攻撃ではないのかな。。。

840日本@名無史さん2018/07/20(金) 09:56:25.62
>>835
>揚子江の四川盆地に繋がる川が何本も見えており、
>特に、南華〜楚雄には揚子江に繋がる東流の川の存在がはっきり描かれている。

「川があるから水行」ってのは、何も検討してないってことだ
大陸中華の民族は騎馬民族だから、川があっても移動にはあまり利用しない
川沿いに道を作って陸路で移動するのが基本

黄河やその支流の渭水クラスの大河なら、水運に使われるが、その場合は
漕運という用語を使う

この記事での水運は、ソンホン川の下流部分のみで、成都までに水行区間はない

でたらめを書いてもダメだよ

841日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:01:58.80
寺澤氏とは、何者だろうか。。。

842日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:02:51.66
[寺澤 観光]で検索すれば、良いのではないのかな。。。

843日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:05:32.83
>>777
>>お前は、ハイエナのプログに載っていないから、私が嘘を言ったのだろう、という宣伝をしたんだよ。<

>甚だしい被害妄想だな。そもそもこの件の情報はその人が出したものではないのか。<

甚だしい曲解捏造だなあ。文句があるんなら、ハイエナのプログで質問してみな。

>>ハイエナは、一枚或いは裏表で2頁の文字数の平均を求め、 それに三国志全体の厚みからの枚>数や頁数の概数を掛け算して、全体の文字数を概算したんだよ。<

>個人的な興味レベルの数字だな。<

ハイエナは、ついうっかり、「大和説に不利になる事」を報告してしまった。

>>「百度」ってなにか?は、知らんが、 合計が約70万字であったんなら、ハイエナの計算は、大体合っていたんだな。

>やっぱり未確認か。 よくまぁ未確認の数字を根拠に使うね。<

倭人伝の「校勘文字数」の確率とほぼ一致していたから、信頼性はあった。

844日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:06:17.88
ハイエナ氏とは、何者だろうか。。。

845日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:06:19.22
>>777
>>宋明清代には、当然写本そのものや、底本写本などは残されているされてもの。 何百年も経った宮内庁本も残っていたんだろ?。<

>北宋の刊行本を作った頃には、まだ写本が残っていたようだ。<

写本は一種の「お宝」であり、出来るだけ保存しておくものだ。

>しかし金の侵攻(1127年)で北宋の刊行本も版木もほとんどが奪われ失われた。
地方で戦火を免れた北宋の刊行本から復刻したのが南宋の刊行本と言われている。<

宋明清の校勘学者が、(張元済のように)校勘の判断に「残存写本」や「古本」を求めない、って事が有り得ない。

>>「馬」根拠は、隋代以後に存在し、「海」根拠は3世紀の魏志にのみ存在し、隋代以後には存在しない、 という事で十分だな。<

>薄っぺらいな。誤字のある12世紀の刊本で判断出来ないだろ。<

お前は「海」の文字記載の説明が全く不可能なアホなんだろ?。

846日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:07:16.66
三国志とは、何だろうか。。。

847日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:14:23.70
>>845
説明なんて、いくらでもできる
あんまり説明する意味がないだけ

848日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:15:28.43
三国志の文字数は、魏志倭人伝の文字数の何倍なのだろうか。。。

849日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:22:39.71
驚いたな。。。三国史の誤字の確率は、そのまま魏志倭人伝の誤字の確率だったのだな。。。

850日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:28:04.73
計算すると、0.5%以下なのだね。。。

851日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:29:45.97
魏志倭人伝の誤字の確率が、0.5%以下だと、魏志倭人伝の翻訳にどんな影響があるのだろうか、、、

852日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:30:02.89
>>774
>>お前ら大和説者や安部自民や右翼マスコミや右翼学会教育界などの右翼人種は、
「南」を抹殺し、九州説を抹殺し、 「万世一系皇国史観によって殺人テロや侵略戦
争」で近隣諸国民を抹殺する事が好きだねえ。<

>このスレで「抹殺、殺人テロ、戦争」を使っているのは一人だけだよ。<

人種差別的な侵略戦争を煽っている者は、何人もいるよ。

>>「南」は、史料事実そのものだ。<

>そんなこと言い張っている奴が、史料批判なんか出来ないだろ。 相反する事を言っている自覚がないのかね。<

確率が99.5%以上であるから、「史料事実」だよ。

>>不可知部分が殆どである自然や歴史においては、「知り得た事実からの推論」が学問や科学の出発点だ。<

>妄想の出発点だ。非存在ならなおさら。<

非科学 非学問の「思想宗教の絶対断定」主義の嘘つき騙しの出発点だな。非存在ならなおさら。

853日本@名無史さん2018/07/20(金) 10:31:42.53
>>774
>>学問の世界に、史料事実の否定抹殺や、「万世一系皇国史観」などのような「結論先にありき」の断定宗教思想を混ぜるなよ。<

>断定しているのは君だけだろ。<

「南→東」などの嘘つき騙しの断定をしているのは、キミら大和説者だけだよ。

>保留の意味がわからないのかな? <

大和説者は、「保留」ではなく、「南→東」などの史料事実の否定曲解を断定している。

>史料批判によって誤字と判断しているだけなんだがね。<

99.5%以上正しい、と判ったものを、「誤字だ」と判断されてもねえ。

>せめて議論の作法やマナーを守りなよ。<

せめて、「南→東」などのような明らかなウソを付くような事を止めて、学問的科学的な議論の作法やマナーを守りなよ。

854日本@名無史さん2018/07/20(金) 11:33:21.87
>>775
>>戦前の「万世一系皇国史観」の殺人抹殺テロや侵略戦争を連呼していれば、 最後は勝ち残った勝者一人が残り、そのものの寿命が来れば、確実に人類滅亡になる。 怖いねえ。
人は皆、一人では生きて行けないもの。人類も生物も皆兄弟。地球は全生物の財産。 奢る大和説者、久しからず。<

>すごい妄想だな。なにかの新興宗教なのかね。<

大和説者という新興宗教の論理の結末を説明して上げただけ。

>このスレでそれを連呼しているのは君一人だけなんだが・・<

何を講釈したって、お前や大和説者は、全て「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しである事がバレているんだから、何の価値もないねえ。

>欠史八代は造作だと思ってるのに、萬世一系と言われてもな。<

欠史八代の否定も、史料事実の否定の嘘つき騙しになるなあ。

>>知り得た全ての情報の資料批判をして、客観性や信頼性を推し測って、
それから帰納的確率的な推論をする事が、もっともまっとうなやり方だよ。<

>そんなやり方を指導する本があるならお目にかかりたいもんだ。<

当然自然科学者や九州説者は、原則として全員、史料事実からの帰納的確率的な推論をしている。

855日本@名無史さん2018/07/20(金) 11:35:03.96
>>775
>>その情報を、自説に都合が悪いからとして、否定曲解しているのが大和説者。<

>都合なんて誰も考えてないよ。 自分が結果ありきだから、他人も同じとは思わないでほしいね。<

幾ら弁解したって無駄。大和説者は、全員、「南→東」という史料事実の否定曲解をしている嘘つき騙しの詐欺師なんだから。

>>お前や大和説者は、貴重な単一情報を、大和説にとっては都合が悪い、というだけで、否定抹殺している。≪

>保留という言葉の意味が理解できないようだ。<

保留という時点で、「南→東」の嘘つき騙しを肯定している。

>単一情報を貴重と思い込む時点で「結果ありき」だとは思わないのか?<

存在確率が99.5%以上の情報を、貴重だとするのが当たり前。

>>史料批判に拠って、正しさの確率を推定するの。<

>単一情報では保留にするのが精一杯。 単一情報で正しさの確率?。数値なんか出せないだろ。「結果ありき」なんだよ。<

99.5%以上の確率のある史料事実を、「保留」にするのが、インチキ騙し。

>>思想宗教的な結論先にありきでは、妄想がついて回るのは必然。<

>自分がそうだからといって、他人も同じと思わないでくれたまえ。<

他人が、自分等の「南→東」などの嘘つき騙しを肯定する嘘つきだ、などとは思わんでくれ。

856日本@名無史さん2018/07/20(金) 14:21:06.51
>>843
今どきは電子テキストで三国志全文読めるんだから、字数くらい自分で数えてみなよ

三国志(原文)を全文検索
http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

そういう手間もかけずに適当な思い付きを書き込み続けているから、
軽蔑され続けているんだよ、ザラコクさんはww

857日本@名無史さん2018/07/20(金) 14:23:58.83
近い将来、畿内説で決着を見たときには、魏志倭人伝の南は何らかの理由で
本当は東だったものが間違って記載されていたことが確認されるわけだ

進化論は間違っていると言い続ける、聖書原理主義者ってのは今でもいるから
そうなってもザラコクさんは意見を変えないんだろうけれどww

古田武彦氏原理主義なんて、つまらないものだけれどなぁ

858日本@名無史さん2018/07/20(金) 14:48:27.68
進化論は間違ってるけどなぁ。

859subo2018/07/20(金) 14:52:10.48
>>857
んなわけなかろうもんw

860日本@名無史さん2018/07/20(金) 15:10:30.06
つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。

861日本@名無史さん2018/07/20(金) 15:45:37.36
畿内説テンプレは、

・曹魏のことは言うが、後漢時代に台頭した曹操と、彼が公孫康に開かせた倭地倭人倭国支配のための帯方郡役所のことは頭にない。

・大和のことは言うが、倭王卑弥呼が共立されたという倭地倭人倭国の所在も考えない。

・末蘆国より東南五百里の佐賀平野は、北東五百里の誤りだという

・不彌国から南へは、東の誤りだという

要するに
出発点の曹魏と終着点の大和だけ認め、それ以外の途中経過はみーんな誤りだー、と大声で叫んできたに過ぎない
畿内原理主義者は、最初から最後まで、頭からつま先まで、完全に破綻している。

862日本@名無史さん2018/07/20(金) 16:12:36.34
>>776
>>王昶かどうか?は知らんが、「苑→新野に屯地を移す」話は、青龍3年であって、
次の「襄陽付近での戦争」が起きたのは、241年、という話であった筈。<

>王昶は青龍四年に司馬懿に推挙された。<

何に推挙されたの?。上表文を書いたのは、何時なの?。

>正始中としか書かれていないため、「芍陂の役」の正始二年(241年)時点で王昶が洛陽に居たのか徐州に居たのかは判断できない。
正始二年(241年)時点では夏侯儒が征南将軍・都督荊豫諸軍事であることから、
王昶が征南將軍・假節都督荊・豫諸軍事にとなり宛に遷り上表文を出すのは、それ以降と思われる。

上表文を出したのは、「苑」の屯があってからだよ。

>>襄陽付近での戦闘が始まれば、新野は、参戦してもしなくても危なくなる。<

>参戦すれば城ががら空き。<

参戦した、という記録がない。

>>司馬懿の援軍が来たのは、1年後であったんだろ?。<

>司馬懿の援軍は洛陽からで、一か月後。<

情報として受け止めておくよ。

863日本@名無史さん2018/07/20(金) 16:25:01.07
>>861
>畿内説テンプレは、
>・曹魏のことは言うが、後漢時代に台頭した曹操と、彼が公孫康に開かせた倭地倭人倭国支配のための帯方郡役所のことは頭にない。

そりゃ狂人以外の全世界の人の頭に無いだろう

「(曹操)が公孫康に開かせた倭地倭人倭国支配のための帯方郡役所のこと」

なんてな

864日本@名無史さん2018/07/20(金) 16:37:21.78
>>777
>>知らない。 娘はグーグルなら判るかも?と言ったが、目が悪くて、グーグルの出し方から判らない。<

>「googleマップ」と検索するだけだ。<

操作が困難。

>中国の「百度地図」のほうが詳しいけどな。<

現在中国版のグーグルmapのようだね。

>>「三百里」情報そのものが、何らかの混乱があったかも知れぬ。<

>それはない。<

「屯苑」と書かれているから。

>>思想や宗教に拠っての、「結論先にありき」の記載の本は、 大多数の部分が、信頼性がない。<

>全否定を肯定するようだね。<

史料事実の記載、と思われるものは、全否定しないよ。

865日本@名無史さん2018/07/20(金) 16:38:17.41
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。

866日本@名無史さん2018/07/20(金) 16:45:41.22
なんだ
畿内大和の連中は、帯方郡が設立された経緯さえ知らんのか

朝鮮半島の郡役所のごときが〜〜〜、と思って小ばかにしてきたんだなwww

867日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:10:22.93
>>866
>なんだ
>畿内大和の連中は、帯方郡が設立された経緯さえ知らんのか

九州説の連中よりは詳しいよww

868日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:22:07.76
>>778
>>切り捨てなんてしないね。 後代の「前代史書記載の書き換え」があった記載があれば、信頼性が半分しかない、として、
参考資料しかない程度だ、言っているだけ。<

>「〇〇(文献名)」だからと一括りに切り捨ててるよね。<

「後代の自己解釈に拠る書き換え」文書は、半分×書だし、
「後代の思想宗教的な結論先にありき」で、
99.9%以上の確率のある文字を否定曲解する嘘つき騙し文書である、
とはっきり分かった文書は、
ほぼ一括りに×だよ。

>>後代史書の「勝手な書き換え」は史料事実であり、史料実態。
そのような後代史書は、「半分×」であり、「全部×」ではない。 当たり前の事。<

>君の言う史料実態と史料批判は相反してる。
都合の良いものは史料実態で〇。
都合の悪いものは史料批判で「半分×」。
批判に対する保険で「半分」にしているだけで、やっていることは「全部×」だよね。<

いや、前項の通り、要は、
思想宗教的な「結論先にありき」での、
確率の高い史料事実や史料実態を否定曲解するような、嘘つき騙しの書は、
ほぼ全て、否認する、という事。

869日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:26:05.93
>>782
>河内王朝 葛城王朝 三輪王朝・・・・・ 初期ヤマト王権は畿内の連合体 <

畿内なんて存在もしなかったし、
米田に依って、河内と三輪の連合は否定されている。

>邪馬台国⇒ヤマトとは考え無いほうが良いのでは???<

邪馬台国なんて存在もしないし、
「南≠東」に拠っても×。

870日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:28:01.03
>>783
法則。
トンデモ大和説は、「南→東」などの理由を言わない。

871日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:30:14.99
>>785
「万世一系皇国史観」の大和説さん、
またヘイトスピーチ病の発作ですか?。

872日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:35:44.94
>>786
>奈良盆地にいくらでも集落があるだろう
東京都庁内に都職員の住居がないのがおかしい、って言ってるのと
同じ程度におかしなことを主張しているのは分かるかい?。<

古代のような「交通機関が未発達な時代」には、
卑弥呼の都としては、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入」や、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」の後が全くなくっちゃ、
卑弥呼の都はならない、
と言ってんだよ。

873日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:39:07.35
>>794
ほらな、
また「万世一系皇国史観」病の大和説者のヘイトスピーチ病。

874日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:55:03.33
>>797
なんかもう、
「万世一系皇国史観」」狂の宗教団体の大和説が、教義でのヘイトスピーチを、
繰り返しスピーカーで街頭に流し続ける、まるで信者みたい。

875日本@名無史さん2018/07/20(金) 17:56:00.33
>>861
>要するに
>出発点の曹魏と終着点の大和だけ認め、それ以外の途中経過はみーんな誤りだー、と大声で叫んできたに過ぎない
>畿内原理主義者は、最初から最後まで、頭からつま先まで、完全に破綻している。

全くその通りです。
畿内説は根拠のないことを並べ立てているだけ。

876日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:08:24.55
>>872
纒向にはあるから問題ないな
九州は無くて大変だねー


もう死に体でしょ九州説

877日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:22:10.74
>>440
>>女王國の投馬國は、不彌國から水行二十日の位置にあるから、南九州であり <

>それで道里が判明してると考えるなら、「女王国以北」と矛盾するので間違い
道里は判明してないのだと考えるなら、「計其道里」と矛盾するので間違い <

関係がない。
それ以前に、魏使らや陳寿は、
投馬國は、不彌國に繋がる側副傍線國であり、
女王共立國の中の(南九州にある)一国である、
という認識であった、という事になり、
女王國以北にも矛盾せず、

九州は、「計其道里當在會稽東治」の「東〜東北東」の範囲内であるから、
矛盾しない。

878日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:28:58.33
>>870
言ってますが、反論ないんですかろ

879日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:30:44.55
>>810
>>寺澤の、
倭国の「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、「倭国の地方の市を監督する旧小国」の無視隠蔽は、
寺澤も、「万世一系皇国史観」・・・<

>いや、そんな古田説特有の不合理なゴリ推し珍解釈 <

「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」は、史料事実そのものであり、
寺澤は、それを一顧だにしていない。

>まともな歴史研究者は全員無視してるし<

「南→東」などの嘘つき騙しや、
史料事実そのものである「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」である事を、
一顧だにせず無視している大和説学者は、全員まともではない。

>「万世一系皇国史観」とかも無関係<

万世一系皇国史観という「結論先にありき」でなければ、
「南→東」などの嘘つき騙しや、
史料事実そのものである「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」である事を、
一顧だにせず無視する、という事が有り得ない。

880日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:33:23.36
>>811
こういう、「南→東」などのようないつもウソつく大和説の人って、
扱いが楽だよね。

つまり自分が打ちのめされ恥かいて、やる気失って、
ヘイトスピーチ的な荒らし専門に堕落したって、
告白だから。

881日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:35:49.09
>>812
既に反論しておいたように、
それが大和説の、「南→東」などの嘘つき騙しに関係する、
致命傷だったらしいですね。

882日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:38:31.68
>>881
なに?

また九州説がウソついてるの?
学習しない人々だなあ

883日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:47:50.16
>>869
>米田に依って、河内と三輪の連合は否定されている。

いつ米田がそんな事言ったのか詳細に言え、加古川の75歳の死にかけエッタボシ。

884日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:52:54.05
>>840
>>揚子江の四川盆地に繋がる川が何本も見えており、
特に、南華〜楚雄には揚子江に繋がる東流の川の存在がはっきり描かれている。<

>「川があるから水行」ってのは、何も検討してないってことだ
大陸中華の民族は騎馬民族だから、川があっても移動にはあまり利用しない
川沿いに道を作って陸路で移動するのが基本<

騎馬であろうと、「喉の渇き」に耐えられる筈もなく、食糧の魚も得られるから、
水陸両用の通行が最も安全。

>黄河やその支流の渭水クラスの大河なら、水運に使われるが、その場合は
漕運という用語を使う<

東へ「如至成都、通水陸行」で、十分適切な表記。

>この記事での水運は、ソンホン川の下流部分のみで、成都までに水行区間はない
でたらめを書いてもダメだよ <

南華〜楚雄間が、如至成都ルートを使っている。
でたらめを書いてもダメだよ。

885日本@名無史さん2018/07/20(金) 18:54:53.62
ザラコクの書き込みで
ウソでないことは
千に三くらい

886日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:07:41.74
>>865
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。

887日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:19:11.84
>>886
こいつは1000にゼロ

888日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:26:25.01
畿内説を宣伝するキナイコシは、論破されると、意味の通じないことを、呟き出す癖があるので、論破されていることが、分かり易いな、、、

889日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:26:49.23
>>786   
>東京都庁内に都職員の住居がないのがおかしい、って言ってるのと
同じ程度におかしなことを主張しているのは分かるかい?<

お前はアホか、だからヤマト説者は馬鹿にされる
東京都庁舎 延床面積,     4万5千平米 
纏向遺跡面積      300万平米
なお東京都住人は1,400万人 23区内で住人900万人  都庁舎のある新宿区で住人35万人

890日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:28:53.68
>>841
>寺澤氏とは、何者だろうか。。。<

桜井市職員です。

891日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:32:16.58
ああああ
纏向に住居跡がああああああ
欲しいーーーーーーーーーーーー

892日本@名無史さん2018/07/20(金) 19:48:50.14
>>889
じゃ、千代田区千代田一丁目に何人住んでる?

893日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:31:24.45
>>892
馬鹿だねーー
皇居には住んで無いけど、24時間体制だから住職員の建物(寝るところ)はあるんだよねーーー
またね
周りに、皇居で働く人の
皇宮警察北の丸宿舎、
宮内庁赤坂御所東門宿舎、
宮内庁代官町宿舎があるんだよね

纏向近辺でもいいけど、巫女千人や兵の住居跡無いんだよね

纏向は皇居じゃねーし     
王都だと畿内説は言ってるし

894日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:38:13.49
「自為王以来少有見者」だから、
弥生時代の拠点集落のようなところじゃないな

895日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:46:14.62
>>894
その集落跡もないんだよね纏向は

896日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:53:01.41
不思議なんだよね 
纏向が宮殿なら
倭人伝の
「至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 ・・・・・・・可七萬餘戸」
が益々難解なんだよね

897日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:54:25.19
人がいなきゃ古墳も建物、大溝遺構も造れないからな

898日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:57:40.94
>>890
驚いたな、、キナイコシが信奉しているらしい寺澤氏という謎の人物が、一地域の、一地方公務員だったとは、、、、

899日本@名無史さん2018/07/20(金) 20:59:06.02
至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

これは畿内説では難しい 陸行で邪馬台国の女王の所都につく・・つまり大和説
そして大和に7万戸・・・・無理だよ 無理  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代語訳
邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバがある。
次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余戸。

900日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:01:52.15
>>897
馬鹿だねーー
2〜3世紀の大型古墳 ヤマトにどれだけあるの
箸墓さえ3世紀かどうかまだ確定してねーし

901日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:03:34.08
>>898
僕たちのような、学識の高い人物が論争するレベルには、キナイコシや、キナイコシが信奉する寺澤氏は、達していないのではないのかな、、、、

902日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:04:37.89
7万戸に労務者(土木作業員)の飯場入れるのかね・・

903日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:07:26.60
>>890
寺澤は桜井市の観光課の要職につかせた方が適任

904日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:07:35.38
>>901
手加減してあげれば、よいのではないのかな、、、

905日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:11:50.06
人がいなきゃ大型古墳1基すら造ることはないな

906日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:12:13.28
>>899
ザラコクさんが畿内説でなく大和説と言うのが理解できた
倭人伝で邪馬台国は陸行が必用だから海沿いの国(河内国・和泉国・・現大阪や兵庫)は
畿内説から省かれるよね

907日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:14:55.16
以前>>1が水行に大和川も含まれるとか言っていたと思うが
これで行けば、畿内説でなく大和説になるな
7萬戸はムリだな

908日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:15:32.28
以前>>1が水行に大和川も含まれるとか言っていたと思うが
これで行けば、畿内説でなく大和説になるな
7萬戸はムリだな

909日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:15:59.60
海沿いの国は省かれるとは限らないな

910日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:16:35.02
>>857
陸行一月をどのように理解してますか?

911日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:18:10.02
畿内説は南は東の間違いなら
陸行一月も間違いとしないといけないと思う

912日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:21:15.42
>>908
畿内説で葬り去られようとしてるが
太平洋ルートなら説明可能
不弥国から南へ投馬国(宮崎)、
投馬国から南に向かい黒潮で南紀
南紀から陸行で畿内

913日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:27:03.81
>>909
陸行ひと月の説明ができればいいのだが・・

914日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:29:25.80
伊都国へは陸行してるから津はないはずというのと同じ

915日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:31:35.03
太平洋ルートなら
今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
も説明がつく

916日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:34:24.70
>>914
伊都説ではね、
岡上さんが説明するかも
私は伊都説じゃないので
>>914
畿内説は他説批判で成り立つていると思われるよ

917日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:37:31.10
筑紫説が他説の畿内説批判してるんだろw

918日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:42:00.50
>>915
倭国(阿波)の海人族(長国)だね。  奈良では有り得ない話。  @阿波

919日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:42:03.83
>>914
伊都説ではね、
岡上さんが説明するかも
私は伊都説じゃないので
>>914
畿内説は他説批判で成り立つていると思われるよ

920日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:42:08.64
>>914
伊都説ではね、
岡上さんが説明するかも
私は伊都説じゃないので
>>914
畿内説は他説批判で成り立つていると思われるよ

921日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:45:30.20
>>905
人手がいるのは理解できるけど
箸墓が3世紀として 文明的に相当遅れた国がヤマトにならないか
吉野ヶ里遺跡は纏向より古いと思うが住居跡が多数見つかってるよ

922日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:50:08.72
岡上さんは伊都からの文化を継承した畿内説だよ。
伊都国説じゃない。

923日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:50:33.45
いつもキナイコシは負けてるね
今日もお手上げ状態だな

924日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:56:37.37
>>922さん
そこが岡上さんの問題なのです
伊都からの文化を継承したのが畿内ならば、
畿内は北部九州と一緒かもっと発展した遺物が必用だが無いです

卑弥呼が居た時代 畿内の文化文明は北部九州より遅れているとしか思えない
遷都するたびに文化文明は発展していくのが普通ですが

925日本@名無史さん2018/07/20(金) 21:59:16.92
>>924
×必用
◎必要

926日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:06:55.85
なるほど
>>1は地方公務員の寺澤を信奉してたのだ
生活は桜井市の給与なんだな 
講演料や印税は桜井市に還付してるんだな・・あまり本が売れなけりゃ赤字だろうな

927日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:09:40.19
>>924
その通り。
大和は畿内でも後進地域だし、畿内全体も筑紫には敵わない。
3世紀の考古学的状況では邪馬台国を筑紫以外に求めるのはナンセンス。

928日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:11:12.75
寺澤は公務員の倫理規定知らないんじゃねーの
「桜井市纏向学研究センター長」の肩書で著書も出してるしな

929日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:18:33.07
>>927
>3世紀の考古学的状況では邪馬台国を筑紫以外に求めるのはナンセンス。

それはない。  @阿波

930日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:21:15.29
寺澤さんは告訴されるかも

公務員と副業

法律特有のややこしい書き方で若干理解しづらいかもしれませんが、ようするに公務員は原則として報酬を得て事業を行ったり、
会社の職員になったりしてはいけない、ということです。
なぜこのようなルールがあるのかというと、公務員は国民、もしくは地域住民全体に奉仕する立場の職であり、
本業で知り得た秘密を外部に漏らしたり、信頼を失うようなことをしたりしないためです。
        
・・・・・彼の本業は公務員で纏向研究・・・・・・・

931日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:21:23.51
>>921

竪穴住居は文明が相当進んでる国の住居なの?

932日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:26:30.74
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。

933日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:38:52.25
>>931
住居の歴史も興味深いですよ
また
奈良は湿地帯とまで言いませんが、高床式が適してます。
吉野ヶ里では高床式住居が確認されています

934日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:42:50.07
>>932の↓の部分は

>中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),
>支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,
>地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。

「アメリカ合衆国における国家形成論研究をリードしてきた
ミシガン大学教授ヘンリー=ライトHenry T. Wright(1977)は,
国家前段階の首長制社会に関して,次のように述べる」の後に続く文章だな

935日本@名無史さん2018/07/20(金) 22:46:52.77
変な編集をするね

936日本@名無史さん2018/07/20(金) 23:06:17.59
>>931さん有難う
勉強に成りました

937日本@名無史さん2018/07/20(金) 23:09:00.40
間違えました

>>932さん ありがとうでした

938日本@名無史さん2018/07/20(金) 23:23:10.42
このスレの住人の説で
私的になんとなく 常識の範囲があるのは
「九州説」(除く伊都説決め打ち・・・九州説での一論と承りますが)と
「阿波説」の住人

過去スレ見る限り 畿内説は問題が多すぎだと思う

939日本@名無史さん2018/07/20(金) 23:36:56.03
>>938
どんな問題?

940日本@名無史さん2018/07/20(金) 23:58:13.06
単純にヤマタイコクと呼び名自体
江戸時代に無理やり呼び名を変えただけで、

邪馬台国=大和国(ヤマトコク=ヤマトコク)

です。倭人は大和の人の事。みんなバカなのか?

941日本@名無史さん2018/07/20(金) 23:59:53.08
もし筑紫に王朝がったというなら
チクシコクと表記されてるよ。

もう一度言う。九州説はバカすぎるw

942日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:00:59.21
なんでヤマトコク=大和朝廷が九州にあったと思うの?

943日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:01:46.10
九州説と阿波説は完全にトンデモ

944日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:05:07.77
>>942
3世紀に大和朝廷があったとでも?

945日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:05:16.69
江戸時代に捏造された九州説
その後に九州説が勢いついた金印も偽物

三国志が書かれ読まれてた時代から江戸時代まで
誰も邪馬台国=大和国を千年以上誰も疑ってもいない

それは事実だからねw もう無理やり後ずけの変な説信じるのやめようよ

946日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:07:11.68
>>944
大和王朝の原型もヤマトと言う呼び名もあったと思いますよ

そもそも魏志倭人伝でも対馬とかそのままの呼び名が
現代にも残っているでしょう

九州を倭国と言うのには無理がありすぎる。完全な捏造です

947日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:12:52.11
はっきり言ってそのままその通りでしょう

変な妄想、捏造が多すぎる

948日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:21:07.46
>>947の文章が意味不明

949日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:24:32.90
日本語うてるのに日本語読めないの?

950日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:39:05.90
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
邪馬台国畿内説 Part362 	->画像>20枚

951日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:41:39.53
>>959
うてったらダメだろう

952日本@名無史さん2018/07/21(土) 00:46:56.57
>>949
お前の投稿は日本人に読めない
欠陥日本語だから

953日本@名無史さん2018/07/21(土) 01:13:27.22
邪馬台国論争自体が江戸時代に創られたのだよ。

創った理由は、大和だと古代天皇の朝貢を認めないといけなくなるから。

新井白石など高天原は常陸、
邪馬台国は九州などと完全に焦点ぼかしをしている。

江戸時代に邪馬台国は九州だと言ってる学者は、
みんな大和だと知ってたからこそ、あえて九州だと言って焦点ぼかしをしたのだ。

954日本@名無史さん2018/07/21(土) 02:58:53.96
帯方郡設置のいきさつさえ知らない大和んちゅー

955◆UiepmfCeDJqf 2018/07/21(土) 03:14:15.62
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1532107694
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★

956日本@名無史さん2018/07/21(土) 05:52:53.11
>>843
>文句があるんなら、ハイエナのプログで質問してみな。
責任転嫁。無責任。

>ハイエナは、ついうっかり
曲解そのもの。

>倭人伝の「校勘文字数」の確率とほぼ一致していたから、信頼性はあった。
個人の概算を、未確認のまま数年も連呼。

>>845
>写本は一種の「お宝」
>宋明清の校勘学者が、
理想論。
三國志だけは校勘学者は正しく校勘したといい、
『何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来た』という、二重基準だな。

>お前は「海」の文字記載の説明が全く不可能なアホなんだろ?。
誤字で充分。

957日本@名無史さん2018/07/21(土) 05:58:22.49
>>852,>>853,>>855
>>人種差別的な侵略戦争を煽っている者は
「あいつもやってるのに、なんで俺だけ注意するんだよ」が許されるのは中学生まで。

>確率が99.5%以上で,>99.5%以上正しい,>存在確率が99.5%以上,>99.5%以上の確率
根拠のなかった数字の連呼。

>非科学 非学問の「思想宗教の絶対断定」,>「南→東」などの,>大和説者は、「保留」ではなく、
>せめて、「南→東」などの,>保留という時点で、「南→東」
事実と異なる鸚鵡返しなど。

958日本@名無史さん2018/07/21(土) 06:00:25.50
>>854
>大和説者という新興宗教の論理の結末を説明して上げただけ。
連呼するのは自分の願望だからだろ。

>何を講釈したって、お前や大和説者は、全て「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しである事がバレているんだから、何の価値もないねえ。
誤字という説明で充分。
短里捏造の方が大掛かり。

>欠史八代の否定も、史料事実の否定の嘘つき騙しになるなあ。
>当然自然科学者や九州説者は、原則として全員、史料事実からの帰納的確率的な推論をしている。

ほら、史料事実と言うときは、史料批判出来ない奴になってるわけ。
二つの基準を使い分けていることを自覚しなよ。

959日本@名無史さん2018/07/21(土) 06:03:28.48
>>862
>何に推挙されたの?。上表文を書いたのは、何時なの?。
何かの役職というわけでなく、
「各卿、才能のある人を一人推挙せよ」の詔に対し、司馬懿は王昶を推挙したということ。
まぁ幹部候補リストに入ったということだね。

夏侯儒は正始中に,征蜀護軍から征南將軍,都督荊、豫州となった。(正始元年〜二年))
正始二年(241年)五月「芍陂の役」で、夏侯儒は征南將軍・都督荊豫諸軍事として救援。
役後に中央に召喚され、太僕に異同。
王昶が征南將軍・假節都督荊・豫諸軍事にとなり、宛に遷り上表文を出すのは、
それ以降(正始二年六月〜)と思われる。

960日本@名無史さん2018/07/21(土) 06:57:02.85
九州説信じるのはさすがに頭おかしい

961日本@名無史さん2018/07/21(土) 06:58:35.59
倭国は倭は和。大和のこと。

そもそもこれすら理解できないのかw

962日本@名無史さん2018/07/21(土) 06:59:13.17
倭国の倭は和。大和のこと。

963日本@名無史さん2018/07/21(土) 06:59:23.67
>>847
>説明なんて、いくらでもできる あんまり説明する意味がないだけ<

お前は、「南→東」の時と同じように、
「万世一系皇国史観大和説」に都合が悪い「海」という文字を、
世間の人々を騙すために、「海→馬」の嘘つき騙しをした・・・・詐欺師であるだけ。

964日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:14:08.88
大倭の倭はみやびならず、

和を以て、貴しとなす →→→ 大和

965日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:16:12.29
>>859
>今どきは電子テキストで三国志全文読めるんだから、字数くらい自分で数えてみなよ
三国志(原文)を全文検索・・・<

嫌だ。
体力も視力も弱い時間もない素人オジンでは、もう無理だし、
「万世一系高校史観大和説」狂のアホがついうっかり計算してしまった「概数」で、
確率が十分計算出来るから、それで十分だ。

>そういう手間もかけずに適当な思い付きを書き込み続けているから、
軽蔑され続けているんだよ、ザラコクさんはww <

それに、PCでの検索は、
天誅の「漢籍の書棚」やハイエナの偽書説プログのように、
お前(ww?)らのような「万世一系皇国史観の殺人テロ侵略戦争」の・・・・大和説者の、
史料事実の改竄や、都合の悪い史料事実の抹殺などのインチキが多くて、
信頼性が全くない。

966日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:31:20.75
>>857
>近い将来、畿内説で決着を見たときには、魏志倭人伝の南は何らかの理由で
本当は東だったものが間違って記載されていたことが確認されるわけだ<

この男は、全くの権力主義の・・・・だな。
三国志の写本版本の「南」は、
焚書坑儒や禁書のように写本を全部償却してしてしまわない限り、
その史料事実が残存する限り、「東」に変わるものではない。

>進化論は間違っていると言い続ける、聖書原理主義者ってのは今でもいるから、
そうなってもザラコクさんは意見を変えないんだろうけれどww
古田武彦氏原理主義なんて、つまらないものだけれどなぁ<

進化論は間違っていると言い続ける中世ヨーロッパ学者らと同じように、
「万世一系皇国史観のような大和説原理主義」者って・・・・は、
日本には今でもいるから、
・・・・大和説のwwは、絶対に意見を変えないんだろうけれど。
「万世一系皇国史観の大和説」原理主義なんて、つまらないものだけれどなぁ。

967日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:34:30.21
倭が畿内と統合され大倭となり、白村江の敗戦を機に筑紫が主導権を失ったのだよ。

968日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:39:47.91
>>858
>進化論は間違ってるけどなぁ。<

成程。
「万世一系皇国史観大和説」は、現在日本人や皇室だけに価値がある、と思い込んでいるから、
当然の事ながら、
人類皆兄弟であってもいけないのだし、地球は全生物の共有財産であってもいけない訳だし、
最後は、殺人テロ侵略戦争を繰り返して、天皇一人だけになり、妻も子供のいなくなり、その天皇が亡くなった時点で、全滅させてしまう訳だ。

969日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:50:27.25
>>876
>纒向にはあるから問題ないな <

纏向には、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
は、全くないな。

>九州は無くて大変だねー<

九州には、弥生銀座〜大野の安徳台付近までの首都圏や、
何本もの「大道」があるから、
問題がないな。

もう死に体でしょ?、大和説は。

970日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:54:58.81
>>882
なに?.
また、「万世一系皇国史観」狂の大和説者が、
ヘイトスピーチ街宣の大和ウソついてるの?。
学習しない人々だなあ。

971日本@名無史さん2018/07/21(土) 07:58:46.88
>>885
「万世一系皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の書き込みで、
ウソでないことは、
千に三くらい。

972日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:28:05.91
奢る大和は久しからず

あっという間に、官営墓場

973日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:32:10.24
>>932
>特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,
在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,
壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。<

佐々木の論考は、この部分が間違い。
庄内は、3世紀前半頃に三雲が先行し、弥生銀座で筑紫の胎土で造られて、
それが瀬戸内〜大和に伝播して模倣生産が始まり、
播磨や河内が自前の胎土で造って、弥生銀座に逆に搬入上納した。
大和は、筑紫からの伝播があって、市で商売をしただけで、
弥生銀座からは全くの置いてきぼり。

>これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,<

佐々木も、倭國の「正北抵新羅」や「「東征毛人五十五國」の事を全く考慮のかけらもせずに、
大和王権のみありき、という史料無視の・・・・学者ね。

>したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,
地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。
古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,
少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。<

これも佐々木は、福岡平野と大和とを、全く入れ替えた嘘つき騙しを書いているね。

974日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:37:55.58
>>932
>住居の歴史も興味深いですよ また
奈良は湿地帯とまで言いませんが、高床式が適してます。
吉野ヶ里では高床式住居が確認されています<

「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
の証拠がありませんから、纏向は×です。

975日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:42:42.17
>>940
>単純にヤマタイコクと呼び名自体 江戸時代に無理やり呼び名を変えただけで、
邪馬台国=大和国(ヤマトコク=ヤマトコク)
です。倭人は大和の人の事。みんなバカなのか?<

「邪馬台国」なんてありません。
大和は「南≠東」などで、×です。
大和説者は、みんな(全員)バカなのかい?。

976日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:48:50.22
>>941
>もし筑紫に王朝がったというならチクシコクと表記されてるよ。<

筑紫にあったのは「邪馬壹國」などであり、
共立卑弥呼の「女王國」は海峡〜南九州の範囲であり、
倭國は、女王國+狗奴國です。
「チクシコク」なんて固有名詞はありませんでした。

もう一度言う。大和説はバカすぎるw 。

977日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:51:30.10
>>942
>なんでヤマトコク=大和朝廷が九州にあったと思うの?<

大和朝廷なんてありませんでした。
なんでヤマトコク=大和朝廷があったと思うの?。
「万世一系皇国史観」という「結論先にありき」の嘘つきン騙しの・・・・詐欺師だからでしょ?。

978日本@名無史さん2018/07/21(土) 08:52:35.57
>>943
大和説と阿波説は完全にトンデモ。

979日本@名無史さん2018/07/21(土) 09:01:12.95
邪馬台国など存在しない

邪馬壹國または邪馬臺國どちらか

980日本@名無史さん2018/07/21(土) 09:03:59.55
>>941
>もし筑紫に王朝がったというならチクシコクと表記されてるよ。<

だから九州地方を倭地、住んでる種族を倭人、筑紫の王朝を「倭国」といったのさ、
ちなみに畿内地方の住人は倭種で、
帯方郡設置のいきさつさえ知らなかった大和んチュー

981日本@名無史さん2018/07/21(土) 09:31:52.16
沖縄方言にオ段はなくウ段で発音される。
つまりヤマトンチューは音写間違いで、
正確にはヤマツンチュとなる
つまりヤマツの人であり
首長接尾辞 見を補うと ヤマツミ となり、
原始姓と見られる、葦積、穂積、などの類推から沖縄本島から見た列島人はヤマツミ族であることがわかる。

ヤマツミ族とは天石門別命とも麻戸明主とも呼ばれる実体、手力男命を祖神とする列島原住部族であり、後の紀伊国造家や大伴氏、大久米氏がこれに連なる。父系に天孫族を迎えて中臣氏も類縁関係にある。

982日本@名無史さん2018/07/21(土) 09:38:59.70
>>945
>江戸時代に捏造された九州説<

記紀に捏造が始まり、南北朝頃からが流行した大和説。

>その後に九州説が勢いついた金印も偽物<

しかし、歴代中国史書群は、はっきり九州倭国を記録し、
金印の倭奴國が倭国と大和の両方の始まりであり、大和は倭國から別れた別種の旧小国であった事を記録し、
発見された金印も本物であった。

>三国志が書かれ読まれてた時代から江戸時代まで
誰も邪馬台国=大和国を千年以上誰も疑ってもいない<

邪馬台国なんて存在しない。
日本の「万世一系皇国史観」という・・・・大和説者の捏造文言であり、
世界では、どこにも全く通用しない。

それは事実だからねw。
もう無理やり後ずけの、変な、大和説信じるのやめようよ。

983日本@名無史さん2018/07/21(土) 09:59:49.38
>>946
>大和王朝の原型もヤマトと言う呼び名もあったと思いますよ <

大和はあっても「邪馬台国」はない。

>そもそも魏志倭人伝でも対馬とかそのままの呼び名が
現代にも残っているでしょう<

ウソを付くな、・・・・大和説詐欺師。
3世紀には「對海國」であり、對馬國ではなかった。

>九州を倭国と言うのには無理がありすぎる。完全な捏造です>

倭国は、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、九州確定。
大和説は、無理がありすぎ、完全な捏造。

984日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:01:32.81
>>947
はっきり言ってそのままその通りでしょう。

はっきり言って「万世一系皇国史観の大和説」は、
変な妄想、捏造が多すぎる。

985日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:02:24.77
>>982
>大和は倭國から別れた別種の旧小国であった事を記録し

或るいは云うだろ。
ごまかすな下人。

986日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:04:09.75
「万世一系」「皇国」とか言ってる畿内説の学者なんて

誰もいないのに

九州説は捏造がひどい

987日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:05:45.41
>>952
>江戸時代に邪馬台国は九州だと言ってる学者は、
みんな大和だと知ってたからこそ、あえて九州だと言って焦点ぼかしをしたのだ。<

ssnも、「万世一系皇国史観」の侵略殺戮戦争を鼓舞扇動した・・・・大和説者。

988日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:28:40.36
古田民族運動の会の関西は左翼が多いからな
九州は福岡以外は右寄り

https://quasimoto.exblog.jp/iv/detail/?s=22024652&i=201405%2F22%2F14%2Fe0171614_15463172.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c8e3138c8aeb7cfa482bfed6e30f25f3)

989日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:36:41.23
>>957
>>文句があるんなら、ハイエナのプログで質問してみな。
>>ハイエナは、ついうっかり
>>倭人伝の「校勘文字数」の確率とほぼ一致していたから、信頼性はあった。<

>責任転嫁。無責任。
>曲解そのもの。
>個人の概算を、未確認のまま数年も連呼。<

ヘイトスピーチだけか。まるで・・・・だな。

>>写本は一種の「お宝」
>>宋明清の校勘学者が、<

>理想論。 三國志だけは校勘学者は正しく校勘したといい、<

言わない。

>『何度も「四庫全書が書き換えした例」を見て来た』という、二重基準だな。<

古田さんも、殿本考証にも批判されていた。

>>お前は「海」の文字記載の説明が全く不可能なアホなんだろ?。<

>誤字で充分<

おまえは、「万世一系皇国史観」の嘘つき騙しの詐欺師だ、で十分。

990日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:41:39.62
>>957
>>人種差別的な侵略戦争を煽っている者は<

>「あいつもやってるのに、なんで俺だけ注意するんだよ」が許されるのは中学生まで。<

オームの犯罪指導者は、結局死刑にされた。

>確率が99.5%以上で,>99.5%以上正しい,>存在確率が99.5%以上,>99.5%以上の確率
根拠のなかった数字の連呼。<

史料実態。

>非科学 非学問の「思想宗教の絶対断定」,>「南→東」などの,>大和説者は、「保留」ではなく、
>せめて、「南→東」などの,>保留という時点で、「南→東」
事実と異なる鸚鵡返しなど。<

簡単に鸚鵡返しされるような、非論理やウソだったから。

991日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:44:51.47
九州地方の大倭王居邪馬台の倭国が東に膨張し、
畿内倭種を飲み込んだ状態が大倭国

だから、大和王権でなく、大倭王権と書くべき状態に長らく置かれていた。
巨大古墳はそのころの遺物
それが、半島侵攻の失敗で、本家の九州倭人勢力が失権し、
畿内派閥が力を得て「大倭→大和」と書くようになった。

992日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:44:53.56
次スレ

邪馬台国畿内説 Part363
http://2chb.net/r/history/1532107694/

993日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:46:10.59
邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
http://2chb.net/r/history/1458724084/477-

994日本@名無史さん2018/07/21(土) 10:51:25.99
>>958
>>大和説者という新興宗教の論理の結末を説明して上げただけ。<

>連呼するのは自分の願望だからだろ。<

「万世一系皇国史観」という唯我独尊思考者の「全滅という結末という」を示して上げたの。

>何を講釈したって、お前や大和説者は、全て「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しである事がバレているんだから、何の価値もないねえ。<

>誤字という説明で充分。 短里捏造の方が大掛かり。<

誤字の確率は、0.5%のはるか以下、という史料実態の説明で十分。

>>欠史八代の否定も、史料事実の否定の嘘つき騙しになるなあ。
>>当然自然科学者や九州説者は、原則として全員、史料事実からの帰納的確率的な推論をしている。<

>ほら、史料事実と言うときは、史料批判出来ない奴になってるわけ。
二つの基準を使い分けていることを自覚しなよ。<

「史料事実を史料批判されたもの」が、史料実態。
だから、元は史料事実と同じ。
自分が「曲解捏造の嘘つき騙しであった」という事を自覚反省しなよ。

995日本@名無史さん2018/07/21(土) 11:03:33.16
>>959
>>何に推挙されたの?。上表文を書いたのは、何時なの?。<

>何かの役職というわけでなく、
「各卿、才能のある人を一人推挙せよ」の詔に対し、司馬懿は王昶を推挙したということ。
まぁ幹部候補リストに入ったということだね。
夏侯儒は正始中に,征蜀護軍から征南將軍,都督荊、豫州となった。(正始元年〜二年))
正始二年(241年)五月「芍陂の役」で、夏侯儒は征南將軍・都督荊豫諸軍事として救援。
役後に中央に召喚され、太僕に異同。
王昶が征南將軍・假節都督荊・豫諸軍事にとなり、宛に遷り上表文を出すのは、
それ以降(正始二年六月〜)と思われる。

お返事ありがとうございます。
「宛」と書かれちゃ、信頼性がないし、
「と思われる」というようでは、史料事実ではなく、また信頼性が落ちますが・・・。

996日本@名無史さん2018/07/21(土) 11:09:51.49
アンチ畿内説は原文読まないからな

997日本@名無史さん2018/07/21(土) 11:36:07.95
997

998日本@名無史さん2018/07/21(土) 11:36:38.31
998

999日本@名無史さん2018/07/21(土) 11:39:11.77
999

1000日本@名無史さん2018/07/21(土) 11:41:05.10
畿内説は破綻した、、、

mmp
lud20191023163530ca
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