11 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:27:20.32
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1568376317/
◆0-1【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 21 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:28:39.46
◆0-2
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
31 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:32:40.99
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
41 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:38:01.32
◆2-1(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
51 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:39:50.90
◆2-1
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から
或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
61 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:40:27.34
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く)
71 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:41:11.32
◆3ー2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
81 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:41:56.24
◆4-1(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
91 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:42:48.25
◆4-2
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
101 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:43:53.19
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
111 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:45:01.36
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
121 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:46:37.99
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
131 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:48:22.52
◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、
気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
141 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:49:20.63
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
(本項 続く)
151 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:49:51.82
(承前)
◆7ー2
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
161 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:50:29.79
◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く)
171 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:51:14.24
(承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
181 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:51:48.31
191 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:52:29.41
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
201 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:54:22.32
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
211 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:54:58.21
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
221 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:55:34.19
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
231 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:56:18.85
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
241 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:57:32.74
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
251 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:58:10.44
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
261 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:58:47.59
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
271 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:59:14.70
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
281 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 03:59:46.02
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
291 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:00:56.65
◆FAQ 12-1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、
鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
301 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:02:20.81
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
◆FAQ 12-2
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
311 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:03:30.92
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
321 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:05:14.82
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
331 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:05:50.25
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
341 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:06:30.80
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
351 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:07:10.00
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
361 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:07:45.80
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
371 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:08:17.94
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
381 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:09:03.07
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
391 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:09:58.74
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 401 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:10:37.65
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 411 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:12:40.83
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
421 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:13:32.97
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
431 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:14:02.35
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
441 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:14:40.36
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
451 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:15:15.29
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
461 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:15:48.84
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
471 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:17:57.43
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
(本項続く) 481 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:20:09.59
◆FAQ 31−2
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:21:45.36
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
501 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:23:35.56
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
(本項続く)
511 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:24:55.95
(続き)
◆FAQ 34-2
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
521 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:25:44.86
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
531 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:26:21.09
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
541 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:27:01.13
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
551 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:27:35.34
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
561 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:28:15.01
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 571 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:29:12.97
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
581 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:29:45.92
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
591 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:30:24.90
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
601 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:31:00.76
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
611 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:31:35.35
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
621 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:32:11.17
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
631 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:32:46.90
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
641 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:33:17.91
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
651 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:33:56.28
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
661 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:34:28.33
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
671 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:35:00.43
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
681 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:35:33.58
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
691 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:36:13.88
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
701 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:36:56.09
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 711 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:37:36.24
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
721 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:38:49.05
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
731 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:39:24.70
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
741 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:39:56.92
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
751 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:40:36.74
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
761 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:41:13.90
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
771 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:41:53.46
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
781 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:42:24.51
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
791 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:42:57.84
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
801 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:43:29.80
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 811 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:44:19.56
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
821 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:44:49.21
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
831 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:45:28.03
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 841 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/16(月) 04:46:11.48
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 85日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:01:34.30
邪馬台国畿内説は破綻しました
86日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:02:37.12
邪
馬
台
国
畿
内
説
は
破
綻
し
ま
し
た
87日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:22:38.20
テンプレを荒らさないでぇ!!!!
88日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:34:13.50
>>943
>青龍三年鏡は畿内でしか見つかってないから同范鏡はないものと思われる
畿内と魏に交流のあった証拠 <
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.htmlから転写
青龍三年(235年)顔氏作鏡 方格規矩四神鏡
大阪府高槻市安満御所の町 安満宮山古墳 17.4(cm)
青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右乕辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石′王 (右回り)
同笵鏡
京都府竹野郡弥栄町 大田南5号墳 17.4(cm)
いずれも大和ではなく、高槻と京都府北部であり、
東征毛人五十五國軍の通り道であり、
17.4cmは、(列島の△群の22〜23cmとは違って)、
明帝下賜の魏の工房の鏡群とほぼ同じサイズであり、
しかし、明帝下賜のような栄誉の鏡に同范鏡を入れる、という事は考えらえず、
だから、一枚は明帝下賜鏡であり、
他方は、渡来の呉系楽浪鏡師が「同范に関与した」鏡である可能性が高い。 89日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:35:32.00
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
90日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:40:40.53
>>952
>青龍三年鏡3枚のうち、畿内で見つかったのは1枚だけ
丹後は畿内ではない も1枚は埼玉<
ふーん、埼玉にもあったのでしたか。
有難うございます。 91日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:53:12.18
>>89の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 92日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:55:58.40
畿内説の秘儀、スレたて密建の儀
オナニ全開テンプレをゴチャンに貼ると、邪馬台国が畿内になるという。
平たく言えば新興宗教wwww
93日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:56:40.28
テンプレを荒らさないでぇ!!!!
94日本@名無史さん2019/09/16(月) 09:59:24.73
>>89
>>91
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 95日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:04:59.51
スレたて密建の儀、寝落ちで失敗じゃねーか。
邪馬台国が畿内からまた少し遠のいたな
信仰心が不足してるな、弛んでる
96日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:08:04.31
>>208すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 97日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:08:17.06
その後、どうなったの?
〜印が発掘されたとか、
そういうハッタリは通用しないんだよ
普通ならヒミコの家の人が(保管)持っているはずだし
98日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:10:32.49
>>96の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 99日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:10:53.83
倭人〜・・・〜そういう家の人がいるでしょ、
なぜ印を保管していないの?
100日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:15:41.66
>>98の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との友好親善を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 101日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:20:52.44
大倭〜大和でも何でも良いんだけど、
なぜ印を保管していないの?
102日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:22:20.80
>>94 >>96 >>98 >>100
以上まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の京都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 103日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:28:23.30
>>955
>邪馬台国は畿内を前提に語っても定説だから問題ない
学会ではすでにそう<
邪馬台国も畿内なんても、存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説は、「南→東」などの史料事実を否定曲解した×説なのであるから、
「定説だから問題ない 学会ではすでにそう」というような、
嘘つき騙しを説を唱えた学会や、
それを定説として信仰する、と宣言するこの男の精神状態問題であり、×人種。 104日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:29:21.31
創価か何かなんだろう?と言ってる人もいたような・・・。
105日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:33:34.94
大和、ヤマト?
『宇宙戦艦 創価』のような事も書いてあるし
106日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:44:05.66
>>96
おまえチンコロだろ。
華南の半ブタ半ニグロのクッサイ汚らしい醜悪極まるブタニグロな顔面をした。
そんな狂説を唱えている考古学者、一人もいない。
一刻も早く凄惨な形で死ね! 107日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:46:29.30
>>962
>1.前方後円墳を作る合意が古墳時代草創期の始まりで、2世紀末から3世紀初頭<
列島での前方後円墳は、壹與の遣使に西晋武帝が266年に「天円地方」思想を示した後。
そして、勿論卑弥呼の墓の「冢」は前方後円墳ではない。
>土器編年では庄内式土器が対応 事実上、纒向石塚古墳から <
大和の庄内1の石塚は、3世紀末だから、×。
>2.前方後円墳の定形化からが古墳時代本番で、3世紀半ば以降
土器編年では布留式土器が対応 事実上、箸墓古墳から <
布留の箸墓は、3世紀末の石塚の後の庄内3〜布留のホケノの後になるから、
4世紀であり、この男は×。
>1.が卑弥呼の共立、2.が卑弥呼の死とその墳墓造営を契機にしている<
卑弥呼の「冢」とは関係がないし、
「南≠東」などに拠っても、×。 108日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:52:39.22
あと宇宙戦艦関係を調べると、
前田某(農業何やら、〜銀行)という人物の名前が出てきたりするけど、
あの前田某ではないみたいだし
109日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:56:34.40
倭国は九州、倭王卑弥呼は鬼道の教祖で塚に葬られた。
前方後円墳は、別の小国畿内の倭種に始まる新たな祭祀の文化で、のちに全国に広まった。寺澤・2000図は其の倭種の文化図
110日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:56:51.97
>>88
大和説ではなく畿内説
大阪も京都も畿内に相当
呉系の渡来鏡市が同范に関与したとしても
畿内に相当する地域から青龍三年の魏の年号の入った鏡が見つかってる事実は変わらない
畿内と魏が交流を持っていた事を裏付ける史料
こればかりではなく景初や正始の魏年号の入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡も畿内から出土している 111日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:58:51.56
本当におかしな話でしょ?
同じ名前の家でも、あの前田某の家ではないとか
ちなみに家は『河童 仏教』?
東北地方のほうに住んでいたと言っているし、日本海側?
112日本@名無史さん2019/09/16(月) 10:59:54.15
>>110
青龍三年鏡3枚のうち、畿内で見つかったのは1枚だけ
丹後は畿内ではない
も1枚は埼玉
畿内説が成り立つなら関東説も成り立つのか? 113日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:00:29.53
>>964
>その年輪年代法が池上曽根遺跡が古くなりすぎるなどの疑念があって
年輪年代法による14C較正曲線を土器編年で修正したものがJcal
光谷氏の日本の年輪年代測定を一人で開発した功績は高く評価しているが
おそらく光谷氏が鬼籍に入られたら、Jcalの修正版が出されると思う<
ふーん。 114日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:00:56.32
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
倭国の対外交渉権の変遷が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨の伝承に反映されているもしれない。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
そして、7万戸という東夷の世界で最大の消費地も、弥生文化の中心地である筑紫に求めるしかない。 115日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:01:03.78
>>103
学術的に定まった説に立脚しないなら口から出任せを並べているに等しい
1たす1は2ではなくて3と強弁しているようなもの 116日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:02:01.73
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれたのだろう。。。
117日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:04:32.11
倭国は九州、倭王卑弥呼は人を生贄にする鬼道の教祖で、薄葬令に倣い塚に葬られた。
前方後円墳は、別の小国畿内の倭種に始まる新たな祭祀の文化で、のちに全国に広まった。寺澤・2000の図は其の倭種の文化図
118日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:05:49.00
なぜ創価なんだろう?と疑われたり、印象が悪いのか?
何かしたからなんだろうと言っている人もいたような、
創価が何かしたのw
119日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:06:33.61
>>85、>>86が連続句読点の仕業
のみならず>>87も連続句読点
頭おかしい度がさらに昂進してる
家族に人に見つけて欲しいね 120日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:06:40.08
>>112
畿内説なら成り立って関東説は成り立たないという風になるよ
畿内説が定説だから
畿内から関東に伝播したと解される
その逆は成り立たない
そして丹後は畿内ではないというのは単なる詭弁
邪馬台国は厳密に畿内というわけではなく
ほぼ畿内に相当する地域が古墳時代の考古物の文化的な繋がりを示すというある程度の柔軟性を含んだ想定だから 121日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:09:19.75
わかりやすく言うと、何にもないんだろうという話
122日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:11:44.76
>>121
九州に?
たしか硯とか曹操の鏡が出たとか騒いでなかったか 123日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:12:46.55
>>992
>邪馬台国は葛城で卑弥呼の墓は高天原だ。<
「南≠東」などに拠って、×。 124日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:13:44.03
125日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:13:51.79
>>120
定説という言葉に自己陶酔してるな、、。
要するに、ただのヨッパライということだ。 126日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:15:41.56
魏志倭人伝の西暦240年代ぐらいの記述は
日本書紀にある崇神治世の前半の部分とみて間違いない。
卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母であり、
卑弥呼の死の直前に戦った狗奴国の男王の卑弥弓呼は
武埴安彦命だとみて、間違いない。
ちなみに、卑弥呼共立のきっかえになった倭国大乱は
皇室系図でいう欠史八代の中ごろに起こった戦争であり、
当時は畿内王朝は、天火明命の男系子孫が正式な倭王(祭祀王)で、
天火明命の兄弟の邇邇芸命の男系子孫たちが実権を握って政治を行っていた(世俗王)
それを後者が前者の地位を奪おうとしたことから、倭国大乱になった。
その結果、後者のほうが勝利し、後者の一族から倭王・卑弥呼が共立された。
でも、その後も前者の一族も、尾張などに落ち延びて、一定の勢力を保ち続けた。
127日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:15:53.48
三國志厨?
ちなみに河童〜河伯という説明があるでしょ、
wikiなどでなくてもw
128日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:18:55.93
129日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:19:55.45
130日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:21:03.93
131日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:27:19.61
>>993
>見つかってないものを根拠にはできないね
青龍三年と魏年号の入った鏡が畿内に相当する京都大阪で見つかった
今判明している事実はそれ<
「畿内」なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の軍は、
阿毎氏や宗像との近縁であった出雲への直接的征服戦はしておらず、
瀬戸内を東進して、高地性集落に関わり、
出雲系であった吉備や讃岐や阿波や播磨を征服し、
主力は河内や摂津や山城や近江や東海や南関東方面に進み、
別動隊が、播磨や摂津や山城から(出雲と越の間の)日本海側や、
大和や紀伊に入ったもの。 132日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:32:09.53
河童〜
なぜか鶴見のほうの話が出てきたり、横浜にあるでしょ、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ほとんど老婆談と同じ?
アサノセメント〜〜〜〜〜〜〜〜という話もしていたり。
133日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:33:25.11
>>999
>学会での定説だよ<
「南→東」などの、
最も基本的な史料事実の否定曲解の嘘付き騙しがバレた大和説の学会の説じゃ、
「定説」にはならないよ。
まあ、「偽説」や「偽書」だな。 134日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:35:23.86
川崎区の南部のほうに、
セメント通りというところがあるんだけどw
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
家の話なのかな?
あのキュウリのような葉、葱の華の写っている写真とか。
135日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:38:14.31
>>117
>倭国は九州、倭王卑弥呼は人を生贄にする鬼道の教祖で、薄葬令に倣い塚に葬られた。
「倭国は九州」根拠なしかつ間違い 北部九州は倭国の一地域 そこから水行陸行で2月先まで倭国
「倭王卑弥呼は」これは正しい
「人を生贄にする」そんなことはどこにも書いてない
「鬼道の教祖で、」これはギリギリ 事鬼道、能惑衆とあるだけ
「薄葬令に倣い」これはウソ 薄葬令は自分の墓をどうするかという話で、外地には全く拘束力が無い
「塚に葬られた。 」『說文解字』「冢」高墳也。
たった一文でこれだけデタラメ
九州説はもうダメポ 136日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:43:26.28
>>120
>畿内説なら成り立って関東説は成り立たないという風になるよ
チェリーピッキングの典型ww
紀年銘鏡一枚で物事が決まる訳ではない
三角縁(斜縁)神獣鏡、画文帯神獣鏡の分布があって、その中心が畿内にあり
その鏡群の性格を考えるときに紀年銘鏡が重要視される
関東は古墳時代初期の面径20センチ超の銅鏡群の分布の辺境に当たるので、
関東説は成立しない 137日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:43:36.31
ちなみに前方後円墳は以前は車塚と呼ばれていた
前方後円墳=塚
138日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:44:36.69
>>120
>畿内説なら成り立って関東説は成り立たないという風になるよ
>畿内説が定説だから
循環論法
>畿内から関東に伝播したと解される
地方の政権が国王より大きい墓を作るのを許したのか?
それが許されるなら、九州の倭王が畿内の地方政権に大きな墓を作らせるのも構わないよな?
>邪馬台国は厳密に畿内というわけではなく
ああ言えばこう言う 139日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:45:48.46
>>999
>現在見られる魏志倭人伝は12世紀の復刻本
同時代記録ではない
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧はそれ以前の魏志倭人伝を引用し
それぞれ共通して卑弥呼が魏に使いを送った年を景初三年と記す
となると明帝の詔書は倭の朝貢が内定した際にあらかじめ書いてあったものの可能性がある<
この男は、「南→東」などの嘘付き騙しをする事を厭わず、
東大理系博士を自称する、キョクウ人種差別皇国史観テロ狂の類スレ主のようだな。 140日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:47:06.38
あと日本の?メディア関係
チョンBS〜チョンテレビとか、
なぜか、そういう話ばかりだしw
141日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:48:55.96
>>125
定説に対して反論するのは一向に構わないよ
定説が変わることもある訳だし
ただ、「オレは定説だと認めない」というだけなのは、反論でも批判でもないww
反論は具体的な論拠をあげて、きちんとした論証の形で示さないとw
一大率が刺史のごとくでそれが伊都国にいる時点で、その近辺に王都がないことは確定
投馬国が女王国より以北の国となる時点で、北部九州説は壊滅
北部九州から二千里、水行陸行で二月先に邪馬台国があるというのだから、九州ではむり
畿内説とは無関係にこれだけで九州説は破綻している 142日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:50:34.80
>>126
>当時は畿内王朝は、天火明命の男系子孫が正式な倭王(祭祀王)で、
>天火明命の兄弟の邇邇芸命の男系子孫たちが実権を握って政治を行っていた(世俗王)
天火明(饒速日)が関西方面、邇々藝が九州方面の王になったが、倭国の代表権はあくまでも九州北部の王がなる。
邇々藝の先代は志賀島の大山積(綿津見)であり、倭王家としては木花咲耶姫による女系相続なんだろう。 143日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:50:54.71
>>138
証拠が固まってる定説畿内説に立脚するから循環論法にはならない
証拠のない九州説を前提に論ずれば循環論法 144日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:53:52.25
畿内詐欺にひっかかる素人はROMって知識を蓄えたほうがいいね
145日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:56:00.73
>>136
>関東は古墳時代初期の面径20センチ超の銅鏡群の分布の辺境に当たるので、
なぜ20センチにこだわる?
その時代に既に40センチ級が存在しているのに? 146日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:57:15.44
>>141
>一大率が刺史のごとくでそれが伊都国にいる時点で、その近辺に王都がないことは確定
>投馬国が女王国より以北の国となる時点で、北部九州説は壊滅
どちらも前提の部分が根拠なし。
それで定説とは笑止千万。 147日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:59:02.48
>>999
>重力と電磁気力が干渉するのはブラックホール等の重力が極端に強い環境
通常の環境では重力波電磁気力に対してほとんど影響を与えない<
場の相互作用は、結果として、場の不安定を解消する方向性を持ち、
不安定性が残る限りその方向性は消えず、
全体の相互作用状態が安定的固着的になるまで続くもの。 148日本@名無史さん2019/09/16(月) 11:59:56.22
>>143
>証拠が固まってる定説畿内説に立脚するから循環論法にはならない
証拠がないのに言い張っているだけの循環論法 149日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:00:48.52
>>138
>地方の政権が国王より大きい墓を作るのを許したのか?
そんな例はない
どの時代でも、最大の墓は畿内にある
時代ごとに「最大」の基準が変わるから、畿内で史上最大のものが作られた時代の地方の墓で
畿内の大王墓が小さくなった時代のものより大きいのはあるけれど
関東最大の太田天神山古墳で210メートルで古墳時代中期の5世紀前半
その頃の畿内では300メートル、400メートル超の大王墓を作っている 150日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:01:10.35
家があるでしょ?
老婆が結婚する前の話になるんだけど、
何かの家(この書き込みをしている家)の人だよ
みたいな事を言われたと言っていたり
神仙、仏教関係?
151日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:01:10.86
九州説が循環論法に陥る一例
畿内で魏の年号の入った鏡が見つかるが邪馬台国は九州にあったはずなので
呉の楽浪鏡師が日本に渡来して作った偽物のはずだ
魏志倭人伝に邪馬台国は帯方より南1万2千里とあり
魏で使われていた尺度1里約430mで換算すればオーストラリアになるが
邪馬台国は九州にあったはずなので1万2千里は1里75mで九州北部を指すことになる
短里というものが使われたはずだ
魏志倭人伝が短里で書かれてる証拠は魏志倭人伝が短里で書かれてるから
152日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:02:59.24
>>148
複数の証拠が集まってるから畿内説は定説 153日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:05:02.02
言い張っているだけじゃん。
154日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:05:46.47
155日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:05:56.12
>>149
その後は関東で大古墳を作り続けるけど、畿内では作るのをやめてしまうんだよ。 156日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:06:56.47
ここまで畿内説の「根拠」がことごとく論破されているよね。
157日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:14:08.45
>>156
九州説がこういう内容のないレスをするのは
心の中で敗北を悟った時 158日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:22:00.20
>>126
>魏志倭人伝の西暦240年代ぐらいの記述は
>日本書紀にある崇神治世の前半の部分とみて間違いない。
時代が全然違うって。
武埴安彦命は椿井大塚山以外に考えられない。
時代は4世紀前後。
あと吉備津彦=中山茶臼山が4世紀前半。
稲荷山鉄剣のヲワケさんの7世代前のオオヒコも4世紀前半。
崇神がらみの人物がみんな4世紀前半。
つまり崇神は4世紀前半、古事記の干支が正しいとして318年没。 159日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:36:25.90
蚕を飼い、機織り〜?
ほとんど同じだしな、シルクロード?
160日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:38:05.93
王母(西王母?)〜〜〜〜〜〜〜〜〜寒いな〜・・・。
本当に、どういう事なんだろう
161日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:56:52.62
>>154
倭人伝原理主義により、
伊都国は、唐津・末盧国の東南500里の佐賀川上で決まり。これ一行で畿内説互助会は崩壊した。 162日本@名無史さん2019/09/16(月) 12:58:16.65
wiki『西王母』
姓:楊 (姓) ヤン
?????????のような状態になるでしょw
163日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:02:02.96
名前なのか、姓(名字)なのか・・・アニメの話?
164日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:39:05.72
>>142
>天火明(饒速日)が関西方面、邇々藝が九州方面の王になったが、倭国の代表権はあくまでも九州北部の王がなる。
その当時、倭国の代表権なんていう意識はないw
当時は、各地の特産品を出し合って広域流通圏を作り、緩やかに結びついている段階
北部九州は、その特産品として大陸渡来の銅鏡を出していたから、それなりに尊重されていただろうけれど 165日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:40:46.16
>>144
>畿内詐欺にひっかかる素人はROMって知識を蓄えたほうがいいね
残念だねぇ
ROMってここのテンプレ読むだけで、
まともな思考力のある人は畿内説で納得するんだよw
だから、ここのテンプレが大嫌いなんだろ?ww 166日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:40:52.68
FAQ73までしか書き込んでないじゃない。続きは?
167日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:41:26.05
>>145
>なぜ20センチにこだわる?
お前に常識があれば分かるよww 168日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:44:43.86
>>146
>どちらも前提の部分が根拠なし。
>それで定説とは笑止千万。
本当に、意味のないことをわめく以外できない惨めな無能だなw
一大卒についての根拠
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 169日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:45:05.26
投馬国が女王国より以北の根拠
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
170日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:47:33.36
>>155
>その後は関東で大古墳を作り続けるけど、畿内では作るのをやめてしまうんだよ。
大田天神山古墳の後、関東では対して大きな墳墓は作られていない
最後まで前方後円墳を作り続けるのは確かだが、「大古墳」は作っていないんだよ
こういうところも、チェリーピッキング体質ww
もう少し、全体像を俯瞰するとか、歴史の流れで考えるとかしてみたらどうだ?ww 171日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:49:11.08
>>157
>九州説がこういう内容のないレスをするのは
>心の中で敗北を悟った時
それは違うなw
九州説はもともと中身がない空っぽで、書くことがないから、
いつでも、この手の意味なし一行書き込みを続けてるんだよw 172日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:50:22.14
>>158
>武埴安彦命は椿井大塚山以外に考えられない。
>時代は4世紀前後。
絶対年代は確定しないんじゃなかったっけ?ww 173日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:51:19.95
>>161
>倭人伝原理主義により、
>伊都国は、唐津・末盧国の東南500里の佐賀川上で決まり。
倭人伝原理主義って、「バカ」っていう意味だぞ?
理解してるか? 174日本@名無史さん2019/09/16(月) 13:54:58.64
魏志倭人伝を無視する詐欺よりマシ
175日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:05:11.93
古墳時代後期の6世紀に日本列島の各地で造営された墳丘長60メートル以上の大型前方後円墳の数を比 軟すると,他の諸地域に比べ関東地方にきわめて多いことが知られる。
律令体制下の国を単位にみてみると,関東では上野97,下野16,常陸38,下総11,上総28,安房0,武蔵26,相模0で,合わせて216基と なる。
うちに大王墓をも含む畿内地方でも大和20,河内12,和泉0,摂津2,山城5の計39基にすぎずない。
「関東の後期大型前方後円墳」
白石太一郎
176日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:09:01.80
べつに創価でも何でも良いんだけど、
一部、おかしな人がいるんだろう、これは確実w
そういう人がいるから、まともな人まで疑われたり、
あと、こういう話も本当の話なのかな
『千葉 漁師 日蓮』
177日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:10:13.08
>>164
>当時は、各地の特産品を出し合って広域流通圏を作り、緩やかに結びついている段階
根拠なし。
少なくとも対馬海峡を通じた対外貿易は、伊都の大率が検察していた。
特に魏や帯方郡との交渉では、女王への荷は伊都で確認して誤りがないようにしていたと書かれている。
出雲や他の地域が介入できたとは書かれていない。
魏志倭人伝を無視した空想歴史など無意味だよ。 178日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:13:15.06
>>167
九州でも畿内でも、銅鏡は40センチ級に至っている。
20センチで区切るのは恣意的な操作であり、畿内説がいかに非科学的な詐欺かと証明しているようなもの。 179日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:21:11.13
>>168
> 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
大率は伊都に置かれたが、女王国から北(対馬海峡)を検察し、諸国はこれをおそれはばかったと書かれている。
つまり対馬海峡の国々が伊都の大率をおそれはばかったということだ。
特定の国邑に縛られずに、王都ではない「地方」(対馬海峡)を検察したので刺史のようだとされたのだろう。
なお、畿内説では伊都にあった大率が女王国(畿内?)の北側を検察するということになってしまい、文意が通じなくなる。 180日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:39:46.09
>>174
>魏志倭人伝を無視する詐欺よりマシ
明確に現実に合わない部分まで、「正しい」として現実認識を歪めるのが原理主義
末盧国が松浦川下流平野の唐津平野なのは、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡の存在から
残存地名、王墓級を含む遺跡の存在で確実
伊都国が糸島市(怡土郡)の三雲南小路遺跡周辺なのも、残存地名、王墓級遺跡から確実
末盧国から伊都国が、東南陸行ではないのは明確
これを、三雲南小路遺跡の存在を無視して、残存地名も遺跡もないところに
東南陸行五百里だけで伊都国を持っていこうとするのがバカの所業
それに、五百里の見積もりもでたらめで、それで行くなら目的地は吉野ヶ里遺跡と
しなければおかしい
どうやっても佐賀川上にはならない 181日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:42:23.21
>>175
>墳丘長60メートル以上の大型前方後円墳の数を比 軟すると
「60メートル」以上ww
そんなのは、大古墳には入らないw
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
作山古墳
両宮山古墳
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳
トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだ
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位 筑紫君磐井の墓
これが筑紫国造の最盛期 182日本@名無史さん2019/09/16(月) 14:45:41.07
>>177
>少なくとも対馬海峡を通じた対外貿易は、伊都の大率が検察していた。
どうして、魏志倭人伝にも
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。於國中、有如刺史。
と書かれていて、伊都国を監視していた一大率がいるっていうのがそんなに誇らしいのかね?
他地域からの派遣官に頭が上がらないって書いてあるだけだぞ?
対馬海峡交易の実権を頭越しに抑えられているというのが、魏志倭人伝に書かれている実態だ
九州説論者は文献が読めないバカしかいない 183日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:06:38.08
>>178
>九州でも畿内でも、銅鏡は40センチ級に至っている。
>20センチで区切るのは恣意的な操作であり、畿内説がいかに非科学的な詐欺かと証明しているようなもの。
大体釣れたかな?
古墳時代の大型鏡としては
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
3位 「鼉龍鏡」39.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土
40センチ級なんてのは、数えるほどしかないぞww
そして、9位の時点で30センチだ
さらに言えば、山口と千葉を除いて残りは全て畿内だよww
結局は、畿内優位を確認しただけだったなw 184日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:07:00.94
三角縁神獣鏡の18〜24センチの面径は、銅鏡としては十分に大鏡なんだよ
平原1号墓で山ほど出る方格規矩鏡は16センチから20センチのものがほとんど
その前?の三雲南小路遺跡では一号甕棺では16〜18センチ、二号甕棺では
枚数は多くても6センチから11センチのものしかない
銅鏡の大きさというのは本来それくらいのものなんだよ
常識を知らないと、訳の分からない難癖をつけた挙句に、自説に不利なことを
確認して終わりという間抜けなことになる
本当に、情報リテラシーが低いから、物知らずで間抜けww
185日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:12:19.37
>>179
>なお、畿内説では伊都にあった大率が女王国(畿内?)の北側を検察するということになってしまい、文意が通じなくなる。
魏志倭人伝には、自女王國以北、特置一大率とあるから、女王国より以北の
投馬国から対馬国が、一大率の検察範囲ということになる
畿内説では、陳寿の書く「南」は帯方郡から遠ざかる方角だから特に問題はない
投馬国から北部九州は水行で行き来できる範囲だから、常治伊都国で投馬国まで
含めて、一大率が検察したと考えて何も問題がない
一大率が王都周辺にはいないというのは、刺史の如しという言い方で明確
伊都国が王都だというのは、でたらめだよ 186日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:15:57.66
検証もせずに妄言と断じるのが韓国の駄目なところ
検証もせずに根拠なしと断じるのが九州説のだめなところww
187日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:20:29.75
>>182
>他地域からの派遣官に頭が上がらないって書いてあるだけだぞ?
そんなことは書いてないだろ。 188日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:21:17.91
九州は交流が激しくて誤魔化し難い土地だったんだろ、東征してまず奈良でデカイので脅しその後四道将軍の内一番カッペが集まる関東上野毛にドカンといったんだな。何れにしろ半島東征だよ。
189日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:21:56.94
>>183
その表を承知しているからこそ、20センチで区切るのは恣意的な情報操作だというんだよ。 190日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:24:01.35
>>169
キナイコシお前だけだよ、定説でも何でもないよ
>日数で表記された距離は「道里」に該当<
を九章算術や三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻を良く理解しないで根拠にしているのは
本当におバカさん 191日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:24:49.99
>>185
>畿内説では、陳寿の書く「南」は帯方郡から遠ざかる方角だから特に問題はない
また南を意図的に無視するんだね。
このように畿内説は魏志倭人伝と矛盾だらけ。
大率の記事からわかるのは、伊都が周辺国から恐れ憚られていたこと、女王国が伊都国を含む九州北部であることだよ。 192日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:34:24.76
>>180
>明確に現実に合わない部分まで、「正しい」として現実認識を歪めるのが原理主義 <
賛同
巻向は明確に邪馬台国の都としては✖ 193日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:38:29.49
>>164
>当時は、各地の特産品を出し合って広域流通圏を作り、緩やかに結びついている段階 <
それで、特産品は食事用土器かいなwww 194日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:40:21.31
>>110
>大和説ではなく畿内説<
畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言。
>大阪も京都も畿内に相当<
米田に拠れば、大和よりも河内付近の方が中心地。
そして、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の軍は、
(阿毎氏や宗像と近縁であった)出雲への直接的征服戦はしておらず、
瀬戸内を東進して、高地性集落に関わり、
出雲系であった吉備や讃岐や阿波や播磨を征服し、
主力は河内や摂津や山城や近江(伊勢遺跡など)や東海や南関東方面に進み、
別動隊らが、播磨や摂津や山城から(出雲と越の間の)日本海側や、
大和や紀伊に入ったもの。
ただ、大和は、紀元前1世紀に阿毎氏の神武らの東征で拠点が出来ていて、
崇神らが倭國の東征軍に参加参戦出来たから、東征軍の一つの拠点にはなった。
>呉系の渡来鏡市が同范に関与したとしても 畿内に相当する地域から
青龍三年の魏の年号の入った鏡が見つかってる事実は変わらない
畿内と魏が交流を持っていた事を裏付ける史料 こればかりではなく
景初や正始の魏年号の入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡も畿内から出土している<
当然、卑弥呼らから東征毛人五十五國の将軍らに下賜された鏡。
明帝が筑紫の卑弥呼らを差し置いて近畿の小国に鏡を下賜する筈もないし、
民間レベルであっても、筑紫や出雲を素通りして無断で流入する事は起こり得ない。 195日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:43:43.11
あのーーー
魏からもらった鏡に大きさ記述されてたっけ?
問題は 魏の鏡かどうかじゃねーのか
まず三角縁・・は魏の鏡かどうかも未確定だから✖
196日本@名無史さん2019/09/16(月) 15:55:53.15
>>120
>畿内説なら成り立って関東説は成り立たないという風になるよ
畿内説が定説だから畿内から関東に伝播したと解される その逆は成り立たない<
「畿内」なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
大和説も、「南≠東」などに拠って×であり、
国民の定説には、全くなっていない。 197日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:04:09.95
>>126
>卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母であり、
卑弥呼の死の直前に戦った狗奴国の男王の卑弥弓呼は
武埴安彦命だとみて、間違いない。 <
「南≠東」などに拠って、×。 198日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:05:50.93
>>129
>畿内説が定説なのは
ずっと前からだよ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 199日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:29:12.85
>>135
>「倭国は九州」根拠なしかつ間違い<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は北部九州であり、
この男は詐欺師であり、かつ間違い。
>北部九州は倭国の一地域 そこから水行陸行で2月先まで倭国<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「そこから水行陸行で2月先まで倭国」というのが間違い。
>「薄葬令に倣い」これはウソ
薄葬令は自分の墓をどうするかという話で、外地には全く拘束力が無い<
魏の皇帝らが自分の墓を薄葬にせよ、と遺言したのに、
率善中郎將を壹拜した難升米や掖邪狗等が、親魏倭王を「厚葬」出来る筈がない。
>「塚に葬られた。 」『說文解字』「冢」高墳也。<
「冢=墳」とは書いておらず、
むしろ「高」を付けて、
「冢≠墳」だと区別して、冢は墳とは違うモノだ、と説明している事になる。 200日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:42:54.77
>>136
>三角縁(斜縁)神獣鏡、画文帯神獣鏡の分布があって、その中心が畿内にあり<
神獣鏡自体が、魏の敵国の呉系的な鏡であるから、
明帝の下賜の銅鏡百枚に選択される可能性は殆どなく、
列島で出土した神獣鏡は、渡来して来た呉系楽浪鏡師らが関与した、という事の方が、
はるかに可能性が高い。
>その鏡群の性格を考えるときに紀年銘鏡が重要視される<
魏の工房で造った鏡であれば、「年号」を書く事が別に必要でもなく、
「年号」を書く事が必要なのは、その鏡師が「自分の拠って立つ国」を示す意図、
という可能性の方が高い。 201日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:47:53.01
ほんとーに小椋佳の曲『君は それ以上』でしょ
『まとも』(後方不敗)??
202日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:54:29.90
>>137
>ちなみに前方後円墳は以前は車塚と呼ばれていた 前方後円墳=塚<
始皇帝の冢も、馬韓の家屋の冢も、「車」型ではないから、
冢は、車塚でも前方後円墳でもない。
ちなみに、前方後円墳は、箸墓のように、二輪車のように見えたか?。 203日本@名無史さん2019/09/16(月) 16:54:40.13
youtube動画(からおけ)などがあるでしょ?
なんで詳しい人がいるんだろう
204日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:03:41.19
ですらー?
205日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:04:03.28
>>187
>そんなことは書いてないだろ。
理由も根拠も一言も書けないでやんのw
「有如刺史」とある時点で、一大率のいるところは王都から離れた地方
つまり王都=よそからの派遣官
「檢察諸國、諸國畏憚之」の、畏れ憚るというのは、対等で何でも協議できる関係ではないだろ
つまり、頭が上がらない状態だ 206日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:05:10.96
>>188
>何れにしろ半島東征だよ。
おいおい、半島人は国へ帰れ! 207日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:07:19.15
>>189
>その表を承知しているからこそ、20センチで区切るのは恣意的な情報操作だというんだよ。
おいおい、とことん惨めな卑怯者だなw
20センチ超くらいがボリュームソーンの上限だから、
多数を対象に分布等を論じるにはちょうどいいだろ?
そして、最大級まで入れたところで「畿内を中心に分布」はまったく変化しない
意味のないいちゃもんをつけただけ
お前、バカだろww 208日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:07:31.40
>>202
車塚ではないと言われてもな
そう呼ばれてたんだけど
傲慢が過ぎて考え方が常人のそれじゃなくなってるな 209日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:09:27.02
>>190
>キナイコシお前だけだよ、定説でも何でもないよ
投馬国が女王国より以北の国というのは魏志倭人伝の記述の並びだけからでも
明確に分かることであり、定説も何も疑う人は基本的にいないよww
九州説なんていう与太話にいまだにしがみついている情報リテラシーの低い老人が
数名、そんなはずはないにだーって言い張ってるだけ 210日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:11:03.70
>>191
>また南を意図的に無視するんだね。
無視してないよ
陳寿が、倭国を会稽東冶之東と認識していることから、当然に読み取れることというだけ
陳寿の誤認に則して解釈するということ 211日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:11:30.61
>>191が畿内説の懇切丁寧な説明を無視しているだけww 212日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:13:18.86
>>193
>それで、特産品は食事用土器かいなwww
祭祀用供献土器の規格統一は、特産品とかどうとかのレベルを超えてるよ
つまりそこに政治的意思、王権の所在が分かる訳だ 213日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:18:28.47
>>194
九州からの東征を想定するならば
それは魏志倭人伝や記紀の160〜180年の倭国大乱や神武東征に収斂する
史料上で三世紀には畿内に王権が確立した事を示唆するものであり
卑弥呼の時代に畿内に王権が存在した根拠の一つでもある
歴史史料に齟齬が多すぎて苦し紛れの辻褄合わせに東征将軍を想定した九州説は
畿内説に侵食されつつあるという事 214日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:20:01.96
>>195
>魏からもらった鏡に大きさ記述されてたっけ?
されてないよ
>問題は 魏の鏡かどうかじゃねーのか
その理由は、前に別の人がまとめてただろ?
「三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てる」
「卑弥呼が使いを出した年が景初二年になっているのは
原本が失われた十二世紀の復刻本の魏志倭人伝から
それ以前の魏志倭人伝を引用した史書は卑弥呼が
魏に使いを送った年を景初三年と記述」
「その後年になる正始元年記銘のものも畿内にあり
魏と畿内の継続的交流があった事の物的証拠」
「使用された銅の不純物から魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと
同じものが使われていたと判断するに足る分析結果が出ている」 215日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:22:03.81
>>213
>それは魏志倭人伝や記紀の160〜180年の倭国大乱や神武東征に収斂する
もう少し古くなると思うけれどね
まあ、情報が少なすぎて「思う」以上にはならないけれど 216日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:41:36.81
>>141
>一大率が刺史のごとくでそれが伊都国にいる時点で、その近辺に王都がないことは確定<
一大率は、「檢察諸國」が仕事であり、だから首都も行き、近辺も行き、遠出もするのであり、
伊都国の近辺に王都があっても何ら構わない。
>投馬国が女王国より以北の国となる時点で、北部九州説は壊滅<
投馬國は、不彌國やそのすぐ南にある邪馬壹國女王之所都から、
「南へ水行二十日」の位置にあり、
「女王国より以北の国とならない」し、「南≠東北」でもある時点で、
類スレ主の大和説は壊滅。
>北部九州から二千里、水行陸行で二月先に邪馬台国があるというのだから、九州ではむり<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている時点で、
「二千里、水行陸行で二月先」という事があり得ず、
この事だけでも、この大和説男の類スレ主は、嘘つき騙しの×男。
九州説とは無関係にこれだけで大和説は破綻している 217日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:51:02.81
理由は書いているだろ。
>>205
>「有如刺史」とある時点で、一大率のいるところは王都から離れた地方
伊都から出発して「地方」つまり対馬海峡を検察したんだよ。
>つまり、頭が上がらない状態だ
周辺国が伊都に頭が上がらない状況。
なぜなら大率があるから。 218日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:53:26.07
>>209
>投馬国が女王国より以北の国というのは魏志倭人伝の記述の並びだけからでも明確に分かることであり、
邪馬台国と投馬国への日程は別枠で書いてあるんだよ。
つまり里程とは別の情報。 219日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:56:33.73
>>210
その結果が魏志倭人伝無視かい。
その時点でもう畿内説に未来はない。 220日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:58:46.92
三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から出土しているが、
邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土して否無いのはなぜ?
221日本@名無史さん2019/09/16(月) 17:59:53.43
>>217
>伊都から出発して「地方」つまり対馬海峡を検察したんだよ。
それこそ「根拠のない個人の考え」ですねww
常治伊都国という時点で、伊都国が「刺史のいる地方」なんだよww
「僕の考えたかっこいい魏志倭人伝の読み方」ではだめってこと 222日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:01:31.11
>>217
>周辺国が伊都に頭が上がらない状況。
>なぜなら大率があるから。
一大率が伊都国の王だなんて書いてないだろ?w
伊都国の爾支も泄謨觚も柄渠觚も、一大率に頭が上がらないんだよw 223日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:01:43.63
>>213
年代としてはそれで良いのだが、神武は筑紫における敗者であり、都落ちなんだよ。
その後に筑紫で成立した卑弥呼政権は記紀に登場しない。
なぜなら現在の皇統に繋がらないから。 224日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:02:54.36
>>222
大率が王なんて書いた覚えはないけれど? 225日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:04:53.02
>>218
>邪馬台国と投馬国への日程は別枠で書いてあるんだよ。
>つまり里程とは別の情報。
そのインチキ理論を認めたところで、
南至投馬國、水行二十日。官名略、可五萬餘戶。 ←女王国以北
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官名略、可七萬餘戶。←女王国
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、 ←女王国以南
にしかならないってのww
戸数も書いてあるんだからw
どうやっても、投馬国は女王国より以北の国
これだけで北部九州説は壊滅w 226日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:05:49.75
>>220
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 @阿波 227日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:07:17.21
>>219
>その結果が魏志倭人伝無視かい。
>その時点でもう畿内説に未来はない。
無視してないよww
帯方郡を出てから、訪れた国を訪れた順に記載してあるから
それが真の方角がどちらであろうと、先へ進む向きに配置して行かなければならない
これが分かってないから、九州説は投馬国で詰む
無視してることにするくらいしか反論のネタすらない九州説はもうダメポw 228日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:09:29.89
>>220
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 @阿波 229日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:10:10.49
>>220
>邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土して否無いのはなぜ?
おそらく、墳墓の編年が間違っているんだろう
ただ、実際に魏との交流のあった人物、例えば難升米は、張政さんを案内して
そこで事切れる訳ではないから、卑弥呼の鏡を大量副葬されるべき人物の墓は
卑弥呼の死よりもさらに遅くなり、4世紀にかかる頃でも特におかしくは内 230日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:12:25.01
>>223
>その後に筑紫で成立した卑弥呼政権は記紀に登場しない。
当たり前だろ?
「筑紫で成立した卑弥呼政権」なんて存在しないんだからww
記紀では佐治国男弟を皇統として記しているんだよ 231日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:14:23.67
>>224の頭の悪い所は「大率」って書いてるところだよな
魏志倭人伝の記述を無視、あるいは改竄しているww
それはそれとして、だとしたら一大率は伊都国を代表する存在ではないのだから
一大率を畏れ憚るのは伊都国に頭が上がらないことにはならないなww 232日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:27:59.36
>>230
>卑弥呼政権は記紀に登場しない
登場するよ。
ただし卑弥呼が誰なのか判明すると、約100年前の倭国王師升まで判明する事になる。
7世紀の朝廷が一番恐れたのがこれであろう。
だから女王国の時代を神武東征紀でまるで「男王国」であったかの様な記述をした。
そして女王と婿の関係を新称号でごまかした。
それが「天皇・皇后」だ。 233日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:33:23.75
おーい、アフォの>>1
以前書いたのをメモってたわ。
森井さん、森岡さんもこの年輪年代を導入していた。
庄内0 AD177+18 纏向石塚
庄内1 AD222 二口かみあれた
庄内2 AD240 下田
庄内3 AD258 二口かみあれた
布留0
布留1
布留2
布留3
布留4 AD389 宇治市街 須恵器
庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
布留0古相時期に建造開始の箸墓がAD258より古くなることはあり得ない。
つまり箸墓はAD248に死亡した卑弥呼の墓ではない。 234日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:44:48.34
倭人伝原理主義により、
伊都国は、唐津・末盧国の東南500里の佐賀川上で決まり。・・・これ一行で、倭人伝不服の畿内説互助会は崩壊した。
235日本@名無史さん2019/09/16(月) 18:50:08.05
>>143
>証拠が固まってる定説畿内説に立脚するから循環論法にはならない <
不可知部分が殆どである自然や歴史に於いては、
例えば「Aである、だから・・・、だからAである」というようなサイクル論が、
「結論先にありき」の結論がまたまた結論になっており、
それが循環論法であり、
それは、「Aである」という事が100%正しい、という場合にのみ成立する論理であり、
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、「Aではない」という可能性が殆ど無限にあり、
その「Aではない」全ての場合を全部のケースの論理や推論を否定していない限り、
その循環論法は、殆ど無効である。
証拠のない九州説を前提に論ずれば循環論法 236日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:00:02.45
>>214
それ、別の人は私だよ
>その理由は、前に別の人がまとめてただろ?
「三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てる」
「卑弥呼が使いを出した年が景初二年になっているのは
原本が失われた十二世紀の復刻本の魏志倭人伝から
それ以前の魏志倭人伝を引用した史書は卑弥呼が
魏に使いを送った年を景初三年と記述」
「その後年になる正始元年記銘のものも畿内にあり
魏と畿内の継続的交流があった事の物的証拠」
「使用された銅の不純物から魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと
同じものが使われていたと判断するに足る分析結果が出ている」<
かと言って 邪馬台国は畿内とは断定されると困るのだがーー
「以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし」・・・これの国中は邪馬台国では無い 237◆PyuQX798ps 2019/09/16(月) 19:04:29.62
>>1=キナイコシ=オクヤマ??さん
確認ですけど、畿内説では
不彌國は北部九州でいいのですよね! 238日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:07:13.95
奥山氏は、頭が悪いな、、、
547日本@名無史さん2019/09/13(金) 07:57:23.15
原子核は例えるなら太陽
電子は周りを回る水星
239日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:08:22.47
奥山氏の脳の周りを、謎の物体がぐるぐる回っているのだろうか、、、
240日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:10:12.14
奥山氏の脳の周りを、ぐるぐる回っている謎の物体は、どのような物体なのだろうか、、、
241日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:11:42.89
242日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:14:04.66
243日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:19:04.28
>>1 とか畿内説の投稿者がよく方位の誤情報で
東南陸行 五百里 到伊都國
で出しますが、
畿内説では
「末盧國 」「伊都國 」「奴国 」「不彌國」は北部九州で統一されてますよね
すると、あまり末盧國から伊都国の東南陸行の課題は、畿内説も同じ土俵で解明すべきだと思いますよ
九州説では邪馬台国論争と離れ、
東南陸行 五百里 到伊都國 を解明しようとしてますが
畿内説は何も解明してないようです
これは邪馬台国が畿内であれ、九州であれ、出雲であれ、阿波であれ共通した課題です 244日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:19:50.52
245日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:20:10.21
246日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:29:20.93
>>243
>これは邪馬台国が畿内であれ、九州であれ、出雲であれ、阿波であれ共通した課題です
阿波には課題はない!
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 247日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:30:12.74
今夜も、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、完全に論破されてしまった。。。
248日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:38:37.28
>>243
>東南陸行 五百里 到伊都國 を解明しようとしてますが
畿内説は何も解明してないようです
これは邪馬台国が畿内であれ、九州であれ、出雲であれ、阿波であれ共通した課題です<
限りなく同意
畿内説では方位の間違いの切り札みたいに言うが、邪馬台国の研究もいいがその他の国の研究は畿内説は皆無
「畿内に邪馬台国があればいい」は学者じゃない
對馬國や瀚海や末廬國、伊都國、奴國、不彌國を深堀するのは九州説だけあろうか
加えると、投馬国五万戸について畿内説は吉備あたりと言うが根拠をあまり示していない 249日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:42:37.68
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 @阿波
250日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:44:32.72
>>145
>なぜ20センチにこだわる?
その時代に既に40センチ級が存在しているのに?<
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
によれば、
特に列島の鏡に関しては、(1〜2の例外を除いたら)、
△は、軒並みに殆ど20cm以上位であり、△以外は殆ど20cm以下位であり、
中国鏡に関しては、
洛陽の「尚方作」鏡は20cm以下であるが、浙江省紹興のは混在であり、
△系に関しては、浙江省紹興のは、作者に拠って混在であり、
楽浪に関しては、△的鏡として残っているものは、ほぼ全て20cm以下である。
だから、列島にやって来た呉系楽浪鏡師らは、20cm以上の△を好んで造り、
時には、呉朝の尚方を意図して、尚方作鏡も関与した可能性があるんだろう、
という事になる。 251日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:47:42.90
関係ねーけど
関西に同和「問題や在日差別が多いのはなぜなの?
252日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:54:18.38
>>244
???????????????????
性格から直すべし 253いい質問だ2019/09/16(月) 19:56:41.81
237◆PyuQX798ps 2019/09/16(月) 19:04:29.62
>>1=キナイコシ=オクヤマ??さん
確認ですけど、畿内説では
不彌國は北部九州でいいのですよね! 254いい指摘だ2019/09/16(月) 19:59:56.82
248日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:38:37.28
>>243
>東南陸行 五百里 到伊都國 を解明しようとしてますが
畿内説は何も解明してないようです
これは邪馬台国が畿内であれ、九州であれ、出雲であれ、阿波であれ共通した課題です<
限りなく同意
畿内説では方位の間違いの切り札みたいに言うが、邪馬台国の研究もいいがその他の国の研究は畿内説は皆無
「畿内に邪馬台国があればいい」は学者じゃない
對馬國や瀚海や末廬國、伊都國、奴國、不彌國を深堀するのは九州説だけあろうか
加えると、投馬国五万戸について畿内説は吉備あたりと言うが根拠をあまり示していない 255日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:02:03.36
奥山氏の脳の周りを、ぐるぐる回っている謎の物体は、どのような物体なのだろうか、、、
256日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:03:34.95
奥山氏は、頭が悪いな、、、
547日本@名無史さん2019/09/13(金) 07:57:23.15
原子核は例えるなら太陽
電子は周りを回る水星
257日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:05:18.71
>>252
>>236
困るのだがーーと
ーを多用するのはいつもあのーーーとかオクヤマーーとか書いてる九州説の>>195だろ
九州説が>>214にあるみたいに三角縁神獣鏡を畿内説の根拠にするわけないだろ 258日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:05:30.72
>>243
>これは邪馬台国が畿内であれ、九州であれ、出雲であれ、阿波であれ共通した課題です
阿波には課題はない!
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 259日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:06:06.26
>>149
>どの時代でも、最大の墓は畿内にある
時代ごとに「最大」の基準が変わるから、畿内で史上最大のものが作られた時代の地方の墓で
畿内の大王墓が小さくなった時代のものより大きいのはあるけれど <
そんな事もない。
大和の最初の石塚の3世紀末以前であれば、
出雲も四隅突出も大きいのがあったし、筑紫の吉野ケ里や祇園山も大きかったし、
また、吉備が大きい頃もあったし、
河内付近は、大和とは支配者が違って、九州倭國直属であるようで、
そして仁徳や応神は、九州倭国系の部将としての巨大墓であったようで、
そして、厩戸の生まれも河内であり、
難波も九州倭國の五京の一つの「倭京」であったようで。
ついでに、近江京も、天智が唐軍におびえて筑紫から遷都した場所であったようで・・・。 260日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:09:48.78
それにしても小椋佳、
BEST☆CD、家にあるんだけど、ほとんど偶然なのかな?
もれ(仮)の父親はアニメが好きなわけでもないし、
兄が頼まれ、買ってきたのが、その☆ベストw
261◆PyuQX798ps 2019/09/16(月) 20:09:51.92
邪馬台国はどこかはわからないけど
各説で特定されてた国々を深堀しないでいきなり邪馬台国はいかんとおもうな
対馬は奥深いが考古学者は何をしているのだろう
もっと研究してほしいな
対馬をスルーしすぎだと思うよ 特に畿内説の人
262日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:11:19.97
追い詰められた九州説が基地外のフリを始めた
263日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:13:16.88
>>229
>卑弥呼の死よりもさらに遅くなり、4世紀にかかる頃でも特におかしくは内
240年代に活躍した人が300年まで生きているとは考えにくいね。
当時の寿命は50年くらいだろう。 264日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:14:23.26
>>237
>確認ですけど、畿内説では
不彌國は北部九州でいいのですよね!<
どの説も同じ不彌國は九州
何か問題でもあるのか 265日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:14:29.54
>>230
>記紀では佐治国男弟を皇統として記しているんだよ
名前すら書かれない人物が天皇だった?
妄想も大概にしようよ。
そんな根拠がないことばかり並べ立てるから、畿内説は見限られる。 266日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:17:12.35
>>152
>複数の証拠が集まってるから畿内説は定説<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は、「南≠東」に違反し、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっている事にも違反し、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」にも違反し、
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國」にも違反し、
「日本國は倭國の別種の旧小国」にも違反するなど、
大和説は、偽書偽説。 267日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:17:41.66
>>231
>それはそれとして、だとしたら一大率は伊都国を代表する存在ではないのだから
大率は伊都にいて、周辺国はそれをおそれはばかったというのだから、同じことだよ。
より詳しくその役職や権能を記載してあるだけだよ?
畿内説はどこまで魏志倭人伝を無視したら気がすむんだい? 268日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:18:27.11
>>232
>ただし卑弥呼が誰なのか判明すると、約100年前の倭国王師升まで判明する事になる。
いつの間にキナイコシと鴨が入れ替わったんだ?
自分の巣に帰れよ。 269日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:20:33.00
>>157
>九州説がこういう内容のないレスをするのは
心の中で敗北を悟った時 <
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説者が、
こういう内容のないヘイトスピーチ的レスをするのは
心の中で敗北を悟った時 270日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:20:47.73
おーーい
また出たぞ
奥山の苦し紛れか、レス進めの一行投稿ww
271日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:24:43.21
>>270
言いがかりつける先に困ってとうとう理解不能なうわごとすら言い始めた 272日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:29:59.52
>>220
>角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から出土しているが、
邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土して否無いのはなぜ?<
「悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」
これの解釈??? 273日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:32:16.74
水神のような曲もあるでしょ、
黒い水が〜とか、槍〜、湧き水誕生とか
274日本@名無史さん2019/09/16(月) 20:37:09.84
『黒い水』浄水〜聖化?『メイスイ カッパ』
それにしても何の話なんだろう
275日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:00:18.91
>>179
>大率は伊都に置かれたが、女王国から北(対馬海峡)を検察し、諸国はこれをおそれはばかったと書かれている。
つまり対馬海峡の国々が伊都の大率をおそれはばかったということだ。
特定の国邑に縛られずに、王都ではない「地方」(対馬海峡)を検察したので刺史のようだとされたのだろう。
なお、畿内説では伊都にあった大率が女王国(畿内?)の北側を検察するということになってしまい、文意が通じなくなる<
成程。 276日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:03:42.19
>>180
>末盧国から伊都国が、東南陸行ではないのは明確<
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向である事が明確。 277日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:04:15.20
耳をすませば 湧き水誕生
『姥清水』でしょ?
278日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:04:58.83
190 192 193 195 237 243 248 251 252 253 254 261 270
みっともない自讃自演多数
279日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:05:55.18
>>223
私見だが
皇統と邪馬台国をつなげるのは反対だよ
記紀神話を正当化するには5世紀までに日本には文字が無かったと証明するしかない
倭国の過去を清算し新しい国づくりをしたのがヤマト王政(百済が関係しているのは否定できないだろう
邪馬台国とヤマトとは関係ない・・あるとすれば西国ら平和的に広がった国が日本
朝貢は遣隋使・遣唐使以降も続く、外交上の社交辞令だろう(送る側、受けとる側の解釈の違い)
初期ヤマト王政は百済人と倭人との合作・・・松本清張 280日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:14:36.75
@阿波さん
蘇我って何なんでしょう
281日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:14:37.03
>>182
>どうして、魏志倭人伝にも
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。於國中、有如刺史。
と書かれていて、伊都国を監視していた一大率がいるっていうのがそんなに誇らしいのかね?<
別に「伊都国を監視していた」とは書かれていない。
「常治伊都國」と書かれているだけだ。 282日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:24:09.41
>>185
>畿内説では、陳寿の書く「南」は帯方郡から遠ざかる方角だから特に問題はない<
関係ないし、間違っている。
魏の役人らも陳寿も、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」として、
はっきり「東南」方向である、と認識している。 283日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:28:27.32
>>186
>検証もせずに根拠なしと断じるのが九州説のだめなところww<
検証もせずに「南→東」などの嘘付き騙しを断じるのが、
大和説者や類スレ主らのだめなところ。 284日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:32:04.49
九州の倭国と畿内の分家が並行して存在していたでいいんじゃないか?
九州では古墳時代も彩色古墳など独自の文化が継承されているしね。
285日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:37:05.63
286日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:43:25.38
『☆』
↑↑↑調べてみたほうが良い
287日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:43:38.06
>>207
>20センチ超くらいがボリュームソーンの上限だから、
多数を対象に分布等を論じるにはちょうどいいだろ?
そして、最大級まで入れたところで「畿内を中心に分布」はまったく変化しない<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙しのもんごんであるから、×であり、
河内和泉摂津山城は、大和とは別の「東征毛人五十五國」の地域であり、
東征のメインルートであり、
大和は、先に神武らの小地域占拠の地域があったから、東征のサブルートになった。 288日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:45:57.11
289日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:46:56.22
>>209
>投馬国が女王国より以北の国というのは魏志倭人伝の記述の並びだけからでも
明確に分かることであり、定説も何も疑う人は基本的にいないよww<
投馬國は、不彌國や邪馬壹國女王之所都の南へ水行二十日の位置にあるから、
自女王国以南であり、×。 290日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:51:33.90
>>210
>陳寿が、倭国を会稽東冶之東と認識していることから、当然に読み取れることというだけ<
陳寿は「会稽東治之東」と推定したのであり、
「 会稽東冶之東と認識し」たのではないから、類スレ主は、また×。
>陳寿の誤認に則して解釈するということ <
陳寿は誤認しておらず、
類スレ主が史料事実を否定曲解する嘘つき騙しをした事になり、
類スレ主は、・・・・アホ詐欺師であり、×人間。 291日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:55:07.14
>>212
>祭祀用供献土器の規格統一は、特産品とかどうとかのレベルを超えてるよ
つまりそこに政治的意思、王権の所在が分かる訳だ<
九州倭国の「東征毛人五十五國」があって、祭祀用供献土器の規格統一が発生し、
新たな「市」で伝播された、という事が判る訳だ。 292日本@名無史さん2019/09/16(月) 21:58:47.35
>>213
>九州からの東征を想定するならば
それは魏志倭人伝や記紀の160〜180年の倭国大乱や神武東征に収斂する
史料上で三世紀には畿内に王権が確立した事を示唆するものであり
卑弥呼の時代に畿内に王権が存在した根拠の一つでもある
歴史史料に齟齬が多すぎて苦し紛れの辻褄合わせに東征将軍を想定した九州説は
畿内説に侵食されつつあるという事 <
ダメだ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」」などによって、
北部九州の倭國は、唐代まで倭国の盟主であり続けた、という事だ。 293日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:25:41.93
4世紀でしょ
294日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:29:03.44
纏向地域の王の住処はどこか。
それは簡単、水源だ。
人間は水なしでは一日たりとも過ごせない、
その最良の水源に王は住んだ。
最良の水源を平民に譲り、自分は井戸を掘った王など想定できない。
では纏向地域の最良の水源とはどこか、それが三輪山だ。
グーグルの地図見てみ、三輪山に水源があるから。
ではその三輪山の水源に住んだ王とは誰か、
日本書紀のモモソヒメの箸墓伝承にも登場してくる大物主だ。
大物主とは役職名だ、個人名では何という人物か。
鴨氏系図で崇神が須恵村から連れてきたオオタタネコの一代前、
名前はアタガタスという。
この人物がモモソヒメの亭主、そして崇神はこのアタガタスを頃し、
自らが王になった、つまりクーデターだ。
295日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:40:03.72
しかし三輪山の水源とて、
大和盆地最良の水源ではない。
大和盆地最良の水源とは高天原(御所市高天)だ。
女王卑弥呼ことヒメ后も、のちにアマテラスとも呼ばれる高姫(シタテルヒメ)も、
高天原に住んだ、場所は姫の宮こと長柄神社であろう。
296日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:47:26.86
>>214
>「三角縁神獣鏡だけではなく景初三年銘の画文帯神獣鏡も畿内で出てる」<
ダメだ。畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
景初三年銘の画文帯神獣鏡は、(大和ではなく)和泉だし、
22.7pは、渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏の関与鏡だ。
>「卑弥呼が使いを出した年が景初二年になっているのは
原本が失われた十二世紀の復刻本の魏志倭人伝から<
宋明清代の校勘学者は誰一人「梁書から太平御亂の景初三年」を校勘根拠にせず、
一顧だにせず、校勘もしていない。
>それ以前の魏志倭人伝を引用した史書は卑弥呼が
魏に使いを送った年を景初三年と記述」<
後代の自己解釈に拠る書き換えが非常に多い史書は、半分偽書であり、根拠にならない。
>「その後年になる正始元年記銘のものも畿内にあり<
嘘を書くな、類スレ主。大和には勿論、(嘘吐き騙しの)「畿内」の範囲にもない。
>魏と畿内の継続的交流があった事の物的証拠」<
渡来の呉系楽浪鏡師の陳氏が関与した(おそらく製作した)だけ。
>「使用された銅の不純物から魏・晋鏡に使われた鉱山から出たものと
同じものが使われていたと判断するに足る分析結果が出ている」<
渡来の呉系楽浪鏡師らの持参や使用の「材料銅」に、おそらく徐州銅が多かっただけ。 297日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:54:04.14
>>295
何でもかんでも卑弥呼にこじつけるのは良くない癖だよ。 298日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:56:57.96
>>297
国宝中平銘鉄刀の保持者・和邇氏の系譜に卑弥呼もトヨもいるのだから決定だよ。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 299日本@名無史さん2019/09/16(月) 22:57:38.22
>>225
>どうやっても、投馬国は女王国より以北の国
これだけで北部九州説は壊滅<
不彌國やそのすぐ南の邪馬壹國女王之所都の南へ水行二十日の位置に投馬國があるんだから、
どうやっても、投馬国は女王国より以南の国
これだけで大和説は壊滅 300日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:04:09.99
>>227
>帯方郡を出てから、訪れた国を訪れた順に記載してあるから
それが真の方角がどちらであろうと、先へ進む向きに配置して行かなければならない
これが分かってないから、九州説は投馬国で詰む <
帯方郡を出てから、訪れた国を訪れた順に記載してあり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國は側副傍線國説明になっているから、魏使らは行っておらず、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國女王之所都がある事になる。
だから、投馬國は、邪馬壹國女王之所都以南
これが分かってないから、大和説は投馬国で詰む 301日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:17:18.35
>>262
>追い詰められた九州説が基地外のフリを始めた<
「南≠東」などの指摘で追い詰められた大和説が
基地外のフリを始めた 302日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:18:25.44
四角い墓は弥生時代のスタンダードで
方墳も古墳時代を通じて作られ続けてる
NHKも阿波も無知杉
303日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:23:45.71
>>1
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国籍の奥山氏、、、もう、貴方は、完全に論破されたので、自殺体には、ならないように、気持ちを強く持って、生きて下さい。。 304日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:26:04.12
>>295
>女王卑弥呼ことヒメ后も、のちにアマテラスとも呼ばれる高姫(シタテルヒメ)も、
高天原に住んだ、場所は姫の宮こと長柄神社であろう。<
「南≠東」などに拠って、×。 305日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:29:37.04
>>257
そいつはキウスだ
そしてキウスは頭おかしいので九州説だと思われがちだが、やつは外形的には京都説を唱えたりする
おそらく京都のウトロの縁者なんだろう 306日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:31:32.59
>>263
造墓にさらに10年単位の時間がかかることを見逃している
重臣レベルで寿墓は用意しないだろう 307日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:36:27.98
>>265
>名前すら書かれない人物が天皇だった?
大陸史書をそんなに尊重してもいいことないぞ
筆頭官の伊支馬が、おそらく次代のイクメの大王・垂仁なのだから
それより上位の佐治国男弟・ヒメヒコの共同統治者はその父崇神で何もおかしくない 308日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:39:00.42
>>267
>大率は伊都にいて、周辺国はそれをおそれはばかったというのだから、同じことだよ。
同じじゃないよ
一大率を畏れ憚ったというのは、その背後に一大率を派遣した倭女王卑弥呼の権威を見ているからだ
伊都国は3世紀には雑魚 309日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:41:29.62
>>279
>初期ヤマト王政は百済人と倭人との合作
それは間違い
百済史が日本史の一部だと言うだけ 310日本@名無史さん2019/09/16(月) 23:44:23.87
>>297
左側スロープ君は、常人には見えないものが見える、常人から外れた人だから意見してもムダだよ 311日本@名無史さん2019/09/17(火) 00:10:06.19
畿内説には本当に頑張ってほしい
大国主王国の宝物があそこらへんにたくさん埋まってると思うから
312日本@名無史さん2019/09/17(火) 00:14:09.29
>>307
畿内説は想像力がたくましいなあ。
何にも根拠がないけど。 313日本@名無史さん2019/09/17(火) 00:15:27.50
畿内は九州のものも山陰のものも持っていこうとする。
どこかの国と根性が同じですね。
314日本@名無史さん2019/09/17(火) 05:04:19.86
門脇禎二・・・・蘇我氏は渡来人説
315日本@名無史さん2019/09/17(火) 06:06:07.80
>>307
>大陸史書をそんなに尊重してもいいことないぞ
筆頭官の伊支馬が、おそらく次代のイクメの大王・垂仁なのだから
それより上位の佐治国男弟・ヒメヒコの共同統治者はその父崇神で何もおかしくない<
記紀は半分偽書であり、
「南≠東」などに拠っても、×。 316日本@名無史さん2019/09/17(火) 06:44:08.12
>>285
蘇我の台頭と同時に天皇墓が非前方後円墳になってるのが面白いね。
逆に、それで前方後円墳が誰の墓制であったかもわかる。
前方後円墳は大和では2世紀末から6世紀末まで。
ウマシマジから始まって物部守屋が死んだ6世紀末まで、
つまり前方後円墳とは物部の墓制だ。
箸墓もしかり。
何が卑弥呼の墓だ、アホの>>1 317日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:00:39.50
>>314
蘇我の出自は葛城。
5世紀後半、雄略天皇によって、眉輪王の変に巻き込まれた葛城円大臣が焼き殺される。
これは近年、極楽寺ヒビキ遺跡として発見される。
そのすぐ後、雄略の「悪事」を言い放った一言主も土佐に流される(土佐一宮)。
この様な葛城のすさまじい怨念を背景に台頭してきたのが蘇我だ。
彼らは権勢をふるい、ついには天皇を暗殺し、復習に成功する。 318日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:08:41.57
>>316
そうすると箸墓は誰にあたると思う?
尾張からの開発指導者かな
大和での始祖的存在かつ四段構成にふさわしく吉備とも関わりの深い存在
崇神レベルの人 319日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:12:39.63
>>302
>四角い墓は弥生時代のスタンダードで
>方墳も古墳時代を通じて作られ続けてる
>NHKも阿波も無知杉
そりゃ、蘇我氏の墓式なんだからw @阿波 320日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:15:42.93
>>317
>蘇我の出自は葛城。
葛城は鳴門市葛城神社周辺。 @阿波 321日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:16:53.74
>>318
箸墓被葬者は、崇神(行灯山)の前王で、
崇神の母親イカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成してたイカガノシコオ。
箸墓の近似古墳である山城の五塚原、交野の雷塚もイカガノシコオで説明できる。
五塚原はイカガノシコオの妻である真木姫の父親で山城国造の祖・長溝。
雷塚はイカガノシコオと真木姫の子・タベノスクネ(交野連) 322日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:39:17.53
>>321
イカガノシコメとイカガノシコオを祀っているのは
唯一
倭国(阿波)。 @阿波 323日本@名無史さん2019/09/17(火) 07:58:35.60
>>296
呉の鏡師が景初三年鏡を作ったという想定は根拠のないばかりではなく
邪馬台国は九州にあったはずだから畿内に魏鏡は出るはずがないという
循環論法的思考
校勘がされてないというのは
景初二年が正しいという根拠にならない
日本書紀、太平御覧などの12世紀以前の史書は
魏書曰くなど魏志倭人伝からの引用を明記
複数の史書間でも内容が共通しているので
自己解釈による書き換えは無かったとわかる
正始元年鏡は兵庫県森尾遺跡から出ている
3世紀ごろは畿内の文化が大きな影響を与えていた事は容易に想像できる
前の方でも説明した通り呉の渡来鏡師の想定は邪馬台国は九州にあったはずという断定から派生したもので
循環論法的な論証 324日本@名無史さん2019/09/17(火) 08:32:16.79
そもそも卑弥呼が授かった鏡が銅だったとは限らない。
鉄鏡かもしれないぞ。
325日本@名無史さん2019/09/17(火) 08:49:15.71
倭人伝を読み直せ
326日本@名無史さん2019/09/17(火) 09:02:35.06
南は東かもしれない、ならば銅は鉄かもしれない。
327日本@名無史さん2019/09/17(火) 09:55:59.05
>>312
>畿内説は想像力がたくましいなあ。
>何にも根拠がないけど。
九州説の
「伊「都」国と書いてあるから、伊都国が都だ」とか
「伊都国に王がいるとありながら王名がないのは、王が卑弥呼だから」とか
九州説の妄想力の方がとんでもないだろ?wwwww
佐治国男弟は、実務面では王そのものだから、
魏志倭人伝がその名を示さなかったのが悪いってだけ
大陸人は漢土の外のことには基本的に興味ないんだから、
魏志倭人伝に「書いてない」ことを根拠に何かを言うのは無意味だよ 328日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:00:12.77
>>313
>畿内は九州のものも山陰のものも持っていこうとする。
>どこかの国と根性が同じですね。
そんなことはない
奴国は九州のものだし、投馬国は出雲で山陰のものだよ
そして、九州の独自祭祀の終焉が平原1号墓の大量の銅鏡で
山陰の独自祭祀の終焉が荒神谷遺跡の大量の銅剣だろう
これらは同時期に一気に鋳込んで作ったものだからね
既に終わったことを延々と蒸し返す九州説こそ
お隣のお困りの国と同じ心根だよww 329日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:01:15.05
330日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:03:09.01
>>324
又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、
「銅鏡百枚」、
真珠、鉛丹各五十斤。 331日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:10:02.83
332日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:12:47.01
孔子左右
333日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:13:10.89
魏志倭人伝の南は信じない
海洋民族も信じない
クスノキも信じない
しかし、
銅鏡は信じる畿内説w
まさに韓国式思考回路www
334日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:50:30.70
>>331、>>332、>>333
おまいう って言葉知ってるかい?
九州説はダブスタがスタンダードw
南⇒東は、魏志倭人伝の方角が正しくないという明確な根拠の上に
論証されている
そして、銅鏡百枚は、魏志倭人伝の中で最も信頼の置ける、大陸中華において
確実な記録があった魏皇帝詔書の引用部分
どこまでも卑劣で姑息な九州説ww
惨めな老醜だ 335日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:57:15.95
>>334
お前のその曲解の極みみたいな妄想論法が韓国式思考回路を証明してるわけwww
しかもその自覚症状の無さが頭の病気だということを証明してるんだよwww 336日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:58:37.06
脳内論証を史実だと言い張る畿内教信者w
337日本@名無史さん2019/09/17(火) 10:58:40.11
>>323
>呉の鏡師が景初三年鏡を作ったという想定は根拠のないばかりではなく<
根拠は、「海東」鏡など史料事実や史料実態の存在や、それからの人類の常識的な帰納的確率的推論。
>邪馬台国は九州にあったはずだから畿内に魏鏡は出るはずがないという
循環論法的思考<
「邪馬台国」や「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だし、
大和と大和以外の近畿地方は、九州倭国の東征毛人五十五國の中での別地域で別国だ。
>校勘がされてないというのは 景初二年が正しいという根拠にならない <
確率が非常に高く、人類の常識的な推定だ。
>日本書紀、太平御覧などの12世紀以前の史書は魏書曰くなど魏志倭人伝からの引用を明記
複数の史書間でも内容が共通しているので 自己解釈による書き換えは無かったとわかる<
書紀と通典が「明帝」とはっきり書いてしまっているから、元史料事実は「景初二年」だ。
>正始元年鏡は兵庫県森尾遺跡から出ている
3世紀ごろは畿内の文化が大きな影響を与えていた事は容易に想像できる<
「東征毛人五十五國」の主力軍の一部が播磨や摂津付近から北上した、と推定出来る。 338日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:19:45.71
>>334
>南⇒東は、魏志倭人伝の方角が正しくないという明確な根拠の上に
>論証されている
自分の妄想から逃れられなくなっている? 339日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:20:39.11
カエルの骨、桃の種、建物は少しだけ
340日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:20:43.31
>次有都支國 次有好古都國
伊都国のほかにも都は使われてる
国名にトがつくだけでみやこという意味はないだろう
341日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:25:05.74
>>328
>奴国は九州のものだし、投馬国は出雲で山陰のものだよ<
「投馬国は出雲」は、「南≠東北」に拠って、×。 343日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:27:37.15
イトコクが伊都国ならば、邪馬台国はヤマトコクではないという事だな。
畿内は脳内で邪馬都国でも探しとけ。
344日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:35:47.85
邪は伊都に届き(邪馬台国は伊都国と接し)
斯馬に連なる(さらに志賀島へと連なる)
馬臺によって都を成す。
コレまさに博多湾沿岸地区の記述だよな。
345日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:42:03.23
>>334
>南⇒東は、魏志倭人伝の方角が正しくないという明確な根拠の上に
論証されている <
いや、「魏志倭人伝の方角」は、全て、
明確な根拠の上に「ほぼ合っている」と論証されており、
類スレ主の「南→東北」のような、・・・・アホ詐欺のようなインチキは存在しない。 346日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:46:20.99
>>343
>イトコクが伊都国ならば、邪馬台国はヤマトコクではないという事だな。
何度上代日本語には、お段に甲類乙類の区別があることを理解するんだ?
古事記、万葉集までは区別されてるぞ
古今和歌集、新古今和歌集になると区別がなくなる 347日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:47:40.44
>>344
>コレまさに博多湾沿岸地区の記述だよな。
どこが正しいのかすら定かではない 翰苑に頼るしかないのかww
九州説は、くそみそだなw 348日本@名無史さん2019/09/17(火) 11:51:32.15
結局どっこにも記述されなかった奈良盆地の田舎モンが発狂するだけのスレw
日本書紀にも前方後円墳のぜの字も出てこないw
畿内は何寝言言ってんだ? w
349日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:19:13.09
>>346
和歌の掛詞はそんな音韻の差は無視してつかわれているようにおもうけどか? 350日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:23:21.26
従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(翰苑 卷三十)
里程が伊都で終わっていて、そこに女王のことが書いてある。
伊都が女王の都ということだよ。
351日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:24:05.12
>>340
>>次有都支國 次有好古都國
伊都国のほかにも都は使われてる
国名にトがつくだけでみやこという意味はないだろう <
「伊都」は、「怡土」の地名に関連した可能性もあるが、
倭奴國の阿毎氏は「アマ(天、海)+イ」氏と分析出来、
「イ」は、伊、怡、井、委、倭、壹、一、五、惟、夷などの文字に、
音韻が共通や類似があり、天孫族の阿毎氏系の国である事を示している可能性が高く、
そうすると、「伊都國」は「伊氏の都の國」という意味であった可能性は十分にあり、
記紀伝承や「世有王」とも一致する。
そうすると、都支國は「都の支の国」で、
好古都國は「好古の都の國」という意味であった可能性も十分にある事になる。
ちなみに、韓では「都」の文字が付く国名はないようである。 352日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:25:47.77
漁師が何やら〜、河童、キュウリ〜、
ほとんど家の話でしょ?
353日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:28:31.26
『天財若子』
同じような名前?の家、
読み方を何やらと言っているんだけど
「す□□」〜「か□□」〜?
354日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:31:08.51
芸能関係(歌舞伎〜とか)の話もしているし、何なんだろう
355日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:38:53.37
邪馬台を以て都と成す。
とまで書かれておきながら、
邪摩「堆」などと徹底的に「タイ」と読む事で一貫している中国の正史。
これに対し畿内派想像説を信じろってかw
ウリの想像こそが史実であると言い張っているコリアン的習性丸出しwww
思考回路も遺伝するんだなwww
356日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:42:37.85
>>342
>魏志倭人伝の方角が明確に間違っているのは、確実<
魏の役人らのような普通の知能の人類は、
東西南北程度の方向を完全に間違えるような事は、全くないのであり、
また、紀行文での記録は、人類は原則として、
「出発の説明+途中の説明+到着の説明+付加的説明」の順に、
知り得た事を順次的に記載す、という事も人類の常識なのであり、従って、
「東南陸行五百里到伊都国」の「東南」は、出発時点での出発方向の記録である、
という事になり、伊都国への直接的方向は(見えていないから)記載されていない、
という事になり、
「魏志倭人伝の方角が明確に間違っているのは、確実」というこの類スレ主は、
「脳が、・・・・のような詐欺に狂っている」という事が確実。 357日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:43:06.48
先住民?
むか〜しの家なんだろうと言っている人もいたり。
358日本@名無史さん2019/09/17(火) 12:57:41.39
例えば『諸蕃』
邪馬台国などもなかった頃の家の人々でしょ?
日本の天皇(不明)もいないし、そういう家もなかった
359日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:01:09.14
魏志倭人伝は不弥国のこととか投馬国のこととか、余分なことを盛り込み過ぎたために誤読を招いたともいえる。
慎重すぎる陳寿の文体は、石橋を叩いて壊すが如し。
それにつけ込んだのが畿内説。
360日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:07:25.17
>>350
翰苑(続)
「広志いわく、倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。
女(王)国より(自)以北は、その戸数、道里を略載できる。
次ぎは斯馬国、次は已百支国、次は伊邪国。案ずるに、
倭西南海行一日に伊邪久国あり、布帛なし。革をもって衣となす。けだし伊耶国なり。」 361日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:08:39.86
【漢帰化族】
周人の末裔という人物などもいるけど・・・、
中国の周という国でしょ
362日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:09:14.81
うーん、大宰府が邪馬台国に読めるう。
363日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:11:12.71
天財若子・・・king(王)の家のだったのかな?
実際は漢人(中国の漢)だろうと思われると言っている人もいたり
364日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:12:02.86
>>349
>和歌の掛詞はそんな音韻の差は無視してつかわれているようにおもうけどか?
掛詞は比較的新しいんだよ
奈良時代後半には、甲乙の区別はなくなってる 365日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:15:29.80
>>350
>里程が伊都で終わっていて、そこに女王のことが書いてある。
相変わらずバカだなww
それ、翰苑の本文じゃなくて、本文の「分軄命官 統女王而列部」に付けられた注の部分
だから「其國王皆属王女也」で引用が終わる訳だ
これ、伊都国は女王国に従属する下っ端、って書いてあるんだぞww
FAQ66
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。 366日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:20:16.64
>>359
陳寿は余計なことを盛り込み過ぎたというのは、邪馬台国だけに関心を寄せ過ぎるからだ。
まず倭国のあらましを書き、そして女王を登場させたのち、〆のハイライトが「親魏倭王」なのである。
つまり倭国とは何ぞや・・、そして帯方郡・魏朝と其の倭国との関係や如何に・・、
この順序・全体像を重視して読むべし。 367日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:22:44.58
それなのに邪馬台国より先に投馬国が出てくるから投馬国の方が北にあるなどと言い出すバカまで出る始末。
368日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:24:55.72
邪馬台国畿内説は、どのようにして、完全に破綻してしまったのだろうか。。。
369日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:25:51.64
>>368
今日も、頭の悪い奥山氏の意見を読んで、笑いリラックスすれば良いな。。。 370日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:27:42.86
>>369
奧山氏の意見というのは、自分の考えではなく、インターネットで収集した情報を誤解した物事が多いので、面白いのだったな。。。 371日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:29:09.35
なぜ知っている人(家の老婆などw)がいたりしたんだろう、
どこそこの学校に行ったとも聞いたことがないし
書(神話、歴史)などを編集、研究していた家なのかな
372日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:31:48.89
373日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:32:53.89
>>355
現代日本語の読みで考えるなよ
臺は
先秦/高本漢系統 dʰəɡ
先秦/王力系統 də
先秦/董同龢系統 dʰə̂ɡ
先秦/周法高系統 dəɣ
先秦/李方桂系統 dəg
両漢/ tjəg
堆は
先秦/高本漢系統 twər
先秦/王力系統 tuəi
先秦/周法高系統 twər
だな 374日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:33:29.42
奥山氏の脳細胞を構成する原子の中で、原子核の周りを、謎の物体がぐるぐる回っているのだろうか、、、
375日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:35:06.58
邪馬台国畿内説は、どのようにして、完全に破綻してしまったのだろうか。。。
376日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:38:11.75
>>367
>それなのに邪馬台国より先に投馬国が出てくるから投馬国の方が北にあるなどと言い出すバカまで出る始末。
漢文、読めますか?
自女王國以北、其「戶數」「道里」可得略載
「南至」投馬國 「水行二十日」 (官名略)「可五萬餘戶」
「南至」邪馬壹國、女王之所都「水行十日、陸行一月」(官名略)「可七萬餘戶」
道里方角 道里長さ 戸数
女王国まできっちり、道里、戸数が略載されてるなw
ここまでが「女王国より以北」だよ
北部九州説は「投馬国は女王国より以北の国」だけで死ぬから
嘘を繰り返し書くしかない訳だ
とことん惨めだなw 377日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:42:08.63
>>367
畿内説や、一部の九州説のように、邪馬台国の所在に異常な関心を持つ人たちは、
陳寿が描こうとした魏王朝・帯方郡と親魏倭王の倭国との美しき関係全体が見えていない。
戦乱の三国志の時代、帯方東南大海の中に親魏女王の倭国が存在したということは、まこと偉大なことなのだが・・。 378日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:45:28.54
バンビシャス奈良は、勝負の成績が優秀になるだろうか。。。
379日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:48:30.11
投馬国は日程だけで里程が書かれていない。
これは倭人からの聞き取りしか情報がなかったから。
つまり投馬国は邪馬台国より北ではない。
380日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:49:31.78
バンビシャス奈良は、勝負の成績も大事だが、人気を高め、切符や商品の販売業や広告の商業も活発にしなければいけないのだったな。。。
381日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:50:29.65
邪馬台国畿内説は、どのようにして、完全に破綻してしまったのだろうか。。。
382日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:54:47.76
>>378
バンビシャス奈良は、本番前の闘いでは、連敗してしまったが、本番で頑張れば、奈良県全体の他の商業にも貢献できる可能性が高いな。。。 383日本@名無史さん2019/09/17(火) 13:57:15.39
>>382
奈良県は、観光関連のための宣伝ではなく、バンビシャスに予算配分を高まるように、変換した方が、奈良県全体の他の商業にも貢献できる可能性が高いな。。。 384日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:10:28.39
>>383
あまり活発に労働していない学芸会の人員は、解雇して、バンビシャスの観戦のための試合会場の建設のために、予算の行き先を変換した方が、奈良県全体の他の商業にも貢献できる可能性が高いな。。。 385日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:11:30.15
386日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:19:56.61
キナイコシは勝手読みが激しいな。
387日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:25:53.45
畿内説の非論理的言い訳ばかりで見苦しいいなwww
388日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:26:02.29
あと、ほんとーに小椋佳w
黒い水が何やら〜という曲もあるでしょ、
何やら病などのことを言っているのかな
389日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:27:40.09
熊本県のほうの話?・・・どうなっているんだろう
390日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:31:37.72
『熊本県 水 病』
カッパなどの話もなかった?
391日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:35:11.98
『熊本県 カッパ』
調べてみると、そのような話が出てくるし
392日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:43:19.37
偶然なのかな、銀〜〜という親戚もいたとか、
あの写真の家なんだけどw
393日本@名無史さん2019/09/17(火) 14:45:41.74
ヱヴァンゲリヲン?
394日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:02:05.96
『君の声聴けば』小椋佳
ヱヴァンゲリヲン?
395日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:08:53.20
>>351の追記
「伊」が天孫族の「阿毎氏」の「部族の呼称=苗字、姓」であったとすると、
伊弉諾や伊弉冉や伊波禮毘古命の「伊」があり、
国内には「伊」の文字が冠せられる国名地名が、
伊万里や伊予や伊豆や伊勢や伊賀や伊勢崎や伊達や伊丹など、
奇妙に非常に多い。 396日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:23:56.86
どう見ても邪馬台国は畿内と縁もゆかりもないよな。
それを屁理屈でヤマト王権に結びつけるのは無自覚の皇国史観だよ。
古来から列島を代表するのは大和の他にないという思い込み。
397日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:26:35.38
>>362
>うーん、大宰府が邪馬台国に読めるう。<
後漢書での(唐の)李賢注に拠れば、
倭國の都の地名は「邪摩惟=ヤマイ」であったとされ、
これは、白村江の後で太宰府にやって来ていた郭務ソウの、
「倭国の都の地名」報告を受けて書かれたものと思われ、
従って、唐代には太宰府付近は「ヤマイ」という音韻の地名であって、
魏志倭人伝の「邪馬壹國」の「邪馬壹=ヤマイッ」の音韻が唐代まで残っていた、
という可能性がある。
つまり邪馬壹國は太宰府付近であり、その付近に女王之所都があり、
九州説の強い根拠になる。 398日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:54:23.15
何れにせよ、奈良盆地は史書の何処にも登場しないという事だ。
ヤマトが登場するのはせいぜい万葉集からだろ。
399日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:55:49.55
以前から書いている事なんだけど、
家の真似をしている人がいるでしょ?
400日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:59:14.10
401日本@名無史さん2019/09/17(火) 15:59:17.55
>>376
>自女王國以北、其「戶數」「道里」可得略載
「南至」投馬國 「水行二十日」 (官名略)「可五萬餘戶」
「南至」邪馬壹國、女王之所都「水行十日、陸行一月」(官名略)「可七萬餘戶」
道里方角 道里長さ 戸数
女王国まできっちり、道里、戸数が略載されてるなw<
陳寿は、(九章算術のアホ数学者とは違って)「道里」と「日数」とは違うモノだ、として、
きちんと書き分けている。
それが証拠なのは、不彌國までは「道の里数=道里」だけを書き、
その合計がほぼ「女王国までの萬二千余里」にきちんと達しており、
つまり、部分行程は全部「道里」で書いてそれで終わっており、
日数は書いていないのであり、
投馬國への「水行二十日」は、魏使らが通っていない側副傍線行程の(倭人から聴取した)所要日数であり、
「水行十日陸行一月」は、その前の(目的地である)女王之所都の説明文になるから、
郡から女王之所都への所要日数を(道里説明とは別個に)説明した文。
そして、陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の「道里」も、(日数ではなく)、
「自郡至女王國萬二千餘里」の「道の里数」そのものになっている。
>ここまでが「女王国より以北」だよ<
不彌國やそのすぐ南の邪馬壹國女王之所都の、以南だ。
大和説は「投馬国は女王国より以南の国」だけで死ぬから
嘘を繰り返し書くしかない訳だ 402日本@名無史さん2019/09/17(火) 16:10:29.21
>>398
万葉集も九州の歌が多いよ。
奈良の歌もあるけど。 403日本@名無史さん2019/09/17(火) 16:13:33.00
最近まで「す□□」?
読み方だと言っていたんだけど、どういう話なんだろう
かみたま?
404日本@名無史さん2019/09/17(火) 16:15:53.01
「噛みました!」
405日本@名無史さん2019/09/17(火) 16:39:53.21
>>402
同じ地名が九州や阿波にあったりするから
本当に奈良の歌なのかはわからないぞ 406日本@名無史さん2019/09/17(火) 17:24:18.38
>>405
阿波にいた時代に詠んだ歌がいっぱいあるよ。 @阿波 407日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:26:58.67
畿内説もそろそろ終了かな。
一連のスレは畿内説の妄想ぶりをよく示したと思う。
これで多くの人に邪馬台国は九州しかないとわかってもらえただろう。
408日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:33:04.40
九州かどうかは別としても、奈良説が嘘つきなのはよく分かったよ。
409日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:36:47.46
〜王母(西王母?)〜・・・。
カミタマよりも上の存在でしょ?
410日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:39:22.08
日本にカミタマがいるでしょ、
鏡などを何やら〜?
どう考えても、
その人物よりも、上の人でしょ
411日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:45:44.31
成太作の言っていることは正解なんだろう、
あとカッパという作品も同じ?
カッパの文明のほうが進んでいるとか、
412日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:48:24.91
なぜ古墳時代の人達は古墳に墓標を入れなかったのかな。
後から見てどれが誰の墓かわからなくなるだろうことは、容易に予想できたと思うのだが?
413日本@名無史さん2019/09/17(火) 18:50:20.23
河童の国のほうが〜みたいな事を言っているし、
大陸〜渡来人?
414日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:04:36.64
415日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:05:52.85
何の話なんだろう
成太作=正体?じつは法悟空・・・?
みたいな事も書いてあるし
416日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:28:03.98
邪馬台国畿内説は、どのようにして、完全に破綻してしまったのだろうか。。。
417日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:29:05.49
418日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:29:54.36
>>416
間違っても、九州説のせいじゃないから! そこんとこ、勘違いしないように! 「忌部一族」より。 @阿波 419日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:31:37.80
>>337
海東鏡は鏡師が東に至るのではなく
作った鏡が東である倭国に至るという解釈
海東鏡は倭に渡来した鏡師が作ったというのは九州説ありきの循環論法
邪馬台国は後漢書や隋書はじめ各史書に
魏書にある邪馬臺國と台の旧字体で出てくる 420日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:42:38.49
>>379
>投馬国は日程だけで里程が書かれていない。
>これは倭人からの聞き取りしか情報がなかったから。
>つまり投馬国は邪馬台国より北ではない。
散々やったのにまだこれで「ごまかせる」と思ってるのが無能すぎるww
自女王国以北に略載されているのは「道里」だ
これを「里程」と捏造し、里数のことだと思い込みたがるところが終わってる
「道里」の記載は、里数でも日数でも普通の表現 421日本@名無史さん2019/09/17(火) 19:45:52.45
>>412
>なぜ古墳時代の人達は古墳に墓標を入れなかったのかな。
それをいうなら「墓誌」
墓誌が実はあったという「画像解析によって判明した古墳墓碑」を書いた人もいるけれど
左側スロープ君と同じ扱い
他人には見えないものが見える 422日本@名無史さん2019/09/17(火) 20:14:24.72
>>337
校勘がされていたら間違いが修正されたと言えるけど
されてないなら間違いがそのままなのかも知れない
魏書曰くと魏志倭人伝を引用した複数の史書が
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年と記している
明帝が詔書を出したのは亡くなる前の景初二年だったとしても
倭がそれに応じ鏡が作られ渡されたのは景初三年になったのかも知れない 423統一を計ろう2019/09/17(火) 20:36:40.10
不彌國は各説、北九州でOKだな
424日本@名無史さん2019/09/17(火) 20:43:12.33
不彌國は、伊都国と奴国の境界から、奴国の役所の方角には行かずに、東に向かって行けば、あるのだったな、、、
425日本@名無史さん2019/09/17(火) 20:45:34.00
426日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:07:18.64
邪馬台国まで一万二千里、そのうち九州上陸までに一万里。
残り二千里(対馬海峡より狭い)が投馬国までの水行20日、邪馬台国までの水行10日と陸行1月に相当するなどということはない。
だから投馬国が邪馬台国より北にあるなどということはあり得ない。
427日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:10:54.27
>>426
2千里が対馬海峡より狭いと決め付ける理由は何 428日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:13:33.34
429日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:28:48.36
>>428
対馬から九州上陸まで二千里
古代の事だから二千里は現在でいう対馬海峡より広いかも知れない 430日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:34:39.46
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの? 畿内の近場に温泉がなかったの? @阿波
431日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:37:53.84
>>429
狗邪韓国から倭人の土地で、末盧国上陸まで三千里だよ。 432日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:47:06.63
>>431
ああ韓国〜九州の対馬海峡ね
けど2千里は魏里で900kmくらい 433説共通の課題 ◆PyuQX798ps 2019/09/17(火) 21:48:02.03
>>423
>不彌國は各説、北九州でOKだな<
それはみな反論ないでしょう
「東南陸行 五百里 到伊都國」
「会稽東治の東」
↑
これも各説共通の課題 434日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:48:36.89
奥山氏は、やはり、頭が悪すぎるな。。。
435日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:51:26.70
不彌國は、帯方郡から一萬二千里の伊都国と奴国の境界から、奴国の役所の方角には行かずに、東に向かって行けば、あるのだったな、、、
436日本@名無史さん2019/09/17(火) 21:52:11.34
437日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:01:07.08
畿内説の学者はあまりにも理数系に弱すぎ
438日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:03:12.78
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの? 畿内の近場に温泉がなかったの? @阿波
439日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:07:38.79
>>438
心の疲れはひなびた田舎で治すもの。それは古今東西同じ 440日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:07:54.29
あと天上の虹とか、そういう話は確実に妄想、
現実(の世界に例える)だとしても日本のことではないでしょ
441日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:10:10.74
他のスレにも書いてることなんだけど、
なぜ、そこまで嫌われているんだと思う?
中国(中華)の人?には、
そういう妄想など通用しない、
他にも通用しない国があるでしょ
442日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:11:45.00
>>425
>>1はなぜ畿内説に固執してるのかようわかんなぁ
畿内説の学者連中もヤマ王政の研究で邪馬台国の逃げ道を作ってるのになぁ------------- 443日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:15:05.87
あと、うまやど?
そういうのも通用しないし
444日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:19:06.94
>>442
バカ、
バカ
バカ
馬鹿
馬鹿
馬鹿
石野や寺澤の職を奪う投稿だ!
橋本はいいぞ 445日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:20:10.57
畿内説と言うのは、倭人伝とは無関係に
考古学史料さえあれば、文献は読み替えれば良いって言う
根本的、学術的な姿勢の、間違いが基本じゃないか?
解読された文献には、新たな道なんて無いぞ?
446日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:20:35.59
『倭人 朝鮮人』でしょ?
なぜ天帝、皇帝・・・大君・・・その他、不明?
このようになるのか、意味がわからないし
447日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:21:42.17
>>426
>残り二千里(対馬海峡より狭い)が投馬国までの水行20日、
>邪馬台国までの水行10日と陸行1月に相当するなどということはない。
そんなことは魏志倭人伝のどこにも書いてない
デタラメ乙
魏志倭人伝の二千里は魏晋里の二千里
ただ、海峡の海上距離を測る手段がないから、適当に大きな数字が書いてあるだけ
千里の馬、というときの千里と同じもの
>だから投馬国が邪馬台国より北にあるなどということはあり得ない。
魏志倭人伝にバッチリ自女王國以北と書いてあるのをデタラメインチキで無視するのが
この無能の考え方ww 448日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:21:42.73
>>426
>残り二千里(対馬海峡より狭い)が投馬国までの水行20日、
>邪馬台国までの水行10日と陸行1月に相当するなどということはない。
そんなことは魏志倭人伝のどこにも書いてない
デタラメ乙
魏志倭人伝の二千里は魏晋里の二千里
ただ、海峡の海上距離を測る手段がないから、適当に大きな数字が書いてあるだけ
千里の馬、というときの千里と同じもの
>だから投馬国が邪馬台国より北にあるなどということはあり得ない。
魏志倭人伝にバッチリ自女王國以北と書いてあるのをデタラメインチキで無視するのが
この無能の考え方ww 449日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:23:36.71
>>445
畿内説は読み替えなんてしないよ
九州説はやってるようだけど 450日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:24:20.98
>>437
>畿内説の学者はあまりにも理数系に弱すぎ
だとしても、理系に極振りの私が見ても特に問題ないから、
その書き込みには何の意味もないww 451日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:25:52.14
452日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:26:20.04
なんにもない〜〜〜〜、
姫トラ何やら@、A・・・・?に収録されている曲と同じ、
なんていうアニメの曲なんだろう、確かあったでしょ、そのような曲
453日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:27:27.10
このスレッドは、本当は、活発になる要素が全く無いのだが、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝すれば、活発化して広告の商業が成功するのだという、間違った予想をしてしまった、5ちゃんねるの頭が悪すぎる者達が雇用した、頭が悪すぎる者達が、邪馬台国畿内説を宣伝している可能性が、高いな。。。
454日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:27:34.01
>>445
>解読された文献には、新たな道なんて無いぞ?
「解読」しちゃダメなんだってばww
判じ物でも暗号書でもないんだからw
そのままに読んで、おかしいところは正確ではないと判断するのが真っ当な読み方 455日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:28:33.09
>>443
聖徳太子はいなかったのだよ
百済人が作った産物
仏教は倭国(日本の源流}を滅ぼしたのだ
その地が4世紀以降の畿内
畿内に弥生初期から後期まで脈々と続く遺跡は無い 456日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:29:02.63
>>451
>学部は?
>積分できる?
お前、バカだろ?ww
積分なんて気の利いた中学生でもできるぞww 457日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:30:44.50
>>419
>海東鏡は鏡師が東に至るのではなく 作った鏡が東である倭国に至るという解釈
海東鏡は倭に渡来した鏡師が作ったというのは九州説ありきの循環論法<
海東鏡の銘文では、「
鏡の作者が「海に浮由して海東へ来た」という作者の紹介が書いている。
だから、作者がその鏡を造れるのは、「浮由して海東へ来た後」。
>邪馬台国は後漢書や隋書はじめ各史書に <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言。
>魏書にある邪馬臺國と台の旧字体で出てくる<
後代史家の「自己解釈による前史記載の書き換え」は、根拠にもならず、×。 458日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:31:15.59
真っ当ではない、頭が悪すぎる者が、やはり、年中無休で、無給で、出現するのだったな。。。
454日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:27:34.01
>>445
>解読された文献には、新たな道なんて無いぞ?
「解読」しちゃダメなんだってばww
判じ物でも暗号書でもないんだからw
そのままに読んで、おかしいところは正確ではないと判断するのが真っ当な読み方 459日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:32:24.18
奈良市の縄文遺跡で全国的に有名な遺跡あるのか
460日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:33:50.56
積分という物事よりも、まず、奥山氏は、分度器を使用できるようになったほうが良いな。。
461日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:34:21.65
ザラコクのオレ物理にはどうしたらいいのかわからんけれども
462日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:34:51.09
本当に、私は先住民ですという人々がいるでしょ、
そういう人々にも嫌われているだろう
天皇を中心とした〜とか
463日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:38:23.40
家の老婆も言っていたし(不明)w
朝鮮人みたいな考えだなとか、
ネットなどで調べなくても知っていたのかな
464日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:38:55.17
>>419
ネットもいいけど銭を払って、書物読むことと、現地に行くことを勧める 465日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:39:28.03
なんで奈良は捨てられたんですか、うんこ臭いからでしょ。都市開発の失敗というより、そういう土地だったということ
466日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:42:39.02
>>420
>>投馬国は日程だけで里程が書かれていない。
これは倭人からの聞き取りしか情報がなかったから。
つまり投馬国は邪馬台国より北ではない。<
>散々やったのにまだこれで「ごまかせる」と思ってるのが無能すぎるww
自女王国以北に略載されているのは「道里」だ <
不彌國や邪馬壹國女王之所都で、「道の里」の萬二千余里がほぼ終わっており、
「道里」とは「道の里」数だ。日数ではない。
>これを「里程」と捏造し、里数のことだと思い込みたがるところが終わってる<
「里程」とは、「道の里の状態の説明文言」という意味だ。「日数」ではない。
>「道里」の記載は、里数でも日数でも普通の表現 <
(九章算術のアホ学者と違って)、
陳寿の「道里」は「道の里」という意味であり、「日数」という意味ではない。 467日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:44:59.42
>>461
>ザラコクのオレ物理
それ、物理じゃないから! 468日本@名無史さん2019/09/17(火) 22:47:19.00
>>457
海東鏡の製作者は空中浮遊して倭国にやって来たと
それにそもそも海東市という地名が中国にあるのでそこの事かも知れないぞ
魏書曰くと複数の書がそれぞれ独自に魏志倭人伝を引用したと記載してるから
邪馬臺國の表記は自己解釈でも何でもないという事 469日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:00:24.55
魏書以外は孫引きでしょ、信頼性がはるかに劣る
470日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:03:36.08
現地行きたいけど
羽田から九州に行こうとすると韓国に行く2倍くらい交通費かかるんだよなぁ
471日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:03:43.35
ドラゴンボールに出てくるセル?
と同じような設定だしな
472日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:07:25.44
『ドラゴンボール セル』いるでしょ、
なんでも融合(つなぎ合わせたり)して、作られたようなキャラ
473日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:08:17.53
>>422
>校勘がされていたら間違いが修正されたと言えるけど
されてないなら間違いがそのままなのかも知れない
魏書曰くと魏志倭人伝を引用した複数の史書が
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年と記している<
ダメだ。
半分偽書である書紀は、アホだから、
「遣使を受けた皇帝名」として、明帝だ、とついうっかり書いてしまって、
年の方を景初三年と書いてしまって、アホを晒してしまった。
また、通典は、明帝だった、として、年次は景初二年と正しく書いている。
>明帝が詔書を出したのは亡くなる前の景初二年だったとしても
倭がそれに応じ鏡が作られ渡されたのは景初三年になったのかも知れない <
皇帝たるものが詔書を出して、与えるものを詔書に全部書いてしまったら、
そりゃ、詔書を出した時点で、下賜品は、全部用意されて、準備されているもの。
もしも 難升米らに「有難うございます。所用も御座いますし、急いで卑弥呼様にもお見せしたいですので、
明日、出立して持って帰られせて戴きます」とでも言われたら、
明帝は、大恥をかいてしまう事になる。 474日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:15:30.77
>>322
>2千里が対馬海峡より狭いと決め付ける理由は何<
半島と九州の間の3回の渡海が、いずれも千余里だ、と書かれているから、
全海峡幅は3千余里以上になってしまうから。 475日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:16:12.45
>>469
魏志を引用したと書いてある複数の書の内容が共通してるから
史書が引用した魏志には邪馬臺國や景初三年と書かれていたという事 476日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:18:39.36
>>421
>他人には見えないものが見える
えっとこれ塚に見えるけど。
君には見えないらしいね。
477日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:20:38.22
畿内説も脈々と続いているとは思ってないだろ、続いてるならデカイ巻向に固執したりしない。脈々と続いてるなら記紀はもっと正確だろ
478日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:23:12.94
>>432
>ああ韓国〜九州の対馬海峡ね
けど2千里は魏里で900kmくらい<
魏の役人らの計測では、3海峡の渡海の合計が三千余里以上になるから、
九州上陸後が「二千余里」であった、としても、
それは「3海峡の渡海の合計」の3分の2以下。 479日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:27:07.72
>>475
それ以外の傍証にすべきでない。書き間違い疑惑もある。切って捨てるべきだ 480日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:32:25.23
>>433
>「東南陸行 五百里 到伊都國」
「会稽東治の東」
↑ これも各説共通の課題<
「東南、陸行五百里、到伊都國」は、
「東南」が末路國からの出発時点での出発方向説明であった、で決着。
「会稽東治の東」は、この男が、
魏志の「東治」を「東冶」に改竄するインチキをやっており、
魏志の「会稽東治之東」であれば、ほぼ「九州島付近」になって、
この男は、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者仲間であった確率が高い。 481日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:34:32.48
カメ仙人、ウラシマン・・・などは同じ人物でしょ、
聖造の人?
482日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:35:21.83
>>479
魏書曰くと魏志を引用したと書いている複数の史書の内容が一致してるから
書き間違いはないと断定もできるほど証拠が揃ってると言える 483日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:35:25.37
>>476
それが塚に見えるのは左側スロープ君だけ!
自分の巣へ帰りなさい 484日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:37:00.03
1と台の差はどうなのかね
485日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:37:40.23
>>479
>書き間違い疑惑もある。切って捨てるべきだ
魏志倭人伝の現存伝本の景初2年は書き間違い疑惑があるから切って捨てるべきだってことだなww 486日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:40:48.00
どくたー・ゲロ自身も
人造人間と化したんだっけ?自作自演?
487日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:42:47.71
>>447
>魏志倭人伝の二千里は魏晋里の二千里
ただ、海峡の海上距離を測る手段がないから、適当に大きな数字が書いてあるだけ<
魏の役人らは、業務だから、普通に里数や方向を計測し、
記録には「余」を付けたり、有効数字1桁の近似値にする「近似値化」をした記載をし、
それを「略載」だとも説明している。
若しも、重臣らの一人に忖度して、
「適当に大きな数字が書いてある」という事をした事が皇帝らにバレれば、
首が危ない。 488日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:46:51.51
おーい、アフォの>>1
以前書いたのをメモってたわ。
森井さん、森岡さんもこの年輪年代を導入していた。
庄内0 AD177+18 纏向石塚
庄内1 AD222 二口かみあれた
庄内2 AD240 下田
庄内3 AD258 二口かみあれた
布留0
布留1
布留2
布留3
布留4 AD389 宇治市街 須恵器
庄内3が年輪年代でAD258と出てるのだから、
布留0古相時期に建造開始の箸墓がAD258より古くなることはあり得ない。
つまり箸墓はAD248に死亡した卑弥呼の墓ではない。 489日本@名無史さん2019/09/17(火) 23:57:22.15
>>475
>魏志を引用したと書いてある複数の書の<
完全引用していない。自己解釈に拠る書き換え、というインチキをやっており、
写本版本記載に比べると、全く×・
>内容が共通してるから<
共通していない。
>史書が引用した魏志には邪馬臺國や<
邪馬壹國も、宋明清代の校勘学者は、校勘していない。
>景初三年と書かれていたという事<
明帝は景初二年大晦日〜景初三年元旦に亡くなったが、
倭国が派遣した使節が面会した皇帝名が明帝であった事は、
通典が証言しているほか、書紀もついうっかり「明帝」だった、と書いてしまった。 490日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:00:40.81
491日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:09:50.49
492日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:14:49.88
423 433 437 442 444 445 451 455 459
493日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:17:58.89
蘇我の台頭と同時に天皇墓が非前方後円墳になってるのが面白いね。
逆に、それで前方後円墳が誰の墓制であったかもわかる。
前方後円墳は大和では2世紀末から6世紀末まで。
ウマシマジから始まって物部守屋が死んだ6世紀末まで、
つまり前方後円墳とは物部の墓制だ。
箸墓もしかり。
何が卑弥呼の墓だ、アホの>>1 494日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:23:47.18
>>489
魏書曰く等魏志倭人伝を引用したと記している隋書や北史や太平御覧は邪馬臺國と表記
内容が共通していないというのは誰にでもわかる嘘
九州説は嘘をついてる事が判明 495日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:28:48.47
あからさまな嘘を何回バレてもお構いなしに延々くり返す九州説
九州説は説でも何でもない呪術的祈祷の一種
496日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:38:20.75
九州説はもう誰も騙されないから学説ぶるのはやめたら?
邪馬台国は九州魏志倭人伝の距離は短里とだけくり返してた方がずっとマシだよ
497日本@名無史さん2019/09/18(水) 00:44:53.42
邪馬台国九州有
魏使者短里用測距離
一寸千里之証有短里
呉鏡師渡来倭作三角縁鏡
ほらお経作ってやったからさ
九州説はこれを延々とコピペしたらいい
498日本@名無史さん2019/09/18(水) 02:17:40.51
近畿説信じてる人リアルでは見たことないな
みんな うーん九州じゃないのって言う
499日本@名無史さん2019/09/18(水) 02:44:52.05
500日本@名無史さん2019/09/18(水) 03:58:45.44
>>499
【先代旧事本紀】
伊香色雄命は、山代県主(やましろのあがたぬし)の祖・長溝(ながみぞ)の娘の真木姫(まきひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 501日本@名無史さん2019/09/18(水) 06:50:37.83
>>500
忌部の郷の「伊加賀志神社」は朝廷から「大明神」の称号を送られている。 @阿波 502日本@名無史さん2019/09/18(水) 06:51:29.86
徳島は古事記神話の神名がつく延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多いことがわかる。
例えば、徳島県の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついているのに対して、
奈良県は286社のうち3社、島根県の出雲は187社のうち0社である。 @阿波
503日本@名無史さん2019/09/18(水) 06:52:08.50
式内社以外でも、徳島県の神社の祭神はほとんどが古事記神話の神である。
この事実からも、古事記神話は倭国(阿波)で起きたことを記した記録なのである。 @阿波
504日本@名無史さん2019/09/18(水) 06:58:30.28
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波
505日本@名無史さん2019/09/18(水) 06:59:54.73
そりゃね、桃の種と馬具が出て、「ほらみろ奈良こそ邪馬台国だろうがい」と言われてもね(笑)
506日本@名無史さん2019/09/18(水) 07:11:45.82
>>498
畿内説は物証が少なすぎるからじゃねーか 507日本@名無史さん2019/09/18(水) 07:15:17.83
>>499
サンキュー
前方後円墳は邪馬台国と関係ないことがまた立証されたな 508日本@名無史さん2019/09/18(水) 07:18:24.93
畿内説を早く潰さないと日本史の研究が足踏みしたままになってしまう。
畿内説はガンだよ。
509日本@名無史さん2019/09/18(水) 07:26:50.78
510日本@名無史さん2019/09/18(水) 07:57:07.55
>>490
>魏里ではないということだよ。
そんな単位を使ったら、魏皇帝を否定することになるぞww
つまり短里なんてないってことだ 511日本@名無史さん2019/09/18(水) 07:58:48.86
512日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:03:01.77
>>510
こうでなければいけないという「信念」で事実を捻じ曲げようとするんだね。
もう畿内説は末期だね。 513日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:03:37.54
>>502
>徳島県の式内社50社
>奈良県は286社
>島根県の出雲は187社
泡は未開の僻地だなw 514日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:05:26.33
>>506
前方後円墳、纒向古墳群
これだけで決まりだよ
物証どころの騒ぎじゃない
地図に残る証拠w 515日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:07:38.21
>>507
箸墓と同じ規格で大きさがきっかり3分の1
五塚原古墳は箸墓ありきの存在だよ
畿内の大王墓が基準という証拠 516日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:13:15.79
>>512
>こうでなければいけないという「信念」で事実を捻じ曲げようとするんだね。
それ、九州説www
「短里を使う人がいない」
「短里を知っている人がいない」
「短里を示す物証がない」
これに全く反論できてない
短里があること
短里で測量したこと
短里を使う理由
これが論証できない限り、短里は九州説の捏造
>もう畿内説は末期だね。
九州説という学説はすでに消滅しているのですが?
>>512みたいに反安倍、反日で書き込んでる人と、
ザラゴキみたいにもう考えを変えられないボケ老人と
キウス、連続句読点ののような半島系粘着のバカ以外は九州説の素人すら残っていない 517日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:15:37.04
>>516
九州説=短里と思い込んでる時点で間違い 518日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:23:15.03
島原市から天草市までの直線距離は25キロ程度だけど
陸路で行こうとしたら有明海を迂回しないといけないので実際は250キロを余裕で超える道のりになる
富士山をはさんで富士宮市から富士吉田市までの直線距離は30キロ程度
しかし実際の道のりは50キロ以上
しかも整備された大規模な土木工事のおかげ
里程の計算って、そういう事も考えないといけないんだよ
519日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:27:52.80
>>515
>畿内の大王墓が基準という証拠
箸墓は大王の墓ではない。
3世紀代の列島最大墓ではあるが大王墓ではない。
なぜなら高低というベクトルで言えば「低」、
上下というベクトルでは「下」になるからだ。
真の大王墓は大和盆地最上座にある。
標高435m、日本神話の原点・高天原(御所市高天)である。
径百余歩
「神話の世界などありはしない」
近代の学者のこの思いあがった心根こそが真の卑弥呼墓を見つけられない要因だったのだ。 520日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:27:55.50
521日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:28:29.22
522日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:32:30.25
>>511
卑弥呼墓=箸墓古墳という君はそろそろ真の畿内説を葛城に譲りなさい。
物部の墳墓を卑弥呼墓だなんて見ていて恥ずかしい。 523日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:41:58.33
524日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:43:32.36
>>475
>魏志を引用したと書いてある複数の書の内容が共通してるから<
共通していないから。後代史家の各自が自己解釈での引用だから、ばらばら。
>史書が引用した魏志には邪馬臺國や景初三年と書かれていたという事<
邪馬臺國は、後漢書の范曄が倭の五王らからの遣使の「久留米付近の邪馬臺の呼称を聞いて、
後漢代〜卑弥呼も邪馬臺にいたんだろう、という勝手な自己解釈で失敗した例。
唐代史家の中には、同じ解釈で、「邪馬壹國→邪馬臺國」と書き換えたアホもいた。
また景初三年も、書紀がついうっかり「明帝」であった、いう事を書いてしまい、
明帝は景初二年大晦日から翌元旦に亡くなったから、
卑弥呼の遣使を受けた明帝は景初三年にはいなかった、
という事が判らなかったアホ記載をしてしまい、
通典がはっきり、(唐代初期からの一部の史書の景初三年記載を否定して)、
「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」として、
卑弥呼の遣使派遣や、遣使を受けた皇帝は明帝であった、という事を証言した。 525日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:43:44.15
帯方郡から一万二千里で、九州上陸までですでに一万里余。
これでどうやって畿内まで届くというのか。
526日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:52:35.26
>>482
>魏書曰くと魏志を引用したと書いている複数の史書の内容が一致してるから<
後代史書の前史の引用は、自己解釈による書き換えがあって、必ずしも一致しないし、
後代史書に拠っては違っているもの。
一致性が非常の高いのは当然「写本版本」。
>書き間違いはないと断定もできるほど証拠が揃ってると言える<
書紀がついうっかり「明帝(=景初二年)」と書いて)しまっており、
通典は、はっきり、
「魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻」
と書いている。 527日本@名無史さん2019/09/18(水) 08:57:04.83
>>485
>魏志倭人伝の現存伝本の景初2年は書き間違い疑惑があるから切って捨てるべきだってことだなww<
唐代頃の4つの史書や、現代大和説学者らの「卑弥呼の遣使=景初三年」論は、
明確な嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺であるから、
切って捨てるべき、って事だな。 528日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:03:18.46
奈良盆地は農地には不向きだったので共同古墳置き場だった。
これが現状で言える正常な考古学的見解だ。
529日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:06:59.10
>>1
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国籍の奥山氏、、、もう、貴方は、完全に論破されたので、自殺体には、ならないように、気持ちを強く持って、生きて下さい。。 530日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:11:05.73
物部氏と饒速日を再評価するべき。
そうしたら自然と邪馬台国畿内説など消えてしまう。
531日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:22:18.28
>>523
妄想は里程を直線距離で考えてる畿内説の方 532日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:29:04.25
バンビシャス奈良は、勝負の成績も大事だが、人気を高め、切符や商品の販売業や広告の商業も活発にしなければいけないのだったな。。。
533日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:30:35.10
534日本@名無史さん2019/09/18(水) 09:33:00.41
バンビシャス奈良は、勝負の成績も大事だが、人気を高め、切符や商品の販売業や広告の商業も活発にし、来年の決算時点で、7000万円の収益を確保しなければいけないのだったな。。。
535日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:27:23.05
>>517
>九州説=短里と思い込んでる時点で間違い
短里で萬二千里、以外に魏志倭人伝の地誌・旅程記事で九州に有利な点なんて
一つもないんだよ
まあ、短里とか抜きにしても「投馬国は女王国より以北の国」という
地誌記事から分かること一つで、九州説は壊滅するんだけどね
「韓国に事実を突き付けても論点をはぐらかすので、
あまり意味がないのではという意見もありました」
「九州説に事実を突き付けても論点をはぐらかすので、
あまり意味がないのではという意見もありました」 536日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:28:36.28
>>518
>島原市から天草市までの直線距離は25キロ程度だけど
>陸路で行こうとしたら有明海を迂回しないといけないので実際は250キロを余裕で超える道のりになる
大陸中華の史書では、距離は中心都市同士の直線二点間距離が基本 537日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:37:52.77
>>519
インチキの高低差強調画像でごまかしてもダメ
高天彦神社の方から左側スロープ君の言う塚wwwを見たもの
グーグルマップの3D表示
一見盛り上がっているように見えるけれど、盛り上がっているのは森の木で
地面、道は「下っていっている」のが分かるww
塚なんてないんだよ 538日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:39:49.70
>>525
>これでどうやって畿内まで届くというのか。
2000里あれば軽く届くってww 539日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:43:06.89
>>519
>なぜなら高低というベクトルで言えば「低」、
>上下というベクトルでは「下」になるからだ。
左側スロープ君のこのインチキ理論は、その「塚ww」よりも
それを祀る高天彦神社の方がより高い位置にあり、
高天彦神社がその「塚ww」など見向きもせずに
背後の金剛山を拝むように建てられていることで否定される
左側スロープ君のいう「塚ww」は高天彦神社に参るときに
踏みつけにされる参道が通っているただの尾根 540日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:44:06.98
541日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:45:28.57
>>536
そういうのは、
往来が多くて、経験値として距離もおおかた分かるからだよ
辺境の未開の土地の里程をどうやって直線距離で測るんだ?
ちょっとくらい真面目に考えてみなよ
測量器具もって歩いてるわけじゃないんだよ?
どうやって直線距離が分かるの?
具体的に説明できる? 542日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:47:38.72
>>535
>投馬国は女王国より以北の国
邪馬台国はそれより南にあればいいんだろ?
九州じゃん
それから、
九州説と韓国のイデオロギーを絡めるのは恥ずかしいからやめとけよ 543日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:56:36.24
>>493
>前方後円墳は大和では2世紀末から6世紀末まで。<
大和に177+18=195年頃に石塚の埋葬があった、という光谷説は、
以前に書いたように、
検体木と基準木との年平均の気温や降水量や積雪の一定性の保証がない事と、
伐採年から使用年までの寝かせなどが何年あったのか?が全く未定である事、
などがの問題があり、使用年次の絶対的根拠には全くならず、信用出来ないし、
そもそも、モンゴル〜半島で少し行われていただけの前方後円墳が、
突然、列島で初めて大和で2世紀末に始まる、という事の説明が全く出来ない。
半島→出雲→大和であれば、出雲にまず出来る筈であるし、
それは、東北の毛人や越経由でも同じであり、
長野などの積石墓も前方後円墳形になっていない。
だとすると、やはり266年の西晋武帝の壹與遣使への天円地方の説明で、
筑紫倭国が半島のが前方後円墳を採用した、という可能性が高くなり、
那珂八幡などが最も早く起こって、石塚はそれを真似たんだろう、
という事になる。 544日本@名無史さん2019/09/18(水) 10:57:42.56
545日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:07:15.09
>>536
>距離は中心都市同士の直線二点間距離が基本
その通り。 @阿波 546日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:09:48.33
>>541
目的地が見えて・い・な・く・て・も、現実に測れている。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
547日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:24:16.44
短里があると言うだけで、論証を一切せずにそれを前提に使うww
「個人の考え」連呼君は、ブーメランが大好きなんだなw
548日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:27:28.12
そんな事よりも、はやく刑務所にでも行ったほうがいいぞ、
別に、このスレにいる人に言っているわけではないんだけどw
549日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:30:24.99
他のスレにも書いていることなんだけど、
何度、言えばわかるんだ?はやく刑務所に行け
550日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:32:27.28
>>540
>対馬博多間の距離なんだが?
それがインチキの始まり
渡海距離は「測量手段がない」から、千里の馬と同じ修辞で、実際の距離とは無関係に
渡海一回で千里という固定値になっている
つまり、それはリファレンスとしては「まったく役に立たない値」だってこと
まず、短里が存在したことを論証しなさい
そちらが短里があるという主張をしているんだからなww
そして畿内説側は、短里がないという論証を済ませている
何よりも「短里を使う人がいない」のが九州説には致命的
いい加減に諦めればいいのに
楽になるぞww 551日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:35:00.30
何やら・・・()・・・と気づいている人がいたり
552日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:35:30.24
>>541
>辺境の未開の土地の里程をどうやって直線距離で測るんだ?
>ちょっとくらい真面目に考えてみなよ
正確さは無視して、適当な地図を想定して、その上での方向・距離を記述するんだよ
それが大陸中華のやり方
だから、会稽東冶之東という想定がある以上、そういう地図上での
方角として南と書かれる
それでも情報が足りないところは、現地訪問者の報告どおりに日数で書いて済ませる
そんなやり方だよ 553日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:37:39.21
>>542
>邪馬台国はそれより南にあればいいんだろ?
>九州じゃん
「投馬国は女王国より以北の国」というのが魏志倭人伝の記述から
正しく読み取れることだというのは認めるんだなww
そして、北部九州説は壊滅する
北部九州に、邪馬台国7万戸と、投馬国5万戸は入らない
基準は奴国(福岡平野)2万戸だからなw 554日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:39:06.73
>>542
>九州説と韓国のイデオロギーを絡めるのは恥ずかしいからやめとけよ
いまさらかい?
九州説が、半島が倭国よりも上というイデオロギーの産物だってのは
既にバレバレなんだよ
連続句読点を見れば分かるだろ?ww
韓国大好きなのは九州説だよw 555日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:41:02.36
カメ仙人〜『うらしまん』(未来なにやら)とか
556日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:42:22.54
『どくたー・げろ』?
557日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:46:54.43
今日も、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、完全に論破されてしまった。。。
558日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:48:16.02
龍宮〜王母〜寒いな〜?
559日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:50:27.57
どう考えても家の話でしょ
560日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:53:27.27
>>546
そのヘタクソな落書き地図で
東京からイスタンブールまで何キロなの?
それと同じ縮尺で測った時に、上海から南京までは何キロ?
同一縮尺になるとは思えないぞ 561日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:54:51.50
>>552
とてもご都合主義だね
そんな考えなら、邪馬台国がモスクワに存在するという屁理屈も可能だね 562日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:55:05.35
その他の漫画、アニメ、ゲームなども同じ
563日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:58:26.08
>>553
5万なんて誰が数えるんだよ
両手の指が何本必要なんだ?
そんな数字はテキトーに決まってるじゃん
そして、なんで九州北部だと思い込むんだ?
九州説なら北部九州だけじゃないぞ、宮崎も当然にある 564日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:58:58.72
>>553
九州説は、別に困っとらん。
投馬国は熊本、邪馬台国は宮崎。だから投馬国は女王国以北で問題なし。 565日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:59:48.07
>>560
>同一縮尺になるとは思えないぞ
同一縮尺になるとは思えな・く・て・も、現実に測れている。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
566日本@名無史さん2019/09/18(水) 11:59:57.05
>>554
それは九州説を理論として否定できない言い訳だろ
レッテル貼りしか言い返せないという事だなw 567日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:01:32.65
568日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:01:46.41
>>565
ではその地図に点を落としてみなよ
東京とイスタンブールまでの距離
上海と南京までの距離
やってみればわかる
縮尺は不正確
一目でわかるだろ
中国国内だけ異様に大きく細かく書いてる時点で縮尺が合うはずがないんだよ 569日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:04:57.61
>>568
縮尺は不正確で・も、現実に測れている。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
570日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:06:32.92
>>569
俺が言ってることを理解できてないようだ
その落書きの倭からイスタンブールまでを測ると何キロになるんだ? 571日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:07:39.33
とある作品などのwikiがあるでしょ、
なぜか同じようなことが書いてあったり
(老婆談)結婚する前の話とか、
何かの家の人みたいだよと言われたとか、・・・、・・・、・・・。
572日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:08:17.92
>>569
で、その落書き
日本の向きは正しい方の地図じゃないか
南北が逆になってる地図の話じゃなかったの?
都合がいい時だけなの? 573日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:09:33.75
>>496
>魏書曰く等魏志倭人伝を引用したと記している隋書や北史や太平御覧は邪馬臺國と表記
内容が共通していないというのは誰にでもわかる嘘 九州説は嘘をついてる事が判明
>あからさまな嘘を何回バレてもお構いなしに延々くり返す九州説
九州説は説でも何でもない呪術的祈祷の一種
>九州説はもう誰も騙されないから学説ぶるのはやめたら?
邪馬台国は九州魏志倭人伝の距離は短里とだけくり返してた方がずっとマシだよ<
写本版本は、器械的な転写であるから、99.5%以上、正確。
後代史書は、写本ではなく、
後代の人間のに拠る「歴史解釈の講釈書や学術書」であり、
始めから史料事実ではなく、史料実態にもなり難いもの。
その区別が判らないらしいこの男や大和説者は、
宗教的な結論先にありきの・・・・アホ詐欺師。 574日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:10:32.92
>>560
>同一縮尺になるとは思えないぞ
そうだろ?
漢土の外のことなんて、大陸中華の人にとってはどうでもいいからいい加減なんだよ
つまり、「短里という縮尺」とか「対馬海峡が三千里だからその縮尺で考えると」とか
いうのはまったく無意味だってこと 575日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:10:42.58
バンビシャス奈良は、勝負の成績も大事だが、人気を高め、切符や商品の販売業や広告の商業も活発にし、来年の決算時点で、7000万円の収益を確保しなければいけないのだったな。。。
576日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:11:22.10
今日も、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の奥山氏が、完全に論破されてしまった。。。
577日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:11:30.43
>>570
落書きだろうが縮尺が不正確だろうが、遥か彼方の大海の国が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
578日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:11:54.32
『うらしまマリン』?
579日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:12:17.40
>>574
当たり前で議論の余地もないことをわざわざ言うのはなぜなんだ?
という事はその落書き地図の縮尺は当てにならないという事だ 580日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:12:55.77
>>577
で?
倭からイスタンブールまでは何キロなんだ? 581日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:13:33.35
>>561
>そんな考えなら、邪馬台国がモスクワに存在するという屁理屈も可能だね
旗色が悪くなると、極論を持ち出してどっちもどっちという印象操作に走るww
こちらには魏志倭人伝に「会稽東冶之東」と書かれているという文献上の根拠があり
それをもとに考えているのに対し「邪馬台国がモスクワに存在する」なんていうのは
『今でっち上げた根拠なしのデタラメ』だろ?
同列ではないし、>>561のインチキ体質が浮き彫りになっただけww 582日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:15:39.41
>>581
極端な方が分かりやすいだろ
それから、
東と言うのは45度から135度までの範囲にあればいいんだよ
なんで真東にある必要があるんだよ
92度の方向だと東じゃないのか?
85度だとどうなるんだ?
ご都合主義の極みだな 583日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:15:45.12
>>580
>倭からイスタンブールまでは何キロなんだ?
関知しない。
落書きだろうが縮尺が不正確だろうが、遥か彼方の大海の国が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 584日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:17:24.33
>>563
>そして、なんで九州北部だと思い込むんだ?
>九州説なら北部九州だけじゃないぞ、宮崎も当然にある
こちらも常に「投馬国が女王国より以北の国」で北部九州説は壊滅って言ってるよ?w
勝手に九州説って言ってるのはある意味>>563の捏造w
北部九州説以外の九州説は、九州説だという人の中でもほぼ支持する人のいない泡沫説だから
放置でいいんだよ
結局、北部九州説は「伊都国」「奴国」「末盧国」の過去の繁栄を勝手に
邪馬台国に投影しているだけだから、それ以外の九州説は考古学的にも相手にする必要がない 585日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:17:57.60
>>583
関知しないじゃなくて
縮尺が不正確なことがバレるから嫌なんだろ?
何らかの測量法とは具体的には?
お前は測量をしたことがあるか?
本気で測量するのならその地域全体をくまなく歩きまわって測りまくらないといけないんだよ
そういうのができると思ってる? 586日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:18:09.80
参問倭地 周旋5千余里。
奈良盆地は含まず。
587日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:19:53.61
>>584
だから聞いてるんだよ
>九州説=短里と思い込んでる時点で間違い
というレスが始まりなんだよ
それに反論したのがお前
そして途中で北部九州と言い始めるわけだ
だからなぜ北部九州に限定するのか聞いてるんだよ 588日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:20:25.44
589日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:20:38.22
>>564
>投馬国は熊本、邪馬台国は宮崎。だから投馬国は女王国以北で問題なし。
この、5ちゃんなのにいちいち句点を打つ人は、明らかに工作員だな
日々言うことが異なる
以前には、伊都国は伊都CCあたりと強弁し、あるときには呼子上陸バカ
またあるときには吉井信号バカと呼ばれたのと同じ御仁だろう
投馬国が熊本という九州説はほぼない
今この場での思いつきだなww
九州的には、都万の地名から宮崎に投馬国を比定するのが人気だが、
それも無視している暴論といってよいww 590日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:21:05.25
あの子供の着ている制服
軍人、警官・・・何なのかわからないような事も言っていたしな〜w
軍などの学校を首席で卒業(当時の幼稚園)?
591日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:21:16.38
592日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:21:34.16
>>581
>こちらには魏志倭人伝に「会稽東冶之東」と書かれているという文献上の根拠があり
夏后小康の子が封ぜられたのは、紀元前1900-1600の夏王朝時代のこと。
「会稽東治之東」とは、其の夏王朝時代の会稽の東の治所を意味する。後世三世紀の福州は関係ない。 593日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:21:56.28
>>589
違うな
呼子は俺だ
他は他人だ
なんでも同一人物と思い込むのはおそらく精神的な病気だぞ 594日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:23:37.50
>>566
>それは九州説を理論として否定できない言い訳だろ
理論的に全否定してあるよ?
・短里はない
・伊都国と奴国は邪馬台国とは別の国
・伊都国と奴国を除くと、3世紀の北部九州に栄えている土地はない
・投馬国は女王国より以北の国だが、北部九州に投馬国を置く場所がない
これだけで、九州説がありえないことが確定する
>レッテル貼りしか言い返せないという事だなw
レッテル貼りをしているのは九州説だよ
ザラゴキと連続句読点が顕著
ミラーリングのできの悪いやつだなww 595日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:24:10.47
>>536
>大陸中華の史書では、距離は中心都市同士の直線二点間距離が基本
直線二点間距離???
こいつバカだろ
古代の距離が直線二点間距離だと?
古代に直線距離をどうやって測ったんだよ 596日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:24:27.50
>>585
その落書きをどうやって描いたのか? 縮尺が不正確なのは、当たり前(光学機器がない)。 @阿波
。 597日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:24:48.58
>>594
宮崎を否定できてないな
あと、5万戸と言うのを信用するのは頭の悪い証拠 598日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:26:13.36
>>596
子供の時に自宅周辺の地図を手書きするのと同じ
それをつなぎ合わせてスケールを大きくしてるだけだぞ 599日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:26:16.67
8まん(おいとまん)その他、
ほとんど同じような設定でしょ
600日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:27:15.64
>>589
何が暴論か。投馬国は女王国以北という、きちんとした理由がある。 601日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:27:18.10
>>579
>という事はその落書き地図の縮尺は当てにならないという事だ
縮尺って言葉が大好きで、それを前提に論立てしているのが九州説なんだよww
「縮尺は何の役にも立たない」ってことを、>>579は認めたってことでいいな?ww
そして、「その地図の縮尺はあてにならない」というのは
「現実の地理に当てはめて考える上で役に立たない」ということであって
「大陸中華の人がどういう認識でその認識の上でどういう記述をするか」を
考える上で非常に参考になるし、根拠を与えてくれる材料だww
論理的思考のできない人は、一行書き込みで相手を否定することしか
できないから惨めだな 602日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:28:12.53
>>585
その落書きをどうやって描いたのか? 遥か彼方の大海の国が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。 縮尺が不正確なのは、当たり前(光学機器がない)。 @阿波
。 603日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:28:48.14
>>582
>極端な方が分かりやすいだろ
あ、バカ発見ww
開き直りやがったw
まともな論理が展開できないから、極論でごまかしてますって自白してるww
バカ丸出し
バカ初段だなww 604日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:28:58.01
な全一病、全キナイコシ病、全奥山病も精神病ですね精神病
605日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:29:54.86
>>582
>東と言うのは45度から135度までの範囲にあればいいんだよ
またバカなことを言っている
魏志倭人伝は八方位で書かれているから、 606日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:30:12.35
>>601
そういう九州説は知らんな
そもそも曲がりくねった道もあるのに直線距離と思い込んで語ってるお前らがアホすぎるから指摘してやっただけだぞ
そうしたら都市間の距離は直線距離だとか
アホの阿波まで言い始めてるわけで 607日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:30:31.40
67.5〜112.5度の間が東だぞw
608日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:30:45.28
夏后小康の子が封ぜられたのは、紀元前1900-1600の夏王朝時代なので、魏志倭人伝の会稽は、良渚文化圏のことだということは、中国では常識なのだったな。。。
592日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:21:34.16
>>581
>こちらには魏志倭人伝に「会稽東冶之東」と書かれているという文献上の根拠があり
夏后小康の子が封ぜられたのは、紀元前1900-1600の夏王朝時代のこと。
「会稽東治之東」とは、其の夏王朝時代の会稽の東の治所を意味する。後世三世紀の福州は関係ない。 609日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:31:27.69
>>585
その落書きをどうやって描いたのか? 遥か彼方の大海の国が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。
縮尺が不正確なのは、当たり前(光学機器がない)。 @阿波 610日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:31:46.40
wiki おいとまん【超人類ミュータント】
>大江(おおえ)博士
あの話と同じような、相撲?乾飯〜?
611日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:31:51.54
>>605
なら67度から112度でいいんじゃないか? 612日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:32:16.50
613日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:34:53.38
>>598
遥か彼方の大海の国が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 614日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:35:58.98
>>613
その海の向こうの島でも、
子供の時に自宅周辺の地図を手書きするのと同じ
それをつなぎ合わせてスケールを大きくしてるだけだぞ 615日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:36:24.14
5ちゃんねるを活発化させるために、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭の悪い朝鮮人の奥山氏が、また完全に論破されてしまいましたね。。。
616日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:37:58.39
>>587
>というレスが始まりなんだよ
>それに反論したのがお前
>そして途中で北部九州と言い始めるわけだ
またにわかのふりをしてww
発端はもっとずっと前
昔っから「北部九州説は壊滅」って書いてるよ
ーーーーー
畿内説スレPart497
http://2chb.net/r/history/1566238695/612
九章算術を持ち出すまでもなく、魏志倭人伝の記述から
「投馬国が女王国より以北の国」なのは当然に読み取れるのだけれど、
九章算術均輸の例示により、里数が書いてないから道里略載ではないと
いう言いがかりが完全に否定される
「投馬国が女王国より以北の国」なので、北部九州説は一部の
トンデモ(投馬国半島南部説)以外は壊滅
ーーーーー
これはずいぶん前からの話だから、探せばいくらでも示せるぞww 617日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:40:11.71
>>616
そんなのは知らんな
お前みたいな常連ばかりじゃないんだよw 618日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:42:10.68
>>586
>参問倭地 周旋5千余里。
周旋は一周したり元の場所に戻ったりしないと何度言えば
対馬海峡三千里、そこから先が二千里で周旋五千里という計算
萬二千里から韓地循海岸水行七千里を引いただけの数字
ついでに言うと参問は、訪問する実際に訪れるという意味じゃないぞww 619日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:43:42.50
>>615
5ちゃんねるを活発化させるために、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭の悪い朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されても、
頭が悪すぎるので、邪馬台国畿内説を完全に論破されたことが、わからなかったり、邪馬台国畿内説を完全に論破されたことを忘れるので、
何度でも、同じ物事で、討論を挑んでくるのだったな。。。 620日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:45:01.56
>>591
>対馬海峡が3千余里と記載されてるんだから。
だから、縮尺はあてにならないんだろ?wwwww つ>>579w
対馬海峡の距離は参考にならないよ
測量手段もないんだしw 621日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:45:16.21
622日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:45:37.73
>>616
九州説は、別に困っとらん。
投馬国は熊本、邪馬台国は宮崎。だから投馬国は女王国以北で問題なし。
おまいの云う通り、投馬国は女王国以北と明記されているからな・・。 623日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:46:20.83
624日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:46:28.09
>>593
>呼子は俺だ
この時点でバカ確定ww
匿名掲示板で、どれが自分でどれは違うとか言っても無意味だよww 625日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:47:51.54
>>595
>古代の距離が直線二点間距離だと?
>古代に直線距離をどうやって測ったんだよ
既に説明してある
>>553
正確さは無視して、適当な地図を想定して、その上での方向・距離を記述するんだよ
それが大陸中華のやり方
だから、会稽東冶之東という想定がある以上、そういう地図上での
方角として南と書かれる 626日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:47:57.72
>>622
だよな
畿内説の場合、投馬国はどこになるんだろうか?
そしてその場合
日本列島の向きは正しいという前提であって
昆一図はやはり参考にならないという事でもあるわな 627日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:48:15.65
628日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:51:31.39
>>597
>宮崎を否定できてないな
宮崎単品で否定するのは簡単
熊本投馬国、宮崎邪馬台国だと、
「南至投馬國、水行二十日」
「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月」
という旅程について、整合性のある説明が一切つかないww
>あと、5万戸と言うのを信用するのは頭の悪い証拠
適当だと思ってるよ?
「信用している」とするのが>>597の捏造ww
奴国二万戸が基準で、それより栄えていればよいが、熊本、宮崎では無理がある 629日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:53:40.73
630日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:54:20.54
>>606
>そうしたら都市間の距離は直線距離だとか
地誌記事ではそれが当たり前なんだよ
国と国、土地と土地の位置関係を示すのが目的なんだから
魏志倭人伝の前半部分の本質は、旅程記事ではなく倭国の地理の紹介
ただ北部九州から先は、魏使の訪問記録が下敷きになっているので
旅程の色合いが濃くなっているけれど 631日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:54:21.11
あと
なぜ、じゃっきー・ちゅん?なのかとか、
ですらー、カッパ(河伯)、・・・、・・・、・・・。
632日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:55:13.64
633日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:55:21.05
>>630
で?
富士宮市と富士吉田市の直線距離とか
どうやって分かるの? 634日本@名無史さん2019/09/18(水) 12:57:47.89
5ちゃんねるを活発化させるために、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭の悪い朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されても、
頭が悪すぎるので、邪馬台国畿内説を完全に論破されたことが、わからなかったり、邪馬台国畿内説を完全に論破されたことを忘れるので、
何度でも、同じ物事で、討論を挑んでくるのだったな。。。
635日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:01:57.59
>>617
>お前みたいな常連ばかりじゃないんだよw
いや、呼子上陸バカなら、相当古参の常連だぞww
今調べたら、Part427で大暴れしてるなww 2019/02/18あたり
そして、常に言を左右して、それを全て否定されるというサンドバッグの
具現化のような九州説の一つの典型が呼子上陸バカだww 636日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:04:14.50
>>628
畿内説は、肯定に与せずと云いながら、九州説の行程にはうるさいことを云うではないか。
宇美・不彌国からは海路で、博多湾−平戸ー天草ー熊本と長いので20日かかる。
熊本からは、これまた海路で八代まで10日、その後陸行で人吉−えびの−高原−宮崎まで1月。ピタリだ。 637日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:06:06.40
>>626
>畿内説の場合、投馬国はどこになるんだろうか?
テンプレにも書いてあるだろ?
魏志倭人伝の描く倭国は
北部九州に奴国2万戸があって
畿内に邪馬台国7万戸があって
途中の中国地方に投馬国5万戸があるという倭人の領域なんだよ
私は日本海航路+投馬dug-magの音韻から投馬国=出雲を推すが、
テンプレは同じ中国地方でも山陽側の吉備を採っている 638日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:06:34.63
>>635
俺は日本史板じゃなくてニュー速の方が専門なんだが?
そして頻繁には書き込んでない
気が向いた時だけだぞ
たしか、呼子説を否定できずに大暴れしたカスがいたけど
それがお前なのか? 639日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:07:06.57
>>627
さすが、呼子上陸バカだなww
人間性も最悪w 640日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:07:59.86
>>637
投馬国は、女王国以北だろ?
畿内に邪馬台国があるなら投馬国はもっと北にないとおかしいだろ 641日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:10:14.87
今、奥山氏を追い詰めている人物は、魏志倭人伝時代の中国の使者が、呼子に上陸したという考え方なのではないのかな。。。
642日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:12:37.74
643日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:12:47.01
邪馬台国畿内説は、魏志倭人伝時代の北極点が、朝鮮にあったという考え方なので、
朝鮮から離れれば離れるほど、南になるのだったな。。。
644日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:13:55.24
645日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:14:15.75
>>633
>富士宮市と富士吉田市の直線距離とか
>どうやって分かるの?
歩測や、富士山のようなランドマークの見える方角で、適当な地図を書いて
その上での直線距離を測るんだよ
正確さはお察しww 646日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:16:46.29
>>636
>畿内説は、肯定に与せずと云いながら、九州説の行程にはうるさいことを云うではないか。
行程はあてにならないっていうのが畿内説の基本
だから、そのあてにならないものを前提にしている九州説を合理的ではない、
整合性が取れないと批判するし、前提にしながら矛盾だらけだから、
矛盾している時点で破綻していると指摘しているんだよ 647日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:18:37.02
>>640
>畿内に邪馬台国があるなら投馬国はもっと北にないとおかしいだろ
畿内説では、帯方郡から離れる方角が南と「陳寿は認識していた」、とする
だから、投馬国は女王国より以北の国、というのは、行程上女王国に
着く前に通る国ということになる 648日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:19:13.34
行程はあてにならないっていうのが畿内説の基本なので、邪馬台国の場所は鉄の鏃の数で考えた結果、自ら破綻するしかないのだったな。。。
649日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:19:53.12
650日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:19:54.60
651日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:20:45.75
邪馬台国畿内説は、魏志倭人伝時代の北極点が、朝鮮にあったという考え方なので、
朝鮮から離れれば離れるほど、南になるのだったな。。。
647日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:18:37.02
>>640
>畿内に邪馬台国があるなら投馬国はもっと北にないとおかしいだろ
畿内説では、帯方郡から離れる方角が南と「陳寿は認識していた」、とする
だから、投馬国は女王国より以北の国、というのは、行程上女王国に
着く前に通る国ということになる 652日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:21:39.47
>>647
そうなると投馬を通過した先に邪馬台国があればいいんじゃないの?
南とか北はあまり関係ないという事でいいの?
そうなると
>>642とは矛盾するけど
畿内説はどっちがマシなレベルなの? 653日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:22:11.30
>>651
破綻した邪馬台国畿内説は、韓国人が考えたので、朝鮮半島を中心に地球が回っていることになってしまったのだったな。 654日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:22:52.81
>>646
おまいのレスは前後関係がメチャクチャではないのか。、
畿内説にとって行程があてにならないのなら、
九州説にとってもあてにならないということで何の問題もない。そしてあてにならないものなら、整合性が取れなくても当たり前。 655日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:26:05.07
これを落書きとする畿内説はご都合主義だなww
656日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:26:53.35
>>625
大陸中華のやり方って断定してるけど、何の根拠もないな
単なる妄想 657日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:26:54.12
「混一疆理歴代国都之図」
658日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:27:12.27
>>641
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会の結論では、
壱岐から海を渡っている途中に、天候が急変すれば、船乗りたちは加部島に船を着け、砂州を渡って呼子に辿り着くのだったな。。。 659日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:29:22.44
九州説は当てになるものと考えているんじゃないの?
660日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:30:28.24
661日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:30:53.86
5ちゃんねるを活発化させるために、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、頭の悪い朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されても、
頭が悪すぎるので、邪馬台国畿内説を完全に論破されたことが、わからなかったり、邪馬台国畿内説を完全に論破されたことを忘れるので、
何度でも、同じ物事で、討論を挑んでくるのだったな。。。
662日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:31:07.49
遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
663日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:32:06.98
行程はあてにならないっていうのが畿内説の基本なので、邪馬台国の場所は鉄の鏃の数で考えた結果、自ら破綻するしかないのだったな。。。
664日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:34:49.13
>>637
出雲でも吉備でもいいが
投馬国5万戸を養うだけの耕地面積があったのかね??? 665日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:36:51.29
>>641
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会の結論では、
壱岐から海を渡っている途中に、天候が急変すれば、船乗りたちは加部島に船を着け、砂州を渡って呼子に辿り着くのだったな。。。 666日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:41:55.65
>>665
壱岐から海を渡っている途中に、対馬海流に流されて、船乗りたちは福津周辺に辿り着くのだったな。。。 わははははは @阿波 667日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:42:19.86
調べてみると
ほんとーにw創価か何かなんだろうみたいな話ばかりだしなw
何なんだろう
668日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:42:33.39
陸行五百里と書かれた距離が直線距離だと思ってるバカがいる
669日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:42:58.18
>>665
壱岐から海を渡っている途中に、対馬海流に流されて、船乗りたちは福津(万津浦)周辺に辿り着くのだったな。。。 わははははは @阿波 670日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:45:45.69
家自身(自体)は創価ではないと言っているし、
「❓」このような話ばかりでしょ
671日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:47:26.45
>>665
僕達の考えではマツラ国は壱岐から南の長崎県松浦市なのだが、
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会の学者の中には、
マツラ国の港は、加部島の北の端で、本部は、加部島の田島神社の地下に埋まっているのだという意見の持ち主もいたね。。 672日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:52:43.61
>>671
僕達の考えではマツラ国は壱岐から南の長崎県松浦市長崎県松浦市で、伊都国は伊万里なのだが、
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会の学者の一人が、
マツラ国の港は、加部島の北の端なので、マツラ国と伊都国の国境である七郎権現社はそこから東南になるのだという意見を発表していたな。。。 673日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:53:38.27
会稽陶冶の東を
今の正確な地図で調べると沖縄当たりなんだろ?
昆一図だとどうなるの?
日本列島が正しい向きの方では?
674日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:56:10.70
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏の頭が悪すぎるので、僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドが、寂れてきたな。。。
675日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:56:32.02
>>650
ニュー速ではそれで通用するのか?(呆れ)
呼子上陸バカは今日もバカ全開だった
Part427のコピペで十分
http://2chb.net/r/history/1550396897/310
あと、背振山脈を越えたところに丸を付けて、ここが伊都国って書いてるのも
たぶん>299だと思うが、国と国との間には人も畑もないんだから、
ここが伊都国ですって言われても、何のこっちゃにしかならないよ
領域国家じゃないんだから、国境を接するという概念はない
国と国との間は無主の地だ
それから、呼子に上陸したあたりから伊都国のランドマーク可也山が見えてるから、
方角の誤認はない
そして、>>650旅程と、>>629の図にまったく整合性がないww
バカ初段と前に書いたけれど、昇段してバカ二段だなww 676日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:58:49.03
すぐ埋めちゃったと言うことはよほどヤバイものが出てきたんだな
壁画とか鉄拳とか
677日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:59:06.08
678日本@名無史さん2019/09/18(水) 13:59:27.82
>>652
>南とか北はあまり関係ないという事でいいの?
九州説では、呼子を末盧国にするというインチキ捏造をしてまで
方角は正しいって言うんだから、九州説を唱える限り女王国より以北は、
現実の方角で北じゃないとダメだよww
畿内説はそんなバカな想定はしないけれどね
>>>642とは矛盾するけど
こういう矛盾を平気で書くから、九州説は学説としては死んでいる 679日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:00:52.62
>>654
>九州説にとってもあてにならないということで何の問題もない。
残念ながら、九州説は行程論のインチキ読みだけが拠り所だから、
「九州説にとってもあてにならない」といった時点で、九州説には
主張すべきことが「何一つ残らない」ことになるんだよ 680日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:00:59.75
>>642
>そして、>>629の示した図だと、水行二十日で進む距離が60キロww
頭の悪い直線距離の時だろ?
日が登ってから朝食を準備して、食べ終わったら船を海に出して漕ぐ
一日中漕げるわけがないので途中で休憩
日が沈むまでに上陸して食事して寝床を確保しないといけないから
1日の行動距離はそんなもんだろうな
雨降ったら休むだろうし 681日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:01:20.26
>>665
壱岐から海を渡っている途中に、対馬海流に流されて、船乗りたちは福津(万津浦)周辺に辿り着くのだったな。。。 わははははは @阿波 682日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:03:11.03
>>675
なんだw
言い訳がニュー速のアホと同じだからアレもお前だったんだろwww
そこらへんはすべて論破済み
無意味にコピペばかりして逃げてるのがお前だよw
画像も同じだから同一人物確定だな 683日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:03:57.87
>>664
>投馬国5万戸を養うだけの耕地面積があったのかね???
投馬国と邪馬台国については戸数略載が「可」七萬餘戶という書き方になっている
一ヶ所の中心国邑だけではなく複数の平野、拠点にまたがる国を想定してよい
投馬国・出雲説を採る場合、丹波以西の四隅突出墓の文化圏全体を想定すればよい 684日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:06:00.82
>>655
>これを落書きとする畿内説はご都合主義だなww
アンカがないからどれのことだか分からないが、
のことならどう見ても落書きだろうww
落書きではないというのは、このレベル
685日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:06:46.01
>>550
>渡海距離は「測量手段がない」から、千里の馬と同じ修辞で、実際の距離とは無関係に
>渡海一回で千里という固定値になっている
>つまり、それはリファレンスとしては「まったく役に立たない値」だってこと
信念に凝り固まって逃れられない哀れなヒトがいる。 686日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:07:57.51
>>668
>陸行五百里と書かれた距離が直線距離だと思ってるバカがいる
道なりにして、お前の好きな呼子に上陸にしても、ものっそい矛盾になるぞww
短里なんてないってのが、これだけで分かるw
五百里が千里の倍以上の距離ww 687日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:09:07.81
すげぇw
自分の気に入らないレスはすべて同一人物が書き込んでると思ってるんだなwww
688日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:10:18.39
>>680
>頭の悪い直線距離の時だろ?
いいえ、Yahoo!mapで海岸沿いに測ってるよww
直線距離でも大して変わらないけどなww 689日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:11:06.63
海は一度渡れば千里
陸上は1日歩いて5里とか10里とか決めてるだけだろ
690日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:11:06.98
>>554
>九州説が、半島が倭国よりも上というイデオロギーの産物だってのは
>既にバレバレなんだよ
誰も言っていないことを難癖つけて最後はヘイトスピーチかい?
畿内説というのは下品だねえ。 691日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:11:54.15
>>680
>1日の行動距離はそんなもんだろうな
いいえ、人の歩く速さの時速5キロで、午前2時間、午後2時間で20キロ進む
一日3キロの水行ってありえないよww 692日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:11:54.29
>>688
おかしいな
グーグルマップで直線距離を測ったら68キロだったんだがw 693日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:13:02.93
>>691
時速5キロとかで歩けないよ
散歩じゃないんだぞ?
舗装路でもない
もっと落ち着いて真面目に考えてみてはどうだ? 694日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:14:04.12
>>692
>グーグルマップで直線距離を測ったら68キロだったんだがw
お前、それ、陸地まで水行してるだろww
それでも一日3,4キロの水行wwww 695日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:15:19.44
>>693
>時速5キロとかで歩けないよ
ああ、ごめん
歩く速度と書いたけれど、時速五キロってのは「公園の手漕ぎボートの速さ」だ
大体歩く速さだから目安になるだろ 696日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:16:07.52
>>693
>舗装路でもない
今問題にしているのは、水行の話だから、まるっきり見当違いのことを書いてるよなww 697日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:16:07.89
>>694
直線距離だから当たり前だろ?
それから海岸線に沿って実測するのだから68キロより長くなるのは当たり前
>それでも一日3,4キロの水行wwww
天候に左右されるので移動しない日もあるだろ
何の問題もない 698日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:18:34.75
>>695
公園で1時間だけ漕ぐのならそのくらいの速度でもいいのかもしれないが
20日漕ぐことを考えたら途中で疲れ果てないようにセーブして漕ぐわな 699日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:19:29.60
あぁそうか
天候待ちで移動しない日も含めて平均20日かかるという事かもしれんな
700日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:19:50.72
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
701日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:20:17.84
>>684
その落書き、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって描いたのだろう? なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 702日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:20:21.98
風待ちみたいなもんか
帆掛け船じゃないとは思うが
703日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:20:43.31
704日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:20:55.23
>>701
子供が自宅周辺の地図を手書きするのと同じだよ 705日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:21:46.48
>>675
>画像も同じだから同一人物確定だな
で、その図で示された
「伊都国のランドマークが見えているから方角が東南になることはない」
に対しては、反論がまったくできないと
バカ三段に昇段してやろうか?ww
まあ、そんなにこまめに昇段してたらすぐに「バカ百段」とかまで
行きそうだけれどw 706日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:22:23.90
謎のチェーンソーのゲームがあるでしょ、
主人公は渡来人みたいだしな
707日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:22:49.16
魏志倭人伝時代のマッチョな船乗りたちは、1日で100km漕ぐことができたのだったな。。。
698日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:18:34.75
>>695
公園で1時間だけ漕ぐのならそのくらいの速度でもいいのかもしれないが
20日漕ぐことを考えたら途中で疲れ果てないようにセーブして漕ぐわな 708日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:23:02.65
>>690
>ヘイトスピーチ
この言葉を使う人は、みんな半島シンパのパヨクだけww
こうやって正体がばれていく 709日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:24:08.27
>>707
魏志倭人伝時代のマッチョな船乗りたちは、船を漕ぐことは専門外の久松の者達よりも、体力があったのではないのかな。。。
710日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:24:37.84
>>698
>公園で1時間だけ漕ぐのならそのくらいの速度でもいいのかもしれないが
>>691は読んだか?
いいえ、人の歩く速さの時速5キロで、午前2時間、午後2時間で20キロ進む
一日3キロの水行ってありえないよww
午前2時間、午後2時間漕ぐ分には問題ないだろ?w 711日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:25:17.84
>>705
呼子からまず唐津へ向かう道は南東へ伸びている
そしてその延長線上にナントカ山があるんだよ
そして呼子から唐津へ向かう道筋の情景が魏志倭人伝の記述と合致している事が決定打だな 712日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:25:20.78
>>704
子供がどうやって見えもしない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島を描いたのだろう? なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 713日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:25:55.94
>>710
それを20日続けるならもっとペースを落とすよ 714日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:26:20.77
715日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:27:33.87
>>707
畿内説によると、伊勢から伊豆まで船で1日だそうだ。
畿内説によると、博多湾から出雲まで船で20日かかるそうだ。 716日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:28:27.34
>>714
はるかかなたの島に住んでる子供がどうやって見えもしない、遥か彼方のこちらを描いたのだろう? なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 717日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:29:22.09
>>709
曲を聴いたので、バームクーヘンを食べたくなってきたな。。。 718日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:29:39.43
>>716
アホか?
地図を描くのは一人ではない
その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
そっか、阿波は馬鹿だという事を忘れてたよw 719日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:31:26.52
>>718
>地図を描くのは一人ではない
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
地図を子供のような落書きの寄せ集め、ってアホじゃねーのか
そんな適当なことででかい地図書けるわけがない 720日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:32:13.33
魏志倭人伝時代のマッチョな船乗りたちは、船を漕ぐことは専門外の久松の者達よりも、体力があったので、
帯方郡から、十日で長崎県松浦市まで、帯方郡から、二十日で大分市まで、船を漕げたのだったね。。。
721日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:32:40.71
これも以前から書いている事なんだけど、
成り済まし、騙り〜不明、
何なのか知らないけど、何がしたいんだ?
刑務所に行け(自首)と言っているのに、
行かないし
722日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:33:01.31
>>719
書けるよ
徳島あたりはアホの阿波に書かせて
奈良あたりは畿内説のカスに書かせて
日本海ルートのクズに出雲の地図を書かせて
俺は九州の地図を描き
それらを組み合わせれば大きな地図ができる 723日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:33:29.18
久松のバームクーヘンを食べたくなってきたな。。。
724日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:34:48.69
畿内説の人は邪馬台国より先に社会勉強したほうがいい
複数の人が集めた縮尺も方位も違う地図を複数張り合わせて地図にできるかどうかもわからないのでは小学校からやり直しなさい
725日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:35:01.41
奧山氏は、バカ名人位を獲得した可能性が高いな。。。
726日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:35:09.01
>>584
>北部九州説以外の九州説は、九州説だという人の中でもほぼ支持する人のいない泡沫説だから
>放置でいいんだよ
なんだかこいつデタラメになってきたな。
もはや畿内説は論理的に議論する能力がなくなったかな? 727日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:35:11.40
>>718
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
行ったことも見たこともない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって想像して描けたのだろう? グーグルマップがあったのだろうか? わははははは なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 728日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:35:53.91
その後、報道されるはずなんだけど、
騙り、何やら〜不明〜その他〜罪で逮捕されましたとか
729日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:36:33.93
>>718
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
行ったことも見たこともない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって想像して描けたのだろう? グーグルマップがあったのだろうか? わははははは
なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 730日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:36:45.63
畿内説は論理的に議論する能力は、最初からないので、このスレッドでは、奥山氏の頭の悪さを楽しめば良いのだったな。。。
731日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:37:24.68
732日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:39:05.98
>>731
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
行ったことも見たこともない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって想像して描けたのだろう? グーグルマップがあったのだろうか? わははははは
なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 733日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:39:49.06
コピペしかできないのは反論できないって事だろうなw
さすが阿波はアホだなぁw
734日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:39:54.89
>>589
>日々言うことが異なる
キナイコシは袋叩きにあっている自覚がないらしい。 735日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:40:39.65
>>733
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
行ったことも見たこともない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって想像して描けたのだろう? グーグルマップがあったのだろうか? わははははは
なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 736日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:40:46.39
>>711
>呼子からまず唐津へ向かう道は南東へ伸びている
呼子に上陸する前の海の上から、可也山は見えている
どうやっても「呼子上陸だから伊都国は東南」は通らない
地理院地図で3D地図を作成 737日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:40:46.89
>>594
>・短里はない
そう信じたいだけだろ。
魏志倭人伝をちゃんと読めよ。 738日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:40:48.71
太陽と月が重なった時の角度を、計測すれば、遠くの直線距離を測れるのだったな。。。
739日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:41:08.68
どうせ(騙り〜、その他)
国民などから金品を巻き上げて、
その、お金で生活をしているとか、なんだろうけど
740日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:41:50.95
>>713
>それを20日続けるならもっとペースを落とすよ
落とす必要ないだろ?
公園のボートだって、本気で漕がずに時速5キロ出るんだぞww 741日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:42:37.62
>>738
角度の話は、奥山氏が理解できない分野なのではないのかな。。。 742日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:43:17.39
>>736
見えてても意味がない
あの方向に山があるというだけだ
海上からなら、なおさら南東方向に山が見えることになる 743日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:43:32.47
>>715
>畿内説によると、伊勢から伊豆まで船で1日だそうだ。
違うよ
伊勢湾を渡るのが渡海一回で千里
伊豆から伊豆諸島に渡るのも渡海一回で千里
>畿内説によると、博多湾から出雲まで船で20日かかるそうだ。
これが、一日20キロペースできちんと着く
まったく問題ないぞww 744日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:44:49.17
>>740
それは公園のボートだからだろ?
FRPの軽いボート
潮の流れもない池で時速5キロ出せても、海で時速5キロ出せるとは限らない
そもそも船も違うのだから 745日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:45:18.44
>>719
>地図を子供のような落書きの寄せ集め、ってアホじゃねーのか
>そんな適当なことででかい地図書けるわけがない
行基図って見たことあるか?
国はただ丸(楕円)で書いてあるだけで、それの大体の相互関係が書いてあるだけ
その程度のある意味落書きのような地図が古代では普通 746日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:45:49.69
747日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:47:29.19
>>726
>なんだかこいつデタラメになってきたな。
九州説全体にいえるんだけど、「具体的に根拠を示して」論証するってことができないんだよなww
たまに根拠を出してくるかと思えば、こんなでたらめだしww
そんなところに伊都国も末盧国もない
ご都合主義の適当主義ででっち上げるだけなのが九州説 748日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:49:37.12
749日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:49:40.78
>>737
>魏志倭人伝をちゃんと読めよ。
魏志倭人伝の里程は短里
↓ ↑
短里のある根拠は魏志倭人伝を読め
このバカみたいな循環論法しかないのが九州説の短里ww
「短里を使う人がいない」に対して、具体的に反論してごらんw 750日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:50:18.73
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
751日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:50:55.69
>>742
>あの方向に山があるというだけだ
その山のふもとまで行くんだから、どの山が見えているかは分かるんだぞ
その前に土地の人に聞けば、伊都国はあの山の方角だと教えてもらえるww 752日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:51:42.24
ちゃんと家に挨拶に来るとか、
そういう作品などからの収入があるのなら、
何も言わないの
753日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:53:51.62
>>744
>それは公園のボートだからだろ?
>FRPの軽いボート
>潮の流れもない池で時速5キロ出せても、海で時速5キロ出せるとは限らない
>そもそも船も違うのだから
どんどん墓穴を掘るなww
縄文、弥生の丸木舟は現物が出土しているけれど、
漕ぎ手の多い弥生時代の丸木舟の方が公園の手漕ぎボートより
簡単に速度が出せるんだぞww
船が違うからもっと速いんだよ
時速5キロというのは、ものすごく控えめな見積もりだ 754日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:58:41.02
魏志倭人伝時代の倭人の太い骨も発見されているのだったな。。。
753日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:53:51.62
>>744
>それは公園のボートだからだろ?
>FRPの軽いボート
>潮の流れもない池で時速5キロ出せても、海で時速5キロ出せるとは限らない
>そもそも船も違うのだから
どんどん墓穴を掘るなww
縄文、弥生の丸木舟は現物が出土しているけれど、
漕ぎ手の多い弥生時代の丸木舟の方が公園の手漕ぎボートより
簡単に速度が出せるんだぞww
船が違うからもっと速いんだよ
時速5キロというのは、ものすごく控えめな見積もりだ 755日本@名無史さん2019/09/18(水) 14:59:31.47
>>751
そして海の上から見ればなおさら南東方向になる 756日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:00:05.46
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏の頭が悪すぎるので、僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドが、寂れてきたな。。。
757日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:03:56.78
>>753
>漕ぎ手の多い弥生時代の丸木舟の方が公園の手漕ぎボートより
>簡単に速度が出せるんだぞww
それ、乗ってる人全員が漕ぎ手の場合だろ
銅鏡を100枚とか持っていくときもそうなるとでも思ってるの?
で、20日漕ぐのだから20日分の食料を人数分だ、
さらに10日漕いで1月歩くならその分もだな
もうちょっと真面目に考えろよ畿内説www 758日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:04:30.18
>>671
つい一昔前も、呼子と加部は砂州で繋がっていたのだったな。 759日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:11:59.87
何度、言えばわかるんだ、わかるんだ?
760日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:16:19.35
760
761日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:19:16.61
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったな。。。
762日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:19:43.41
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏の頭が悪すぎるので、僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドが、寂れてきたな。。。
763日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:20:52.44
『どくたー・げろ』の話ではないんだけどw
>間違いなく本物(写真)
と言っているでしょ
764日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:21:16.71
魏志倭人伝時代のマッチョな船乗りたちは、船を漕ぐことは専門外の久松の者達よりも、体力があったので、
帯方郡から、十日で長崎県松浦市まで、帯方郡から、二十日で大分市まで、船を漕げたのだったね。。。
765日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:21:45.83
『うらしまマリン』?
766日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:21:58.39
>>749
>「短里を使う人がいない」に対して、具体的に反論してごらんw
それは君の思い込み。
そして魏志倭人伝の記事に反している。
勝手に言い張るだけならなんでも言える。 767日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:23:41.12
頭の悪い奧山氏は、自作自演をするのだったな。。。
768日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:29:48.17
>未来から来たトランクスに救出されたブルマは
>科学者の本で写真を見た記憶から
>「あれはドクター・ゲロ本人」と話す。
769日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:30:44.60
>>516
それ、大和説者の問題
「長里を使う人がいない」
「長里を知っている人がいない」
「長里を示す物証がない」
これに全く反論できてない
長里があること
長里で測量したこと
長里を使う理由
これが論証できない限り、長里は大和説の捏造 770日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:30:46.59
『うらしまん』?
771日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:35:54.72
>>520
大和説=「南→東」などの嘘つき騙しの捏造だっけ 772日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:37:56.50
>>523
大和説=「南→東」などの嘘付き騙しの分裂幻覚の妄想 773日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:38:31.13
この地図で会稽陶冶の東とはどこになるでしょう? 774日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:42:44.17
>>755
>そして海の上から見ればなおさら南東方向になる
ならないよww
これも呼子上陸バカに則して末盧国が呼子・名護屋浦になってるけど
どうやっても東ww 775日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:45:10.97
>>757
>それ、乗ってる人全員が漕ぎ手の場合だろ
>銅鏡を100枚とか持っていくときもそうなるとでも思ってるの?
やっぱりバカだな
バカ二段ww
普段から交易品を丸木舟で運んでるんだよw
そして、現代でも大量輸送が船便なのは、浮いているものを動かすのは
小さなエネルギーで済むから
公園のボートと違ってスリムな弥生時代の丸木舟は前後で二人漕げば
十分公園のボートより速く進むぞww 776日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:45:26.42
777日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:45:49.44
778日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:46:53.69
>>535
短里と萬二千里、以外にも、
魏志倭人伝の地誌・旅程記事で、大和に有利な点なんて
一つもないんだよ
まあ、里程とか抜きにしても、
「投馬国は女王之所都より以南の国」という 事が地誌記事から分かること一つで、
大和説は壊滅するんだけどね
「大和説学者らに事実を突き付けても論点をはぐらかすので、
あまり意味がないのではという意見もありました」 779日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:47:46.05
780日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:49:05.62
>>757
>で、20日漕ぐのだから20日分の食料を人数分だ、
>さらに10日漕いで1月歩くならその分もだな
人跡未踏の地を行くんじゃなくて、北部九州と出雲の間の海路は
大国主が妻問に通えるほどの交易路
先に出雲は四隅突出墓文化圏と書いたが、小さな平野ごとに集落があるから
食料もその隣までの分でいい
水行20日は、20回立ち寄る集落があったくらいでよいくらい
陸行分は、出雲と大和の交易路だからそれこそヤマト国の威光で魏使さま一行は
歓待まみれで移動してるだろ
一日平均6キロしか進まないくらいに 781日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:50:44.70
>>766
>そして魏志倭人伝の記事に反している。
だから、それは循環論法で何の根拠にもならないと何度教えればww
具体的に「短里を使っていたのはこういう属性の人」というのを
根拠つきで論証しなさい
使う人のいない単位が使われるというのはありえない 782日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:51:56.89
「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは日本神話に詳しい人はご存知でしょう。
徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされています。
その大麻比古神社背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。
実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」があります。
そして、この天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座しています。
「猿田彦大神」と「天鈿女命」両神は仲良く阿波国鳴門の「大麻比古神社」裏手の「大麻山」・「天円山」に祀られています。
阿波って面白いところだと思いませんか?
783日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:52:46.02
784日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:53:43.11
>>780
自分で答え言ってるじゃん
次の集落にたどり着けばその日の移動は完了なんだろう 785日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:56:19.50
>>777
>沖に行くほど南東になる
これは、バカ三段に昇段させないとダメかな?
末盧国が唐津平野というのは、残存地名(松浦川)
王墓級遺跡(宇木汲田遺跡、桜馬場遺跡)集落遺跡(千々賀遺跡など)で明らか
それを呼子にする時点でも、東南にするためだけのご都合主義なのに、
さらに「国ではない海上」から見たら東南とか言い出してるww
そして岸に着くまで見えているし、岸に着く頃には真東だww
「沖に行くほど南東」wwwwwwwwwwwwwwwww
もうね、バカも休み休み言えを超える表現って、何かないかな?w 786日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:57:11.67
「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、「手力男神」が祀られている。
この神(「手力男神」)は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。
佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。
その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することは、
天孫降臨の地が、阿波であると言わざるを得ない。 @阿波
787日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:57:46.85
徳島県の北部は「粟国」で、南部は「長国」となります♪
祭神の「大己貴命」は「長国」の祖神です!!
「大国主命」には多くの別名があって、「大己貴命」も「八桙神」その別名なんです(^^~
この「八桙神」の名が付いた「八桙神社」は、全国の式内社神名帳のなかで、ここ阿南市長生町の一社のみしかありません\( ^ o ^ )/
「大国主命」は、実は「阿波国」が出身地だったのです!!
「古事記」は「阿波国」を舞台にして書かれています♪
788日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:57:55.18
>>779
>大量輸送なら船足は遅くなる
それはタンカーとかで、船の積載量を増やすときの話
つまりでかい船は遅いってこと
丸木舟は大きくできないんだから、量が多ければ船の数を増やす方向になるし、
船足は変わらない 789日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:58:41.88
>>784
>次の集落にたどり着けばその日の移動は完了なんだろう
有明海は3キロごとに集落があると?wwwwwww 790日本@名無史さん2019/09/18(水) 15:59:52.46
>>788
漕ぎ手が減るだろ
7人乗りに7人乗ったら荷物のらないぞ
もうちょっと真面目に考えろよ畿内説www 791日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:00:48.45
>>789
あるんじゃないか?www
天候が悪くて休む日も含めての20日だろうからなぁ
3キロである必要はないぞ 792日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:01:28.96
>>785
お前が海からでも見えると言ってたからだろうにw
自分が言ったことをもう忘れるのかw
だから畿内説は馬鹿にされるwww 793日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:03:02.45
「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは日本神話に詳しい人はご存知でしょう。
徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされています。
その大麻比古神社背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。
実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」があります。
そして、この天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座しています。
「猿田彦大神」と「天鈿女命」両神は仲良く阿波国鳴門の「大麻比古神社」裏手の「大麻山」・「天円山」に祀られています。
阿波って面白いところだと思いませんか?
794日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:03:18.14
「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、「手力男神」が祀られている。
この神(「手力男神」)は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。
佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。
その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することは、
天孫降臨の地が、阿波であると言わざるを得ない。 @阿波
795日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:03:32.75
徳島県の北部は「粟国」で、南部は「長国」となります♪
祭神の「大己貴命」は「長国」の祖神です!!
「大国主命」には多くの別名があって、「大己貴命」も「八桙神」その別名なんです(^^~
この「八桙神」の名が付いた「八桙神社」は、全国の式内社神名帳のなかで、ここ阿南市長生町の一社のみしかありません\( ^ o ^ )/
「大国主命」は、実は「阿波国」が出身地だったのです!!
「古事記」は「阿波国」を舞台にして書かれています♪
796日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:05:30.93
それにしても、このスレッドはレベルが低いな。。。
797日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:06:26.65
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏の頭が悪すぎるので、僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドが、寂れてきたな。。。
798日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:07:07.85
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【T伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成まで】
「意富門麻比売神社」 祭神 「神世五世・大戸麻姫命」 比定 宅宮神社
「天椅立神社」 祭神 「造化神か伊邪那岐命か」 比定 天椅立神社
「伊邪那美神社」 祭神 「伊邪那美命」 比定 高越神社(神陵:高越山山頂)
「麻能等比古神社」 祭神 「水門の神か」 比定 天神社
「鹿江比売神社」 祭神 「野の神・鹿屋野比売命」 比定 殿宮神社に合祀
「波尓移麻比弥神社」 祭神 「埴土の神・波爾夜須比売命」 比定 波尓移麻比弥神社
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社
799日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:07:11.76
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったな。。。
800日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:07:32.32
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
801日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:07:42.39
800
802日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:07:48.84
>>783
>5人乗りの丸木舟に5人が乗って5人で漕いで時速4キロ
それ、リンク先を見てきたけれど、
「この本番の実験航海は、強大な黒潮を越え、遠く水平線の下に隠れる島へ向けて、
2〜3日間に及ぶタフな航海になるでしょう。」
「不慣れな古代舟を長時間漕ぎ続けるトレーニングに加え」
こういう条件だよ
丸2,3日、漕ぎ続ける条件での速度
>>698で
「20日漕ぐことを考えたら途中で疲れ果てないようにセーブして漕ぐわな」
の速度だな
それで、時速4キロなら一日に5時間漕げばいいだけ
丸木舟での水行一日の移動距離として、3キロと20キロのどちらが妥当かは
バカ二段でなければすぐに分かるぞww 803日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:08:32.71
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【T伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成まで】
「意富門麻比売神社」 祭神 「神世五世・大戸麻姫命」 比定 宅宮神社
「天椅立神社」 祭神 「造化神か伊邪那岐命か」 比定 天椅立神社
「伊邪那美神社」 祭神 「伊邪那美命」 比定 高越神社(神陵:高越山山頂)
「麻能等比古神社」 祭神 「水門の神か」 比定 天神社
「鹿江比売神社」 祭神 「野の神・鹿屋野比売命」 比定 殿宮神社に合祀
「波尓移麻比弥神社」 祭神 「埴土の神・波爾夜須比売命」 比定 波尓移麻比弥神社
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社
804日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:08:57.92
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【U天照大神・須佐之男命の世代】
「天石門別矢倉比売神社【大社】」 祭神 「天照大神」 比定 天石門別矢倉比売神社(神陵)
「和名佐意富曾神社」 祭神 「須佐之男命か」 比定 和名佐意富曾神社
「忌部神社【大社】」 祭神 「天日鷲命」 比定 忌部神社
「大麻比古神社【大社】」 祭神 「猿田彦命か」 比定 大麻比古神社
「秘羽目神足濱目門比売神社二座」 祭神 「日鷲神と妻神か」 比定 論社あり
「天村雲神伊自波夜比売神社二座」 祭神 「天村雲神と妻神」 比定 論社あり
805日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:09:03.86
>>790
>7人乗りに7人乗ったら荷物のらないぞ
は?
船を増やすっていってるだろ?
バカは日本語も通じないのかな? 806日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:09:20.32
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【V国譲りに遣わされた神達と葦原中つ国の神々の時代】
「御縣神社」 祭神 「国譲り交渉第一の使者:天菩日命」 比定 豊国神社境内社(神陵跡)
「山方比古神社」 祭神 「第二の使者:天若日子」 比定 経塚大権現(神陵)
「建布都神社」 祭神 「第三の使者:建御雷男命」 比定 建布都神社
「矢桙神社」 祭神 「大国主命」 比定 矢桙神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝浦郡生夷神社
「勝占神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝占神社(神陵跡)
「多祁御奈刀祢神社」 祭神 「建御名方神」 比定 多祁御奈刀祢神社
「天水沼間比古神社・天水塞比売神社」 祭神 「沼江姫の父母神か」 比定 杉尾神社か
「鴨神社」 祭神 「阿遅?高日子根命」 比定 鴨神社(丹田古墳が神陵)
807日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:09:40.66
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【W神武天皇の出生と東征の時代】
「和多都美豊玉比売神社」 祭神 「海神の娘・豊玉比売命」 比定 西宮神社(和多都美宮跡)
「天石門別豊玉比売神社」 祭神 「天孫三代の后:豊玉比売」 比定 城山東麓(神陵跡)
「宇志比古神社」 祭神 「神武の参謀:速吸の宇豆比古」 比定 宇志比古神社(神陵遥拝地:西山谷二号墳)
「伊比良姫神社」 祭神 「神武天皇の妃 阿比良比当ス」 比定 伊比良姫神社 藍住町徳命が神陵跡
「阿佐多知比古神社」 祭神 「神武天皇か」 比定 阿佐多知比古神社 元の鎮座地は渋野か
808日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:10:07.89
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【X第十代崇神天皇の時代まで】
「御間都比古神社」 祭神 「第五代御間都比古天皇」 比定 御間都比古神社
「大御和神社」 祭神 「御和の神:大国主命」 比定 大御和神社
「伊加加志神社」 祭神 「第十代崇神帝の母:伊迦賀色許売命」 比定 伊加加志神社
「倭大國玉神大國敷神社二座」 祭神 「倭の国を証明する国魂・国敷の神」 比定 倭大國玉神大國敷神社
「天都賀佐比古神社」 祭神 「笠縫邑の大人:笠彦」 比定 天都賀佐比古神社(神陵跡)
「建嶋女祖命神社」 祭神 「孝元帝の妃:埴安比売命」 比定 建嶋女祖命神社
「和耶神社」 祭神 「埴安比売の御子:建埴安王」 比定 羽浦神社に合祀 元鎮座地は能路山(古墳跡)
809日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:10:27.28
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。 @阿波
【Y景行天皇から皇極天皇の時代まで】
「白鳥神社」 祭神 「日本武尊」 比定 白鳥神社(神陵跡)
「建比売神社」 祭神 「日本武尊の妃:建比売か」 比定 建比売神社
「賀志波比売神社」 祭神 「景行帝の妃:美波迦斯姫か」 比定 津峰神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波市事代主神社
「岡上神社」 祭神 「推古天皇」 比定 岡上神社(神陵跡)
「速雨神社」 祭神 「皇極天皇」 比定 速雨神社(雨乞神事)
810日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:14:44.08
トンデモ説は、くちアングリ。 @阿波
811日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:16:25.03
>>792
>お前が海からでも見えると言ってたからだろうにw
>自分が言ったことをもう忘れるのかw
海の上から見えていて、上陸するときまで見えている
上陸するときには東に見えているし、土地の倭人に聞いても東
この状況で、『沖から見たら東南だから』「末盧国から伊都国を
東南と書いた」って、それは魏使さまを「>>792並のバカだ」って
言ってることになるぞw
魏使さまたちをバカにしすぎww 812日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:16:34.84
>>550
それが、大和説者の(東大理系博士を称する)類スレ主のインチキの始まり
>渡海距離は「測量手段がない」から、・・・<
見えれば、簡易三角測量があり、
見えなければ、一寸千里や、「一寸千里と三角測量の応用」がある。 813日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:16:44.21
数年前の奥山の寝言と、最近の奥山の寝言を比べてみ?
別人かよwww
814日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:22:26.83
>>552
「系」や「有効数字1桁」の近似値化があり、略載とも書かれているから、
実際に「計測」があった。
それを、口先誹謗して、都合の悪い記載を否定抹殺してしまおう、
とするのが、東大理系博士を自称する大和説者の類スレ主。 815日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:26:17.49
>>553
>「投馬国は女王国より以北の国」というのが魏志倭人伝の記述から
正しく読み取れることだというのは認めるんだなww<
「投馬国は女王国より南の国」というのが、
魏志倭人伝の記述から正しく読み取れるから、
東大理系博士を自称する類スレ主のウソ付き騙しは、認めないよ。 816日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:27:37.27
>>811
壱岐を発って呼子へ向かう時、
その山は左前方にある
呼子へ到着し伊都国へ進む道は、まず南東に向いている
壱岐を背にしたら左前方だ
南東だろw 817日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:31:38.05
どくたー・げろ、軍(軍隊)が何やら〜と書いてあるけど
『ガンダム サングラス』同じ人物?
818日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:35:12.00
普通に考えて壱岐から伊都国へ向かう船から見ての話だろ。
819日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:35:19.34
>>574
>そうだろ?
漢土の外のことなんて、大陸中華の人にとってはどうでもいいからいい加減なんだよ
つまり、「短里という縮尺」とか<
魏の役人たちは、「いい加減」な報告を書いた事が皇帝らにバレれば、
うっかりしたら首が飛ぶから、そんなアホな事はしない。
きちんと計測して記録しておくもの。 820日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:39:23.58
>>581
>こちらには魏志倭人伝に「会稽東冶之東」と書かれているという文献上の根拠があり<
ウソを書くな、東大理系博士を称する類スレ主。
魏志倭人伝に「会稽東冶之東」とは書かれていない。
書かれているのは、「会稽東治之東」だ。 821日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:43:43.86
>>584
>こちらも常に「投馬国が女王国より以北の国」で北部九州説は壊滅って言ってるよ?w<
「投馬国は女王国より以は南の国」であり、
東大理系博士を称する類スレ主らの大和説は、壊滅だ。 822日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:48:04.64
>>585
>関知しないじゃなくて縮尺が不正確なことがバレるから嫌なんだろ?
何らかの測量法とは具体的には? お前は測量をしたことがあるか?
本気で測量するのならその地域全体をくまなく歩きまわって測りまくらないといけないんだよ
そういうのができると思ってる? <
何だ?、東大理系博士を称する類スレ主は、
九章算術の「三角測量」記載を読んでいなかったのか?。 823日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:53:56.00
824日本@名無史さん2019/09/18(水) 16:59:50.03
電子は太陽の周りをぐるぐると周る水星のようなものだと、言ってたのも
東大理系博士を称する類スレ主だっけ?w
825日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:10:00.43
>>816
>呼子へ到着し伊都国へ進む道は、まず南東に向いている
君はバカ三段を超えて「ザラゴキ級」にclassifyされました
国と国との位置関係を記すのが目的の地誌記事において、
出発方向が記されていると「主張」するのが
どれだけ馬鹿げたことが理解できないのですね?
しかも、終着点方向のランドマークが見えているのに?
ニュー速ってすごいねww
こんなレベルでイキれるんだ? 826日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:11:59.79
>>823
>三角測量をやってるのか?
三角測量には、長さ既知の基線が必要
遠くに島が見えるからといって、三角測量ができるわけではない
海峡の渡海距離は近代になるまで測定不能
江戸時代でも正確な値ではない 827日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:12:06.98
>>824
小椋佳の曲?
虹が架かる〜、ドラゴンボールにも同じような曲があったり、
悪く言うと小椋佳のパクリでしょ 828日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:13:19.46
>>824
>電子は太陽の周りをぐるぐると周る水星のようなものだと、言ってたのも
それは私ではないけれど、比喩の方向としては問題ない
水星が消えても太陽には何の影響もないのと同様、
電子が引き離されてなくなっても原子核には何の影響もない 829日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:14:24.30
>>825
なんか色々喚いてるけど
呼子じゃなくて唐津だったとしても南東にはならないんだよ
唐津より呼子の方が位置関係は妥当だし
方向も近いので
唐津よりマシな比定地という事なんだよ
東を南と読み違えないと成立しない畿内説は論外だけどな 830日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:15:29.32
『ドラゴンボール 虹が架かる』あるでしょ?
831日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:16:41.62
>>594
理論的に大和説は、全否定してあるよ?
・南≠東
・不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている
・長里はない
・邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言
・大和は九州倭国の別種の旧小国
・大和は九州倭国の地方の市を監督する大倭職の附庸國
・投馬国は女王国より以南の国で、出雲や吉備ではない 832日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:19:29.69
『氷の世界』?
同じような曲(コンセプト)もあったり
833日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:28:07.40
王母 龍宮 鳳凰 寒いな〜・・・の家の話でしょ、
歌舞伎、芝居なども話もしていたし
834日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:29:31.84
>>825
>君はバカ三段を超えて「ザラゴキ級」にclassifyされました
呼子上陸バカ君は、「ザラゴキ級」というのを誇らしいと考えるんだろうか?
このスレで最も活動的な九州説の一人なんだが?ww 835日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:46:37.66
>>829
>呼子じゃなくて唐津だったとしても南東にはならないんだよ
本当に理解していないんだな
魏志倭人伝の方位方角が、現実の地理に合わないという証明なんだが?
呼子でも、唐津でも
唐津で南東にならないと言われて、九州説の一部が言い出したのが
末盧国が呼子、名護屋浦湾なら北東ではない、八方位を極限まで拡大解釈すれば南東でいい
という、呼子上陸バカの今の立場だ
もともと魏志倭人伝記載の地理は、その程度にいい加減
魏志倭人伝の記載通りの邪馬台国を探そうというのが、土台無理な話ってこと 836日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:50:02.25
>>829
>唐津より呼子の方が位置関係は妥当だし
全然妥当じゃないww
九州説の頼りの短里を放棄する羽目になるくらいにデタラメ
まあ、短里もデタラメだがww
>方向も近いので
>唐津よりマシな比定地という事なんだよ
唐津には松浦川が流れているが、呼子周辺には末盧に関連した地名もないし
弥生時代後期以降のめぼしい遺跡も呼子周辺にはなく、末盧国の存在を想定できない
方角がマシなどというのは、何の理由にもならないし、それでも魏志倭人伝の方角が
正しくないということにしかならない
呼子上陸バカは、正しくバカだったと自爆し続けるだけだったなw 837日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:52:21.32
>>835
>もともと魏志倭人伝記載の地理は、その程度にいい加減
いい加減なのは、トンデモだからだよ。 わははははは @阿波 838日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:01:59.70
>>616
>魏志倭人伝の記述から
「投馬国が女王国より以北の国」なのは当然に読み取れるのだけれど、<
「 投馬國は女王之所都より位南の国」と読み取れるから、×。
>九章算術均輸の例示により、里数が書いてないから道里略載ではないと
いう言いがかりが完全に否定される<
陳寿は、「道里」は「道の里」とし、「日数」記載を含めない正確な記載をしているが、
九章算術は、「道里」として、「道の里」と「所要日数」を含める嘘つき騙し記載をしているから、
九章算術はアホ算術書。 839日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:04:18.58
ハハーンなんで畿内説なんてデッチ上げたかと思えば
稲荷山鉄剣の記述にビビって事実を慌てて隠蔽したのか
840日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:30:34.80
伊都国の位置から逆算したらいいのではないかな。
伊都国は三雲から動かしようがない。
841日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:39:57.10
>>835
>もともと魏志倭人伝記載の地理は、その程度にいい加減
いい加減なのは、トンデモだからだよ。 わははははは
いい加減でないのは、倭国(阿波)だけ。 わははははは @阿波 842日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:43:33.19
>>537
>グーグルマップの3D表示
一見盛り上がっているように見えるけれど、盛り上がっているのは森の木で
地面、道は「下っていっている」のが分かるww
塚なんてないんだよ <
よほど高天原が気になってるようだなw
でもその画像こそ森しか映ってない。
俺の提示した画像は国土地理院の森を除いた図形。
あと中平銘鉄刀の和邇氏系譜から卑弥呼を提示してるわけだが、それについて反論はないようだな。
まぁ箸バカ古墳支持者のお前に反論は無理だw 843日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:47:49.95
>>618
>対馬海峡三千里、そこから先が二千里で周旋五千里という計算
萬二千里から韓地循海岸水行七千里を引いただけの数字<
「參問倭地」の「倭地」の「地」とは、当然「倭の陸地部分」を示す文言であるから。
「參問倭地」とは、「魏の役人たちが倭地の陸上での参問した地」を 意味し、
だから、「周旋可五千餘里」は、海上距離記載は含まず、
魏の役人たちは、(足摺付近の)侏儒國付近まで参問しているから、
その陸上移動記載の書かれている里数を合計すると、(余を省いて)
400×2+300×2+500+100+(4000−1000)=5000
((4000−1000は東渡海以後の渡海千里を引いたもの)
になり、五千餘里にぴったりになる。
>ついでに言うと参問は、訪問する実際に訪れるという意味じゃないぞww<
陳寿は、参問を魏の役人らの「実際に参問移動した」場合の意味に使っている。 844日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:51:46.15
>>539
>左側スロープ君のこのインチキ理論は、その「塚ww」よりも
それを祀る高天彦神社の方がより高い位置にあり、
高天彦神社がその「塚ww」など見向きもせずに
背後の金剛山を拝むように建てられていることで否定される <
高天彦を祀ってるので問題ない。
おそらく高皇産霊尊であろうが。
ヒメ后といえども鴨族の一女性。
むしろシタテルヒメの方が重要視されてるくらい。
魏志倭人伝の有名な卑弥呼だから一番高い位置にあると思うお前はバカ。
>左側スロープ君のいう「塚ww」は高天彦神社に参るときに
踏みつけにされる参道が通っているただの尾根
参道の横に高い塚がある。
見えないのはお前がバカだから。 845日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:54:27.28
>>840
>伊都国の位置から逆算したらいいのではないかな。
>伊都国は三雲から動かしようがない。
これ、どうやっても三雲から北西陸行五百里は無理で、
海の上に行くしかないんだけど?
結局、
魏志倭人伝の地誌記事は正確ではない
魏志倭人伝に書かれた倭国の地理はいい加減
という、畿内説の主張通りの結果にしかならないんだよ
まあ、だからこそ、畿内説はそこを最初に確認している訳だが 846日本@名無史さん2019/09/18(水) 18:58:29.59
>>845
>もともと魏志倭人伝記載の地理は、その程度にいい加減
いい加減なのは、トンデモだからだよ。 わははははは
いい加減でないのは、倭国(阿波)だけ。 わははははは @阿波 847日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:00:46.38
>>620
>対馬海峡の距離は参考にならないよ 測量手段もないんだしw<
大体同じ位の距離の三海峡に対して、
魏の役人らは、、きちんとほぼ同じ位の「千余里」を計測しており、
だから、一寸千里や簡易三角測量を使って計測していた、という事になる。 848日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:01:24.02
>>842
>俺の提示した画像は国土地理院の森を除いた図形。
国土地理院の当該箇所の地形図と断面図
「塚」なんてありません
あるのは斜面(尾根)だけ
> < を使うとか、左側スロープ君のザラゴキ化が止まらないww
左側スロープ君は自分の巣↓でがんばりなさいww
「高天原にある卑弥呼の墓 ◆4」 849日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:02:59.59
老婆の言う、
凄い土地を持っていたというのは、
各地に祀られたりしているという意味なのかな
土地などを盗まれたというのも、近代の話だろうし、
あと他の家などは自称(各地に祀られている家の〜)とか、
おそらくそうだろう
850日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:05:42.30
邪馬台国がヤマトなら
おれなら九州を無視し、倭国の入り口を出雲にするな
倭人伝は九州の地を重要視してるし、飛んで飛んで畿内は無いと思う
851日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:07:40.06
>>625
>正確さは無視して、適当な地図を想定して、その上での方向・距離を記述するんだよ
それが大陸中華のやり方 <
いや、魏の役人たちは、実地に方向・距離を計測していた。
>だから、会稽東冶之東という想定がある以上、そういう地図上での
方角として南と書かれる<
陳寿は「会稽東治之東」と、女王國の位置推定をしたのであり、
それを「会稽東冶之東という想定」を言い放った類スレ主は、
東大理系博士を称する・・・・アホ詐欺師。 852日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:08:12.85
853日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:21:31.70
>>848
>「塚」なんてありません
あるのは斜面(尾根)だけ
その図でも盛り上がってるのがわかるね。
棺を容るにたるだからその高さで充分。
墳の箸バカwなんて塚ではないからね。
あとなんで恣意的に始と終を伸ばしてるのかな? 854日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:27:11.62
だいたい高天原(御所市高天)の塚の周囲は江戸時代の墓があり、今の墓もある。
この辺りは墓域だったのだ。
そゆでなければとっくの昔に果樹園として開拓されていただろう。
しかも地元住民が言うには長い間土葬であった。
棺あり槨なしの状況。
纏向ごとき下人の地域を卑弥呼の都と言ってるお前は少し黙ろうか。
855日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:27:18.49
>>637
>テンプレにも書いてあるだろ?
魏志倭人伝の描く倭国は北部九州に奴国2万戸があって畿内に邪馬台国7万戸があって
途中の中国地方に投馬国5万戸があるという倭人の領域なんだよ
私は日本海航路+投馬dug-magの音韻から投馬国=出雲を推すが、
テンプレは同じ中国地方でも山陽側の吉備を採っている<
テンプレも、東大理系博士を自称する類スレ主も、
結論先にありきの循環論法の、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説であるから、
どちらにしても、×。 856日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:27:45.63
>>826
やってたよ ググると出てくるよ
ピッタシとはいかないが、いまの日本地図とニアーだよ 857日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:28:52.11
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったな。。。
858日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:31:07.06
>>639
>さすが、呼子上陸バカだなww 人間性も最悪w<
さすが、東大理系博士を自称するバカ類スレ主だな。
人間性も最悪。 859日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:31:36.59
行基図
860日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:31:55.21
東大理系博士を自称する類スレ主は、水星について、詳しいのだったな。
861日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:34:49.44
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
862日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:34:58.54
水星というのは水分神・・・カッパ、河伯?
そういう表現、意味。あの写真の話。
863日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:38:29.78
>>858
>東大理系博士を自称<
って誰のこと?
>>1はベイズや九章算術も理解不能なのは周知だからどうでいいが 864日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:39:57.02
>>733
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
行ったことも見たこともない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって想像して描けたのだろう? グーグルマップがあったのだろうか? わははははは
なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 865日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:40:10.28
あの白い服(ガンダムというわけではないけど)の写真も、
キュウリの葉と同じ家の写真だしな・・・、
天財若子?同じような名前の家、上の名前w
866日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:40:13.95
>>646
>行程はあてにならないっていうのが畿内説の基本 <
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説者や東大理系博士自称の類スレ主らは、
魏の役人らの実地の見聞計測の同時代記録の中の、
都合の悪い記録は否定曲解捏造するチェリーピッキングの嘘つき騙しをする、
・・・・アホ詐欺師。 867日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:41:21.65
キナイコシの水星には笑うどころか、憐れみだなwww
868日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:43:13.98
>>860
奥山氏は、水星が好きなのだが、水星の公転が、古い物理学では説明出来ないことを知らないのだったな。。。 869日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:44:48.34
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭が悪すぎるな。
870日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:47:02.88
870
871日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:48:16.43
>>847
>大体同じ位の距離の三海峡に対して、
こういう嘘を平気で言うのが九州説
渡海距離は2倍くらい異なる 872日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:50:47.69
>>850
>おれなら九州を無視し、倭国の入り口を出雲にするな
「おれなら」というのは無意味
大陸中華がどう考えていたかを、考察しないと
>倭人伝は九州の地を重要視してるし、
それは、後漢に対する西暦57年(漢委奴國王の金印のとき)と
107年(帥升等のとき)の記録があったから、それを書いてるだけだろう
重要視というのとも異なる 873日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:52:03.57
>>852
>左側スロープ君=>>1でいいのか?
そんなわきゃないだろww
>別人が左側スロープ君??
左側スロープ君は、頭おかしいトンデモ説だよ?ww 874日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:53:58.58
>>824
恐らく九州説に電子雲といっても通用じないからわかり易い例えにしたんだろ 875日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:54:08.11
>左側スロープ君は、頭おかしいトンデモ説だよ?ww
時代も合わない、
大きさも合わない、
奴婢埋葬痕跡が皆無、
こんな箸バカ古墳支持者こそトンデモ。
876日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:54:09.12
>>856
>やってたよ ググると出てくるよ
三角測量自体は、考案されていたけれど、そのためには
「長さが既知の十分な長さの基線」が必要なんだよ
対馬海峡の島までの距離が測れるだけの「既知の長さの基線」が
得られないから、測量不能なんだよ 877日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:55:39.21
>>873
彼は葛城の現物を見て推測してたんだから妄想オンリーのお前よりマシだw 878日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:57:10.46
>>647
>畿内説では、帯方郡から離れる方角が南と「陳寿は認識していた」、とする<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
陳寿は「倭人在帶方東南大海之中」と書いているんだから、
「帯方郡から離れる方角が南と陳寿は認識していた」とする事も嘘つき騙しになり、
東大理系博士を自称している類スレ主の論は、×。
こんな詐欺男を博士としていたのであれば、東大も文部省も?責任を取るべし。
>だから、投馬国は女王国より以北の国、というのは、行程上女王国に
着く前に通る国ということになる<
これも、投馬國は女王之所都の以南になるから、東大理系博士は×。 879日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:57:19.32
880日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:57:59.49
>>874
電子雲w
にわか仕込みの文言並べて東大理系と称する気かw 881日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:58:28.46
>>877
>彼は葛城の現物を見て
現物を見ても間違ったことしか言えないのは、頭が弱いからなんだよ
あんまり左側スロープ君をいじめてやるなよww
巣に帰れというだけでいいww 882日本@名無史さん2019/09/18(水) 19:59:44.99
そして、電子雲が何なのか理解できない>>880であったw 883日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:01:41.36
>>880
何かおかしいかな
九州説は理数用語が出ると反射的にトンチンカンな反応を示す
もしかして理数コンプレックスでもあるのかな 884日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:02:44.85
>>882
俺が連句点に確率分布に従い存在すると説明をしてあげたんだけどw 885日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:04:23.26
886日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:04:47.36
それにしても・・・
『水神』
画像を調べてみるとわかる、
当時結婚した家の〜という話もしていたり、
蚕を飼い機織りなどをしていて
887日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:06:17.21
>>673
>会稽陶冶の東を 今の正確な地図で調べると沖縄当たりなんだろ? <
陳寿の「女王國の位置推定」は「会稽東治之東」であるから、
沖縄当たりにならず、×。 888日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:10:45.72
>>887
会稽東治という地名は存在した事がなくて
あったのは会稽東冶
現在の福建省福州市に当りその東は沖縄か台湾
魏志倭人伝は邪馬台国の位置はそこと記している 889日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:11:42.56
>>678
>畿内説はそんなバカな想定はしないけれどね <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であるし、
大和説は「南→東」などのような嘘つき騙しをしているから、×である。 890日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:11:53.96
>>871
>渡海距離は2倍くらい異なる
2倍しか違わない。
それは当時の感覚では誤差の範囲内という感覚だったということ。
魏志倭人伝の記事を自分の主観で否定するのはやめようね。
郡使には、壱岐から対馬と壱岐から九州のどちらが遠いかを知りようがないだろ?
それが当時の目視による「測定」の精度だから、誤差の範囲内ということになる。
それは魏志倭人伝の記事を否定する根拠にはならない。
あと、2倍は君の誇張だろ?
そんなことだから畿内説は信用を失うんだよ。
しかも3区間あればその平均を取れるから、当時の一里の長さは割と正確に割り出せる。
どうやっても、魏志倭人伝は短里で書かれている。 891日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:12:02.51
892日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:13:27.04
>>891
そこまでの里程が書かれていないのだから、論外。 893日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:14:02.77
>>679
残念ながら、大和説は行程論の「南→東」などのインチキ読みだけが拠り所だから、
「大和説にとってもあてにならない」といった時点で、
大和説には
主張すべきことが「何一つ残らない」ことになるんだよ。 894日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:15:41.41
オウム返しをしてばかり
九州説のオウム人間ザラコク
895日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:17:13.07
>>890
1里50〜200mと変動する魏志倭人伝の里の平均なんて出しても無意味 896日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:17:52.53
>>892
里程とはどういう意味?
行程論?
卑弥呼が誰なのかの話であって行程論なんて関係ない。 897日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:18:25.75
>>683
>投馬国・出雲説を採る場合、丹波以西の四隅突出墓の文化圏全体を想定すればよい<
東大理系博士は、「南≠東北」などに拠って、×。
こんな嘘つき騙しを博士にした東大の責任は、どうするんだ?。 898日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:18:28.18
『ガンダム 水星』
でも実際に、そのような曲があったり、
どういう事なんだろう
899日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:19:02.68
>>890
>2倍しか違わない。
これが言い逃れだって分からないから九州説はダメだってこと
お前は呼子上陸バカでいいのか? 900日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:21:08.32
901日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:23:13.61
晋書律暦史などから魏は1里=300歩=1800尺の尺度を使用
1尺約24cmの後の当時のモノサシが見つかっているから換算すると
魏の1里は約437m
902日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:23:25.37
>>891
>俺の書いた中平銘鉄刀保持者・和邇氏系譜からのトヨとヒミコにまず反論してみ。
和邇氏は孝昭天皇を祖とする皇別氏族というのが、公式記録
物部系ではないし、神武天皇の頃には影も形もない 903日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:24:04.50
904日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:24:34.64
>>900
>葛城爺頑張れw
九州説は節操がないなww
それに葛城爺ではなく、左側スロープ君と呼んでやってくれww 905日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:26:34.45
906日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:27:09.29
907日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:27:24.43
908日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:28:59.88
存在確率と言えば
邪馬台国存在確率分析の結果
福岡:99.9%
佐賀:0.1%
奈良:0.0%
909日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:29:35.58
>>902
>和邇氏は孝昭天皇を祖とする皇別氏族というのが、公式記録
そうだね、その孝昭天皇のお母さんがトヨ津、・つまりトヨなのだが。
>物部系ではないし、神武天皇の頃には影も形もない
孝昭天皇の妻・世襲足媛が尾張氏、つまり物部の傍系。
神武天皇の頃には影も形もないって、そのころには神武天皇が影も形もないわけだが。
何を言ってるのだろうか。 910日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:30:22.51
妄想です。
911日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:31:59.75
>>689
>海は一度渡れば千里<
一度、一寸千里や簡易三角測量で一か所の渡海里数が計測されていれば、
二回目以後は、所要日数測も出来る。
>陸上は1日歩いて5里とか10里とか決めてるだけだろ<
一寸千里も、簡易三角測量も、記里車も、歩測も、日数測も、
既知の計測値との目測とのでの比較も、出来る。 912日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:33:27.82
913日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:34:19.40
>>698
>誰も言っていないことを難癖つけて最後はヘイトスピーチかい?
畿内説というのは下品だねえ。<
賛成。
東大理系博士自称の大和説男は、下品だねえ。 914日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:45:38.86
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、下品だねえ。。。
915日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:45:50.96
>>908
もしかして捏造データ?
九州説が学会から相手にされないわけだわ 916日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:48:08.33
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するための偽造は、犯罪行為なのではないのかな、、、
917日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:49:52.57
>>743
>畿内説によると、博多湾から出雲まで船で20日かかるそうだ。
これが、一日20キロペースできちんと着く<
「南≠東北」などの拠って、×。 918日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:50:10.39
奥山氏は、水星が好きなのだが、水星の公転が、古い物理学では説明出来ないことを知らないのだったな。。。
919日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:53:58.31
短里はありまぁす
920日本@名無史さん2019/09/18(水) 20:59:17.93
>>780
>人跡未踏の地を行くんじゃなくて、北部九州と出雲の間の海路は
大国主が妻問に通えるほどの交易路 先に出雲は四隅突出墓文化圏と書いたが、
小さな平野ごとに集落があるから 食料もその隣までの分でいい
水行20日は、20回立ち寄る集落があったくらいでよいくらい
陸行分は、出雲と大和の交易路だからそれこそヤマト国の威光で魏使さま一行は
歓待まみれで移動してるだろ 一日平均6キロしか進まないくらいに<
「南≠東北」などに拠って、×。 921日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:00:53.57
奥山氏は、電子雲という誰にでもすぐに理解できる物事を説明するために、もっとも例えに遠い水星を例に上げてしまったのだったな。
922日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:04:21.63
>>733
>その土地それぞれで子供のような落書きを集めればいいんだよ
行ったことも見たこともない、遥か彼方の大海に浮かぶ国や島をどうやって想像して描けたのだろう? グーグルマップがあったのだろうか? わははははは
なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 923日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:05:44.81
>>781
>だから、それは循環論法で何の根拠にもならないと何度教えればww <
いや、結論先にありきではなく、
「里数」記載事実や実態からの帰納的確率的推論であるから、
循環論法にならない。
>具体的に「短里を使っていたのはこういう属性の人」というのを
根拠つきで論証しなさい 使う人のいない単位が使われるというのはありえない<
「余」や「有効数字1桁への近似値化」や「略載」と書かれている事から、
魏の役人たちの実地の計測値が情報源になっていた、という事が判る。 924日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:15:09.81
>>921
太陽と水星の公転の関係性は、量子力学ではなく、一般相対論で討論された物事なので、物理学を少しでも知っている者ならば、電子雲という量子力学についての物事を説明するために、例として太陽と水星の公転を持ち出されることは違和感と笑いを覚えるのだったな。 925日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:16:14.45
奥山氏は、水星が好きなのだが、水星の公転が、古い物理学では説明出来ないことを知らないのだったな。。。
926日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:18:49.32
奥山氏は、一般相対性理論について頓珍漢な知識を発表していたのだったな。。。
927日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:19:50.11
>>825
>国と国との位置関係を記すのが目的の地誌記事において、
出発方向が記されていると「主張」するのが
どれだけ馬鹿げたことが理解できないのですね?<
行程や旅程説明の場合は「出発説明+途中の順次説明+到着説明」の順に、
順次式に説明を書くのが、人類の常識。 928日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:19:56.95
奥山氏は、頭が悪すぎるな。
929日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:28:50.64
>>826
>三角測量には、長さ既知の基線が必要
遠くに島が見えるからといって、三角測量ができるわけではない <
目的地が見えなければ、
大体の方向と一寸千里の計測との組み合わせや、日数測でもよいが、
目的地が見えていれば、
基線を長くして三角測量の精度を上げるか?すればよいし、
一寸千里も使ってもよい。 930日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:34:20.32
930
931日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:36:05.44
月食が、遠距離の測定に役立つのだったな。。。
932日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:36:07.42
測量むずいよね
中国人って偉大なんだねマジで
933日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:36:40.49
奥山氏は、頭が悪すぎるな。。
934日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:39:34.67
頭が悪すぎる奥山氏が、元気を失ってしまい、自殺体になってしまう可能性が、高まってきたな、、、、
935日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:41:14.85
小椋佳の黒い水(黒い犬)が〜という曲と同じでしょ、
あと、なぜか某まいく・おーのダンバインw
936日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:44:25.98
奥山氏は、電子雲という誰にでもすぐに理解できる物事を説明に、スリリングなルーレットの結果を使用できるのではないのかな、、、
937日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:44:52.46
ロシア
938日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:44:58.98
ロシア
939日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:45:16.17
>>828
>水星が消えても太陽には何の影響もないのと同様、
電子が引き離されてなくなっても原子核には何の影響もない<
太陽と水星も、それぞれの重力場と電磁場とは相互作用をしていたし、
水星も、重力場と電磁場の相互作用や関与で安定を形成されていたものだから、
その水星を消失させる場の相互作用が働いたら、
太陽にも、極めて僅かながらの重力場と電磁場の不安定性が増加し、
太陽内でも、新しい場の相互作用の安定化に向かう場の相互作用が起こって、
新しい場の安定に向かう事になる。 940日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:45:22.83
ロシアのルーレット
941日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:45:55.38
ロシアのルーレット
942日本@名無史さん2019/09/18(水) 21:45:55.72
ロシアのルーレット
943日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:00:50.39
>>835
>魏志倭人伝の方位方角が、現実の地理に合わないという証明なんだが?
呼子でも、唐津でも<
呼子でも唐津港でも唐津でも「出発時点での出発方向=東南」は、十分可能である。
>唐津で南東にならないと言われて、九州説の一部が言い出したのが
末盧国が呼子、名護屋浦湾なら北東ではない、八方位を極限まで拡大解釈すれば南東でいい
という、呼子上陸バカの今の立場だ<
その後の問題は、
一大國との「千余里」に適する位置か?の問題や、
人類の常識の「安全最短の原則」問題や、
国内に「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。
好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」の場所があるか?などが、
問題だな。 944日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:32:38.51
>>924
太陽と水星の公転の関係性は、量子力学ではなく、一般相対論で討論された物事なので、物理学を少しでも知っている者ならば、電子雲という量子力学についての物事を説明するために、例として太陽と水星の公転を持ち出されることは、
熊本と水銀の関係性は、邪馬台国熊本城説ではなく、水俣病で討論された物事なので、公害の残酷さを少しでも知っている者ならば、邪馬台国熊本城説についての物事を説明するために、例として熊本と水銀の関係性を持ち出されることのように、
違和感と苦い笑いを禁じ得ないのだったな。。 945日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:34:44.35
>>909
>孝昭天皇の妻・世襲足媛が尾張氏、つまり物部の傍系。
>神武天皇の頃には影も形もないって、そのころには神武天皇が影も形もないわけだが。
孝昭天皇は第5代で、公式記録では神武天皇の玄孫
記紀を頼りに論立てしながら記紀の系譜は無視するというインチキww
トンデモ説は常にデタラメで整合性は全無視w 946日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:40:10.90
>>912
>イヤ近畿の鏡13面て
それ、邪馬台国の会の安本美典氏のデータ
勝手に十種の魏晋鏡というカテゴリを作って、それを数えてるんだよ
それでいて、平原1号墓の仿製鏡32面を魏晋鏡に数えて福岡県を37枚にしているww
その32面を抜くと福岡県は5枚しかないww
鉄がある所に邪馬台国があるというインチキ仮定を置いてインチキベイズ推定擬きをしてるんだよw 947日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:49:19.36
>>945
>孝昭天皇は第5代で、公式記録では神武天皇の玄孫
公式記録ってw
だから孝昭天皇の時代には神武はとっくに死んでて影も形もないね。
だから?
何を言ってるんだ、あんたはw 948日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:53:46.60
>>840
>伊都国の位置から逆算したらいいのではないかな。
伊都国は三雲から動かしようがない。<
それほどでもない。
伊都国は、怡土の地域内にあって、
「皆臨津搜露」という事が出来るような。海岸地域や糸島水道付近を含み、
千戸位のやや小さな領域の国であり、
集落跡としては、宮殿様であった?潤地頭給遺跡があり、
三雲付近まで広がっていたのか?は疑問。
そして、三雲付近には、千戸程度の集落跡は見つかっていないようであり、
むしろ、伊都国と、(クシフルの西麓の)奴國との共同墓地地域であった可能性もある。 949日本@名無史さん2019/09/18(水) 22:59:08.70
>>845
>これ、どうやっても三雲から北西陸行五百里は無理で、
海の上に行くしかないんだけど? <
「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向であるから、×。 950日本@名無史さん2019/09/18(水) 23:12:49.74
>>888
>会稽東治という地名は存在した事がなくて<
「東治」は、地名文言ではなく、「東の治」という普通名詞。
>あったのは会稽東冶<
「計其道里、當在會稽東治之東」だから、×。 951日本@名無史さん2019/09/18(水) 23:26:08.15
>>895
>1里50〜200mと変動する魏志倭人伝の里の平均なんて出しても無意味<
對海國の比定を浅茅湾の北側〜巌原付近と推定し、末盧國上陸を唐津港とし、
伊都国を前原〜糸島水道付近とし、奴國入口を日向峠西麓とし、不彌國を姪浜東端〜西新町とすると、
大体、1里≒60〜90mで、平均75m。 952日本@名無史さん2019/09/18(水) 23:32:36.72
>>901
>晋書律暦史などから魏は1里=300歩=1800尺の尺度を使用
1尺約24cmの後の当時のモノサシが見つかっているから換算すると
魏の1里は約437m <
晋書では、唐代本であるから、当然一寸千里の里の長さも知らず、
魏志が殆どが「1里≒76.5m」位の短里で書かれている事も知らない史家であるんだから、
根拠にならない。 953日本@名無史さん2019/09/18(水) 23:38:56.29
>>912
>イヤ近畿の鏡13面て
鉄刀1本て <
九州倭国の別種の旧小国の大和政権の範囲は、
近畿ではなく、いわゆる「畿内」でもなく、
奈良盆地全体もまだであったような範囲であるから、
「近畿」なんて範囲に擦る事が、嘘吐き騙しのインチキ。 954日本@名無史さん2019/09/18(水) 23:44:31.86
>>915
>もしかして捏造データ?
九州説が学会から相手にされないわけだわ <
もしかして「南→東」や「捏造データ」や「口先言葉尻誹謗」などの、
嘘吐き騙しのヘイトスピーチ? 。
大和説が国民から相手にされないわけだわ 955日本@名無史さん2019/09/19(木) 00:39:44.50
なんだかかわいそうだから今月から機内説に乗り換えました
956日本@名無史さん2019/09/19(木) 00:44:43.45
>>946
>鉄がある所に邪馬台国があるというインチキ仮定を置いてインチキベイズ推定擬きをしてるんだよw
反論がしたいのなら、自分たちのデータで計算し直せば?
99パーセントが98パーセントくらいにはなるかもね。 957日本@名無史さん2019/09/19(木) 00:58:43.15
>>956
まずはソース出してくれ
パソコンがあればそんな表は誰でも簡単に作れるぞ
デタラメな数字を載せて99.9%だとドヤっても、そんなのを信じるやつはいない 958日本@名無史さん2019/09/19(木) 01:11:22.89
>>957
お前歴史の教科書すら見たことない人だな? 959日本@名無史さん2019/09/19(木) 01:18:38.32
960日本@名無史さん2019/09/19(木) 01:28:05.36
さっき貼られた画像を基にググればかんたんに真偽はわかるよね
それ以上は言いがかりだから荒らしとして通報しますね
961日本@名無史さん2019/09/19(木) 01:48:57.73
>>960
ソース出せないから逆ギレですか?
苦し紛れに荒らし呼ばわりしてるけど、どこが荒らしなの?w 962日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:21:02.95
>>950
会稽東「治」という地名はなくてあったのは会稽東「冶」
その東は沖縄や台湾
魏志倭人伝には邪馬台国はそこにあると記している
>>951
邪馬台国は沖縄のあたりと魏志倭人伝に書いてあるので
邪馬台国までの距離と書いてある帯方より南1万2千里をそこに当てはめると
1里は140mになる
>>952
確かに一寸千里で一里75mは知らなかっただろう
そんなものなかったからな
>>953
九州説の出してきたベイズ何とかのデータに近畿と書いてあるのだぞ?
近畿に邪馬台国の範囲を当てはめるのが嘘つき騙しのインチキというなら
九州説がその嘘つき騙しのインチキをやってるという事だが
ザラコクが珍しく本当の事を言った 963日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:22:10.95
>>956
>まずはソース出してくれ
ソースはこれだよ
安本美典氏の一般向け書籍
「邪馬台国は99.9%福岡県にあった 」: 勉誠出版
ベイズ推定になってないんだけどねw 964日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:25:26.00
>>955
かわいそうなのは九州説だから力になってやった方がいいぞ 965日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:28:31.15
>>949
>末盧國からの出発時点での出発方向であるから
呼子上陸バカさん、見てる〜?
ザラゴキ級ってのはこういうことだよww
「出発後どっちに行くかは知りません」なんていう地理紹介があっても、
情報量ゼロで何の意味もないだろ?ww 966日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:37:53.00
>>947
卑弥呼の時代は崇神、垂仁のあたりで、その3世紀に神武天皇と卑弥呼が夫婦だったって言うんだから
時空が歪みまくりだろ
孝昭天皇の5代あとが崇神天皇なのに、孝昭天皇の5代前の神武天皇が3世紀だって言うんだから
どうやってもデタラメトンデモww 967日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:39:31.57
>>964
機内説は畿内説とは無関係だから気にしなくていいんじゃないかな?ww
飛行機の機内でなんかするんだろ?w 968日本@名無史さん2019/09/19(木) 07:59:49.59
畿内説なんて機内のおしゃべりみたいなものだからなw
969日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:06:41.86
>>836
>唐津には松浦川が流れているが、呼子周辺には末盧に関連した地名もないし
呼子含めて松浦半島だし
松浦国と言えば佐賀から長崎までの範囲になる
>弥生時代後期以降のめぼしい遺跡も呼子周辺にはなく、末盧国の存在を想定できない
発見できてないか、あるいは名護屋城を作るときに完全破壊されたかだろうな
もしかして遺跡を、すべてが現存しててすべてが発見済みだとは思ってないよな? 970日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:09:29.71
>>835
>魏志倭人伝の方位方角が、現実の地理に合わないという証明なんだが?
畿内説はそうしないと成り立たないというだけだろ?
魏志倭人伝の記述にしか邪馬台国は出てきてないのに
その記述自体を疑問視するなら
邪馬台国は存在しなかったと言ってる方がまだ人間としてマトモだぞw
>もともと魏志倭人伝記載の地理は、その程度にいい加減
東を南に読み替えないと成立しないのが畿内説
畿内説の方がはるかにいい加減という事の証明でもあるわな 971日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:10:29.29
>>835
そんな感じで何でも自分の都合のいいように曲解すると
「投馬国が女王国より以北の国」
という部分がおかしくなるだろうにw 972日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:16:35.73
>>968
すると九州説は精神病院内でのお喋りかな 973日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:19:36.65
>>962
>会稽東「治」という地名はなくて<
会稽付近には、「東治」という地名も、「治」という地名もなく、あったのは「東治」という普通名詞文言。
>会稽東「冶」その東は沖縄や台湾<
魏志倭人伝には「会稽東冶」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。
だから「その東は沖縄や台湾 」も存在しない。
>魏志倭人伝には邪馬台国はそこにあると記している<
邪馬台国なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男(おそらく東大理系博士の類スレ主)も、・・・・詐欺師。 974日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:21:44.32
>>971
魏志倭人伝に書いてないことを「根拠」と言い張るキナイコシ 975日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:21:56.88
>>888
で、それが今の地図で考えたら沖縄あたりなんだろうけど
昆一図みたいな変な形の地図だとどうなるんだろうね? 976日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:26:04.19
>>973
会稽東「治」こそ存在しなかった
会稽東「冶」は会稽東冶県と後漢書にも出てくる
会稽東「治」と書かれているのは古版の魏志倭人伝を引用して書かれた複数の史書と齟齬が多く
誤字の多いのが明らかな12世紀以降の復刻版魏志倭人伝 977日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:26:24.61
>>961
書籍として少し大きめの本屋なら置いてあるのだから、書名も開示されていることだし、買ってから批判したら?
(参考にするため、ちゃんと買ったよ!)
数字に不満があるなら、畿内説から数字をまとめ直して計算すればいい。
他の計算方法にしてもいい。
しかし魏志倭人伝に照らすなら、邪馬台国はほぼ福岡で確定だよ。
「魏志倭人伝は信用ならない」と言って都合の良いデータを並べても、それは邪馬台国ではない他の何かにしかならない。
悪ければ妄想、良くてもヤマト王権の萌芽=物部氏尾張氏の政権を見ているに過ぎない。 978日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:29:58.08
>>975
少なくとも九州北部ではないな
魏志倭人伝の記述でも九州上陸後南に水行して邪馬台国に向かうと書いてある
魏志倭人伝を書いた陳寿も邪馬台国は会稽東冶の東にあって
九州北部とは認識していなかったという事 979日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:31:39.81
>>962
>邪馬台国は沖縄のあたりと魏志倭人伝に書いてあるので <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏志倭人伝には、女王之所都は不彌國の直ぐ南と書いてあるのであり、
「沖縄のあたり」とは書いていないから、
この男(おそらく東大理系博士を自称する類スレ主)は、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
>邪馬台国までの距離と書いてある帯方より南1万2千里をそこに当てはめると
1里は140mになる<
「そこ」という「沖縄のあたり」は、嘘つき詐欺であったから、
この男の「140m」論も、×。
そして、確かに、
魏の役人たちは「一寸千里で一里約75m」を知っていたんだろうなあ。
行程の里数記載が「1里≒60〜90m」位の範囲内にあるから。 980日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:33:33.18
>>978
で、昆一図みたいなのだと会稽陶冶の東ってどこになるの? 981日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:34:21.70
>>979
ザラコクは自分の言ってる事が
すでに議論にすらなってないのに気づいてないのかな 982日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:35:38.21
>>980
さあねえ九州南部辺りかな
不正確な地図でよくわからんけど 983日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:41:58.48
>>982
不正確なんだが、
行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。 @阿波 984日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:50:52.83
>>872
>すると九州説は精神病院内でのお喋りかな<
おそらく大和説者って人種は、
万世一系皇国史観で、
八紘一宇人種差別殺戮戦争に狂ったキョクウの精神病人なんだろうねえ。
先の戦争と同じように、こりゃ、
日本国民を戦争人間に仕立て上げたくてたまらない、という人種なんだろうね。 985日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:52:57.30
>>969
弥生集落を潰して城や陣屋を築いてたら
盛土のの中に土器が混ざるから発掘でわかるよ 986日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:59:49.01
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、自ら、頭の悪さを公表しているな。。。
826日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:11:59.79
>>823
>三角測量をやってるのか?
三角測量には、長さ既知の基線が必要
遠くに島が見えるからといって、三角測量ができるわけではない 987日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:01:04.43
>>975
>で、それが今の地図で考えたら沖縄あたりなんだろうけど<
魏志倭人伝は「計其道里、當在會稽東治之東」であって、
「会稽東冶」ではないから、「沖縄あたり」にはならないので、
この大和説男?の脳がクルっているの。
>昆一図みたいな変な形の地図だとどうなるんだろうね?<
同時代の魏の役人たちの実地での見聞計測で書かれた魏志倭人伝の信頼性に比べて、
はるか後代で、実地の見聞計測をせずに作られた地図は、一種の造作であり、
半分×であり、証拠にならないの。 988日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:02:11.52
長さ100mのロープと、分度器が有れば、視認できるどの程度の距離までの長さを、測定できるのだろうか。。。
989日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:05:37.84
角度Aが直角の直角三角形の一辺ABが100mで、角度Bが89度の時、辺BCの長さは何メートルだろうか、、、
986日本@名無史さん2019/09/19(木) 08:59:49.01
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、自ら、頭の悪さを公表しているな。。。
826日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:11:59.79
>>823
>三角測量をやってるのか?
三角測量には、長さ既知の基線が必要
遠くに島が見えるからといって、三角測量ができるわけではない 990日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:16:12.39
990
991日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:18:31.18
>>989
奥山氏は、三角形の内角の和の法則や、コセカンドという物事を知らない可能性が高いので、計算できないのではないのかな。。。 992日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:21:19.30
コセカンド1度は、約57.3ではないのかな。。。
993日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:26:14.43
一度単位の分度器と、真っ直ぐロープを張れる海岸線からは、ロープの長さの57.3倍の距離を測れるのだな。。。
994日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:31:42.99
>>976
>会稽東「治」こそ存在しなかった<
倭人伝の「東治」は、
宋明清代の校勘にも全く問題にもならなかった文言であるから、
史料事実そのもの。
>会稽東「冶」は会稽東冶県と後漢書にも出てくる
会稽東「治」と書かれているのは古版の魏志倭人伝を引用して書かれた複数の史書と
齟齬が多く 誤字の多いのが明らかな12世紀以降の復刻版魏志倭人伝<
後代の「自己解釈に拠る書き換え」が¥非常に多い後漢書は、半分×書であり、
魏志倭人伝は、同時代の魏の役人らの記録に拠った陳寿の地の文であり、
信頼性は魏志の方がはるかに高い。
また全写本版本における文字差異発生率は、0.5%以下。 995日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:31:45.97
>>993
100Ⅿの砂浜の海岸線を確保すれば、5km対岸の島の距離は測れるのだね。。。 996日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:36:03.43
>>995
100Mの平地があれば、5km先の測量ができるので、次はその5kmを基順にして、地平線や水平線で視認できる範囲をほぼ全て測量できるね。。。 997日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:37:03.97
奥山氏は、やはり、頭が悪いな。。。
826日本@名無史さん2019/09/18(水) 17:11:59.79
>>823
>三角測量をやってるのか?
三角測量には、長さ既知の基線が必要
遠くに島が見えるからといって、三角測量ができるわけではない 998日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:40:03.01
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
最近明らかにされてきた空気シャワーの威力や、鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
999日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:41:14.60
奥山氏が、元気を失ってしまった。。。
1000日本@名無史さん2019/09/19(木) 09:41:31.20
2013年、邪馬台国畿内説は完全に破綻しました。。。
mmp
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