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邪馬台国畿内説 Part425 ->画像>45枚


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1◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:31:47.27
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1549730950/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:33:01.09
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:33:20.65
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:33:38.66
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:33:57.93
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:34:18.30
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:34:39.26
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:35:03.65
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:35:27.12
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

10◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:35:44.20
 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

11◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:36:09.61
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

12◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:36:52.44
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

13◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:37:16.41
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

14◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:37:35.59
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)

15◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:37:54.01
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

16◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:38:14.07
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

17◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:38:33.00
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:38:52.90
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

19◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:39:12.05
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

20◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:39:31.04
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

21日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:39:34.56
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

22◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:39:51.20
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:40:13.38
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

24日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:40:17.73
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

25◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:40:33.80
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

26日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:40:36.86
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

27◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:40:54.33
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

28日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:41:01.00
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

29◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:41:14.00
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

30◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:41:36.67
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

31◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:41:58.22
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

32◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:42:17.36
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

33日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:42:37.20
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

34◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:42:38.38
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

35◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:42:55.90
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

36◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:43:15.81
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

37◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:43:36.60
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

38日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:43:53.97
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

39◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:43:55.05
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

40◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:44:15.36
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

41◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:44:37.10
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

42◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:44:56.51
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

43◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:45:16.32
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

44◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:45:35.26
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:45:55.02
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:46:14.46
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

47◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:46:34.28
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

48◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:46:53.58
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

49◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:47:11.41
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

50◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:47:32.41
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

51◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:47:53.66
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

52◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:48:15.19
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

53◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:48:34.94
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

54◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:48:53.49
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

55◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:49:13.18
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

56日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:49:22.97
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

57◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:49:34.37
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

58◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:49:55.29
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

59◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:50:15.31
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

60◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:50:34.34
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

61◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:50:54.85
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

62◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:51:15.09
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

63◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:51:39.04
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:51:58.76
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) 邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。

65◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:52:19.80
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

66◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:52:41.37
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

67◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:53:02.05
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

68◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:53:21.52
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

69◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:53:43.82
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

70◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:54:03.28
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

71◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:54:25.30
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

72◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:54:47.81
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

73◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:55:10.22
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

74◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:55:32.48
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75◆UiepmfCeDJqf 2019/02/13(水) 12:56:10.36
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし

76日本@名無史さん2019/02/13(水) 12:58:15.15
チョンスレ

77日本@名無史さん2019/02/13(水) 14:55:13.16
伊都国が怡土郡糸島にあった・・、
などと、神功皇后記のパクリを言うからつじつまが合わなくなる。
そもそも神功皇后記が、大和朝廷の思惑あってのステマなのさ。

78日本@名無史さん2019/02/13(水) 14:57:51.37
女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・×
女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○

79日本@名無史さん2019/02/13(水) 15:14:38.83
>>78
>女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○

大陸史書で、距離と日数の二重表記をした例が一切ないから、その読み方は明確に間違い

そもそも、投馬国行きと邪馬台国行きがまったく同じ構文なんだから、
萬二千里=水行10日、陸行一月とすると、投馬国行きの距離の記載がなくなってしまう

九州説の読み方は常にインチキ読みw

80日本@名無史さん2019/02/13(水) 15:55:43.60
キナイコシの壊れたレコードプレーヤーさながらの荒らし方に呆れた。
間違った解釈をさも偉そうに連呼するだけで、畿内説について何も証明できていない。

81日本@名無史さん2019/02/13(水) 15:58:20.10
>>914
北部九州の土器などが大和で出ていないから、東征将軍は無理。
鏡は、近畿は神獣鏡が主で、九州の内行花文鏡などとは少し違う。
系統がつながらんなあ〜。

82日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:01:57.93
郡使が九州北部まで来ていたのに、そこと交流が薄かった畿内は邪馬台国と関係がないということだね。

83畿内説に質問2019/02/13(水) 16:05:57.36
纏向の掘立柱建物は宗神の居館としたら、
何か不都合がある?

84日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:06:56.82
>>903
ウマシマジを(美味い)の意味に解したのは、8世紀。
味間も漢字だから、5世紀頃から。
物部の先祖が大和王権の前の支配者だったというのは、物部の氏族神話。
物部が大和に現れるのは、5世紀。
それ以前に大和にいた、という証拠がない。

85日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:10:25.14
>>84
先代旧事本紀だけでなく、記紀でも饒速日が神武より先に大和にいたことになっている。

86日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:13:19.61
>>82
え?
北部九州は畿内文化に飲み込まれてしまうんですがw

87日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:14:05.11
>>85
それが物部の祖先だというのがアト付けってことでしょ

88日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:16:02.73
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

89日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:19:42.55
>>910
浦間の箆被付柳葉式は、ホケノの柳葉式のあとに現れる形だろうな。

90日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:23:10.70
>>83
人が住んだ痕跡がない、ということだから。

91日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:26:47.32
>>90
>人が住んだ痕跡がない、ということだから。

柱穴だけで、地上部がどう使われていたのか、人が住んでいたのかどうかを
調べる方法を教えてくれ

92日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:35:20.28
>>90
>人が住んだ痕跡がない、ということだから。

「ということだから」って、誰が言ってんの?

93日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:41:58.69
>>82
>郡使が九州北部まで来ていたのに、そこと交流が薄かった畿内は邪馬台国と関係がないということだね。

畿内人が北部九州に来ていた証拠をいくら見せても
黙って無視して素知らぬ顔の知らん顔
そしてシレっと現実と反対の
こんなことを言う

それが九州説

94日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:46:03.48
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない属国(魏志)
・女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

95日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:55:24.31
>>92
ワイが申し上げつかまつり候段平にご容赦お願い申し上げ候段につき、ご容赦お願いつかまつり候。

96日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:55:39.79
>>83
卑弥呼より有力だなwww.

97日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:56:44.20
>>91
お茶わんのかけら一つくらい落ちているだろう。

98日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:59:17.60
>>85
記紀も8世紀だからなあ。

99日本@名無史さん2019/02/13(水) 16:59:36.97
>>79日本@名無史さん2019/02/13(水) 15:14:38.83
>大陸史書で、距離と日数の二重表記をした例が一切ないから、その読み方は明確に間違い

大陸で海を渡るなんてなことは、そうそうあるわけはない。
倭人伝は珍しい二重表記の記事だったんだよ。
そもそも、投馬国行きと邪馬台国行きはまったく同じ構文なんだから、下記の如しで◎。
>女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行20日で女王の投馬国・・・○
>女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○

100日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:01:04.98
>>91
柱穴だけなのに…
とのことであるが、穴だけなのに住んでいたとは、これいかに。

101日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:07:49.46
>>97
おまえの脳はちゃわんと働いてないな

102陳寿90度回転さん2019/02/13(水) 17:17:23.50
纒向の例の三連で塀に囲まれた建屋が卑弥呼の居館かなんて、そりゃ誰にも分からないよ。

ただ、纒向一帯のほんの一部を掘っただけであんなのが出てきた訳だから、
今は田んぼとか住宅になっている周辺一帯の土地には、当然もっといろいろ埋まってて、
それらは中国風の都市計画の『原始的な模倣』により建造されているのだろうということを、
あれらの発掘済み建屋群が示唆している訳だ。

中国風の都市計画と、中国風の世界観(天円地方)による前方後円墳。そして銅鐸の消滅と鏡の頒布。

これらは纒向のあの辺りが、当時の倭国の中において中国文明受容のセンターであったことを示している。

それを踏まえれば『親魏倭王』の金印の行く先も、普通に考えりゃ同じとこでしょうと。

103日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:19:58.93
>>170
>服属させたのは景行大王ですね。
最後のメインディッシュを息子に取られて激怒しましたがw<


景行の書紀伝承では、山口県のサバから出立して、筑後川付近に凱旋していますから、
おそらく、彼は、九州倭国側の阿毎氏側の将軍的地位。

104日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:22:26.43
>>103
>景行の書紀伝承では、山口県のサバから出立して、筑後川付近に凱旋していますから、

証拠は?

105日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:25:02.18
>>99

「自郡至女王國 萬二千餘里」は旁國、狗奴國の後に書いてるから
云い直していない

106日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:29:03.54
>>105
>「自郡至女王國 萬二千餘里」は旁國、狗奴國の後に書いてるから
>云い直していない

だから、「萬二千餘里」は女王国までの直線距離。 累計距離ではないということ と、何度言えばw  @阿波

107日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:29:26.85
>>171
>約13kmなので、登山道三十里という表現は妥当。<

海抜が756m介休市から計った、という点がインチキ。
勿論、三角測量が出来るのだから、「高」は「登山道」ではない。

108日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:32:22.20
>>103
わはははは。
景行は、筑後川方面へ観光旅行するまえに、大和恋しやと宮崎で歌詠ってるからネ。
筑後通過は、卑弥呼の都、山門の戦跡を観光旅行するためのもの。
そのあと、うきはから大和へ帰っているでしょ。

109日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:36:44.73
>>108
わはははは。
景行は、倭国(阿波)から出ていないよ。 倭国(阿波)国内の県南方面へ行幸しただけ。 残念。   @阿波

110日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:38:09.06
>>177
>>魏代には使われていたのか?、「1歩≒1尺」ではなかったのか?、
が問題であったのであり、<

>そんな問題はない
「1歩≒1尺」などと主要してるのは無知な素人じいさんただ一人だから<

魏志などに書かれた「里」の距離記録の史料実態からの、帰納的推論。

111陳寿90度回転さん2019/02/13(水) 17:39:17.40
魏志倭人伝は、距離(里数)については大した精度なんかないんだって。

現に狗邪韓国から先は、1000里、500里、100里のたった3パターン。

1000里:まあまあ遠い。
500里:ちょっと遠い。
100里:すぐ近く。

この程度のもん。細かい足し算引き算して、どこそこからカウントして残り何里とか、そんな計算には全然意味がないのよ。

112日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:41:27.69
>>105
云い直してるのは「水行20日」と「水行10日陸行一月」の前に書かれてある行程説明部分。
1万二千里はその行程のおおもとになった数字。

113日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:42:17.19
>>111
まぁ、そういうことだ。  だから、「萬二千餘里」は女王国までの直線距離。    @阿波

114日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:47:59.87
山門の伝承では景行天皇に協力したのが宇津良姫で
祠と宇津地名があるから
ヤマト王権が山門(ヤマト)地名をつける前は宇津だろう

115日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:48:00.44
>>180
>「高三十里」は「登高三十里」の略と考えるのが正解だな。<

「高」を「登り路」だと曲解する事が、インチキ。
また、標高2000m以上の独立峰的高山であるから、
かなり遠方の標高の低い(三角測量が出来る)地は探せばいくらでもあり、
「介休市」というような高地からの計測をする事自体がインチキ。

116日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:49:20.31
アホ九州説の言う事って結局あり得ない行程のバカ読みと、日本中にあるヤマトの地名が九州にもある!だけと

程度が知れるわなw

117日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:53:06.64
>>185
>>里歩系と尺寸系との換算命令である始皇帝の「1歩=6尺」が、
魏代には使われていたのか?、<

>使われていたよ あらゆる文献がそれを示している<

一般学者らの中には、使っていたモノもいたようだが、
魏朝や西晋朝の役人らは、全く使っていなかった。

118日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:55:37.27
>>87
違うスタンスで書かれた別の史書が同じことを記載している。
後付けだというなら、その根拠を示さないと。

119日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:56:33.54
>>91
高床建物の中で煮炊きは基本的にしない。
台所もトイレもない建物で生活はできない。

120日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:58:14.39
>>186
>>魏朝の1里は、76.5m位だから、
1500里でも115km位になって、九州の収まるが、
それ以前に、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
始めから九州に収まっていて、沖縄台湾説は×。<

>だとするとどうしても 計算上会稽東治の東にならないなら 九州説は破綻するね<

会稽東治之東は、ほぼ九州島付近であるから、九州接は破綻しないが、
九州説が破綻する、と主張するんなら、
大和説は同時にもっと破綻する。

121日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:59:05.42
>>93
>畿内人が北部九州に来ていた証拠をいくら見せても

王都に商いに来ていただけ。

>>102
>これらは纒向のあの辺りが、当時の倭国の中において中国文明受容のセンターであったことを示している。

九州に比べると、大陸文化の痕跡が著しく乏しい。
鉄器も硯も土器も、中国はおろか楽浪帯方の痕跡すらない。

122日本@名無史さん2019/02/13(水) 17:59:30.33
つまり煮炊きなどを他所でやって持ってくる高貴な人間の住居と言う事だな

倭人伝の記述通りだな

123日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:01:10.20
纏向は祭祀と宮城としての場所だからな

庶民の住む住居跡でも
畑仕事をする生産地でも
貿易をするための市場でもない

祭祀と高貴な人間の住居として特化して類をみないほど巨大化している特異な場所と言う事だな

124日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:02:35.80
逆に九州には宮城もまともな祭祀跡もない

あるのは庶民の住居と生産の跡
むしろここに倭王なんていないのが分かるな

125日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:05:28.06
九州で見つかる祭祀跡とやらは柱一本立てただけのチンケな方形周溝墓だけだからな

若しくは庶民が行う小規模な民間祭祀
祭祀王としての性格を持つと明記されてる卑弥呼の姿に一つも該当しないな

126日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:06:42.13
>>107
介休市の海抜が756mというのは、事実。
介休市の海抜が756mでないというのなら、何メートルなのか数字出してチョ。

平地の洛陽市の海抜は151m。
洛陽の北にある介休市よりもさらに北の太原市の海抜が、814m。
その太原市のほとんどは海抜1000m以上の丘陵。

インチキだって。
わはははは。
お主の説こそインキチだわい。

127日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:10:20.06
九州説のほざく卑弥呼の痕跡なんて九州には「皆無」と言っていいのが分かるな

結局その行きつく先が「行程のあり得ないバカ読み」「日本中にあるヤマトの地名が九州にもある」とか言う脳みその足りない低能ネタ
そりゃ頭どうかしてる奴しかいないわ

128日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:10:46.50
吉野ヶ里みたいな環濠集落が倭人伝にある卑弥呼の宮城にぴったりだと言ってしまうあたりに
九州説の詐欺師体質が表れている

129日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:13:18.39
>>123
高貴なお方が自ら炊飯した、とのお説か。

130日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:14:07.15
キチガイ九州説のサル踊りが今日も腹筋に悪い

131日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:16:47.43
>>128
吉野ヶ里には、祭殿の近くに竪穴式住居が1棟あるからなあ。
少なくとも、吉野ヶ里公園事務所が、その北内郭に人が住んでいたとする根拠はある。

132日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:20:22.83
竪穴式住居に住んでる大倭王様かw

倭人伝の記述と微塵も合致しないな
流石は九州猿
必死に絞り出した答えが竪穴住居一軒と来たもんだ

133日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:20:50.55
>>130
アホちゃう。
湯気の立つ飯を食べようと思えば、賄い人のいる炊事場から100m以内に住居がなけりゃなあ。
纏向の大型建物の近くにその炊事場があったのか。
そこに賄い人が住んでいたのか。
お主は、アホちゃう。

134日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:22:06.87
そして持ち出す一軒の竪穴住居

135日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:23:26.30
ほら!大倭王様が竪穴住居に住んでる!
一軒だけ見つかったから間違いない!

最高過ぎて死にそうw

136日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:25:33.53
先進地域と主張するわりには竪穴式住居好きだよなw

137日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:25:43.70
>>102
ダメダメ。
大型建物はこんもりした微高地にあって、その周囲は谷湿地。
そんな微高地が幾筋も東西に方向にあり、その周囲も谷湿地。
相当広い平地なんて、纏向にはない。
だから、その後、もう少し余裕のある東側へ大型建物を移したと想定してるのだよ。

138日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:25:46.04
やっぱり万葉集のこの歌に古代史は凝縮されている

真十鏡 可照月乎 【白】妙乃 【雲】香隠流 【天津】霧【鴨】

まそ鏡、照るべき月を、白栲の、雲か隠せる、天つ霧かも

照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。それとも天の霧が隠しているのでしょうか。

「まそ鏡」は、澄んだ立派な鏡というような意味です。この歌では、月を導く枕詞(まくらことば)として使われています。

139日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:26:40.88
賀は牙
旗印を掲げた拠点
国境の防衛拠点、関

敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)

倭国大乱前、賀で囲まれた国が作られていた可能性がある

古代において、巫女は兵団とセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている

◎興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊賀に【石の城】を作っていたという伝承もある

伊賀以外の賀も【櫛玉】と関係があるかもしれない
櫛八玉神と何か関係があるのだろうか?
水戸神、速秋津彦、速秋津姫
祓戸四神
これらの神々との関係も気になる

140日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:28:22.78
4世紀の秋津遺跡
伊勢神宮と作りが似た建物群

これ何の遺跡やろな
高い塀で囲まれている割には、立地的に防衛に向かない場所だし
姫に纏わる神社も近くにあった

大切なものを守ると同時に、大切なものが逃げないようにしていた風に感じるわ

141日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:28:27.11
>>99
>>女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行20日で女王の投馬国・・・○
>>女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○

つまり、萬二千里は結局どこも指していないってことだなww
語るに落ちてやンのw

142日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:28:38.22
祭祀跡:柱一本立てただけの物。他はどこも民間レベルの集落祭祀
宮殿跡:影も形もありません

流石は偉大なる大九州様だ
卑弥呼の痕跡だらけじゃないか

たまげたなぁ・・・

143日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:29:08.79
>>136
御殿みたいな竪穴式住居だったのだろうさ。
掘っ立て柱建物は、物を入れておく倉庫。
倉庫に人間が住むかよ。
考えたら分かるだろ。

144日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:31:59.88
お、今度は竪穴住居の規模の捏造始めたぞ?

で?そんな巨大な竪穴住居がどこに見つかったの?
あーそうか
九州説お得意の「あったらいいな」が「あった!」にすり替わるアレか

流石は脳の病気の九州説だ

145日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:32:20.87
>>119
>高床建物の中で煮炊きは基本的にしない。
>台所もトイレもない建物で生活はできない。

>>119のいう「生活」って何?
群議をしたり、祭事をしたり、寝たりするのは生活じゃないの?

146日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:33:19.15
>>132
人間様の住む住居が竪穴式なのに、物入れておく掘っ立て柱建物にその人間様が住むわけないだろが。
アホちゃう。

147日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:34:21.91
宮殿レベルの巨大竪穴住居かぁ

そんなものがあったら凄いよねえ
そんなものがあったら候補にするよねぇ

無いもんなwそんなもんw

148日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:35:01.68
>>131>>132
吉野ヶ里の北墳丘墓が、倭面土王帥升の墓っていう可能性はどれくらいあるかな?

149日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:38:42.86
>>144
アホちゃう。
今の世界中でも、掘っ立て柱建物に住んでるのは、洪水の多い東南アジアの水田地帯だけ。
あとはみな、地面に家建てて住んでるの。
日本も湿気があるので、床を少し地面から上げているだけ。
普通に、世界の人民は地面位置に住んでいるのだ。
わざわざ猿みたいに高いところに住むかよ。
なに? お主は掘っ立て柱建物に猿みたに住んでるというのか。
わははははは。

150日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:40:41.69
竪穴式住居って後期旧石器時代からの住居だよw

151日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:41:00.45
>>142
>祭祀跡:柱一本立てただけの物。他はどこも民間レベルの集落祭祀

北墳丘墓+立柱の延長上に、祠堂と呼ばれる小さな建物があるから、そこまで祭祀跡にしてあげて

この「墳丘墓+軸線上の大柱+その延長上の小建物」のセットが平原遺跡の5号墓、1号墓で見られるから
北部九州の墳墓祭祀の定型なのだと思う

前方後円墳にはまったく影響を与えていないけれどね

152日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:42:33.65
近畿地方では平安時代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる

153日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:42:41.44
だからさ

九州説様の言う

「巨大な宮殿のような竪穴住居」がどこにあるんですかー?

柱一本立てただけの祭祀跡が卑弥呼の証拠なんですかー?

どこになにがあるんですかー?

154日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:45:06.94
竪穴宮殿w

155日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:46:31.41
>>187
>>魏朝の1里は、76.5m位だから、<

>これがウソなんだからどうしようもないんだよ 九州説は短里しか根拠がない<

いや、勿論魏志の位置説明が根拠であり破綻しないが、
根本的には、最終的な総括説明をした唐会要倭国伝の、
「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、
倭国の中心本体が北部九州にある、
とされている事が、最大の根拠。

156日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:46:42.99
と言うか九州説の脳内だと柱のある建物は煮炊きが出来ないらしいw

じゃあなにか?
江戸時代の人間とかあいつら飯食ってなかったんかw
奈良時代とかの都に飯を作る場所無かったんかw」
こいつ等バカだバカだ思ってたがここまでバカだったとは

157日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:53:33.81
>>141
なかなか理解力に優れておるようだな。ほれ、詳細解釈だ。

倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国): 1万2000余里(漢代淮南子の遠いという慣用句を援用)
(実際の内訳)
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)

末盧国の港(唐津)は、松浦川河口から約4q遡上した中原の津。
東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡(彌根郡)の吉野ケ里一帯。
この吉野ヶ里の南方に、投馬国(西都市都万)あり、
(則ち、ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に言い直せば)水行20日なり。
同じく南方に邪馬台国女王之所都(1400里・肥後熊本)あり、
(則ち、ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に云い直せば)水行10日と陸行1月なり。

158日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:54:20.71
>>131
>吉野ヶ里には、祭殿の近くに竪穴式住居が1棟あるからなあ。
>少なくとも、吉野ヶ里公園事務所が、その北内郭に人が住んでいたとする根拠はある。

吉野ヶ里の祭殿近くの竪穴住居ってこれのこと?
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
ここに王が住んでいて、自分で煮炊きをしていた、と?

159日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:56:07.41
>>157
伊都国の時点でデタラメ
相手して損した

160日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:56:40.92
しかし言うに事欠いてしまいには吉野ケ里とか持ち出したよw
吉野ケ里は中期の王墓が集団墓地扱いになって権力者なんてものが衰退してる様子が見える
大倭王の居城とか笑わせる

161日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:57:07.99
纒向の卑弥呼は霞を食い、トイレにも行かなかったわけだ。
そして、魏志倭人伝にあるような楼閣もなければ千人の下女が働く建物もない。
畿内説とは本当にマヌケだ。

162日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:58:10.33
>>194
>>実測せずにズボラして造作して、部下や後続の張政らに拠ってバレれば、
首が危ないから<

>証拠ある?<

現在の「忖度」事件での始末。

>それで死刑になった人は誰?<

職務怠慢や痴呆レベルと認められたら、降格や解雇も有り得るが、
国家支配を脅かすような反逆性が認められれば、極刑も有り得る。

163日本@名無史さん2019/02/13(水) 18:58:42.80
>>141
なぜ肥前佐賀から肥後熊本へなのか、追加の説明だ。

漢時より、倭地には中国王朝へ遣使するほどの強大国があった。
言うまでもなく、博多湾岸を根拠地にした奴国(那国)であった。
その後、帯方郡は206〜210年ころになってやっと開かれたので、
倭地へ進出するには、奴国でない別の倭国内勢力と手を結ぶ必要があった。
そこで目を付けたのが、肥前・肥後の勢力で、倭人伝に云う佐賀川上の伊都国と、肥後の山鹿菊池平野にあった邪馬台国だったのであろう。
このように考えれば、
なぜ、当時片田舎だった末盧国松浦へ上陸し、草木で前行く人が見えない道をかき分けて、
ひっそりと東南の佐賀平野へ抜けなくてはならなかったか、その理由も理解できるであろう。

164日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:00:58.27
>>157
>末盧国の港(唐津)は、松浦川河口から約4q遡上した中原の津。
>東南陸行500里で到る伊都国は、佐賀川上大願寺のゐ寺(伊寺)遺構。
>東行100里で至る不彌国は、佐賀三根郡(彌根郡)の吉野ケ里一帯。
>この吉野ヶ里の南方に、投馬国(西都市都万)あり、
>(則ち、ここまでの込み入った行程説明を要約して端的に言い直せば)水行20日なり。

間に陸行が挟まりまくっているのに、要約すると水行20日になるんだ?
デタラメもここまで行くと、知能検査が必要なんじゃないか?

165日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:01:26.30
吉野ヶ里が邪馬台国とか抜かしているのは畿内説だけだろ。
あれは九州北部の典型的な環濠集落のサンプル。
ただ、首長のいる建物のすぐ隣で煮炊きをして食事を捧げることはできる。
伊勢神宮などの神事が、古代の権力者への奉仕の様子を現代に伝えているのだろうね。

166日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:02:26.20
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は筑紫が盟主となった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

167日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:02:41.52
結局キチガイキュウシュウセツの喚く「絶対の論拠」とやらはバカ丸出しの行程の捏造だけと言うw

168日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:02:52.85
>>160
>吉野ケ里は中期の王墓が集団墓地扱いになって権力者なんてものが衰退してる様子が見える

ただ、墳丘墓に12ある埋葬主体のうち、中央の一つが別格扱いされているから、
その中央の一人はそれなりの権力者だったと思うな

169日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:03:42.31
【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。

170日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:05:42.77
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

171日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:06:52.90
>>160
吉野ヶ里は、倭国大乱時代の戦闘用の村。
要するに有事に立てこもった村だった。煮炊きも大変だったろう。
平時の王都は、その東の目達原(面土原)だったのだよ。今は自衛隊駐屯地と市街地に化してるけどな。
此処は旧佐賀・三根郡で、倭人伝の不彌国だったところ。

172日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:08:45.95
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

173日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:13:13.87
>>199
>分かりやすい中国史における日本・・・と言う事が書いてある
最初から九州説も九州王朝も中国は微塵も頭にない
邪馬台国=大和朝廷と言うのも明白 <

この男は、中国史の列島を総括した旧唐書や唐会要が、
日本国は倭国の別種の旧小国」であって、違う国であった、
という事をこっそり隠して世間の人々を騙そう、としている詐欺師であるから、
悪質である。

174日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:16:39.98
>>164
>間に陸行が挟まりまくっているのに、要約すると水行20日になるんだ?

なかなか鋭いではないか。
間に陸行が挟まりまくっているので、詳しく説明するとややこしくなるからこそ、
言い直してるわけだ。
投馬国の場合は、水行10日で松浦・末路盧国着、そこから更に船で九州西岸を下り、
薩摩半島を回って、宮崎西都まで船で直行10日、合計20日だった。
で、ややこしくなるから、言い直して水行20日としたのだよ。

175日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:16:42.14
中国史一つとっても九州説も九州王朝説も存在しないのがよく分かるな

低能九州説はありもしない妄想を日夜喚き散らすだけ

176日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:24:51.70
>>206
>>裴松之と范曄は殆ど同時代の人間であり、
裴松之は、范曄の「邪馬臺國」や「東冶」を知っていた事になる。<

>なるだろうね
だから「東治」とか珍しい言葉が使われてたら注釈を入れるんじやないかな
しかし実際は注釈など無い つまり倭人伝には「東治」などとは書かれていなかった
そういうことだね <

ならんね。
裴松之は、後漢書の「会稽東冶」なんて、
単なるアホ史家の「自己解釈に拠る書き換え」文言であり、魏志の記載の考証の対象にもならない情報だ、
という判断をした、
という事なんだろうね。

177日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:27:37.20
>>209
大和説は不思議

「南→東」などのように史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをし、
思考の過程が無く 突然結論だけを言う
何故そういう結論が出たのか 誰にもわからない

178日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:29:39.71
>>175
>低能九州説はありもしない妄想を日夜喚き散らすだけ

妄想と思う人もいるだろうが、
なるほど一理あると受け止める人もあるだろう。
ま、やがては、正しい世論が形成される。

179日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:31:57.76
>>213
大和説を主張している人たちは、
文部省や学会教育界という、非常に少数の隔離された集団に属していて、
従順に、その上司の言いなりになっていたと考えられる
だから他者に正確に伝えるコミュニケーション能力を必要としなかった

180日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:33:07.14
>>178
>ま、やがては、正しい世論が形成される。

もう、とっくに時間切れだよ。  @阿波

181日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:33:17.46
巨大な宮殿竪穴住居の妄想が認められると良いねw

182日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:34:08.35
>>148
面をワタと読んでいるケースがあるという。
この面がワタの読みであるなら、面土はワタツチと読める。
このワタは海のことと関連があるみたいなので、吉野ヶ里のように内陸方面にある国よりも、玄界灘方面の国が面土国ではないか。
なお、ワタツチは、海津路(わた・つ・ち)なのではないか。

183日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:35:08.98
>>181
それが、考古事実だしな。

184日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:35:46.70
>>214
>>畿内説は浅い 出土データを出すと一発で消し飛ぶ<

>でも出さない なので、畿内説はいつまでも無敵<

でも大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しのように、
都合の悪いデータは 否定抹殺する嘘つき騙しをして、世間の人々を騙そうとする。
思想宗教にクルった・・・・アホは、何時までも無敵。

185日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:41:32.23
>>158
吉野ヶ里事務所の主張は、祭殿に祭祀者が住んで、その付き人が竪穴式に住んでいたという考えだ。

186日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:48:16.63
邪馬台国論争が、
古代日本の半島進出の露見を防止してた
ってのは、おもしろいね。

なんで、皇太子を人質にしてた日本が
百済復興の為、皇太子や百済豪族に海軍付けて
強制送還するよ?

復興じゃなくても、帰るべき時に、帰れば?

187日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:48:29.67
本物の異常者だなこいつw

188日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:49:30.37
>>145
どこで飯炊いて、どこで食ったのだ。

189日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:51:47.76
キチガイ九州説の脳内だと柱のある建物では煮炊きできないらしい

流石はキチガイ

全ての発想が常軌を逸している

190日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:51:57.89
そもそも吉野ヶ里の高床建物は唐古・鍵や米子市稲吉角田遺跡の絵画土器、
建築部材も全て他所の出土遺物からの想像で復元しているので
批判している学者もいる

191日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:53:07.80
結局のところ世論は九州説に落ち着くんだよなw

192日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:54:02.81
>>144
だれかも書いているように、竪穴式は縄文時代からある伝統家屋じや。
それが、いつから掘っ立て柱の倉庫で寝泊りして、飯食うようになったのだよ。
大和説者は、そのあたりを実証的に説明せんことにはな。
アホ説吹き回るだけでは、だれも相手にせんよ。

193日本@名無史さん2019/02/13(水) 19:59:36.02
あとキチガイの脳内だと纏向に宮殿状の住居以外になにも存在してないと思い込んでるようだが、
塀で区画された宮城の周りを掘立式の建物が取り囲んでいる状態になっている
竪穴住居がふつう当時においては未来都市のような威容を誇った都市だったと分かる

チンケな庶民の小さな竪穴住居しかない九州の集落とはレベルが違うのが分かるな

194日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:00:55.86
伝統w 古い建築技術だよ
雨が続いた後は湿気がなかなか抜けないからカビ臭い

195日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:01:54.03
>>219
>訂正 三十里×1里430m=12.9km が正しい。
文穎の頃の魏時代には、9kmより少し長い回廊だったのだろう。<

訂正など関係なし。
標高600m以上の介休市からの「登山道のり」計算をした事が、
そもそのインチキ。

196日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:03:16.95
>>115
洛陽は海抜151mだが、そこから測量したのか。
介山見えるのか〜。

197日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:03:58.22
>>220
つまり大和説にはもう、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの、
ゴミフィクションしか
無いわけね

198日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:09:44.30
纏向は大倭王の住む宮殿と重要な人物などが住む掘立式の住居がそれを囲むように立ち並んでいる

そして石塚等の古墳と宮城地域を繋ぐように大溝が掘られている
祭祀と宮殿と都の有機的な接合が計画的に行われているのが分かる

この中央の地域を最古のポイントとして周辺に都市域が拡大してその外縁に箸墓があらわれる
纏向が大倭王の居城と都として成立して絶えることなく発展拡大していく様が分かる

この時代には他地域の集落など及びもつかない未来的な都市だったのが分かる
他の集落などそもそも比べるレベルにもない

199日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:10:25.45
>>193
未来都市ですか。
すると、纒向というのは、相当新しい村だったのですねえ、、、。

200日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:12:59.96
>>224
>>楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。<

>本当にいい加減にしなよ
その(の王都)の付け足しが、インチキの証明であり無理読みでしかない証拠
単に「その国=倭国」が、彼方地の果て(萬二千里)の遠い国だという表現
倭国内の特定地点を指したりはしていない <

本当にいい加減にしなよ。
魏使らの記録や、陳寿や、魏略や、後漢書が、
淮南子にも書いていなかった「七千(余)里」を揃って記載し、
倭国まで「萬二千(余)里」と、一致した記載をする事などは、
淮南子を全員が同じ踏襲をする、という事は起こり得ない。

201日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:17:09.43
>>227
>>淮南子の盗用、というインチキはしない。<

>裸国も黒歯国も淮南子からの引用 実在しない国 ザラコクの書き込みは根拠がない
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;<

ほら、
魏志は「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」だから、
淮南子を踏襲していない。

202日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:19:20.01
>>228
>>4倍も違わず、75kmプラスマイナス15km位のあいだだし、<

>それがインチキ
50〜200メートルの差が出る <

それが、類スレ主の、「比定地の決め方」のインチキ。

203日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:21:16.32
>>195
そのインチキを証明する計算を出せよ。
インチキ連呼だけじやな〜。
三十余里は数字だから、数字計算出せよ。
計算出さんと、インキチ連呼だけじゃ、アホちゃうということだな。

そもそも、運城新聞は、高三十余里は間違いで、高十余里が正しいと書いとるだろが。
現代中国の1里は500m。
十余里は約5000m。
介山の標高は2440m。
一体全体、現代中国も1里76.5mを採用しとるというのか。
お主は、インキチだろ。

204日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:25:37.44
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

205日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:26:30.34
>>239
>千葉の神門4号墳からノカツギのある鉄族が出ているという。
神門4号は3世紀中頃〜後半とされている。<

それなら、東征将軍らの墓と思われるホケノの部下の部将の墓の可能性があるから、
やはり、3世紀末以後の墓の可能性が高いね。

206日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:28:10.75
>>198
病院池www

207日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:33:06.62
>>174
>投馬国の場合は、水行10日で松浦・末路盧国着、そこから更に船で九州西岸を下り、
>薩摩半島を回って、宮崎西都まで船で直行10日、合計20日だった。
>で、ややこしくなるから、言い直して水行20日としたのだよ。

説明が破綻しまくりだな
要するに、水行陸行の日数記述が、総行程だという「思いつきの言い訳」は成り立たないことを
自分でも理解してるってことだ

208日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:33:54.52
>>243
「ぼくちゃんが知らないからする大和師匠の話を信じる」
「師匠がみとめなかったら、ぼくちゃん認めない」
「ぼくちゃんが思っても、大和説師匠や文部省が否定したら、撤回する」

これが何かの論だと思ってる馬鹿の集団
それが大和説

209日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:37:12.22
裴松之は372年の生まれで三国志注は429年で58歳のとき宋王朝に進上した後451まで生きた
范曄は398年生まれで後漢書を書き始めたのは酒の失敗で左遷された432年以降で445年に謀反の計画に巻き込まれ反逆罪で獄死
成立は三国志注→後漢書の順だろうな

210日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:37:49.65
纏向遺跡に「竪穴住居がない」と言う点だけを意味も分からず受け止めて

人が住んでない!ただの倉庫!
とかバカ丸出しのこと喚き散らしてるのが本当に笑える
纏向の資料なんて一つも読んだことないんだろうな
邪馬台国の会とかの寝言そのままの事叫んでるのが失笑物

むしろ竪穴住居だけの当時の集落とレベルの違う先進都市だと言う意味なのに
それでいて糞田舎のチンケな竪穴住居だらけのツチグモの国に邪馬台国とか寝言ほざいてるし

流石は低能九州説w

211日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:37:58.53
>>208
証拠なし

うそばかり

212日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:38:35.17
>>244
≧この介山(綿山)の大断崖に、紀元頃には道教の大羅宮が造られ、200年頃の三国時代には仏教の寺院も造られる。
その寺院などに登る回廊が、大断崖を削って造られていたということだろう。
そして、現在はその回廊が片道9kmあるということのようだ。
文頴の頃には、この介山の断崖寺院などが有名で、そこへ登る回廊が三十里もあると喧伝されていた、というわけだな。<

いや、周辺断崖があれば、(介休市のような高地からではなくて)、
ますます遠くの低地から見え、
三角測量で「高三十里」の計測が出来る事になる。

213日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:40:19.88
>>246
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
思想宗教に狂って、
分裂幻覚の妄想のファンタジー世界に生きとるのか

214日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:42:50.61
大倭(ダーワを大和(ヤマト)だとか言い出すポン中並みの畿内説も居たなw
※※国、※※国ときて大倭って言ってんだから太宰府のような機関があったんだろうと想像するのが正常者だ。

215日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:45:29.24
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4a8707ab9a4eae4a
ホスト:p1650162-ipad020105kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>247
>神門3号墳からは、鎬造柳葉式鉄鏃が出ていて、 この鏃はホケノ山の鏃と似ているそうだ。
3号墳も3世紀中頃とされる<

それなら、やっぱり、3世紀末以降頃になる。

(これでまた、反論投稿がしばらくストップさせられ、
返事が遅れてメンドクサイ事になる)

216日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:45:51.08
>>198
大倭王の表記が現れるのは、後漢書からな。
3世紀の卑弥呼女王は、大倭王なんて表記はされてないし。

217日本@名無史さん2019/02/13(水) 20:58:38.39
>>215
この鏃の問題では、箆被が弥生後期には既にに現れていることが明らかになっていて、ホケノ山の箆被付腸抉柳葉式が3世紀中頃にあってもおかしくないと考えられる。
浦間の柳葉式が鏃刃後部が腸抉ではなく曲線的な形となっているのは、腸抉柳葉式から空気抵抗と重さを軽減するために取り除かれたと考えられるので、ホケノ山の鏃のあとに浦間の鏃が登場したと考えるのが自然。
浦間を3世紀末とすれば、ホケノは3世紀中頃でおかしくないと思いますね。

218日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:03:20.96
>>214
大倭じゃなくて、大倭王な。
その大倭王から王が脱落したのが、大倭。
大宰府のような機関の名から大倭になることは、ない。

219日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:06:50.00
史書の話がしたいのか?

中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

220日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:11:49.26
天照大神が卑弥呼を准えたものであるなら、天照大神に関する祝詞から推測すると、卑弥呼の功績は遠くの国まで国家としての枠組みの中に取り込んだことやろな
倭国大乱前の倭国は卑弥呼の時代よりずっと狭い版図だったかもしれん

221日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:19:04.98
>>218
今度は大倭→大和から大倭王に移行したのか?w
妄想全開の断言って恥ずかしくないのか?www

222日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:20:35.37
テスト投稿

223日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:23:52.43
>>182
>この面がワタの読みであるなら、面土はワタツチと読める。

大陸史書を訓読みしても意味ないだろう?

224日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:25:30.39
>>185
>祭殿に祭祀者が住んで、

あれ?
高床の建物には人は住まないんじゃなかったの?ww

225日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:26:50.85
テスト投稿

226日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:37:31.77
>>280
>情報ありがとうございます 調べましたが、
4号墓は鏃の形の情報がなかったけど、3号墓は腸抉柳葉式銅鏃が出ているようですね
形がわかる画像がなくて、似ているかどうかは確認できませんでした
篦被はついているのでしょうか
篦被の言葉が見当たらなかったので、篦被はついていないタイプでは?と思いましたが
後、浦間の鏃は型式が違う物で、ホケノとは系統が違っていました
比較する意味は無かったですね… <

ふーん。千葉では、鉄鏃は出ていなかったんですか?。

227日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:46:09.72
>>290
>>魏使らは、測っていた。<

>ほらな、まただ 九州説は全く証拠を出さない <

何度も書いた。
証拠は「余」があったりなかったりしている事。
測らずに、引用や形容的なものでは「余」を殆ど付けないし、
「余があったりなかったり」もしないもの。

228日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:47:28.11
>>210
アホちゃう。
人が住んでいたのなら、その証拠を出せばいいだけ。
クダグダ言ってる間があるなら、証拠だせよ。
証拠無いなら、黙っとるのが礼儀。

229日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:49:35.18
>>224
ワイは、祭殿に人住まない派。
吉野ヶ里公園事務所は、祭殿に人住む派。
そんだけのこと。

230日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:55:30.60
ホケノ山古墳は厳しいな。
なぜなら槨が出てしまったからだ。
ホケノの槨は岡山の楯築古墓と同じもので、
岡山の楯築古墓は楽浪漢墓と同じもの(中村春寿)。
楽浪漢墓は魏志の扶余伝・東沃沮伝・韓伝などに
「槨有れども棺なし」とあると記してあるものだからな。
残念だが仕方が無い、2000年4月に、畿内説は終わったんだよ。

231日本@名無史さん2019/02/13(水) 21:57:08.39
>>307
>邪馬台国候補となる大遺跡の年代が、桃核を試料とした測定で
2世紀末から3世紀初めだと分かった、つまり邪馬台国の年代で間違いないということ<

桃核もAMSでの計測だから、50〜100年後が実態になるから、
桃核のあった庄内3の土坑は、
3世紀後半〜4世紀位になる、という事。

232日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:02:09.32
>>230
>ホケノの槨は岡山の楯築古墓と同じもので

その楯築古墳の水銀朱も勾玉も倭国(阿波)からの下賜品。  @阿波

233日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:02:57.55
>>226
神門の5号、4号、3号とも、皆鉄鏃です。
4号墳は定角式と呼ばれる形で、この鉄鏃の絵図をみると、箆被がついているように見えますね。

234日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:07:41.61
以前から書いている事なんだけど、
本当に頭の病院に行ったほうが良いんじゃないの?


そもそも、
こういう掲示板自体、何がしたいのか、わからない

ちなみに家は『松傾』?
こういう名前の家、住んでいるところは・・・❓

235日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:11:06.13
>>223
帥升が郡へ出した朝貢申請書に、「倭面土国」と書いてあった可能性はある。
その申請書を前漢本国が保管していた、と考えることも一応できる。
郡の役人は、その申請書見て、怪しんで門前払いしたと…。

236日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:12:12.83
>>235
訂正

前漢本国→後漢本国。

237日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:13:37.38
本当の話

家は、むかーし伊達郡というところに住んでいたし、
歌舞伎や芝居が〜好きで・・・。

『伊達の桃太郎』
なども調べてみると合致している?

238日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:18:29.74
みんないいかな?  前方後円墳に日本産「朱」や「勾玉」が副葬されていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ?  分かってんのかな?  @阿波

239日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:19:06.34
>>221
トンチンカン。
後漢書の(大倭王)から王が脱落したのが大倭。

240日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:24:14.72
ほとんど老婆談なんだけど、
広瀬川という川があって・・・という話もしていた、
『旧広瀬座』というところの話でしょ

当時住んでいた家には、
本や書なんかも沢山並んでいた、ずらーっと並んでいたと言っていてたりw

本当に当時の職業はわからない

241日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:25:18.45
低能九州説は柱のある建物では煮炊きが出来ないと思ってるらしい

バカもここまで極まるとすさまじいな

242日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:25:36.59
>>315
>AMS法では、プラズマ化した原子一つ一つの質量を直接計っているのであって、
測定中にベータ崩壊するような時間はかからないんだぞ? <

まだ変な事を言ってるな?。
「プラズマ化した原子」ではなくて、「プラズマ化した原子核」だし、
プラズマ化をした瞬間に原子核の放射性壊変の促進が始まって、
それは、原子核の質量の計測中もずっと促進崩壊し続けているんだし、
そもそも、
(原子ではなく)原子核の質量も、放出した電子の質量分の微量な差異しか変わらない、んだよ。

243日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:26:41.37
>>205
わけわかんめ。

244日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:27:55.32
>>241
やはり、ノータリンだな。

245日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:28:56.67
>>235
>「倭面土国」と書いてあった可能性はある。

ないよ
基本的に倭人は文字を知らず、だ
硯が出ているから文字があったはずという場合でも、何百年ものちでも和語の表記は
万葉仮名だったことを思えば、訓読み表記が3世紀にあったとするのは不可能だよ

まともに考えればすぐに分かるだろうに
ただの思いつきで何も考えていないのが丸分かりw

246日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:33:53.11
>>242
>「プラズマ化した原子」ではなくて、「プラズマ化した原子核」だし、

原子の質量と原子核の質量がどれだけ違いと思ってるんだ?ww
AMS法で加速された原子が磁場の中を通る時間に崩壊してたら、地球上に安定元素はなくなるよww

ザラコクは自ら恥をさらしていくスタイルww

247日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:37:16.04
>>242
>(原子ではなく)原子核の質量も、放出した電子の質量分の微量な差異しか変わらない、んだよ。

AMS法で計っているのは、12Cと13Cと14Cの質量の違いを直接計っているんだよ
もの知らずは何を書いてもトンチンカンだww

248日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:38:19.89
>>317
>槨は、棺の入る空間ではなく、棺を容れる空間を作る構造物
そしてその棺を容れる空間を作る理由は、追葬をしたりするためで、
そのためには人が出入りできる必要がある
追葬不能な、追葬を想定していない埋め込みタイプの主体部は槨ではない<

これは、ちょっと違うような気がするね。
槨は、棺を容るるに足る小さな閉鎖的な部屋のような構造物という意味で、
その中に、他の陪葬などを後から入れる、というような「出入り出来る室」を、
始めから想定していないもの。

249日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:38:22.27
>>212
介山は標高2440m。
仮に1里76.5mとした場合、三十里は2295m。

これからすると、三十里と観測された地点の標高は、2440m−2295m=145mとなる。
洛陽は海抜151mなので、洛陽付近から測量したとすることができる。
し〜かし、洛陽あたりから介山が望めるか?
無理だと思うよ。

250日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:39:14.66
纒向の建物は
孝霊天皇の居住館と思う
押媛が母=壱与

251日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:41:28.07
その福島県民家園の説明

>昭和45年、
・・・に何やら〜と書いてあるでしょ?

家は、その当時(昭和45年)、そこには住んでいなかったし、
親戚か何かの家なのかな?

252日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:42:11.87
纏向の掘立柱建物は宗神の居館

253日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:43:44.04
纏向の掘立柱建物は宗神の居館

254日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:44:43.47
纏向の掘立柱建物は宗神の居館

255日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:44:57.52
纏向の掘立柱建物は宗神の居館

256日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:47:18.53
戦争をしているときの話(『老婆談』)、
伊達郡というところに住んでいる、
親戚の家に疎開をしたんだよと言っているし。

そのときも芝居が何やら〜とか、
山の上のほうに住んでいて・・・。

257日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:48:08.72
壊れちゃった

258日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:50:00.55
>>191
妄想で自分を慰めるしかない九州説は可哀想

259日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:50:35.12
>>318
>三角縁神獣鏡は、列島以外には全くのように存在せず、列島から500枚以上出土した、<

>最初期の舶載鏡は斜縁神獣鏡で、斜縁神獣鏡は日本で500枚も出土していないし
列島以外でも普通に出土している<

斜縁も神獣鏡だから、呉付近系統鏡であり、洛陽から出土せず、
魏朝の工房の選択には入らず、
明帝の下賜鏡に選択されない、という事では、△と同じ。

260日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:52:53.31
そもそも普通の感覚の人間なら
何で畿内説スレに九州説が山ほど書き込んでると疑問に思うだろう
そしてあっ負けたから悔し紛れに荒らしてるんだと察する

261日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:54:43.07
能無し九州説はバカだから纏向遺跡の掘立柱建物が宮城の一つしかないと思ってる

だからバカ丸出しのこと喚けるんだろうなぁw

262日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:55:28.82
>>220
倭国大乱前、倭とは対馬海峡とその両岸だけ。
九州の中では博多湾沿岸の筑前だけ。
卑弥呼の時に筑後や肥前が組み込まれ、肥後熊本と対立した。
壹與の時に肥後も倭に合流した。

263日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:55:43.58
もう神獣鏡という括りなら魏でも出てるから
呉系云々はもう通用しないわな

264日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:56:53.52
>>323
>畿内説だと倭の領域はかなり大きいだろ?
方角は王都に向けているに決まっている。
地方を含めたら方角はいかようにもなってしまう。<

成程。国間距離計算の地点などとは少し違って
、やはりほぼ中心部の方向 ほぼなんでしょうね。

265日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:58:08.43
>>248
岡山の楯築古墓は楽浪漢墓と同じもの(中村春寿)
という結論が出てしまっている。
楽浪漢墓は魏志の扶余伝・東沃沮伝・韓伝などに
「槨有れども棺なし」とあると記してあるものだから、
ホケノや楯築の槨は魏志で言う槨で100%間違いない。

266日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:58:11.69
>>198
>纏向は大倭王の住む宮殿と重要な人物などが住む掘立式の住居がそれを囲むように立ち並んでいる

重要な人が掘建て小屋に住むのか?
魏志倭人伝に書かれた、楼閣や柵、千人の下女はどこへ行った?
そんな未来都市は全然邪馬台国ではないよ。

267日本@名無史さん2019/02/13(水) 22:58:36.63
楯築の槨は底板がある完全な箱形
ホケノの槨は底板がなく、柱を立てて側板で囲う、いわば建造物
現代の学者が研究の都合で同じ名称で呼んでるだけで、構造は全く違う

268日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:00:52.24
でも中国人が見たら槨と呼ぶだろうね。
諦めろ。
畿内の様子は魏志倭人伝と食い違いすぎる。
画期的な未来都市?
そんなものは魏志倭人伝に登場する邪馬台国ではないよ。

269日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:01:28.30
wiki『桃太郎』を読んでみて



『瓜子姫』
このような話もあると書いてあるでしょ?
家の写真wキュウリのような葉が写っていて

270日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:01:33.94
>>324
そうなの
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
史料事実や相手の発言の中から、
自分の思想宗教に都合がよい事だけを連呼したり、
史料事実殻の帰納的推論を口汚くわめきののしるだけで、
証拠は出す気が皆無だし、証明する気もさらさら無いわけね

271日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:01:39.07
まったく違うて、あんたが言ってるだけだろ。

272日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:03:26.71
中国の槨は楯築と同じ箱形
当時の大陸人がホケノを見ても槨だとは思わない

無知なのに知ったかぶるのは恥をさらすだけ

273日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:03:54.74
畿内説って、「日本の槨は中国で言う槨や無い事は大正時代に結論が出たんや!」って嘘ついてたよな?
どうしてこう言う悪い事を平気でするかな??

274日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:04:36.93
>>268
楯築とホケノの槨の違いを知らなかったのが丸わかりw

275日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:04:36.85
>>272
思います。

276日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:05:59.78
で?
九州説様のご自慢の巨大な宮城のような竪穴住居はどこにあるの?

卑弥呼がチンケな九州の竪穴住居で暮らしてんの?

277日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:06:30.08
勝手に決めつけるのは九州脳特有

278日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:08:03.38
>>275
思うという根拠は?

279日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:10:18.18
結論先にありきで逆算してしまうから
九州説は珍妙な説明になってしまううんだよな

280日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:12:30.20
>>230

楽浪漢人との交流を示すものだな
「其死有棺無槨」は倭人の一般的風習

281日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:14:16.24
タテツキ=箱形=中国人も納得の槨

ホケノ=底なし移動不可能な造りつけ=中国人は槨とは思わない

282日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:15:49.33
あの写真に写っている植物・・・・・・・・・・、
確実に『ウリ科』の植物、なぜ詳しいんだろう?
となるでしょ

283日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:17:19.09
槨があっても3世紀だろ
なんせホケノ山が3世紀中葉と科学測定と考古遺物から結論づいてるから

284日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:18:12.57
>>267
>>272
>>274
>>277
>>278
>>279
>>281
http://makimukugaku.jp/info/iseki.html
石囲い木槨という構造そのものは吉備や讃岐・阿波・播磨地域で散見されるものであり、ホケノ山古墳の築造に東部瀬戸内地域が大きな影響を与えていることが想定されます。

ガキみてーにつまんねーレスしてねーで、
キンキーのアホどもはこれ否定してきてや。
ホームページが書き換えてから主張していただきたいですな。
バカな野郎だぜまったく。
だからキンキーはキンキーなんだよwww
人間性の問題です。

285日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:19:26.53
九州説は槨があると3世紀後半という編年を大幅に見直さないといけないようだな
何せ科学的事実と土器編年両方に反しているのだから

286日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:20:38.71
>>325
>周70里って、短里だと4.9キロくらいだろ? 仁徳天皇陵が1周3キロ
史書にも記録されるような山が、そんなに小さな丘程度の小山のはずがないだろうが! <

まあ、周70里で高30里という事は、かなりの「とんがり山」だ、という事だな。
播磨に尖山は沢山あるが、中でも姫路の標高900m位の雪彦山が有名だ。
横から見たら、岩山の傾斜は60度位に感じたな。
介山もかなりの岩山らしいし、
短里で、周70里で高30里って事は、十分にあり得るな。

287日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:21:29.61
>>250
>纒向の建物は
>孝霊天皇の居住館と思う
>押媛が母=壱与

孝霊天皇の宮は黒田廬戸宮で、奈良県磯城郡田原本町黒田には、
庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)がある
唐古鍵遺跡から2キロくらいの場所

適当な思いつきを書いてもダメだよ

288日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:21:47.83
楯築も西谷4も弥生時代の墳丘墓
槨の有無で時代は判別できない

ちなみに北部九州でも弥生時代に槨を持つ墓があったと指摘する研究者がいる

289日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:24:20.47
>>284
また論破された九州説が発狂しておるな

290日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:25:35.20
先ずキンキーは吉備の楯築の槨は楽浪漢墓の槨と同じと認めちゃった訳。
それが何を意味するか、バカだから理解していないようだなwww
倭国そのものに槨なしと魏志倭人伝にハッキリ明記してあるのに、
魏の使者は吉備を飛び越えて大和に来ちゃった訳だwwww
バーカwww

291日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:26:50.93
古代に生きたひとびとの認識と
現代学術用語の指し示すものが
必ずしも一致するわけではない
ということを理解できない知能では
歴史学に首をつっこむだけ無駄

292日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:27:09.30
>>266
>重要な人が掘建て小屋に住むのか?

九州説は、掘立て柱建物と、掘立て小屋の区別が付かないっていうのは、都市伝説だと思ってた
でも、本当に区別が分からないんだなww

これでよく古代史のスレに書き込もうと思えるよなぁ、感心するよ
その厚顔無恥さ加減にww

293日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:27:21.45
論破www

バカだからキンキーになっちゃうって、
またしても証明しちゃったなwww
バカ発見器→畿内説www

294日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:29:16.66
>>290
楯築とホケノの槨の構造が違うことは理解できたようだな

295日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:31:03.67
>楯築とホケノの槨の構造が違うことは理解できたようだな

ホケノも槨と思っているわけだなw

296日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:31:41.32
連続句読点、別キャラでもやっぱり発狂

297日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:32:06.18
>>294
http://makimukugaku.jp/info/iseki.html
石囲い木槨という構造そのものは吉備や讃岐・阿波・播磨地域で散見されるものであり、ホケノ山古墳の築造に東部瀬戸内地域が大きな影響を与えていることが想定されます。

ガキみてーにつまんねーレスしてねーで、
キンキーのアホどもはこれ否定してきてや。

298日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:33:17.44
>>329
>そうだよ 九州は倭国の一部
国の位置関係は、移動が想定されているから半島から倭国に渡る方向が書いてあるだけ<

いや、国の場所や方向を説明する時は、大体地理的中心方向や首都のある方向。
しかし、国間距離を説明する時は、地理的最短区間か、中心部間の最短区間。

299日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:33:48.72
>>293
バカは畿内説スレにわざわざ論破されに来る九州説じゃ

300日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:35:34.08
>>330
>卑弥呼が眠っているのは大和の山間部「高天原(御所市高天)」だ。<

「南≠東」などに拠って、×。

301日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:36:13.15
>>290

>倭国そのものに槨なしと魏志倭人伝にハッキリ明記してある

書いてない

302日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:36:59.86
>>294
>>299
楯築とホケノの槨の構造が違うのはごくわずかだし
どちらも槨なのだということは理解できました

303日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:37:45.59
>>301
魏志倭人伝否定www
狂ってるよなキンキーはwww

304日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:38:53.48
>>245
まともに考えればすぐ分かることだが、朝貢申請に行くのに、郡に倭語が話せる者がいなければ、こちらから通訳を伴って行く必要がある。
その通訳が文字を書けることは、当然だ。
通訳は文字がかけて、中国語を話せ、倭語も分かるる中国人だっただろう。
そして、帥升の国の倭語の意味を深く意訳できる通訳といえば、倭國生まれの二世が考えられる。
その結果、面=ワタ、土=ツチ(海津路)国としたわけであるが、郡側は面土はメンドとしか読めないし、メンド国なんて聞いたこともないので、不審に思い門前払いにした。
こういう顛末だろう。

しかし、面をワタと読むには理由がある。
博多安曇の祖先神はワタツミであり、そのワタツミの顕現が磯良とされる。
磯良は、顔に牡蠣がびっしり張り付いており、この面相が磯良を象徴する。
つまり、ワタツミは牡蠣がびっしり張り付いた面(顔)をしているのだ。
なので、ワタ=面なのである。
この安曇のワタツミ=面神に通じた者が帥升で、帥升の国を面土(ワタツチ=海津路)と称したのは、おそらく安曇族の傍系の者だったからではないか。
帥升の国を今津湾の下山門ではないかとする人もいるので、あるいはそうかも知れない。

まあ、そういう想定だ。

305日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:39:28.26
書いてあるものが無く
書いてないものが有る

桃(もも)vs樟(くすのき)

306日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:39:35.42
今度から九州説を倫理的だけじゃなく儒教的にも負かしてやろう
それとわからない出鱈目をこっそりレスの中に紛れさせ
気づいてないのを腹の中であざ笑う
これが儒教的に効くだろう

307日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:39:38.59
>>335
>魏志倭人伝の記載と実際の比定地から、統計学的に言える一里の長さ
海上距離は測定できないので・・・<

この部分からも、もうインチキ。
渡海部分も計測も出来ている。

308日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:40:25.15
槨云々というのは倭人の民の風習についての件だからね
元から無意味な議論、わざとか知らんが
木棺に土葬で何も問題ない

309日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:41:35.77
キンキーの皆さんは、

箸中地区の木製輪鐙

〜古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。

が間違っているって、
桜井市纒向学研究センターに電話しましたか?
http://makimukugaku.jp/info/iseki.html

310日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:42:12.12
>>302
けれど槨があっても3世紀中葉
3世紀中葉の物証あるホケノ山が槨ありと言うならな

311日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:43:03.97
3世紀中葉に槨があるなら邪馬台国ではない証拠になる

312日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:43:21.77
瓜子姫〜・・・シンデレラ〜という本も出てくるでしょ


老婆の言っていた、
母親だけが裸足(素足に下駄)だという話?
葱の華の写っているほう、椅子に座っている人だと言っていた

何の写真なんだろう

313日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:43:31.30
>>303
キンキーキンキーとまるで猿のように狂っている九州説

314日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:43:33.01
>>303

「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 
以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 
他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐」

これは一般的風習
倭国そのものに槨なしとは書いてない
興奮しないで読んだほうがいい

315日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:45:02.99
>>336
>>嘘を付くな、類スレ主。 「自郡至女王國萬二千餘里」は、女王國までの里数だ。<

>そうだよ
そして女王國というのは広い範囲で、その中の特定の場所を指すものではないし ・・・<

当然、女王のいるところを中心とした地域を指す。

316日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:46:49.08
>>304
倭面土は倭国王の転記ミスらしいよ
一番古い記述では倭国王帥升となっている

317日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:47:15.56
>>308
残念でした〜
魏志の扶余伝・東沃沮伝・韓伝などに「槨有れども棺なし」とハッキリ明記されています。
楽浪漢墓は岡山県の楯築古墓と同じものですからwww

318日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:49:06.78
>>315
その女王国は会稽東治(冶)の東で沖縄や台湾の辺り

319日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:49:36.78
倭人伝だけではなく他の民族についても棺と棺について書いてる。
様々な形式がある一般風習であればいちいち記録する必要が無いわけで、
王墓(指導者の出自)の形式であることは明らか。

320日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:50:42.14
>>314
あなたは岡山県の楯築古墓と同じ楽浪漢墓を、
魏の使者が「槨有れども棺なし」とハッキリ明記した事を、
頭の中にビシッと刻み付けておいてください。

321日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:52:57.72
>>337
>まあ統計どうこう言えるような情報量あらへんな<

郡から女王之所都だけでの里数記載だけでも10個位の里数があり、
簡単な統計なら、十分可能だ。
しかし、類スレ主は、「南≠東」の場合と同じく、
都合の悪いデータの否定抹殺しておくという不正をした計算をしているから、
・・・・詐欺師なのだ。

322日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:53:04.18
>>317
倭国の一般的な葬儀習慣がだろ
邪馬台国ピンポイントじゃなくて
だから畿内に槨有って棺がある古墳があっても何も問題なし
そもそも棺有って槨なしだったと思うけど

323日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:53:26.02
>>320

魏の使者が楯築古墓を発掘調査か何かしたの?
あと、韓伝は「有棺無槨」

324日本@名無史さん2019/02/13(水) 23:58:56.01
>>311
そもそも槨があれば3世紀中葉じゃないという考古的な論拠がない

325日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:01:33.62
そこは楽浪郡じゃないぞ。

326日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:03:48.10
>>309
鐙は4世紀以降馬が入ってきてから
ホケノ山は棺内遺物やAMS法で3世紀中葉と結論づいている
さらに言うならホケノの堀から3世紀中葉に相当する土器も出ている

327日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:04:19.46
斜面の角度60度の円錐だとすると
高さ30里なら大体直径34.64里で周は114里くらいですな
周70里になんて到底ならないよな

328日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:04:55.23
魏志のどこに楽浪の墓制の記述があるんだ?

329日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:05:12.79
>>286
ないない。
周70里とは、山の麓のぐるり周囲が70里ほどという意味。
それに続けて高三十里とあるのだから、麓の地面から三十里の意味。
1里76.5mで三十里を計算すると2295m。
介山の麓に近い介休市で海抜756mなので、この介休市で計測したとすれば、三十里は2951mになる。
一方、実際の介山の海抜=標高は2440mだから、介休市でこの山の高さを測れば1684m程度の高さしかない。
介山三十里2951mと1684mでは、高さが全然異なる。
こうしたことから、三十里が介山の山の高さを意味していないことは、明白だ。
三十里=

330日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:05:39.21
楽浪漢墓
中国の前漢から三国時代にわたり,朝鮮北西部の楽浪,帯方両郡の地域内に営まれた墳墓。
1辺 10〜30m前後の方台形の墳丘をもち,内部に木槨や ?槨の埋葬施設がある。
木槨は前漢から後漢にかけて,?槨は後漢から三国時代にかけて盛行した。
代表的なものとして,前漢末から後漢中期の石厳里9号墳,同 194号墳,後漢の王く墓,
王光墓,彩篋塚 (さいきょうづか) などがある。

基本的な知識を入れておこうな。

331日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:08:26.35
グヒヒ九州説はまだあの出鱈目に気づいてないのか
バカだぜあいつら

332日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:09:59.64
柿食えば?

333日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:10:20.26
>>330
で、魏志のどこに楽浪の墓制についての記事があるの?

334日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:11:48.22
纏向遺跡の居城周辺には多くの大小さまざまな柱穴跡が見つかっている
5m四方程度の小さな建物も多く存在していた
貴人とそれに関わる家人なども周囲に住んでいることが想定される
竪穴式住居ではなく都である纏向では先進的な柱を持つ平屋建築物が広がっていた
奈良や平安京でも都内に竪穴式住居は無く同様のスタイルの先行的な土地だったと言える

他の集落とは次元の違う先進的な都市だと分かる

335日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:11:50.31
理論でも負け儒教でも負け
九州説はもう跡形もありませんなあ

336日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:12:51.96
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

337日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:16:18.72
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

338日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:16:45.28
ちなみに馬韓は別名、甕棺古墳社会と呼ばれている。
当然槨無し棺有り墓だ。
魏の使者はきちんと墓の埋葬方法についてチェックしていた事を証明している。

339日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:17:00.77
纒向って土器の包含層がめちゃくちゃ広範囲に拡がっているんだぜ
どんだけ土器を消費したんだよ、って突っ込みたくなるくらいにな

340日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:18:58.71
>>338
馬韓の王墓ってどこよ

341日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:19:03.93
>>283
3世紀だろうがなんだろうが、卑弥呼がいた邪馬台国とは別の国が畿内にあったということだよ。

342日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:20:57.21
>>291
だったら当時の用語で話せよ。
現代の史学は勝手定義の捏造用語で満ち溢れた妄想学問なのかよ。

343日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:22:55.66
>>342
当時の認識を現代人が完全に把握できるとでも?

344日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:24:28.98
2世紀末以来の長期政権であった卑弥呼体制が消滅することにより畿内にも成長のチャンスが訪れたが、ほんの十数年の年代の誤認により、あたかも畿内が卑弥呼のもとで発展したかのように見えてしまう。
しかしあくまでも3世紀の畿内は筑紫の足元にも及ばない発展途上地域であり、まして卑弥呼が共立された2世紀末には、畿内が女王を出せるほどの発展もまとまりも見出せない。

345日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:24:57.75
短里論争なんて当時の認識を現代で理解できてない事例の最たるものだなw

346日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:25:32.45
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

卑弥呼が女王であった倭国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。

347日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:26:52.05
そして朝鮮で楽浪郡に帰属することとなったのが沃沮な。
槨の様子が詳しく書かれている。

348日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:28:37.37
>>341
そういい切る証拠がなし
考古遺物から畿内が一番蓋然性が高い

349日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:29:51.27
>>316
翰苑には「後漢書に曰く、安帝の永初元年、倭面上国王帥升至る」と書いてあるらしい。
後漢書写本も複数あり、倭面上国と書いてある写本があったのだろう。
このほかに、通典=倭面土国、唐類函=倭国土地、日本書紀纂疏=倭面国などがあるそうだ。
現在われわれが目にする後漢書だけが倭國王としているもの。
面土国などは誤記だ、とは言いきれない。
現在の後漢書の倭國が誤記かもしれない。

350日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:31:52.26
>>338
馬韓の王墓マダー?

351日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:31:53.00
考古遺物を九州説の根拠にしようとしても
考古学者はほぼ畿内説だから

352日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:31:58.13
この様にして、魏志では、槨有り棺無し、棺有り槨無しという埋葬の形式で、
キッチリ韓と沃沮・楽浪の区別が付くようになっている。

353日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:33:33.30
>>346
楯築も西谷も纒向石塚も無視ですか

354日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:33:52.02
バカがどんな妄想を喚き散らそうが中国史は微塵も九州説も九州王朝も考えてない

九州は属国で祭祀跡もなければ宮城もない
チンケな竪穴住居しかないツチグモの集落

何一つ見つからない九州そのまま

355日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:37:09.64
>>348
倭人伝の、女王国の東千余里の国。

356日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:40:07.15
倭人伝の九州

・1万2千里未満と明記される女王国の範囲外の服属地域
・一大卒が駐屯して監視され怯えている
・女王国に統属している属国
・辺境守備兵が配置されてる僻地

そして続く中国史書も全て大和の中心性の連続を記載し、九州はその大和から一大卒を送り込まれる属国だと示している

どこにもバカの妄想するような要素は一つもない

357日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:43:06.97
>>352
韓と沃沮の王墓はどこよ?

358日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:45:28.05
>>334
奈良は、8世紀だろう。
3世紀の話してるのに。

359日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:49:44.90
>>338

>ちなみに馬韓は別名、甕棺古墳社会と呼ばれている。

西北九州で没落したのは馬韓人なんだろう

360日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:56:30.93
はい!
>>319
>王墓(指導者の出自)の形式であることは明らか。
うそ確定!

361日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:56:40.67
邪馬台国よりも、
神仙界のほうが凄いような感じがするんだけど

362日本@名無史さん2019/02/14(木) 00:58:16.40
瓜・ジョン・ロート?

363日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:00:47.86
『松傾』〜『驛』
天の驛・・・ペガサス?セイントセイヤの曲?

364日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:05:26.85
王墓がどうしたんだ??

365日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:08:08.64
>>348
考古遺物から畿内は完全否定される。

366日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:14:45.90
槨の出土
倭国大乱を示す考古遺物無し
鉄器の出土頻度の少なさ
4世紀始めの土層から使い古された馬具の出土
百余名の殉死を示す考古遺物無し
畿内説は考古遺物から完全否定される。

367日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:16:01.24
>>348
>考古遺物から畿内が一番蓋然性が高い

ヤマト王権と邪馬台国を混同しているだけだよ。

368日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:18:00.36
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

369日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:37:01.25
本当に気づいている気づいている事なんだけど、
人の家に寄生している人たちがいるでしょ?
悪く言うとそうなる、あのような人達は何なんだろう


あと『柿食えば』のwikiも読んでみて、
ベースボールが何やら〜とか

某マイク・オー(なぜか妹の誕生日と同じ、5月15日生まれ)?
のMV

370日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:37:47.03
>>364
簡単な論理だよ

韓も沃沮も王墓を提示できない
 ↓
韓も沃沮も王墓の内容を確認できない
 ↓
魏志に記される韓と沃沮の墓制とは対比できない
 ↓ 
魏志に記される墓制が王墓の内容であるとはいえない
 ↓
当然倭の記述に対しても同様
 ↓
楯築に木槨が、ホケノに「木槨」が存在しても何ら問題なし

371日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:39:48.21
『河童の三平』〜『ゲゲゲ』?
あと宝塚の女優のwikiも読んでみて

茶釜関係の人物、天津〜?

372日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:45:04.57
>>356
その中国史書の誤認が見破れない大和教徒。

373日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:45:57.97
311なんかも人工地震だぞと言ってる人がいたり、
なぜだと思う

374日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:52:18.62
『松傾』〜『市』という名前でしょ、下の名前。
むかーし住んでいたというところも、伊達郡というところだしな・・・。

ストーカーがいるのかな?

375日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:55:21.46
自分が教祖の九州説脳

376日本@名無史さん2019/02/14(木) 01:59:39.98
本当に、あの写真だよ・・・、
『松傾』の家の・・・子供の頃だったかな〜と言っていたり、
たしか4,5歳くらいとか、何かの制服のようなものを着ていて

377日本@名無史さん2019/02/14(木) 02:10:15.34
纏向の掘立柱建物は宗神の居館

378日本@名無史さん2019/02/14(木) 02:17:08.58
本当に当時の職業不明、
何かの家だったのかな?

379日本@名無史さん2019/02/14(木) 02:24:42.65
mike oldfield『let there be light』


この曲の動画を観てみて・・・、
『松傾』〜なぜか『サイバーパンクspecial』というコミック・・・その他?

380日本@名無史さん2019/02/14(木) 02:32:43.37
最近、第10代天皇の諡号を読めなくて誤変換し続けてる非日本人がいるな

381日本@名無史さん2019/02/14(木) 02:51:56.77
『神仙界』

382日本@名無史さん2019/02/14(木) 03:00:47.46
たしか寺院の話もしていたり、
あと泥棒のようなものに入られたという話とか、
どういう事だと思う

383日本@名無史さん2019/02/14(木) 03:19:01.56
ドラゴンボール?
なぜか、ほとんど同じようなコンセプト

384日本@名無史さん2019/02/14(木) 03:36:47.17
とあるアニメの設定なんだけど、
ゴキブリ(寄生虫)が嫌いだと書いてあるはず


兄弟・・・あと妹がいて

385日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:32:22.55
>>276
そうじゃないの。
魏使が見た卑弥呼の宮室というのは祭殿のことで、余人がみだりに立ち入らないように守衛がいたということだろう。
魏使は、卑弥呼と会ったのはその祭殿だったので、卑弥呼はそこに住んでいると思ったということだ。
しかし、実際は、祭殿に卑弥呼は住んでいず、別のところの竪穴式住居に世話人の巫女たちと一緒に住んでいたのだろう。
魏使は、それを知らなかっただけということになる。

つまり、倭國の伝統的住居は、竪穴式住居だったのは事実。
そもそも、纏向遺跡の大型建物群の中の最も大きい建物Dは、横幅19.2m、縦幅12.4m。
この規模の建物を“巨大”と称しているわけだから、3世紀の一般的な建物のありようは押して知るべしである。
建物Dは、当時としては大建築だったわけだ。
とすれば、卑弥呼が立派な竪穴式住居に住んでいたとしても、驚くことではないのではないか。

386日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:38:49.32
424>>346
>お主が挙げてある「水経注」の文中(山西省文物局2006)では、「文穎の高三十里は間違いだとして、介山は『高十余里』だ」と書いてある。
現代中国の1里は500mなので、10余里は5000m、5kmほど。 介山の海抜は2440m。
だから、この文でいう10余里は、介山の標高が10余里=5000m余りという意味ではない。
また、この記述は2018年8月14日付の新聞文化コラムの記事なので、介山の標高を10余里と書くはずがない。
山上には廟があると言っているので、山上までの登高距離が5kmだと言っているもの。<

ふーん?、山西省文物局2006も、新聞文化コラムも、
日本の谷本計算をまだ知らず、「何でも間違い論」になっているアホであったのか。

387日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:42:40.52
424>>347
>伊都国(糸島)は方位が違うから、確実なnは0<

また「東南は出発方向」と分からない大和説アホ詐欺師が、出てきた。

388日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:47:21.86
ホンモノは気づいているし知っているんだよ


自分が神(仏)になりたいとか、そう(神)だと思っている・・・w
そういうのばかり

ゴキブリ以下

389日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:49:17.89
414>>350
>>或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云「日本舊小國、呑併倭國之地」
とはっきり、「違う国であった」と書いている。<

>おいおい 「或以倭國自惡其名不雅、改爲日本」 出オチで珍説崩壊してるぞ
これだから九州説は ダメだなあ <

おいおい、日本伝の始めに「日本國者、倭國之別種也」として、
別の国であると書いてある事を、またこっそり隠すのか?、
これだから大和説は、ダメ詐欺師だなあ。

390日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:50:20.25
414>>351
こういう嘘が
平気の平左で書ける
大和説のひとの神経って
ホント凄絶ににすごいと思うよ

391日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:53:27.37
そんなことよりも『何者にもなれない お前たち』だよ

なぜ・・・モレ(仮名)の書き込みなどw・・と同じなんだと思う?

392日本@名無史さん2019/02/14(木) 04:55:34.21
424>>354
>>(大和)日本國者、倭國之別種也、だから、×。<

>ザラコクがなんと言おうと
唐会要、旧唐書、新唐書の「倭国伝」に書いてある国が全部、畿内大和の大和朝廷なんだからww
倭国も大和朝廷、日本国も大和朝廷
別種をどうデタラメ解釈したところで、唐代の倭国が大和朝廷なのは確定w<

ほら、また、この・・・・詐欺師の大和説アホは、
「新唐書に倭国伝がある」という嘘吐き騙しを書いている。

393日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:00:51.78
そういう作品なども、
モレ(仮)が〜〜〜(いろいろ)〜〜〜と説明するよりも前の作品でしょ?

馬が何やら、謎の刀とか

394日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:02:51.26
424>>362
虚言師大和説学者は罪深いな

395日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:06:14.78
424>>363
音韻論でも、大和説の音韻学者は、古田さんに論破されている。
つまり大和説専門の音韻学者も
古田さんに噛み付かれかれているということか

あらゆる学問の分野で大和説は孤立してて
全方面包囲網が出来てるみたいだな

396日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:19:50.74
424>>371
>筑後山門は、3世紀にはヤマド。 現在の千葉県の神門は、ゴウドの発音。
鹿児島県長島町の山門野はヤマドノ。 門をドと読むケースは、いくらでもある。<

古代毛人社会においては、渡来部族の新規の支配者は、
「神」とか「カムイ」とか呼ばれ、
その境界の「入口」を「門≒ト、戸」と呼ばれたのかも知れませんね。
つまり「神門」の神は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の部将ら。

397日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:29:54.80
424>>381
>「第7章 遺跡からの証言」の神門4号の定角式鉄鏃(22番)は、
腸抉柳葉式よりも、四條畷市の雁屋遺跡(弥生中期〜後期)の篦被付柳葉式銅鏃に近い<

ふーん、四条畷の銅鏃技能が、千葉に鉄鏃に変わって伝わった、という事は・・・。

398日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:36:19.92
424>>389
>古田が、地図上で巨済島から対馬までのkmを計って、それを千里で割ったのが「75mに近い値」。
それに、沙里院かソウルからの地図上のkmを七千里で割って、
合わせて1里75m〜90mくらいとした。<

古田さんは、そんな事言われた事がないから、
これも・・・・大和説詐欺師の捏造でっち上げ。

399日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:51:58.93
>>377
テンプレ読むと、そういう意見もあって良いと思う
強引に卑弥呼に結び付けるのは閉口する

400日本@名無史さん2019/02/14(木) 05:59:38.37
数年前の陰謀スレ

あ〜〜〜〜〜、僕は□歳になったけど、搾取されてばかりだ、
という書き込みをしている人がいたでしょ


漫画、アニメ、ゲーム・・・その他(芸能なども含め)の話、
なぜ知っている人がいるんだと思う

401日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:31:09.99
纒向の掘立柱建物は地方豪族の館でもいいじゃん
もしくは記紀登場の人物の館でもいい
卑弥呼と決め打つには材料不足

402日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:33:22.92
424>>396
>『陳寿90度回転』を『オッカムの剃刀』として読み解けば、・・・
いずれにしても、ボンヤリとではあるが本州が反時計回りに反り返っている形まで、
行程記事が上手く写し取っていることが分かる。<


「南≠東」などによって、×。

403日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:34:31.67
ERROR: We hate Continuous....
連投ですゆ
問い合わせID:4a8a1cc36bfe6e9f
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
424>>391
>弥生時代の人口分布を見てみれば、
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚


行程記事中で、
1番目に出現する大人口国:奴国(2万余戸)は北九州の博多湾沿岸、
2番目に出現する大人口国:投馬国(5万余戸)は出雲(山陰、山陽含む)、
3番目に出現する大人口国:邪馬台国(7万余戸)は奈良(奈良盆地及び河内平野を含む)、
そして邪馬台国と抗争する狗奴国は、おそらくは東海地方あたりの勢力だろう。<

奴國の比定がおかしいし、
「南→東」の嘘吐き騙しをシャーシャーとしてやっているから、
このサイトの主も、・・・・大和説詐欺師であり、×。

404日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:38:30.96
卑弥呼というのがアマテラス、スサノオ・・・?だと言いたいの?
池沼なんじゃないのか?

405日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:51:38.90
424>>400
>いずれにせよこの人口分布を見てみれば、
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚
奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国、その他の小国群を全て九州に無理矢理詰め込んで、
本州については『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺』
のたった28文字で記述するなんてのは、どれほど不自然でバカげたことなのか自明だろう。
実際に紀元200年頃の人口では、九州が約10万人、本州+四国で約50万人。
当時の九州に人口面におけるそのようなキャパシティは存在しない。
(出所):Wikipedea 「近代以前の日本の人口統計」
「縄文・弥生時代の日本の地域別遺跡数と推定人口(小山修三, 1978,1984年)」<

いずれにせよ、小山は、
倭人伝の「南」を「東」だと嘘吐き騙しをした上で、更に、
魏志記載の「15万戸」の内の5万戸の投馬國との7万戸の邪馬壹國を九州から外し、
残りの「五万戸」を「1戸=2人以下?」として「九州が約10万人」としている事が、
丸わかり。

小山も、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホの大和説詐欺師。

406日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:53:37.02
424>>401
この投稿も反論済みであり、×。

407日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:53:52.19
>>355
女王国は魏志倭人伝に会稽東治(冶)の東で沖縄と台湾と記されている
それから見ると実際に東に国なんてないよ

408日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:56:05.15
>>365
文献資料と考古遺物と科学測定結果から完全否定されるのは九州説

409日本@名無史さん2019/02/14(木) 06:57:52.93
>>407
日本()のことではないという意味でしょ

410日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:01:53.92
424>>404
>・・・これから考えても卑弥呼が九州の片田舎の女酋長であるはずがなく、
当時の日本全体を代表する立場の女王であったことは自明だろう。<

魏志には、九州島付近の倭人らだけで、15万戸だと書いてあるんだから、
1戸=5人とすれば、それだけで75万人になってしまう。

411日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:05:53.10
方位や距離になんのアプローチもせず
間違いだと叫ぶ畿内説はやる気あるのかね

412日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:11:10.02
424>407
>日本中にあるヤマトの地名が九州にもある!
これを連呼してるだけのキチガイ九州説に毎日笑わせてもらってるwww<

列島は山ばかりだから、
九州倭国の邪馬部族や、その臣下の(阿毎部族の)一大率や、東征将軍らに征服されて、
その境界地の入り口が、「ヤマド、ヤマト」と名付けられた。

413日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:15:12.13
本当に、たまーにゴキブリが湧いてくるけど、何なんだろう

414日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:16:25.04
424>>408
>>ダメだ。
則天に言ったのは倭国伝であるから、倭国使であり、
日本国使として書かれた粟田真人だ、とは書かれていない。<

>その倭国伝で則天時に日本国への改号を申し出た、長安3年の遣唐使が
続日本紀で大和朝廷から派遣された粟田真人だと確認できるんだよ・・・<

いやダメだ。
倭国伝には 粟田真人だなんて、全く書かれていない。
以下も同じ。

415日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:17:48.43
お前に対しゴキブリだと言っているんだよ
とレス(書き込み)をしているのに


他のスレを探して読んでみて、
どのスレだったかな

416日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:18:07.72
これだな 常識的な見解だな
----------------------------------------------------------------------------
前スレ
>>916日本@名無史さん2019/02/13(水) 07:54:32.33
>>907
>>739
>>考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、
>「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、
>景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」
>と苦言を呈している。
>☝
>賛同、突然の卑弥呼は勇み足だと思う。まず 崇神の宮?垂仁の宮? 景行の宮?と考えるのが妥当

同意。
今の畿内説は魏志倭人伝どころか国内の史書さえも無視して、独自の妄想に走り過ぎている

417日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:20:14.74
424>>409
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
文部省や学会教育界や上司の教育に隷従し、
いくら反論を受けてもシラン顔して同じこと言いい続ける
反論には反論はしない
ただ無視し、最初の主張を連呼する
「自分だけが正しい」教

それが九州説ガキの生き方

418日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:24:18.77
424>>410
>魏志倭人伝よんでるのか?
倭のやまとのことなら、邪馬台だろ。<

邪馬台なんて存在もしない嘘つき騙しの造語文言だし、
「やまと」説は、「南≠東」などによって、×。

419日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:25:25.78
ガキというか、ガキの精神年齢になっちゃった耄碌老人の人生・・・
迷惑な生き方だよなあ

420日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:33:45.11
森 浩一は、日本の考古学者。同志社大学元名誉教授。

421日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:33:59.56
424>>418
>唐会要からは明らかに、則天武后の時代に倭国が日本国と改名を申し出たと読めるので、
九州トンデモ説の成り立つ余地はない <

読めない。
旧唐書と唐会要は、日本国伝の冒頭で、
「日本國者、倭國之別種也」と断定している。
大和トンデモ説の成り立つ余地がない。

422日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:37:22.78
『精神科 施設』ここに行けw

423日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:40:16.34
どこの国の神話なんだろう

医療、医薬の神というのもいるでしょ、
たしか邪馬台国?の話ではないし

424日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:44:53.00
『医療 神』

425日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:45:20.00
424>>423
>「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半) 「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)」
唐会要が「正北抵新羅」と書いたころ 日本の正北に新羅があるというのは常識みたいね
九州説ざんねんでした<

そりゃ、現代大和説者や中国の古代史家には、
「自己解釈に拠る歴史や地理の書き換えや造作」をするんもアホが
いくらでもいたんだろう。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説、残念でした。

426日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:47:58.84
神殺しの話?もののけ姫?

427日本@名無史さん2019/02/14(木) 07:56:18.14
『ヒドラの市』?

428日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:04:39.70
>>316
>倭面土は倭国王の転記ミスらしいよ
>一番古い記述では倭国王帥升となっている

今の新字体なら国→面はありそうに見えるけれど、もともと国は國という字だったのだから
國→面はまああり得ないとしていいだろう
面土が面上になってるとかが転記ミスというのと、どこかで話が錯綜してるんじゃないかな

429日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:10:07.88
>>385
>そもそも、纏向遺跡の大型建物群の中の最も大きい建物Dは、横幅19.2m、縦幅12.4m。
>この規模の建物を“巨大”と称しているわけだから、3世紀の一般的な建物のありようは押して知るべしである。

誰が称しているんだよ。
魏志倭人伝にそんなこと書いてないだろ。

430日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:11:29.98
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』?

431日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:17:32.03
『サイバーパンクSPECIAL』


ロトちゃんというのキャラが出てくる作品、
なぜか川崎区の南部のほう??・・・という話でしょ、
何なんだろう

432日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:19:59.37
『サイバーパンクSPECIAL』


ロトちゃんというのキャラが出てくる作品、
なぜか川崎区の南部のほう??・・・の話でしょ、
何なんだろう

433日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:23:23.17
畿内は大国だったから倭人伝に登場しないはずはない、というのが
畿内説・大和説の根底にあるようだ。
しかし、それはあきらかな誤り。
魏王朝と親しかった倭の国々のみが、魏志倭人伝の主人公として収録されたのだよ。

434日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:37:46.01
いや邪馬台国に比定するにふさわしい国が九州に無いから畿内に求めてるだけ

435日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:44:21.03
それよりも『猫神やおよろず』
大黒天の何やら〜というキャラがいるでしょ、
なぜ『たまごっち!』の・・・と同じなんだと思う?


『松傾』
竹の竿が何やら?
家は、こういう名前の家なんだけど

436日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:48:22.91
>>433
敵国だったら書かない東夷伝なんてあるものか
九州説はウスラ馬鹿しかいないのだな

437日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:50:11.76
ブラフマー?
老婆が言うには伊達郡というところがあって〜
という話をしていたり。

『サイバーパンクSPECIAL』にも同じようなキャラが出てくる?
右目の無い・・・伊達郡?

438日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:50:23.29
>>434
>いや邪馬台国に比定するにふさわしい国が九州に無いから畿内に求めてるだけ

畿内のどこ?  あまりにも大雑把。  「畿内」で逃げちゃイカンぜよ。  @阿波

439日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:51:22.92
>>399
>強引に卑弥呼に結び付けるのは閉口する

じゃあ口を閉じて静かにしていろよ
無駄に騒ぐな

440日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:54:28.65
>>434
>いや邪馬台国に比定するにふさわしい国が九州に無いから畿内に求めてるだけ


弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。

温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み

県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石

県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。

阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。   @阿波

441日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:55:38.51
大黒天の何やら〜というキャラだった?
『たまごっち!』「ともみ」?

たしか川崎区の南部のほうで・・・、
5月生まれ・・・、

442日本@名無史さん2019/02/14(木) 08:57:25.00
424>>433
>・・・アホ小型丸底壷が徳島の弥生後期の矢野遺跡でみられるということである・・・アホし、
箆被付柳葉式銅鏃も弥生後期の河内の遺跡で出ているということなので、<

その「弥生後期」という年代比定では、絶対年代にはならないんだから、
問題なんだよ。

>この二つの要素でもホケノが3世紀中頃築造はOKなのではないか。<

ホケノは、卑弥呼の冢ではなく前方後円墳だし、有棺無槨ではない、
という絶対年代からの制約もあり、
卑弥呼の墓には、「南≠東」などの制約もあるから、「3世紀中頃築造」は、×。

443日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:00:01.61
>>439
捏造史観を大声で叫んでいるのはそっち。

444日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:04:35.07
世界の神々?

ラーという神(太陽神)・・・『デスラー』のことでしょ

445日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:07:05.58
424>>440
まあ、どんなウソをついてでも
ホケノ山の年代を3世紀中頃にしないと大和説の死亡は確定だからね
無理もするさ

446日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:07:06.38
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。

中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。

企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。

類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。  @阿波

447日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:10:13.42
424>>445
こうして 大和説の長里説は、
到着地点、出発地点を 恣意的に設定することで 調整されているのとが
明らかになるのであった

448日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:12:01.19
ほとんど渡来系(由来)の話でしょ、
日本起源、発祥の神なんていませんよ
みたいな事を言ってる人もいたり、どのスレだったかな

449日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:12:02.00
424>>446
大和説者が、「南→東」などの嘘つき騙しや、罵倒以外、
なにも言っていない件について

450日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:12:15.94
「樋口遺跡」

弥生時代終末期の集落遺跡

眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。

竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。

そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。

樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。  @阿波

「樋口遺跡」   http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%C8%F5%B8%FD%B0%E4%C0%D7

451日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:22:37.25
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、

石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩

徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。

井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、

新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。

出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、

当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。  @阿波

「稲持遺跡」 http://www.awakouko.info/modules/xpwiki/138.html

452日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:26:38.32
>>450

秘境だけに、粟粒のように小さな遺跡だなぁ

453日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:31:46.77
>>452
粟粒のように小さな了見だなぁ   @阿波

454日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:45:55.52
>>458
「南≠東」などの嘘つき騙しだけではなく、人類の常識に反して、
あらゆる局面でまったく証拠の出せない大和説は
証拠は?、根拠は?と無内容に叫ぶ以外に
打つ手がない

455日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:53:59.78
>>451

硬い翡翠や碧玉は「君子無故 玉不去身」や五徳を持つなどと言われたんだけど
脆い蛇紋岩はアスベストを多く含むから加工したら短命になっちゃうじゃん

456日本@名無史さん2019/02/14(木) 09:55:10.63
>>464
>>旧唐書の日本国の遣使は、薜原朝常嗣に同行した日本国遣使であったんだろう、
という事になるだけだ。<

>お、だいぶ言うことが後退したなw
前は薜原朝常嗣は、藤原朝臣常嗣じゃないって言ってたのにww<

Yahooで天誅が、私の指摘で、
「漢籍の書棚」でウソを書いていた事がバレて書き直した事だから、
私が、「藤原朝臣常嗣」だなんて、言う筈がないんだよ。

>でも、倭国の遣使がうちはこれから日本国で行きますと言ったんだから
倭国=日本国なのは動かしようがないよなw
則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。<

それは則天の時の問題であり、
則天以後は、
唐会要の倭国伝は、きちんと倭国使節を記録している。

457日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:04:19.03
>>456
どうせ事実はアンタがウソついて恥書いた事件なんだろうな

458日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:12:33.86
一文字の誤字があったから別人ァだとか別国だァとか
フルター説ワンパタでw

459日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:25:46.30
>>469
>倭人伝の行程に記された戸数は、
九州が沖縄あたりまでの巨大島と設定して初めて妥当な数字になるもの。<

沖縄なんてあり得ない。
倭人から得られた伝聞と、魏使らの実見した地域の戸数からの、概数概算だ。
九州島付近の中でも、其餘旁國や狗奴國などの戸数は記載されていない。

>実際に、筑後山門周辺に仮に35万人が住んでいたとしたら、
これは食料が明らかに足らんだろうよ。<

邪馬壹國の七万戸を1戸=5人としたんだろうが、
それも、魏の「戸」は、(家族全員数ではなく)納税兵役数の数え方であるから、
1戸平均1〜3人位、という事は、十分にあり得る。

>ということは、行程の戸数をまともに扱う必要なし<

という事は、この大和説男らの話は、まともに扱う必要なし。

460日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:36:08.15
>>456
>それは則天の時の問題であり、
>則天以後は、
>唐会要の倭国伝は、きちんと倭国使節を記録している。

いつ、誰が来たと記録してる?
九州説また真っ赤なウソかな?

461日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:40:21.66
>>459
>それも、魏の「戸」は、(家族全員数ではなく)納税兵役数の数え方であるから、
>1戸平均1〜3人位、という事は、十分にあり得る。

その主張はいったいどんな文献的根拠があって
どんな計算して「1戸平均1〜3人位」になるんだ?
九州説はまた妄想デマか?

462日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:40:53.50
>>474
>神門4号墓の鏃はホケノと型式が違い、篦被の形も違っているみたいだが関連はあるのだろうか?
神門4号墓の次に神門3号墓が造られていて、
その3号墓にはホケノと同じ腸抉柳葉式が出ているみたいだから、こちらの事だと思った
この鏃には篦被はあるのだろうか?
ホケノは 篦被付腸抉柳葉式銅鏃で年代が問題視されている<

ホケノは、鉄鏃が圧倒的に多く、明らかにで、
鉄鏃の国の九州倭国から「東征毛人五十五國」で派遣された将軍的地位の人間の墓であった可能性が高く、
少しの銅鏃は、東征途中で加わった毛人系や銅鐸系の銅鏃も加えたものであったんだろうねえ。
それが、神門でも言える事なのでは?。

463日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:44:13.76
>>317
>魏志の扶余伝・東沃沮伝・韓伝などに「槨有れども棺なし」と

それと、楯築墳丘墓の埋葬施設が同じだという保証はどこにもないんだよ
同じだと思い込んでいるようだけれどww

楯築墳丘墓について扱ったサイトではもっともらしい槨っぽい構造の図が載せてあるけれど
あれ、あくまで推定図だからな
現実がどうであったかは分からない

ホケノ山古墳については、石囲い木槨と呼ばれているけれど、棺の周囲に柱穴があり、
さらに長軸方向にも棟持ち柱を思わせる柱穴があり、棺の上に小さな木造建物を作って
それを石囲いで封じたようにも見える

いずれにしても、ホケノ山古墳は槨じゃないよww

464日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:44:29.33
>>455
>脆い蛇紋岩はアスベストを多く含むから加工したら短命になっちゃうじゃん

「忌部はん」 には、仙薬の水銀朱があるから大丈夫だよ。 アハハハ   @阿波  

465日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:51:32.21
>>462
あ、その年代問題視とかは
もう終わった話だから

466日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:53:33.20
>>463
>いずれにしても、ホケノ山古墳は槨じゃないよww

いずれにしても、ホケノ山古墳は「忌部はん」 のお墓だよww  @阿波

467日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:54:19.45
阿波は忌部の部民だろ

468日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:55:33.21
最近のお笑いポイント高得点は古田派が河原かどっかで拾った文鎮を古代の遺物に仕立て上げて恥かいた一件かな
毎度マジ笑えるわ

469日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:57:42.25
>>341
>3世紀だろうがなんだろうが、卑弥呼がいた邪馬台国とは別の国が畿内にあったということだよ。

畿内にあった国が卑弥呼の国では「ない」とする積極的な理由は何一つない
逆に、状況証拠はほぼすべて、畿内の国が邪馬台国=ヤマト国であることを示している

卑弥呼の国じゃないと思いたがっているのは、少数の九州説の人だけだよ

470日本@名無史さん2019/02/14(木) 10:59:39.50
転記ミスについては楷書と行書の字体の両方を検討しなきゃダメだろうな

471日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:17:12.22
畿内説・大和説の根底には、
畿内は大国だったから倭人伝に登場しないはずはない、という思い込みがあるようだ。
しかし、それはあきらかに迷信。
魏王朝の曹操と親しかった九州・倭地の国々のみが、魏志倭人伝の主人公として収録され、
疎遠だった近畿・和の地方は、ただの倭種として片づけられたのだよ。

472日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:20:51.57
もうあかんわ
九州説の退化が止まらない

473日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:21:29.90
どこの低脳なんだ

474日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:22:54.88
>>469
>卑弥呼の国じゃないと思いたがっているのは、少数の九州説の人だけだよ

しかも極度に頭の悪い、な

475日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:24:57.63
西王母などがいるでしょ、あと河伯?日本では河童・・・、
このような人々のほうが上だろう

そういう話があるということは、日本に渡ってきているの?
と言っても・・・当時、日本という国自体無かったんだけど

476日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:26:23.42
>>467
>阿波は忌部の部民だろ

阿波は忌部一族(倭人)の総本山だよ。 今ある天皇家の故郷。  だから今も天皇家と阿波は誼を通じているでしょ。  @阿波

477日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:26:40.11
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したあとも、揶揄われているな。。。

478日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:30:44.41
畿内説・大和説の根底には、
畿内は大国だったから倭人伝に登場しないはずはない、という思い込みがあるようだ。
しかし、それはあきらかに迷信、片思い、、、
魏王朝の曹操と親しかった九州・倭地の国々のみが、魏志倭人伝の主人公として収録され、
無縁仏だった近畿・和の地方は、ただの倭種として片づけられたのだよ。

479日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:38:37.04
それと、なぜ王朝なのか?とか・・・
王氏から付けられた?

480日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:40:15.55
>>344
>しかしあくまでも3世紀の畿内は筑紫の足元にも及ばない発展途上地域であり

これが、九州説のご都合主義思い込みの最たるもの
池上曽根遺跡、亀井遺跡、唐子鍵遺跡に匹敵する集落遺跡は九州にはほとんどないぞ
(まったくないとは言わない)

481日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:40:53.41
伝説のチャンピオン、王の中の王、アリス?が
何やらと言ってる人がいたり

482日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:42:07.72
>>346
>筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。

九州説は祇園山古墳を持ち上げたがるが、規模からいっても副葬品からいっても
ありふれた小方墳にすぎず、王墓と見るのは無理なものでしかない

483日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:43:53.99
>>489
>そこから水行20+10日、陸行1月の遠地に邪馬台国はある<

ない。
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事と、
「水行十日陸行一月」は「女王國之所都」の説明であるから郡からの所要日数になる事ら、
「南≠東」で瀬戸内以東は×になる事。

484日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:46:36.96
殷でも同じ、殷王朝、□王・・・とか、


そのまま王という名前の人物がいたり、
王氏のほうが凄いという意味なんじゃないの

485日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:47:31.37
>>482
だってなんにも無いんだもん九州

486日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:47:46.84
>>492
>怡土郡→伊都国を、自説の都合で否定する人が何を言っても説得力ゼロだ<

「南≠東」を、自説の都合で否定する人が、
何を言っても説得力ゼロだ

487日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:51:59.51
>>486
それ以前に毎日ウソつくザラコクがなに言っても説得力ゼロだがな

488日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:53:56.27
>>361
>邪馬台国よりも、
>神仙界のほうが凄いような感じがするんだけど

というか、中華世界の東の海に東王父の蓬莱山があることになっていて、
徐福も蓬莱を目指した
淮南子でも、東方世界には大人国や君子国があることになっている
淮南子:墬形訓
自東南至東北方,有大人國、君子國、黒齒民、玄股民、毛民、勞民;

倭国は、これらの大人国や君子国のイメージを持たれているというのも
魏志倭人伝の記述を読むときに意識する必要がある

大陸中華の勝手な理想世界の場所なんだよね、東方海上の仙人島というところは

489日本@名無史さん2019/02/14(木) 11:55:38.26
>>367
>ヤマト王権と邪馬台国を混同しているだけだよ。

ヤマト王権=邪馬台国である蓋然性が一番高いんだよ
それを否定する積極的な理由はない

違うというのは単に九州説の願望なだけ

490日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:06:20.55
鶴に乗り何やら〜?機織り関係の話でしょ。

当時住んでいた近所に
蓬莱橋というところがあったと言っているし
『老婆談』


なぜ『蓬莱』そのような名前がついているのか?
むかーし・・・・渡って来た人・・・・が住んでいたからなんだろう

491日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:09:49.60
家(『松傾』)?は、
むかーし、その近所に住んでいたんだよとも言っていた

蓬莱川、ダム?そういう話もしていたり

492日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:13:43.90
なぜか、いまの福島県のほうの話、飯野町?

川が流れていて、そこにダムがあったんだよ・・・・、
電気、発電が何やら〜とか


『老婆談』

493日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:16:12.88
>>377
>纏向の掘立柱建物は宗神の居館

これ何だろうと思ってたら、

>>380
>最近、第10代天皇の諡号を読めなくて誤変換し続けてる非日本人がいるな

ってことか!
宗家の氏神のことかと思ってたww

494日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:19:19.23
>>385
>とすれば、卑弥呼が立派な竪穴式住居に住んでいたとしても、驚くことではないのではないか。

その立派な竪穴式住居は、どこにあるんだ?ww

495日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:23:18.02
本当に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
謎の掲示板があるんだけど、家の話をしているんじゃないの?

伊達郡の川俣町、飯野というところの話、養蚕、機織り・・・、
あと香野という家があったとか

496日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:26:23.33
>>392
>「新唐書に倭国伝がある」という嘘吐き騙しを書いている。

新唐書
卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷
倭,日本
日本,古倭奴也。去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。
國無城郛,聯木爲柵落,以草茨屋。左右小島五十餘,皆自名國,而臣附之。置本率一人,檢察諸部。
其俗多女少男,有文字,尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,
凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。
次曰綏靖,次安寧,次懿コ,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,
次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。
次應神,次仁コ,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,
次仁賢,次武烈,次繼體,次安閨C次宣化,次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。
次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。
次舒明,次皇極。其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。
至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,
不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

永徽初,其王孝コ即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼硇若五升器。
時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。未幾孝コ死,其子天豐財立。
死,子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者須長四尺許,
珥箭於首,令人戴瓠立數十步,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。
咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。
使者自言,國近日所出,以爲名。

497日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:29:12.10
>>421
>「日本國者、倭國之別種也」と断定している。

だから、「別種」というのはもともと「同じものの別の呼び方」だと教えているだろうがw

498日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:30:00.38
蓬莱ダムの歴史

>1936年(昭和11年)〜

でも家は川崎区(神奈川県)に住んでいたと言っているし、何なんだろう

499日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:32:26.40
>>438
>畿内のどこ?  あまりにも大雑把。  「畿内」で逃げちゃイカンぜよ。

亀井遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡その他たくさんの大集落遺跡群が、
畿内第V様式土器の段階(弥生後期)で一つの勢力としてまとまっているから、
その範囲が邪馬台国七万戸の範囲と何度も書いているだろうが

500日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:37:21.28
>>456
>則天以後は、
>唐会要の倭国伝は、きちんと倭国使節を記録している。

その則天以降の倭国伝に出てくる
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
が、大和朝廷の藤原朝臣常嗣なんだから、倭国=大和朝廷なのが明確だろ?ww

501日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:49:55.51
畿内説・大和説の根底には、
畿内は大国だったから倭人伝に登場しないはずはない、という思い込みがあるようだ。
しかし、それは迷信、片思い、、、
魏王朝の曹操と親しかった九州・倭の国々のみが、魏志倭人伝の主人公として収録され、
無縁仏だった近畿・和の地方は、ただの倭の一種として片づけられたのだよ。

502日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:52:22.67
>>499
>亀井遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡その他たくさんの大集落遺跡群が、

それらのバラバラのどこが弥生後期の大集落群なんだね? 消滅集落じゃないの?  恥ずかしいにも程がある。


>畿内第V様式土器の段階(弥生後期)で一つの勢力としてまとまっているから、

弥生土器を自慢そうに言われてもwww 軽量薄型土器だよ、卑弥呼の時代は。 お粗末。  @阿波


>その範囲が邪馬台国七万戸の範囲と何度も書いているだろうが

503日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:55:54.73
>>499
>その範囲が邪馬台国七万戸の範囲と何度も書いているだろうが

そう何度も書いているのは、君かね?  コソコソ逃げ隠れしてちゃイカンぜよ。  @阿波

504日本@名無史さん2019/02/14(木) 12:59:11.28
wiki『蓬莱町 (福島市)』について調べてみたところ、
蓬萊地域、清水町というところがあるでしょ


『日本昔話 姥清水』?

505日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:02:31.89
四天王寺って色々謎が多いわ
色々な伝承が残っている

木を運んできた牛が伽藍の完成とともに石神に変わったという伝承があり、牛王尊が祀られている

牛が石になるというモチーフはある程度共有されていたのかな
大勢力だったのかもしれない

506日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:04:21.96
>>471
>畿内は大国だったから倭人伝に登場しないはずはない、という思い込みがあるようだ。

周辺の蛮夷のの国の王認定に、大陸王朝は結構気を使っている
その民族・種族で一番の勢力のトップに王号を出すのでなければ、
王号を出した皇帝の権威に傷がつくことになる

だから、「朝貢=王と認める」ではなく、除正使・答礼使をわざわざ派遣して、
その国情を確認している

その結果、投馬国五万戸や、奴国二万戸が倭国内の大国として記録されている訳だ
九州と本州の距離で、別の国扱いされたりはしないしされていない

まあ、足利義満とか、その後の室町幕府の勘合貿易では大名が日本国王を
名乗っていたというのを反例として上げる人がいるけれど、幕府が日本の
最大勢力なのは間違いないし、細川や大内も幕府の代表(を僭称している
場合もあるが)として貿易を行っている

507日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:05:55.56
飯野町 (福島市)でしょ?

本当に、どういう話なんだろう、
wikiで良いから、下のほうを見てみて
「福島市の町・字」というところ

508日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:09:53.23
吾妻地域というところに、桜本という町?
?????????????❔

509日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:12:53.97
>>506
文意が良くわからぬが、、、
その民族・種族で一番の勢力のトップに王号を出すというのはそのとおり。
それが、帯方郡の支援を受けた鉄の九州邪馬台国だったと、オレはいいたいわけだ。
(ま、足利、細川、大内は後世の事例としては良いが、三世紀の参考にはならぬわな・・、)

510日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:18:15.74
>>509
>それが、帯方郡の支援を受けた鉄の九州邪馬台国だったと、オレはいいたいわけだ。

「鉄の九州邪馬台国」は、ない。   鉄も断然、倭国(阿波)。  残念でした。   @阿波

511日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:18:21.19
桜本・・・?『サイバーパンクSPECIAL』?

ロトちゃんというキャラが住んでいるところの近所でしょ、
川崎区の南部のほう

512日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:20:36.06
>>509
>それが、帯方郡の支援を受けた鉄の九州邪馬台国だったと、オレはいいたいわけだ。

「いいたい」ではなく、きちんと「具体的に根拠を示して」論じてね!w

縄文以来、沿岸航行で長距離交易を行ってきていて、相互の交流も十分にあった倭国内で
弥生終末期には各地で巨大墳丘墓を作る時代に入っているのに、めぼしい墓も作れない北部九州が
最大勢力だというのは、まともな論理的思考力のある日本人には無理だな

513日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:24:48.73
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

514日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:33:32.48
>>512
中身がなくて具体的なことが言えないから胃痛いんじゃないのか九州説は

515日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:34:38.14
>>513
連続句読点も、本当に韓国が大好きだよなww

見てれば、「邪馬台国は九州、皇統は半島出身」って言いたがっているのが、
半島系だってのはバレバレなのにw

516日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:40:47.18
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国政府に雇用された韓国人が、邪馬台国畿内説が破綻したことを認めて、新しい宣伝の骨子を掲げたのではないのかな。。。

515日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:34:38.14
>>513
連続句読点も、本当に韓国が大好きだよなww

見てれば、「邪馬台国は九州、皇統は半島出身」って言いたがっているのが、
半島系だってのはバレバレなのにw

517日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:45:51.34
>>516

このスレッドで、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している、北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、
倭人という民族が、元々は、九州を中心に四方に繁栄していた日本民族の固有の祖先ということを、隠すために、新しい思想を宣伝しようとしているのでは、ないのかな。。。

518日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:48:00.35
>>517
515番の投稿を発表した、邪馬台国畿内説の宣伝係員は、韓国人か北朝鮮人のどちらかでは、ないのかな。。。

519日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:48:21.20
うたれよわい奴

520日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:51:40.61
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
韓国人や北朝鮮人の宣伝係員が焦っているな。。。

521日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:51:54.81
姥清水に出てくる蛇がいるでしょ、
本当は・・・というか本物は?

その蛇(本物のほうは龍?)を刀や剣で斬り殺したり、
退治をしたという話・・・?

522日本@名無史さん2019/02/14(木) 13:55:21.38
どんどんレベル(スケール)が下がってきているの?
どういうコンセプトなんだろう


それとも『氷の世界』という曲?

523日本@名無史さん2019/02/14(木) 14:21:09.32
10 崇神天皇
11 垂仁天皇
12 景行天皇

纒向の掘立柱建物と關係ありそうな天皇
卑弥呼のでる幕は無い

524日本@名無史さん2019/02/14(木) 14:46:31.49
>>523
>纒向の掘立柱建物と關係ありそうな天皇

消滅遺跡を買いかぶりすぎ。  @阿波

525日本@名無史さん2019/02/14(木) 14:46:44.24
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

526日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:08:40.47
>>512
>弥生終末期には各地で巨大墳丘墓を作る時代に入っているのに、めぼしい墓も作れない北部九州が
>最大勢力だというのは、まともな論理的思考力のある日本人には無理だな

「巨大墳丘墓を作る時代・・」というのがマチガイの根源。
なんせ、卑弥呼の墓は「塚」だったのだからな。そこんところを気狂ってはイカン。

527日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:16:57.53
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
韓国人や北朝鮮人の宣伝係員が焦っているな。。。

528日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:35:27.81
>>512
>弥生終末期には各地で巨大墳丘墓を作る時代に入っているのに・・

巨大墳丘墓て、なんのこっちゃ?
具体例を教えれ。、

529日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:39:24.64
>>526
>なんせ、卑弥呼の墓は「塚」だったのだからな。そこんところを気狂ってはイカン。

ほとんどの古墳は歴史的に
塚と呼ばれて来たがね

530日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:47:22.44
>>85
記紀の神話はそうなっているが、石上に物部氏が墓をつくり多数の工房を持つようになるのは考古学的に5世紀とされている。
それ以前の物部氏の姿は不明ではないか。
北河内にはいたのかもしれないが。
北河内物部氏の先祖の神話がニギハヤヒではないか。
神武は、創作の可能性があるし。

531日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:52:17.89
>>87
そういう見かたもあるかもな〜。

532日本@名無史さん2019/02/14(木) 15:58:41.43
>>109
熊襲は、忌部人民だったのか。

533日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:01:05.93
>>529
>ほとんどの古墳は、(日本の)歴史的に
>塚と呼ばれて来たがね

日本の歴史ではどういったか知らぬが、話題の倭人伝は中国の歴史書だ。
中國において塚(ちょう)と墳(ふん)はどういう位置づけだったのかで判断しなくてはならぬだろう。

534日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:07:13.88
>>115
介山は、介休市から20kmくらいの位置だぞ。
インキチというまえに、三十里の計算を出せよ。
どこで測量したというんか。
その位置をちゃんと書けよな〜。
インキチはお主じゃろ。
わははははは。

535日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:17:56.95
冢:高墳也。(說文解字)

536日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:24:20.27
>>533
前方後円墳が冢でない
という我流珍説には
なにも根拠がない
まったくなにも

537日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:29:22.23
>>122
纏向遺跡の外で賄いして、大型建物まで持っていくには1日かかるじゃろ。
飯や汁は、冷めてしまって、まずい。

538日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:35:21.50
>>115
>また、標高2000m以上の独立峰的高山であるから、
>かなり遠方の標高の低い(三角測量が出来る)地は探せばいくらでもあり、

つか、三角測量で標高が出せる気でいるチエオクレがいるな

539日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:41:49.00
>>145
アホちゃう。
住むというのは、衣食住だと中学校で習っただろが。
その食の痕跡がないと言うとるんだよ。
郡議や祭事するのを住むというんか。
食わずに寝るだけなら、すぐミイラになるしな。
とにかく、その掘っ立て柱で食って住んだというのだから、お主は食った痕跡示さんとなあ。
いくらキヤンキャン吠えても、遠吠えだけや。
わはははは。

540日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:50:26.52
>>153
お主はアホみたいに叫ぶ前に、纏向の大型建物Dに人が住んだことを証明せんか。
東南アジアの水田地帯の掘っ立て柱住居では、煮炊きは地面でしてるぞ。
大型建物Dの近辺にそんな跡があるんか。
ないというのが調査の結果じゃろ。
お主、アホちゃう。

541日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:55:50.77
>>156
アホちゃう。
竪穴式の柱穴と、掘っ立て柱の穴は双方異なるの知らんのか。

542日本@名無史さん2019/02/14(木) 16:59:59.06
>>160
アホちゃう。
誰が、吉野ヶ里が卑弥呼の邪馬台国やというてるの。

543日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:04:31.19
424>>503
>邪馬台国というのはヤマトにあった王権なんだから
ヤマト王権以外のなんでもあるまい <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國の事なら、「南≠東」に拠って、×だ。

544日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:08:28.94
>>539
>その食の痕跡がないと言うとるんだよ。

545日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:09:47.56
で?

誰が、食の痕跡がないと言うとるんだよ?

546日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:10:13.87
>>181
卑弥呼が猿みたいに纏向の掘っ立て柱倉庫に住んでいたというお主の夢想は、アホの証明だな。

547日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:12:05.80
>>545
桜井市の橋本輝彦。

548日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:12:24.62
>>540
>ないというのが調査の結果じゃろ。
>お主、アホちゃう。

はあ、その調査の結果を見せてね

549日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:13:10.38
>>545
煮炊きして住んだ痕跡あるんか。

550日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:14:12.39
>>548
アホちゃう。
己が調べんかい。

551日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:14:21.87
>>547
>桜井市の橋本輝彦。

言ったという証拠は?

552日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:16:23.83
>>550
つまり、また九州説は
一切証拠なしに我流珍説を言い張っていると

そういうことですな?

553日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:18:00.81
424>>504
>>旧唐書日本国伝の「開成四年、又遺使朝貢」と、
唐会要倭国伝の、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、
同じ年次であるし<

>そりゃそうだ 同じ国の同じ一行だから
第19回遣唐使 承和5年(838年) 大使:藤原常嗣 副使:小野篁 円仁らが入唐<

倭国伝と日本国伝に書き分けられた、という事が実態であり、
倭国の使節を名乗ったのは、薜原朝常嗣だ、という事だ。
つまり、倭国と日本国の両方から遣使が来た、いう事になる。



554日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:18:15.43
>>549
>煮炊きして住んだ痕跡あるんか。

あるよ
ススの付いた炊飯用土器が山ほど

555日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:20:42.56
>>553
>倭国伝と日本国伝に書き分けられた、という事が実態であり、

それはあなたの「解釈」でしょ
そしてそれが「実態なのだ」という主義主張

しかし、証拠は無い

556日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:27:01.37
>>368
邪馬臺国も奴国も伊都国もみんな倭
3世紀前半の北九州は女王国連合の一部

以上

557日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:27:58.52
>>550
>アホちゃう。
>己が調べんかい。


言い張るだけ言い張る
いっさい証拠は出さない

それが九州説という生き方

558日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:28:12.72
>>554
そりゃ、現地人や外来人が纏向の土木工事のときに昼飯に煮炊きした甕じゃろ。
掘っ立て柱建物Dの近くに、長期にわたって煮炊きした土器や小屋跡があるんか。

559日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:30:23.08
>>558
>そりゃ、現地人や外来人が纏向の土木工事のときに昼飯に煮炊きした甕じゃろ。

纒向は、古墳造営前線基地だからね。  @阿波

560日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:30:57.07
>>557
人に頼るな、自ら努力せい。
それが〜、成長の〜、糧となる〜。
しかし、お主にゃ無理か〜。

561日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:31:27.49
424>>511
>纒向が邪馬台国の都の中心祭祀場で、それがヤマト王権の崇神、垂仁、景行三代の宮所なんだよ
のちのヤマト王権ではなく、そのままヤマト王権そのものだよ<

邪馬台国という存在もしない嘘つき騙し文言を使って、
纏向が邪馬壹國女王之所都であるかのような言い方をすれば、
「南≠東」などに拠って、×。

562日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:34:01.43
>>559
纏向は、祭祀施設と墓域の場所。
人が住んで暮らした場所ではないな〜。

563日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:35:52.36
>>560
つまり、またウソだっのね九州説


ww

564日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:37:54.44
>>551
己が調べんかい。
アホちゃう。

565日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:39:24.85
>>523日本@名無史さん2019/02/14(木) 14:21:09.32
>10 崇神天皇
11 垂仁天皇
12 景行天皇
纒向の掘立柱建物と關係ありそうな天皇 <


陵墓ゆえ調査に限界があるが確率的には可能性は高いと思う

566日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:39:38.93
>>562
>人が住んで暮らした場所ではないな〜。

古墳造営に携わった人は臨時的には住んでるよ。  @阿波

567日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:40:43.76
>>558
>そりゃ、現地人や外来人が纏向の土木工事のときに昼飯に煮炊きした甕じゃろ。

大土木工事は長年かかるよね?
つまり、煮炊きした場所が確認できないと人が生活していない、という主張が成り立たないことは証明された

568日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:41:07.89
424>>512
>投馬国の記述と邪馬台国の記述は構成が同一<

別に同一でもないし、邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
また、投馬國は、側副傍線國としての説明。
そして、邪馬壹國は、女王之所都としての説明。

569日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:41:33.96
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

570日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:41:56.89
>>565
>陵墓ゆえ調査に限界があるが確率的には可能性は高いと思う

まったく、無い。 天皇の陵墓でも、無い  @阿波

571日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:42:36.90
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

572日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:42:46.97
>>564
>己が調べんかい。
>アホちゃう。

主張は毎日声高にする
証拠は絶対出さない

九州説というお気楽な生き方

学説として死ぬのは当たり前ですね

573日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:44:23.09
祭祀所の建物を“居館”だって。
プププ。

574日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:45:39.84
>>568
ほらな

九州説は証拠を出さない
マイ結論を言い張るだけ

575日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:48:18.92
ヤマトは卑弥呼や邪馬台国と無関係の倭地だろうな

576日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:48:47.86
>>523
>纒向の掘立柱建物と關係ありそうな天皇
>卑弥呼のでる幕は無い

九州説は考えが足りないから思い至らないようだけれど、ヒメヒコ制の
ヒメ王が卑弥呼、台与で、ヒコ王が崇神、垂仁、景行と考えればまったく矛盾も問題もない

577日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:50:23.17
>>572
早よ、大型建物Dに卑弥呼が住んだ証拠だしてチョ。
主張は毎日声高。
証拠皆無。
それは♪ アホの大和主義者♪
夢想の果てに野垂れ死に♪
骸は鳥の餌となる♪
遺骸は、纏向遺跡に葬ってやるから、安心してあの世へ旅立ちな。

578日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:50:35.89
>>574
アホか
投馬国の様子は倭人伝に記述されてねーよ

579日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:51:16.07
九州説のような
理由もなく断定ばかり
してる人たちの説が
世間から忘れられていくのは
当然のことだ
だって
聞いた人は理由がわからないんだから
わけのわからないことばかり言い張る人に
いつまでも耳を傾けるわけないよね

580日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:51:28.52
>>526
>「巨大墳丘墓を作る時代・・」というのがマチガイの根源。
>なんせ、卑弥呼の墓は「塚」だったのだからな。そこんところを気狂ってはイカン。

古墳のような墳丘を「高塚」というのだよ
卑弥呼の墓が「塚(冢)」なのだからそのものだろうがw

九州説はザラコクをはじめとして、自分の勝手解釈を正しいと勘違いしているから痛々しいw

581日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:52:26.06
>>569
出典を教えてよ

582日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:52:29.03
>>575
太鼓判。

583日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:54:56.97
>>577
>早よ、大型建物Dに卑弥呼が住んだ証拠だしてチョ。
>主張は毎日声高。
>証拠皆無。
>それは♪ アホの大和主義者♪

芸のないオウム返し乙
先に
「大型建物Dに卑弥呼が住んだ」
と誰かが言った証拠だしてね

584日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:55:39.77
>>528
>巨大墳丘墓て、なんのこっちゃ?
>具体例を教えれ。、

ほいよ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある

畿内纏向遺跡ではもっと大きく
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

北部九州でも、卑弥呼よりも前の時代には
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

平原1号墓 12×8メートル
祇園山古墳 25メートルの方墳 というのは、見劣りするなんてもんじゃないだろ?

平原1号墓の面積は、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の10分の1以下だ

585日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:56:18.81
>>566
時代が違うけどなww

586日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:57:34.72
サル以下の九州説と会話しても無駄w

何一つまともな事知らないんだからな
中国史に九州なんて全く相手にもされてないのにバカ丸出しの妄想できるんだから

587日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:57:35.91
>>585
どう違う?

588日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:58:30.73
狗奴国と戦争状態にあるのに
ヤマトで墓を増産してたのは邪馬台国で無い証拠じゃねーの

589日本@名無史さん2019/02/14(木) 17:59:12.44
>>579
ウソも連呼してたら人民は信じる、と言うたのはヒトラーの子分ゲッペルス。
大和主義者も、なんか、似てないか。

590日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:00:02.93
チンケな竪穴住居しかない(笑)
柱一本立てただけの大祭司遺跡(笑)

猿の住処九州の現実

どこに宮殿があるんですかー?
どこに祭祀遺跡があるんですかー?

なんにもねーよなwwwwwwツチグモの住むド田舎
それが九州

591日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:00:15.86
具体的な話のできない九州爺
情報持ってないんだから
できるわけないよね
脳内の結論わめく以外することない

592日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:00:37.22
吉野ヶ里のは14人分
平原1号は吉野ヶ里には勝っている

593日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:01:33.83
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

九州猿が幾ら聞こえない振りしてもこれが現実

594日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:02:11.40
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

能無し九州キチガイがどんなに逃げ回ろうがこれが現実

595日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:02:40.91
>>585
>時代が違うけどな

もちろん、纏向の古墳造営は古墳時代。  @阿波

596日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:03:06.07
>>590
それがね、纒向より年代の古い吉野ケ里の方が
都市として文化程度が高いのだよね

597日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:03:24.32
>>533
>日本の歴史ではどういったか知らぬが、話題の倭人伝は中国の歴史書だ。
>中國において塚(ちょう)と墳(ふん)はどういう位置づけだったのかで判断しなくてはならぬだろう。

冢 
説文解字
高墳也。从勹豖聲。知隴切 文十五 重三
説文解字注
高墳也。土部曰。墳者、墓也。墓之高者曰冢。周禮冢人掌公墓之地是也。
按釋山云。山頂曰冢。鄭注冢人云。冢、封土爲丘壟。象冢而爲之。此從爾雅說也。
許以冢爲高墳之正偁。則不用爾雅說。引伸之凡高大曰冢。釋山及十月之交傳。
山頂曰冢。乃借冢偁耳。釋詁曰。冢、大也。太子曰冢子。太宰曰冢宰。从勹。墓取勹義。
豖聲。知隴切。九部。按豖聲本在三部。此合音也。古音冢必可讀如獨矣。

高塚が墳で問題ないし、日本で古墳と呼ばれているものは間違いなく「冢」だよ
http://www.zdic.net/z/15/sw/51A2.htm

598日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:03:36.97
>>588
>狗奴国と戦争状態にあるのに
>ヤマトで墓を増産してたのは邪馬台国で無い証拠じゃねーの

戦争情報にあるという証拠は?
自己申告だけでしょ?
史料には戦争の目撃情報はゼロで、径100余歩の墓を作る工事をしてたと明記されてるが?

599日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:05:09.34
>>537
>纏向遺跡の外で賄いして、大型建物まで持っていくには1日かかるじゃろ。

纏向遺跡がいくら大遺跡でも、そこまで大きくはないよww
1キロも歩けば纏向遺跡の外から大型建物まで行き着く
15分くらいかなw

600日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:06:09.88
>>583
とうとう、白状したな。
バカモノ。
お主も、卑弥呼が建物Dに住んだと思ってない、ということだな。
よし、よし。
あそこは、倉庫を祭祀所に改修した施設でOKと。
わははははは。

601日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:07:40.21
>>539
支離滅裂になってきてるぞww

>住むというのは、衣食住だと中学校で習っただろが。

「住む」というのは、衣食住の「住」だけだろ?ww

>その食の痕跡がないと言うとるんだよ。
>郡議や祭事するのを住むというんか。

こっちは、「住む」ではなく「生活」と言っているんだが?

社会生活とか、生活空間とかいう言葉もある
卑弥呼の生活の場が、高床建物で何か問題があるか?

602日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:07:47.73
嘘つきの心理

「こうだったらいいな」

「こうに違いない」

「最初からこうだった」

九州サルがこのままのサル踊りを毎度してるんで大爆笑w

603日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:07:59.11
>>598
>径100余歩の墓を作る工事をしてたと明記されてるが?

それ、倭国(阿波)での話だよ。  @阿波

604日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:10:29.47
>>599
15分程度を野辺道歩いてオカモチ運べば、飯や汁はかなり冷めるな。
卑弥呼は、冷や飯食べていたということか。
それじゃ、長生きできんじゃろ。

605日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:11:26.95
>>596
>それがね、纒向より年代の古い吉野ケ里の方が
>都市として文化程度が高いのだよね

ほらね
九州説は一切証拠なしに結論わめくだけ

606日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:12:34.21
>>588
>狗奴国と戦争状態にあるのに
>ヤマトで墓を増産してたのは邪馬台国で無い証拠じゃねーの

実際、魏志倭人伝に、卑弥呼の死に際して「大作冢、徑百餘步」って書かれてるだろ?
戦争中でも首都で戦闘があるわけじゃないんだし、七万戸の大国なんだから人はいくらでもいる

大きな墓が作れないところに倭王はいないよ

607日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:14:31.23
>>595
ふるいね
トンデモ説は
学問的にもう否定されて
歴史のクズカゴに入った過去説を
ふりまわすだけ

608日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:16:53.73
答えに窮して吉野ケ里が邪馬台国とか言い出したサルのバカ踊りをご覧ください

609日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:17:39.42
>>604
証拠ゼロのラノベ書くのが
九州説の生きる道を

ww

610日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:18:35.63
>>601
アホちゃう。
国会議員が議事堂で議論するのを生活すると言うのか。
あれは、活動じや。
ノータリンもほどほどにしろよ。

しかし、誰かに食べた跡ないだろと突っ込まれて、あれこれウソ重ねて、しまいには言うことなくなって、ついに脳味噌破綻。
いずれにしても、邪馬台国大和説は、無理、無理。

611日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:25:02.53
>>584

文化も地域も時代も違うならば、何の比較にもならん

同時代で、同文化圏内の比較で話してくれるか?

時代や地域や文化か違うならば、社会情勢も思想も様々

612日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:27:04.23
>>595
そこが、意見分かれる。
寺澤は、石塚などを古墳としているが、他の学者には弥生墳丘墓であって古墳ではないとする者もいる。

613日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:31:54.95
>>600
>バカモノ。
>お主も、卑弥呼が建物Dに住んだと思ってない、ということだな。

おつむの弱い九州説爺3は
こうやっていつも
イタコ芸をして
笑われる

614日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:33:08.28
>>592
>吉野ヶ里のは14人分
>平原1号は吉野ヶ里には勝っている

おやまあ、ひどい詭弁を持ち出してきたなw

でも、丹波の赤坂今井や、吉備の楯築墳丘墓、出雲の西谷9号墓、纏向古墳群には
平原1号墓は圧倒的に決定的に負けてるってことでいいねw

615日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:33:55.08
>>590
>柱一本立てただけの大祭司遺跡(笑)

前にも書いたけれど、吉野ヶ里の北墳丘墓は祭祀のための施設がかなり充実しているから、
ここは突っ込みどころではないと思う

墳丘墓があって、その長軸の軸線に合わせて立柱が立てられていて、その延長上に祠堂がある
さらに、その直線上の集落の反対の端に、かつて南墳丘墓と呼ばれた祭壇があり、
そのライン上に北内郭がある
北墳丘墓ー立柱ー祠堂
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

吉野ヶ里遺跡の平面プラン
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

616日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:35:47.56
>>611
そうやって事実から逃げ続けた結果が
九州説のいまの惨状なんだがね

617日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:36:13.51
>>604
>15分程度を野辺道歩いてオカモチ運べば、飯や汁はかなり冷めるな。

誰が外から食べ物を持ち込んだといってるんだ?ww
纏向遺跡地内から、たくさんの飯炊き甕が出ているのは知っているだろうが?

もしかして、知らなかったの?ww

618日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:40:26.28
>>607
>トンデモ説は
>学問的にもう否定されて

以前は纏向古墳群の、箸墓以前のものは纏向石塚「古墳」などと呼ばれていても、
古墳時代以前だから弥生墳丘墓と考えるべきだとする意見もあったけれど、
最近は纏向型前方後円墳の時代から古墳時代とするようになった、つまり
古墳時代の始まりが前倒しする考え方が通説になってきている

だから>>595の「もちろん、纏向の古墳造営は古墳時代」は一周回って、正しいことになってるんだよ
その、纏向遺跡で古墳造営していた古墳時代は、卑弥呼の時代とばっちり重なるんだけどね

619日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:41:28.66
>>610
>国会議員が議事堂で議論するのを生活すると言うのか。

政治生活だよ
日本語が不自由なんだな、>>610はww

620日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:41:36.76
424>>518
>《唐會要》では、則天時に日本國へ改号してるからいいんだよ。<

それなら、唐会要は、
「開成四年の遣使」を日本国伝に書けばよい筈であるのに、書いておらず、
倭国伝の方にだけ書いている。

>《舊唐書》は、則天以降のみ日本國の項に書く編集方針だというだけ。<

だから、間違いなく、開成四年に「日本国使」を名乗った遣使がいた、という事だ。

>違う文献を混ぜて評価すべきではない。<

いや、知り得る限り、出来るだけ多くの史料に当たるべきだ。

621日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:43:50.13
>>598
邪馬台国が、狗奴国と交戦していると郡へ注進し、郡の役人が出張っていったら伊都あたりに足止めされて卑弥呼に会えず、檄作って送ったというのだから、戦闘が続いていたと解釈するのが妥当。

622日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:45:04.66
>>611
>文化も地域も時代も違うならば、何の比較にもならん
>同時代で、同文化圏内の比較で話してくれるか?

倭国という同じ地域で、2世紀後半から3世紀はじめという同じ時代なんだが?
細かい差異はあっても、同じ倭人の同じ文化圏だ

>時代や地域や文化か違うならば、社会情勢も思想も様々

社会情勢も同じで、倭国乱からの事態収拾で卑弥呼を共立するという社会情勢を共有している
北部九州の奴国でも纏向型前方後円墳の那珂八幡古墳を作ってるだろ?

九州だけ別文化ってことはないんだよ
詭弁にもならないし何の言い訳にもならないww

623日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:46:20.98
>>612
>寺澤は、石塚などを古墳としているが、他の学者には弥生墳丘墓であって古墳ではないとする者もいる。

いずれにせよ、卑弥呼の墓は、萩原2号墳より前だよ。 
萩原2号墳を古墳とするか、弥生墳丘墓とするかは、どうでもよい。 卑弥呼の墓は円墳。  @阿波

624日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:48:00.34
九州説の爺は飯の心配ばかりしている

625日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:48:50.77
>>621
>邪馬台国が、狗奴国と交戦していると郡へ注進し、郡の役人が出張っていったら伊都あたりに足止めされて卑弥呼に会えず、
>檄作って送ったというのだから、戦闘が続いていたと解釈するのが妥当。

FAQ19より>>17
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。」

実際に「大作冢、徑百餘步」と書いてあるんだから、戦争中だろうとなかろうと、
径百歩の冢を作っているんだし、大きな墓がないところは候補地になれないんだよ

626日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:49:36.44
有明海周辺は別文化だよ

627日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:49:58.73
424>>519
この投稿は、反論済み。
この男は、「南≠東」や「」倭国=正北抵新羅」や「日本國者、倭國之別種也」、
などの問題をこっそり隠した嘘つき騙しをしているから、×人間。

628日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:51:21.24
>>618
>その、纏向遺跡で古墳造営していた古墳時代は、卑弥呼の時代とばっちり重なるんだけどね

それは、ない。  @阿波

629日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:53:44.74
>>624
>九州説の爺は飯の心配ばかりしている

庄内1式とか布留0式とかいう、土師器の様式編年は、
纏向遺跡で大量に出土した飯炊き甕の形式研究の成果なんだけどねぇ

そして、その飯炊き甕に付着した炭素の14C年代測定にクレームを付ける人がいたから
植物に炭素固定された当年試料であることが確実な桃核で14C年代が改めて測定されて
2世紀末には纏向遺跡が建設開始していることが確実になってる

飯炊き甕で、何をしていたって考えているんだろうね、九州説の人はww

630日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:54:54.44
>>610
>しかし、誰かに食べた跡ないだろと突っ込まれて、あれこれウソ重ねて、しまいには言うことなくなって、ついに脳味噌破綻。

そういう作り話することを
ひとは脳味噌破綻と呼ぶんだよ
あんたのことだ

631日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:56:57.49
>>629
416: 千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている

632日本@名無史さん2019/02/14(木) 18:59:26.94
>>628
ほらな

トンデモ説は理由が言えないだろ?
よい判別方法だ

633日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:02:48.07
>>621
> 邪馬台国が、狗奴国と交戦していると郡へ注進し、郡の役人が出張っていったら伊都あたりに足止めされて卑弥呼に会えず、檄作って送ったというのだから、戦闘が続いていたと解釈するのが妥当。

あんた、相当オハナシ作ってないか?
これだから九州説は

634日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:03:25.69
424>>521
>>「西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。 」

>この内容だと九州も含まれているね。<

旧唐書の倭国伝は、 倭國者古倭奴國也として、
その支配地が「東西五月行、南北三月行」としているが、
旧唐書日本国伝は、とっぱなに「日本國者、倭國之別種也」として、日本国は倭国から別れた別種だ、としている。

635日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:05:53.83
>>627
>この男は、「南≠東」や「」倭国=正北抵新羅」や「日本國者、倭國之別種也」、
>などの問題をこっそり隠した嘘つき騙しをしているから、×人間。

テンプレに掲載されてるような話を
「こっそり隠した」
とか平然とウソつける九州説の
くさった根性が凄い

636陳寿90度回転さん2019/02/14(木) 19:07:00.52
>>576
全く同意します。

記紀で、神武以来、男系で綺麗に一続きになっているのは、それは記紀の編纂時にそういう風に書き換えたから。

あの時代の統治のデフォは、男女ペアのヒメヒコか、兄弟または兄妹のペア。

現にヤマト王権の敵対者や反逆者のほとんどはそういう風に描かれている。

その中でヤマト王権だけ何世紀もの後世を先取りしたような男系であったとはとても考えられない。

崇神と垂仁も、親子でなく実は兄弟であったとしても、全く不思議ではないと思います。

637日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:07:30.60
>>618
>その、纏向遺跡で古墳造営していた古墳時代は、卑弥呼の時代とばっちり重なるんだけどね

ほらな

トンデモ説は理由が言えないだろ?
よい判別方法だ             @阿波

638日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:10:16.07
>>634
>旧唐書日本国伝は、とっぱなに「日本國者、倭國之別種也」として、日本国は倭国から別れた別種だ、としている。

モロバレのウソつくザラコクすげぇ
「から別れた」って原文にないの付け加えてら
一行で書いちゃって歴然だろ
ねつ造を隠す気もないってか

639日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:14:49.99
>>637
これ、よくわかんないけど
なんか言い返しした積もりなのか?

640日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:15:00.28
>>637
テンプレにも書かれてるし
高校の教科書にも載ってるから
同じことなんども繰り返さないだけだが
何か?

641日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:19:58.89
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

九州猿が幾ら聞こえない振りしてもこれが現実

642日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:20:39.19
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

能無し九州キチガイがどんなに逃げ回ろうがこれが現実

643日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:21:10.16
>>640
>テンプレにも書かれてるし

テンプレ?  個人妄想のテンプレがどうかしたの???


>高校の教科書にも載ってるから

ウソはイカンぜよ。  @阿波

644日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:23:29.95
巨大墳墓は過剰な労働力の結果やな
睨み合っている間兵士はすることないからね
暇ほど毒はないからね

あと古今東西兵の性処理は重要な問題
卑弥呼に使えた下女1000人は、性の問題と民の教化を担っていたんじゃないかな

645日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:25:46.24
鉄鏃が無いから兵もいない。
兵がいないから性処理も必要ない。
だから住居も無い。

646日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:28:49.81
>>613
卑弥呼が建物Dに住んだ、とは言ってないのだろ。
住んでないんだよな。
わははははは。

647日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:29:55.11
>>643
トンデモさんは反論ができない相手には中傷でお茶を濁します

648日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:30:48.42
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

649日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:33:24.62
>>647
>高校の教科書にも載ってるから

ウソはイカンぜよ。  @阿波

650日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:34:35.28
>>646
事実を見なさい
言ってないということは
住んだとも住んでないとも言ってないということ

651日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:38:52.88
>>428

倭国王帥升の記述の変遷

後漢書(最古) 倭國王帥升
翰苑     倭面上国王師升
日本書紀   倭面上国王師升
釈日本紀   倭面国遣使奉献
通典     倭面土国王師升
       倭面土地王師升
唐類函    倭面土地王師升
異称日本伝  倭面土地王師升

間違いが伝言ゲームみたいに伝わって
倭國王が最終的には倭面土地王と不動産屋になってしまう
倭面上国王になっているのは出展が版と書写を重ねた後漢書系統
倭面土地王になっているのは通典系統

652日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:41:04.15
>>605
あんたは考古学失格だね
吉野ケ里遺跡を研究したら良いです
私は吉野ヶ里は王都とは思っていませんが
文化程度は纒向より現研究成果として吉野ケ里のほうが古代では都市化してると思いますよ。

653日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:41:38.43
九州説は何故ぜったいに証拠を出さないのか?


うそと知ってて言ってるからさ

654日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:42:25.83
大和です
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

655日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:43:37.98
>>605
反論があれば遺物で示してください
吉野ヶ里VS纏向 の都市機能

656日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:44:51.51
>>652
ほら、九州説はまた理由を言わない
だから飽きられた

657日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:44:57.08
>>653
吼えるのは誰でもできる
論じるべき

658日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:45:44.86
>424>>533
>倭奴国は九州博多で、邪馬台国は筑後山門にあって盟主が変わっており、
さらに5世紀には大和の王が盟主がになっていて、それぞれ国がことなっている。<

なっていない。白村江の後の701年までは、九州倭国が盟主であった。

>梁書は、これらの国を一つの一貫した国であると混同している。<

混同していない。梁書は、九州倭国と大和扶桑國を書き分けている。

659日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:46:55.63
>>613
イミフ
何が言いたいのかな

660日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:48:28.90
>>649
>ウソはイカンぜよ。  @阿波

ぜよ。ってのは阿波弁でもあるのか?
竜馬=高知弁のイメージだが。

661日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:48:43.59
>>656
あんたの考えを述べないといけないよ

662日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:49:48.21
>>624
卑弥呼も飯も食えば糞もする
これ常識

663日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:51:17.88
>>624
巫女千人も兵も飯を食うよ

664日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:51:52.60
>>631
東阿波式土器についての記事をみると、それが大和などに波及するのは、前期古墳の時期としているようにみえる。
阿波勢力が畿内に移住し、「畿内初期古墳の築造に深く関わった」との表現がなされている。(サイト:「一般社団法人 忌部文化研究所 忌部とは」)
とすると、その時期とは、3世紀後半ということではないか。
ホケノのあとになる。

665日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:53:56.60
@阿波?

ああ、あいつなら、3世紀前半に奈良湖で泳いでたよ。

この目で見たから間違いない。

666日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:54:32.15
424>>540
>中国は日本側の資料を独自記録から精査してアメノタリシヒコ(用明天皇)と断定してる<

新唐書は、次用明亦曰「目多利思比孤」だから、アメノタリシヒコは×。

>日本の隠蔽も、信用できない言葉とやらも関係ない
中国自身が判断した記録がハッキリ記載されている
何度同じことを泣きさけぼうが大和=魏志の邪馬台国 <

「南≠東」などで、×。
大和説も大和朝廷も中国は一切考えていない。

667日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:56:58.63
ここ畿内説のスレなんだが
九州説は去れよ
卑弥呼は天理市橿原市に居たのだよ
桜井市は斎場だよ 墓地

668日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:57:16.24
>>622
墓の文化圏が細かい差違?には自分は見えないが

平原の頃だよね?
200年前後、ギリで卑弥呼に届くかどうかの墓
3世紀前半でみるといいかな

首長墓が統一されているかどうか?が重要だが、

前方後円墳の那珂八幡と糸島や唐津地区の方形周溝墓は明らかに"同じ"ではない
それを単純に大きさでの比較を考えるのはどうかと思うが

特に北部九州はバラつきがあり方形墳丘墓だったり円形墳丘墓だったり、墓の様相は様々

地域や首長次第で墓に対する思想が違う、ということだろう

669日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:57:26.35
アメノタリシヒコ(用明天皇)が畿内にいた根拠は記紀だろ?

じゃあ、神武東征も認めないとね。

670日本@名無史さん2019/02/14(木) 19:58:41.31
畿内説より阿波説のほうがいいじゃん
阿波は畿内説の目の上のたん瘤

671日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:00:47.30
424>>541
>バカ九州説の妄想が成立するのなら
アメノタリシヒコ(用明天皇)の記事は「日本側にあるはず」
ところがこの記録は「中国側にしかない」<

釈日本紀紹介の延喜講記に、小野妹子が隋文帝に「日本国」を名乗った話が載っている。

>つまり、中国が独自の記録から断定したものだ分かる
中国は大和の政権が邪馬台国から連続して日本の中心だったと考えているのが明白<

中国は、大和日本國は、倭国から別れた別種の旧小国である、と考えていた事が明白。

672日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:01:21.55
>>1
最近の畿内説はループしてねーか
畿内説の新しい情報を流してよ

673日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:02:47.94
424>>542
大和のような田舎の端っこなんかに、
邪馬壹國女王之所都はない

674日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:03:02.09
>>658
後漢書の大倭王は、明らかに大和・河内王権の大王。
拘奴国が東にあるとしていることでも、邪馬台国は大和であることが分かる。
その情報は、倭王讃の使節団から得たものだろう。
大和の南に強国がないこと、東にならあるという情報を得たということだ。
その情報をもとに、倭人伝の南を東に書き換えた。
この5世紀の大和の王権と、3世紀の北部九州の卑弥呼の王権が連続しているとみなした最初の史書が後漢書で、それ以降、中国史書はこれを踏襲している。
魏志倭人伝では、北部九州の卑弥呼の王権と、その東千余里にある諸国王権は別であると書いてある。
後漢書から、この二つの王権の連続性、混同が始まる。

675日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:04:46.10
424>>543
>なるほどですね。
自分も、邪馬台国が奈良盆地だと言うのは最早動かしようがないと考えていますが<

「南≠東」などに拠って、×。

676日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:05:04.79
纒向の掘立柱建物の周りに陵墓がいっぱいあるのに
卑弥呼の王宮と決めつける学者の頭を疑うよ

677日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:07:41.65
ホケノも?だが
箸墓より遺物的にましじゃねー

678日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:07:48.61
@阿波?

ああ、あいつなら、畿内毛人を全員倭国へ送りこんだ張本人だからな。

そして、誰も、いなく、なった。。。

この目で見たから間違いない。

679日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:10:07.76
424>>550
>それが「用明天皇=アメノタリシヒコ」の記事 、

次用明、亦曰「目多利思比孤」
であって、「アメノタリシヒコ」ではないから、×。

680日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:11:05.90
邪馬台国は桜井市の村おこし
財政難なんだから協力してもいいと考えるよ
お荷物の自治体が頑張って赤字を減らせば良い

681日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:13:08.93
424>>552
>・大和=邪馬台国><

「南≠東」などに拠って、×。

682日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:16:19.16
424>>555
>邪馬台国が九州である目など既に全くないのだから、
九州説の頑固なアマチュア老人の相手はほどほどにしておいて、
畿内説同士で議論した方が有益だと思うのですよ。<

「南≠東」などに拠って、×。

683日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:16:21.05
纒向の観光用トイレは殆ど地元の人が利用
利用は子どもが多いみたいだけど
立ちションベンを正すには良い教育トイレ

684日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:20:00.89
国民の税金で?

685日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:20:57.13
424>>561
>それただの循環論法ww 何よりも3世紀の東夷に「短里を使う人が一人もいない」
これをきちんと説明してから、短里があるって主張してくださいなwww><

根拠は、魏志の記載であり、
史料事実からの帰納的推論であるから、「結論先にありき」ではなく、
だから循環論法ではない。

686日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:32:03.03
4424>>567
>アメタリシヒコは諡号ではなく、アメが姓、タリシヒコが襲名される名跡と
大陸側が判断しているんだから、日本の記録の諡号と一致しないと言ってもそれこそ意味がない<

中国側の記録は、
「俀王姓阿毎、字多利思北孤」と「次用明、亦曰目多利思比孤」であり、
いずれも「 アメタリシヒコ」ではないから、×。

>いずれにしても、唐会要、旧唐書、新唐書の倭国伝の倭国が畿内大和朝廷なのは動かない
無駄なあがきだなw<

7世紀以前には、畿内も大和朝廷もなかったから、×。

687日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:34:26.43
292 壬子 日向一族、筑紫を越え、邪馬台国を東征せんと兵を挙す

294 甲寅 邪馬台国王・安日彦、長髄彦と摂津に戦うも、日向一族敗れて退き、南海道に兵を募る

298 戌午 再び東征せしも、日向族の彦五瀬命は和泉に討たれ、弟なる彦稻飯命は難波に討たれ、
      第三皇子なる若御毛沼命は行方不明と相成る

299 已未 第四皇子なる若御毛沼命は日向一族を統率し、さらに南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて
      邪馬台国を攻めるに、長髄彦は重き傷を受けて東国に退き、安日彦もまた越に退き、
      奥州会津にて合軍し、さらに奥州東日流に移り安住し、ここに荒吐族の祖となりぬ

315 乙亥 荒吐五王一挙して故地・邪馬台国を攻め、日向族を誅滅し、天皇を空位ならしめたるも、
      荒吐族の手研耳敗れたるによりて奥州に退く
      荒吐族の大和への遠征は爾来、歴代の帝位に必ずや攻防を繰り返す
      徳帝の在位時も、荒吐族五王軍は大挙して邪馬台国を攻めるにより亦、天皇を空位と相為す
      のち日向族と和交す

688日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:38:18.25
ハンヨウの後漢書成立よりも前に、後漢書はあるからなあ。

689日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:44:57.03
424>>569
>例えばモモソヒメが卑弥呼の痕跡だとすれば、
崇神(みまきいりびこいにえのすめらみこと)は、弥馬獲支。
垂仁(いくめいりびこいさちのすめらみこと)は、伊支馬。
と、あまりにも都合良く同時代の人名が似かより過ぎている<

伊支馬も弥馬獲支も、どちらも邪馬壹國の官名であり、
また、共立女王卑弥呼の「大夫」ではなく、
という事は、
大和の崇神や垂仁は、九州倭国の中の邪馬壹國の官であった、という事になり、
「東征毛芯五十五國」の将軍や官の地位くらいでしかなかった事になり、

だから、大和王が盟主であった、という説の否定になる。

690日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:47:16.16
>>664
>阿波勢力が畿内に移住し、「畿内初期古墳の築造に深く関わった」との表現がなされている。(サイト:「一般社団法人 忌部文化研究所 忌部とは」)
>とすると、その時期とは、3世紀後半ということではないか。

なにも畿内に限らないんだが、阿波勢力が畿内に移住したのは、「東阿波型土器」以前から。 
縄文時代後期から西日本各地へ石棒や石斧を展開している。  @阿波


>ホケノのあとになる。

そのホケノは萩原2号墳のあと。

691日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:49:45.71
424>>571
そうそう。
同じ「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者同士で、
そういう分裂幻覚の妄想のサギ話をしたかったんで商品よ。

692日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:50:41.87
キウスが暴れてるな

693日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:51:11.14
>>685
魏志の距離記載は実際を反映してないよ
魏で使われていた1里約430mと合わないばかりか
ひと区間に4倍も差があったりする
ゆえに魏志倭人伝の距離記載は不確かなものと
逆に九州説側の白鳥庫吉が明治時代から指摘していた事
現状を見ると九州説は明治時代より退化してしまっているようだが

694日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:53:24.52
>>655
お前こそ吉野ヶ里が都市だという根拠だと考えてる遺物をあげてみろよw

695日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:56:22.17
424>>573
>それは晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を持ち上げるために、
倭国の遣使を地の果てからの朝貢とするために距離が誇張されて盛ってあるから、という
誰も使う人のいない短里を捏造するより、分かりやすく単純な説明がすでにあるだろう<

陳寿が、「司馬懿の公孫氏討伐の功績を持ち上げた」という事の証拠がないから、
これも、類スレ主の分裂幻覚の・・・・の妄想。

696日本@名無史さん2019/02/14(木) 20:58:15.47
>>630
>そういう作り話することを
>ひとは脳味噌破綻と呼ぶんだよ
>あんたのことだ

グダグダいってるけれど、要は纏向遺跡が集落遺跡かどうかってことで、
そっちは高床式建物では飯も食えないから住んでないとかいう寝言を言い出して
破綻しただけだよ

纏向遺跡では飯炊き甕が山ほど出てる
飯炊き甕で何をしたと思ってるんだ?ってこと

飯を炊くのは飯を食べる人がいるからだろ?
そんな単純なことを無視してるから、バカ呼ばわりされるんだよ

697日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:06:37.14
>>637
>トンデモ説は理由が言えないだろ?
>よい判別方法だ    

纏向古墳群の纏向型前方後円墳は、発掘時に出土した土器編年で相対年代が
示されており、その土器編年の相対編年には貨泉など絶対年代の分かるものとの対比で
絶対年代との紐付けが行われている

さらには、桃核の14C年代測定法で2世紀後半から3世紀はじめという年代も得られており
最初期の纏向石塚古墳の築造年代は2世紀末から3世紀初めと推定されている

ということは、その後累代的に纏向古墳群の造営は続くし、纏向遺跡そのものが
4世紀まで存続していることから、纏向古墳群が作られていた時代は、卑弥呼の時代と
丸被りすることは確実だ

理由を改めて書いたが、テンプレに既に書いてあるんだよ
泡と違って、きちんと理由は書けるんだよ

理由の書けない、泡の書き込みは、トンデモ説だけれどね

698日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:10:27.73
>>668
>平原の頃だよね?
>200年前後、ギリで卑弥呼に届くかどうかの墓

前も書いたけれど、卑弥呼が死ぬ何十年も前に誰かが葬られた墓を
卑弥呼の墓と言い張るのはやめーやww

それだけで、バカにしか見えないぞww

699日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:11:03.25
>>696
>飯炊き甕で何をしたと思ってるんだ?ってこと

古墳造営人夫が飯炊き甕で飯場飯を炊いていたってこと。  @阿波

700日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:11:29.93
424>>577
>めんどくさいバカだなww
旧唐書でも唐会要でも、倭国伝の記事や登場人物がすべて畿内大和朝廷なんだから、
その辺を根拠にする限りは倭国=畿内大和で終了なんだよww <

めんどくさいバカだなww
旧唐書でも唐会要でも、
倭国伝と日本国伝の両方を場所を違えて書き分けているし、
その内容も全く違うし、
その関係も、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地」
とはっきり説明してあるんだから、
倭国≠日本国で終了なんだよ。

701日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:14:34.52
>>668
>首長墓が統一されているかどうか?が重要だが、

赤坂今井墳丘墓や西谷墳墓群、楯築墳丘墓は、各地の首長が覇を争って
権力誇示のために巨大墳丘墓を作っている時代だよ

それが卑弥呼の共立によって、前方後円墳に首長葬送の墳墓祭祀が統一される

この権力誇示の巨大墳丘墓が作られる時代に、北部九州では巨大墳丘墓を
まったく作れていないんだよ

つまり、権力の集中のない雑魚の群れだった訳だ
中でも最大の奴国はいち早く畿内と協調関係に入っている

これで九州倭国に倭人世界の王がいたとかいうのが、まるっきりの戯言だって分かるだろ?

702日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:16:30.61
>>677
>ホケノも?だが
>箸墓より遺物的にましじゃねー

箸墓の遺物って何のつもりだ?
箸墓は墳丘上で拾われた特殊器台くらいしか、直接の遺物はないぞ

703日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:29:19.56
>>657
ぜんぜん論じてないのが九州説なんで、畿内説が論じてることを読んでね

704日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:30:07.20
鉄器が溶けるドジョウ

705日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:30:15.89
424>>579
>ピンポイントで確定はしないが、現在の標準編年は多くの情報の整合性を追って
調整されたものだから大きくは動かないよ<

紀年金石文や、金印のような文献との照合が出来るものでなければ、
相対年代では、全体が動くだけで、絶対年代は決まらない。

>あと、水月湖年縞を標準とした14C較正曲線が実用できるようになればもう一段精度が上がる
現状の編年が九州説には都合が悪いから、何が何でも否定したいんだろうけど、
すでにそういう段階ではない<

AMSは、プラズマ化という根本的な欠陥があるし、
年輪や年縞や酸素も、常に、
検体と標準材料とが同一気候や自然条件であったのか?、
という事の保証がないために、絶対性がない。

706日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:32:43.09
>>584
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
>丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部

鳥取の西桂見墳丘墓 一辺が60m以上 も入れてね

707日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:32:57.73
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

九州猿が幾ら聞こえない振りしてもこれが現実

708日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:33:28.55
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

能無し九州キチガイがどんなに逃げ回ろうがこれが現実

709日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:33:56.49
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

710日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:34:12.81
>@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、

〇神武東征

×神武東遷

711日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:34:30.12
>>702
九州説は無知なんだから仕方ない

712陳寿90度回転さん2019/02/14(木) 21:36:11.76
>>654
保存しました。

なるほどですね。
まあ、こうだよねえ。ごく常識的に考えればね。

隠岐に『都万』と言う、投馬国の痕跡が残ってるのは知りませんでした。
隠岐は出雲から辰韓/新羅を目指すルートの、正に中継点。

その他の郡小国のいくつかが瀬戸内海側に比定されるのも、
日本海ルート説を補強しますね。

テンプレとは違うけども、これはもう、日本海ルートだと思いますよ。

713日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:38:11.99
>>705
>紀年金石文や、金印のような文献との照合が出来るものでなければ、
>相対年代では、全体が動くだけで、絶対年代は決まらない。

といって清朝の文鎮を拾ってきて弥生時代のものと言い張る九州説

714日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:43:22.54
>>701
だから、思想や文化が違うだけでしょ
西日本全部が感覚が一緒というのは思い込みにすぎない

715日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:45:36.08
424>>582
>さあ、3世紀の東夷世界には短里を知っている人も使う理由のある人も誰一人いない、に
反論したいならどうぞ!ww<

周髀算経や淮南子の一寸千里は、当然知識人は知っているし、
魏の役人は、使って計測したし、
陳寿も 魚豢も如淳も文穎も孟康も使った。

716日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:45:47.59
>>714
>だから、思想や文化が違うだけでしょ

なら、山ひとつ越えただけで思想や文化の違う北部九州に邪馬台国があったなんて無理無理
九州説またオウンゴールで死んだな

717日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:47:18.60
>>698
わたしは卑弥呼と断定してないよ?
年代はギリで届く可能性のある墓なのは事実だし

何十年も前となぜ断定してるの?

718日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:49:18.40
>>717
>年代はギリで届く可能性のある墓なのは事実だし

事実だって証拠は?
九州説はまたフカシ?

719日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:51:07.14
>>716
あら、畿内説のいう通りなら緩い連合でもいいし問題ないね
交流は密にあるのだし

720日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:52:24.40
424>>589
>邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉している
と理解しているのが明確<

「南≠東」などに拠って、×。

721日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:52:38.65
>>715
証拠がないとダメ
言い張るだけでは反論にならない

722陳寿90度回転さん2019/02/14(木) 21:56:59.03
魏使に、陸行が遠くなる日本海ルートを通らせたのは何でなんだろうなあ…。

対馬海流が行きのルートで西から東に船を勝手に動かしてくれるというのもあるんだけど、
やっぱり出雲に対して、魏使を見せびらかしたかったのかなあ…。

723日本@名無史さん2019/02/14(木) 21:58:40.92
>>719
残念ながらそれは北部九州以外

北部九州は誰かを畏れ憚るような
影響力を発揮された形跡がないとダメなの
そんな力を発揮できたのは畿内勢力だけ

724日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:08:43.96
>>706
>鳥取の西桂見墳丘墓 一辺が60m以上 も入れてね

西桂見墳丘墓はかなり荒れててまともな発掘ができていないし、前代後代の墓も見いだせないから
評価が難しいんだよね

まあ、出雲(四隅突出墓の国)の王墓は西谷墳墓群でいいんじゃないかな

725日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:09:54.52
>>697
>最初期の纏向石塚古墳の築造年代は2世紀末から3世紀初めと推定されている

そんなことより、その「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「纒向勝山古墳」朱塗の板の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「東大寺山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「桜井茶臼山古墳」や「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「大和天神山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「柳本大塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。

ついでに、その桃も大和忌部がお供えして後で食べた桃だよ、きっと。  あははは。  @阿波

726日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:12:28.64
>>550
>>548
>アホちゃう。
>己が調べんかい。

つまり、また畿内説は
一切証拠なしに我流珍説を言い張っていると
そういうことですな?

727日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:13:19.47
>>725
そんなに卑弥呼共立自慢せんでもいいちゃうか

728日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:13:31.56
>>576
>九州説は考えが足りないから思い至らないようだけれど、ヒメヒコ制の
>ヒメ王が卑弥呼、台与で、ヒコ王が崇神、垂仁、景行と考えればまったく矛盾も問題もない

そんな制度なら、魏志倭人伝にそう書かれるだろ。

729日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:17:20.96
>>727
>そんなに卑弥呼共立自慢せんでもいいちゃうか

卑弥呼女王様は湿地帯で片田舎の奈良盆地なんぞは嫌いだってさ。  @阿波

730日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:18:20.12
>>636
天津神は男系で、国津神が女系。
国津神の姫のところに天津神の男が妻問婚するのが倭国の基本。
ところが、卑弥呼には夫がいないと明記されて、壹與も直系の子供ではないようだから、子もいない。
原則から外れた孤高な存在が卑弥呼だ。
ありきたりの姫彦なら、そのように魏志倭人伝に書かれたはず。

731日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:19:04.44
>>726
え?

こいつ脳死んでるの?
九州説が変な主張して、なのに証拠提出は断った
という異常な状態なんだけど
九州説は頭が悪すぎて現状が理解できないの?

732日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:20:27.34
>>669
用明天皇の諡号はタチバナトヨヒだよ。
タリシヒコは景行天皇や仲哀天皇の諡号に含まれている。

733日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:21:41.65
>>717
>わたしは卑弥呼と断定してないよ?
>年代はギリで届く可能性のある墓なのは事実だし

またいい加減なことをww
自分でも200年頃って書いてたじゃないかw
卑弥呼の死が248年(頃)
箸墓の推定年代が260〜280年だから、箸墓の方が近いよ
箸墓は年代が合わないとか、お前はもう二度と言うなよww

>何十年も前となぜ断定してるの?

200年頃と248年頃で約50年違うだろ?
簡単な引き算だよ

734日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:21:53.11
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

九州猿が幾ら聞こえない振りしてもこれが現実

735日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:22:10.58
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
邪馬台国畿内説 Part425 	->画像>45枚

736日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:22:23.78
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

能無し九州キチガイがどんなに逃げ回ろうがこれが現実

737日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:22:52.12
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

738日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:23:34.36
邪馬台国畿内説が、破綻してしまったのだね、、、

739日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:24:08.51
畿内は「忌部はん」 のお墓だらけ。

畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。

大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。

そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。  @阿波

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm

740日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:24:56.95
九州キチガイがどんなに見えない振りしてバカ丸出しの間抜けな逃げ口上を言い続けようが現実は現実

741日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:25:24.09
『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』

・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)・ホケノ山古墳(奈良)
    北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より

742日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:27:02.01
畿内の古墳は、倭国(阿波)の有力支配者たちによって、倭国(阿波)の技術(積石工法)、

主要資材(青石・水銀朱等)、副葬品(鉄器類・勾玉・土器等)を使って築造されたものである。  @阿波

743日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:28:08.81
考古学は残酷である。  @阿波

744日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:28:09.20
邪馬台国畿内説は、破綻してしまったのだから、このスレッドは閉鎖すれば良いな
、、、

745日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:28:25.63
>>722
>やっぱり出雲に対して、魏使を見せびらかしたかったのかなあ…。

魏使は倭国の情勢調査もお仕事だから、倭国側が見せびらかしたかったというより、
魏使が出雲を回るように求めたんだと思う

746日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:28:42.86
424>>590
>・女王国「まで」一万二千里、そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国
・1万二千里未満の九州諸国はタンリとか言う捏造距離をいくら喚こうが「女王国でさえもない属国」だと明記される
・旧唐書では一大卒とは属国に派遣される監視官だと明記され、九州が属国であることは【確定する】
これが真実<

「南≠東」などに拠って、×。

747日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:29:29.68
中国史は大和の勢力が邪馬台国から平安時代にまで継続していることを示し
九州は邪馬台国の頃から属国であることを明示し続けている
考古学では九州にはロクな物がなく古墳時代になるまで鏡さえも見つからない

それがバカが現実から目をそらし逃げ回り続ける九州の現実

748日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:29:50.40
>>744
同様の理由で、九州説もね。  @阿波

749日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:31:18.64
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したあとも、揶揄われているな。。。

750日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:32:44.58
424>>590
>・アメノタリシヒコの都は大和である事、そして邪馬台国と同じである事<

邪馬台国なんて存在しない事と、
「南≠東」などに拠って、×。

751日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:33:17.46
>>749
>揶揄われているな。。。

これ、どう読めばいいのかね?  @阿波

752日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:35:13.76
バカ九州猿が逃げても現実は変わらない

753日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:35:19.69
>>728
>そんな制度なら、魏志倭人伝にそう書かれるだろ。

書いてあるだろ?
卑弥呼が王で、佐治国の男弟がいるって
魏志倭人伝のこの記述が、ヒメヒコ制の大きな根拠になってるんだぞ

大陸には男女の共同統治ってのがないから、王は卑弥呼一人と書かれているけどな
プトレマイオス朝エジプトが倭国のことを史書に記録していたら、男弟も王だと書かれただろうね

754日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:36:31.10
424>>593
>ここに、例えば一皇女にすぎないモモソヒメを卑弥呼に比定する余地が出て来る訳だ<

「南≠東」などに拠って、×。

755日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:37:10.28
>>752
>バカ九州猿が逃げても現実は変わらない

バカ九州猿しか、相手に出来ないんだから、辛抱しなさい。  @阿波

756日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:40:37.03
424>>594
>分かるかな?能無し九州キチガイ アメノタリシヒコが仮に用明天皇と違う人だったとしても何にも変わらないんだよ
アホが<

アメノタリシヒコなんていないから、×。
分かるかな?、能無し大和キチガイのアホが。

757日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:40:50.15
低能九州説と会話する必要などない

ただ現実を言えばいい
九州キチガイが目をそらそうがそれが動かしがたい事実

758日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:42:34.60
九州のアホが無視して知らない振りすれば現実が変わるわけもない
ただ本当の事を言い続けるだけで良い

759日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:43:58.12
畿内説が壊れたレコードのようにお題目を唱えるだけになってしまった。

760日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:45:16.90
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

761日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:45:45.59
>>759
>畿内説が壊れたレコードのようにお題目を唱えるだけになってしまった。

九州説もいい勝負してるよ。  @阿波

762日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:46:12.86
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

九州猿が幾ら聞こえない振りしてもこれが現実

763日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:46:55.15
424>>599
泣きわめきながら「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
アーアーキコエナイをしてる大和バカの姿が、
今日も最高に笑える

764日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:48:21.56
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない(魏志)
・九州は女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる
九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない

インチキ単位をいくら捏造しようが、出発点をいくら誤魔化そうが九州は女王国にさえ入らない属国

能無し九州キチガイがどんなに逃げ回ろうがこれが現実

765日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:49:01.80
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

766日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:51:36.26
424>>600
まぁ「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説がの、
自分で持ち出してくる資料が全て自滅してる辺りアホすぎて面白い
旧唐書も唐会要も全部大和説なんてありません
九州は邪馬壹國女王之所都の地で、大和は昔から属国でした!

ってのが清々しいくらいハッキリと明記されてるわけだからなw

767日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:51:53.00
ただ現実を言えばいい

なんにもない奈良湖なのだと

768日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:52:12.65
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

769日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:53:02.69
>>765
>2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
>→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

>3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
>→畿内から布留式土器が博多湾へ流入


流入させすぎて、住居ゼロw

770日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:53:26.90
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

771日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:54:28.35
424>>601
>邪馬台国は大和 <

「南≠東」などに拠って、×。

772日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:55:46.10
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

773日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:57:19.00
ザラコク氏が、論破してしまった。。。

771日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:54:28.35
424>>601
>邪馬台国は大和 <

「南≠東」などに拠って、×。

774日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:58:19.65
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

775日本@名無史さん2019/02/14(木) 22:58:56.25
424>>694
「ぼくちゃんが知らない」 「ぼくちゃんが認めない」 「ぼくちゃんがそう思った」
これが論だと思ってるのが「南→東」などの嘘吐き騙しの能無しの大和説
ぼくちゃんが認めない!と泣きわめいてるのが反論になると思い込んでるのが笑える
そろそろ類スレ主か90度辺りが湧いて、
スレ流す頃だろうなw

776日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:00:30.01
>>773
これが最高に笑えたりして
九州説脳死してる

777日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:02:27.30
424>>605
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説バカは、
いつもいつも「陳寿が書き換えを行った!」とかバカ丸出しの妄想を叫んで
ぼくちゃんの脳内のホラが正当だ、
とかのたうち回ってるのになw

1から10まで妄想しかない大和説がなにをほざくのやら

778日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:03:13.85
今夜の労働は、少し大変だったので、インターネットで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人を揶揄かえば良いな。。。

779日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:03:37.98
>>776
おい、お前!
口が臭いぞ

奈良湖で歯を磨いてこい

780日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:04:03.07
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

781日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:04:39.01
必死に見えないキコエナイを繰り返し逃げ回る九州猿の姿に抱腹絶倒

782日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:06:13.54
墓の中に鉄器三昧

墓の外ではなんと木器を使用

なーーーんだ?w

783日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:06:32.09
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、

784日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:06:53.98
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

785日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:08:32.82
邪馬台国畿内説が、完全に破綻したあとも、揶揄われているな。。。

786日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:09:55.26
邪馬台国畿内説は、破綻してしまったのだから、このスレッドは閉鎖すれば良いな、、、

787日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:11:58.50
連続句読点は完全に壊れたあとも世間から嘲笑われてるな

788日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:11:58.37
考えれど 考えれど 猶 わが比定地に着かざり

ぢっと地図を見る

キナイコシ 『奈良湖の砂』

789日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:13:20.99
九州のアホが必死こいて現実から目をそらしてホラを吹きながらのたうち回る姿が最高の見世物

790日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:13:56.86
連続句読点=妄想奈良湖=キナイコシ連呼

791日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:15:11.58
おいこら鉄器は全部ワシのものじゃあ!
おまいらは木器じゃ木器を使っておけじゃあ!

792日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:17:07.91
邪馬台国の頃の九州の現実

・鏡は古い破鏡や鏡片、小型?製鏡ばかりで完形鏡や新式鏡がなく新式鏡や完形鏡が出てくるのは4〜5世紀の古墳出土から
・平原も古い鏡を鋳つぶした?製鏡だらけで一部の鏡も古い物、しかもこれを最後に九州から鏡をまともに出土させる場所がなくなる
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡で麻布よりも粗雑な糸くずが一かけら出るのみ
・宮殿など影もない
・祭祀遺跡も柱を一本立てただけの物しかない
・この当時発掘されていた丹山などない
・福岡や吉野ケ里も含めてほぼ全域が畿内の土器に塗り潰され独自の生活様式を喪失

これがバカが目をそらす「日本の中心の最先端地域」とほざく九州の現実

793日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:19:39.01
>>784
ざーんねん
単なる銅ではなく鉄製でそれも金で装飾され宝石が
散りばめられた本物の王だけの持ち物、そして弥生時代製
その鏡は大分で出土しました

当時の中国が認めた倭王は九州に居たんですよ

794日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:19:55.79
九州猿が逃げようとしてもすぐに現実に回り込まれる

795日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:20:53.66
キナイコシが逃げようとしてもすぐに奈良湖に阻まれる

796日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:25:11.98
蝙蝠紐座の内行花文鏡も普通に集落から出土していたな。
スレ主はやはり夢でも見ているのではないのかな?。。。
それとも変なクスリ?。。。

797日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:25:15.34
>>733
え?断定した理由が私の意見?
私は墓の年代は幅を持って考えているのだが

箸墓は馬具がネックで、それ以上古くできないだけで300年前後の可能性もあるだろうね

平原は鏡の型式と2号墓と周溝の共有により2世紀末より古くならんのは確定

それと、平原の年代に関してはあくまで柳田さんを尊重して、通説を述べただけで、個人的には鏡の技術力や瑪瑙の管玉の朝鮮半島の出土状況によっては、年代的には卑弥呼の墓の可能性がある墓だと思っている

798日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:26:20.55
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている(南斉書、梁書、北史、隋書)
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている(新唐書、宋史)
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛(宋史)

@アメノタリシヒコ・用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定(隋書、新唐書)
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定(隋書、新唐書)
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する(魏志、旧唐書、新唐書)
C上記から倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定(隋書、旧唐書、新唐書、宋史)

※これらは日本関係なく独自の記録から記載しているので、中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

中国は邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる

799日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:26:59.73
も、木鏃!??

ぶ、武器が違います!

この武器は自分は見ていません!

800日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:29:15.90
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。

801日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:29:26.99
九州のゴミクズが必死過ぎて楽しい

802日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:30:10.69
平原遺跡の年代が倭国大乱より遡ることはなさそうだから、該当する女王は卑弥呼しかいない。
簡単なことだよ。

803日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:34:19.64
ただ現実を示し続けるだけで悶え苦しんでのたうち回る九州の蛆虫の姿を見るのが最高の娯楽

804日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:46:55.42
>>739
大和の王権への上納な。

805日本@名無史さん2019/02/14(木) 23:56:38.98
伊都クズはイメージでしか語れない
各論を持ち出されるといつもトンズラ
ほとぼりがさめるとまた妄想を喚きはじめる

806日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:03:35.37
頭の病院に行けと言っているんだよ、
読めないのか?

807日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:05:44.28
弥生系?むかーしの中国人がいるでしょ、
なぜ日本の先住民になるんだ

808日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:07:20.65
アマテラス、スサノオ〜?とか、
基地外と同じような話をしているのがいたり

809日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:10:51.75
他のスレにも書いている事なんだけど

成り済まし、騙り?まがいもの?
そういうのの集団なんだろう

810日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:11:47.51
>>805
つ鏡

811日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:14:35.19
国土創生神話(爆笑)というのがあるでしょ?
最初、始まりの場所はどこなの

812陳寿90度回転さん2019/02/15(金) 00:16:50.09
>>689
記紀は年代調整や系図ねつ造のために架空の天皇を挿入したりするんだから、
それに比べれば女王の有力臣下を後付けで男子一系の天皇と言うことにし、
女王を一皇女に格下げしたりしても、別に不自然でもなんともない。

まあ、いずれにしても卑弥呼が死んだ時に、
嘆き悲しんだ人々が狂ったような勢いでかつてない規模の巨大な陵墓を建造し、
(是人者、日也人作、夜也神作)(卑彌呼以死 大作冢)と、
奈良盆地の端から端(距離にして十数キロ)まで、1万人か2万人の人間がズラリと並んで、
大阪山(二上山)から箸墓古墳まで石を手渡しで運んだと言うのは、
四百年後の人間にも伝わる強烈で忘れがたいエピソードだったのだろう。
そしてその必死さは、魏使にも感興を与えたのだろう。

(是人者、日也人作、夜也神作)(卑彌呼以死 大作冢)
この2つの文章は、完全にシンクロしてると思う。

813日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:20:20.89
日本の神話?
専門家で良いから連れて来いと言っているんだよ、

814日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:21:38.96
>大阪山(二上山)から箸墓古墳まで石を手渡しで運んだと言うのは、
>四百年後の人間にも伝わる強烈で忘れがたいエピソードだったのだろう。

強烈で忘れがたいエピソード

強烈で忘れがたいエピソード

強烈で忘れがたいエピソードwww

815日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:23:02.13
>>797
>私は墓の年代は幅を持って考えているのだが

年代幅は「50年」もないww

>平原は鏡の型式と2号墓と周溝の共有により2世紀末より古くならんのは確定

その2号墓の周濠から出た土器片が2世紀末を示してるんだが?
1号墓周濠が埋まってから作られた土坑墓の遺物からも2世紀末が妥当

>個人的には鏡の技術力や瑪瑙の管玉の朝鮮半島の出土状況によっては、
>年代的には卑弥呼の墓の可能性がある墓だと思っている

結局、「通説は信じないんだ−」かよw
典型的な九州説だなw

ついでに
>箸墓は馬具がネックで、

あれは箸墓が作られてから時間が経ってから周濠に入ったもので、
箸墓の築造時期を示すものではない

ただのマヌケだな

816日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:28:53.18
>>802
>該当する女王は卑弥呼しかいない

昨日も書いたけれど、平原1号墓の被葬者は女性有力者であって「女王じゃない」

本当にマヌケだわ
自分の「思い込み」が脳内で「事実」に変換されてるだけ

直接の領地の邪馬台国だけで七万戸の大国なのに、成人男子が10人もいれば
1週間で作れるような小さな方形周溝墓が倭王の墓だと主張できる辺りが
九州説のお花畑加減を如実に示しているね!

817日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:38:45.08
崑崙山〜、日本で言うと河童などが出てくる話?

家は本物なので、
そういうものをテーマにした作品などは観たり読んだりしないから、
よくわからない

818日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:41:00.78
>>811
>国土創生神話(爆笑)というのがあるでしょ?
>最初、始まりの場所はどこなの

よく言われるのは、国生み神話はもともとは淡路島周辺の神話だろうってこと
あと、おもしろいなと思ったのが、最初に天之瓊矛から滴り落ちてできた磤馭慮嶋は
河内湖の中の島だったというもの

今では陸地になっているから、いくら探しても島は見つからない

819日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:42:00.91
キュウリのような葉(カッパ?)などが写っている写真があるでしょ?
当時(むかーし?)蓬莱〜というところの近所に住んでいたと言っているし、
蚕を飼い、機織をしていたり・・・・あと寺院が〜とか

820日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:47:45.00
芝居などもそう?
役者のような人々がいるでしょ?
そういう人々が勝手にやっているだけで

821日本@名無史さん2019/02/15(金) 00:52:17.07
役者などに聞いてみるとわかる


あなたの家というのは、
演じている役と同じなのですか?

例えば寺院に〜(僧?)、蚕、機織りをしている・・・肉も食べない

822日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:01:38.27
裸足の女神?西遊記?


家の老婆によると、
この写真の家の〜〜〜〜〜〜〜〜

『サザエさん』のような事を言っていたり、
裸足(素足に下駄)で〜というところだけ

823日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:04:36.73
裸足のままで飛び出して〜という曲も同じでしょ?
家の話でしょ

824日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:07:09.83
葱、葱の華が写っていて・・・、
とは言っても葱農家という家でもないし、寺院が?

825日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:17:20.78
何度書いても同じ、本当の話(『老婆談』)

当時住んでいた家というのがあったんだけど、
ずらーっと並んでいた本や書なんかも、誰かにあげたのかな〜
・・・・それとも・・とか

826日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:17:40.89
草履とか靴とか発掘されてねーだろうな??

827日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:20:09.21
なんだか、よくわからない本だよと言っていた(老婆談)

養蚕、宗教関係の本なのかな?

828日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:23:43.99
『ワンピース 粉雪』

この話も同じなんじゃないの?

829日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:25:20.82
『デスラ〜』?

830日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:39:49.43
搬入土器も九州のものはほとんど無いみたいだな。
もう詰んじゃったな畿内説は。

831日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:42:57.38
『松傾』?

こういう名前の家なんだけど、何なんだろう

832日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:46:05.56
>>818
異常者にレスするなよ
久し振りにレス貰えたせいかいつもよりハッスルしちゃってるじゃねーか

833日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:53:49.85
「ヤマト王権に服属」定説に一石か 那珂八幡古墳、北部九州独自の形状
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190214-00010009-nishinpc-sctch

834日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:57:15.79
悔しい

悔しいでゴザルよ

差し押さえ資産の現金化を請求するでゴザル

835日本@名無史さん2019/02/15(金) 01:58:11.65
『ドリフターズ』という作品の話なのかな?

836日本@名無史さん2019/02/15(金) 02:01:13.61
家は軍人ではない?みたいな事を言っていたしな・・・、
戦争なんかにも行っていないよとか、何なんだろう

837日本@名無史さん2019/02/15(金) 02:26:47.27
『伊達の桃太郎』

本当にどういうことなんだろう、
上の名前の読み方〜〜〜〜みたいな事を言っていたり

838日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:35:12.30
>>1
が日本海ルートの問題点を指摘すべきじゃ無いかな

839日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:39:20.62
>>792
時代考証に問題があることに気づいていないの?

840日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:45:58.39
『ドリフターズ』・・・ワンピース?
『何者にもなれない お前たち』


ほとんど同じコンセプト、話でしょ?

841日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:46:59.28
424>>619
>そもそも帯方郡と女王国のあいだが都合よく1万二千里であったわけはない。
まず最初に両間を、遠いという慣用句の「1万二千里」と定め、
それから、中を小分けしたのさ。
(短里で計って積み上げたものではない。短里はフルタの暴走) <

魏の役人がそんなインチキでっち上げをして、
部下や後続の張政にバレない筈がなく、皇帝らにバレて首が危ないもの。
それが人類の常識であり、
大和説者は、人類の常識が分からない、分裂幻覚の妄想の・・・・。

842日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:47:04.11
>>816
わかるよ
私は九州説だが、卑弥呼の墓は未だ発見できていないか特定できない派
箸墓にも問題点は多数あるので畿内説も特定はできていない
有力候補ぐらいだろう ホケノの方がいいとも思うが邪馬台国は畿内じゃないから✖

843日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:52:04.15
424>>621
>本当に低能だな
「誇張されている」というのは、「短里などなく」
「実地とは関係ない数字が書いてある」ことを示しているんだぞww<

類スレ主は、人類の常識知らずの・・・・低能であり、
分裂幻覚の嘘吐き騙しの妄想で、ウソがバレて、首が危ない。

844日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:53:30.95
何度書いても本当の話、
キュウリのような葉、葱の華が写っていてる写真があるでしょ、



椅子に座っている、この女の人が嫁なんだよ、
なんで一人だけ、素足(裸足)に下駄なんだろう、
たしか蚕を飼っていて、機織りなんかをしていた家なんだよ


とも言っていた『老婆談』

845日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:57:21.09
>>833
情報ありがとう

846日本@名無史さん2019/02/15(金) 05:58:51.96
424>>623
>そして、邪馬台国へはそこからさらに水行30日、陸行一月の彼方な訳だww
九州では水行路すらないw <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「さらに水行30日、陸行一月」は、×。
「水行十日陸行一月」は、目的地である「女王之所都」の説明だから、郡からの日数。
大和は、「南≠東」に拠っても、完全に×。

847日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:04:02.08
424>>624
>全体を誇張してあるので、パンツのゴムひものような関係だ。
どこをとっても似たような伸びちじみの率であることにかわ里はない。
これを否定するのも、又暴走・・・。 <

大和説者の説明は、全体を分裂幻覚の妄想の嘘吐き騙しで固めてあるので、
パンツのゴムひものような関係だ。
どこをとっても似たような嘘吐き騙しで伸びちじみでさせており、
全体が×であるわけだ。
これを肯定する類スレ主らも、又・・・・アホの暴走・・・。

848日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:05:12.70
老婆(大正一桁)も生まれていない頃の写真だと言っているし・・・・、
芝居とか、そういうのばかり観て暮らしていた?

849日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:09:04.19
夜中に新スレ立てたいのはわかるけど
やりすぎじゃねーか

850日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:16:17.33
424>>632
>否定は、実距離との対比というガチ証拠からの論理的否定だよ
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
短里は妄想だよ <

ほら、世間の皆さま、よくご覧くださいね。
これが類スレ主のインチキの現場。
里数記載の出発点や到着点を、魏志の記載と巧妙にずらした嘘吐き騙しをしており、
しかも、その全てが、
「長里」の1里≒434m位と何倍も違うようなアホ距離になっており、
自殺的で自己破綻の分裂幻覚の妄想のような挙証になっている!。

851日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:27:25.79
414>>638
>全体を誇張してあるので、パンツのゴム紐が伸びた君になってる、
m/1里がばらばらということは、この比定地自体が間違っていることの何よりの証拠<

この類スレ主の挙証全体が、
長里の「1里≒434m」の6倍倍位の差異になっているから、
長里説の否定の自殺的挙証になったいる、という・・・・アホさを示す。

852日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:38:35.76
424>>641
>タンリ、タンリと騒いだ割には、フルタ自らの比定地はトンデモ・オソマツ君だったわけだ。
ただ、そのフルタのトンデモ比定地や糸クズゴルフクラブ説をもとに、
魏志倭人伝の里は間違っているゾー、と叫んで回るのも、これまた大暴走、、、、。
そもそもの大三国志をけなしてはイカン。 <

類スレ主自身が、長里の「1里≒434m」位説を、
6倍位も違う事を示して、
否定してしまう挙証を、してくれた。

853日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:49:07.58
>>804
>大和の王権への上納な。

畿内は「忌部はん」 たちの墓場だった。  @阿波

854日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:52:59.09
>>818
>よく言われるのは、国生み神話はもともとは淡路島周辺の神話だろうってこと

淡路島は倭国(阿波) だと、何度言えばw  畿内は出る幕じゃないってこと。  @阿波

855日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:54:09.20
424>>644
>>篦被の形は特徴的 どこからの文化なのか?<

>考えるのは勝手だが、年代を引き下げる理由にならんだろ <

銅鏃と鉄鏃とでは、その殺傷威力は鉄鏃の方が圧倒的に強く、
銅鏃部族も鉄鏃を知れば、鉄鏃を採用するのであり、
それだけでも、鉄鏃の方が年代が新しい。
だから、銅鏃は、銅鐸を造れた出雲系銅鐸祭祀部族の採用武器であって、
鉄鏃は、北部九州から大量に出るから、魏使らが記録出来、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の武器であり、
大和などの鉄鏃が大量に出る墓は、東征将軍やその部将の墓であったんだろう、
という事になる。

856日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:56:22.78
>>854
阿波はな
初期ヤマト王政=邪馬台国の出先機関なのだよ

857日本@名無史さん2019/02/15(金) 06:56:23.66
>>833

「那珂八幡古墳」や「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。   @阿波 

858日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:00:20.85
矢尻の殺傷力の比較した事無いのに適当に書いてるな
殺傷力の点で言えば骨製でも十分にあったので弥生以降も長く使用されてる

859日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:02:22.93
424>>647
>九州説の中じゃ、どこが一番人気なのかね
北から伊都国=邪馬台国説、博多だ説、大宰府だ説、宇佐だ説、熊モン説、肥後だ説、宮崎説
まだある? 過半数取れる説あんの?<

女王國は、共立國集合であり、(狗奴國以外の)ほぼ九州島付近全域。
そして、倭国となると、狗奴國も含まれる。

860日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:05:06.73
>>856
その出先機関の方が、奈良盆地より遥かにずば抜けて先進文化を持っているというお粗末話。  @阿波  

861日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:09:35.93
あれは母親でしょ、
それと子供なんじゃなかった?
子供が行方不明になったという話なの?

862日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:11:57.26
このスレじゃなかったw
861は『姥清水』の話

863日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:11:59.84
424>>651
>「南」へ行った? そんなこと史料に書いてないだろ <捏造歪曲はいかんね <

魏志に「不彌國から南」だとはっきり書かれているし、
隋書でも、西から竹斯國に上陸して東の秦王國に行き、
その東は「皆」附庸國であるとしているから、行く事を否定しており、
北は海であるから、消去法で、「南」に行く事になる。

864日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:16:53.86
424>>660
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
史料事実や史料実態に対する捏造に次ぐ捏造だな、
大和説

865日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:17:17.45
>>569
ホルホルは流石に草
畿内なのは確実だが、書気はどこの誰か全く分からんて投げてるのにw

866日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:19:56.01
>>860
阿波はチンケな墓しか無い

867日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:28:55.43
>>866
「忌部はん」 たちのお墓がそんなに自慢かね? ご苦労さん。  @阿波

868日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:30:48.36
>>839
>時代考証に問題があることに気づいていないの?

逆だよ
九州説の方が、時代も時系列も無視して、卑弥呼の時代より100年単位で古いものを挙げて、
九州はすごいんだ−って言ってるだけ、というのを指摘してるんだよ

九州は
・3世紀のもの
・伊都国と奴国を除く
の二つの条件を付けると、何もないことが分かる

869日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:36:39.37
>>866
いくら奥地の奈良盆地が頑張って言い張っても、本国倭国(阿波)には到底かなわないよ。 おとなしくしていなさい。  @阿波 

870日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:40:38.80
泡は、今の四国にお遍路さんの八十八ヶ所の霊場があるように、
いろんなところで見聞きしたいいものを自分のところにも作りたいっていう
収集癖に通じる性癖があるんじゃないかな?w

躾のなってないイヌがサンダルを集めるのと同じ?

871日本@名無史さん2019/02/15(金) 07:45:17.86
>>870
倭国(阿波)を羨ましいと思う気持ちは理解できるよ。  @阿波

872日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:10:45.09
その倭国というのは何なの?
アマテラスというのが住んでいるの?出身地?
デタラメ?

873日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:14:35.60
神話でも何でも良い、
鏡なども他の国から貰ったものだと書いてあるでしょ


日本の神話でいう神というのも、
そこ(他の国)に住んでいたんじゃないの

874日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:17:44.78
その神というのがいるでしょ?
後に〜〜〜〜日本に渡って来たという話?

875日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:31:19.24
424>>664
>>そして・・・「自竹斯國以東、皆附庸於俀」は「皆」だから、
そこには「俀の都」がない。<

>九州説の人はいつも日本のがおかしいな
江戸から見れば箱根の関から手前が「皆」関東だ<

大和説の人種は、全員いつも、脳がおかしいな。
「皆」とは、「例外なく全部だ」という意味だ。

876日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:35:36.85
『小泉八雲 鏡の乙女』

家の老婆も(天の川)、
この作品と同じような話をしていたり

蚕を飼っていて、機織〜、
そういう家の人と結婚したとか

『松傾』?

877日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:41:40.31
>鏡のおとめ(百済から来た鏡の精の話。南伊勢の国)

鏡の精・・・?どういう意味なんだろう、妖精?

878日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:44:21.12
『鏡 妖怪』?


釣り名人のような話が出てきたり、
古代の中国の人物の話とか

879日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:53:17.68
畿内説・大和論者の多くは、「倭人伝は逸文」と無意識に思い込んでいるようだ。
つまり古代大和に(倭人伝)という古文書があり、三世紀にやってきた魏使がこれを持ち帰って、
三国志・魏志伝に逸文として収録された・・、という無意識の意識だ。
そして、すでに当時の畿内は大国だったから、畿内が魏志倭人伝に登場しないはずはない、という思い込みだ。

しかし、それはあきらかに迷妄、片思い、自己過大評価、、
事実は、魏王朝の曹操と所縁のあった九州・倭の国々のみが、魏志倭人伝の主人公として収録され、
無遠だった近畿・ナラ地方は、ただの倭種ナラとして片づけられたのだよ。。。

880日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:54:49.24
河内古墳群(コムキ朝)とかを、九州説はどう説明してるんだろ?

881日本@名無史さん2019/02/15(金) 08:56:17.54
424>>672
>>弥生後期に100名近い殉死が認められる墓って祇園山古墳しかないだろ? <

>その墓坑が、祇園山古墳を作るときの地山整形で上部3分の一くらい
削られちゃってるのがあるんだよ
殉死者を葬ってから、その墓を破壊してメインの墳丘墓を作るって
ありえないことくらい日本人なら判断できるよな? そもそも埋葬順序がおかしすぎることになる<

ならん。
削られていたのは、鏡片や剣を貰っていた1号甕棺の成人女性。
彼女は、おそらく奴婢のトップのリーダー的存在で、卑弥呼の信頼も厚く、
卑弥呼の死に悲しんで、責任も感じて、殉死し、
だから、卑弥呼の死後も墓の見守りになるような後ろの位置で、先に殉葬され、
だから、卑弥呼の冢を作る時に、出入りが出来るように、甕棺の上を削られ、
それを見て、埋葬後、彼女に従った奴婢の内の百人位が追殉死し、
それが、側面から前面に殉葬されたもの。

882日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:04:33.94
おはなし作る九州説
それは歴史じゃない

883日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:06:02.78
>>879
これを九州説イタコ芸というんだよ

884日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:07:16.20
気づいている人は気づいているんだよ、家の話


『松傾』?兄弟、あと妹がいるんでしょ

885日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:19:15.71
>>875
>「皆」とは、「例外なく全部だ」という意味だ。

九州より東は世界の果てまで倭国の支配下?
まさかね
そういう意味じゃない
東へ東へ進んで倭国の海岸へ着いて上陸するとき振り返って、筑紫も含め九州からここまで「例外なく全部」倭=ヤマトの属国だと総括したの

886日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:22:34.93
九州説は落とし話しを作り、畿内説はニセ墓話しを作る。

887日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:26:11.68
畿内説・大和論者の多くは、「倭人伝は逸文」と無意識に思い込んでいるようだ。
つまり古代大和に(倭人伝)という古文書があり、これを三世紀にやってきた魏使が持ち帰って、
三国志・魏志伝に逸文として収録された・・、という無意識の意識だ。
そして、すでに当時の畿内は大国だったから、魏志倭人伝(逸文)に畿内が登場しないはずはない、という思い込みだな、、、。

888日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:29:58.61
偽何やら〜という作品もあるでしょ?

あと観たことないんだけど、
そういう漫画、アニメも無かった?

889日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:31:52.28
424>>684
>この時点で、まともな日本人は下敷きにされた墓と下敷きにした墓の間には
関係がないと判断するんだが?<

甕棺が残ってあったという事は、当然、冢造り人らは知っていて造成した事になり、
甕棺の中の鏡片や鉄剣を持った成人女性が誰であったのか?、
も知っていたから残した事になる。

>発掘報告書でも、殉死・殉層とは判断されていない <

発掘報告者は、当然殆ど、
「南→東」などのウソ付き騙しの「大和説という結論先にありき」の人種であるから、
大和説にとっては不利になる、と思えば、全て曖昧にして抹殺する事にするもの。

890日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:43:02.63
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

891日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:43:26.17
424>>684
>周囲で確認された墓坑も62基だったはず <

甕棺は、おそらく「一人埋葬」であろうが、
石蓋土壙32や箱式石棺7や竪穴式石室13などの、
少し大型墓での複数埋葬があった事が報告されていた筈であり、
それらが全て複数埋葬であったら、それだけで100人以上になり、
それも、集団墓地の否定であった。

892日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:46:31.71
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたな。。。

893日本@名無史さん2019/02/15(金) 09:47:46.83
>>891
>それも、集団墓地の否定であった。

集団墓地なことを否定してるのは古田一派だけでしょ

894日本@名無史さん2019/02/15(金) 10:01:01.80
須恵器が出土した三世紀の墓ww

895日本@名無史さん2019/02/15(金) 10:03:14.74
424>>696
>祇園山の殉死の特徴に、女性の遺体が多いというものがある。
上位を示すだろうと考えられる石棺墓から、
女性の巫女と考えられる異体が出土している。
これから考えても、会合で父子や男女の区別はないという、
邪馬台国の記述を反映する墓といえよう。<

ふーん、成程。
情報提供、有難うございます。

896日本@名無史さん2019/02/15(金) 10:04:58.37
『妖怪 鏡』
ググると、キタローの画像が出てきたりするし

『河童の三平』
家の写真と・・・・でしょ?

897日本@名無史さん2019/02/15(金) 10:06:44.43
須恵器が出土した三世紀の邪馬台国の女墓www

898日本@名無史さん2019/02/15(金) 10:07:39.15
日本では河童〜河伯?


家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、どういう話なんだろう

899日本@名無史さん2019/02/15(金) 10:29:05.47
>>870

残念ながら弘法大師ゆかりの四国八十八箇所のうち徳島の一箇所は
統一教会系チマチョゴリダンス教室になっている

900日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:06:55.77
>>895
九州説はデマが好きww

901日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:12:46.01
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。

902日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:44:12.74
>>386
今まで、介山がどんな山だったかまるで知らずに、1里76.5mの証拠だとして「介山高三十里」を山の高さだと胸張っていたのに。
プププ。

903日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:59:02.34
424>>703
>纏向遺跡は日本の都市の初現とする報告書があるから、纏向遺跡は
日本最初の王都であるということでいいな?ww <

纏向は、「都市」の状態になっていないから、×。

904日本@名無史さん2019/02/15(金) 11:59:18.74
>>398
1里=75m〜90m。
そのうちの75mに近い。
古田は、どういうわけで、その値を知ったのか。
1里76.5m説者は、古田がその値をどこで知ったのか、知ってるよね。
ちょっこっと、それを書いてみてちょ。

905日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:01:22.16
室見川の文鎮in弥生時代も笑えるけどな

906日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:03:09.76
>>903
「都市」の状態になっていないと倭女王卑弥呼が都をおいてはいけない
という理由は?

907日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:07:07.29
>>412
なんで、ヤマド、ヤマトと発音が違うのかよ。

908日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:10:33.31
九州説の心が濁ったので

909日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:15:25.05
>>440
普通、物足りてたら外へは行かんがな。
外へ出て行くのは、内で食えんから。

910日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:16:39.60
424>>707
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は
しゃべればしゃべる程に
詐術的な人間性と、口先騙しの日本語の巧さが浮き立つなあ

911日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:19:52.45
>>909
>外へ出て行くのは、内で食えんから。

まさにその通りだよ。 倭国(阿波)海人族の航海術をもって、外へ拓殖に出ていったのさ。  @阿波

912日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:26:04.15
>>442
1世紀〜3世紀が弥生後期。
実年代なんだが。

ホケノは、卑弥呼の冢ではなく前方後円墳だし、有棺無槨ではない、という絶対年代からの制約もあり…て、半分眠りながら書いたのか。

卑弥呼は、筑後山門。
ホケノは、纏向連合の代表祭祀者の墓。

卑弥呼は、筑後山門ちゃんネ。

913日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:31:38.89
>>386
中国人が谷本計算を知った所で
2000年以上前の周髀算経に書いてある事を真に受けて計算して出した数字に
一体何の意味があるのといった所じゃろ

914日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:38:34.25
>>912
>ホケノは、纏向連合の代表祭祀者の墓。

九州説として、見苦しい説明だね。  九州説では、畿内の古墳を明確に説明できない。  @阿波

915日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:42:16.58
>>908
ちがうな。
九州は、ちゃんと濁音が言えたから。
鹿児島も、山門野ヤマドノとちゃんと濁音が言えたから。
千葉の神門、ゴウドも、ちゃんと濁音が言えたから。
濁音ドを発音するのは、舌先でトと発音するのと違うのだよ。

916日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:46:21.59
>>914
なに言っちゃって。
纏向の墓は、尾張の前方後方型墓をベースに、その後方部に吉備の円墳を置き換えた新企画のもの。
九州の卑弥呼の墓は、祇園山。

917◆UiepmfCeDJqf 2019/02/15(金) 12:48:10.94
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1550200332/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

918日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:52:29.36
>>916
>纏向の墓は、尾張の前方後方型墓をベースに、

じゃ、「尾張の前方後方型墓」のベースは?   @阿波

919日本@名無史さん2019/02/15(金) 12:54:09.28
山門は海抜2〜4mしかない
地名にも残ってるように浮島

920日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:02:35.77
>>916
前方後円墳や前方後方墳のベースも倭国(阿波)。   @阿波

921日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:09:42.57
424>>710
>そもそもk1墓は布留I中・後期だから
もともと話にならなくね? <

ダメだ。
祇園山か「土師器の古い方」が出ている、という事だから、庄内だ。

922日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:22:19.62
424>>714
>祇園山古墳も同様に考えればよい
弥生時代の土坑墓、甕棺墓のある墓域に、その存在を無視して地山成形の基盤造成が
行われ、方墳が作られた「だけ」だ <

ダメだ。
祇園山から100m位の近くに「祇園山古墳群」という集団墓地が存在しており、
祇園山は明らかに、祇園山古墳群とは別に独立的に地山形成までして作った墓であり、
1号甕棺のような、鏡片や鉄拳を付けた成人女性が、
孤独に埋葬されるような事がない場所だ。

923日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:26:51.16
「土師器の古い方」がすべて庄内のことだと決めつける
無知な素人がいたぞ
ダメだ九州説は

924日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:29:30.27
424>>727
「南→東」などのウソつき騙しの大和説は、
具体的な史料事実や史料実態の事を言ったら、
終わりだからな

925日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:33:43.11
>>922
>孤独に埋葬されるような事がない場所だ。

なら共同墓地だよな
ダメだこりゃ

926日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:37:47.36
>>919
大丈夫。
弥生後期の海岸線の図をみると、みやま市あたりは陸地。

927日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:39:11.24
424>>729
>祇園山古墳も段築、葺き石を伴った古墳時代の方墳なんだけど?
方墳と前方後円墳で時代が異なるなんていうことはないぞ? ><

祇園山は、方墳とは違って、
「四隅円弧の段築葺石を伴った錐体台」的な古墳であり、
前方後円墳よりは、明らかに古型だ。

928日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:39:15.69
>>918
尾張の前方後方型墓のベースは、尾張の方形周溝墓。

929日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:45:09.40
>>815
>その2号墓の周濠から出た土器片が2世紀末を示してるんだが?

土器の年代比定はあくまでも相対的なもの。
平原遺跡が卑弥呼の墓なら、そこから土器編年の絶対年代を求めることができるようになる。
そもそも2世紀末ならすでに倭国大乱より後であり、卑弥呼の治世である。
平原遺跡の主は卑弥呼以外にないということになる。

930日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:49:38.59
424>>731
>径百歩に全然足りない墓を卑弥呼の墓にしようとしても最初から無理だってば<

短歩で基盤的な台の上の不定形の錐体台状のが墓であり、
錐体台部分が径百余歩でほぼピッタリだ。

>しかも九州説は、「径」だから円墳に決まってるから前方後円墳じゃないって
言うくせに祇園山古墳は方墳ww <

「径」は、綺麗な方墳以外の、不定形や円形の大きさうぃ表す方法であり、
祇園山にはほぼピッタリな表し方だ。

931日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:51:06.08
怡土平原・伊都国説は、神功皇后記のパクリ

932日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:51:29.46
>>929
は?
倭国大乱より後には
卑弥呼以外は誰も死なないのか?
アナタお脳の論理回路が死んでないか?

933日本@名無史さん2019/02/15(金) 13:55:22.89
>>930
>短歩で基盤的な台の上の不定形の錐体台状のが墓であり、

次々と史料にない新しい単位を捏造する九州説

934日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:00:40.02
>>920
萩原墳丘墓も寺山3号墳も円墳。

935日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:01:01.22
>>928
尾張の方形周溝墓のベースは?  尾張忌部さん。  @阿波

936日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:10:00.28
>>934
寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島

4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。
邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。
寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。
菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。
その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある▽墳丘の表面を積石で覆っている
▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。
破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。
近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。  @阿波

937日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:14:53.36
>>919
弥生終末期頃は、古墳寒冷期直前の低温期で、海面は現在より2〜3m低かったとされる。

938日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:20:20.37
>>926

無理無理、ところどころ浮島の小さな遺跡だけ

939日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:25:46.98
>>935
方形周溝墓は近畿発祥。

940日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:26:49.91
>>938
その弥生の海岸線の時期は、いつ?

941日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:30:20.33
>>940

遺跡を示しなさい

942日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:35:25.68
>>937
盆地は海水面に関係ない。
寒風吹き荒ぶジメジメした沼地が奈良盆地。

943日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:38:08.68
>>930
>短歩で基盤的な台の上の不定形の錐体台状のが墓であり、
>錐体台部分が径百余歩でほぼピッタリだ。

「短歩」ってのは何センチで
その史料的根拠と算出基準は何で
祇園山のどこをどう測ると
「径百余歩」になるのかね?

944日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:38:49.23
>>942
証拠は?

945日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:44:00.51
>>938
200年の海岸線は柳川市付近。
弥生中期までは高温で海岸線は奥に後退していたが、後期後半からは低温化が進んで海岸線が南へ下り、200年頃には柳川あたりに海岸線があった。
山門は、十分陸地。

946日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:46:01.44
>>945

海水混じりの泥地じゃ陸地でもムツゴロウしか食べられない

947日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:47:45.94
>>944
>証拠は?

ヨコだが、盆地形状がその証拠では?  @阿波

948日本@名無史さん2019/02/15(金) 14:47:51.36
>>945

山門の候補となる大規模遺跡を提示すればいいだけの話

949日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:02:19.14
奈良盆地のかたちは更新世中期(約87〜50万年前)にほぼ現在のかたちとなった
ウルム氷期が終了する完新世(約1万年前以降)以降、盆地内には古墳時代まで
沼地・湿地は多く残っていた
豊葦原千五百秋水穂国が日本国土の美称

http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A4%CE%B7%C1%C0%AE%B2%E1%C4%F8

950日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:09:56.57
424>>743
>>そして前方後円墳がある時点で、それはもう266年以降の構造物であり、<

>そんな非科学的なこと言ってるから 九州説は死んだんだよ<

「南→東」などのような、
そんな「人類の常識外れの非学問的非科学的」な事をいうから、
大和説は7割の国民からの支持をうしなったんだよ。

951日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:16:44.15
424>>756
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の心臓ってスゴいよね
知りもしないで適当な想像を垂れ流す
事実関係を追求されると、
ここまでなら 「ウロ覚えで間違えちゃったテヘ」で済んだのに
ゴマカシのため保身のため完全にウソをつき始めちゃうのだ

人生の転落を絵に描いたようだ

952日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:24:18.32
424>>770
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
どうしてそんなに
証拠だすのが嫌いなんだろうね

953日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:25:30.11
毎日何時間もかけて
ウソをつき中傷を続ける男
生きた迷惑 歩く顰蹙

その名もザラコク傲慢老人

954日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:34:07.92
纒向の掘立柱建物は地方豪族の館でもいいじゃん
もしくは記紀登場の人物の館でもいい
卑弥呼と決め打つには材料不足

955日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:34:29.86
纒向の掘立柱建物は地方豪族の館でもいいじゃん
もしくは記紀登場の人物の館でもいい
卑弥呼と決め打つには材料不足

956日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:35:45.53
おーーーい
>>1さんよ
日本海ルートへの反論ないなら
テンプレ直しておいてね

957日本@名無史さん2019/02/15(金) 15:42:20.88
424>>784
>畿内説に不都合なのではなく、短里があると考える理由がまったくないから、
間違ったことを言うのはやめなと言っているだけ <


畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測のの記録は、
客観性や信頼性や確率が非常に高く、
短里があった、と考えざるを得ない。

958日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:04:47.76
畿内が存在しないとか、なに寝言言ってんの
あたま変なの?

959日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:06:57.11
424>>798
>ないな
箸墓は布留0
祇園山は布留1中〜後期<

ないな
箸墓は布留
祇園山は「土師器の古い方」であるから、庄内。
△があり、甕棺や「冢」であるからでも、3世紀中頃。

960日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:08:18.59
>>955
材料不足と決めつける理由は?

961日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:13:09.23
>>959
ひとつも理由のないとこが笑いのツボ

962日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:20:53.77
>>955
>纒向の掘立柱建物は地方豪族の館でもいいじゃん
>もしくは記紀登場の人物の館でもいい

饒速日でいいじゃん。

963日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:22:06.67
>>960
決めつけるなら、その材料を示せよ。
証明する責任は、畿内説を唱えている側にある。
証明できないなら、畿内説はただの妄想かファンタジーだ。

964日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:25:00.52
>>959
>祇園山は「土師器の古い方」であるから、庄内。

その、祇園山が「土師器の古い方」である
というのからして
ザラコクのねつ造だから話にならんわ

情報源をこっそり隠してるのが
嘘だってなによりの証拠だ
やましいところが無いなら
どういう理由で祇園山は「土師器の古い方」なのだ
と悪びれずに言うはずだ

965日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:26:17.42
>>963
誰が材料不足と決めつけた?
お前だろ
だから理由を言え

966日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:27:29.82
祇園というのは、仏教の聖地のことです。
すでに三世紀には、筑後に仏教が入っていました。
卑弥呼の鬼道の正体は、仏教のことだったのです。南無南無!

967日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:38:34.64
九州説は理由を言うのが大嫌い
証拠出すのも大嫌い
だから滅んだ

968日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:48:02.29
畿内説が材料不足だという
理由を言うのがイヤなばっかりに
畿内説が材料を出さずに決め付けた
という証拠を出さなきゃならなくなった
愚かな九州説
なんか言い訳するたびに傷口が開いていく
あわれな九州説

969日本@名無史さん2019/02/15(金) 16:55:09.36
ザラコクも祇園山が「土師器の古い方」とか連呼しちゃいましたね
もうこれ以上ソース出さずにトボけ続けてると
嘘つきザラコクの名はますます高まりますなあ

970日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:00:46.67
祇園というのは、仏教の聖地のことです。
すでに三世紀には、筑後に仏教が入っていました。祇園山は仏教徒の合同墓です。

971日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:16:02.18
>>969
その祇園山古墳の「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、まず間違いなく筑紫忌部のお墓だよ。  @阿波

972日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:16:21.30
それなら九州は卑弥呼の治めた邪馬台国じゃあないな
卑弥呼は仏教じゃなく鬼道によって国を治めたんだから
当時筑後が仏教国なら邪馬台国からすれれば異教国

973日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:19:18.15
>>971
方墳だから、蘇我氏系の「忌部はん」 だろう。  @阿波

974日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:21:29.75
>>968
ここは畿内説のスレなんだから、畿内説を証明する証拠を示せというのに、イヤイヤ言って証拠を示さないのが突っ込まれているわけで。
証拠を示していない証拠って何だよ。
形勢が悪いから逆ギレか?

975日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:22:34.56
>>972
おい、キナイコシ。
見え透いた自作自演はやめろよ。

これだから畿内説は信用されない。

976日本@名無史さん2019/02/15(金) 17:27:23.70
>>975
これこれ、なかよく喧嘩しなさい。  永遠の良き罵り相手なんだから。  @阿波

977日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:06:28.09
424>>839
>>遼東や郡役人らの里記録は、魏朝の(短)里で書かれているから、<

>前から何度も書いてるけれど、魏尺は現物が出土しているから、
魏朝全体が短里だったとするのは不可<

前から何度も言っているが、「尺定規」は尺寸系の定規であり、
始皇帝の里歩系と尺寸系の換算命令である「1歩=6尺」の「尺の寸法」には、
何の関係がない、
という事が、類スレ主は全く理解できない・・・・アホ。

978日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:09:32.98
424>>847
>邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確<

「南≠東」などに拠って、×。

979日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:14:03.58
424>>849
>日本中にあるヤマトの地名が九州にもある!だから九州が邪馬台国だ!
しかもヤマイとかヤマドイなんて読み成立しないのに邪馬台国なんだい!
バカ九州説の論拠に腹がよじれるほど笑うww <

「邪馬壹國≠邪馬台国」であるし、「邪馬臺≠ヤマト」であるから、
大和説は×。
バカ大和説の論に腹がよじれるほど笑う。

980日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:25:09.03
>>975
どこが自演だ
都合の悪いレスは自演www
九州説wwwwバカwww

981日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:25:48.58
>>974
>ここは畿内説のスレなんだから、畿内説を証明する証拠を示せというのに、イヤイヤ言って証拠を示さないのが突っ込まれているわけで。

そんなことがあった
って証拠は?

九州説はまたねつ造?

982日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:29:06.07
それよりも

『ワンピース 粉雪』と『AION』〜という曲があるでしょ、
なぜ同じなの?あと『姥清水』

983日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:29:47.05
そもそもここに本来書き込みにくる理由もない九州説が
畿内説スレに遮二無二な書き込みをやってる時点で
普通の人はあっ察しとなるんだよ

984日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:30:35.96
424>>858
>言えるのは「副葬品の多い厚葬墓で、副葬品の構成から被葬者は女性の可能性が高い」と
いうところまでがせいぜいだ
厚葬墓であるから、庶民の墓ではなく伊都国の有力家系の墓だとは言えるが、
井原ヤリミゾ遺跡、三雲南小路遺跡と比べても、墓の規模が劣るし、
伊都国王墓の立地である三雲遺跡群の外にあることからも、伊都国王墓ともみなしがたい
平原遺跡を含む曽根遺跡群では、平原遺跡以降、古墳時代に入っても累代的な造墓が
続くが、三雲遺跡群の端山古墳、築山古墳と比べて規模が小さく、伊都国首長の一族ではない
平原遺跡は伊都国の第二位の家系と見るべきで、倭国の王の墓とするのは無理だよ<

いや、21枚の「尚方作」鏡の存在は、明帝の下賜鏡が元になった、とするしなく、
それを副葬出来るのは、卑弥呼か、その後継相続の宗女の壹與しかいない。
そして、大量の玉なども副葬出来るのは、魏志に書かれた
「因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」の、
壹與の墓であった、という可能性が非常に高い。

985日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:31:09.86
飲もう、飲み明かそう今夜とか、
ほとんど同じ曲でしょ

986日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:33:41.11
まあ>>974みたいなウソいくら書いてもねー
テンプレあるからね
モロバレです

987日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:35:27.19
>>984
>いや、21枚の「尚方作」鏡の存在は、明帝の下賜鏡が元になった、とするしなく、

九州説にデッチ上げるためには、だろ
w

988日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:37:19.49
>>984
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年と
旧来の魏志を引き写した梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に書いてある
その景初三年と魏の年号が刻まれている陳氏作鏡の三角縁神獣鏡こそ
卑弥呼が貰った魏からの下賜鏡で間違いなし

989日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:38:27.71
>井原ヤリミゾ遺跡、三雲南小路遺跡と比べても、墓の規模が劣るし、
伊都国王墓の立地である三雲遺跡群の外にあることからも、伊都国王墓ともみなしがたい
平原遺跡を含む曽根遺跡群では、平原遺跡以降、古墳時代に入っても累代的な造墓が
続くが、三雲遺跡群の端山古墳、築山古墳と比べて規模が小さく、伊都国首長の一族ではない
平原遺跡は伊都国の第二位の家系と見るべきで、倭国の王の墓とするのは無理だよ

正しい認識だ。
男王のあとの共立女王、にピッタリだな。

990日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:38:32.06
ザラコクはどうしてそう考えたのか不明なの多いよね

991日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:40:13.82
>>984
ムダな書き込みしてないで

祇園山が「土師器の古い方」って
ソースまだー?

992日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:41:38.33
畿内説の説明全てにいや、と反発しなければ即死なので何も考えないでとりあえず否定している

993日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:41:47.34
424>>860
>>周髀算経には、半月毎の影長表が書かれているから、夏至だけではなく、
一応一年中計測できるよ。<

>その影の長さが夏至以外「全部間違っている」んだよ!ww
冬至に至っては3寸も長さが違う
計れば計るほどデタラメになるぞ、周髀算経の影長の数値を使ってたらな<

いや、半影の最先端での計測で、有効数字1桁程度以内の計測値が十分に得られる。

994日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:42:51.49
>>989
財産ひとに全く分けない独り占め婆さんって
共立女王にぜんぜん相応しくなくね?

995日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:43:54.91
>>993
得られるなら
結果だけ言い張ってないで
計算根拠出せは?

996日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:45:46.56
>>948
なんで大規模遺跡が必要なのか、少しもワカリマセン。

997日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:45:58.75
>>993
>いや、半影の最先端での計測で、有効数字1桁程度以内の計測値が十分に得られる。

有効数字1桁程度以内の計測値が得られるから一里は約75mって
インチキじゃね?

998日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:46:41.02
>>996
九州説はじゃ邪馬台国は小国なの?

999日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:47:30.87
口先だけで言い逃れて証拠出さないから
九州説は死んだ

1000日本@名無史さん2019/02/15(金) 18:47:31.52
>>946
ムツゴロウのから揚げはうまいし。

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