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邪馬台国畿内説 Part464 ->画像>42枚


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1◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:24:59.82
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1558800830/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:27:19.47
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:27:43.83
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:28:06.41
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:28:33.60
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:28:57.50
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:29:20.46
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:29:43.92
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:30:05.56
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:30:38.52
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:31:02.80
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:31:26.39
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:31:51.39
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※

実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)

14◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:32:11.98
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:32:37.44
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:33:06.07
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:33:27.91
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:33:51.52
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:34:16.39
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:34:38.92
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

21◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:35:00.03
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:35:25.78
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:35:51.65
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

24◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:36:14.77
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

25◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:36:39.32
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

26◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:37:06.62
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

27◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:37:30.29
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

28◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:37:56.13
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

29◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:38:18.76
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

30◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:38:41.12
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

31◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:39:03.47
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

32◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:39:23.49
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

33◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:39:45.57
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

34◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:40:05.73
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

35◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:40:28.15
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

36◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:40:47.22
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

37◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:41:07.18
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

38◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:41:28.41
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

39◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:41:52.03
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

40◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:42:15.46
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

41◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:42:40.30
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

42◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:43:05.44
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

43◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:43:25.25
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

44◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:43:47.54
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

45◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:44:10.06
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

46◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:44:32.12
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

47◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:44:52.26
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

48◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:45:15.77
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

49◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:45:37.38
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

50◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:45:58.24
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

51◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:46:23.02
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

52◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:46:47.68
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

53◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:47:08.17
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

54◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:47:31.46
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

55◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:48:08.52
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江、尾張、三河などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

56◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:48:34.88
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

57◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:49:02.34
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

58◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:49:27.42
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

59◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:49:55.51
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

60◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:50:18.10
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

61◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:50:43.30
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

62◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:51:04.85
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

63◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:51:27.66
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

64◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:51:50.07
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

65◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:52:13.81
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

66◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:52:35.09
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92file:///Users/mibuyoriyuki/Library/Application%20Support/BathyScaphe/Documents/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/1555782874.thread
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

67◆UiepmfCeDJqf 2019/05/29(水) 00:52:56.54
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及びスレ立ての書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ 21を修文

68日本@名無史さん2019/05/29(水) 00:59:44.24
前スレ>997
>遺跡は?

どれがいい?
裴世清が来た頃のヤマトの遺跡なんていくらでもあるだろ?
例えばこんなのとか?
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

69日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:01:24.54
テンプレから年表が抜けてたなw

畿内説年表

〜2世紀;唐古鍵遺跡
〜4世紀半ば:纏向遺跡
4世紀末〜:↓

最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
 大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」

https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

6世紀頃〜〜隋書の「邪靡堆」に該当する遺跡なし〜〜

70日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:02:57.63
纏向の様子を見る限り、その後の畿内は東海政権だったんだろうな。。。フムフム

纏向遺跡における土器の出身地別比率
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

72日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:40.80
名古屋人なら確かに別種だなw

(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。

(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。

73日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:04:48.56
もう、畿内説は諦めますた。

ソース
読売新聞YOL
21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

74日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:12:15.46
前スレ>999
>後世に書かれた後漢書を持ち出すとはw
>苦しいんだなw

隋書656年成立の説明に、後漢書432年成立を引用したら「後世に書かれた」とか言われたww
九州説の連中は時系列がめちゃくちゃだ

75日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:13:48.98
>>69みたいな渡来人推しも「コークリ君」なのかな?

76日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:18:24.94
>>75
たまに見るけどこーくり君なんてのもいるのか?w
敵作りすぎだぞw

77日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:25:46.87
連続句読点って複数キャラで凄い数書き込んでるんだなw
たまにそれぞれのキャラ設定を間違ってボロが出てるw

78日本@名無史さん2019/05/29(水) 02:08:22.23
>>906
俺 何度も奥山君=>>1に質問してるのだけど

未だ回答無いのです
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
瀬戸内航路で
「投馬国から、水行10日で到着した地の比定地は?」
「そこから纏向まで陸行1月のルートは?」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

宜しくお願いします


-------------------------------------------------------------------------

>>1じゃないけど
水行10日で到着したのは奈良湖畔
陸行1月は1日の間違いで1日で纏向

79日本@名無史さん2019/05/29(水) 02:09:37.65
>>77
あれテスト用のAIやぞ

80日本@名無史さん2019/05/29(水) 06:11:46.71
462>>912
>>日本で作っていたから改元を知らなかったと考えた方が納得しやすいけどな <

>それは感覚論だからどうでもいいが
三角縁が改元とほぼリアルタイムで作鏡されていて、つまり三世紀中頃の鏡で <

魏の楽浪帯方征服戦を恐れて避難渡来して来ていた呉系の楽浪鏡師らは、
当初は、呉の「赤烏元年(238年)」年号鏡を造ったが、
明帝→卑弥呼の「銅鏡百枚」を知ってから、魏年号鏡を造る事に切り替える楽浪鏡師が多くいたんだろうなあ。

>さらに、ヤマトはわずかなタイムラグで改元を知ることが出来るくらい魏と親しい国だ
と認めることになるよ<

大和は、九州倭国の地方の「市」があったからある程度の情報が伝えられ、
東征将軍らに拠っての九州倭國の支配下になってから、
4世紀頃から呉系楽浪鏡師らの鏡作り神社での指導で△を造りだした。

81日本@名無史さん2019/05/29(水) 06:23:24.59
462>>924
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺がバレた大和説者は、
川崎のような事件が怖いから、もう終身刑か島流しだな

82日本@名無史さん2019/05/29(水) 06:48:25.63
桜井市の施設計画頓挫で九州説が言い訳に使う畿内説の陰謀なんてのは嘘だと分かるな

83日本@名無史さん2019/05/29(水) 07:38:43.64
陰謀が挫折したんだろ。

84日本@名無史さん2019/05/29(水) 07:56:20.42
ついに、長年の謎が解けた!

魏志倭人伝の記述は、筑紫(女王所都)と大和(神仙郷)の記述が混同されているのである!

倭国(九州)が南北に長大な1つの島と思って来た魏使は、実際には「会稽東冶の東」に全く届かない短小な島であるばかりか、
明らかに別種の文身鯨面をしていない(毛)人が住む本州や四国を見て、むしろ東西に長大な「列島」であることに愕然とした。

狗奴国と戦争していた邪馬台国は筑紫平野・甘木朝倉にあったが、その奥津城(神仙郷=始皇帝陵の地下宮殿に相当)が大和にあったのだ。
もちろん魏使は甘木朝倉の卑弥呼の宮殿「宮室楼観城柵厳設」も、大和の卑弥呼の冢(径百歩=直径150m円墳)も見ている。

この矛盾をどう本国に報告すべきか悩んだ魏使は、邪馬台国幹部と協議の末、洛陽の政治的戦略的な判断を誤らせない範囲で倭国内の位置だけ書き換えたのである。
すなわち、洛陽から見て呉の背後「会稽東冶の東(海上)」にある邪馬台国に援軍を送り狗奴国を滅ぼさせて倭国を統一させ、呉をけん制させたい魏使のバイアスと、
曹魏朝には本当の位置を隠したい邪馬台国幹部の思惑が一致し、卑弥呼が投馬国に造らせていた神仙郷(奥津城)のあった大和の位置の、
方角だけを東→南に書き換え、「南水行二十日」投馬国+「南水行十日陸行一月」女王所都=「会稽東冶の東」に存在しているかのように書いたのである。

┃末盧国..........九州┃...〔実際の地形〕
.... ┃伊都国............┃〜〜〜〜〜〜〜日本海ルート〜〜〜〜〜〜
......┃...奴国..不弥国┃→→→「東水行二十日」→投馬国(出雲&吉備)→→「東水行十日南陸行一月」...〔実際の地形〕 
.......┃邪馬台国....┃↓豊後水道「女王国東の海」〜〜〜瀬戸内海〜〜〜大和=奥津城(卑弥呼の神仙郷)
.......┃.....↓.......┃.↓「南水行二十日」
........┃狗奴国....┃..↓
..........┃_____┃.投馬国
........................↓「南水行十日陸行一月」
会稽東冶〜〜〜〜邪馬台国「女王所都」
........................↓
.....................狗奴国    
          「魏志倭人伝」(魏志のバイアス=邪馬台国の思惑)

85日本@名無史さん2019/05/29(水) 07:59:42.66
・何かを隠蔽したい時はその情報に誰の目にも明白なウソを織り交ぜ
 隠蔽したい事実を少しだけ変える方法が有効である。

86日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:08:00.47
>>78
>陸行1月は1日の間違いで1日で纏向

これはない
これまでも何度も話題に出ているが、陸行1日で着く距離ならば、
水行が終わったところでその国に着いたと表現される

投馬国や末盧国のように水行、渡海のみでその国に着くという記述になる

87日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:10:35.07
>>84
ワカタケル大王のシキ宮はどこ?
雄略天皇の初瀬朝倉宮はどこ?

88日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:12:16.48
>>86
妻国や末盧国は港があったんだよ。
陸行一月かかる場所は国内にはない。
陸行一日の誤りであり、帯方郡から水行10日の九州北部が邪馬台国。

89日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:16:47.52
>>86
◆FAQ 31
 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。

90日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:20:36.62
畿内説の場合、すべて仮説なのにすべて断言すると聞いた。
そのまんまで草

91日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:30:33.38
>>88
> 陸行一月かかる場所は国内にはない。

あるよ。   @阿波

92日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:32:13.01
>>88
>陸行一月かかる場所は国内にはない。<

賛同する 

93日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:34:04.00
>>88
> 陸行一月かかる場所は国内にはない。

あるよ。   @阿波

94日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:39:40.75
>>92日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:32:13.01
>>88
>陸行一月かかる場所は国内にはない。<


あるとすれば
南九州説、阿波説、近江説

95日本@名無史さん2019/05/29(水) 08:51:36.79
462>>939
>三角縁が三世紀の古墳からガンガン出てるのはそれぞれの調査報告書を見よ <

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
△が大和からは4世紀以後にしか出ない、という事を、はっきり認識自覚せよ。
それも、大和説の否定の根拠なんだから。

96842019/05/29(水) 09:23:16.44
>>84
畿内で考古学的に確実な宮跡は、仁徳朝難波高津宮の倉庫跡とされる5世紀中期の柱穴のみで、6世紀飛鳥時代欽明朝にならないと出て来ない。
古墳時代(4世紀崇神朝・5世紀応神朝・6世紀継体朝)の宮跡は、記紀伝承地該当する各市の教育委員会が、いくら掘っても何も出て来ない(近世以降の石碑のみ)。
ヤマト王権が存在したとされる大和&河内は、歴代倭王(九州王朝)の神仙郷(奥津城)で、基本的に巨大な王墓とセレモニーホールだけ。
纏向遺跡には箸墓の造営キャンプと宮殿のみで市街地がない。しかも4世紀になると放棄された。つまり王都ではないということ。つまり

記紀に書かれた畿内の歴代天皇の王宮は、年に1回先代天皇の命日祭祀を行う(墓参り)ために建てられた(九州にいた)天皇のための1代限りの畿内宿舎(貴賓室)だったのである!

そこに全国各地の王が集まり、忠誠を誓わせる代わりに、国造として県主として領国を安堵し下賜品(前期の三角縁神獣鏡、中期の鎧兜鉄器、後期の馬具)を配り、前方後円墳の技術者も派遣した。
箸墓は台与が卑弥呼の冢(直径150mの円墳)に土を足し、その上に三段筑成して四段築成となった後円部(直径160m)頂上主体に埋葬された、2人の倭女王の合葬マトリョーシカ墓なのだ!

97日本@名無史さん2019/05/29(水) 09:24:10.98
漢代に流行った神仙思想に憧れた卑弥呼が、弥生銀座である北部九州には作る場所がないし、邪馬台国七万石は南の狗奴国(熊本平野)と戦争遂行中であるため、人がいない。
しかし平和な後進地大和なら自然環境が豊かで、農閑期の農民は無尽蔵にいるし、死後自らの魂の住処=神仙郷(東王父の蓬莱山=前方後円墳)に相応しい。
そこで配下の投国王(出雲・吉備)に、東海北陸の王と組んで、東王父の住む人工の神仙郷を造るよう命じたのだ。
その神仙郷(大和=奥津城)の伝統は、崇神朝→応神朝→継体朝へと受け継がれ、仏教伝来と共に飛鳥を中心に仏教寺院へと置き換えられたのである。
つまり古墳時代(道教神仙思想=前方後円墳)→飛鳥時代(仏教極楽思想=寺院)に切り替わったのである。

ではどうして奥津城を北部九州ではなく瀬戸内海の突き当りである大和にしたのか?
それは現世から死(黄泉の国)の恐怖や穢れを取り除く神仙思想から、属していた投馬国(出雲・吉備)王に命じて、東王父の住む蓬莱山(神仙思想)を人工的に造らせ、死後の住処とし、
九州にいる子孫(天皇)を見守るためだったのではないだろうか?
卑弥呼の命令で投国王・大物主は東海北陸の王とともに大和を征服し神仙郷としての奥津城を築いたものと思われる。

98日本@名無史さん2019/05/29(水) 09:47:51.46
462>>956
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしてまでして、
古代史まで捏造する・・・・アホ詐欺の大和説者には、
感服いたした

99日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:10:07.30
462>>969
>畿内には<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言だから、×。

>卑弥呼のいた頃の魏の年号が入ってる三角縁神獣鏡が出る<

大和の△は4世紀以後だから、×。

>卑弥呼の時代に大規模な前方後円墳が作られる<

大和の前方後円墳は3世紀末であるから、×。

>いずれも魏志倭人伝の邪馬台国の記述に強い関連が見出せる<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

>魏志倭人伝に書いている距離方位では邪馬台国は沖縄になる
なので邪馬台国の位置を指してない<

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になり、
投馬國は、不彌國からの南の水行二十日の位置にあるから、女王國はほぼ九州島付近になるから。×。

>よって考古物から見て邪馬台国は大和国<

よって、「南≠東」などに拠っても、この男は、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であり、×人間。

100日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:19:32.73
>>99
そんなふうに
高校生の使ってる教科書に載ってる歴史知識を
まるっと否定しないと
九州説が成り立たないってことが
なにを意味するか分かるかな?

それはね
九州説の社会的立ち位置がトンデモ扱いってことだよ

101日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:22:47.70
462>>980
>会稽郡は最北端でも大隅半島より南<

会稽郡ではないから、×。
陳寿は「会稽東治之東」と推定したのであり、
「会稽東治」は、杭州湾付近から江蘇省の海岸部の付近であり、
その中央部の上海と佐多岬が同じ緯度であり、
陳寿は、女王國の位置は九州島付近と推定した事になる。

ウソついても事実は誤魔化せないよ。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説さん、インチキは駄目よ。

102日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:27:44.49
462>>989
「南→東」などの嘘付き騙しの、
異常にウソばかりついてる大和説者は、老若男女に関係なく、
異常で異常で、川崎事件を起こしそうで、キミ悪いよ

103日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:30:52.76
462>>993
大和説者が、
「南≠東」などの史料実態を知らないで
九州説を批判しようとしても
自滅するだけだ

104日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:39:14.71
>>101
>「会稽東治」は、杭州湾付近から江蘇省の海岸部の付近であり、

それはあなたの願望でしょ
その証拠に、あなたはなんの根拠も出せない

105日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:44:20.72
>>102

なぜか、さかきばら事件・・・と同じ。

さかきばら事件で使用された凶器。

>龍馬のナイフ

106日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:56:14.94
462>>996
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、ウソつきすぎであり、
またまた発狂したようだ
素直に知りませんでした勘違いしてましたで終わらせておけば
傷口広げなくても済むのに

107日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:00:37.60
>>106正解

>素直に知りませんでした
>勘違いしてましたで終わらせておけば
>傷口広げなくても済むのに

108日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:02:56.30
462>>1000
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などという嘘つき騙しをする大和説は、
オームやイスラムや白人至上主義国のように、
タカ派の殺戮戦争狂の宗教ような狂人集団になってしまっているから、
ブレが無いから誰でも言うことが似てるんだよ
九州説はブレブレだから人ごとに言うことが違う

109日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:04:54.51
>>104
諸説ありで説明されてたじゃん。
お前の想像より遥かに信用できる。

110日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:05:12.29
そんなことよりも

倭人→和人になったの?

111日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:07:13.24
いまだに『倭猿』

こういう話でしょ、なぜだと思う?

112日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:14:44.47
それと、とある探偵ドラマがやっていたでしょ、
平成〜?もう終了だろう


主人公はカブキ()キャラで・・・、
なぜかリン、リンと言っていたり、
妹の子供の名前と同じだしな・・・。

『ボーボボ』?

113日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:17:22.33
>>76
横レスだが
コークリ君って呼ばれてるやつは日本史板では新参じゃないかな?
もともとニュー速や科学ニュース板で、嘘ばっかり書いてたやつがいて
IDをたどって行くと、渡来人がどうたらとデンパ系の書き込みばっかりだった

114日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:21:18.98
とあるゲームがあるんだけどw
ゲーム内に作成したキャラ名・・・?


そのスレ(掲示板)などを教えてあげようか

115日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:25:13.30
終了する人間(人生)が、
あらわれるかもしれないけどw

116日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:30:12.53
それにしても・・・・・、
『北斗の拳 シン』なぜ紫の服を着ているんだろう

『何者にもなれない お前たち』キュウリを切っている画像?

117日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:34:17.04
>>113
畿内説には新参も寄り付かないという事例かw

118日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:38:14.92
兄、弟・・・妹がいて


キュウリのような葉に
葱の華の写っている写真の家?

119日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:41:37.63
馬に乗り・・・、謎の刀(劔)?

120日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:49:13.81
何かの制服を着ているけど軍人ではない、
チョン州(不明)の出身ではないからなのかな

戦争などにも行っていないと言っているし、
親〜・・・そういう家でもないみたいだし

121日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:52:13.36
463>>84
>>神獣鏡は、中国というよりは呉地域が中心であり、
それが楽浪地域に広がっていたのであったんだから、×であるし、<

>んなら、当然ながら呉と楽浪の間にある魏領でも神獣鏡があるな
また九州説が自滅してら<

三角縁も斜縁も、洛陽付近から殆ど出土していない、と言っている。
だから、大和説が、また自滅してら。

122日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:55:17.05
>>101
>>会稽郡は最北端でも大隅半島より南<
>「会稽東治」は、杭州湾付近から江蘇省の海岸部の付近であり、

その場所は太伯の建てた吳(後漢代に吳郡)だから×なんだよ。

「嘗胆」は《史記》巻41越王勾践世家に載っている。
陳寿が知らない訳がなく、君の言うようなおかしな推定はしない。

「臥薪嘗胆」《十八史略》は高校の教科書に載っている。常識レベルのお話。

123日本@名無史さん2019/05/29(水) 11:56:14.79
肉も食べなかったと言っていたり、
何の話なんだろう

124日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:02:06.73
453>>85
>では呉系の鏡ではない魏系の鏡とは何かな<

はっきりしているのは、明帝の下賜の「銅鏡百枚」。
また、渡来の呉系楽浪鏡師らは、
(注文が無ければ)径21〜22cm位の少し大きめの鏡を造っていたようであり、
魏系の鏡は、径が17〜181m位の小さめの鏡が多い事からも推定出来る事がある。

>九州でそれが見つかっているとでも?<

明帝鏡なら、平原の21枚の「尚方作」鏡や、
筑紫付近から何枚もの蝙蝠鈕座内行花文鏡が出土している。

125日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:05:29.62
『チョン州 長州』読んでみた?

126日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:07:15.24
463>>86
>全国で見つかる古墳時代の銅鏡といえば畿内を中心とした三角縁神獣鏡だ <

大和の△は、4世紀以後だ。

>九州を中心として全国で見つかる鏡がない <

一番古い志登や祇園山の△は、3世紀中頃以前だし、
藤崎西新町や那珂八幡などの△も、3世紀後半の中頃以前だ。

127日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:12:02.23
などと

あいかわらず理由もなく
ただ言い張る九州説

128日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:15:06.80
『紫』調べてみたほうが良い

養蚕、機織り・・・寺院の話をしていたり、
肉も食べなかった・・・?

129日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:18:05.96
>>127
もとが言い張っとるだけの畿内説やからなw

130日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:34:33.78
また、論破すれば良いな。。。

131日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:37:46.10
論破しがいのある意見がないか、読んで探せば良いな。。。
http://2chb.net/r/history/1559057099/68-n

132日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:41:17.92
邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い宣伝係員は、連続句読点を使用する者が、僕達以外にも複数いることに、まだ、気が付いていない可能性があるな。。。

77日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:25:46.87
連続句読点って複数キャラで凄い数書き込んでるんだなw
たまにそれぞれのキャラ設定を間違ってボロが出てるw

133日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:41:32.23
畿内の4世紀の遺跡を3世紀にずらしたから伊都国は2世紀に衰退したように見えるだけという説w
この説をこじつけで論破したら暴露するぞw

134日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:43:57.41
この発表は、頭の悪い者が考え付く意見ではないのかな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

135日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:45:59.55
>>134
そうだね、、、
僕達は、近くの孫兄弟にも、遠くの孫姉妹にも、ブリタニカ国際大百科事典を贈呈したのだったな。。。

136日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:46:51.69
ブリタニカ国際大百科事典とは、英語だったな。。。

137日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:48:35.58
普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述は、元々、英語で書いてあったものを日本語に翻訳してしまった記述では、ないのかな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

138日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:50:43.37
普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の、、歴史、、とい単語は、
元々、英語で書いてあったものを日本語に翻訳してしまった言葉では、ないのかな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

139日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:52:29.87
ブリタニカ国際大百科事典のことを知らないキナイコシではないことを自称する者は、頭の悪い発表を実行してしまっているな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

140日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:53:47.69
普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の、、歴史、、とい単語は、
元々、英語で書いてあったhistoryを日本語に翻訳してしまった言葉では、ないのかな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

141日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:55:03.42
>>133
バカですか?
北部九州の遺跡の年代が、なんで畿内の遺跡の年代によって動かされたんだよw
在地のものの方が圧倒的に多いだろが
順序が逆だ

142日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:58:43.53
これは、やはり、歴史という言葉が指す物事と、歴史と翻訳されてしまった英語の言葉が指す物事が、完全に一致することを、根拠も書かずに前提にした、頭の悪い者だけが考え付く意見の発表だな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

143日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:59:01.10
卑弥呼が魏帝に朝貢したのは要するに倭国大乱の後、苦戦を強いられていた狗奴国戦争における援軍要請。
南の狗奴国の位置が決まれば、北の邪馬台国の位置が決まる。

つまり、邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。

九州島の地図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Geofeatures_map_of_Kyushu_Japan_ja.svg
狗奴国=熊本平野なら、邪馬台国=福岡筑紫平野。
狗奴国=鹿児島川内平野なら、邪馬台国=熊本平野と決まる。
「南→東」畿内説なら、濃尾平野しかないが、国境である鈴鹿山脈(琵琶湖東岸)から戦争の痕跡(首なし人骨、火災痕、竹槍、鉄鏃、骨鏃)皆無。

−女王国の東に海あり(九州説…豊後水道、四国説…紀伊水道、畿内説…×鈴鹿山脈w→〇巨椋池・琵琶湖)
−南の狗奴国と戦争中(九州説…熊本菊地郡もしくは薩摩隼人、四国説…南阿波、畿内説…仲良し東海)

「南→東(つまり東→北)」とする畿内説は、いずれも成立しえない。そして考古学的出土物で四国説には無理がある。
つまり消去法によって、九州説が正しい。

南「水行二十日」の投馬国は、九州南端の薩摩&大隅半島を回り込み、北上してすぐの志布志湾上流の「都城」盆地
もしくはさらに九州東岸を北上した西都原のある宮崎平野に比定できるのではないだろうか?
畿内説なら濃尾平野に比定だろうが、国境である鈴鹿山地・琵琶湖東岸に狗奴国戦争の痕跡皆無(首なし人骨・火災痕・鉄鏃・骨独)で否定され、
「女王国東の海」を伊勢湾・三河湾・浜名湖と見て、それ以東〜関東までに比定した場合、前方後方墳の分布により、いずれも否定される。

144日本@名無史さん2019/05/29(水) 12:59:47.10
>>141
たしか九大が畿内説だったはず

145日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:02:17.09
歴史という、元々は中国だった言葉は、日本語としてはどのような物事を、指すのだろうか。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

146日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:04:30.63
歴史という、元々は中国語だった言葉は、日本語としてはどのような物事を、指すかという問題は、
歴、、という字と、史、、という字を、研究しなければ、分からないのではないのかな。。。

71日本@名無史さん2019/05/29(水) 01:03:08.52
前スレ>1000
>キナイコシの辞書は違う宇宙の辞書だな

キナイコシではないけれど、

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 歴史
 れきし

 人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

普通に日本語でウェブ検索して読める辞書というか百科事典の記述だな

147日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:09:51.75
プロ固定は、頭が悪いな。。。

148日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:16:11.68
優れたザラコク氏が、99番の意見で否定した高校生の使ってる教科書に載ってる歴史知識とは、どの部分だろうか。。。

100日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:19:32.73
>>99
そんなふうに
高校生の使ってる教科書に載ってる歴史知識を
まるっと否定しないと
九州説が成り立たないってことが
なにを意味するか分かるかな?

それはね
九州説の社会的立ち位置がトンデモ扱いってことだよ

149日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:22:04.13
優れたザラコク氏が発表した99番の意見で、高校生の使ってる教科書に載ってる歴史知識を否定したというのは、邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定のついた嘘の可能性が高いな。。。

100日本@名無史さん2019/05/29(水) 10:19:32.73
>>99
そんなふうに
高校生の使ってる教科書に載ってる歴史知識を
まるっと否定しないと
九州説が成り立たないってことが
なにを意味するか分かるかな?

それはね
九州説の社会的立ち位置がトンデモ扱いってことだよ

150日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:23:34.35
プロ固定は、頭が悪いな。。。

151日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:29:33.03
>>143
>南の狗奴国の位置が決まれば、北の邪馬台国の位置が決まる。

狗奴国が熊本平野か川内平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。

すると、もう一つの謎である継体の正体(狗奴国王卑弥弓呼(「越」王家の子孫)末裔、八代淡海→北陸「越」近江出身と歪曲)も判明。
古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政に降伏、卑弥呼に服従)、投馬国に奥津城(大和)を造らせる。
崇神朝=4世紀(前期古墳)狗奴国系(台与死後「男弟」子孫に入婿、阿蘇遷都)
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、筑紫遷都)
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺、筑紫君と史実歪曲→阿蘇遷都→倭王阿毎多利思比孤)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威→欽明、蘇我稲目と共に大和奥津城(王家の谷)東遷、飛鳥疎開宮造営=神武東征)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争がすべて大和で起こっていたように史実歪曲。
桓武朝=9世紀(平安時代)

152日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:29:52.33
可能性無いと放置されるんだな。

読売新聞YOL 21.11.2018
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

TBSでも九州説の方が筋が通ってたし。

153日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:34:51.10
プロ固定を解雇し、カエルの着ぐるみを作製して、町おこしをした方が良いな。。。

154日本@名無史さん2019/05/29(水) 13:39:51.80
>>151
まとめると、

九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(狗奴国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…投馬国(出雲&吉備の大物主)派遣、大和に奥津城造営→→→→→→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

継体の第3皇子欽明の大和に分家されたのを「神武東征」として時代を遡って、奥津城に過ぎなかった大和朝廷(ヤマト王権)が存在したかのように脚色したのである。
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(狗奴国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…投馬国(出雲&吉備の大物主)派遣、大和に奥津城造営→→→→→→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

継体の第3皇子欽明の大和に分家されたのを「神武東征」として時代を遡って、(奥津城に過ぎなかった大和盆地に)大和朝廷(ヤマト王権)が存在したかのように脚色したのである。
古代から現代まで一貫して九州王朝の九州本家と大和分家(欽明朝でヤマト王権が成立→中世へ)が倭王(天皇)家なのである。

155日本@名無史さん2019/05/29(水) 14:35:44.36
TBSというのはチョンBS?というところでしょ

156日本@名無史さん2019/05/29(水) 14:36:03.21
天武は天皇家が九州の出自であるとしたかった。
・魏志倭人伝を読んで九州が元祖だとわかったし
・九州勢力に裏切られると半島進出の妨げになるし(実際なった)

しかしながら、自分たちがなぜ大和にいるのか意味が分からなかったので
東征説で辻褄を合わせた。
意外とシンプルな話だったわけよ。

157日本@名無史さん2019/05/29(水) 14:37:48.72
チョン=朝鮮という意味みたいなんだけどw

158日本@名無史さん2019/05/29(水) 14:45:08.85
>>157
chosen
頭文字は「C」だろバカ

159日本@名無史さん2019/05/29(水) 15:06:15.43
通称『チョンBS』

なぜなのか知らないけど、そう言われているでしょ

160日本@名無史さん2019/05/29(水) 15:08:44.91
チョンBS・・・、
その他も同じようなものなんだけど、なぜだと思う?

161日本@名無史さん2019/05/29(水) 15:36:07.21
>>152
>TBSでも九州説の方が筋が通ってたし。

どう「筋が通ってた」のか
説明できないんでしょ?
いつもそう

162日本@名無史さん2019/05/29(水) 15:54:13.00
>>161
お前の妄想と比べりゃ他説はみんな筋が通ってるなw

163日本@名無史さん2019/05/29(水) 16:13:56.26
中国学者からみた邪馬台国の場所2 詳細編
https://lunabura.exblog.jp/30274921/

これ読んでもわかったが、結局は先入観だけで九州ということなんだろう
先入観を正当化するため、文献の一部を切り取り根拠にしてる
一方、矛盾点はいろんな口実をつけて切り捨てる
致命的なのは、日本史の知識、日本の考古知識がないから矛盾だらけ、間違いだらけ
ヤマトの地名をこじつけたいからなのか分からんが、邪馬台国は東遷した
と最後に言ってしまったのは無知を晒したようなもの

164日本@名無史さん2019/05/29(水) 16:26:41.81
>>163
畿内説涙の反論
くやしいのぉ〜〜〜w

165日本@名無史さん2019/05/29(水) 16:38:42.12
>>162
ほら、まったく説明できない

九州説は、いつもこうだ
中身がない

166日本@名無史さん2019/05/29(水) 16:58:26.21
>>164
専門外の中国人学者が乏しい知識でデタラメ語ってしまったのに、なんで悔しいと思うの?

167日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:08:40.56
>>166
そもそも考古学という閉鎖的な専門分野がある事日本が疑問視されてたのによw
内部統制が行き届かない状況下で出される結論なんか世界では何の意味も持たないんだよwww

168日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:26:39.09
>>88
>妻国や末盧国は港があったんだよ。
>陸行一月かかる場所は国内にはない。
>陸行一日の誤りであり、帯方郡から水行10日の九州北部が邪馬台国。

戸数七万戸の大国なのに、一日で行ける港・船着場が自国じゃないなんてことはないだろ?ww
その理論だと邪馬台国にも港があるから、陸行1日は書かれないw

169日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:26:40.20
>>167
中国にも考古学はあるけどw

170日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:30:09.16
>>117
>畿内説には新参も寄り付かないという事例かw

日本語で会話、討論のできるやつは、結局は畿内説で納得して来なくなるんだよ
ここにいる畿内説ではない人たちは、全員まともに日本語で議論ができず
会話が成立しない連中ばかりだ

171日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:30:13.19
>>167
考古学が閉鎖的な専門分野だと決めつける根拠は?
一体だれから日本が疑問視されてると?
証拠は?

172日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:35:04.98
内部統制の意味が通じてないのかwww
畿内説に会計やらしたら架空取引やり放題だなwww

173日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:35:08.34
畿内考古ムラ

174日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:51:05.60
463>>89
>>「神獣鏡」自体が、魏の敵国の呉系の鏡であるから、
明帝の下賜鏡には選択されない鏡であり、<

>これが根本的なカンチガイ というか妄想
魏は、呉とか蜀とかの国の存在自体を認めてない
大魏は中国全体を覆う帝国であって他の国は存在しない、というのが建前
だから盗賊が不法占拠してる南部の特産品も魏の物産なのだ
「敵国の呉系の鏡」などということ自体が国是に反する危険思想になる<

そんな理屈だけでは、洛陽付近に「呉系の神獣鏡が出土しない」、
という実態の説明が付かない。

175日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:53:54.23
魏は混乱の最中に本当に鏡を発送出来たのだろうか?
帯方郡の辺りに金印やら一式埋まってるんじゃね?

176日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:54:00.44
463>>90
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
都合悪いものから目をそむける大和説者は、脳ナシ。

177日本@名無史さん2019/05/29(水) 17:56:52.24
内部統制って、神の手の温床だろ。

178日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:02:01.00
>>161
BS見て無いだろ
それともTV無いのか

179日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:02:22.40
>>167
あの番組でそんなこと誰も言ってないが
何でもいいから論点ずらしてイチャモンつけただけ?

180日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:05:11.99
まあ大手の東芝でもやってたぐらいだからなw
畿内説では神の手が標準化されとるかもしれんwww

181日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:07:59.32
>>165
>>161
BS見て無いだろ
それともTV無いのか

筋が通ってたのは、中国の史書である倭人伝の中国人学者ならではの見解
また、当時の中国の有り体も的を得ていた

反論したかったからTBSから録画手に入れろよww

182日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:14:22.46
>>181
諸説を語ってくれたよな、諸説を

183日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:15:28.51
>>181
だから、どう「筋が通ってた」の?
「的を得ていた」と評価する理由は?

内容のある説明が何もできないの?
九州説はこれだから・・・

184日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:23:30.66
>>183
ええっ?
見てもいないのか?
とりあえず見ろよw

185日本@名無史さん2019/05/29(水) 18:46:50.70
>>184
おいおい
「筋が通ってた」「的を得ていた」
ってのはアンタの判断だろ
アンタがそう評価した理由を聞いてるんだが

まったく答えられないのか?

186日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:00:54.33
463>>101
「南≠東」などの指摘に反論がまったく出来ず、悪口を言うだけの大和説が、
女王國や倭國論争に敗れ去ったことは
もはや確定的に明らか

187日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:05:02.32
463>>107の訂正
「南→東」などの嘘付き騙しに関して、
なんの裏付けも取らず
都合の悪い史料事実を「何でも間違いだ」で済まそうとするから
大和説は、妄想と先入観の、非学問に堕ちた

188日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:07:00.39
463>>108
>朝鮮半島は無人だったが特徴的な土器があるそうだね、、、櫛目文土器という、、、
どうしてその櫛目文土器が熊本から出てくるのだろうか、、、 <

ふーん。

189日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:07:30.38
>>185

主観的感想に理由がいるのか?
頭おかしい?

190日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:35:21.59
>>178
あの番組で、短里があるなんて考えている人は一人もいなかったね!

191日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:36:23.71
>>178
つまり、短里で萬二千里がちょうど北九州になる、というのは中国の人だったら
決して思いつきもしないでたらめだってことだ

192日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:37:31.30
>>190
そもそも距離を信じるな!とか言ってたしw

193日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:40:01.45
>>181
>また、当時の中国の有り体も的を得ていた

本当に、九州説の人間は日本語がまともに使えないなww

言いたいことは「当時の中国のあり様」もしくは「当時の中国の様相」くらいかな?

「有り体」という言葉はもともとは「ありのまま」くらいの意味で、現代日本語では
「有り体に言えば」という慣用句以外では使わないぞww

教えてもらって、少し賢くなったなw
でも、九州説の連中は謝れないし、自分の間違いを認めないから、言うだけ無駄かな?ww

194日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:42:20.33
>>181
>また、当時の中国の有り体も的を得ていた

本当に、九州説の人間は日本語がまともに使えないなww

的を「得て」どうする?ww
的は「射る」ものだぞww

「的を得る 」だと、どこかから「的を入手」してくることになる
まあ、この間違いをする人は結構多いけどなww

教えてもらって、少し賢くなったなw
でも、九州説の連中は謝れないし、自分の間違いを認めないから、言うだけ無駄かな?ww

195日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:44:48.53
>>189
>主観的感想に理由がいるのか?
>頭おかしい?

>>189の言っていることは「感想」ではなく、「判断」だろ?

「筋が通ってた」「的を射ていた」 っていうのは単なる感想じゃないし、
判断には根拠、理由が伴うものだ

自分なりの理由でいいから、説明してみそ?w

196日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:47:28.72
また、論破すれば、良いのではないのかな、、

197日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:49:24.66
畿内説を論破(ロンパ)ールーム!

198日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:50:28.61
この意見を発表した人物は、邪馬台国畿内説の宣伝係員なのだろうか、、、
それとも、九州論の学者なのだろうか、、、

195日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:44:48.53
>>189
>主観的感想に理由がいるのか?
>頭おかしい?

>>189の言っていることは「感想」ではなく、「判断」だろ?

「筋が通ってた」「的を射ていた」 っていうのは単なる感想じゃないし、
判断には根拠、理由が伴うものだ

自分なりの理由でいいから、説明してみそ?w

199日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:53:00.86
>>198
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定の意見だと、はっきりとしている意見を論破した方が良いのではないのかな、、、

200日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:57:03.83
これは、日本語を熱心に勉強する必要性が高い者には、何者が多いのかという問題と関係があるな、、、

193日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:40:01.45
>>181
>また、当時の中国の有り体も的を得ていた

本当に、九州説の人間は日本語がまともに使えないなww

言いたいことは「当時の中国のあり様」もしくは「当時の中国の様相」くらいかな?

「有り体」という言葉はもともとは「ありのまま」くらいの意味で、現代日本語では
「有り体に言えば」という慣用句以外では使わないぞww

教えてもらって、少し賢くなったなw
でも、九州説の連中は謝れないし、自分の間違いを認めないから、言うだけ無駄かな?ww

201日本@名無史さん2019/05/29(水) 19:57:16.54
邪馬台国所在地論争にばかりスポットライトが当たるが、その陰に隠れた本質がこちら↓

台与以降の古墳時代(4世紀崇神朝・5世紀応神朝・6世紀継体朝)に関して、

畿内説…記紀を鵜呑みにする「皇国史観 」
九州説…記紀を疑い、中国文献(梁書・隋書・唐恕)と相互補正する「真実史観」

202日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:01:45.98
あの時代に遠すぎんだろ?近畿じゃあ、土人だぞ、新天地求めてってのと訳が違う。北九州だって遠い位だよ。

203日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:02:17.35
あまり、論破しがいのある意見の発表がないな。。

204日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:04:29.99
>>203
まさにそれな。
畿内説ってつまんね。

205日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:13:50.25
>>201
>台与以降の古墳時代(4世紀崇神朝・5世紀応神朝・6世紀継体朝)に関して、
>畿内説…記紀を鵜呑みにする「皇国史観 」

畿内説の人間がそんな主張をしてるかどうか
現実を見れば明らかだろうに

例えばテンプレを見ろ
崇神朝・応神朝・継体朝なんて言葉すら使ってない


九州説はマトモな反論ができず
ただ脳内キナイセツと戯れてるってことがわかる

206日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:17:14.20
463>>111
>芦北国造の日羅になぜ敏達天皇は相談したのだろうか、、<

ふーん。

207日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:22:01.80
このスレのバイアスだらけのテンプレなんか誰も読んでないよw

狗奴国はどこだ?w

208日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:22:21.85
でも昔から大和が列島の盟主だったと主張してあるよね。

209日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:23:03.19
まずはクソ天ぷらを直せ。
話はそれからだ。
いいな、キナイコシ!

210日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:24:49.80
463>>142
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
「共立女王國=倭國」論争で完全に敗退してしまったから、
こうやってイヤガラセの荒らしで憂さ晴らしするしか無いんだろうけど
度が過ぎるね

211日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:31:10.79
>>207
バイアスをバイアスだと知らないからw
畿内脳だと、偏見による見解=推論=事実w

212日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:31:56.10
>>209
>まずはクソ天ぷらを直せ。
>話はそれからだ。
>いいな、キナイコシ!

本当にここのテンプレが憎くてしょうがないんだねww

まあ、そりゃそうか、九州説の「ぐぬぬ」の歴史がそのまま記録されてるんだからww
そして、素人さんが読めばそれだけで九州説がオワコンって分かる仕組みになってるw

きちんと筋の通った指摘をすれば、スレ立てごとに修正してくれるよ
私も何ヶ所か修正してもらってるし

きちんと根拠を揃えて主張すればいいんだよ

ただ、九州説は絶望的にそれができないんだよな
まあ、脳内妄想ばかりだからしょうがないんだが

213日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:33:26.35
>>211
>バイアスをバイアスだと知らないからw
>畿内脳だと、偏見による見解=推論=事実w

だから、どこがバイアスなのか、誰でも客観的に確認できるソースや根拠をつけて
「具体的に指摘」すればいいんだよ

どこが偏見による見解なのか、とか、きちんと理由や根拠、ソースをつけて論じてごらん?

214日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:36:16.74
バイアスの中にいると、そのことに気づけない。
指摘されても、かえって相手にバイアスがかかっていると思い込む。

215:おーーいスレ主2019/05/29(水) 20:39:49.24
>>183
>>193

オマイラ 駄目だ

BS見てないら、投稿するなよ
BS見てたら、Bs引用してる奴に

BSの、間違い指摘すればいいのに

216御都合主義のオクムラ貼り付けじゃ2019/05/29(水) 20:43:46.48
俺 何度も奥山君=>>1に質問してるのだけど

未だ回答無いのです
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
瀬戸内航路で
「投馬国から、水行10日で到着した地の比定地は?」
「そこから纏向まで陸行1月のルートは?」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

宜しくお願いします

217日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:43:55.62
>>213
>>1だけでも吐き気するぐらいバイアスの塊だw
以下に正しい表現の例を示しておくよw

「同定できる」→「言えるのではなかろうか」
「言える」→「思われる」
「である」→「であったかのうように見える」

218日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:45:02.21
463>>176
史料なんかまともに読んでない、
史料を読んでも、「都合の悪い史料は否定曲解する、
なんの常識や知識もない、

だから大和説なんでしょ

219日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:47:53.86
463>>177
まあそうなんだけどさ
しかし、大和説者は、反論する価値もないような「口先騙しの書き込み」を、
延々とすることで、九州説者の議論を止める、
っていうのが目的なのかねぇ

220>>1 他の趣味は?趣味としては低レベル2019/05/29(水) 20:52:26.38
>>1

むなしくないか

畿内説 うんぬんもいいけど

24時間張り付いて、喜怒哀楽もいいけど



どうでもいいけど・・・」

221日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:53:26.09
463>>178
>ザラゴキ風に言えば、唐會要はあっても唐会要なんてない、
倭國傳はあっても倭國伝なんてないってことにしかならないんだがなww
邪馬「台」国がないって言うなら、全部繁体字で書けよww<

嫌だ。
「會」と「会」は、繁体字であり、「同字」だ。
しかし、「台」は、「壹」や「臺」とは「異字」だ。

222日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:53:59.63
俺 何度も奥山君=>>1に質問してるのだけど

未だ回答無いのです
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
瀬戸内航路で
「投馬国から、水行10日で到着した地の比定地は?」
「そこから纏向まで陸行1月のルートは?」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

宜しくお願いします

223日本@名無史さん2019/05/29(水) 20:58:19.19
463>>185
「南→東」や「壹→台」などの史料事実の否定曲解をする、
嘘つき騙しの大和説は、
結局は、無知な・・・・アホ詐欺師だなあ

224日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:05:03.03
本日も発狂中
215 216 220 222

225日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:09:40.12
463>>206
>>纏向はそれなりに大きい都市だったことは誰も否定していない <

>「それなりに大きい」じゃなくて、3世紀で倭国最大だよ<

ダメだ。
弥生銀座が最大だし、纏向は住居が全く少ないし、庄内も3世紀末以後だ。

>>しかしここからは九州由来の土器はあまり出てこない<

>出てること自体は認められるようになったんだ 進歩したじゃん<

筑紫の土器は0個だから、×だ。

>>九州との交流があまりなかったことは明らか <

>逆方向は九州の地場の土器がなくなるほど太いけれど<

ダメだ。
大和の庄内は3世紀末であるし、
筑紫の庄内は3世紀前半であるし、筑紫在地の胎土での製作だ。

226日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:14:22.94
俺 何度も奥山君=>>1に質問してるのだけど

未だ回答無いのです
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
瀬戸内航路で
「投馬国から、水行10日で到着した地の比定地は?」
「そこから纏向まで陸行1月のルートは?」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

宜しくお願いします

227日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:14:45.26
俺 何度も奥山君=>>1に質問してるのだけど

未だ回答無いのです
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
瀬戸内航路で
「投馬国から、水行10日で到着した地の比定地は?」
「そこから纏向まで陸行1月のルートは?」
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

宜しくお願いします

228日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:20:09.49
発狂継続中
226 227

229日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:20:24.50
215:おーーいスレ主2019/05/29(水) 20:39:49.24
>>183
>>193

オマイラ 駄目だ

BS見てないら、投稿するなよ
BS見てたら、Bs引用してる奴に
BSの、間違い指摘すればいいのに




ごもっとも

230日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:27:40.43
>>231
.魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。・・・<

「邪馬台国」も「大和朝廷」も存在もしなかった嘘つき騙し文言かったであるから、×。

231日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:38:38.48
>>214
>バイアスの中にいると、そのことに気づけない。
>指摘されても、かえって相手にバイアスがかかっていると思い込む。

そういうこともあるかもしれないね

だからまず、「どこがどうバイアスなのか」「具体的な根拠を添えて」指摘してくれって
何度も何度も言ってるのにww

きっと九州説は「具体的な根拠を付けたら死んじゃう病」なんだろ?wwwww

232日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:44:14.19
>>278
「南→東」などの嘘付き騙しに関する議論に勝てない大和説は
荒らし行為を働くのみ

233日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:45:28.34
キナイコシの辞書はブリタニカだったのか
道理でつじつまが合わないはずだ
日本語読解がおかしいのも当然だな

234日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:50:57.39
>>227
つか、テンプレに書いてあるだろソレ

235日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:53:38.62
>>282
>日本の現代の文書に「ホケノ山古墳の石槨」と書いてある
ってのが、ホケノ山古墳に「槨」があることの根拠だー
って主張が 論理的に論破されてるよね なんか問題ある?<

魏使らや陳寿は、倭國の墓は「有棺無槨」だと記録したんだから、
魏使や陳寿は、「槨」という文言にはある一定の「定義や意味」を持っていた、
という事であり、だから、
その定義や意味をはっきりさせなければ、幾ら「ホケノは槨ではない」と叫んでも、
全く無駄で無意味だ、という事だ。

236日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:57:34.26
>>221
>嫌だ。

バカですか?ww

>「會」と「会」は、繁体字であり、「同字」だ。

正しくは「會」が正字、繁体字で、「会」がその新字体だな
もちろん同じ字の異体字という関係になる

>しかし、「台」は、「壹」や「臺」とは「異字」だ。

これがデタラメ
「台」は「壹」とは別の字だが、
「臺」が正字、繁体字で、「台」がその新字体で同じ文字の異体字になる
グーグル翻訳で中国語(繁体字)に「臺」って入れて、中国語(簡体字)に変換してごらん?
中国人にとっても同じ文字だって分かるだろ?

237日本@名無史さん2019/05/29(水) 21:58:32.69
>>232
爺さんの毎日やってる
理由も言わない「嘘付き騙し」連呼とかが

荒らし行為の典型じゃないのる?

238日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:03:03.07
>>235
>魏使や陳寿は、「槨」という文言にはある一定の「定義や意味」を持っていた、

だから、
その定義や意味をはっきりさせられない九州説が
いくら「ホケノには槨がある」と叫んでも
ダメなんでしょ?

古墳の年代引き下げに使えないんでしょ?

239日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:04:12.89
驚くべき情報を見つけてしまったな、、、
息長氏が女系であることはわかっていたが、鬼界カルデラの噴火で、大陸や満州に移り住んだ後日本に戻って来たとは、、、

240日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:08:19.91
縄文人を率いてシュメール文明を築いたという、、、

241日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:08:23.05
>>233
その前に縄文時代は日本の歴史じゃないとかいう「バイアス」を正すところから始めたらどうだ?

「人間および人間が属する自然の諸現象で過去に生起した事実,
 またそれらの事実に関する調査と記述をいう。」

史書に書いてあることだけが歴史じゃないぞ?ww
文献史学だけが歴史だ、なんてことはないんだからw

まあ、九州には3世紀の大王墓も女王の都も七万戸の国も、考古学的根拠が何一つないから
魏志倭人伝の行程パズルを捏ね回す以外にやることがないってことなんだろうけどさ

佐賀川上バカとか、呼子上陸バカとか、吉井信号バカとか、
結論ありきの逆算で現実の方を古文献に合わせようとするなんて、本末転倒もいいとこ

242日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:09:39.48
周王朝の後裔、呉の太白の後というのも真実らしい、、、

243日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:12:05.26
九州説はガセネタの宝庫

244日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:12:48.38
>>241
全くその

245日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:14:23.49
>>217
>バイアスの塊だw

ああ、ここまで頭が悪かったのか(呆れ)
それ、単なる表現の枝葉!

根拠の中身には一切文句はない、というか反論一つできないんだな?

246日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:15:10.32
文字記録と口碑口承が歴史だよ?
遺物を分析するのは人類学であって歴史学じゃないね

キナイコシは高校もまともに出てないのか

247日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:17:48.25
扶余族から満州へ、女真族につながるのも息長氏の一門という、、、驚かないわけにはいかないな、、、

248日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:18:26.72
>>246
>遺物を分析するのは人類学であって歴史学じゃないね

遺物を分析するのは考古学
歴史学の一分野

249日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:19:53.42
>>241
通り。

250日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:24:23.54
畿内説とそれ以外有象無象の間には
根拠を出す気があるか無いかという
越えられない壁があるな

251日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:25:05.49
大柄で力強いという白人アーリア人の原形が伝わっているという、、、
山東半島に白人形質の人骨があったのはそう言うことか、、、

永久歯が36本なのは古形だという、、、
三女神の交差又従兄弟姉妹婚で父系に新しい血を入れて行くのか、、、

252日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:25:44.22
>>285
>>明帝の詔書や金印を奉じて卑弥呼に拜假出来るのは、
>当然(郡役人ではなく)魏使らである。

皇帝や宮廷の使いが、東夷のヒトモドキ倭人に直々に目通りすることはないといったであろう。
金印紫綬は封をしていったん帯方太守に(仮に)授け、
しかる後に、帯方郡太守の使いである郡役人が倭国に渡り、倭王に会った(会って授けた)、と書かれているではないか。
ま、当時も今も、畿内に文盲は少なくない(なかった)から、倭人伝を読みこなせないのは無理ないか・・)
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬・・・、
(中略)
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王・・・ <

スレ主らは、相変わらず・・・・アホ詐欺師だなあ。
郡役人は当然、始めから魏の役人であり、
明帝が帶方太守に「假綬」させる、と言ったという事も、
太守が魏の役人であるから命じたのであり、
だから「太守弓遵 遣建中校尉梯儁」の梯儁も、魏の役人だ。

253日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:27:23.74
>>207
>このスレのバイアスだらけのテンプレなんか誰も読んでないよw

読まれたら、あんたがウソついてるのバレちゃうよね

254日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:28:46.74
シュメールの暴風神
牛信仰は大陸に流れて牛頭天王に習合したと言う、、、

兵主神は息長氏の奉斎神だったのか、、、

255日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:33:22.69
誰も読まないテンプレを上げるより、天ぷらを揚げていたほうが良いのでは、ないのかな?

256日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:34:05.59
賛成ノ

257日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:37:55.36
>>301
>>>(槨)遺体や棺を容るるに足る程度の大きさの、
木枠を中心とした小部屋的な構造物があるから。<

>それっぽっちの流行で槨と呼べると思う理由は? 墓室と区別つかないでしょ<

「墓室」は、明確に「居住性のある部屋」を意味するが、
「槨」は、遺体や棺を容るるに足る程度の空間で、
居住不可能な小部屋程度の大きさを意味するから、この男も、×。

258日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:39:13.53
水銀朱を求めて列島をくまなく探査したという、、、ワカヒルメ丹生都姫の系、、、

香春岳の大目の系、、、
大目ではなく大日が事実のようだな、、、

敦賀にもいたと、、、蘇我氏の母系が今まで不明だったが、息長氏だったとは、、、

宗像三女神は出雲王家の出と思われていたが、出雲王統も父系であって、息長氏が母系なのは変わらないと言うことか、、、

気長と天日も同じ音の音写とはどういうことだろうか、、、

259日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:40:25.73
ダッチワイフ的な木製仮面を被った畿内説が揚げるのはカエルの天ぷら一択だから、誰も食べようとしないのでは、ないのかな?

260日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:41:41.06
>>303
>>ヤマトという地名は九州の方が多いんだから墓穴掘りにしかならんぞw<

>九州のヤマトは全部小さな地名じゃないかw
七萬戸の国のヤマトは九州にはない それだけのこと<

7万戸であるのは「邪馬壹國」であって、
「ヤマト」でも「大和」でもない。
それだけの事。

261日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:42:46.37
「有棺無槨」の意味は「追葬はできない」ということなのでは、ないのかな?

262日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:43:55.91
3世紀の鉄は半島で調達していた

■魏志韓伝より
國出鐵韓?倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡
「国には鉄が出て、韓、?、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」

3世紀の畿内に鉄が無いのは、
・自ら取りに行ってないから
・九州に分けてもらえなかったから

北部九州と畿内は疎縁だったという事だな。

263日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:45:25.06
沖縄方言ではキはチになるという、、、

チヌカ、が近いなら都怒我阿羅斯等も息長氏と言うわけだ、、、

息長氏は宇土半島に領地があったらしいが、
宇土半島には女性が埋葬された古墳があるのだな、、、
平原王墓も女性とみられているのはその時代から息長氏がいたと言うことか、、、
高麗のオロサンから来た日矛とは息長氏の移住を意味すると言う、、、

264日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:50:21.39
>>318
>>いや「余」の有無に拠っての書き分けがあるから、<

>じゃあ、
一大國 方可三百里
東南陸行五百里、到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
は「余」がないから実測値ではないと区別できるんだなww<

「書き分け」だと言っており、
だから、魏使らの記録自体が「余」がない記録であった、という例なの。

265日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:51:39.11
倭人は長江下流域に雑多な多民族集団だったという、、、
倭も越もあまり発音は変わらないらしい、、、

266日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:56:48.84
太陽崇拝の巫女族だという、、、
シンボルは有翼日輪でアッシュール神などオリエントに十六菊花紋が残るのは息長氏のものだと言う、、、
日の丸は有翼日輪から翼を除いたものというわけだ、、、

壮大過ぎて理解が追いつかないな、、、

267日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:56:52.65
>>321
>>(大和説は大和の)土器の編年全体が前倒ししすぎているんだろうね。<

>どっから突然その結論でてくるわけ? 前の行と論理つながって無いよね
九州説という名の欲望?<

何度も書いた事。
筑紫の庄内は、3世紀前半。
大和の庄内1の撥型前方後円墳の石塚は、3世紀末であり、
大和説者は、それを筑紫の3世紀前半に持って行こうとしているから、
「前倒しのインチキ」をしている事になる。

268日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:58:40.47
>>267
>何度も書いた事。
>筑紫の庄内は、3世紀前半。

畿内のもなー

269日本@名無史さん2019/05/29(水) 22:58:51.09
ひょっとすると
ヘロドトスの言うアマゾネス族は息長氏と言うことなのではないだろうか、、、?
息長氏の女性は胸が大きく
アマゾネス族も弓を引くのに邪魔な乳房を切る風習があったと言う、、、

270日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:04:02.14
>>327
>槨は棺を納める空間を作る構造をいう
追葬の棺を入れられるように人が出入りできる空間が必要
棺を封じ込める合掌型竪穴式石槨と呼ばれる構造は槨じゃないんだよ <

ホケノは、
「追葬の棺を入れられるように人が出入りできる空間」という形にも、
なっていないだろ?。

271日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:09:14.18
>>331
>穴は棺を埋めるときには必ず掘るので単に穴と思われたなら槨無しという表現になるけれど<

槨は、遺体や棺を容るに足るような、
居住性のない小部屋的は構造物の事。

272日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:11:45.37
スサノオとアマテラスの婚姻に象徴される王統の創出は、伝えられる通りという、、、

継体天皇の擁立も息長氏の後ろ盾であるが、
皇統の混乱が見られるのは
馬子とされる人物は実在せず彦人大兄の仮託だという、、、

馬子の実績は全て彦人大兄のもの、、、
通りで蘇我物部戦争で呪われた相手に馬子の名前が出ず彦人大兄になっていたわけだ、、、

273日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:12:03.18
>>271
希望的観測をそれらしく語るなw
お前のお家の「想像」w

274日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:12:50.86
>>248
歴史学の一部にすぎない。

275日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:13:36.16
レス先間違えたw

>穴は棺を埋めるときには必ず掘るので単に穴と思われたなら槨無しという表現になるけれど

希望的観測をそれらしく語るなw
お前のお家の「想像」w

276日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:13:44.68
>>336
>何だ ホケノ山古墳は棺あって槨なしだったのか 卑弥呼の墓?<

何だ?
ホケノ山古墳は棺あって槨有だったのか
卑弥呼の墓は×?

277日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:14:44.39
孔子も一族、、、?

278日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:16:01.24
>>338
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
「ホケノ→槨無し」の捏造も、好きだな

279日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:16:14.42
>>248
考古学は人類学の一部だぞ。歴史学も人類学の一部さ。

280日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:21:12.37
>>340
七万戸の国に相当する邪馬壹國がなく、
小戸数しかない纏向は、
地名の点でも戸数の点でも、致命傷だな。

281日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:22:06.08
宇佐氏が建てたのは宇佐神宮で間違いないが
宇佐神宮の元宮は息長氏のもの、、、

宇佐氏は神別から皇別に移っているから
息長氏出の父系と宇佐氏の母系である皇別と
元どおりの神別宇佐氏はそのまま続いていたということかもしれぬ、、、

282日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:38:44.05
>>280
また馬鹿がいた

283日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:40:59.41
ともあれ
冶金技術と列島の鉱脈を抑えた息長氏は
伊都を拠点に、徐々に移遷しヤマトに落ち着いたという、、、
これは丹生都姫信仰の拠点からもわかる、、、

水銀朱のメッキ技術や
茅の輪くぐりの天然痘厄払いなど
単に冶金技術に限らない医療技術への転用によっても盤石になる、、、漢方もその一端という、、、

雑賀衆信長秀吉の後援勢力で、
現代に至るも隠然とした勢力を保ち、

全地球規模の奥の院というわけだ、、、

284日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:42:28.21
賢者の石とは水銀のことだったと、、、?!

285日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:45:50.28
鮮卑も後援したのか?

則天武后も?則天武后は?

天武朝が断絶したのは、息長氏の意向に反したから?

桓武天皇が焚書したのは馬子の存在が許せなかった?

286日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:51:59.68
巫覡の技術が高句麗由来は膾炙された事実であるが、
大陸にあった時より老子以来の道教も
宗教の皮を被った為政技術として発展して来たと、、、

列島への移住が古墳時代の到来と、、、

287日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:53:22.21
アメリカでは考古学の研究対象が自分たちの直接の祖先ではないとの認識から人類学に分類される
ヨーロッパや東アジアでは考古学の研究対象が自分たちの祖先であるとの認識から歴史学に分類される

288日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:54:21.65
何だよ、この香ばしい流れは?

289日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:57:06.68
紀氏も大王だった、、、

東海姫國とは貴国であり、紀氏であると、、、

半島への将軍として紀氏が派遣される所以、、、

290日本@名無史さん2019/05/29(水) 23:58:06.87
連句点使用者水増しのための別キャラ

291日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:11:17.53
>>246
>文字記録と口碑口承が歴史だよ?
>遺物を分析するのは人類学であって歴史学じゃないね

また勝手な自分定義でごまかそうとしてるww
歴史と歴史学とは意味内容が一致しないのは理解できるか?

>キナイコシは高校もまともに出てないのか

高校の日本史教科書の目次
「第T部 原始・古代
 第1章 日本文化のあけぼの
 1.文化の始まり
  日本列島と日本人/旧石器時代人の生活/縄文文化の成立/縄文人の生活と信仰
 2.農耕社会の成立
  弥生文化の成立/弥生人の生活/小国の分立/邪馬台国連合
 3.古墳とヤマト政権
  古墳の出現とヤマト政権/前期・中期の古墳/東アジア諸国との交渉/大陸文化の受容/
  古墳文化の変化/古墳時代の人びとの生活/古墳の終末/ヤマト政権と政治制度」

学習指導要領
「A 原始・古代の日本と東アジア
 (1) 黎明期の日本列島と歴史的環境
  諸資料を活用し,課題を追究したり解決したりする活動を通して,次の
  事項を身に付けることができるよう指導する。
  ア 次のような知識を身に付けること。
   (ア) 旧石器文化から縄文文化への変化,弥生文化の成立などを基に,黎
    明期の日本列島の歴史的環境と文化の形成,原始社会の特色を理解す
    ること。」

高校日本史で、先史時代から教えてるよ?
やっぱり>>246は日本の学校教育を受けていない人でしょ?

292日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:15:21.90
>>264
>「書き分け」だと言っており、
>だから、魏使らの記録自体が「余」がない記録であった、という例なの。

そのザラゴキの言い分が正しいなら、
陳寿は魏使らの記録自体を後の判断で改変していることになるから、
魏志倭人伝は半分×書で信頼できないってことだなww

293日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:16:01.34
息長氏は意味を一字一音で表記し、
意味の違いは母音の和音で表現したという、、、
中国語の言語思想がすでにあるのだが、、、

母音を和音にすると発音するのに特殊な訓練が必要で、聞き取る方も聞き分けるために訓練が必要という、、、

四声はイントネーションでの近似ということだな、、、
神の声を聞く審神者が必要なわけだ、、、

294日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:17:09.30
>>291

山川の教科書は炎上中w

山川出版社は「詳説日本史」「新日本史」「高校日本史」で各々、
「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで働かせた」、「多数の朝鮮人や占領地域の中国人を、
日本に強制連行して鉱山などで働かせた」、「朝鮮人や占領下の中国人も
日本に連行されて労働を強制された」としている。

295日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:17:34.62
>>270
>ホケノは、
>「追葬の棺を入れられるように人が出入りできる空間」という形にも、
>なっていないだろ?。

そうだよ!
ザラゴキにしてはよく理解できたな!
エラいぞ!

つまり、ホケノ山古墳の第一埋葬主体の構造は「槨ではない」んだよ

296日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:19:48.92
>>274
>歴史学の一部にすぎない。

歴史学の一部なら、歴史ではないなどというのは大間違いということでよろしいな?w

297日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:21:36.81
>>279
>歴史学も人類学の一部さ。

人類学というのが、ゆるすぎ

歴史学は人文科学の一分野、でよい

298日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:24:50.10
>>294
話をそらそうと必死だなw

日本の学校教育では先史時代も歴史として扱ってるんだよ
日本社会では常識

299日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:25:01.18
>>291
とことん、的外れな人だねキナイコシ
今問題になってるのは歴史の意味だよ
学習指導要領出してきて、何か反論したつもりかい?

高校ではちゃんと国語辞典や漢字辞典を使ったのか?

まあ使ってても使ってなくても
普通の先生にも恵まれなかったのはわかる

300日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:32:53.38
先史時代…その社会のことを記録した史料のない時代
原史時代…その社会には史料がないが、隣接する社会の史料に記録がある時代
歴史時代…その社会に史料がある時代

301日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:42:32.86
いや、言葉の定義には広義のものと狭義のものがあるのは理解できてるか?
>>299はその中で自分に都合のいいところだけ示してごまかそうとしているだけ

こんなところまで、九州説の人間はチェリーピッキング体質w

九州説はとことん考古学を排除しないと都合が悪いんだねww

それとやっぱり>>299は日本の学習指導要領に沿った教育を受けてないんだろ?
いわゆる一条校じゃないから高校無償化の対象外のところに通ってたんでしょ?

302日本@名無史さん2019/05/30(木) 00:58:50.35
>>301
キナイコシが無能なことがよくわかるね

言葉の定義に広義と狭義がある?

言葉の用法に広義と狭義があるんだよ

ことほど左様に知ったかぶりで厚顔無恥なのは究極だな

303日本@名無史さん2019/05/30(木) 01:39:39.00
自分は頭が良いと勘違いしてる連続句読点の素の人格
しかしその日本語は別キャラたちと同じでなんか変

304日本@名無史さん2019/05/30(木) 04:14:12.29
>>302
かように九州説は日本語に不慣れである

305日本@名無史さん2019/05/30(木) 04:49:24.09
>>304
あんたが、日本語に精通してないだけだと思うよ
俺は彼の投稿 たやすく理解できるヨww

306日本@名無史さん2019/05/30(木) 05:17:07.25
>>305
証拠は?

307日本@名無史さん2019/05/30(木) 05:30:50.14
>>346
>>三世紀の奈良が七萬戸の国だったという証拠は?<

>七萬戸が実数である必要はないが、<

いや、魏使らの「実際の見聞や計測」での有効数字1桁程度の近似数値。

>畿内第V様式土器の範囲は、<

米田によって、河内や播磨は、大和とは「別国」的であったから、×。

>奴国二萬戸より数倍以上の広がり、繁栄が確認できるから十分<

勿論「南≠東」などに拠っても、スレ主らは、×。

308日本@名無史さん2019/05/30(木) 05:43:22.84
>>350
>お前、バカだろww
現代日本の考古学用語としての槨であって、
3世紀中国語でいう槨があったことに同意している学者なんていないぞww<

お前ら大和説者らは、バカだろ。
現代日本の通説学会や教育界や公的研究機関の学者らは、
ほぼ全員が、文部省に忖度する、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙し学者であり、
まともな精神のものなど、全くいないし、
信頼性は全くないんだぞ。

309日本@名無史さん2019/05/30(木) 05:55:25.31
>>354
>炭素14は放射線の一種のベータ線を放出し、窒素に変化する。
C12が安定した炭素。
その中に同位体のC14が一定比率存在しており、
一定のペースでN14窒素に変化していく。(ベータ崩壊)
サンプル中のC12:C14の比率から年代を推定するのが炭素年代法。<

AMS法は、計測対象をプラズマ化して、
外周電子を無くしてしまって計測してしまったので、
原子核内の電磁場を不安定化させてしまって、
ベータ崩壊を促進してしまっていた計測をしていたから、
古代のサンプルでは50〜100年位古く出る、
不安定な失敗計測法であった。

310日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:07:28.58
>>355
>お前、バカだろww 槨ってこんなんだぞ
魏襄王冢,皆以文石为椁,高 八尺许,广狭容四十人
魏襄王冢の石槨ってのは高さが八尺ばかりあって、40人が入れるくらいの空間だ<

お前、バカだろ?。
その中国語は、明らかに現代中国語の文字形を使用しており、
「椁」が「槨」と同じか?も判らず、
40人も入れるのでは、出入り居住する事が出来る「室」とでも言うべきであり、
3世紀の陳寿や魏使らが使用した「槨」という文字の意味の根拠にはならないではないか。

311日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:11:49.13
>>359
>街道が整備されていない時代で、野営しながら食糧調達、炊事しながら進むなら、
二日で10キロちょい、一月で150キロから170キロってのはちょうど頃合いだぞ <

出雲経由ルートは、「南≠東北」に拠って、始めから、×。

312日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:15:44.66
>>366
>一定のペースでベータ崩壊するというのは理論上の話で、実際には太陽活動や宇宙線の量などの影響を受けて乱れる。
前後100年ぐらいの誤差が出ても当たり前。<

成程。

313日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:23:38.19
>>370
>ホケノ山古墳に限らずこの時期の畿内古墳は槨なしだよ
そのうちの大古墳のどれかが卑弥呼の墓
具体的にどれか、となると編年次第だから今のところ特定はできない <

「有棺無槨」だと記録したのは、魏使らや陳寿であるんだから、
魏や西晋代に中国で「槨」とはどのような形態のものを言うのか?を確認してから、
「ホケノは槨ではない」とでも、主張しな。

314日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:32:15.85
>>287
>アメリカでは考古学の研究対象が自分たちの直接の祖先ではないとの認識から人類学に分類される

なるほどね
日本の近くの国でも、考古学が自分の国の歴史と繋がってないところは、
先史時代は歴史じゃないっていう発想になるんだww

それと日本の歴史の長さがうらやましくてしょうがないから少しでも、
日本の始まりを遅くしたいってのもあるみたいだけどさw

315日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:35:20.58
「百回繰り返せば、嘘も本当になる」畿内説テンプレ

316日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:39:45.85
>>302
>言葉の定義に広義と狭義がある?
>言葉の用法に広義と狭義があるんだよ

日本語が母国語じゃないくせに知ったかぶりをするのは止めたらどうだ?w

日本の社会では高校の歴史の授業も先史時代から始めるし、
日本史の時代区分には縄文時代もしっかり入っている
日本では日本列島で人間が暮らし始めたところから
日本の歴史と捉えるのが常識

自分で>>246で「高校もまともに出てないのか」と言っておいて
高校に教科書および学習指導要領を出されると話をそらそうとする

文献史学だけが歴史じゃないんだよww

317日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:43:31.80
>>313
あんたはバカというより知能障害のレベルだな

魏や西晋代に中国で「槨」とはどのような形態のものを言うのか?を確認してから、
「ホケノ山には槨がある」とでも、主張しな。

もう主張しちゃったから遅いけど

318日本@名無史さん2019/05/30(木) 06:45:58.47
スレ主がたった一人で孤軍奮闘、、、
上げ(緑)ではw連打、冷静な第三者を装ったsage(青)では在日呼ばわり、イタすぎるな、、、

319日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:07:47.74
>>302
>言葉の定義に広義と狭義がある?
>言葉の用法に広義と狭義があるんだよ

広義、狭義の「義」は、定義、語義の「義」だぞ
用法の広義、狭義って、それこそ「何言ってんだ?」って話だ

320日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:25:19.14
>>310
>その中国語は、明らかに現代中国語の文字形を使用しており、
>「椁」が「槨」と同じか?も判らず、

ザラゴキはどこまでもバカだなあ
原文は

西京雜記卷六
魏襄王冢。皆以文石為槨。高八尺許。廣狹容四十人。

ちゃんと槨になってるだろww
それに康熙字典で槨を引いても
槨與椁同
ってしっかり書いてあるぞw

こうやってこっちは原典レベルで誰でも客観的に確認できる根拠を具体的に示しているのに、
九州説は具体的なことがまったく言えないし、根拠を示すことができない

今どきの九州説には、議論するだけの知的能力に欠けるやつしかいない

321日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:26:12.13
認知障害だな

322日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:35:31.15
>>319
犯罪を犯すと同じくらい変な日本語

323日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:36:19.98
誤読大王だからしゃーない

324日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:38:28.12
日本人じゃないからだろ?

325日本@名無史さん2019/05/30(木) 07:40:19.46
稲の伝来を半島経由にしたがるのは政治工作の場合があるらしい

326日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:02:02.26
>>280
>七万戸の国に相当する邪馬壹國がなく、
>小戸数しかない纏向は、
>地名の点でも戸数の点でも、致命傷だな。

纏向遺跡=邪馬台国とか誰も主張してないので
>>280の脳は生まれた時から致命傷だった
という
悲しいお話

327日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:11:21.69
生まれた時から致命傷だった脳を頭の中に格納している奥山氏は、卑弥呼の城と墓が纏向にあったという考えを、宣伝したい可能性があるな。。。

326 名前:日本@名無史さん 2019/05/30(木) 08:02:02.26
>>280
>七万戸の国に相当する邪馬壹國がなく、
>小戸数しかない纏向は、
>地名の点でも戸数の点でも、致命傷だな。

纏向遺跡=邪馬台国とか誰も主張してないので
>>280の脳は生まれた時から致命傷だった
という
悲しいお話

328日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:15:21.57
>>327
魏志倭人伝では、卑弥呼の城には、千人の女の奴隷と武器で守衛する兵隊が居たな。。。

329日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:17:00.38
>>327
魏志倭人伝では、卑弥呼が死体が墓に埋められたのは、3世紀中盤ではなかったのかな。。。

330日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:17:03.10
>>322
>犯罪を犯すと同じくらい変な日本語

どっち向きの書き込みかよく分からんが、
「罪を犯す」のが「犯罪」で
「広い定義」が「広義」だぞ

331日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:18:07.33
>>329
畿内馬具は、本当に4世紀の初めの物体なのだろうか。。。

332日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:21:32.46
畿内馬具は、木製の鐙だったのではないのかな。。。

333日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:23:57.74
生まれた時から致命傷だった脳を頭の中に格納している奥山氏が考えた、卑弥呼の城と墓が纏向にあったという意見は、完全に間違っているんな。。。

334日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:25:01.38
>>333
完全に間違っているんな。。。という部分は、、、完全に間違っているな。。。とタイピングしたかったのではないのかな。。。

335日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:49:57.73
>>378
>『プラズマ化は原子核内の電磁場と重力場の相互作用を不安定化』させたりしない
否定したぞww<

外周電子群と原子核内の荷電性とのバランスで、原子を安定を構成していたんだから、
その外周電子を全部取り払ってプラズマ化をしたら、
原子核内の荷電性の安定性が破壊されて、ベータ崩壊が誘発され、安定化しようとする、
という事は、常識的な事だ。

>プラズマ化は原子核の外の電子の話
そこの電子の挙動や電界によって原子核の崩壊頻度が変わるなら、
導線に電圧をかけて電流流したら、銅の原子核が崩壊しまくるぞww<

全ての原子や原子核は、外界との場の相互作用に依った不安定性を持っており、
崩壊や半減期を持っている事など当たり前の事であり、
半減期0だとされるの安定原子であっても、
極めて僅かな崩壊は存在しているものであり、
C14は、C12に比べて半減期がかなり大きかった、というだけの事だ。

336日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:53:48.16
ザラコク氏は、プラズマテレビのことに詳しい可能性が高いが、プラズマテレビは壊れやすいのではなかったのかな。。。

337日本@名無史さん2019/05/30(木) 08:57:48.40
C14は、中性子を捕獲すると、別の物体になるのではないのかな。。。

338日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:01:14.59
C14は、C12に比べて中性子を捕獲しやすいのだろうか、、、
それとも、捕獲しにくいのだろうか、、、
そして、それぞれ、中性子を捕獲すると、どのような物体になるのだろうか、、、、

339日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:07:34.04
これだけ状況証拠がそろっているのに纏向を王都とか卑弥呼の居館と言う宗教は✖

纏向は古墳造営基地兼斎場で決定
1、3世紀初めに突然現れ古墳造営終了とともに終焉
2、搬入土器が15%で、各地から作業員がきていた。
3、生活用具が少なく口吻造営の土木具が目立ち、集落跡は見つかっていないので飯場と考えられる。
4、環濠ではなく水路が築かれ土木作業の資材が運搬された。
5、斎場と見られる掘立柱建物があった。古墳造営の終了とともに壊される
6、葬儀や供養のために使用したとみられる、吉備に起源する弧帯文、特殊器台・壺などが出土
7、周辺に土木作業員が作った古墳が多数ある
8、纒向遺跡では鉄器等の武器は見つかっていない

340日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:08:43.35
>>386
>それがな
對馬國は方可四百「餘」里で、一大國は方可三百里と百里単位でも
「余」が付いたり付かなかったりする 短い距離だから精度が高いという説明は通らない<

私は、始めから「余の有無」を書いておいた筈だよ。
だから「余がない」里記載は、おそらく、
魏使らの記録でも「余」がなかったから、陳寿もそのまま転載したのであり、
「余が付いた」里記載は、おそらく、
魏使らが始めから、「余」を付けた有効数字1桁位の
記録であったか?、
魏使らの記録は「余」のない有効数字多数桁の計算記録であったが、
陳寿はそれを有効数字1桁位の近似値にまとめるために「余」を付けたか?、
という事が考えられる。

341日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:09:38.66
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。
 
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」

342日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:12:16.73
>>388
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者は、
都合の悪い史料事実や史料実態の議論になると、
正確な解釈をする九州説の論理には、
議論が難しくてついて来れないようだな

343日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:15:50.19
畿内馬具は、木製の鐙だったのではないのかな。。。

341日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:09:38.66
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。
 
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」
「5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。」

344日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:17:18.26
>>339
>6、葬儀や供養のために使用したとみられる、吉備に起源する弧帯文、特殊器台・壺などが出土

違う。 弧帯文の起源も倭国(阿波)。

銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」

が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。   @阿波

弧帯文土器
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27

345日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:23:30.75
>>392
>一定のペースでβ崩壊するというのは理論上ではなく、現実にそうなる
太陽活動や宇宙線の量などが影響するのは、大気中の14Cの量
植物が炭素固定したときの14Cの量・比率が異なると、
スタート時点での14Cの量・比率が異なることになる
14C年代測定法は、14C→14Nのβ崩壊速度と、宇宙線による14N→14Cの変換速度が
平衡状態にある、つまり大気中の14C量・比率が一定であることを前提とするので
大気中の14Cの多い時代の試料はその分古く、
少ない時代の試料は新しく見積もられることになる<

だから、そりゃ「前提」であるだけで、
実際には、宇宙線は地上までも届いているんだから、
それの変動に拠って、原子核の壊変や崩壊が常時起こっていて、
更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。

346日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:32:33.88
つまり、14C年代測定法は、それを商売にしている者達による宣伝活動で成り立っているのだな。。。

347日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:33:11.34
>>393
>囲いは槨じゃない
槨は人が入れる空間を作る構造物だ <

ダメだ。
「人が常時入れるような空間」では、そりゃ「扉を備えた一種の墓室」であって
「槨」ではなく、
また、「槨」は、「室」というよりも、
「人が常時入って来る」事を想定していない構造物だ。

348日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:36:19.55
槨は、棺を納める空間のことではないのかな。。。

349日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:40:00.41
>>396
>学会では「本来の槨ではない」と大正時代の棺槨論争時に結着済み<

こりゃダメだ。
これは、当然「ホケノ」の話であるんだろうが、
ホケノの発掘が大正時代にあった、と思えないし、
何よりも、「南→東」などの嘘付き騙しの学会では、
皇国史観という「結論先にありき」の嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であった可能性が高く、
根拠になんでかなるものでかない。

350日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:40:26.57
纏向の古墳の中の死体は、棺に入っていたのだろうか、、、
それとも、入っていなかったのだろうか、、、
そして、棺に入っていたのなら、
棺を納める空間があったのだろうか、、、
それとも、棺を納める空間がなかったのだろうか、、、

351日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:44:11.02
倭人が、他の民族を捕獲する方法は、色々あったのではないのかな。。。

352日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:45:31.80
原子核が、中性子を捕獲する方法は、色々あったので、色々な反応があった可能性もあるな。。。

353日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:49:01.23
纏向の古墳の中の物体の原子核は、4世紀から原爆時代が始まるまでの間に中性子を捕獲することがあったのだろうか、、、
それとも、なかったのだろうか、、、

354日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:52:52.46
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂とは、どのような砂なのだろうか。。。
そしてその砂の上で築き上げたものは、何なのだろうか。。。

355日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:56:24.01
なぜ、韓国の考古学者のスポンサーは、韓国や北朝鮮の歴史を古くする必要があるのだろうか。。。

356日本@名無史さん2019/05/30(木) 09:58:38.28
>>354
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂という砂の上で築き上げたものは、
、、、、邪馬台国畿内説、、、ではないのかな。。。

357日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:03:08.02
>>408
>関東だと7世紀まで前方後円墳が作られていたはず。<

ふーん、成程。
大和と関東は、同じ部族や氏族ではなかった、ってことか。

358日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:20:36.07
死に際し、棺はあるが槨はなく、土を盛って冢を作る。

石を積むような記述が全く見付からない。

よって前方後円墳はOUT。

359日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:20:37.34
>>345
>更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
>宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。

ニュートリノでは、核子の改変は起こらない
素粒子物理の基礎の基礎も理解していないんだから、
もう分かったふりして何か書くとかやめたらどうだ?

最近は理系の大学院卒ってのは言わなくなったなww
さすがに恥ずかしくなったか?w

360日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:23:06.59
>>355
箕子という実在の人物を、隠蔽したいのではないのかな。。。

361日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:31:32.58
核子の改変という、宇宙線とはあまり関係がない物事を、意味も分からないまま、このスレッドで使用しない方が良いな。。。

362日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:37:14.61
核子が崩壊するのは、ほぼ、核子の内部の事情にだけ関係するのだったな。。。

363日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:38:26.41
>更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
>宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。

別におかしい文章では、ないな。。。

364日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:38:33.57
核子崩壊の話はプラズマの話じゃなかったっけ?
核子がむき出しになると崩壊速度が一定でなくなるとか。

365日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:39:28.39
いずれにせよあまり意味のない話だけど。

366日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:39:48.14
>>363
そうだね、、、
ザラコク氏は、ニュートリノが原子核に影響を与えるとは、書いていないな。。。

367日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:47:51.80
だから、そりゃ「前提」であるだけで、
実際には、宇宙線は地上までも届いているんだから、
それの変動に拠って、原子核の壊変や崩壊が常時起こっていて、
更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。
という、優れたザラコク氏の意見は真実だな。。。
そして、空気のシャワーが纏向の古墳に命中したのか、しなかったのかは、もう誰にも分らないのではないのかな。。。

368日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:53:21.93
このスレッドに、プラズマの話が出現するのはなぜなのだろうか。。。

364日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:38:33.57
核子崩壊の話はプラズマの話じゃなかったっけ?
核子がむき出しになると崩壊速度が一定でなくなるとか。

369日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:56:16.69
中性子がむき出しになれば、崩壊するのは当たり前なのだが、、、、
プラズマや邪馬台国とどのような関係性があるのだろうか。。。

370日本@名無史さん2019/05/30(木) 10:58:20.79
プラズマというのは、テレビと関係があるのではないのかな。。。

371日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:02:33.99
>>409
>畿内第V様式土器の出土範囲は福岡平野よりずっと広い
その範囲の遺跡の数もいちいち数えてる人はいないだろってくらいある <

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
第X様式土器も、河内や播磨は、大和よりも強大な全く別の、
「九州倭国の東征毛人五十五国の新規支配地」であり、
その中心の将軍や武将の氏族が、倭奴國や伊都国の阿毎氏系のであったというだけであり、
第X様式の年代も、筑紫の方が河内播磨や大和よりも、おそらく古い。

372日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:21:40.52
>>368
このスレッドに、プラズマの話が出現するのは、
地球に対する、一次宇宙線の命中率をプラズマが下げていることと関係がある可能性もあるな。。。

373日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:23:28.82
地球に対する、一次宇宙線の命中率をプラズマが下げているので、プラズマが弱まったときは、纏向に空気シャワーが命中するのではないのかな。。。

374日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:24:06.91
>>371
デマは九州説の信用を落とすだけ

375日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:25:04.09
>>414
>自分で調べなよ こっちは実際の槨を原文引用で示した<

倭国では「有棺有槨」であった、と書かれているのだから、
最も根拠になるのは、陳寿の「槨」記載例であり、
その次は、魏使らの記録であったんだから、魏での「槨」使用の例。

376日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:31:33.27
ザラコク氏が、「有棺有槨」という、タイピングの失敗をしてしまった可能性が高いな。。。

375 名前:日本@名無史さん 2019/05/30(木) 11:25:04.09
>>414
>自分で調べなよ こっちは実際の槨を原文引用で示した<

倭国では「有棺有槨」であった、と書かれているのだから、
最も根拠になるのは、陳寿の「槨」記載例であり、
その次は、魏使らの記録であったんだから、魏での「槨」使用の例。

377日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:35:35.11
>>429
>この奈良盆地限定でも集落の数で200を超える
こっちは何度も具体的な客観的に確認できる根拠を示している
九州説は全員、とことん無能だ<

何故、最低、筑紫の集落の数を数えて比較しなんだい?。
大和説者は、全員とことん詐欺師だ。

378日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:36:44.61
>>358
其死 有棺無槨 封土作冢(死ぬと、棺はあるが槨がなく、土で封じて冢と作る)

槨がなく、土で封印してしまうので、追葬はしない。その死者だけの墓(墓壙)とするという意味だから、とりあえず竪穴石室の前期・中期古墳は該当する。
葺石の有無は特に書かなかったとも考えられる。

問題は卑弥呼の冢の形状と殉葬↓

卑弥呼以死 大作冢 径百余歩 殉葬者奴婢百余人

「径百余歩」と具体的な数字だから魏使は現物を見ていたはずで、直径とある以上、円墳か帆立貝型前方後円墳に絞られ、ここで前方呼円墳(箸墓)が候補から落ちる。
仮に箸墓なら長二百歩(300m)と書くはず。
葺石については書かなかったという可能性が残るが、倭人がしてもいない殉葬をしたとは書かないはず。
墳丘(周囲)に100人位の殉葬をした150m級の円墳(もしくは〇帆立型前方後円墳×前方後円墳)が、今まで条件を満たす墓が見つかっていない。

ところで、箸墓は定型化された最初の前方後円墳とされるが、後円部はなぜか四段築成。ここにその謎をヒントがあるのではなだろうか?
つまり、箸墓の後円部(直径160m)の一段目に幅5mの土を足して殉葬者の墓壙を埋め立て、その上に三段築盛して台与が自らの寿陵としたのではないか?

記紀には、以下のように書かれており、前期古墳は円筒埴輪、実際に人型埴輪が確認されるのは、中期以降だから話半分にしろ、台与の功績と中期古墳の話をごっちゃにしてまとめたとも。
第11代垂仁天皇32年、日葉酢皇后が身罷った。倭彦の殉死の悲惨さを知った天皇は、葬を如何に行うかを群臣に問うた。
その時野見宿禰は、殉死に替えて埴土で作った人形の埴輪を御陵の周りに立てることを進言した。
野見宿禰は出雲から100人の土師部を呼び寄せて人形の埴輪を作り、日葉酢媛の御陵の周囲に立てた。
垂仁天皇は喜んで、褒賞として野見宿禰に土師部を統帥する土師臣の姓を与え、以後天皇家の葬儀一切を取り仕切らせた。

379日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:40:23.00
>>431
>理由を言わないで結論だけ何千回連呼しても
それ、説明じゃないから
会稽郡の最北端は大隅半島最南端よりさらに南
この事実、ごまかせない <

「南→東」などと同じように、
「会稽東治之東」を「会稽郡の東」と曲解する嘘つき騙しをして、
理由を言わないで結論だけ何千回連呼しても
それ、説明じゃないから
この事実、ごまかせない

380日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:43:15.77
>>434
>それ、証拠にならないと証明されてるから<

学者のホケノの説明文言で、「槨」だ、と書いており、
現在もそのままで訂正していない、
という事が証拠だ。

381日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:45:36.43
ホケノというのは、箸墓古墳の近くにある古墳のことなのではないのかな。。。

382日本@名無史さん2019/05/30(木) 11:52:24.38
>>439
>>方角も里数も、十分「当てになる」。<

>このように思考停止して 理由も何も言わず おのれの欲望を言い張るのが
九州説のデフォ<

このように、何の史料事実や史料実態根拠や理由を言わずに、
おのれの欲望を言い張るのが大和説のデフォ

383日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:00:00.91
>>440
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのように
まったく証拠を出さない
それが大和説

384日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:03:27.25
>>378
言葉足らずスマソ!
卑弥呼の冢(ホケノ山と同じ帆立貝型前方後円墳・直径150m)の周囲に幅5mの盛土をして殉葬者の墓壙を埋め立て、全体を直径160mの最下段とし、
その上に3段築成し前方後円墳=箸墓が完成したのではないかと。
ちなみに現在は後円部が5段築盛になっているようだが、後世(時期不明)に後円部墳頂に一段足された結果とか。
ここにも謎が隠れている可能性が高いかもw

385日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:04:57.83
>>441
>かく【槨】とは。意味や解説、類語。
墓室内部の棺を保護するもの。
木槨・石槨・粘土槨・ 礫槨 (れきかく) ・木炭槨などがある。<

ふーん、やはり「墓室」と「槨」とは区別したものだったんだな。
しかし、「槨」は「木」偏だから、
ホケノのように、木槨が本来の意味であったんらろうなあ。

386日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:07:05.32
>>446
「南→東」などの嘘付き騙しのように
証拠を出す意思も能力もない
それがの大和説

387日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:19:31.41
これだけ状況証拠がそろっているのに纏向を王都とか卑弥呼の居館と言う宗教は✖

纏向は古墳造営基地兼斎場で決定
1、3世紀初めに突然現れ古墳造営終了とともに終焉
2、搬入土器が15%で、各地から作業員がきていた。
3、生活用具が少なく古墳造営の土木具が目立ち、集落跡は見つかっていないので飯場と考えられる。
4、環濠ではなく水路が築かれ土木作業の資材が運搬された。
5、斎場と見られる掘立柱建物があった。古墳造営の終了とともに壊される
6、葬儀や供養のために使用したとみられる、弧帯文、特殊器台・壺などが出土 、お供えの桃の種も
7、周辺に土木作業員が作った古墳が多数ある
8、纒向遺跡では鉄器等の武器は見つかっていない

388日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:31:23.11
>>384
箸墓後円部墳頂に追加された完成度の高い、それでいてやや傾斜のなだらかな5段目、それこそが記紀にある第7代孝霊天皇皇女モモソ姫の墓で、
1段目(卑弥呼+奴婢100人)4段目(台与)、5段目(モモソ)の3人の女性(2女王1皇女)が眠っていたりすてw

箸墓の立体レーザー写真
http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/print.aspx?id=20120605000421

欠史八代系図
第7代孝霊
子→第8代孝元&【モモソ姫】&吉備津彦
孫→第9文明開化&大彦&武埴安彦
曾孫→第10代崇神
       

389日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:34:54.99
皇国史観でも何でも良いんだけど、
天帝、皇帝、天王〜天皇?

そもそも日本の話ではないでしょ、
神代〜天孫〜ほとんど後付け

390日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:35:25.19
>>388
新参者は足を引っ張るだけだぞ。
書き込むな。

391日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:47:56.80
邪馬台国はヤマト国であったな

392日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:48:49.87
>>388
ありがとう!ついに「ヤマト王権=邪馬台国」で決まった!長かったぁ〜!
餃子の王将定食(酢豚&ミニ焼飯&焼き餃子3個&ミニラーメンで840円なり)うまっ!

誰か、纏向学研究センター所長・寺沢薫と橋本輝彦、師匠の兵庫県立博物館長・石野博信に、
箸墓は3人合葬墓(1段目卑弥呼+4段目台与+5段目モモソ)ですよ〜!!!って電話してあげてぇ!!!

生ビール(中)も注文しちゃおう!w ああ、いい気分!

393日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:53:40.04
可住地面積
福岡県 2,782.86km2
兵庫県 2,779.90km2
熊本県 2,736.55km2
大分県 1,746.69km2
長崎県 1,660.88km2
佐賀県 1,333.96km2
大阪府 1,324.05km2
滋賀県 1,297.67km2
京都府 1,176.37km2
奈良県 851.28km2

関西は北部九州と比べると人の住める土地は少ないんだよな。

394日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:02:11.48
>>387
纒向遺跡は現代日本人ではなく滅亡した縄文系の人の残した遺跡であることは確実なんだよな。

395日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:03:21.43
>>387
>6、葬儀や供養のために使用したとみられる、吉備に起源する弧帯文、特殊器台・壺などが出土


違う。 弧帯文の起源も倭国(阿波)。

銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」

が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。   @阿波

弧帯文土器
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27

396日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:04:08.72
生中うまっ!

投馬国五万戸=出雲+吉備、
邪馬台国七万戸=大和盆地+濃尾平野、
狗奴国=関東平野で決まり!

九州説よ、さようなら〜!w

397日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:13:42.16
>>395
徳島県 1,024.35km2

>>396
それは比定してみると無理だな
愛知県 2,982.65km2
岡山県 2,228.76km2
岐阜県 2,200.38km2
三重県 2,041.22km2
島根県 1,288.76km2
鳥取県 910.51km2

邪馬台国七万戸=大和盆地+濃尾平野
ならば東へ渡海1000里の倭種は何処?

398日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:16:18.73
>>397

阿波の国の概説
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料   @阿波

399日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:18:43.03
>>397
>邪馬台国七万戸=大和盆地+濃尾平野ならば東へ渡海1000里の倭種は何処?

蝦夷でしょ!(林修先生風にw)

結局、畿内説が正しかった>>388わけで、改めて九州説のみなさんの健闘を称えたい!

400日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:22:39.03
念のために聞いとくけど、九州説では一致を見た卑弥呼の冢(100人殉葬の直径150m円墳)はあるの?

畿内説は...「あるよ!」(田中要次風にw)>>384

401日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:30:59.88
>>400

古墳の構造や副葬品を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波

402日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:33:30.37
>>401
ちなみに阿波説だと、女王国に属する投馬国五万戸、卑弥呼の冢はどこよ?

403日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:41:18.21
>>399
倭人伝では壱岐対馬間が1000里なんだがな?
1里400mとしても蝦夷は遠すぎるな
蝦夷では方角も距離も全然違う、お話にならないな。

404日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:44:57.55
可住地面積、、、という言葉があることを、優れた考古学者が発表したのではないのかな、、、

393日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:53:40.04
可住地面積
福岡県 2,782.86km2
兵庫県 2,779.90km2
熊本県 2,736.55km2
大分県 1,746.69km2
長崎県 1,660.88km2
佐賀県 1,333.96km2
大阪府 1,324.05km2
滋賀県 1,297.67km2
京都府 1,176.37km2
奈良県 851.28km2

関西は北部九州と比べると人の住める土地は少ないんだよな。

405日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:46:17.48
>>402
徳島県の実質的な面積は1,024.35km2で全国43位に過ぎない
無理だよな。

406日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:48:15.87
対馬や壱岐の可住地面積が、分かれば、倭国九州の魏志倭人伝時代の人口が、予測できるな、、、

407日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:54:14.32
>>402

「陸行一月」

陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

408日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:55:35.77
>>405

阿波の国の概説
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料   @阿波

409日本@名無史さん2019/05/30(木) 13:57:07.39
九州説は、邪馬台国七万戸の卑弥呼の宮殿が人によってバラバラ(筑紫平野、佐賀平野、熊本平野など)
殉葬100人直径150m円墳(卑弥呼の冢)に至っては、全く見つかっていない。
つまり九州説は唯一の文献と言っても良い魏志倭人伝に惑わされた幻想に過ぎない。
ニュージランド北東タウポ火山の大噴火による飢饉に端を発した倭国大乱状態の北部九州に、惜しみない食糧支援で倭王に共立された田舎大和の卑弥呼へ政権交代が起こったため、
地理情報(描写)が大乱前の北部九州時代と、卑弥呼共立後のヤマト王権(大和+濃尾)時代とが、西晋時代にごっちゃになった結果であり、
魏志倭人伝の記述に振り回され、惑わされてしまった九州説に罪はない。

410日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:14:21.15
>>387
これ何が言いたいの?

纒向周辺には古墳造営のために全国から人を集められるほどの強力な王権が存在したけど
その王都はまだ見つかってないという主張なわけ?

411日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:16:44.46
>>404
奈良盆地は時々水たまりになるから実質もっと少ないな。
田原本なんて無理して住んでるだろって感じw
大雨が降らなきゃ平でいい土地なんだけどなw

412日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:33:21.57
>>409
「倭国=会稽東冶の東海上に浮かぶ南北に長大な九州島のみ」と思っていた洛陽出身の魏使が来てみたら、
九州島は南北に短くてとても会稽東冶に届かず、なんと東の海の向こうに本州や四国があり、
むしろ東西に長大な諸島であることに気付いて愕然としたことは想像に難くない。
しかも北部九州→ヤマト王権への倭王権交代が起こったばかりで、北部九州にはまだまだ首都圏としての繁栄が残っていた。
そこで通訳を介して色々な情報が錯綜混乱し、倭国内部の地理情報が矛盾だらけになってしまったのだろう。

>>392 >>369
ヤマト王権の女王所都はむしろ濃尾平野にあり、河内平野に築かれた中期の巨大前方後円墳のように、
瀬戸内海から来た客が鈴鹿山脈を越えて邪馬台国(尾張)に来るまさに入り口に「大作冢」して国力を誇示しようとした可能性もあり、
纏向遺跡が女王所都としては北部九州と比較してかなり貧弱であることから、今度は濃尾平野に舞台を移して、卑弥呼の王宮跡の発掘調査をする必要があるものと思われる。

まさに21世紀の真実「邪馬台国=濃尾平野説」の誕生である!

413日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:34:33.72
九州は火山灰質土が多いから
水稲栽培適地は少ない

414日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:38:42.35
>>396
まさに、
21世紀の真実「邪馬台国尾張(狗奴国関東)説」の誕生である!

415日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:44:39.52
濃尾平野は、昔、海でした。

416日本@名無史さん2019/05/30(木) 14:52:05.56
>>405

阿波の国の概説
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料   @阿波

鳴門板野古墳群 「西山谷2号墳」
萩原1号墓の近隣地に所在する尾根を削り出して整形した、墳丘の長径20m、短径18m、高さ約2mの不整形の円墳である。
墳丘の中央部に長さ4.72m、幅 北端で1.05m、南端で0.83mの南北方向を主軸とする長大な竪穴式石室がある。
竪穴式石室は、南北6.5m、東西4.8mの墓壙全体が結晶片岩と呼ばれる阿波特有の青い石で覆うように造られている。
石室内には、粘土床があり、その上に朱を敷き詰めたU字形の刳抜式木棺を安置していたものと推定されている。
斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。
同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。

417日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:00:43.66
>>392 >>396
つまり、邪馬台国尾張説により、九州説・畿内説双方の矛盾がすべて解決するのである!
北部九州にあることが確実な不弥国から日本海ルートで、
「南(実は東)水行二十日で投馬国(出雲&吉備)」さらに「南(実は東)水行十日(南)陸行一月で女王所都(尾張)」。
出雲・松江を出て船で10日。丹後・宮津あたりで上陸し、そこから(奥津城)大和盆地まで10日。
鈴鹿山脈を越え、当時橋が掛かってない木曽川を渡って女王所都(熱田神宮)まで20日。

まさに、21世紀の真実「邪馬台国熱田説」の誕生である!

熱田神宮が三種の神器「草薙剣」を祀っているのも、そこに古代(倭)王権があったことを象徴している。

418日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:01:51.12
>>410
まあ、脳がおかしいんだろう
明らかな嘘も書いてあるし

419日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:02:26.39
卑弥呼が下賜された青銅鏡は、この「斜縁上方作銘獣帯鏡」の可能性が高まったね。

で、それを真似て仿製して、三角縁神獣鏡を量産したんだろう、倭国(阿波)で。   @阿波

420日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:05:52.09
>>410
大きな国なのか豪族の連合体なのかは不明だが
ひとつの文化圏だろう
倭国と關係あるかどうかは不明  

421日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:13:03.39
墓を作るのに強大な王権が必要なのか?
何か偉大な功績を残したから大きく造られたわけであって、
強大な王が強引に人民をコキ使って造らせるとでも思ってんの?
記紀からすると箸墓は人民の同情によって大きく造られたはずだが。

422日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:15:08.59
畿内説はモモソ姫が偉い人だと思ってるんだよな。

423日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:23:28.17
>>410
強力の定義が難しいが、
鉄の武器が少ないから、武力的には弱小だろうな

424日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:27:07.93
>>417
陸行一月が宮津〜尾張なら一応整合性を持つな。
尾張地方には前方後方墳が造られていたし、それが邪馬台国本体の墓制で、投馬国(出雲吉備)の墓制を合わせること(おそらく婚姻)で、
前方後円墳=四隅突出墓(葺石)+双方中円墳(吉備楯築・特殊器台)が成立したのだろう。
ただ、その築造時期が、卑弥呼の代(3世紀中頃)か台与の代(3世紀後半)かで意見が分かれそう>>384
ヒントになるのが
正始中 卑弥呼死 更立男王(神武) 国中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女台与為王
其後復立男王(崇神) 並受中国爵命

ここらへんで、尾張邪馬台国の動揺を知った天皇家(九州)による神武東征&崇神東遷があり、
尾張熱田神宮を本拠とする邪馬台国台与に取って代わり、大和に西遷して投馬国(出雲吉備)を吸収合併し、ヤマト王権が成立した可能性を指摘したい。

425日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:33:21.33
「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。  たとえば、
「韓伝」「夫余伝」では、それぞれ、「槨あって棺なし」、

「高句麗伝」では、「石を積みて封となす」、

「東沃沮伝」では、「大木の槨を作る、長さ十余丈」
などと、いちいち書きわけている。

畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。
邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。

426日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:34:05.90
昨日のヒストリアの百舌鳥古墳群でも言ってたように
古墳は今では現代の住宅の中に自然の森があるような光景だが
築造当時はまわりがほとんど自然の中に巨大な人工のきらきらの建造物が出現するわけだから
見た者は大きな権力をもった王をイメージする

427日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:37:19.73
韓国の学者が言ってたように、朝鮮半島の王墓は外見はこじんまりとして
中には数多くの副葬品が納められている
これが日本と違うところ

428日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:40:51.79
>>424
神武東征は、邪馬台国(尾張)への政権交代に対する、北部九州伊都国(平原女王の末裔=八咫鏡)の巻き返しだった可能性があるな。
食糧支援のおかげで倭国大乱、帯方郡張政の援軍で狗奴国(関東?)との戦争が収まったとはいえ、尾張に倭王卑弥呼が居たんじゃ北部九州から見れば不便だし、
根が尾張の田舎者(鬼道で民を惑わす)だから外交情報に疎く、稚拙な政治判断が目立ち始めたんだろう。
まず卑弥呼死後に、神武が東征して大物主の子饒速日を征服したものの、国中従わずで一旦停戦。
台与死後、せめて瀬戸内海から上陸してすぐ、日本海ルートで陸行10日で(鈴鹿山脈や木曽川を越えずに)済む大和に西遷させたのが崇神とw

429日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:44:28.85
>>417
熱田神宮は、延喜式の社格は尾張国三宮であり
剣は後世になって祭られた物です (ちなみに尾張国一宮は真清田神社です)
>>424
東海説ですか?

430日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:47:21.63
尾張熱田神宮という神宮は、清正公に関係が深かったな。。。

431日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:49:24.33
清正公は、邪馬台国の秘密を知っていたので、熊本に住むことを志願したのではないのかな、、、

432日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:49:54.72
>>412
>むしろ東西に長大な諸島であることに気付いて愕然としたことは想像に難くない。

畿内説は想像力が豊かですね。
妄想ですけどね。

433日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:53:38.63
>>427
>韓国の学者が言ってたように、朝鮮半島の王墓は外見はこじんまりとして
>中には数多くの副葬品が納められている
>これが日本と違うところ

何をもって「日本」と言うのかな?
九州北部の弥生王墓はほぼ全てそんな感じなだよ。

434日本@名無史さん2019/05/30(木) 15:58:26.00
すごく不思議なんだが
なぜ邪馬台国と伊勢神宮を誰も結び付けない?
伊勢神宮は日本のシャーマニズムの原点であり頂点
伊勢神宮の主祭神は天照大神
つまり卑弥呼とは日の巫女であり、邪馬台国=伊勢国説の論拠となる

435日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:01:55.81
伊勢神宮はずっと後の神社であることが明白だから。

あとは、鏡つながりで考察を繰り広げた岡上氏をキナイコシが叩いたから。

436日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:25:28.09
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると

「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」

阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。

阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。   @阿波

437日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:30:35.57
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。

その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。

ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、

穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。

つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。   @阿波

438日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:31:36.38
>>433

九州北部はそんな感じなんだよね
そこが日本と違うところ

439日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:36:35.21
当時を現代感覚で妄想するのはよくないな。
半島も日本列島もほぼシームレスな時代なんだから。
8世紀頃まで渡来人は流入していたんだし。

440日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:38:48.23
帯方郡など大陸や半島と交流していたのは九州北部だけ。
あとは未開の地。

441日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:41:22.52
>>440
未開地だがカエルとか住んでたみたい

442日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:43:03.82
奈良のカエルは沼地に住む。
福岡のカエルは水田に住む。

443日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:57:15.54
>>440
根拠が示せないまま決めつける
九州説は妄想説

444日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:59:00.44
>>439

そうシームレス
朝鮮半島に接している九州北部は人もシームレス
雑居状態だね
倭人伝では倭の女王とは別の王が居り従属している
一大率を特に置いて檢察している

445日本@名無史さん2019/05/30(木) 16:59:31.23
伊勢内宮神前祝詞

天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。

『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』では豊受大神荒魂の別名は伊吹戸主とある

祓戸四神

瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売

446日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:00:39.89
>>443
九州の墓で使われている朱は中国産

447日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:00:54.64
蜻蛉日記に寄ればアマテラスは河辺に住む河伯のことらしい

448日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:02:41.92
河伯は河童

河童の天敵は、河童より泳ぎの上手い猿、鹿の角、鉄。
近畿や関東の在地の勢力かな。
サルタヒコ、鹿島の鹿さん、ヤマタノオロチかもしれないね

449日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:31:18.03
463>>450
いつも「とか決め付ける根拠は?」と根拠を質問して、
その返事を待たずに、
その投稿内で直ぐに「いつも根拠を示さないで決め付けする」と言い放って、
自分が議論に勝ったか?のような印象を世間の人々を与えて、国民を騙そうとし、
「南→東」などの嘘付き騙しには反論せずに逃げ回る大和説者は、
・・・・アホ詐欺師である事がよく判る。

450日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:44:14.53
463>>461
「南≠東」などの指摘に返事が出来ず、反論も出来ない大和説者は、
どんなに・・・・アホ詐欺師なの?。

451日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:52:56.51
>>448

『天王宮 山王院 福島県』

あのキュウリの・・・、写真の話でしょ?
『』内と同じ名前の家(家なのかな、親戚なのかな?)、
むかーし住んでいたというところも、その周辺だと言っていた。

あと仏教〜?そういう話とか

452日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:54:09.79
>>467
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘には全く返事をせず、
「瀬戸内航路で投馬国から、水行10日で到着した地の比定地は?そこから纏向まで陸行1月のルートは?」
にも全く返事をしない大和説者は、
・・・・アホ詐欺師や変質者のようであり、
キモチワルイ

453日本@名無史さん2019/05/30(木) 17:56:57.16
いま住んでいるところは神奈川県の川崎区、
以前から書いていることなんだけど、ストーカーがいるのかな?

454日本@名無史さん2019/05/30(木) 18:15:46.48
>>508
>福岡付近から、出雲まで水行20日・・・<

「南≠東北」であるから、×ですよ。

455日本@名無史さん2019/05/30(木) 18:18:55.96
>>509
>とっても具体的だろ?
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

「南→東」などの嘘付き騙しになっており、
スレ主らが、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師である事が、非常に具体的です。

456日本@名無史さん2019/05/30(木) 18:30:16.32
>>409
>ニュージランド北島タウポ火山の大噴火による飢饉に端を発した倭国大乱状態の北部九州に、惜しみない食糧支援で倭王に共立された田舎大和の卑弥呼へ政権交代が起こったため、
>地理情報(描写)が大乱前の北部九州時代と、卑弥呼共立後のヤマト王権(大和+濃尾)時代とが、西晋時代にごっちゃになった結果であり

この時、卑弥呼が、飢餓状態による食糧争奪戦(倭国大乱)に陥った首都圏(北部九州)に米や塩など食糧を入れて送ったのが、吉備弥生→庄内式→布留式土器で、それが今日の出土分布となった可能性があるな。
しかし、邪馬台国=ヤマト王権とするには、纏向遺跡のあまりの貧弱さ、狗奴国(濃尾平野)国境の戦争の痕跡皆無から否定される。
濃尾平野(前方後円墳体制)こそが邪馬台国だったとすれば「陸行一月」とも合うし、狗奴国は日本一の関東平野となり、邪馬台国に敗れて併合された、と見ることが可能である。
もともと、弥生時代は墓制こそ違えど、銅鐸祭祀では畿内東海を中心に出雲吉備北陸静岡まで分布しているので、仲が良かったのだろう。
神武東征&崇神東遷で、北部九州の伊都国に倭王権を奪い返された後、ヤマト王権の前方後円墳体制に併合され、歴史の表舞台から姿を消したものと思われる。

まとめると、
ニュージランド北島タウポ山大噴火→東アジア各地で日照不足による大凶作飢饉発生(黄巾の乱で後漢滅びる)。
→北部九州にも及び倭国大乱発生→邪馬台国(大和・伊勢・東海)が食糧支援開始(布留式土器に入れて贈る)→倭国大乱収束→伊都国王が中心となり、感謝の印に尾張の卑弥呼を倭王に共立
→大陸や半島情勢に疎い鬼道政治で判断ミス連発→卑弥呼の死後、伊都国王・神武が東征し倭王権を取り返すが国中が従わず数千人の死者を出す乱闘勃発
→止む無く13歳台与を女王に即位させる→鬼道政治の悪夢ふたたび→台与の死後、伊都国王・崇神が再び邪馬台国に赴き倭王権を奪還。尾張→大和へ遷都、大王即位、ヤマト王権確立(4世紀初め)。

457日本@名無史さん2019/05/30(木) 18:38:30.40
>>455
九州説はこんな悪口雑言とウソ以外に
何も言えないのか

458日本@名無史さん2019/05/30(木) 18:40:38.38
>>456
訂正 ×濃尾平野(前方後円墳体制)→〇(前方後方墳体制)こそが邪馬台国だったとすれば、

459日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:18:06.57
>>443
鉄器が普及してたのも北部九州だけ
絹織物も北部九州だけ。

460日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:21:17.66
>>459
>鉄器が普及してたのも北部九州だけ

ウソはイカンぜよ。   @阿波

461日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:21:44.37
>>456
>ニュージーランド北島タウポ山大噴火→東アジア全域で日照不足による大凶作飢饉発生(黄巾の乱で後漢滅びる)。
>→北部九州にも及び倭国大乱発生→邪馬台国(大和・伊勢・東海)が食糧支援開始(布留式土器に入れて贈る)→倭国大乱収束→伊都国王が中心となり、感謝の印に尾張の卑弥呼を倭王に共立

そう言えば、漢委奴国王57〜帥升107以来、後漢光武帝、安帝に冊封され、その威光で歴代倭王を輩出してきた超名門・奴国には、代官と副官がいるが肝心の王の名前がない
自伊都国東南至奴国百里 「官」曰兜馬觚 「副」曰卑奴母離 有二万余戸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%9B%BD
奴国王家の後ろ盾である後漢朝がまさかの黄巾の乱で滅びたことで権威を失墜し、北西の伊都国王に滅ぼされ…伊都国から代官と副官を派遣されていたりすて…

>→大陸や半島情勢に疎い鬼道政治で判断ミス連発→卑弥呼の死後、伊都国王・神武が東征し倭王権を取り返すが国中が従わず数千人の死者を出す乱闘勃発

これは帯方郡・張政の調停で、邪馬台国に併合された狗奴国(関東平野)も一枚噛んでいて、自分たちの狗奴国王の血が入った台与(239年生まれ)を女王にするつもりだったため、東征してきた北部九州伊都国王・神武(赤の他人)排斥に回ったのかもw

462日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:26:39.92
>>460
弥生時代に鉄器が普及していたのは北部九州地域だけですよ
北部九州地域以外の日本列島の殆どの地域は略石器時代で鉄は貴重品。

463日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:28:40.52
【畿内の鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
 <こ れ だ け>

【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)

纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」

明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。

邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

464日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:33:25.39
>>462
>弥生時代に鉄器が普及していたのは北部九州地域だけですよ

ウソはイカンぜよ。   @阿波

465日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:47:01.77
>唐古鍵 鉄斧「柄」

柄っ?w

466日本@名無史さん2019/05/30(木) 19:57:12.64
>>464
@阿波は無知だね。

467日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:00:08.22
>>466
>@阿波は無知だね。

>どこが?   @阿波

468日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:00:10.58
>>456
> ニュージランド北島タウポ山大噴火→東アジア各地で日照不足による大凶作飢饉発生(黄巾の乱で後漢滅びる)。
>→北部九州にも及び倭国大乱発生→邪馬台国(大和・伊勢・東海)が食糧支援開始(布留式土器に入れて贈る)→倭国大乱収束→伊都国王が中心となり、感謝の印に尾張の卑弥呼を倭王に共立
>→止む無く13歳台与を女王に即位させる→鬼道政治の悪夢ふたたび→台与の死後、伊都国王・崇神が再び邪馬台国に赴き倭王権を奪還。尾張→大和へ遷都、大王即位、ヤマト王権確立(4世紀初め)。

伊都国王・神武&崇神が大和に東征&東遷した理由は、まさに大凶作飢饉→倭国大乱(北部九州地獄絵図)の再発を恐れ、狗奴国(関東)を併合した邪馬台国(尾張)を支配する必要を痛切に感じていたからだろう。
逆に言うと、伊都国王(一大率設置)が中心となって、尾張邪馬台国の卑弥呼を倭王に共立したのは、卑弥呼に狗奴国(面積日本一の関東平野)卑弥弓呼を倒し、併合させるためだったのかも。

だとすると倭国大乱の責任を取らせて奴国王を滅ぼし、北部九州の盟主となった伊都国王(平原女王=伊勢神宮八咫鏡=天照大神)神武&崇神を祖に持つ天皇家が、尾張邪馬台国卑弥呼(熱田神宮=スサノオ草薙剣)を倭王に祭り上げて、
魏帝朝貢を手伝い→帯方郡張政派遣→日本一の関東平野=狗奴国を併合させて、女王だから一代限りですぐに滅びることを見越してそれを乗っ取ろうと神武東征&崇神東遷、瀬戸内海で急行できるヤマト王権を樹立(4世紀初頭)というウルトラC をやってのけたのである!

469日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:17:07.95
>>468
北部九州の伊都国王(一大率設置)が中心となって巫女(神と結婚=人間と子供作れない=一代限り&政治知らない)卑弥呼を共立したのは、食糧支援に対する感謝ではなく、
倭王に祭り上げて、弥生最大の登呂遺跡から関東平野までの穀倉地帯・狗奴国を併合させて東日本を統一させ、卑弥呼の死後に、邪馬台国(前方後方墳体制)そのものを乗っ取って、凶作飢饉対策に万全を期したってこと

獲物を十分太らせてから食べる…さすが天皇家、腹黒いな…orz

470日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:18:47.80
>>467

@阿波 さんよ


キナイコシは無視していいよ
何勉強してないし、現場にも行かないし、自論は誰かの引用だよ


テンプレが支離滅裂なのだ

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

キナイコシが続けるとしたら

「証拠は」「根拠は」ぐらいww

471日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:20:00.40
【畿内の鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
 <こ れ だ け>

【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)

纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」

明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。

邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

472日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:25:14.03
>>429

サンキュウ
熱田神宮は三宮は知らんかった

皇国史観は明治以降じゃねーか

伊勢神宮はもっと前だと思うが・・いい加減だな

畿内説は何でもありかいww

473日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:25:31.76
463>>546
>「南→東」の畿内説なら<

「南≠東」だから、×。

>ここだけ方角は正しい(東=東)と仮定として<

矛盾した仮定になるから、×。

474日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:31:57.85
>>571
>投馬国五万戸…出雲
邪馬台国七万戸…「吉備+ヤマト王権+伊勢+東海+北陸」の大連合
女王国東の海…伊勢湾+三河湾+浜名湖
狗奴国…浜名湖以東の「遠江・駿河・相模・武蔵関東平野までの大連合
ヤマトし麗し…(畿内説のみんな、勝ったよ!もう安心して眠れるよ!)<

「南≠東」などに拠って、×。

475日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:32:46.90
>>468 >>469
歴史小説としては面白い、、、
たしかに東海&関東を中心に分布する前方後方墳のヤマト王権における位置付けは謎のまま
出雲にも前方後方墳があるが、銅鐸祭祀以来の婚姻関係があったのかも、、、
邪馬台国卑弥呼の熱田神宮と出雲スサノオの草薙剣、、、w

476日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:34:14.23
纏向の価値観はなんだろうか 王都?卑弥呼の居館?箸墓に近い?
考古学者ってのは自分の価値観を人に押し付ける商売とも思えてきた
古墳を作る上での拠点が正解のような気がするけど、間違ってるかな??????????

477日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:34:24.49
>>573
>東西南北を左に90度回転させ、「南→東」にするだけで、日本列島にピッタリ合うことに注目してほすぃ!<

「南≠東」に拠って、×。

478日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:36:37.86
>>574
>考古学の成果>>536ともほぼ一致するな…
勝者として、敗者である九州説ならびに九州王朝説(古田信者)の健闘を称えたい<

「南≠東」などに拠って、大和説は、×。

479日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:36:56.82
>>475
>たしかに東海&関東を中心に分布する前方後方墳のヤマト王権における位置付けは謎のまま

すこしも謎じゃないよ。 「忌部はん」 の東海&関東への進出によるものだよ。   @阿波

480日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:37:02.32
>>476
>古墳を作る上での拠点
出土品からしてそのまんまやなw
俺は土建屋の寄宿舎施設と呼んでいたw

481日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:39:54.41
>>576
>あまり魏志倭人伝の記載にこだわるのはどうかと
会稽東冶の東に設定するために、意図的に改変しているのだろうし <

魏志倭人伝は、「意図的に改変」していないし、
そのままで十分であるから、×。

482日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:40:55.40
>>476
>古墳を作る上での拠点が正解のような気がするけど、間違ってるかな??????????

正解だよ。  纏向遺跡は「忌部はん」 の古墳造営前線基地。   @阿波

483日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:41:40.96
>>577
>・・・と考えるが、どうであろうか?<

「南≠東」であるから、×。

484日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:42:36.27
>>475
草薙の剣で検索してみてちょ・・いろいろ変遷してるから
尾張国の歴史は熱田より真清田や大縣の神社だよ

485日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:44:50.73
>>578
>そもそも纏向遺跡が4世紀半で消えてるのだから畿内説の根拠は何も無い状態。
まず何か掘り当てることだな。 住居が多数ある大集落とか<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
纏向は、「南≠東」などに拠って、始めから、×。

486日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:45:14.36
>>367
>更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
>宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。

連続句読点も、ザラゴキなみに頭悪いんだから無理するなってww
宇宙線がなんだかそもそも分かってないだろww

ニュートリノは宇宙線には普通入れないぞw
ニュートリノは地球も太陽もほぼ素通りしてしまう

それに対し、宇宙線はかなりの分量が地球の磁気圏のバンアレン帯で遮蔽されている
ニュートリノはほとんどすべての粒子と相互作用しない幽霊粒子なのだから、それを
例示として宇宙線を語るのはバカ丸出しだww

487日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:45:25.78
何やらの剣(刀の話でしょ)というのも同じ、
家の話だと言っているんだよw

他のスレ(音楽、漫画やアニメ、ゲーム)
なども読んでみたんだけど

どちらがパクリ、
成り済まし、騙りなんだと思う?

488日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:48:54.81
>>476
>古墳を作る上での拠点<

正解かも
そのほうがテンプレより判り易い

489日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:49:43.84
とあるスレを読んでみた?

攻殻〜、イングヴェイが〜など・・・言っている人もいたでしょw



王母 龍宮 寒いな〜の話?

490日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:50:53.95
>>377
>何故、最低、筑紫の集落の数を数えて比較しなんだい?。
>大和説者は、全員とことん詐欺師だ。

九州説がひと頃、奈文研の遺跡データベースのヒット数を誇っていたことは知ってるよ
でも、私が以下のデータを示して黙らせた過去があるんだがな

「福岡県の弥生墳墓遺跡だと
 調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
 「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
 「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる」

また奈文研のデータベースには以下の注記もある
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

と書いてある

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』

汐井掛遺跡で一件ではなく、204件で登録する自治体があれば、
データベースの『件数』は実態を見るのに適さない

491日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:51:41.03
>>486
>ニュートリノはほとんどすべての粒子と相互作用しない幽霊粒子
中性子の表面でウィーク場と相互作用し、電子、電子ニュートリノを放出し、中性子は陽子に変化する。
ベータ崩壊のメカニズム豆ね。

492日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:54:05.10
いまの、そのような業界(何やら権、権利)など?

なかった頃の写真なのかな・・・、
キュウリのような葉、葱の華

有名人なのかな、本当に何なんだろう

493日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:54:12.47
>>384
>ちなみに現在は後円部が5段築盛になっているようだが、後世(時期不明)に後円部墳頂に一段足された結果とか。

それは情報がおかしい
箸墓の後円部は、4段築成+その上に円形壇、という構成
この円形壇を5段目としている記述が散見されるということ

494日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:55:51.51
>>580
>隋書に倭国王の性別について表記は無い <

隋書東夷伝では「俀國」伝として記載であるし、「王妻」がいる、と書いてあるから、×。

>推古・孝徳紀があとから書き直されている事実は解明済みなので有明子・炊屋姫共同統治説まで含めて感覚る必要がある<

書紀そのものが、倭國のの存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書であるから、×。

>また隋書に阿蘇山が倭の都の近くだなどという記載は一切ない<

隋使らが実見記録しなければ、
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如[奚隹]卵、夜則有光、云魚眼精也」
なんて事を記載出来ないから、×。

495日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:59:34.50
>>420
>倭国と關係あるか

「關」係?
どうやって漢字変換してるの?

日本で売っているPCやノートパソコンのフロントエンドプロセッサーでは
かなりがんばらないと、その字は出せないんだけど?

台湾か、香港の人?

496日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:01:03.85
>>421
>何か偉大な功績を残したから大きく造られたわけであって、

それが「大王」ってことだろ?

>>421はバカなの?
それとも九州説を拗らせてるの?

まあ、両方なんだろうけどさww

497日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:03:36.03
>>427
>これが日本と違うところ

つまり、倭王権に半島の関与はないということだな

渡来人推しのコークリ君は常に半島を持ち上げ続けるけどね
コークリ君には政治的な背景があるんだろう

498日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:03:39.03
>>339へ (・・・・・・・以降は俺の考え)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
これだけ状況証拠がそろっているのに纏向を王都とか卑弥呼の居館と言う宗教は✖
纏向は古墳造営基地兼斎場で決定
1、3世紀初めに突然現れ古墳造営終了とともに終焉 ・・・・・・・・・・・・時代的には合致する
2、搬入土器が15%で、各地から作業員がきていた。 ・・・・・・・・・・作業員が鍋窯持ちで来たとは思えん
3、生活用具が少なく口吻造営の土木具が目立ち、集落跡は見つかっていないので飯場と考えられる。・・・飯場なら生活痕跡があると思う
4、環濠ではなく水路が築かれ土木作業の資材が運搬された・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・環濠で無いことは確かだから物資運搬
5、斎場と見られる掘立柱建物があった。古墳造営の終了とともに壊される・・・・・・・・・・・・・これは、良くわからない
6、葬儀や供養のために使用したとみられる、吉備に起源する弧帯文、特殊器台・壺などが出土・・・・祭器としては良い
7、周辺に土木作業員が作った古墳が多数ある ・・・・・・・・・・・・・・その通り
8、纒向遺跡では鉄器等の武器は見つかっていない ・・・・・・・・・・・・・・その通り
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

499日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:08:06.52
>>446
>九州の墓で使われている朱は中国産

そうだよ、九州産の朱(水銀朱)は使われていないというか存在しない
弥生時代の北部九州は「其山無丹」だ

500日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:08:23.90

501日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:10:42.16
>>499
其大和有丹無縁だなw
魏とは無縁w

502日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:14:49.09
470 472 476 488 498

503日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:15:38.17
>>488
大量の人員を支えられるのは都市だけなんだよ

例えば、沖縄米軍基地の移転問題でテニアン島が移転先に選んで欲しいと名乗りをあげていたけれど
テニアン島のインフラでは米海兵隊とその家族の生活を支えられないから、移転先として
選ばれていない

古墳造営基地だということにしたいようだけれど、あれだけの大古墳を作るだけの
労働者の食料を調達準備するには、北部九州最大国の奴国以上の基盤が必要

あの古墳群を造営できたというのが確定事項である以上、奈良盆地に他を圧する
国力の充実があったのは確実なんだよ

504日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:18:38.07
>>491
>中性子の表面でウィーク場と相互作用し、電子、電子ニュートリノを放出し、中性子は陽子に変化する。

「中性子の表面でウィーク場と相互作用し」
ここでベータ崩壊は完了している
電子ニュートリノは結果として放出されるだけで、何かと相互作用するわけではない

中性子の表面で、何と何が相互作用するのか、主語をはっきりさせて書いてごらんww

505日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:18:54.32
>>384
>箸墓後円部墳頂に追加された完成度の高い、それでいてやや傾斜のなだらかな5段目、それこそが記紀にある第7代孝霊天皇皇女モモソ姫の墓で、
>1段目(卑弥呼+奴婢100人)、4段目(台与)、5段目(モモソ)の3人の女性(2女王1皇女)が眠っていたりすてw

これは一本取られた!w

九州説は卑弥呼の冢(殉葬100人&直径150mの円墳)候補を見つけなさい。話はそれからだ!w

>>409
>九州説は、邪馬台国七万戸の卑弥呼の宮殿が人によってバラバラ(筑紫平野、佐賀平野、熊本平野など)
>殉葬100人直径150m円墳(卑弥呼の冢)に至っては、全く見つかっていない。

506日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:19:27.20
>>503
纏向に住民は居ないんだよな?
墓の掃除人だけ残ってりゃいいわけでw

507日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:20:34.97
オリジナル(パクリではない)なのは
イングヴェイだけだろう

みたいな事を書いている人がいるでしょ、
龍宮〜の話をしているんだろう

508日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:23:53.67
>>583
>隋書に出てくる「邪靡堆」に該当する遺跡はまだ発見されていない。・・・<

おそらく、久留米の古宮遺跡。

509日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:27:27.12
もれ(説明不要)の妹(5月15日生まれ)と、
某まいく・おー・・・・・・の、とある曲


わかりやすく言うと『虹の都』

なぜか同じw

510似非畿内説は無用2019/05/30(木) 21:27:49.35
兵庫、和歌山、三重、滋賀、愛知、岐阜、福井

は畿内=邪馬台国のは関係無い国々だから


別スレ立てた方が良い

似非畿内説は無用

511日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:28:58.42
>>586
>なんらかの理由で改変された結果 陳寿の机の上に乗った時点では
会稽東冶の東になっちゃったのだと思うな<

陳寿は、「会稽東冶の東」ではなく、
「計其道里、當在會稽東治之東」と書いたのだから、×。

512日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:29:54.37
>>509
古ーーー札幌冬季オリンピック

513日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:31:33.83

514日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:31:46.44
邪馬台国はヤマト国

他の畿内は関係ないのだよ
本当タチの悪い奴らが多過ぎる

515日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:33:07.47
よくわからないけど、
頭が良いのか・・・?と思っているでしょ

観たり聴いたりすると・・・・・・・・・、
何かわかる・・・・とかw

516日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:35:27.91
>>586
>対馬→壱岐を南と言ってるのだからそれを南北基準線とすれば九州は会稽東冶の東でしょ。<

「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の「南」は、
對海國からの出発時点での出発方向の記載であるから、
「対馬→壱岐を南」と言っていないので、
「南北基準線」は、×。

517日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:41:17.03
>>589
>それで畿内説が否定できるような結果の出る論理など 無いな<

「自竹斯國以東、皆附庸於俀」に拠って、自竹斯國以東には俀の都は存在せず、
また、阿蘇山の実地見聞を書いているから、
大和説は、×。

518日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:42:40.68
510 512

519日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:45:17.39
>>417
つ、ついに「陸行一月」を解決しやがったな!
邪馬台国尾張説だと、大和はその奥津城(王家の谷=陵戸公邸+古墳造営キャンプ)ってこつ?
尾張熱田神宮が卑弥呼の王宮跡なら当然富士山(東王父の蓬莱山)の存在を知っていただろうし、山にぐるり囲まれた大和盆地を、西王母の住む崑崙山(神仙郷)に見立てたのかな?

520日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:45:17.96
歌舞伎、芝居が・・・好きだったのかな?
そういう話もしていたり

『老婆談』

偶然にしては・・・・・・・・・・・・・。

521日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:49:16.73
>>591
>よくテレビ番組で取り上げられる昔の東アジアの地図を見る限りでは、<

「テレビ番組」は、文部省の忖度した「偏向」番組が多いから、×であり、
絶対的な根拠にならない。

>九州が会稽東冶の東というより、日本列島全体がそう思われていたような印象を受けるな<

陳寿は、「会稽東冶の東」なんて位置推定を書いていないから、×。

522日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:55:18.96
>>598
>日本列島が南に延びてるんだよね<

日本列島は、南に延びていないので×。

>魏志倭人伝の記録を元にしたんだろうけど<

魏志倭人伝では、女王國は九州島付近であるから、×。

>魏は列島が呉の東にあると意図的に改ざんしたと見るのが妥当だね<

この男は、史料事実を否定改竄する嘘つき騙しであり、
・・・・アホ詐欺師であるようだから、×ね。

523日本@名無史さん2019/05/30(木) 21:57:56.21
チョンキウスが>>1

524日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:01:34.00
>>601
>>九州が会稽東冶の東というより、日本列島全体がそう思われていた<

>それでもいいと思うよ。、

「会稽東冶の東」ではなく「会稽東治之東」であるから、×。

>たとえ九州だとしてもその延長線上に畿内もあるんだから。
「会稽東冶の東」は気にするほどの文言ではないな。<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
女王國はほぼ九州島付近になるから、大和は×。

525日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:04:41.36
『姥清水』起源説?

同じような話(曲)、カブキロックスにもあるでしょ

526日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:05:26.59
>>519
三角縁神獣鏡はまさに道教の西王母と東王父と龍が描かれ、弥生近畿東海の銅鐸祭祀の名残とも言うべき▲▲▲鋸歯紋がなんと3重に!取り囲んでおり、
西の大和盆地を崑崙山に見立て、その中心に卑弥呼の冢を作ったとすると、その神仙思想が実現する!
これが大和盆地に邪馬台国・女王所都があったとすると、崑崙山中で現実の政治を行うことになってしまい、死後の住処である神仙郷を確保できなくなってしまう。

まさに21世紀の真実「邪馬台国尾張説」の誕生である!

527日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:11:50.23
>>514以下あんたの投稿

いかんぜよーーー

奥山じゃあるまいし

528日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:12:15.84
カブキロックス『Suicide Game』



『姥清水』
なぜか、寒いなー・・・の話

529日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:13:32.11
>>526
卑弥呼は死後、自ら西王母となるために、熱田王(神)宮から見て西にある、360℃ぐるり山に取り囲まれた大和盆地の中に自分の墓を作ったのですね。
これが河内平野だと大阪湾→瀬戸内海で開けてしまっているし、その墓は大和盆地に作る必要があったのですね。わかります。

まさに21世紀の真実「邪馬台国熱田説」の誕生です!

530日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:16:46.53
>>529
神奈川県の大和市?

531日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:19:05.70
卑弥呼を准えた天照大神
別名
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命
荒魂は瀬織津比売

尾張の熱田神宮や三河の槻神社に瀬織津比売が祀られている

撞賢木、撞はつく、ツキ
ツキの立派な木ということだろうか?
槻もツキノキ

天照大神の荒魂は木であるということだろうか?

向津とは伊勢の対岸の港という意味だろうか?

興味深い

532日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:20:23.75
頭が悪いんだろう、
家は神奈川県の川崎区というところに住んでいるんだけどw

533日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:21:45.38
>>526
>三角縁神獣鏡はまさに道教の西王母と東王父と龍が描かれ、弥生近畿東海の銅鐸祭祀の名残とも言うべき▲▲▲鋸歯紋がなんと3重に!取り囲んでおり、

そういうこと。ちなみに、龍(神獣)は西王母と東王父の乗り物ね。
まんが日本昔ばなしの金太郎、千と千尋の神隠しでハクに千尋が乗ってるイメージ。
ヒンズー教の牛(神の乗り物)。

534日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:22:16.82
柵か
柵、城は『き』と呼ばれていたらしい
高城たかき 石城いわき
というような例がある
神話におけるスサノオが木を植える話とかどういう意味なんだろうか?
兵を集めて拠点を作ったのかもしれない

古代において、【兵】【巫女】【櫛】【鏡】はセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女や鏡を掲げた巫女の埴輪も見つかっている

木、兵、巫女、櫛、鏡
これが邪馬台国、初期のヤマト政権の起源かもしれない

更に興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
賀は牙
旗印を掲げた拠点 、国境の防衛拠点、関

◎伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊【賀】に石の【城】を作っていたという伝承もある

535日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:23:15.76
>>606
>「会稽東冶の東」ってのは呉をけん制するための記述でしょ
東に魏の同盟国が存在するならば呉は魏に全力を割けない
実際呉は列島に調査隊派遣してるし <

「会稽東冶の東」なんて魏志倭人伝に存在しないから、
この男は分裂幻覚の妄想であり、×。

536日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:27:17.09
>>608
どんな無理しても
「南≠東」や「会稽東治→会稽東冶」などの嘘吐き騙しをしたいのはわかる
大和説はそれて潰れてるからな

537日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:30:11.81
>>610
>それな、無知をさらけ出してるだけなんだよ。 本当に知らなかったのか?
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、
つまり、魏志倭人伝を書くころには呉は既に滅亡していたんだから、
威嚇する必要は無いんだよ。<

成程。

538日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:31:01.35
ニュートリノという、僕達にはそれが何なのか良く分からない物体が、地球外からの影響なしで、地球の地中を進行する物体なのか、
それとも、
ニュートリノという、僕達にはそれが何なのか良く分からない物体が、地球外からの影響なしには、地球の地中を進行することができない宇宙線という物体なのか、
どちらかをどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、討論しようとしている、頭の悪いプロ固定が出現してしまった、、、

486日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:45:14.36
>>367
>更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
>宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。

連続句読点も、ザラゴキなみに頭悪いんだから無理するなってww
宇宙線がなんだかそもそも分かってないだろww

ニュートリノは宇宙線には普通入れないぞw
ニュートリノは地球も太陽もほぼ素通りしてしまう

それに対し、宇宙線はかなりの分量が地球の磁気圏のバンアレン帯で遮蔽されている
ニュートリノはほとんどすべての粒子と相互作用しない幽霊粒子なのだから、それを
例示として宇宙線を語るのはバカ丸出しだww

539日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:33:54.04
老婆が言うには、
なぜか伊達郡というところの話をしていたり

いまの福島県でしょ

540日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:35:00.20
>>538
人出不足と闘っている友人のために実行した、社会での労働で疲れているので、頭の悪いプロ固定を論破することを楽しめば良いな、、、

541日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:35:38.25
>>533
鳴門板野古墳群 西山谷2号墳
斜縁上方作銘獣帯鏡と呼ばれる中国製の青銅鏡1面をはじめ、鉄剣・鉄槍・鉄鏃・土器などが出土している。
鏡は面径12.5cm、重量約157.6gで、右回りに「上方乍鏡竟大工青龍白虎子」の銘文と神仙像と5体の獣形のレリーフがある。
鏡は一部を欠損するが、当時は完全品として副葬されたものとみられる。
同種の鏡は数例出土しているが、そのうち、広島県広島市中子田1号古墳出土鏡が最も類似している。

また、魏の水銀朱が使われた「天河別神社古墳群」出土の斜縁二神二獣鏡

卑弥呼が下賜された青銅鏡は、この「斜縁上方作銘獣帯鏡」の可能性が高まったね。

で、それを真似て仿製し、下賜鏡として三角縁神獣鏡を量産したんだろう。  倭国(阿波)で。   @阿波  

542日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:36:53.87
>>540
笑いリラックスできるな、、、

543日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:39:40.15
>>616
>陳寿は・・・さすがに邪馬台国まできたことははあるのだろう<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つきン騙し文言であるし、
陳寿は女王國にはきていないから、×。

544日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:39:56.70
『ボーボボ』

とある忍者アニメが出てくるでしょ

545日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:40:46.43
527

546日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:42:31.09
>>542
プロ固定は、自演が好きなので、それも楽しめば良いなw

547日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:49:32.49
>>538
国立の難関の学部に所属する、僕達の頭の良い孫が、物理と化学の本を貸してくれたので、読めば良いな、、、

548日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:50:23.51
連続句読点の別キャラ確認w

549日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:51:36.70
それにしても、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定は、頭が悪いな。。。

550日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:52:48.57
連句点ほどではないな

551日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:54:54.73
>>648
>渡来系の何とかを想定しなくても
魏の徐州の銅を使って三角縁神獣鏡は作られたで何の矛盾も生じない
それどころか景初三年に卑弥呼が魏から銅鏡を貰ったとか<

明帝の詔書は、景初二年の12月であるから、×。

>魏は倭国に今までになかった鏡を下賜したとか <

明帝は、魏朝の工房で造った「尚方作」鏡や、洛陽で盛行していた鏡を下賜した。

>魏志倭人伝や梁書・日本書紀・太平御覧、全唐文に書いてある事に一致し
史書の記述を裏書きする事が可能<

後代史家の「自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」文は、根拠にならず、×。

>しかし三角縁を呉の鏡氏が国内で作ったという仮定は
何の文献の記載内容の裏づけにもなり得ないのである<

国分茶臼山古墳に「海東」鏡があるから。

552日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:55:37.89
連続句読点の悪いところは頭だけじゃないだろw

553日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:59:46.62
釣りが得意な者の話では、アタリという物事があっても、針にしっかり掛からないこともあるのではなかったのかな、、、

554日本@名無史さん2019/05/30(木) 22:59:52.22
瀬織津比売→速開都比売→気吹戸主→速佐須良比売

卑弥呼→男王、饒速日→台与→スサノオ系

邪馬台国の王、主要勢力の移り変わりかもしれない
色々妄想が膨らむな

555日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:03:53.66
プロ固定を雇用している者が、何者なのか、釣り上げれば分かるのか、
それとも、分からないのか、、
それとも、プロ固定では、ないのか、、
まだ、分からないのではないのかな、、

556日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:07:46.57
>>555
キナイコシの頭が悪すぎるので、可能性が絞られてきたな、、

486日本@名無史さん2019/05/30(木) 20:45:14.36
>>367
>更に、ニュートリノは地下深くまで到達している位だから、
>宇宙線が地上に常時達している事も、否定しようがない。

連続句読点も、ザラゴキなみに頭悪いんだから無理するなってww
宇宙線がなんだかそもそも分かってないだろww

ニュートリノは宇宙線には普通入れないぞw
ニュートリノは地球も太陽もほぼ素通りしてしまう

それに対し、宇宙線はかなりの分量が地球の磁気圏のバンアレン帯で遮蔽されている
ニュートリノはほとんどすべての粒子と相互作用しない幽霊粒子なのだから、それを
例示として宇宙線を語るのはバカ丸出しだww

557日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:11:04.16
数年前の話になるんだけど

相模原?
このようなスレが建っていたことがあったり、

それとも、そういうネームを
名乗っていた人がいたんだったかな?

何なんだろう

558日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:18:19.02
>>551
>明帝は、魏朝の工房で造った「尚方作」鏡や、洛陽で盛行していた鏡を下賜した。

魏の官製工房は左尚方・右尚方に分かれてるから
ただ「尚方作」とあるのは時代が違うかニセモノだよ

559日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:25:18.25
>>558
ザラゴキが言っているのは、全部仿製鏡判定されている平原1号墓をの32枚の方格規矩鏡のこと
時代が違うのでもニセモノでもなく、ザラゴキに解釈がデタラメなだけ

560日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:31:14.90
助詞のタイピングを、失敗したのではないのかな、、

559日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:25:18.25
>>558
ザラゴキが言っているのは、全部仿製鏡判定されている平原1号墓をの32枚の方格規矩鏡のこと
時代が違うのでもニセモノでもなく、ザラゴキに解釈がデタラメなだけ

561日本@名無史さん2019/05/30(木) 23:33:11.89
外国人留学生が日本語の助詞の使い方を中々理解出来ないという真実を、聞いたことがあるな。

562日本@名無史さん2019/05/31(金) 05:54:56.64
463>>687
>投馬国五万戸領域を出雲・吉備、邪馬台国七万戸領域を河内・大和・近江・越前・美濃・尾張・三河、
それらと交戦中だった狗奴国領域を遠江・駿河・関東に比定すれば、一応、推定石高での整合性を持つのではないか?<

「南≠東」などに拠って、×。

563日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:02:13.05
>>691
>呉系の鏡師が三角縁を国内で作ったとしても
景初や正始という魏の年号が鏡に入っている以上
それが見つかる畿内と魏が交流していた証拠に他ならない <

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和の△は4世紀以後である事からも×。

>いくら呉の鏡師が国内で三角縁を作ったと連呼したところで
邪馬台国が畿内にあった証拠にしかなりえないのである <

邪馬台国も存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

564日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:10:56.43
>>692
>ヤマト王権(邪馬台国)にとって、伊勢・濃尾グループは外様(新規参入組)だったため、前方後方墳の接合部の築造技術を提供すべく、多くの技術者や労働者を提供せざるを得ず、
それで纏向遺跡の搬入土器(15%)に占める割合が50%近くを占めてしまったのかも!<

「ヤマト王権(邪馬台国)」の邪馬台国という文言が、始めから、
存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
九州倭國の「東征毛人五十五國」があって、その征服地の中での、
「市を介しての交流関係があった」だけなの。

565日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:17:38.82
>>694
>呉系なら呉の年号使うしな <

呉の年号を使った(渡来の)呉系楽浪鏡師)もいたようだが、
陳氏らのように、それ以外の呉系楽浪鏡師らは、
明帝から卑弥呼への下賜の銅鏡百枚を知ってからは、魏の年号を使う事にしたの。

>魏と関係ない邪馬台国であればなおさら<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

566日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:28:10.79
>>695
>>(筑紫と大和との関係は)神武らの阿毎氏と、倭奴國や一大率の伊都国の阿毎氏系との、
同じ阿毎氏系部族同士であったんだろう、 という事だろうなあ。<

>つまりザラゴキ説であっても、九州のみの倭国は成立しないってことだ
九州説はどうやっても成り立たない <

九州での倭國亂では、結局は、
阿毎氏と一度合流していてまた別れて大野に移っていた姫氏の卑弥呼が、
共立されて女王になって、安定し、
阿毎氏は伊都国で一大率として卑弥呼政府の軍事的支配を担当する事になった、
という事んんだろうなあ。

567日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:50:12.07
▲と前方後円墳だけで成り立つ畿内説?

568日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:56:31.92
尾張説は弱いよ
魏使が4度も来てるから
尾張に行くには水行だけで充分だよ

569日本@名無史さん2019/05/31(金) 06:59:00.73
あとさぁ
熱田神宮はね、海岸近くにあったのだよ
名古屋に住んだこと無いのかな?????
結構 埋立地が多いよ

570日本@名無史さん2019/05/31(金) 07:53:16.85
>>411
大和西大寺〜近奈良なら、割といいとこなんだけどなw
田原本はちょっと……

571日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:08:44.22
邪馬台国尾張(前方後方墳体制)説が解決する諸問題

1.「南陸行一月」…丹後宮津で上陸→大和盆地まで10日→鈴鹿山脈&木曽川越えで20日
2.漢委奴国王(後漢光武帝)&帥升(後漢安帝)を出した奴国(博多)に王がいない理由…後漢滅亡で権威失墜、倭国大乱の引責
3.奴国ではなく伊都国に一大率が置かれた理由…伊都国王が奴国王に引導を渡した
4.伊都国・平原王墓1号墳(女性被葬者)から出土した国内最大内向花紋鏡=伊勢神宮八咫烏の理由
5.始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)が2人いる理由…神武(神倭磐余彦)と崇神(御間城入彦)
正始中 卑弥呼死 更立男王(神武) 国中不服 更相誅殺 復立卑弥呼宗女台与為王 其後復立男王(崇神) 並受中国爵命
6.大和盆地に奥津城が造られた理由
  西王母の崑崙山(360度ぐるり山に囲まれた大和盆地)と東王父の蓬莱山(富士山)の中間=中原(首都)テーマパーク化
7.三角縁神獣鏡の構造…(画文帯)神(西王母&東王父)獣(龍)鏡+3重▲▲▲の鋸歯紋輪(弥生近畿東海=銅鐸祭祀)

まとめると
ニュージーランド北島タウポ山大噴火→東アジア全域で日照不足による前代未聞のの大凶作・地獄の大飢饉発生(黄巾の乱で後漢滅びる)。
北部九州にも及び奴国王失脚・倭国大乱発生→尾張邪馬台国が食糧支援開始(大和の布留式土器に入れて贈る)→倭国大乱収束
→伊都国王が中心となり、感謝の印に尾張の卑弥呼を倭王に共立→魏帝に朝貢させ狗奴国(関東平野)を併合させる
→大陸や半島情勢に疎い鬼道政治で判断ミス連発→卑弥呼の死後、伊都国王・神武が東征し倭王権を取り返すが国中が従わず数千人の死者を出す乱闘勃発
→止む無く大和橿原に引き、13歳台与を女王に即位させる→鬼道政治の悪夢ふたたび→台与の死後、伊都国王・崇神が再び邪馬台国に赴き倭王権を奪還。
尾張熱田から大和へ遷都、大王即位、ヤマト王権確立(西晋武帝に朝貢報告AD266)。

572日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:18:46.31
>>568
4度って、どういう解釈?

573日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:19:16.20
対馬の可住地面積は、75.83km2なのだな、、、そして、魏志倭人伝時代は1000余戸なのだったな。。。
壱岐の可住地面積は、83.60km2なのだな、、、そして、魏志倭人伝時代は三千許家なのだったな。。。

574日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:22:47.44
>>701
>>纏向遺跡から出土する土器の15%を占める外来土器のうち、東海地方が一番多いらしいねw<

>つまり6、7%くらいが伊勢、東海系土器ということ 85%は畿内土器<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
纏向は、河内や播磨にもはるかに劣る小集落。

>北部九州のように畿内土器しかなくなるのとは話が違う<

筑紫は3世紀前半に、自前の胎土で庄内が出来たが、
纏向の庄内は、3世紀末の石塚から。

575日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:26:19.12
>>571
三角縁神獣鏡の(稚拙な)漢文は、ゴッホの広重「名所江戸百景・亀戸梅屋敷」模写の漢字を想起させる。
http://www.ukiyo-e.jp/japonisme/1
つまり外国人(西洋人・倭人)が意味を理解せずに、象形文字として模写している漢字という感じw

576日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:27:51.65
桜井市の可住地面積は、 39.58 km2だが、大阪のベッドタウンとして開発される前や、沼地だった頃は、無人だった可能性が高いな。。。

577日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:32:07.58
>>702
>魏晋鏡に目が眩んで寝返ったかどうかはさておきw、<

都合の悪いデータを「さておき」したら、そりゃインチキ詐欺。

>出雲の四隅墳丘墓(葺石)、吉備の双方中円墳(楯築)、大和の帆立貝型を主要パーツとして
組み合わせたと考えられる前方後円墳が箸墓で超巨大化するに当たり、
東海地方の前方後方墳の築造技術(特に接合部→中期になると造り出しで崩壊を防いだ?)を用いていることは十分考えられ、
それ(技術者+親方+特殊技能職人たち)が纏向搬入土器における伊勢東海系の多さを物語っているのかもしれない。<

「・・・かもしれない」という程度の話など、インチキ騙しにしかならない。
「南≠東」や九州倭国の「東征毛人五十五國」などの史料実態に適合する論を述べるべし。

578日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:33:37.82
>>571
>邪馬台国尾張(前方後方墳体制)説が解決する諸問題

ヤマト王権・伊都国東遷説のバージョンアップきたか!w

ヤマト王権前方呼円墳体制における前方後方墳体制は、出雲(投馬国?)や濃尾〜関東平野(狗奴国?w)では4世紀に入ってからも継続する。
これをどう推理するかだな。

579日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:34:55.27
対馬の可住地面積は、75.83km2なのだな、、、そして、魏志倭人伝時代は1000余戸なのだったな。。。
壱岐の可住地面積は、83.60km2なのだな、、、そして、魏志倭人伝時代は三千許家なのだったな。。。
桜井市の可住地面積は、 39.58 km2だが、大阪のベッドタウンとして開発される前や、沼地だった頃は、無人だった可能性が高いな。。。

393日本@名無史さん2019/05/30(木) 12:53:40.04
可住地面積
福岡県 2,782.86km2
兵庫県 2,779.90km2
熊本県 2,736.55km2
大分県 1,746.69km2
長崎県 1,660.88km2
佐賀県 1,333.96km2
大阪府 1,324.05km2
滋賀県 1,297.67km2
京都府 1,176.37km2
奈良県 851.28km2

関西は北部九州と比べると人の住める土地は少ないんだよな。

580日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:36:45.25
>>704
>>そもそも畿内は不彌国の南じゃないので圏外です。<

>不彌國の南というのは陳寿がそう考えていたというだけで
現実の地理とは一致しないので反論として無効<

「不彌國の南」というのは、
魏使らの記録に拠って陳寿がそう記載紹介たという事であり、
確率としても十分信頼性があり、
現実の地理ともよく一致もよくするので、
この男も、反論として無効

581日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:37:36.79
今でも関西の方が人多いのに何言ってるのかね

582日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:39:53.90
>>579
熊本市の可住地面積は、328.44 km2なので、壱岐の4倍近くだね。。。

583日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:43:18.10
レベルは低いが、仮にも、魏志倭人伝時代の討論をするためのスレッドに、「今でも」という言葉の正しい使い方を知らない、頭の悪い者が出現したな。。。

581日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:37:36.79
今でも関西の方が人多いのに何言ってるのかね

584日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:44:17.75

585日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:47:53.29
可住地人口密度という言葉があるな。。。

586日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:54:06.87
>>572
発狂解釈

587日本@名無史さん2019/05/31(金) 08:57:51.70
>>707
>邪靡堆は邪摩堆・ヤマトの文字化けだよ<

隋書の邪靡堆と北史の邪摩堆とでは、
どちらが正しかったのか?は断定し難いが、
先に書かれた邪靡堆の方が「古形」を残していた可能性が高い。
また「ヤマト」なんてカタカナ地名なんて存在もしていない嘘つき騙し文言。

>阿蘇山麓なんてどこにも書いてないし<

裴清らは、阿蘇山の噴火を実見記録しており、
だから、阿蘇山の噴火を実見出来る地にまで来ていた、と言うしかない。

>倭國の範囲内に阿蘇山があっただけ<

隋書は、「俀國」と「倭國」とを書き分けており、
「俀國」は阿蘇山のある九州であった事になり、
「倭國」は、「俀國とその東方の附庸地を含む文言」である事になる。

588日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:07:31.53
>>587
旧唐書で日本人が「倭」という字が優美でないとクレーム付けたから「??國」に変えてくれたんじゃないの?

589日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:15:59.47
>>587
>先に書かれた邪靡堆の方が「古形」を残していた可能性が高い。

合理的に考える限り、そんなのあり得ないね

都のある「邪靡堆」=魏志に書かれている「邪馬臺」なのだから
「靡」は「摩」の単なる文字化けだよ

590日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:21:15.37
>>708
>静岡県は地震多発県と知られており、伊豆半島(フィリピンプレート)が本州(ユーラシア&北米プレート)を押し続けている。
https://www.city.sakaide.lg.jp/site/bousai/jisin1.html
東海地方は地震多発が宿命で、前方後方墳の墳丘崩壊予防技術が、卑弥呼の箸墓を造るに当たって参考にされ、技術者が招かれたのかも知れん
また、段築最下段の造り出しが、中期(佐紀盾列・百舌鳥古市)の更なる巨大化に当たって考案された墳丘崩壊対策というのは新しい視点かも!<

太平洋プレートとフィリピンプレートが、
シベリアの古生代からの安定陸塊を押して、
その下に潜り込もうとして地震や火山や断層を発生している、
という点では、列島はほぼ全域で同じ事。
フォッサマグナ付近や中部山岳部が特に圧迫が強い、という事であるだけ。

591日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:23:32.61
>>709
>九州説にはまともな人格を持つ人間がいない、

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、全員、
まともな人格をもっていない人間。

592日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:24:22.07
問題が作製されました。。。

ある地域の可住地面積が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、ある地域の可住地人口密度とその他のある地域の可住地人口密度の比が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、魏志倭人伝時代の対馬や壱岐の戸数または家の数の記録が、概ね正しいとします。。。
熊本市と桜井市の魏志倭人伝時代の戸数または家の数は、どのくらいの範囲の数だったと予想できるでしょうか、、、

593日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:28:03.60
捏造屋の温床畿内説さん。
各種掲示板に宣伝係が設置されて20年ぐらい経ったが成果はあったのか?

594日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:28:12.10
>>581
近世から埋め立てまくったからね
関西てか西日本最大の都市の大阪市とか、昔は湿地帯で
谷町筋近辺以外は人が殆ど住んでなかった

595日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:29:37.38
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。

596日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:36:46.67
やはり、4世紀に始まった前方後円墳時代の前の奈良盆地には、人よりも鹿の方が多かったのではないのかな。。。

597日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:40:08.63
>>595
九州が借金漬けという意味だろう

598日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:44:46.52
>>595
筑前筑後あわせても畿内の方が大きいね

599日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:47:20.55
>>595
実際の稲の収穫とは無関係だろ

600日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:47:42.47
リトルボーイという恐ろしい物体が、中性子を発生させた可能性があるな。。。

601日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:49:49.90
原子核から飛び出てしまった中性子は、何かに捕獲されるまで、進行するのではないのかな。。。

602日本@名無史さん2019/05/31(金) 09:50:39.81
途中に、海中を通ったのだろうか、、、
それとも、通らなかったのだろうか、、、

603日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:07:48.29
>>595
可住地面積
福岡県 2,782.86km2
兵庫県 2,779.90km2
熊本県 2,736.55km2
大分県 1,746.69km2
長崎県 1,660.88km2
佐賀県 1,333.96km2
大阪府 1,324.05km2
滋賀県 1,297.67km2
京都府 1,176.37km2
奈良県 851.28km2

関西は北部九州と比べると人の住める土地は少ないんだよな。

604日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:09:17.15
僕達の計算では、リトルボーイという恐ろしい物体が、桜井市の地中に埋まっている炭素に与えた影響は、無視しても良いな。。。

605日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:11:37.00
問題が作製されました。。。

ある地域の可住地面積が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、ある地域の可住地人口密度とその他のある地域の可住地人口密度の比が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、魏志倭人伝時代の対馬や壱岐の戸数または家の数の記録が、概ね正しいとします。。。
熊本市と桜井市の魏志倭人伝時代の戸数または家の数は、どのくらいの範囲の数だったと予想できるでしょうか、、、

606日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:23:46.37
>>603
畿内に負けてる福岡県

607日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:24:00.50
対馬市の可住地人口密度は415人なのだな。。。
壱岐市の可住地人口密度は324人なのだな。。。
熊本市の可住地人口密度は2256人なのだな。。。
桜井市の可住地人口密度は1446人なのだな。。。

つまり僕達の作製した問題の中の二つの仮定が、両立しないので、問題を作製しなおさなければいけないな。。。

608日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:26:42.43
>>606
大和説になったり近畿説になったり、まるでカメレオンのように立ち回わらなければ死んでしまう畿内説www

609日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:29:33.13
独立した2つの問題が作製されました。。。

1番目の問題
ある地域の可住地面積が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、ある地域の可住地人口密度とその他のある地域の可住地人口密度の比が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、魏志倭人伝時代の対馬の戸数の記録が、概ね正しいとします。。。
熊本市と桜井市の魏志倭人伝時代の戸数は、どのくらいだったと予想できるでしょうか、、、

2番目の問題
ある地域の可住地面積が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、ある地域の可住地人口密度とその他のある地域の可住地人口密度の比が、魏志倭人伝時代と現代でもあまり変化していないと仮定します。。。
そして、魏志倭人伝時代の壱岐の家の数の記録が、概ね正しいとします。。。
熊本市と桜井市の魏志倭人伝時代の家の数は、どのくらだったと予想できるでしょうか、、、

610日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:31:30.64
家と戸は、違う単位なのだろうか。。。

611日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:32:07.01
>>599
江戸期の藩の石高をみても畿内より九州が圧倒

612日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:34:19.53
>>611
根拠は?

613日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:45:54.49
>>739
>(平原)全く同意。 こんなショボい墓が、親魏倭王の墓の訳がない。
『径十歩に満たない』は致命的。<

壹與の墓であった、とすれば、十分。
「親魏倭王」であったのか?は不明であり、
名前からも(姫氏の卑弥呼とは違って)阿毎氏系であった可能性が高く、
亡くなっても魏の薄葬令に縛られて、郷里に戻って、
豪華な副葬品を付けて埋葬して貰っただけ。

614日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:47:30.94
邪馬台国が九州のどこなのかも言わずに「九州の方ガー、九州の方ガー」と連呼するのが
九州説詐欺の基本技

615日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:50:35.99
>>613
>亡くなっても魏の薄葬令に縛られて、郷里に戻って、
>豪華な副葬品を付けて埋葬して貰っただけ。

魏の薄葬令に縛られて
豪華な副葬品って
ばかですか

616日本@名無史さん2019/05/31(金) 10:55:52.81
邪馬台国論争は永遠のジグソーパズル。

九州には冢(100人殉葬150m円墳)がないし、大和には王都(鉄・文字・馬)がない。

つまり、九州(大和奥津城)説が正しいのである!

奥津城(王家の谷=神仙郷)なら離れていても問題ないし、むしろ人口密集地で土地不足の弥生銀座(大都会)北部九州から離れていた方が良い。
日本海ルート(片道2ヶ月・往復4ケ月)と違い、魏使には隠した地中海=瀬戸内海(神武東征)ルートなら日向→筑紫→豊後→安芸→吉備→大和と主要国王を訪問(視察)しながら行ける。
台与が悲惨な殉葬を止めさせ寿陵・箸墓築造>>384、次の崇神大王になってからモモソ姫も合葬>>388
ということで>>392!!!

617日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:10:04.11
>>616
>日本海ルート(片道2ヶ月・往復4ケ月)と違い、魏使には隠した地中海=瀬戸内海(神武東征)ルートなら日向→筑紫→豊後→安芸→吉備→大和と主要国王を訪問(視察)しながら行ける。

しかし視察した見聞録がないのである!

618日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:12:51.88
>>616
>奥津城(王家の谷=神仙郷)なら離れていても問題ないし、むしろ人口密集地で土地不足の弥生銀座(大都会)北部九州から離れていた方が良い。

盗掘を防ぐためだったのかも。つまり纏向宮殿は、それを監視する陵戸の公邸。

>日本海ルート(片道2ヶ月・往復4ケ月)と違い、魏使には隠した地中海=瀬戸内海(神武東征)ルートなら日向→筑紫→豊後→安芸→吉備→大和と主要国王を訪問(視察)しながら行ける。

視察ルートを「神武東征」ルートとして描いたのかも。

619日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:22:48.93
>>614

都合のいい時だけ筑紫は九州全域だとか九州のどこかだとか、勝手な使い分けをするダブスタ厨

620日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:25:36.90
>>756
存在もしない「畿内」という嘘つき騙し文言を使う「畿内説」者って、
きっと日本国民の7割とは違う人たちなんだろうね
ナチスやイスラムや白豪主義者や皇国史観国粋殺戮戦争のキョクウとかと、同類なんでしょ?

息をするように嘘を吐くのは大和説だろ?
スレ主や大和説者や大和説学者を見てもすぐ分かる
それに日本史という人文科学で「勝ち負け」をいうのがもう痛々しい限りだ

621日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:26:46.66
>>616
3人合葬箸墓・後円部(直径160m)の断面図
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/…………台与………\
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
1段目/幅5m盛土+卑弥呼の冢+幅5m盛土\
周濠…殉葬奴婢100人

622日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:30:01.55
>>759
>最初の倭王の讃は、履中天皇。<

大和の天皇なんてまだ存在していなかったんだし、
倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」や「南≠東」などに拠って北部九州であり、
倭王讃は、東海姫氏國の姫氏の人。

623日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:34:09.62
実年代=古事記の没年情報(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+中国への朝貢記録+同時代人
◇奴国(博多)【後漢皇帝の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易&外交本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(後漢光武帝より金印を賜る)
帥升(情報なし)…107年(後漢安帝に謁見を願い出る。生口160人を献上)
◇邪馬台国【狗奴国卑弥弓呼・狗古智卑狗との争い→魏帝・西晋帝に援軍要請】
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(大夫…難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら)
台与(235年〜?)…248年(13歳で女王に共立)/266年?(西晋武帝へ)
◆崇神朝【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を大量獲得)】
10祟神(〜318年)…四道将軍(大彦/武渟川別/吉備津彦/丹波道主)派遣、310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の東征&西征335年頃? 大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)  
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◇応神朝【半島派兵(高句麗との争い&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)帝に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢?
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆継体朝【中央集権強化>筑紫君磐井の乱】
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮)

624日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:35:38.64
>>618
しかし視察した見聞録がないのである!

625日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:38:08.74
>>778
ここで威張っていても
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
国民には説得力を持たなかった。

626日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:41:48.52
>>782
>−纏向遺跡は王都ではなく、
北部九州にいた倭女王卑弥呼の奥津城(古墳造営キャンプ)、
宮殿は箸墓に葬られた卑弥呼の命日祭祀を行ったセレモニーホール(台与の貴賓室)<

「南≠東」などに拠って、×。

627日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:50:04.91
>>622
履中(讃)は畿内ヤマト王権の王の一人
御陵は、
>宮内庁により大阪府堺市西区石津ヶ丘にある
>百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)に治定されている

628日本@名無史さん2019/05/31(金) 11:50:55.74
ザラコクは古田説のスレ立てたら
詐欺師古田の説はもう説得力失ってるけどな

629日本@名無史さん2019/05/31(金) 12:11:54.64
>>581
今んとこ、この人が最高にキテる

630日本@名無史さん2019/05/31(金) 12:15:18.51
九州王朝説とか九州倭国説とかのスレを立ててやって欲しいわ

631日本@名無史さん2019/05/31(金) 12:18:50.16
>>618
なるほど
神武東征の出発地が日向だとすると、天孫降臨の高千穂で戦勝祈願してから、纏向で饒速日が前方後円墳を造っていた大和入りしたんだろう
織田信長が熱田神宮に戦勝祈願して桶狭間で見事勝利し、築地塀を寄進たようなもんだね

632日本@名無史さん2019/05/31(金) 12:22:33.33
>>790
本当に国民はこのテンプレが「南→東」などの嘘付き騙しである事を知っているんだよ。
そして、何も考えずに「大和説かな」くらいに思っている人も、
ここのテンプレを読めば、
ああ、南→東などの嘘付き騙しをしているから、
「大和説ってもうないんだ」って気付いちゃうからね

633日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:00:56.65
このクソスレでいくら議論してみても纏向が邪馬台国の都である証拠は出てこないし、同様に九州に邪馬台国があったことも証明できない。みんな文献や考古学的史料を自分に都合よく解釈しているだけ。

634日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:10:39.12
九州系土器ほぼないから、まあ纏向ではない
別の畿内の場所をリストアップしたらよい

635日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:12:00.33
>>633
テンプレ読んだ?
読んでないからそんなイチャモンつけてるんだろう
仮に読んでても、ちんぷんかんぷんだったと白状してるようなもの

636日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:17:27.94
>>635
あのテンプレはひどいな。
まず日本語がなっていない。
相手に理解させる気が全く感じられない。
ただ量で言いくるめるだけの詐欺師の話法。

637日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:18:07.12
>>421
古墳の大きさは地域や時代によって意味合いが違うというのが最近の成果
政体の力強さという側面のみで捉えるのは古く、文化的威信財という側面も強かったとみられてる
なので同じ型の墓であれ、同一政体が支配したとまでは言えない

638日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:20:20.39
>>634
ニュー速に九州説のやつが貼ってたデタラメ情報を鵜呑みにしゃちゃったんだねw
テンプレ本文◆7を参照

639日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:27:48.56
畿内に決まってる、九州はあり得ない
佐原真さんや春成秀爾さん等がそうおっしゃってる

640日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:28:31.42
>>637
だれが言ってる説?

641日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:35:18.64
>>640
文化と政治は同じ時空間であるというのはとっくに否定されとるよ
あんた何年前の人なんだ

642日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:37:40.67
>>636
どう「なってない」のか具体的にどうぞ
あなたが頭悪すぎて3行より長い文章が読めないだけでは?

643日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:39:02.94
>>641
だれが否定したの?

644日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:42:57.76
>>643
驚いたな、まだ60年前から進歩してない人がいる

645日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:45:40.08
>畿内に決まってる、九州はあり得ない

などと、いったい誰が決めたのか??
(ま、どうせ佐原真さんや春成秀爾さん等がそうお決めになったんだろうけどな。。。)

646日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:08:30.42
>>644
おやおや
誰だか言えないんだね

情報の出所も根拠も言えないんなら>>644の妄想ということでいいね

647日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:12:02.44
墓の形式なんて、倭人として共有している文化なんだからさあ、
流行り廃りもあるわけで、政治的変化を反映するものでは無いわけよ。
土器も然り。
政権争いの痕跡と言えるのは戦争の痕跡のみであり、しかもどちらが制したなど分からないし。
連合の範囲となれば武器の共通性を見るとかしなきゃな。

648日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:14:24.84
>>647
だから、それは誰の説なの?

649日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:15:15.19
>>646
お前がまず、モモソ姫の墓がデカく造られた理由をエビデンス付けて説明してみなよ。

650日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:16:04.28
巨大古墳群が王権の象徴だと規定されると
百舌鳥・古市古墳群と倭の五王との関係を否定できなくなる
それで一番困るのは九州王朝説の信者たち

651日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:18:02.62
何かの討論が始まったので、邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定を論破すれば良いな。。。

652日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:18:59.30
どの意見が、邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定の意見なのだろうか、、、

653日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:19:09.59
>>650
いいから、墓のデカさが何を意味しているのか、論理的エビデンスを付けて説明してみろよ。

654日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:20:23.95
大きさだけでなく、向きもな。

655日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:21:12.06
>>649
やりとりを横から見てたがワロタ
デタラメ説ででっち上げて嘘ついたが、突っ込まれて答えられなくなると、逆切れで逆質問www

656日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:21:54.38
この質問をしたのは、邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定なのだろうか、、、
それとも、違うのだろうか。。。

640日本@名無史さん2019/05/31(金) 13:28:31.42
>>637
だれが言ってる説?

657日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:22:40.60
>>655
お前一人しかおらんぞw

658日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:23:14.23
伝仁徳天皇陵を築くのにどれくらいの労力と時間が掛かるのか
大林組が試算したところ、古代工法だと人数一日2千人として
要する時間は15年8ヶ月、 総工費は現在の価格で796億円

これだけの時間と労力を費やす事が出来るのはヤマト王権の王である証し

659日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:25:07.23
お題はこれだな→>>641

文化と政治が連動しているとする畿内説はすでに存在しないという話

660日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:25:09.19
僕達が、社会での労働をしている間に、邪馬台国九州論に圧倒的有利だった討論の内容が、別の内容に変換されてしまったので、攻撃目標がはっきりしなくなってしまった。。。

661日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:26:56.10
文化と政治が連動しているとする畿内説はすでに存在しないという、当たり前の内容に、討論の内容が変換されてしまっていたのだな、、、

659日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:25:07.23
お題はこれだな→>>641

文化と政治が連動しているとする畿内説はすでに存在しないという話

662日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:27:09.93
>>659
それ。

>>658
3世紀の墓でよろしく。

663日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:27:48.71
邪馬台国九州説の支持者でも
九州王朝論を支持するとは限らない

664日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:29:52.63
邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定が、、、文化と政治が連動している、、、という、頭の悪い意見を発表したのは、何番の投稿だろうか、、、

665日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:32:06.51
>>664
スレッドを検索すれば、良いな。。。

666日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:33:29.35
>>664
モモソ姫は卑弥呼であり相当偉かったんだから、箸墓ほどの大きさでなきゃおかしい。
と5ch畿内説が熱弁してるのは珍しくない光景だろ?w

667日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:33:37.39
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。 。。。
という意見があるな、、、

668日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:35:56.90
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。 。。。
という意見の、論理の展開は、頭の中にある脳細胞が、空気のシャワーで破損してしまった者の思いつく論理展開だな、、、

669日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:38:34.19
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
という意見は、どうだろうか、、、

670日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:41:05.49
「鉄」など「国家的資源の流通」に的を絞ればいいのに。
祭祀用具だの墓制だの日用品だの調べても意味が無いということだろ。

671日本@名無史さん2019/05/31(金) 14:59:48.93
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
という意見は、可能性への言及だけでやめれば良かったのでは、ないのかな、、、

672日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:03:57.58
>>671
と見られる、考えられると言いいつつ、最後は「フィードバックされたのである 」と断言して終わる。

畿内説が変な目で見られる理由TOP1だなw

673日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:04:36.42
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。。。
という意見は、どうだろうか、、、

674日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:05:57.41
>>635
>テンプレ読んだ?
>読んでないからそんなイチャモンつけてるんだろう
>仮に読んでても、ちんぷんかんぷんだったと白状してるようなもの

自分でよく読み返してみればいい
最初から畿内、それも纏向に決まっている、という先入観を持って考古学的史料を見ているから決定的な証拠だと自分で思い込んでいるだけ
客観的に見たら纏向が邪馬台国の都だという証拠は何もない
そもそも、魏に朝貢したからといって、当時の日本列島で一番大きい都である必要はない
金印か泥封が出てくれば一番いいが、それが無理なら魏から渡された木簡でも出てこない限りは証拠にならない

邪馬台国が九州にあったことを裏付ける証拠も同じように何もない
現時点では結論が出ないということ

奥山はこんなクソスレにせっせと書き込みする時間があるなら纏向に行って発掘調査に精を出した方がいいのではないか

675日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:07:14.84
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。。。
という意見は、文化と政治が連動していることの否定になるな、、

676日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:09:14.89
邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定に、元気が無くなってしまった。。。

677日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:11:58.09
>>646
政経そこから展開される文化風俗、そのようにして進んでいく
というのは
遠い昔に爬虫類顔とまでいわれるフランス人にこてんぱんに叩きのめされたでしょ……

678日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:15:45.85
纒向遺跡
刀剣の柄・鞘が出土 近くに武器工房存在か 桜井 /奈良
https://mainichi.jp/articles/20190530/ddl/k29/040/482000c

679日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:23:01.26
テンプレを天ぷらのようにあげてるが、その論調が畿内説をただの
胡散臭い妄想説に変換してしまっているという事に気付けない>>1
が、まさに考古学会の体質をよく表していると言える。

680日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:26:06.24
>>672
可能性を絞り込んでいくのは普通の科学的思考だがな

681日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:26:22.75
>>795
>片道2カ月と魏志倭人伝には書いてあるんだが?<

魏志倭人伝には、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている書かれ方が、
なされているから、×。

>九州島内ではないことが確実だな<

「南≠東」も相まって、大和ではない事が、確実だな。

682日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:29:46.46
考古学会という、地層への捏造行為に踊ってしまった経歴を持つ集団は、態度を完全に変換する必要性が高いな、、、

683日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:31:39.19
>>678
そのネタ古くね?
刀剣の柄w
とことん鉄を溶かす奈良の特殊土壌w

684日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:31:57.58
>>674
>最初から畿内、それも纏向に決まっている、という先入観を持って考古学的史料を見ているから決定的な証拠だと自分で思い込んでいるだけ

だという証拠は?
なんの証拠も出さずに断定するの?

685日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:34:32.21
可能性があるというだけの物事を、断定してしまうことは、可能性を絞り込んでいくこととは、正反対なのではないのかな、、、

680日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:26:06.24
>>672
可能性を絞り込んでいくのは普通の科学的思考だがな

686日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:38:59.45
>>684
纏向からもうちょっといいものが出土するといいですね

687日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:39:39.15
>>796
>>3.当時、土器は家庭の主婦が自分で作っていたため、
日用品(×下賜品×威信財×刃物×鉄〇土w)である <

>そんなんだったら、一軒ごとに土器の形がバラバラになって、土器様式による編年なんてできないよ<

大して関係がない。
一般土器なら、部族や地域ごとに、土器製作方法の伝授伝世が行われていて、
その中での土器様式の編年も、意味があるんだろうが、
支配者の支配祭祀のための土器であれば、部族や地域ごとに統一性が強くなるもんだろう。

>弥生後期以降の社会は、専業者の存在が推知できる分業と協業の社会で、
土器生産のセンターの存在が推定できる<

国家祭祀ではセンターが存在し得ても、
部族単位では、センター等必要がなかったんだろう。

688日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:41:55.90
>>683
木製の道具は数ヶ月か数年使ってれば壊れる
だから捨てたものが見つかるんだよ

689日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:42:03.26
問題が作製されました、、、

架空のロシアのルーレット会場で、架空の奥山氏が死体になる可能性があります、、、
ルーレットが終了したとします、、、
奥山氏は、死体になったでしょうか、、

690日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:43:52.94
>>798
>器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法は、阿波の「東阿波型土器」が元祖だよ。
>丹の採れないところに卑弥呼は居ない。@阿波<

阿波も、大和説と同じく、「南≠東」などに拠って、×であり、
大和説と同じ穴の貉。

691日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:44:27.00
>>685
おっしゃる通りw

692日本@名無史さん2019/05/31(金) 15:47:40.85
>>800
>北部九州の王がわざわざ墓をお参りにおいそれと行けないよな遠地に作るはずがないだろ?
めちゃくちゃだな、おいww
それに九州説は、九州のみの倭国という原則を放棄したら瓦解するだけだぞw
纒向まで倭王の勢力圏にしたら九州説は成立の余地もないw<

倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って北部九州にあったのであり、
大和は、倭国の「東征毛人五十五國」に拠って出来た旧小国の中の一国であったの。

693日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:00:14.33
>>804
>>素人目に見ても仕上がり甘め&緩めの三角縁神獣鏡もねwww<

>そういうのは倭国で作ったコピー鏡だよ<

渡来の呉系楽浪鏡師らの直接的な製作鏡やコピー鏡ではなく、
彼らの弟子になった鏡作り神社などの倭人の製作鏡。

>そんなコピー鏡まで人気があった理由を考えないと!
そして、素人目に見ても精緻な仕上がりの優品の三角縁神獣鏡もある
そういうのが舶載鏡判定されていて、<

列島で造られた鏡は、舶載鏡ではない。

>卑弥呼の鏡と考えられているんだよ<

卑弥呼への鏡には、△はない。

694日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:05:28.87
あの中国で見つかっか三角縁神獣鏡は確かに出来が悪いよな。
近年になって日本製を逆輸入して更に現地でコピーしたんじゃないの?
たいていの古墳は盗掘されまくってるんだから盗品が世界のコレクターの
手に渡っている可能性も否定できないし。

695日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:06:10.04
>>806
>畿内の卑弥呼は命令を出すような支配者じゃなくて、共立された統一祭祀王だよ<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。

>前方後円墳の作り方は、その知識のある人が直接移動しないと伝わらないだろ<

(倭奴國や伊都国系の)阿毎氏系の東征毛人五十五國の将軍らに拠っての、
那珂八幡などから石塚への伝播。

>九州は魏使の往来のときに必ず立ち寄るところだよ
外交は倭王の卑弥呼が行う<

「大和の卑弥呼」説は、「南≠東」などに拠って、×。

696日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:07:23.57
奈良で見つかる異物も実は九州の古墳から盗まれた物だったりしてもおかしくないよね。

697日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:10:35.17
>>808
>日用品と祭祀用供献土器を一緒にしちゃダメだと何度言えばw
炊飯器の例えでいうなら、炊飯器だけでなく中国が中華鍋まで使わなくなって
炊事用具一式全部、日本のものを使うようになったら、中国と日本は文化的に一体化したと言える
弥生終末期の北部九州で起こったのはそのレベルのこと<

筑紫の庄内は、筑紫の胎土での3世紀前半。
大和の庄内は、筑紫から伝播に拠って、3世紀末から。
そのレベルのこと。

698日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:19:42.07
>>811
>初期の斜縁神獣鏡の優品は舶載鏡<

明帝は、呉系の神獣鏡を下賜鏡に選択する筈がないから、舶載鏡説は×。
渡来の呉系楽浪鏡師ら加々本に拠っての製作鏡であった、とするしかない。

>うるさく見る人は、舶載鏡の三角縁神獣鏡はまだ8枚しか出土していないという人までいる<

そのうるさい人は、人類の常識知らずの、・・・・アホ詐欺師。

>後期に国産鏡が作られたことは畿内説も認めているし、常識だが
否定の論拠にはならない<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
後期の国産鏡は、渡来の呉系楽浪鏡師らの指導で、倭人の弟子たちが造った鏡であるから、
このスレ主らも、・・・・アホ詐欺師。

699日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:24:35.02
>>645
佐原真さんて、ゴッドハンドを擁護して
疑問を呈した人を叩き潰してた人では?

700日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:30:08.90
>>859
結局、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
いつも「具体的な根拠のある反論」ができずに逃げ回ることになる

701日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:34:24.77
何があっても
何を言われても
絶対に証拠を出さない
それが九州説

702日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:36:07.96
>>668
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は・・・・


勘違いをしてはいけない。

畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。

文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   @阿波

703日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:37:41.85
中国の市場で売られていたのが見つかった三角縁神獣鏡も神の手なんだろう。

704日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:39:46.80
>>702

阿波説は逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論ある人は、はい、どうぞ。   @阿波 

705日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:41:31.91
>>890
>>日本という単一国家が存在したなど時代錯誤も甚だしい。<

>これが捏造 畿内説はそんな主張ではない
卑弥呼の共立を期に、列島の広い範囲の首長が祭祀連合を組み仲間意識を
はっきり持つようになった、というのが日本の国家形成の契機になったというのが
標準的な畿内説の考え方
仲間意識を同族意識、倭という民族の枠組みと言い換えてもいい
そういう一つのカテゴリーが意識されるようになったのが、邪馬台国の時期のこと<

邪馬台国も畿内も、存在もしない嘘つき騙し文言。
また「卑弥呼共立」を畿内としているから、このスレ主らは、
「南→東」などの嘘付き騙しをする・・・・アホ詐欺師である事になり、×。

706日本@名無史さん2019/05/31(金) 16:46:46.61
>倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って北部九州にあったのであり、
>大和は、倭国の「東征毛人五十五國」に拠って出来た旧小国の中の一国であった
>の。

崇神王朝の朝鮮進出が展開されてた頃、軍事的カリスマだった応神が九州で挙兵して
東征を開始、畿内を征服して、応神朝という新王朝を開いたのだった

707日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:17:18.07
>>901
>旧唐書 「日本國者,倭國之別種也。」 日本国は倭国の別の国号である
→今後はこれまで倭国と呼んでいた国を日本国として記すという説明<

「日本國は、倭國の別の種(タネ)なり」と書かれているのであり、
「日本國は、倭國から別れた別の國である」事を示すから、
スレ主らは、×。

708日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:20:09.18
>>668
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は・・・・


勘違いをしてはいけない。

畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。

文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   @阿波

709日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:29:24.16
>>902
>旧唐書倭國傳
倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行
新唐書日本國傳
日本,古倭奴也。去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。
まとめ 倭国と日本国は同じ国土の同じ国<

旧唐書と唐会要は、9世紀半ば近くまで、
倭國と日本國とは別の国であったとして書き分けており、
そして、新唐書の時点では、
倭國の別国の独立的なな状態がはっきり無くなって、一つの「日本」になっていたから、
新唐書は、倭國伝や卑弥呼や倭の五王や多利思北孤を書かず、
白村江で大敗した倭國を併合吸収継承した大和日本國の伝として、
「日本」伝だけを書いた。

710日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:30:24.15
>>707
>「日本國は、倭國の別の種(タネ)なり」と書かれているのであり、
>「日本國は、倭國から別れた別の國である」事を示すから、

最初から別のタネなら別れたんじゃないなね?

711日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:33:12.53
>>912
>もしくは投馬国の比定地を広島あたりに変えるか ? <

「南≠東」などに拠って、×。

712日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:34:55.98
そんなことよりも『七宮人』読んでみた?

>さて、六供・七宮人の話は史実です

713日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:35:33.46
>>709
それこそ、後世の史家による
『自己解釈』の典型だろ

714日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:42:01.51
>>921
これが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の典型。
何の根拠もなく、ただ人種差別的な汚い言葉での誹謗宣伝を書き付けるだけ。
前方後円墳体制は、単に、
筑紫の伊都国の阿毎氏系の「東征毛人五十五國」の将軍や部将らが広めた体制なんだぞ 。
大和説者は、新しい研究成果や発見を全部、無視または否定しないといけないから、
大変だ。

715日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:45:05.49
>>714
九州説は毎日こんなウソばかりついています

716日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:45:06.28
>>925
>ついに、長年の謎が解けた!
狗奴国と戦争していた邪馬台国は筑紫平野・甘木朝倉にあったが、
その奥津城(神仙郷=始皇帝陵の地下宮殿に相当)が大和にあったのだ。<

「南≠東」などに拠って、×。

717日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:47:43.03
>>930
>古墳時代、ヤマト王権が存在したとされる大和&河内は、
歴代倭王(九州王朝)の神仙郷(奥津城)で、
基本的に前方後円墳とセレモニーホールだけ。<

「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしているから、×。

718日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:49:24.24
>前方後円墳体制は、単に、 筑紫の伊都国の阿毎氏系の
>「東征毛人五十五國」の将軍や部将らが広めた体制なんだぞ 。

根拠なし

719日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:54:15.49
あと板倉が何やらとも書いてあるでしょ
『板倉小隊』の話でもなさそうだしな・・・、何なんだろう

720日本@名無史さん2019/05/31(金) 17:54:20.51
>>932
大和説者はどうして人の話を聞かないんだろうね?

>北部九州の王がお参りにもおいそれとは行けないような遠地に
わざわざ墓を作るはずがないだろ? めちゃくちゃだな、おいww
それに九州説は、九州のみの倭国という原則を放棄したら瓦解するだけだぞw
纒向まで倭王の勢力圏にしたら九州説は成立の余地もないw <

前から、
唐会要の「正北抵新羅」に拠って、倭國は北部九州にあったのであり、
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の古の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、
と説明して置いてある。

721日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:04:04.73
>>937
>古市・百舌鳥古墳群のような巨大古墳群はヤマト王権の権威と権力の象徴<

いずれも、九州倭國の「東征毛人五十五國」の、河内や和泉の将軍たちの墓であり、
九州王権の権威と権力の象徴。

722日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:07:23.52
>いずれも、九州倭國の「東征毛人五十五國」の、河内や和泉の将軍たちの墓であり、
> 九州王権の権威と権力の象徴。

根拠なし

723日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:08:23.05
>>938
>つまり当時の畿内は王家の谷だった、じゃあどこの王家の谷だったのか?
でも北九州はさすがに遠すぎるね <

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
古市・百舌鳥古墳群は、いずれも、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の、河内や和泉の将軍たちの墓であり、
九州王権の権威と権力の象徴であり、
大和の記紀は、彼らが大和王であったかのように、盗用したもの。

724日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:20:37.75
むかーし山の上のほう(山王?)に住んでいたという話と、
『ボーボボ』『』『』・・・漫画アニメ、ゲーム、その他


なぜ同じなんだろう

725日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:24:00.70
奥山氏が死に体になってしまったようだが、後継はだれがやるんだ?

726日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:26:52.72
まらどーだ?
もれ(仮)の兄と同じ・・・10月3?日生まれ

伊達郡の川俣町という掲示板でも同じような話をしていたり、
あるぜんちん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・とか

数年前の、とあるスレ、
お前らジャンプ(コミック)が好きなのか?と言っている人がいたり

ストーカー?

727日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:28:22.67
>>945
>瀬戸内海を船で来れば簡単。<

「南≠東」であるから、×。

>「会稽東冶の東」と書きたい魏使には、わざと遠回りの日本海ルートを教えたんだろう。<

「会稽東治之東」であるから、これも×。

728日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:39:17.63
『松傾』

松の木が立てられていて、
オジギソウ・・・シダ類などの植物が写っている写真
家は、その家なんだけど

あとキュウリのような葉、葱の華w

ホンモノなんだろう・・・?

729日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:42:28.05
あと妹もいる、5月15日生まれ


『何者にもなれない お前たち』?

730日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:48:17.61
>>959
>>《唐會要》では「藤原朝臣常嗣」→「薜原朝常嗣」の他に
>>記録記載された名前の文字が違えば、当然別人の可能性もある。<

>君は知らないのだろうが、日本に薜原という姓は無いんだよ。<

君は知らないんだろうが、唐会要倭國伝の史料事実に拠れば、
「開成四年正月」の遣使は、倭國使節を名乗り、
「薜原朝常嗣」と名乗り記帳した、という事になるんだよ。

>>大歷十二年条で「小野朝臣石根」→「朝楫寧」、「大神朝臣末足」→「總達」となっている。<

>つまり、《唐會要》の表記はあてにならない。<

唐会要は、唐政府の記録通りに書いたのだ、
という事が判る。

>>名前の文字が完全に違っていれば、別人であった可能性の方が高い。<

>音は似てるよ。 そんなんでは、《續日本紀》に掲載されている高官を否定する理由にならないね。<

九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した×史書の、
記紀を書いた大和政権の「續日本紀」では、絶対的な根拠にならないよ。

>《唐會要》は《舊唐書》よりあてにならない。<

どちらも十分あてになる。

731日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:50:16.92
3世紀半ばにはもう古墳時代が始まってて
博多あたりに古墳ができてるんだから
もう邪馬台国は機内で決まりだろ

732日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:53:04.82
>>964
そう考える事が出来るんなら、
何故に畿内なんて存在もしない嘘つき騙しをしてまでして、九州説にはならないの?

「南→東」などの嘘付き騙しに拠って、
大和説の目はゼロだと、自分で分かるでしょうが?

733日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:54:18.03
>>731
年代前倒し詐欺

734日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:54:57.22
卑弥呼の死後に筑紫の求心力がなくなったんだなあと思う。

735日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:55:14.25
>>730
>どちらも十分あてになる。

その「あてになる」ほんに倭国が日本と改名したと書いてあるんだよ
倭国と日本は同じ国だ

736日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:57:21.32
>>733
証拠もなく詐欺呼ばわりするのは中傷だよ
九州説は嘘と中傷以外なにができるの?

737日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:04:12.43
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。

これが誰でも知ってる通説

738日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:06:43.84
また、論破すれば良いのではないのかな、、、

739日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:08:09.70
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
  ↑
  それが共立された女王卑弥呼の墓

その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
  ↑
  それが邪馬台国

箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。
  ↑
  邪馬台国は畿内にあった

740日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:09:23.03
>>738
どこまで論破したか、読めば良いのではないのかな、、、

741日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:10:59.76
>>738
九州説はもう論破されている

742日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:11:52.11
初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。

743日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:17:14.72
>>737
この文章前にも見たことあるけど、どこからの引用?

744日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:17:49.12
飛行機に乗った、邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が、空気のシャワーを浴び、飛行機内で邪馬台国の幻を見たのではないのかな、、、

731日本@名無史さん2019/05/31(金) 18:50:16.92
3世紀半ばにはもう古墳時代が始まってて
博多あたりに古墳ができてるんだから
もう邪馬台国は機内で決まりだろ

745日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:20:33.18
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂とは、どのような砂なのだろうか。。。
そして、その砂の上で築き上げたものは、何なのだろうか。。。

746日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:21:37.46
なぜ、韓国の考古学者のスポンサーは、韓国や北朝鮮の歴史を古くする必要があるのだろうか。。。

747日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:22:38.83
【奈良】邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」で刀剣の柄・鞘が出土 「纒向に武器を持つ力がある拠点があったことを示している」
http://2chb.net/r/newsplus/1559297299/

748日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:23:19.36
箕子という謎の人物は、何者なのだろうか、、、

749日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:29:04.27
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂以外に、刀剣の柄・鞘が何世紀の物体なのかを、正しく知るための方法は、あるのだろうか、、、

750日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:30:53.20
飛行機に乗った、邪馬台国畿内説を宣伝するプロ固定が、空気のシャワーを浴び、脳を破損した可能性があるな、、、

751日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:33:14.57
>九州倭國の「東征毛人五十五國」の、河内や和泉の将軍たちの墓であり、
> 九州王権の権威と権力の象徴であり、
>大和の記紀は、彼らが大和王であったかのように、盗用したもの。

九州王朝説論者の戯言

752日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:39:29.77
例えば大伴氏や物部氏は大和や河内に拠点を持ち、ヤマト王権に属する軍事氏族
九州王朝とは関係ない

753日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:39:43.42
それにしても、本当に、おかしな話ばかり

父親に聞いてみても、
そんな話は知らないと言っていたり

老婆の言っている芝居小屋なども、
保存されていたりするのに

広瀬川〜という川があってw
何なんだろう

754日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:58:15.27
なぜ、韓国の考古学者のスポンサーは、箕子という謎の人物の存在を隠蔽しようとするのだろうか、、、

755日本@名無史さん2019/05/31(金) 19:59:27.46
天皇と卑弥呼は血縁関係?

756日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:00:37.34
>>755

もちろん。   @阿波

757日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:13:16.06
>>752
九州地域にも拠点があったよ

758日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:19:52.60
>>757
九州のどこに?

759纏向とは3世紀に全国各地に人がいたのは省略2019/05/31(金) 20:32:12.14
    テンプレ(邪馬台国の王都)説                
西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨
それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
・・・・・前方後円墳と三輪山伝説
3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核
・・・前方後円墳
2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間
・・・・2世紀末は土器 水路、掘立柱建物 土木工具
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
・・・・・三輪山伝説
箸中山古墳
・・・・・卑弥呼の墓と比定
被葬者が女性であるという伝承にも信憑性
・・・・・三輪山伝説 
箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しい
・・・・・陵墓の比定地より
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
・・・・・交通の要所


あとテンプレ長すぎるからスレ主 簡素にまとめてよ



古墳造営基地説    

760日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:39:47.95
>>759が間抜けすぎて藁

761日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:45:28.38
『倭人 朝鮮人』だと書いてあるでしょ

762日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:47:39.78
秦人、漢人〜などは、わかりやすく言うと中国

763日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:48:38.82
九州説は論理が苦手な奴ばかりらしい

764日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:50:13.02
九州説が苦手なのは倫理

765日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:50:42.12
あと、あまてらす、すさのお〜(wiki)

役者を描いたもの・・・見ればわかるでしょ

766日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:51:04.19

767日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:54:47.45
>>764
自己流の論理を振りかざす畿内説よりマシだと思う

纏向から始った畿内説の暴走から、私も距離を置くようになった

仲間内でも「あれは無いよな」の声は良く聞くよ

768日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:55:05.47
>>764
自己流の論理を振りかざす畿内説よりマシだと思う

纏向から始った畿内説の暴走から、私も距離を置くようになった

仲間内でも「あれは無いよな」の声は良く聞くよ

769日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:55:48.86
>>758
物部氏の一族の弓削氏ゆかりの弓削神社とかあちこちにあるし
大伴氏ゆかりの住吉が博多にある。

770日本@名無史さん2019/05/31(金) 20:59:06.06
あのーーーーーーーーーーーーーー
しつこいかもしれんが 纒向説は
水行10日で到着した地は奈良湖畔でいいのか
陸行1月は1日の間違いでいいのか

771日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:00:01.21
>>616
卑弥呼・台与はレンタル女王。

大和の女王だったが、伊都国王が中心となって倭王に共立された時、新築の甘木朝倉宮殿に迎えられ、鬼道政治を行った。
死後は再び瀬戸内科経由で(原)箸墓に葬られた。
詳しくは→>>409 >>621

772日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:03:27.64
オクムラ君
まだ24時間張り付いてるのww

時代は変わったよ
最近の考古学は進んでるよ
学会誌を一読願いたい

773日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:03:58.75
759 767 768 770

774日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:04:19.83
なぜ、4世紀の纒向に、前方後円型の物体が初めて出現し始めたのだろうか、、、

775日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:04:23.46
>>768
証拠は?

根拠が示せなきゃ>>768は妄想

776日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:04:36.03
役者を描いているんだけど、
実際は私(ぼく、俺でも良い)の家の話・・・だと思っている人もいるだろう

777日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:06:19.17
772

778日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:06:20.64
>>772
また全一病の発作かw

根拠が示せなきゃ>>772は妄想

779日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:07:23.73
>>772
どこの学会の?

780日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:10:28.04
>>771
「女王所都」宮室楼観城柵厳設=生前の卑弥呼の王宮(北部九州)
卑弥呼以死大作冢 径百余歩殉葬者奴婢百余人=箸墓(卑弥呼の冢)(大和)

西晋朝が編集してる時に、位置情報がごっちゃにされたってこつ?

781日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:11:35.64
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。」

「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」

782日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:12:15.51
キュウリのような葉、葱の華
・・・の写真があるでしょ



著作権・・・何やら権・・・など、
そういうのも無かった頃の写真なのかな?

家(写真の家)の話のような気がするんだけど

783日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:15:49.18
>>780
>「女王所都」宮室楼観城柵厳設=生前の卑弥呼の王宮(北部九州)

そんなもん九州のどこにあるんだ


w

784日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:16:57.56
畿内説の卑弥呼の宮殿はどこにあるんだ?まさか纏向?w

785日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:17:36.88
>>781

それにしても、お粗末だね。   @阿波

786日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:21:34.95
纏向宮殿は、3世紀第4四半期(275-300)以上に遡れない。
しかも周囲には市街地は存在せずにポツンと存在し、女王所都「楼観城柵厳設」の記述とは程遠く、出土物といえば木製仮面、桃の種、カエルの骨など。

787日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:28:15.82
決定版

3世紀半ばにはもう古墳時代が始まってて
博多あたりに古墳ができてるんだから
もう邪馬台国は機内で決まりだろ

九州説から反論0(中傷1)

788日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:30:24.61
>>786に根拠が一つも書いてない件について

789日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:37:07.62
世間常識と通説
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。」 (高校歴史教科書)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」(高校歴史教科書)

「纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。
しかも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上で極めて重要である。
また、同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。(文化庁)

790日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:41:19.38
『Yngwie Malmsteen Best of [HQ]』

『カブキロックス Suicide Game』

気づいている人は気づいている、同じでしょ

王母 龍宮〜寒いな・・・・・・・・・・。

791日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:43:04.78
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂とは、どのような砂なのだろうか。。。
そして、その砂の上で築き上げたものは、何なのだろうか。。。
そして、なぜ、韓国の考古学者のスポンサーは、韓国や北朝鮮の歴史を古くする必要があるのだろうか。。。

792日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:43:49.06
九州説にできること
妄想中傷デマ流し

   ・・・そしてて発狂

793日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:43:58.79
あとジョジョで言うと某マイク・オーの・・・・、
何度も書いた

794日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:45:20.37
朝鮮民族という民族は、本当は、存在しなかったのではないのかな、、、

795日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:46:49.93
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂以外に、刀剣の柄・鞘が何世紀の物体なのかを、正しく知るための方法は、あるのだろうか、、、

796日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:48:47.91
3女性の合葬=箸墓・後円部(直径160m)の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/____台与___\______________
3段目………/___________\_____________\
2段目……/_____________\_____________\
1段目_/5m盛土/卑弥呼(150m)\5m盛土\_____________\___地面
周濠… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄殉葬者奴婢100人 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

797日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:52:52.69
>>792 そしててw

798日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:53:25.14
『宇宙王子』

これも同じw

799日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:54:02.36
阿波咋も嘘ばかり

800日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:55:14.15
>>792
そしてて発狂w

801日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:57:11.27
>>797
もはやタイプミスにしか反論できない九州説の惨状あわれ

802日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:59:10.67
>>789
そしてて、狗奴国の比定ができない纏向遺跡は邪馬台国の女王所都ではなく、それと並存していた本州島の王権ってことだね。

803日本@名無史さん2019/05/31(金) 21:59:32.59
僕達が使用した、黄砂という言葉にケチをつけるしかなくなったことを、僕達によって予測されている、頭の悪い外国人が、出現しないな、、、

804日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:01:24.86
>>792
あと、醜い逃亡な

九州説にできること

805日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:01:52.55
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、、、日韓の黄砂でも、その他の方法でも、刀剣の柄・鞘が何世紀の物体なのかを、正しく知るための方法は無いな。。

806日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:03:43.45
>>802
>そしてて、狗奴国の比定ができない纏向遺跡は

九州説はまた嘘をつく
比定ならテンプレに書いてある

807日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:04:22.93
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、、、日韓の黄砂にも、その他の方法にも、百年足せば、ちょうど正しくなる可能性が高いな。。。

808日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:05:55.10
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂とは、どのような砂なのだろうか。。。
そして、その砂の上で築き上げたものは、何なのだろうか。。。
そして、なぜ、韓国の考古学者のスポンサーは、韓国や北朝鮮の歴史を古くする必要があるのだろうか。。。

809日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:10:36.19
そしてて、討論から逃亡、、、、

810日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:14:40.30
あほ丸出し
>>1=>>778=>>779=奥村
論じてちょ
奥村性の恥晒
迷惑だ

811日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:14:53.32
龍が描かれていたり、その音楽家のデザインと同じでしょ、

『姥清水』〜『天王宮 山王院 福島県』

山の上で〜と言っていたり、その音楽もいなかった頃の話

812日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:16:49.43
このテンプレ
随分だよ
畿内説の学者で容認する奴いねーよww

813畿内説の方へ質問です、急ぎません2019/05/31(金) 22:19:14.18
纏向の水路は何のためですか

814日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:21:17.06
>>771
ヨコからスマン
纏めてくれないか

815日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:22:39.46
>>812
という根拠は?

「根拠を示さず決めつけ」する常習の
九州説は妄想説

816日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:23:54.50
単発的に来た
尾張説の奴はヤラセだなww

817日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:24:31.18
>>810
そういう中傷しかできない自分が恥ずかしくならない?

818日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:29:45.55
奥山氏が、、、年々精緻化し、通説が強化されていると考える、日韓の黄砂とは、どのような砂なのだろうか。。。
そして、その砂の上で築き上げたものは、何なのだろうか。。。
そして、なぜ、韓国の考古学者のスポンサーは、韓国や北朝鮮の歴史を古くする必要があるのだろうか。。。

819日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:30:26.18
全一病の発作でアホ丸出しのキウス
810 812 813 814

820日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:32:08.82
邪馬台国奈良〜東海説は悪くはないな
邪馬台国畿内説みたいなアホな説よりよっぽどいい
ヤマトの地は東海に飲み込まれたみたいなものやからな

821日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:33:54.01
子供の頃の写真

何かの制服を着ているけど、
家は戦争には行っていないと言っていたり

親も・・・その前の親も、何なんだろう

822日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:35:09.08
>>779
一般社団法人 日本考古学協会の誌を読んでる?

これに行くけど おすすめする
邪馬台国は話題にはならないと思うがヒントがあるかも
2019年度大会
期 日:2019年10月26日(土)・27日(日)
会 場:岡山大学津島キャンパス(岡山県岡山市北区津島中3-1-1)
主 催:一般社団法人日本考古学協会

823日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:35:54.03
>>641>>772がウソであったことが確定

824日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:38:33.12
昔の人は歌が上手

東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ

825日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:44:55.74
>>822
その「誌」とやらのタイトルを言ってみろよ

826日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:46:39.77
キウスは知ったかぶりの嘘連発が嫌われる原因だという自覚がない

827日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:48:32.81
>>968
>平原遺跡が卑弥呼の墓だとか主張し続ける限り、九州説の目はゼロだね。
九州で、3C中頃の4段築成の古墳でも探してきたらどうだい?<

平原は、現在までの知見であるままで、新しい事実が出て来ない限り、
壹與の墓である可能性が最も高い。

828日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:54:06.93
>>971
>邪馬台国はヤマト国でいい
それを前提に当時の状況を解明していこう<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
倭國は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って北部九州に中心があり、
大和は、倭國から別れた別種の旧小国であり、
倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国。
それを前提に当時の状況を解明していこう。

829日本@名無史さん2019/05/31(金) 22:54:17.73
>>819
ブーーー
お子様ランチでも食っていなさい

830日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:02:19.59
オクムラ=>>1=キナイコシでいいだろ

こいつ、ここで相手してやらないと犯罪を犯すぞ

みな、適度に相手してやろうぜ

メッタうちはやめよう

これ以上、川アじゃねーけど変質者出したくないから

相手してやろうぜ

831日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:02:37.18
ズバリだったらしい

832日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:05:08.64
>>826
権威っぽい名前だけ出して内容には一切触れないスタイルは
岡上チックなんだけどね

833日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:07:12.04
>>825
めんどい奴だな  あとは自分で注文しろよ


『総会研究発表要旨』※第76〜83回 各2,500円(送料300円)
『大会研究発表要旨』※2009〜2017年度 各800円(送料215円)
『聖嶽洞窟遺跡検証報告』1,000円(送料340円)
『前・中期旧石器問題の検証』
会員頒布価格 3,000円(送料590円)
一般頒布価格 4,000円(送料590円)
2003年5月24日発行
A4判 本文625頁 口絵カラー写真32頁

834日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:08:47.30
>>825
お勧めは
『大会研究発表要旨』※2009〜2017年度 各800円(送料215円)

835日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:09:48.60
>>977
>(佐々木論考)3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,
弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。<

ここで佐々木はインチキをやっている。
「冢≠前方後円墳」であり、卑弥呼の墓は「冢」であり、
前方後円墳は、壹與の遣使が西晋武帝の天円地方思想を教わった後であるから、
3世紀後半半ば過ぎ。

>特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,
一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,
豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。<

ここでも佐々木はインチキをやっている。
筑紫の庄内は、三雲や祇園山が最も早くて3世紀前半であり、
後述のように大和の庄内よりも古いから、筑紫の胎土で造った事になり、
大和の庄内は、撥型前方後円墳の庄内1の石塚であり、那珂八幡よりも後になるから、
3世紀末。

836日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:10:24.73
畿内説の場合、論旨が絞り込まれ学説が煮詰めてあるので、誰の話を聞いてもブレが少ない
九州説の場合、主張がそっくりなのは大体同一人物か、さもなきゃ尻馬パカパッカー

837日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:13:09.79
>>833
ほらな
具体的内容に全く触れられない

838日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:15:00.55
>>823

唯物史観なんてもう否定されてますよ?

839日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:15:08.95
>>835
>ここでも佐々木はインチキをやっている。
>筑紫の庄内は、三雲や祇園山が最も早くて3世紀前半であり、

祇園山から庄内式は出ていない
>>835はインチキ

840日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:17:34.71
>>838
どっから唯物史観が出てくるかって
お笑いネタかな

841日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:21:58.16
>>836
学者名を挙げてくれないか

842日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:24:13.38
>>835
>ここで佐々木はインチキをやっている。
>「冢≠前方後円墳」であり、卑弥呼の墓は「冢」であり、
>前方後円墳は、壹與の遣使が西晋武帝の天円地方思想を教わった後であるから、
>3世紀後半半ば過ぎ

素人爺さんの思いつき我流説で通説を潰せるつもりなのが噴飯モノ
前方後円墳の発生過程は考古学的にもう系統立てて解明されて実証されて通説になってるので
観念論だけで逆らっても無駄だよ

843日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:26:28.56
>>841
何のなにに関する?

844日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:28:02.68
>>841


九州説の学者はいないのでは?

845日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:29:45.72
>>981
>魏志倭人伝という外国からの聞き書きの記録ではなく、
日本人が日本人として日本の歴史を学べば、
縄文時代から広域流通で物資を融通してきた社会だと理解できるはず<

ダメだ。
列島は、旧石器から、南洋系やネアンなどの大陸系の混在地域であって、
縄文後半からは、また大陸からの弥生人の流入があった地であり、
こんな男らの「日本人ありき」の結論先にありきのスタンスでは、
始めから嘘吐き騙しのインチキになってしまい、
学問ではなくなってしまうもの。

>まあ、まともな日本人じゃない人が日本sage目的で捏造した歴史を
信奉してるだけなんだよ、九州説なんてのは<

まあ、大和説なんてのは、
まともな学問や日本人としてではなく、
人種差別殺戮戦争的国粋主義の・・・・アホ詐欺師の人が、
日本upの目的で捏造した歴史を信奉してるだけなんだよ。

846日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:32:29.09
>>578
>ヤマト王権前方呼円墳体制における前方後方墳体制

前方後方墳も前方後円墳体制の中だ
前方後方墳も段築、円筒埴輪列、墳丘の葺き石という共通規格に従っているし
倭国最大の前方後方墳も大和の地にある

祖先伝承で一族の祖が天神、天孫の豪族は前方後円墳、地祇の一族は前方後方墳と
いう区別があるだけ

847日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:33:28.81
>>988
>「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
佐々木憲一先生の想定する倭国社会の模式図 上記論文より引用
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
ヤマトを盟主とする首長連合だよ<

佐々木の論考の嘘吐き騙しの部分は、もう指摘済みだ。

848日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:33:54.83
纏向は古墳造営基地でいいの
反論無いの

あの水路は何の為・・・
土木工具が多いのは何故・・・・
集落跡が無いのはなぜ・・・・・・・・・・・
鉄器で武装してないのは何故・・・・・・・・・・
巫女千人の証跡は・・・桃食ってたか

849日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:34:53.55
>>835
前方後円墳の前方部が方丘から派生したものじゃないことは
見ればわかるレベルの明快さ

邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚
どこが方ですか

850日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:36:35.81
>>844
あんた、まず質問に答えろよ

>畿内説の場合、論旨が絞り込まれ学説が煮詰めてあるので、誰の話を聞いてもブレが少ない<
の学者名挙げろよ

851日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:37:05.16
>>847
嘘を指摘しても無意味

852日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:38:52.18
>>848
>纏向は古墳造営基地でいいの
>反論無いの

あんた・・・ボコボコに反論されて逃亡してたっしょ

853日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:39:17.86
寺澤氏は完全に干されたよ

854日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:39:27.13
>>989
>大和弥生社会の展開とその特質(再論) 寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」<

寺澤も「邪馬台国」なんて、
存在もしない嘘つき騙し文言を使った・・・・アホ詐欺師であるし、
「ヤマト國=邪馬台国」という文言自体が「大和説」である事を意図しており、
「南→東」などの嘘吐き騙しをしており、
寺澤も、・・・・アホ詐欺師。

855日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:41:33.00
>>852
ほざくのは誰にでもできるww
其れで、反論は

856日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:41:40.37
>>850
寺澤森岡米田東松木・・・何人挙げろと?

857日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:43:34.11
>>595-599
弥生時代には深さ1メートルを超える川を堰き止める土木技術がないから、大河の流域は開墾できない

古墳時代の土木技術の発展の後に初めて筑紫平野で水田稲作ができるようになる

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html 地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7242.html 地域別人口規模の順位の変遷
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃って
シェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり
揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕
する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」

畿内および畿内周辺の人口の厚みが、魏志倭人伝に7万戸と記された女王之所都でしょ

858日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:45:43.04
>>855
集落跡が無い・・・・証拠なし、言ってる人お前だけ
鉄器で武装してない・証拠なし、ホケノ山より出土多数

859キウス ◆PyuQX798ps 2019/05/31(金) 23:45:44.86
すれ主さんに以前 教えてやりましたが

やたら反応せず「無視」もいいですよ

自信がある事は無視せず論ずればいいし

860日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:47:06.27
またキウスが発狂した

861日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:48:16.54
>>858
ホケノは箸墓より古いのかな
古墳は都じゃ無いし

862日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:52:10.53
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與


さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。

畿内説では説明してください

863日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:52:35.21
>>759
>3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核

3世紀に
3世紀だと言う根拠が不明確。
仮に3世紀だとしても、邪馬台国と関連すると言う根拠がない。

爆発的に
主観的表現で意味不明。
魏志倭人伝にはそのような内容は書かれていない。

広域化する
範囲を明示しない印象操作に過ぎない。
畿内だとか九州を含むとか含まないとか、その場限りの言いつくろいが多過ぎ。

萌芽期国家の
倭国は漢代からずっとある国なので、萌芽期ではないのですが?

中核
中核であるという根拠がない。
関西方面の周囲の同時期の遺跡と比べて、文化水準が低いようですが?

864日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:54:02.93
>>647
流行り廃りで墳墓形式が選ばれるなら古墳時代は400年も続かないw

もう、意味のある反論一つできない為体なのが、オワコン九州説の現状

865日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:55:46.75
>>857

その人口推計は全く根拠がなく信頼性が低いと批判され続けているものだ。
魏志倭人伝とも一致しない。
そんなものに釣られているから畿内説などに引っかかってしまうのだ。

866日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:57:05.55
>>856
関西 互助会 ばかりだねww

867日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:57:37.76
>>859
お前の立てる偽スレは皆から無視された

868日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:00:16.86
>>996
>これ、「靡」は「摩」の下の「手」が筆先の乱れ等で「非」に化けただけって考えられてる<

誰かが「考えられている」っていう程度では、論証にも証拠にもならんよ。
はっきりした絶対的な証拠が出てくるまでは、「邪靡堆」のままで論じておけ。

>普通に「邪摩堆」で「ヤマト」だよ<

「邪摩堆」と「ヤマト」とでは音韻が全く違うし、
北史の「邪摩堆」は、(全く同時代ならまだしも)、
隋書よりも後代の文書であるから、隋書の記載の訂正変更根拠にはならないよ。

>後漢書の注記の邪摩堆と同じもの<

嘘を付くな。
後漢書の李賢注は「邪摩惟」(=ヤマイ)だよ。

869日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:01:47.46
>>670
>「鉄」など「国家的資源の流通」に的を絞ればいいのに。

鉄は時を超えられない割合が多いし、出土したものでもさびの塊のような状態で
得られる情報が少ない
土器はと紀を超えて残存する比率が比較的高いし、外形を計測するだけでも多くの情報が得られる
土器の編年は日本の考古学が最も得意とするところだよ

まあ、土器の移動を追うだけで九州説が否定されてしまうから気に入らないってだけだろw

870日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:06:39.25
>>863
>3世紀だと言う根拠が不明確。

常識
「古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び・・・」
(高校の歴史教科書)

871日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:06:40.54
>>687
>一般土器なら、部族や地域ごとに、土器製作方法の伝授伝世が行われていて、
>その中での土器様式の編年も、意味があるんだろうが、
>支配者の支配祭祀のための土器であれば、部族や地域ごとに統一性が強くなるもんだろう。

その祭祀用供献土器が畿内様式で九州まで含めて統一されるんだよ
どこに中心があったかは明白だし、倭國という地域倭人という部族全体で
統一性が強くなった結果だ

もう九州説はバカの脳内にしか存在しないんだよ

872キウス ◆PyuQX798ps 2019/06/01(土) 00:09:07.30
>>860
奥谷君 ここ数年何も得てないね
纒向に固執するのもいいけど
大きな範疇で邪馬台国を語ろうよ
纏向は桜井市教委に任せればいいよ 寺澤さんは過去の人に成りつつあるよ
寺澤さん最近 論文?何も出してないよ

873日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:09:58.48
>>863
>畿内だとか九州を含むとか含まないとか、その場限りの言いつくろいが多過ぎ。

だってそれ、九州説のおばかが書いたインチキ要約だもの

当然ズタボロでしょ

874日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:10:18.08
>>698
>明帝は、呉系の神獣鏡を下賜鏡に選択する筈がないから、舶載鏡説は×。

斜縁・三角縁神獣鏡には鏡背の図像中に乳がある
大陸の神獣鏡でも呉系のものには乳がない

これだけでも、斜縁・三角縁神獣鏡が呉系の鏡というのは明確に否定される

875日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:13:40.04
本当に全一症なのかな

まるむすてぃーん(龍宮〜)、
浦島太郎(ヱヴァンゲリヲン、カブキロックス・・・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他

876キウス ◆PyuQX798ps 2019/06/01(土) 00:14:21.46
纒向を弥生後期を代表する大集落と言ったのは石野さん他の間違い

今では石野さんも纏向王都説から距離を置いているよ

877日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:16:10.77
>>872
ニセスレ男キウスは嘘ばかりつくね


>纏向は桜井市教委に任せればいいよ 寺澤さんは過去の人に成りつつあるよ

寺澤は桜井市教委文化財課のセンター長

878日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:16:39.07
>>733
>年代前倒し詐欺

九州説の人はうわごとのようにこれを繰り返すけれど、その根拠は決して示さない
理由をいうのはザラゴキぐらいだが、ザラゴキの反論はプラズマ化すると
β崩壊が促進されるというオカルトまがいのもの

ザラゴキは理系の大学院卒だそうだ
そう自称しているwwwww

879日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:17:19.11
何か問題あるかボケ


66日本@名無史さん2019/05/31(金) 23:57:05.55
>>856
関西 互助会 ばかりだねww

880日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:18:57.31
>>876
証拠なし
石野は80歳超えでリタイヤ状態

881日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:20:29.66
>>876
纒向を弥生後期を代表する大集落と言った?

いつ、どこで?

882日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:21:46.58
畿内説はモモソ=卑弥呼でいいんでネーか

883日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:23:41.28
>>833・834
それ協会の会誌じゃないよ、アホ丸出しのキウスさんw

884日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:27:03.37
カブキロックスの曲

煙(スモーク、雲?)が出ているようなシーンもあるし、
どう考えてもウラシマンの話

885陳寿90度回転さん2019/06/01(土) 00:29:05.70
>>857
全く同意。

当時の倭国に存在した大国の、
 奴国→投馬国→邪馬台国→狗奴国
が、北九州から南に向けて並んでいると言うのは、何をどう考えても不自然極まりない。

当時の人口から考えれば、
 奴国(博多湾)→投馬国(出雲)→邪馬台国(畿内)→狗奴国(東海)
と比定するのが唯一の解であり、行程記事中の『南』は実地理での『東』。

現に、末盧国(松浦)→伊都国(糸島市)→奴国(博多湾)の方位は、
綺麗に90度、実地理からズレている。

886日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:31:29.53
>>786
>纏向宮殿は、3世紀第4四半期(275-300)以上に遡れない。

むしろ逆
>>786は纒向駅近くの辻地区の大型建物群のことを指して纒向宮殿と呼んでいるのだと思うが
あの建物群は3世紀第一四半期のうちに撤去されたと考えられており、卑弥呼の遣使239年には
既に存在していないと考えられている
卑弥呼の遣使の頃の宮殿はより東側の標高の高い場所に移動したとされていて、珠城山古墳群と
渋谷向山古墳の間に居館域があったと推定されている
邪馬台国畿内説 Part464 	->画像>42枚

887日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:33:22.52
829 830 833 834 836 848
850 853 859 861 862 866
872 876 882

888陳寿90度回転さん2019/06/01(土) 00:36:41.48
>>870
援護射撃します。

(以下引用)
≪古墳の出現とヤマト政権≫
 弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘を持つ墓が各地で営まれていたが、
3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳を始めとする古墳が西日本を中心に出現した。
(中略)
 それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
(引用終わり)

出所:且R川出版社『詳説日本史 改訂版』2018(平成30)年3月5日発行
 

889日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:40:44.54
>>845
>こんな男らの「日本人ありき」の結論先にありきのスタンスでは、

「日本人ありき」ではなくこの日本列島上に縄文時代から存在する広域流通が普通にある社会だよ
翡翠が取れるのは糸魚川周辺のみだが、九州でも縄文時代から翡翠が出てるだろ?

日本にいるのは日本人で当然なんだが、それに噛みつくってところから、
ザラゴキの政治的、心情的なバックグラウンドが明確に分かるなww

890日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:45:54.26
熊野灘とヤマト王権つなぐ資料
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20190531/0004968.html

891日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:48:44.95
>>876
>纒向を弥生後期を代表する大集落と言ったのは石野さん他の間違い

言うわけない
石野は弥生後期末を二世紀末としている

892日本@名無史さん2019/06/01(土) 00:52:17.97
石野博信 『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』
https://www.shinsensha.com/books/2293/
3世紀の都市・纒向遺跡が出現した時代、列島各地はどのようであったのか。
奈良県の二上山博物館で17回にわたって開催された邪馬台国シンポジウムの資料集に寄せた論考を中心に、
各地域の遺跡をとりあげ、その交流関係をさぐり、あらためて邪馬台国の問題に迫る。
2019年4月5日発行

893日本@名無史さん2019/06/01(土) 01:01:21.07
>>868
>後漢書の李賢注は「邪摩惟」(=ヤマイ)だよ。

後漢書は三国志と違って複数の古写本が現存しており、問題の李賢の注も
「邪摩堆」としている写本が複数ある

現在広く読まれているテキストは宋代の版本をもとにした欽定四庫全書版だが
その注記は「邪馬臺國。[一]案:今名邪摩(惟)〔堆〕,音之訛也。」と校勘されてるよ

894日本@名無史さん2019/06/01(土) 01:13:40.39
>>730
>君は知らないんだろうが、唐会要倭國伝の史料事実に拠れば、
>「開成四年正月」の遣使は、倭國使節を名乗り、
>「薜原朝常嗣」と名乗り記帳した、という事になるんだよ。

また言い張るだけか?
《唐會要》だけにしか記載がない以上、《唐會要》の間違いというのがまともな人の結論。
《續日本紀》だけでなく《入唐求法巡礼行記》という資料もあり、「藤原朝臣常嗣」が信用出来る。

>唐会要は、唐政府の記録通りに書いたのだ、 という事が判る。

原本は失われ、残缺を清代に整理したもので、なぜそんなことが分かるんだ?

>九州倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した×史書の、
>記紀を書いた大和政権の「續日本紀」では、絶対的な根拠にならないよ。

また陰謀論かよ。
《船氏王後墓誌》の発見で敏達天皇〜舒明天皇の存在が証明されてしまったんだよ。
もう九州王朝説なんて滅びたんだよ。

895日本@名無史さん2019/06/01(土) 01:36:16.66
九州説はニセ情報流しすぎ
畿内説の学者が転向した?とか纏向離れしてる?とか
ガセネタ多すぎでしょ

896日本@名無史さん2019/06/01(土) 01:55:56.24
>>888
何だ、この幼稚な妄想は。
教科書?
ひどいことになってんな。

897日本@名無史さん2019/06/01(土) 02:34:42.37
ワロタ
畿内説互助会

898日本@名無史さん2019/06/01(土) 02:34:44.92
>>896
「幼稚な妄想」とか決めつける理由は?

「根拠を示さず決めつけ」する常習の
九州説は妄想説

899日本@名無史さん2019/06/01(土) 02:54:00.80
黒塚が三世紀という公式報告書が出て
 三角縁は四世紀〜
 三世紀の畿内に絹はない〜
という前世紀の説は完全に死亡した

まあ、だいぶ前から識者の常識だったけど

900日本@名無史さん2019/06/01(土) 05:24:14.84
>>84
>魏使は、実際には「会稽東冶の東」に全く届かない短小な島であるばかりか、
明らかに別種の文身鯨面をしていない(毛)人が住む本州や四国を見て、むしろ東西に長大な「列島」であることに愕然とした。<

魏の記録官は、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」に拠って、
足摺付近の侏儒國付近までしか行っていないから、×。

901日本@名無史さん2019/06/01(土) 05:28:31.79
>>85
>・何かを隠蔽したい時はその情報に誰の目にも明白なウソを織り交ぜ
 隠蔽したい事実を少しだけ変える方法が有効である。<

魏使らは、「何かを隠蔽」するような嘘吐き騙しの報告を書けば、
部下や後続の使者らに拠ってウソがバレて、首が危なくなるから、
嘘吐き報告など、しないの。

902日本@名無史さん2019/06/01(土) 05:48:17.42
>>896
>何だ、この幼稚な妄想は。
>教科書?
>ひどいことになってんな。

具体的な反論なしのまま上から目線でさげすむ言葉を並べるだけw
そんなことで自分が優位なように装う

精神勝利法ってやつでしょ?w
儒教道徳の人は間違いを認められないから大変だね!

903日本@名無史さん2019/06/01(土) 05:57:25.92
>>901
>魏使らは、「何かを隠蔽」するような嘘吐き騙しの報告を書けば、
>部下や後続の使者らに拠ってウソがバレて、首が危なくなるから、
>嘘吐き報告など、しないの。

あなたが嘘をついてるのよ
お国ぐるみの嘘ってものがあることを
自分でいつも言ってるくせに

904日本@名無史さん2019/06/01(土) 06:05:51.60
『倭人 朝鮮人』

漢人というのは中国(中華)の人

905日本@名無史さん2019/06/01(土) 06:08:56.71
朝鮮人=日本人(日本人=朝鮮人)だと言っている人がいるけどw
どういうことなの?

頭の病気?どこかの工作員?

906日本@名無史さん2019/06/01(土) 06:14:28.42
『倭猿』〜『倭人』

こういうのも調べてみた?

907日本@名無史さん2019/06/01(土) 06:26:53.98
>>888
>その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。

この「広域の政治連合」をいったいだれが主導して成し遂げられたというのか。  安易な妄想過剰。   @阿波   

908日本@名無史さん2019/06/01(土) 06:38:04.82
>>840
上部構造の一致から必然的にそうなる
んで上田さんの頃からこういう考えは否定されてる

909日本@名無史さん2019/06/01(土) 07:07:38.00
ワロタ
畿内説互助会
畿内説互助会

910日本@名無史さん2019/06/01(土) 07:49:04.16
そこで、東遷説↓ですよ!w

邪馬台国東遷(狗奴国出雲吉備・投馬国東海北陸)説が解決する3世紀諸問題

九州(邪馬台国)      vs 本州(出雲吉備+大和+東海北陸)
卑弥呼「天照大神」・男弟 vs 卑弥弓呼「スサノオ」・狗古智卑狗
…帯方郡張政「天照大神」出雲征伐(成功)→「大国主」国譲り→吉備との混血「大物主」大和東遷。投馬国とヤマト王権樹立(纏向遺跡)
男王(神武東征=国中不服) 第1次大和征伐(失敗)、「饒速日」(ヤマト王権)継続
台与         
男王(崇神東遷=複立男王) 第2次大和征伐(成功)、ヤマト王権を征服、邪馬台国東遷(ハツクニシラス大王)   

−卑弥呼と卑弥「弓」呼が、天照大神とスサノオ姉弟を思わせる。
−天照大神が出雲征伐し、甥・大国主に国譲りをさせる。邪馬台国が狗奴国を併合→狗奴国の残党が本州島の勢力結集して建てたのがヤマト王権
−纏向遺跡が3世紀中葉(大物主・神武)〜4世紀初頭(饒速日・崇神)の50年間(2世代)で、時代も合う。
−ハツクニシラス大王が2人(神武&崇神)いる理由→大和征伐を2度行い、1回目(神武東征)は失敗、2回目(崇神東遷)で成功(崇神兄弟=欠史八代で補充)。

911日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:01:15.04
>>910
>そこで、東遷説↓ですよ!w

いったい、どこへ東遷したの?  あの、例の奈良盆地かね?  東遷説さん。   @阿波

912日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:14:47.50
>>908
あなた、何もわかってないでしょう
自分が何を言いたいか解ってる人は他人にきちんと説明できる
自分でちゃんと理解できていない人はきちんと説明できず
決まって「解らないお前の頭が悪い」と言う
それが自分の頭の悪さの証明であることにも気づかないでね

913日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:24:23.57
ああ、まさにスレ主のことのようだ。
彼は人に説明することができない。
説得力のない駄文がテンプレとして積み重ねられていくだけ。

914日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:27:58.18
勘違いをしてはいけない。

畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。

文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   @阿波

915日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:31:09.17
>>911
月刊ムーの清掃員さん、おはよう!

箸墓は大物主の墓として築かれた前方後円墳を、邪馬台国の4代目(@卑弥呼A神武B台与)崇神がヤマト王権を征服&東遷した後、大物主を三輪山に改葬し、モモソ姫の墓に改造したんですよ。
傾斜角から明らかに後世の増築と思しき後円部墳頂5段目がそれ[箸墓 立体レーザー写真]で検索!

916日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:31:57.32
上部構造とは、何だろうか。。。
そして、それは、軽量薄型丸底土器に見られると考える者もいる文化的斉一性と関係があるのだろうか、、、
それとも、無いのだろうか、、、

917日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:33:07.25
今月も、討論が、始まったのではないのかな。。。

918日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:37:43.54
>>915
>月刊ムーの清掃員さん、おはよう!

はぁ、君は左側スロープくんとか呼ばれてる人かね。

ところで、どこへ東遷したの?  あの、例の奈良盆地かね?  東遷説さん。   @阿波

919日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:38:15.82
>>915 の補足 
>>796 この模式図の卑弥呼冢をなくして、台与の4段目(箸墓創建当時の墳頂)に大物主(→三輪山へ改葬)、モモソの墓にするべく5段目追加と。

920日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:41:13.70
唯物という考え方は、場によって記述する最新や最新の直前の世界観からは時代が遅れてしまった可能性が高いな。。。

921日本@名無史さん2019/06/01(土) 08:54:36.53
>>100
そんなふうに
高校生の使ってる教科書には載ってるが、
国民の7割から否定されている大和説学者の歴史知識を
まるっと肯定しないと大和説が成り立たないってことが
なにを意味するか分かるかな?
それはね、大和説の社会的な立つ位置が、
史料事実や史料実態から導かれる「国民が納得できる学問的な手法」ではなく、
史料事実や史料実態とはかけ離れた論理手法になっており、
国民からはトンデモ扱いになってうる、ってことだよ

922日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:06:31.99
>>
邪馬台国4代目崇神が大物主・饒速日父子の纏向遺跡を征服し、邪馬台国本体が東遷したたから、奈良盆地はヤマトと呼ばれるようになり、
同時に筑紫平野の地名が奈良盆地に移植されたというわけ。
http://tacchan.hatenablog.com/entry/2014/10/09/165443

西晋時代に編集された魏志倭人伝↓は、北部九州にあった時の邪馬台国女王所都「宮室楼観城柵厳設」と、4代目の崇神が東遷した後の邪馬台国(ヤマト王権)を混同して書いてしまったので、あのような滅茶苦茶な行程になってしまったわけ。

至魏景初三年 公孫淵誅後「卑弥呼」始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬
正始中 「卑弥呼」死 更立「男王」(神武東征)国中不服(失敗)更相誅殺、復立卑弥呼宗女「台与」為王 
其後復立「男王」(崇神東遷)並受中国爵命(成功!)

923日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:12:16.23
>>912
いや説明してるじゃんw
文化と政治は下部構造で決定されるんだから、必然的に同質の時空間になると
けどこうした考えや派生した理論はもうずっと昔に否定されてる

924日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:17:29.62
畿内説はポリティカルコレクトネス
理屈じゃないんだ

925日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:19:13.56
唯物史観というのは、人間やある単位の人間社会を、物理学上の粒子に例えた史観のことだろうか、、、

926日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:21:35.64
>>925
僕達は、あまり勉強するための時間を獲得できなかったので、よくわからない分野のことや理屈が難しいことを考えると時間が無駄に流れてしまうのでは、ないのかな。。。

927日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:24:59.41
人間やある単位の人間社会は、古墳や地中の土器では説明不可能な動きをしていた可能性の方が高いな。。。

928日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:28:46.78
文化と政治は下部構造で決定されるんだから、必然的に同質の時空間になるという考えや、その考えから派生した理論は、魏志倭人伝時代に近い時代の日本列島に適用できるのだろうか、、、
それとも、できないのだろうか、、、

929日本@名無史さん2019/06/01(土) 09:54:24.46
>>923
で?

文化と政治は下部構造で決定されるという主張を
一体どこで誰がしてるんだね?

930日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:02:51.54
>>929
だからそうした文化・政治の一致というのは唯物史観論から来てるんだよ
っていうのを話してるんだが

931日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:10:30.88
三重)1950年代に見つかった土器 奈良から運搬?
https://www.asahi.com/articles/ASM504HFYM50ONFB00V.html

三重県の熊野灘に面した地域で見つかってた土器は、庄内式・布留式土器だったと判明

932日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:11:30.01
纒向は東海の一部だからな。

933日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:13:42.49
邪馬台国尾張説

934日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:15:01.32
狗奴国が比定できなくなる。

935日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:23:49.22
>>922
ちなみに九州王朝説の論拠となっている、
600(開皇20)年と607(大業3)年、581年に南北朝を統一した隋(北朝)の文帝&煬帝に朝貢した「日出処天子」倭王・阿毎多利思比孤は、
高句麗遠征をしていた隋の弱みに付け込んだヤマト王権(女帝推古・摂政厩戸)が、九州の皇族・阿蘇君を大王に仕立てあげ朝貢したものである。
裴世清は、邪馬台国の筑紫時代(卑弥呼・神武・台与)の邪靡堆と、邪馬台国東遷後のヤマト王権時代(崇神〜)を混同した筑紫・大和版(魏志倭人伝)のバージョンアップ、筑紫・熊本版である。

まとめると、
「邪馬台(臺)」国筑紫時代(@卑弥呼A男王神武B台与)→邪馬台国東遷「ヤマト」王権(纏向遺跡=大物主&饒速日)征服(複立男王崇神)
   ↓
「ヤマト」王権九州皇族・阿蘇君「阿毎多利思比孤」の「邪靡堆」

936日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:26:51.72
>>122
>「会稽東治」は、杭州湾付近から江蘇省の海岸部の付近であり、<

>その場所は太伯の建てた吳(後漢代に吳郡)だから×なんだよ。
「嘗胆」は《史記》巻41越王勾践世家に載っている。
陳寿が知らない訳がなく、君の言うようなおかしな推定はしない。
「臥薪嘗胆」《十八史略》は高校の教科書に載っている。常識レベルのお話。<

お前は、
258年頃に会稽郡から「その海岸地域が揚州や呉の支配への分郡」があった、
という事を隠し、
また、陳寿は「会稽郡」とは書かず、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」だとして、
その「会稽東治」と説明している、
という事を隠しているから、・・・・詐欺師なんだよ。

陳寿は、「太伯の建てた呉」や「臥薪嘗胆」の事は触れていないし、
「会稽郡東治」とも書いていないし、
258年頃の分郡があって、魏志執筆時に会稽の東方海岸地域の所属の説明が煩瑣になるから、
「会稽東治」という簡略的な説明をされたんだよ。

937日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:29:23.21
>>396 >>417 邪馬台国尾張(狗奴国関東平野)説

938日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:33:10.77
>>930
そう決めつける根拠は?

939日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:34:06.99
倭人と関係が深かったので、夏后少康之子封於會稽という物事があったことを、魏志倭人伝の作者は伝えたかったのだな。。。

940日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:34:57.60
コミュニケーションを司る脳の細胞を構成する、炭素12や炭素14の原子核に、空気のシャワーに含まれる中性子が大量に命中し、コミュニケーション能力が低下してしまった人物に対しては、
例えば、、、畿内第V様式圏の文化的斉一性という、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す、環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作が、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決した、、、という考えの根底が、
文化と政治は下部構造で決定されるという既に時代遅れになった可能性が高い、唯物史観論から来てることを、
伝達することは不可能だという可能性が、高まってきたのではないのかな。。。

941日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:36:26.68
>>939
魏志倭人伝には、會稽という地名が2回登場しているな。。。

942日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:37:00.86
>>936
>258年頃に会稽郡から「その海岸地域が揚州や呉の支配への分郡」があった、
という事を隠し、

そんなものは無い
無いものは隠しようがない
あったと言う証拠は?

九州説って詐欺師?

943日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:48:28.63
>>941
僕達は、魏志倭人伝を翻訳するときに、中国の地図や歴史のことを真剣に調べながら、翻訳したのだったな。。。

帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側(上海だね。。。)を治めている役所の、、東にあるはずだ。

944日本@名無史さん2019/06/01(土) 10:54:33.52
>>943
僕達が、5ちゃんねるの掲示板で翻訳作業を実行している時に荒らし行為を仕掛けてきた者が出現したのは、真実の発表を妨害するためだというのが、僕達の予想だったな。。。

945日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:12:26.77
>>936
>お前は、 258年頃に会稽郡から「その海岸地域が揚州や呉の支配への分郡」があった、 という事を隠し、

吳郡の分郡は129年だが?
分郡より前から、その場所は太伯の建てた吳という地名。

>また、陳寿は「会稽郡」とは書かず、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」だとして、
>その「会稽東治」と説明している、
>という事を隠しているから、・・・・詐欺師なんだよ。

越王句践は、夏后少康之子の末裔で本拠地は会稽だが?
いったい何を隠したというのかね?

>陳寿は、「太伯の建てた呉」や「臥薪嘗胆」の事は触れていないし、

常識ですから。

>「会稽郡東治」とも書いていないし、
>258年頃の分郡があって、魏志執筆時に会稽の東方海岸地域の所属の説明が煩瑣になるから、
>「会稽東治」という簡略的な説明をされたんだよ。

吳郡の分郡は129年だから、執筆とは無関係だね。
吳郡の地域が「会稽東治」などと書かれることは無いんだよ。

946日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:18:48.61
>>938
理論的に文化政体の一致が、そういうのと結び付くというのは理解できたようで
はじめの自分の過ちを正せたみたいだ


そういった要素が結び付き一体となるのは当然の理、結びつかない方がおかしい
ということを提示してる他の歴史解析であれ観念であれってなにかある?
すごい昔のなんかもう忘却の彷徨的ななにかしかないような気がするんだけど

947日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:20:41.28
つまり、吳郡は、129年より前の時代は会稽だったのだな。。。
そして、(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子が、封じられた会稽とは、吳郡を含む広大な地域だったなのだな、、、

945 名前:日本@名無史さん 2019/06/01(土) 12:12:26.77
>>936
>お前は、 258年頃に会稽郡から「その海岸地域が揚州や呉の支配への分郡」があった、 という事を隠し、

吳郡の分郡は129年だが?
分郡より前から、その場所は太伯の建てた吳という地名。

948日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:28:05.08
鹿の角は刀の柄

949日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:29:36.18
吳という字と呉という字は同じなのだろうか、、、

950日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:31:03.59
鹿が、観光客の使用したレジ袋を食べてしまうので、死んでしまうのではないのかな。。。

951日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:31:49.39
>>935
隋の頃には畿内にも九州にも関東にも王族(皇族)がぞろぞろいた。
しかし倭としての代表は九州の王族だったろう。
東アジア屈指の巨大城塞であった大宰府羅城と、貧弱な斑鳩宮を比べれば、どちらに主権があったかは明白。

952日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:32:44.50
>>950
そういう問題があるのか。
土産物の袋に紙袋が多いのは、鹿にかじられても大丈夫なようにかな?

953日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:33:33.65
>>910 >>935
謎の3世紀が完全解決!

954日本@名無史さん2019/06/01(土) 12:57:37.51
(笑)
畿内説互助会・・、

955日本@名無史さん2019/06/01(土) 13:05:25.75
>>951
福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。

(1)政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は
   確認できない。
(2)政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、   政庁中央から南へ伸びる南北中央大路
  (地元では朱雀大路と呼ばれる)周辺を中心として存在する。これらの遺構は南   北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、
   整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。
(3)政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存   在する。この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。
   区画溝などの遺構は11世紀後半から12世紀前半にかけて埋没し、条坊制による   街区はこの頃に廃れたと考えられる。

956日本@名無史さん2019/06/01(土) 13:11:14.92
九州説ならまだしも
九州王朝を唱えるというのは、無謀ではないかな

957日本@名無史さん2019/06/01(土) 13:26:41.81
邪馬台国東遷(狗奴国出雲吉備、投馬国東海北陸)説が正しい。

筑紫の卑弥呼がスサノオの死を待ち狗奴国卑弥弓呼(出雲国大国主)を制圧
→狗奴国残党(出雲吉備混血・大物主)が東に逃れ、投馬国と建てたのが纏向遺跡&箸墓
→卑弥呼死後男王(神武)が東征するも失敗(国中不服)→神武失脚、台与即位
→崇神再び纏向東征(饒速日降伏)→邪馬台国東遷。纏向に筑紫邪馬台国の地名を移植(ヤマト王権誕生!)
→箸墓から大物主を三輪山頂へ改葬(抜魂)、モモソ姫の墓とする>>919

958日本@名無史さん2019/06/01(土) 13:29:24.67
『倭猿』〜『倭人』調べてみた?

959日本@名無史さん2019/06/01(土) 13:43:10.10
このテンプレートのテンプレートを作製した奥山氏に、元気がなくなってしまったな。。。

960日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:00:08.66
>>959
このテンプレートのテンプレートを作製した奥山氏に、元気がなくなってしまったな。。。
という発表は、
このスレッドのテンプレートを作製した奥山氏に、元気がなくなってしまったな。。。
という文章を発表したかったのでは、ないのかな。。。

961日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:12:30.01
また畿内説が負けたってね

962日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:15:52.76
オウム?

あれは何の話なのか、
気づいているというか、知っている人は知っているんだけど

963日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:19:21.50
>>956
一般的な九州説だと、3世紀中頃には、北部九州が畿内連合の傘下に入っていた
という畿内説の主張に反論できないからな
だから、古代の日本列島はヤマト政権により統一されたという、
古代史の通説そのものを否定するしかないんだろう

964日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:20:29.85
『天皇教 オウム』

これで調べてみて

965日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:21:28.86
>>957
大物主改め、倭迹迹日百襲姫(巫女)の箸墓・後円部(直径160m)の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄大物主 ̄ ̄ ̄\←三輪山へ改葬________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

966日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:22:03.05
あと聖徳太子?wikiも読んでみて

>天皇を中心とした

967日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:24:55.69
邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定が、出現したな。。。

963日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:19:21.50
>>956
一般的な九州説だと、3世紀中頃には、北部九州が畿内連合の傘下に入っていた
という畿内説の主張に反論できないからな
だから、古代の日本列島はヤマト政権により統一されたという、
古代史の通説そのものを否定するしかないんだろう

968日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:27:43.03
あと本当のアマテラス、スサノオ〜、三貴子というのがいるでしょ?


神格、物語?なども盗まれたとか

969日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:30:58.51
三貴子


なぜ国の〜カミタマ(不明)なんだと思う?

970日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:32:00.35
邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定が、ノコノコと出現し、このスレッドにしては珍しく、少しレベルの高い、唯物論とは何かなのかや唯物論は正しいのかという話題を、理解ができないので、頭の悪い意見を発表したのではないのかな。。。

963日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:19:21.50
>>956
一般的な九州説だと、3世紀中頃には、北部九州が畿内連合の傘下に入っていた
という畿内説の主張に反論できないからな
だから、古代の日本列島はヤマト政権により統一されたという、
古代史の通説そのものを否定するしかないんだろう

971日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:34:47.87
邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定が、ノコノコと出現し、このスレッドにしては珍しく、少しレベルの高い、唯物論とは何かなのかや唯物論は正しいのかという話題を、理解ができないので、頭の悪い意見を発表したが、
3世紀中頃という数字も、北部九州が畿内連合の傘下に入っていたという仮説も、証明する能力は、無いな。。。

963日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:19:21.50
>>956
一般的な九州説だと、3世紀中頃には、北部九州が畿内連合の傘下に入っていた
という畿内説の主張に反論できないからな
だから、古代の日本列島はヤマト政権により統一されたという、
古代史の通説そのものを否定するしかないんだろう

972日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:38:30.58
唯物論や唯物史観は、理科の学部でも社会科の学部でも、人気が無くなっている可能性が高いな。。。

973日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:42:25.68
普通の畿内説支持者が反論できないのは、

邪馬台国が畿内(大和)だというなら、
どうして魏の使いを末魯国から不弥国まで北九州各国の陸地を
進ませたのかという疑問がある

それこそ末魯国か伊都国で船を一時停泊させて小休憩したら、
すぐに乗船して、そのまま関門海峡+瀬戸内海へすぐに船を進ませるはずではないか

974日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:51:28.27
wikiにも書いてあるでしょ

日本人ではないと思われている・・・家(人物)などが、
実は日本人で・・・、日本人だと思われている・・・が・・・?w

975日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:57:55.86
中華(中国の人)だと思われている人物も・・・、
本当は日本人だったとか?

976日本@名無史さん2019/06/01(土) 14:59:43.69
『倭人 朝鮮人』

なぜ知っている人がいるんだろう

977日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:02:58.84
チョンコ精神崩壊w

978日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:12:46.70
家は『天王宮 山王院 福島』・・・、
こういう名前の家なんだけど

お前たちが言うには朝鮮人、韓国人?

979日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:14:33.90
こういうスレも読んでみて『本当のスサノオ』

>牛頭天王

このような事を言ってる人もいるでしょ

980日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:18:25.91
【本当のアマテラス】
・・・このようなスレも
同じようなことばかり書いてあるし

なぜだと思う?

981日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:21:54.41
中華(むかーしの渡来人など)だと思われている人物も、
本当は日本人


ただ倭人というのが『倭人 朝鮮人』なんだよ

982日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:28:21.67
「・・・、・・・、・・・?」
などはワザと書いているだけなんだけど、
気づいているだろうw

家は例えば『天王宮』調べてみた?

983日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:28:40.25
京都の寅さんこと内藤虎次郎が、
明治天皇・東京帝大白鳥庫吉・宮内省近藤芳樹の連携プレーに抗って唱えた「なにがなんでも東だー」、をなぞっただけの畿内説。
はなから勝ち目はねえよ。

984日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:39:22.67
『』『』『』
アニメ、漫画やゲーム、その他


同じ写真(貼り付けた写真)だな・・・・?と思っているでしょ

985日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:42:29.68
行程記事をいくらひねくり回して無理読みしても、
九州には径百余歩の古墳もないし、宮殿跡もない。

何もないのに、何でそこまで頑張るの?

986日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:43:06.97
キュウリのような葉、葱の華・・・写真

『』内の、そういう名前の家で、
むかーし福島県のほうに住んでいたw

987日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:45:44.23
>>973
北九州諸国に魏使を見せびらかすために、西南から北東に向けて歴訪してるんだよ。
その後は出雲に見せびらかし、丹後半島か若狭湾あたりから奈良盆地に向かう。

魏使の方も倭国事情を知るために、なるべく多くの国を歴訪したかったことだろう。

988日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:48:48.23
『天王』
調べてみたほうが良い、仏教関係の話もしていたりw

それにしても家の老婆なんだよな、なんで詳しんだろう

989日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:52:06.62
次回のスレッドが作製されています、、、

http://2chb.net/r/history/1557811144/1

990日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:52:38.68
>>973
>普通の畿内説支持者が反論できないのは、

聞きもしないで他人が「反論できない」と決めつけるとか
頭おかしいんじゃないの?

991日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:52:53.95
次回のスレッドが作製されています、、、

http://2chb.net/r/history/1557811144/1

992日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:53:13.18
次回のスレッドが作製されています、、、

http://2chb.net/r/history/1557811144/1

993日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:53:15.03
何やらの剣(刀)、ヤマタノオロチ・・・?、
本当は中国の話だというのも有名な話

994日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:53:48.87
次回のスレッドが作製されています、、、

http://2chb.net/r/history/1557811144/1

995日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:54:18.47
次回のスレッドが作製されています、、、

http://2chb.net/r/history/1557811144/1

996日本@名無史さん2019/06/01(土) 15:56:42.94
『倭人』(真似ばかりして何やらとか)

>むかーし、中国の人やアイヌから見て

書いてあるでしょ

997日本@名無史さん2019/06/01(土) 16:01:53.66
>>973
>どうして魏の使いを末魯国から不弥国まで北九州各国の陸地を
>進ませたのかという疑問がある


畿内説では返答できないので、倭国(阿波)がお答えしよう。

実は、関門海峡も瀬戸内海も潮流が厳しすぎて、さすがの忌部の海人族でも、手漕ぎ舟では航行不可能なのよ。   @阿波

998日本@名無史さん2019/06/01(土) 16:04:27.69
>>963
>古代史の通説そのものを否定するしかないんだろう

そのうち、痛い説になるんだろうw

999日本@名無史さん2019/06/01(土) 16:05:48.92
>>987
>その後は出雲に見せびらかし、丹後半島か若狭湾あたりから奈良盆地に向かう。

しかし出雲や若狭の見聞録が魏志倭人伝にないのであった。

1000日本@名無史さん2019/06/01(土) 16:14:30.64
邪馬台国畿内説は、破綻しました。。。

-curl
lud20191220095326ca
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