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邪馬台国畿内説 Part511 YouTube動画>1本 ->画像>21枚


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1◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:04:08.25
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1569472836/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:05:32.44
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:05:54.63
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:06:45.90
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:07:16.14
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:10:23.34
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:10:50.30
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:11:30.81
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:12:26.21
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:13:13.15
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:13:49.67
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:14:30.56
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:15:46.25
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:16:20.56
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:16:52.98
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:17:30.31
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:18:01.37
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:18:35.79
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:19:10.87
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20日本@名無史さん2019/09/30(月) 15:19:42.42
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1

21◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:19:46.00
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

22◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:20:19.00
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

23◆uhZd0d92fnce 2019/09/30(月) 15:20:25.59
>>1
頑張っていますね。

24◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:20:54.32
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

251 ◆UiepmfCeDJqf 2019/09/30(月) 15:21:23.17
1#okuyamakouyou

26◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:21:29.33
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

27◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:21:59.77
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

28◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:22:31.20
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

29◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:23:01.21
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

30◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:23:30.92
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

31◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:24:00.81
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

32◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:24:30.94
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

33◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:25:00.43
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

34◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:25:30.63
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

35◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:26:00.93
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

36◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:26:30.49
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

37◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:27:00.69
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

38◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:28:30.46
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

39◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:29:10.15
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

40◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:29:51.28
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

41日本@名無史さん2019/09/30(月) 15:29:52.00
奥山氏は頭が悪いな。

42◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:30:32.90
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

43日本@名無史さん2019/09/30(月) 15:31:10.68
>>1
論破されたテンプレートを貼り付けて、人生が、虚しくならないですか。。。

44◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:31:12.04
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

45◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:31:51.33
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

46◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:32:31.25
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

47◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:33:11.38
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

48◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:33:42.11
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

49◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:34:28.33
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

50◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:35:11.26
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

511 ◆q8leUXpsw. 2019/09/30(月) 15:35:13.49
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

52◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:35:51.31
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

531 ◆UiepmfCeDJqf 2019/09/30(月) 15:36:03.61
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

54◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:36:30.37
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

55◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:37:02.39
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

56◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:37:40.99
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

57◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:38:20.32
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

58◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:38:59.91
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

59◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:39:35.70
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

60◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:40:11.01
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

61◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:40:50.29
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

62◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:41:31.15
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

63◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:42:10.33
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

64◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:42:46.25
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

65◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:43:22.79
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

66◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:44:01.10
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

67◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:44:39.99
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

68◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:45:23.38
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」

「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

69◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:46:01.55
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

70◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:46:41.20
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

71◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:47:20.53
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

72◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:48:00.42
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

73◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:48:41.42
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

74◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:49:21.41
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

75◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:50:00.56
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

76◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:50:41.72
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

77◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:51:20.31
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。


◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

78◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:51:59.49
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬がある。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

79◆n7jxAxKCBhb6 2019/09/30(月) 15:52:36.57
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 ◆FAQ 96に加筆

80日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:27:35.69
>>921
>高校の教科書に書いてあることを妄想だって叫んで理由も言えない九州説
もう詰んでます阿<


「南→東」などの嘘付き騙しの大和説に賛成した時点で、
清水東京山川?の高校教科書会社が詰んでおり、
それの検定OKをした文部省も詰んでいます。

81日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:30:54.57
>>930
>反論できなくてキレる敗者九州説また失笑を買う <

「南≠東」などの嘘付き騙しの批判に、
反論できなくてキレる敗者大和説、
また失笑を買う

82日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:33:21.69
>>931
>「〇〇は有り得ない→だから△△である」
論理性を失うので何かを言い切る際にやってはいけない記述。
〇〇が□□が整合しているから、△△であるという確率は高い。
不確定なものは言い切るのではなく確度で示す。
論文の書き方とか勉強した事無いの?<

成程。

83日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:34:53.19
>>81
むしろ
>「南≠東」などの嘘付き騙しの批判
って日本語が失笑買ってる

84日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:35:37.78
>>936
とうとう、「南→東」などの嘘付き騙しである事を、
名乗り始めてしまう大和説

85日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:37:26.69
>>939
大和説者さん
「南→東」などの嘘付き騙しで、
簡単に論破されすぎです

86日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:41:05.21
>>941
結局、大和説者は、「南→東」などの嘘付き騙しに関して、
何の根拠も理由も示せずに、オウム返しのミラーリングしかできない。
キョクウ国粋人種差別殺戮戦争の学界や文科省からの工作が入り込んでいるのは、
大和説者側だよ

87日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:44:47.17
>>942
いや、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や安部文科省は、
国粋人種差別戦争アホであるだけではなく、ただの老人性痴呆の狂人じゃろうね。

88日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:46:35.05
>>944
>テンプレの南を東と読む理由は既に破綻しているのにテンプレを読めとかバカじゃね?
同志社大が日本列島が縦に記載された古地図を持ってた事で一時的に騒がれただけで。
後に向きが正常なオリジナルに近い地図が出てきて終了した話だよな。
会稽東冶の東の話も同時に。<

ふーん、成程。

89日本@名無史さん2019/09/30(月) 16:49:08.60
>>945
「南→東」などの嘘付き騙しの妄想の指摘には反論できない、
とか言い始めた段階で もう論理的思考から外れまくりでしょ
思考の筋道がおかしいから大和説になる

90日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:01:02.70
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

91日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:03:58.63
>>951
突然どこからか出てきた「南→東」などの嘘付き騙しの結論だけ提示して
それを立証するプロセスがまったく欠如する

これが大和説の投稿全般に共通してないか?
つまり思考方法そのものが破綻している

92日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:06:15.42
>>90の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│(沖縄亶州)〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│(台湾夷州)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」

93日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:06:36.57
>>953
こうして
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説が論破されると
呟き荒らしが登場する、という毎度のパターン

94日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:07:59.21
>>90
>>92
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

95日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:08:08.84
>>78
ウソつくな
誤魔化して書き直しても、まったく反論になってない

「いまの揚州市付近の江都、儀徴一帯には、古く銅鉱があり」と王仲殊氏が書いてる
そして、三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm

96日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:09:04.39
>>94すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

97日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:12:23.26
>>96
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

98日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:15:08.75
>>97
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台+阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トルーマン大統領)との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!

99日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:15:18.36
>>963
このように
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の特徴は
まったく証拠のないことを断定するところだね
いや、証拠どころか理由もない

100日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:15:53.70
>>98
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、

その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
 →同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

101日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:18:43.88
>>967
いつ、どこで、誰が、「南=東」だなんて言い出したの?。
大和説者のいうことは,全く具体性がない

102日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:21:10.10
(箸墓と同じ巨大前方後円墳)今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

103日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:21:21.95
>>969
突然どこからか出てきた「南→東」などの嘘付き騙しの件は、
結論だけ提示してそれを立証するプロセスがまったく欠如する
大和説は、いつもこれ

104日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:24:30.38
>>970
>畿内説は桜井市であり、天理市はハブられているんでしょ?<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
桜井でも天理でも、どちらであっても、「南≠東」などに拠って、×。

105日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:25:44.09
ひたすらウソ書き込む九州説のスタイル

106日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:26:47.51
朝鮮半島や中国河北と「忌部はん」 が交流していたのは、事実。   @阿波

107日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:27:54.07
朝鮮半島や中国河北と「忌部はん」 が交流していたのは、紛れの無い事実。   @阿波

108日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:32:50.13
>>975
>>仮に神功を充てて記紀を信じたとして前政権と繋がりがあるなら
巻向のような見せびらかすもの造る必要がないわけですよ。
新しい者達が来たと考えざるおえない。<

>それ、論理として破綻してる
古墳はみんな「見せびらかすもの造」ってるのだから
数百年間ずっと次々と「新しい者達が来た」ことになってしまう<

構わない。
倭王武の上表文は「自昔・・・東征毛人五十五國」であるから、
長年何度も、次々と東征軍が来た事になる。

>そして九州にも「新しい者達が来た」ことになる<

九州の衆夷は既に「服し終わって」いる。
だからこの投稿子の論理は破綻してる

109日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:34:04.52
>>1
テンプレの精査すら出来ないチョン乙w
日本語知らねえなら外人だってカミングアウトしろよ馬鹿w

110日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:35:40.98
>>978
悪く言うと、呟きや大和説者は、オームみたいなものばかり、
どこかで「南→東」などの嘘付き騙しを知り(きっかけ)、
その後に宗教的殺人戦争・・・・でしょ

111日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:40:58.98
>>980
>テンプレはその地図の話まったくしてないけど
また九州説さんウソついてる?<

「南≠東」など、人類の常識であり、変わりようもないけど、
また大和説者やテンプレは、
ヘンな嘘つき地図を持ち出して世間の人々を騙そう、
としている?。

112日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:54:00.09
>>981
>ほら、また何も根拠を出せない
これだから九州説はダメなんだ <

ほら、また「南→東」の嘘つき騙しに関して、何の証拠も出せない。
これだから、大和説者はダメなんだ。

113日本@名無史さん2019/09/30(月) 17:57:48.11
>>996
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が論破されると
呟きと荒らしが顔を出す。

いつものことだ

114日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:00:52.19
>>102
熊本の狗奴国が東遷した先が奈良盆地なんだよ。
古墳時代に入ってから阿蘇石を使い始めてるからその頃移動したんだろう。
そして弥生時代の畿内は単に東海の古墳建造地区だったということだ。

115日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:03:17.32
>>769
「魏略逸文のなにを見たらそんな結論がでるのか」と吠えているが、字ずらしか見ないお主には歴史の実態把握は無理。
まあ、なにごとも比較検討から真実の光が生まれる。
幸いに、魏略逸文と魏志倭人伝の二つの文献が現存する。
この二つを穴が開くまで見てじっくり比較検討してみたまえ。
いくらお主でもそのうち何かに気がつくだろう。

いや、気が付いても大和説者だから、また屁理屈こねるだろうがな。
あはははは。

116日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:05:31.67
それよりもw
邪馬台国、ヒミコ〜?なぜチョン(朝鮮人)だと言われているんだと思う?

117日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:07:31.72
>>107
密輸してたの?

118日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:10:27.13
>>117
交流。   @阿波

119日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:11:16.01
>>118
セドリ?

120日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:21:24.31
>>105
ひたすら「南→東」などの、
史料事実の否定曲解のウソを書き込むを大和説のスタイル

121日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:23:48.26
漫画やアニメ、ゲーム・・・小説なども同じ、
何か知っている人がいるからなんだろう

122日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:39:39.27
狗奴国探しは難しいのよ、まず卑弥呼がどういう状況から女王になったのか?これが確定しないと出て来ないよ。

123日本@名無史さん2019/09/30(月) 18:43:21.28
>>122
>狗奴国探しは難しいのよ

極、簡単。   @阿波

124日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:15:22.41
九州説がひたすら嘘を書き込んで、それが読者にすぐわかる、という非常に畿内説に都合のいい流れが完全に定着したな

125日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:18:28.24
>>124
倭国(阿波)のお陰でね。  わははははは   @阿波

126日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:19:19.65
>>114
>そして弥生時代の畿内は単に東海の古墳建造地区だったということだ。

弥生時代の畿内には古墳は無いんだよ
九州はこんなことも知らないのか

なさけないな

127日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:24:53.40
>>115
>「魏略逸文のなにを見たらそんな結論がでるのか」と吠えているが、字ずらしか見ないお主には歴史の実態把握は無理。
>まあ、なにごとも比較検討から真実の光が生まれる。
>幸いに、魏略逸文と魏志倭人伝の二つの文献が現存する。
>この二つを穴が開くまで見てじっくり比較検討してみたまえ。
>いくらお主でもそのうち何かに気がつくだろう。

自分の主張を立証するどころか
内容の説明すら出来ないって

九州説なさけなすぎて
全国で失笑買うよ、それ

128日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:33:34.57
6世紀、蘇我が台頭してきたと同時に天皇墓を非前方後円墳に変える。
これはそれまでの慣例を破る大きな出来事だ。

なぜ蘇我は前方後円墳という墓制を変えたのか。

それは簡単だ、前方後円墳が蘇我と争ってたライバルの墓制だからだ。
つまり前方後円墳とは物部の墓制なのだ。

崇神・垂仁時代の物部十千根を4世紀前半とすれば、ニギハヤヒやウマシマジがおおよそ2世紀末から3世紀初め、
物部守屋が587年に丁未の乱(ていびのらん)で死亡して物部が滅亡、
物部の興亡は大和での前方後円墳の存在時期とピタリ合う。

物部に卑弥呼はいないのだよ、アホの>>1

129日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:33:51.25
>>108
>倭王武の上表文は「自昔・・・東征毛人五十五國」であるから、
>長年何度も、次々と東征軍が来た事になる。

その理屈、九州の勢力(笑)が400年間以上にわたって何度も何度もずっと畿内を「東征」し続けたことになるんだけど
九州説が全国の小中学生に笑われるとか
そういう危機感は持ってないの?

130日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:40:45.78
ヨーロッパも何度も何度もアメリカへ攻め込み続けただろ

131日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:42:21.74
>>128
>6世紀、蘇我が台頭してきたと同時に天皇墓を非前方後円墳に変える。

違う!

蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群には、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。

このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。

また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。

他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。

これらも倭国(阿波)内・外で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。   @阿波



[石井町/曽我氏神社古墳群] https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023131/

132日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:44:02.45
>>101
>いつ、どこで、誰が、「南=東」だなんて言い出したの?。

我々の誰も言ってないな
南と東が古来相兼ねるとは昔からよく言われてるけどね

誰が「南=東」と言ったか知らないのに、それを否定すると畿内説が論破できるとか錯覚してるなら、それは悲惨なことだ
きみは膨大な投稿をしてるのに畿内説への反論は何もしてない、ということなんだから

133日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:45:44.79
>>130
いつ、どこで誰がどこに?

九州説の言うことはいつも具体的内容がない

134日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:50:09.21
全国で失笑をかってる、、、か。。。

135日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:50:46.54
>>131
>このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。

自分もそう思う、蘇我は方墳。
そして蘇我が権勢をふるい、天皇墓から前方後円墳を駆逐した。

そうすると天円地方という思想から、天円つまり〇はどこにあるのかということになる。

それが高天原(御所市高天)。

136日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:51:34.24
>>108
>九州の衆夷は既に「服し終わって」いる。
>だからこの投稿子の論理は破綻してる

そう書かれてる史料、ないよね?
空想で、他人の説は否定できないよ

それに、その理屈だと九州に大型の前方後円墳があることを説明できる?
出来ないよね

九州説は破綻している

137日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:52:42.77
天神地祇ではどちらか□だったかな?

138日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:55:46.12
>>99
>このように
>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の特徴は
>まったく証拠のないことを断定するところだね


「このように」って、どのように?
具体的に示してね

それとも、また九州はありもしない事柄を捏造してるの?

具体的に指摘出来なければ、九州説が捏造事件を起こした証拠になるよ

139日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:56:24.87
そもそも日本の話ではないんだよ、
どこの池沼なんだ?新興宗教の信者か何かなんだろう?

140日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:56:42.24
>>136
畿内からいっぱい連れてきたんだろ。
土器でわからんのか?

141日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:59:19.04
うまく立ち回ってるつもりなのが痛々しいなw

祖国がド派手にやったから
みんなもう理解して冷ややかに見物してるんだがw

142日本@名無史さん2019/09/30(月) 19:59:55.53
>>137
>天神地祇

先代旧事本紀は物部の史書。
当然、自分たちを天神とする。
そして本来、高天原の神々であった事代主以降の鴨族を地祇に落とした。

143日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:00:37.61
>>95
>ウソつくな

ウソだと決め付ける証拠は?


>誤魔化して書き直しても、まったく反論になってない

誤魔化しだと決め付ける理由は?
反論になってないと断定する根拠は?

>「いまの揚州市付近の江都、儀徴一帯には、古く銅鉱があり」と王仲殊氏が書いてる

あったという証拠は?

144日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:01:55.41
何度言えばわかるんだ?

145日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:03:24.59
>>140
>畿内からいっぱい連れてきたんだろ。

連れてきたという根拠は?


>土器でわからんのか?

わかるという証拠はる

146日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:04:56.11
>>134
自覚しろよな九州説

147日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:05:32.44
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。

148日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:07:35.69
>>147
>などの主観的な判断の表現を疑え。

主観的な判断
だという証拠は?

149日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:12:07.07
>>144
>何度言えばわかるんだ?

誰が何を何度言ったんだれ

150日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:15:50.38
九州説の使う日本語が相手に通じるための最低限の要件を満たしてない件について

151日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:17:27.98
お前に言っているんだよ、
名前は?

152日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:25:38.83
>>151
ほら、通じない

153日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:34:15.90
ここまでこのスレを読み進んだだけでも
畿内説を攻撃するすべての投稿が
具体的な挙証を決定的に欠いている事実がわかるだろう

つまり、九州説終了のお知らせである

154日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:36:39.73
>>153
具体的な内容が何も無いな。。。

155日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:38:56.92
>>154
たくさんあるな
事実に反する


さすが九州説
w

156日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:39:12.61
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が論破されているので、可哀想になってきたな。。

157日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:40:58.91
>>154
また九州説が事実の摘示をしなかった件について

158日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:41:39.18
コトバンクとは、どこの素晴らしい会社が運営しているのかな、、

159日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:42:36.80
>>156
で、奥山の投稿のどれが、いつ何処で誰に論破された?
具体的な指摘をどうぞ

160日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:42:47.03
>>156
奥山氏を論破している情け容赦ない優れた考古学者も、僕達と同様に、連続句読点を使用しているね。。。

161日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:44:56.89
なぜ、奥山氏は、証拠が全く見つからない邪馬台国畿内説を宣伝しているのだろうか。

162日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:44:56.92
ホラ、ホラ、ホラ夫
今夜もホラの吹きっぱなし

163日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:45:09.97
>>160
どれ?
どの投稿?

具体的にどうぞ

164日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:45:59.56
奥山氏のフルネームは、奥山ホラ夫なのだな、、、

165日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:46:25.97
九州説って逃げすぎ

166日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:47:20.15
>>164
>奥山氏のフルネームは、奥山ホラ夫なのだな、、、

ホラとは、何のことだ?

167◆0jph8/y/6PYG 2019/09/30(月) 20:47:52.83
#okuyamahorao

168日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:48:18.42
>>158
例えば『天王』など?

家の写真(何度も説明しているw)と同じ・・・のような気がするんだけど、
なぜかアニメ、漫画〜『』『』『』とかw

169日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:48:35.12
なぜ、奥山氏は、証拠が全く見つからない邪馬台国畿内説を宣伝しているのだろうか。

170日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:48:57.51
170

171日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:49:52.38
最近とんと内容がなくなって、無駄話ばかり、
具体的なのは、物部の纒向と先代旧事本記だけか。。。

172日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:50:22.15
九州説


終わったな

173日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:51:02.98
河伯、何やら大将、天帝〜〜という話も同じでしょ

174日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:51:35.89
優れた考古学者が発表した、コウヤマキについての真実が、倉庫に送られてしまったな。。

175日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:52:42.29
奥山氏は、自作自演するのだったな。

176日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:53:16.06
なぜ、奥山氏は、証拠が全く見つからない邪馬台国畿内説を宣伝しているのだろうか。

177日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:54:21.81
『葱の華』
検索すると出てくる画像も・・・。

178日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:55:27.61
>>175
それ、お前の話だろ

179日本@名無史さん2019/09/30(月) 20:58:24.58
かっぱ、だっく、ぺんぎん・・・とか?

180日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:02:43.94
『何者にもなれない お前たち』

ほとんど同じ、馬に乗っていて〜?
傾いた松、寒いな〜〜(不明)の家の写真なんだけど、
というか家の写真wストーカーがいるのかな

181日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:03:30.00
コウヤマキの木棺は樹齢500-600年の巨樹古木で作られた。
C14といっても、測定部位によっては1年から600年くらいまでの時間差を生ずる。で、ホケノの測定部位は??

182日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:06:38.02
>>181
棺は中をくり抜くんだから
中心部な可能性は低いんだろな

183日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:07:14.13
なぜか、あの辺りのw
山の上のほうに住んでいたんだよと言っていたり

184日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:07:26.32
コウヤマキの木棺が樹齢500-600年の巨樹古木で作られたという真実は、邪馬台国畿内説という仮説についての討論会に、どのような影響を与えるのだろうか、、、

185日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:10:41.03
>>184
まったく与えない

186日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:10:47.46
コウヤマキの木棺が樹齢500-600年の巨樹古木で作られたのだということは、材木の半径は、相当長いのだな、、、

187日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:14:04.61
>>182
中をくりぬくにしても、両端のいくらかは中心部まで残る。
そこまででなくても、厚み部位が12p違えば百年の時間差になる、で、ホケノの測定部位は??

188日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:14:16.70
>>186
つまり、材木としては大きすぎるので、測定された棺の年輪は、外側の物ではない可能性が高いのだな、、、

189日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:15:32.13
なぜ、奥山氏は、証拠が全く見つからない邪馬台国畿内説を宣伝しているのだろうか。。。

190日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:19:23.92
『姥清水』

ほんとーに・・・画像をググってみて、
紫の〜みたいな画像も出てきたり


なぜか?あの山の上のほうの話

191日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:20:24.96
丸太を削って四角にしたのだろうから、部位によっては30p位は削られたところもあるだろう。
此れだけで250年くらいの時間差になる

192日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:26:36.53
で、C14データを取ったホケノの木片の各部位は??

193日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:31:19.48
>>13
オオビコの系統も全部前方後円墳なんだけど?
左側スロープ君は、基本認識がデタラメのままチェリーピッキングしてるからどうやってもでたらめにしかならないww

194日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:31:21.45
驚いたな、、、
樹齢500年のコウヤマキの年輪は、直径が3メートルにはなるのだな、、、

195日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:32:34.57
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったな。

196日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:34:38.06
ホケノ山古墳は、5世紀の可能性もあるのだな、、、

197日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:37:16.80
無知な奥山氏は、昨日までは、コウヤマキが伐採と同時に年輪とは無関係に個体内全体で一斉に、閉鎖系になると勘違いしていたのだったね。

198日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:38:18.38
>>197
頭が悪いだけではなく、無知な奥山氏が、可哀想になってきたな。。

199日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:41:08.55
>>135
梅山古墳は蘇我稲目の墓とされているけれど、前方後円墳だねww
左側スロープ君は事実・現実の認識がおかしい

200日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:47:13.48
高天原は押し照るなにわだろ
天安河原は滋賀の野洲川
天の八衢が堺
すっきりするわ

201日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:48:01.82
>>124
大和説がひたすら、「南→東」などの嘘付き騙しを書き込んで、
それが読者にすぐわかる、
という非常に大和説に都合のいい流れが完全に定着したな

202日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:52:09.68
>>189
纒向になにもない→すべて韓人が教えた→すべて韓国へ返せ

203日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:55:01.00
畿内説にはもう悪口しか残ってない
信者のよりどころが悪口
終わってんな

204日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:55:22.31
>>127
自分の「南→東」などの主張を立証するどころか
内容の説明すら出来ないって
大和説は、なさけなすぎて
全国で失笑買うよ、それ

205日本@名無史さん2019/09/30(月) 21:56:51.24
日本語が通じていないのはキナイコシの方だろう?

206日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:05:43.30
>>128
>物部の興亡は大和での前方後円墳の存在時期とピタリ合う。<

九州の東海姫氏國の神職家と思われる高良大社の「古系図」に、
物部の呼称を持つ人の名が入っており、
物部氏の本家は(卑弥呼らと同じく阿毎氏から別れた)姫氏系であり、
「東征毛人五十五穀」の将軍や部将クラスであったようなんだよ。

207日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:06:19.48
高天原

高 高貴な
天 海の
原 集落

海人族の首長であったアマテラス(海の王)がいた高天原は海上にそびえる岩窟島だよ。
岩上祭祀で知られた世界遺産である沖ノ島が高天原だろうね。
だからこそ出雲にも筑紫にも船でたどり着けたし、筑紫への天孫邇邇芸の降臨は宗像三女神が守護したわけだ。
畿内にはもう一人の天孫である饒速日が降臨した。
その場所が交野であり、その末裔が大和朝廷で最大の氏族であった物部氏や、その眷属である尾張氏だ。
纒向はその尾張氏の出先の宮であることが、纒向から東海地方の土器ばかり多く見つかることでわかる。

208日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:20:08.28
>>199
>梅山古墳は蘇我稲目の墓とされているけれど

いやされてないし。

209日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:20:39.77
>>129
>>倭王武の上表文は「自昔・・・東征毛人五十五國」であるから、
長年に渡って何度も、次々と東征軍が来た事になる。<

>その理屈、九州の勢力(笑)が400年間以上にわたって何度も何度もずっと畿内を「東征」し続けたことになるんだけど<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
最初の東征は国生み神話の吉備や淡路などであり、
その後も瀬戸内周囲の高地性住居を引き起こし、
その次頃がニギハヤヒであり、次が五瀬や神武であり、
その後は、東征本隊は、河内や淀川から山城や近江や東海へ進んだようであり、
その本隊とは別の「別動隊」が阿波や紀伊や丹波方面を征服した、と思われる。

大和説者は、何時までも「南→東」などの嘘吐き騙し説では、
全国の小中学生に笑われるとかそういう危機感は持ってないの?

210日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:24:43.37
>>193
>オオビコの系統も全部前方後円墳なんだけど?

だから何?
その時代あたりから物部が外威となってるのでおかしくはないが、
だいたいオオヒコの墓も分からないのに何言ってるんだ、おまえ。

211日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:25:23.11
無知な奥山氏は、昨日までは、コウヤマキが伐採と同時に年輪とは無関係に個体内全体で一斉に閉鎖系になるという、全国の小中学生に笑われるとかそういう勘違いを、していたのだったね。

212日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:26:28.65
コウヤマキの木棺が樹齢500-600年の巨樹古木で作られたのだということは、材木の半径は、相当長いのだな、、、

213日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:28:22.13
>>132
>>いつ、どこで、誰が、「南=東」だなんて言い出したの?。<

>我々の誰も言ってないな<

大和説を唱える限り、「南=東」=という詭弁を弄した、という事だ。

>南と東が古来相兼ねるとは昔からよく言われてるけどね <

古来、普通の成人人類は「東西南北」の区別が出来たから、
このような大和説男が・・・・アホ詐欺師である、とバレていたけどね。

214日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:35:57.36
>>136
>>九州の衆夷は既に「服し終わって」いる。
だからこの投稿子の論理は破綻してる<

>その理屈だと九州に大型の前方後円墳があることを説明できる?<

九州は天円地方の思想が入る前に「服属」し終わっていたから、
巨大前方後円墳を造る必要がなかったの。

>出来ないよね 九州説は破綻している<

出来たよね。大和の前方後円墳説は既に破綻していた。

215日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:41:02.20
テンプレ撤去してコトバンク定説を参照したらいいの?

216日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:41:06.09
>>138
>>このように 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の特徴は
まったく証拠のないことを断定するところだね <

>「このように」って、どのように?<

「南→東」の証拠を示さないように。

>具体的に示してね それとも、また九州はありもしない事柄を捏造してるの?
具体的に指摘出来なければ、九州説が捏造事件を起こした証拠になるよ<

「南→東」とする証拠をする示さなければ、
大和説が捏造事件を起こした証拠になるよ。

217日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:46:03.75
素晴らしいコトバンクで勉強したら?

218日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:47:57.04
>>142
>天神地祇 先代旧事本紀は物部の史書。
当然、自分たちを天神とする。<

ふーん?。
そうすると、先代旧事本紀に東海姫氏國の地方の歴史が残っている、
という可能性があるのか?。

219日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:49:19.73
コトバンクがあるから急なキナイコシは休んでいる?

220日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:50:11.59
天神地祇はどっちが□でどっちが〇なんだよという話

221日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:50:28.09
>>146
「南→東」などの大和説は、
嘘吐き騙しであった事を、自覚しろよな。

222日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:51:47.88
>>189
纒向になにもない→すべて韓人が教えた→すべて韓国へ返せ

223日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:52:26.52
>>150
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の使う日本語が、
相手に通じるための最低限の要件を満たしてない件について

224日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:53:48.09
対馬の仏像は

225日本@名無史さん2019/09/30(月) 22:56:31.75
>>153
ここまでこのスレを読み進んだだけでも
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和者の、九州説を攻撃するほぼすべての投稿が
具体的な挙証を決定的に欠いている事実がわかるだろう。
それに「畿内」などという存在もしなかった嘘吐き騙し文言を使う。

つまり、大和説終了のお知らせである

226日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:00:37.15
>>155
「南→東」などの資料事実に反する 嘘吐き騙しは、
大和説にはたくさんあるな

さすが・・・・アホ詐欺師の大和説

227日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:02:44.31
>>179
また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
「南→東」の事実根拠の摘示をしなかった件について

228日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:05:31.07
>>165
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
「南→東」の説明から、逃げすぎ

229日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:07:04.45
物部氏が最高権力者だったのだろう。
軍事と祭祀を司っていたらしいからね。
女系相続で考えればヤマト王権=物部王朝だよ。
神武は居候させてもらっただけ。

230日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:07:56.41
>>172
九州説


終わったな

231日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:10:02.98
>>230の訂正(また途中で投稿ボタンを押した事になってしまった)

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説
終わったな

232日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:15:56.12
>>230
>>231
ザラコク爺さんお茶目だなwかわいいw

こんな夜中に声出して笑ってしまたwww

233日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:34:52.33
それに、してもw

あの写真(キュウリのような葉、葱の華)と、
龍宮〜鳳凰〜寒いな・・・同じ家なんだけど

傾いた松?何の話なんだろうw

234日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:37:56.89
テンプラ撤去してコトバンクで

235日本@名無史さん2019/09/30(月) 23:43:54.18
>>181
古木効果が年輪分もあるって、ソースあるの?
木が毎年成長するたびに内側が死んでいくって言ってるわけだろ?

236日本@名無史さん2019/10/01(火) 00:36:23.44
>>234
九州説また脳死か

237日本@名無史さん2019/10/01(火) 01:07:39.69
>>127
まあ、お主の意見は聞き置くが、倭国は九州で、倭種の国は大和周辺だということは魏略逸文、魏志倭人伝の記述からして曲げようがない。
その倭種の国が3世紀中頃以降、ヤマト王権に、ひいては平安王権へと発展していくんだから、それでいいじゃないか。
卑弥呼の時代にはまだ九州や山陽、山陰、近畿、東海などの各地方で勢力が分立していて列島には一元的な政権は出現していない。
その中で、大陸の魏王朝が目を付けたのが九州の倭国と大和などの倭種の国だったというわけさ。
そして、その九州の倭国が3世紀中頃以降、どうなったのかということが謎として残っているだけということだな。
ただ、5世紀頃になると、大陸の南宋王朝の列島への関心は大和の王権に向いて行くことがはっきりしており、九州には目が向かなくなっているよ。
ということは、3世紀中頃まであった倭国は5世紀には消えてなくなっていたということじゃないの?

238日本@名無史さん2019/10/01(火) 01:50:10.31
>>237
>まあ、お主の意見は聞き置くが、倭国は九州で、倭種の国は大和周辺だということは魏略逸文、魏志倭人伝の記述からして曲げようがない。

どんな記述をどう解釈すると
そういう結論が出る?
書いてることに全く内容が無いのだが

何度聞いても説明拒否ってことなので
  九州説=無内容
って結論出していい?


よさそうだよね

239日本@名無史さん2019/10/01(火) 02:30:02.30
>>131
前期方墳は出雲に集中しているそうだし、石井町の方墳は出雲系じゃないの?

240日本@名無史さん2019/10/01(火) 03:10:48.15
まあ、お主は自分でも研究してみたらどう?
魏略は冒頭で倭は帯方郡の南東にあるとしたすぐあとに、
さらに千里行ったところに別の倭種の国があると続けているのだから、
魏略の著者の視線がこの二つの地方に注がれているのは明らか。
3世紀前半当時に人口集積の最も高かったのは北部九州と大和周辺地方だったと思われることからすると、
対馬海峡を渡ったところにある倭とそこから東へさらに千余里行ったところにある倭種の国が、
それぞれ北部九州と大和周辺地方の二つの地方に該当することはごく自然な比定だと思うがね。
そして、前者の倭には女王の国があるわけだから、卑弥呼がいたのは北部九州だったとすることになんの不都合もないのじゃないのかな。

241日本@名無史さん2019/10/01(火) 04:05:53.95
>>240
北部九州に15万戸+旁国を全部押し込むことなんかできるわけがない
韓伝との比較で、倭国の人口密度が10倍以上になってしまう
ありえない

242日本@名無史さん2019/10/01(火) 05:02:21.09
>>240
>魏略は冒頭で倭は帯方郡の南東にあるとしたすぐあとに、
>さらに千里行ったところに別の倭種の国があると続けているのだから、

卑弥呼がいたのは北部九州だったとすることになんの不都合もない?
おやおや
「倭国は九州で、倭種の国は大和周辺だということは魏略逸文、魏志倭人伝の記述からして曲げようがない」
から、すっかり後退しましたね
「曲げようもない」→「なんの不都合もない」www
理由を聞かれたら青菜に塩ですかw


奈良県だって帯方郡から見れば東南だから
卑弥呼がいたのは纏向だった、とすることになんの不都合もないですね

九州説また論破されちゃいました
チョロすぎです


ww

243日本@名無史さん2019/10/01(火) 07:17:18.38
哀しく喚いてるだけで論破になってない

244日本@名無史さん2019/10/01(火) 07:24:12.92
>>239
真逆だよ。   @阿波

245日本@名無史さん2019/10/01(火) 07:30:28.67
>>239
全国に、今もって名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。   @阿波

246日本@名無史さん2019/10/01(火) 07:49:36.86
>>239
そうだよ。
蘇我も出自を葛城だと自称してるし、基本、方墳の一族。

BC3世紀ころ、四国や近畿各地に出雲族が拡散、これは加茂岩倉からの銅鐸拡散でわかる。

その王統が住んだのが葛城の高天原(御所市高天)

247日本@名無史さん2019/10/01(火) 07:55:37.98
>>220
>天神地祇はどっちが□でどっちが〇なんだよという話

元々は先代旧事本紀で地祇とされてる高天原(御所市高天)の神々の末裔が天孫であった。
だから蘇我は天孫であった。
が、大化の改新があったからね。
中臣と物部は太古から婚姻関係を結ぶほど仲が良かった。

248日本@名無史さん2019/10/01(火) 07:58:44.53
>>246
>BC3世紀ころ、四国や近畿各地に出雲族が拡散、これは加茂岩倉からの銅鐸拡散でわかる。

真逆だよ。   全国に、今もって名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。   @阿波

249日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:07:22.46
中国の史書に倭国の話が出てくるのは紀元前1世紀くらいから。
それで、卑弥呼の話が西暦240年代。
つまり、この間が250年くらいある。
250年といえば、江戸時代の長さと同じぐらいあるってこと。
この間、そうとう、いろいろなことがあったと見るべき。

250日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:12:04.00
広義には、高天原という地名は
高野山と天野山の山間の地域のことをそういったと思われる。
二つの山の名称をとって、この山間の地域の子を高天といった。
つまり、高天原のことだ。
 
現在、高天の地名は、御所市高天に残っているが
神話に出てくる高天原とは、御所市高天の狭い地域だけではなく、
高野山と天野山の山間を中心とした広範囲だったと思われる。
古代には、奈良盆地の中心部に浅くて広い湖が広がっていたことから、
その湖の南岸の地域を高天原といったのであろう。

251日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:19:58.79
>>249
其の通りだ
250年間、或はそれ以上にわたって取ったり取られたりの戦国時代が続いたわけだ。
曲がりなりにもそれをまとめたのが共立の卑弥呼〜臺与の体制

252日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:24:55.80
>>246
>蘇我も出自を葛城だと自称してるし


「倭国(阿波)内 忌部一族主要氏族の本拠地」   @阿波

物部氏(後の忌部氏か) :: 旧麻植地域

葛城氏 : 鳴門北灘地域  

中臣氏 : 板野地域  

蘇我氏 : 石井地域

253日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:30:40.19
>>243
>哀しく喚いてるだけで論破になってない

おいおい
ひとことも反論できないの?
九州説みじめすぎる

254日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:49:32.55
友人の作製した勤務シフトでは、今日の僕達は、1日中、休みだったな。

255日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:53:22.06
>>193
>オオビコの系統も全部前方後円墳なんだけど?
左側スロープ君は、基本認識がデタラメのままチェリーピッキングしてるからどうやってもでたらめにしかならないww<

「大彦」も、
九州倭國側の「東征毛人五十五國」の将軍の一人であった可能性が高いな。
そして、新規征服地にそれを毛人蝦夷達に示すモニュメントとして、
各地に前方後円墳を造った。

類スレ主君は、「南→東」などのように、
基本認識がデタラメのままチェリーピッキングしてるから、
どうやってもでたらめにしかならない

256日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:53:42.16
>>254
しかし、夏休みが終わって、県外の学部に戻って行った者と、県内の学部に帰ってきた者が入れ替わって、勤務シフトがまた大幅に変換されたので、勤務シフトは破綻しやすくなったのだったな。。。

257日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:55:45.56
>>256
奥山氏のように、年中24時間、完全に時間が余っている人員を雇用できれば、友人の勤務シフトは安定するのだったね。。。

258日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:57:32.31
昨日の最も重要な話題は、荒野の薪の年輪ではなく、高野槙の年輪のことなのだろうか。。。

259日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:58:09.83
>>200
>高天原は押し照るなにわだろ 天安河原は滋賀の野洲川
天の八衢が堺 すっきりするわ <

根本的に「南≠東」と、
九州倭國の「東征毛人五十五國」で説明が付いてしまう、
という事で、×だな。

260日本@名無史さん2019/10/01(火) 08:59:17.22
コウヤマキとは、どのようなマキなのだろうか。。。

261日本@名無史さん2019/10/01(火) 09:02:40.16
今まで税込みで80円だったみたらし団子を、店先で食べると、これからは税込みで幾らになるのだろうか。。。

262日本@名無史さん2019/10/01(火) 09:08:01.70
今まで税込みで80円だったみたらし団子を販売するための費用は、幾らになるのだろうか。。。

263日本@名無史さん2019/10/01(火) 09:26:26.48
完全に破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するための費用は、幾らになるのだろうか。。。

2641 ◆5dGOS0ljLIrF 2019/10/01(火) 10:20:30.11
奥山は認知症が悪化して生きる死に体となってしまったのでテンプレは修正不能とのこと。

2651 ◆UiepmfCeDJqf 2019/10/01(火) 10:21:05.95
トリップを間違えたな

266日本@名無史さん2019/10/01(火) 10:31:15.69
ホケノのコウヤマキのサンプルはどの部位・年輪層からとったのかな。
なんせ樹齢数百年の材だから、採取位置が12p違えば100年の時間差になる。まだ追加情報がないな、、、

267日本@名無史さん2019/10/01(火) 10:46:15.65
倭種の国は出雲や吉備を伝え聞いたものだろうな。
大和をそこまで持ち上げる必要もない。

268日本@名無史さん2019/10/01(火) 10:53:32.59
鹿せんべいには軽減税率が適用されなかったのだろうか。。。

269日本@名無史さん2019/10/01(火) 10:55:06.35
>>236
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説、
また脳死か

270日本@名無史さん2019/10/01(火) 10:55:06.37
>>266
5サンプルが綺麗に2グループに分かれてて4、50yBP差だから棺側面だろう

271日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:18:24.23
無知な奥山氏に、板目や柾目のことを理解させられる、優れた人物がスレッドに出現するだろうか。。。

272日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:19:43.16
巨樹の丸太を削って四角に仕上げたのであろうから、
同じ棺の側面でも、中心部(中心線)に近いほど古く出るし、上端・下端に近いほど新しく出る。

そしてそれらが、樹皮表面からどれくらいの距離(深さp)にあったかも大事な要素だ。
腕の良い紀州の宮大工や製材業者が棺を見れば、およそどれくらい削ったかは推測つくと思うけどな。

273日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:21:29.20
>>237
>まあ、お主の意見は聞き置くが、倭国は九州で、倭種の国は大和周辺だということは魏略逸文、魏志倭人伝の記述からして曲げようがない<

魏略逸文は、それだけで後代史家の自己解釈が入っており、半分×書であり、
魏志も含めて、大和を特定出来る文言が存在しないから、大和説は×。

>その倭種の国が3世紀中頃以降、ヤマト王権に、ひいては平安王権へと発展していくんだから、それでいいじゃないか。
卑弥呼の時代にはまだ九州や山陽、山陰、近畿、東海などの各地方で勢力が分立していて列島には一元的な政権は出現していない。
その中で、大陸の魏王朝が目を付けたのが九州の倭国と大和などの倭種の国だったというわけさ。
そして、その九州の倭国が3世紀中頃以降、どうなったのかということが謎として残っているだけということだな。<

ダメだ。九州倭国の別種分家の大和の発展は、
3世紀後半の東征将軍らに拠って3世紀末からであり、
6世紀から独立的になり、7世紀の白村江の後で九州倭国を併合吸収継承したの。

>ただ、5世紀頃になると、大陸の南宋王朝の列島への関心は大和の王権に向いて行くことがはっきりしており、<

ダメだ。大和が中国に独立国を申し出たのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の7世紀始の始めだ。

>九州には目が向かなくなっているよ。
ということは、3世紀中頃まであった倭国は5世紀には消えてなくなっていたということじゃないの?<

×だ。

274日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:22:31.04
>>240
>さらに千里行ったところに別の倭種の国があると続けているのだから、
>魏略の著者の視線がこの二つの地方に注がれているのは明らか。

九州説は本当に旧唐書が好き過ぎるなw

魏略にも魏志倭人伝にも「別の倭種」なんて一言も出てこないよw
正しくは「皆倭種」だ

魏略の書き方だと、拘邪韓国から渡海千里で進んでいく対馬も壱岐も倭国本土も
「みんな」倭種と書いてあるだけだ

275日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:23:37.52
>>237
>倭国は九州で、倭種の国は大和周辺だということは魏略逸文、魏志倭人伝の記述からして曲げようがない。

繰り返すが、これがバカしかしない誤読だww

276日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:24:13.69
薪を縦に真ん中で2つに割り、割れた面は、柾目だったな。。。

277日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:25:25.97
>>238
類スレ主は、どんな記述をどう解釈するとそういう結論が出るのか?、
書いてることに全く内容が無いのだが
「南→東」などと同じように、いつも反論や説明拒否ってことなので
  大和説=無内容
って結論出していい?
よさそうだよね

278日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:26:44.58
>>272
>巨樹の丸太を削って四角に仕上げたのであろうから、

物知らず乙w

ほけの山古墳は割竹型木棺だ
丸木舟のような形を上下に合わせる形式

丸太を四角く削るってww
妄想が過ぎるぞw

279日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:26:55.29
刳り抜いた面の残っている面の目は、板目だったのだろうか、、、
それとも、柾目だったのだろうか。。。

280日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:29:00.55
丸木の樹皮を加工せずに、棺にすると、底が安定しないのではないのかな。。。

281日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:30:12.93
樹皮側を全く加工しない木材を、棺にするだろうか。。。

282日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:32:02.64
>>271
樹木の上部は、根本よりも年輪が少ないことを、頭の悪い奥山氏は理解できるだろうか。。。

283日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:38:08.86
漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」

<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
 
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
 
 そして古代倭国との関係について
 日本国使者があれこれ言い訳をする。

「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
 ↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる

284日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:43:45.53
もし隋書の邪靡堆=邪馬臺であるのなら、「邪靡堆者,古邪馬臺也。」と記述されていたはずだ。
しかし「いわゆる邪馬臺だ」という表現が使われていることから、「邪靡堆」と「邪馬臺」が
似て非なるものだと考えるのが当然である。

285日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:44:52.42
水分を抜くために、伐採した樹木を数十年野積みにするのだったな。。。

286日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:47:12.28
纏向遺跡の出土品は、邪馬台国とは全く関係の無いものばかり。

■木製の仮面について

『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。(←関係無い話なのに関連付けようとする印象操作w)
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。
(←やはり東日本勢力傘下だった痕跡かw)
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』

纏向は東日本に居た縄文系民族の名残りであり、大陸系弥生時代とは関係ないんだな、フムフム。

287日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:48:34.25
>>283
>※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる

当たり前。
倭国は阿波。  日本は遷都後の奈良大和。  奈良大和の使者の認識は当たり前。   @阿波

288日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:50:05.31
>>285
樹皮側は、その後、剥ぎ取り、削ってしまうのだったな。。。

289日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:52:02.24
高野槙の棺のデーターを、把握しているが、発表しない者がいるのではないのかな。。。

290日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:52:25.40
290

291日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:54:08.19
>>283
>「日本國者,倭國之別種也。」
>(日本国は倭国とは別種である)

これが既に誤読
日本国は倭国の「別種の呼び方」である
が正しい

その証拠に新唐書では、倭国伝はなく日本伝の最初が
日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居 東西五月行南北三月行
で始まる

これが、旧唐書の倭国伝の最初と同じだってことくらいは分かるよな?
倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里 在新羅東南大海中依山島而居 東西五月行南北三月行

292日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:57:33.38
>>289
高野槙の棺も、カニ出現時に発せられたエネルギーによって発生した2次宇宙線の中の大量の熱中性子線を浴びたので、データーとしては役に立たないのではないのかな。。。

293日本@名無史さん2019/10/01(火) 11:58:34.52
>>291
>倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里 在新羅東南大海中依山島而居 東西五月行南北三月行

まさに大海の中の四国を表している。  わははははは   @阿波

294日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:00:07.23
>>280
>丸木の樹皮を加工せずに、棺にすると、底が安定しない

九州説の大好きな平原1号墓も割竹型木棺と想定されている(木棺自体は朽ちて残っていない)が
それは、棺の下の土が割竹型木棺を支える形で残っていたからだよ

平らなところに丸いものを置く訳ではない
こういうところも、もの知らずが適当に書いているってのが丸分かりになるところ

九州説にはバカしかいない
まあ、連続句読点は中でも際立っているけれどw

さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

295日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:00:56.35
>>291
旧唐書では日本人は「日本古倭奴也」と説明できる状態ではなかったわけだ。
新唐書でようやく「日本古倭奴也」と言える状態に落ち着いた。
そして「日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている。」と記述された。

もともとヤマトなんて無かったんだよ。

296日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:02:10.57
>>278
オレは其のコウヤマキの棺を見たこともないし、まだ寝かされたこともない。
竹を真っ二つに割っただけのような表面未加工のものかも知らぬが、それではゴロゴロ転がるし、棺を担ぐにも不便だ。
だから加工したのかと思ったが、割っただけというなら其の実物写真なり、図面也があるだろう??

297日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:02:41.78
だが、発見された、刳り抜かれた棺の底部の樹皮側は、どれも腐ってしまっていたので、残っていないな。。。

298日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:04:11.40
つまり、土で支えていたので、樹皮側は残らないのだな。。。

294日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:00:07.23
>>280
>丸木の樹皮を加工せずに、棺にすると、底が安定しない

九州説の大好きな平原1号墓も割竹型木棺と想定されている(木棺自体は朽ちて残っていない)が
それは、棺の下の土が割竹型木棺を支える形で残っていたからだよ

299日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:05:04.53
奥山氏が、自爆したのではないのかな。。。

298日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:04:11.40
つまり、土で支えていたので、樹皮側は残らないのだな。。。

294日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:00:07.23
>>280
>丸木の樹皮を加工せずに、棺にすると、底が安定しない

九州説の大好きな平原1号墓も割竹型木棺と想定されている(木棺自体は朽ちて残っていない)が
それは、棺の下の土が割竹型木棺を支える形で残っていたからだよ

300日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:07:53.68
>>288
つまり、支えた土より、上部の棺側面も、樹皮直下ではないのだったな。。。

301日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:09:47.13
>>300
伐採から野積みが数十年、剥ぎ取り削った分も数十年。。。。
つまり、棺の側面とはいえ、伐採から100年以上のデーターで、さらに中性子まで捕獲しているのだね。。。

302日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:10:49.88
>>301
200年足せば、ちょうど良いな。。。

303日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:14:48.92
>>298
平原は表面未加工のまま土の上に置いたのかも知らぬが、ホケノもそうだったとは限らぬ。
ただどの墓にせよ、もし未加工のまま土の上に置きその面が腐っても、それ以外には残って原型をとどめていた部分もあっただろう。
それすらも残っておらず、部位不明というなら、残念ながらデータそのものが使いづらい。

304日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:20:48.90
>>295
>旧唐書では日本人は「日本古倭奴也」と説明できる状態ではなかったわけだ。
>新唐書でようやく「日本古倭奴也」と言える状態に落ち着いた。

ただの妄想ですねww
そして、結局は「日本は古倭奴なり」が正しい公式見解になったことを軽視しているw

305日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:22:08.45
平らなところに丸いものを置く訳ではない
こういうところも、もの知らずが適当に書いているってのが丸分かりになるところ

九州説にはバカしかいない
まあ、連続句読点は中でも際立っているけれどw

さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

306日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:24:23.16
さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

3071 ◆UiepmfCeDJqf 2019/10/01(火) 12:26:49.86
奥山は妄想を基軸とする思考しか残っていないので、正常な者達とは会話が成立しないのでは、ないのかな。。。

308日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:31:32.02
>>304
そもそも邪馬台国の話題で新唐書を持ち出してる時点で歴史音痴ということなんだが?
唐側の記録と日本側合の言い分が合わないので摺合せを行っていた時期だぞ。
新唐書は藤原氏が書いたとも言われている。

309日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:39:42.72
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の、頭の良くない奥山氏が、樹木の段階的な閉鎖系の進行についての無知を暴かれ、高野槙のデーターの実態を指摘され、完全に論破されたので、討論の内容にとっては意味のない嘘の悪口を繰り返すしているな。。。

305日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:22:08.45
平らなところに丸いものを置く訳ではない
こういうところも、もの知らずが適当に書いているってのが丸分かりになるところ

九州説にはバカしかいない
まあ、連続句読点は中でも際立っているけれどw

さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

306日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:24:23.16
さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

310日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:43:50.69
ホケノの小枝は確かに4世紀を示しているな
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

311日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:45:56.47
ホケノ山の高野槙の棺の腐らずに残っていた部分というのは、高野槙が伐採された年代とは、無関係だったことが明らかになったのだが、
この棺の年輪を、年輪年代法の想定している年輪パターンと比較しての年代決定は、なぜ、実行されなかったのだろうか、、、
それとも、この棺には、年輪と平行する切断面が発見できないほど、朽ち果てていたのだろうか。。。

312日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:49:02.20
ホケノの小枝にも、カニの光線が浴びせられたので、ホケノ山古墳が出現したのは5世紀なのではないのかな。。。

313日本@名無史さん2019/10/01(火) 12:58:37.53
>>305
平原1号の木棺は朽ち果てて残っていなかったのだから、コウヤマキだったとは確定していないのだな。。
そんな九州の地方事例を出すより、ホケノの棺の下はどうなっていたのか・・、
やはり、丸太割竹型の木棺を直接置けるよう掘り下げられていたのかな。発掘したのだから記録はあるだろう。

314日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:03:24.96
形はどうであれ、丸太の表面を加工せずに、棺にしてしまうほど、前方後円墳王国の者達は、銅鐸王家の者達の死体の葬儀を粗雑に実行したのだろうか、、、
ましてや、邪馬台国畿内説が想定する被葬者は、棺を納めた者達の身内なのではないのかな。。。
もし、そうならば、樹皮から何十年分もの年輪木部まで、滑らかになるまで削り、美しい棺を作製したのではないのかな。。。

315日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:08:05.82
>>308
>そもそも邪馬台国の話題で新唐書を持ち出してる時点で歴史音痴ということなんだが?

でも旧唐書は信頼しますってか?
バカ丸出しだろ?w

唐会要、旧唐書、新唐書と並べて解釈すればいいのに、
旧唐書の都合のいいところだけ拾って、新唐書はダメって、
チェリーピッキングの奥義炸裂って感じかな?

九州説はチェリーピッキングの小さな土台の上に巨大な妄想の大建築を載せるw

316日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:09:25.96
>>315の補足
唐会要、旧唐書、新唐書と並べて解釈すれば、
旧唐書の倭国伝の倭国も、日本国もどちらも大和朝廷であることが分かるんだよ

317日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:12:52.95
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、論破されると、あまり意味の通じないことを喚き出すのだったな。

315日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:08:05.82
>>308
>そもそも邪馬台国の話題で新唐書を持ち出してる時点で歴史音痴ということなんだが?

でも旧唐書は信頼しますってか?
バカ丸出しだろ?w

唐会要、旧唐書、新唐書と並べて解釈すればいいのに、
旧唐書の都合のいいところだけ拾って、新唐書はダメって、
チェリーピッキングの奥義炸裂って感じかな?

九州説はチェリーピッキングの小さな土台の上に巨大な妄想の大建築を載せるw

316日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:09:25.96
>>315の補足
唐会要、旧唐書、新唐書と並べて解釈すれば、
旧唐書の倭国伝の倭国も、日本国もどちらも大和朝廷であることが分かるんだよ

318日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:15:05.16
>>317
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人のプロ固定は、5ちゃんねるを活発化させるためのサクラなので、仕方ないのではないのかな、、、

319日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:19:29.49
纒向での発見物体の炭素14年代や年輪年代のデーターには、他にどのようなデーターがあるのだろうか。。。

320日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:20:40.03
ホケノ山古墳の棺の周りの地中には、桃の種は無かったのだろうか。。。

321日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:24:33.52
>>240
つか、これがバカの典型

>さらに千里行ったところに別の倭種の国があると続けているのだから、
>魏略の著者の視線がこの二つの地方に注がれているのは明らか。

あれは、あくまでも唐代の人が作った抜き書きであって
魏略の著書が続けて書いたのではない

322日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:33:36.08
魏略という文章が、あるのではないのかな。。。

323日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:34:22.38
倭人が、呉の者達だったことを、告白したのだったな。。。

324日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:36:53.64
旧唐書 → 会稽、東冶の東にあると思ってたけど奈良から来た 別種だな
新唐書 → 戦乱で不足していた資料を調べたら同じだったので修正

つまり旧唐書に書かれていることは間違ってると当時の中国人は考えた
九州が別種と主張するけど
九州北部は候補から外れるからな 会稽、東冶の東
旧唐書が九州北部に邪馬台国があったのをあらわしてるということはない

325日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:38:27.87
マジで九州は勉強不足だと思うわ

326日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:44:19.24
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏は、どのような勉強をしても、頭が悪いので、物事を理解できないのだったな。。。

327日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:45:25.02
>>92

帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶≒邪馬台国(12,000里)

中国大陸での道里の、倭国への転用か(納得)!

328日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:47:02.75
九州説を主張しているサイトしかみないんだろ
そしてそこに書かれてる都合のいい部分を取り上げるが
ちゃんと多角的知識がある人から見れば穴がある

329日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:47:12.51
これは、勉強して得た真実の物事ではなく、勉強して得た物事を基にした奥山氏の空想でしかないな。。。

324日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:36:53.64
旧唐書 → 会稽、東冶の東にあると思ってたけど奈良から来た 別種だな
新唐書 → 戦乱で不足していた資料を調べたら同じだったので修正

つまり旧唐書に書かれていることは間違ってると当時の中国人は考えた
九州が別種と主張するけど
九州北部は候補から外れるからな 会稽、東冶の東
旧唐書が九州北部に邪馬台国があったのをあらわしてるということはない

330日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:48:49.30
ちゃんと多角的知識がある人から見れば、ホケノ山の高野槙の棺のデータには、重大な穴があるのだね。。。

331日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:49:35.48
>>330
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。。。

332日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:55:01.17
形はどうであれ、丸太の表面を加工せずに、棺にしてしまうほど、前方後円墳王国の者達は、銅鐸王家の者達の死体の葬儀を粗雑に実行したのだろうか、、、
ましてや、邪馬台国畿内説が想定する被葬者は、棺を納めた者達の身内なのではないのかな。。。
もし、そうならば、樹皮から何十年分もの年輪木部まで、滑らかになるまで削り、美しい棺を作製したのではないのかな。。。

333日本@名無史さん2019/10/01(火) 13:58:00.79
333

334日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:02:35.33
>>324
>旧唐書 → 会稽、東冶の東にあると思ってたけど奈良から来た 別種だな

これは違うと思うよ
隋書656年の時点で、大陸の倭国に対する地理観は修正されている

何度も書くけれど、旧唐書の日本國者倭國之別種也は
日本国は倭国の「別種の国」である ではなく
日本国は倭国の「別種の名乗り(国号が変わった)」である という程度の意味

335日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:05:38.12
これは、勉強して得た真実の物事ではなく、勉強して得た物事を基にした奥山氏の空想でしかないな。。。

334日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:02:35.33
>>324
>旧唐書 → 会稽、東冶の東にあると思ってたけど奈良から来た 別種だな

これは違うと思うよ
隋書656年の時点で、大陸の倭国に対する地理観は修正されている

何度も書くけれど、旧唐書の日本國者倭國之別種也は
日本国は倭国の「別種の国」である ではなく
日本国は倭国の「別種の名乗り(国号が変わった)」である という程度の意味

336日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:08:58.14
さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

337日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:13:04.38
中国じゃ、政権(王朝)が変われば国号も変わるのが当然なんだ
近江朝を打倒した天武の「日本」を別種と認識した中国人がいて何の不思議もないし

338日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:13:48.49
>>328
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

339日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:16:14.10
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の、頭の良くない奥山氏が、樹木の段階的な閉鎖系の進行についての無知を暴かれ、高野槙のデーターの実態を指摘され、完全に論破されたので、討論の内容にとっては意味のない嘘の悪口を繰り返しているな。。。

336日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:08:58.14
さもなきゃ、嫌がらせでムダスレを乱立するようなことはしないからなw
まともな人間のやることではない
つまり、連続句読点はまともな人間ではないw

340日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:18:04.25
340

341日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:27:11.24
相変わらず畿内説の誰が誰なのか区別がついてない連句点

342日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:33:34.50
>>315
チェリーピッキングでも無いし何焦ってんだ?w

>>316
畿内脳内歪曲解釈乙w

文章読解力に欠けるというより畿内ありきの解釈しかしない宗教だなwww

343日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:36:03.90
>>324
だから新唐書で改めて天皇は九州から来た旨が記述されてるだろ。
もともと九州だったということ以外の解釈は曲解じゃねえのか?

344日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:38:29.81
>>334
ズレとるな?
重要なのはここだが。

「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
 ↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる

345日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:39:44.61
畿内説の方がチェリーピッキングしてるようにしか見えないんだが?

346日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:44:04.12
このスレッドで、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人達は、皆、奥山氏と脳の活動のレベルが全く変わらないので、区別する必要がないな。。。

341 名前:日本@名無史さん 2019/10/01(火) 14:27:11.24
相変わらず畿内説の誰が誰なのか区別がついてない連句点

347日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:47:46.05
>>346
奥山氏が、他のキャラクターのつもりで演じ分けている可能性が高く、他のキャラクターを奥山氏と呼ばれるのを嫌がっているので、全てのキャラクターを、キナイコシと呼んであげれば良いな。。

348日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:48:10.83
キナイコシは、頭が悪いな。。。

349日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:49:39.78
倭国と日本国は、併行していた時間があったのだったね。。。

350日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:50:49.37
倭国が、まず建国して、その一部が独立して、日本国になり、最後には、日本国が倭国を滅ぼしてしまうのだったな。。。

351日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:50:53.23
>>343
それ、単なる記紀まんまだろ
九州説に有利な要素は何もない

352日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:52:28.95
>>351
お前さっきからかなりズレてねえか?w
あたまおかしい人?w

353日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:53:06.85
日本国は、元々は、倭国が奈良盆地に設置した銅鐸王家封印部門だった可能性が高いな。。。

354日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:54:25.07
たまたま通りかかった新参だろう。
畿内教信者としての修行が足らんなw

355日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:55:41.56
>>353
倭国の銅鐸王家封印部門の、部長だった崇神天皇が、部員を引き連れて倭国から独立してしまうのだったな。。。

356日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:59:17.36
真っ先に魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」の間違いであることを証明出来ない畿内説は、
その後について何を言ってもそれは妄想でしかないということを理解できないのかな?
そこまで論理性に欠けるとなればおそらく畿内説は日本人じゃ無いよな?

会稽東冶の東と記載されている地域は、ちょうど九州あたりですね。

「混一疆理歴代国都之図」
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

357日本@名無史さん2019/10/01(火) 14:59:54.64
>>344
>重要なのはここだが。
>「日本舊小國,併倭國之地。」
>(小国だった日本国が倭国を併合した)
> ↑
>※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる


倭国が分裂崩壊して、分かれた中の一つである日本がもと倭国だった地を統一したってことだろ?
それがどうかしたのか?

358日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:01:03.46
バンビシャスの興行が、行き詰ってしまわない様には、どうすれば良いのだろうか。。。

359日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:01:50.45
倭国と日本国は、併行していた時間があったのだったね。。。

360日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:01:51.72
>>351
新唐書は記紀を参照したんだから当たり前だろ?
なお若干内容が違っており、それは記紀が後世で改ざんされたからだと言われている。

361日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:02:16.80
倭国が、まず建国して、その一部が独立して、日本国になり、最後には、日本国が倭国を滅ぼしてしまうのだったな。。。

362日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:04:21.92
>>358
奈良県の着ぐるみ達を、中央体育館に集合させて、ダンスをして貰えば良いのではないのかな。。。

363日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:05:43.16
>>362
桜井市には、人気の高い着ぐるみは、いただろうか。。。

364日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:07:10.51
>>357
つまり3世紀時点で倭国として朝貢していたのは北部九州であり、
分裂した狗奴国(畿内政権など)は国内(東日本)との交流に没頭していたんだろ?
纏向遺跡がそれを物語っているじゃないか。
よって邪馬台国というのは北部九州時代の倭国の中の一国もしくは女王国の別称と解釈するのが自然だろ?

365日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:08:23.56
しかし九州倭国とか、存在を裏付ける証拠が何もないのに、
なぜここまで信じることができるのか理解できん

366日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:11:16.51
>>342
具体的な反論が「一切ない」んだが?ww

お前、バカだろ?

367日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:13:03.48
九州で発見された金印の、漢委奴国王印という刻印の中の「委」は倭の事である可能性が高いな。。。

368日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:13:27.96
バンビシャスの興行が、行き詰ってしまわない様には、どうすれば良いのだろうか。。。

369日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:14:09.86
キナイコシは、頭が悪いな。。。

370日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:14:27.23
370

371日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:14:38.23
>>356
>真っ先に魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」の間違いであることを証明出来ない畿内説は、
>その後について何を言ってもそれは妄想でしかないということを理解できないのかな?

まっ先に畿内説は、考古学を用いて邪馬台国が畿内にあったことを立証した
それが、魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」の間違いであることの証明だよ


>会稽東冶の東と記載されている地域は、ちょうど九州あたりですね。

文献にそう書かれているんだから、そういう地図を作るさ
それが何か?

372日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:15:31.05
>>241
>北部九州に15万戸+旁国を全部押し込むことなんかできるわけがない
韓伝との比較で、倭国の人口密度が10倍以上になってしまう
ありえない<

倭国(≒女王國)には南九州の投馬國も含まれ、その範囲は、
狗邪韓國から投馬國の間の「九州島およびその周辺の島々国などを含めた全域」だ。
そして、馬韓は「總十萬餘戸」であり、
「弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」であり、
「韓伝との比較で、倭国の人口密度が10倍以上になってしまう」
なんて事は有り得ない。

373日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:17:01.86
>>366
まずお前の言った内容を読み直せw

反論する対象となる「論」が無いだろバカw

374日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:17:41.48
>>344
>「日本舊小國,併倭國之地。」
>(小国だった日本国が倭国を併合した)
> ↑
>※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる

大陸の史書は、以前の史書を参照して撰述するってのを理解してるか?
その部分は、宋書の倭王武の上表文の意訳だよ

自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
王道融泰廓土遐畿

小国だった倭王武の祖先の国が、東征、西服、渡平海北して、
倭国の地を一つに併せたんだよ
卑弥呼が共立された邪馬台国・ヤマト国の時点で、各地の豪族は
事実上独立領主であり、そのまま各地の豪族(国造・県主)になっていくんだから

こういう歴史の流れを理解しないチェリーピッキングが九州説のあり方
間抜けでしょうがない

375日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:18:41.28
>>371
新参なら過去スレから読み返して出直せバカw

376日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:19:09.69
>>360
>なお若干内容が違っており、それは記紀が後世で改ざんされたからだと言われている。

こういうところも「捏造で脳内補完」、九州説の常だな
記紀と内容が異なるのは、大陸人が日本のことに興味がなくていい加減だからだよ

377日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:19:58.27
>>364
>つまり3世紀時点で倭国として朝貢していたのは北部九州であり、

根拠でもあるの?

ww

378日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:20:15.23
無知な奥山氏は、昨日までは、コウヤマキが伐採と同時に年輪とは無関係に個体内全体で一斉に、閉鎖系になると勘違いしていたのだったね。

379日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:20:53.65
>>242
>奈良県だって帯方郡から見れば東南だから
卑弥呼がいたのは纏向だった、とすることになんの不都合もないですね<

「邪馬壹國女王之所都」は不彌國の直ぐ南であるから、筑紫付近の北部九州であり、
纏向は、不彌國の東だから、×だよ。
大和説また論破されちゃいました チョロすぎです。

380日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:22:48.22
>>357
>倭国が分裂崩壊して、分かれた中の一つである日本がもと倭国だった地を統一したってことだろ?

倭国は分裂崩壊してないよ
近江朝も、飛鳥浄御原朝も、倭国だし

381日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:23:03.94
>>378
奥山氏が頼みにしていた、邪馬台国畿内説が成立するための生命線である高野槙の棺についての討論で論破され、
文献の解釈という、曖昧にする余地がある話題に逃げ込んでしまったな。。。

382日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:24:46.78
>>379
>「邪馬壹國女王之所都」は不彌國の直ぐ南であるから、筑紫付近の北部九州であり、

その古田特殊読みは根拠がなくて矛盾もあるので、マトモな人は誰も信じないよ

383日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:25:27.68
>>373
>反論する対象となる「論」が無いだろバカw

日本國者倭國之別種也の訳は

日本国は倭国の別種(の国)なり ではなく
日本国は倭国のことであり別種の国号が日本である が正しい

この論に対して、反論できないんだろ?ww

384日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:25:54.41
>>374
>大陸の史書は、以前の史書を参照して撰述するってのを理解してるか?

常識だろバカw
だから隋書でわざわざ邪靡堆と書き改められたのは、変化したからだということだ。

そして纏向遺跡が九州とは疎遠で東海との付き合いが深かったことを示してるんだから、少なくとも纏向は論外という事だ。

東海と邪馬台国の交流が深かったなら、東の倭種の国などとそっけない書き方されるのもおかしいよな?w

385日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:26:45.62
>>253
おいおい
「南≠東」などの嘘付き騙しの指摘に、
ひとことも反論できないの?
大和説みじめすぎる

386日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:27:25.91
>>381
>奥山氏が頼みにしていた、邪馬台国畿内説が成立するための生命線である高野槙の棺についての討論で論破され、

高野槙の棺なんて大して重要視されてないし
邪馬台国畿内説が成立するための生命線でもないし
そして論破もされていない

387日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:28:08.82
>>376
>記紀と内容が異なるのは、大陸人が日本のことに興味がなくていい加減だからだよ

何の根拠も述べずあからさまに脳内補完してるのはお前だろwww

388日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:29:13.02
>>376
>記紀と内容が異なるのは、大陸人が日本のことに興味がなくていい加減だからだよ

畿内説は、都合が悪くなるとすぐ「その史書はいい加減」と決め付けて逃げてしまう。
それはもう議論に負けたということだよ。

389日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:29:31.80
>>385みたいなウソを書くから九州説が信用を失った

390日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:29:44.37
>>377
根拠のない畿内説にそんなことを言う資格はない。

391日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:30:03.81
>>380
>近江朝も、飛鳥浄御原朝も、倭国だし

根拠は?

392日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:30:13.95
何者かの空想に対して、その空想が真実ではないと反論することは、誰の義務でもなく、
逆に、何者かの空想が、真実だと宣伝するためには、空想する者が努力するしかないのだったな。。。

383日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:25:27.68
>>373
>反論する対象となる「論」が無いだろバカw

日本國者倭國之別種也の訳は

日本国は倭国の別種(の国)なり ではなく
日本国は倭国のことであり別種の国号が日本である が正しい

この論に対して、反論できないんだろ?ww

393日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:30:20.19
俺は宗教集団だと思ってるけど、まあそれは置いといて。倭人伝の住七十年倭国乱、相攻伐歴年。この住は、百か国の倭国で卑弥呼の都に都があった倭国という意味ではないよね?では57年の倭国は何処?

394日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:30:52.67
>>383
>日本国は倭国のことであり別種の国号が日本である が正しい

勝手に語句を追加したら詐欺だろ

395日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:31:32.58
>>388
そうそう。
そして都合の良い部分だけは重視すると言うダブルスタンダードw
畿内説こそがチェリーピッキングの常習犯だよなw

396日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:32:01.85
>>392
つまり、、、、
「日本國者倭國之別種也の訳は日本国は倭国の別種(の国)なり ではなく
日本国は倭国のことであり別種の国号が日本である が正しい」
、、、という空想は、奥山氏が宣伝するしかないのだな。。。

397日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:32:11.34
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。

398日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:32:19.79
>>387
>何の根拠も述べずあからさまに脳内補完してるのはお前だろwww

誰でも知ってるし質問もないから、改めて言わないだけだ
ちゃんと勉強した者は王年代記と新唐書を読み比べてるから、最初から知ってる

399日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:33:46.76
日本國者倭國之別種也の訳は、日本国は倭国の別種(の国)なり、、、というのは、
何の空想でもなく、そのままの翻訳だな。。。

400日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:34:06.10
>>393
物と文献突き合せりゃ福岡だろ。

漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」

401日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:35:42.17
>>274
>魏略の書き方だと、拘邪韓国から渡海千里で進んでいく対馬も壱岐も倭国本土も
「みんな」倭種と書いてあるだけだ <

ダメだ。
魏略の文は、後代の自己解釈に拠る書き換え文であるから、半分×であり、
同時代の陳寿が記録した魏志と比較にならない。

402日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:39:32.83
>>388
>畿内説は、都合が悪くなるとすぐ「その史書はいい加減」と決め付けて逃げてしまう。

ばかだな
どこがどう間違ってるか、ちゃんと文献批判して考証してるんだよ
それが歴史学のやり方だ
みだりにチェリーピックしてる九州説は最初から議論に負けてるのさ

403日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:40:02.57
>>390
根拠がない、という証拠は?

404日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:42:31.76
>>400
日本国がその古の倭奴国だとすれば、畿内は「女王国の東にある倭種の国」という記述の辻褄が合うな。

405日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:43:10.76
>>395
証拠だせないと中傷になるよ
九州説はいつもだが

406日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:44:13.20
>>397
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

できない、という証拠は?

407日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:45:40.87
畿内説語の「という証拠は?」を日本語に翻訳すると「畿内説は敗北しました」という意味です。

408日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:48:47.17
>>400
>漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。

だれも反対しない
しかしそれは倭国ではない
だから関係ない


>後漢書「倭奴国は倭の南極界である」

博多は纒向より南だが
それが何か?


>旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」

倭国はかつて倭奴国だった地を支配してる、もっとはるかに大きな国だが
それが、どうかしたか?

409日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:50:04.65
>>404
イミフ
どう合う?

410日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:50:35.89
北部九州(古の倭奴国)から畿内に来た天皇によって倭国の総称が日本国となったということだな。
それまで畿内は東海と仮面舞踏会を楽しんでいたということかw
考古学的事実は残酷だなw

411日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:51:06.63
>>407
根拠を聞かれて
九州説が答えられないと
九州説が議論に負けるんだよ

412日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:52:22.19
>>410
>北部九州(古の倭奴国)から畿内に来た天皇によって

そんな史料は無いな

413日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:53:28.15
>>410
>考古学的事実は残酷だなw

九州にとって、な

414日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:57:05.73
>>408
>しかしそれは倭国ではない

そう言い切る理由をちゃんと添えろ。
チョンか?

倭国は古倭奴国→「倭国は昔の倭奴国だ」
「古の〜」は過去のものと同一であることを示している。
すなわち「国号を改名した」という意味だ。

415日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:58:03.82
いつも九州説は聞かれたことに答えられない

なさけないね

416日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:58:55.18
>>291
>>「日本國者,倭國之別種也。」 (日本国は倭国とは別種である)<

>これが既に誤読  日本国は倭国の「別種の呼び方」である  が正しい<

「の呼び方」なんて書かれていないし存在もしないから、
また大和説者(類スレ主?)の・・・・アホ詐欺であり、×。

>その証拠に新唐書では、倭国伝はなく日本伝の最初が
日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居 東西五月行南北三月行
で始まる<

新唐書の頃には、(旧唐書や唐会要の、倭國のあった頃の説明とは違って)、
列島代表は、大和の日本国の支配下になっている事が固まっていたから。

>これが、旧唐書の倭国伝の最初と同じだってことくらいは分かるよな?
倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里 在新羅東南大海中依山島而居 東西五月行南北三月行<

盟主であった倭國の全領域を、附庸國であった大和の日本国が、
全部米豪九州継承九州したのだ、という事を示しているだけ。

417日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:59:03.75
>>413
もう現実逃避に走ってるのか?w
まだ16時だぞ?w
いつもの薬が切れたのか?w

418日本@名無史さん2019/10/01(火) 15:59:46.35
>>414
理由?

簡単だよ
>「古の〜」は過去のものと同一であることを示している
という根拠が無いからだ

419日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:00:23.95
何者かの空想に対して、その空想が真実ではないと反論することは、誰の義務でもなく、
逆に、何者かの空想が、真実だと宣伝するためには、空想する者が努力するしかないのだったな。。。

420日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:00:35.49
>>416
7世紀頃で一国に纏まってなかったんだから3世紀頃は小国が点在していた時代と考えるのが妥当だ。
中国はもともと畿内なんか知らなかったはずだ。

421日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:01:32.19
>>417
どんな現実だい?
それはキミの脳内以外のどこかに有るのか?

422日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:01:41.53
>>419
邪馬台国畿内説という空想が真実だという、嘘の宣伝は、完全に失敗してしまいましたね。

423日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:03:22.59
>>418
じゃあ「日本古倭奴也」というのも
日本国は倭奴国では無いとい意味だなw
矛盾の循環ループばかりだw

424日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:03:31.93
>>420
>7世紀頃で一国に纏まってなかったんだから3世紀頃は小国が点在していた時代と考えるのが妥当だ。

は?
日本は戦国時代に分裂してると平安には統一されてなあったのか?
おまえ脳内の時系列が変だぞ

425日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:04:51.42
>>423
なにが矛盾なのか具体的にご指摘どうぞ

426日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:06:27.13
魏志倭人伝によれば、3世紀頃は、合戦の時代だった可能性が、高いな。。。

427日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:10:22.51
>>426
そんな記事はない

428日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:12:36.99
聞かれたことには答えられない九州
自分の主張の根拠も言えない
ましてや証拠は出せない

だから九州説は論争に負けるんだよ

429日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:14:09.34
>>426
倭人の国々は合戦に明け暮れたので、嫌になり、卑弥呼を女王にしたが、合戦はその後も続行していたのだったな。。。

430日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:14:31.47
430

431日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:15:18.99
>>429
つまり、魏志倭人伝時代は、合戦の時代だったのだな。。。

432日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:15:20.78
>>304
>>旧唐書では日本人は「日本古倭奴也」と説明できる状態ではなかったわけだ。
新唐書でようやく「日本古倭奴也」と言える状態に落ち着いた。<

>ただの妄想ですねww
そして、結局は「日本は古倭奴なり」が正しい公式見解になったことを軽視しているw<

旧唐書も唐会要も新唐書も、
それぞれの執筆時点での知り得た事実に拠って史書を執筆したのであり、
旧唐書と唐会要は、唐代の白村江までは倭國が列島盟主であって白村江を戦った事を知っており、
白村江の後で、
倭国の別種の旧小国であった大和日本国が九州倭国を併合継承した、
という実態をしっかり記載したが、
新唐書の頃になったら、
九州倭国の実態が殆ど存在しなくなって、大和日本国が、
旧倭国支配地をほぼ全部併合吸収継承した事で確定してしまっていたので、
倭国伝を立てずに、日本国の伝だけで、説明された。

433日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:16:05.25
>>431
つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻したのだね。

434日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:17:28.91
バンビシャスの興行が、行き詰ってしまわない様には、どうすれば良いのだろうか。。。

435日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:18:33.65
>>378
奥山氏が頼みにしていた、邪馬台国畿内説が成立するための生命線である高野槙の棺についての討論で論破され、
文献の解釈という、曖昧にする余地がある話題に逃げ込んでしまったな。。。

436日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:19:19.58
>>305
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説にはバカしかいない
まあ、類スレ主は、その中でも際立っているけれど
そのさもなきゃ、「史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをするようなことはしない」からな
まともな人間のやることではない
つまり、類スレ主(=スレ主?)はまともな人間ではない

437日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:19:21.40
>>432
その主張、なんか根拠ある?

ただの想像だけかな

438日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:20:21.72
>>1
その主張、なんか根拠ある?

ただの想像だけかな

439日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:21:27.99
>>402
>どこがどう間違ってるか、ちゃんと文献批判して考証してるんだよ

チェリーピックのための方便を色々と考えているわけだ。
詐欺師は年中そういうことを考えている。
自分の考えに自家中毒となり、いつしか自分自身が信じ込んでしまう。
カルトとは恐ろしい。

4401 ◆UiepmfCeDJqf 2019/10/01(火) 16:22:16.62
>>438
勿論、俺様の想像だ。
俺様は、いつも、良くないことを想像している

441日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:22:17.25
>>424
お前の脳内の弥生統一国家は国土に外国政権の「秦王国」が勝手に作られてしまうような統一国家なのか?w

442日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:22:44.45
>>408
>倭国はかつて倭奴国だった地を支配してる、もっとはるかに大きな国だが

妄想?
主権がどこにあるかを論じているのだから、倭奴国が主権を持つ王都だったのだろう。

443日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:24:12.99
>>386
結局、ホケノのコウヤマキの発掘記録を明らかにできなくて逃亡か・・。 畿内の逃亡者たち!

444日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:24:18.40
>>410
>それまで畿内は東海と仮面舞踏会を楽しんでいたということかw

まあ、それさえも九州から交野に降臨した饒速日将軍の末裔だけどね。
具体的には物部氏と尾張氏だ。
纒向は尾張の傘下の出張所。

445日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:24:56.26
>>412
>>410
>>北部九州(古の倭奴国)から畿内に来た天皇によって

>そんな史料は無いな

記紀によると、天皇家は筑紫から来た。

446日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:25:01.23
>>439
笑えるな

また九州説が反論できなくなって悪口専門に堕ちた



いつものパターンだが

447日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:26:16.11
>>428
答えを理解できないお前のリテラシーの問題だよ。

448日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:27:19.29
>>442
>主権がどこにあるかを論じているのだから、倭奴国が主権を持つ王都だったのだろう。

倭奴国は倭奴国だろ
倭奴国王が倭奴国の主権を持ってる

それが、どうかしたか?

449日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:27:19.58
>>446
反論はやめて中傷か?
畿内説はいつもそれだ。

450日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:27:22.90
>>425
自分は「日本古倭奴也」で始まるので日本国=倭奴国だと言ってみたり、
「倭国者古倭奴国也」は倭国=倭奴国だと言えば↓のように違うと言ってみたりw

418 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/10/01(火) 15:59:46.35
>>414
理由?

簡単だよ
>「古の〜」は過去のものと同一であることを示している
という根拠が無いからだ

451日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:27:57.45
>>448
倭国は古の倭奴国
つまり倭奴国が倭国の主権を持ったということ

452日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:28:06.61
>>434
税金で雇用している無駄な学芸会の者達を解雇して、県立の新しいアリーナを作製すれば良いのではないのかな。。。

453日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:28:15.81
>>443
イミフ

キミは誰に何を要求した人?
なにが言いたいの?

454日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:29:58.71
>>445
>>>北部九州(古の倭奴国)から畿内に来た天皇によって
>>そんな史料は無いな

>記紀によると、天皇家は筑紫から来た。

宮崎県は北部九州じゃあーりませんが?

455日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:31:12.17
なぜ唐突に宮崎県が出てくるのかな?
筑紫としか言っていないのに。
宮崎県は筑紫ではありません。

456日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:31:39.79
>>447
おいおい
いつ、どこで何に回答したか言えない九州説のリテラシーは
最貧国のスラムの治安並みだな

457日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:31:41.16
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。

458日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:32:51.70
>>449みたいなオウム返しで
九州説は地に堕ちる





そしてもう立ち上がれない

459日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:33:46.53
>>451
>つまり倭奴国が倭国の主権を持ったということ

理由は?

460日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:35:16.19
>>455
>なぜ唐突に宮崎県が出てくるのかな?

記紀の話なんだろ?
記紀に書いてある

461日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:35:56.72
>>459
金印をもらったからだろ。
冊封体制だからな。

462日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:36:17.63
>>457
>吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

できない、という証拠は?

463日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:36:18.52
>>460
「宮崎県」なんて書いてないよw

464日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:37:53.44
>>461
倭奴国王の金印をもらったら倭奴国の主権者だよね

それが倭国となにか関係でも?

465日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:39:07.69
>>463
>「宮崎県」なんて書いてないよw

日向高千穂宮は宮崎県なのが定説だよ

466日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:39:25.59
他に倭人で金印をもらった人物がいないから、倭奴国王が倭人の最高権力者だよ。

467日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:39:28.75
>>343
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波

468日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:40:33.76
>>465

「定説」
ああ、やはり畿内説は新興宗教だったか。
こうして思考力が中途半端な人間はカルトにハマるのだな。

469日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:41:52.81
>>466
>他に倭人で金印をもらった人物がいないから、倭奴国王が倭人の最高権力者だよ。

倭奴国王の金印しかもらってないんだから
ほかの倭人は関係ないでしょ?

それとも漢皇は越権行為を認めるの?

470日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:42:46.45
>>364
>つまり3世紀時点で倭国として朝貢していたのは北部九州であり、

碌な集落遺跡や資源の無い北部九州に、倭国など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波

471日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:43:21.97
>>468
史学でも法学でも定説は定説
宗教と関係ない

472日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:44:16.56
今夜の勤務シフトが、やはり、破綻してしまった、

473日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:45:28.81
邪馬台国畿内説という、具体的な証拠が見つからない仮説も、やはり、破綻してしまった。

474日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:46:10.06
>>473
九州説はもっとな

475日本@名無史さん2019/10/01(火) 16:48:22.98
>>343
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波

476日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:02:52.08
奈良盆地は統一国家どころか、空地だったんだろ?w
4世紀末には半島人がズカズカと押し寄せて朝鮮部落の始まり始まり〜w

最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。

477日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:04:13.59
>>469
倭人の中で後漢との代表交渉権が倭奴国に独占的に与えられたんだよ。
印璽がなければ国書も出せないからね。
他の倭人が交渉しようとすれば越権行為になるw
さらに、卑弥呼が魏と交渉した時も、倭王である証として後漢の金印を使う必要があったはず。
魏は後漢から禅譲を受けているから、外交関係も継承していることになっているからね。
その金印が志賀島にあったということは、博多湾沿岸を含む地域が邪馬台国だったということ。

478日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:06:08.67
5世紀後半が5世紀前半だと「大幅に」前倒しかよ。
しかも九州に比べて渡来人の来航が数百年は遅いだろ。
井の中の蛙だな。

479日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:17:25.98
>>478
纏向終息のすぐ後だな。
この後期渡来豪族こそがヤマト王権だろ。
それまで奈良盆地は一地方都市だったということよw

480日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:19:06.37
邪馬台国民族は確か呉の末裔だったよな?
縄文人とは無縁のはずだ。

481日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:24:28.96
>>480
そりゃそうだ。
江南から稲作を持ち込んだのが呉の太伯の末裔であり、倭国の権力層である弥生人。
その頂点に立つのが倭王卑弥呼。
そして稲作文化伝来の地が九州北部の玄界灘沿岸だ。
あとはわかるな?

482日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:28:58.99
その頃畿内や東海の縄文系先住民たちは仮面舞踏会に夢中だっんだな。

483日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:32:04.59
>>479
>この後期渡来豪族こそがヤマト王権だろ。

そんなアホな。  倭国(阿波)王権による、朝鮮半島渡来人の居留地だよ、奈良盆地は。   @阿波

484日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:32:29.97
>>477
>倭人の中で後漢との代表交渉権が倭奴国に独占的に与えられたんだよ。

証拠は?

485日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:37:23.27
>>310
>ホケノの小枝は確かに4世紀を示しているな
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

成程。

486日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:40:10.16
小枝とか紛れ込んでることの方がおかしい

487日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:45:10.53
>>315
「南→東」などの嘘付き騙しの類スレ主や大和説者は
旧唐書と唐会要と新唐書の3つ全体から帰納的確率的推論をせずに、
チェリーピッキングの小さな土台の上に巨大な妄想の大建築を載せる

488日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:45:24.33
<回想>
そういえば畿内説ってのが邪馬台国に夢中だったころ、辻褄の合わないファンタジー小説を乱筆しまくって邪馬台はヤマトと読むニダ―とか妄言吐いてたなあ〜〜w

489日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:46:56.47
>>485
故人が好んだ桃の実に換えて、花盛りの桃の小枝を石棺の上にそっと捧げたのだろう。

>>486
君は詩心に欠けるねえ、古代人を見習いなさい。

490日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:49:07.91
>>316
>唐会要、旧唐書、新唐書と並べて解釈すれば、
旧唐書の倭国伝の倭国も、日本国もどちらも大和朝廷であることが分かるんだよ<

唐会要、旧唐書、新唐書と並べて解釈すれば、
旧唐書の倭国伝の倭国が唐と白村江で大敗して亡国の危機に晒され、
倭国の別種の旧小国の附庸國であった大和日本国が、
九州倭國を併合吸収継承して盟主を継承した、
ということが分かるんだよ

491日本@名無史さん2019/10/01(火) 17:52:45.65
今日のはちょっと可愛そうなくらい漢文の苦手な畿内説だったなw
行きあたりばったりで単語並べるだけでw

492日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:05:11.96
>>324
旧唐書→倭國は古倭奴國也であり、日本國者倭國之別種也だな
新唐書→倭國は白村江で大敗して、別種の旧小国の大和に併合吸収継承されて、しばらくして消失した、
という事だな。
つまり旧唐書や唐会要や新唐書に書かれていることは、
ほぼ合っていると当時の中国人は考えた
大和説は「倭国の別種の旧小国」ではないと主張するけど
魏志が「南≠東」であるし、倭王武が「自昔・・・東征毛人五十五國」だし、
会稽東治之東は九州島付近そのものであるし、
旧唐書も倭國は、
「倭奴國があった場所だ」と言い、「世與中國」の国交があった国だ、言っている。

493日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:06:50.62
>>325
マジで「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
勉強不足であるだけではなく、・・・・アホ詐欺師だと思うわ

494日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:10:54.07
>>327
>帯方郡
↓↓
↓東治
↓↓580q「陸行一月」
東冶≒邪馬台国(12,000里) 中国大陸での道里の、倭国への転用か(納得)!<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「東冶」なんても魏志倭人伝には存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
マジ、この大和説男も・・・・アホ詐欺師だろう、と思うわ。

495日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:13:18.35
>>328
この男も、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の、
大和説を主張しているサイトしかみないんだろうなあ。
そしてそこに書かれてる都合のいい部分を取り上げるが 、
ちゃんと多角的知識がある人から見れば、詐欺の穴がある

496日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:19:49.30
>>334
これは違うと思うよ
白村江での倭國の大敗の後で、大和日本国が九州倭国を併合吸収継承した時点で、
中国の「列島盟主国」認識は修正されている

何度も書くけれど、旧唐書の日本國者倭國之別種也は
日本国は倭国の「別種の旧小国」であったのであり、
日本国は倭国の「別種の名乗り(国号が変わった)」だけである 
という意味だけではない。

497日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:24:03.48
>>336
「南≠東」である、という人類の常識は、否定出来ない。
という事は、大和説者は、・・・・アホ詐欺師である。
さもなきゃ、嫌がらせでムダ投稿をするようなことはしないからな
まともな人間のやることではない
つまり、類スレ主(≒スレ主)はまともな人間ではない

498日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:24:55.96
身近な中国人曰く、別種と書いたのはかつての「倭種の国」を意味しているらしい。
専門家でなくとも賢い中国人は少なくとも奥山より遥かに賢いからな。

499日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:29:08.13
>>384
こいつ、本格的にバカだよなw

>常識だろバカw
>だから隋書でわざわざ邪靡堆と書き改められたのは、変化したからだということだ。

先行史書を参考にしているのが理解できていたら、
「邪靡堆」が「邪摩堆」の誤記だってのがすぐに分からないやつは「バカ」だww
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝)
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)

500日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:34:22.09
>>499
お前またズレとるなw
ポイントはなぜ「邪靡堆者古邪馬臺」と書かれなかったのかという所だろw
ホンマお前の日本語読解力の低さは日常生活にも支障をきたすレベルだなw

501日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:36:14.44
>>337
中国じゃ、政権(王朝)が変われば国号も変わるのが当然なんだ
そして旧唐書も唐会要も新唐書も、列島では白村江での大敗の後で、
九州倭国を大和日本国が併合吸収継承して、大和日本国が盟主になった事を記載している。

新唐書に書かれた、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れて大和に移った神武が、
大和の九州倭国の別種の旧小国を建てたんだから、何の不思議もない。

502日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:37:07.78
>>477
横からだけど、
「倭国乱れ」を失念してね。

503日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:43:08.65
>>351
それ、新唐書も「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた國である」事を書いており、
記紀のまんまだろ
大和説に有利な要素は何もない

504日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:43:38.90
>>387
>何の根拠も述べずあからさまに脳内補完してるのはお前だろwww

大陸人が倭国・日本にさしたる興味がなくていい加減ていうのは、常識だろ
わざわざ示さなくてもw

ほらよ
明史 列傳第二百一十 外国三 日本
日本故有王、其下稱關白者最尊。時以山城州渠信長爲之  信長が関白
有參謀阿奇支者、得罪、信長命秀吉統兵討之。      信長が秀吉に明智を討つよう命じた
俄信長爲其下明智所殺。秀吉方攻滅阿奇支、       明智と阿奇支が別人のように書かれる

505日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:50:06.99
九州王朝とかパカなこと言ってる人は
脳が馬です

506日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:51:38.54
>>365
しかし「南≠東」などのように、
大和天皇家とかの存在を裏付ける証拠が何もないのに、
なぜここまで大和説を信じることができるのか理解できん

507日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:53:23.48
>>366
「南≠東」などの指摘に対する大和説者側からの具体的な反論が「一切ない」んだが?

お前、バカだろ?

508日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:54:01.25
福岡で出土した馬具も随分豪華だったよな。
倭王の馬だったのかな。

509日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:55:32.76
>>505
九州王朝とかヤマト王朝とかパカなこと言ってる人は
脳が馬です。  わははははは   @阿波

510日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:57:01.93
>>391
ほらよ
唐会要 倭国伝
則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。 
 則天時の遣唐使は粟田真人で大和朝廷の貴族
大歷十二年。遣大使朝楫寧副使總達來朝貢。 
 大使の朝楫寧が小野朝臣石根、副使の總達が大神朝臣末足で大和朝廷の貴族
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
 薛原朝常嗣が藤原朝臣常嗣で大和朝廷の貴族

これらは日本の六国史の遣唐使記事で確認できる

511日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:58:21.25
>>394
>勝手に語句を追加したら詐欺だろ

そっちが「別種の国」って語句を補って解釈してるのが間違いだってこと
詐欺、インチキ捏造は常に九州説

512日本@名無史さん2019/10/01(火) 18:59:28.64
>>505
九州王朝とかヤマト王朝とかパカなこと言ってる人は

脳が馬です。  わははははは   @阿波

513日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:00:52.06
>>371
>>真っ先に魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」の間違いであることを証明出来ない畿内説は、
その後について何を言ってもそれは妄想でしかないということを理解できないのかな?<

>まっ先に畿内説は、考古学を用いて邪馬台国が畿内にあったことを立証した<

ダメだよ。
考古は、金石文のような「文献と対等な直接的証拠」以外は、全て状況証拠ばかりであり、
文献があれば文献の方が上位なんだし、
大和説の考古説は、「冢≠前方後円墳」などで否定されている。

>それが、魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」の間違いであることの証明だよ<

「南≠東」は、考古や文献論議以前に、人類の常識だ。

514日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:02:51.26
>>241
倭人伝の道筋の国の人口(戸数)は)盛り過ぎだね。
あの数字が実際の人口だとして論を立てるのは、普通いささか躊躇されるのではないの。

515日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:08:18.24
>>500
>ポイントはなぜ「邪靡堆者古邪馬臺」と書かれなかったのかという所だろw

現存写本が「邪靡堆」となっていることは、
「隋書が書かれたとき」に「邪靡堆」と書かれたことを保証しない

よく言われるのは伝書のある段階で、摩の下の「手」が毛筆の乱れで縦画が割れて
「非」に見えたのだろうというもの
それだけで、北史の「邪摩堆」と一致するし、
「則魏志所謂」邪馬臺者也とも整合性の取れる解釈になる

北史と隋書で同じく「則魏志所謂」邪馬臺者也と書かれているのに、
「隋書で修正された」と考えるのが噴飯物のバカの発想

516日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:10:57.68
>>501
>新唐書に書かれた、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れて大和に移った神武が、

これがまたインチキ解釈ww
新唐書は日本書紀を適当に写したものだから、記紀の皇統譜に従っているだけ
記紀の記述では、神武が本宗だよ
筑紫の日向には何も残っていない

517日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:18:52.54
>>242
また適当なことを。
ソウルから博多あたりへの直線の方角は東西線に対して南へ55度程度。
ソウルから東南ぴったりの45度と比べると博多あたりは10度程度南に振るだけ。
これは東南の範囲に入る。
一方、大和は東西線に対して南へ25度程度。東南45度よりも20度も北になる。この方角は東南東。東南というよりも東に近い。
大和をソウルから東南の方向にあると言ったら、みな首をかしげるね。

ソウルから東南ぴったりの45度と比べると、大和が東南に入るとはとても見えんな。

518日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:45:46.00
>>517
>また適当なことを。
>ソウルから

「ソウルから」www
また適当なことをw
今どき帯方郡がソウルとか言ってたら笑われるぞww

ここは科学板なんだからw

519日本@名無史さん2019/10/01(火) 19:48:58.31
ソウルじゃなきゃどこなんだよ

520日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:07:53.83
>>519
平壌(ピョンヤン)    @阿波

521日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:20:58.82
>>267
2世紀の末頃から大和の地元民のほかに尾張、東海、関東、近江、北陸、山陰、吉備、西部瀬戸などから人が纏向に送られて土木工事にが継続的に続けられた。
そして、当時、列島最大の墳墓がやはり継続的に作られ続けた。
これだけの広域の地方が一つにまとまって、なにやら砂ぼこりを立てて活発な活動を纏向で継続していたわけで、当時列島で最も活動的に地域だったのは間違いないな。
山陰も吉備もここへ人を送っていたのだから、やはり大和を持ち上げなくてなんの歴史かというところだよ。
ただし、この大和は卑弥呼がいた邪馬台国ではないんだけどな。

522日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:24:32.37
>>520
伊集院じゃないの?

523日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:33:08.51
>>519
>ソウルじゃなきゃどこなんだよ

>>24 FAQ20
「考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城」

現「沙里院市」の東のあたり

524日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:38:52.46
>>516
>記紀の記述では、神武が本宗だよ

畿内説の本音がついに出た。
神武以来、大和が日本の中心であるべしという皇国史観そのもの。
宗教であり、考古学的根拠などお構い無し。

525日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:45:08.20
現「沙里院市」の東のあたりから桜井は、16
方位で、南東の方角なのだろうか、、、
それとも、東南東なのだろうか、、、

526日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:46:48.32
>>525
奥山氏は、労働で疲労していないので、計算できるのではないのかな、、、

527日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:48:57.18
>>526
奥山氏は、小学校の時から引き込もってしまったので、角度の計算が出来ないのではないのかな。。

528日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:50:00.30
邪馬台国畿内説は、共産主義者が作製したねだったな。。。

529日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:52:05.20
>>528
つまり、邪馬台国畿内説は、皇国史観を持つ共産主義者が作製したのだな。

530日本@名無史さん2019/10/01(火) 20:53:41.78
530

531日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:00:51.03
日本は、天皇家が支配した時代よりも、天皇ではない合戦の強かった者が支配した時代の方が、長いのだったな。

532日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:10:31.40
>>524
>畿内説の本音がついに出た。
>神武以来、大和が日本の中心であるべしという皇国史観そのもの。
>宗教であり、考古学的根拠などお構い無し。

皇国史観から作られたのが九州説だよw
畿内説は考古学が基本

九州説が宗教だってのは、ザラゴキや連続句読点を見れば分かるだろ?
そして>>524も同類w

533日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:10:45.22
奥山氏が、計算に失敗した可能性が、高いな。

534日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:13:00.54
奥山氏、緯度や経度を、距離に変換出来ないのではないのかな、、、

535日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:13:35.44
>>525>>531まで、全部連続句読点w

>>529>>531のように、句読点を連続させずに書くのが最近増えてきているww
ごまかせてないけどwwww

536日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:13:45.92
理屈抜きで

>>516
>記紀の記述では、神武が本宗だよ

だもんなあ。
これが畿内説。

537日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:15:04.38
緯度と経度では、距離への変換の方法が違うことを、奥山氏は理解出来ないのではないのかな。。

538日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:18:43.43
コトバンクでも定説とある

539日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:19:03.02
奥山氏が、追い詰められ、討論の内容とは、関係のないことを喚き、追い詰められたことを公表したな。

535日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:13:35.44
>>525>>531まで、全部連続句読点w

>>529>>531のように、句読点を連続させずに書くのが最近増えてきているww
ごまかせてないけどwwww

540日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:30:36.30
全部連続句読点=くまモン

541日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:33:51.07
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。

ある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

542日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:36:20.32
奥山氏が、追い詰められ、分けの判らない、討論の内容とは、関係のないことを喚き、追い詰められたことを公表したな。

540日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:30:36.30
全部連続句読点=くまモン

543日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:39:08.17
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した頭の悪い者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

544日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:40:10.04
現「沙里院市」の東のあたりから桜井は、16
方位で、南東の方角なのだろうか、、、
それとも、東南東なのだろうか、、

545日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:43:28.03
>>536
その記述が記紀の記述の説明であり、大陸史書からは「神武が九州倭国の分家」などとは言えないという根拠を示しただけってことすら理解できないんだな、九州説はww

皇国史観だと言いたがるのが九州説の常套手段だが、それが批判になると思い込んでいるのは、日本の皇室が羨ましくて妬ましくてたまらない半島系パヨクくらいだぞww

546日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:44:49.72
連続句読点は無能が過ぎて荒らしレスだけしてるように指示されてるな

547日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:46:42.34
>>525
沙里院市からみると、桜井市は東西線に対して南に26度程度なのでソウルの場合とほぼ同じ。
東南東。
東に近い。

548日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:49:46.68
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ない、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

ある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点への方角は、16方位で、どの方角でしょうか。

549日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:51:45.52
奥山氏が、追い詰められ、討論の内容とは、関係のない嘘を喚き、追い詰められたことを公表したな。

546日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:44:49.72
連続句読点は無能が過ぎて荒らしレスだけしてるように指示されてるな

550日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:53:12.55
やはり、奥山氏は、頭が悪いな、、、

551日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:55:05.72
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ない、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

552日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:56:36.60
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ないのならば、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

553日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:56:40.07
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ないのならば、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

554日本@名無史さん2019/10/01(火) 21:56:42.32
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ないのならば、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

555日本@名無史さん2019/10/01(火) 22:10:56.71
すばらしい運営の定説コトバンクは流される

556日本@名無史さん2019/10/01(火) 22:44:18.33
コトバンクとは、どのような物事なのだろうか、、、
そして、コトバンクと、頭が悪い朝鮮人の奥山氏が宣伝している、破綻した邪馬台国畿内説との、関係性は、どのような物事なのだろうか、、

557日本@名無史さん2019/10/01(火) 22:45:09.10
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ないのならば、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

558日本@名無史さん2019/10/01(火) 22:45:11.58
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ないのならば、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

559日本@名無史さん2019/10/01(火) 22:45:13.89
邪馬台国九州学の立場の考古学者から、邪馬台国畿内説を宣伝する、このスレッドを作製した者に対して、方角に関する基本的な問題が作製されました。
もし、この基本的な、方角に関する、思考実験の問題に対して、解答出来ないのならば、邪馬台国畿内説を宣伝する者は、方角に関する基本的な討論の話題に対して、これからは、意見を発表しないで下さい。。

地球上の地表のある地点Aから、東に100キロメートル進み到着した地点から、南に進行方向を変換し、10キロメートル進むと、B地点に到着しました。
A地点からは、B地点の方角は、16方位で、どの方角でしょうか、、、

560日本@名無史さん2019/10/01(火) 22:46:51.48
>>374
>大陸の史書は、以前の史書を参照して撰述するってのを理解してるか?
その部分は、宋書の倭王武の上表文の意訳だよ
自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
王道融泰廓土遐畿
小国だった倭王武の祖先の国が、東征、西服、渡平海北して、
倭国の地を一つに併せたんだよ <

ダメだ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭國中心は北部九州であり、
だから、倭王武もその先祖も、いたのは北部九州であり、大和ではないし、
大和は九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の旧小国の一つだ。

561日本@名無史さん2019/10/01(火) 23:00:11.17
>>376
こういうところも、
「南→東」などの嘘吐き騙しと同じように「捏造で脳内補完」であり、
大和説者らの常だな
新唐書の記載が、王年代紀や記紀と説明と少し異なるところがあるのは、
王年代紀を丸写ししたのではなく、
「日本、古倭奴也」や、
「欽明之十一年、直梁承聖元年」や、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」などのような、
(記紀の説明とは違った)中国側の記録からのから、
内容説明などがあるからだよ。

562日本@名無史さん2019/10/01(火) 23:05:19.76
>>377
>>つまり3世紀時点で倭国として朝貢していたのは北部九州であり、<

>根拠でもあるの?ww<

勿論、倭人伝での「不彌國や邪馬壹國女王之所都で萬二千余里がほぼ終わっている」、
という事も根拠であるが、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」なども、根拠である。

563日本@名無史さん2019/10/01(火) 23:26:36.10
>>382
>>「邪馬壹國女王之所都」は不彌國の直ぐ南であるから、筑紫付近の北部九州であり、<

>その古田特殊読みは根拠がなくて矛盾もあるので、<

旅程や行軍の行程での「出発からの順次式説明」は、人類の常識であり、
三国志でも使われている例がある。

>マトモな人は誰も信じないよ<

大和説者の「南→東」などが嘘吐き騙しがである事は、
国民でも中国学者らでも人類でも常識であり、
マトモな人は誰も信じないよ。

564日本@名無史さん2019/10/01(火) 23:37:44.46
>>383
>日本國者倭國之別種也の訳は
日本国は倭国の別種(の国)なり ではなく<

日本國なる者は、倭國のこれ別種なり、だ。

>日本国は倭国のことであり<

「倭国のこと」だとは書かれていないから×だ。

>別種の国号が日本である が正しい<

「国号」なんて書かれていないから、×だ。

この論に対して、反論できないんだろ?ww

565日本@名無史さん2019/10/01(火) 23:43:46.98
酷い読み方

566日本@名無史さん2019/10/02(水) 00:15:34.04
>>547
大陸史書の古いものに十六方位なんてないよw
真東から計って90度が南、45度が東南

当然0度の東と45度の東南の境は22.5度だな
26度なら東南の範囲だw
さらに帯方郡治は沙里院市の東なのだからさらに南向きにずれるww

まあ、当時そこまで厳密な角度が把握できているはずもないのだけれど、
>>547の言い分はデタラメww

567日本@名無史さん2019/10/02(水) 01:55:52.28
>>566
まあ、東南の方向と指定しているのは倭(北部九州)だからね。
そこから千里としているのが倭種の国で、この倭種の国の方位については、女王国の東と倭人伝が書いている。
だから、桜井市が沙里院からみて東南方向にあるかどうかというのは525さんの個人的な関心事であって、倭種の国の位置とは関連のないことになるよ。

568日本@名無史さん2019/10/02(水) 02:35:29.52
以前から書いている事なんだけど、
家(『松傾』)のほうが上なんだと理解できただろう?

569日本@名無史さん2019/10/02(水) 02:37:05.25
エビスというのも、
百済からの〜と書いてあったり、あと津〜とか

570日本@名無史さん2019/10/02(水) 02:40:24.71
家の老婆も
アマテラス〜、何やら〜、などは知っていると言っていたり、
秀吉とか、そういうのは知らないとかw

571日本@名無史さん2019/10/02(水) 02:49:24.81
『三貴子』?

日本に住んでいたわけではないと言ってる人がいるでしょ、
後(後の時代になり?)から渡って来たとか

572日本@名無史さん2019/10/02(水) 03:02:50.47
老婆談、ほとんど合致しているでしょ、
山の上のほうに住んでいたことがあって〜山守?

伊達郡の霊山?
見下し何やらというところもあったり

573日本@名無史さん2019/10/02(水) 03:05:26.73
その後の話でしょ

何やらという職、□位、くらいとか
『超越』

574日本@名無史さん2019/10/02(水) 03:15:37.18
>>523
この考古学的知見というのは、「帯方太守 張撫夷塼」と書かれた塼槨墓が沙里院唐土城の近くで見つかっていることだと思うけど、
この墓の存在によって帯方郡庁が沙里院唐土城にあったとする考えがみられる。
ただ、気になるのは、この墓と似たケースがあり、それは中国亳州市の元宝坑一号墓の被葬者。有名な倭人塼が出た墓。
この墓の被葬者は「会稽太守曹君」とされていて、会稽郡の太守を務めた人物らしい。
ということは、この人物は会稽郡の太守を務めたあと故郷の亳州の墓に葬られたとこを意味している。
このケースと唐土城の張撫夷の墓を比べたとき、唐土城は張撫夷の故郷であって、帯方太守を務めたあと故郷に葬られた可能性もあり、この墓の存在が唐土城が帯方郡庁の所在地を示すものだとは言い切れないのではないかということがある。

ただ、この帯方郡庁の所在地については、方位的にはソウルとほとんど同じになるので、今の倭種の国の所在地の論議にはほとんど影響しないと思われる。

575日本@名無史さん2019/10/02(水) 03:58:24.18
『雲居寺』

このような話も合致しているような?

576日本@名無史さん2019/10/02(水) 04:06:43.36
『百式 仏像』?

577日本@名無史さん2019/10/02(水) 04:16:36.35
『河童 仏教』
家の写真と同じような?キュウリの葉に、葱の華

578日本@名無史さん2019/10/02(水) 05:49:59.28
山の上のほうの話、〜神社の話をしている人もいたり
『おおやまつみ』?

579日本@名無史さん2019/10/02(水) 05:56:48.84
『おおやまつみ』コトバンク?

>伊予国風土記』逸文で、
>仁徳(にんとく)天皇のとき百済(くだら)国より渡来

どういう話なんだろう

580日本@名無史さん2019/10/02(水) 05:58:25.81
あの埼玉名字辞典wでも同じ

えびす?百済のほうから〜

581日本@名無史さん2019/10/02(水) 06:46:09.92
>>1
>それは桜井市纒向以外にありえない。

奴婢埋葬の痕跡は?

582日本@名無史さん2019/10/02(水) 07:36:39.86
>>532
>皇国史観から作られたのが九州説だよw
>畿内説は考古学が基本

正しくは、九州説は「皇室史観」であり、
畿内説のほうがギンギンの皇国史観である、そして考古学の成果をも皇国史観にもとづいて解釈しようとするわけだ・・。

583日本@名無史さん2019/10/02(水) 07:46:06.93
畿内説は九州説と違ってイデオロギー関係ないよ
数論とかと同じように学説だから

584日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:16:52.22
>>538
そもそもの畿内説の発端を勉強しろ。
「南は東だー」と云いだした内藤湖南という人物は、いかなるイデオロギーの持ち主だったかを・・・

585日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:22:21.22
>>1
>それは桜井市纒向以外にありえない。

イデオロギーというか、新興宗教?
隣町と張り合ってるのか?

586日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:22:48.81
実質畿内説の根拠は「大作怐vだけwww

587日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:23:41.04
倭種といっても、纒向なんか眼中にはなく、出雲とか吉備を想定していたと思うよ。
邪馬台国は福岡だろうね。

588日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:24:20.44
>>586
それすらもハズレだよ。   @阿波

589日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:25:20.93
>>587
いくら言い張っても、碌な集落遺跡や資源の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波

590日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:26:04.19
>>586
カエルの骨と桃の種は?

591日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:27:49.32
爾来奈良盆地は、様々な新興宗教が芽を出した郷里

592日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:29:11.02
>>590
史書にはそんなもの書いてないw

593日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:33:12.44
>>383
「南→東」などの「人類の常識外れ」みたいなウソを書くから、
大和説が信用を失った

594日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:34:15.99
まじないの一種鬼道が行われていた痕跡だろう

595日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:41:46.96
>>402
>ばかだな
どこがどう間違ってるか、ちゃんと文献批判して考証してるんだよ それが歴史学のやり方だ
みだりにチェリーピックしてる九州説は最初から議論に負けてるのさ<

ばかだな。
「南≠東」は、普通の成人人類であれば、ほぼ100%間違える事がない事だ。
そのような文献批判して考証してるんだよ
それが歴史学のやり方だ
みだりにチェリーピックしてる大和説は、
最初から議論に負けてるのさ

596日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:45:17.64
>>405
「南→東」などの嘘付き騙しの証拠だせないと、
「国民や人類に対する犯罪者的詐欺行為」になるよ
大和説はいつもだが

597日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:53:35.76
>>594
そんなの全国何処でもやってたんだから。
縄文時代から。

598日本@名無史さん2019/10/02(水) 08:55:23.29
>>408
>>漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。

>だれも反対しない しかしそれは倭国ではない だから関係ない<

唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、福岡は倭國だ。

>>後漢書「倭奴国は倭の南極界である」<

>博多は纒向より南だが それが何か? <

纏向は、「南≠東」などに拠って「倭の南の界」にはならないから、×だ。

>>旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」<

>倭国はかつて倭奴国だった地を支配してる、もっとはるかに大きな国だが
それが、どうかしたか?<

その倭国は、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、「倭国中心は北部九州」にあったのであり、
大和や纏向ではない、という事だ。

599日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:22:46.05
>>597
九州では行われてなかったよ
何せカエルの骨と桃の種が見つかってないし
卑弥呼は九州には居なかった証拠

600日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:29:14.57
>>410
>北部九州(古の倭奴国)から畿内に来た天皇によって
倭国の総称が日本国となったということだな。<

少し違うな。
九州倭国の「東征毛人五十五國」が断続的にあり、
大和はその(主力軍ではなく)別動隊が征服した旧小国であったのであり、
東征軍の応援で力をつけ、5〜6世紀には扶桑國と呼ばれて独立国的になり、
7世紀の初めの「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時に、
(西晋惠帝に倭国が日本を名乗った国名を借用して)小野妹子が、
隋文帝に「日本国」を名乗って独立を申し出た、という事。

601日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:31:20.49
>>411
>根拠を聞かれて 九州説が答えられないと 九州説が議論に負けるんだよ <

「南→東」などの嘘付き騙しの根拠を聞かれて
大和説が答えられないと
大和説が議論に負けるんだよ

602日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:34:22.11
>>413
「南≠東」などの文献的史料事実は最も残酷だが、
考古学的事実も、明確に残酷だな。

大和説者にとっては、な

603日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:43:45.65
>>415
いつも大和説は、
「南≠東」などの嘘付き騙しの指摘には全く答えられず、

また、以前からもう何度に何度の答えてある事を知らん振りして、
また同じ質問をして、更にその返事を待たずに、
その投稿で直ぐに「聞かれたことに答えられない」と言い放って誹謗するインチキをして、
世間の人々を誤魔化して騙そう、とする・・・。

なさけないね

604日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:45:52.59
>>416の訂正
盟主であった倭國の全領域を、附庸國であった大和の日本国が、
全部併合吸収継承九州したのだ、という事を示しているだけ。

605日本@名無史さん2019/10/02(水) 09:55:41.71
>>418
>理由? 簡単だよ
>「古の〜」は過去のものと同一であることを示している
という根拠が無いからだ <

唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、、全く違い場所に離して書き分けており、
その倭國伝の方で、「古倭奴國也」でであったと紹介し、
その位置を「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」と特定したのだから、
明らかに、北部九州を特定して(大和などを否定して)おり、
倭奴國と倭國は同一地域同士の位置だ。

606日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:03:38.49
>>423
>じゃあ「日本古倭奴也」というのも
日本国は倭奴国では無いとい意味だなw <

いや新唐書の「日本」伝の「日本」は、
神武が筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れて大和で建国した国だ、という、
「別種分家である」事の説明であり、
旧唐書や唐会要の「倭國者、古倭奴國也」とは矛盾しない。

類スレ主(=スレ主?)は、矛盾の循環ループばかりだ。

607日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:16:18.08
>>428
「南→東」などの嘘付き騙しの根拠を聞かれて答えられない大和説者
自分の主張の根拠も言えない
ましてや証拠は出せない

だから大和説は論争に負けるんだよ

608日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:24:58.04
>>439
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
チェリーピックのための方便を色々と考えているわけだ。
詐欺師は年中そういうことを考えている。
そして、自分の考えに自家中毒となり、いつしか自分自身が信じ込んでしまう。
カルトとは恐ろしい。

609日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:28:07.76
>>446
笑えるな
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
反論できなくなって悪口専門に堕ちた
いつものパターンだが

610日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:36:50.84
>>456
おいおい
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に対して、
いつ、どこで何に回答したか言えない大和説者の頭は
キョクウ国粋戦争皇国史観教徒や、京都アニメ犯人や、オーム信者並みだな

611日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:37:27.89
>>599
熊本のトンカラリンやらを知らないのか?
巫女の遺骨も発見されてるのに。
魏志に書いてあるように馬韓でやってたんだから、半島から九州にかけては普通にやってたはずだ。
それと、桃を使うのは道教であり、鬼道とは異なる。

612日本@名無史さん2019/10/02(水) 10:39:39.03
>>458
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
全てにオウム返しされて、 地に堕ちる

613日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:04:06.48
>>567
>そこから千里としているのが倭種の国で

どこまで行っても九州説の人はバカだよな
九州も対馬も壱岐も、倭種の国なのに何を言ってるんだかw

そして北部九州から本州はどうやっても渡海千里にはならない
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚
ここを通っていくのが、水行二十日なんだよ

614日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:05:45.47
>>586
>実質畿内説の根拠は「大作怐vだけwww

王の墓がどのようなものか理解できないバカだけが、
これで反論になると思ってるんだよなw

615日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:08:42.24
>>471
>史学でも法学でも定説は定説 宗教と関係ない<

自然や歴史においては、殆どが不可知部分であるために、
条件設定無くしては「100%絶対の定説」など存在せず、
知り得た範囲内での帰納的確率的な推論をするしか出来ないもの。

616日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:12:59.16
>>474
知り得た史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をした九州説に比べて、
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのために、
もっと沢山破綻した。

617日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:16:19.55
>>478
>5世紀後半が5世紀前半だと「大幅に」前倒しかよ。
しかも九州に比べて渡来人の来航が数百年は遅いだろ。
井の中の蛙だな。<

成程。

618日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:25:10.92
>>611
>熊本のトンカラリンやらを知らないのか?

では、トンカラリンを卑弥呼の遺跡だと主張したらどうだ?
その場合、投馬国はどこになるんだ?ww

結局九州説は、九州にはこれがある、あれがある、と
チェリーピッキングするだけなんだよなw

それをつないで整合性の取れる説を組み立てることはできないw
トンカラリンは古い不明な遺跡というだけ
立地からすれば江田船山古墳のある清原古墳群の関連施設でおそらく5世紀以降のもの
トンカラリン近くの変形人骨を弥生時代のものとして、トンカラリンを古くしようと
する人もいるが、同様の変形頭蓋骨が松坂古墳から出ている
松坂古墳は年代推定されていないが、葺き石があり舟形石棺が出ているので先の
5世紀以降という年代と矛盾しない
つまり卑弥呼とは200年くらい異なる無関係ということ

それに変形頭蓋骨なんて、魏志倭人伝には一言も書いてないww

あと鉄がー、絹がー、は3世紀に入る前のものばかりだし、
伊都国と奴国のものであって、邪馬台国とは無関係

宮室、樓觀、城柵が九州にあるっていうのも、時代の合わない吉野ヶ里遺跡の
復元物・つまり想像の産物であって、その復元も畿内唐子鍵の絵画土器を参考にしたもの

九州説は、このチェリーピッキング体質から脱却しないと、何も言えないよw

619日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:29:46.81
>>618
その通り。   @阿波

620日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:30:11.13
>>618
つまり九州には巫女文化が継続していた証があるという事だな。
卑弥呼はその中の1人だったわけだ。
たまたま女王になっただけで。
なるほどね〜。

もう卑弥呼の邪馬台国は九州で確定して構わないな。

621日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:31:41.89
>>618
その通り。   @阿波

622日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:40:37.79
纏向霊園の古墳建造に駆り出されたドカタの寄宿舎跡地。
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

623日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:46:58.59
>>618
全然反証になってないw
結局チェリーピッキング常習犯によるチェリーピッキング批判でしかないなw
学者ですら畿内と九州における文化の違いを目の当りして纏向から離れていったわけでw

624日本@名無史さん2019/10/02(水) 11:51:15.27
ちょっと南下したいので纏向を通りますよ〜
↓纏向の南
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。

625日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:00:27.48
畿内説は方角だけでなく年代も合わない単なるファンタジー小説です。

北部九州:倭奴国→邪馬台国→女王制廃止
 年 代:AD--100---200-----300-----------400年
奈良盆地:無人〜〜〜〜〜〜纏向完成、箸墓完成

626日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:10:04.43
九州説の頭の中身こそトンカラリンだよ

627日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:11:45.26
畿内脳内はチョンカラリンwww

628日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:16:40.27
人の書いた事パクってレスする九州説こそ脳内チョンカラリン

629日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:20:15.79
>>612
ほーオウム返しされたら地に堕ちるの

短里や畿内はなかったなどの嘘付き騙しの九州説者は、
全てにオウム返しされて、 地に堕ちる

630日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:28:58.35
>>629

>>628

おまいうw

631日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:33:22.90
>>620
>つまり九州には巫女文化が継続していた証があるという事だな。

継続してないだろ?
魏志倭人伝にも、記紀にも、風土記にも一切記載がない

一部地域の一時的な奇祭ってところだろ

だいたい、巫女さんなら古い神社のあるところにこそ継続していると言えるのに
熊本に古い神社ないじゃんw

632日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:35:04.25
>>623
>結局チェリーピッキング常習犯によるチェリーピッキング批判でしかないなw
>学者ですら畿内と九州における文化の違いを目の当りして纏向から離れていったわけでw

どちらが具体的か、一目見るだけで分かるだろ?w
自分で持ち出したトンカラリンネタにすら、まともな反論ができないw

トンカラリンと卑弥呼を絡めるのは無理だよw

633日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:37:47.44
>>631
>魏志倭人伝にも、記紀にも、風土記にも一切記載がない

まさに畿内説の主張内容がそれだなwww

634日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:44:55.44
>>630
パクリじゃなくて事実を書いただけだが

635日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:49:02.59
>>634
お前の脳内事実とは、社会で妄想と呼ばれているものだぞ。

636日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:52:07.09
畿内は台与とも関係無し。

崇神11年(261年)の記事
「4月28日、四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人たちが大勢やってきて、国内は安らかになった。」

637日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:53:44.87
畿内説妄想症候群の学者どもに踊らされ、市税を食い物にされ、捨てられてゆく桜井市・・・
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚 ←ちゅーと半端なまま放置w
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。

638日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:54:41.83
>>635
九州説の頭の中がトンカラリンのチョンカラリンという事が?
いやどう見たって事実

639日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:57:27.17
頭の悪い奥山が、畿内説宣伝係をクビになってしまったあと、さらに頭の悪いバイトが、採用されてしまったのでは、ないのかな。。。

640日本@名無史さん2019/10/02(水) 12:58:54.20
九州説は頭の中が空なので石を投げ込むとトンカラリンと音がする
これが九州説の頭トンカラリン遺跡の由来

641日本@名無史さん2019/10/02(水) 13:00:32.85
>>638
お前日本に来て何年?w
まるでチョンの特性がDNAで受け継がれている事を証明するサンプルみたいな人格だなw

642日本@名無史さん2019/10/02(水) 13:03:10.68
自分が朝鮮人で恥ずかしいからって他人を朝鮮人扱いするのは良くないよ

643日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:00:31.69
>>633
>まさに畿内説の主張内容がそれだなwww

それ、九州説が言っているだけw
ブーメラン乙w

投げる前に振りかぶったブーメランで後頭部を強打して悶絶してるのが九州説w

644日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:02:55.77
>>636
>この年異俗の人たちが大勢やってきて

それが、纏向遺跡で出る外来土器の由来であり、
そこに3世紀の倭国の中心があったことを示している訳だ

魏志倭人伝に卑弥呼が共立された宗教権威と記されていることとも一致する

645日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:32:14.96
昨日は、何についての物事を討論していたか、忘れてしまったな。。。

646日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:37:36.36
>>645
荒野の薪についての討論は、邪馬台国九州学の立場の者達が、最近までは、コウヤマキが伐採と同時に年輪とは無関係に個体内全体で一斉に、閉鎖系になると勘違いしていた奥山氏が宣伝している邪馬台国畿内説の立場の者達を、全て、完全に論破して、決着したのだったな。。。

647日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:38:36.22
>>646
その後で、話題は、方角についての物事に変換されたのだったね。

648日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:39:46.06
奥山氏は、北朝鮮から、このスレッドにアプローチしているのだったな。。

649日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:41:58.11
破綻してしまった邪馬台国畿内説という仮説を宣伝している奥山氏は、昨夜、沙里院市に住んでいることを告白したのだったね。。。

650日本@名無史さん2019/10/02(水) 14:46:58.49
沙里院市の奥山邸から見て、垂直方向の一点を除く、地球上のすべての地表面を八方位で分割したとき、奥山邸から真東の任意の地点は、必ず東に分割された面に含まれるのだろうか。。。

651日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:13:04.31
>>499
>>常識だろバカw
だから隋書でわざわざ邪靡堆と書き改められたのは、変化したからだということだ。<

>先行史書を参考にしているのが理解できていたら、
「邪靡堆」が「邪摩堆」の誤記だってのがすぐに分からないやつは「バカ」だww
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝)
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)<

こいつ(類スレ主?)、本格的にバカだよな。
後代史家が、前代史書の記載を、後代での解釈に拠って高慢に書き換える、
というインチキは幾らでもある事であり、
そして、前代史書の記載がその当時での正しかった記録であった、
という事も幾らでも有り得る事であり、
だから、前代史書の記載の方を優先し残すべきである、という事も幾らでも有り得る。
張元済の「古文、古形を保存すべき」という考えと同じだ。
そして。(隋書と北史は筆者にダブりがあるけれども)「邪靡堆」の方が、古形だ。
そして、この男(類スレ主?)は、
(『隋書』俀国伝)とか(『北史』倭国伝) とか書いているが、
随所や北史では「国」ではなく「國」であった筈で、
この後代の現代男も、
「國→国」という書き換えを実行している嘘つき騙し人間である事になる。

652日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:18:23.23
沙里院市の奥山邸を接点とする扁球の接平面と平行な、纏向の掘立小屋を含む面は、掘立小屋にとっての水平面ではないのだったな。。。

653日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:21:54.86
>>504
>大陸人が倭国・日本にさしたる興味がなくていい加減ていうのは、常識だろ
わざわざ示さなくてもw <

旧唐書と唐会要は、九州倭国と大和日本国とをきちんと書き分けているが、
新唐書は、
執筆時点では、古い時代に存在した九州倭國はほぼ存在しなくなっていたから、
大和政権の「日本」伝のみになっている。

654日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:24:34.74
>>505
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や、
「九州王朝は存在しなかった」とかパカなこと言ってる人は
脳が馬鹿です

655日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:26:51.95
>>508
>福岡で出土した馬具も随分豪華だったよな。
倭王の馬だったのかな。<

ふーん。

656日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:32:56.38
>>510
>唐会要 倭国伝
則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。 
 則天時の遣唐使は粟田真人で大和朝廷の貴族
大歷十二年。遣大使朝楫寧副使總達來朝貢。 
 大使の朝楫寧が小野朝臣石根、副使の總達が大神朝臣末足で大和朝廷の貴族
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
 薛原朝常嗣が藤原朝臣常嗣で大和朝廷の貴族
これらは日本の六国史の遣唐使記事で確認できる<

「則天時」の遣使も「大歷十二年」の遣使も「開成四年」の遣使も、
(何故かしら?)、「日本國使」を名乗らずに、「倭國使」を名乗った、
という事になる。

657日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:35:31.93
>>511
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
詐欺、インチキ捏造の常習は、
常に大和説

658日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:37:45.57
沙里院市の奥山邸を接点とする地球という扁球の接平面を、8方位で8分割する4直線の全てについて、奥山邸から見て垂直方向にある点を通る、そのそれぞれの全ての平行線で構成される4つの平面を考えます。。。
4平面を奥山邸から垂直方向の線で、8平面に分割し、北から時計回りに、北北東面、東北東面、東南東面、南南東面、南南西面、西南西面、西北西面、北北西面と名付けます。。。
補足ですが、8つの全ての面は沙里院市の奥山邸を接点とする地球という扁球の接平面と、垂直です。そして、それぞれ、同一平面上にある対の面があります。。。

纒向の掘立小屋は、どの面と、どの面の間にあるでしょうか。。。

659日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:47:10.59
ヤマトの記録は記紀に、邪馬台国の記録は魏志倭人伝に残されているが、朝鮮式畿内説のいう事象は朝鮮式畿内説信者の脳内にしか存在しない。

660日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:52:00.68
>>659も連続句読点w
最近、バレバレw

661日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:53:32.35
>>514
>倭人伝の道筋の国の人口(戸数)は)盛り過ぎだね。<

また、嘘つき騙しの・・・・アホが出て来たみたいだねえ。
韓の、馬韓の「凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」や、
弁辰の「弁、辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸」の、
「戸数」と比べて、別の「盛り過ぎ」ではない。

>あの数字が実際の人口だとして論を立てるのは、普通いささか躊躇されるのではないの。<

あの数字は(人口ではなく)「戸数」であり、
実際の人口だとして論を立てるのは、普通いささか脳がクルっているるのではないの?。

662日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:03:02.17
非ユークリッド幾何学を理解できない奥山氏にも考えられるように、ユークリッド幾何学だけでも考えられる問題を発表した僕達に対して、それでもすぐに思考停止した奥山氏が、頓珍漢な間違えを犯してしまっているな。。。

660日本@名無史さん2019/10/02(水) 15:52:00.68
>>659も連続句読点w
最近、バレバレw

663日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:04:06.08
沙里院市の奥山邸を接点とする地球という扁球の接平面を、8方位で8分割する4直線の全てについて、奥山邸から見て垂直方向にある点を通る、そのそれぞれの全ての平行線で構成される4つの平面を考えます。。。
4平面を奥山邸から垂直方向の線で、8平面に分割し、北から時計回りに、北北東面、東北東面、東南東面、南南東面、南南西面、西南西面、西北西面、北北西面と名付けます。。。
補足ですが、8つの全ての面は沙里院市の奥山邸を接点とする地球という扁球の接平面と、垂直です。そして、それぞれ、同一平面上にある対の面があります。。。

纒向の掘立小屋は、どの面と、どの面の間にあるでしょうか。。。

664日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:14:14.39
会稽東治のあった上海市の市長室を接点とする地球という扁球の接平面を、8方位で8分割する4直線の全てについて、上海市の市長室から見て垂直方向にある点を通る、そのそれぞれの全ての平行線で構成される4つの平面を考えます。。。
4平面を上海市の市長室から垂直方向の線で、8平面に分割し、北から時計回りに、北北東面、東北東面、東南東面、南南東面、南南西面、西南西面、西北西面、北北西面と名付けます。。。
補足ですが、8つの全ての面は上海市の市長室を接点とする地球という扁球の接平面と、垂直です。そして、それぞれ、同一平面上にある対の面があります。。。

熊本城の御天守は、どの面と、どの面の間にあるでしょうか。。。

665日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:16:01.19
>>515
>現存写本が「邪靡堆」となっていることは、
「隋書が書かれたとき」に「邪靡堆」と書かれたことを保証しない<

「隋書が書かれたとき」に「邪靡堆」と書かれていた、という確率は十分にあり得る。

>よく言われるのは伝書のある段階で、摩の下の「手」が毛筆の乱れで縦画が割れて
「非」に見えたのだろうというもの<

「手」の縦線全体が、
「真ん中で真っ二つに割れる」という事自体が、
起こり得るとは思えず、確率が低過ぎる。。

>それだけで、北史の「邪摩堆」と一致するし、<

後代史書での書き換え論よりも、
隋書に残存文字の方が「古文古形」であり、正確率が高い。

>「則魏志所謂」邪馬臺者也とも整合性の取れる解釈になる <

魏志では「邪馬壹國」であって「邪馬臺」ではなく、
魏徴の注自体が、信頼性がない。

>北史と隋書で同じく「則魏志所謂」邪馬臺者也と書かれているのに、
「隋書で修正された」と考えるのが噴飯物のバカの発想 <

北史と隋書で同じく「則魏志所謂」邪馬臺者也と書かれているからと言って、
「隋書の邪靡堆が北史で邪摩堆に修正された」と考えるのが噴飯物のバカの発想

666日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:18:38.31
>>631
記紀にも風土記にも、九州は女性首長の話がたくさん出てくる。
数え切れないくらいにね。
その頂点にいたのが卑弥呼なんだろう。

667日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:19:42.18
>>613
原典無視か。
対馬、壱岐を経て着いたところが倭だと書いてあるよ。
倭人伝は、北部九州は倭とし、その北部九州から東へ千余里行ったところに複数の国があり、そこに住んでる人民はみな倭人と同じ種族だと書いてあるな。
九州も対馬も壱岐も倭種の国なんて、どこにも書いてないよ。
また、本州というのはどこから引っ張ってきた認識なん。
本州を表している地理的記述はどこにもない。
いったいぜんたい、どんな読み方しとんのよ。

ところで、この掲載してる写真はどこよ。熊本か。背後の山は阿蘇の外輪か?

668日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:21:18.61
>>660
はずれ〜w
俺は連句読点じゃないw

669日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:37:16.19
>>516
>>新唐書に書かれた、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れて大和に移った神武が、<

>これがまたインチキ解釈ww
新唐書は日本書紀を適当に写したものだから、記紀の皇統譜に従っているだけ
記紀の記述では、神武が本宗だよ 筑紫の日向には何も残っていない<

ダメだ。
隋書で、倭奴國と卑弥呼の国が同じで、「自魏至于齊、梁、代與中國相通」した事を記し、
唐会要倭國伝でも、(倭國伝と日本國伝とを全く違う場所に分けて書いて)、
「倭國 古倭奴國也」や「世與中國通」や「其王姓阿毎氏」を書き、
更に「西北接百濟、正北抵新羅」として、
倭國が北部九州にあった、という事をはっきり証言している。

670日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:38:33.96
>>667
>原典無視か。

それはお前が無知なだけw
つ 原典 
「魏略」 前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 A 度海千里復有國 皆倭種

要するに、東南大海中の或いは絶え或いは連なる列島が「倭」で、
その列島の間の渡海千里で渡る島も全部皆倭種、というのがもともとの記述

三国志ではAの部分に、いろいろと挟み込んだので九州説がおかしな
解釈をする余地が生じたというだけ

671日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:40:19.65
>>667
>ところで、この掲載してる写真はどこよ。熊本か。背後の山は阿蘇の外輪か?

お前が無知なだけww
ここ(海上)から見た風景だ
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

672日本@名無史さん2019/10/02(水) 16:41:36.49
>>668
>はずれ〜w
>俺は連句読点じゃないw

それ、連続句読点と同等の人間だってことだぞww
九州説の人間にとっては連続句読点と同列視されるのは誇らしいことなのか?w

673日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:00:43.54
>>623
>学者ですら畿内と九州における文化の違いを目の当りして纏向から離れていったわけでw

その学者の名前が言えないという
九州説の詐欺体質

674日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:02:06.57
>>521
>2世紀の末頃から大和の地元民のほかに
尾張、東海、関東、近江、北陸、山陰、吉備、西部瀬戸などから
人が纏向に送られて土木工事にが継続的に続けられた。
そして、当時、列島最大の墳墓がやはり継続的に作られ続けた。<

「列島最大の墳墓」というと、
「二世紀末頃から」というのが嘘つき騙しになってしまう。
石塚は3世紀末。

>これだけの広域の地方が一つにまとまって、
なにやら砂ぼこりを立てて活発な活動を纏向で継続していたわけで、
当時列島で最も活動的に地域だったのは間違いないな。<

九州倭國の「東征毛人五十五國」の別動隊の征服があったの。

675日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:02:09.18
全国に、今もって名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。   @阿波

676日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:02:45.18
奥山が左遷くらってもうキナイコシしか残ってないのか?

677日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:04:13.96
>>673
毎日新聞工作員には内緒だからなw

678日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:06:03.78
全国に、今もって名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。   @阿波

679日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:13:10.80
倭人伝に書いてある道筋って圧倒的に南方向が多いからね
帯方東南にならないの、わかるかな?
つまり行程で書かれてる方角には間違いが混ざってる

680日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:15:21.43
>>679
混じっていない!   @阿波

681日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:18:07.00
>>674
>石塚は3世紀末。

そうやって理由も言わずに
世間常識に反することを言っていると
九州説は覿面に
世間常識から離れていくわけだ

悲惨だなあ

682日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:29:32.29
>>532
>皇国史観から作られたのが九州説だよw
畿内説は考古学が基本<

ほら、大和説は、「畿内」なんていう「天皇の存在を前提」とする皇国史観であり、
「結論先にありき」の似非学問。
そして九州説は、文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論の、
科学的学問そのもの。

683日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:37:46.82
>>644
>それが、纏向遺跡で出る外来土器の由来であり、

おいおい、纏向の土器は大半が尾張だろ。

684日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:39:06.74
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。

邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚 ;
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
倭国の対外交渉権の変遷が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨の伝承に反映されているもしれない。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
そして、7万戸という東夷の世界で最大の消費地も、弥生文化の中心地である筑紫に求めるしかない。

685日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:43:48.47
生口の流れだよ
労働力が流出してなお巨大古墳を作っていたんだから食事できてたのかどうか
一般人の遺骨は見つかりにくいけど体格を調べてみるといいね

686日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:45:27.09
>>684
筑紫が交渉窓口の場所を提供してることしか読み取れない

687日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:45:54.76
>>680
混じってないと「帯方東南」にならんな

688日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:51:15.48
>>683
>おいおい、纏向の土器は大半が尾張だろ。

おいおい、纏向の土器は全てが「東阿波型土器」だろ。   @阿波

689日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:51:36.83
S字甕の拡散と庄内甕の拡散を単純合計しちゃうと
あの図みたいになるだけで
内訳を知ってる人間は>>648のような妄想はしない

690日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:53:28.36
>>686
伊都国が交渉窓口の出入国管理局。   @阿波

691日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:53:38.63
九州説は無知が作った

692日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:54:56.19
>>689
吉備甕もね

693日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:55:01.66
>>687
>混じってないと「帯方東南」にならんな

まさに四国阿波は「帯方東南」。   @阿波

694日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:55:30.36
気持ちいいな
畿内説も@阿波も伊都が交渉窓口で出入国管理局と認めざるを得ない

695日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:57:21.69
>>686
北部九州が交易の窓口だったとして、畿内にその交易の結果に該当する痕跡が無いのは?

仮に北部九州に畿内人が流入していたとすれば、それは要するに田舎者が上京していたと考えるのが普通だなw

696日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:58:52.86
>>694
伊都・・・

邪馬台国でないことが確定してる国の

697日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:59:24.42
>694
>畿内説も@阿波も伊都が交渉窓口で出入国管理局と認めざるを得ない

それ、地方の出先ってだけなんだけど?
一大率が有如刺史と書かれている時点で、伊都国は王都から遠く離れた地方だぞ

それに成田の出入国カウンターが日本の首都だって主張するやつはいないだろ?

九州説って、頭おかしい?

698日本@名無史さん2019/10/02(水) 17:59:57.98
>>694
伊都国(直方あたり)は、倭国(阿波)へ鉄鍛冶材料を手配していたんだね。   @阿波

699日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:00:00.75
田舎者だといいが・・・生口とは・・・奴隷・・・

700日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:01:27.45
>>695
でも九州説は普通じゃないんだよな

701日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:04:21.35
同時代に同文明が連動していない時点で畿内と北部九州は別国だ。
先住民による古来からの付き合いはあっただろうけど。
政権交流すら無かった可能性の方が高い。
それが現時点におけるバイアス抜きの考古学的見解だろうな。

702日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:07:22.39
新しい政治思想の流入前から、先住民による交易などが存在したということを完全に無視している畿内説は「説」として失格だ。

703日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:07:23.10
>>701
畿内も北部九州も、「忌部はん」 が発展させた地域。   @阿波

704日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:08:25.42
>>545
>その記述が記紀の記述の説明であり、
大陸史書からは「神武が九州倭国の分家」などとは言えない、
という根拠を示しただけってことすら理解できないんだな、九州説はww<

いや、新唐書は記紀を転載していないし、
大陸史書から「神武が九州倭国の分家」などとは言える。
隋書が、倭奴國と卑弥呼の国が同じで、「自魏至于齊、梁、代與中國相通」した事を記し、
唐会要倭國伝でも、(倭國伝と日本國伝とを全く違う場所に分けて書いて)、
「倭國 古倭奴國也」や「世與中國通」や「其王姓阿毎氏」を書き、
更に「西北接百濟、正北抵新羅」として、
倭國が北部九州にあった、という事をはっきり証言している。

705日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:10:14.92
学者レベルでは九州説でしょ。
いまだに畿内説を主張してるのって誰よ?

706日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:11:22.04
実際には、無視してると立証しない>>702が「説」として失格なんだけどね

707日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:15:25.42
>>674
さかんに石塚3世紀末説をとなえてるけど、石塚は2世紀初頭頃というのが通説だけどね。
その3世紀末のデータどんなのがあるのよ。

東征毛人は中央アルプス東へ越えたところの住人だよね。

708日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:18:54.82
>>705
>学者レベルでは九州説でしょ。
>いまだに畿内説を主張してるのって誰よ?

ブラジル勝ち組



w

709日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:20:01.68
>>671
不彌から関門海峡抜けて東へ二十日で投馬国だって。
うそみたい〜。
というか、うそだろう。

710日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:23:26.68
>>709
いつも自分の主張を説明できない九州説の悲惨

711日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:26:03.19
>>694
ありゃ、北部九州が邪馬台国ではないと認めてるわ
出入国管理の仕事乙

712日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:27:32.50
>>574
>この考古学的知見というのは、「帯方太守 張撫夷塼」と書かれた塼槨墓が沙里院唐土城の近くで見つかっていることだと思うけど、
この墓の存在によって帯方郡庁が沙里院唐土城にあったとする考えがみられる。
ただ、気になるのは、この墓と似たケースがあり、それは中国亳州市の元宝坑一号墓の被葬者。有名な倭人塼が出た墓。
この墓の被葬者は「会稽太守曹君」とされていて、会稽郡の太守を務めた人物らしい。
ということは、この人物は会稽郡の太守を務めたあと故郷の亳州の墓に葬られたとこを意味している。
このケースと唐土城の張撫夷の墓を比べたとき、唐土城は張撫夷の故郷であって、帯方太守を務めたあと故郷に葬られた可能性もあり、この墓の存在が唐土城が帯方郡庁の所在地を示すものだとは言い切れないのではないかということがある。
ただ、この帯方郡庁の所在地については、方位的にはソウルとほとんど同じになるので、今の倭種の国の所在地の論議にはほとんど影響しないと思われる。<

ふーん、成程。

713日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:30:39.90
>>711
出入国管理をしているつまり邪馬台国
その他は全て未開の毛人

714日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:31:54.91
小枝のデータで、ホケノは4世紀決定だからな。
後世の石槨崩落で枝が混入したとかなんとかいうが、そのようなことは信じがたい。
今でも親しき人を見送るに当たっては、棺の上に花束を手向ける習慣がある。
ホケノの王の葬送の際も、若くて美しい王妃が、満開の桃か桜か梅かは知らぬが、小枝をそっと手向けたのであろう。
そして千数百年後、発掘調査に当たった者たちがそれを発見し、C14 分析に掛け、4世紀という答えを得たというわけだ・・。

715日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:34:04.79
>>713
九州説とは人間どこまでばかになれるか競う競技なのか?

716日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:36:23.57
>>714
ひとが尤もと思うものをを信じない
より怪しいものを信じる
それが九州説

717日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:37:29.38
>>713
内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの行きと帰りのルートは異なる。

伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。 

だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  

伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。  

その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や「感田野添西遺跡」「平原池の上遺跡」だろう。   @阿波 

718日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:42:58.35
科学音痴の妄想畿内説が、科学の発展によって崩壊していく様子を見ながら酒を飲むのも乙なもんだぜw
ここ数年はゴットハンド使って悪あがきしてるだけだもんなw

719日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:44:24.71
>>718みたいなのを九州説の悲惨というんだろうな

720日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:46:09.93
>>718
>科学の発展によって崩壊していく・・・

倭国(阿波)の遺跡の科学的検証によってね。  わははははは   @阿波

721日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:48:37.51
>>670
ここでも勝手読みが幅きかせてるのか。
倭人伝は倭(九州)を南に引き伸ばして沖縄あたりまで広がる巨大島として描いているが、関門海峡から東へ広がる本州はその倭には入れてないのよ。
だから、倭の女王国から東へ千余里で別の倭種の国(本州のうちの一地方)があると書いてるわけ。
当時の中国人が考える倭とは九州巨大島なの。
その外にある千里東の倭種の国は倭とは別という認識なんだな。

722日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:51:00.96
>>721
このように、理由をひとことも言わないのが
九州説のスタイル

723日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:51:21.32
>>705
九州説を提唱する学者なぞ国内におらん
朝鮮の学者レベルでなら居るかも知れん

724日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:55:29.95
4世紀ころ、10代崇神が自分の祖・神武をしのんで宮崎神宮を建てている。
崇神から神武まで父子継承で9世代さかのぼるなんてことはなく、実際は5世代100年ほど。
だから崇神が神武の出発地を間違えるわけがない。
従って神武は宮崎。

邪馬台国も神武もなんでもかんでも北部九州にしようなんて話は通らない。
カッペは少し黙ろうか。

725日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:57:39.88
>>710
南と書いてあるのにそれを東へ90度変換するのは騙しだと言っている人がいるけどな。
90度変換について、納得のいく説明を求めるニダ。

726日本@名無史さん2019/10/02(水) 18:59:50.74
>>724
どっちもカッペ。  @卑弥呼

727日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:00:55.54
>>725
伊都国は末盧からどっち方向にある?

728日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:06:44.88
>>723
学者レベルでは九州説でしょ。
いまだに畿内説を主張してるのって誰よ?

いまだに畿内説を主張してるのって誰よ?

729日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:07:22.71
>>721
その反応はもう見飽きたよ。
もう少しひねった反論が欲しいところ。

730日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:07:47.99
>>583
>>正しくは、九州説は「皇室史観」であり、
畿内説のほうがギンギンの皇国史観である、
そして考古学の成果をも皇国史観にもとづいて解釈しようとするわけだ・・。<

>畿内説は九州説と違ってイデオロギー関係ないよ<

馬鹿だね。
「畿内」なんて、天皇の存在を前提としている文言だから、
それだけでも、皇国史観の結論先にありきの説になってしまっているんだよ。

>数論とかと同じように学説だから<

自然や歴史では殆どが不可知部分であるから、
史料事実からの帰納的な高確率的推論が必要であり、
論理学とか法律とか数学とか宗教とかの「断定」論や「100%決定」論は、
有り得ないんだよ。

731日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:08:05.13
>>729
鉄器の分布

732日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:10:40.99
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてます

733日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:12:24.21
>>695
>>686
>北部九州が交易の窓口だったとして、畿内にその交易の結果に該当する痕跡が無いのは?

>仮に北部九州に畿内人が流入していたとすれば、それは要するに田舎者が上京していたと考えるのが普通だなw

正解

734日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:13:12.57
>>725
方角が間違いか、距離が間違いか、なんて小学生レベルの話

735日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:16:04.62
>>728
>いまだに畿内説を主張してるのって誰よ?

松木、東、田中、北條、岸本、米田、久住、武田、西元もう疲れた

736日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:18:04.69
>>732
邪馬台国は畿内だとな

737日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:29:51.30
魏略逸文と魏志倭人伝を読めば、卑弥呼のいる倭は北部九州であり、その卑弥呼が都を置いている女王国から東へ千余里のところにある倭種の国は大和周辺国を指していることは明らかなこと。
そもそも魏略倭伝逸文の冒頭の文章からは、北部九州にある卑弥呼の倭国とともに魏王朝が大和周辺の国の動向にも非常に関心を抱いていたことが分かる。
この魏略の記述の元資料がつくられたのは3世紀前半中頃だと考えられるから、ことは、それから十数年たらずあとの3世紀中頃に卑弥呼の倭国を潰して大和が博多から鉄器などの貴重財を独占入手するようになったとする歴史観を傍証する資料の一つともなる。
魏王朝は卑弥呼の倭国と冊封関係を結ぶにあたり、膨張している大和に関したなんらかの情報を得ていた可能性がある。

738日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:31:01.82
で?

伊都国は末盧国のどっち方向にあるの?

739日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:32:13.69
>>737
あんた、それもう論破されてるだろ
往生際悪いぞ

740日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:34:09.89
邪馬台国は畿内、というか普通に大和。

しかし>>1が言うような纏向遺跡ではない、あれは物部の遺跡。

だから大和では前方後円墳が6世紀末の物部の滅亡とともに消えてるのだ。
纏向遺跡の大型建物もその謂れが伝承されていないのは物部が滅亡したからだ。

741日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:38:52.57
九州説よ、力量を診てやろう
まず>>740を論破してみろ
簡単だぞ

742日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:40:01.41
>>734
小学生でも南と東は間違わんだろうと指摘されたことがあったろう。
いまさら734でもないだろう。

743日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:40:46.69
>>741
ふん、偉そうに。
簡単ならお前が論破してみろ。

744日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:42:50.64
>>743
できないのか

なさけないな

745日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:43:23.13
>>731
大和に鉄ないのに、博多から大和までの一元的な政権が大和にあったて、矛盾しまくり。

746日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:46:22.74
>>745
ないって証明できない九州みじめ

747日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:46:26.11
>>744
できないのかって俺が>>740なんだが。

なんで自分を論破せにゃならんのか。

748日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:47:39.85
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

749日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:48:36.01
できない人だと証明された>>747

750日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:48:36.15
>>739
いや、論破なんてみたことないな。
往生際わるいのは大和説者。
つまり、往生際がわるいのはきみ。

751日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:49:09.62
>>730
仮に畿内が天皇の存在を前提にしてたって何が問題になるのか
皇紀は2600年とかだから伝承では邪馬台国の時代より前から天皇は居たことになってるし
だからといってそれを元にして天皇バンザイとは誰もやっていない
逆に倭人伝に倭国大乱が180年頃とあるから畿内を平定した初代天皇神武即位がその頃だとすると
本来の皇紀は1800年くらいにならねと戦時中なら不敬罪でしょっ引かれるような考察も平気でやっている

邪馬台国と想定される位置に畿内を当てはめるのも
天皇の存在関係なく後の行政区分五畿七道の五畿に相当する所が卑弥呼の時代に
古墳や出土土器など文化的繋がりが見られるので便宜的に当てはめてそう呼んでいるだけ

数学も物理学も
厳密に言えば一定の条件下でしか成り立たない非決定的で暫定的なもの
前提条件が変われば全ては成り立たなくなるものだから
相対性理論も高重力下などの特異点にあっては破綻するとアインシュタインも言う
数学や物理学が決定的で史学は否決定論というのは原理的には間違いで
本質的にはどちらも同じもの
そして考古物と書物に書いてある歴史記述と場合によっては科学によって
より蓋然性の高い結論を導き出すのが史学
そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される

752日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:49:50.25
>>748
>学術的に決着がついてる

そう主張しだ学者は、だれ?

753日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:50:16.65
>>749
そりゃ自分を自分で論破はできない。

754日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:51:54.41
>>750
>いや、論破なんてみたことないな。

あなたじゃない他の人はみな見てますが

755日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:53:04.22
>>753
いつもの自演があるっしょ

756日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:53:35.76
>>751
>古墳や出土土器など文化的繋がりが見られるので便宜的に当てはめてそう呼んでいるだけ

その文化的繋がりは、「忌部はん」 がもたらしたもの だと、何度言えばw   @阿波

757日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:53:49.34
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

758日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:55:16.19
>>757
それ、指摘した学者はだれ?

759日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:56:23.83
橿原考古学研究所

760日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:56:38.24
>>751
>そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される

ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?
近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。   @阿波

761日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:57:09.89
>>757
>大型建物 各地で発見

どこ遺跡?

762日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:57:17.38
奥山氏の脳が占める空間の鉛直線偏差は、どのような数値なのだろうか、、、

763日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:58:40.51
回転ずしで100円マグロを食しすぎたのだろうか、、、

764日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:59:24.48
>>751
>そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される

ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?
近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。   @阿波

765日本@名無史さん2019/10/02(水) 19:59:53.18
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津        (250年頃)  C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃)  @神武 


※ 神武の時代が女王国であった。

7世紀後半の朝廷は、かつての女王と婿との関係を新称号を創作する事でごまかした。
その新称号とは「天皇・皇后」だ。

卑弥呼ことヒメ妃は皇后にされた。

766日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:00:17.33
以前から書いていることなんだけど、
家はどこかの社員とか工作員?ではない


言っている意味が、わからないんだろう?

767日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:01:07.22
奥山氏は、方角を認識出来ないのだったな、、、

768日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:02:11.54
なぜ刑務所に行かないんだ?

769日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:06:08.20
>>751
>そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される

ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   @阿波 

770日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:07:00.48
まさか・・・?暴力団(〜関係者)などではないんだけど、
白い服〜の写真なども家の写真w

老婆談〜話も同じでしょ

771日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:10:32.97
頭が悪い奥山氏は、インターネットで見つけた文章を、理解もしないまま加工して、貼り付けてしまう悪い癖があるのだったね。

772日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:11:15.28
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

773日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:12:21.03
>>746
あったら出してよ。
桜井市の博物館に鉄あるの?
ないよ。
よその博物館は鉄の刀や鏃なんか出土品いっぱい展示してるけどな。
桜井市ではみたことないよ。

774日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:12:23.82
ネット事典のコトバンクで文章を見つければいいのではないかな。。

775日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:15:34.12
鉄はホケノ山古墳や椿井大塚山古墳の発掘で、
畿内が出土量で九州を逆転する。
これは鉄の流通の「大親方」のような人物が畿内入りしたことを意味する。

その「大親方」とはニギハヤヒだ。

776日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:15:39.11
>>772
なら自分が学会で邪馬台国は九州と発表すれば
九州説学者は誰も居ないから学者になるチャンスだぞ

777日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:16:29.07
偶然なのかな、それとも、ただストーカーがいるだけなのかな?
サトシという名前(キャラ?)、雷が何やらとか


家の話でしょ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・龍宮〜?

778日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:18:26.52
川崎区、勝〜(下の名前)という名前の家があるでしょ、その家なんだけどw

あの写真などもw

779日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:19:10.97
>>754
まぼろし見たのじゃ?

780日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:20:17.90
奥山氏の脳が、特異なのではないのかな、、、

781日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:21:54.99
『かっぱ 仏教』

兄の名前なのかな?、〜智□という名前

782日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:22:13.83
>>775
>鉄はホケノ山古墳や椿井大塚山古墳の発掘で、

古墳の外には鉄器なし

征服してすぐ鉄器を渡すなんてできないよね
ニギハヤヒを責めちゃダメ!

783日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:23:01.96
キナイコシはアカヒ?

784日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:24:14.12
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

785日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:26:38.26
いっぱいいるし別にキャリアも犠牲にならない

786日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:26:50.82
>>611
>熊本のトンカラリンやらを知らないのか?
巫女の遺骨も発見されてるのに。
魏志に書いてあるように馬韓でやってたんだから、半島から九州にかけては普通にやってたはずだ。
それと、桃を使うのは道教であり、鬼道とは異なる。<

ふーん、成程。

787日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:27:27.36
>>785
>いっぱいいるし

え?誰??

誰誰誰???

788日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:27:58.44
日本の考古学者、古代史家はもちろんHシュリーマンの話は知ってるはずだ。
ところが彼ら考古学者、古代史家は自分たちが大人になったとたん、
「神話の世界などあるかよ」「高天原なんてあるわけないじゃん」と、
かつてシュリーマンを笑っていた大人と同じことを言ってるのだ。

実に滑稽だ。

卑弥呼の墓は標高435m、日本神話の原点・高天原(御所市高天)にあったのだ。
http://bbs10.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=e_asia&;mode=view&no=114&list=all

箸墓古墳って(爆笑)

789日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:28:08.51
>>775
大和の鉄はすべて3世紀中頃以降。
それ以前はゼロに等しい。
3世紀中頃以前の鉄は、桜井市博物館には展示してない。
つまり、ないということ。
饒速日が3世紀中頃以降というのは、ありえるかもね。

790日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:28:37.28
確実にw
銀〜という親戚がいて、謎の刀の話とか、川俣町が何やら〜。

791日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:28:41.51
奥山氏は、相対性理論がアインシュタイン以降も発展し、特異点でも破綻しない理論武装を成し遂げ、観測されたという、日本では小学校でも教えられている真実を知らないのだったね。。。

792日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:32:05.50
奥山氏は、頭が悪いな、、、

793日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:32:11.95
ほんとーに何の話なんだろう、
歌舞伎、芝居(芸能関係?)の話もしていたり

794日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:34:54.99
>>613
>そして北部九州から本州はどうやっても渡海千里にはならない
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

魏志の「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の渡海は、
北部九州の東への出発地になる東海岸から東渡海千余里であり、
到着地点は、松山〜今治付近であり、
魏の役人たちは、それから南に三千里陸行して、侏儒國付近に着いた。


ここを通っていくのが、水行二十日なんだよ

795日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:40:14.23
>>789
というか、天皇の住む東京都千代田区に武器があまりないであろう事と同じように、
鉄がないから邪馬台国ではないという理由は成り立たない。
BC3世紀ころ、出雲から畿内に銅鐸が拡散している。
そして九州瀬戸内には銅剣等武力が展開。
これは統一中国への対策で有ろう。

つまり、すでに畿内に王権があったことを意味する。

796日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:45:50.56
川俣 軍司?


司忍みたいな話なのかな、

797日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:46:50.01
>>794
松山あたりだと行橋市付近から四百里程度しかない。
千余里にはとても届かない。

798日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:49:09.91
天皇の住む東京都千代田区には、たくさんの警察官が、武装して警備していることを、外国人の奥山氏は、知らないのだったね。。

799日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:49:52.14
奥山氏は、無知だな。。。

800日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:51:46.42
卑弥呼の墓を祇園山だとして、2世紀前半の男王の墓はどこ?
そして60人の殉葬らしき石室があるそうだが、奴婢を石室に埋葬するのかという問題がある。
zarakokuのいうように百歩譲って奴婢長だとするのは数がおかしいね。
同時期に60人もの「長」がいるわけないのだから。
一クラス40人に学級委員長が36人いるような話になる。

801日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:52:56.19
天王?は東京には住んでいないよ、
どこの池沼なんだ?

他のスレでも同じような話をしている人がいたり、
ネットではなくても同じ、本や書などがあるでしょ

802日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:53:39.94
>>798
そんなもの千代田区だけではない。
千代田区に戦車がないから「天皇はいない」にはならないだろ。

803日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:54:43.03
>>795
皇居のすぐそばの市谷に防衛省があるけど。
これ、日本の武力の総本山ね。

804日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:55:04.83
家が、そう言っているんだから、
正解なんだよ、頭が悪いんだろう?

はやく精神病院に行けw

805日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:58:14.68
>>803
いちお平和国家の現代日本ですらそうなんだから
豪族同士、王族同士で争う古代なら
武力=権力だよな

806日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:58:20.49
頭が悪いんだろう?

『天王』『三貴子』その他(コトバンク?)

仏教、仙道〜など、ほとんど同じことが書いてあるでしょw

807日本@名無史さん2019/10/02(水) 20:58:48.64
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

808日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:04:13.68
>>789
>3世紀中頃以前の鉄は、桜井市博物館には展示してない。
>つまり、ないということ。

卑弥呼と関係があったとしても、邪馬台国に征服された側だろうね。

809日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:04:14.73
>>797
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)

↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m

女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)   @阿波

810日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:05:36.16
>>795
>BC3世紀ころ、出雲から畿内に銅鐸が拡散している。
>そして九州瀬戸内には銅剣等武力が展開。
>つまり、すでに畿内に王権があったことを意味する。
まったく論理性が見えないぞ。
紀元前に出雲に征服されました。
3世紀に筑紫に征服されました。
終わり

811日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:05:56.18
>>800の続き

だから祇園山説は成り立たない。
同時期の60人もの奴婢を石室に埋葬なんてあるわけがない。
しかも副葬品まで添えて。

かといってここのアホの>>1が言うような箸墓古墳ではない。
殉葬奴婢の痕跡が皆無。

というわけで卑弥呼の墓は日本神話の原点、高天原(御所市高天)しかないのだ。

812日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:06:54.33
>>800
>zarakokuのいうように百歩譲って奴婢長だとするのは数がおかしいね。
>同時期に60人もの「長」がいるわけないのだから。

石棺は一部だけだよ。
かの古墳は2/3ほどが発掘されて、約60の墓があったので、墓の総数は100と推定されている。

813日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:08:33.55
頭が悪いんだろう?

814日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:09:38.13
高天原
高貴なる海人族(天津神)の城

海上にありました。
世界遺産の沖ノ島です。
沖ノ島から筑紫(福岡)への天孫降臨を守護したのが、今でも沖ノ島を祭る宗像大社です。

815日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:09:45.85
>>812
ソースは?

816日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:10:38.88
つまり、相対性理論や量子力学を理解しない者にしか支持されていない、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。。

817日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:11:01.31
>>797
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)

↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m

女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)   @阿波

818日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:11:38.12
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

819日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:12:19.96
>>815
ブルドック

820日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:13:10.46
820

821日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:14:02.93
そんなことよりも

『ガンダム サングラス』〜『司忍』


『百式 仏教』?

822日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:14:27.63
邪馬台国畿内説のソースは、コトバンクなのだろうか、、、

823日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:14:50.10
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波

824日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:15:46.42
>>810
>紀元前に出雲に征服されました。

出雲の神々の畿内各地への移住はあったようだ。


>3世紀に筑紫に征服されました。

筑紫はニギハヤヒに随伴した筑紫物部がいた一つの有力地域だが、
吉備より力は落ちる。
そのニギハヤヒが神武に屈服してるのだから、筑紫が大和を征服したなんて話はあるわけがない。
脇役の分際で主役になってると思い込んでる韓国人の様な発想だ。

825日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:17:03.02
>>795
鉄があるから王権が成立すると言ってるのではないよ。
博多から大和まで一元的な政権が成立していたのなら、その政権の所在地である大和に博多から鉄が運ばれ、そこで鉄器が加工成形されていて当然だといっているのだね。
大和で鉄器が3世紀中頃以前に出ないのは、その時期には博多から鉄が運ばれて大和で加工成形されるということがなかったからだろうというわけ。
鉄が加工成形されて鉄器が大和で造られていたのなら、大和で鉄器は出土しているはずよ。
王権所在地で鉄器が出ないというのは不自然だからね。
しかしながら鉄器は出ていないのは事実だから、そのような博多から大和まで一元的に管理を行うような政権は大和にはなかったと考えるのがごく自然だね。

826日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:17:42.60
>>812
>石棺は一部だけだよ。

石棺ではないところからも人骨が見つかってるのか。
ならば石棺は奴婢ではないでいいな。

827日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:19:11.02
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波

828日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:19:15.68
邪馬台国畿内の醤油はカンジャンにだ

829日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:19:41.47
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波

830日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:26:50.09
奥山氏が。焦り始めたのでは。ないのかな。。

831日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:32:02.44
>>817
なんだ、和歌山が倭種の国か。
和歌山から桜井市までまだ90kmあるぞ。

832日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:32:48.01
>>825
うんうん。そうだね。
みんなそう思ってる。
もうずっと畿内説にはそう言い聞かせて
一人消え
二人消え
何人も悟って成仏して
最後に残ったが「職業畿内説」のキナイコシだけだから
あとは論理じゃないのよw

833日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:33:20.69
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

834日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:35:12.34
九州説こそ頭の正常な人間が一人も居なくなったように見えるよ

835日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:38:23.43
アカヒだねアカヒだよ

836日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:40:14.65
21世紀のコトバンクは景初三年だから3世紀の魏志倭人伝より正確

837日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:44:40.06
奥山邸は、北にあるのだったな。。

838日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:45:45.48
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの?  畿内の近場に温泉がなかったの?   

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波

839日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:47:59.79
気づいている人は気づいているのかな?
どこかにアキバ(漫画やアニメ、ゲーム)のような人がいるでしょ、
無理に家(寒いな〜・・・)と繋がろうとしたり

840日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:52:02.75
一度でいいから見てみたい
九州説がまともにしゃべるとこ

841日本@名無史さん2019/10/02(水) 21:54:41.35
>>618
>あと鉄がー、絹がー、は3世紀に入る前のものばかりだし、<

大和の鉄と絹は3世紀末以後であるし、
北部九州の鉄も絹は衰えずに発展を続けて、東征将軍らが征服支配するのにつかったし。

>伊都国と奴国のものであって、邪馬台国とは無関係<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國は、福岡平野中央筑紫〜筑紫平野及びその周辺丘陵地だし。

>宮室、樓觀、城柵が九州にあるっていうのも、時代の合わない吉野ヶ里遺跡の
復元物・つまり想像の産物であって、その復元も畿内唐子鍵の絵画土器を参考にしたもの
九州説は、このチェリーピッキング体質から脱却しないと、何も言えないよw<

類スレ主は、甘木付近の遺跡の事をこっそり隠しているし。

842日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:00:25.09
>>629
ほーオウム返しされたら地に堕ちるの

短里はあったし、畿内はなかったし、
「南→東」などの嘘付き騙しはバレた大和説者は、
全てにオウム返しされて、 地に堕ちる

843日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:05:18.37
ほんとーに老婆談

なぜ詳しいのか?なんだよな、
学校にも行ってないと言っているんだけど、
寺子屋?

844日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:07:23.99
>>842
地に落ちてないやんけ
九州説は嘘つき騙し

845日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:08:11.23
畿内説の宣伝に惑わされてたけど
ここ一か月のスレの様子を見てると
客観的な視点が欠けていたと再認識した

846日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:09:56.58
『天王』〜〜〜〜『連声』
このような専門用語が出てくるでしょ?


『姥清水』?
歌舞伎や芝居、馬に乗っていて〜、寒いな〜とか

847日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:11:32.84
>>824
>出雲の神々の畿内各地への移住はあったようだ。

敗戦処理役の事代主のこと?
それは出雲本国が降伏したからだろ。

>そのニギハヤヒが神武に屈服してるのだから、筑紫が大和を征服したなんて話はあるわけがない。

神武は筑紫から大和に入ったんだぞ。
寝ぼけるなよ。

848日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:19:00.36
そもそも畿内説は宣伝も何もしてないよ
気の触れた九州説が狂って有ること無いこと言いまくるからそれを訂正してるだけ

849日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:19:21.40
>>632
「南→東」などの嘘吐き騙しだけでも、
どちらがもインチキか、一目見るだけで分かるだろ?

850日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:20:52.42
邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、なぜ、全ての者が、頭の悪い朝鮮人なのだろうか、、、

851日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:23:48.66
>>638
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の頭の中が・・・・アホサギという事が?
いやどう見たって事実

852日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:29:07.14
>>644
>それが、纏向遺跡で出る外来土器の由来であり、
そこに3世紀の倭国の中心があったことを示している訳だ <

纏向は3世紀末以後であり、「南≠東」に拠って「倭国の中心」も×。

853日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:30:59.57
ホケノ箸墓 小枝と馬具、葺石

三角縁神獣鏡 鉛同位体

大型建物 各地で発見

土器土器 海外なし、むしろ九州へ大量献上


学術的に決着がついてる

キャリアを犠牲にしてまで畿内説を支持する学者はいるのだろうか?

854日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:34:18.59
テンプレに やっつけられる 九州説
立ったスレに 夜も眠れず

855日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:38:00.60
コトバンクとは、どこの素晴らしい会社が運営しているのかな、、

856日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:41:13.99
>>568


>>569
大ノ国(百済)の渡来人を胡(えびす)或は羊(ひつじ)と蔑称し、居住地を大胡、多胡と称した。

>>570
老婆(渡辺)が知らないとなぜか菅野が天皇より上になる(松傾脳)
小学校を中退した後のことは知らない
どこで知ったかきいてみろ
古事記日本書紀を読んだかきいてみろ
仁徳天皇を知っているかきいてみろ

>>571
誰が言っている
死んだ人間が渡ってくるのか

>>572
霊山城
応永年間には廃城となった
応永1394-1428

伊達郡川俣町の山の上のほうに住んでいた
河股城 福島県伊達郡川俣町大字東福沢字館山
城主 桜田氏

>>573
その前は日本にいない、いつ日本に来た
すでに天皇がいた、そして天皇の家来、下
百済は倭の属国

857日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:50:00.51
>>855
あさひ〜何やら?

ほんとーに、どこの局なんだろう、
震災後、311被災地のほうの話なんだけど

現地(福島県)に住んでいる何々さんという人物が出てきて、
花見、桜が〜とか、そういう報道をしていたとか

本来なら、
親戚が集まり花見〜そのような話をしていたとか、いなかったとか

あの、あたりの話?『ワンピース 粉雪』?

858日本@名無史さん2019/10/02(水) 22:57:55.97
その何々さん

なぜか、寒いな〜の家と
同じ名前だったような気がするんだけどw

859日本@名無史さん2019/10/02(水) 23:00:32.34
『福島県 花塚山』この辺り?どういうことなんだろう

860日本@名無史さん2019/10/02(水) 23:08:43.84
それにしても、どこの局だったんだろう、
たしか、そういう報道をしていたと、いなかったとか

????????????????????????

861日本@名無史さん2019/10/03(木) 00:30:24.01
金華山?とか中華でしょ

862日本@名無史さん2019/10/03(木) 00:36:12.14
『金華山  中国』

確実に中国の話でしょ、
むかーしの中国のほうからの〜渡来人

863日本@名無史さん2019/10/03(木) 00:47:53.52
たしか桜、花見が〜?


たしか、王母・・・寒いな〜?
と同じ名前の家の人が出てきて、話をしていたような

864日本@名無史さん2019/10/03(木) 01:26:10.90
『ザ・モモタロウ』に出てくるテングテングも同じ


日本古来〜とか書いてあったりするけど、
誰の視点なんだろう、時代とか

865日本@名無史さん2019/10/03(木) 01:32:30.00
日本古来〜と書いてあったりするけど、
実際は日本人(民族)ではないでしょ

866日本@名無史さん2019/10/03(木) 02:01:01.42
曹操の時代一郡で200万もおるのに一国形成まで行くような宗教集団を分裂、曹操の移住政策、させりゃあどれだけの人数が倭に移住してくると思ってんのよ?そりゃあ倭は乱れるよ、で歴年、文化水準の高い道教集団が奈良に腰を降ろしたんだろ。

867日本@名無史さん2019/10/03(木) 03:00:54.58
にほんごでおk

868日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:03:10.97
青州山東省系の人が楽浪にたくさん来てるのは確定事項
日本列島に来た中華系文化人がもと黄巾の落武者な可能性はめっちゃ高いぞ

869日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:27:45.56
本当に「❓」このような話でしょ、
老婆談というのはテレビ、ネットなども無かったころの話

川俣町(ぐんじ?)、歌舞伎や芝居〜とか

870日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:32:22.79
何かの家の、ホンモノなんだろう?という話

871日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:37:49.67
九州説はホンモノのパー

872日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:41:58.83
『旧広瀬座 コトバンク』?

873日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:52:12.84
『福島 民家園』

>昭和57年(1982)創立。

当時?そこに住んでいたわけでもないし、何なんだろう

874日本@名無史さん2019/10/03(木) 05:54:59.56
パーでもチョキでも、ホンモノは偉大よ

875日本@名無史さん2019/10/03(木) 06:00:10.99
>>670
>原典 
「魏略」 前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 A 度海千里復有國 皆倭種
要するに、東南大海中の或いは絶え或いは連なる列島が「倭」で、
その列島の間の渡海千里で渡る島も全部皆倭種、というのがもともとの記述<

成程。
Aは、唐代の顔師古に拠る「魏略の内容説明的引用紹介」の部分であったのか。
顔師古は、後代学者にしてはまだ比較的に「自己解釈に拠る書き換え」をしない学者ではあったが、」
それでも、陳寿の「魏の役人たちの記録の正確な紹介」姿勢に比べれば、
(古田分析に拠っても)少し正確さが落ちる紹介をしていたようであり、
Aの記載位置は、魏志倭人伝の方が、正確な紹介であったんだろうなあ。
(Yahooでの天誅の畏友のイリヒコ氏の魏略紹介では、「顔師古のAの位置」は、
否定されていた)

>三国志ではAの部分に、いろいろと挟み込んだので九州説がおかしな
解釈をする余地が生じたというだけ<

唐代の顔師古では、当然、
「(九州)倭國の別種の旧小国の大和日本国の独立」情報を知っており、
それに合わせた「倭種」解釈をした、という事であったんだろう。

876日本@名無史さん2019/10/03(木) 06:06:12.59
>>874
モノホンのゲスもか?

877日本@名無史さん2019/10/03(木) 06:14:42.53
>>875
>Aは、唐代の顔師古に拠る「魏略の内容説明的引用紹介」の部分であったのか

ウソ
ガンシコがシコシコ説明したのは
あくまでも漢書の楽浪海中有倭人であって
魏略の説明をしたわけじゃない
だから倭人のことを説明するために魏略から抜粋したんであって
魏略にあの文章があの順番で書いてあったんじゃない

878日本@名無史さん2019/10/03(木) 06:22:57.34
>>679
>倭人伝に書いてある道筋って圧倒的に南方向が多いからね<

これまた(スレ主らに特有の)口先でのインチキ騙しね。
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事をこっそり隠蔽しているし、
郡の南では、五島列島のはるか西の東シナ海になってしまい、
郡の東南は関門海峡付近になってしまう、という事もこっそり隠している。

>帯方東南にならないの、わかるかな?<

魏の役人や陳寿の行程記載の原則は、出発国の外縁部から到着國の外縁部、の間の説明であり、
郡からの出発地は、最初に「循海岸水行」を書いたから、
おそらく沙里院の南方海岸の「海州」。

>つまり行程で書かれてる方角には間違いが混ざってる <

殆ど間違っておらず、
類スレ主(≒スレ主)がまた世間の人々を騙そう、とした。

879日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:06:19.21
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/祇園山古墳


築造時期が墳墓の形状、構築、石室、周囲の甕棺の様式から三世紀中期であること、
規模が一辺約23mで斜辺が32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪はなく66名以上の殉葬があること、
そのうちの甕棺K1からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、
出土品の殆どが時期的に矛盾が無いことなど多くの点で
魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記載と矛盾が殆ど無い。
さらに、この古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台の占地に存在することから、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の可能性がある。


なんで66名以上の殉葬と決めつけてるんだよw
竪穴式石室まで奴婢にするなw
じゃこの王の親族はどうした、墓はないのか。
この王の親族より奴婢の方が地位が上だったとか?

まぁzarakokuが支持してる時点でアホ丸出しな説だw

880日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:14:59.19
「祇園山古墳」

古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww   @阿波

881日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:26:42.83
>>879
「この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。」
と最初に注意書きがあるし、嘘が書かれてるということだね

882日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:28:14.26
頭が悪いんだろう、本当に頭の良い人は気づいているんだけど
『雲居寺』?


きゅうりのような葉、ネギの華などが写っているでしょ、
その家(松傾〜寒いな〜〜)の写真

『河童 仏教』

883日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:32:20.03
本当は、どこの国()の人だったの?みたいな話

884日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:35:33.91
地図上で、ソウルから東南(東西線に対して南へ45度)の線を引くと、大分県の国東半島の東側の海岸線あたりを通過する。
そして、この45度の線から北へ22.5度(東西線から南へ22.5度)の角度の線が東の範囲の南端となる。
桜井市はおおむね23度付近にあるので、ソウルからみると桜井市は東との境界付近にあることになる。ほとんど東と言ってよい。
ソウルではなく沙里院からみると、桜井市は東西線から南へ26度付近になる。この角度も東の境界にごく近い。
そして、近江、若狭、丹後、島根などはもう完全に東の方位に入っている。
さて一方、ソウルからみた東南線は大分の国東半島の東側の海岸線あたりを通っていることはすでに述べたが、九州はこの東南線に隣接してすぐ側にあることになる。
こうしたことからして、魏略が書いている「倭在帯方東南大海中」の倭はソウルからみて直東南方向にある九州を指していることは間違いない。
そして、魏略はこの倭に女王国があると書いているわけだから、卑弥呼の邪馬台国は九州に、そして東の倭種の国は桜井市がほとんど東の方角にあることからして、大和などの国に比定することが妥当だということになってくるのである。

885日本@名無史さん2019/10/03(木) 07:55:20.28
つまり畿内説は破綻してるという事だな。

886日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:00:10.42
老婆談

ほとんど、あの作品などと同じような話でしょ、
出かけたときに関東大震災、亀戸が〜とか、
蚕を飼い、機織りをしていた家があって・・・・・被服廠?


写真の子供w何かの制服のようなものを着ていたり

887日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:07:58.88
軍人なのかな?でも戦争には行っていないと言っているし、
写真の親もw・・・がんだむ?

888日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:22:06.21
>>681
>>石塚は3世紀末。<

>そうやって理由も言わずに<

おや?、この男も、
これまでに「石塚は3世紀末」の根拠を説明して来ていた事を隠して、
「理由も言わずに」なんて嘘つき騙しを書いて、世間の人々を騙そうとしている!。

> 世間常識に反することを言っていると<

「卑弥呼の冢≠前方後円墳」は世間の常識だな。

>九州説は覿面に 世間常識から離れていくわけだ 悲惨だなあ<

大和説は、「南≠東」の時と同じように、世間の常識からますます離れて行く訳だ。
悲惨だなあ。

889日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:22:42.89
邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、なぜ、全ての者が、頭の悪い朝鮮人なのだろうか、、、

890日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:27:28.08
890

891日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:28:38.56
『河童 相撲』
このような話もあったり

892日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:32:38.59
そもそも紀元前数百年の天孫降臨のときから倭=和=大和の地が都だった・・、
という思想信条が畿内説の始まりなのだからねえ。
だから躊躇なく「南は東の間違いだー」と大声で断言できたわけだ。それは明治43年のことだった。

893日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:40:26.37
明治43年、韓国併合
明治43年「南は東の間違いにだー」

894日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:41:02.43
複数の畿内説は、頭と顔の悪い奥山という単一の脳で出来ているので、分裂しても更に、頭と顔が悪くなるだけなのだな。。。

895日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:46:27.44
>>685
>生口の流れだよ
労働力が流出してなお巨大古墳を作っていたんだから食事できてたのかどうか
一般人の遺骨は見つかりにくいけど体格を調べてみるといいね <

生口の生み出しの原点は、やはり、倭國乱と東征毛人五十五國だろうね。

896日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:47:28.43
>>879
>なんで66名以上の殉葬と決めつけてるんだよw

殉葬であるかどうかはともかく、66は発掘による実数。
発掘されていない残り1/3を合わせると、推定100の陪葬がある。

>竪穴式石室まで奴婢にするなw

石室の分は66に含まれないはず。

>じゃこの王の親族はどうした、墓はないのか。

筑紫には無数の墓がある。
あと、卑弥呼の出自が不明なので、親族の墓が博多湾沿岸かもしれないし有明海沿岸かもしれないので、付近に大きな墓がないことはむしろ傑出ぶりが明確。
まあ、陪葬墓のうちの豪華なものが親族かもしれないが。
あと、卑弥呼に子供はいない。
貴重な水銀朱が大量に使われていたことも王墓級。

897日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:48:27.96
>>686
>筑紫が交渉窓口の場所を提供してることしか読み取れない <

この人間は、やはり大和説者のようだから、「南≠東」などに拠って、×男。

898日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:54:11.56
>>689
>S字甕の拡散と庄内甕の拡散を単純合計しちゃうと
あの図みたいになるだけで・・・<

東征毛人五十五國の主力軍と、別動部隊の軍の征服と、
その征服地に「地方の市を監督する大倭職」が置かれた、
という事だけで説明が十分に付く。

899日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:57:29.44
>>691
>九州説は無知が作った<

大和説は、大和政権崇拝の殺戮戦争の、キョクウ国粋皇国史観の宗教の狂気が作った。

900日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:58:12.27
戦争をしているとき?
なぜか川俣町というところの話をしていたり

老婆談

901日本@名無史さん2019/10/03(木) 08:58:16.53
日本は、明治27-28年の日清戦争、明治37-38年の日露戦争を経て、
日本は朝鮮半島での権益を拡大し、朝鮮を併合し、大陸進出を始めた。
なのに古代九州には、朝鮮半島の帯方郡や中国洛陽の魏王朝と親交のあった「倭というクニ」があったでは士気にかかわる。
つまり挙国一致体制を確立するためには、、万世一系の皇国史観に沿う畿内説が必要だったのだ。、

902◆q8leUXpsw. 2019/10/03(木) 09:02:47.08
奥山君
とにかく、趣味程度の知識なら5ちゃんでいいでしょう
5ちゃんから離れられないのが残念です
ご自身の、HPをなぜ立てないのですか???????????????????????

903日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:03:38.68
>>896
>貴重な水銀朱が大量に使われていたことも王墓級。

その貴重な水銀朱は「若杉山辰砂採掘遺跡」の水銀朱で、「祇園山古墳」 は「忌部はん」 のお墓  だと、何度言えばw   @阿波

904日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:11:56.69
>>696
>伊都・・・
邪馬台国でないことが確定してる国の<

この男は、
伊都国と女王國とを離そうと目論んでいる嘘つき騙しの大和説者であるようだし、
「南≠東」や、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。

905日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:21:21.70
>>697
>>畿内説も@阿波も伊都が交渉窓口で出入国管理局と認めざるを得ない <

>それ、地方の出先ってだけなんだけど?
一大率が有如刺史と書かれている時点で、伊都国は王都から遠く離れた地方だぞ
それに成田の出入国カウンターが日本の首都だって主張するやつはいないだろ?
九州説って、頭おかしい? <

いや、伊都国から邪馬壹國女王之所都へは、
百里を有効数字1桁近似であった、としても、せいぜい二百里位以内であり、
女王之所都は、福岡平野部付近にしかならない。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者って、頭おかしい?。

906日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:21:55.25
>>902
頭と顔の悪い奥山は、現代社会から隔離された井の中の蛙なので、pukiwikiやmarkdownの存在すら、知らないのでは、ないのかな。。。

907日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:23:20.36
>>700
でも「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の頭は、
普通じゃないんだよな

908日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:23:53.27
>>904
理解不足だな。
冒頭で行程記述された時代の女王国は、まだ女王が邪馬台国だけの女王であった時代のことである。
だから伊都国と女王国は別の国であった。

しかしその後、倭地の乱がおさまって倭30国の頂点に立つ女王が共立された。
共立されたということは、女王は、倭30国の大女王に昇進したわけだ。
その新共立時代においては、伊都国は女王国の下にあったのである。

909日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:30:16.00
>>905
>いや、伊都国から邪馬壹國女王之所都へは、
>百里を有効数字1桁近似であった、としても、せいぜい二百里位以内であり

な〜んだ、古〜いフルタの亡霊か、、、
もうそんなまやかし昭和の島めぐり説は通用しない。新しい令和の時代のスピードについていけてないな。

910日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:35:16.88
>>909
その通り。   令和の時代は阿波の時代。  わははははは   @阿波

911日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:35:33.79
一大国や伊都国が女王国に属する、という記述は女王国が連合国であることを意味しているわけで、半島南部から北部九州一帯の国々が女王連合国=邪馬台国であり、「卑弥呼の都」は帯方郡から水行陸行でたどり着ける「半島南部」に存在したということだよ。
最後に書かれているから最も南端に位置するかのように思ってしまうが、「水行陸行」の行程は実は冒頭に来る文章だったのだろう。
倭の最南端は「奴国(倭奴国)」だ。
奴国は筑後川流域の南側でしょう。
その南(女王国の南)に狗奴国=熊本があったという時代の話だ。

912日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:37:11.10
>>911
いくら言い張っても、碌な集落遺跡や資源の無い熊本に、狗奴国など在る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波

913日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:38:32.60
倭奴国が最南端だったのは、後漢の頃の話。
30ヵ国の統合により少し南、具体的には筑後や肥前も倭に含まれただろう。
そしてその南に肥後狗奴国。
これでいい。

914日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:40:51.02
>>913
いくら言い張っても、碌な集落遺跡や資源の無い熊本に、狗奴国など在る訳がない。 なにを考えているんだか。   @阿波

915日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:42:21.93
これだけ日本列島を探して見つからないんだから半島側も探してみなきゃな。
半島南部と北部九州だと、王墓が小ぶりで副葬品が豪華な点が共通している。

916日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:43:21.00
>>914
つまり阿波は、倭種の国の一つだった。
それだけ。

917日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:48:23.28
半島南部にいた卑弥呼が日本列島側で統治を受け持った領域が北部九州だったという事だ。
狗奴国は当時の日本列島の原住民政権の事だろう。

918日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:52:44.30
>>707
>さかんに石塚3世紀末説をとなえてるけど、石塚は2世紀初頭頃というのが通説だけどね。
その3世紀末のデータどんなのがあるのよ。<

庄内1の石塚は、撥型前方後円墳であり、卑弥呼の「冢」では全くなく、
更に、3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡よりも「進化型」であるから、3世紀末だ。

>東征毛人は中央アルプス東へ越えたところの住人だよね。<

ダメだ。
それは、唐代時点での認識だ。
倭王武は「自昔・・・東征毛人五十五國」と上表しており、
東征が始まった頃から、征伐相手は「毛人だ」と認識している。

919日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:53:11.81
>>916
いくら言い張っても、数多の弥生集落遺跡や多種多様で豊富な資源の有る阿波に、勝てないよ。  なにを考えているんだか。   @阿波

920日本@名無史さん2019/10/03(木) 09:57:39.68
>>911
>倭の最南端は「奴国(倭奴国)」だ。
(建武中元二年、倭の奴国が朝賀を奉貢す。使者は大夫を自称す。倭国の極南界なり。)

このような訳は、日本語の習慣による和製解釈で、誤りと云わざるを得ない。
それはここの「之」の意味を理解していないからだ。
つまり中国語では、「之」のうしろにくる極は他動詞用法であることを示すので、「極める(倭国の南界までを極める)」と読むことになる。
有名な「宣帝之・・・」の文例も同様。

921日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:00:59.62
>>920
そういうのを苦し紛れな曲解という。
それらがトンデモ説を生み出す源。

922日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:04:42.25
>>919
日本列島は弥生人が渡来するまで無人島だったとでも言うのか?
原住民が居たのは明らかだろ。
だから同時期の全国各地に遺跡があるのは当然だ。

923日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:06:18.37
>>710
いつまで経っても、
自分の「南→東」や「前方後円墳=冢」などの主張の、
説明できない大和説者の悲惨さ

924日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:07:28.07
>>919
おい、空回りなレスがおおくなったぞ、たいがいにしろや・・。。

925日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:10:09.18
>>922
>だから同時期の全国各地に遺跡があるのは当然だ。

だから、碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州や畿内に、「邪馬臺国」や狗奴国など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波

926日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:10:19.90
>>711
ありゃ、この大和説男は、相変わらず、
存在もしていなかった嘘つき騙しの「邪馬台国」という文言を使っているわ。
そんな・・・・アホ詐欺師では、出入国管理の仕事乙ね。

927日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:15:03.44
>>715
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説という人間らは、
どこまでに・・・・アホ詐欺師なれるかを競うを、競技なのか?

928日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:17:26.39
>>716
「南≠東」などのように、
人類が、常識として、尤もだと思うものをを信じない
より怪しいものを信じる
それが大和説

929日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:20:51.22
脳が停止して無意味なオウム返しばっかりしてる九州説って
死に体だね

930日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:36:26.67
>>922
>だから同時期の全国各地に遺跡があるのは当然だ。

だから、碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州や畿内に、「邪馬臺国」や狗奴国など在る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波

931日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:43:44.72
>>719
この大和説男みたいに、
「南→東」などの嘘付き騙しをして、バレて、
にっちもさっちもいかなくなったのを、
大和説の悲惨というんだろうな

932日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:47:55.27
>>722
このように、「理由を書いた投稿」をしてあげても知らん振りして、
「理由をひとことも言わない」と言って、九州説者を誹謗罵倒するのが
大和説のスタイル

933日本@名無史さん2019/10/03(木) 10:54:46.58
>>723
>九州説を提唱する学者なぞ国内におらん<

いや、一杯いるなあ。
古田説にも沢山いるし、
定年退職した教授クラスにも、一般学者らにも、沢山いる。
キョクウの皇国史観殺戮戦争狂レベルの・・・・アホ詐欺師の学者レベルでは、
居ないかも知れん

934日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:01:13.58
>>724
>邪馬台国も神武もなんでもかんでも北部九州にしようなんて話は通らない。<

倭奴國の金印は細石神社にあったし、
神武らの阿毎氏の一族の神社や痕跡は糸島付近に集中しているし、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わってしまっている。

カッペは少し黙ろうか。

935日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:04:31.95
>>727
>伊都国は末盧からどっち方向にある?<

末盧國の出発時点でも途中でも、伊都国が見えておらず、
魏の役人たちには、「伊都国方向」なんて判らず、記録が出来ない。

936日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:11:15.73
>>736
>邪馬台国は畿内だとな<

邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説学者は、「南≠東」などに拠って、全員人間ではなく、×ね。

937日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:22:35.12
>>714
巨大な墳丘墓を作る大物の埋葬主体に小枝を入れる理由なんてないだろ?w
だから、後世の天井の崩落に伴う混入と考えられているのにw

938日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:23:38.60
>>737
>魏略逸文と魏志倭人伝を読めば、卑弥呼のいる倭は北部九州であり、
その卑弥呼が都を置いている女王国から東へ千余里のところにある倭種の国は大和周辺国を指していることは明らかなこと。<

「大和周辺国」と 断定出来ない。
魏略逸文は後代史家による書き換えがあった可能性が高く、全面的な根拠にはならない。

>そもそも魏略倭伝逸文の冒頭の文章からは、北部九州にある卑弥呼の倭国とともに
魏王朝が大和周辺の国の動向にも非常に関心を抱いていたことが分かる。<

分からない。

>この魏略の記述の元資料がつくられたのは3世紀前半中頃だと考えられるから、<

いや、魏使らが来田240年頃。

>そのことは、それから十数年たらずあとの3世紀中頃に
卑弥呼の倭国を潰して大和が博多から鉄器などの貴重財を独占入手するようになった
とする歴史観を傍証する資料の一つともなる。<

大和の鉄鏃は3世紀末〜4世紀のホケノからであるから、×。

>魏王朝は卑弥呼の倭国と冊封関係を結ぶにあたり、
膨張している大和に関したなんらかの情報を得ていた可能性がある。<

魏の役人たちは、足摺付近の侏儒國付近までしか行っておらず、
だから、大和情報は不明であり、×。

939日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:24:04.54
>>717
>内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれた理由

内陸では臨津搜露できないから、津・港のない伊都国は不可

940日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:25:14.90
>>740
>邪馬台国は畿内、というか普通に大和。<

「南≠東」などに拠って、×。

941日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:26:34.25
>>721
>倭(九州)を南に引き伸ばして沖縄あたりまで広がる巨大島として描いているが、関門海峡から東へ広がる本州はその倭には入れてないのよ。

九州を南に引き伸ばしたら、旅程日数がおかしくなるだろ?

半島から九州に渡った後、列島が沖縄あたりまで連なっていると陳寿は認識していたけれど、
それは単なる情報不足による方角の錯誤なんだよ

たったこれだけのことを必死で否定しないといけないんだから九州説は大変だw

942日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:28:35.14
>>724
>4世紀ころ、10代崇神が自分の祖・神武をしのんで宮崎神宮を建てている。

宮崎神宮の創建は4世紀まで遡れない
後世の仮託だろう

それに崇神は4世紀まで遅くならないだろう
318年をそんなに信頼するものじゃないぞ

943日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:28:53.22
>>746
>ないって証明できない九州みじめ <

「南≠東」から逃げ、「鉄鏃のホケノが3世紀末〜4世紀」からも逃げた大和説みじめ。

944日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:30:11.85
>>721
>倭の女王国から東へ千余里で別の倭種の国(本州のうちの一地方)

それは無理
この写真に反論できない以上、本州はどうやっても渡海千里にならない
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

945日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:32:24.34
>>731
>鉄器の分布

「3世紀」の九州ではそんなに鉄器は出てないよ
九州説の主張するたくさんの遺物は「3世紀」「伊都国・奴国以外」という当たり前の
条件をつけると何も残らない

946日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:35:26.92
>>737
>魏略逸文と魏志倭人伝を読めば、卑弥呼のいる倭は北部九州であり、その卑弥呼が都を置いている女王国から東へ千余里のところにある倭種の国は大和周辺国を指していることは明らかなこと。

魏略と、魏志倭人伝の「どこ」を読んだらそうなるんだよ?
本当に具体論から逃げ続けるだけのバカ

東遷説はとっくにもう死んでるんだよ
九州説でがんばってるのって、この「邪馬台国の会の人」だけでしょ?w

947日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:38:51.22
>>740
>纏向遺跡の大型建物もその謂れが伝承されていないのは物部が滅亡したからだ。

左側スロープ君は自分の巣でコピペと戦っておいで!
ここに逃げてこないでさw

記紀にちゃんと伝承されてるだろ?
纏向は3代の宮処だって
崇神 磯城瑞籬宮 
垂仁 纒向珠城宮
景行 纒向日代宮

948日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:41:51.34
>>782
>古墳の外には鉄器なし

古墳の中にはあるんだから、古墳の外で「見つからない理由」を考えなきゃいけないんだよ
まあ、鉄は朽ちやすいから、で十分なんだな

949日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:43:40.98
>>751
>仮に畿内が天皇の存在を前提にしてたって何が問題になるのか<

「南→東」などのような、確率が殆どない事を主張する事が問題になる。

>皇紀は2600年とかだから伝承では邪馬台国の時代より前から天皇は居たことになってるし
だからといってそれを元にして天皇バンザイとは誰もやっていない
逆に倭人伝に倭国大乱が180年頃とあるから<

倭国大乱はないし、卑弥呼即位は220年頃になる。

>畿内を平定した初代天皇神武即位がその頃だとすると本来の皇紀は1800年くらいにならねと
戦時中なら不敬罪でしょっ引かれるような考察も平気でやっている <

二中歴に拠っても、神武即位元年は、紀元前91年頃。

>邪馬台国と想定される位置に畿内を当てはめるのも
天皇の存在関係なく後の行政区分五畿七道の五畿に相当する所が卑弥呼の時代に
古墳や出土土器など文化的繋がりが見られるので便宜的に当てはめてそう呼んでいるだけ<

畿内と書いた限り、天子や天皇の存在を前提にした嘘つき騙しになるから、×。

950日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:44:04.25
>>805
>武力=権力だよな

武力より宗教的権威の方が上位

951日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:45:52.95
>>943
九州説の拠り所はけっして証拠の出せない嘘と妄想だけですか

952日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:46:27.15
>>812
>かの古墳は2/3ほどが発掘されて、約60の墓があったので、墓の総数は100と推定されている。

祇園山古墳は発掘調査時には、ほぼもぬけの殻の石室が墳頂にあるだけだぞ
約60とか言っているのは、その周囲の弥生時代の集団墓地
殉葬ではないと結論されている

953日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:47:54.42
>>949
>畿内と書いた限り、天子や天皇の存在を前提にした嘘つき騙しになるから、×。

これもウソ
王の畿内があるんだよ

954日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:48:35.67
>>825
>その政権の所在地である大和に博多から鉄が運ばれ、そこで鉄器が加工成形されていて当然

淡路島や近江に3世紀最大級の鉄器加工遺跡があるけれど、
そこに王権があったとは誰も言わないだろ?

最初から、破綻してるんだよ>>825の論立てはね

955日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:54:59.97
>>751
>数学も物理学も 厳密に言えば一定の条件下でしか成り立たない非決定的で暫定的なもの
前提条件が変われば全ては成り立たなくなるものだから
相対性理論も高重力下などの特異点にあっては破綻するとアインシュタインも言う
数学や物理学が決定的で史学は否決定論というのは原理的には間違いで
本質的にはどちらも同じもの <

数学や論理学は、自然や歴史においての、
一定の条件設定下での「ある程度の断定や決定論」は成立し得るが、
自然や歴史に関する一般科学や学問では、不可知部分が無限にあるために、
知り得た事実や実態からの帰納的確率的推論をするしかなのもの。

>そして考古物と書物に書いてある歴史記述と場合によっては科学によって
より蓋然性の高い結論を導き出すのが史学<

大和説は、「より蓋然性の高い結論を導き出す」のではなく、「南→東」などの嘘付き騙しのように、
「確率が殆ど0」である事を根拠に立論しているから、×なの。

>そして考古物と史書と科学観測結果は邪馬台国は畿内だったという事に高い関連性が見出される<

「南≠東」を無視していては、始めから確率は殆ど0なの。

956日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:55:52.27
>>924
>おい、空回りなレスがおおくなったぞ

泡は基本、コピペだけだよ
意味のあることは書かないし書けない

永島文書だけが頼りの万津浦が末盧国だっていうトンデモなんだから
いじるだけ無駄

957日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:58:39.62
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    

まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

958日本@名無史さん2019/10/03(木) 11:58:54.56
>>935
>末盧國の出発時点でも途中でも、伊都国が見えておらず、

ザラゴキの主張する出発地点の唐津港の辺りから
伊都国のランドマークの可也山、見えてるよww
邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚

959日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:01:30.41
>>957
>逆立ち・し・て・い・て・ も

じゃあ、3時間くらい逆立ちしていてくれるかな?
たぶんそうすれば脳内血管が何本か切れて、真人間に近づけると思うよ

960日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:06:49.42
>>959
>たぶんそうすれば脳内血管が何本か切れて

そんな状態の倭国(阿波)にさえ負けるんだから、お話にならないよ、トンデモは。  わははははは   @阿波

961日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:09:26.84
>>803
>皇居のすぐそばの市谷に防衛省があるけど。
>これ、日本の武力の総本山ね

だから同じように2世紀末の古代大和にも前方後円墳ができるね。
これが古代の防衛省ことモノノフの纏向遺跡なわけさ。
>>1の言ってる事の可笑しいのはそのモノノフに卑弥呼がいたと言ってる事。
古代の防衛省が纏向なら皇居は別の場所にある。
それが高天原(御所市高天)

962日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:10:13.51
>>937
まぁその石頭が、金釘流で融通の利かないガチガチの学者どまり
家族親族が花木・花束を添えるのは古来良くあること。あのツタンカーメン王の棺の上にもヤグルマギクの花束があった。

963日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:11:42.82
纏向古墳造営局はドカタ街だったから無防備なんだよな。

964日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:12:22.65
>>952
>祇園山古墳は発掘調査時には、ほぼもぬけの殻の石室が墳頂にあるだけだぞ

そりゃ奴婢の陪葬墓がてっぺんにあるわけないw

965日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:12:55.22
>>953
>王の畿内があるんだよ

これはもう信仰に近いものですね。
何の根拠もなし。

966日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:14:07.59
>>961
>古代の防衛省が纏向なら皇居は別の場所にある。
>それが高天原(御所市高天)

そもそも畿内ではないのでは

967日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:15:32.44
>>966
>そもそも畿内ではないのでは

その通り。   そもそも、阿波なんだよ。   @阿波

968日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:31:52.33
>>966
ニギハヤヒが神武に屈した場所が桜井市外山(とび)
そして物部の母を持つ崇神が宮を構えた場所が纏向で墓も纏向。

これだけでも纏向がモノノフこと物部の郷だと分かりそうなものなのに、
この纏向に卑弥呼がいたなどとアホの>>1は言うんだ。

本当にアホだな。

969日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:35:41.45
>>968
>ニギハヤヒが神武に屈した場所が桜井市外山(とび)

ニギハヤヒや神武が、山に囲まれた、不便でジメジメした奈良盆地なんぞに行くわけないだろ?  なにを考えているんだかw   @阿波

970日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:36:08.55
考古学的に見て、
北部九州は初期に渡来した大陸系民族による武闘派政権だった。
ここに中期渡来人により祭祀文化が流入し、女王国制度が誕生した。
これと並行して若狭湾に渡来した半島人によって出来た祭祀中心型の政権がヤマト政権だ。
すなわち北部九州の弥生時代と、より東側の古墳時代とが並行して存在していたということだ。

971日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:36:55.14
>>947
>記紀にちゃんと伝承されてるだろ?
纏向は3代の宮処だって
崇神 磯城瑞籬宮 
垂仁 纒向珠城宮
景行 纒向日代宮


ならば崇神が3世紀前半なのか。
到底時代が合わない。
4世紀前半の崇神と纏向の大型建物は時代が合わない。

972日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:37:29.64
>>968
>ニギハヤヒが神武に屈した場所が桜井市外山(とび)

ニギハヤヒや神武が、山に囲まれた、不便でジメジメした奈良盆地なんぞに行くわけないだろ?  なにを考えているんだかw   

そんなところへ住まわされたのが、半島渡来人たちなんだよ。  そんなことは常識。   @阿波

973日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:40:17.54
>>942
>宮崎神宮の創建は4世紀まで遡れない
後世の仮託だろう
それに崇神は4世紀まで遅くならないだろう
318年をそんなに信頼するものじゃないぞ<

だろう、だろうじゃダメだ。
崇神4世紀前半説は複数の証拠があり、もはや動かせない。

974日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:42:35.85
そうそう西都原81号墳墓だっけ、最古の墳墓が布留1で4世紀前半。
つまり景行の九州遠征と合う。

つまり崇神は4世紀前半。

975日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:44:40.47
>>974
>つまり景行の九州遠征と合う。

少なくとも、景行天皇自身は、九州に行っていない!   @阿波

976日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:48:51.83
@阿保

977日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:49:21.77
>>949
古代行政区分の五畿七道の五畿を
卑弥呼の時代に文化的繋がりがあるとして便宜的に邪馬台国=畿内としているだけなので
天皇の存在と畿内という呼び方は関係なし
そして畿内を天皇の存在を前提として語っているのはむしろ九州説のほうではないか

>>955
畿内説は魏志倭人伝の南を東とはしていなく
魏志倭人伝には邪馬台国の位置を会稽東治の東つまり沖縄か台湾に相当する位置と書いてある
ゆえに魏志倭人伝の邪馬台国までの距離や方位は正確なものではなく
一方考古学的証拠から見れば邪馬台国は畿内が妥当と見る何度も説明している
ザラコクはこれをいつまで無視するのかな

978日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:51:29.33
>>976
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。    

まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。   @阿波 

979日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:53:53.44
>>977
畿の意味とは
みやこ。首都。また、都を中心とした天子の直属の地域。「畿内」

980日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:57:08.51
>>977
【畿】
[常用漢字] [音]キ(漢)
王城から五〇〇里以内の土地。都から遠くない天子の直轄地。「畿内/王畿・近畿・京畿」

981日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:57:59.42
>>977
>卑弥呼の時代に文化的繋がりがあるとして便宜的に邪馬台国=畿内としているだけなので

纒向から河内の土器が出ない。
大和と河内が分断されているなら、畿内などというまとまりはなかった。
もっと自然地形によった区分を想定しなくてはいけない。
瀬戸内淀川エリアと東海エリア(大和や伊勢を含む)など。
畿内そのものが皇国史観の亡霊。

982日本@名無史さん2019/10/03(木) 12:59:08.93
>>960
>そんな状態の倭国(阿波)にさえ負けるんだから

精神勝利法って言うんだっけ?w

983日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:00:44.22
>>981
>纒向から河内の土器が出ない
これは本当に謎だよな。
大和川を共用していたのなら交流ぐらいありそうなものだが。

984日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:00:48.80
河内と尾張の共通点を何とか見出せるとすれば、それは交野に降臨した尾張氏の祖である饒速日の存在しかない。

985◆n7jxAxKCBhb6 2019/10/03(木) 13:01:07.11
新スレ立てました。
http://2chb.net/r/history/1570072307/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

986日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:01:25.36
>>962
>ヤグルマギクの花束

ヤグルマギクと小枝を同一視する左側スロープ君は
やはり物の見方が他の人とは「完全に異なる」人なんだねww

自分の巣にお帰り
そしてコピペ荒らしと闘っておいでよ
もし万が一、左側スロープ君が正しいなら、きっと物部の神様が
勝たせてくれるよw

987日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:02:07.48
>>982
いくら言い張っても、数多の弥生集落遺跡や多種多様で豊富な資源の有る阿波に、勝てないよ。  なにを考えているんだか。   @阿波

988日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:05:00.93
>>971
>4世紀前半の崇神

こっちが間違い

左側スロープ君は記紀のインチキ読みだけが根拠なのに
自説に合わないとなれば記紀の根幹である皇統譜すら根拠なく否定するw

九州説の人のブログだけど、これでも読んでおいて
https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/archive/c2302136529-1

989日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:05:13.36
饒速日

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、饒速日命の存在には多くの重要な問題が含まれている。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」といい天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。
また物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝える。

990日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:06:19.62
>>974
>布留1で4世紀前半。
>つまり景行の九州遠征と合う。

>つまり崇神は4世紀前半。

祖父と孫が仲良く4世紀前半
こういうインチキが左側スロープ君のトンデモ説の根幹

991日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:08:07.82
>>981
>纒向から河内の土器が出ない。

九州説が編集しまくりのウィキペディアでも
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系    : 10%   ←これなあに?

992日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:08:25.84
>>988
「私は、最古の前方後円墳である箸墓の埋葬者が、邪馬台国の女王卑弥呼であり、卑弥呼の後を継いだ壱与が崇神天皇であるとした。」

畿内説じゃねーか(~_~;)

993日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:09:50.65
>>991
外来土器そのものが少ない中で10%だろ。
目と鼻の先にしてはわずかだよ。
東海経由で運び込まれたと考えるのが妥当。

994日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:10:46.82
>>980
例えば邪馬台国宮城説という物があったとして
宮城は天皇の居た居城の事なので天皇の存在を前提にした皇国史観というくらいに脳の障害の存在を疑わざるを得ない話

995日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:11:16.78
そして卑弥呼が交流していた楽浪帯方からの土器が纒向にはほぼ皆無。
それは、纒向が邪馬台国とは関係ない土地であったことを示している。

996日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:11:38.24
>>983
>これは本当に謎だよな。
>大和川を共用していたのなら交流ぐらいありそうなものだが。

交流がないって、どこから判断してるんだ?
同じように土器形式が変遷していく=土器の流通が共通化しているんだが?

「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」田中元浩
日本考古学2005 年 12 巻 20 号 p. 47-73
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf/-char/ja

997日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:13:25.14
>>993
>目と鼻の先にしてはわずかだよ。

目と鼻の先だから、途中の野営の必要がなくて少ないんだよ

>東海経由で運び込まれたと考えるのが妥当。

どうしてわざわざ遠回りして運ぶんだ?
こういう合理的判断の欠片もないことが平気で書けるのがトンデモさんの特徴w

998日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:14:27.07
>>989
>ニギハヤヒが神武に屈した場所が桜井市外山(とび)

ニギハヤヒや神武が、山に囲まれた、不便でジメジメした奈良盆地なんぞに行くわけないだろ?  なにを考えているんだかw   

そんなところへ住まわされたのが、半島渡来人たちなんだよ。  そんなことは常識。   @阿波

999日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:14:40.39
>>995
>ほぼ皆無

「ほぼ」ってザラゴキも大好きだけれど、
「ほぼ」って書けばごまかせるわけじゃないんだよ?ww

1000日本@名無史さん2019/10/03(木) 13:15:29.10
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。

邪馬台国畿内説 Part511 	YouTube動画>1本 ->画像>21枚 ;
また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
倭国の対外交渉権の変遷が出雲の国譲りと筑紫への天孫降臨の伝承に反映されているもしれない。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。
そして、7万戸という東夷の世界で最大の消費地も、弥生文化の中心地である筑紫に求めるしかない。


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