11 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:35:39.36
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1557025399/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:37:06.05
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:37:29.24
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:37:57.20
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:38:19.19
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:38:41.59
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
71 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:39:06.15
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
81 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:39:35.70
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
91 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:40:03.56
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
101 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:40:31.43
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
111 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:40:54.24
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 121 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:41:23.00
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
131 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:41:50.25
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
141 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:42:12.30
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
15日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:42:35.85
九州王の年表
(紀元前2世紀) 福岡平野に吉武高木遺跡 ←最初の王都
(紀元前2〜1世紀) 奴国と考えられている須玖岡本遺跡
(紀元前1世紀の王・王妃墓)糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡 ←伊都国に遷都
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国。井原鑓溝遺跡 ←九州王が権力を失い漢鏡流通の核としての機能を停止した時期
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国。平原遺跡 ← 邪馬台国の一大率に支配されて平原遺跡が衰退した時期
※『日本書紀』によると九州王は仲哀天皇の時代(4世紀頃の人物)に完全に家来になった ←九州王滅亡
161 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:42:36.10
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
171 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:42:59.90
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
181 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:43:43.98
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
191 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:44:10.77
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
201 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:44:33.78
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
211 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:44:58.79
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
221 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:45:23.41
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
231 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:45:50.19
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
241 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:46:14.60
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:46:39.48
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 261 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:47:03.15
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
271 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:47:26.69
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
281 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:47:55.92
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
29日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:48:12.89
うめ
301 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:48:18.23
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
311 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:48:43.46
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 321 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:49:06.12
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
331 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:49:31.11
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
34日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:49:33.45
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
35日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:49:52.72
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
361 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:49:52.17
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
37日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:50:08.16
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
381 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:50:15.21
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
39日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:50:22.45
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:50:39.68
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
41日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:50:42.61
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
42日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:50:52.87
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
431 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:51:04.81
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 44日本@名無史さん2019/05/07(火) 12:51:15.78
このように、倭人伝の全ては畿内説にとって不利な記述である。
451 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:51:28.72
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
461 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:51:51.23
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
471 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:52:12.88
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
481 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:52:34.68
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
491 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:52:55.82
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
501 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:53:21.63
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
511 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:53:46.07
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
521 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:54:08.60
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
531 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:54:36.05
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
541 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:54:58.33
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
551 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:55:22.47
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
561 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:55:43.10
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 571 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:56:04.03
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
581 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:56:26.98
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
591 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:56:49.16
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
601 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:57:11.33
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
611 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:57:38.49
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
621 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:58:00.73
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
631 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:58:23.36
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 641 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:58:45.97
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:59:13.44
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 661 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 12:59:37.76
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 671 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:00:05.39
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
681 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:00:31.09
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
691 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:00:52.45
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
701 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:01:20.87
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
711 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:01:48.90
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
721 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:02:17.42
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
731 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:02:43.26
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 741 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:03:09.44
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) 751 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:03:38.11
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
761 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/07(火) 13:04:49.68
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】誤変換修正
77日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:07:38.24
つまり、邪馬台国畿内説は、韓国人考古学者達の研究を鵜呑みにしたところから、始まったのだね。。。
78日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:25:03.58
邪馬台国はヤマト国なのに何で他の畿内まで巻き込もうとするんだろう
タチが悪過ぎる
河内には河内の、和泉には和泉の、摂津には摂津の、山背には山背の歴史があるのに
他の地域の歴史を奪うことは、人間として一番したら駄目なことです
79日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:37:44.16
80日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:38:06.35
81日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:43:46.15
わかるぞその気持ち
FAQは九州説敗北の黒歴史だからな
そりゃ目をそらしたいさ
82日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:50:56.25
83日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:52:22.93
>>80
有難いです。。。すぐに、アプローチの住所を記録しました。。。
僕達の頭の良い孫たちがアプローチする可能性があるので、孫達にもその住所で記録するように、薦めます。
頭の悪さが遷ったり、ギガという謎のエネルギーのようなものが減ってしまうことが防止できますね、、、 84日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:57:51.42
>>83
スクロールして、僕達の指が疲れたり、孫達が携帯電話の画面で指紋が擦れる危険も、減らせるのでは、ないのかな。。。 85日本@名無史さん2019/05/07(火) 13:58:31.18
>>82
古い情報だって決めつける根拠は?
「根拠も示さずに決めつける」のは
妄想です 86日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:00:57.09
九州説
それは常に現実から目をそらし続ける老人たち
87日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:03:50.94
>>85
最新情報が更新されています。
ご確認を。 88日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:29:50.68
畿内説に基づき若狭湾辺りで上陸した場合、陸行一月だとこれまた太平洋に出てしまうな。
若狭湾から京都までのサバ街道は歩いて一晩だそうだ。
89日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:35:22.85
魏志倭人伝時代の筑後川は下流が、海だった可能性が、高いので、松浦市から熊本城までは1月かかったのではないのかな。。。
90日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:36:17.69
当時は街道は無いから何とも言えないが、熊野川沿いに北上しヤマト入りするなら1日5kmとして1ヶ月くらいかかりそうだ
91日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:40:48.83
魏志倭人伝時代の筑後川は、下流の周りが海だった可能性が高いので、八女を通ったのだな、、、
92日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:54:03.40
ベジタリアンの方法では、目立つ大きな古墳があったという理由で、最初に、その周囲の邪馬台国がありそうな場所を探しても、鉄の武器や人民の住所を発見できなければ、すぐに、他の場所を探すことに変換するのではないのかな。。。
93日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:57:48.60
ベジタリアンの方法では、目立つ大きな古墳があったという理由で、最初に、その周囲の邪馬台国がありそうな場所を探しても、鉄の武器や人民の住所を発見することに時間が、かかってしまうなら、
一旦、振出から考えて、他の大きな平野や、鉄の武器がある場所から、卑弥呼の判子や死体の化石を探せば良いのではないのかな。。。
94日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:59:13.56
>>87
何があっても頑として根拠を出さない
それが不易の九州説 95日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:59:34.78
ベジタリアンは、仏教の信者なのだろうか、、、
96日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:05:55.01
動物を殺害しないで、ビタミンB12を摂取するためには、どのような方法があるのだろうか、、、
97日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:10:47.10
何かを、教えて欲しい時は、、、
僕は頭が悪いから、わかるのに時間がかかるかもしれませんが、教えて下さい、、、
という言葉を使えば、良いのではないのかな。。。
94日本@名無史さん2019/05/07(火) 14:59:13.56
>>87
何があっても頑として根拠を出さない
それが不易の九州説 98日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:15:39.10
>>97
お前さんの主張の根拠はな
頼んで教えてもらうもんじゃないんだよ
根拠が出せなきゃお前の主張が
根拠のない主張になるだけだ 99日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:18:15.88
動物を殺害しないで、ビタミンB12を摂取するために、魏志倭人伝時代のベジタリアンは、
魏志倭人伝時代の筑後川の下流の周りが海だった可能性が高いので、海苔を養殖していた可能性が高いな。。。
100日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:18:22.38
実際のところいくら探しても九州にはデカい墓が無いからね
101日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:20:40.34
根拠を知りたいもの以外は誰も、困らないので、良いのでは、ないのかな。。。
98日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:15:39.10
>>97
お前さんの主張の根拠はな
頼んで教えてもらうもんじゃないんだよ
根拠が出せなきゃお前の主張が
根拠のない主張になるだけだ 102日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:25:17.71
この頭の悪い意見の発表をしたのは、75パーだろうか、それとも3寸男だろうか、それとも、両方だろうか、、、
それとも、全くの別人だろうか、、、
100日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:18:22.38
実際のところいくら探しても九州にはデカい墓が無いからね
103日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:27:14.57
ベジタリアンは、ベイジアンとは、全くの無関係な者なのだろうか、、、それとも、関係性があるのだろうか。。。
104日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:28:26.22
ベジタリアンは、ベイジアンになり易いのだろうか、なりにくいのだろうか、、、
それとも、全く関係がないのだろうか、、、
105日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:29:40.41
>>102
そうだね。。。
デカい墓は、崩れたり、崩されたり、埋まったりする可能性が高いな。。。 106日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:31:37.78
>>105
滅ぼされた国の墓は、2000年続いている側の国の権力のある者達の墓より、崩れたり、崩されたり、埋まったりする可能性が高いな。。。 107日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:32:21.30
108日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:33:46.11
何かの最新情報が更新されているのだろうか、いないのだろうか。。。
そして、どうすれば、それを確認できるのだろうか。。。
109日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:34:07.49
あるなら提示したらいいのに出来ないのね
110日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:34:23.46
111日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:37:25.62
>>101
おつむ足んないのね
困るのはあんたよ
相手は根拠を知りたいんじゃないのよ
あんたの主張に根拠がないと
立証してんのよ 112日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:37:28.25
何かの最新情報が更新されているのだろうか、いないのだろうか。。。
そして、どうすれば、それを確認できるのだろうか。。。
という疑問が解決するのを望む者と、望まない者と、その疑問が発生しなかった者の3通りの者達が、いるのではないのでは、ないのかな。。。
113日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:39:31.30
この頭の悪い意見を発表した者は、87番の意見を発表した者と、僕達が同じ者だと誤認しているな。。。
111日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:37:25.62
>>101
おつむ足んないのね
困るのはあんたよ
相手は根拠を知りたいんじゃないのよ
あんたの主張に根拠がないと
立証してんのよ 114日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:41:31.58
>>113
この頭の悪い意見を発表した者は、87番の意見を発表した者と、僕達が同じ者だと誤認した、余事象のことを理解できなかった、キナイコシではないのかな。。。
111日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:37:25.62
>>101
おつむ足んないのね
困るのはあんたよ
相手は根拠を知りたいんじゃないのよ
あんたの主張に根拠がないと
立証してんのよ 115日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:44:15.43
このスレも早くもNGまみれだ
116日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:44:59.41
三国時代の薄葬令の影響で、九州倭国の墓も小さな塚ばかりだったのではないかな。
117日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:45:49.52
この頭の悪い意見を発表した者は、87番の意見を発表した者と、僕達が同じ者だと誤認しているので、なければ、
101番の、、、根拠を知りたいもの以外は誰も、困らないので、良いのでは、ないのかな、、、
という僕たちの主張が立証できないから、僕達が困るという、根拠のないことを、言った可能性があるな。。。
111日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:37:25.62
>>101
おつむ足んないのね
困るのはあんたよ
相手は根拠を知りたいんじゃないのよ
あんたの主張に根拠がないと
立証してんのよ 118日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:47:53.47
討論会から、頭の悪いプロ固定が、逃亡してしまったな。。
115日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:44:15.43
このスレも早くもNGまみれだ
119日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:48:42.21
八女は邪馬台国ではなくて、邪馬国とよばれていたのではないかな、、。
120日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:49:16.74
101番の、、、根拠を知りたいもの以外は誰も、困らないので、良いのでは、ないのかな、、、
という僕たちの主張が立証できなくても、僕達は困らないな。。。
121日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:50:32.99
僕達の意見と同じ、優れた考古学者が、意見を発表した可能性が、高いな。。。
119日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:48:42.21
八女は邪馬台国ではなくて、邪馬国とよばれていたのではないかな、、。
122日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:52:05.61
何かの最新情報が更新されているのだろうか、いないのだろうか。。。
そして、どうすれば、それを確認できるのだろうか。。。
という疑問が解決するのを望む者と、望まない者と、その疑問が発生しなかった者の3通りの者達が、いるのではないのでは、ないのかな。。。
123日本@名無史さん2019/05/07(火) 15:52:52.13
予想通り、メールが、来た。。。
124日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:08:18.79
>>448
>ま、邪馬台国がどこにあっても現代人の生活には一切無関係なので、有閑老人たちの永遠の論争テーマとしておきましょうw
正解は大和。 卑弥呼の冢は箸墓後円部地下、宮殿は箸墓前方部地下に埋め立てられた。
纏向遺跡は崇神の王宮w<
正解は、「南≠東」や「正北抵新羅」に拠って、北部九州であり、
この大和説男も×。 125日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:09:05.26
>>452
>ザラコクには悪いが
維基文庫の隋書では則魏志所謂邪馬台者也になってるよww<
そりゃ、維基文庫の史料批判をきちんとやらなくっちゃ、
根拠に使えないようだな。 126日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:11:08.68
>>455
>箸墓が真の崇神寿陵で、邪馬台国卑弥呼の痕跡を消すためのものだったとしたら、
纏向型前方後円墳が箸墓で突然巨大化した理由は説明できるな<
邪馬台国とか卑弥呼を持ち出した時点で、「南≠東」などに拠って、×だな。 127日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:12:10.64
>>457
>九州説は遷都、東遷が好きだよなww
どの史書にも遷都は書かれていないし、
考古学的にも遷都を示すような遺跡も遺物もない <
「遷都」「東遷」ではなく、九州倭国の「東征毛人五十五國」があったのだよ。 128日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:12:29.87
三国志では冢を造った記述があるのは倭国のみだから
倭国は薄葬令には服してなかったのだろうな
129日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:12:58.42
>>460
>「卑弥呼の冢(径百歩=直径約150m)」と箸墓(全長280m)の大きさが
2倍近く違う理由も説明できるね<
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」だけでも、×だ。 130日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:13:49.00
>>464
「南→東」や「冢=前方後円墳」などのような嘘つき騙しの大和説は、
非常識な珍解釈で生み出された虚像ってことね。 131日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:14:31.77
>>466
その通りだ。
「南→東」などの嘘付き騙しをして、
頑としてひとの説明を聞くことを拒否する一方で
「九州説では説明できない」と理由もなく決めつける大和説者は、
当然ながら、
正常じゃない。 132日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:15:08.54
>>468
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
論破されるたびに新しい嘘をつくが、
大和説は嘘つきだ、という実績を残し晒すので、
自分たちの立場を悪くするだけだ。 133日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:25:10.50
>>478
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
そんな作り話つくって何が楽しいんだ?。 134日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:29:42.03
>>479
>寺沢薫
「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方で多く出土する事実は変わらない、
鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」
「(弥生時代後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、
(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルートを持っていた
というような近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。」<
ふーん?、寺澤もそんなまともな事を言うんなら、
「南→東」などのような嘘吐き騙しの大和説を止めて、
九州説に転向すればよいのにねえ。 135日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:36:53.96
なぜ南と書いてあるのか?
邪馬台国は博多湾の南にあったから。
伊都国、不彌国より南。
狗奴国より北。
狗奴国と戦争していたと書いてあるので共通した武器などが発掘されるんじゃないかな。
136日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:41:01.45
>>484
>薄葬令は、豪奢な副葬品が盗掘を招くから、盗掘で死者の(というか自分の)死後の安寧が
破られないように、墓を目立たないようにし価値のあるものを墓に入れないようにしろ、
というのが、理由と目的だぞww
皇帝は、いくらでも人民を徴発できるから、費用がどうのというのは問題にならない<
やはり、スレ主は・・・・か?。
皇帝と言えども、全く何の罪もない人民を徴発ばかり出来るものではない。
好太王の婢でも、戦争で勝って新たな支配下になった百済や新羅の人民を、
「墓守り人」にするのが精一杯。やはり大きな墓は、人手と金が要るもの。
だから、やはり厚葬は、豪華な副葬だけではなく、大きさにも関係する。 137日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:44:17.68
>>485
>遷都はされていないから、北部九州の古い王とは無関係な
新たな共立女王の都が邪馬台国に置かれたんだよ
それを、寺澤先生あたりは「新生倭国」という言い方をしている<
ブブー。
やはり、寺澤やスレ主らやの大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅」に拠って、×。 138日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:45:29.65
>>134 (がもとではないけれど)
>近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。
だから、近畿勢の自立的な勢力伸張ではなく、
多数の地域首長の談合による卑弥呼の共立=新生倭国の誕生を想定するんだよ
そして、その新生倭国の新共立王・卑弥呼の都が、仮称ヤマト国にあったというのが
寺澤先生の所論
ごりごりの畿内説だよ
トーンダウンも一切してない 139日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:47:52.88
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
140日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:49:36.81
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろう
141日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:52:10.86
>>493
>維基文庫の隋書の標準テキストに、
都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬台者也。って書いてあるよww<
中国であろうが、日本であろうが、
前代史書の記載を、「自己解釈に拠って書き換えた形」の後代文書の記載は、
根拠にならず、×だよ。 142日本@名無史さん2019/05/07(火) 16:52:49.08
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
仁徳天皇陵の下に炭になった宮の跡とかあるかもしれない。想像だが
143日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:01:18.79
>>496
>>唯一の例外は、旧唐書で倭国と日本国が別の国であり、それらの関係について言及している部分。<
>これ「倭国と日本国が別の国号であり」という意味だぞ <
いや、別の国だ、という意味だ。
でなければ、「。或云日本舊小國、併倭國之地」なんて文言が書ける筈もないし、
唐会要が倭國伝と日本國伝とを全く違う場所に書き分け、
しかも、同時期の、それぞれの「正北抵新羅」などのような地理的位置を書き分け、
それぞれからの遣使も書き分ける筈がない。
>別の名乗りをしている、くらいの意味
唐の時点で改号前の倭国も奈良の朝廷がその中枢なのは間違いないんだから<
これを見ても、スレ主って男は、全くの・・・・アホ詐欺師だな。 144日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:02:33.64
オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。
敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
た風の宮の神、龍田神社の風の神さん、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。
145日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:02:34.19
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」
梯儁や張政は、魏の役人だから、魏皇帝の公定尺の度量衡以外を使う理由がない
むしろ、異なる単位系を使うのは、皇帝権力の否定になるので
ザラコクの好きな表現を使うなら「首が飛ぶ」ことになる
公孫氏は、最後の最後に反旗を翻すまでは、漢朝の公職・左将軍の地位にあり
また、公孫氏自身が漢人で漢の度量衡で生まれ育っているので、
漢の公定の度量衡以外を使う理由がない
最後に自立したからと言って、戦時に新たな度量衡を使う理由がない
使ったところで混乱するだけだし、国力を損なうことになる
倭人はそもそも里を知らないので魏晋里、短里(があるとして)ともに
使う理由がない
隋書巻81俀國傳に「夷人不知里數,但計以日」とあるとおり
韓人は楽浪、帯方二郡の影響下にあると見るなら、魏晋里あるいは秦漢里
以外を使う理由がない
国家形成前の小国分立期なので、度量衡は持っていないと見るべきだし
どこにも韓における計測についての情報はない
隋書の「夷人不知里數」の「夷人」には韓人も入るだろう
もし仮に、韓地に独自の距離単位が存在したとしても、その場合は
中華皇帝が定める距離単位「里」と同じ文字を使って記録する人はいない
そんなことをしたら、ザラコクの好きな表現を使うなら「首が飛ぶ」ことになる
ということで「短里を使う理由のある人がどこにもいない」んだよ
反論があるならどうぞ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
146日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:02:50.15
>>116
魏との交流が開始されるずっと前、薄葬令なんかないときから九州の墓は小さかったな 147日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:06:14.81
令和の典拠、梅の歌序
5世紀辺りの歴史と壬申の乱の真相を歌にしたものなんじゃないか? 梅がどんな勢力か謎なんだよな。物部氏に恨まれていた出雲大臣の勢力かな。出雲国造家や土師氏、天穂日
令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
蘭はイチイ、アララギのことかな
中部地方以北の寒い地域に多い植物
珮は殷、周の時代に流行った飾り
立派な月は風と手を組み、梅が鏡についた白い粉を払った。東国では殷周の末裔の影響が残っていた。
それだけで終わらず‥
壬申の乱が起きたのかな
曙嶺移雲 松掛羅而傾盖
朝日の美濃に雲が移り、新羅の装いの松と偶然にも仲良くした
本巣市、本巣郡辺りのことかな
朝日(神社)とか加茂とかの地名が残る
霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
岫は岩穴、山の洞穴
霧は霧島のことかな 。霧島神社、天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊が祀られている
庭は朝庭かな 朝が東なら夕は西
西の洞穴は霧島と手を結び、鳥はうすものに閉じ込められたが林の中を彷徨っている
朝廷には新しい蝶が舞い、元いた雁は巣に帰ってしまった
148日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:08:04.72
>>143
>或云日本舊小國、併倭國之地」なんて文言が書ける筈もないし、
これについては、近江朝と天武朝との間の政権奪取が混乱して伝わったものだろうと
>>26のFAQ25にも書いてあるだろ
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能 149日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:10:45.07
>>143
>>別の名乗りをしている、くらいの意味
>唐の時点で改号前の倭国も奈良の朝廷がその中枢なのは間違いないんだから<
>これを見ても、スレ主って男は、全くの・・・・アホ詐欺師だな。
こういう、根拠なしのただの悪口は、反論一つできませんっていう敗北宣言だぞww
反論したかったら、きちんとした根拠をつけて論じなさい
ただ、ザラコクの場合は、まったく根拠にならない虚偽虚妄を
根拠だと言い張るからなぁww
本当に質が悪い 150日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:16:38.92
弥生式墳丘墓や古墳は、ただの『墓』ではなく、権力承継の儀式を賑々しくやるための場。
周辺や遠方のクニから大勢の列席者を招き、可能な限り大々的にやる。
著名人や有力者の結婚式や葬式が、馬鹿デカい会場で行われるのと同じ。
そして親魏倭王・卑弥呼の墓が、薄葬令を守って墳丘長10mや20mの筈がないではないか。
それは4段築成(部分的に5段築成)の特異な古墳にして最初の前方後円墳である箸墓古墳をおいて他にはない。
151日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:29:52.38
>>148
そういう問題だけじゃなくてさ、倭国条と日本条に分けて記載されているんだからさ、それぐらい別物ということ。
日本国が倭国の改変だと認識されていれば倭国条にすべて記載されていたであろう。 152日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:30:15.93
箸墓の特異性は、3Cで一番の大物である卑弥呼の特異性と、分かち難く結びついている。
箸墓の特異な4段築成(部分5段築成)は、卑弥呼の墓である物証そのものだ。
153日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:31:34.44
154日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:37:43.21
外から見ても
わからものはわかる
わからないものはわからない
155日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:38:31.66
つまり中国にとっての倭国とはイスラエルのようなものであり九州北部のことだろうね。
そしてその他周辺のアラブ諸国のうち知っていたのは侏儒国とか黒歯国とかぐらいって事で。
奈良はまだ知られていなかったんだろうね。
156日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:38:46.07
>>145
な〜んだ
「誰」が計るかじゃないんだよ、
「どこの何」を計るかで長里に成ったり、短里になったりするのさ。おわかり? 157日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:42:21.98
158日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:44:03.94
箸墓は塚ではないから、お門違いの玄関払い。
159日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:49:17.21
箸墓は、崇神の墓でもなければ、垂仁の墓でもない。そして台与の墓でもない。
なぜなら彼らは『親魏倭王』ではなかったから。
『親魏倭王』は後にも先にも卑弥呼ただ一人。
それば『親魏倭王』故の特異な4段築成(部分5段築成)として残った。
160日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:49:37.90
>>151
>倭国条と日本条に分けて記載されているんだからさ、それぐらい別物ということ。
九州説はそうしたいんだろうけれどww
単に、異なる国号で国交(朝貢、遣唐使)があったから、
それぞれの国号で伝を立てただけだよ
宋書 梁書 隋書 旧唐書新唐書唐会要 宋史
倭國 倭 俀國 倭国・日本国 日本国
↑
長安三年 粟田真人の遣唐使で改号報告・承認 161日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:53:25.22
「塚「」という墓の形式は後漢時代に流行ったもの。
日本列島に特徴的な前方後円墳であるわけがない。
162日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:54:20.11
163日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:55:45.79
>>156
>な〜んだ
>「誰」が計るかじゃないんだよ、
>「どこの何」を計るかで長里に成ったり、短里になったりするのさ。おわかり?
分かる訳ないだろ
まともな論になってないんだから
「どこの何」を計るにしても、そもそも短里なんて存在しない
なぜなら「短里を使う理由のある人」=「短里の存在を知る人」がどこにもいないんだから
前から何度も書いてあるように、倭国との国交を「大事」として描きたい動機があり、
そのために倭国を絶遠の大国として描いてあるんだよ
距離は誇張されて盛ってある
それを「現代の知識・距離」と対照するから「見かけ上単位が短く見える」のを
「短里だ」と喚いているだけ
測定値ではないし、現実の地理とは無関係
「計ってない」んだよ
つまり、「どこの何」を『計るか』というのはそもそも立論の前提から破綻している 164日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:57:25.79
165日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:57:42.49
>>158
>箸墓は塚ではないから、お門違いの玄関払い。
もしかしたら、「門前払い」って言いたいのか?
「玄関払い」なんて言葉はないぞ?ww
玄関まで入れる前に、門をくぐらせるなよw
どうして、九州説には日本語の不自由なやつしかいないんだ? 166日本@名無史さん2019/05/07(火) 17:58:51.49
>>159
>特異な4段築成(部分5段築成)
後円部は「4段築成+その上に円形壇」では、いかんのかね? 167日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:01:08.38
>>162
>そんな考え方してるのはお前ら信者だけ
逆だ、逆ww
別伝があるから別の国、なんてのは唐代の日本の歴史を学んでたら、
噴飯モノのでたらめだって即断できるだろ?
別伝があるから別の国なんていうのは、特異な九州説信者だけに通用する迷信だよw 168日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:01:46.80
>>161
墓は後円部で、前方部は祭祀スペース。
箸墓が『大いに冢をつくる。径百余歩』で何の齟齬もない。
後円部の直径など、出来過ぎている程ピッタリだ。 169日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:03:00.79
そういえば箸墓古墳の頂上って信長時代は茶屋だったんだっけ?
170日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:04:01.26
>>164
>確か前方後円墳の由来は高句麗だよな。
時々、これを書く人がいるから、何のことかと思ったら、
高句麗の積石塚を、前方後円墳の墳丘葺き石の起源だって言う人がいるってことなんだね
高句麗の積石塚は前方後円形とは無関係だけれどw 171日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:10:31.14
>>170
無関係なわけ無いだろw
倭人はどこから来たんだよw 172日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:10:46.13
卑弥呼が死んだ後の権力承継の儀式を、
墳丘長たったの10mや20mの場所で、
(お客様は最小限にして、ほぼ身内だけで、ひっそりとやりましょうね)
なんてやる訳がないだろ。
クシャーナ朝と同格の『親魏倭王』だぞ。
クシャーナ朝の領域がどれほど巨大か見てみるといい。
173日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:12:08.20
174日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:13:19.53
>>172
ただし墓は中国側が見ていないの確かだよな。
家は大きく造ったらしいと。 175日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:24:27.90
ザラコク説の祇園山は方墳だから形状も可能性無いのか
方墳なら大きさは方って表現されるはずだから
176日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:27:05.08
>>174
>ただし墓は中国側が見ていないの確かだよな。
>家は大きく造ったらしいと。
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。狥葬者奴婢百餘人。
更立男王、國中不服。更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
政等、以檄告喻壹與。
壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。
と魏志倭人伝に書いてあるんだが?
卑弥呼の墓が作られて、男王が立つが国が乱れ、台与を立てて国が治まり、
張政が、台与に告諭し
台与が張政を送還してる
卑弥呼の墓の情報は、266年の晋への遣使での報告の可能性はあるが、
台与が王になるまで張政は見てるんだから、卑弥呼の墓を見ていないという方が
無理があるだろう 177日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:28:13.83
奈良時代(人口約500万)に国力の総力を挙げた東大寺の大仏建立の労働力が260万人日。
そして3C(人口約60万)の箸墓古墳築造の労働力が135万人日。
ちなみにホケノ山は4.5万人日。
これからも、箸墓築造が当時どれほどの巨大事業であったかが分かる。
この規模の面での特異性も、それが『親魏倭王・卑弥呼』の墓であったことの証左となる。
178日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:30:43.91
179日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:32:27.61
箸墓は10階建てのビルくらいあるから高く盛り上がってるな
180日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:33:39.42
のべ
181日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:34:24.93
>>177
そんなことが出来るのは「忌部はん」 以外に居ないのは周知済み。 @阿波 182日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:37:11.15
>>171
>無関係なわけ無いだろw
前方後円「形」については無関係だろ?wwww
高句麗にそんな形の墓は影も形もないんだからww
>倭人はどこから来たんだよw
魏略逸文によれば「聞其舊語 自謂太伯之後」だから、南方系だな(スットボケ)
まあそれはそれとして、>>171は倭人がいつ頃高句麗を経由したと考えてるんだ?
前方後円墳の葺き石が定形化されるまでの間は、高句麗の影響は影も形もなかったのに
いきなり時間をすっ飛ばして、影響が及んだとでも言うつもりかい?ww 183日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:37:20.79
忌部はんって妖怪か何かに違いない
184日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:39:06.41
>>183
当時の原住民にはそう見えただろう。 @阿波 185日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:40:45.47
『伝説の巫女』という曲の話でしょ
なんにもない〜・・・という曲、それとも他の曲?
186日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:46:20.51
187日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:46:49.50
そうだねえ、
信長だか秀吉だかの時代には、箸墓の屋上はビヤガーデンになってたらしいぞ
188日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:48:49.60
189日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:49:52.24
>>182
影も形も無かった?
考古学者に確認してみろw 190日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:56:59.68
畿内は弥生時代でも縄文人だったから中国や半島とは関わりが薄いんだろうね。
191日本@名無史さん2019/05/07(火) 18:59:46.26
>>177
に補足すると、箸墓は邪馬台国だけで作っているので、聖武期と比べると国力は10分の1どころか、数十分の1。
それで奈良の大仏の半分くらい、ホケノ山の30倍くらいの巨大事業をやったんだから、
文字通りクニの総力を挙げ、眦を決して作ったのだろう。
その記憶は400年の後世にも伝承され、日本書紀の『昼は人が作り、夜は神が作った』『大坂山の石を奈良盆地を横断して人から人に手渡しで運んだ』の記事になる。
これからも、箸墓に葬られたのがどれほど特別な人物であったかが分かる。 192日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:02:18.09
>>191
そんなことが出来るのは「忌部はん」 以外に居ないのは周知済み。 @阿波 193日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:04:52.89
『KEI Somebody's Voice』
これで調べてみて、本当に何の話なんだろう
194日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:12:01.84
>>191
葬られた特別の人物は、一皇女なんかじゃなく、崇神天皇で間違いない。 195日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:18:43.61
196日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:20:44.04
それよりも『王昭君』の話w
なぜか『姥清水』と同じでしょ、どういうことだと思う
197日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:24:13.60
『姥清水』
いまの福島県のほうの話でしょ
198日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:31:37.05
『王母 龍宮 鳳 長竿 寒』
『伊達の桃太郎』・・・・・・の話?
199日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:38:15.91
つまり卑弥呼は男だったという事だ
卑弥呼の姿は限られた人しか見てないから何とでもなる
200日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:39:44.25
ふなっしー(船氏?)関係について、調べてみるとわかる
実際は中国南朝系・・・と書いてあったり
201日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:42:40.53
202日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:43:46.28
>>152
畿内説が妄想だということを理解したよ。 203日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:50:46.06
>>164>>171>>189
こいつヤマト王権は渡来人がつくった政権だとしつこく言い張ってるやつだろ
精霊流しを鐘楼流しと書いてたやつ
あとWikiのコピペもやってるやつ 204日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:51:33.41
高句麗〜何やらという話もでてくるでしょ?
当時の高句麗(不明)、実際は中国というか・・・、
漢字、言語?を使用していたんだろうという話
205日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:55:52.34
数年前に書いた
王母〜寒い・・・?
中国の話だと言ってるのに、気づいている人は気づいている
206日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:56:38.93
>>186
>どこに見たと書いてある?
王都にいる台与に告諭していて、
王宮から遠くないところにある前王の墓を見てないっていう方が
無理があるだろ?
そこ、がんばるところじゃないww 207日本@名無史さん2019/05/07(火) 19:58:47.88
>>188
>日本国はかつて小国だったw
日本を名乗ることになる天武側は、壬申の乱に勝つまでは
中央政権じゃない訳だから、小勢力だった訳だ
その辺の情報が、混乱してるんだよ 208日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:01:20.15
例えば『紀元前一世紀』頃?それ以前でも良い
神武〜不明、何だか知らないけど、どこにいるんだよ
209日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:02:14.75
>>189
>影も形も無かった?
>考古学者に確認してみろw
それを具体的に書かないと意味がないって何度教えられれば気が済むんだ?
九州説は、科学板にいても議論一つまともにできないww
今話題にしているのは、積石塚が定形化前方後円墳の葺き石に影響があるかという話で、
纏向型前方後円墳には葺き石がないんだから、そこに高句麗の影響を見るのは単なる見た目だけだろって話
纏向型から定形化前方後円墳に、移行する時期に高句麗からの移民なんて着てないだろ? 210日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:04:48.44
>>195
>だから箸墓は男王の墓だろうね。
>>191は造墓伝承が残るほどの特別な存在だったと言っていて、
その伝承は女性の墓だという伝承だ
「男王の墓だろう」と考える理由はなんだ?
「具体的」に根拠を挙げてみてくれよ
まさか、「卑弥呼だと思いたくないから」、なんて言わないよな?ww 211日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:08:33.86
例えば『紀元前一世紀』頃のwikiなどを読んでみても・・・、
本当に、どこにいるんだよ?というか
伝説の巫女〜(曲名は知らない)
そういう曲の話をしているんでしょ
212日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:08:50.63
>>203
>ヤマト王権は渡来人がつくった政権だ
それって最新情報じゃん?
箸墓から人骨を掘りだして核DNAを解析すれば確定するかも。
>>207
畿内説曰く、大和政権は前方後円墳制を全国に押し付けるほどの巨大勢力だったと。 213日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:11:05.97
>>210
奈良の古墳で女性が手厚く葬られていた事例は無いけどねえ。 214日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:16:03.80
>>212
弥生時代の大和は農耕民族の縄文人でしょうよ。 215日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:17:21.34
日本の皇室(不明)?
名前(上の名前)なんてないよ
というのも有名な話なんだけど
216日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:22:43.56
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓です。
「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。
然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。
倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。
分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。
明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。
大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に
汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、
倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、
まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。
それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく
「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。
よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。
「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。
乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。」
217日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:30:31.38
日本に箸が伝来したのは7世紀頃のはずだが。。。
218日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:34:05.00
九州説だと投馬国の位置が問題
畿内説だと狗奴国の位置が問題
219日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:35:08.77
お前が誰々で・・・釈迦・・・イエス(キリスト)の生まれ変わり?
みたいなことを言ってる人がいたでしょ、
数年前の、どのスレだったかな
220日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:37:28.71
その家の人(末裔)だという話だったかな
221日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:38:19.42
220
222日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:42:37.26
少し、疲れたのでは、ないのかな、、
223日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:43:37.56
>>222
頭の悪い邪馬台国畿内説のプロ固定が、九州説の真実の実力を引き出せない、この、レベルの低い、笑いリラックスできるスレッドを読んで、元気になれば良いな、、 224日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:46:26.51
余事象やベジタリアンの本も、読めば良いな、、
225日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:46:31.96
それとも、もれ(仮)が書いたんだったかな?
あなたが誰々や何々の末裔(生まれ変わり)で、
いまの日本の・・・
226日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:48:08.58
仲哀天皇の研究も、すれば、良いな。。
227日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:52:40.45
短里を使う理由のある人がどこにもいない、、ということの余事象は、なんだろうか、、、
228日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:55:42.32
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻した、、、ということの余事象は、なんだろうか、、、
229日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:57:49.33
仲哀天皇とは、本当は、倭王だったのでは、ないのかな。。
230日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:59:14.44
仲哀天皇とは、本当は、最後の倭王だったのでは、ないのかな、、、
231日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:59:51.96
畿内説って一人しかいないのかな?
232日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:00:46.36
例えば『伊達の桃太郎』
べつに鬼退治の話をしているわけではないんだけど、
家の老婆がいるでしょ、なぜ、そういう話を知っているのか?
なんだよな
233日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:04:28.22
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻した、、、ということの余事象は、まだ、残っているのだろうか。。
234日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:06:44.92
社会での人手不足が、進行しているのでは、ないのかな、、、
231日本@名無史さん2019/05/07(火) 20:59:51.96
畿内説って一人しかいないのかな?
235日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:17:00.84
現時点で硯が出土している遺跡は三雲・井原遺跡(福岡)、田和山遺跡(島根)かな。
この二か所は弥生時代に文通が可能だったということか。
236日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:22:11.62
何度も説明したんだけど
当時、伊達郡というところに住んでいて、
部屋に本や書なんかが沢山並んでいた、
飾ってあった刀(謎の刀、凄い刀)も誰かに・・・・。
蚕、機織りの話もしていたしな・・・、
あと芝居(芸能?)関係の話w
237日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:25:32.20
仲衷天皇は架空
神功皇后も架空
系図は
景行天皇−五百木之本入日子命−品陀真若王−中日売
その中日売に九州から東征して来て入り婿したのが応神天皇
238日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:26:05.70
箸墓についてちょっと引用させてもらうと
★― 鐙の発明は西暦290〜300年頃の中国 ―★
―初期の鐙は金属製。故に漢字は「金編に登」―
確認できる最古の鐙は302年に埋葬された鮮卑族の墳墓から
出土した騎馬俑の片側のみ。木製鐙は後世の改良型。
木製の鐙が登場するのは5世紀前半の高句麗周辺です。
木製鐙が出土した出来事を現在に置き換えると、ライト兄弟が
1903年にプロペラ機を発明し初飛行したが、その約40年前の
幕末(1867年)に崩御した孝明天皇の陵墓からジャンボジェット機
ボーイング737(1964年〔昭和39年]開発)が出土したようなもの。
239日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:26:46.04
倭国は筑紫と出雲が二大勢力だった。
記紀のままだな。
出雲の大国主を倒して筑紫が政権を掌握し、高祖山に日向三代の王権が成立して後漢に朝貢した。
倭国大乱でそれが滅んで神武が大和の親戚筋のところに都落ちし、その後に筑紫に卑弥呼が共立された。
記紀と魏志倭人伝は無理なくすり合わせができる。
240日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:28:50.16
>>237
なんでも架空と言ってしまうのはどうかと思うよ。
仲哀は穴門に宮を置いた倭王の一人だよ。 241日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:34:31.72
242日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:38:51.82
>>195
倭人王孝霊の娘、卑弥呼だからあのサイズなんだよ。 243日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:46:39.66
ジジイドモイイカゲンレイケンヨメ
244日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:56:30.94
>>203
>こいつヤマト王権は渡来人がつくった政権だとしつこく言い張ってるやつだろ
>精霊流しを鐘楼流しと書いてたやつ
ああ、居たな、そんなのがw
じゃあ、半島、渡来人推しのこの人はこれから「コークリ君」って呼ぶことにするよww 245日本@名無史さん2019/05/07(火) 21:58:45.08
メディア関係、マスコミ?なんでも同じ
いい加減に・・・騙り、成り済まし・・・w
そういうのは終わりにしろ、悪く言うと、そうなる
お前が何かを決定したりする人物、代表?
そういう家の人なのか?
246日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:02:55.45
>>213
>奈良の古墳で女性が手厚く葬られていた事例は無いけどねえ。
西山塚古墳が継体天皇皇后の手白香皇女の墓だというのは、確実視されてる
それと、島の山古墳の前方部方形檀の被葬者は女性とされてるよ
それと、畿内には大王級の巨大古墳が多すぎて、系譜上の天皇だけでは数が足りないから
皇后墓もかなり大きな古墳だと考えてる人もいる 247日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:06:16.41
>>212
>畿内説曰く、大和政権は前方後円墳制を全国に押し付けるほどの巨大勢力だったと。
また脳内畿内説と会話してるww
押しつけたなんて言ってるやつはいないぞ?
卑弥呼の共立のときの談合で、各地の墓制を統合した共通の墓制として、
前方後円墳祭祀が始まり、ヤマト王権もそれを「受け入れている」んだよ 248日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:11:05.85
九州説というのは目の前の相手たちの発言を平気で捏造する輩だからな
どこぞから聞いてきたという出所不明情報など信用できるわけもない
249日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:11:06.17
>>503
「南→東」などの嘘付き・・・・アホ詐欺師の大和説者さん、
日本語話してね
発狂しないでね 250日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:11:58.14
>>508
>短里の捏造 <
史料実態。
>島巡り仮説<
史料事実。
>水行の起点を帯方郡へ <
「水行十日陸行一月」は「郡から女王之所都」への日数説明。
>冒頭で帯方東南大海中とあるのに、南だけて到着する矛盾 <
南と東で女王之所都に到着。スレ主は・・・・アホ詐欺師?。
>投馬国が戸数道里略載の女王国以北の国であることを無視<
不彌國から南に水行二十日の位置だ、と断ってある。 251日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:12:06.50
気づいている人は気づいている・・・みたいなんだけど。
ほとんど家の話w
モデル(元型?)にして、商売や、お金儲けをしていたり。
252日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:12:53.13
人手不足が高まっても、何かの理由で、剥給のサクラや、無給のスレッド管理を実行しなければ、 自殺してしまう者達がいる可能性があることを、ベジタリアンが見つけてしまった。
253日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:13:20.29
>>218
>九州説だと投馬国の位置が問題
そうだねぇ、まともな投馬国の比定地とセットの九州説は一つもないのが現状
>畿内説だと狗奴国の位置が問題
特に問題はないんだが?
南を東と読みかえるんじゃなくて、帯方郡から遠ざかる方向を陳寿は南としているだけ
帯方郡から邪馬台国・ヤマトを通り越して進んでいったところに狗奴国がある
静岡の久努郷なんかが有力候補だと思うよ
もう一つ先の高尾山古墳のある沼津付近と見てもいいし 254日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:15:58.59
人手不足が高まっても、何かの理由で、剥給のサクラや、無給のスレッド管理を実行しなければ、 自殺してしまう者達がいるので、遅延するために、討論会を続行して、論破してあげれば、良いな。。
255日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:16:53.18
邪馬台国畿内説が、完全に、破綻した、、、ということの余事象は、まだ、残っているのだろうか。。
256日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:17:49.13
そういう手法は、
普通に考えると人権侵害、国際的に非難を浴びる
257日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:19:57.99
>>213
奈良には巫女王から女帝に関する伝承は
多いが他の地方にはないけどな。
当然箸墓はじめ大規模古墳の比定地も多い。 258日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:20:47.78
ソクラテスが、自殺しない理由は何か、、、、という優れた理由を、発見したのでは、ないのかな。。。
259日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:22:11.66
九州説は所詮は行程パズルだけだしな。
しかも相変わらず戸数無視。
とっくに邪馬台国はヤマトで確定済みだよ。
260日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:23:31.00
75パーは、一人だったのでは、ないのかな、、、
261日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:24:41.23
>>515
>>其王姓阿毎氏。設官十二等。<
>この冠位十二階の制定だけで、ここでの倭国が大和朝廷だと確定してるじゃないかw<
それ、唐会要の(日本國伝ではなく)倭國伝での記載だから、
「正北抵新羅」に拠って、北部九州の国であり、大和朝廷ではないの。
また、冠位十二階の冠位名は隋書に書かれているが、
その冠位の順番などは、大和日本国の冠位とは違っているから、
それでも、大和朝廷の冠位ではない事になるの。 262日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:31:11.11
九州王朝説には同意できないわ
263日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:34:46.55
本や書、刀なんかも、あげちゃったのかな〜
と言っていたんだけど
譲り受けた人物や家があるでしょ?
その人物が悪用しているのかな
なぜか放射能(謎の311)だし、本当なのかな?
264日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:35:57.82
>>519
>1.遠くのことはいい加減
2.遠くの国はより遠くとの修好であるほど、その王朝の徳の高さを示すので距離が誇張して盛られる
魏志倭人伝と同様のより簡単な説明で、短里なしで説明できるのですが?<
不可知部分が殆どである自然や歴史において、
史料事実を否定するんなら、無限にいくらでも空想をでっちあげられるものであり、
そんな空想は確率が殆ど0であり、根拠にならない。
そして、実地に確認された史料事実を根拠にした帰納的な推論なら、
確率が高いから、証拠になるもの。 265日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:48:07.26
>>525
>主観じゃないよ の根拠「短里を使う理由のある人が、どこにもいない」
これに触れることなく逃げてる時点で、論争としては負けだ<
史料事実や史料実態からは、短里を使った。
また、文帝の即位の受命改制の詔書に度量衡の統一を指示し、
重臣たちが周制への 復古の上表を繰り返し、
周髀算経の一寸千里の度量衡を採用された。 266日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:48:14.15
あの音楽家、マルムスティーンの画像(デザイン)を見てみた?
龍宮の・・・と同じでしょwなぜだと思う?
267日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:49:22.34
回答のすべてが想像的言い訳やすり替えに終始する畿内説って。。。
奈良の弥生遺跡から政権握ってたような出土品は何も無いじゃん。
何か探せよ。
268日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:53:01.07
>>527
>つまり邪馬台国は楽浪郡から何里なんだ?そしてそれは実際の地理でどこに当たる?<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、答えられない。 269日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:53:48.72
『姥清水』
この作品も同じでしょ、
むかーし住んでいたところ、
その周辺なんだけど
270日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:56:25.17
>>262
6世紀末までは九州北部が最大勢力でそれを畿内説は九州王朝と呼んでるんじゃないかな。
旧唐書に日本国とは異なる倭国とのやり取りが書かれていたから。
中国遣使が倭国の王子と揉めた話とかね。 271日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:57:01.22
>>267
箸墓で充分、それに橿原や葛城周辺の弥生遺跡もあるだろ。
銅鐸と鏡が一緒に埋められてた場所なんて日本唯一だからな。しかもそこは神武縁の場所の近くだ。 272日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:59:31.32
>>270
畿内説で九州王朝なんて認めてる奴はいないよw
二、三世紀頃の北部九州にあるのは奴国でそこに男王がいる、
それだけの話。 273日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:59:43.26
>>271
箸墓を卑弥呼の墓と言っているのは誰?
畿内説でもそんな人居ないよ。 274日本@名無史さん2019/05/07(火) 22:59:51.10
>>270
畿内説はそんなもん知らん
妄想や詐欺のたぐいと呼んでいる 275日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:01:50.84
>>270
6世紀末まで九州北部が最大勢力とは通説と離れすぎて付いていけない 276日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:06:27.21
>>261
>それ、唐会要の(日本國伝ではなく)倭國伝での記載だから、
>「正北抵新羅」に拠って、北部九州の国であり、
これは異な事をおっしゃる!
唐会要の倭国伝の冒頭は
「倭國古倭奴國也。『在新羅東南』。」だよ?
『在新羅東南』によって、北部九州ではないってことで確定だなww
複数史書のクロスチェックもせずに、自分が偶々知っているほんの五文字だけが頼りの
チェリーピッキングなんてしてるから、まともなことが何一つ分からないんだよザラコクはw 277日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:09:32.36
>>273
普通に沢山いるけど?
そもそも百襲の別名が日本側の資料でも
日女命とあるのに別に否定する理由もない。 278日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:10:47.29
箸墓の埋葬者が女性かつ副葬品に金印有り、殉葬者の遺骨あり。
纒向遺跡から城柵、剣、絹製品関連、そして封泥。
これらが出土しない限り今の畿内説を語る為の証拠はゼロだな。
手ぶらで想像論を語るだけの畿内説なんか新興宗教の勧誘と同レベル。
時間の無駄でしかない。
よって俺は倭国=九州島説で待つ。
279日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:11:18.41
>>276のオマケ
旧唐書の倭国伝の冒頭は
「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,『在新羅東南大海中』。」
『在新羅東南大海中』によって、北部九州ではないってことで確定だなww 280日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:13:50.37
>>278
倭=九州島説なんて弥生時代にまともな丹山が存在しない時点で終了。
今じゃ相手にもされないよ。 281日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:15:43.93
もう一つ>>276のオマケ
新唐書の日本、倭伝(新唐書では別伝になっていない)の冒頭は
「日本,古倭奴也。去京師萬四千里,『直新羅東南』,在海中,」
『直新羅東南』によって、北部九州ではないってことで確定だなww 282日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:16:35.38
そもそも今の九州説の最大の勘違い、詐欺的論証は倭人伝を邪馬台国伝にすり替えしてる点だからな。
邪馬台国の怪、安物の詐欺的論述にいつまでもすがるなよw
283日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:16:47.79
>>279
倭國者,古倭奴國也
倭国の使者曰く、昔の倭奴国ですと。
倭国の南極界にあった漢委倭奴国王の国だから金印のあった福岡あたりで合ってるじゃん。 284日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:17:36.81
>>264
>史料事実を否定するんなら、無限にいくらでも空想をでっちあげられるものであり、
それ、いつもザラコクがやっていることそのものだよなww
自己紹介乙w 285日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:18:51.69
>>283
>倭国の使者曰く、昔の倭奴国ですと。
言ってないな
九州説がまた捏造 286日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:19:53.94
>>283
奴国の位置が合ってるだけ。
邪馬台国は投馬国五万戸を経由して更に遠方だからな。
必然的に九州に存在できる場所はない。 287日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:21:11.93
畿内説は万二千里が最大値だとか抜かしとったのに万四千里が出て来てるのに注目!www
九州北部時代が万二千里で吉備時代が万四千里、しばらくして畿内難波。
遷都の様子が垣間見れるじゃまいかwww
288日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:21:32.33
289日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:23:10.22
九州説が論証で畿内説に勝てる訳がないのになw
北部九州でいくら有力遺跡や遺物が出ようが、
そこは奴国、伊都です、で終了。
畿内説には補強材料しかならんわ
290日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:24:06.76
>>288
え?
貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令?貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。
表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。
至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。 291日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:25:59.97
>>289
現実、畿内説には桃の種しか無い。
おまえがいうな。 292日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:26:24.43
>>287
アホ、女王国までが万二千だ
モモソが若い時活躍した瀬戸内海、讃岐辺りでピッタリだぞw 293日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:27:06.71
>>278
>よって俺は倭国=九州島説で待つ。
何を待つの?
教科書が、畿内に邪馬台国があったって全面的に書き換えられるのを待つのかな?ww 294日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:27:21.64
295日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:28:00.99
>>291
お前の頭の中には桃の種位の脳ミソしかないのかw 296日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:29:39.55
>>294
つまり箸墓近くには大陸から人が来ていた証拠でしかないw 297日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:30:08.22
>>293
桜井市にそんな予算はありませんので勝手な暴走しないで 298日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:30:18.22
>>283
>倭国の南極界にあった漢委倭奴国王の国だから金印のあった福岡あたりで合ってるじゃん。
そこは、『在新羅東南大海中』にならないだろ?
全体を読まずに、ほんの数文字に頼った論立てはやめなさい
チェリーピッキングでは、歴史の真実に迫るなんてことはできないんだよ 299日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:32:51.60
なんにもない〜というところがあるでしょ
KEI 『Somebody's Voice』
例えば『紀元前一世紀』頃のwiki、
伝説の巫女(神武〜不明?)というのは、どこにいるんだよという話
300日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:33:17.09
しかし邪馬台国はヤマトでしかないのにまだ寝言いってるのかよ
九州とかね、いい加減無茶苦茶言うのはバカだとわからないのか?
301日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:34:15.34
>>298
出雲吉備からの使者が元倭奴国の倭人ですと言っているようにも受け取れる。
久しぶりに来て倭人だと言っても唐には分からんからそう説明したんだろう。 302日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:36:43.15
>>300
もう畿内説は出番なしだから。
すでに九州北部と出雲・吉備の線で考古学者は動いてるところ。 303日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:39:53.74
>>287
>畿内説は万二千里が最大値だとか抜かしとったのに万四千里が出て来てるのに注目!www
お前、全然理解できてないだろ?
萬二千里は東方之極の東西方向の距離だ
前スレに貼ったのをもう一度貼ってあげるよ
地の果てまでが萬二千里というのは、淮南子の数字
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元であり
倭国上陸まで一万里というのは漢代にこれに合わせて想定されたものだろう
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
続く 304日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:40:21.03
>>303の続き
中国の地「方」の世界観は、正方形を9つ、井形に並べたものなんだよ
その9つの正方形の一辺が萬二千里
地「方」全体は三萬六千里の正方形になる
萬二千里は漢土の東端から世界の東の果てまでの直線距離
漢土より東の東夷世界でも南北方向は三萬六千里ある
その意味でも萬二千里は世界の果てまでに匹敵する遠い距離という観念的な符牒なんだよ 305日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:40:29.89
旧唐書の日本国についての紹介で「西界、南界咸至大海」とあるな。
女王国の東は海だったはず。
この時点でもう女王国は存在しないという事だね。
306日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:41:26.55
>>304
あんま無理すっと矛盾が増えるだけやぞwww 307日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:43:04.80
あれは、そういう曲じゃないのかな?
「そういう曲だよ」
と思っている人もいるだろw
308日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:45:18.79
>>253
>そうだねぇ、まともな投馬国の比定地とセットの九州説は一つもないのが現状
脳内九州説の構築は済んだかな? 309日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:46:31.45
310日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:47:05.57
>>272
九州王朝という呼称を持ち出すのはきまって畿内説の側だね。
九州説は魏志倭人伝にならって倭国と呼ぶから。 311日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:47:29.06
>>290
え?って言うのはこっちだよ
高表仁が訪問したのは畿内大和朝廷だ
「唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を
伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は
倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、
帰国までの記事が欠落すなわち『高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず』、何らかの
異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して
日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、
唐側も突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる」
『高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず』の部分だけ拡大解釈したチェリーピッキングが
「古田史学の会」の持ちネタだってのは、もうバレてるんだよ! 312日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:49:47.31
>>311
だから確証の無い創造説で反論するなって。
考古学者だってそんなみっともない言い訳はしないぞw 313日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:50:59.28
>>306
>あんま無理すっと矛盾が増えるだけやぞwww
その矛盾とやらを一つでも二つでも具体的に指摘してくれよ
大歓迎だよ! 314日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:51:52.68
不確かな事で断言する畿内説の日常って・・・
そいつ社会人じゃないのは明らかだな
315日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:52:43.96
>>298
>そこは、『在新羅東南大海中』にならないだろ?
地図を見たけど、対馬海峡は東南の方向に渡海するから、合っているようだ。
畿内だとどちらかというと東かな。 316日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:52:46.57
>>308
>脳内九州説の構築は済んだかな?
では、脳内ではないホンモノの九州説の>>308さんの
投馬国と邪馬台国の比定地はどこ?
具体的に語ってね!
騙るだけだろうけれどww 317日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:53:07.64
>>314
不確かな事で断言したって?
そんなこと決めつける根拠は? 318日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:54:45.97
>>303
ああ言えばこう言う。
辻褄合わせに苦労しているみたいだねえw
誰も細かいところまで読まないけどねw
君はこの時点で敗者だよ。 319日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:54:49.88
なんにもない〜、そういう話なんだよ
わかりやすく言うとwiki、
そこに書かれている、すべてを統合した存在
それが神武
このスレで言われている全一症?
320日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:57:08.31
>>311
>異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して
>日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、
こういうのを恣意的な解釈と言うのでは? 321日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:57:30.33
>>312
>考古学者だってそんなみっともない言い訳はしないぞw
二つの史書で片方だけに書いてない部分があるから、その部分は『別の国に違いない』って
そんなバカなことを主張しているくせに、よくもまあぬけぬけとエラそうなことが書けるものだww
高表仁が訪問したのが九州だなんて、バカしか言わないぞww
高表仁と一緒に帰国した犬上御田鍬はどこの人だと思ってるんだ? 322日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:57:48.63
>>315
東をアピールするべく日の出る国だなんて言ってるぐらいだからなwww 323日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:59:00.45
>>316
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日 324日本@名無史さん2019/05/07(火) 23:59:44.80
>>315
>地図を見たけど、対馬海峡は東南の方向に渡海するから、合っているようだ。
>畿内だとどちらかというと東かな。
どんな地図の見方をしてるんだ?
新羅をどこだと思ってるんだ?
対馬が倭国って訳じゃないんだぞ? 325日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:00:24.59
>>321
そこですがる記紀には前方後円墳のゼの字も出てこない畿内説涙目www 326日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:01:30.84
>>324
倭国から対馬を除籍する暴走畿内説ですか? 327日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:01:42.44
旧唐書の時期は倭国は畿内という事じゃないの?
328日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:03:16.07
>>327
編纂された時期は畿内だろうね。
そこで日本国条として追記されているわけで。 329日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:04:48.65
そうだろうな〜と
気づいている人もいるんだよ
こう・つぶさわ
周辺の人々も気づいているだろう
すべてを統合した存在
330日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:07:07.97
そうだろう〜と
気付いてる人もいるんだよ
想像文の最期を「〜である」で締めくくる畿内癖に
331日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:15:58.67
『セイントセイヤ ソルジャードリーム』
そのwikiと同じようなコンセプトでしょ
332日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:18:32.35
創価(当時の創価?不明)か何かなんだろう?
と言ってる人がいたり
333日本@名無史さん2019/05/08(水) 00:20:31.01
いい加減に終わりにしろ
と言っているんだよ
334日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:07:37.77
九州王の年表・修正版
(紀元前2世紀) 奴国の吉武高木遺跡
(紀元前2〜1世紀) 奴国の須玖岡本遺跡 ←金印を授かったことにより奴国王が九州王より偉くなった。畿内に遷都したため衰退。
(紀元前1世紀の王・王妃墓) 伊都国の三雲南小路遺跡
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国の井原鑓溝遺跡 ←奴国王が金印を授かったことにより九州王が権力を失い、伊都国は漢鏡流通の核としての機能停止
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国の平原遺跡 ← 邪馬台国の一大率に九州王が完全に支配されて衰退
※『日本書紀』によると伊都国の王(九州王)は仲哀天皇の時代(4世紀頃)に完全に家来になった。 ←九州王滅亡
335日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:19:17.53
テンノウ〜とか言っているけど、
どこの池沼なんだ?
336日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:28:45.65
お前の言う天皇・・・皇族(日本のw)、
何ていう家の人なの?と聞いているわけなんだけど
藤原氏?
337日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:40:44.03
自分の国のことなんだから、
それくらいわかるはずなんだけど
なんにもない〜という曲の話と同じ?
本当に頭の病院に行ったほうが良いぞ、精神科
338日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:48:29.29
>>273
箸墓って天皇陵より格上の形状(四段築成)してるから
当時の人々は箸墓に眠る人は天皇より偉いと認識してたのは明らかだけど
卑弥呼の墓じゃないとしたら誰の墓なの?
伝承ではモモソ姫の墓だけど
『日本書紀』でもモモソ姫は最高神・大物主神の妻だから天皇よりずっと偉い人だよ 339日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:50:56.58
>>27
>銅鐸と鏡が一緒に埋められてた場所なんて日本唯一だからな。しかもそこは神武縁の場所の近くだ。
神武天皇って本当に九州から奈良に遷都したんだね 340日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:53:02.03
日本の話ではないんだけど、モモソでも何でも良い、
それらしき場所に桃の種を埋めたりして、ねつ造(偽造w)
そういう話をしているんだろう
341日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:55:39.76
例えば>>1
ここから桃の種が発見(発掘)されました〜。
ねつ造(偽造?) 342日本@名無史さん2019/05/08(水) 01:57:32.75
『日本書紀』の中には天皇より偉いの人が二人いる。
最高神・大物主の妻であるモモソ姫と
最高神・大物主の子供である大田田根子である。
モモソ姫の箸墓は、実際に天皇陵よりも格上の形状をしており
実際に天皇よりも偉かったことは物的証拠(墓の形状)から明らかである。
大田田根子は朝廷内で一番偉かった三輪氏の祖である。
大田田根子の氏族が日本で一番偉い氏族である。
343日本@名無史さん2019/05/08(水) 02:22:34.70
数年前の、とあるスレ
お前たち、何かしたんだろう?
と言ってる人がいたり
なぜだと思う
344日本@名無史さん2019/05/08(水) 04:09:58.14
>>339
紀元前に地方から婿養子に迎えただけだよ。 345日本@名無史さん2019/05/08(水) 04:13:31.34
>>325
もしかしてアホ?前方後円墳なんて文言はごく最近のモノなのにw 346日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:01:17.93
>>538
>>あなたの主観的な願望に過ぎません。<
>そう「根拠も示さずに決めつける」のは短里があなたの妄想だからですよ<
この大和説男も、
相手の「根拠を言っている」投稿部分をこっそり隠して、
相手が、「根拠を示さずに」言っている、といって、
「国民を騙そう」とする詐欺をしている。
「短里」や「南」や「正北抵新羅」は、史料事実や史料実態であり、
それ自身が根拠であり、
「長里」だ、という事が、この男の嘘吐き騙しの妄想なんですよ。 347日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:08:03.35
>>541
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は一続きの4つの説明をした。
A 日本国は、倭国から別れたは別の国である。
B 倭国も日本に改名した事もあった。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
D 日本国の使者は不誠実だったので中国は日本国の使者の話を信用しなかった。 348日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:14:32.10
>>544
つまり、
ポツンと大型掘立柱建物があるだけで、
大集落が大あるとか、ある卑弥呼の「居處宮室樓觀城柵嚴設」があるとか、言ってたのは
あなた一人の空想ということで
いいのね? 349日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:18:12.83
>>550の訂正追加
掘立柱建築の周りには住居跡が全くのようにないし、
それを大集落と嘯くくらいしかできることがないところまで追い詰められているのが
「南→東」などの嘘吐き騙しのスレ主や大和説者らの現状だ 350日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:20:21.74
>>552
正解は当然「倭国も日本に改名したも事があった」だけど 。 351日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:23:46.13
>>553
倭国はいにしえの倭奴国のことである、と書いてあるからな。
あなたの「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、間違い 352日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:28:20.42
>>554
唐会要の倭国伝
倭國 古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。
倭国はいにしえの倭奴国とは書いてあるから「倭国=筑紫」と認識でき、
倭国の別種の旧小国の大和が、
金印「漢委奴国王」をもらった倭奴国と歴史的に繋がってる国だ、
っていうふうに唐も認識してるんだよな
大和朝廷とは別の倭国が九州にあったという説は否定されてる 353日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:31:47.19
>>555
前方後円墳の前方部分って墓スペースが大きくなったものだから
当時の人々は前方後円墳全体を墓として認識してをいるんだぞ
なので箸墓の円墳部分だけでは、「径百歩」と一致していない。 354日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:35:42.60
355日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:36:28.60
>>556
>「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
「邪靡堆」は地名
省略してあるが、(だれだれが)邪靡堆に於いて都す、、、だ。
(そのだれだれは)、則ち魏志が所謂(いうところ)の邪馬臺なる者(人々、組織、政権)なり。
つまり、都している者は、邪馬台者なり、、だ。<
成程。そういう風にも解釈できるね。 356日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:45:05.06
>>325
>そこですがる記紀には前方後円墳のゼの字も出てこない畿内説涙目www
神話や3〜4世紀のことはともかく、欽明朝以降の日本書紀は十分信用できる史書だぞ
前方後円墳という用語自体が江戸時代の造語だから、もし書いてあったら偽書確定だww 357日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:46:49.00
>>562
>それは違うな
唐の時代には倭国には大和朝廷が含まれてるわけだし
奴国(筑紫)から奈良に遷都したことを示唆する記述だね<
それは違うな
唐の時代には、倭国と、倭国から別れてほぼ独立した大和した日本国が、
並立してわけだし
白村江の後で、唐に大敗した倭国を、
大和の日本国が併合吸収継承した、ってことを示唆する記述だね 358日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:50:33.88
>>564
>>樂浪郡徼はその國を去ること萬二千里 その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里<
>つまり邪馬台国は楽浪郡から何里なんだ?<
邪馬台国なんてなかったから、それがスレ主らのインチキ騙しなんだよ。
>そしてそれは実際の地理でどこに当たる? 早く答えろよ。<
久留米周辺。 359日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:52:03.50
>>356
畿内説が妄想する祭祀連合に関する記述がないという意味だろ 360日本@名無史さん2019/05/08(水) 06:54:49.45
>>567
>珍説だなぁ
纏向遺跡の周囲には集落があり明らかに都市部 <
米田によれば、河内の大都市に比べれば、田舎の?小都市。 361日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:00:15.08
>>570
>「倭の別種で、倭国を併合した」という話は信用出来ないと書いてある<
いや、「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」の「其」は、
日本国伝の話だから、
日本国の入朝者の言った事が信用出来ない、と言う記載。 362日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:03:10.15
363日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:04:51.94
>>573
>それはないな
唐は倭奴国(筑紫が首都)と倭国(奈良が首都)は同じ国と認識してるから
遷都が示す記述だね<
それはないな
唐は倭奴国(筑紫が首都)が倭国であり、
大和日本国(奈良が首都)は、倭国から別れた別種の旧小国と認識してるから
新唐書の「神武が大和州に移った」という事を示す記述だね 364日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:08:43.74
>>588
>石野博信
「箸墓は2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した遺跡である」
つまり纏向の前方後円墳の終末=4世紀中ごろに纏向の古墳造営基地も無くなったと言う事であろう <
箸墓は、布留だから、始めから4世紀以降であり、
石野がまた、・・・・アホ詐欺師を晒した。 365日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:13:13.82
>>595
>ドアホ、三嶋溝咋は母方の祖父だ。
女性の実家で子供を育てたことを考えると、ヒメ(踏鞴五十鈴)は綏靖の母であり、
綏靖の宮は御所市森脇近辺だから、ヒメ(踏鞴五十鈴)はおそらく長柄神社、別名「姫の宮」であろう。
日本で唯一、銅鐸と鏡が同時に出ている(国宝)<
ふーん?。「銅鐸と鏡が同時に出ている(国宝)」なの。
面白いねえ。 366日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:13:44.05
>>352
>金印「漢委奴国王」をもらった倭奴国と歴史的に繋がってる国だ、
>っていうふうに唐も認識してるんだよな
前史に倭人の国の初出について軽く言及しただけ
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 367日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:14:27.75
>>326
>倭国から対馬を除籍する暴走畿内説ですか?
倭国の方角というときに、対馬だけの方角を書いてたらバカですか?ってなるだろ?
対馬=倭国じゃないんだから
こんなのにまで反論しなくてもいいとは思うんだが、
九州説の人のレベルが低すぎるから念のため 368日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:18:10.56
いい加減に気づいているだろう
裏切ったりした場合どうなるのか?
ねつ造(偽造)なども含め、
お前が、かわいそうだから(みじめ)
そういう話でしょ
369日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:18:46.26
>>604
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説とは
人間がどこまで・・・・ウソつきアホ詐欺師になれるかの、
限界に挑んだ男たちの、
壮絶で悲惨な人生の記録である 370日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:20:05.47
これも以前から書いていることなんだけど、
神武〜不明・・・、
なんていう家の人なの?
371日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:21:53.35
結局のところ3世紀の奈良盆地はまだ未開地だったということ。
九州から邪馬台を遷都すべく100年にわたり開拓していた名残りが纏向の工事跡。
今でいう大阪都構想のようなものはあったのかもしれない。
372日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:22:38.18
>>352
>唐会要の倭国伝
>倭國 古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。
>倭国はいにしえの倭奴国とは書いてあるから「倭国=筑紫」と認識でき、
正解。
畿内は中国の視野に入っていない。 373日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:22:43.25
観てみた?あの歌舞伎ドラマ(ではないんだけど)
本当に、あなたがつくったの?
みたいな台詞があったでしょ
374日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:23:38.87
いつ覗いても九州説が理由を言わずに妄想してるな
375日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:23:46.85
たんてーeye?
376日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:24:00.83
>>342
>大田田根子の氏族が日本で一番偉い氏族である。
頭スポンジ
そこは物部大連だろ 377日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:25:30.73
378日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:25:39.31
>>374
100%妄想で固めた畿内説が言う言葉かw 379日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:25:53.07
>>334
>(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国の井原鑓溝遺跡 ←奴国王が金印を授かったことにより九州王が権力を失い、伊都国は漢鏡流通の核としての機能停止
ところが奴国にその年代の王墓がないんだよ。
実は倭奴国とは、後の伊都国のことだったのだろう。 380日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:26:12.05
『ボーボボ』
何度も書いていることなんだけど、
グーグルで調べてみて、画像w
381日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:27:54.35
>>324
>新羅をどこだと思ってるんだ?
>対馬が倭国って訳じゃないんだぞ?
半島南岸は後の新羅に属するわけだが、そこから博多倭奴国へは東南の方角だ。
倭国は新羅の南東でいい。 382日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:27:55.62
>>611
>「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、
邪馬台国との関係で注目されている。」
「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、
奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、
この問題に関する新たな発見が続いている。」
「邪馬台国の中心地とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。
この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。
巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域であったと考えられる。」<
全国の高校生がこんな嘘吐き騙しが書かれた教科書で歴史を学んでいるとは、
全く悲劇で悲惨な事だね。
安部自民文部省やキョクウ戦争皇国史観の学会教育界の思惑通りになって、
その高校生らは、戦争をやらされて、殺されていく事になる。
一部の「南→東」などの嘘吐き騙しの老人たちは、まだ夢を見てるんだね 383日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:30:54.02
旧唐書は7世紀前半までが九州〜吉備政権の倭国伝、後半が畿内中心の日本伝になっとる。
結局は東遷説が正解だ。
384日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:31:06.08
>>615
「天皇」なんてまだいなかったから、この投稿も×ね。 385日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:33:05.62
>「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
日本語訓読みでは、「物」もモノ、「者」もモノと発音するので、広く混用されているのではないか。
しかし、物はブツ、者はシャ、であり、全く別の概念である。
邪馬臺者とは、邪馬臺国を構成する権力者の意味である。
物・・・ブツ(自然を構成するブツ、及びその天然自然的存在)
者・・・シャ(人間社会を構成する人・人々・集団・組織・社・族・権力・国家等、並びにこれから派生する人間関係・友好・紛争も含む)
386日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:34:02.33
>>364
その後4世紀後半に纏向の南に現れる半島式住居が何を意味するのだろうか。。。 387日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:36:07.61
はに丸、遮光器・・・偶像?
そういう話も同じ
388日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:39:31.40
>>383
半分不正解。
7世紀中頃には白村江の戦いがあり、筑紫の君(倭王)が捕虜となっている。
これで名目上は倭国が滅亡し、国号を日本国と替えて別政権として戦後体制が生まれた。
8世紀初頭に戦勝国である唐の制度を真似て律令制が整備されて、全国支配が確立された。 389日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:40:09.71
>>339
>神武天皇って本当に九州から奈良に遷都したんだね
神武は九州にいたとき王じゃなかったし、奈良盆地の磐余に定住したあとも王じゃないんだから
遷都じゃないな
のちの大王というか卑弥呼の共立のときの九州の血も入ってますよというリップサービスが
そのまま伝承として残ってたんだろう
上皇陛下が桓武天皇の生母が百済からの帰化人の六代目であることから、韓国とのゆかりを感じると
仰ったのを大喜びしている人が居るから、それと似たようなものだろう
高野新笠が武寧王の血を引いてるかどうかは、祖とされる武寧王の子が確認できないから
怪しいっちゃ怪しいんだけどさ 390日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:40:33.16
>>386
新羅人の移住だろ。
唐人や新羅人に乗っ取られ大和政権爆誕という流れ。
もともと奈良に住んでいた縄文系は南の和歌山に追いやられた。 391日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:42:06.38
>>620
>5、神殿か宮殿と考えられている大型掘立柱建物がある <
居住痕跡がないから、宮殿ではあり得ない。
>追加情報
1、搬入土器には精製品が多く、各地方から有力者が集まっていたと考えられている<
各地方ではなく、纏向の東方からの土器であり、武具などがない。
>2、この地で統合された古墳祭祀が全国に波及しており、大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって全国的な政治連合が形成されていたと考えられている <
古墳祭祀は、筑紫から伝搬したものばっかり。
>3、古墳祭祀以外の祭祀が多数行われていた<
纏向は、「市」祭祀が中心。
>4、導水施設を使った王権祭祀が行われていた <
武器がなくては王権祭祀は否定。
結論 市祭祀である 392日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:43:48.87
そもそも、倭と日本を同一視することがおかしい。
どちらも博多湾の倭王の末裔ではあるけれど、国号が違う。所在地も違う。
大和をヤマトと読むのも、おかしいだろ。
393日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:45:15.80
>>355
>成程。そういう風にも解釈できるね。
漢文を読めないザラコクが、明確に間違っている解釈に同意したって無意味だろうに
「者」は助字といって、この場合は強調を示すだけ
「〜な者」という人を示す文字ではない 394日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:45:49.79
『デスラー』
395日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:46:32.66
>>627
このような話をよく貼る人がいるけど支離滅裂だね
倭奴国が博多なら出雲も吉備も大和ももっと北だから
倭奴国が倭国の極南界だという情報から
「倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで」
という結論なら、特に「不可」と言うほどでもなく、
あり得る。 396日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:49:24.28
>>637
理由言わずに決めつけるのが「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説
つまりゴミ 397日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:50:15.65
>>393
>「者」は助字といって、この場合は強調を示すだけ
初耳だなあ 398日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:50:42.75
>>389
>神武は九州にいたとき王じゃなかったし、奈良盆地の磐余に定住したあとも王じゃないんだから
>遷都じゃないな
そうなんだよね。
父親までは日向三代の筑紫王家だけれど、神武はその四男だ。
長男は神武とともに東征したけれど、大阪で戦死した。
ちなみに日向三代の2代目の弟(海幸彦)が宮崎に行って隼人の祖と言われている。
福岡の邪馬台国と宮崎の投馬国が魏志倭人伝で併記されているのは、倭国側が兄弟国と説明したのだろう。 399日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:51:39.72
400日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:52:59.28
401日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:53:39.52
>>391
居住痕跡がないとか、またその場の思いつきを出まかせに言ってるんでしょ?
>各地方ではなく、纏向の東方からの土器であり、武具などがない。
それも出まかせ
そんな事実と反する情報の出典ないよね?
ザラコクがいま考えて捏造した
>古墳祭祀は、筑紫から伝搬したものばっかり。
これも予備知識ゼロのザラコクがテキトーに思いついたんだよね
出典はナシ
>纏向は、「市」祭祀が中心。
これも素人爺さんザラコクが思いついたんだよね
そんな説はない
>武器がなくては王権祭祀は否定。
それもザラコク一人の思いつきだよね
結論:全て妄想 402日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:54:46.93
デスラー・・・・・・・・・・温泉?の画像w
なぜか、家の写真と同じような植物が映っていたり、
松の木が立てられていて、シダ類?
オジギソウ・・・とか
403日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:55:21.45
>>378
>100%妄想で固めた畿内説が言う言葉かw
どこからそう判断したのか具体的な根拠を付けて論じないと無意味だって、
何度言えば分かるんだ? 404日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:56:32.38
>>393
>「者」は助字といって、この場合は強調を示すだけ
その助字解説をしてる者も、「物」と「者」の意味するところを良く理解できていないようだね。 405日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:57:12.88
406日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:58:12.83
>>649
>>北部九州の倭国は、5世紀の宋代までは、中国の臣下の地位にあって、
ある程度薄葬の制約を受け続けた。<
>お笑いだな
「東征将軍」とやらがその制約を受けないんならかれらは「九州倭国」とやらの家臣じゃないわけだ
もちろん九州にある前方後円墳を作った首長たちも「九州倭国」には従わない勢力なわけだ
その「九州倭国」って、どんだけ無力なの?<
だから、別種分家だから、本国の九州倭国とは「半独立国」的存在であり、
扶余に対する百済や、
イギリスに対するアメリカやオーストラリアなどと同じだ。 407日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:58:59.83
松の木(寒い?)の家の、子供の頃の写真w
白い制服を着ていて・・・たしか4歳、5歳くらいだったかな〜
『老婆談』
408日本@名無史さん2019/05/08(水) 07:59:39.01
>>392
>そもそも、倭と日本を同一視することがおかしい。
>どちらも博多湾の倭王の末裔ではあるけれど、国号が違う。所在地も違う。
>大和をヤマトと読むのも、おかしいだろ。
何がおかしいの?
何が違うの?
九州説は何も具体的なことを言わない
自分の感情だけ 409日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:02:19.06
410日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:03:12.49
>>381
>半島南岸は後の新羅に属するわけだが、そこから博多倭奴国へは東南の方角だ。
>倭国は新羅の南東でいい。
新羅と百済、金官伽耶の位置は理解できてるか?
半島南岸で 新羅の故地は東岸の方
そこから東南に行ったら九州には掛からないよ
九州より東まで倭国だってことだ
九州のみの倭国は成り立たないってあらゆる根拠が示しているのに
無理な言い訳を言い続けてまで九州だけが倭国だとか言い続けるのはバカだけだよ
土器の交流からも、弥生時代に丹が出ないことからも、
畿内発祥の前方後円墳祭祀を受け入れていることも、
九州のみの倭国は否定されているww 411日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:04:11.07
412日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:05:05.32
>>385
その前に邪馬臺者の「者」は、名詞じゃなくて助字なんだってば! 413日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:05:44.66
偶然にしては・・・・・❓・・・・という話ばかりでしょ
414日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:06:12.60
415日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:08:45.07
416日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:09:55.66
>>406
九州にもいっぱい前方後円墳あるけど?
彼らは「服」した衆夷とか?
薄葬の制約を受け続けた気配ないよね?
「九州倭国」って、どんだけ無力なの? 417日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:11:57.37
418日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:13:24.65
>>411
「千代田区に茅葺農家は何軒あるの?」
「無いの? 田舎だーw」
みたいな馬鹿を演じたいのか? 419日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:15:17.68
>>400
はいはい畿内説の現実は妄想ねw
奈良の弥生時代が希薄なのは考古学者の常識なんだが?w 420日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:15:50.78
Rah Band『Clouds Across The Moon』
この曲の動画を観てみて、同じでしょ?
筋肉少女帯の・・・・・・・・・・・?
デスラー・・・・・・・・・・・・・❓
421日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:20:51.87
ラー『今すぐバスに飛び乗りなさい』
『筋肉少女帯 これでいいのだ』
なぜか同じような植物でしょ
422日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:20:55.13
>>418
痛々しい反論だねえw
纒向に一地方政権があった可能性があるという程度しか言われてないんだけど。 423日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:21:48.70
>>408
畿内説にもはや反論する気がないことがわかった。 424日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:23:14.20
>>417
助 字(じょじ)
>漢文において、文法の構成要素となる漢字。
>日本語における「てにをは」に似た役割を持つ。
>置き字にも言えるが、文中にこれらの字が現れたからと言って、必ずしも助字としての用法とは限らない。
当該倭人伝の「者」は、調子を整えるための助字用法でなく、近代日本語的にいえば「士」の意味である。
戦士、義士、操縦士、運転士、代議士、憂国の志士・・・ 425日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:23:52.09
>>410
>半島南岸で 新羅の故地は東岸の方
故地にすり替えるなよ。
wikiの地図だって、半島南岸は新羅。 426日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:25:29.09
>>418
王城もないよ。
千代田区には立派なお堀に囲まれた皇居があるけど、纒向には柵も楼閣もない。 427日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:25:57.74
本当に、そんな家の人だったの?と思うかもしれないけど
実際に同じような写真だしな、
そういう曲(あと、ですらー)なども無かった頃のものだと言っているし
428日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:27:55.88
教科書に大集落なんて書いていいの?
429日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:31:02.32
>>426
ないって証拠は?
全国の高校生が学校で
「奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる遺構が出土」
って習ってるんだけど 430日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:32:32.37
>>429
断定できていないじゃん
断定が認められない根拠は? 431日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:32:45.44
432日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:34:12.35
433日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:34:24.43
魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる、、、、ということの余事象は何だろうか。。。
434日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:34:33.49
>>429
大型掘っ立て柱遺構は纏向だけじゃないんだよ はしゃぎすぎ 435日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:36:06.04
>>430
理由もなくナイナイと騒いでるのは日本でお前くらいだろ
いや、日本かどうかは知らないけど 436日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:36:09.92
>>433
魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる、、、、
ということの余事象は、、、
魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとは全く考えられない、、、
ではないのかな。。。 437日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:37:08.40
>>431
「教科書に書いてあることを信じないこと 常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授) 438日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:37:20.73
439日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:38:12.48
>>436
では、、、、纒向遺蹟が、魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる、、、確率は、何パーセンテージなのだろうか、、、 440日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:39:11.00
土木事務所の給湯室のことだろう
441日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:39:14.73
伊勢遺跡
442日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:40:36.14
>>419
>はいはい畿内説の現実は妄想ねw
>奈良の弥生時代が希薄なのは考古学者の常識なんだ?w
という根拠は?
「根拠を示さずに決めつけ」ばかりする>>419は妄想の人 443日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:40:57.32
>>432
魏志倭人伝には卑弥呼の王城と書いてあったはず。
神殿だけなら、それは邪馬台国ではないことが確定する。 444日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:41:50.44
>>439
「纒向遺蹟が、魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる回数」を
「纒向遺蹟が、魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる回数」と
「纒向遺蹟が、魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとは全く考えられない回数」の和で、
割れば良いのではないのかな。。。 445日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:42:14.54
>>442
だからさ、畿内説の根拠となる遺跡を示せばいいのに、それができていないわけだろ? 446日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:42:57.39
447日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:43:13.95
>>444
では、、、、纒向遺蹟が、魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる、、、確率は、ほぼ0パーセンテージなのだな。。。は、 448日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:43:20.63
結局どんどん世間の常識から離れて月刊ムーの世界に向かうのが九州説
449日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:44:01.86
纏向遺跡の状況が明らかになるにつれ、魏志倭人伝と畿内の乖離が大きくなるよね。
450日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:44:22.50
唐古鍵は弥生臭があるが纒向は誰しもが相当新しいと感じたらしい。
451日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:44:42.43
452日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:44:50.21
>>447
では、、、、纒向遺蹟が、魏志倭人伝にいう『宮室』にあたる、、、確率は、何パーセンテージなのだろうか、、、 453日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:45:38.82
454日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:47:14.81
どういう家の人(職)なんだよ、だったの?
と思うかもしれないけど
もともと?セメントなどで働いている家ではない
と言っていた
ただ松の木が立てられていて・・・、
その頃はセメント関係?
455日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:47:37.13
>>449
だから、どんな乖離なのか
具体的に言ってごらんよ 456日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:49:03.20
後、数年もすれば、邪馬台国畿内説が完全に破綻していたことが、日本国民に知れ渡り、
奈良の田舎学芸会に、月刊ムーの記者が取材に来訪することになるのではないのかな。。。
457日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:49:51.33
458日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:51:44.34
柵も楼閣もない。
459日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:52:00.84
>>445
>だからさ、畿内説の根拠となる遺跡を示せばいいのに、それができていないわけだろ?
現に示してる遺跡
460日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:52:06.61
>>445
>だからさ、畿内説の根拠となる遺跡を示せばいいのに、それができていないわけだろ?
できてない?
そんなこと「根拠も示さずに決めつけ」するのは妄想だな 461日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:52:36.47
462日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:52:39.32
463日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:53:22.95
464日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:53:59.01
465日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:54:06.55
>>457
集落跡がないって言ってるのは
どこの誰? 466日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:54:28.08
467日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:55:52.13
泥棒のようなものに入られてから・・・、
セメント関係で仕事?みたいな話
老婆が言うには、
そうなんだよな〜・・・何なんだろう
468日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:56:00.54
桜井市民は、なぜ、我慢強いのだろうか。。。
469日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:56:11.75
>>458
>柵も楼閣もない。
だから、ないって証拠は? 470日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:56:14.24
471日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:57:09.46
九州説はいつも、だいたい出所不明の怪情報
472日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:58:15.72
473日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:58:43.29
474日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:59:43.18
掘立柱の場所は、城という漢字の意味に、全く、合わないのでは、ないのかな。。。
475日本@名無史さん2019/05/08(水) 08:59:53.04
476日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:01:16.69
掘立柱の場所は、幼稚園や老人ホームを作製するのに、ちょうど良い大きさでは、ないのかな。。。
477日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:01:24.70
478日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:01:44.27
>>473
なんの根拠を?
正常な日本語を喋ってね 479日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:03:08.88
480日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:03:11.48
>>376
三輪氏は物部大連よりも遥かに偉いよ。
もちろん朝廷の儀式で一番最初に名前が呼ばれるのが三輪氏
三輪氏は天武天皇の子孫を馬鹿にしまくりイジメまくってたので
天武天皇の一族よりも権威があったことも明らか 481日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:03:35.89
482日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:03:56.20
纒向でさ、先入観は一切持たないだくださーいっ
とか言うとるけど、それお前やろってw
483日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:03:59.18
掘立柱の場所は、城という漢字の意味に全く合わないという、僕達の意見は、日本国民全体の意見になる可能性が、高いな。。。
484日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:05:14.41
485日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:05:16.19
そもそも九州説には証拠とか根拠っていう言葉の意味を知ってる人がいない件について
486日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:05:30.97
487日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:06:52.06
掘立柱の場所には、公立の幼稚園や老人ホームを作製し、学芸会の係員を削減し、公立の幼稚園や老人ホームの係員を増員した方が、良いのではないのかな。。。
488日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:08:02.16
489日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:08:35.24
>>484
畿内説がなぜ他説を納得させることが出来ないかというと、
畿内説ありきで全てをこじつけて判断し、話を組み立てるからなんだよ。 490日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:08:52.50
そもそも畿内説には余事象とかベジタリアンっていう言葉の意味を知ってる人がいないので、証拠とか根拠っていう言葉の意味を説明できない可能性が、高まってきたのでは、ないのかな。。。
491日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:09:33.50
>>485
そういうのはいいから、早く畿内説の根拠を示せば? 492日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:09:52.13
>>379
>ところが奴国にその年代の王墓がないんだよ。
これって漢委奴国王が北部九州以外に遷都した証拠だよね。
奴国に王墓がない
伊都国の王墓もこの頃に急激に衰退 493日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:10:17.89
494日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:10:22.40
九州説おじさんが人間として正常な会話ができないことは明らかになった
495日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:10:58.06
桃の種と紅花の種
496日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:12:06.19
497日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:12:11.23
ここまでばかにされる遺跡もめずらしい
498日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:14:40.85
>>497
反論できないので馬鹿にする
という愚行 499日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:14:45.66
>>489
>畿内説がなぜ他説を納得させることが出来ないかというと、
>畿内説ありきで全てをこじつけて判断し、話を組み立てるからなんだよ。
とか決めつける証拠は? 500日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:16:14.19
>>492
>>ところが奴国にその年代の王墓がないんだよ。
>
>これって漢委奴国王が北部九州以外に遷都した証拠だよね。
それ、普通の人なら断絶したと思う所なんだが 501日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:17:40.57
502日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:19:51.41
架空の世界で、1800年前に使用された拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が現代の奈良に
出現し、巻きぴょんだけの中身を調べました。。。
499日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:14:45.66
>>489
>畿内説がなぜ他説を納得させることが出来ないかというと、
>畿内説ありきで全てをこじつけて判断し、話を組み立てるからなんだよ。
とか決めつける証拠は? 503日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:20:33.36
>>491
自分が聞かれて全く答えられなくて
だんまりで誤魔化せなくなって
突然脈絡もなく逆質問を始める
それ、いつもの九州説敗北パターンや 504日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:21:08.19
このスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身を調べました。。。
頭部が、緑と青と赤のものが作製されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
505日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:21:11.36
>>492
>奴国に王墓がない
伊都国にあるから。 506日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:21:46.52
>>492
これは漢委奴国王が神武天皇の証拠だね。
漢委奴国王は大王なのに北部九州にお墓がない。畿内の遷都の証拠。 507日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:22:59.07
神社(神主、または僧)の家の人なのかな?
稲、稲荷?が何やらという話もしていたしな、
508日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:24:57.85
>>505
伊都国には漢委奴国王以降の大王の墓はない
王墓があるけど漢委奴国王の時期にはすでに伊都国は王墓遺跡は衰退してる 509日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:29:10.31
>>500
断絶はないよ
その他の大王の墓もないからね 510日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:32:32.48
伊都国と奴国は墓制も副葬品の構成も同じなので、同じ一族だよ。
511日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:36:51.14
つまり糸島地域は、博多の奴国王族の墓場だった可能性が高くなってきたようだな、、。
512日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:38:22.84
偶然にしては・・・?
という話(作品など)ばかりでしょ
513日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:41:27.03
>>510
おれもそう思う。
西暦57年の漢委奴国王
漢委奴国王の時代に、伊都国は漢鏡流通の核としての機能停止したことが判明してるから
北部九州から違う場所に首都機能が移ったのは間違いない。 514日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:43:28.91
『ラー』
神官、神主・・・例えるなら、あのパトラでしょ?
515日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:44:20.61
掘立柱の場所には、公立の幼稚園や老人ホームを作製し、学芸会の係員を削減し、公立の幼稚園や老人ホームの係員を増員した方が、良いのではないのかな。。。
516日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:49:17.26
>>509
>断絶はないよ
>その他の大王の墓もないからね
それ、理由にならんだろ
常識で判断すべき
どこも「王家」みたいなものは続いてないってことだ
そもそも県どころかせいぜい郡程度の首長に「大王」はなかろう 517日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:53:39.36
日本の話なんですよwwww
みたいなことを言ってる人もいたり
日本は日本の・・・という話でしょ
518日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:54:18.18
『日本書紀』によると
仲哀天皇(4世紀頃)の筑紫親征の折に
伊都国王が仲哀天皇の家来になったことが書かれている
一大率(3世紀)が大和(邪馬台国)の使者だった証拠だね
急に家来になるわけないからな
519日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:57:25.78
『ラー』『稲』?
『旧広瀬座』(『福島 民家園』)というところの話をしていて、
『かんのぱとら』でしょ、偶然なのかな
520日本@名無史さん2019/05/08(水) 09:57:38.62
521日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:02:00.25
仲哀天皇の真実の父親は、日本武尊に殺害され、名前まで奪われた、倭の五王、武だった可能性が、急浮上してきたのでは、ないのかな。。。
522日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:02:16.28
伊都国と奴国はそんなに仲が良くないだろう
仲が良かったら自然国境になる今宿にガッツリ武装した環濠集落があるわけない
523日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:04:52.60
>>522
熊襲(おそらく熊本)と対立してたからなぁ
武装基地はたくさんあったに違いない
吉野ケ里遺跡も武装してるし 524日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:04:56.92
525日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:07:42.74
526日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:12:45.14
>>525
107年に倭国王師升がいるし
遷都だよ 527日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:12:59.46
仲哀天皇の母親が、日本武尊に殺害され、名前や妻まで奪われた、倭の五王、武のその妻だった可能性も、急浮上してきたのでは、ないのかな。。。
528日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:15:24.65
仲哀天皇は、やはり、九州倭国王の血を受け継ぐ最後の人物だった可能性が高いな。。。
529日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:15:55.37
『姥清水』とRah Bandの曲、本当に同じでしょ
530日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:19:07.95
>>523
トンチンカンだな
武装基地なら国境にあるだろ 531日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:19:34.11
>>497
>ここまでばかにされる遺跡もめずらしい
バカにしている人たちが特定少数の人たちで、
目的をもって「ためにする」揶揄だからねぇ
お里が知れるなと、思いながら見てるけどww 532日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:20:14.63
533日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:20:15.75
>>526
じゃ三雲みなみ小路にいた伊都国王が断絶したんだな? 534日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:22:57.69
・・・何かの家の人なんだろう?としか思えないでしょ
535日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:22:59.86
>>532
とにかく断絶した証拠出してね
なんか残ってるはずだし 536日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:25:21.33
>>530
お前がトンチンカン
国境にしかないと思ってるのかw 537日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:26:38.57
538日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:26:46.02
『遮光器土偶』〜Rah Band〜『サイバーパンクSPECIAL』
同じでしょ?
コミックでは(実際は?)神奈川県の川崎に住んでいるという設定だしな
539日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:26:54.63
九州の考古学者七田忠昭は語る
福岡や糸島、唐津の平野都では、中期後半から後期に豪華な副葬品を有する墳墓の存在が注目され、しばしば「王墓」と呼ばれてきた。
しかし、これらの地方では、漢鏡等の威信財を副葬して葬られた首長層の後期後半に至る間の存在や連続性を認めがたい。
540日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:27:27.74
>>489
>畿内説がなぜ他説を納得させることが出来ないかというと、
>畿内説ありきで全てをこじつけて判断し、話を組み立てるからなんだよ。
違うよ
九州説の連中はどれだけ厳然たる事実を示されても、
どんなに冷徹な論理で論証されても、
信じないにだーって言うだけなんだよ
ザラコクを見れば分かるだろ?
そして、ウソ捏造を、根拠なく書き続ける
九州説側が、議論する能力を決定的に欠いているのが諸悪の根源なんだよ
具体的に根拠・論拠を示せと言われ続けているのを見るだけで、それが明確になってるだろ?
そして、>>489は「コークリ君」かな?
だいぶ分かってきたよww 541日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:30:03.68
>>536
なんで熊本vs福岡の対立が原因で糸島と早良の境に糸島最大の武装集落があんの?
辻褄合わないだろ
普通の頭ならそれぞれの国のあいだにに争いがあったと思うだろ 542日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:31:03.85
>>492
>これって漢委奴国王が北部九州以外に遷都した証拠だよね。
>奴国に王墓がない
>伊都国の王墓もこの頃に急激に衰退
違うよ
単に衰退しただけ
自分でも書いてるじゃないか >「この頃に急激に衰退」
他の地域で、広域を治める大首長が現れ、権力が集中し
権力誇示のための大墳丘墓を作る時代に入っても、北部九州は小国分立のまま
銅鏡を特産品として配布できなくなるとともに、相対的に地位が低下して
衰退、没落したというだけ 543日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:33:32.30
>>506
>漢委奴国王は大王なのに北部九州にお墓がない。
これ、須玖岡本遺跡D地点あたりが候補じゃなかったっけ?
まあ、どこにも「大王」とは書いてないというのはおくとしても 544日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:34:44.80
九州説は北部九州に幻の弥生帝国があってほしいという欲望で
九州の考古学者たちが言ってることの正反対を言い張ってるんでしょ
545日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:36:04.92
>>509
>断絶はないよ
>その他の大王の墓もないからね
その他の大王の墓もないから、断絶してるんだろ?
後漢書
桓・靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
断絶してるね 「歴年無主」 546日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:36:16.24
547日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:37:23.60
遮光器土偶
ゴーグル(サングラス)、宇宙飛行士だという説があったり、
実際は母親(または妹)でしょ
548日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:39:29.26
後漢書という、魏志倭人伝時代の研究にとって、重要な文章を翻訳する必要性が、高まってきたな。。。
549日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:40:27.21
>>520
>とにかく奴国王が断絶した証拠はないね
奴国王という地位は維持されていない
奴国首長家は存続して、筑紫国造になってる
磐井の乱で糟屋の屯倉を献上した、つまり抑えていた国造家なのだから、
これが奴国首長の系譜だろ 550日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:40:39.89
>>548
後漢書という、魏志倭人伝時代の研究にとって、重要な文章にも、倭人のことを発表している部分が、あるのでは、ないのかな。。。 551日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:45:49.28
>>526
>107年に倭国王師升がいるし
帥升は、倭面土國王、または倭面上國王でいいだろ
>遷都だよ
「コークリ君」は遷都が大好きみたいだけれど、考古学的に
西から東への大集団の移動を認知させるような遺跡、遺物は存在しない
王が一人だけ移動するはずもなく、遷都を想定すべき根拠がない
九州の一族が没落して、みんなで談合して別の人物を別の場所で共立・擁立しただけ
王の地位、居場所が移動した、というのは遷都ではない 552日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:47:18.93
あ〜あ・・・本来なら俺(私)が宇宙に行き・・・、
なんだけどな〜〜〜〜〜〜〜みたいなことを言ってる人がいたでしょ?
そういう権利を持っている家?
何もしていないような人が宇宙へ行ったり
553日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:51:43.83
副葬品が墓の上に埋葬された箸墓は弥生式じゃあないね。
古墳時代の一時期に滋賀と奈良にだけ見られる風習だよ。
554日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:52:20.99
キナイコシが、キャラクターの変換を、してしまった可能性が高いな、、、
555日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:54:44.23
>>551
畿内には残念ながら遷都した先に該当する遺跡が見当たらないということだ。 556日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:55:03.71
>>513
>漢委奴国王の時代に、伊都国は漢鏡流通の核としての機能停止したことが判明してるから
妄想? 557日本@名無史さん2019/05/08(水) 10:55:47.48
どういう事なんだろう、
公職追放のような状態になったの?
そういうところ(宇宙など)にも行けなくなったとか、
実際は宇宙などに行けるような家
558日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:00:43.99
畿内に遷都されていない、もしくは失敗したというのなら、唐や新羅の豪族が流れ込んだという説が成り立つな。
神武伝説を作って日本人に成り済ましてはいるが、実は半島人だったという。
近年の天皇もその認識だろう。
マッカーサーはそう聞いていたようだから。
559日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:05:55.61
>>558
>畿内に遷都されていない、もしくは失敗したというのなら、唐や新羅の豪族が流れ込んだという説が成り立つな。
>神武伝説を作って日本人に成り済ましてはいるが、実は半島人だったという。
この無謀な半島推し!
「コークリ君」でしょ! 560日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:06:13.79
このスレッドで、邪馬台国畿内説を主導的に宣伝している頭の悪い者は、闇の勢力に雇用された、キナイコシを含む、一人以上のプロ固定と、
それとは、別に、唯一、98.6%を計算し、その思考実験の作製に失敗した、何者かに雇用されているかどうかはっきりしない、頭の悪い75パーの、
合わせて二人以上の者達なのではないのかな。。。
561日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:07:33.68
>>555
>畿内には残念ながら遷都した先に該当する遺跡が見当たらないということだ。
こうやって何もかも「見ない、聞かない」で、
根拠なく「思想」を書くだけなのが九州説なんだよなww 562日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:12:19.41
>>560
98.6%の計算は、インターネットや中学の教科書に転がっているレベルの物なので、計算に成功したからといって、頭が悪くない証明にはならないので、
やはり、75パーは、角度の計算を繰り返し失敗していた、頭の悪い、3寸男と同一の人物だったのだね。。。 563日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:14:29.62
九州説はこれまでも○○が無い理論で畿内説を攻撃してきたけど発見が相次いで段々使えなくなってるね
564日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:16:16.16
畿内にカエルの骨が無いなどと言った九州論の論者がいるのだろうか。。。
563日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:14:29.62
九州説はこれまでも○○が無い理論で畿内説を攻撃してきたけど発見が相次いで段々使えなくなってるね
565日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:17:05.68
畿内に桃の種が無いなどと言った九州論の論者がいるのだろうか。。。
563日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:14:29.62
九州説はこれまでも○○が無い理論で畿内説を攻撃してきたけど発見が相次いで段々使えなくなってるね
566日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:19:08.49
反論できないと、すぐこうやって悪口を言い始める九州説
567日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:24:30.12
やはり、論破された、邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシが、討論を放棄して、嘘の中傷を実行してきたな。。。
566日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:19:08.49
反論できないと、すぐこうやって悪口を言い始める九州説
568日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:27:47.30
調べてみた?
『ゆるドラ人気投票開催 メジェド』というキャラ(他の作品にも登場するけど)
『ボーボボ』
569日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:34:42.35
>>518
>伊都国王が仲哀天皇の家来になったことが書かれている
三種の神器を掲げて出迎えたとあるだけで、家来になったとは書いてないなあ。 570日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:40:26.49
県主になるんだから家来だよ
571日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:41:49.34
>>518
>伊都国王が仲哀天皇の家来になったことが書かれている
出迎えた者が伊都国王だったとも書いてないのではないかな・・・ 572日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:44:09.08
テンプレートを貼り付けているのは、どちらなのだろうか、、、
つまり、インターネットにたくさん転がっている、高校レベルのベジタリアンのことを、96.4%という数字で発表した人物は、一方では98.4%を計算した75パーなのだろうか、、、
それとも、違うのだろうか、、、
573日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:48:05.54
#okuyamaとは、何だったのだろうか。。。
574日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:48:49.50
最後の倭王は、誰だったのだろうか。。。
575日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:49:53.43
>>525
倭国大乱より後の平原遺跡まで墓制と副葬品が同じ王墓が続いているね。 576日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:50:57.85
>>533
すぐ近くに平原遺跡が作られるから、断絶していない。 577日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:52:05.97
プロ固定の真実の目的は、何なのだろうか。。。
578日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:52:39.46
>>571
>出迎えた者が伊都国王だったとも書いてないのではないかな・・・
まあ、アメノヒボコが倭国に来たときに、自分が王だと名乗った伊都々比古は、
伊都国王でもいいんじゃないかな
到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』
然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。 579日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:53:04.94
後漢書という、魏志倭人伝時代の研究にとって、重要な文章を翻訳する必要性が、高まってきたな。。。
580日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:53:33.06
580
581日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:56:57.73
穴門は、やはり、熊本城から遷都した、倭国の都だったこともある場所なのでは、ないのかな。。。
578日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:52:39.46
>>571
>出迎えた者が伊都国王だったとも書いてないのではないかな・・・
まあ、アメノヒボコが倭国に来たときに、自分が王だと名乗った伊都々比古は、
伊都国王でもいいんじゃないかな
到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』
然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。 582日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:58:24.22
>>559
コークリ君が何者かは知らないが、天皇が半島出身である可能性かあるというのが常識だろう。
お前は自分は縄文人の子孫だとでも思ってるのか?
もしかしてネトウヨか? 583日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:59:44.29
>>581
穴門は、伊都国から移動した、熊本城から派遣されたイダルの役所だったこともある場所の可能性もあるのでは、ないのかな。。。
578日本@名無史さん2019/05/08(水) 11:52:39.46
>>571
>出迎えた者が伊都国王だったとも書いてないのではないかな・・・
まあ、アメノヒボコが倭国に来たときに、自分が王だと名乗った伊都々比古は、
伊都国王でもいいんじゃないかな
到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』
然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。 584日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:00:32.23
連続句読点に訊くのもなんだが、プロ固定って何?
明らかに日本語ではないんだが?
585日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:01:35.35
漢字の「墓・塚(冢)・墳・陵」の違い
「墓」・・・土の中に埋めたはか。
「塚」・・・高〜く盛り土をしたはか。(カップに盛ったかき氷のような高い盛り土)
「墳」・・・丸く盛ったはか。(お饅頭のような盛り土)
「陵」・・・角ばっているおはか。(天子や皇后のおはか)
というようになります。文字の語源の意味を図にしてみると下記のようになります。https://www.otsukastone.co.jp/blog/12634 586日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:02:21.58
倭人は、朝鮮半島南部も元々の領土にしていたので、スサノオノミコトは朝鮮半島南部に追放された可能性が高いな。。。
587日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:05:49.08
プロ固定という、邪馬台国畿内説を宣伝する係を一部にしている、インターネットの謎の職業があるのではないのかな。。。
588日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:07:03.48
589日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:08:07.68
ネアンデルタール人が生きていた頃から、倭人というのは、元々は、ブータンから東の温かい場所で居住していたのではないのかな。。。
590日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:10:21.77
ある書によると…
御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)の時代に、額に角のある人が、一艘の舟に乗ってやってきて、
越国の笥飯浦(ケヒノウラ)に停泊しました。その土地を「角鹿(ツヌガ)」と名付けました。
問い尋ねました。「あなたはどこの国の人ですか?」
答えて言いました。
「意富加羅国(オオカラノクニ)の王(コキシ)の子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)です。
別名を于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)と言います。
人づてに日本国に聖皇(ヒジリノキミ)がいると聞いて、帰化(マウオモブク)しようと思いました。
(日本に来る途中で…)穴門(アナト=後の山口県・長門国)に到着したときに人がいました。
名を伊都々比古(イツツヒコ)と言いました。その伊都々比古が私の臣(ヤツカレ=部下)に言いました。
『私はこの国の王だ。私をおいて、ふたつの王はいない。だから他に行くな』
しかし、臣がその人の為人(ヒトトナリ)を見るに、絶対に王ではないと分かりました。
591日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:10:43.40
592日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:14:32.51
唐古鍵の時代というのは、パソコン通信の時代のことでは、ないのかな。。。
591日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:10:43.40
>>587
ある
唐古鍵の時代からある 593日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:18:34.93
>>592
そんなに古くはない。
2000年以降に活発化した。
捏造ゴッドハンドがうらやましいなどと言ってた。 594日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:21:02.25
1990年代にインターネットが登場して、パソコン通信は衰退したよ。
595日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:27:54.07
>>653
>王が死んで100人も殉葬するわけがないし、だいたい日本で殉葬はない。
ならば魏志の記述は奴婢を大量に殺戮した一つの事件であろう。 <
妄想はダメだ。
魏志には、魏使らの実見記録として、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
と記録されている。 596日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:28:41.37
>>660
>中國から伝わった「方位」という考え方を取り入れて、
纒向の3棟の建物は東西一直線に建てられていた・・、 と橋本は明言し、ご丁寧に図も示していた。
ということは、倭人伝の南至は東の間違いだ〜なんてことは、今後は主張しないつもりなんだな。<
成程。 597日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:29:26.76
>>669
また結論先にありきか?、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説 598日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:30:02.16
>>675
まあいいさ
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説者は、
死にそうすぎるから、 死後処置やむなし 599日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:30:49.12
>>700
大和に主人がいて九州は家来ってスレ主説は笑いもの
東西がぜんぜん別の国とした大和説も、
「大和日本国は倭国から別れた別種の旧小国」を見れば不可能
「南≠東」などによっても、大和説は詰んでるだろ 600日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:31:43.51
>>707
>北部九州から水行30日だから 北部九州の可能性はゼロ<
不彌國で萬二千余里がほぼおわっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にある事になり、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の可能性はゼロ。 601日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:32:28.75
>>711
>三世紀にはもう畿内を中心とした全国的連合政権があったことが教科書に載っちゃってるからね <
そりゃ、酷いね。
そりゃ悪いのは「南→東」などの嘘付き騙しの安部文部省や人種差別戦争狂の学会教育界が悪いんだろうが、
教えられる高校生らが可哀想だ。
大和説者らにはそういう逃げ方しか無いのはわかるが、
しかし、それ、不可能だって自分でも解ってるんでしょ? 602日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:38:51.65
九州=トンデモ
これ、定着
603日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:39:23.63
『公職追放』〜例えば『ゆるドラ人気投票開催 メジェド』
なぜか繋がっている、画像を調べてみたほうが良い
604日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:41:23.68
畿内説=妄想説
これ既に常識
605日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:48:13.92
邪馬台国九州説はトンデモではないけど
古田先生が提唱した九州王朝説はトンデモ
606日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:48:58.19
大和政権=新羅の天下り一族。
これ豆知識。
太陽崇拝はエスキモーやツングース系民族の特徴の一つ。
607日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:49:33.48
「嘘付き騙しの安部文部省」とか
「人種差別戦争狂の学会教育界」とか
毎日毎日朝から晩まで呟いてれば
自分はまともな人間じゃないと
プラカード立てて歩いてるようなもんだ
九州説は最低と宣伝してくれる得難い人災
もとい人材だよ
608日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:50:03.11
九州王朝という呼称は、よくなかった。
倭国は九州にあった、で十分だった。
609日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:51:39.61
倭国
百済と組んで白村江で大敗
日本国
裏切って白村江の戦後処理で台頭
唐と新羅の傀儡
610日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:52:14.29
この間のテレビは最後にゲストの持論で九州説で締めたけど発掘の進展の紹介なんか見ると内容は畿内説寄りだったな
611日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:53:03.16
>>585
それ、墓石屋さんが自分でいろいろインターネットで調べて
素人なりにこうなんじゃないかなって考えてみましたってだけだぞ
典拠として、正しいという保証はないものだ
墳
「墓也。此渾言之也。析言之則墓爲平處。墳爲高處。」
までは調べが届いていないようだし、これが根拠だとか言われると、なんだかなとしか思わない
九州説の能力は、墓石屋さんの広報担当の人以下だっていう証明にしかなっていない 612日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:53:09.58
天智天皇の系譜に戻ったからねぇ
613日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:55:46.05
>>606
>大和政権=新羅の天下り一族。
>これ豆知識。
>太陽崇拝はエスキモーやツングース系民族の特徴の一つ。
この無駄な半島推しが「コークリ君」だねww
「コークリ」を脱するために、新羅や百済も絡めていくんだねww 614日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:55:51.11
615日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:57:03.41
>>608
>九州王朝という呼称は、よくなかった。
>倭国は九州にあった、で十分だった。
それだと、古田史学の会の信者が泣くぞww 616日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:57:10.08
>>610
奈良は発掘しても関係ない物ばかり出てくるからなあ。
年代も勝手な解釈でグチャグチャにしちゃうし。
箸墓の輪鐙は状況からすると致命的だし。
唐古の方がマシだったんじゃねえかなあ? 617日本@名無史さん2019/05/08(水) 12:58:52.68
>>609
>倭国
>百済と組んで白村江で大敗
>日本国
>裏切って白村江の戦後処理で台頭
だから、それ、天智と天武だろ?
裏切ってはいないけれど
>唐と新羅の傀儡
こっちが「コークリ君」? 618日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:00:19.06
>>712
>アホ? 魏代の出土品が多いのに<
アホ?。
魏代には、中国系の出土品は、大和にはカラキシないね。 619日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:01:02.34
>>714
>記述が正確だとすると 邪馬台国は沖縄あたりになるから
どっか間違ってるのは明らかだろ <
「邪馬台国」なんて、存在もしない嘘つき騙し文言だし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているんだから、
女王國は九州島付近である事は明らかであり、
この男の脳が、どこかクルっている事は、明らかだろ?。 620日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:01:43.03
>>740
>教科書にそこまで書かれる 確定ですね<
「南→東」などの嘘付き騙しである事がはっきり確定している、
キョクウの安部文部省や殺人戦争狂の学会教育界が、
そんな教科書を作ってもねえ?。 621日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:02:26.68
>>609
まあそんな感じだろうな。
しかし畿内では倭人vs渡来人の派遣争いもあっただろう。
蘇我氏はどっち派だったんだろうか?
厩戸王はどこに居たんだろうか? 622日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:02:37.77
>>741
>つまりも何も、邪馬台国までの距離は「書いてない」<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、スレ主は×。
>ここから、九州説は思い込みベースの捏造をしてるんだよ<
スレ主らは、始めから「南→東」などの嘘付き騙しの捏造をしている。
>萬二千里は淮南子の東方之極まで距離の転用であり、
具体的な場所までの実測値ではない<
魏使らは、「余」の有無で区別するなど、確実に実測しており、
「淮南子の記載の転用」のようなインチキをして、
部下や後続の使節らに拠ってバレれば、首があぶないし、
淮南子自体も周代の周髀算経や山海経などの計測記録を踏襲していた可能性がある。 623日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:03:27.46
>>745
>政治の中心までではなく、観念的な地の果てまでの距離が萬二千里で、
倭国本土上陸までが一万里に設定されているだけ<
「余」の有無を付けて区別しているから、実測されている。
>そして渡海は距離を測る手段もないから、<
一寸千里や簡易三角測量、という手段がある。
>渡海1回で一律で千里<
皆「余」を付けた「有効数字1桁程度の近似測定値」。
>楽浪郡から狗邪韓国まで七千里ってのは、倭国上陸まで一万里から渡海3回三千里を引いただけ<
韓の「方四千里」と大体の寸法の一致があるから、
やはり長里ではなく、実測値が元になっている。 624日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:04:05.15
箸墓の周壕にスマホを投げ入れれば21世紀の墓と認定される
626日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:04:23.81
>>745
>政治の中心までではなく、観念的な地の果てまでの距離が萬二千里で、
倭国本土上陸までが一万里に設定されているだけ<
「余」の有無を付けて区別しているから、実測されている。
>そして渡海は距離を測る手段もないから、<
一寸千里や簡易三角測量、という手段がある。
>渡海1回で一律で千里<
皆「余」を付けた「有効数字1桁程度の近似測定値」。
>楽浪郡から狗邪韓国まで七千里ってのは、倭国上陸まで一万里から渡海3回三千里を引いただけ<
韓の「方四千里」と大体の寸法の一致があるから、
やはり長里ではなく、実測値が元になっている。 627日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:04:49.57
>>617
中大兄皇子も白村江に参戦していたよね?
でも実は新羅と組んでいた? 628日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:05:05.42
>>621
>まあそんな感じだろうな。
>しかし畿内では倭人vs渡来人の派遣争いもあっただろう。
>蘇我氏はどっち派だったんだろうか?
>厩戸王はどこに居たんだろうか?
これが「コークリ君」だよね? 629日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:06:03.48
>>621
物部氏が天神の子、饒速日の末裔だからね。
蘇我氏と厩戸は渡来系だろうと言うのはよく言われるね。 630日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:07:24.67
>>611
墓石屋さんでさえ、それなりの調査を行い、これくらいの知識は持ってるってことだ。
前方後円墳ばかり調査し、それを鼻にかけている畿内の考古学者たちは、墓・塚・墳・陵のちがいをどう理解してるのかえ。
総説の一つも出したらどうか。 631日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:09:05.85
>>627
白村江の頃にはすでに百済は無くて残党だからね。
元百済人の新羅人なんて沢山いたであろう。 632日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:09:42.59
大和王権は、饒速日を祖とする大連と邇邇芸を祖とする大王がいたけれど、物部戦争により片方が凋落したわけだ(どちらも天照の孫)。
記紀は大王側の史書だから、初めから大王が天皇として大和に君臨したように書いているが、実は饒速日に居候させてもらっていただけなんだ。
633日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:10:21.96
>>631
その百済の王子を立てて百済再興のために白村江で戦ったのだよ。 634日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:14:52.47
そういえば旧唐書に倭国は新羅を通じて連絡してきたと書いてあったね
635日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:15:58.98
>>752
>>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。<
>またウソを書いてる!
その国は「倭国」だって何度教えたら理解するんだ?
九州説は自説の都合で、捏造解釈をしてそれを本当だと思い込むからダメなんだよ!<
「南→東」などの嘘吐き騙しのスレ主の頭は、本当にクルって来ているらしい。
「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
の3つの「其」の後の二つの「其」はどちらも、
「大倭王居邪馬臺國」を指している事は、当たり前の事。
世間の皆さま。気を付けましょうね。
・・・・は、興奮したら、何をしでかすのか?は、全く予想が付きませんから。 636日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:18:22.21
このくらい狂わないと九州説になれない
という見本市だな
637日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:21:06.08
>>573
#okuyamaのレス 久しぶりに見たくなったぞ 638日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:25:29.66
邪馬台国九州説は投馬国の位置の特定がイマイチかな
639日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:26:38.01
>>587
>プロ固定という、邪馬台国畿内説を宣伝する係を一部にしている、インターネットの謎の職業があるのではないのかな
つまり、連続句読点による造語なんだねww
しかし、あまりにも意味不明w
日本語が不自由だと、他人には何も伝えられないんだな 640日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:28:54.24
>>630
>…墓・塚・墳・陵のちがいをどう理解してるのかえ。
大市墓も黒塚も景行天皇陵も前方後円墳だと知ってれば
だいたいわかるよ 641日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:30:45.65
>>630
>墓石屋さんでさえ、それなりの調査を行い、これくらいの知識は持ってるってことだ。
で、その墓石屋さんに劣ることしか言えないやつらが九州説やってるんだろ?ww
だから、墓石屋さんの調べてみましたっていうウェブページを典拠として何度も貼るw
大笑いでしかないわ! 642日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:31:50.37
>>631
>白村江の頃にはすでに百済は無くて残党だからね。
>元百済人の新羅人なんて沢山いたであろう。
残党がすんなり同化できるような優しい社会じゃないぞ、半島はww 643日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:34:21.76
>>635
>「大倭王居邪馬臺國」を指している事は、当たり前の事。
それだと、三番目の
「去其西北界拘邪韓國七千餘里」で詰むんだよ
拘邪韓國が邪馬臺國で、そこに大倭王が居たって言うんだな?ww 644日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:37:14.47
>>638
>邪馬台国九州説は投馬国の位置の特定がイマイチかな
イマイチなんじゃなくて、無理なんだよ
倭国の三大国、奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬台国七万戸を
狭い北部九州に詰めこもうったって、無理に決まってる
北部九州は、奴国二万戸だけでいっぱいというのが真実なのにww 645日本@名無史さん2019/05/08(水) 13:46:46.50
史書が奈良の事に触れない理由は、天下り先での安全確保の為だから。
大和の起源を探りたいのなら半島を調べてこいよ。
646日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:10:24.56
647日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:15:57.33
>>645
>史書が奈良の事に触れない理由は、天下り先での安全確保の為だから。
>大和の起源を探りたいのなら半島を調べてこいよ。
半島大好き「コークリ君」が今日も飛ばしてるなぁww 648日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:16:41.30
倭(ヤマト)国の起源は邪馬台国であり、日本と日之本(ヒノモト)の起源は蝦夷じゃよ。
649日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:20:35.95
>>638
投馬国は宮崎県妻の津万神社
海幸彦(隼人の祖)の落ち延びた先、筑紫の邪馬台国の兄弟国 650日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:24:21.79
>>649
>投馬国は宮崎県妻の津万神社
>海幸彦(隼人の祖)の落ち延びた先、筑紫の邪馬台国の兄弟国
それ、投馬国が女王国以北にならないからダメだと何度言えばww
九州説は否定されたことを繰り返し書くだけww
進歩一つない
南至投馬國、水行二十日。←道里
(官略)可五萬餘戶。 ←戸数
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。←道里
(官略)可七萬餘戶。 ←戸数
「自女王國以北、其戶數道里可得略載。」
邪馬台国が戸数道里略載の国なのは確定事項
投馬国はその前に、同じ書式で書いてあるんだから、
戸数道里略載してある国でありそれは女王国以北だと明記してある
南の女王国(ここでは邪馬台国)に向かっていく途上の国として投馬国が描かれているのだから
邪馬台国以北なのは当たり前
日数表記が道里の記載方法なのは九章算術でも確認できる
>>68 FAQ78
九州説ではまともな投馬国の比定地は設定できないんだよ 651日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:32:29.14
畿内説ってほぼ近畿圏の井の中の蛙だけかよw
九州説 : 畿内説 = 7 : 3
ワロタw
652日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:33:24.50
>>644
>北部九州は、奴国二万戸だけでいっぱいというのが真実なのにww
いっぱいだという根拠は? 653日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:36:38.55
>>650
>それ、投馬国が女王国以北にならないからダメだと何度言えばww
ウソつき
>九州説ではまともな投馬国の比定地は設定できないんだよ
畿内説だともっとダメダメじゃんw 654日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:40:13.07
>>652
>いっぱいだという根拠は?
北部九州に、まとまった勢力を推知できる遺跡が比恵那珂遺跡群しかない
以上
次点が伊都国で、他にはまったくといっていいほど、
人口集積が想定できる遺跡がないんだから、どうやっても無理だろ 655日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:41:26.57
キナイコシはダブスタ
656日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:41:32.74
畿内説は減少している模様
657日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:41:44.99
658日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:42:15.08
>>651
一般人の認識も数年で変わるだろう
最近の高校生は畿内説が有力と書かれた教科書で学ぶようになった
他の例だけど、鎌倉幕府が1192年と思ってる一般人は少なくなってるだろ?
教科書の記述が変われば、一般人にも浸透してきて、認識も数年で変わるもんだ 659日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:42:22.91
>>653
>ウソつき
そういう「根拠なしの一言レス」は無意味だと何度言えばww
反論したかったら、きちんと「具体的な根拠を示して」論じなさい
>>650には、丁寧に根拠が書いてあるだろ?
反論したかったら、一つずつ反論していけばいい
それができない無能が何を言っても、ハマグリのあくび以下だww 660日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:42:44.41
現代奈良の人口も減少している模様
661日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:44:28.58
奴国は福岡の中にあるから邪馬台国の内訳だな。
魏志倭人伝で並列に書かれているのは邪馬台国と投馬国で、それぞれ福岡と宮崎だから、九州北部は邪馬台国の7万戸だけでいいんだよ。
纒向遺跡のようなスカスカな遺跡しか知らないと考えが及ばないかもしれないが、福岡平野は全体が広大な遺跡なんだよ。
662日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:45:14.18
>>658
その言葉を聞いてもう10年ぐらい経つんだが?
あと数年経ったら畿内派なんて居なくなりそうな流れですわ 663日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:45:15.14
>>653
>畿内説だともっとダメダメじゃんw
どこが?
奈良盆地には、多数の拠点集落が存在しており、それらを統合しさらに周辺勢力が
相乗りする形で、共立女王の新都、纏向を建設したんだよ
魏志倭人伝の方角は、帯方郡から離れる方向が「南」と記述されているだけ
その辺は、陳寿が倭国を会稽東治之東と書いていることからも確認できる 664日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:46:06.32
郡から出発して女王の都に至るまで各国の戸数と道里を書き、「自女王國以北、其戶數道里可得略載」と総括してるんだよね
つまり、これらは通過してきた国であり、順次式に読むのが正いこと、狗邪韓国は倭じゃないこと
どれも人並みの知性があれば難なく分かることなのだが・・・なあ
665日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:46:18.97
>>655
>キナイコシはダブスタ
どこがダブスタなのか、どうしてダブスタだと判断したのか、
「具体的な根拠」を挙げて書き込まないと無意味だと何度いえばww
お前らみんな無能なんだよw 666日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:47:39.09
>>657
>無知の恥さらし
どこがどう無知で恥さらしなのか、「具体的な根拠」とともに示してね!ww 667日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:47:58.64
>>652>>653>>657
この辺の中身のないレスは宮崎説のやつっぽいな
しつこく呼子上陸をごり押ししてたやつ 668日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:49:40.67
>>663
話すたびに話がコロコロ変わるのが畿内説。
何やねんその奈良盆地内の拠点集落って?
しかも奈良盆地内で女王を共立してたんかい?
新説か? 669日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:49:56.83
>>661
>奴国は福岡の中にあるから邪馬台国の内訳だな。
それ、理由なの?
なんでそんな結論が出るのか全く理解できないんだが 670日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:51:27.91
>>662
>その言葉を聞いてもう10年ぐらい経つんだが?
https://cakes.mu/posts/22508
---ここから---
けれど近年、そんな教科書の記述に変化が現われてきた。
これまでは畿内説と九州説の両論を平等なかたちで併記していたが、
次のような文章が登場したのだ。
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の
発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力に
なりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、
奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺稿が出土
するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)
---ここまで---
この数年ですなww
>あと数年経ったら畿内派なんて居なくなりそうな流れですわ
居なくなるのは九州説だな 671日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:53:31.74
>>668
>話すたびに話がコロコロ変わるのが畿内説。
どこが、どう変わったと?
なんで具体的な話をしないの?
あなたの頭はどうなってるの? 672日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:56:36.02
>>668
>何やねんその奈良盆地内の拠点集落って?
あるだろう?
知らないのか?
>しかも奈良盆地内で女王を共立してたんかい?
誰がそんなこと言ったんだ?
またお前の脳内キナイセツか?
>新説か?
だから、どれがさ 673日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:57:50.60
>>668
>話すたびに話がコロコロ変わるのが畿内説。
一貫してますが? 基本、通説、定説に準拠なんでww
>何やねんその奈良盆地内の拠点集落って?
拠点集落って言葉すら知らないのかい?
拠点集落の周囲に、複数の集落遺跡が随伴するんだよ
複数の集落を束ねる首長の存在を推定される大規模集落のこと
何度もあげてる奈良盆地の弥生遺跡の地図でも、大きな丸で示してあるぞww
>しかも奈良盆地内で女王を共立してたんかい?
奈良盆地内には、一時期まで仮称「ソフ国」、仮称「ヤマト国」、仮称「カツラギ国」が
推定できる
そのうちの仮称「ヤマト国」を中心に、吉備、出雲、丹波、滋賀、おそらく東海、
北部九州の奴国が談合相乗りで共立したのが卑弥呼だよ
>新説か?
全然新しくない
30年くらい前から、大体この線だよ 674日本@名無史さん2019/05/08(水) 14:59:46.61
>>661
>奴国は福岡の中にあるから邪馬台国の内訳だな。
それで、どうやって奴国から邪馬台国まで水行、陸行で行くんだ?ww 675日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:02:07.34
>>661
>奴国は福岡の中にあるから邪馬台国の内訳だな。
奴国の範囲を、具体的に示してくれませんかねぇ?ww
そうやって国を入れ子にする二重帳簿詐欺も、九州説に人気があるインチキ
内訳だったら、奴国の名前も戸数も記す必要ないだろ?
それに、奴国に着いたところで、女王之所都と書かれることになる
インチキはどこまでいっても、整合性が取れないデタラメにしかならないんだよ 676日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:02:15.79
卑弥呼は畿内の内で共立された地方のミス○○のようなものだったということかwww
677日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:03:21.07
九州出雲畿内の祭祀統一連盟説はいつ捨てたんだ?www
678日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:12:37.21
679日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:13:09.51
680日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:14:25.81
実は畿内説の定説というものは存在しなかったということでまとまりそうだな。
681日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:16:05.32
九州説のやつらは逆説の日本史みたいな本しか読んでないから
基本的な知識に欠けるわ
682日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:18:54.15
畿内説だと証と言える遺物は馬を使って造った箸墓のみか。
しかも中身は不明、立ち入って確認したにも関わらず殉葬の有無も不明。
683日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:21:28.08
畿内説を通すには文献ガン無視するしかないのかw
684日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:21:50.75
>>680、>>682は、
半島大好き「コークリ君」なの?
それとも、呼子上陸推しの「吉井信号バカ」なの?
どっち?
それとも、同一人物?ww 685日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:24:19.40
>>683
>畿内説を通すには文献ガン無視するしかないのかw
どの文献のどの部分をガン無視してると認識しているの?
その部分を「具体的に引用」してくれるかな?
ああ、どうせ漢文読めないだろうから、原文のままでいいよ?
こっちは淮南子でも日本書紀でも後漢書でもいちいち引用つけてるだろ?
議論したかったら、その程度はできるよな?
よほどの『無能』でもない限り? 686日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:26:26.99
>>765
>>何組もの、何人もの「東征」将軍や武将らが、繰り返し何組にも分れて、<
>例えば、後の世でも征夷大将軍は1人だよ?
大墳丘墓が作れる将軍がたくさんいるなんて、設定めちゃめちゃじゃないか<
「武将」と書いたのは、「部将」の事であり、将軍の部下らのつもりであったんだし、
「自昔から倭王武の時代までの長い時代」の間には、何組もの東征軍がやって来ていたし、
先に来ていた神武らやニギハヤヒらのような、先着の東征軍の子孫の中にも、
崇神らのような、九州倭国の東征に協力したものもいる。 687日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:28:53.37
仏教伝来
難波津に着いた聖明王の使者は,大和川を船で上り,
初瀬川河畔の海柘榴市(海石榴市−奈良県桜井市金屋)
に上陸しました。
7世紀頃,この辺りに大きな市(纏向)が開かれていました。
688日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:29:23.75
>>768
>将軍とは限らないんじゃない?
神武も饒速日も大和で天神の子を名乗っていたように、筑紫からやってきた王族がぞろぞろいたんでしょう。
その下にいた鴨族だって大国主や大山積らの末裔の王族だし。 <
おや?、有難う。フォローしてくれていたんですね。 689日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:30:33.72
ぜんぶ爺さんの空想かい?
690日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:31:20.40
>>685
白昼夢から覚めたけりゃ魏志倭人伝からやり直せw 691日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:35:05.48
>>772
>>当然「墓守り人」たちは、貧しかった。<
>墓守しかいないようなところに、「見る権力誇示施設」は作らないんだよ
論理のない人間はダメ人間<
確か、神武の墓の畝傍山の周りの墓守り人が、「部落民」の始まりであった?、
という事であった筈だなあ。 692日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:35:16.52
何処かのスレで
越はかつてwoと発音したという興味深い書き込みがあった
詳しい人いないかな
693日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:42:08.46
>>774
>>「南=東」で確定だと思う理由は?<
>会稽東治之東に日本列島が無いからだよ シンプルかつ確実だろ?<
九州島付近も日本列島も「会稽東治之東」に入っているから、「無い」というのが×だし、
「東が東でよい」んなら、「南=東」説は間違いだ、という事になるから、
スレ主は、いよいよクルって来た事になる。
>それと水行二十日は、沿岸航行
北部九州からの長距離の沿岸航行は「日本海側を東へ」が一番妥当・・・<
「南≠東」だけで、×。 694日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:47:41.83
>>693
>九州島付近も日本列島も「会稽東治之東」に入っているから、「無い」というのが×だし、
なんでそういう、誰にでも一発でバレるウソを
平気で繰り返し言うの?
そういう病気? 695日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:48:24.20
>>776
>>(服)本来は自動詞なんだから<
>この時点で間違っているが、本来がなんであったとしても、
この文では衆夷という「目的語がある」以上、他動詞なんだよ
そして、繰り返すが主語は「祖禰」だ <
祖禰の時に(九州中南部西部の)征服戦が終わり、
上表文を書いた倭王武の頃には、「服している状態だ」、
という事を示す文だ。 696日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:54:27.53
>>779
>辻地区の建物周りに柵はあるよ、調べてごらん
それから纒向遺跡第80次調査で、尾崎花地区の区画溝の縁にも柵(柱穴の列)が見つかってる<
柵だけではダメだ。
「宮室樓觀城柵」や「常有人持兵守衞」の跡が見つからなければ、ダメだ。 697日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:55:05.39
>>690
これって・・・
「具体的な説明はまったく出来ません。
出来心でウソつきました。」
って告白? 698日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:56:45.90
>>696
人がそこに立ってた跡って、なにそれ
発狂してんの? 699日本@名無史さん2019/05/08(水) 15:58:53.53
>>696
どうらやソレは「九州説死亡のお知らせ」ですのよ
九州でソレがあるのは、どこ? 700日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:02:30.61
どこかに若狭湾-京都間の鯖街道が歩いて一日と書いてあったよな。
陸行一月をそのまま受けとると全国邪馬台国だらけになるぞ。
水行や陸行の日程は無視して構わんとしよう。
でなきゃ妄想虚言癖の畿内説が発作を起こすかもしれんからな。
701日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:02:33.21
>>780
>>つまり短里だろ。<
>現実の地理とは「無関係に設定」された距離だっていってるだろ?<
現実の地理と記載里数の比率が、有効数字1桁近似値程度できちんと一致しているし、
長里のように、6倍位も違わないし、
「余」の有無を使っての書き分けもなされており、
淮南子の記載を転用するインチキをして、部下や後続の使節らに拠ってバレたら首が飛ぶから、
魏使らは、きちんと計測した事を記録した。 702日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:04:29.20
>>696
「宮室」が建物D、「樓觀」が建物B、「城柵」既出
はい、クリア 703日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:07:42.36
>>782
>>後漢の頃にはまだ帯方郡がなかったから楽浪郡と書いただけだろ。<
>楽浪郡の中心(楽浪郡治)と帯方郡の中 (帯方郡治)は別の場所
それなのに狗邪韓国までの距離は変わらず七千里だ<
5世紀の南朝の范曄は、前史の自己解釈に拠る書き換えをする半分×男であり、
帯方郡と楽浪郡の距離も近くにほぼ隣接している、という程度の判断でしかなかった、
というだけの事だ。 704日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:07:44.19
>>701
>現実の地理と記載里数の比率が、有効数字1桁近似値程度できちんと一致しているし、
そうなる場所を探しただけだから
循環論法になって
九州説なペケ 705日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:09:29.30
〜略〜
日本書紀・古事記が伝えるところによると,応神天皇期が最初の大規模な渡来とされているが,
このころ朝鮮半島では大きな動乱が起きていた。それから逃げるように日本に渡来し,
製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいた。
かれらがもたらした道具や技術によって,それまでの生産方法や労働形態を一変させる
一大改革が起こったのではないだろうか。
また,馬や馬具ももたらされ,乗馬も行われるようになった。
この後続く渡来人たちによって,政治にも影響を与えるような知識や文化,技術がもたらされた。
7世紀には,白村江の戦いで敗れた百済からの亡命者たちが入ってきた。
かれらもそれまでの日本にはない最新の技術や文化を伝えたり,朝廷の政治に大きく関わったりした。
渡来人の持ち込んだ技術や文化によって当時の日本(倭国)は高度に発展したと言える。
渡来時期を4つに区分すると・・・
T 紀元前2〜3世紀 弥生時代に日本に定住した。
U 5世紀前後 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
V 5世紀後半〜6世紀 今来漢人が最新技術をもたらした。
W 7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。
706日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:09:55.03
>>703
>帯方郡と楽浪郡の距離も近くにほぼ隣接している、という程度の判断でしかなかった、
一つの郡を分割したのだから完全に隣接している
はい、失格 707日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:10:03.19
>>696
九州説って、その記述の中の「自為王以来少有見者 以婢千人自侍」は絶対に引用しないよな
環濠集落では王と庶民が一緒に暮らしてるから、倭王を見かけないことにするには、倭王を引き籠り扱いにするしかないし
あんな狭いとこに1000人の従者なんてどうやっても居場所がない 708日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:14:58.38
垣根か何かも分からん穴を見て城柵と妄想する畿内説ってwww
709日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:16:51.95
>>787
>>冠位十二階は隋の時代の話だぞ。<
>ヤマトを訪れた裴世清が報告しているから、隋の時代の大和朝廷の話だね<
「ヤマトを訪れた裴世清」は(隋使ではなく)「唐使」であり、
隋使の時の裴清は、大和へは訪れておらず、九州俀國から帰った事になっており、
だから、大業4年に「大和を訪れた」というのは、
書紀がインチキを書いた、という事の証拠になるの。 710日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:18:11.70
711日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:18:57.02
>>704
>そうなる場所を探しただけだから
何が悪いんだ?
魏志倭人伝と矛盾する場所を邪馬台国だと言い張る方がおかしい。 712日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:21:27.63
>>710
九州の環濠集落を見たことあるか?
ああいうのを城柵という。
庭の垣根じゃないんだぞ? 713日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:22:05.87
>>707
>あんな狭いとこに1000人の従者なんてどうやっても居場所がない
ええと、纒向だとその問題はクリアできるのですか? 714日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:22:20.83
>>791
>倍も距離の異なる3渡海を一律で千餘里としている時点で、実測値ではないのが明確で
客観的にも当時海上距離を実測する手段はなかった<
一寸千里や簡易三角測量が可能であるから、
有効数字1桁程度の近似値は十分計測出来た。 715日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:22:35.22
>>690
>>685の
「どの文献のどの部分をガン無視してると認識しているの?
その部分を「具体的に引用」してくれるかな? 」
に対して、
>白昼夢から覚めたけりゃ魏志倭人伝からやり直せw
という答えしかできないってことは「議論する能力すらない無能」という告白だな
九州説は、本当に議論一つできない能無ししかいない
自分の書き込みに対して説明を求められて、それに返答することすらまともにできないなら
出てくるなよ 716日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:23:53.81
>>709
唐が中国の代名詞なんだよ
カラカサや唐獅子と同じだよ
別の国じゃない 717日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:25:46.80
718日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:25:52.33
>>711
>何が悪いんだ?
何が悪いって
循環論法だから
悪いんですけど? 719日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:26:57.63
720日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:27:04.08
>>712
ああいうのを城柵というのだという
証拠は? 721日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:28:11.64
>>793
>渡海の千餘里は「一日で漕ぎ渡れる遠い距離」というだけ
そういう大雑把な基準としては存在していたわけだ。<
(現在のような動力船もなく)大量の資材や持衰や魏使らを乗せた倭船程度では、
時速3km位しか出せず、「昼間」だけの一日では全く無理。 722日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:28:21.06
>>713
>ええと、纒向だとその問題はクリアできるのですか?
当然できます
纒向は近郊から通勤者の来る大集落ですから 723日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:29:09.21
>>715
ずっと言われ続けてるのに何故忘れるかな?
南と書いてあるのに畿内説が東と解釈した理由は? 724日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:29:16.11
そりゃ邪馬台国をイメージして復元しとるからな
柵なんて残って無いよ
725日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:29:35.44
>>695
>祖禰の時に(九州中南部西部の)征服戦が終わり、
>上表文を書いた倭王武の頃には、「服している状態だ」、
>という事を示す文だ。
漢文の読めないザラコクが何を喚いても無駄ww
服の主語が祖禰なんだから、「服している状態だ」と言ったら、
「祖禰が服している状態」ということにしかならない
本当にデタラメザラコクだよなw 726日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:31:49.58
掘立柱の場所は、幼稚園や老人ホームを作製するのに、ちょうど良い大きさでは、ないのかな。。。
727日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:32:22.91
>>700
>どこかに若狭湾-京都間の鯖街道が歩いて一日と書いてあったよな。
>陸行一月をそのまま受けとると全国邪馬台国だらけになるぞ。
ヒント(というか前にも書いてあったけれど)
鯖「街道」ww
街道が整備されれば、移動は非常にスムーズになるんだよ
>水行や陸行の日程は無視して構わんとしよう。
九州説にはよほど都合が悪いと見えるww
無視しないと、九州では収まらないからねww 728日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:34:08.48
>>794
>それが揃いも揃って、軒並み本国の倭王よりでかい墳丘墓を作ってるってのは
どういう了見だ?ww<
墓の大きさは、必要があるか?の問題だし、
纏向付近の墓の記載があった地図の提示があったが、
それを見ても、那珂八幡よりも小さな墓も幾つもあった。 729日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:34:32.25
掘立柱の建物は、熊本城内にある公衆便所より、小さい可能性もあるな。
730日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:35:57.80
>>708
>垣根か何かも分からん穴を見て城柵と妄想する畿内説ってwww
建物の外壁と平行に一定間隔の柱穴があれば、周囲と建物を区画するための施設だと
普通の知能があれば判断できるんだがな?ww
九州に城柵跡と想定できるような遺跡ってあったっけ?(スットボケ) 731日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:37:22.32
渡来人の歴史
T BC2世紀〜AD3世紀 弥生時代に九州北部〜山陰に定住した。
→ さらに本州内陸へと浸透
U 4世紀末〜 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。(山陰→畿内)
V 5世紀後半〜6世紀 今来漢人が最新技術をもたらした。(占い→仏教へ)
W 7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。(ヤマト王権)
732日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:38:12.39
やはり、倉庫なので、防犯のために、柵で囲ったのだね。。。
733日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:38:19.46
>>709
>書紀がインチキを書いた、という事の証拠になるの。
いや、日本人1000人に聞けば98%以上の人が
ザラコクがインチキを書いたということの証拠だと判断するよ?ww 734日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:39:29.14
>>711
>魏志倭人伝と矛盾する場所を邪馬台国だと言い張る方がおかしい。
どこが矛盾するのか具体的に書いてね!
原文引用でいいよ 735日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:40:00.53
>>796
>帯方郡から九州まで10日で到達するのは物理的に不可能<
水行の箇所の、スレ主の解釈間違い。
>投馬国が戸数道里略載の女王国以北の国であることと矛盾<
不彌國からの「南へ水行二十日の位置にある」という説明であるから、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という範囲には含まれない。 736日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:40:22.05
>>713
纒向はいくつもの中ノ島で出来ているので、自然と一般民衆が容易に立ち入れない禁城区が作られている 737日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:41:12.92
熊本城は、何度も、同じ地点に、重ねて作製されたので、城としての土地の条件が優れていたのだな。。。
738日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:41:30.84
>>712
>九州の環濠集落を見たことあるか?
>ああいうのを城柵という。
逆茂木のことでもいってるのか
環濠のところにある施設は集落を囲むものであり、集落内には庶民も住んでいるんだから
それは「城柵」じゃないだろ? 739日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:42:18.90
740日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:42:35.50
>>735
>不彌國からの「南へ水行二十日の位置にある」という説明であるから、
>「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という範囲には含まれない。
いやそれ理由に、ならんだろ
道里書いてあるから 741日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:43:42.40
城は、土を成すという、意味が強いな、、、
742日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:44:24.52
743日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:46:02.49
>>797
>例えば、九州説の卑弥呼の墓最有力候補、平原1号墓は墳丘が長辺で12メートルしかない
並べなくても一目見て、畿内の大古墳とは比べようもないほど小さな墓だって分かるよ <
平原は壹與の墓最有力候補であり、
卑弥呼の宗女としての権力の余りない臨時的女王であったし、
魏の薄葬令に余りない強く制約されて、死後は郷里の身内の墓地に埋葬され、
副葬品だけは最高級にしてくれた。 744日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:47:06.90
>>723
>南と書いてあるのに畿内説が東と解釈した理由は?
南に行ったら海しか無いから 745日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:48:37.00
>>723
>南と書いてあるのに畿内説が東と解釈した理由は?
それこぞ、ずっとテンプレに書いてあるだろ?
陳寿の「認識」では、倭国は南北に長い洲島ってだけ
でなければ、会稽東治之東なんていう記述は出てこない
現実の地理がそのまま書いてあるんじゃなくて、陳寿が「これが正しい」と
「認識」した倭国の地理が書いてあるだけなんだよ
>>13、>>14の
FAQ3-1,3-2も読んでおいて 746日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:49:18.41
>>743
>副葬品だけは最高級にしてくれた。
薄葬令に思いっきし違反
アウト
w 747日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:49:23.09
748日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:51:12.83
>>738
桜井のはイノシシ避けの柵だ。
今でもあるだろ。 749日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:51:28.14
>>723
>墓の大きさは、必要があるか?の問題だし、
権力者、為政者が巨大構築物を作るのは、権力の誇示だ
権力の大きさを視覚化するのが目的
前方後円墳の様な大墳丘墓は、典型的な権力誇示の大モニュメント
大きさこそが、一番重要なんだよ
でかい墓が一つもない九州説が、一生懸命ひたすらに目を背け続けているポイントなんだがなww 750日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:53:33.62
>>735
>水行の箇所の、スレ主の解釈間違い。
水行箇所がどこであろうと、>>721でザラコクが書いているような
「時速3km位しか出せず」という船では、1月かかっても着かないぞww 751日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:53:48.50
それこぞ、、、と発音する韓国語は、何を意味するのだろうか、、、
752日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:55:06.29
>>745
だから想像の上乗せをするなっつーの。
もし「倭国は南北に長い洲島」と書いてあったなら言える話だバカ。 753日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:55:37.46
>>742
>お前調査結果見てないだろ
それを書きたかったら、その「調査結果」を確認できる情報を具体的につけないと
議論にならないんだよww
どうせ、九州説系の個人ブログとかが情報源なんだろ?wwwwwww 754日本@名無史さん2019/05/08(水) 16:59:20.36
>>753
アホか?
纒向調査結果は随時公開されとるっつーのによ。
PCすら持っとらんじじいか? 755日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:02:52.12
>>753
知らないので貼って下さいお願いします!
と言えばいいのにwww 756日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:06:22.12
>>743
>副葬品だけは最高級にしてくれた。
前にも書いたけれど、薄葬令って盗掘に合わないように、
墓に価値の高いものを入れるなっていうのがその内容なんだけれど?
三國志卷二/魏書二/文帝紀第二
「無施葦炭、無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車芻靈之義。」 757日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:07:13.75
>>747
>考古学者がそう言ったのか???
考古学者じゃなくても、現代人が地図を見れば分かるだろ? 758日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:09:18.68
>>747
考古学者が文献の話に首突っ込むわけないだろ 759日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:09:41.42
760日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:10:13.63
761日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:11:26.53
>>730
垣根と防御のための城柵の区別もつかないのかよw 762日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:11:42.57
>>752
>もし「倭国は南北に長い洲島」と書いてあったなら言える話だバカ。
書いてあるね
計其道里、當在會稽東冶之東。
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里。
周旋五千里にも及ぶ、会稽東治之東まで届く南北に長い洲島なんだよ
倭国じゃなくて、倭地だけれど、その洲島に依りて国を為し(依山島爲國邑)てるんだから
倭国のこと、でいいだろ 763日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:12:19.24
>>752
>もし「倭国は南北に長い洲島」と書いてあったなら言える話だバカ。
会稽が書いてあるから言えるんだよ 764日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:13:07.93
>>754
>纒向調査結果は随時公開されとるっつーのによ。
>PCすら持っとらんじじいか?
だから、そのうちのどれのどこに、>>754の主張を裏付けることが書いてあるのが
「具体的に示せ」って言ってるんだよww
この無能がww 765日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:14:12.49
>>738
イミフ
中国の城塞都市の構造は知っているか?
邪馬台国は魏と交流した中国文化の影響下の国なんだが? 766日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:14:56.76
767日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:15:37.05
>>744
>>>723
>>南と書いてあるのに畿内説が東と解釈した理由は?
>
>南に行ったら海しか無いから
つまり畿内だと魏志倭人伝と矛盾するんだよ。 768日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:16:20.53
>>749
>権力の大きさを視覚化するのが目的
>大きさこそが、一番重要なんだよ
そう判断する根拠は? 769日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:17:29.00
>>762
>周旋五千里にも及ぶ、会稽東治之東まで届く南北に長い洲島なんだよ
南北に長いなら九州だろ 770日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:20:36.73
何かを、教えて欲しい時は、、、
僕は頭が悪いから、わかるのに時間がかかるかもしれませんが、教えて下さい、、、
という言葉を使えば、良いのではないのかな。。。
764日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:13:07.93
>>754
>纒向調査結果は随時公開されとるっつーのによ。
>PCすら持っとらんじじいか?
だから、そのうちのどれのどこに、>>754の主張を裏付けることが書いてあるのが
「具体的に示せ」って言ってるんだよww
この無能がww 771日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:21:08.22
>>760
江戸城に通勤する侍が何線を使ったかキミが言えたら答えよう 772日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:22:07.19
773日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:23:16.84
江戸城からは、街道が伸びていた可能性が、あるな、、、
774日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:23:59.61
>>768
>そう判断する根拠は?
一定の整数比率で築造企画を共有した事例が多数あることから 775日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:26:27.40
掘っ立て柱は、川の中島にあったので、大物主の倉庫には、警備員が、あまり要らなかった可能性が高いな。。。
776日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:28:38.91
>>767
>つまり畿内だと魏志倭人伝と矛盾するんだよ。
だから南と書いてあるのに畿内説が東と解釈したのだが?
こういうのを文献批判といって、矛盾とは言わない 777日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:28:54.00
機内厨に総じて多い特徴は、
前方後円墳を使っているから、この地域はヤマト王権の傘下だ
同じものが出土したから、この地域はヤマト王権の傘下だ
同じ埋葬方法だから、この地域はヤマト王権の傘下だ
と軽々しく断定しすぎる嫌いがある
当時「流行していた」ものを使用しているからといって、
同じ政治勢力であると断定すべきじゃない
機内厨にかかったら、同時期に信濃だけでなく越後と甲斐に善光寺が建立されたことから、
一つの政治勢力が信濃越後甲斐を横断して支配していたと言い出しかねんなw
778日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:29:45.38
75パーは、自宅を警備している係員なのでは、ないのかな。。。
779日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:31:59.84
戦争からある拠点を守るとしたら、囲むように壕を掘ったり、石積み造ったりというのは基本だよな。
纏向遺跡っていうのは無防備な原っぱというか何というか、今の桜井市と変わらん様相だよ。
780日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:34:20.48
>>777
倭国内で、A国とB国が政治的軍事的に敵対していても死生観や宗教観の面では同じであることは
別に珍しいことではない 781日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:35:38.08
>>700
魏使たちは健脚で有名な鯖あきんどのように、街道を皆で疾走したと。
想像するとジワジワ来るわ。 782日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:36:23.95
>>779
感覚としては織田信長の安土城みたいかも
敵軍が安土城に攻め込むことをあまり想定した軍事的要素が弱く、
豪華絢爛さに重きを置いた城となっていた 783日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:38:44.56
>>780
お前が世間知らずなんだよ。
サムスン社員がiPhone使ってたらそいつはアップル派のスパイか? 784日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:38:53.29
>>777
こうやって九州説はヤマト王権なんか存在しなかったと言い張るわけだ
九州説をごり押しするためには、日本の古代史の定説さえも全否定する 785日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:40:01.07
>>781
走れるんなら走って来いや。
鯖街道すら知らんのかw 786日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:41:11.07
>>783
頼朝が中尊寺に似せたお寺を鎌倉に永安寺として建立した
おまえにかかれば中尊寺を建立した勢力が鎌倉を征服して、永安寺を新規建立したと言いそうだなw 787日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:42:00.90
ヤマト王権の存在を否定するけど、九州王朝はあったと言うのだから呆れる
九州王朝の存在を示すものは皆無だけどな
788日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:42:21.23
>>784
ヤマト王権が存在していないとは言ってないが
むしろ邪馬台国とヤマト王権の関係をぼやかしているのは機内厨だろ
卑弥呼が古代天皇家の誰に比定されるのかうやむや 789日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:44:47.48
まず機内厨は南と東を間違えて書いてあるというが、
瀬戸内海の島々や淡路島、山陽地方、四国を思わせるような描写がない
790日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:46:36.22
畿内説に言わせれば、現代世界のほとんどの国が中国の属国になるなw
メイドインチャイナが属国の証ニダーってw
791日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:48:19.71
むしろヤマト王権の強大化に九州の邪馬台国連合が恐れをなし、
魏から倭王に任命されて「本領安堵」してもらうことで、ヤマトの侵攻を防ごうとしたと
考えるね
敵対国の狗奴国は薩摩か肥後の国だろう
ヤマト王権の存在は隠蔽したと思われる(そうじゃないと倭王になれないから)
そして邪馬台国は鏡を大量生産して各国に配った
当時は漢字が伝わってないから、魏の皇帝の詔書の書き写しを配っても誰も読めない
でも鏡なら、神秘性と高貴性がある
792日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:49:20.35
793日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:49:49.13
>>766
>いくらで?w
>貼って欲しいんやろ?w
この無能加減は、やっぱり吉井信号バカなのかな?
自分の主張を通したかったら、自分で根拠を示すんだよ
それができないなら、根拠なしの戯言でしかないし、ザラコクのやっていることと同じ
まあ、九州説という時点で、ザラコクと同類同格なのは確定事項だけれどww 794日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:52:06.43
>>777
>同じものが出土したから、この地域はヤマト王権の傘下だ
また、脳内畿内説を語りだしたぞww
同じものじゃなくて、祭祀用供献土器だよ
精製器種と呼ばれるもの
単なる流行で、祭政一致の時代の祭祀用具が共通化するとか言い出すのがバカすぎる 795日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:53:17.52
796日本@名無史さん2019/05/08(水) 17:58:01.20
>>794
>同じものじゃなくて、祭祀用供献土器だよ
>精製器種と呼ばれるもの
軽量薄型丸底土器(東阿波型土器)だね。 ご苦労さん。 @阿波 797日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:02:18.46
>>788
卑弥呼がヤマト王権の誰かは不明
分からないものは分からない
九州説前提でヤマト王権が存在したことを裏付けるものって何? 798日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:09:01.27
>>788
モモソヒメが有力だけど、ヒメ王が皇女に格下げされているので、
史実半分、フィクション半分と言ったところだろう。 799日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:13:47.29
>>798
モモソ姫は最高神・大物主神の妻なので
日本書紀でも天皇より偉いよ 800日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:29:55.54
神武天皇の2人目の妻は最高神・大物主神の子供だけど
1人目の皇后よりも遙かに偉いので
1人目の妻は遠慮したと書いてある
801日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:34:40.82
畿内土器の類似性なんてのは祭祀どうのこうのというよりも、もともとあった日本の原住民文化だろw
そこへ渡来文化が九州北部や山陰から浸透してきたわけで。
その頃の畿内から東はまだ原住民文化を継続していたということだ。
802日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:37:29.70
>>788
九州説前提でヤマト王権が存在したことを裏付けるものって何なのか答えてもらえませんか? 803日本@名無史さん2019/05/08(水) 18:50:07.97
>>802
畿内が出雲政権の一部だったとすれば、
九州からは出雲しか見えてないだろ。
ヤマト?何それ?おいしいの?
ぐらいの位置付けよ。 804日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:09:56.36
>>784
>こうやって九州説はヤマト王権なんか存在しなかったと言い張るわけだ
最終的に大和についての歴史書が残っただけで、それ以外の地域の状況の記録が皆無なんだよね。
ヤマト王権とやらがどの程度の範囲まで支配していたかは微妙だよ。 805日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:12:23.36
>>794
>単なる流行で、祭政一致の時代の祭祀用具が共通化するとか言い出すのがバカすぎる
ええと、銅鏡が最も重要な神器なんですが、それが九州北部の文化であることは無視ですか? 806日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:13:08.27
>>802
>>>788
>九州説前提でヤマト王権が存在したことを裏付けるものって何なのか答えてもらえませんか?
ないだろうね。
大和はまだ未開発の土地だったから。 807日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:13:12.15
808日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:14:07.43
>>803
>畿内が出雲政権の一部だったとすれば、
>九州からは出雲しか見えてないだろ。
なるほど。
大物主とか出てくるから、大和は出雲の傘下なのか。 809日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:14:39.86
810日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:14:53.00
>>804
纒向は王権というよりも地方政権の一つだったと解釈していたはずだぞ。
畿内説の考古学者はきっと倭国の中枢である邪馬台国だったと希望的観測を述べてるやつも居たけどな。 811日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:15:17.44
>>806
つまりヤマト王権なんか存在しなかったということ? 812日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:16:19.19
813日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:17:15.08
>>805
>ええと、銅鏡が最も重要な神器なんですが
なんで?
先日の「剣璽等承継の儀」でも、銅鏡はなかったよ。 814日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:24:48.01
815日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:26:10.79
>>805
北部九州の文化を取り入れたよ
中国鏡も独占してしまったよ
おかげで北部九州は入手できなくなり干上がってしまったけどね 816日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:30:13.30
>>813
三種の神器の中でも最も重要なものなので、賢所から動かさなかったそうだ。 817日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:34:08.56
>>816
最も重要じゃないんだね 承継儀式になくてもいいんだわ だせー 818日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:40:16.19
453の>>762
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
考えずにすぐ短絡する。 819日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:41:17.16
820日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:41:23.81
453の>>800
>>800
>九州北部の博多湾岸は、会稽東治之東ではない
つまり陳寿の想定する倭は、北部九州の博多湾岸ではない(含まないとは言わないが) <
上海付近から九州は、「東〜東北東」の範囲内であり、
陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治之東」に、九州全域が十分含まれる。 821日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:42:24.06
>>811
>贈られた塩で塩漬けになる九州説w<
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、塩漬けになる大和説。 822日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:43:23.07
>>822
「南→東」などの嘘付き騙しのような、
そういう起こりえないケースを想定しなくちゃならない状況って
大和説は、学説として終わったってことでしょ 823日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:44:00.49
>>827
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
「〜の筈」という事すら起こり得ないような分裂幻覚の妄想であったから、
大和説は、国民の7割から否定されて、死んだ。 824日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:44:50.79
>>829
>>(別種分家の大和は母国の倭国とは)交流はあったし、
当然半独立国的な自由な関係でもあった。<
>じゃあなんで九州の土器や九州系の文物が出ないの?<
大和の方が、筑紫の土器を模倣した、という事が中心であったの。 825日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:45:38.55
>>834
>「自女王國以北、其戶數道里可得略載。」 邪馬台国が戸数道里略載の国なのは確定事項
投馬国はその前に、同じ書式で書いてあるんだから、
戸数道里略載してある国でありそれは女王国以北だと明記してある <
スレ主は、まだ変な事を言っている・・・・アホ。
投馬國は、不彌國から南へ水行二十日の位置にある、という説明である事が本論であり、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、不彌國のすぐ南にある事になり、
だから、「自女王國以北」の中には、投馬國は、含まれていない。 826日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:46:19.81
>>836
>途中に測定不能な区間があり<
測定不能区間なんてない。
ほぼ全部分区間の里数は、きちんと近似計測されて記録記載されている。
>最後の水行陸行区間の里数も書いてないのだから<
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっており、
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数の説明。
>途中区間の積み上げで萬二千里が出てこないのは明確に分かるだろ?<
途中区間の積み上げで、萬二千余里が出て来る事が、明確に分かる。
スレ主が、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師であった、
という事も、よく分かる。 827日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:47:04.75
>>837
>何度も繰り返すが、
「短里を使う理由のある人がどこにもいない」んだよ<
何度も繰り返して言って上げるが、
短里の使用は、周髀算経から梁書までの史料記載からの、史料実態だ。 828日本@名無史さん2019/05/08(水) 19:59:00.94
>>854
>>(唐会要の倭國伝の遣使記載)「倭國使」を名乗ったから、倭國伝に記録された。<
>つまり、奈良朝廷の貴族、粟田真人が倭国使であり、 奈良朝廷が倭国だってことじゃないかww <
スレ主は、全くの・・・・アホ詐欺師だな?。
粟田は、日本國伝にのみ記載されているんだから、
大和日本国の遣使である事を名乗った事になり、
倭國使節ではないではないか。 829日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:06:52.27
九州説は動く死体
830日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:12:46.88
連休明けにさっスレに目を通すかと思ったら
畿内説がボコボコになってた
831日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:14:37.06
畿内は九州の出先機関
832日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:16:48.21
>>858
>地の果てまでが萬二千里というのは、淮南子の数字
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える<
計算が合わないのでは、論拠にならない。
また、夏であったか殷であったか?は覚えていないが、
皇帝が大地の東西長を歩測せよ、という命令で、家臣が実行した、という伝承があったから、
夏や殷の頃に既に東西長が計測されており、
それが(淮南子以前の)周髀算経や山海経の記載に反映した、の)という可能性がある。
>これを整理したのが、淮南子の時則訓<
淮南子では、東方は短里での記載であるようであり、西方は長里での記載であるようである、
というような、矛盾を持った記述であり、全面的な信頼性がない。 833日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:18:30.93
834日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:21:44.42
さぁ〜
835日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:22:40.02
魏志倭人伝で邪馬台国の場所は九州通り過ぎて沖縄辺りと記されてる時点で
九州説はもう諦めれ
836日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:25:31.93
>>827
すぐバレるウソつくなよ
それら資料はむしろ短里なんか使われた事のない証拠だ 837日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:26:07.31
838日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:33:15.58
中国の制度に倣った・・・という話があるでしょ、
悪く言うと真似という意味
その後に中国のほうから、
ホンモノらしき家の人々が来たんだろう
知っている人は知っているんだよ
839日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:35:53.32
>>861
>道里であって里数略載だなんてどこにも書いていない<
陳寿の「道里」は、原則としては文字通りの「道の里数」である筈。
止むを得ない場合のみ、日数の混在があるかも、という程度。
>邪馬台国が戸数道里略載の国なのは絶対で、<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、その次の邪馬壹國女王之所都への里数が書かれていないから、
女王之所都がは「郡から萬二千余里である」という事になり、
略載になっていない。
>そこでも水行十日陸行一月の日数表記になっている<
郡から女王之所都への所要日数説明。
>日数表記が道里の記載方法なのは九章算術でも確認できる<
九章算術の記載法を、陳寿が採用した、という保証がないから根拠にならず、
また、九章算術の記載も所要日数説明であり、里数説明になっていない。 840日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:40:02.57
悪く言いたくないんだけど、制度などを倣い(本や文献を読み)
その後の創作(〜末裔など)・・・だと思っている人もいるだろうw
841日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:40:56.93
>>862
>個人を理由もなく嘘つきにしないと九州説が滅ぶのだね?<
范曄や魏徴らのような後代史家のらのような、
「前史記載や史料実態への、自己解釈に拠る書き換え説明」を、
理由もなく全面的な根拠にしないと、
大和説は滅ぶのだね?。 842日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:43:20.14
一部、ホンモノらしき人(中国の何やらの一族、家の人)もいる
そういう話?
843日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:43:26.30
>>964
>「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ことに反論できない限り、
最初から短里なんてないで終わりだ さあ、逃げてないで早く答えろよww <
短里記載の存在は、史料実態が根拠だ。 844日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:49:28.96
>>865
>>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。<
>その淮南子は1里=1800尺を明記してるんだから あなた最初から間違ってますよ<
それの記載は知らんが、それが実際にあったんなら、
淮南子は、「10尺棒に拠る一寸千里」という短里説明も書いているから、
淮南子が 短里と長里の混在をしているアホ学者であった事になり、
根拠としては使えなくなる代物だった、という事になるだけだ。 845日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:54:58.82
>>868
>淮南子に準じている時点で、観念上の数字であり、「縮尺」は定義できない <
淮南子は、10尺棒に拠る一寸千里を使った限り、短里を知っており、
実際に、東方へは短里を使い、西方へは長里を使っている事になり、
だから「観念上の数字」ではない。 846日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:57:31.62
>>836
そうそう。
実際の里の1/6でも誰も気にしないと言うことは、
誰にも使われずに文書蔵で埃をかぶっていたと言うこと。 847日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:57:53.28
桜井市芝の稲荷山古墳が3世紀の前方後方墳って本当かな
かなり興味深い
848日本@名無史さん2019/05/08(水) 20:59:21.69
>>874
短里の存在は史料実態であり、基本的な事実であるから、
どんなにごねてもムダだよである。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
更に、短里が肯定されたらその時点で破綻する。 849日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:02:29.13
>>799
まあ、天皇も大王も大王家も当時は存在しなくて、
単なる当時の有力者であって現在の皇室の先祖でもない、
ミマキイリビコやイクメイリビコがいただけではあるんだけどね。 850日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:05:25.37
まあこの時代の資料実態は1里435mだからな
851日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:07:15.17
また、人手の不足と闘っている友人のために、勤務シフト外で、労働してきたが、
友人の人間のレベルが高いので、解決する可能性が高まってきたな、、、
852日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:07:53.82
東近江の神郷亀塚古墳も3世紀後半の前方後方墳
近くに纒向遺跡と外来系土器の組成がよく似た斗西遺跡
東海→伊勢→伊賀→甲賀→琵琶湖
元伊勢ルートやな
853日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:07:59.99
>>880
>行程の記事を書いた本人である陳寿はその行程どおり進めば
実際の日本よりはるか南に当たる位置だと認識してる <
陳寿は、女王國の位置を、会稽東治之東と推定しているんだから、
「実際の日本よりはるか南に当たる位置だと認識してる」とは認識していない。
>つまり彼は短里など知らない <
陳寿は、行程の里数たからが短里だ、と知っていたから、会稽東治之東と推定出来た。
>晋が保管する魏朝時代の記録を自由に閲覧できる西晋の史官が短里を知らない
ならば、そんな単位を使って魏朝に報告する魏の役人などいない <
陳寿は、魏の役人の記録を短里だと理解して、会稽東治之東だという位置推定をした。 854日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:08:01.37
まあ、どうでもいいんだけどね
855日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:08:10.88
日本に王、皇〜・・・なんていないんだよ、
中国のほうから渡ってきた家、そのような家の人の話ならわかるんだけど
某氏(上の名前)なら、
某氏の一族・・・・遠い親戚なんだろうなとか
856日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:09:06.51
断り切れずに、貰った物体は、何だろうか、、、
857日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:10:14.98
>>886
また「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
論破された大和説者が正気を失ったぞ 858日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:10:55.02
伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河、何か関係あるかも
天照大御神の荒魂、瀬織津姫は、
熱田神宮の奥に祀られているらしい
859日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:10:56.16
860日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:11:26.97
860
861日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:13:50.49
揖保か、、、
862日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:17:06.34
>>903
「南→東」などの嘘吐き騙しをし、
「短里記述の存在」という史料実態を否定する大和説の人は、
基礎的な歴史の学問的は方法を知らず、知識もない 863日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:17:46.22
オロチ、大蛇などを・・・退治?
という話も、実際は、むかーしの中国の話みたいだしな
864日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:18:44.82
>>905
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、
また妄想か・・・ 865日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:20:56.14
揖保は美味しいが、値段が高く、友人に気を遣われ過ぎなのが判明し、困るな。。。
866日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:27:33.47
>>865
また、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が、スレッドをそれらしく、活発に見せ掛けるための努力を、読んで、笑いリラックスすれば、良いのでは、ないのかな、、、 867日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:27:51.01
>>918
>考古学的な裏づけはあるよ
奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから<
魏代の出土品も全くのようにないから、×。
>漢が衰退直後に奈良が中心都市化したことは明らかだが <
都市化なんて存在せず、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の国になれたことがあっただけ。
>漢が衰退したのは黄巾の乱(184年)で
卑弥呼が女王になった年(184年頃)と一致してる <
卑弥呼が女王になったのは、220年頃であるから、×。 868日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:30:59.12
>>920
大和説は、たまに議論しようとする人が出てくるが、
結局、九州説側からの問いかけに答えられなくなって消える
今回も、
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘への反論は?
から逃げ続けたまま消えた 869日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:35:19.65
AD107 倭国王帥升(Shuai sheng ) スサノオ
・
・
・
AD238 卑弥呼(Bei mei hu ) ヒメ后━━神武
・
AD266 台与 トヨ津━━懿徳
倭国王帥升をスサノオをだと仮定しただけで邪馬台国論争は一気に解ける。
というか邪馬台国が大和であると確信した新井白石が邪馬台国は九州だと言ったのが論争の始まり。
彼は倭国王帥升の中華皇帝への土下座から始まる日本史をごまかしたのだ。
870日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:35:22.11
このところ、ザラコクの周回遅れに反応しなくなったな ちょっとお利口になったようだ
871日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:36:50.90
数年前の、とあるスレ
英語(英単語)でも覚えたらどうなの?
みたいな事を言ってる人でしょ
王、皇(帝)
このような言葉があるでしょ、そこから逃げるための口実、
説明しなくてもわかるはず、
「王」「」「」などは実際は中国の・・・だからなんだよ
872日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:49:43.31
制度(称号など)を取り入れたというだけなら、
それは・・・(帝なら帝という着ぐるみ?でも中身は)wということになる
偽装(パッケージには中国産と表記、商品は中身は列島の原住産)のような話?
何かが発覚したのかな
そういうことで、英語(英単語)でも覚えたらみたいな話
873日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:52:02.83
それとは別に日本にもいるでしょ?
むかーし中国(中華)のほうからから渡ってきた、
そういう家の人々が
そのような人々こそが・・・?
874日本@名無史さん2019/05/08(水) 21:55:41.50
>>868
なんたって毎日畿内説集団を一人で自演やってんだもんなw
そら疲れるわw 875日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:00:45.69
例えば「朕」という言葉を使用している人物がいるでしょ、
でも使用している人物は・・・列島(日本)の原住民とか
同じような話でしょ
876日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:03:52.40
縄文人も旧石器時代の人も皆渡来人
時代が違うだけ
ルーツに優劣はない
学問は歴史の事実を追い求めるのみ
877日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:04:30.99
また、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が、スレッドをそれらしく、活発に見せ掛けるための努力を、読んで、笑いリラックスしたので、良いな。。
878日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:05:31.94
テレビなどの報道?
一時期、そういうのが流行ってなかった?
879日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:07:27.52
それとも逆だった?
日本産と表記(表示)とされているけど・・・中身は?
880日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:07:55.72
>>867
>九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一国であり、
> 九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の国になれたことがあっただけ。
邪馬台国九州説は良いんだけど、九州王朝説はトンデモ説
自分は邪馬台国東遷説は支持してます 881日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:08:23.06
>>921
>テンプレからコピペ
漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており、<
こりゃ×だな。
漢鏡の編年がそもそもおかしい。
魏代の倭國においては、3つの鏡の供給原因があり、
一つは明帝の下賜の銅鏡百枚であり、また呉系の楽浪鏡師らの渡来と製作があり、
また、仿製鏡の制作も継続していた。
>仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。<
威信剤の供給元は、明帝鏡を受け取った卑弥呼や相続した宗女の壹與と、
渡来の呉系楽浪鏡師や、彼らが鏡作り神社で教育された子弟ら。
>那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。<
その那珂川流域を「奴國」という比定がそもそも×。
弥生銀座地区は、邪馬壹國の中心でもあり、卑弥呼の首都圏そのもの。 882日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:09:22.91
883日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:11:00.36
例えば『紀元前一世紀』頃のwiki
「朕」
という人物はどこにいるんだよ?みたいな話、中国?
884日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:15:22.39
ほんとーに神武の話・・・・、
当時の日本に降り立って100万年くらい経っているとか
885日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:16:30.45
886日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:17:20.14
>>876
それ言うとアフリカ以外の全人類は渡来人ということになるぞ。
縄文人は万年単位だからもう日本原住民でいいと思う。 887日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:20:05.36
>>885
口から出まかせをいっただけだから気にしないでね 888日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:20:14.35
>>883
「朕」というは一人称は、国号日本、天皇号と同じく天武・持統朝に成立したものでしょう 889日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:21:34.23
890日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:22:02.86
それと、他のスレw
お前たちの言っている、
天皇(皇族、皇室)というのは何の話なんだ
891日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:23:08.74
畿内ヤマトってどこ?
892日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:24:27.14
893日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:25:02.21
>>930
>・一世紀の倭国の首都は伊都・筑紫<
いや、倭国の首都は、唐代まで筑紫内。
>・四世紀の倭国の首都は奈良 <
大和が首都になったのは、倭国が白村江で唐に大敗し、
倭国の別種分家の大和日本国が倭国を併合吸収継承した701年から。
>奈良の出土品は漢代ものが非常に少なく、魏代の出土品が多いことから<
魏代出土品は全くのようになく、晋代の3世紀末から、僅かに認められる程度。
>漢が衰退直後に奈良が倭国の中心都市化したことは明らか。<
奈良が中心都市化したのは、白村江の跡。 894日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:25:37.45
895日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:29:10.97
>大和が首都になったのは、倭国が白村江で唐に大敗し、
>倭国の別種分家の大和日本国が倭国を併合吸収継承した701年から
古田信者、頑張るなぁ
896日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:29:17.58
897日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:31:24.43
平城京以前にも都のいくつも造ってるからね
898日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:32:41.99
遷都先が決まらんようじゃ、ぐつわるい
899日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:33:45.88
倭国、白村江〜とか
なぜ相手にされていないんだと思う?
それとこれとは別問題
ふなっしー関係の話、
「王」(名前)を名乗っていて
900日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:33:56.16
多かれ少なかれ、皆混血だから
先住民云々etc無駄な議論
901日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:35:00.90
>>937
>>「短里を使う理由のある人がどこにもいない」ということの是非は、どうなのだろうか、、、<
>だから、「九州説の立場で、その是非を論じてくれ」って言ってるんだが?
連続句読点は、議論するだけの知的能力に欠ける<
スレ主が、まだ変な事を言おうとしているな?。
隋書の「夷人不知里數、但計以日」に拠って、
一般の倭人は「里を知らなかった」という事であり、
倭国上層部の知識人以外は、「短里を使う人がどこにもいなかった」んだろう、
という事だ。 902日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:36:40.52
>>939
ほら、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
もう反論不能になった 903日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:41:23.84
>>889
>>>885
>畿内ヤマト、これがヤマト王権の原点
でも全国政権ではなく、中国と国交がなかった地方政権だった。 904日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:43:33.58
>>830
>連休明けにさっスレに目を通すかと思ったら
>畿内説がボコボコになってた
なに、いつものことさ。 905日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:44:06.76
「??????????????????❓」となるでしょ
『船氏』(ふなっしー?)
906日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:44:49.03
前漢の時代日本列島は100余国に分かれていた
100人の王様がいたんやろな
907日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:45:27.35
908日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:47:04.90
>>945
>九州は先進地域とか言ってるけど文章一つ遺さなくて<
室見川の銘盤や、ホウ製の紀銘鏡が残っているし、
卑弥呼は上表文を書いている。
>大陸から離れた畿内の方が文明に目覚めたんだよね<
大和の文字使用は、渡来の呉系楽浪鏡師らの紀銘鏡などで学び、
造ったのは4世紀以後。 909日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:48:51.86
>>948
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
また結論ありき理由なしの対応ですか?。 910日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:50:36.09
それと、なぜ『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』なのか?とか
母親が何やら・・・寒いな・・・・も同じ人物なのかな
911日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:52:32.46
>>955
ほら、また、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
具体的な反論や、史料事実の指摘が出来ない 912日本@名無史さん2019/05/08(水) 22:54:16.03
>>956
「南→東」などの嘘吐き騙しを言い張るだけで事実を提示できないから、
大和説は破綻した 913日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:02:06.39
>>964
「南→東」などの嘘吐き騙しの古い情報しかない大和説
情けない情弱ぶり、ワラタ 914日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:03:42.47
>>965
「南→東」などの嘘吐き騙しのような、
そういう証拠が出せないであやふやな説明しちゃった大和説が
オウンゴールで自爆だな 915日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:04:57.42
『伊達の桃太郎』
本当は、この辺りの話でしょ、
当時のこと、詳しいことは、わからないんだけど
王子が何やらとか、〜拳、船で〜とか書いてない?
916日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:07:55.71
道士〜〜〜?みたいな事も書いてあるし、
専門家に聞いてみたほうが良い
917日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:08:16.32
>>966
>もう黒塚が三世紀って公式調査報告書でちゃったからね<
黒塚は、竪穴式石室だから、ホケノの後になり、4世紀。
「三世紀」って書いた公式報告書の嘘吐き騙しの詐欺学者は、誰?。 918日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:11:02.77
919日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:14:34.79
>>967
>まだ短里の話してんの?
韓国が4千里四方なんだからそれも含めて考えりゃ、単に誇大表記されてんだな、で済む話なのに。<
「韓の方四千里」は、魏使らとは関係がない役人たちの計測だから、
客観性が高くて、否定し難く、
だから、信頼性の高い史料実態であるから、
短里の根拠に十分になるの。 920日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:16:03.68
蚕の話も出て来るし、糸?
921日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:19:00.52
カイコ(蚕、蠶)
糸、弦を使用する・・・どこで見たんだったかな
922日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:22:11.54
>>971
>晋の史官が知らない単位だから魏の公式ではない<
韓の方四千里は郡の役人たちの計測結果であるから、魏使らも使った公式の里数単位になり、
信頼できる。
>魏の役人は報告に使わない <
陳寿の里記載の大半は、魏の役人らの報告。
>使う理由のある人がどこにもいない<
魏や郡の役人たちが使ったから、陳寿も使う。 923日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:22:34.15
どらごんぼーる
924日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:23:19.40
925日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:25:22.57
松傾
菅野
天皇家の家来
皇太子淳中太尊(ヌナカフトノミコト)についてきた6人の家来
--------
昔、信夫山に皇太子と皇后さまが逃げてきた(?)
信夫山の羽黒神社は、第29代欽明天皇の皇子(ヌナカフトノミコト)を祀(まつ)っており、
麓の護国神社の右隣にある黒姫神社には、その母、石姫(イヒヒメ)皇后が祀られています。
皇太子様についてきた6人の家来は、羽黒大権現の六供(ろっく)といわれる高僧になり、現在もその子孫が信夫山に住んでいます。
皇后様についてきた7人の家来も七宮人と呼ばれ、同じく子孫が信夫山に住んでおられます。
・正八幡宮 = 八幡院 渡辺蔵人(くらんど)
・牛頭天王宮 = ??園院(??は、ころもへんに氏) 小野掃部(かもん)
・天王宮 = 山王院 菅野主計(しゅめ)
・三宝荒神 = 三宝院 加藤大学(だいがく)
・一ノ宮明神 = 一宮院 西坂内匠(ないし)
・天神宮 = 自在院 西坂隼人(はやと)
信夫山おもしろ話
おもしろ話, 福島市信夫山
その7 信夫山に皇后様と皇太子様が逃げてきた?
その56 六供七宮人の話1
その57 六供七宮人の話2
926日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:27:08.12
誇張されていたということは、一里が小さかったということだろう。
927日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:28:05.49
天王神社
(天王宮 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/17 21:02 UTC 版)
天王神社(てんのうじんじゃ、てんおうじんじゃ)、天王社(てんのうしゃ、てんおうしゃ)は、
牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。特に、津島神社(愛知県津島市)系統の神社にこの名称が使われることが見られる。
他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、八雲神社、須賀神社、素盞嗚神社があり、
時代や資料によって通用される。
-----
妄想
210 :日本@名無史さん:2019/04/30(火) 16:52:40.39 .net
天王宮〜天皇の家
『松傾』
こういう名前、その家の一番上、そういう家
928日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:29:06.67
カイコ(蚕、蠶)
『弦』
調べてみると繭糸(弦)の話が出て来るし・・・、
『道士』『』『』
929日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:35:37.45
『繭糸 弦』
画像を調べてみてwどらごんぼーる?
930日本@名無史さん2019/05/08(水) 23:37:25.44
まあ色々歴史があったんやろな
ヤマト政権の始まり(倭国の始まりではないが)に卑弥呼がいるしね
931日本@名無史さん2019/05/09(木) 00:12:10.08
932日本@名無史さん2019/05/09(木) 00:15:40.27
親魏倭王だからそうだ
933日本@名無史さん2019/05/09(木) 00:19:21.65
邪馬台国=福岡県=卑弥呼の国=倭国の都
投馬国=宮崎県
狗奴国=熊本県
日本国=奈良県=ヤマト王権
934日本@名無史さん2019/05/09(木) 00:25:40.04
卑弥呼以前に倭国には男王がいたんだから卑弥呼は倭国の始まりではない
935日本@名無史さん2019/05/09(木) 01:10:31.16
このスレにいる人たちは、
三國志厨なのかな
『中二病』という言葉があるんだけど、
三國志なら三國志で良い、昔から知っている、詳しいんだぞ
凄いだろうwみたいな意味?不明
936日本@名無史さん2019/05/09(木) 01:13:46.93
king(王)・・・とか、そういう話は?
それと『伊達の桃太郎』?なぜか神仙界の話でしょ
937日本@名無史さん2019/05/09(木) 01:19:11.21
家の老婆は、
その『神仙界』の話をしているんだよ、
なぜ詳しいのか知らないけどw
938日本@名無史さん2019/05/09(木) 01:27:49.00
939日本@名無史さん2019/05/09(木) 01:37:03.11
〜拳、道士、〜虫虫虫(蚕、蠶)、
糸をしようする技(不明)、音楽家(日本のではない)など
少なくとも300年前には知っていた
という話?
940日本@名無史さん2019/05/09(木) 01:39:53.57
どらごんぼーる?
941日本@名無史さん2019/05/09(木) 03:42:09.48
本当に
うらしまマリン(仮)というキャラの父親の話でしょ、
〜を生きらせることが・・・という設定
942日本@名無史さん2019/05/09(木) 03:43:47.75
『浦島太郎』〜『河伯』(日本ではカッパ?)・・・『』『』?
943日本@名無史さん2019/05/09(木) 03:49:20.06
それにしても何の話なんだろう、
死んだ人間を生き返すことができる
河伯(浦島)〜浦島(河伯)〜若返り?
カミタマ?
944日本@名無史さん2019/05/09(木) 04:59:24.85
『JUSTICE』
某徳永英明氏の作品でしょ、王母〜龍宮〜?
本当に、おかしな話ばかり。
945日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:00:59.05
>>81
わかるぞその気持ち
FAQは、
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説敗北の
黒歴史だからな
そりゃ目をそらしたいさ 946日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:10:11.86
『サイバーパンクSPECIAL』
母親(ママ)が〜と言っているキャラが出てきたり、
川崎区の南部のほう?
947日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:14:08.55
冤罪事件の話?
何の話なんだろう
948日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:18:39.37
むかーし、謎の刀(剣)も持っていたと言っていたりw
家に飾ってあった
949日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:19:39.32
>>86
「南→東」などの嘘吐き騙しをやり続ける大和説
それは常に現実から目をそらし続ける、
人種差別殺戮戦争の唯我独尊宗教の・・・・アホ詐欺師ら。 950日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:26:06.52
>>94
何があっても頑として「南→東」などの嘘吐き騙しの根拠を出さない探さない
それが不易の大和説 951日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:28:55.42
本当に家の話のような気がするんだけど
952日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:31:54.93
>>100
>実際のところいくら探しても九州にはデカい墓が無いからね<
実際のところ九州は、
「自昔祖禰躬・・・西服衆夷六十六國」が終わってしまっていて。
極端にデカい墓は必要なかったからね 953日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:38:07.22
『Justice』
>正義の女神 《両手にはかりと剣を持ち 目隠ししている》
同じような話だしな、法の人?
954日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:49:02.80
>>137
>だから、近畿勢の自立的な勢力伸張ではなく、
多数の地域首長の談合による卑弥呼の共立=新生倭国の誕生を想定するんだよ
そして、その新生倭国の新共立王・卑弥呼の都が、仮称ヤマト国にあったというのが
寺澤先生の所論 ごりごりの畿内説だよ トーンダウンも一切してない <
なら、「南≠東」などの嘘吐き騙しで、×男ね。 955日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:52:15.89
伊達郡の川俣町という掲示板でも同じような事を言っていたり
あと亀戸天神〜とか、ほとんど老婆談と同じ、
当時?泥棒のようなものに入られたのかな?冤罪?
956日本@名無史さん2019/05/09(木) 05:54:43.87
当時(不明)の話
冤罪か何かの被害者がいて、お金や土地を盗まれたとか?
何の話なんだろう
957日本@名無史さん2019/05/09(木) 06:04:28.28
>>145
>・・・ということで「短里を使う理由のある人がどこにもいない」んだよ
反論があるならどうぞ 👀<
「短里」という文言は、史料事実に存在せず、
周髀算経から梁書までの文献に使われた「里の記述」に拠っての、
1里の長さに関する「史料実態」なんだよ。 958日本@名無史さん2019/05/09(木) 06:09:30.33
>>146
>魏との交流が開始されるずっと前、薄葬令なんかないときから九州の墓は小さかったな<
大和などの毛人地域では、
九州と魏との交流が開始されるずっと前の薄葬令なんかないときから、
墓があったのかなかったのか分からない位、小さかったな 959日本@名無史さん2019/05/09(木) 06:11:02.95
つまり短里は後代のインチキ論証の中にしか無いという事
960日本@名無史さん2019/05/09(木) 06:35:54.98
>>149
>旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。<
旧唐書は、白村江で唐が戦ったのは「倭國」や「倭衆」や「倭賊」だとして、
大和日本国ではない、という事をはっきり示しており、
だから、本質的には、旧唐書は、倭国と大和日本国とは「別国」説であり、
しかし、通典のような唐代文書にその事を曖昧にする記述があるために、
大和日本国が白村江の後で、倭国を併合吸収継承した、という体裁を書いた。
しかし唐会要は、白村江の後にも、九州倭国が半独立的に別國として存続していた、
という記載をした。
>大和日本国側の以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。<
旧唐書と唐会要の認識を否定抹殺する嘘吐き騙しであり、スレ主は×は男。
>・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実<
通典の事だろうが、通典は唐の同時代文書であるから、唐政府の施策に従うしかない半分×書であり、
論拠にならない。
>・唐会要(倭=日本と認識)にて<
これは全くの嘘吐き騙しであり、スレ主は・・・・アホ詐欺師。
唐会要は、全くの「九州倭國≠大和日本国」であり、別国記載。
>旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能<
別種の「独立性の程度の違いがあった」という事であるだけ。 961日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:11:21.29
>>150
>弥生式墳丘墓や古墳は、ただの『墓』ではなく、権力承継の儀式を賑々しくやるための場。
周辺や遠方のクニから大勢の列席者を招き、可能な限り大々的にやる。
著名人や有力者の結婚式や葬式が、馬鹿デカい会場で行われるのと同じ。
そして親魏倭王・卑弥呼の墓が、薄葬令を守って墳丘長10mや20mの筈がないではないか。<
何だ?、スレ主は、まだ事態がよく判ってないな?。
何のために、孔明や曹操や文帝が薄葬を遺言し、指示したのか?、という事を。
戦乱期での巨大墓は、当然莫大や経費や人的負荷を招き、国を亡ぼす原因になる、
という事を判っていたからだ。
そして、卑弥呼も戦乱の結果として共立された女性であり、
巨大墓の強制は、また戦乱の再発を招くだけなのだ。
それは4段築成(部分的に5段築成)の特異な古墳にして最初の前方後円墳である箸墓古墳をおいて他にはない。 962日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:15:38.23
畿内が全国政権になったのだから矛盾してるね
963日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:17:53.00
桜井市芝の稲荷山古墳が、3世紀に築かれた前方後方墳の可能性があることが、市教育委員会の調査で分かった。
これまで5世紀後半から6世紀ごろの古墳と考えられていた。市立埋蔵文化財センターで開催中の発掘調査速報展で、調査成果が紹介されている。
うち4カ所の調査区で墳丘の裾と周濠(しゅうごう)を確認。古墳北辺の平面形が方形と分かった。
規模は東西約25メートルで、北辺から墳丘の残存部まで測ると南北29メートル以上の南北に長い形になる。
明治時代の絵図には、社が描かれた墳丘の南側に細長い高まりがあり、南西に前方部を向けた前方後方墳と推測できるという。
築造時期は、須恵器など新しい時期の土器が少ない▽埴輪(はにわ)や葺(ふ)き石がない▽周濠の幅が狭い―などから、箸墓古墳と同時期までさかのぼる可能性がある。
前方後方墳には、東海地方など、他地域との関係を指摘する見方もある。
964日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:19:48.82
>>152
>箸墓の特異性は、3Cで一番の大物である卑弥呼の特異性と、分かち難く結びついている。
箸墓の特異な4段築成(部分5段築成)は、卑弥呼の墓である物証そのものだ。<
場所も「南≠東」に拠って、×であるし、
時期も、箸墓は4世紀であるから、全く違っており、×だ。 965日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:23:05.78
尾張は物部氏の本拠地の一つ。
三種の神器の一つである草薙の剣が置かれた熱田神宮の所在地。
前方後円墳は吉備(瀬戸内)と尾張(東海)の要素が強く、内陸の纒向は土器の構成からは尾張の傘下の内陸の田舎。
しかしいずれも帯方郡とのつながりを示す遺跡がなく、魏と交流していた可能性があるのは、楽浪土器などが出土する筑紫のみ。
966日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:23:35.82
>>153
>外から見てもわからものはわかる わからないものはわからない <
外から見ても、「冢≠前方後円墳」であるから、わかるし、
場所も「南≠東」である事や、時期も「3世紀≠4世紀」である事から、判る。 967日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:27:40.89
>地の果てまでが萬二千里というのは、淮南子の数字 <
これを倭人伝の萬二千余里に転用するのは✖
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
これらの圀は地の果てどころか、宇宙になってしまう。
また
「余」をわざわざ付けた理由も解けない
968日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:28:00.81
>>159
>箸墓は、崇神の墓でもなければ、垂仁の墓でもない。そして台与の墓でもない。
なぜなら彼らは『親魏倭王』ではなかったから。
『親魏倭王』は後にも先にも卑弥呼ただ一人。
それば『親魏倭王』故の特異な4段築成(部分5段築成)として残った。<
「台与」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、箸墓は×。 969日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:31:40.99
そのとおり、
卑弥呼・台与体制は、三世紀九州倭国の終末〜
前方後円墳・箸墓体制は、四世紀近畿ヤマト王権の黎明〜、、、、、
970日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:32:05.49
>>160
>九州説はそうしたいんだろうけれどww
単に、異なる国号で国交(朝貢、遣唐使)があったから、 それぞれの国号で伝を立てただけだよ
宋書 梁書 隋書 旧唐書新唐書唐会要 宋史
倭國 倭 俀國 倭国・日本国 日本国
↑
長安三年 粟田真人の遣唐使で改号報告・承認<
旧唐書も、唐会要も、新唐書も、
「九州倭国≠大和日本国であった」という形で、記載している。 971日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:34:47.71
>>964
箸墓が4世紀だっていう理由ないですね、何も
ただ単に、現実を認めたくないという
九州説の欲望ですよ 972日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:36:21.58
>>934
>卑弥呼以前に倭国には男王がいたんだから卑弥呼は倭国の始まりではない
卑弥呼の前の王は倭国の代表ではなく、 中国に朝貢しただけ
倭国乱を調停することもできなかった存在
倭国乱のあと多くの勢力の談合で王と仰ぐことになった新生倭国の最初の王が卑彌呼だ
それ以前の王とは断絶があるし、同一レベルで考えてはいけない 973日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:37:09.63
>>163
>「どこの何」を計るにしても、そもそも短里なんて存在しない
なぜなら「短里を使う理由のある人」=「短里の存在を知る人」がどこにもいないんだから<
いや、「短い里」の使用は、
周髀算経から梁書までの文書に残っていた「里数」記載という史料事実が示す、
史料実態であった、という事だ。 974日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:44:25.03
>>971
俺は箸墓が3世紀でも4世紀でもよいと考える
卑弥呼の墓じゃないから
崇神の墓の可能性大と思うよ 975日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:44:28.73
>>167
>別伝があるから別の国なんていうのは、特異な九州説信者だけに通用する迷信だよw<
いや、ダメだ。
唐会要は、倭国と日本国とを、全く別の離れた場所に書き分け、
同時代の事件や遣使も、それぞれの場所ごとに書き分けており、
明らかに「別の国であった」という書き方だ。 976日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:47:31.40
すべて前倒しする年代詐欺が畿内説。
977日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:50:43.29
>>168
>墓は後円部で、前方部は祭祀スペース。
箸墓が『大いに冢をつくる。径百余歩』で何の齟齬もない。
後円部の直径など、出来過ぎている程ピッタリだ。<
ダメだ。
「南≠東」と場所も違うし。「3世紀≠4世紀」と時期も全く違うし、
「冢≠前方後円墳」と形も違うし、
「魏志の径=長径」という「円墳の直径」と違う、
という事でも、箸墓は、×。 978日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:50:55.85
天武・持統朝で国号を日本にしたんだから、それ以前は倭国なのは当たり前のお話し
979日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:51:13.62
>>972
>卑弥呼の前の王は倭国の代表ではなく、 中国に朝貢しただけ
漢が盟主に指名して博多湾沿岸の倭奴国に金印を与えた。
記紀にも出雲を倒して筑紫で天孫が王となったと書いてある。
>それ以前の王とは断絶があるし、同一レベルで考えてはいけない
むしろ魏志倭人伝も後漢書も大乱前後の連続性を述べている。
そして、大乱の前後で倭が東遷したことなど書かれていない。 980日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:51:55.70
邪馬台国=福岡県=卑弥呼の国=倭国の都
投馬国=宮崎県
狗奴国=熊本県
日本国=奈良県=ヤマト王権
981日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:54:46.00
982日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:54:58.10
>>170
>高句麗の積石塚を、前方後円墳の墳丘葺き石の起源だって言う人がいるってことなんだね
高句麗の積石塚は前方後円形とは無関係だけれどw<
いや、当然、前方後円墳形という、形状の類似の問題だ。 983日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:56:04.85
古田信者は、倭の五王の朝貢もヤマト王権ではなくて九州王朝にしたいんだろう
984日本@名無史さん2019/05/09(木) 07:58:40.64
祇園山は方墳だから形状論からいっても卑弥呼の墓では無いな
985日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:04:26.33
>>983
倭の五王については諸説あるし、5世紀の話
ヤマト王政との関連も明らかにされていない
どうでもいいけど邪馬台国とは関係ない 986日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:09:04.80
>>163
>「どこの何」を計るにしても、そもそも短里なんて存在しない
>なぜなら「短里を使う理由のある人」=「短里の存在を知る人」がどこにもいないんだから
知る人は洛陽に居なかっただけで、東夷の地・帯方郡にはたくさんいたんだよ 987日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:09:18.20
倭の五王に関しては諸説じゃなくて、通説と少数説に分かれてるだけ
まあ、スレ違いのレスはもう止めるけど
988日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:20:41.50
>>985
帥升も卑弥呼も五王も、みな倭王だよ。
同じところにある同じ国。
そして中国に東遷の記録はない。 989日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:23:57.78
素麺を茹で、卵を落とし、粒状出汁を加えて、火を止めてから、味噌を溶けば良いな。。。
990日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:25:44.34
葱が無いので、生姜チューブを絞れば良いのではないのかな。。。
991日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:28:45.02
今朝の飼い犬の散歩中に、魏志倭人伝時代に関するアイデアが浮かんだのだが、メモを取ることができなかったので、忘れてしまったな。。。
992日本@名無史さん2019/05/09(木) 08:29:29.31
お湯が沸いた。。。
993日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:01:04.09
994日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:12:24.53
9951 ◆UiepmfCeDJqf 2019/05/09(木) 09:16:41.48
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1557359074/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 996日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:24:51.46
>>994
金印が出たところが倭国の中心。
つまり、福岡県。 997日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:25:37.92
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
http://inoues.net/yamahonpen2.html 998日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:34:31.52
>>996
それは3世紀までだろう
4世紀以降も倭国の中心が九州にあったとは言えない 999日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:40:19.04
金印は江戸時代のニセモノ
1000日本@名無史さん2019/05/09(木) 09:40:49.12
畿内説連戦連敗WWW
-curl
lud20200114155702ca
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