◎正当な理由による書き込みの削除について:      生島英之とみられる方へ:

邪馬台国畿内説 Part423 ->画像>15枚


動画、画像抽出 || この掲示板へ 類似スレ 掲示板一覧 人気スレ 動画人気順

このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1549477418/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

1◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:23:38.78
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1549099715/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
2◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:25:25.42
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
3◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:25:53.28
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
4◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:26:15.26
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
5◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:26:38.72
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
6◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:27:01.26
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
7◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:27:24.41
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
8◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:27:45.73
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
9◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:28:27.47
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
10◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:28:46.59
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
11◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:29:09.65
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
12◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:29:34.29
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
13◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:29:56.03
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
14◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:30:20.07
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
15◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:30:43.53
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
16◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:31:10.02
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
17◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:31:30.36
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
18◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:31:53.89
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
19◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:32:16.39
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
20◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:32:42.45
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
21◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:33:05.89
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
22◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:33:32.11
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
23◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:33:52.35
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
24◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:34:19.06
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
25◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:35:17.05
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
26◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:35:37.81
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
27◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:35:59.44
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
28◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:36:21.95
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
29◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:36:43.97
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
30◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:37:08.50
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
31◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:37:36.37
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
32◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:38:00.77
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
33◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:38:26.58
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
34◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:39:17.66
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
35◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:39:31.20
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
36◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:39:58.18
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
37◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:40:21.84
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
38◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:40:43.04
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
39◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:41:05.12
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
40◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:41:31.18
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
41◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:41:55.91
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
42◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:42:29.23
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
43◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:43:03.12
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
44◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:43:28.31
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
45◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:43:50.82
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
46◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:44:22.34
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
47◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:44:46.92
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
48◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:45:11.75
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
49◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:45:37.20
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
50◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:45:59.12
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
51◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:46:25.86
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
52◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:46:50.87
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
53◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:47:17.17
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
54◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:47:45.03
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
55◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:48:12.51
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
56◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:48:39.62
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) 邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
57◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:49:05.06
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
58日本@名無史さん
2019/02/07(木) 03:49:22.73
>>989
雄略紀の記述は、

夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布…

ヤマトの国を 秋津島とふ

倭ではないな〜。
ざんね〜ん。
59◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:49:30.67
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
60◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:50:03.30
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
61◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:50:20.07
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
62◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:50:42.64
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
63◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:50:58.48
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
64◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:51:17.02
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
65◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:51:35.79
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
66◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:51:56.59
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
67◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:52:24.66
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
68◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:52:42.27
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
69◆UiepmfCeDJqf
2019/02/07(木) 03:53:05.82
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
70日本@名無史さん
2019/02/07(木) 04:06:24.04
>>992
日本書紀 倭迹迹日百襲姫(○トトヒモモソヒメ)
古事記 夜麻登登母母曾毘売(ヤマトトモモソヒメ)

似ているが違うね。
日本書紀には、百襲姫のエピソードが崇神紀に濃厚に記されているが、
一方、古事記では、母母曾毘売の出生が書かれているだけ。
名も少し違ううえ、エピソードの設定も差があり過ぎる。
同一人物と断定するには、無理がある。
まあ、こちらも、ざんね〜ん。
で、倭をヤマトと読んでいるのは、推定によるのだと言うほかない。

そもそも、奈良のヤマトの国名が、奈良発祥であるとする根拠は、いったい何なのかね。
71日本@名無史さん
2019/02/07(木) 04:32:04.44
>>70
追加

日本書紀の倭迹迹日百襲姫は、迹迹日=十十日の十十と百襲の百が対応している。
古事記の名を日本書紀の名に対応させるとすれば、迹迹=登登とし、百=母母としなければならない。
そうすると、倭と夜麻が対応することにならなければならないが、しかしこれだと、倭=ヤマ(夜麻)となり、倭=ヤマトにはならない。
こうしたことからしても、二人のモモソ姫を同一とすることは、やはり無理がある。
72日本@名無史さん
2019/02/07(木) 04:50:31.83
『デスラ〜』
これでググってみて、ほとんど合致している
73日本@名無史さん
2019/02/07(木) 05:26:15.43
姥清水?ガンダム?
74日本@名無史さん
2019/02/07(木) 05:59:37.77
いずれにしても、ヤマトの語彙が奈良の地名由来であるとすることは、無理だろう。
そして、奈良にはヤマトの語源、由来が伝わっていない。
こうしたことは、ヤマトの言葉が他所からもたらされたものであることを支持している。
どこからもたらされたかというと、現在も山門の地名がたくさんみられる九州からだろう。
ただし、3世紀頃は、この山門はヤマドと呼ばれていた可能性が高い。
なぜそれが考えられるかというと、倭人伝の邪馬臺はヤマドイと発音され、ヤマドイの発音とヤマドは似ており、ヤマドイと音写された元の国名がヤマドだった可能性が考えられるからだ。
この仮定に立てば、倭人伝の邪馬臺国は九州にあった可能性が最も高いということになってくる。
75日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:07:26.52
>>440
>皇帝も強固な固定観念もっていた。 皇帝がOKなら、みんなOK。<

普通の皇帝は、情報や知識は部下の役人や学者に任せる。
宗教皇帝や・・・・皇帝や、アホ皇帝は、部下や学者を信頼せず、
国民を戦争させて、国も国民も滅ぼす。
76日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:26:57.28
>>446
>>校勘対象にならない程度であった差異だ。<

>差異や誤字は修刻する度に発生するんだよ。<


宋明清代の校勘対象にならなかった、という事は、問題にならない程度の差異であった、という事だ。

>>紹興本は、張元済にも否認される位のレベルの「自己改変の多い」版本だ。<

>「百衲本」の巻一〜巻三は「紹興本」を用いている。
「自己改変の多い」なんてでっちあげだね。<



書陵部などの残存紹煕本に、巻一〜巻三が存在していなかったから、
張元済は、止むを得ず、手持ちの紹興本で補填したのだ。
77日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:31:09.76
ググると出てきたでしょ?
『アイオン』

ほとんど『神仙界』関係の話ばかりでしょ、
牛のようなデザインの作品とか
78日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:34:52.08
本当に老婆だよ・・・なぜ詳しいのか?という事になってくる
蚕(『モスラ』)を飼い、機織り・・・『牛郎織女』?


キュウリのような葉・・・河伯、河童?
『松傾』こういう名前の家の写真w
79日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:41:19.52
>>74
>どこからもたらされたかというと、現在も山門の地名がたくさんみられる九州からだろう。

そんなアホな。 「倭」の物証が唯一有る、倭国(阿波)に決まってるでしょ!  山門? お寺の山門かね?  @阿波
80日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:43:05.25
泥棒のようなものに入られた・・・・・・・・・、
というのは何なんだろうw


他の部落(不明)のような集団にやられたのかな
81日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:47:06.04
>>58
>雄略紀の記述は、
>夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布…
>ヤマトの国を 秋津島とふ
>倭ではないな〜。
>ざんね〜ん。

なんだコイツ徹夜で恥晒してんの?
自分が
>大和を夜麻登と読んだと、どこかにその夜麻登のふりがなをした文献があるのか、ということ。
と言ったくせに出されたら違うこと言うのね

「廼生大日本【日本。此云耶麻騰。下皆效此。】豐秋津洲。」
「蘇羅濔瀰豆。野磨等能矩爾嗚。婀岐豆斯麻登以符。」
だから、畿内日本の大和=ヤマト

古事記じゃそれぞれの箇所が
「次生大倭豐秋津嶋。」
「蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布 故自其時號其野謂阿岐豆野也」

「そらみつやまとのくに」だよ
倭はヤマトと読む
82日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:50:12.00
>>448
>>皇帝が、家臣の墓の大きさや厚葬のレベルを絶対規定する事など、あり得ない。<

>あり得ないねぇ。規定が無いなら、従う目標すら無いわけだねぇ。 「不封不樹」は文帝の意思。<

部下も自分の部族の墓形態の伝統を持っているもの。 だから、文帝の意向を忖度して、控えめにするだけだ。

>>厚葬を否定する点では、同じ思考だ。<

>同じ思考ねぇ。諸葛亮が文帝の終制を知ったという文献でもあるの? 蜀には金が無かったし、清廉だっただけではないの? <

孔明は、曹操と文帝と同時代で、巨大墓や厚葬志向はいずれ国を亡ぼす、という事を知っていただけだ。

>>魏代の話だ。<

>馬韓で年代を確定出来ている墓があるの?<

楽浪太守の墓だ。楽浪郡が滅亡するまで、当然造られた太守墓の記載があった。

>再度、楽浪太守の誰の墓でどの墓?言わないと確認が出来ない。<

2ch時代か、5chに変わった頃か?、どなたかが提示された。

>>墳を否定しているのであり、「冢」の否定になっていない。<

>屁理屈だねぇ。 司馬懿の終制は子孫が守った。文帝(司馬昭)崇陽陵と武帝(司馬炎)峻陽陵は確認されている。 これらこそ薄葬だよ。<

何を言いたいの?。また話をズラして、議論に負けた事を隠蔽すにんかい?。
83日本@名無史さん
2019/02/07(木) 06:57:04.04
>>449
>余をつけたのは、それらしくみせる修辞。
1万2千余里が「遠いところ」の慣用句なのは明らか。
この慣用句である1万2千余里を実測値としてあれこれこねくり回すのは、無駄。 <

魏志には、「余」を付けた情報もあれば、「余」のない情報もあるから、
「それらしくみせる修辞」という事の否定になり、
魏使らの記録が元になった数値である事は明らかだ。
84日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:07:31.03
>>463
>1里434mの魏晋里でもって、<

魏西晋朝は、「1里≒76.5m」位の里。

>1万2千里であるパプアニューギニアあたりまで、どんなふうにして実測したとか。<

・・・・詐欺師の大和説者以外のまともな人は、そんな実測はしない。

>1万2千余里は、「遠いところ」の慣用句だよ。<

魏使らの実地の計測値。
85日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:11:37.36
>>465
>だから、そんな七千里や三千里などを足した一万二千里を、実際の地理的距離に合うと考えるのがノータリンの証拠。
実測値であるわけがない。<

どこかの国の役人らのように、忖度して「実測だ」と報告してウソがバレれば、
首が飛ぶ。
86日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:21:32.21
伊達郡の川俣町という掲示板、読んでみた?


書き込みをしている人は、かなり詳しい人でしょ?
87日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:22:53.93
>>466
>そんな言いわけが通ると思っているのか
三角縁神獣鏡は魏晋鏡と同じ銅素材が使われている><

渡来して来た呉系楽浪鏡師らの、手持ちの材料銅や、
漢鏡や銅鐸などを再溶融して得られた材料銅。

>卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史書に出てくる魏の年号 景初三年銘がある<

明帝の詔書は景初二年であり、その時には、銅鏡百枚は準備できて梱包されている。

>もちろん国内コピー鏡もあるが しかし倭国製としても魏の年号が入ってる事や<

「海東」に渡来して来た呉系楽浪鏡師らの制作鏡。

>師出洛陽などの記銘などからこれは魏と繋がりがなければ作れない〉<

呉や楽浪との繋がりがあれば、作れるし、
中国内では「師出洛陽」なんて何の自慢にもならず、
列島に来たのなら、自慢になる。
88日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:24:52.44
王母、西王母?のwiki参照


川俣町という掲示板

蚕が〜、機織り・・・・
青鳥、ブルーバード?という書き込みとか
89日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:26:49.85
>>58
>夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布…
>ヤマトの国を 秋津島とふ
>倭ではないな〜。

バカだなぁ
万葉仮名表記を漢字かな交じり文に直せば
「倭の国を秋津島とふ」だぞww
90日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:28:13.79
>>468
>都合悪くないわ 何回も説明してるし
1万2千里は淮南子に由来する架空の世界の果てまでの距離
それにちょっと余がついても実際の距離にはならない
子供がオレの小遣い1千億万円とか言ってるのに
1千億万100円と100円がついても本当の事にならないのと同じ <

類スレ主は、
韓の方四千里や、一大國の方三百里や、五百里や、百里記載などに、
「余」が付いていない事を、
都合が悪いから、こっそり隠している。
91日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:30:53.38
読んでみた?
なぜか家の話をしていたり、親戚か何かなのかな?

飯野という町、香野という家があったとか、
老婆が言うのは、数代前に結婚した家w

あと亀戸天神に〜という話も同じ・・・川崎に住んでいる?
家は神奈川県川崎市の川崎区というところ
92日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:35:22.29
>>469
>余をつけてあれば実際測った数値というところが<

いや、「余」の付いた記録と「余」が付いていない記録がある、という事が実測である証拠。

>どろぼう偽書詐欺集団らしいな <

このような、史料事実を曲解捏造否定する類スレ主らは、やっぱり、
「章子さんの清書の丑寅原稿を、全くの乱筆の喜八郎さんの筆跡だ」
として嘘吐き騙しをした筆跡鑑定の偽書説派の仲間なったんだな。
93日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:35:59.43
あと浜崎(あゆみ)と名乗っている人がいるでしょ
『浜崎 ブルー バード』この曲の話?

浦島太郎、釣り?
94日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:38:05.21
なぜ詳しいんだろう

あと『ポリス』が〜と言っていたり、音楽の話でしょ
95日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:40:47.09
『浜崎 釣り』

うらしまマリン?
おとぎ話〜アイスの話もしていない?
96日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:42:07.12
>>472
大和説は、いくら証拠を書いてあげても、知らん振りして、
「証拠は?」と言い続ける口先騙しの・・・・詐欺師だからな。
また、ストーリーを語るけど根拠は捏造造作するからな
「このウソ単語を使って文章を書いて来なさい」って課題来なさい、
を延々と繰り返してるだけ
97日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:42:57.80
『おとぎ話 アイス』

うらしまマリン・・・というキャラの話
98日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:43:36.27
>>70
>名も少し違ううえ、エピソードの設定も差があり過ぎる。

古系譜では、同名異人や異名同人が多く出てくる
名が少し違うとかいうバカを初めて見た!

神沼河 耳命  師木津日子玉手見命  大倭 日子鉏友命
神渟名川耳天皇 磯城津彦 玉手看天皇 大日本彦 耜友天皇

御眞津日子訶惠志泥命  大倭帶 日子國押人命  大倭 根子日子賦斗邇命
觀松 彦 香殖稻 天皇  日本足彦 國押人天皇 大日本根子彦 太瓊 天皇

大倭 根子日子國玖琉命  若倭 根子日子大毘毘命
大日本根子彦 國牽 天皇 稚日本根子彦 大日々天皇

これ全部同じ人物とは言えないって主張する気かい?w
99日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:44:50.52
>>475
>魏の年号入りなんて、5世紀には中国の史書が日本にも伝わってきていて、卑弥呼の遣使も、返礼としての鏡100枚も日本で知られていた。
卑弥呼の鏡を偽装して有り難がった風潮もあったのだろう。
青龍三年鏡と言うのが有るが、龍の旁が犬になっている。
旁が犬になるのは北魏の時代。5世紀だ。<

ふーん。
100日本@名無史さん
2019/02/07(木) 07:51:57.55
>>85
>どこかの国の役人らのように、忖度して「実測だ」と報告してウソがバレれば、

3世紀には、誰も「実測だ」などと報告していないし、読んだ方も「実測だ」とは思ってもみない
昭和になって「短里で実測したものだ」とか世迷い言を言い出す人が一部にいるだけ

そもそも測定方法がないんだからw

でも、短里がどこから出てきたのかとか、誰が短里で計ったのかとかは、
一切不明というデタラメ
101日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:19:32.56
まず、倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国)を、遠い国の枕詞である 1万2000余里と置き、
実際の内訳は、
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
と、概ね実地体験距離に比例するよう配分した。
だから、
現代の学術知識を用いて、どこで計ろうとも、おおよそ75m前後(50-100m)になるのは当然で、不思議でも何でもない。
(ただし、一里が50m以下、或は100m以上となるような比定地は、その比定地自体が間違っていると考えるべし)
(また、西の大月氏の如く、はるか遠絶の地までを1万200里と置いた場合は、一里/mはそれに応じた大きな数値になる)
102日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:21:11.70
エヴァンゲリヲン?
103日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:35:23.37
>>479
>魏の1里は75mではなく約430m
1歩は約1.4mなので径百歩は約140m <

魏朝の1里は約76.5mなので、
1歩は約25.5cmだから、径百歩は約25.5m。
104日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:36:41.80
遠くから朝貢に来た方が魏の威光が遠方に及んでる事になるからプロパガンダで遠くにしたのだろうな
105日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:46:23.93
>>486
グダグダ言っても
末盧国 上陸は、中型船が接岸し易い唐津港付近
伊都国 皆臨津搜露出来るところだから前原〜糸島水道付近
奴国  日向峠西麓〜早良平野部なのは動かない

この間が東南が出発方向で、陸行五百里が途中移動で、東南・百里で、
方角、距離ともに合う事は確定事項
魏志倭人伝の方角も距離もあてになるのは
まともな思考力のある日本人には自明のことなんだよ

これをねじ曲げる珍解釈をでっち上げるのが大和説のスタート地点w
最初からでっち上げなんだから最後まで、
「南→東」などの嘘つき騙しの捏造説の域を出ない
106日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:52:01.47
>>105
動かないって・・・

そんな言い張りだけじゃ人は動かないよ
根拠がなければ人はなるで信じない
だから結論だけ何度連呼しても
状況は変えられない
107日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:53:26.53
>>491
>三角縁神獣鏡の後期バージョンは仿世鏡だよ?
それだけのことなのに、全量仿世鏡だと言い出すから頭が悪いww<

△は、魏でも呉付近でも楽浪でも殆ど見つかっておらず、
列島にだけ500枚以上見つかっているんだから、
ほぼ全て列島産の鏡だよ。
108日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:53:59.39
>>96
また証拠を全く書かない九州説の


オウンゴール
109日本@名無史さん
2019/02/07(木) 08:57:52.45
>>498
>>陳寿は、魏略の記載を全くのように踏襲していないから、<

>証拠は?<

天誅の「畏友」のイリヒコの、
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
の記載。
110日本@名無史さん
2019/02/07(木) 09:04:30.41
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
111日本@名無史さん
2019/02/07(木) 09:07:10.08
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
112日本@名無史さん
2019/02/07(木) 09:30:20.42
>>109
なんでそれが証拠になるんだ?
口先で「証拠だ」と言うだけいいなら昨日コンビニで買った味の素だって邪馬台国九州説wの証拠になるぞ
113日本@名無史さん
2019/02/07(木) 09:33:39.41
>>504
>末盧国 唐津千々賀遺跡など 伊都国 糸島三雲遺跡群
奴国  福岡比恵那珂遺跡群なのは動かない
この間が東南陸行五百里、東南・百里では、 方角、距離ともに合わないのは確定事項<

末盧国 上陸は、中型船が接岸し易い唐津港付近
伊都国 皆臨津搜露出来るところだから前原〜糸島水道付近
奴国  日向峠西麓〜早良平野部なのは動かない

この間が東南が出発方向で、陸行五百里が途中移動で、東南・百里で、
方角、距離ともに合う事はほぼ確定事項
魏志倭人伝の方角も距離もあてになるのは
まともな思考力のある日本人には自明のことなんだよ

これをねじ曲げる珍解釈をでっち上げるのが大和説のスタート地点w
最初からでっち上げなんだから最後まで、
「南→東」などの嘘つき騙しの捏造説の域を出ない
114日本@名無史さん
2019/02/07(木) 09:53:32.57
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
115日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:03:12.84
前スレ>>995

王力が完成せずに亡くなった後
王力の名で字典を編集したのが北京大学の郭錫良たちの学者
王力系統では臺dɒi(ドイ)は隋唐音で、ɒはもっともアに近いオ
他の音韻研究学者では隋唐でも(dʰAi、dəi)のダイが多い
炭鉱で人が集まった瀬高周辺で、現在ヤマト、ヤマド、ヤマカドの読み方をしている人がいても
1800年前の発音がヤマドである根拠にはならない
山門野(ヤマドノ)は和名抄にもない
確認できる事実は8世紀の書記で瀬高一帯を大和では山門(ヤマト)と呼んだということだけ
お前の思い込み以外根拠は一つもない
116日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:05:28.58
>>505
>足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)<

そりゃ摺り足のような歩行であり、足を挙げた歩行ではないのであり、
「1足底長」毎に止める動きそのものであり、
「1歩=1足底長」の証拠になる説明ではないか。
117日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:20:11.54
>>508
>舶載鏡とされるものが三国・西晋時代の領域で、古墳時代の国産鏡が
材料のブレンドの結果広い範囲に散らばってるのが判然と出てるだろ?<

△は、
中国からは全くのように出土せず、列島から500枚以上出土しているんだから、
それはほぼ全て、列島産の鏡であり、
だから、列島に持ち込まれた材料銅を使って造られた△だ、という事になるんだよ。
つまり、呉系楽浪鏡師らが用いた材料銅に、中国の材料銅と近い群があった、
というだけの事。
118日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:24:58.57
>>107
>△は、魏でも呉付近でも楽浪でも殆ど見つかっておらず、

三角縁と言っているから、大陸で見つかっていないという話になるけれど、
斜縁神獣鏡は大陸でも出土例がある

そして、日本で出土するものでも最初期のものは斜縁神獣鏡

三角縁が大陸で出土しないというのは、ある意味たちの悪いレトリックだよ
119日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:33:00.44
クシフル
玉の櫛じゃなくて、布留の櫛
一大卒

九州北部は遠賀川の石と手を組んだ瀬戸内海の勢力の支配下にあったんじゃないかな
120日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:37:53.61
>>509
>先に、帯方郡と女王国間の距離を1万2千里と定め、
その後で、各区間に7千里・3千里・2千里と適当に割り振ったのだ。
女王国までの1万2千里はぜったい正しい。 なんせ簡単な手品なんだからなww<

こりゃ、全く結論先にありきのアホだな。
既に、周代においての、
倭人の「燕の南」からの渡来や、呉王夫差の遺民の渡来情報があり、
徐福らの話を知っているのだから、
萬里や萬二千里の計測が行われていた、という可能性が先にあり、
魏使らは、それを再確認した、という事になるだけの事。
121日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:47:10.13
>>517
>陳寿は手品師だ。
先に、帯方郡−女王国間を1万2千里と決めて、それから内訳を割り振ったのだ。
答えが合うにきまってる。
それなのに、あの陳寿めは間違ってるに違いない、というさもしい前提で読んでも面白うないだろう。<

類スレ主らは、世間の人々を欺く手品師だ。
韓や倭地に来た事もない陳寿が、
「先に、帯方郡−女王国間を1万2千里と決めて、それから内訳を割り振る」
なんて事が出来る筈がない。
当然、魏使らの記録を見て、それからの判断などを書いただけだ。
122日本@名無史さん
2019/02/07(木) 10:53:21.67
こぴ0→>>519
>>版本での差異発生は、版刻の底本写本の差異発生とほぼ同じだから。<

>調べて比較していないのだから、ただの希望だね。<

いや、版本は、複写コピーをしているんだから、
写本よりもはるかに差異発生が少ない、
という事は、人類の常識だ。
123日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:29:04.41
 天柱山
 灊中(せんちゅう)天柱山有り、高く峻(けわ)しきこと二十余里。(「魏志」・張遼伝)


これの天柱山の高さを示す「二十余里」の「余」を「2〜4」に仮定して見ると、短里(1里=77b)で1694〜1848b。長里(1里=428b)では9416〜10272bとなります


天柱山とは安徽省(あんきしょう)潜山県の西北に位置する霍山(かくざん)のことで、その主峰・白馬尖は標高1774bとされています。ですから、この「二十余里」は、明らかに短里ですね。
124日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:30:07.91
韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。方四千里可(ばか)り。(「魏志」韓伝)

これの「方四千里」の数値は、面積を正方形にした場合の一辺を示しています。従って、現在のほぼ正方形に近い地形の韓国の東西幅が300〜360㌖とされていますので、これを四千里で割って、1里の長さ求めます。その結果は1里が75〜90bとなります。
これも、明らかに短里ですね。
125日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:31:39.26
>>121
そう、その通りだ。
魏使や郡使がどういう単位を使ったかは不明だが、
彼らの実地データをベースに、
陳寿が、帯方郡〜女王国間を1万2千里に焼き直したから1里約76mになっただけだ。
126日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:31:41.37
ちなみに、「一里=約76〜77b」の短里は、自然科学の研究者である谷本茂氏が、
中国最古の数学・天文学書の『周髀算経(しゅうひさんけい)』の研究によって
既にその存在を科学的に証明しています。
127日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:35:48.49
>>673(前スレ)
>魏志に「今」と書いた以上、「魏代から執筆時点」の間は同じ状態である、 という意味。
他の書ならともかく、歴史書でそれをやられたら年号が無ければ「今」がいつかわからないだろ。

>>晋からみれば、分郡は孫休が勝手にやった事。太康三年(282年)に晋安郡が置かれる。<
>陳寿が書いた「今」とは関係がない話。
「今」とは太康年間ではないのか?太康三年だとまだ執筆中かもしれないぞ?

>陳寿は、当然「必要がある」から引用した。
お前の希望。

>陳寿の意見陳述であるんだから、孤立情報である事は幾らでもあり得る。
他例が全く無い文法はあり得ない。誤字とするのは合理的判断だ。
128日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:41:25.87
>>82
>部下も自分の部族の墓形態の伝統を持っているもの。 だから、文帝の意向を忖度して、控えめにするだけだ。
結局、証拠なしのお前の希望だったか。

>孔明は、曹操と文帝と同時代で、巨大墓や厚葬志向はいずれ国を亡ぼす、という事を知っていただけだ。
諸葛亮が「巨大墓や厚葬志向はいずれ国を亡ぼす」を知っていたという根拠となる文献は?

>>魏代の話だ。< >>馬韓で年代を確定出来ている墓があるの?<
>楽浪太守の墓だ。楽浪郡が滅亡するまで、当然造られた太守墓の記載があった。
馬韓に魏代の楽浪太守の墓があったの?「太守墓の記載があった。 」とはどの文献なの?

>再度、楽浪太守の誰の墓でどの墓?言わないと確認が出来ない。<
>2ch時代か、5chに変わった頃か?、どなたかが提示された。
未確認なんだね。デマの拡散と変わらないよ。

>>屁理屈だねぇ。 司馬懿の終制は子孫が守った。文帝(司馬昭)崇陽陵と武帝(司馬炎)峻陽陵は確認されている。 これらこそ薄葬だよ。<
>何を言いたいの?。また話をズラして、議論に負けた事を隠蔽すにんかい?。
薄葬の話だよ。
魏文帝(曹丕)の終制(薄葬)を司馬懿は受け継いで終制(薄葬)を定め、それを子孫の晋皇帝は守った。
魏文帝(曹丕)首陽陵や司馬懿の高原陵は未発見だが、晋文帝(司馬昭)崇陽陵と晋武帝(司馬炎)峻陽陵は確認出来ている。
これらから薄葬の実態がわかるよね。という話なんだが、どこかズレてるかい?
129日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:44:13.95
>>122
>いや、版本は、複写コピーをしているんだから、 写本よりもはるかに差異発生が少ない、

写本の差異発生率:不明
版本の差異発生率:一部だけ分かる

お前は「版本は、写本よりもはるかに差異発生が少ない」と分かっているのに、
版本の差異発生率を写本に適用したがるのは、いったいなぜなんだ?
130日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:44:53.54
>>123

「二十余里」は天柱山の頂までの道のりだろ
131日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:47:11.54
>>126
だから、それを「短里」と呼ぶから混乱するのだ。
古くから中国にあった『周髀算経里(しゅうひさんけいり)』、
略して「周髀里」とでも呼べば、ごちゃごちゃ言われることはないのだ。。
132日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:47:17.09
韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、韓国人の無駄な抵抗が、面白いな、、、
133日本@名無史さん
2019/02/07(木) 11:54:16.87
一寸千里は平面の大地で、太陽の高さが8万里の場合な
134陳寿90度回転さん
2019/02/07(木) 12:14:46.58
>>105
>奴国  日向峠西麓〜早良平野部なのは動かない

そんな辺鄙なところに2万余戸の人口がある訳ないでしょ?

北九州最大の人口(奴国)を収納出来る場所は、博多湾周辺しかない。
135日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:22:01.23
>>123
> 天柱山
> 灊中(せんちゅう)天柱山有り、高く峻(けわ)しきこと二十余里。(「魏志」・張遼伝)
(中略)
>天柱山とは安徽省(あんきしょう)潜山県の西北に位置する霍山(かくざん)のことで、その主峰・白馬尖は標高1774bとされています。ですから、この「二十余里」は、明らかに短里ですね。

古田武彦氏が、九州説仲間(笑)の安本美典氏にあっという間に論破されたのをいまだに
惨めたらしく引用し続けてるんだww

それ、山の高さじゃなくて、山を抜ける道の長さだよ
短里の証明にはまったく関係ないww
136陳寿90度回転さん
2019/02/07(木) 12:22:10.47
平野の広さや当時の人口を無視して、行程記事だけを都合よくひねくり回すアプローチは、いくらやっても無駄なんですよ。

奴国と投馬国と邪馬台国が、草深い山の中だとか、猫の額のような狭い平野にある訳がない。
137日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:22:14.18
2万余戸は弁辰韓の半分だからな
138日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:30:36.20
古くから中国にあった『周髀算経里(しゅうひさんけいり)』を、
現代の日本人が「短里」だなどと、軽々しく命名し、
又魏代の公定の里を「長里」であるなどと、これまた手前勝手に名付けるのは間違っている。

また、筑紫島は古くから倭地であり、三世紀の卑弥呼の時代には共立倭国が成立し、
これが後世の倭の五王につながったことは明白である。
にもかかわらず、筑紫島にあったのは、(倭国王朝ではなくて)九州王朝であった、などとの手前勝手は軽率。
本家・本元・本来に敬意を表して、原義を損なわない表現にすべきだ。
そういう点で、古田には独善的なところがあった。
139日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:35:51.95
古田さんは東北の偽書に対する姿勢から功名にはやったアマチュアだと露呈してしまったからな
140日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:38:11.15
筑紫島ではなくて筑紫が倭国の一部の従属国
他はまだ異人
141陳寿90度回転さん
2019/02/07(木) 12:38:43.24
それと、大荷物の下賜品を持った魏使様御一行は、船で行ける所は極力船(帯方郡から乗って来た中国船)で行く。

陸行するのは、どうしてもやむを得ない場合のみ。

そして船を最後に留めておく所は、(帰りは何ヶ月、何年も先になるので)例えば舞鶴湾のような相当にちゃんとした良港でなければならない。小型のハニワ船のように縄で引っ張ってとりあえず浜辺に引き揚げておくなんて無理。

これを踏まえれば、まるで魏使様御一行が手ぶらハイキングにでも行くかのように、倭国到着後、いきなり内陸に向けてゾロゾロ歩き出すなんてことは考えられない。
142日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:53:55.97
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
143日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:54:32.61
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
144日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:54:35.41
博多は一大卒だろう
皆がビビるくらいの大勢力は博多以外には無理

奴国は遠賀川流域やな
145日本@名無史さん
2019/02/07(木) 12:58:49.69
3世紀の遠賀川流域の遺跡はたいして発展してない
146日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:00:14.50
九州説はキーワード作文ばかりだな
147日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:04:07.08
>>141
それは錯覚である。
倭人伝の最初の部分に出てくる行程説明は、
卑弥呼が共立女王に推挙された記事より前に書かれているので、
共立以前の早い時期に、帯方郡から女王国へ到ったメインの街道筋(標準の行程)を示したのであろう。

これに対し、倭人伝の後半の景初二年以降の記事に出てくる帯方太守の使いについては、
景初二年以降において、どの行程を通ったのかは書かれていない。
たぶん、都に最も近く、停泊に好都合な港まで直行したであろう。それは疑いないことである。
148日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:08:55.23
メインの街道筋が草木で前の人が見えないということはない
149日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:27:52.39
>>131
>だから、それを「短里」と呼ぶから混乱するのだ。
>古くから中国にあった『周髀算経里(しゅうひさんけいり)』、
>略して「周髀里」とでも呼べば、ごちゃごちゃ言われることはないのだ。。

残念ながら、周髀算経も公定の度量衡、一歩=六尺、300歩=1里を前提としており
尺の長さが秦漢里である以上、73.5メートルの「周髀里」などは出てこない

単に、周髀算経の前提となるモデル「害天説」が間違っていて、実地の測定なしで
間違ったモデルに従って影の長さを机上で計算しただけの書物が周髀算経であるだけ

周髀算経では実地で千里を測っていないのだから、そこから現実の距離単位を求めようというのが
前提からして間違っているということにしかならないww

どうして九州説の人は、何度も何度も論破否定されたことを書き続けるんだろうね
まあ、それしかできないから、だってのは分かっているけどさw
150日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:29:03.09
>>126
それ、歴史学者は誰も科学的証明と認めてないから
なぜなら実測でない
151日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:35:10.93
>>138
>また、筑紫島は古くから倭地であり、三世紀の卑弥呼の時代には共立倭国が成立し、

筑紫がヤマトと呼ばれたことは一度もないんだよ

ヤマトタケルにタケルの号を贈ったのは、
日本書紀では川上梟帥(熊襲の魁帥)
古事記では熊曾建

倭の五王よりも前の時代にも、九州に倭国やヤマトが存在するなどということは
気配すらまったくない
152日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:36:55.76
>>148
それは錯覚である。
倭地には、漢時から、中国へ朝貢するほどの大国があった。
言うまでもなく、博多を根拠地にした奴国(那国)であった。
その後、帯方郡は206〜210年ころになってやっと開かれたので、
倭地へ進出するには、奴国でない別の倭国内勢力と手を結ぶ必要があった。
そこで目を付けたのが、肥前・肥後の勢力で、倭人伝に云う伊都国・邪馬台国だったのであろう。
このように考えれば、
なぜ、当時片田舎だった松浦へ上陸し、草木で前の人が見えない道をかき分けて、
ひっそりと肥前・佐賀平野へ抜けなくてはならなかったか、その理由も理解できるであろう。
153日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:38:19.66
>>122
>いや、版本は、複写コピーをしているんだから、
>写本よりもはるかに差異発生が少ない、
>という事は、人類の常識だ。

そのとおり
版本どおしで生じている異同の発生率を見ていても
写本時代に発生していた異同の発生率など判らない
はるかに高くて錯誤が多いだろうということが敦煌残簡でわかる

これが人類の常識
154日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:39:25.50
>>142
>楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。

まだごまかしてるww
その国はあくまで倭国(=女王国)であって、邪馬台国でも王都でもない
萬二千里は、遠く地の果てまでの距離を指す符丁として淮南子から使われている数値で
特定の地点までの実測値ではありえない

東京から北海道まで900キロという時に、札幌や旭川までの距離を意味しないのと同じ
155日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:39:44.31
異人コマビトの肥國なんか後世にヤマト王権が定めた行政区分だからどうでもいい
156日本@名無史さん
2019/02/07(木) 13:40:26.38
倭人伝は韓に近い行程前半のどうでもいいことに
字数を割いてボリュームを出している
全体の風習の記述からは倭人特有の黥面文身や卜骨、木弓短下長上など
実際に本州の考古遺物で確認できるものが書かれている
157日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:24:54.70
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
158日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:25:46.52
>>151
それは畿内も同じ事
3世紀前後の文献が日本で皆無だからね

倭=ヤマトであれば、地域名ではなく、広域の国としての名称だろうと推測はできるが

倭は中国からの呼称だろうが、その範囲は不明
159日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:35:29.84
>>75
戦国時代や秦の時代には、皇帝が神薬を求めて黄海沖の神仙郷へ人を派遣して探索させた。
そもそも、皇帝がこの神仙郷についての強固な固定観念の大元。
その皇帝に、役人が「邪馬台国はそこにございません、実は…」と報告したら、皇帝の夢を打ち砕き、機嫌をそこね、左遷されて命さえあぶなくなる。
陳寿が、実際の邪馬台国の位置をあやふやにしたのは、そういう歴史的事実があるからだよ。
160日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:41:03.77
>>58
>>989
雄略紀の記述は、

夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布…

ヤマトの国を 秋津島とふ

倭ではないな〜。
ざんね〜ん。
161日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:48:36.16
畿内説は山門炭鉱夫説のような地名だけの説じゃないからな
162日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:54:31.13
>>30
FAQ33ーA

「女王国から東へ舟で千余里」と書いてあるのだから、その千余里を無視してはいけない。
魏晋1里434mで計算すれば、千余里は千葉県房総半島の東の海上に出る。
そんなところに、倭種の国はないので、出発地を伊勢の鳥羽とすることは、無理。
北部九州を女王国とすれば、瀬戸内海を舟で渡って千余里の地点は、奈良の天理あたりになる。
倭種の国は大和を指している。
この記述の時期は3世紀なので、ちょうど纏向が活動している時期だ。
倭人伝の記述をアバウトに読むと、理解を誤る。
163日本@名無史さん
2019/02/07(木) 15:58:22.88
>>161
それほど胸張るのなら、まずヤマトの国名の由来を語ってみてチョ。
それすらできない畿内説なんてな〜。
トンデモ畿内説にちがいない。
164日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:01:23.14
瀬高山門あたりは7世紀に古僧都山の麓に朝鮮式山城を築いたときの
百済人労働者集落くらいからが始まりだろうね
165日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:02:47.11
灊中(せんちゅう)天柱山有り、高く峻(けわ)しきこと二十余里。(「魏志」・張遼伝)


>>135
>それ、山の高さじゃなくて、山を抜ける道の長さだよ
短里の証明にはまったく関係ないww


山を抜ける経路を示せよ、抜けるのに2,000M級の頂上まで行って山を越えたとでも?
166日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:03:39.72
「灊中有天柱山 高峻二十餘里 道險狹 歩徑裁通 蘭等壁其上
遼欲進 諸將曰:兵少道險 難用深入」

道の話
167日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:10:25.56
>>156
陳寿が倭國の資料を探したとき、魏の記録庫の中に沖縄あたりまでの行程を書いた資料があったということだな。
その資料を整えたのは魏の役人だったとすれば、その「どうでもいいこと」を必死で調べたのが魏の役人で、彼らにとってはその「どうでもいいこと」が極めて重要だったということになるな〜。
なんで、それほど重要だったのかについては、お主が高い知能指数を働かして、じっくり考えてみたまへ。
168日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:12:32.96
>>164
縄文からはじまって、ずっと遺跡があるがな〜。
169日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:18:08.12
>>151
ヤマトは奈良だよ。
筑紫はヤマド。
邪馬臺(ヤマドイ)の音写元がヤマド。
奈良のヤマトは、邪馬臺(ヤマドイ)と無関係。
170日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:19:17.41
倭の地を参問するに、海中州島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋五千余里ばかりなり」
 とある。つまり、
 「倭は、海の中の島にあり、一回りする距離は約五千余里だ」と言っているのである。
 問題は、五千余里とは、現在でいう何キロメートルか、ということである。
 「狗邪韓国〜対馬国〜一大国(壱岐)〜末盧国(松浦半島付近)の間がそれぞれ、千余里だ」と言っている。
すると千里の距離がおおよそ分かる。古田武彦氏はもっと厳密に検討されて、里は中国の昔の短里であり、一里=75〜90メートルとなる、と言われている。
すると五千里=約三七五〜四五〇キロメートルということになる。ここでは大きい方の数字を使い、しかも古代のことでもあるので、誤差を五〇パーセントほど見込んで、
一回り六八〇キロメートルとしてみよう。正方形に模してみれば、一片が一七〇キロメートル。円に模してみれば、直径約二二〇キロメートル。
 もう明らかである。奴国までの比定地は近畿説の人も異存がないわけだから、対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国を含む直径約二二〇キロメートル以内に、
倭国全体が含まれるのである。広く見積もっても、せぜい山口県までしか範囲にはいらない。福岡から大阪までは、直線距離で約六〇〇キロ。近畿地方は倭国の範囲をはるかに超えているのである。
つまり、邪馬台国は九州内としか、考えようがない。
171日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:21:11.69
郡より女王国に至るまで、万二千余里」であり、皆が議論の余地がないとしている伊都国までの郡からの距離が、
それまでの里程を合計すると、10,500余里。すると残りは、1,500余里。最大誤差を考えても、伊都国から約200キロ以内に邪馬台国はなければならない。
172日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:23:55.77
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
173日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:27:36.17
高峻二十餘里
174日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:32:02.76
>>123
別の板でさんざん指摘されているのに、ここではまだ息しているのか〜。
その別の板では、とうの昔に、山の高さは里ではなく丈だと、物知りが指摘しているぞ。
天柱山の高さが二十余里てか。
アホオ〜。
175日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:49:23.17
>>162
もっと手前に中国地方や四国があるからその解釈は無理
176日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:51:46.28
>>520
>会稽は会稽地方=紹興市付近。 東治は東冶の間違い。 東冶は福州市付近。
会稽東治(冶)の東=会稽から東冶までの南北範囲のその東方。
屋久島あたり〜沖縄本島あたり。 <

会稽東冶≠会稽東治だから、×。
しかし、この投稿は類スレ主の一人二役?。
177日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:52:31.70
>>173
>高峻二十餘里

二十餘里ってのは長さの単位だから
「高さ」は表せても「峻しさ」は無理
高さを言ったというなら無理に不適切な表記したことになるね
「高く峻しい」道のりを行く距離の表現にふさわしい
そもそも当時の科学技術で海抜なんてわからないから
標高と合ってると言った奴が
超脳タリンなのは誰でもわかる
178日本@名無史さん
2019/02/07(木) 16:55:23.78
>>176
>しかし、この投稿は類スレ主の一人二役?。

誰にでもわかる当たり前のことだから
おかしな主張はみんなが異口同音に間違いを指摘するんだよ
179日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:11:31.11
>>169

>筑紫はヤマド。

福岡でも山門はヤマト
瀬高でも福岡県立山門高等学校(ふくおかけんりつ やまとこうとうがっこう)
現在瀬高山門をヤマド、ヤマカドと呼んでるのは
元の山門郡(ヤマト)を知らない在日の元炭鉱夫だろうね
180日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:15:29.16
>>176
当然、東治は×。
東冶が○。

@阿波と書いたり、書かなかったり、一人二役は@アホ。
181日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:22:34.94
>>179
今、福岡弁や名古屋弁など各地の地元弁が、東京弁に駆逐されつつある。
それと同じことが8世紀の律令以降に進んだ。
山門弁が奈良弁に駆逐されて、8世紀頃から山門はヤマトと地元でも呼ばれるようになって今に至る。

夏草や兵どもが夢の跡…だよ。
182日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:30:20.24
>>175
安芸や吉備、伊予、讃岐などは、魏の使節には関心がなかったということ。
大和がきな臭かったということだろう。
だから、特に注目したことが「千余里」に現れている。
遠州灘、駿河湾、房総半島などとアバウトすぎる距離観ではダメ。
そんな距離観では、わざわざ「千余里」と書いた意味がない。
183日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:31:03.72
>>181

8世紀から山門(ヤマト)と呼ばれて、立花家柳川藩もずっとヤマトと呼んで
炭鉱時代に朝鮮人労働者が入ってきて、現在ヤマド、ヤマカドと呼んでるんだな
184日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:35:52.28
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
185日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:37:25.42
「株式会社ひみこ」(櫻井市駅前)の「卑弥呼みたらしだんご」おいしかったよ
1本80円・・全国平均レベルの値段かな
卑弥呼とみたらし団子の關係が良くわからなったけど
186日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:38:55.09
小汚い学者達が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している韓国籍の工作係から「外国人献金」を受けているのではないのかな。。。
187日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:40:31.22
>>521
>「魏志の韓や七千余里や海峡の里数記載から…」
古田は、巨済島〜対馬約70kmを千里で割って1里70mくらいと計算し、
それを“短里”と称して1万2千余里の辻褄を合わせた、というだけの話。 捏造だわな。
それに乗って、おもしろおかしく騒いでいる“短里”論者は、お遊び。<

古田さんは、
「巨済島〜対馬約70kmを千里で割って1里70mくらいと計算」なんかしておられないから、
この類スレ主は、嘘つき騙しの詐欺師であり、×人間。
188日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:42:28.12
>>170
古代中国に「短里」という語彙はない。
もちろん、「長里」の語彙もない。
そんな語彙はどこにもなかったのだよ。
1里=70m〜90mだと言ったのは古田武彦。
地図上で巨済島あたりから対馬までの距離を求め、それを1000里で割った数値がそれだ。
そして、その数値に“短里”と名をつけて、喋りまくった。
それだけの話だな。
189日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:42:51.28
>>522
>「倭人在帶方東南大海之中」だから 屋久島〜沖縄本島の東だな <

不彌國で、「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
「屋久島〜沖縄本島の東」人間も×だな。
190日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:45:13.60
山(ヤマ)にキーがある
大和は山より✖
倭も山より✖


ヤマト自体✖よって山門も✖ 

山(やま)は倭国語

イミフだと思うなら調べてみろよ・・考古学者も気づいていない
191日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:47:14.04
>>183
戦時中のコリアンが濁音頻発てか。
夢みてるのか。
192日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:48:58.46
>>188
そういうことだ。
短里・長里は、現代人古田の造り言葉。
それを古代語であるかのように、もったいつけて吹いた。
193日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:50:19.63
>>523
>中国史は通して畿内の邪馬台国がそのまま平安時代の政権に繋がってると認識している<

6世紀以前の古代の中国史には、「畿内」とか「邪馬台国」とかは書かれていないし、
平安時代においても、九州倭国と関西の日本国とは違う国として書き分けられているから、
この男も、×ね。

古代においては、端から邪馬台国説も畿内も大和説も存在しない
はい、さようなら
194日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:51:08.31
>>148
夏の場合、邑出たら、道には草がおい茂る。
実際、前を行く人の姿はその草木で見えない。
都会に住んでる者は、山道は舗装されていて草木が生えんと思っとるようだな。
195日本@名無史さん
2019/02/07(木) 17:58:12.61
>>151
>ヤマトタケルにタケルの号を贈ったのは、
>日本書紀では川上梟帥(熊襲の魁帥)
>古事記では熊曾建

筑紫(狭義の倭)の勇者であるオグナにタケルの名を贈り、自らの熊襲(肥国)の勇者の名を川上(肥前の一部)の勇者に謙った。
同時に、筑紫の景行天皇(オグナの父)の肥国までの九州北部の支配が確立した。
196日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:04:05.58
>>158
>倭=ヤマトであれば、地域名ではなく、広域の国としての名称だろうと推測はできるが

ここが難しいところです。
本来は、後漢書によると狗邪韓国から倭奴国までの対馬海峡すなわち天津国が倭だったはず。
しかし天孫降臨による伊都建設から筑紫が主力となり、筑紫が倭となった。
倭国大乱を経て肥国が倭国に合流したが、日本語におけるヤマトは筑紫を意味したままで、肥国は必ずしも含まなかったと見える。
4世紀に倭国が畿内まで支配下に組み込むと、その領域を大倭と呼ぶことにしたらしい。
後に政権が畿内に移ると、畿内を表記も改めて大和と呼ぶようになった。
197日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:06:04.53
>>191

韓国語は清音と濁音に. 違い、使い分けがない
お前は濁音を使ってないと思っていても日本人が聞くと濁音に聞こえる
ニダ、カムサハムニダ、モッダ、マシダ、チゲ
198日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:07:04.42
>>170
> もう明らかである。奴国までの比定地は近畿説の人も異存がないわけだから、対馬国・一大国・末盧国・伊都国・奴国を含む直径約二二〇キロメートル以内に、
>倭国全体が含まれるのである。広く見積もっても、せぜい山口県までしか範囲にはいらない。福岡から大阪までは、直線距離で約六〇〇キロ。近畿地方は倭国の範囲をはるかに超えているのである。
>つまり、邪馬台国は九州内としか、考えようがない。

まったくその通り。
筑紫、豊国(筑紫と密接に姻戚関係にあった)、肥国(しばしば筑紫と対立した)が倭国全体だ。
本州はせいぜい下関が入るくらい。
199日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:08:00.88
>>190
景行天皇紀の歌に

(夜摩苔はくにのまほらま…)と書かれてある。
その同じ歌の中に(夜摩苔莽例屢…)と書かれている。
(やまこもれる)の(やま)は(山)の意だ。
その(山)を指す(夜摩)の字と、ヤマトを表している(夜摩苔)の(夜摩)は同じ字だから、ヤマトのヤマが(山)を意味いる言葉なのは間違いない。
問題はその(ト)だよ。
大和説者は、この(ト)の由来が語れない。
よくそれで、大和説を立てていられるな。
胸張って、ヤマトの(ト)の意味を解説してみてチョ。
200日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:11:32.80
>>180
>@阿波と書いたり、書かなかったり、一人二役は@アホ。

これ、なんのこと?  なんでこんなところで@阿波が登場しなきゃいけないの?  実に失礼千万、不愉快である。  @阿波    
201日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:13:00.60
>>181
>今、福岡弁や名古屋弁など各地の地元弁が、東京弁に駆逐されつつある。
>それと同じことが8世紀の律令以降に進んだ。

その通り。
日本語の文法は、7世紀以前の上古文と、8世紀以降の古文で区別されている。
7世紀に滅んだ倭国と、701年に大宝律令で確立された日本国は、文化に大きな開きがあったことになる。

ちなみに、我が国におけるその次の大きな文化的断絶は、16世紀の戦国時代と江戸開闢である。
室町時代より前は文化が違いすぎてドラマのネタにもならない。
つまり、日本の文化史は、九州倭国の時代、関西圏の時代、江戸東京の時代に大きく分けられるのである。
202日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:13:52.92
>>199
なんでそんな事を他人に要求するのか理解できない
語源の判らない地名の方が圧倒的に多いから
不明で当然なのに
203日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:14:51.57
>>188
>古代中国に「短里」という語彙はない。
>もちろん、「長里」の語彙もない。
>地図上で巨済島あたりから対馬までの距離を求め、それを1000里で割った数値がそれだ。

その通り。
魏志倭人伝では一里が短かったが、特に名前があるわけではない。
204日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:15:54.93
>>197
>韓国語は清音と濁音に. 違い、使い分けがない

古代の日本語も、似たようなもの。
205日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:17:34.33
>>202
もっともらしい地名の語源をひねり出してテンプレに載せているのは畿内説の方ではないか。
206日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:23:24.95
>>74
やまのふもと、入り口という意味のやまとだろ
記紀にそうあるようだけど
207日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:25:30.51
>>205
そんなことがあるって証拠は?
208日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:30:07.62
>>206
1世紀や3世紀の倭の語源の説明にはならない。
時代が違いすぎる。
209日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:36:00.99
>>204

お前が言張ってる根拠は現代の瀬高の一部の民族の発音
210日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:36:26.56
>>527
>当然、後期には岡山も明石も山陰の勢力圏に入る。
その岡山や明石の鉄をわけてもらったのが淡路や阿波の鍛冶工房<

これは、問題がある。
瀬戸内は、当然、九州倭国の「東征毛人五十五國」の地域であり、
それを抜きにした論は×。
211日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:38:13.57
は行がパ行だったんだろ。
212日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:39:33.78
>>199
訂正

上から3行目の(夜摩苔莽例屢)は、(夜摩許莽例屢)が正しい。
213日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:42:32.35
>>210
「東征毛人五十五国」の都の位置の認定が誤っている。
九州王朝は×。
214日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:49:59.31
>>203
その短い距離の1里が物差しの単位として用いられた痕跡がない。
単位として用いられた証拠として上げられる文章は、みな誤読によるもの。
215日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:52:00.39
>>164
築造を現場指揮したのは古代コリアンだった、との説明はみられるが、石運んだのがコリアンだったとの説明は見られん。
216日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:52:18.10
魏志倭人伝が根拠だろ。
アホか
217日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:55:51.80
東征毛人ばかり言ってる人は西服衆夷を無視してるからな
218日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:57:02.30
長崎とかを攻めたんだろ。
219日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:57:09.10
>>190
正解

倭人はヤマは山
220日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:58:07.65
>>1の自演がひどすぎ
221日本@名無史さん
2019/02/07(木) 18:59:44.58
漢時より、倭地には中国王朝へ遣使するほどの強大国があった。
言うまでもなく、博多湾岸を根拠地にした奴国(那国)であった。
その後、帯方郡は206〜210年ころになってやっと開かれたので、
倭地へ進出するには、奴国でない別の倭国内勢力と手を結ぶ必要があった。
そこで目を付けたのが、肥前・肥後の勢力で、倭人伝に云う伊都国・邪馬台国だったのであろう。
このように考えれば、
なぜ、当時片田舎だった末盧国松浦へ上陸し、草木で前行く人が見えない道をかき分けて、
ひっそりと肥前・佐賀平野へ抜けなくてはならなかったか、その理由も理解できるであろう。
222日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:02:32.20
>>87
国内で作られた鏡は国内で作られた含有不純物の銀・アンチモン比が出る
三角縁神獣鏡の舶載鏡に分類されるものからは
魏・晋鏡と同一の銀・アンチモン比が出る
三角縁神獣鏡は魏・晋鏡である事が肯定され
国内産である事は否定される
そもそも楽浪に呉人が居たというのも不自然
いわゆる呉の領地になった事など一度もないから

三角縁神獣鏡は年号の情報など魏と交流がなければ
作れない鏡
例えモノ自体が呉の鏡氏製作で国産だとしても
記銘文が魏との交流の証拠となる
223日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:04:39.05
◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を

 九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。

 −邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?

 古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。

 −具体的には?

 考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。

つづく
224日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:05:13.80
>>215

国が滅んでるんだから百済の被支配層民も逃げてくる
225日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:07:30.21
>>208
なら三世紀ごろ大和は何と呼ばれていたのかな
やまと以外の呼び方をされていたとするならばその根拠を出しな
226日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:08:07.87
>>223
このように
九州説は
なにも
証拠



227日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:08:15.20
>>196
自分としてはほぼ、同じ考えです。

ただ、最近、熊本の方保田東原遺跡が気になっていて、庄内土器がかなり出てるみたい

あのあたりは狗奴国の領域と思うけど、関係があったのは播磨や河内?畿内?四国?
人々の交流や文化の流行が気になってる
詳細がわからん…
228日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:10:28.74
>>225
人が住んでいないところに名前なんていらない。
記紀の神代の巻にも、大和を指す言葉は出てこない。
229日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:10:57.17
>>90
余がついてるから実測値と言うなら
韓の方四千里や、一大國の方三百里や、五百里や、百里記載などは
実測値じゃなくていいんだな
230日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:13:37.40
>>215
だから、すべて妄想だと言っているんだよ


『倭猿』
どういう意味だと思う?
231日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:13:44.02
>>98
いろいろ挙げているけど、問題なのは倭とヤマトが一致するかどうか。
モモソ姫のケースは、合致しない。
それだけ。
他の場合は、知らん。

わははははは。
232日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:15:29.25
>>230
韓猿とは違うのか。
233日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:17:43.32
本当に『王母』で調べてみた?

なぜか『松傾』(『浦島太郎』という仮名)の画が出てきたり、
どういう事なんだろう
234日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:18:09.14
魏志倭人伝に書いてあるだろ。

大倭は単なる大市。
聖徳太子が倭を和にしたから、大和になっただけ。
木簡も出土しただろ。古市って。

倭国(漢語)=やまと国(倭語)

大倭=やまと たまたま読みが一緒なだけで別もの

ヤマト運輸みたいなもの。
235日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:19:37.91
>>231のasitano81なんかにまともに答えてやらなくてもいいんだよ
yahooでも相手にされてなかった爺だから
236日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:21:21.54
>>225
ヤマトと呼ばれていたという証拠もな。
237日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:24:09.91
>>99
なんで卑弥呼の貰った鏡をそのまま似せて作らず
偽装する必要があったのかな
現実的には不純物の含有比率から魏晋鏡と判明している
前期三角縁神獣鏡を有難がり
魏と交流が無くなった後に後期の国内複製鏡へと繋がっていく流れが見られる

それと青龍三年鏡が北魏の時代だったとしても
三角縁神獣鏡には関係なし
実際には龍の旁が犬なのは略字か字のクセとされている
238日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:24:45.60
>>235

わははははは。
239日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:28:36.00
>>236
記紀にその地域は夜麻登などと表記されているようだけれど
ばっちりやまとと読めるから少なくとも記してある当時
やまとと呼ばれていて
チバやらサイタマなどの名称ではなかった事はわかるな

それで九州の山門は3世紀にそう呼ばれていた証拠は
240日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:29:09.49
日本の記紀神話?

冒頭、始まり(初め)のほうは『松傾』に関する話とか、
何なんだろう
241日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:31:15.54
>>533
>陳寿の倭人伝は5世紀の裴松之の時代には既に
詔書の内容ですら「絳地」に書写の誤記が指摘されてるので・・・<

その文は、天誅の「漢籍の書棚」では、
今以絳地交龍錦五匹
【臣松之以爲地應爲糸弟、漢文帝著saup衣謂之戈糸弟是也。此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也】、
絳地suu粟kei十張、sen絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直
だが、何に対して裴松之が「此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也」と書いたのか?が、
よく判らんし、何故「不體」になるのか?も判らん。
242日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:31:49.66
>>234
いや大倭とやまとは読み方が違うと居えるんだけれど
どうも日本語が不自由なようだな
243日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:32:31.38
斜縁神獣鏡の分布と出土した遺跡の年代が知りたいかも

どちらにしても洛陽からの出土は神獣系は少ないので、卑弥呼が貰った鏡ではないと思うが、三角への流れは面白いと思うね
244日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:34:25.41
>>228
それが何かな
三世紀卑弥呼の時代には前方後円墳やほか考古遺物から
畿内に人が住んでいた事は明らかなんだが
245日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:35:43.65
>>243
三角縁神獣鏡は洛陽近郊の畑から1面見つかったよ
246日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:37:28.27
毛人
247日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:38:28.09
キュウリの葉


日本ではカッパ〜古代中国では河伯だと書いてあるし・・・、
浦島太郎のようなコンセプトでしょ
248日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:38:31.43
>>244
>畿内に人が住んでいた事は明らかなんだが

倭国(阿波)を発った「忌部はん」たち だね。  @阿波
249日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:39:34.29
弥生環濠集落方保田東原遺跡(熊本県山鹿市)
>庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土するということは、資料館の説明によれば交流があったことの証拠だそうです。
>でも、橿原考古学研究所の方の説明では「纏向では北部九州形の土器はほとんど出ない」ということでした。
>畿内の庄内式土器の時代には北部九州とは交流がなかった、とするのが妥当でしょうか。

>しかし、ここ方保田東原遺跡には交流の跡がある、ここは北部九州をスルーして畿内と直接結びついていたのでしょうか。
>素人には理解が難しいのですが、橿原考古学研究所の報告を見れば、
>「近畿と北部九州の交流はある時期までは無かった」と考えていいのでしょう。
>そして、ある時期から突然に始まるのでしょうか。

>それとも、「庄内式土器の始まりは九州であり、それが近畿にある時期に人とともに移動した」というのでしょうか。
>それで、弥生の後期に出発地・発信地である九州に庄内式土器が大量に出土する……と。
>それなら、理解できそうです。
https://tizudesiru.exblog.jp/i142/
250日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:40:55.19
あのキュウリのような葉が写っている写真があるでしょ、
・・・・家(『松傾』)の写真

松傾?本人の家なのかな?
251日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:41:40.25
南の狗奴国の植民地
252日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:42:50.70
>>101
女王国が九州北部ならな
実際には女王国は会稽東治(冶)の東
台湾や沖縄辺りと書いてあるので
そこまでの距離を1万2千里に当てはめると
1里は140mほど
253日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:43:11.08
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

邪馬台国畿内説 Part423 	->画像>15枚
254日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:44:30.71
>>252
なら短里でいいということだ。
それでも九州は出ないだろ。
255日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:44:36.92
>>103
魏の1里は律歴志と発見された1尺24cmの古尺によって
1里約430mだったと判明している
256日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:45:01.98
>>249
ありがとうございます
現地に行って話を聞いてみたいですね
257日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:45:03.13
>>253
九州説は全く証拠を出さない
258日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:46:56.09
>>245
ごめん、悪いが
その骨董市でみつかった鏡は信用できないんだ
259日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:47:36.49
>>125
1万2千里を帯方から会稽東治(冶)の東まで当てはめると
1里140mくらいになる
260日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:47:48.63
>>158
>それは畿内も同じ事
>3世紀前後の文献が日本で皆無だからね

>倭=ヤマトであれば、地域名ではなく、広域の国としての名称だろうと推測はできるが

いいえ、同じではありません
倭国造というのがいて、これが末羅国造と同じレベル
末羅(マツラ)国が末盧國と三国志に書かれたのと同様、
倭(ヤマト)国が邪馬臺國と書かれたんだよ

また、旧事本紀の國造本紀には、大倭国造とならんで葛城国造も見え、
本来倭国造の範囲は後の「大和」一国よりも狭い範囲であることが分かる

ヤマトは本来、磯城郡、十市郡あたりの小地名なんだよ
261日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:48:17.72
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
262日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:48:55.87
瀬高山門はバスワ、ケソラ、カラケとかよくわからない地名があるから
7世紀にヤマト政権が山門と名付ける前はよくわからない地名だろう
263日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:49:27.18
>>126
計算のミスを指摘され根拠のなくなった谷本計算が何だって
264日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:49:36.71
>>254
>>実際には女王国は会稽東治(冶)の東
>>台湾や沖縄辺りと書いてあるので

>なら短里でいいということだ。
>それでも九州は出ないだろ。

台湾や沖縄が九州を出ないのか?
どこまで知能が低いんだ?
265日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:49:50.86
>>252
>実際には女王国は会稽東治(冶)の東
>台湾や沖縄辺りと書いてあるので

弥生時代にそんな詳しい地理観はないよ。
洛陽から見て東南だから、だいたい会稽東治(冶)の東=九州。
266日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:50:08.79
あと子供(4、5歳頃)が写っているでしょ、
軍人なのか何なのか知らないけど、何かの制服を着ていたり
267日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:51:01.92
驚いたな
まだ畿内説やってたのか
268日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:51:52.36
>>138
中国に古くから周髀算経里なんてものはない
269日本@名無史さん
2019/02/07(木) 19:57:36.02
>>171
魏1里は約430mだから
1500里だと650kmくらいになるよ
九州北部には収まらんな
270日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:00:42.08
>>265
九州としても最南端だなあ
倭の極南界ぐらいの位置になるだろな
271日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:04:00.33
>>258
見つかったのは畑から
洛陽近郊の白馬寺近くの
272日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:07:38.59
>>270

最南端から南
273日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:12:38.85
>>535
大和説者って史料事実を大切にしないから困る。
裴末之でさえ、「南」や「邪馬壹國」や「二」や「東治」などに対しては、
「注」や「考証」をしていないようだし 。
274日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:13:22.65
コザクラインコという鳥がいるそうだけど
ここに住み着いてるのはザラコクインコ人間
275日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:16:14.99
だから弥生時代にどうやって
>会稽東治(冶)の東
とやらの正確な位置がわかるんだよ?

それを説明してみろ
276日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:16:15.09
>>165
そもそも引用の仕方が恣意的なんだよ

灊中有天柱山高峻二十餘里道險狹步徑裁通,蘭等壁其上。

灊中に天柱山有り。高峻二十餘里、道險狭にして歩徑裁に通ず。蘭等、其の壁に上る。
高く険しく、20里余りに渡る道は狭く危険で、歩く小道が僅かに通じていた。

高峻二十餘里は、直後の「道」にかかるのに、「灊中有天柱山高峻二十餘里」で切って
「山の高さがー」とか言い出すのは馬鹿以外の何者でもない

あと、この道は山の頂上は通らないから
277日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:17:56.90
>>170
> 「倭は、海の中の島にあり、一回りする距離は約五千余里だ」と言っているのである。

また出たw
周旋は「一周しない」と何度言えば
278日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:17:59.65
倭国までの里程は帯方郡から連続してるからわかるわけよ。

>会稽東治(冶)の東
の正確な位置はどうやったらわかるの?

>会稽東治 → はい、その次の座標点は?
279日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:19:51.97
魏志倭人伝に書いてあるだろ。

大倭は単なる大市。
聖徳太子が倭を和にしたから、大和になっただけ。
木簡も出土しただろ。古市って。

倭国(漢語)=やまと国(倭語)

大倭=やまと たまたま読みが一緒なだけで別もの

ヤマト運輸みたいなもの。
280日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:19:54.86
会稽東治(冶)の東に台湾や沖縄があるからだよ
281日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:21:12.94
>>171
>すると残りは、1,500余里。

この時点で意味がない
萬二千里も、循海岸水行七千里も、渡海千里3回もすべて実測値ではないのだから
引き算しても意味のある数値にはならない

>最大誤差を考えても、伊都国から約200キロ以内に邪馬台国はなければならない。

これがまったくのナンセンス
短里などないのだから、1500里で650キロ以上になる
まあ、1500里に意味がないから、遠い距離、以上の意味はないけれど
282日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:21:45.46
>>276
恣意的というより明らかにインチキ狙ってやってるな
283日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:22:23.64
>>280
現代地図で見たらね。
弥生時代にどうやってそれがわかるんだよ?

>会稽東治 → はい、その次の座標点は?
284日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:23:48.26
>>279
大倭はやまととはそのまま読めない
字と読みが違うのは日本に漢字がなかった頃の名残
285日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:24:10.02
>>545
>>高表仁は、旧唐書倭国伝では、「與王子爭禮,不宣朝命而還」というように、王子と争っているが、
書紀では、全く「争いは発生しておらず、仲睦まじい」記載だから、 全く違う記載であり<

>問題をなかったことにしただけだ<

何だ?、書紀がウソを書いた、とでも言うんかい?。

>唐側も問題をなかったことにして高表仁に外交官の才能が無かったと記録した<

唐も、「問題がなかった」事になど、する必要がない。
286日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:24:18.14
>萬二千里も、循海岸水行七千里も、渡海千里3回もすべて実測値ではないのだから

実測値という言葉に、現代レベルの精密測定をこめた詐欺

精度の問題であって、
現代ならミリ単位で正確
江戸時代ならメートル単位で正確

弥生時代でもキロメートル単位では正確だっただろう
287日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:26:13.31
>>273
>大和説者って史料事実を大切にしないから困る。
>裴末之でさえ、「南」や「邪馬壹國」や「二」や「東治」などに対しては、
>「注」や「考証」をしていないようだし 。

マツコかよ

なんで「史料事実を大切にしない」ことになるんだよ
そもそも「邪馬壹國」や「東治」の写し間違いは彼の時代まだ発生してないだろ
288日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:26:56.74
弥生時代にどうやってそれがわかるんだよ?

>会稽東治 → はい、その次の座標点は?
289日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:27:12.54
>>283
帯方より南
290日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:27:33.17
>>286
それ、なんか証拠あって言ってんの?
それとも毎度の出まかせ?
291日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:27:44.72
・・・・・・・❓となるでしょ、
当時持っていた本や書も、誰かにあげちゃったのかな〜、
ずらーっと並んでいたとか


『松傾』の家の話、
これも確実、今の福島県のほうの話w
292日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:28:56.95
>>290
帯方郡から北部九州までの里程記載
293日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:30:17.05
倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】

3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」


倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて

時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで

リサイクル回収なんてしないw

あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?

マジくそん???www
294日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:30:20.34
>>265
>弥生時代にそんな詳しい地理観はないよ。
>洛陽から見て東南だから、だいたい会稽東治(冶)の東=九州。

中国に弥生時代があるかアホ
295日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:30:20.79
>>261
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

この人、ひたすら「縮尺」ということばでごまかそうとして、何度も何度も書いてるな
現実の地理とは関係ない、淮南子の哲学的世界観の「観念によって作った数字」が萬二千里

現実の地理とは関係ない数字を持ってきただけだから、縮尺という概念が成り立つ余地が最初からない
そして、3世紀当時、海路(水行・渡海)の現実の地理上の距離を測定する手段はない

「縮尺を考える」のは、その時点ですでに誤謬だ
296日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:31:08.46
帯方より南方角で
会稽東治(冶)の東は沖縄や台湾の辺り
297日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:32:23.65
>>296
あれ?
まさかの連呼敗走?

弥生時代にどうやってそれがわかるんだよ?

>会稽東治 → はい、その次の座標点は?
298日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:32:44.31
>>546
>前原は伊都国じゃない。<

伊都国は、風土記や書紀に拠って、「怡土郡」の中にあり、
臨津搜露する場所だから、海岸縁だ。

>あそこは奴国の墓場さ。<

奴國は、伊都国から「東南百里」の位置から始まる二万戸の国だ。
299日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:33:21.49
>>286
>精度の問題であって、
>現代ならミリ単位で正確
>江戸時代ならメートル単位で正確

>弥生時代でもキロメートル単位では正確だっただろう

詭弁にもなっていないww
4倍違うのは誤差とか精度とかいう言葉では表現できないんだよw
300日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:33:53.55
>>292
>帯方郡から北部九州までの里程記載

おいおい
>弥生時代でもキロメートル単位では正確だっただろう

という証拠がソレかよ
見事に循環論法じゃないか

ww
301日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:34:00.72
>>234
倭國=倭の国。
ヤマトは、倭國を意味しない。

それを、倭=ヤマトとしたのは、古代奈良人。
倭=ヤマトの混同が始まるのは、後漢書の「その大倭王は邪馬臺国に居す」から。
その当時、倭王がいるのは奈良だからから、奈良の地域を邪馬臺とした。
その時点で、倭王のいる所=奈良=邪馬臺となった。
この邪馬臺は、古代中国語中古音ではヤマドイだが、古代奈良人はこれをヤマトと発音した。
そして(倭王のいる国)から(王)が脱落して、倭(ワ)=奈良=ヤマトとなり、倭の字をヤマトと呼び慣わすようになったしもの。
これが、倭をヤマトと読み慣わすようになる原点だ。
したがって、倭をヤマトと読むようになるのは、後漢書が世に出た5世紀前半以降ということになる。

しかし、古代奈良人は、その邪馬臺が元々は奈良ではなく筑紫にあったことは、ちゃんと知っていた。
邪馬臺国に都を置く倭王が女王であることは魏志倭人伝、後漢書ともにちゃんと書いてあり、奈良の王にはその頃女王はいなかったからだ。
つまり、奈良の知識人は、筑紫の邪馬臺を体よく後漢書からパクッたということだ。
302日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:34:27.29
>>300
弥生時代にどうやってそれがわかるんだよ?

>会稽東治 → はい、その次の座標点は?
303日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:34:35.16
>>293
三世紀中葉の畿内のホケノ山古墳からは
鉄鏃が60本ぐらい見つかってるぞ
304日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:36:55.41
>>301
馬鹿じゃねーの?w

じゃあ、古代九州にいた倭人は、
自分らを「わじん」って思ってたのか?

それって、今の俺らが古来
「ジャパニーズ」って思ってたのと同じってことだろw


古代倭人は、自分を「やまと」びと、って思ってたんだろ

ええ加減にせいよバーカwww
305日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:36:59.38
>>549
これは、また同じものの「貼り付け」であり、反論済みだから、放置だな。
306日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:37:27.26
>>301
あいかわらず全く理由を書かない出来損ないラノベだな九州説は
307日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:37:52.61
>>297
帯方より南と魏志倭人伝に書いてる
そして会稽東治(冶)の東だから沖縄や台湾の辺りと記している事になる
308日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:38:12.73
デスラー、あと香野という人物のwiki、
マゼラン星が何やら〜と書いてあったり


家は芸能人の家の人?と結婚したわけではないんだけど、
むかーし結婚した家(たしか香野だったかな)だと言っている
309日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:40:22.39
>>307
>帯方より南と魏志倭人伝に書いてる
>そして会稽東治(冶)の東だから沖縄や台湾の辺りと記している事になる

脳みそ大丈夫?

帯方より南で、
会稽東治(冶)の東

で、弥生時代の情報で、どうやったら沖縄や台湾になるの?

座標点はどこよ?
310日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:40:56.30
>>552
なぜ大和説は、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをして、
まっっ・・・ったく理由を言わないのだろう?。
311日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:41:02.14
3世紀には唐津湾には虹ノ松原は存在していず、海は松浦川の奥まで入り込んでいた。
松浦川河口は今の競艇場あたりに有ったらしい。
そして、魏使の上陸地点は中原遺跡あたりだと思われている。
壱岐から中原遺跡までと前原までは大体等距離。
あまり重要な国でもなかったマツロ国へ何故立ち寄る必要があったのか?
草木生い茂り前人を見る事も困難な山道を何故歩く必要があったのか?
伊都国は前原ではなく、有明海側にあったとすれば、険しい山道を歩いたと言う記述と整合する。
中原遺跡から厳木川から多久のほうに抜けたのではないか?
邪馬台国は筑後川沿いだろう。
312日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:42:51.97
九州説というか儒教根性で生きる者は
とうとう最後には発狂するんだなあ
恐ろしい
313日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:42:57.05
会稽東治(冶)から沖縄や台湾が見えるのか?
314日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:43:32.32
>>313
見えないと何か問題があるのか?
315日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:44:55.97
>>310
ザラコクが毎日ウソをつくのは日課なのか?
316日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:45:24.35
ホケノ山は4世紀だっちゅうの。
317日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:46:56.86
>>314
見えないんなら、

帯方より南で、
会稽東治(冶)の東

で、弥生時代の情報で、どうやったら沖縄や台湾になるの?

座標点はどこよ?
318日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:47:21.62
>>309
弥生時代に沖縄とか台湾とかはわからなかったかもな
それかわかってたかも
319日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:47:56.19
>>309
>脳みそ大丈夫?
>帯方より南で、
>会稽東治(冶)の東
>で、弥生時代の情報で、どうやったら沖縄や台湾になるの?

当然のことだが
「会稽東治(冶)の東」と書き残したのは
弥生人ではない
お苗の脳みそは明らかに大丈夫でない
320日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:50:19.41
>>319
で、いつの情報なら、

>会稽東治(冶)の東
が沖縄や台湾になるの?

ぜひ教えてw
321日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:52:42.97
>>316
AMS炭素年代測定法で
木棺の木片サンプル5つ測定した結果
AD120〜240年と出た
副葬品からもホケノ山は三世紀中葉で定説になっている
322日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:53:17.40
【九州説】
里程は弥生時代レベルで正確

会稽東治(冶)の東 は弥生時代にはおおよそ九州


【キナイコシ】
里程は適当

会稽東治(冶)の東 は現代レベルで正確に沖縄や台湾
323日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:53:36.62
>>554
>>1号甕棺のように、祇園山の冢を形成する前に、殉葬された墓があるから、
1号甕棺のように、祇園山の冢を形成する前に、殉葬された墓があるから、<

>殉葬だって証拠は?<

大和のような「生き埋め」には全くなっておらず、
墳頂の主体の埋葬とほぼ同時期に、
きちんと側面を墳頂に面するように配置した、複数埋葬を含む小型埋葬墓を造って、
きちんと死後埋葬した形で、埋葬されているから。
324日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:56:35.58
>>321
倭国乱の真っ最中にホケノ作ってたん?

余裕じゃんw

鉄鏃ぜんぶ墓の中に入れてたら張政が目撃できないじゃん

ホケノが完成していたんだから、
前方後円墳の完成形が書かれてるはずじゃん

ホケノが完成していたんだから、
前方後円墳の完成形が書かれてるはずじゃーん

ホケノが完成していたんだから、
前方後円墳の完成形が書かれてるはずじゃーーん

纏向古墳群も
前方後円墳だらけじゃーーーーん
325日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:56:54.12
>>323
それは殉葬じゃなくて埋葬
326日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:57:00.81
>>260
>本来倭国造の範囲は後の「大和」一国よりも狭い範囲であることが分かる
>ヤマトは本来、磯城郡、十市郡あたりの小地名なんだよ

これは妥当だな。
倭が意味する範囲も、大倭か意味する範囲も、時代によって変化する。
磯城のあたりは、筑紫倭国から移住した小領主であった神武の領土の範囲だろう。
327日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:58:04.86
>>555
>1万2千里で女王国  1万2千里未満の九州は女王国でさえもない属国 <

変な男。
これはおそらく大和説者であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
女王國は、ほぼ九州。
328日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:58:17.59
>>264
九州上陸で一万里は確定しているから、残り二千里では、一里が140メートルでも300キロメートル未満だろ。
329日本@名無史さん
2019/02/07(木) 20:59:12.96
>>275
一万二千里から、会稽の東だろうと推定したんだよ。
330日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:00:18.64
>>324
倭国大乱はあったとしたら160〜180年
およそ2世紀中〜後半
埋葬した以外に当然鉄鏃もあっただろ
331日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:00:50.33
>>329
は?

じゃあ一万二千里は正確なんだな?

沖縄や台湾に至る一万二千里の経路は???

もわっとした概念だけで意味不明なんだが
332日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:01:24.25
>>295
>そして、3世紀当時、海路(水行・渡海)の現実の地理上の距離を測定する手段はない

魏志倭人伝は、明らかに一定の縮尺により途中の内訳も含めて距離を記載している。
333日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:02:05.26
>>321
歴博がAMS炭素年代法で箸墓の周壕出土の土器の年代を測定したら、170年になったのさ。
変だろ?
そこで、歴博は炭素年代法では70年ほど古く出ると言い出した。
炭素年代法なんか信用するほうが間違い。
20%くらい誤差を見ておいたほうがいい。
334日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:02:40.63
>>330
あると何なんだ?
論理的な話がまったくできないのか?
335日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:02:44.80
>>299
>4倍違うのは誤差とか精度とかいう言葉では表現できないんだよw

過去のスレで、3倍に修正したはず。
忘れた頃にさらっと元に戻すなど、キナイコシはやることが姑息だな。
弥生時代なら、3倍程度の誤差はよく頑張った方だ。
336日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:04:11.88
九州説名物の火病が始まった
337日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:04:18.68
>>330
>葬した以外に当然鉄鏃もあっただろ

え?
どこにあったの?
どこにあったの??

北部九州だとちょっと発掘したら掃いて捨てるほど
暇つぶしに統計分類できちゃうほど出土するけど

>葬した以外に当然鉄鏃もあっただろ

どこにあったの???
338日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:04:38.73
>>304
だから、その倭(ヤマト)はそもそも対馬海峡のことだよ。
339日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:05:45.40
宇宙戦艦ヤマトとウルトラマンセブン・・・、
セブンのほうが先でしょ?どういう事なんだろう・・・・。


本当の話

あと香野という家と結婚したという話も
明治頃だしな・・・。
340日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:06:02.83
>>333
証拠は?
341日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:06:05.71
>>332
>魏志倭人伝は、明らかに一定の縮尺により途中の内訳も含めて距離を記載している。

明らかだ、という証拠は?
342日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:07:50.15
【九州説】
里程は弥生時代レベルで正確
⇔ 会稽東治(冶)の東 弥生時代にはおおよそ九州

【キナイコシ】
里程は適当
⇔ 会稽東治(冶)の東 現代レベルで正確に沖縄や台湾


説明できないキナイコシがいつもの質問返し(質問することで解答から逃げる

レーザー照射と同じですwww
343日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:08:23.50
『何者にもなれない お前たち』

家の写真でしょ?
キュウリの葉、葱の華などが写っている、むかーしの写真w
344日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:09:39.07
>>331
>じゃあ一万二千里は正確なんだな?

正確だと思う理由は?
あたま大丈夫?


>沖縄や台湾に至る一万二千里の経路は???

沖縄や台湾に至る距離とか誰が測ったんだ?
どっから湧いて出た話だ?
あたま大丈夫?



いや、大丈夫ではない
345日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:10:00.97
>>260

『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年??-??810年)以後、延喜書紀講筵(904年??-??906年)以前と推定されている。

"大倭国造"は以前からある「倭」という名に影響されていそう

海神綿積豊玉彦命の子、振魂命の孫椎根津彦命は神武東征の大功により大倭国造に任ぜられる

東征があったのなら故郷の倭は九州かな

で、どっちが邪馬台国だろうな
346日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:10:24.76
>>333
AMS法で分析したのは木棺の木片サンプル5つ
これが誤差を含んでAD120〜240年
副葬品の年代観からも三世紀中葉を否定するものは何もなし

>>334
鉄鏃を全部埋葬したら張政が目撃できないとそっちが言ってただろ
全部埋葬するわけないから張政は畿内で鉄鏃で武装した兵士を目撃できた
鉄族そのものは三世紀に畿内に存在したのは明らか
347日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:13:53.10
>>344
正確さの難易度が、
北部九州までの里程<<<<<沖縄や台湾の位置

なわけ。わかる?


沖縄や台湾の位置を持ち出して、
北部九州までの里程を否定しようとする、

そんなキナイコシは、

試合の終わった会場で駄々をこねて
全世界から爆笑されてる

ってこったw
348日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:13:57.12
>>337
ホケノ山古墳から鉄鏃が見つかっているなら
当然その地域では武器として日常的に使われたと考えられるだろ
逆にそうじゃなかった理由を考える方が難しい

それに掃いて捨てるほど鉄鏃が出る遺跡は
戦争で滅ぼされたものだな
349日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:14:00.93
数年前の事になるんだけど、謎の広告が出てきたことがあったり

『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』

どういう意味なんだろう
350日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:14:03.78
>>342
>説明できないキナイコシがいつもの質問返し(質問することで解答から逃げる

訳のわからない質問を受けたら
その意味を聞くのは当然じゃないのか?
お前の世界では違うのか?

「邪馬台国畿内説とグリーンカレーの関係を説明できるか?」
とか聞かれたら
「どういう意味だ?」と聞き返しちゃいかんのか?
聞き返したら負けなのか?
351日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:17:07.03
>>346
>全部埋葬するわけないから張政は畿内で鉄鏃で武装した兵士を目撃できた

で、その証拠は?

ちなみに
北部九州からやってきた征服将軍は
鉄鏃なんて使う必要もなく楽勝で征服して、
鉄鏃は全部墓の中に入れちゃったけど。

キナイコシの鉄鏃はどこにあるの?
どこかに出土してるのかな?
352日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:17:41.60
>>271
王さんが骨董市で買って、
その王さんが「洛陽近郊の白馬寺付近から出土した、と聞いた」と言っている鏡なんだよ

元は骨董市で売ってあった鏡だね
353日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:18:02.22
魏志倭人伝に書いてある帯方の南方角で
会稽東治(冶)の東に当たるのは現在位置を確かめると
沖縄や台湾あたり
当時の人が知っていたかどうかは
そんなに重要な事かな
354日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:19:40.94
>>561
>>唐会要を見てごらん。
倭国伝と日本国伝とを、全く離れた別の場所に書き分けおり、
しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されていて、
全く別の国である、というような書き方になっている。<

>唐会要を見てごらん。
倭国伝と日本国伝とを、全く離れた別の場所に書き分けているし
しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されているけれど、
登場人物がすべて畿内大和朝廷の官人であり、続日本紀など畿内大和の記録で確認できる
つまり、同じ国の同じ政府が、国号を変えただけだと分かる<

同じ国の同じ政府が、国号を変えただけなら、
「倭國伝」と「日本国伝」の」それぞれの同時期記録を、
全く違う場所に記載する必要がないから、×。

また、中国史書の唐会要は、嘘を書く必要がないが、
書紀は、倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作する理由があるから、
倭国の使者記載を盗用した可能性は十分にある。
355日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:20:28.07
【九州説】
里程は弥生時代レベルで正確
⇔ 会稽東治(冶)の東 弥生時代にはおおよそ九州

【キナイコシ】
里程は適当
⇔ 会稽東治(冶)の東 現代レベルで正確に沖縄や台湾


根拠を示せと言われて
示せないキナイコシの解答




>>353

w
w
w
w
w
w
356日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:22:01.14
>>351
鉄鏃はホケノ山その他の古墳から見つかっているけれど

>>352
見つけた人と出た場所までわかってるよ
357日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:23:40.08
>>353
その王さんってのは、
あの陳さんと親戚じゃないのかな?

洛陽出身で、日本をこよなく愛してくれた、景初四年のおちゃめな
4世紀のあの陳さん。

いい人だったなあ。だーい好き。△
358日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:25:19.30
九州説のこういう狂態をあちらさんでは病身舞とか言うんだか
359日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:27:12.80
北部九州倭国(ヤマト国)からの「征服者の古墳から大量の鉄鏃」が見つかって、

その「外には鉄鏃ゼロ」。

やばくね???

戦いにおいて真っ先に使う鉄鏃を使うことなく

征服されたのかwwwww

弱杉ぷぎゃーーーーーーーーwwwwww
360日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:28:07.99
>>347
キウスの脳に蟲が湧いてるのは確定
361日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:28:19.79
>>567
>纏向遺跡は国家祭祀を行った特別な遺跡
そして、卑弥呼が祭祀王なのだから、卑弥呼の宮処で何も問題ない <

「南≠東」などに拠って、×。
362日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:30:16.78
>>357
景初三年と正始元年もあるよ
ちなみに西暦に直すと
239年と240年で三世紀となるけれど

>>359
征服されようと何だろうと
考古遺物から邪馬台国は3世紀の畿内に決まり
363日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:31:52.17
>>362
どの考古遺物?

畿内の3世紀の景初三年と正始元年の鏡ってどれ?
364日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:32:05.50
>>331
ただし短里だけどな。
365日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:33:39.36
>>345
>東征があったのなら故郷の倭は九州かな
>で、どっちが邪馬台国だろうな

そりゃ、九州だよ。
ヤマトは倭の訓読みなんだから。
366日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:34:43.02
>>363
三角縁神獣鏡
367日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:35:16.53
>>366
で、畿内のどの遺跡から出土してるの?
368日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:37:17.20
>>355
>根拠を示せと言われて
>示せないキナイコシの解答

で?
 それは

なんの根拠を示せと言われて
示せなかった解答なんだ?
369日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:37:31.72
ホケノ山?
槨があるから、邪馬台国より後の時代の様式であることは間違いないね。
そして、平原遺跡には何枚もあった内行花文鏡の破片だけお情けで貰えた筑紫からの征東将軍の墓ね。
370日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:38:11.01
で、纒向のどこに三角縁神獣鏡があるんだ?
371日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:39:03.91
北部九州倭国(ヤマト国)からの「征服者の古墳から大量の鉄鏃」が見つかって、

その「外には鉄鏃ゼロ」。

やばくね???

戦いにおいて真っ先に使う鉄鏃を使うことなく

征服されたのかwwwww

弱杉ぷぎゃーーーーーーーーwwwwww


「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」

キナイコシは、一人百人力の勇者と、人は言ったけれども、
弥生時代に
会稽東治(冶)の東が沖縄や台湾と主張する根拠も示せず
逃げて行ってしまったなあ
372日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:39:32.40
デスラーが温泉?に入っている画像。
オジギソウ、シダ類のような葉が写っているでしょ。

あの松の木の立てられた『松傾』(という家)の写真?

なぜか『宇宙戦艦ヤマト』も放送されていない頃の写真。
373日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:39:57.94
>>569
>唐会要でも隋のタリシヒコの遣使に触れて同一の物としているので、
どの道、邪馬台国から畿内で継続している政権として認識してる<

日本国伝ではなく、倭国伝に、
「古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。
設官十二等。俗有文字。敬佛法。椎髻、無冠帶。隋煬帝賜之衣冠」
と書いており、
タリシホコとか邪馬台国とか畿内なんて書いておらず、
書紀には「古倭奴國也・・・世與中國通。其王姓阿毎氏」の事も、
隋煬帝賜之衣冠」の事も書いておらず、
大和説も大和王朝説も存在しない
はい、さようなら
374日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:42:15.12
>>570
>だいたい唐代の文献に、倭と日本が別の国だとか言ってるバカな代物は無い<

「日本國者、倭國之別種也・・・」と書いてある。
375日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:42:29.36
>>367
景初三年 半円方形帯神獣鏡
大阪府和泉市上代町 黄金塚

正始元年 三角縁同向式神獣鏡
兵庫県豊岡市森尾 森尾古墳
376日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:43:59.08
>>368
・会稽東治(冶)の東 が沖縄や台湾であると、弥生時代に確認できる根拠

・北部九州からの内行花文鏡東征将軍と考えられるホケノなどでなく、
 纒向に鉄鏃が普及していた=倭人伝に記載される資格があった
 根拠となる、鉄鏃の出土根拠

・必死にしがみつく、三角縁神獣鏡が纏向から出土した根拠
377日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:47:15.22
>>375
大阪府和泉市上代町
兵庫県豊岡市森尾

あちゃー
このキナイコシ脳だと
会稽東治(冶)の東 が 沖縄や台湾 と主張するわけだw
378日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:47:21.04
>>573
>アホ九州説は倭と日本の改名についてやたらと言いたがるが
「その前のタリシヒコ(用明天皇)と後の平安時代の天皇は同じ系譜」
とハッキリ明記しているからな<

「用明、亦曰目多利思比孤」と、「俀王姓阿毎、字多利思北孤」とは、違うからな。
379日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:48:48.92
>>369
槨があっても三世紀
むしろ槨があるから三世紀
ホケノ山は科学的測定で三世紀中葉と結論づいてるんだから

>>370
黒塚古墳
380日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:51:40.98
古来より一万二千里と言われていたのに、内訳を細かく集計したら一万千里しかなくて、陳寿もあれー、とは思ったんだろうな。
ても、郡使が実際に伊都まで行き来して測った記事の方が正確だと信頼して、内訳をそのまま載せたんだ。
帯方郡から一万千里の筑紫が邪馬台国だ。
381日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:54:47.26
>>377
京都大阪奈良辺りは畿内だし
会稽東治(冶)の東は沖縄や台湾辺りだよ
382日本@名無史さん
2019/02/07(木) 21:59:08.70
大阪が会稽の東だとは知らなかった。
邪馬台国は会稽の東のはずなんだ。
キナイコシの地理感覚は、常識人のそれをはるかに超えているな。
383日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:02:43.27
>>380
帯方から南1万里は末羅国

>>382
会稽東治(冶)の東は沖縄や台湾辺りだよ
384日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:12:36.17
>>332
>魏志倭人伝は、明らかに一定の縮尺により途中の内訳も含めて距離を記載している。

嘘つきww
縮尺なんてないんだよ
4倍違うのは誤差でも精度でも縮尺でも説明できない

計ってないんだよ

計ったというならその測定法をきちんと説明してごらん
3世紀の技術水準で計れることをちゃんと説明して、それから初めて意味のある議論になる

でも、そんな測定法はどこにもないんだよ

天柱山のウソも暴かれて、周髀算経も実測値ではないことが明確に示された
九州説の主張する短里の根拠は循環論法しか残っていないが、循環論法は根拠にならない
385日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:17:48.09
>>345
>"大倭国造"は以前からある「倭」という名に影響されていそう

記紀に書かれているのは倭国造だよ
大倭国造は、大倭表記が作られてから

もともとの倭・ヤマトは、のちの大和一国よりも小さな小地名であることが確認できればいい
386日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:22:00.90
水行1日をおよそ千里とした。
だから誤差が出るのは当たり前。
387日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:22:50.42
>>365
>そりゃ、九州だよ。
>ヤマトは倭の訓読みなんだから。

九州は倭地の一部
九州を指してヤマトと呼ばれた例はどこにもない

バカが時々、竹斯・ヤマトとか捏造しているけれど
388日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:24:08.73
魏志の邪馬壹国は他の史書文献に載ってる邪馬臺国とは全く別の国だ
12000里は1里76メートルの単位を使って誰かが測量した結果で正確
水行10日陸行1月は帯方郡から邪馬壹国の所用日数
水行20日は帯方郡から投馬国ね

旧唐書にも倭国と日本は別と書いてあるし7世紀まで九州は独立王朝で讃やら武やらが南朝に独自に朝貢してた

末盧国は唐津から北西の半島の先端だから、末盧国から東南で伊都国奴国という記述の方向は正確

邪馬壹国は福岡県の甘木朝倉近辺だな
389日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:24:10.33
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
390日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:24:44.78
>>369
>槨があるから、邪馬台国より後の時代の様式であることは間違いないね。

横穴式石室が作られるようになるまで、倭国に槨はない
391日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:25:48.02
ホケノ山は、無視ですか
392日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:27:53.08
>>374
>「日本國者、倭國之別種也・・・」と書いてある。

何度も教えているのにまったく理解しないな
「別種」というのは、同じものの別の呼び方、という程度の意味だ

日本国は、倭国の別称・別の呼び方である

これだけのことなんだよ
393日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:37:57.48
>>386
>水行1日をおよそ千里とした。
>だから誤差が出るのは当たり前。

これもウソ
1日の移動を千里としたのは「渡海」であって、「水行」ではない
三国志では渡海と水行、さらには泝流は区別されてるよ

水行は一日で泊まるところまで任意の距離を進めるし、一方で岩場には船は着けられないから、
一日に決まった距離を進むというのはできない
394日本@名無史さん
2019/02/07(木) 22:45:34.58
日本国、天皇を称することで冊封秩序からの離脱だな
395日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:00:42.96
『松傾』のほうが上だという事を言いたいんじゃないの?
普通の家のように思えるんだけど、実際は何の家なんだと思う?
古代中華?

あの家の写真なども『オジギソウ』が写っていたり
396日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:03:36.09
>>574
>成立が前の魏略の記述に対馬壱岐島の大きさがないという事は
後の時代に入ってきた情報を陳寿が付け足した可能性を否定できない <

ダメだ。魏略は、魏の「略」したものだ、という表題を付けている。

>そして両書とも邪馬台国までを1万2千余里としており <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言がから、×だ。

>九州説の言うように魏志倭人伝は島をひと巡りする距離を含んで
1万2千余里が九州北部になると主張しているが <

これも×だ。「ひと巡り」なんて言わない。国内見聞移動だ、と言っている。

>島の大きさの記載のない魏略でも同じく1万2千余里となっているので
邪馬台国に向かうには島を一巡りなどしないという事だ <

魏略は、「略」記だと言っている。
397日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:05:42.27
>>388
>誰かが測量した結果で正確

何度書いてもウソはウソ

その測量した「誰か」を説明できないなら無意味な言い分
公孫氏は漢人だから漢尺を使う
公孫氏滅亡後の帯方郡の役人は魏朝の役人だから魏尺を使う

半島の土着民は小国乱立状態だから遠距離を計るという必要がないし測量技術もない
倭国の人も測量技術がないのは変わらないし、もし仮に倭国に魏の度量衡とは
異なる距離の単位があったとしても、それを注釈なしに大陸の単位の里と同じ文字で
記すことはあり得ない

3世紀には誰も知らない、どこにも使う人のいない「短里」で正確に距離を測ったなどと
いうのは、絵空事の中でもかなりレベルの低いものだ
398日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:06:20.61
>>575
>不彌国までの里数の合計が1万700里
そして邪馬台国の場所は会稽東治(冶)の東 <

邪馬台国も会稽東冶も存在しない嘘つき騙し文言だから、×。

>台湾や沖縄辺りと魏志倭人伝に記されている<

書かれていないから、×。
399日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:06:21.32
『オジギソウ』〜『お辞儀』

何かを教えに来た家なのかな?
400日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:09:02.77
>>576
>これが朝鮮部落民九州説<

これが、大和説者が、人種差別をする・・・・人種である事の証拠。
401日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:09:25.67
>>389
>いつ倭は畿内に東遷したのかな?

何度も書くが、東遷などしていない

北部九州の勢力が没落して、王と呼ばれる者がいなくなって(後漢書の謂う歴年無主)、
その後、畿内の祭祀王・ヒメ王の卑弥呼を統一祭祀王として共立したんだよ
402日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:10:27.13
よくわからないけど、
当時住んでいた家には本や書なんか沢山並んでいたと言っていたり

家の老婆だけが知っているのかな?
403日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:11:38.01
>>391
石囲い木槨というのは言葉だけで、中に人が入れないし追葬できる空間もないから
ホケノ山の埋葬主体部も無槨だよ
404日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:11:40.44
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
405日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:12:39.59
>>577
>九州説詐欺師はT里76mで1万2千里を800kmぐらいにして
九州説を唱えようとしているらしい<

大和説詐欺師はT里434mだとして、
1万2千里を赤道付近にする説を唱えようとしているらしい
406日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:13:16.35
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
407日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:18:30.17
>>578
>そもそも「1万2千里で女王国、そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国。<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「水行10日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数である事でも、
始めから×。・・・
これ大和説者の現実
408日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:23:04.27
>>580
>邪馬台国が帯方より南1万2千里になければならない事は 魏の政治的決定<

そんな決定は存在しない。

>実際の距離じゃなくてもそう報告書を上げなければ逆にクビが飛ぶ<

忖度したことがバレれば、首が飛ぶ。
409日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:27:06.88
>>581
>不彌国までの里数の合計は1万700里<

「萬二千余里」だから、×。

>邪馬台国は記述上そこからさらに南に水行陸行<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言だし、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、×。
410日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:29:29.91
>>582
>淮南子に1万2千里と書いてある以上
邪馬台国まで1万2千余里と報告すれば淮南子からパクったとすぐわかる
けどそれが魏志倭人伝に載っているのは全て了承済みだったという事<

「余」があるから、実測値。
411日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:35:06.52
>>393
その説明で納得する人がいるとは思えないけど。
水行も渡海も、1日の距離を千里としただけでしょ。
岩場があるところには付けないから、実際の距離に多少の誤差があって当然だし。
むしろうまく説明がつくでしょう。
412日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:36:05.38
>>403
>ホケノ山の埋葬主体部も無槨だよ

畿内説の現実歪曲もここまでくると詐欺だよな。
413日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:36:42.30
『神仙界』?
ほとんど老婆談と同じ、蚕を飼い、機織り・・・・・・・・・・・・・?



『松傾』と同じ家で?・・・、キュウリの葉?。

松の木、シダ類、オジギソウの類、笹の葉も写っていたり。
414日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:37:12.89
>>588
写本版本で、誤字の出る確率は、0.5%。
415日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:40:01.24
>>385
「倭」が中国からみた名称だから、その影響の記述なのは変わらないかな

で、神武は東征したみたいだし
元の国も倭という事で

倭人伝の時代、その記述から北部九州は倭国内なのは間違いなさそう

やはり、東征前か?後か?になりそうだね
問題点は結局中心地がいつ移ったか?になるよなぁ
416日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:40:00.91
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4a569a64588fa5a2
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>590
大和説はもうとっくに破綻している
あとはいかに大和説を根絶するかだ
417日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:42:37.41
>>401
それ否定したら…倭国造も否定する事にならん?
418日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:48:34.46
あと蓬莱?

むかーし住んでいたというところがあるでしょ、
蓬莱橋という橋があったり

川俣町というところ?その周辺
419日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:51:50.40
蓬莱(ホウライ)


なぜか『神仙界』の話(コンセプト?)と同じ、
あと芝居や歌舞伎が〜と言っていたり
420日本@名無史さん
2019/02/07(木) 23:57:58.86
破綻した古田説にしがみついても良いこと無いよ
421日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:01:50.39
九州説のアホが何を喚いてるのかと思ったら

山門だけが唯一絶対の古代の地名で
邪馬台国そのものだと
その証拠は平安時代の文献だ!と

バカだバカだと思ってたがここまでとは
422日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:01:51.29
なんでも理由なく決めてかかるのが九州説だな
だから理由を聞かれても答えられない
物事に理由が必要じゃない奇妙な世界の住人たち
それが九州説
423日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:07:14.58
機織り、羽衣の話?

泥棒のようなものに入られて・・・いろいろと無くなった、
住んでいる誰々(家)と結婚した〜・・・・・・・・・・・・・・・・・

現在?
424日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:12:34.95
確実に『神仙界』からの引用、影響でしょ?

家は『松傾』・・・?
425日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:16:54.87
『天津羽衣』あと『天津乙女』?
という芸能人がいたり・・・、どういうことなんだろう

家は『松傾』?
426日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:18:38.44
日本にどんだけヤマトがあろうが九州の山門だけが唯一絶対の古代の地名だと
そしてこれは邪馬台国そのものであると
平安時代の書物が証拠であると
畿内の大和は嘘八百の偽地名で、倭や日本をヤマトと読んだ証拠など何もないんだと
倭迹迹日百襲姫命(夜麻登登母母曽毘売)の用例など俺は認めないから存在しないんだと
この地名ひとつで九州に邪馬台国があったことは確定で全て問題ないんだと

脳みその腐りぶりがよくわかるな
427日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:51:32.93
誰と戦っているんだこいつ?
仮想敵を作って叩いて、畿内説が勝った気になっているのか?
428日本@名無史さん
2019/02/08(金) 00:53:15.69
5〜600枚出土の三角縁神獣鏡について 少し整理してくれ

畿内説の主張はいずれなのだ
1、記年銘鏡は魏から貰ったもので、その他は偽物
2、三角縁神獣鏡は記年銘鏡も含めすべて魏から貰った物
429日本@名無史さん
2019/02/08(金) 01:04:50.25
>>428
その前に
三角縁に舶載と仿製の区別があるのは知ってるか?
430日本@名無史さん
2019/02/08(金) 01:27:15.29
全部国産のくせに
431日本@名無史さん
2019/02/08(金) 01:35:42.56
>>429
天理市黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡は本物?
432日本@名無史さん
2019/02/08(金) 02:43:27.82
>>426
お前らの脳味噌が老化でまったく働かんのは、よく分かった。
お前らが腐った脳味噌でヤマトは山戸で、地名由来だとごたくを並べている間に、ワイはヤマトの語彙の由来をみつけてしまった。

ヤマトの由来は、後漢書の「その大倭王は邪馬臺国に居す」にあるようだ。
おそらく、6世紀頃までには、後漢書は日本にもたらされていて、奈良の知識人は、大倭王が居るところ=奈良=邪馬臺(ヤマドイ)国とみなし、
その大王の居る倭地(奈良)を邪馬臺(ヤマト)と奈良弁で読むとともに、倭王のいるところをヤマトと読み慣わすことにした、ということだろう。
つまり、奈良の知識人としては、倭とは(大王の居る奈良の地)という認識であり、ヤマトとは、(大王の居るところ)という認識なのだ。

以上のとおり、ヤマトは、(大王の居るところ)という意味であり、倭は(大王の居る奈良の地)を意味していることになる。
そうすると、倭の字をヤマトと読み慣わしていることは、(奈良の地は大王の居るところ)だと言い表しているということになる。

要するに、ヤマトとは地名でもなんでもなく、(大王のいるところ)という意味なのだ。
もっとも、元々の邪馬臺(ヤマドイ)は、九州筑後山門(ヤマド)を音写した地名なのだがな。

わははははは。
433日本@名無史さん
2019/02/08(金) 02:53:55.16
>>421
アホちゃう。
434日本@名無史さん
2019/02/08(金) 03:12:55.16
倭≠ヤマトは確かなようだ
435日本@名無史さん
2019/02/08(金) 05:12:43.57
>>428
畿内説では全部本物

>>431
倉塚古墳のは記年銘鏡ではないが、本物・・「スプリング8」で中国製らしい

アホらしい話ww
436日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:15:20.53
>>598
>>しかも、同じ時期の頃の別の事件を、それぞれの国に書き分けて記録されていて、
全く別の国である、というような書き方になっている。<

>同じ時期の事は書かれていないねぇ。 名称を変えたで問題ないね。<

例えば、則天の時の事件や、それ以後の遣使の記述も、
倭國と日本國とは、別の国として書き分けられている。
437日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:31:44.38
>>600
>>帯方郡から邪馬台国までの距離は誰かが短里=1里72メートルで測量したんだよ<

>その「誰か」が3世紀にはどこにも存在しないんだって!<

いや、魏志などに書かれた里記載の実態距離を見れば、長里ではなく短里で書かれているから、
魏の役人らが計測し、陳寿がそれを使った事は確実。

>公孫氏は漢人だから漢尺を使うし、<

郡の役人たちは、短里での記録をしているから、公孫氏も、最低短里を使った時期があった事になる。

>公孫氏も帯方郡の人は魏の役人だから魏尺を使う<

尺寸法は余り変わっていないし、東夷の里記載は、短里である。

>度量衡の公定は皇帝の専権事項だから、公定尺以外の尺度を使うのは、皇帝への叛逆を意味する <

文帝の即位の詔書とその後の重臣たちの「周制への復古」の上表に拠って、
周髀算経の一寸千里の法の「里歩」系の度量衡が使われた。

>もちろん、土着の人は里を知らない 測量技術を持つ土着の人もいないしな
「誰かが短里=1里72メートルで測量した」
これが成り立つ余地が微塵もないのだから短里説も九州説も成り立たない<

成り立つから、長里説は勿論、大和説も×になる。
438日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:37:53.00
>>603
>>水行10日を一万里と換算したんだよ。 結果、一里は72メートルくらいになった。<

>このように 九州説はどこから出てきたのか皆目不明な結論しか言わない<

このように、大和説者は、
すぐ最近の投稿で説明されていた事を知らん振りして、
相手が「どこから出てきたのか」を
言っていないかのような嘘吐き騙しの宣伝投稿をして、
国民を騙して、大和説に洗脳しようとする。
439日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:40:39.52
>>411
>その説明で納得する人がいるとは思えないけど。
>水行も渡海も、1日の距離を千里としただけでしょ。

九州世知は現実が見えないw
>>411の御高説wでは、出だしの循海岸水行7000里を七日で移動することになるが
帯方郡の位置も対馬へ渡る位置も、多少の誤差があってもほぼ確定で、その間の水行距離は
どうやっても700キロを超える
3世紀には1日に100キロ進める船なんて存在しないよww

物理的に>>411の駄論は否定される
渡海と水行は別物だし別基準
440日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:42:02.30
>>412
>畿内説の現実歪曲もここまでくると詐欺だよな。

槨がどんなものだかきちんと調べてごらん
九州説が妄説だって分かるからw
441日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:43:08.74
>>605
>まず最初に、
帯方郡〜女王国の全体里数を1万2000余里と決めた(漢代の淮南子援用)
次に、具体的な内訳数字を配分した。
そしてこれで現代のqを割ったので、たまたま75mくらいになった。これが短里の正体さ。<

魏の役人らが、実際に計測もせず、
「淮南子の援用」というズボラをして、
それが他の役人らに拠って皇帝にバレたら、首が危なくなるので、
「淮南子の援用」など、しない。
442日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:49:43.44
>>415
>やはり、東征前か?後か?になりそうだね
>問題点は結局中心地がいつ移ったか?になるよなぁ

神武の東征にあたることが実際にあったとして、卑弥呼の時代の100〜150年昔
実体も東征ではなく、移住だろう
神武、磐余彦は、奈良盆地の一角、磐余の小領主にすぎない

その血筋の卑弥呼が畿内のヒメヒコのヒメ王から、広い範囲の統一祭祀王として共立された
北部九州の過去に朝貢した勢力とは、別の政治的なダイナミクスによるもので東遷などではない
443日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:52:03.30
>>417
>それ否定したら…倭国造も否定する事にならん?

神武の東征(もしあったとして)と、卑弥呼の共立は100年くらい時代が違うから問題ないだろ
倭国造は、神武の東征時の論功行賞なんだから
444日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:52:12.39
>>610
どう屁理屈をほざいても、中国史では、
「正北抵新羅」などに拠って、倭国は北部九州であり、
大和は、倭国の倭奴國の筑紫城の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
倭国の「東征毛人五十五項」の中の一国として発展したのであり、
白村江で大敗した倭国を、大和日本国が併合吸収継承しがたもの。

古代においては、大和説も畿内説も最初から存在しない。
445日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:54:49.13
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
446日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:55:49.38
>>436
>例えば、則天の時の事件や、それ以後の遣使の記述も、

それ具体的に書いて見せてよww
ああ、ザラコクは漢文読めないし、文献検索できないから無理かww

きちんと調べてごらんよ
同じ国が改号しただけだって分かるから
447日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:56:31.63
>>432
王のいるところというのはある程度正しいだろうね。
だから上古においては九州がヤマトだったのだろう。
448日本@名無史さん
2019/02/08(金) 07:57:24.16
>>446
日本国は倭国より東にあるとあるから、少なくとも同じ国ではない。
449日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:00:13.00
>>441
>魏の役人らが、実際に計測もせず、
>「淮南子の援用」というズボラをして、

魏の役人は、女王国までの距離の報告はしてないんだよ
最後の行程は里数が分からないから日数でそのまま報告している

女王国まで萬二千里と、淮南子の世界の果てまでの観念距離を持ってきたのは
陳寿または陳寿ご参照した底本を撰述した人だよ
文書作成時の造作だ
450日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:01:43.18
>>444
>「正北抵新羅」

北部九州も倭種の住む倭地だってだけだよ
倭国の中心はもっと東だけれど
451日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:03:31.20
>>445
>倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、
>新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
>有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
>しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、
>そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。

ラノベ?
びっくりするほど、何一つ根拠のない想像のストーリーを書かれてもなww
452日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:06:08.18
>>447
>だから上古においては九州がヤマトだったのだろう。

九州がヤマトと呼ばれたことは一度もないしそれを記した文献も何一つない
小地名でヤマトと読む地名はあるが、それが小地名のままであることから、
その小地名のヤマトが中心ではなかったことが分かる

九州をヤマトとするのは無理
453日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:08:14.99
九州説も邪馬台国がヤマトだと認めたか
454日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:08:16.48
>>448
>日本国は倭国より東にあるとあるから、少なくとも同じ国ではない。

新唐書、旧唐書、唐会要に見える倭から日本への改号の時点で
倭国の人物がすべて大和朝廷の人間

倭国と日本国は同じ場所の同じ政権だよ
455日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:25:32.91
>>454
>倭国と日本国は同じ場所の同じ政権だよ

ハズレ。
倭国は阿波、日本国は8世紀遷都後の奈良大和。  @阿波
456日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:31:17.58
>>612
>用明天皇(アメノタリシヒコ)→桓武天皇まで同一系譜上にある
この認識は日本の資料など関係なく中国側の記録に依るもので、
九州説がほざく日本側の隠蔽だの工作だのは全く関係ない
つまり、大和=魏志の邪馬台国 <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭国の倭奴國から別れた別種の旧小国だった。

>倭から日本への変化は壬申の乱 <

倭国が白村江で大敗して亡国の運命になったから、大和日本国が倭国を併合吸収継承した。

古代には、最初からどこにも大和朝廷など入り込む余地などない
畿内や大和朝廷や邪馬台国や倭国大乱とやらを捏造したところで何の意味もない
457日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:42:34.42
>>616
>>3世紀頃は、「台」と「臺」とは、異字。<

>それは昭和の常用漢字音訓表制定時に「臺」が入らなかったから
「台」を代用字に使うようになったってことだから、
現代の議論において邪馬台国の表記を使うには当たり前<

ダメだ。
大和説者は、
魏志の「邪馬壹國」では大和には全くならないから、
後漢書の(同じ筑紫内の別対象の)邪馬臺國を大和の事だ、と捏造しようとして、
邪馬臺國を「ヤマト國」というインチキ読みを指せたんだから、
大和説者は、インチキ・・・・詐欺師。
458日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:51:36.25
>>617
>止于銅鏡鉗文
鉗文とは決まりきった形式
止于とは止める事
止于銅鏡鉗文とは銅鏡を決まりきった形式にするのを止めてという意味になる <

19世紀というはるか後代の人間の解釈なんて、始めから根拠になるものではない。

>魏志曰くなどの魏志からの引用である事が記されている 年代の違う複数の史書が
鏡の下賜があったのは景初三年と書いている <

梁書以後の唐代学者や書紀の、
「景初二年→景初三年」の解釈書き換えも、根拠にならない。

>現在の12世紀に再編された魏志倭人伝こそ そのどれよりも新しい後代史書に当たる<

写本版本における誤字発生は0.5%以下であり、
「壹」も「二」も「治」も校勘対象にもなっていない。
459日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:53:56.46
>>441日本@名無史さん2019/02/08(金) 07:43:08.74>>449
>魏の役人らが、実際に計測もせず、「淮南子の援用」というズボラをして、
>それが他の役人らに拠って皇帝にバレたら、首が危なくなるので、
>「淮南子の援用」など、しない。

ズボラをして近くにあると書いたら睨まれるが、遠い、遠い、遠いところにありました〜、
と書くぶんには問題ない。
おわかりかな??
460日本@名無史さん
2019/02/08(金) 08:58:11.59
>>621
>タンリとやらを捏造しようが九州の主要なクニを全て通過した状態で既に1万2千里をほぼ消化している
ただの算数の問題<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という事は算数の問題であり、
「南≠東」である事も、「人類の常識」の問題。

>そこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しである事は、人間の良心の問題。

>どう数字をごまかしたところで九州は女王国にさえ含まれない外部の属国<

どう文字や数字や方向をごまかしたところで、
大和は女王国にさえ含まれない倭種であり、外部の属国。
461日本@名無史さん
2019/02/08(金) 09:04:30.12
>>621
>タンリとやらを捏造しようが九州の主要なクニを全て通過した状態で既に1万2千里をほぼ消化している
ただの算数の問題<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている、という事は算数の問題であり、
「南≠東」である事も、「人類の常識」の問題。

>そこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しである事は、人間の良心の問題。

>どう数字をごまかしたところで九州は女王国にさえ含まれない外部の属国<

どう文字や数字や方向をごまかしたところで、
大和は女王国にさえ含まれない倭種であり、外部の属国。
462日本@名無史さん
2019/02/08(金) 09:08:55.91
女王国に含まれてない方がいいんじゃないか
463日本@名無史さん
2019/02/08(金) 09:11:59.10
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
464日本@名無史さん
2019/02/08(金) 09:25:18.55
>>622
>旧来の魏志倭人伝を引用した史書は
ほとんど邪馬台国の旧字体で邪馬臺國が記されている <

後漢書の邪馬臺國は、
魏志の邪馬壹國とは(同じ北部九州にあった国であるが)記載対象が違うし、
唐代以後の後代史書の「自己解釈に拠る邪馬壹國→邪馬臺國などの書き換え」など、
根拠には全くならない。

>邪馬台国があった事は史料上の事実だし <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、「史料上の事実」でもない。

>世間でも一般的な社会通念<

国民の7割は、大和説を否定しているから、
この男らの、国民の中の3割だけの通念。


邪馬台国があった事は史料上の事実だし
世間でも一般的な社会通念
465日本@名無史さん
2019/02/08(金) 09:50:02.40
能無し九州説の妄想の根拠は日本中にあるヤマトの名前が九州にもあるからー

バカすぎて朝から大爆笑w
466日本@名無史さん
2019/02/08(金) 10:01:41.07
>>623
>ホケノ山は炭素14c測定<

AMSはプラズマ化をするから、放射性壊変が促進され、
50〜100年位古く出るから、×。

>副葬品の年代から三世紀中葉以前<

大和のホケノは、有棺有槨の前方後円墳で「庄内〜布留」であるから、
3世紀中葉の卑弥呼の有棺無槨の冢拠りも1~2世代以上位後であり、
布留は普通は4世紀だから、3世紀末以後。

>三角縁神獣鏡には景初三年(239年)の魏年号が記銘されている<

ホケノには△は出ないし、
明帝の詔書は景初二年だから、下賜の銅鏡百枚は、景初二年以前に造られた鏡。
467日本@名無史さん
2019/02/08(金) 10:11:32.38
>>624
>中国は最初から邪馬台国から畿内の勢力が継続して平安時代にまで続いていると認識してる<

古代には邪馬台国も畿内も存在していなかったし、
中国は、最初から、九州倭国の事を記載しており、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であった、という認識であり、
白村江の後の則天の頃から大和が九州倭国を併合吸収継承した、という認識。

>そして考古学的にも九州は磐井も含めて畿内から押し付けられている古墳秩序の下位に甘んじ続けている
独立勢力など微塵も見いだせない<

九州倭国は、は、薄葬令以後の「臣下としての制約下」にあり、横穴式石室や装飾古墳を発展させた。
中国の史書通り、九州の勢力の下にいるのが大和。
大和説も大和朝廷も端から存在しない。
468日本@名無史さん
2019/02/08(金) 10:30:51.58
なんでも「俺様が決める」ザラコクに理由のカケラも無し
469日本@名無史さん
2019/02/08(金) 10:35:32.58
>>466
>明帝の詔書は景初二年だから、下賜の銅鏡百枚は、景初二年以前に造られた鏡

皇帝の命令もないのに勝手に作ったのか
首が飛ぶな

ww
470日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:08:30.70
>>637
>九州説なるものは言い出されたのが江戸時代。 それまでは存在さえしなかった。<

大和説なのものは言い出されたのは、白村江の後〜記紀。
それまでは、存在さえしなかった。

【焦点ぼかし】の史料事実の否定曲解の捏造。 それが大和説の本質。
471日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:14:58.51
>>470
大和説なんてないよ
ここは畿内説のスレだ
472日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:18:33.70
>>643
>なんの証拠もない ザラコクがやってるのは 別のところに置き忘れただけのモノを
「分別されてる」と言い張ってるのと同じだ <

唐会要が、倭國伝と日本国伝とを別の場所に書き分け、内容も全く違っている、
という事が史料事実だ。
473日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:23:37.07
>>647
>>「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、呑併倭國之地」
という「別種」関係の別国であった事を記し、<

>「或いは」以下は同じ国であったという別見解を記しているだろう<

旧唐書は、当然存在していた情報を「或いは」として していた掲載したのだ。

そうやって平気で史料を無視否定曲解して偽史を作り、
歴史学を踏みにじるのが大和説
474日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:33:09.91
>>473
>旧唐書は、当然存在していた情報を「或いは」として していた掲載したのだ。

掲載されている倭国=日本という情報をまるで無視するなど
平気で史料を無視否定曲解して偽史を作り、
歴史学を踏みにじるのが
トンデモ九州説
475日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:41:43.29
>>472
>唐会要が、倭國伝と日本国伝とを別の場所に書き分け、内容も全く違っている、
>という事が史料事実だ。

違っていないな
平安時代の日本から来た使者が倭国の使節として記録されてる
単に国号が変わったから別の章立てにしただけなのが原因で記録が混乱したというだけ
社名変更のあった取引先のファイルを新しく作ったらオフィスの引っ越しとかのドサクサで整理がグダグダになっちゃっただけ、みたいなもん
476日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:48:17.65
>>444
>どう屁理屈をほざいても、中国史では、
>「正北抵新羅」などに拠って、倭国は北部九州であり、

これさあ・・・
「邪馬台国は南と書いてあるから九州説で確定」
と言ってるのと同じなんだよね

回答は一つ
方位が間違ってます
簡単に解決しちゃうでしょ
証拠もあるんだよ
477日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:52:51.57
>>651
>大和=魏志の邪馬台国<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
大和説は、「南≠東」などに拠って×。

>改名=壬申の乱 <

大和は、扶桑國と呼ばれていて、
開皇末に小野妹子が隋文帝に日本國を名乗って叱られて?、
武徳中に、裴世清の確認渡来に拠って、唐が日本國名を承認した。
478日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:57:37.20
>>658
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者って、
宗教思想に狂って、状況が徹底的にわかってない、
・・・・アホ詐欺師なんだね
479日本@名無史さん
2019/02/08(金) 11:59:40.22
九州バカは史書なんて読んだ来ないんだから仕方ない
脳ミソの足りないお仲間の邪馬台国の会とかがほざいてる妄想そのままを連呼してる様からもよく分かる
480日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:06:53.88
>>663
>・中国は用明(アメノタリシヒコ)から桓武天皇まで同一の系譜としてみていて
畿内の勢力が邪馬台国からずっと中心として存在してると認識 <

古代には邪馬台国も畿内ももなかったし、
大和は「南≠東」や「倭国から別れた別種の旧小国」であった。

>・1万2千里で女王国でそこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国。
1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国<

不彌國で萬二千余里はほぼ終わっているし、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある事になり、
大和盟主説は×。

>・磐井も含めて九州の豪族は畿内から広められた古墳秩序の下位に甘んじ続けた程度の勢力<

九州倭国は、梁代まで中国の臣下の国であり続け、
大和は、継体の反乱で、ようやく九州倭国の王家に参加出来た新興国。
481日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:07:43.23
畿内説は方向も、距離も、国名も、日付も、風俗もみな間違っている事にしなければ成り立たないアホ説なんだよ。
自覚のない馬鹿ばかりだから成り立っている。
482日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:13:42.96
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
483日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:16:55.81
>>481
悪口しか言えないの?
反論できないの?

だから九州説は負けたんだよ
484日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:19:20.99
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(遠いところの枕詞として、漢代の淮南子を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)

末盧国の港(唐津)は、松浦川河口から約4q遡上した中原の津。
東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡(彌根郡)の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に、投馬国(西都市都万)あり、則ち水行20日なり。
同じく南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、則ち水行10日と陸行1月なり。
(注)水行の前に「則ち(ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に記せば…)」を補って読むと分かりやすい
485日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:27:40.37
漢時より、倭地には中国王朝へ遣使するほどの強大国があった。
言うまでもなく、博多湾岸を根拠地にした奴国(那国)であった。
その後、帯方郡は206〜210年ころになってやっと開かれたので、
倭地へ進出するには、奴国でない別の倭国内勢力と手を結ぶ必要があった。

そこで目を付けたのが、肥前・肥後の勢力で、倭人伝に云う佐賀川上の伊都国と、肥後熊本の山鹿菊池平野にあった邪馬台国だったのであろう。
このように考えれば、
なぜ、当時片田舎だった末盧国松浦へ上陸し、草木で前行く人が見えない道をかき分けて、
ひっそりと東南の佐賀平野へ抜けなくてはならなかったか、その理由も理解できるであろう。
486日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:34:50.69
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
487日本@名無史さん
2019/02/08(金) 12:51:19.07
>>484
佐賀三根郡から
肥後熊本まで
どうやって
水行10日と陸行1月
かかるのか
具体的に教えてくれよ
488日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:16:27.59
>>664
>>魏志倭人伝の史料事実は「東治」だ。<

>それがどうした 場所は福州だろ <

場所は、(建安郡ではなく)会稽の東の上海付近〜江蘇省海岸付近だ。
大和説は死んだんだよ。
489日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:17:03.69
>>457
>魏志の「邪馬壹國」では大和には全くならないから、

日本には、古事記や日本書紀の歌謡、万葉集と、古代の発音を万葉仮名で記した文献が
きっちり残っているので、上代の発音の研究が進んでいる

その結果、
子音で終わる閉音節の発音はない
母音の連続(二重母音)はない
ことが分かっている

つまり、「壹」(壹はichi,itu,ではなくitの音)と音写されるような地名はないし、
YAM「AI」Tの二重母音もありえない

つまり、倭国の地名として「邪馬壹」という音は、二重の意味でありえず、
ここからも、12世紀の三国志版本の邪馬「壹」表記は、3世紀の記録としては
不整合であり、後漢書等で見られる邪馬「臺」が正しいことが裏付けられる
490日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:19:23.64
万葉集もその他史書も一つも手に取った事もないバカが九州説なんだから仕方ない
491日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:20:10.62
音韻では畿内有利なので話題にしたらダメ
492日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:21:03.64
>>466
>AMSはプラズマ化をするから、放射性壊変が促進され、
>50〜100年位古く出るから、×。

AMS法は、原子一つ一つの原子核の質量を直接測っているのであって、
放射性壊変は測定中には起こっていないぞ?

その辺の物理的知識がないから、こういう意味のない書き込みを続けられるんだよな
ザラコクはww

それともう一つ、恥を感じない無恥無知な人だから、こんなバカ丸出しの書き込みを
続けているという面もあるのだろう
493日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:22:57.55
>>472
>唐会要が、倭國伝と日本国伝とを別の場所に書き分け、内容も全く違っている、
>という事が史料事実だ。

でも、どちらの記事も、畿内大和朝廷の記事・人物しか記載されていないww
九州倭国なんて存在しないんだよw
494日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:23:21.08
>>487
この南方に、投馬国(西都市都万)あり、則ち水行20日なり。
この南方に、邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、則ち水行10日と陸行1月なり。

元々の原稿段階では、水行の前に「則ち」があったのだが、
これが最終稿作成までの過程で省略されてしまたので、これをを補って読むと考える(あくまで仮補い)、

そうすると、
(帯方郡から南して東して7000里、南に渡海、また渡海、更にもう一度渡海して、
上陸したら、東南に陸行して、更に東行してとか、ここまであれこれ込み入った行程説明をしてきたが、
それらを端的に要約して記せば、(けっきょくのところ帯方郡から投馬国までは)水行20日ということなんです。
邪馬台国女王之所都までは、(けっきょくのところ)水行10日と陸行1月なんです。

ま、こういう陳寿特有の偉ぶった書き方であり、
全体の実距離の上限は、あくまで1万2千余里に限定されているわけだ。
495日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:26:07.36
>>484
>(注)水行の前に「則ち(ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に記せば…)」を補って読むと分かりやすい

前にも書いたけどさぁ、そういう元の文献に書いてない文言を足さないとまともに読めない時点で
読み方として間違っているし、その補うという行為が事実上「捏造」そのもの

九州説は、無理読み・捏造・珍解釈の「行程パズル」のみでできている
496日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:29:00.33
>>494
>元々の原稿段階では、水行の前に「則ち」があったのだが、
>これが最終稿作成までの過程で省略されてしまたので、これをを補って読むと考える(あくまで仮補い)、

あのさぁ、そういう元の文献に書いてない文言を足さないとまともに読めない時点で
読み方として間違っているし、その補うという行為が事実上「捏造」そのもの

九州説は、無理読み・捏造・珍解釈の「行程パズル」のみでできている
497日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:29:06.56
>>494
ほらな
具体的な内容がなくて数字合わせしてるだけ
それが九州説だよ
498日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:31:08.93
>>494
>肥後熊本

肥後熊本には、奴国(比恵那珂遺跡群)レベルの遺跡すらない
奴国2万戸、邪馬台国7万戸だから、これが実数ではないにしても
奴国をはっきり凌ぐレベルの遺跡がないところは、候補にならないよ
499日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:33:15.38
>>665
>>唐会要は、倭国伝と日本國伝とを、 (間に蝦夷国伝と哥羅舎分國伝を挟んで)
別の場所の別の国として、として書き分けており、<

>重複記事もないし、重複時期の記事もない。<

相変わらず変な・・・・男。「重複」なんて言っていない。「書き分け」と言っている。

>>長安3年以前に、 (略) という「別種」関係の別国であった事を記し、<

>その部分は「長安3年以前」の時期の記事ではない。<

神武東征で「別種になってから」の話。

>「或云〜」は、「ある資料には〜と書いてある。」という意味だ。過剰評価すべきでないだろ?<

旧唐書の筆者は、そのような記録情報があったから、記載した。

>>更に、長安三年以後にも、日本国使節の渡来だけではなく、
倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事のまで書き分けている<

>倭國の項には「則天時。自『言其國近日所出。故號日本國。』蓋惡其名不雅而改之。」とある。
こちらには「或云」は無いから撰者の本命ということ。<

(西晋朝の惠帝の時だけでなく)則天の時にも倭国使節が同じ事を則天にも言った、という事だ。

>それ以降の大歷十二年(777年)と開成四年(839年)正月の記事は、日本國へ名称変更した後となる。<

いや、倭国は「倭国と日本国の両方の呼称を持っていた」という事だ。
つまり、お前の言う「日本国國が存続して日本国國の遣使が来ていた事」のは曲解。
類スレ主ら大和説者らは、汚い言葉ばかりでうんざりだよ。
500日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:39:00.58
ザラコクほど汚い言葉ばかの人が他にいるのだろうか
501日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:41:30.72
>>495
そういう受け取り方もあるだろうが、補うはあくまで解釈上補うで、文章をいじくるのではない。
則ち、上限距離は1万2千里限定なんだから、沖縄にもならず、奈良にもならず、ほかに読みようがないではないか。

思えば今までの邪馬台国論争で、則ちを補った者はおらぬが、
則ち・・・という言い方は、古文にも多いし、日常的にも良く使う。
第一、則ちを補って読むだけで、すんなり通用するではないか・・・。
502日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:44:58.75
どうのこうの寝言ほざく前に中国史は畿内の勢力がそのまま平安時代まで継続してると【明記】されてる事実をいい加減理解しろw
503日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:46:42.22
>>499
「書き分け」たというのは史料事実じゃなくて
あなたの根拠のない主観ね

>(西晋朝の惠帝の時だけでなく)則天の時にも倭国使節が同じ事を則天にも言った、という事だ。

言ったのは粟田真人
日本(=倭国)の使者だよ

倭国は「倭国」と「日本国」の両方の呼称を持っていたんだよ
昔からずっと同じ国だという事だ
つまり九州王朝は無い
504日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:48:29.14
>>674
>小型丸底壷が出土したことが4世紀築造の根拠らしいが、
小型丸底壷は後代に追加供献されたもので、
それが天蓋崩落で落ち込んだと考えられている。<

表面で供献供されたものが槨の中まで入る、という事は、通常は起こらんな。

>その他のデータは、3世紀中頃の築造を支持しているようだ。<

ホケノは、前方後円墳でも有棺有槨でも「布留」でも、3世紀末意向にしかならない。
505日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:49:05.33
>>501
>第一、則ちを補って読むだけで、すんなり通用するではないか・・・。

則ちを補って読むだけで、帯方郡から通算の日数だという珍説が、すんなり通用するわけがない。
506日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:49:37.19
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
507日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:49:50.42
>>498
肥後・熊本には、荘内式土器も鉄器もわんさか出てるぞ。
奴国(比恵那珂遺跡群)は、戸数ばかり多いウドの大木の後進国。

弥生環濠集落方保田東原遺跡(熊本県山鹿市)
>庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土するということは、資料館の説明によれば交流があったことの証拠だそうです。
>でも、橿原考古学研究所の方の説明では「纏向では北部九州形の土器はほとんど出ない」ということでした。
>畿内の庄内式土器の時代には北部九州とは交流がなかった、とするのが妥当でしょうか。

>しかし、ここ方保田東原遺跡には交流の跡がある、ここは北部九州をスルーして畿内と直接結びついていたのでしょうか。
>素人には理解が難しいのですが、橿原考古学研究所の報告を見れば、
>「近畿と北部九州の交流はある時期までは無かった」と考えていいのでしょう。
>そして、ある時期から突然に始まるのでしょうか。
>それとも、「庄内式土器の始まりは九州であり、それが近畿にある時期に人とともに移動した」というのでしょうか。
>それで、弥生の後期に出発地・発信地である九州に庄内式土器が大量に出土する……と。
>それなら、理解できそうです。
https://tizudesiru.exblog.jp/i142/
508日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:50:58.55
>>504
天蓋が崩落したなら起こるだろう
509日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:54:07.00
>>506
それ、連呼すればするほど
ウソついてますって自分で告白してるのと同じになるよ
510日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:55:19.24
>>499
>いや、倭国は「倭国と日本国の両方の呼称を持っていた」という事だ。

おや?
ザラコクにしては、正しい結論にたどり着いたじゃないかww

そして、「倭国と日本国の両方の呼称を持っていた」倭国は、新・旧唐書の
倭国伝、日本国伝に記載された人物名から、畿内大和朝廷であることが確認できる訳だ

>つまり、お前の言う「日本国國が存続して日本国國の遣使が来ていた事」のは曲解。

そんなことを主張している人はどこにもいないよ?
また「脳内大和説」を勝手に作り上げて幻と戦ってるしww

卑弥呼の頃、倭の五王の頃から倭国の政権はずっと畿内ヤマトにあり、
それが魏志倭人伝には邪馬臺國と記され(伝書の途中で邪馬壹國に誤記)、
それが唐代に日本国に改号した、というのが畿内説の基本

>類スレ主ら大和説者らは、汚い言葉ばかりでうんざりだよ。

いくらザラコクがウソ間違いゴマカシ捏造を書いても、
その都度、正しい内容を突きつけられるからうんざりしてるんだろ?ww
511日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:55:29.84
九州バカの「絶対確実間違いなし」の論拠

・日本中にあるヤマトの地名が九州にもあるのでこれこそが絶対間違いのない邪馬台国直結の地名だ
(読みがそもそも成立しないとかそんなもんは気にしない)

バカすぎて腹痛いwww
512日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:57:54.91
>>501
>則ち、上限距離は1万2千里限定なんだから、

萬二千里は上限距離ではなく、世界の果てからの遣使を示す符丁であり、
実際の地理とは対応しない数字

もちろん、倭国内の特定の地点を指す数値でもない

その基本を外して捏ね繰り上げられた説は、どこまで行っても捏造にしかならないよ
513日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:59:45.41
>>675
>・中国は用明(アメノタリシヒコ)天皇から桓武天皇まで同一の系譜としてみていて畿内の勢力が邪馬台国からずっと中心として存在してると認識<

畿内も邪馬台国も史料に存在もしない嘘つき騙し文言。

>・1万2千里で女王国でそこから水行10日、陸行一月を経て女王の都の邪馬台国。
1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国
(一大卒が派遣されて監視され、辺境の守備兵、夷守が配置されている状況からも明白)<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南。

>・磐井も含めて九州の豪族は畿内から広められた古墳秩序の下位に甘んじ続けた程度の勢力 <

梁代まで、九州倭国は中国の臣下であり、中国の薄葬精神に従った。
514日本@名無史さん
2019/02/08(金) 13:59:57.16
>>501
>則ち・・・という言い方は、古文にも多いし、日常的にも良く使う。

その、使うべきところであれば、当然に使われる「則ち」の文言がない時点で
「則ち」という読み方が間違ってるってことだよ

水行、陸行部分は、総距離の言い直しではない
515日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:03:02.63
>>507
>奴国(比恵那珂遺跡群)は、戸数ばかり多いウドの大木の後進国。

九州説同士で争ってくれww

面的な広がりを持ち、青銅器、鉄器、土器の工房跡まで出ている、北部九州の
中心地をウドの大木の後進国とか言っている時点で、見るべきものを見て
いないチェリーピッカーさんだって自白しているようなものだよ
516日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:06:14.93
>>504
木柱で支えていた天蓋が、木柱の腐食で崩落する。
ホケノの天蓋が崩落したのは普通に事実。
二重口縁壷も落ち込んだものとされている。
4世紀とされる小型丸底壷も落ち込んでいた。
小型丸底壷は、後代に供献されたものと考えられている。
3世紀中頃築造で不都合はない。
517日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:06:45.54
>>680
>要するに「別種」というのは「同じものの別の呼び方」という意味なんだよ<

違うね。別種とは、別れた種族を示す文言。
518日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:09:33.28
>>512
倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里を、
遠いところの枕詞として、漢代の淮南子から援用しただけならそうかもしれない。
しかし倭人伝では、それに続けて、下記のように内訳里数を書いたのちに、
自郡女王国万二千余里と念を押している。これを無視はできない。
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
519日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:11:36.20
1万2千里で女王国
そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国

ハッキリと1満二千里未満と明記される九州のクニグニは邪馬台国でさえもない属国だと示されている
520日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:13:03.50
>>517
>違うね。別種とは、別れた種族を示す文言

それ、素人老人のザラコクが独断で決定したんだよね?
もちろん証拠はないよね?
521日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:13:48.31
さらに、中国史は畿内の勢力がそのまま平安時代に継続していると理解している

大和=魏志の邪馬台国

と確定している
バカの妄想など最初から存在してないのがよく分かる
522日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:13:52.69
>>514 名前:日本@名無史さん 2019/02/08(金) 13:59:57.16
>>501
>>則ち・・・という言い方は、古文にも多いし、日常的にも良く使う。

>水行、陸行部分は、総距離の言い直しではない

なかなかうまいこと言うではないか。当にそのとおり、総距離の言い直しなのだ。
523日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:15:07.75
>>516
>4世紀とされる小型丸底壷も落ち込んでいた。

あの小型丸底壷が4世紀だとしてる学者なんかいないけどな
524日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:15:58.72
>>522
なのだという理由は?
525日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:19:48.54
方向も距離もいい加減な倭人伝だが

「1万2千里で女王国でそこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国」
と言う条件を提示して

「九州のクニグニは1万2千里未満」
と明示し「九州は女王国でさもえもないただの属領であると示している

九州の描写は

・女王国に統属している
・派遣された一大卒が伊都国に駐在して監視し恐れられてる
・各地域に夷守(辺境の守備兵)が配置されている

と誤解の余地もない程の属国としての姿列挙されている
九州説だの九州王朝だのバカの脳内の妄想だとよく分かる
526日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:33:06.95
中国史は台与の後も男性王が立って、晋、宋、斉、梁、隋と連続して使節を送ってると書いてる
そして隋に使節を送ってきた用明天皇(アメノタリシヒコ)と桓武天皇を同一系譜上において継続していると考えている

大和=魏志の邪馬台国

最初から何の問題もなく成立してる話
バカの脳内の大爆笑物の九州説も九州王朝も微塵も存在してないのが分かる
527日本@名無史さん
2019/02/08(金) 14:59:04.95
つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。。。
528日本@名無史さん
2019/02/08(金) 16:13:28.61
ホケノはなぁ
布留式小型丸底土器と小枝に関して、主体部から出土しているにもかかわらず、落ち込み等として都合の悪い物は除外してしまうのはいかがなものかと
そんな例あるのか?と
これについては鉄が溶けると同じ原理で、言い訳じみてる思う

加えてノカツギも畿内では古墳時代以降しかみられないし、ホケノは3世紀末より古くはできんだろう
529日本@名無史さん
2019/02/08(金) 16:22:03.66
>>683
>残念ながら、三國志卷六十/吳書十五/賀全呂周鍾離傳第十五の
會稽東冶五縣とか、會稽東冶賊という記述は、「陳寿の地の文」だよ
詭弁にもならない言い訳を書くのは、いい加減にやめたらどうだ? <

「会稽東冶」と書いたから、それは260年の分郡前の事の記載であり、
陳寿記載時の考えを書いた「地の文」ではない。

この大和説男は、「地の文」という文言の意味が分からない・・・・アホなのか?、
分かっていて騙し・・・・詐欺師なんだろうか?。
530日本@名無史さん
2019/02/08(金) 16:22:37.99
>>528
情報古すぎ
だから九州説はダメ
531日本@名無史さん
2019/02/08(金) 16:27:15.20
>>687
>海南島の話は倭国が実際より南に存すると考えられてた傍証よね<

いや、陳寿らは、倭人と儋耳朱崖との習俗の類似を指摘しているんであって、
倭地が儋耳朱崖と同じ位南だ、なんて全く言っていない。
532日本@名無史さん
2019/02/08(金) 16:57:18.22
>>688
・日本は会稽東治の東にある
・実際の九州の記載も方向も距離も距離の比率もほぼ合っている
・距離も方向も周代〜漢代の頃の伝承と変わらない

行程記載は非常に信頼性があると言うのが分かるがる。
それを誹謗し、更に珍解釈抹殺をしてるだけが全ての大和説が、
どんだけバカだか、すぐわかる
533日本@名無史さん
2019/02/08(金) 16:59:46.53
>>689
行程とやらで重要なのは
「九州は、不彌國で1万2千余里なので、女王之所都であった」と言う点。
534日本@名無史さん
2019/02/08(金) 17:10:09.24
>>530
新情報はなんかあったかい?
落ち込みかい?
535日本@名無史さん
2019/02/08(金) 17:25:58.69
>>691
倭人伝の行程が言いたいのは、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にあるのだ」
と言う点。

しかし、この同じ事を繰り返し投稿をし続ける人物は、やはりどうやら、
「・・・・類スレ主」であったらしい。
536日本@名無史さん
2019/02/08(金) 17:50:19.86
倭国≠ヤマト
倭国は倭人の国 邪馬台国も倭人の国
ヤマトは渡来人と倭人の連合が創った国
これ常識
537日本@名無史さん
2019/02/08(金) 17:53:54.28
>>693
>>「現代の台湾の出版社」<

>中央研究院は1928年6月9日に南京に設立された
中華民国(台湾)の最高学術研究機関(国立アカデミー)
1949年歴史語言研究所の全機関と数学研究所の一部蔵書が台北に搬出された <

成程。いろいろと微妙な時期に台湾に行ったんだな・
538日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:12:48.46
>>697
まぁ中国は。そもそもは元々は、
九州以東は、倭種や侏儒國までの事しか知らず、大和の事は、
梁書に書かれた、「齋永元元年、其國有沙門慧深來至荊州」の、
「扶桑國」としての情報が最初であったのであり、
そんな大和勢力が九州まで支配していた、という事など、有り得ない、
という事がハッキリしてる。

キチガイ大和説がどう珍解釈しようが、何の意味もないわけだ
539日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:25:00.26
>>534
全部テンプレに書いてあったぞ
540日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:28:55.31
>>531
百越と同じ系統の連中じゃね、というくらいの認識やろね。
541日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:44:33.10
>>533
>行程とやらで重要なのは
>「九州は、不彌國で1万2千余里なので、女王之所都であった」と言う点。

つまり九州説で大事なのはインチキすること
542日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:44:39.10
>>528
ノカツギ銅鏃は、古墳から出たとされるが古墳のどの位置の出土なのかねえ。
それに、ホケノが4世紀の古墳なら、その時代にまだ銅鏃なのかと疑問。
鉄鏃であれば4世紀は当然だが、銅製だからなあ。
543日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:47:51.71
>>542
無い無いってのはガセて、弥生の遺跡から出てるってさ
544日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:48:34.43
>>701
>>日本国を名乗って、唐の武徳中に独立を認められたんだから、 <

>釈日本紀のその「至唐武徳中。初号日本之号」の続きがこれ。
「延喜公望私記曰。案隋書東夷伝。(略)都於耶摩堆。則魏志所謂耶摩臺者也。」
「武徳中」がいいなら「耶摩臺」もいいよね?<

延喜講記の引用は、
(書紀記載を完全に否定するような)国内史料事実の、直接的転写引用であるから、
信頼性が高いが、
「延喜公望私記曰」は、
隋書の「自己解釈に拠る書き換え」文の更なる後代文書の改変引用文になるから、
の)半分×情報以下の価値しかない情報。

>さて、則天中を補強する資料 《史記正義》唐 張守節 撰(開元24年(736年)成立 )
卷一 五帝本紀第一 「武后改倭國為日本國」
卷二 夏本紀第二 「倭國武皇后改曰日本國」<

それらは、
則天は、大和日本国の「長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物」の説明を承認して、
大和日本国が「以前から倭国の盟主国であった」事を認めた事を示しているだけであり、
しかし、旧唐書や唐会要は、則天以後に「九州倭国からの遣使が何度もあった」
という事を記録しているんだから、
史記正義は、拙速であった、という事を示しているだけ。
545日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:48:41.55
>>542
祭祀用
546日本@名無史さん
2019/02/08(金) 18:55:42.52
>>705
>その中国が、5世紀以来ずっと、
古代九州の都と大和の都の位置をごっちゃに誤認し続けているんだから、話にならん<

ごっちゃにしていない。
中国が大和の王権を認識したのは、梁書に書かれた「扶桑國」が最初。
しかし、唐会要は、倭国の位置を「西北接百濟、正北抵新羅」として北部九州だとし、、
はっきり区別している。
547日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:09:03.57
>>539

ドアホ
新情報って聞いてるだろ
テンプレは過去の産物で今では役に立たん
548日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:10:09.79
>>546
その倭国から平安貴族の藤原さんが使者として中国に行ってるのだよ
九州王朝説は子供も嗤うトンデモ
549日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:10:32.97
>>547
という証拠は?
550日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:18:54.51
>>544
>しかし、旧唐書や唐会要は、則天以後に「九州倭国からの遣使が何度もあった」
>という事を記録しているんだから、

その唐会要に、則天のとき倭国からの使者が国号を日本と変更したと言ったと書いてあるのよ
つまり旧名で記録に残ったケースもあっただけ

倭国=日本

国はひとつしか無い
551日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:42:04.12
>>546
>しかし、唐会要は、倭国の位置を「西北接百濟、正北抵新羅」として北部九州だとし、、
>はっきり区別している。

何とどう区別したの?
九州説はいつも内容ゼロだな
552日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:46:03.68
>>549
張り付けだよテンプレは
多少は手を加えているが
テンプレの駄文を部分的に貼り付けググればすぐにわかるよ
過去のパクリで今ではかなりの部分が反論を受けている
553日本@名無史さん
2019/02/08(金) 19:56:27.28
>>552
証拠は?
ウソばかりつく九州説
554日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:11:54.36
>>518
>しかし倭人伝では、それに続けて、下記のように内訳里数を書いたのちに、
>自郡女王国万二千余里と念を押している。これを無視はできない。

その下記の部分に曲解または捏造があるから、そんな話にはならないよ

>末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)

ここに、2000里などという数値は出て来ない
萬二千里と「現実の距離を対応のあるもの」として引き算をしているだけ

要するに、循環論法のインチキだ
555日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:15:16.32
>>529
>「会稽東冶」と書いたから、それは260年の分郡前の事の記載であり、
>陳寿記載時の考えを書いた「地の文」ではない。

引用でもなんでもなく、陳寿が自ら筆をとって書いた部分だから
間違いなく陳寿の記載時の考えを書いた「地の文」だぞww

>この大和説男は、「地の文」という文言の意味が分からない・・・・アホなのか?、
>分かっていて騙し・・・・詐欺師なんだろうか?。

ザラコクの勝手定義でインチキごまかしをしようとしているだけ
ザラコクの勝手定義はどうでもいい
556日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:16:36.04
>>531
>いや、陳寿らは、倭人と儋耳朱崖との習俗の類似を指摘しているんであって、
>倭地が儋耳朱崖と同じ位南だ、なんて全く言っていない。

倭人と儋耳朱崖との習俗が、同じくらい南だから似ているという判断で書いてるんだよ
557日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:24:47.77
>>532
>・日本は会稽東治の東にある

現実にはないよな?
沖縄説は採らないんだろ?ww

>・実際の九州の記載も方向も距離も距離の比率もほぼ合っている

末盧国ー伊都国、伊都国ー奴国の方角は、約90度時計回りに回っていて
北東が東南になっている
実際の九州と比べて、記載の方向が間違っているのは確定

末盧国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で、実際の九州の地理と比べると
1里あたりの距離が4倍も違ってくるから、誤差や程度の問題ではなく
距離が「デタラメ」であることは確定

>・距離も方向も周代〜漢代の頃の伝承と変わらない

周代の倭国に関する距離や方向の情報はない
漢書地理志には「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」の一文しかない
これでは距離も方向も分からない
後漢書の情報は、魏志倭人伝を参照して書かれているので、
基本的に同一の情報だが、漢代の情報ではない

つまり「周代〜漢代の頃の伝承と変わらない」というのは明確な誤情報

ザラコクって、ウソしか書けないんだな
558日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:27:04.61
>>554 名前:日本@名無史さん 2019/02/08(金) 20:11:54.36
>>518
>>しかし倭人伝では、それに続けて、下記のように内訳里数を書いたのちに、
>>自郡女王国万二千余里と念を押している。これを無視はできない

>萬二千里と「現実の距離を対応のあるもの」として引き算をしているだけ。

自郡女王国万二千余里が単独でかかれているのではない。
冒頭に従郡至倭として、次にその内訳の里数を書き並べ、
最後に自郡至女王国万二千余里として、この談を締めくくり念を押しているのであるから、
対応のある数字の扱いで全く正当である。
559日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:57:03.29
>>504
小型丸底壷の成立は、3世紀後半とするものがみられる。
またのかつぎ銅鏃が出た浦間茶臼山古墳は、3世紀末の築造とされる。
こうしたことから、ホケノを4世紀としなくてもいいのではないか。
560日本@名無史さん
2019/02/08(金) 20:58:31.19
万二千余里からが女王国(倭人の国)
561日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:11:52.06
ホケノ山の小型丸底壺は、庄内3式の精製長頸壺と布留0式古層の細密暗文に見られる
両方の特徴があるから庄内3式期の創出だろう

箟被付銅鏃は弥生時代後期の下鈎遺跡から出てる
562日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:14:36.15
>>558
>最後に自郡至女王国万二千余里として、この談を締めくくり念を押しているのであるから、

途中で里数なしの水行陸行の日数表記が入るのに、それを足し算と見るのは無理だろうに
さらに、戸数道里の略載すらできない21国に、その南の狗奴国真で書いて、それから
萬二千里が来るんだぞ?
>>558の理論(笑)だと、萬二千里はこの21国+狗奴国を含むのか含まないのかどっちなんだい?
どちらにしても、恣意的な読み方をするしかなくなるだろ?

もともと萬二千里は、倭国≒女王国が「地の果ての萬二千里の彼方」から遣使してきたと
言うためだけに、淮南子から引っ張ってきた観念的な距離なんだから、具体的な地理に
当てはめて考えるのは無理筋というより、明確に間違っている

>対応のある数字の扱いで全く正当である。

そう思いたいという願望だけで、まったく正当性はないよw
ついでに書いておくと、正しい日本語では「まったく」という副詞は、
結語に「〜ない」という否定語を伴う『副詞の呼応』が必須なんだがねw
563日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:21:16.02
>>546
梁書は、唐の時代にまとめられた史書。
倭奴国から倭王賛まで倭国は一貫しているとの記述になっている。

宋書にみえる倭王讃は、明らかに河内・大和の王権であるし、それ以前の倭奴国、卑弥呼の倭國は北部九州。
ごっちゃになって倭奴国から王権が一貫しているとするのは後漢書から。
梁書もごっちゃは後漢書と同じ。
564日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:24:26.63
>>543
まあ、銅鏃も鉄族も弥生の遺跡から出てるらしいなあ。
565日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:26:22.20
>>564
しかし、奈良ではホケノが最初。
鉄器は、奈良ではゼロに近い。
566日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:36:56.40
>>561
なるほど、ノカツギ銅鏃の未製品や完成品が下鈎遺跡で出てるな。
この遺跡は弥生中期後半と後期後半に栄えたとされている。

とすると、またなんで、ノカツギ銅鏃出土遺跡は4世紀だなどと専門家が騒いでいるのだろうね。
専門家らが下鈎の銅鏃を知らんわけないだろうにな。
567日本@名無史さん
2019/02/08(金) 21:42:46.38
>>566
>とすると、またなんで、ノカツギ銅鏃出土遺跡は4世紀だなどと専門家が騒いでいるのだろうね。

騒いでないよ
騒いでいるのは、九州説推しの民間の自称研究家の人たち
568日本@名無史さん
2019/02/08(金) 22:01:56.16
鉄器のない畿内に邪馬台国は無理
569日本@名無史さん
2019/02/08(金) 22:08:54.85
>>559
>小型丸底壷の成立は、3世紀後半とするものがみられる。

だから、小型丸底壷(東阿波型土器)は畿内第X様式 だと、何度言えばw  @阿波
570日本@名無史さん
2019/02/08(金) 22:10:18.08
>>436
>>同じ時期の事は書かれていないねぇ。 名称を変えたで問題ないね。<
>例えば、則天の時の事件や、それ以後の遣使の記述も、
>倭國と日本國とは、別の国として書き分けられている。
項目が分けられているだけで、並列関係は見いだせない。
571日本@名無史さん
2019/02/08(金) 22:12:32.33
>>499
>相変わらず変な・・・・男。「重複」なんて言っていない。「書き分け」と言っている。
項目が分けられているだけで、並列関係は見いだせない。

>>長安3年以前に、 (略) という「別種」関係の別国であった事を記し、<
>その部分は「長安3年以前」の時期の記事ではない。<
>神武東征で「別種になってから」の話。
項目の概要であって、時系列の「以前」ではない。

>「或云〜」は、「ある資料には〜と書いてある。」という意味だ。過剰評価すべきでないだろ?<
>旧唐書の筆者は、そのような記録情報があったから、記載した。
唐會要の話で「旧唐書の筆者は、記載した。」と突然書くのはなぜ?

>(西晋朝の惠帝の時だけでなく)則天の時にも倭国使節が同じ事を則天にも言った、という事だ。
唐會要には、「同じ事を則天にも言った」とは無いが、根拠は?

>>>倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事のまで書き分けている。
>>つまり、お前の言う「倭國が存続して倭國の遣使が来ていた事」は曲解。 <
>bツまり、お前の血セう「日本国國bェ存続して日本麹霜の遣使が来bトいた事」のは給ネ解。
何も考えずオウム返しをするから文章がおかしくなってるぞ。
「倭國が則天時に日本國へ改号した」だ。

>>つまり、類スレ主は、史料事実や史料実態を否定曲解して、
>>世間の人々を騙そうとする・・・・詐欺師。
>類スレ主ら大和説者らは、汚い言葉ばかりでうんざりだよ。
お前が自分で書いた言葉くらい引用しろよ。
572日本@名無史さん
2019/02/08(金) 22:58:34.25
>>712
「南→東」などの嘘吐き騙しのバカ大和説者の、
寝言が笑える。
573日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:13:20.76
多元王朝説は短里と並ぶ古田説のでまかせよね
東日流外三郡誌なんて偽書に飛び付くくらいだから
古田説の資料の扱いがおかしいのは明白
574日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:14:40.71
>>716
>「倭人伝の記載」 ・女王国まで1万2千里、そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里が終わっているし、
「水行10日陸行一月」は「郡〜女王之所都」の所有日数になるから、
この大和説男が×。

>方向や距離に根本的な誤認があるが、それ以前に「1万2千里未満の九州は女王国でさえない属国」と言う認識が確定してるのが分かる<

方向や距離に根本的な誤認がないから、この大和説男は×詐欺師。

>「中国史の認識」・台与の後も男性王が立ち使節を継続し、畿内の勢力がそのまま用明天皇から桓武天皇に至るまで同じ系譜上にあると示す

台予も畿内も存在もしない嘘つき騙し文言であるから、この男は×であるし、
新唐書の系図には、卑弥呼も壹與も倭の五王も阿毎多利思北孤も書かれていないから、
大和天皇家は倭国王家と直接繋がっていない、という事が分かる。
だから、大和説も大和王朝説もそもそも頭の片隅にもないのが確定する
どこにも大和説など入り込む余地はない
575日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:23:32.51
>>718
遣隋使は双方の使節が都に往来しているので「場所の誤認など起こりようがない」。
そしてこの使節を送ってきた王を、中国は阿毎多利思北孤であると記録し、
新唐書が記録した「用明、亦曰目多利思比孤」ではない、
と独自の記録から断定して記載しているから、
阿毎多利思北孤の後継が白村江でが大敗した、というが分かる。
576日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:31:02.40
>>720
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者がどう喚き散らそうが、
古代には、大和朝廷も畿内もどこにも存在していないのがよく分かる。
中国が(大和説のアホの言う)大和の隠蔽工作とやらに加担してるとか言い出す気かね?
そもそもが日本の記録に無い独自の記録から中国自身が、
大和日本国は倭国から別れた別種の旧小国だと断定してるのに
笑わせてくれる
577日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:45:53.04
>>731
>記載位置は
「計其道里、當在會稽東冶之東。」
 其風俗、不淫。男子皆露紒、以木緜招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。
 婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
 種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。
 兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
「所有無、與儋耳朱崖同。」
会稽東冶の東といって、そのあと習俗を並べて、その習俗が同じと言っているのだから、
倭国が「会稽東冶の東という南国」であることを強調してるんだよ<

陳寿の位置説明文は、
この大和説男の言う「計其道里、當在會稽東冶之東」ではなく、
「計其道里、當在會稽東治之東」であるから、
この大和説男は、「南→東」などの嘘吐き騙しだけではなく、
ここでも嘘吐き騙しの詐欺をしていた、という事になった。
578日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:56:08.29
>>732
もう証拠もなく「ウソだぁ〜」「ウソだぁ〜」 と叫び回るしかないほど
「南→東」などの嘘吐きf騙しの大和説は敗勢ということです。
だって実際はねぇ
自分がウソをついてる証拠を突きつけられているんだもの
「会稽東治」を「会稽」とする嘘吐き騙しもバレ、
「東治」を「東冶」とする嘘吐き騙しもバレ、
「東治は分郡後は揚州の治所」を「江蘇省の東海岸だけだ」とかもバレちゃさぁ。
579日本@名無史さん
2019/02/08(金) 23:58:05.10
倭国≠ヤマト
倭国は倭人の国 邪馬台国も倭人の国
ヤマトは渡来人と倭人の連合が創った国
これ常識
580日本@名無史さん
2019/02/09(土) 00:00:24.76
>>734
いやいや、誤認し、嘘吐き騙しのインチキを続けているのが、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説であって、
3世紀に「大和朝廷があった」というのがインチキ誤認なんだよw

まあ、3世紀どころか平安まであったっていうトンデモなんだけどさw
581日本@名無史さん
2019/02/09(土) 00:01:59.19
>>735
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説に、
まともな頭の者はもう残っていない
582日本@名無史さん
2019/02/09(土) 00:04:12.43
>>736
今日は「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
チョウリチョウリと、うわ言のように言わないのか?。
そろそろ死期が近いのかもな 。
583日本@名無史さん
2019/02/09(土) 00:32:46.60
脳の足りない九州サルが人とまともに会話してるつもりなってる姿は毎度笑える
584日本@名無史さん
2019/02/09(土) 00:49:20.13
ザラコクは邪馬台国はなかったとかいうくせに
自分で卑弥呼とか倭国王家とか平気で書いてるよなw

三國志に書いてあるのは卑彌呼であって卑弥呼じゃないし、倭國であって倭國じゃない
バカだよな、ほんとにww
585日本@名無史さん
2019/02/09(土) 01:12:29.00
倭國であって倭国じゃない だな
間違えた、すまない
586日本@名無史さん
2019/02/09(土) 02:27:54.87
>>569
阿波矢野遺跡の小型丸底鉢と、ホケノ山の小型丸底壷の形が同じなのか、違うのか、それ分からんからよ。
587日本@名無史さん
2019/02/09(土) 02:55:19.84
>>567
彼らが持ってるデータが、古いのだろう。
下鈎に青銅器工房ができたのが弥生後期で、その下鈎は後期末頃には廃絶する。
だから、ノカツギは、弥生後期末までには既に生産されていたということだから、古いデータで議論するのはダメということだな。
誰だよ、ホケノ山が4世紀だと胸張ってるのは。
588日本@名無史さん
2019/02/09(土) 03:47:52.61
九州説の素人おじいさんonly
589日本@名無史さん
2019/02/09(土) 03:50:51.82
>>578
>「会稽東治」を「会稽」とする嘘吐き騙しもバレ、
>「東治」を「東冶」とする嘘吐き騙しもバレ、
>「東治は分郡後は揚州の治所」を「江蘇省の東海岸だけだ」とかもバレちゃさぁ。

まあ、こういうウソをつき続ける以外
もう人生にする事も無いんだろうなあ
590日本@名無史さん
2019/02/09(土) 04:30:02.42
>>587
下鈎遺跡
いまいちその遺跡の出土状況がわからんな
殆どが篦被が無いタイプだし
古墳時代の物も出土してる様から、出土詳細がわからないと何とも言えないな

文化の状況は地域によって差がある時代だから同地域内での推移が大事だね

畿内では、ホケノの箆被付柳葉式は古墳前期〜中期に多く出るし、岡山の浦間茶臼山が一番古く3世紀末の古墳だから、やはり3世紀末より古くするのは厳しただろう
591日本@名無史さん
2019/02/09(土) 04:32:28.93
>>583
ムリしなくていいよ。ホントは倭猿って言いたいんでしょw
592日本@名無史さん
2019/02/09(土) 04:36:27.85
ホケノ被葬者もあれだな。
九州からはるばる鉄鏃を装備してやって来たはいいものの、
特に抵抗も無く占領して拍子抜けしたことだろう。
そんな歌があったな。
593日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:14:57.28
>>590
理由もなく難しいと思う神経がわからない
594日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:21:59.29
ヨコからスマン
下鈎遺跡って畿内だったっけ?
下鈎遺跡は何国になるのか答えなさい
595日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:25:05.33
いっそのこと阿波も畿内に入れたらww
596日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:28:26.87
畿内ってのは広いからな。言葉マジックだ。
近江には伊勢遺跡やら稲部遺跡やらあるけど、その辺りは前方後方墳の勢力圏とも重なるんだよね。
畿内説だと近江のさらに北部の稲部遺跡の大型建物なんてもう説明不可能だからネグレクトという破壊をしてしまったw
597日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:31:34.78
なおノカツギはいつから、いつまで生産されたのかも答えなさい
598日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:33:16.71
「棺ありて槨なし」
599日本@名無史さん
2019/02/09(土) 05:36:41.92
無知なのに偉そうなキウス
600日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:09:15.59
短気は損気
601日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:16:19.37
>>596
>畿内ってのは広いからな。言葉マジックだ。

などと平気でウソをつくキウスは
畿内がどこだか知らなかった事で有名
602日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:21:21.51
>>586
>阿波矢野遺跡の小型丸底鉢と、ホケノ山の小型丸底壷の形が同じなのか、違うのか、それ分からんからよ。

416: 千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
603日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:21:38.71
>>598
「暇ありて能なし」
604日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:24:39.12
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。

中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。

企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。

類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。  @阿波
605日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:30:43.95
「樋口遺跡」
弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。  @阿波

樋口遺跡 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7
606日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:37:27.49
さあ、トンデモ説のみなさん、またいつものマンネリ話を始めましょう。  @阿波
607日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:38:50.33
>>737
>>王年代記の証言を加味した新唐書は、
大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から神武が、大和州に移って出来たものだ、
と証言している。<

>はいはい 記紀の私製ダイジェスト本を信用しただけだよね
そういうのは証言とは言わない
つまり「よく知らないが、誰かが何処かで確かそう言った筈・・」
という九州説の他のソースと同レベルのものだ<

いや、大和日本国には、記紀の記載を訂正する異伝が存在しており、
新唐書は、書紀よりもその異伝の方が信頼できると判断して、
中国内の記録との関係も推定して、
大和の日本国伝としてまとめただけだ。
608日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:46:21.57
>>738
>畿内説だけれど、これは正しくないと思う
「女王国」が、基本的には「卑弥呼を王といだく範囲」=「女王国連合≒倭国」として使われていて、
「女王国以北」の2ヶ所のみ「邪馬台国」の意味で使われているため、やや記述に揺れがある
「自郡至女王國、萬二千餘里」では、女王国連合の意味なので、
萬二千里は倭国の中の特定の場所を指さない、というのが正解だと思う<

「畿内」説なんて、史料事実に存在しない文言を唱えて宣伝する限り、
幾ら倭人伝の一部分の解釈がある程度正確であっても、
最終的には、「南→東」などの嘘吐き騙しをするんだから、
スレ主のテンプレと同じであり、×。
609日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:54:29.41
>>739
長里という魏志の史料実態を否定する捏造単位を捻りだしたところで、
1万2千余里の女王國は、大和どころか近畿でさえないのは変わらんからな
まぁ最初から分かってる事だが、
まともな学問なんてやった事も見た事もない「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
5chで初めて、学問たるものを否定知ったんじゃねぇのかなあ。
610日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:56:44.14
>>609の訂正
長里という魏志の史料実態を否定する捏造単位を捻りだしたところで、
1万2千余里の女王國は、大和どころか近畿でさえないのは変わらんからな
まぁ最初から分かってる事だが、
まともな学問なんてやった事も見た事もない「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
5chで初めて、学問たるものを知ったんじゃねぇのかなあ。
611日本@名無史さん
2019/02/09(土) 06:58:29.84
キウス早朝発狂
612日本@名無史さん
2019/02/09(土) 07:00:14.12
>>740
>当然、大和=邪馬台国<

「南≠東」と同じように、邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、
この大和説者も、×。
613日本@名無史さん
2019/02/09(土) 07:05:45.97
>>742
>距離の謎なんてもう解けてる
淮南子に出てくる架空の世界の果てまでの数字1万2千里を
想定上の倭の極南界である会稽東治(冶)の東、台湾や沖縄辺りに当てはめたんだよ
世界の果てにある国という事を本当らしく見えるように書かれたもの<

「余」の有無で書き分けられているし、
「会稽東治≠建安東冶」である事などで、
この類スレ主が、嘘吐き騙しをしていた事が確定しているので、
この投稿も、×。
614日本@名無史さん
2019/02/09(土) 07:05:46.95
畿内はどうやっても会稽の東にはならない。
615日本@名無史さん
2019/02/09(土) 07:27:47.48
>>614
だから何?
616日本@名無史さん
2019/02/09(土) 07:29:55.58
>>613
ザラコクが妄想しても
確定するのは九州説の信用失墜だけ
617日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:17:07.54
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
618日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:17:37.82
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
619日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:23:21.12
畿内説という妄想が蔓延ったため、それ以外の地域の遺跡の保存はおざなりとなり、結果として奈良盆地の貧弱な遺跡だけがさもすごいもののように見えてしまう。
古代史の本当の姿は永遠に失われようとしている。
620日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:31:41.65
>>745
「南→東」などの「史料事実の否定曲解」の嘘つき騙しの大和説詐欺学者のほとんどは、
三角縁神獣鏡を、
文様や記銘文や科学的な分析の結果の恣意的な騙し解釈から、
魏鏡と考えているようです。
621日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:35:52.37
>>748
「南→東」などの嘘つき騙しがあばかれて、
大和説者にとっては地獄のような日々だろうけどねえ。
622日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:40:22.16
>>750
女王国の端にさえ含まれない属国
それが倭人伝が明確に示す大和

夷守と言う辺境の守備兵?の有無も不明?な田舎であり、
「東征毛人五十五國」の将軍らに監視されて怯える土地。
それが女王国の外部の属領である大和。
623日本@名無史さん
2019/02/09(土) 08:51:46.00
なぜ住居がないかって?
人が住んでいないからさ

なぜ人が住んでいないかって?
勇猛だった毛人はみんな生口としてどこかへ連れ去られたからさ
624日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:08:06.01
>>751
>女王国に関して、オレは、やや違う読み方をしているけどな。
それは、下の文章がでる前と、出た後で、女王国の意味あい(定義)が違うと思うからだ。
下の文章が出る前は、卑弥呼は邪馬台国だけの女王であった。
だから、この段階の「女王国」は、邪馬台国と同じである。<

「女王國」は原則は、女王共立國の意味で使っており、
「邪馬壹國女王之所都」の邪馬壹國は、女王國そのものではなく、
女王國内に含まれる女王の所都する国であり、
また、壹與も「女王國の女王だ」としているようであり、
また、狗奴國は、
卑弥呼共立に賛成していなかったようだから、女王國に含まれるのか?は不明であるが、
魏志は、卑弥呼が親魏倭王を貰った後での共立國内での内紛のように捉えているから、
狗奴國は、女王國とは言い難いが、倭國内には属する国であったんだろう、
という事になる。
625日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:15:28.65
>>753
>前書きに三世紀から数百年書き写される内に
誤字が多くなったと書かれている12世紀成立の現行魏志倭人伝は
同時代記録とは呼べない<

いや、差異発生確率が0.5%以下であるような、写本版本は、原本と殆ど同じものであるから、
原本と同じ位の同時代記録であった、と言えるが、
後代史家の「自己解釈に拠る前史の多数の書き換え」を実行された場合は、
その記載内容は、後代の認識証言であっただけで、
前史の「同時代記録」であったとは全く言えない。
626日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:24:15.43
纒向とか、何の根拠もなくよくも偉そうにできるよなw
627日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:37:30.64
>>624
そもそも倭人伝とは何かを勘違いしているようだな
ご承知の通り三国志は、倭国の歴史を書いたものではない。
これは魏王朝の歴史を時系列に沿って書き連ねた歴史書であり、その時系列に沿って倭との外交の歴史も書かれている。

もっと具体的に言うと、魏のこれこれの年号のときに、倭ではこういう状態であった・・、という書き方である。
だから当時の中国が後漢から魏へ激変したのと同じように、倭国大乱を挟んで倭国・女王国の政体・範囲も激変している。
現代の日本人が、女王国の範囲を(日本史の)一つの時代の一つの固定枠にはめようとするから読めないのだ。
628日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:45:18.24
>>755
>AMS法で誤差を含んで
ホケノ山木棺のサンプル5つが120〜240年頃と測定されている<

大和説学者が、AMS法での「プラズマ化」に拠る誤差を検討した話は、見たことがない。

>副葬品からもホケノ山が三世紀中葉以前なのは確実<

土器編年は、元々、相対編年止まりであり、絶対年代根拠に全くならない代物であり、
古墳型や墓型や他の紀年鏡などに頼らざるを得ないもの。

>ゆえに有棺有槨は三世紀中葉の葬儀形式 ホケノ山は有棺有槨だから三世紀中葉 <

3世紀中葉の卑弥呼の墓は冢であり、おそらく有棺無槨であるから、
有棺有槨は、3世紀中葉よりも1〜2世代以上新しい。
629日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:47:14.06
>>756
「南→東」や「畿内」などの嘘つき騙しの大和説詐欺師が、
毎日こんなに狂ったように悪しざまに罵るのは
九州説に負けた自覚があるからだな。
630日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:50:09.19
箸墓やヤマトトトヒモモソヒメの扱いは面白いな

両方とも古事記には伝記が全くない
延喜式でも箸墓を陵墓として扱う記載がない

日本書紀の豊富な記事から考えるとかなり違和感のある扱いだな
631日本@名無史さん
2019/02/09(土) 09:58:26.47
>>627 つづき
倭人伝2000余字において、
下記文章の登場以前の部分は、倭国大乱以前の倭地・倭国・女王国の状態であり、
下記文章登場以降の部分は、倭国大乱以後の倭地・倭国・女王国の状態として読めば良くわかる。

其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
年已長大無夫婿、有男弟佐治国。自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。
632日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:03:23.64
>>757
倭人伝の大和説に関する重要なキーワード
・1万2千余里は不彌國ではほぼ終わっているから、大和は女王国にさえも含まれない
・女王国に統属され、「東征毛人五十五國」された旧小国地域
・一大卒にも監視されている
・書紀の王名から見ると、夷守の支配も受けている
これ以上ないくらい辺境の属国として扱われてるのがよく分かる
どこのバカがここに日本の中心があるとか言うのか理解に苦しむわ
633日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:08:08.62
>>762
>そういう風に書かれているから
魏志倭人伝の邪馬台国の位置は現実的なものではなし<

倭人伝には「沖縄台湾」なんて書かれていないし、
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
この大和説男(類スレ主?)らの話は、現実的なものではなく、×。
634日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:10:25.17
>>764
辻褄合わせて魏志倭人伝を読んだのは、
恐らく「南→東」などの嘘つき騙しの、万世一系に狂った大和説者。
635日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:15:32.68
一大卒は王都である伊都国を拠点として、そこから北の対馬海峡(倭国の対外貿易の生命線)を検察したんだよ。

それより、畿内説だと伊都国の一大卒が畿内より北のどこかを検察したことになるけど、わけがわからなくなる。
636日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:17:46.85
九州説の病身舞は続く
637日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:22:08.56
まぁ結局九州説の喚き散らす絶対の証拠とやらは

・日本中にあるヤマトの地名が九州にもあるから
(九州説の主張する読みはそもそも成立しないとか気にしない)
・行程をこねくり回して邪馬台国だとか言い張る

この2点だけ
異常者の脳ミソは理解できんわ
638日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:32:07.24
>>765
>じゃあ現実に河口に遺跡があるのは何故だ?<

農業水産業の住民。

>西唐津には何の痕跡も無いのは何故だ?<

勿論上陸地点は、単なる上陸用の港。
また、西唐津〜唐津が末盧國の都であったのか?は、
「官名」が書かれなかった位だから、不明。
639日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:40:50.92
>>766
>不彌国までは1万700里 そこからさらに南に水行陸行する<

萬二千余里がほぼ終わっているし、
「水行十日陸行一月」は「郡〜女王之所都」の所要日数であるから、
「そこからさらに南に水行陸行する」は、×だ。

>そして魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治(冶)の東沖縄や台湾の辺りと書いてある <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「会稽東冶」なんて陳寿執筆時にはあり得ない表現であるから、
「沖縄や台湾の辺りと書いてある」というのも、×だ。
640日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:42:53.71
九州説はザラコク放置しとくと説得力無くなる一方だぞ
あの人は推論の根拠があまりにおかしいでしょ
641日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:46:59.61
しかし痛いことを指摘されるとガンスルーしてオウム返し始める辺り分かりやすいよなw
あー効いてる効いてると
642日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:47:59.07
>>
考古資料や史書の記載や自然科学的な計測批判に包囲されているのは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
もはや風前の灯
643日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:51:48.04
>>769
そんな風に「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをしてバレたから、
大和説は、国民の7割に否定され、
もう風に吹かれて飛んじゃったから
老残のアホなアマチュア学者しか残ってないんだよ
644日本@名無史さん
2019/02/09(土) 10:59:32.51
>>639
>「会稽東冶」なんて陳寿執筆時にはあり得ない表現であるから、

他に二か所で使われてるね
ザラコクがまたウソをついた


ww
645日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:00:37.01
>>640
いつもうちのおじいちゃんの相手をしてくれてありがとうございます(ニッコリ
646日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:15:22.33
九州説といっても、関西の朝鮮部落民と有明海周辺民族だからな
647日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:18:34.74
>>771
>それ、明らかに畿内説じゃないよな
九州説はどうしてウソばかり毎日つくんだ?<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説者は、「南→東」などのように、どうしてウソばかり毎日つくんだ?。
648日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:30:19.00
>>776
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や大和説学者には、
論客じゃなくて動物しかおらんようだが
サギとか馬とか鹿とかな
あとお前ん所のオウム早い所引き取ってくれんか
649日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:34:33.77
>>778
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
また自分で自分を誹謗するアホレスをしてる
本当にバレてないと思ってるのが笑える
650日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:38:23.64
>>780
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
万世一系八紘一宇の皇国史観狂に狂って、
やくざ暴力団のようなキョクウの殺人戦争をやってるつもりだから
651日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:39:02.16
>>544
>延喜講記の引用は、 (書紀記載を完全に否定するような)国内史料事実の、直接的転写引用であるから、 信頼性が高いが、
>「延喜公望私記曰」は、 隋書の「自己解釈に拠る書き換え」文の更なる後代文書の改変引用文になるから、の)半分×情報以下の価値しかない情報。

お得意の陰謀説でダブスタ史料抹殺だね。
「延喜講記」と「延喜公望私記」の違いを分かっているのかね?
希少な写本版《隋書》からの引用で、刊本より信用できるだろ。

>>《史記正義》唐 張守節 撰(開元24年(736年)成立 )
>>卷一 五帝本紀第一 「武后改倭國為日本國」
>>卷二 夏本紀第二 「倭國武皇后改曰日本國」<
>史記正義は、拙速であった、という事を示しているだけ。

お得意のダブスタ史料抹殺だね。
開元初の遣使とは開元五年(717年)到着の第九次遣唐使。
《史記正義》の成立は開元24年(736年)なのだから、まさに唐当時の記録。
652日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:42:07.49
>>781
>考古資料や史書の記載や自然科学的な測定論理に包囲されているのは大和説
もはや風前の灯<

2行目が間違っている
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
とうの昔に、既に否定されてるんだよ
653日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:44:04.50
>>782
「南→東」などの嘘つき騙しがバレているのに、
位置論争なんてものがまだ存在してると思ってるアホが、
大和説
654日本@名無史さん
2019/02/09(土) 11:52:03.53
>>783
>>「計其道里當在會稽東治之東」という文言は、儋耳・朱崖付近を全く指していないから、
この類スレ主の話は、全くの嘘つき騙しであり、×。<

>残念でした無知ゆえの間違い
会稽東冶は会稽と儋耳・朱崖の中間地点 つまり、ぴったり<

残念でした。
「南≠東」である事が判らず、
「会稽東冶は陳寿執筆時には存在せず、建安東冶になる」事が判らず、
「会稽東治之東は、ほぼ九州島である」事も判らず、
類スレ主が、無知であり、アホゆえの間違い。
655日本@名無史さん
2019/02/09(土) 12:08:46.50
>>785
ウソつくな
「南→東」などの嘘つき騙しの証拠はあがってるんだよ
誤魔化しても逃げられないぞ大和説
656日本@名無史さん
2019/02/09(土) 12:16:54.34
>>787
>>陳寿執筆時には、分郡によって「東冶」は会稽郡から建安郡の変わっていたんだから、
若しも「東冶」の事を書こうとするんなら、建安東冶としなければならない筈なのであり、<

>歴史は事件当時の歴史的地名を使うのが常識<

歴史の記載ではなく、筆者の考えを説明する「地の文」では、
読者が誤解しないようにするためにも、筆者の時代の地名を使う事が、
人類の常識。
657日本@名無史さん
2019/02/09(土) 12:25:42.91
>>656
>歴史の記載ではなく、筆者の考えを説明する「地の文」では、

歴史の記載ではなくザラコクの決めつける「地の文」の意味が
世間の常識とハナハダしく違うので
世間はザラコクの意見など
当然不採用

辞書くらい引け
九州説は非常識すぎ
658日本@名無史さん
2019/02/09(土) 12:28:26.91
>>602
それらの各地の東阿波式土器の時系列はどうよ。
@阿波がいうには、徳島矢野遺跡の弥生後期のものが最も古く、それが各地の小型丸底壷ほかの土器のルーツになったというわけだが、そうなんかい。
659日本@名無史さん
2019/02/09(土) 12:31:05.94
>>654
>「会稽東冶は陳寿執筆時には存在せず、建安東冶になる」事が判らず、

「東冶県は陳寿執筆時には存在せず、建安東冶になる事もない」事が判らず、

九州説信者が無知であり、アホであるゆえの間違い。
660日本@名無史さん
2019/02/09(土) 12:37:12.46
>>647
>「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、

中高生が学校で教わってる必修知識を
毎日まいにち理由も言わずに
全否定の連呼をする事で

九州説が非常識なトンデモであることを
おもいっきし宣伝してくれる
とても便利な広告塔

その名はザラコク

またの名を人呼んで
ウソコク・エブリデー
661日本@名無史さん
2019/02/09(土) 13:17:15.62
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
662日本@名無史さん
2019/02/09(土) 13:19:34.58
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
663日本@名無史さん
2019/02/09(土) 13:23:46.99
九州説が政治的に偏向したトンデモ説だって
自分で宣伝してるのか?
664日本@名無史さん
2019/02/09(土) 13:25:32.59
>>593
丁寧に説明してるじゃん
665日本@名無史さん
2019/02/09(土) 13:51:25.73
>>662
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで実行されてきた討論が、活発では、なくなってしまったのだね。。。
666日本@名無史さん
2019/02/09(土) 13:51:30.49
>>590

>同地域内での推移が大事

ホケノ山出土の土器は、大型壺(瀬戸内系)、中型壺(東海系)、
加飾二重口縁壺(11)、小型丸底壺(4)は規格の個体差が大きい
667日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:02:23.48
>>664
自画自賛w

もう一度じぶんの書いたものを読み返して自省してごらん
それでも分からなかったら欠陥を解説してあげる
668日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:02:57.15
>>789
鷺と鹿はそうかも知れないけど
「南→東」などの嘘吐き詐欺とアホは、
大和説の特徴だろ
669日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:05:59.63
>>790の訂正
早良平野の海岸の姪浜が、天照とスサノオとツキヨミの生誕の聖地であり、
天孫降臨の地でもあり、吉武高木も飯盛神社?などもある倭奴國の発端の地。
670日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:13:33.29
>>791
よしよし、大和には、
「南→東」などの嘘吐き詐欺師も居れば、キョクウの・・・・アホもたくさんいる。
しかしだからといって、普通の毛人や出雲系銅鐸部族がなかったわけではない。
むしろ倭人伝の当時の大和はそういう野蛮極まる世相・土地柄であり、
だから毛人らを生き埋めにするなどという非人道がまかり通っていたのだろう。
それをら喜んだ神武は、
大和で新天地を開き、殺人戦争や詐欺の国を築いたのだ。
大和の人間たちには、そうした殺人鬼の歴史を発掘してもらわなくてはならぬと思っている。
671日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:18:09.67
>>669
200万年程前の出来事?1000万年くらい?億年??
672日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:20:29.82
>>794
何と言っても「自己解釈に拠る高慢な書き換え」の後漢書以後の唐代史家らも、
同じような、「自己解釈に拠る書き換え」屋であるし、
現代大和説者は、それだけではなく、
「南→東」や「東治→東や」などの書き換え・・・・だからな。
673日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:24:00.45
畿内説が息をしてない・・・
674日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:24:36.90
頭の病院に行ったほうが良いぞ、
神武(不明)という人物がいた、そこにヤタカラスというのが現れて・・・?????❔
675日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:26:51.37
これも以前から聞いている事なんだけど、
記紀神話?どこの国の話なんだ?
676日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:27:07.74
>>801
>短里なんて語彙は、中国の歴史にはない。<

一寸千里の周朝里や、それを踏襲した魏朝や西新朝は、
「1里≒434m」という長里の秦漢里ではない。
677日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:30:06.83
『神仙界』
678日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:31:07.30
>>804
>九州は1万2千里未満の女王国にさえ含まれない属国 <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
「南≠東」も相まって、
大和は、どう転んでも、女王の所都ではない。
679日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:35:26.95
『伊達の桃太郎』

なぜか『イワンのばか』という曲と同じ話?
680日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:37:50.91
>>805
>東冶という地名は、後漢にはすでにあり、その地は福州市あたりになる。
会稽東治(冶)は、会稽と東治(冶)の南北範囲という意味。 <

英語などの住所や氏名表記循とは違って、
中国や日本などでは、反対に、
「広い地域名+狭い地域名」の語順に示すのが原則。
681日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:38:59.70
このように
九州説はいつも理由をまったく言わないで
「ワシの結論」だけ連呼する
682日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:40:11.85
>>680
タン耳朱崖は?
683日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:42:16.10
>>804
>九州は1億2千万光年未満の女王国にさえ含まれない属国 <


そんなこたぁねえんだよ。
帯方郡の東南大海の中、すぐそこの九州島にあったんだよ!
684日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:42:27.58
>>806
>その当時の公定単位は、1里=434m。<

魏朝の「度」の記載は、
文帝の即位の詔書や重臣たちの周制への復古の上奏に拠って、
周髀算経の一寸千里の「里」。」
685日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:46:25.87
嫉妬団のようなのようながいて・・・
みたいな事を言ってる人もいたでしょ?

『伊達の桃太郎』
のように楽しく遊んで暮らしていた人々と・・・、
686日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:50:56.96
>>8807
・日本は会稽東治の東にある
・九州北岸の不彌國で萬二千余里はほぼ終り、距離も方向もほぼ合っているから、
邪馬壹國女王之所都は、ほぼ筑紫。
・伝説の頃の記載とは関係なく、魏志は「余」を使ったり使わなかってりして、
計測値の近似的な記載。
687日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:51:02.27
本当に老婆談と同じ?

芝居、歌舞伎などが好きで・・・、
いつ頃の話なんだろう、明治頃?近代の話なのかな?

泥棒のようなものに入られた・・・w
688日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:51:17.68
本当に老婆談と同じ?

芝居、歌舞伎などが好きで・・・、
いつ頃の話なんだろう、明治頃?近代の話なのかな?

泥棒のようなものに入られた・・・w
689日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:51:54.97
>804
>九州は、1億2千万光年未満の女王国にさえ含まれない属国 <

そんなこたぁねえんだよ。
女王国は、帯方郡の東南大海の中、すぐそこの九州島にあったんだよ!
690日本@名無史さん
2019/02/09(土) 14:57:49.65
>>814
>櫛田神社とかあるな
誰々を倒した神様が祀られているのかな
北陸の化け物を倒したとか
気多大社の伝承に出て来る化け鳥、オロチが倒された話と被るな<

ふーん。
691日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:00:45.39
『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、
むかーし伊達郡というところに住んでいたことがあって・・・。
692日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:00:57.66
>>815
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺と、
人種差別的殺戮戦争狂のアホ馬鹿が主張する大和説を、
信じると思っているのか ?。
693日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:06:06.95
>>818
>古代は倭と書いてヤマトと呼んでいたんだよね。<

音韻が合わないから、違うだろうねえ。
「山、邪馬、ヤマ」の「門、戸」、だったというのが、
九州でもその別種分家の大和でも起こり得るから、
可能性が高いんだろうねえ。
694日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:11:59.25
>>824
魏使らや陳寿は、「南→東」などのウソを付く必要がないし、
付かないだろうねえ。
695日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:15:09.32
>>825
九州については、
魏使らはハッキリと「不彌國でほぼ萬二千余里」と書いてるし、
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」とはっきり書いているから、
安心しろ
696日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:16:38.82
>>694
そりゃウソをつくのはザラコクや九州説マニアだからな
697日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:17:39.00
>>826
>遠賀川の石と手を組んだ瀬戸内海の勢力が九州北部を支配下に置いていたんじゃないのかな<

女王國から「渡海千里」は倭種であるから、×。
698日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:18:44.60
>>695
>九州については、
>魏使らはハッキリと「不彌國でほぼ萬二千余里」と書いてるし、

書いてない
九州説の現代日本人の一部だけがする異常解釈にすぎない
699日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:21:43.92
>>684
>魏朝の「度」の記載は、
>文帝の即位の詔書や重臣たちの周制への復古の上奏に拠って、
>周髀算経の一寸千里の「里」。」

「文帝の即位の詔書」にはそんな記述は無いし
「重臣たちの周制への復古の上奏」なども存在しない
700日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:23:24.96
嘘つきの心理

こうだったらいいな

いやこうに違いない

最初からこうだった

九州のキチガイが現実を都合のいい妄想と混同して思い込んでる様を見てると異常者の精神状態がよく分かるサンプルとして面白いな
古代史どうのじゃなくて異常者の言動を知るための分かりやすいお手本になる
701日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:25:41.47
>>828
>中国史は用明天皇(アメノタリシヒコ)とその後の桓武天皇が同一系譜の存在だと【明記】している
なので 大和=魏志の邪馬台国 <

旧唐書や唐会要は、倭國は倭奴國の後裔で、卑弥呼や倭の五王やタリシホコの国であった事を記載しているが、
新唐書日本伝には、卑弥呼や倭五王やタリシホコの事を書いていないから、
大和日本国≠卑弥呼や倭の五王やタリシホコの国。
702日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:26:11.50
畿内説の距離感
女王国まで、一億二千万光年ww
703日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:29:39.18
>>829
「南→東」や「畿内」などのように、
全ての事実に反した嘘を延々とつき続けなければならない大和説を主張してると、
脳がやられ、ついにオウム返しばかりされる「オウム返され人間」の出来上がる。

九州説は嘘は言っていない。
704日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:37:21.04
>>701

>旧唐書や唐会要は、倭國は倭奴國の後裔で、卑弥呼や倭の五王やタリシホコの国であった事を記載しているが、
>新唐書日本伝には、卑弥呼や倭五王やタリシホコの事を書いていないから、
>大和日本国≠卑弥呼や倭の五王やタリシホコの国。


あんた・・

さっき自分で
>何と言っても「自己解釈に拠る高慢な書き換え」の後漢書以後の唐代史家らも、
>同じような、「自己解釈に拠る書き換え」屋であるし、

と、ソレ全否定してるじゃないか
舌の根も乾かぬうちに180度転向かよ
言ってること支離滅裂だよ

これがチェリーピック九州
705日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:37:24.22
>>830
>>旧唐書にも倭国と日本は別と書いてあるし7世紀まで九州は独立王朝で讃やら武やらが南朝に独自に朝貢してた<

>ザラコクの大好きな 後世の人の「自己解釈」wに ザラコクは全面依拠ww <

旧唐書や唐会要は、唐代直後史書であり、
「自己解釈に拠る書き換え」のような記載は見つからず、
ほぼ唐代内史料に準拠した書き方であるから、
「後代史書の自己解釈に拠る書き換え」なっていない。
706日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:41:07.01
>>831
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を、
意地になってやってると、多分
感情を司る前頭葉とか萎縮していくんだろうな
大和説学者や、スレ主や類スレ主らはすでにそういう病気かも知れぬ
707日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:54:35.14
>新唐書日本伝には、卑弥呼や倭五王やタリシホコの事を書いていないか

また「こうだったらいいな」が脳内で「最初からこうだった」に変換されてるほら吹きがいる

思いきり系譜の上に用明天皇(アメノタリシヒコ)がいる

ついでに旧唐書には一大卒をタリシヒコが各地に派遣して支配してると書いてる
一大卒がいる九州は大和の属国だとハッキリししたな

良かったな
708日本@名無史さん
2019/02/09(土) 15:56:57.52
>>676
魏の1尺=24.5cm。
1800尺=1里。
魏の1里=24.5m×1800尺=441m。
709日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:09:31.18
新唐書だと旧唐書で書いてる遣使も同一の物だとまとめて書いてる
つまり別の国だなんて全く考えてない

唐書の内容を知りもしないからこうやって九州王朝の記録だ!とかサル丸出しの脳ミソで自爆を繰り返すわけよ
まぁどんなに本当の事を教えてやっても異常者だからまた見えないキコエナイして同じこと喚くんだろうけどさ

おもちゃがいつまでも残っててくれて嬉しいくらいだから頑張れよw
710日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:12:11.87
一大卒の記載は正確に言うと阿毎氏(天皇の氏と中国が考えている)が派遣してる

タリシヒコの所で初めて書かれた氏だから要は同じことだが

まぁどの道、一大卒がいる=属国
と言うわけだ

良かったな
また一つお利口になった
711日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:17:52.17
頭の良い人は気づいている、伊達郡?

近所に皇族が住んでいたんだろうという話、
むかーし皇族?
712日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:18:24.19
五王の記録については南朝への遣使だから詳しく取り上げない

北朝系の隋唐は北朝の禅譲を受けて継承している
母体となった北魏も曹魏との関係を自任している

だから魏や隋の外交記録を継承して詳細を記載する

これも分からずに「九州王朝だ!」とか見てて腹抱えて笑うわw
713日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:18:46.79
>>705
>旧唐書や唐会要は、唐代直後史書であり、
>「自己解釈に拠る書き換え」のような記載は見つからず、
>ほぼ唐代内史料に準拠した書き方であるから、
>「後代史書の自己解釈に拠る書き換え」なっていない。


おいおい
>何と言っても「自己解釈に拠る高慢な書き換え」の後漢書以後の唐代史家らも、
>同じような、「自己解釈に拠る書き換え」屋であるし、

なんだろ?

唐代史家らも「自己解釈に拠る書き換え」屋なんだろ?
唐代直後から突然どうして変わるんだ?

チェリーピック九州
714日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:22:17.90
皇族〜本当の皇族・・・むかーしの中華?
715陳寿90度回転さん
2019/02/09(土) 16:31:01.21
前方後円墳の形状は、中国の『天円地方』説に基づいている。

つまり、前方後円墳が最初に出現する場所は、
『当時の中国の最新の世界観や天文学を、最も早くから、最も太く受容した場所』
と言うことになる。

貿易、外交、文化受容において、当時の中国と最も結びつきが強かった場所。
それがイコール『前方後円墳が出現した場所』だ。

その中国文明受容の中心地を治める女王と、九州の片田舎の女酋長。

実際に邪馬台国まで来た魏使様が、『親魏倭王』の金印を与えるのは、
前者しかあり得ない。
716日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:33:25.93
用明天皇(アメノタリシヒコ)は新唐書にハッキリと歴代天皇の系譜に載ってる

北朝の系譜の隋唐は北朝の外交記録を引き継ぐ必要がある
なので北朝側に日本が来た時の記録を残す
九州説のバカがほざく「日本の隠蔽工作」(笑)とやらに付き合う必要など皆無
むしろ日本側から出された系譜にない記事を自分達の記録に入れている

それが「用明天皇(アメノタリシヒコ)」

つまり、中国が独自の記録から確信して入れてる情報だと言うわけだ
なので

大和=魏志の邪馬台国
倭から日本への改称=壬申の乱
一大卒=属国に派遣された監視員

最初から確定してる話で九州説も九州王朝も微塵も存在してないのが分かる
717日本@名無史さん
2019/02/09(土) 16:48:03.52
王族=皇族?

『王母』でググると、ほとんど合致しているし

『伊達の桃太郎』・・・?皇室が何やらと言ってる人がいたり
718日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:02:33.89
『何者にもなれない お前たち』

「こえ」というゲームメーカーのスレがあるでしょ?
おかしな人たちがいたのかな?信オンというスレ

『ペンギンのような エリザベス』
『ピッコロ ペンギン』だと言ってる人がいたり
719日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:15:52.61
>>667
なんで書かないの?
どうぞ
720日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:28:30.17
>>707
>ついでに旧唐書には一大卒をタリシヒコが各地に派遣して支配してると書いてる

各地といっても、魏志倭人伝にはそれが対馬海峡と特定されている。
福岡がタリシヒコらの王都だよ。
魏志倭人伝の場合には伊都国に一大率が置かれていたと書いてある。
721日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:33:16.28
>>833
>北朝系の隋、唐は南朝への朝貢について詳しく記載しない<

これも×。
隋書も「俀國伝≒倭國伝」で、卑弥呼や「自魏至于齊、梁、代與中國相通」と書き、
旧唐書も倭國伝で「古倭奴國也・・・世與中國・・・其王姓阿毎氏・・・」などと書き、
唐会要も「古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏」と書いている。

>さらに大和=魏氏の邪馬台国と明記することで畿内の勢力が継続して使節を送ってる事を示している <

これは完全に×。
邪馬台国も畿内も存在しない文言であり、当然書かれていない。
722日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:34:29.10
特置一大率検察 諸國畏憚之 常治伊都國

一大率が伊都国にあるとは書かれてないぞ。
どこかはわからんが、一大率が設置されたとあるだけだ。
たぶん周辺諸国だろうけど。

伊都国でやってるのは一大率を治めているだけ。

だいたい、伊都国に一大率があって伊都国を監視しているなら、
なんで諸国が懼れるんだよ?
723日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:34:31.69
>>716
>それが「用明天皇(アメノタリシヒコ)」

用明天皇の諡号はタリシヒコではないだろ。
無知なのか?
それとも意図的な詐欺なのか?
用明天皇の諡号は「たちばなのとよひ」
タリシヒコは歴代数人いるが、有名なのは景行天皇(オオタリシヒコ オシロワケ)。
それなのに用明天皇をタリシヒコだと無理に言い張るのは、詐欺に近い
724日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:36:51.68
バカがw
725日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:41:43.85
九州バカがどう泣きさけぼうが中国側が日本の記録と突き合わせて遣使を用明天皇であると断定してる

日本側の記録を見ても「同一人物の遣使である」と認定している記事
動かしようのない事実
726日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:44:33.83
>>834
>そもそも九州は五王の時代には完全に畿内から押し付けられている古墳秩序の下位の地位に甘んじている状態
関東から九州に至る地域を支配する上位存在に従う属領であることが分かる<

これも×。
類スレ主も、九州倭国の倭王武の上表文の「東征毛人五十五國」があり、
「瀬戸内以東の巨大古墳が、殆ど東征将軍らの墓になる」事を隠している。

>磐井も同様 日本を代表する政権など影も形も見いだせない<

磐井は、ヲホドの反乱で倒されたが、
同じ阿毎氏系の葛子に拠って、大和王の倭国王家への参加を認めて再建され、
タリシホコらを輩出して栄えた。
727日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:44:52.00
邪馬台国と関係ないじゃん
728日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:47:56.83
>>841
>大中小のやまと3つが揃ってる畿内こそ邪馬台国に決まっている <

邪馬台国も畿内も、存在もしない嘘つき騙しであり、×。
729日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:48:17.49
中国側に対して別の名を遣使で名乗る事は倭の五王の件でも見受けられる

用明天皇が外交用の別称で使節を送っても何の不思議もない
その上で中国は日本から送られた系譜に「自分の記録から」用明天皇をアメノタリシヒコであると断定してる

系譜、その後の使節の連続性などからもバカ九州説の妄想するような九州王朝など存在してないのは最初から確定してる
730日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:48:50.75
>>719
>なんで書かないの?

あんた以外の人には自明だからじゃない?
岡山の浦間茶臼山が3世紀末の古墳なら、それより古いホケノ山を3世紀末より古くするのが厳しいと考える人間など
いにい
731日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:49:36.99
アメノタリシヒコ=用明天皇

アメノタリシヒコの都=魏志の邪馬台国

邪馬台国は最初から大和

バカの九州説でも理解できる分かりやすい真実
最初から全部書いてあること
732日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:51:13.01
畿内説の寝ぼけた距離感
帯方郡から女王国まで、一億二千万光年 ww
733日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:54:21.30
そして一大卒については新唐書だとちょっと呼び方が違うが旧唐書と同様の記事が見える

全国に本卒を置いてこれを検察せしむ、とな

はい、一大卒がお前らの大好きな唐書に中央から派遣された監視官だと書いてありますね
よかったな
九州が邪馬台国の頃から属国だと確定したぞ
734日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:56:06.47
714日本@名無史さん2019/02/09(土) 16:22:17.90
皇族、・・本当の皇族、・・・むかーしの中華?
Yes、
735日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:57:25.33
>>847
>邪馬台国はヤマトだよ<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
736日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:57:57.96
>>722

はて?
一大率が伊都国に置かれていると言っていたの畿内説だろう?
伊都が王都だから、そこから来る刺史を諸国がおそれ憚るのは当然だよ。
737日本@名無史さん
2019/02/09(土) 17:59:01.95
>>731
>アメノタリシヒコ=用明天皇

おらおら
嘘をつくなよ
738日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:00:40.59
>>731
アメノタリシヒコは九州にいたのでは?
739日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:06:41.61
ちなみにこれも九州説が大好きな新唐書に

「神武以降に大和に移る」

と神武東征伝説を引用したうえで「用明天皇が記紀の代数通りに登場する」

はい、用明天皇は大和にいますね
これを中国が独自記録と照らし合わせて公認してますね

はい、また一つお利口になれて良かったですね
740日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:07:10.50
邪馬台国=倭人の国
ヤマト朝廷=倭人と渡来人が建国
これ常識なんだぞ
741日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:07:49.98
モモの話、読んでみた?

>桃の品種は天津・花魁・日の丸・日月・田中などがあり、
>天津が中心でした。

『何者にもなれない お前たち』

高い倉、日本の神話でしょ?天津?
742日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:08:10.01
>>736
自分は九州説だが。

自女王國以北 特置一大率検察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

よくよく読んでみると、
特置一大率伊都國ではなく、
特置一大率検察とあるだけなので、
一大率を設置したのは明らかだが、どこに置いたのかは書かれていない。

というか、刺史と同じなのだから、
一大率が置かれているのは諸國であって、
伊都国でそれを制御している、と読める。
743日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:10:33.91
つまり毎度九州説のバカが持ち出してくる「筑紫城」とやらもこうなるわけだ

神代から日向三代まで日向の筑紫城にいた

神武天皇がヤマトに移った

用明天皇(アメノタリシヒコ)
・用明天皇の都は大和
・魏志の邪馬台国と同じ都

となるわけだ
浮かれあがって「筑紫にいた!九州王朝だ!」とか言い出す記事はこういうことが書いてあるんですねー

よかったですね
また一つ自分達のバカさに気が付けましたね
744日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:11:55.13
神武東征であって、東遷ではないのだが。
745日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:12:36.42
>>743
隋書のどこに畿内に逝ったと書いてあるのだ?
746日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:17:26.64
>>745
そういう無駄な抵抗は
もういいから
747日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:19:30.46
>>742
常治伊都国と書いてあるでしょ
九州説は漢文読めないの?
748日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:19:37.35
>>739
>はい、用明天皇は大和にいますね

いや、まだ奈良大和へは遷都していないよ。  @阿波
749日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:20:26.75
>>746
いや別にどうでもいいのだが、
純粋な興味として、
隋書の記載も倭人伝のと一緒で、
壱岐対馬から九州までが詳しくて、そこからはるかはるか東への道のりがよくわからん。
750日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:21:28.39
>>747
常治伊都国

諸国に設置した一大率を、
常に伊都国が統治している、では?
751日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:22:39.31
>>1
『天子』〜『中華思想』

とあるスレを読んでみた?
5〜6世紀でも中国の属国だと言っているし。
752日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:24:27.90
>>858
>古事記:竺紫日向之高千穗之「久士布流」多氣
 日本書紀本文:「槵日」二上天浮橋立
 一書:
 筑紫日向高千穗「槵觸」之峯
 日向「槵日」高千穗之峯
 日向襲之高千穗「槵日」二上峯天浮橋
 日向襲之高千穗添山峯<

これだけでも「クシフル」の古代の固有の漢字表記名がなかった、という事が判る。
753日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:24:32.05
>>750
マジで漢文読めないの?
754日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:25:30.25
常治伊都国

それなら
常に伊都国において統治している、だな。
755日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:27:56.16
>>754
マジで漢文読めないのだな
756日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:28:41.83
>>862
>>呼称に、「意味不明な呼称と意味が解る呼称」の二つの情報があった場合、<

>いや意味が分かる分からないではなく、「枆うつぎ」が「クシフルの訛」と
音・読みのこととして書いてあるのが通らないっていってるんだよ <

それでは、「クシフル」という呼称が古い、という事を認めるんだな?。
757日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:32:22.03
壮絶な誤読だったんじゃねーの?

自女王國以北 特置一大率検察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

主語は邪馬台国政権、目的語は一大率

女王国(邪馬台国)より以北の国々には、
邪馬台国政権は、特に一大率を設置して監視している。

諸国は一大率を畏れ憚っている。

邪馬台国政権は、一大率を、邪馬台国首都の伊都国において常に統治している。

一大率は、中国における刺史のようなものだ。
758日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:32:34.69
>>865
>中国史は九州王朝など微塵も考えていません <

梁書以前の中国史書は、大和の事など、微塵も考えていません。
梁書の扶桑國が最初。
759日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:33:13.30
>>756
通らないと言うと、どうして認めるのとになるんだ?
清白か?
760日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:33:17.47
『日本国王 足利』

この時代でも属国?みたいに書かれているし。
761日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:35:09.65
日本に他にクシフルがないなら、
筑紫のクシフルしか候補がないな。

日向やら糸島やらとセットだし。
762日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:35:13.63
>>757

あんた凄絶な誤読してるよ
刺史は首都にはいない
763日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:35:59.21
>>761
韓国にもあるよ
764日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:36:15.40
クシフルってなに?  @阿波
765日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:36:41.01
>>870の訂正
つまり
「大和天皇家」とか「万世一系」とか「畿内」とか「大和朝廷」とか、
皇国史観そのものになる内容の投稿をしておいて、
捏造して皇国史観なんて言っていない事にして、
世間の人々をだまそうとする、
というわけだね?

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の捏造体質はひどいものだ
766日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:36:47.70
自女王國以北 特置一大率検察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

特置一大率検察 で、一大率が主語になったとすれば、
常治伊都國 は、一大率が伊都国で業務を行っていたようになるが、

その間に、諸國畏憚之 が入っていて、之=一大率は目的語のまま。
767日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:37:15.24
>>763
すげえ。どこ?
768日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:39:04.22
もう畿内説ボロボロやん
769日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:39:47.29
>>765
>「大和天皇家」とか「万世一系」とか「畿内」とか「大和朝廷」とか、
>皇国史観そのものになる内容の投稿をしておいて、

畿内説の者が皇国史観そのものになる内容の投稿をしたことは無い


いつもザラコクが嘘をついている
770日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:40:33.32
>>874
>魏志倭人伝にある倭国大乱の桓霊間160〜180年だろ
神武東征が記紀にも書いてある <

倭国大乱なんてないし、倭國亂なら3世紀始めだし、
神武東征は、二中歴に拠っても紀元前の事であるから、×。
771日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:40:37.08
書物一つを珍解釈するようなバカの集まりだから九州説なんだろうな

中国は日本の勢力がずっと畿内にあると認識している
一大卒は地方に配置される監督官

好き勝手なバカ読みで説が成り立つと思ってる程度のバカだから平気で普通なら自殺ものの恥かいても気が付かないんだろうよw
772日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:41:17.01
倭國亂なら2世紀中後半っすよ
773日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:42:22.93
>>771
>中国は日本の勢力がずっと畿内にあると認識している

畿内への道のりが記載された中国史書は?
774日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:44:00.05
なるほど一大率は伊都国には無かったわけだ。
諸国に置いた一大率に、伊都国は命令していただけ。

住吉神社が一大率と思っていたが、
壱岐や博多にあって、伊都に無いから妙だなと思っていたのが
スッキリしたぜ!!!
775日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:46:52.53
>>880
>1里=76mと測ったのは、古田武彦という人物だそうな。 地図上で測っただけだけどな。<

違うね。
古田さんは、1里は「75mから90mの間で、75mに極めて近い距離」という推定まで。
谷本さんが、周髀算経の一寸千里の法から、
千里は「76.3〜76.6km」という距離を算出された。
776日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:46:59.72
>>766
>その間に、諸國畏憚之 が入っていて、之=一大率は目的語のまま。

「之」を受けているから、次の文は之(=一大率)が主語

前の文も前々文の目的語「諸国」を受けて諸国が主語になってある
777日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:48:41.08
九州説はどんどん異常な隘路に入って行くなぁ
778日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:51:39.59
wikiでも良いから読んでみて、書いてあるでしょ

>明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として
>日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、
>天皇の臣下(全ての民の君主である中国皇帝から見て、
>その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、
>幕府の交渉は実らなかった。
779日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:52:27.21
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
780日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:53:21.92
>>881
女王之所都の邪馬壹國は「1万2千余里の不彌國のすぐ南の国だ」と【明記】されています
邪馬台国も畿内も、3世紀の史料事実に存在しない嘘つき騙し文言です
大和説キチガイが、どんなにホラを吹こうが現実は変わりません
781日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:54:17.15
>>777

畿内への道のりが記載された中国史書は?
782日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:57:47.66
>>884
>>中国の考古学者が言うには、洛陽で神獣鏡が作られるようになるのは、呉が滅んだ後、
呉の鏡職人が分散して楽浪や洛陽に行ってからだという。
魏晋の朝廷では道教は嫌われていたが、家臣にはひそかに道教を信仰していて、神獣鏡の需要は有ったらしい。
呉が滅んだのは280年の事だから、その後だね。
ホケノ山から画文帯神獣鏡が見つかっているから、ホケノ山古墳の築造時期は290年以降になるだろう。
ホケノ山の鏡は楽浪鏡と言う、楽浪郡で作られた鏡だから。 <

>このように出所も明らかでない怪情報を使って主張し、受けた反論は無視して連呼するのが
九州説というものらしい<

保存していたPCは、もうとっくに無くなってしまったが、
もう15年位前に読んだ事だよ。
783日本@名無史さん
2019/02/09(土) 18:58:38.88
>>780
>女王之所都の邪馬壹國は「1万2千余里の不彌國のすぐ南の国だ」と【明記】されています

もちろんウソ
784日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:00:15.12
>>782
>保存していたPCは、もうとっくに無くなってしまったが、
>もう15年位前に読んだ事だよ。

つまり証拠がまったく無いのだな
785日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:01:28.44
>>782
やはりアヤシゲ怪情報だったか九州説
786日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:03:02.28
>>785
畿内への道のりが記載された中国史書は?

6世紀なんだからさぞかし立派な道のり説明が残っていることだろうなあ。
787日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:04:35.42
畿内説に質問してもムダ
なんもないしw
788日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:05:30.26
本なんて読めないバカで可哀そうな九州説の為のわかりやすーい図解

「中国史の認識する日本」

用明天皇=隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ

神武天皇の後なので当然【大和】にいる

アメノタリシヒコの都は【魏志の邪馬台国と同じ】

・最初から邪馬台国は大和で【確定】してる
・一大卒は【中央から属国に派遣されて監視する役人】=【九州は邪馬台国の頃から属国】

脳ミソの足りない九州のサルでも一目でわかる現実
789日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:07:02.42
>>788
あらら。
説明放棄ですか。

畿内への道のりが記載された中国史書は?
790日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:09:27.21
畿内説は逃げまくり。

どの経路?
日本海→琵琶湖→川沿い→大和
瀬戸内海→川沿い→大和

そりゃあ記録されてるよね。
3世紀の倭人伝ですら北部九州邪馬台国までの道のりをあんなに詳しく書いていたんだから。
791日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:13:10.30
>>790
その「詳しく」書いてある記事の解釈に
百年たっても統一見解が出せなかった九州説が
頓挫して消滅したのは当然だな
792日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:14:12.86
>>791
畿内への道のりが記載された中国史書は無いのだね。
793日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:14:49.19
>>789
説明できないものは説明しなければよい
自説の根拠にしなければいいだけだ
794日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:17:10.85
>>793
え?
マジで無いんだwww

やばい
畿内説きたw



用明天皇=隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ

神武天皇の後なので当然【大和】にいる ←←← ◎神武東征 ×東遷

アメノタリシヒコの都は【魏志の邪馬台国と同じ】  九州?
795日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:18:01.67
>>792
>畿内への道のりが記載された中国史書は無いのだね。

あるが間違っている
あるいは曖昧である
だから判断材料に使わないだけ

なにか問題あるかね?
796日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:20:13.72
>>795
>あるが間違っている
>あるいは曖昧である
>だから判断材料に使わないだけ

ふむふむ。
じゃあ、畿内にアメノタリシヒコがいた根拠となる中国史書とは
存在しないわけだな。
797日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:20:33.16
>>794
ほらな、背理法で九州説の破綻が証明された
798日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:21:39.28
>>795
間違っていない。
だから判断材料に使う。

なにか問題あるかね?   @阿波
799日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:22:13.51
>>796
国内史料にあるから十分だ
800日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:24:55.12
>>798
そして、使ったあと間違いが判明して
説が死ぬ

なむあみだぶつ
801日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:28:06.27
>>796
南北より東西の長い国を海路東へ向かったら九州以外のどこかに着くだろうね
むろん畿内がガリバ型の第一候補だ
802日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:28:29.72
>>799
中国史書は
>あるが間違っている
>あるいは曖昧である
>だから判断材料に使わないだけ

そして
>国内史料にあるから十分だ

ということは、
中国史書からの、
>用明天皇=隋の時に使節を送ってきたアメノタリシヒコ
の信頼性も消滅。

まさかと思うが、
畿内への道のりは説明できないけど
神武〜アメノタリシヒコの認識だけは採用するとかの
惨めなチェリーピックしないよな?
803日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:30:17.78
>>801
だから何なんだよ
そのもわっとした適当な概念はw

日本列島のは東京までは東西に長いんだから、
北部九州倭国が東征していったら東西に長くなるのは当然だろうが。

都までの道のりを示せよ
道のりを
804日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:30:32.69
>>800
>そして、使ったあと間違いが判明して
>説が死ぬ

そして、その間違いとやらを指摘できないお粗末さ。 指摘されたいもんだ。  @阿波
805日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:32:25.06
>>906
>測ってみると1里40mになったり160mになったりするそうだが<

魏志の里記載の起点と到着点の推定が失敗であったか?、
大和説という結論先にありきのためのインチキ比定か?、だったから。
806日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:32:27.62
>>802
どうして道のりが必要なんだ?

理由は?
807日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:33:36.80
本当はホケノ山を3世紀前半に持ってきて、
箸墓を3世紀中旬にして、卑弥呼の死亡時期に該当させたい。

だが、
ホケノ山が3世紀前半だと、
魏使が確実に前方後円墳の完成形を目にしてしまう。

だからなんとなく3世紀後半くらいにしている。
もう火の車状態www

だが残念!
すぐ近くに
立派な纒向古墳群があ・り・ま・す・か・ら〜 畿内説 斬り〜〜〜
808日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:36:31.71
>>806
上手いねえ
タゲそらし

まるで
自分が火器管制レーダーを照射しておいて、威嚇接近だなんだと逆切れしている
どこかの国みたいだ


>どうして道のりが必要なんだ?
>理由は?

隋書においてすら、
壱岐対馬やらの北部九州倭国までの道のりが記載されているからだよ。
809日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:36:53.78
>>807
w
w
なにその脳内妄想
w
ww
www
810日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:38:13.19
>>907
>ホラ吹き九州説はどこにも根拠のない妄想を喚き続けるばかり<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
里数計測が「有効数字1桁程度の近似値計測」であった事を隠し、
古田さんも始めから「75m〜90m」位の範囲だ、とされている事も隠す、
インチキを喚き続けるばかり。
811日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:38:14.84
畿内説は中国史書を全面的に採用しないようです。

中国史書は
>あるが間違っている
>あるいは曖昧である
>だから判断材料に使わないだけ

>国内史料にあるから十分だ
筑紫の日向から神武東征  ×東遷
812日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:38:43.97
>>808
理由がないなら
反論として成り立たない

当たり前のことだ


はい、つぎの患者さん、どーぞ
813日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:40:24.96
先入観に囚われ過ぎ

博多は元々奴国
一世紀半ばに伊都国が建国されてから伊都国領
魏志倭人伝当時は伊都国領だが、一大卒の拠点
814日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:40:44.71
>>808
>隋書においてすら、
>壱岐対馬やらの北部九州倭国までの道のりが記載されているからだよ。

そして・・・通り過ぎた

そして
九州説は死んだ
815日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:42:17.90
>>812
おいおい
逃がしてもらえると思ってんの?
みんな見てるぞ。

隋書にすら北部九州倭国までの道のりが書かれているのに、
畿内への道のりは不明なまま。

それが理由だ。
816日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:42:17.71
>>909
>やっぱ九州説の主張1里76.5mはそれっぽく見せる値でも何でもなくて
適当に思いついたとか何かの語呂合わせとかそういった数字の可能性があるな
無意味な嘘で人を引っ掛かけて喜ぶ腐れ儒教的幼稚さの表れかも知れない <

谷本さんが、周髀算経の周地付近と南北千里地点での二つの一寸千里から、
「千里は76.3kmと76.6km」の二つの計算値を示された。
817日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:43:23.94
>>814
通り過ぎて、どうやって畿内に行ったのかな?
818日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:45:17.11
まあ、六世紀時点で日本の中心地が畿内じゃないと主張するひとが
どれだけ特殊か
冷静になってじっくり反省してみることだな
819日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:45:29.18
>>756
>それでは、「クシフル」という呼称が古い、という事を認めるんだな?。

クシフルという読みは、古事記の竺紫日向之高千穗之「久士布流」多氣 で分かるが、
これが記紀編纂時の伝承というところまでだ

明治時代から見たら古いが、それが明治まで伝わっていた様子が事実上ない
伝わっていたら、ウツギがクシフルの訛りなどという話にはなりようがない
820日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:45:48.70
>>915
何も理由を言わず、ただ「南→東」などの嘘つき騙しを連呼する大和説は
もはや説ではないな
821日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:46:29.41
まあ、三世紀時点で日本の中心地が北部九州じゃないと主張するひとが
どれだけ特殊か
冷静になってじっくり反省してみることだな
822日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:46:58.55
>>815
>隋書にすら北部九州倭国までの道のりが書かれているのに、

書かれてると思ってるの?
北部九州倭国とやらが?
823日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:48:37.04
>>822
出た出たタゲそらしw

北部九州までの道のりが詳しく書かれているのを薄めるために、
北部九州倭国をついてタゲ逸らし


はい、どうぞ

隋書にすら北部九州までの道のりが書かれているのに、
畿内への道のりは不明なまま。
824日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:49:08.38
>>817
十数国を過ぎて、さ

つまり、隋書はざっとしか説明する気がない
そんな経路で都を特定することをマストにする頭がおかしいって
825日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:49:14.37
>>752
>>古事記:竺紫日向之高千穗之「久士布流」多氣
 日本書紀本文:「槵日」二上天浮橋立
 一書:
 筑紫日向高千穗「槵觸」之峯
 日向「槵日」高千穗之峯
 日向襲之高千穗「槵日」二上峯天浮橋
 日向襲之高千穗添山峯<

>これだけでも「クシフル」の古代の固有の漢字表記名がなかった、という事が判る。

これが明治まで伝わっていたなら「槵觸」が標準表記になるだろ
クシフルという地名は明治まで伝わってないんだよ
826日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:49:57.15
>>824
十数国で、どこまで行けるの?
827日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:51:02.13
>>823
>出た出たタゲそらしw

じゃなくて、アンタの論理の欠陥だと気づけよ
828日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:52:15.86
なんで喧嘩してるんだ?

北部九州倭国が3世紀には朝鮮半島南部をがっつり支配していて、
その子孫が畿内で日本国を立ち上げたって話だろ。

日本人は誰も損しない、得する話じゃん。
829日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:53:13.71
>>826
曖昧にしか書いてないんだから
曖昧にしか解るまいよ

道のり至上主義なんて誰も相手にしない
830日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:53:41.59
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?
831日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:54:50.74
>>828
学問は損得じゃないんだよ

九州説には分かるまいが
832日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:54:53.07
>>827
隋書にすら北部九州までの道のりが書かれているのに、
畿内への道のりは不明なまま。

論理も何も、単なる事実なんだが。
あんたに指摘されて読んでみて、改めて驚いた。

>>829
じゃあ、7世紀になっても本州以東は暗黒列島のままだったのか?
新しい地理上の発見があったら知識として記載するだろう。
833日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:56:26.69
>>831
じゃあ、狗邪韓国は倭人領土だよな。

損得じゃないもんなー
834日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:57:00.46
>>823
九州説はが正しいから九州説はが正しい
という循環論法の典型ですな
835日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:57:49.60
>>761
>筑紫のクシフルしか候補がないな。

今話しているのは、筑紫のクシフルとやらに根拠がないってことなんだが?
ウツギやクヌギがクシフルの訛りって、通ると思うか?

そして、クシフルという名前そのものは残ってなかったということの証明でもある
836日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:58:35.45
>>833
根拠は?
837日本@名無史さん
2019/02/09(土) 19:59:16.95
>>834
とうとう議論の流れを無視してきましたか。

隋書にすら北部九州までの道のりが書かれているのに、
畿内への道のりは不明なまま。

こんな単純な質問に対して、
>九州説はが正しいから九州説はが正しい
>という循環論法の典型ですな
とわ、
まったくの見当違いのタゲ逸らし

かの国と同じですなあ
838日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:00:05.42
>>816
魏の1里は441mだがな。
839日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:00:30.54
>>931
>大倭王を日本の訓みではおおやまとおう<

大倭王は、范曄が九州倭国の王に対して呼んだ呼称。
大和の訓みなど、関係なし。
840日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:01:00.39
>>835
>そして、クシフルという名前そのものは残ってなかったということの証明でもある

残っとるじゃん
841日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:01:08.39
>>832
>じゃあ、7世紀になっても本州以東は暗黒列島のままだったのか?

なんで道のりが書いてないと暗黒列島なんだ?
道のり至上主義で脳がヤられてるのか?
842日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:02:48.05
>>836
え、どっちなん?

狗邪韓国は倭人領土?

それともまさかの韓人領土?

損得じゃない畿内説さん
843日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:03:42.29
日本人、日本人が〜と言ってるのがいるけど、
正確には、お前は日本人ではないw
844日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:03:53.55
>>807
ホケノは3世紀中頃だろ。
845日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:04:20.72
>>837
>隋書にすら北部九州までの道のりが書かれているのに、
>畿内への道のりは不明なまま。

それの何が悪いの?と聞かれて答えられない不明なあなた
問題の所在が不明というより、問題が発生していない
846日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:04:43.73
>>841
隋書に道のりが何も記載されていないならそれでよかったが、
北部九州までの道のりは相変わらず詳述されている。

じゃあ、
新たに畿内に都があるのなら、
そこまでの道のりは新知識として書かれることになる。

この点について屁理屈いいたいならどーぞ。
どうせ畿内説の信用なんて地に落ちていて、
あとは地獄にでも落ちるくらいしか落ちようが無いしw
847日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:06:55.38
>>842
あのなあ
韓国と、名前にあるんだが
848日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:07:54.71
>>800
>そして、使ったあと間違いが判明して
>説が死ぬ

そして、その間違いとやらを指摘できないお粗末さ。 指摘されたいもんだ。 
おそ松さん、指摘はないの?   @阿波
849日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:08:27.62
>>844
ほらねw

魏使に見られたら前方後円墳が記載されていないから詰む。
魏使に見られないギリギリまで新しくして、箸墓卑弥呼の可能性を残そうという企み。

纒向古墳群はそうだな。
場所が離れているし、滅ぼされた別の氏族の墓制として説明した、
というストーリーなんだろうな。
850日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:08:38.65
>>776
>前の文も前々文の目的語「諸国」を受けて諸国が主語になってある

その部分、テキスト毎に異同があって
自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
の二つ目の諸国が紹興本にはあるが紹煕本にはないんだよ
851日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:10:07.21
>>847
ふむふむ。

ここまでずっとあれこれ見苦しいタゲ逸らしを繰り広げていた畿内説さんの答えが
これですな。
852日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:10:15.17
>>846
>新たに畿内に都があるのなら、
>そこまでの道のりは新知識として書かれることになる。


なんで?

都は魏志倭人伝の頃から畿内だが?
853日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:10:39.67
倭人=日本人だと言ってる人がいたり?
そう思っている?ようだけど


実際は朝鮮人、韓国人だろう、
どちらなのかは、わからないw
854日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:12:50.74
>>853
畿内説の工作 いただきましたー

一見すると、意味不明文章の書きこみに見えるが、
微妙に意味が通ってるーwww

これが畿内説のホンネでっす!


本国からの指令で
狗邪韓国を絶対死守
855日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:12:52.00
>>849
>魏使に見られたら前方後円墳が記載されていないから詰む。


どうして?

理由は?
856日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:12:54.01
>>933
>古事記と日本書紀では、地名人名の対応関係がはっきりと分かる
例えば 古事記  大倭 日子鉏友命  日本書紀 大日本彥 耜友天皇
古事記では「倭」にふりがなや読みの指定は付いていないが
日本書紀では「日本」の初出時に、 廼生大日本(日本、此云「耶麻騰」。下皆效此)とあり
万葉仮名表記で「耶麻騰」ヤマトと読むことが明記されている
古事記で「倭」に読み指定が付されていないのは、ヤマトと読むのが自明だからだろう<

古事記も書紀も、九州倭國の存在を隠蔽盗用造作した半分×書である事は共通しているが、
その半分×の程度は、
古事記がついうっかり九州倭国の存在を示す文言を残してしまっている事があるのに反して、
書紀は、かなり徹底して九州倭国の存在を隠蔽盗用造作している、と言うん事が実態。
従って、ここでも「大倭」の方が信頼性が高い。
857日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:14:42.92
>>855
完成形の前方後円墳を目の当たりにしてしまうから。

そして、狗邪韓国が倭人領土だから
858日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:14:44.38
『倭猿』というのは何なの?
859日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:15:35.79
>>840
>残っとるじゃん

古事記や日本書紀は伝世してるよ
でも北部九州の高祖山塊にクシフル岳があったと確認できる伝承は残っていない

クヌギやウツギのどこがクシフルの訛なんだ?
860日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:15:43.64
>>850
つまり目的語が次の主語になる
という流れが続いてますな
なにも不自然がない
861日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:18:05.16
>>669
>早良平野の海岸の姪浜が、天照とスサノオとツキヨミの生誕の聖地であり、

これは知りませんでした。

>>742
>一大率が置かれているのは諸國であって、
>伊都国でそれを制御している、と読める。

つまり伊都国が王都で、一大卒はそこから諸国を巡っていたんだよ。
水戸黄門みたいな感じ?
862日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:18:25.46
>>858
畿内説の本国で、なぜか日本人を『倭猿』と蔑視している。

国旗を燃やしたり。

で、日本ではちょっとでも琴線に触れたらレイシスト呼ばわり。

畿内説は九州説を九州サルと呼ぶ。
863日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:19:21.95
頭の病院に行けと言っているんだよ

例えば『右翼』
画像を調べてみて、ゴキブリの集団だろう
864日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:20:57.36
どこの低脳なんだ?と聞いているんだよ
865日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:21:43.83
>>851
>ここまでずっとあれこれ見苦しいタゲ逸らしを繰り広げていた畿内説さんの答えが

「タゲそらし」とか他人が思うような指摘、あなた出来てないでしょ?
だって何が問題なのか、あなたぜんぜん説明できないじゃない

まさに的はずれ
866日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:22:14.89
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

北部九州邪馬台国より以北は、一大率を特別に設置して、諸国を監視している

諸国は一大率を畏れ憚っている

一大率は必ず伊都国において統治している

中国における刺史のようなものである


なんにせよ、
諸国を従えている時点で伊都国が主。
867日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:24:27.18
>>865
またもわっときたねえ。

狗邪韓国が倭人領土

これでいいんだね?


結局、中国史書に畿内への道のりが書かれていないんだね。
これも結論。

違うと言うなら道のりを示してね。
868日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:25:04.95
>>936
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説バカらが、
自分のバカさをドンドン暴露してますし、
更に、半島人への敵対的な蔑視差別の投稿にエスカレートして、
国民に、半島人への「殺し合い戦争」を起こさせよう、とするアジ投稿に変質させていますね。

この風潮は怖いですねえ。
政府も国会もマスコミも、タカ派の戦争狂ばかりですから、
こりゃ、また突然戦争を起こしますね。
869日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:26:17.41
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

倭(九州)以外は小島だから、本州は認識されていなかったらしいw

>>828
>北部九州倭国が3世紀には朝鮮半島南部をがっつり支配していて、
>その子孫が畿内で日本国を立ち上げたって話だろ。
>日本人は誰も損しない、得する話じゃん。

キナイコシは日本人ではない疑惑
870日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:26:50.52
刺史だって、刺史という役人は諸国に散っていたが、
それを統括していたのは都の大臣だろ。

同じことだ。

一大率の役職人は諸国に散って監視していたが、
それを統括していたのは都である「伊都」の大臣。
871日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:28:08.21
>>867
>狗邪韓国が倭人領土

なんで?
理由は?


>結局、中国史書に畿内への道のりが書かれていないんだね。
>これも結論。

答えるのは2度目だが
道のりは書かれている
しかし曖昧にしか書かれてあない
872日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:28:26.16
>キナイコシは日本人ではない疑惑

日本人じゃない人がテンプレを作っているのか。
873日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:28:36.68
自女王國以北特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

女王国から北には特にひとりの大率を置き検察させ、諸国はこれを恐れ憚った。
(大率は)常は伊都に治し、(倭国の)国中にあっては刺史の如しである。
874日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:28:40.29
どこの低脳なんだ?
875日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:30:05.29
>>871

後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

狗邪韓国は倭国領。
876日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:30:43.42
>>870
>刺史だって、刺史という役人は諸国に散っていたが、
>それを統括していたのは都の大臣だろ。

証拠は?
877日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:31:30.97
>>942
>古事記で「倭」に読み指定が付されていないのは、「ヤマトと読むのが自明」だから<

自明でもない。古事記は書紀ほど徹底していない。

>古事記の倭と対応する日本書紀の日本をヤマトと読むのはフリガナで確認できる<

書紀は、「倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作」する程度が、古事記よりもはるかに強いからm
×の程度が高くて、信頼性が全くない。
878日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:31:31.40
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
879日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:33:08.92
>>876

三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ

刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。
役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。
880日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:33:11.48
隋書の道順とかバカが喚き続けているが

「魏志の邪馬台国と同じ」

つまり魏志で説明してると言うスタンス
中国史は前例のあるものはイチイチ書かずに同じ記録を踏襲していると書く

その上で用明天皇をアメノタリシヒコが同じとしている

つまり、【邪馬台国の頃から都は大和である】と中国は記録していると言う事

はい、おバカさん
また一つお利口になりましたね
881日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:33:33.45
隋書の裴世清の経路は
度百濟,行至竹嶋,南望𨈭羅國,經都斯麻國,迥在大海中。
又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以爲夷州,疑不能明也。
又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。
俀王遣小コ阿輩臺,従數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。
後十日,又遣大禮,哥多毗,従二百余騎郊勞。既至彼都,其王與清相見,

これを見ても、又東至一支國,又至竹斯國と、大陸史書は平気で
方角を間違えているというのが分かるなw
又經十餘國,達於海岸。で、畿内の海岸まで来ている

小コ阿輩臺が大河内直糠手
大禮哥多毗が額田部連比羅夫

そして、既至彼都,其王與清相見で、
畿内大和まで来てるよ
882日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:33:38.02
だから、どこの池沼なんだ?と聞いているんだよ
883日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:33:52.72
>>876
どうとも読めるということだ。

伊都が都なら、そのまんま。
884日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:34:09.21
>>875
これ、訳がおかしいよね
出典は?
885日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:36:42.94
>>882
奈良湖を知らずに畿内説テンプレを作成した
日本人じゃないキナイコシ

>>884
日本人じゃないキナイコシが必死の防衛w
886日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:36:52.54
道順の話を更に言うなら

魏志の邪馬台国=用明天皇(アメノタリシヒコ)の都

と言うのが中国の通しての理解
なので「倭人伝の道のりも当然大和への道のりを示している」と言う事

バカ九州説のバカ読みなど存在しないとハッキリ書いてるのが分かる
887日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:37:07.89
>>880
はいはい、その魏志倭人伝の邪馬台国の位置ですよ。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。


あと、用明天皇の諡号はタリシヒコではなく、タチバナトヨヒだよ。
888日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:38:11.17
>>943
>ロトちゃんというキャラの住んでいるところも、
川崎区の南部のほうだしな・・・、家(『松傾』?)も川崎区の南部のほう<

この「川崎区の南部のほう」という意味が、最近報道があって、確認出来た。
やはり、この大和説男も、
半島人差別での、殺し合い戦争の宣伝をするキョクウの・・・・であった。
大和説者って人種は、結局ほぼ全員、喧嘩っ早いタカ派の・・・・キョクウであったようだ。

怖い、怖い。
889日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:38:36.55
>>879
だから何?
890日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:39:03.42
ついでに後漢書ももう一度貼ってやるから、じっくり読め。
891日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:39:24.58
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
892日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:39:44.54
逆に言うなら都なりなんなりが変わってるなら書く

【ずっと変わってないから】【魏志と同じ】で済むわけだ

このスタンスから見てわかる通り九州王朝など最初から影も形もないのが明白
キチガイの脳内妄想なのがよく分かる

アホは史書なんて読んだことも無いから初めから明記してる事が分からないでバカ丸出しの事を叫び続ける
893日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:39:48.16
>>886
だから畿内大和への道のりを教えてよ。
日本人じゃないキナイコシさん。

なんで倭人領の狗邪韓国から
北部九州までの道のりはあれこれ詳しく書かれているのに
畿内までの道のりはわからないの?

せめて日本海経由か、瀬戸内海経由か、くらいは知りたいよね。
894日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:40:31.99
謎の刀の話とか〜〜〜〜家の老婆の話でしょ、
住んでいるところは川崎区の南部のほうw
895日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:41:56.22
>>889
大率(刺史)は中央官僚だということ。
お目付けとして都から諸国を巡っていた。
魏志倭人伝では、伊都国に置かれてそこから北の対馬海峡を検察していたとある。
それは、伊都が王都であったということ。
896日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:42:36.50
>>883
読めないんだよ
都には刺史はいない
地方にいる

当然ながら地方に派遣した官を中央政府が「治」したりしない
897日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:42:38.54
むかーし住んでいたというところがあるんだけど、
伊達郡というところの・・・と言っていたり、たしか山があって・・・。
898日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:43:00.28
>>944
>>日本はにほん これをヤマトと読ますのは日本書紀の創作やろ<

>またウソを付いてるw
「日本」は「倭・ヤマト」の別表記として新たに作られた国号
読みは変わらずにヤマトだよ<

いや、「日本をヤマトと読ます」のは、書紀のインチキ騙しだよ。
そして、この類スレ主も、
半島人差別での、殺し合い戦争の宣伝をするキョクウの・・・・であって、
結局、喧嘩っ早いタカ派の・・・・キョクウの一人であった。

怖い、怖い。
899日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:44:56.23
どこの基地外なのか知らないけど、
はやく頭の病院に行ったほうが良いぞ
900日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:45:21.09
>>887
>対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

どうして?
901日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:46:02.64
>>896
地方に派遣した官を中央政府が「治」すからこそ、
諸国が畏れ憚るんでしょうが。
902日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:46:07.17
>>892
>【ずっと変わってないから】【魏志と同じ】で済むわけだ

旧唐書までは中国が相手にしていたのは一貫して九州北部の政権だったということ。
そして新唐書においてはじめて倭の東にある分家である日本国が登場し、倭を併合したことが説明されている。
903日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:47:39.13
池沼を相手にしているヒマなんてないんだよ、
頭の病院に行け
904日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:48:24.23
>>891
だから何?

九州さんは自分の主張の根拠を
まったく説明できないな?
905日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:49:11.07
>>903
呟きはキナイコシの第二の人格なのか?
906日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:50:24.84
>>884
>これ、訳がおかしいよね

>>875は工作員レベルで何度間違っていると指摘されても
同じことを繰り返しコピペする確信犯だよ
ウソも100回の価値観の人

>出典は?

訳自体は>>875の自分訳だと思う
「楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である」の部分
前は
「楽浪郡の国境は、邪馬台国から一万二千里である」と嘘を書いていたし
ウソだと指摘されてからはしばらく
「楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である」って書いてた

(の王都)を補う時点で「無理読みの捏造」と何度注意しても直さない
典型的な「結論ありきに合わせてインチキ読みする九州説」だよね
907日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:50:38.59
そのキナイコシというのは何のことなんだ?
908日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:50:57.94
>>946
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説バカの、
半島人差別ヘイトスピーチの殺し合い戦争アジテーションのバカ発言の連発に、
また殺し合い戦争を強制させられるのか、という恐怖が止まん。
909日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:51:15.32
>>901
>地方に派遣した官を中央政府が「治」すからこそ、
>諸国が畏れ憚るんでしょうが。

地方に派遣した官を中央政府が「治」した
という根拠は?
910日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:53:19.11
>>904
理解したくないだけだろ。
大倭王がいた邪馬台国は九州上陸から二千里以内。
それも、対馬海峡が三千里の縮尺でだ。
その中でも伊都に置かれた大率が周辺国を支配する機構であったことが書かれている。
911日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:54:18.70
>>895
>大率(刺史)は中央官僚だということ。

大率(刺史)が中央官僚だ、という根拠は?
912日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:54:18.86
そろそろキナイコシの言い逃れの余地がなくなってきた。
913日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:55:13.57
低脳を相手にしているヒマなんてないんだよ、
ただ、おもしろいから書き込みをしているだけだと書いたはず。

ちなみに住んでいるところは神奈川県の川崎・・・・・・・w
914日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:55:46.44
>>901
>地方に派遣した官を中央政府が「治」すからこそ、

ここの「治」は、治所の意味だよ
一大率の治所、つまり一大率の拠点、今の言い方なら役所が、
常(普段、通常)には伊都国にあった、ということ

常でないときは、といえば諸国を検察していたのだろう
915日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:57:42.36
刺史 wikiより引用

刺史は前漢武帝が紀元前106年に全国に十三州を設置したのと同時に設置された。
元々、州の設置理由は現地の官僚が豪族や商人たちと密着し、その犯罪を見過ごすことが多発したためにそれを監察するためのものであり、刺史も純然たる監察官であった。
916日本@名無史さん
2019/02/09(土) 20:58:37.39
>>910
>大倭王がいた邪馬台国は九州上陸から二千里以内。

二千里あれば博多湾岸から畿内迄着きますが?


>その中でも伊都に置かれた大率が周辺国を支配する機構であったことが書かれている。

そんな機構は都に置かれませんね
刺史は地方に置かれる州統括官です
917日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:00:41.00
>>902
>旧唐書までは中国が相手にしていたのは一貫して九州北部の政権だったということ。
>そして新唐書においてはじめて倭の東にある分家である日本国が登場し、
>倭を併合したことが説明されている。

旧唐書と新唐書で描かれている時代は同じなんだが?ww
旧唐書にもしっかり日本国伝がありますがなww

この人はこんなデタラメな知識で、書き込みができるってところが、ある意味スゴいw
無恥は強いわww

そして、旧唐書の倭国伝に書いてあるのは、魏志倭人伝以来の倭国伝承と
隋書の裴世清の畿内訪問だけ

旧唐書の倭国も大和朝廷だよw
918日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:01:32.93
後漢に入った42年、光武帝が再び刺史に名称を改め、
さらに特定の治所を持たず領内を巡察していた前漢の制度を改めて、
州の中に治所を持つようになり毎年8月に諸郡を巡察することとした。
919日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:01:40.46
>>885
>奈良湖を知らずに畿内説テンプレを作成した
>日本人じゃないキナイコシ

九州説は無知すぎる
テンプレ読んでないだろ
地図が載ってるぞ
920日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:02:04.57
>>964
>九州を中心とする国であったはずの倭(ヤマト)を、
畿内を中心とする日本の読みにすり替えたことこそ、日本書紀の歴史歪曲詐欺だな。 <

ほぼ賛成。
921日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:02:14.05
>>917
で、畿内に行った記録は?
922日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:03:01.10
>>916
>二千里あれば博多湾岸から畿内迄着きますが?

対馬海峡が三千里なので、二千里では瀬戸内海を通過できませんよ。

>刺史は地方に置かれる州統括官です

地方を検察するけれど、本来の立場は不正などを報告する中央官僚です。
923日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:04:19.08
>>966
「南→東」などの嘘つき騙しの、
こんだけバカ晒して恥かいても、恥と思わないんだから、
大和説異常者の脳ミソは凄いな

まぁこのくらいのバカじゃないと大和説なんてほざけないわな
924日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:04:31.52
このスレッドの話じゃないんだけど、
ワイン(酒)が〜と言ってる人がいたり

『松傾』

ろと(ろーと)の剣、ろとの盾・・・?
925日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:05:32.09
各州の中に治所を持つのが刺史(地方官)
926日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:05:37.40
これはヤバいな。
狗邪韓国だけじゃなくて投馬国も絡んでいる。
日本人じゃないキナイコシは必死でのたうち回るぞ。

だがそれだけではない。
ハニートラップ。
金銭授受。

お堅い歴史学と思いきや、領土問題に直結しており、
学問の聖域として日本の公安の目が届かないお偉方が絡めとられている可能性も高いぞ。

〇国に何度も渡航している学者はもう・・・
927日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:05:49.52
>>922
>対馬海峡が三千里なので、二千里では瀬戸内海を通過できませんよ。

海峡の幅が正しいという理由は?


>地方を検察するけれど、本来の立場は不正などを報告する中央官僚です。

中央官僚だという根拠は?
928日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:08:34.01
刀とか鏡とか、
そういう話をしているんじゃないの?
どこの低脳なんだ?
929日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:08:33.79
>>927
倭人領の狗邪韓国

倭人領の狗邪韓国

倭人領の狗邪韓国
930日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:09:19.34
>>910
>大倭王がいた邪馬台国は九州上陸から二千里以内。

短里などないから、1里435メートルの魏晋里で、北部九州から2000里は870キロ
畿内まで軽く届くよ

>それも、対馬海峡が三千里の縮尺でだ。

これがウソだと何度も教えているのに、「見ない聞こえないにだ」で逃げ回って、
間違いをウソも100回の精神で書き続けるww

対馬海峡の距離が測れない・測る手段がないから、渡海が一律で千里とされているんだよ
実際の距離との縮尺は成り立たないし意味がない

短里を知っている人も使う理由のある人も、3世紀の東夷にはどこにもいない
公孫氏は漢人だから漢尺を使う
帯方郡の役人は魏朝の役人だから魏尺を使う
土地の人は里を知らず測量手段を持たない

土地の固有の距離尺度がもしあったとしても、
その場合「里」と同じ文字で注釈なしで書かれることはない

短里説は根本から成り立つ余地はない
931日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:12:17.65
>>930
だからさ
短里とか長里とかの問題じゃなくて
畿内までの道のりを説明する中国史書なんて、ぜんっぜん無いじゃん。
わかる?韓国の人キナイコシ?


倭人領の狗邪韓国に

一大率を派遣して

北部九州邪馬台国の首都である伊都国からしっかりと政治してたんだなあ。
932日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:12:22.31
『デスラー』

どのスレだったかな、
なぜか数年前のKPOPスレ、

酒のようなものでしょ?
温泉〜、アイス〜と言ってる人がいたり

韓国が〜〜好き〜なのかw
応援しているのか?とか
933日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:13:23.22
>>929
ちなみに狗邪韓国が倭人領だとか言ってる歴史学者はゼロ人
934日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:14:35.45
>>921
>で、畿内に行った記録は?

>>881に隋書の行程全部引用して説明してあるだろ?
一行書き込みで逃げてないで、不満があるならきちんと
隋書のどこの記述に文句があるのか、「具体的に引用して反証してみせる」くらいしなよ

それができないなら、ただバカをさらしているだけだぞw
935日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:16:00.41
>>931
ないって証拠は?
936日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:17:22.28
>>934
いやー
その記述でどうやって畿内大和に行けるのかねえ?

よっ!
日本人じゃないキナイコシ!


>>933
キナイコシの一派が暗躍してるんだね
937日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:17:51.54
>>922
>対馬海峡が三千里なので、二千里では瀬戸内海を通過できませんよ。


日本海経路だから瀬戸内海は通らないよ
水行20日+10日で丹波まで行ける

縮尺を考えるのは、対馬海峡の3000里が実測値ではないから無意味

>地方を検察するけれど、本来の立場は不正などを報告する中央官僚です。

中央からの地方派遣官だぞ?
首都にはいないよww
938日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:19:06.39
>>979
こうやって、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、
半島人差別の敵対的な宣伝は、
「反大和説」の良心的常識的な国民も、いつの間にか戦争狂に変えられて、
あっという間に、殺し合い戦争に参加させられてしまうんだろう。
939日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:19:48.75
>>936
行けないという理由は?
少なくとも九州は確実に通り越してるが?
940日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:20:11.15
>>929
>倭人領の狗邪韓国

国名としては狗邪国、のちの伽耶
倭人も住んでいただろうが、倭人国だったら狗邪倭國と書かれるのが正しいことになる
941日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:20:11.09
>>935 だったら中国史書で書いてある 畿内大和への道のりを記載すれば一発解答じゃんw


狗邪韓国は倭人領
942日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:22:46.94
>>684
世の中には、物知りはいるもんだな。
ヤフーブログ「魏晋時代の度量衡」と題する一文の肝心の部分は、おおよそ次の通りだ。

「数学家の劉徴は、景元4年、王莽の計測器具1尺は、魏の時代の尺度で九寸五分五厘に相当するとした。
劉徴は、魏の1尺は現在の24.19cmとしたのだが、10年後の泰始9年に、中書監荀勗は音律の調査中に、魏の尺度は莽尺の23.1cmに比べ四分余り長くなっていることを発見した。
これは、劉徴の判断と一致している。
このことは、出土している「正始弩尺」1本、「魏杜○尺」5本のサイズが24.12cm〜24.255cmであることと、劉徴が示したこととはほぼかわらないことを証明している…。
つまり、魏時代の尺は、24cmちょっとであり…」

以上からみても、魏の1尺24.2cm×1800尺=435.6mであり、1里76mということは有り得んよ。
943日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:23:05.89
>>938
明らかに政治思想で歴史を歪めてるのは九州説じゃないか
944日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:23:26.21
キナイコシが狗邪倭國の防衛に必死で
正体を現しましたーーー(鼻ホジ



狗邪韓国は倭人領
945日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:23:41.16
北部九州は倭人伝の倭国は確かだな
畿内は曖昧だな
946日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:23:46.12
>>931
>畿内までの道のりを説明する中国史書なんて、ぜんっぜん無いじゃん。

>>881に隋書の行程全部引用して説明してあるだろ?
一行書き込みで逃げてないで、不満があるならきちんと
隋書のどこの記述に文句があるのか、「具体的に引用して反証してみせる」くらいしなよ

それができないなら、ただバカをさらしているだけだぞw

>わかる?韓国の人キナイコシ?

そうやっていくらごまかしても、ザラコクも連続句読点も、九州説の方が
半島パヨク系の思想が背景にある、歴史とは関係ないプロパガンダなんだよ

>>931が半島系の背景を持つ人なんだろ?
バレバレw
947日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:24:59.98
>>937
>縮尺を考えるのは、対馬海峡の3000里が実測値ではないから無意味

苦しいw
理屈になってないw

>中央からの地方派遣官だぞ?

マイ定義を振り回さないように。
地方を検察する中央官僚です。
948日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:25:49.84
>>942
その荀勗が陳寿の上司な
949日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:26:37.40
>>982
>日本書紀の「日本・ヤマト」は、古事記の「倭・ヤマト」の書き換えであることが明確
古事記  大倭 日子鉏友命
日本書紀 大日本彥 耜友天皇
これで、「倭ヤマト」が「日本ヤマト」じゃないって言えちゃうのが九州説の嘘つきなんだよな <

私は、8世紀の大和は漢字の書き読みが出来た筈だから、書かれた通りに、
「大倭」は「ダイワ」、「大日本」は「ダイニホン」と読んでるよ。
「オオヤマト」と読ましたいのは、
書紀の作者や後の大和の注釈者だけなんじゃないのか?。
950日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:27:03.16
投馬国五万戸も倭人領。。。


日本人じゃないキナイコシが作ったテンプレ
951日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:27:19.17
>>946
>そうやっていくらごまかしても、ザラコクも連続句読点も、九州説の方が
>半島パヨク系の思想が背景にある、歴史とは関係ないプロパガンダなんだよ

根拠のない決めつけはやめろよ。
952日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:29:22.06
>>947
>マイ定義を振り回さないように。
>地方を検察する中央官僚です。

中央官僚だという根拠は?

マイ定義以外で答えてね
953日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:30:15.70
キナイコシ

「ちなみに狗邪韓国が倭人領だとか言ってる歴史学者はゼロ人」
954日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:33:30.57
>>951
明らかに根拠あるんでないか?
右左はともかく強烈に思想的な色メガネ人間なのは明々白々
955日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:33:31.04
観たことないから知らないけど、
『宇宙戦艦ヤマト』でいうとデスラーのほうが上の存在なんだろう、
その後、ヤマト達の仲間になり?
956日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:34:48.81
>>936
>その記述でどうやって畿内大和に行けるのかねえ?

だから、一行書き込みで逃げてないで、不満があるならきちんと
隋書のどこの記述に文句があるのか、「具体的に引用して反証してみせる」くらいしなよ wwwww

又經十餘國,達於海岸。で、畿内の海岸まで来ている

これは日本書紀の推古紀に
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世C・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世C等。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、
安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
とあるのに対応している

この、爲唐客更造新館於「難波高麗館」之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于「難波津」と
いうのが隋書の「達於海岸」の実際の場所だよ

大陸史書と倭國の史書で、固有名詞まで対応が取れているのに、認めないにだって
意味もなくわめき続けるのが九州説

無恥は最強だなww
日本人なら恥ずかしくてできないんだが、道徳的優位にあると確信していれば
どんな嘘でも平気で声闘に持ち出せるのが半島文化なんだよなw
957日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:36:50.50
>>984
>>楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。<

>「(の王都、邪馬台国)」というインチキを止めれっていうのに何度も嘘っぱちを書き続ける
この「ウソも100回」の価値観が九州説の根底にある <

この類スレ主も、・・・・だな。
後漢書は、計測記録する使節が往来していないんだから、
魏志の萬二千余里と七千余里を踏襲した事は自明であり、
倭国も邪馬臺國も、魏志の倭国や女王之所都のつもりで書いている事は、自明ではないか。
958日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:37:06.26
九州説は右翼レイシストと北朝鮮シンバ過激極左のヘンテコな野合
959日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:39:57.58
>>947
>苦しいw
>理屈になってないw

それを「具体的に論証」しないと無意味だと何度教えてもダメだなwこの人はww
まあ確信犯なんだろうがw

渡海距離は測定手段がないのだから、この数値と現代の地理情報とを
照らし合わせた「縮尺」には何の意味もない

倭國上陸までの距離が、萬里に「設定」されているだけだから、
現実の地理との対応は最初からないんだよ
960日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:43:24.76
>>987
>モモソヒメ以外でも
古事記  倭 建命
日本書紀 日本武尊
その他いくらでも倭と日本の対応は見て取れるだろ
倭をヤマトと読んだ証拠がないとかいうのは無理筋どころじゃないぞw<

「倭建命」は「ワケンの命」と読めばよいし、
「日本武尊」は「日本の武の尊」と読めばよい。
そうすると、「倭建命」は、
九州倭国の部将という身分呼称であった、という可能性が出て来る。
961日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:45:15.98
>>949
>私は、8世紀の大和は漢字の書き読みが出来た筈だから、書かれた通りに、
>「大倭」は「ダイワ」、「大日本」は「ダイニホン」と読んでるよ。

その漢字の読み書きのできる大和朝廷の人が、日本書紀の冒頭で
廼生大日本(日本、此云耶麻騰。下皆效此)と、
「日本は耶麻騰ヤマトと読む、以下全部ヤマトと読む」と明記されているんだよ

ダイニホンではなく、オオヤマトと読むと明記されている
対応する古事記の大倭表記も同じくオオヤマトと読むんだよ
962日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:46:41.24
>>951
>根拠のない決めつけはやめろよ。

見てりゃ分かるだろ?ww
>>951>>953も同類w
963日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:47:04.08
>>666
@阿波が言うように、徳島矢野遺跡の弥生後期遺跡から小型丸底壷(鉢)が出ているということだから、ホケノ山の小型丸底壷がその模様などから3世紀中頃とできるとする意見に従うのはおかしくない。
小型丸底壷があるから4世紀だとするのは、どうかだな。
964日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:48:50.17
実測したと考える人達は古代の計測の方法を本当に可能かどうか試してみたらいい
とりあえず次の夏至には八尺棒を立てろ
965日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:50:10.60
>>997
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が喚き散らす妄想が、
こうしてまた潰えたと
次はどんなほらを吹いてバカを晒すのか楽しみだ
966日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:51:55.36
何でそんなに、我田引水、自分の地元(九州)に我田邪馬台国をやりたいのよ?

邪馬台国は、新幹線じゃないんだぞ。

とにかく大きい声を出して、邪馬台国を自分の地元に誘致する。

はっきり言って無意味。醜悪。加齢臭が漂って来るよ。
967日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:54:26.28
個人的には


正確に言うと九州、畿内・・・の話ではない、
日本の話でもない
968日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:55:32.51
>>1000
今日も「南→東」などの嘘つき騙しの、
半島人差別殺戮戦争狂の大和説に、大恐怖させていただきました。
7割の大和説否定の国民が、もうこれ以上減らされないでしょうね。
ありがとうございます。
969日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:56:34.03
すでに、中高生が学校で習ってるレベルの知識を
頭から否定しないと
九州説が立ち行かないことまでは
確定したようだ
970日本@名無史さん
2019/02/09(土) 21:59:27.62
名前が書かれていない従属国の伊都国王が
狗邪韓国人なんじゃないか
糸島のランドマークが可也山(糸島富士)だし
971日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:00:25.44
我田引水で無理矢理に奈良県に持っていこうとしているのは自分だろ。
魏志倭人伝には九州北部までの里程しか書いてない。
972日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:01:44.22
タリシヒコとタチバナトヨヒが固有名詞レベルで一致?
何を言っているんだ?
973日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:02:16.27
倭人伝はそこからさらに水行三十日陸行一月で邪馬臺國
974日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:02:53.29
このスレでもそうだけどさ、結局九州説には
「短里は正しい、短里の萬二千里だから九州」しかないことがはっきりしてるんだよな

旧唐書の「日本國者,倭國之別種也」にもすがりついているけれど
旧唐書の倭国伝の倭國も、畿内大和だからどうしようもないww
975日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:03:56.41
元オウムのほうが頭が良いんじゃないの?
例えば、TOPの生い立ち、最初のほうだけw

親や祖父の話?
どこそで、生まれた、住んでいただけ・・・?
みたいな話とか
976日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:05:56.37
中国の人だけど、半島で生まれ〜住んでいただけ、
ロシアの人なんだけど〜・・・・・。

気づいている人がいるんだよ
977日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:07:04.44
>>972
隋書   裴清
日本書紀 裴世C

一致してるね
チェリーピッカー乙w
978日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:12:45.79
>>972
>タリシヒコ

多利思北孤が隋書の表記だよ?
これはタリシホコだろう

隋書に限らず、大陸史書の倭國に対する興味はそんなもんだよ

隋書では、対馬から壱岐、九州が「東」になってるしね
隋書に限らず、大陸史書の倭國に対する興味はそんなもんだよ
魏志倭人伝の方角が絶対に正しいって言い張るのは虚しくないか?ww
979日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:20:31.09
だからさ、用明天皇とタリシヒコの比定も間違っているんだよ。
980日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:23:28.01
>>948
へえ〜。
驚いたな。
981日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:38:59.96
そこ(?)で生まれた、住んでいたから、
どこの民族〜というのも、思い込んでいるだけ
982日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:44:21.29
『松傾』
に関係することなどを検索すると、
ほとんど同じような画像が出てきたり、

斎□〜とか?『王母』というのをググっても、
家(『松傾』?)の写真の『葱の華』・・・、なぜか同じ
983日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:47:46.64
『王母』
家の母親の雰囲気に似ている人物の画像が出てきたりw
中国の芸能人?
984日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:50:19.44
>>979
>だからさ、用明天皇とタリシヒコの比定も間違っているんだよ。

大陸史書はその時に手に入る資料を撰者がいろいろ集めて、
その中で撰者がこうだと思う内容が書かれているだけなんだよ

その内容が真実だという保証はどこにもなくて、どの史書にも
当然に史料の限界がある

「史料の限界」を考慮せず、大陸史書を絶対視して九州だって
言い張るのが虚しくなるだろ?ww
985日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:51:00.43
>>971
邪馬台国なんて、元から奈良以外にないだろ。
あらゆる証拠に反し、声の大きさで無理繰りに九州に誘致するなど、全くの無意味。無駄。
986日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:52:03.66
『王母』

>不同版本的王母娘娘

このような事が書いてある画像、雰囲気が似ている、
角度とか、そういうのもあるんだろうけどw
987日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:52:59.22
地元愛(九州愛)はいいが、それを邪馬台国にぶつけないでくれよ。
邪馬台国は村おこし、町おこしのネタじゃないんだ。新幹線じゃないんだ。
地元愛のために邪馬台国を九州に持って来るなど、全くの無意味。無駄。
988日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:54:51.81
>>984
その大陸の史書の都合のいい部分だけ抜き出しているのが畿内説だろ。
総論としては、倭国・邪馬台国は楽浪帯方から一万二千里の九州北部にあるというのが一貫した主旨だよ。
989日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:56:07.60
>>987
残念ながら個人的には九州にあまり縁がない。
ただ、文献や遺跡を吟味していくと九州北部と結論づけるしかないんだよ。
990日本@名無史さん
2019/02/09(土) 22:58:07.99
これで『王母 不同版本的王母娘娘』すぐに出てくるはず。


←のほうを向いている人物の画像、中国の芸能人?
どういう事なんだろう
991日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:04:56.03
畿内が邪馬台国と言う前に
畿内が倭国の一国である証明が必要だな
992日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:06:25.18
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
993日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:10:38.06
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
994日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:11:25.44
995日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:11:55.09
996日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:12:23.45
997日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:12:46.68
>>991

その証明が必要なのは有明海沿岸
998日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:13:05.13
>>988
>倭国・邪馬台国は楽浪帯方から一万二千里の

ここまではいい
これが魏志倭人伝に書いてあることそのものだから、それはいいんだが
この萬二千里がどこから来ているかを考えたときに、倭国を遠くするために
淮南子の世界の果てまでの距離を持ってきているのが明らかなんだよ

つまり、現実の地理との対応が取れない数字

>九州北部にあるというのが一貫した主旨だよ。

だから、「九州北部にある」というのが一切まったく何一つ根拠のない結論ありきの
思い込みに過ぎないんだよ

早く迷妄から抜け出せるといいね!
日本人なら、きっと大丈夫だよ

日本人じゃなければ無理かもしれないけれどww
999日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:14:00.67
>>989
>ただ、文献や遺跡を吟味していくと九州北部と結論づけるしかないんだよ。

ここで情弱宣言かい?ww
1000日本@名無史さん
2019/02/09(土) 23:14:13.79
つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。。。
-curl
lud20250210035509nca
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1549477418/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。

TOPへ TOPへ  

このエントリをはてなブックマークに追加現在登録者数177 ブックマークへ


全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ | >50 >100 >200 >300 >500 >1000枚 新着画像

 ↓「邪馬台国畿内説 Part423 ->画像>15枚 」を見た人も見ています:
邪馬台国畿内説 Part424
邪馬台国畿内説 Part352
邪馬台国畿内説 part4001
邪馬台国畿内説 Part425
邪馬台国畿内説 Part627
邪馬台国畿内説 Part534
邪馬台国畿内説を宣伝する者の正体 PART1
邪馬台国畿内説 Part651
邪馬台国畿内説 Part361
邪馬台国畿内説 Part415
邪馬台国畿内説 Part531
邪馬台国畿内説 Part302
邪馬台国畿内説 Part508
邪馬台国畿内説 Part295
邪馬台国畿内説 Part396
邪馬台国畿内説 Part518
邪馬台国畿内説 Part493
邪馬台国畿内説 Part598
邪馬台国畿内説 Part524
邪馬台国畿内説 Part109 [無断転載禁止]
邪馬台国畿内説 Part654
邪馬台国畿内説 Part323
邪馬台国畿内説 Part304
邪馬台国畿内説 Part470
邪馬台国畿内説 Part821
邪馬台国畿内説 part510
邪馬台国畿内説 Part720
邪馬台国畿内説 Part814
邪馬台国畿内説 Part554
邪馬台国畿内説 Part480
【歴史】今や推定地50超、邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 九州説、畿内説、東遷説の有力3説 [樽悶★]
ゆるりと邪馬台国畿内説Pprt 302
【奈良】「卑弥呼の後継・臺与の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」 卑弥呼の箸墓に迫った2メートル [樽悶★]
邪馬壹国畿内説 Part618
邪馬臺国畿内説 Part20
考古学者が明かす邪馬台国畿内説破綻の本当の理由
邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]
【古代】邪馬台国九州・畿内並存説、魏志倭人伝の矛盾を解く ★2 [樽悶★]
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。
邪馬台国畿内説、令和元年に消える。
夏休みの邪馬台国畿内説の研究
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね
邪馬台国畿内説 次回のスレッド
筑紫吉備連合軍による畿内征服が邪馬台国を産んだ
邪馬台国神戸市須磨区の稲葉町説 Part1023
【福岡】邪馬台国九州説に新たな視点 「近畿は絶対的な王権で後のヤマト、隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ邪馬台国」
【奈良】「邪馬台国近畿説」柱の一つ「卑弥呼の鏡」大量出土 天理市・黒塚古墳
【徳島】「第1回卑弥呼フェス」開催 山口敏太郎さん「邪馬台国は阿波だったと、やっと徳島の人たちが立ち上がってくれた」
邪馬台国は阿波だった part6
【大分】邪馬台国には日田説、大分市説、大分県南部説も ★2 [樽悶★]
【邪馬台国】「ヤマト王権のルーツは、邪馬台国ではない」「纒向遺跡を有力候補地とすることに疑問」 奈良県の坂さん、新説を披露 ★2
【福岡】「Go To 邪馬台国!!」 伊都国歴史博物館「伊都国から魏志倭人伝の国々を探る」企画第3弾、特別展「末盧国」開催 [樽悶★]
【福岡】「Go To 邪馬台国!!」 伊都国歴史博物館「伊都国から魏志倭人伝の国々を探る」企画第3弾、特別展「末盧国」開催 ★3 [樽悶★]
【佐賀】邪馬台国「吉野ケ里フィーバー」発掘30周年 県立美術館で「吉野ケ里遺跡報道を語る」シンポ
【奈良】飛鳥京跡苑池で「祭祀の場」流水施設遺構 水を使う祭祀、邪馬台国との関連指摘される纒向遺跡でも
【邪馬台国】古代体感、施設整備を 大阪でヤマト王権シンポ「卑弥呼のクニを探る 唐古・鍵から纒向へ」
邪馬台国は九州説が正しい
【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
【福岡】伊都国と奴国テーマに論議、邪馬台国の謎に迫る 飯塚で古代史講座 「伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないか」★2
【邪馬台国w】韓国史をファンタジーと笑うが日本史だってイリュージョンじゃないか【江戸しぐさw】
【奈良】ヤマト王権誕生の礎、唐古・鍵遺跡 埋文センター長が本執筆、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」との関係など考察★8
【経済】スズキ、5月の四輪車の国内生産台数は前年の2割にも届かず [さかい★]
【福岡】邪馬台国は筑豊にあった? 「卑弥呼連邦」樹立、8市町村が宣言 「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」 [樽悶★]
【歴史】古代史最大の謎「邪馬台国の所在地論争」に歴女が少ない理由…出版界では九州派が優勢?読者層も研究者も男性中心 ★2 [樽悶★]
13:55:09 up 27 days, 14:58, 0 users, load average: 71.17, 119.80, 125.98

in 4.5612549781799 sec @0.0884108543396@0b7 on 021003