11 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:51:06.41
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1573307186/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 21 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:52:28.63
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
31 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:53:03.62
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
41 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:53:40.83
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
51 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:54:18.02
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
61 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:54:59.12
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
71 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:55:36.04
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
81 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:56:13.35
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
91 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:57:01.05
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
101 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:57:36.88
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
111 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:58:13.30
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 121 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:58:48.33
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
131 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 09:59:30.06
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
141 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:00:07.00
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
151 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:00:43.07
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
161 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:01:18.49
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
171 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:01:58.65
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
181 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:02:33.59
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
191 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:03:08.59
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
201 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:03:44.26
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
211 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:04:19.31
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
22日本@名無史さん2019/11/13(水) 10:04:29.56
記紀にも史書にも整合しない畿内説って・・・
231 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:04:54.08
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
241 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:05:33.31
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 251 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:06:09.19
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 261 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:06:43.85
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) 271 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:07:18.48
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
281 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:07:53.90
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
291 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:08:29.97
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
301 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:09:03.16
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
311 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:09:43.33
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 321 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:10:18.52
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
331 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:10:54.32
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
341 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:11:15.29
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
351 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:11:53.78
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
361 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:12:29.57
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
371 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:13:04.52
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 381 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:13:40.34
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
39日本@名無史さん2019/11/13(水) 10:13:46.38
401 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:14:22.17
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
411 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:14:58.83
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
421 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:15:33.66
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
431 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:16:08.70
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
441 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:16:44.38
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
451 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:17:18.71
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
461 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:17:53.32
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
471 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:18:29.50
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
481 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:19:05.51
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
491 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:19:43.48
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
501 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:20:18.59
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 511 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:20:54.00
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
521 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:21:29.59
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
531 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:22:03.49
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
541 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:22:38.53
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
551 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:23:14.16
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
561 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:23:49.02
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
571 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:24:23.38
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 581 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:24:59.51
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
591 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:25:34.22
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 601 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:26:09.36
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 611 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:26:44.21
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
621 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:27:18.59
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
631 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:27:54.27
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
641 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:28:30.85
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
651 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:29:08.46
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
661 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:29:43.23
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
671 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:30:18.59
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
681 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:30:54.24
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 691 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:31:29.03
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
701 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:32:03.75
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
711 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:33:14.81
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
721 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:34:12.36
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 731 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:34:49.65
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
741 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/13(水) 10:35:28.30
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
75日本@名無史さん2019/11/13(水) 10:58:00.32
現実には形があります。
調査に15年以上かけた成果
佐賀:吉野ヶ里遺跡
妄想に15年以上費やした結果
奈良:纏向遺跡
76日本@名無史さん2019/11/13(水) 11:23:30.16
77日本@名無史さん2019/11/13(水) 11:30:58.32
<新羅本紀>
西暦193年「倭人大飢 来求食者千余人」
畿内説の言ってる畿内民が北部九州を訪れた時期の出来事。
つまり大飢饉による避難民の移動の事です。
78日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:11:02.32
畿内説はすべて作り話です。
79日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:13:51.52
>>971
>そして、標準的な編年では吉野ヶ里の衰退は、もっと前から進んでいる<
「南→東」などの嘘付き騙しである事がはっきりしている通説学者らの、
「標準的な編年」とやらが、そもそも、信用出来ない。 80日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:14:12.34
>>77
>西暦193年「倭人大飢 来求食者千余人」
>畿内説の言ってる畿内民が北部九州を訪れた時期の出来事。
畿内系による北部九州の植民地化は3世紀前半 81日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:17:28.34
なぜ人の家の話で、
お金儲けなどをしているんだ?と言っているだけ
陛下?何なのか知らないけど、
そういうところから出ている、お金で生活しているんだろう
漫画やアニメ、ゲーム・・・ドラマに映画に・・・パチスロにw
挨拶にも来ないし、どこの基地外なんだ
82日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:20:43.04
>>973
>土器の移動は人の移動の指標
土器の統一は、背後に政治的な介入がある<
土器の移動は、市を介しての自然は伝播や模倣と、
「東征毛人五十五國」などのような、軍の所持による拐帯的移動の、
両方がある。 83日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:21:46.71
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
84日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:24:52.18
『朝鮮人 倭人』
天皇(不明)は朝鮮人なんだよw
民族の話しでしょ
85日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:25:11.41
畿内説は、白頭山の測量杭を、抜いてしまったので、正確な地理感を、失ってしまったのでは、ないのかな。。。
86日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:27:21.77
頭の悪い奥山が、拒絶反応を示す短里説だが、ヤマト政権の正史である記紀も、特殊単位の存在を、認めているのでは、ないのかな。。。
崇神記65年 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
任那〜筑紫間が2000余里と記述されている。
87日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:30:51.13
気付いているだろう
王母〜は、いまの半島辺り?
そこに住んでいた中国人(統治していた?)、正確には半島とは関係ない
解釈が違うんだろう
88日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:32:49.69
昨夜、正々堂々と闘い、東京エクセレンスの自尊心を完全に叩き潰してしまったバンビシャスは、今週末には、福島ファイヤーボンズの自尊心を、完全に叩き潰さなければいけないのだったね。。。
89日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:32:55.11
詳しい人に聞いたほうが良い、
漢人系(中国人)〜だと言っている人がいるから
どのサイトだったかな
90日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:34:18.51
90
91日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:37:14.82
話などを作ったり、捏造するなと言っているんだよ、
どのスレだったかな、中国人だと言っている人がいるから
『遅れてやってきた倭種』
こういう話とも、何かが違うんだろうw
92日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:38:47.74
昨夜、正々堂々と闘い、東京エクセレンスの自尊心を完全に叩き潰してしまったバンビシャスは、今週末には、福島ファイヤーボンズを中央体育館で、迎え撃つのだったな。。。
93日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:41:11.39
人類学的に土器の移動と権力の移動は必ずしも一致しない。
畿内説は未だに40年前の学問やってる。
94日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:41:13.21
>>80
九州を植民地化していたのであれば、畿内は九州産のもので溢れていたはずだ。
イギリスの紅茶がインド産であるように。
要するに逆だという事よ。
3世紀の北部九州の王都に畿内からのお上りさんが押しかけた、と考えるのが妥当である。 95日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:45:52.64
1-1+1-1+1-1…が始まったのではないのかな。。。
96日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:45:53.07
他人(中華)の家の話なのに、お前の家のことのようにwしていたり、
ニセの系図などを作ったりしているという話
97日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:46:40.09
真実は、1-1+1-1+1-1…なのだったな。。。
98日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:48:02.38
◆FAQ 98
Q:奥山とキナイコシは同一人物ではないのか!
同じような妄想を一日中呟いているではないか!
A:
0772 日本@名無史さん 2019/11/01 12:16:16
>>771
元々頭おかしいのがキナイコシ
ed治療の副作用で頭おかしくなったのが奥山
ID:(772/1000)
0773 日本@名無史さん 2019/11/01 12:17:17
>>771
綺麗な捏造をするのが奥山
汚い捏造をするのがキナイコシ
ID:(773/1000)
0774 日本@名無史さん 2019/11/01 12:27:39
>>771
ルーツが韓国にあるのが奥山
ルーツが北朝鮮にあるのがキナイコシ 99日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:48:10.14
真実は、1-1+1-1+1-1+…なので、このスレッドでの討論の題材は、結論が出やすい話題に変換した方が良いのではないのかな。。。
100日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:48:32.62
100
101日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:49:21.64
king(王)なのか何なのか知らないけど、
かなり凄い家の人なのかな?
お前の家のようなことにしていたりw
実際は・・・・・・・・・・・・・〜寒いな・・・の家の話でしょ、
king〜某〜某〜寒いな
102日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:49:43.98
>>99
真実は、1-1+1-1+1-1+…なのだが、その答えを収斂させる方法もあるのではないのかな。。。 103日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:51:30.96
大陸や半島から北部九州へ渡った人も居れば、山陰・若狭から上陸した人も居た。
出身は同じなのでそれなりに交流はあったろう。
だから東に倭種の国があることを認識していた。
後の秦王国のように、列島へ渡ってきた人達はその都度それぞれの国を創ってきたんだよ。
そして先住民と同化しつつ消えて行った。
北部九州の邪馬台国もその一つ。
先住民がもともと持っていた文化がヤマト王権じゃないのかな。
纏向遺跡は弥生人の遺跡じゃないよ。
104日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:55:00.67
king(王)〜寒いな・・・の家なんだけどw
???関係ない家の人の話みたいな事になっているという意味
105日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:57:37.02
>>102
比[-1]の等比数列の和だね。
答えは二分の一(=0.5)だね。 106日本@名無史さん2019/11/13(水) 12:59:51.87
このスレにもいたでしょ、例えば白石氏w
king(王)〜〜白石氏のように系図など作成したり、
その後も白石氏〜白石氏〜白石氏の子孫
107日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:01:39.96
>>103
畿内に縄文人の痕跡はほとんどない。
縄文文化は東北だよ 108日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:05:37.83
奧山氏は、インターネットで収集した物事を、まるで理解しないまま、そのまま引用するので失敗するのだったな。。。
109日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:06:05.71
king(王)〜奥山氏でも同じ、
次の代も奥山氏〜奥山氏〜奥山氏〜奥山氏・・・・、
このような事になっているという話w
110日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:07:45.36
奧山氏は、1、という物事を理解できない可能性が、高いのだったな。。。
111日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:09:55.46
例えば白井氏
コンセプト(設定)的には、
白石氏のところに嫁(婿?)に行ったみたいな話なのかな、
そして家も絶えたとか
確実に?なぜか?そのような事になっているでしょ?
112日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:11:05.20
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
ある仮想空間上に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」のか、それとも、そうではないのかを討論するための、結論が出るまで続く討論会「魏志倭人伝時代についての討論会」があったとします。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」です。
この討論会での結論を、「真実」と仮に定義します。
この意見の発表は続きます。。。
113日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:12:57.83
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
114日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:13:56.99
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
115日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:14:49.80
>>113の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 116日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:16:43.59
九州説が
学説としては完全に終わった
ということを宣伝してくれている男たち
連句点とザラコク
ありがた迷惑です
117日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:17:20.53
現実に生きている僕達と奧山氏は、仮想空間上にある「魏志倭人伝時代についての討論会」の結論がどうなるのかを、数学的に考えるために、
「真実」と「邪馬台国畿内説は破綻した。」は、ある実数で表現することにします。
「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1
と置き換えます。。。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」だったので、この時点で、
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1です。
ルールがあります。。。
「真実」=1である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をして、「邪馬台国畿内説は破綻した。」を否定するしかありません。
つまり、「真実」=1である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という意見を積み重ねても、「真実」=1のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1である間「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論があったときには、「真実」の値には-1が加算されます。。。
「真実」=0である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」と発言するしかありません。。。つまり、「真実」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をしても、「真実」=0のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という発言があったときには、「真実」の値には1が加算されます。。。
すなわち、「魏志倭人伝時代についての討論会」では、
「真実」=1-1+1-1+1-1+・・・
というように「真実」の値が変化します。。。
僕達の頭の良い孫娘だけではなく、頭の悪い奧山氏も、以下の問題を考えて下さい。。。
数学的に、仮想空間上にある「真実」の値を、ある値に収斂させることはできるでしょうか、、、
118日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:17:56.51
>>113
>>115
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 119日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:18:32.25
奧山氏は、1、という物事を理解できない可能性が、高いのだったな。。。
120日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:19:09.72
奧山氏は、インターネットで収集した物事を、まるで理解しないまま、そのまま引用するので失敗するのだったな。。。
121日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:19:47.24
>>118すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 122日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:22:25.96
邪馬台国畿内説は破綻した。
123日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:22:43.90
>>121
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 124日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:24:04.66
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
ある仮想空間上に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」のか、それとも、そうではないのかを討論するための、結論が出るまで続く討論会「魏志倭人伝時代についての討論会」があったとします。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」です。
この討論会での結論を、「真実」と仮に定義します。
この意見の発表は続きます。。。
125日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:24:48.96
>>107
だから纏向は東日本の影響が濃く見られる遺跡だと言われているだろ?
■纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 126日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:25:06.45
続きです。。。
現実に生きている僕達と奧山氏は、仮想空間上にある「魏志倭人伝時代についての討論会」の結論がどうなるのかを、数学的に考えるために、
「真実」と「邪馬台国畿内説は破綻した。」は、ある実数で表現することにします。
「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1
と置き換えます。。。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」だったので、この時点で、
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1です。
ルールがあります。。。
「真実」=1である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をして、「邪馬台国畿内説は破綻した。」を否定するしかありません。
つまり、「真実」=1である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という意見を積み重ねても、「真実」=1のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1である間「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論があったときには、「真実」の値には-1が加算されます。。。
「真実」=0である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」と発言するしかありません。。。つまり、「真実」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をしても、「真実」=0のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という発言があったときには、「真実」の値には1が加算されます。。。
すなわち、「魏志倭人伝時代についての討論会」では、
「真実」=1-1+1-1+1-1+・・・
というように「真実」の値が変化します。。。
僕達の頭の良い孫娘だけではなく、悪い奧山氏も、以下の問題を考えて下さい。。。
数学的に、仮想空間上にある「真実」の値を、ある値に収斂させることはできるでしょうか、、、
127日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:25:12.11
どのスレッドだったかな、気付いている人がいたでしょ。
kingの話ではないんだけど、
家などの名前、戸籍(不明)?そういうものなどを使いまわしている、
とか。
128日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:25:42.43
>>123
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の後を継いだ、大和分家の天武が正史記紀を編纂させ(唐を刺激する、継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(冠位十二階の倭王・阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用し、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を半世紀繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 129日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:30:53.99
>>128
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 130日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:32:03.60
知っている人は知っている・・・実際は、ただの犯罪w
利権などがあるのかな、龍宮〜とか何かの元ネタのような話だし。
131日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:32:26.32
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
132日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:33:47.55
今城塚古墳に眠る倭大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
133日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:34:30.95
ニセwその家の話みたいな事になっているという話
134日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:34:45.91
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
135日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:35:39.63
畿内説は破綻したというより、そもそも始まってないからね。
136日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:36:39.87
>>121
実年代=記紀の没年(干支補正)+魏志倭人伝の年代情報+中国への朝貢記録
◇奴国(博多)【後漢皇帝の冊封を受け外交デビュー→大陸・半島の鉄輸入開始】
漢委奴国王(情報なし)…57年(後漢光武帝より金印を賜る)
「帥升」(情報なし)…107年(後漢安帝に生口160人を献上)
◇邪馬台国【狗奴国との争い→魏&西晋帝から「伽耶の鉄」輸入独占権を獲得!】
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年
台与(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋司馬炎へ)
◇伊都国・崇神朝【東征将軍・神武、纏向を征服→国内統一&半島派兵開始→任那日本府設置(鉄を直接獲得)】
10祟神(〜318年)…四道将軍(大彦/武渟川別/吉備津彦/丹波道主)派遣、310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没、伊勢神功創建。新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の東征&西征335年頃?大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◇邪馬台国・応神朝@筑紫邪馬台【半島派兵(対高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求め、南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◇狗奴国・継体朝@阿蘇邪靡堆【南北朝の中国二帝並立→倭国独自年号創出】
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) 137日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:41:42.46
邪馬台国は、熊本平野です。
138日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:41:54.03
ホンモノの家があるでしょ?
その家の〜を「殺そうとしたんでそ?」みたいな事を言ってる人がいたり、
なぜだと思う?
139日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:45:26.14
「殺そうとしたんでそ?」
もれ(仮)に対してのレスではない、
そういう書き込みがあったw
たしか、あのスレだったかな
140日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:47:18.52
>>985
「南→東」などの嘘付き騙しの荒らししかできない大和説老人の、
脳は溶けてる 141日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:47:42.06
またしてもスレ立ての邪魔をするのに失敗・・・
142日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:49:22.80
殆ど一人でスレッドを進行している奧山氏の症状が末期まで侵攻し、奧山氏は、奧山氏の解離性同一性障害の産物である呟き荒らし行為者を自分のことではないと感じてしまっているのだったな。。。
143日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:50:02.07
>>987
>九州説が持ち出すのは大体ニセモノ<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
持ち出すがものはも、大体ニセモノ 144日本@名無史さん2019/11/13(水) 13:50:08.56
漫画やアニメ、ゲームに・・・その他、何でも良いけどw
元ネタがあるでしょ?あと成り済まし、騙りがいて・・・、
ホンモノ(家の人など)を殺そうとしたんでそ?
みたいな事を言っている人がいた
145日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:14:24.18
まあ、そういう事になるねwと思っている人もいるだろう
神仏などで言うと、ニセモノ、騙り(などを祀っている)とか
146日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:19:20.36
>>134
では、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事を、実数1で表現したとき、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事は、どのように表現すれば良いのだろうか、、、 147日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:22:02.92
>>146
既存の数学の表記の仕方は、一旦棚に上げて、0という物事を定義し直せば良いのではないのかな。。。 148日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:23:23.78
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
149日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:23:49.16
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
150日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:26:31.99
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
ある仮想空間上に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」のか、それとも、そうではないのかを討論するための、結論が出るまで続く討論会「魏志倭人伝時代についての討論会」があったとします。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」です。
この討論会での結論を、「真実」と仮に定義します。
この意見の発表は続きます。。。
151日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:26:46.74
続きです。。。
現実に生きている僕達と奧山氏は、仮想空間上にある「魏志倭人伝時代についての討論会」の結論がどうなるのかを、数学的に考えるために、
「真実」と「邪馬台国畿内説は破綻した。」は、ある実数で表現することにします。
「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1
と置き換えます。。。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」だったので、この時点で、
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1です。
ルールがあります。。。
「真実」=1である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をして、「邪馬台国畿内説は破綻した。」を否定するしかありません。
つまり、「真実」=1である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という意見を積み重ねても、「真実」=1のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1である間「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論があったときには、「真実」の値には-1が加算されます。。。
「真実」=0である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」と発言するしかありません。。。つまり、「真実」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をしても、「真実」=0のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という発言があったときには、「真実」の値には1が加算されます。。。
すなわち、「魏志倭人伝時代についての討論会」では、
「真実」=1-1+1-1+1-1+・・・
というように「真実」の値が変化します。。。
僕達の頭の良い孫娘だけではなく、悪い奧山氏も、以下の問題を考えて下さい。。。
数学的に、仮想空間上にある「真実」の値を、ある値に収斂させることはできるでしょうか、、、
152日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:27:28.15
卑弥呼が貰った銅鏡を持っている人は、卑弥呼ではないのだな。。。
卑弥呼は既に鉄鏡を持っており、他に欲しがる人が多かったので、安物の銅鏡を貰ったのでは、ないのかな。。。
つまり銅鏡の出土する墓の被葬者は、卑弥呼とは別人であり、その墓の近くの集落は、邪馬台国ではない、ということなのだな。。。
153日本@名無史さん2019/11/13(水) 14:57:10.39
>>993
>鉄器を大量に揃えないと作れない量の矢板が出土しているし、<
鉄の刃物は、作業員が持って帰ってしまったんだな。
>鉄用の砥石が大量に出土しているし、鉄鍛冶遺跡も纏向遺跡内にある<
そりゃ、刃物の欠けた部分やすり減った部分などの修理工場のような場所だな。
>石庖丁がなくなるのも、北部九州よりむしろ早い<
「南→東」などの、思想宗教にクルった大和説考古学者らの編年や年代比定は、
全く信頼性がなく、信用出来ない。 154日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:00:12.87
>>147
奧山氏の存在するこの世界の全ての可能性を、別の世界で、完全に記述するために必要な標準模型素粒子の総数をΩと仮定します。
つまりΩは巨大な正の整数です。
今、0を二つに分けて定義します。
つまり、0=-1/Ωまたは1/Ωです。 155日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:00:33.76
>>153
>そりゃ、刃物の欠けた部分やすり減った部分などの修理工場のような場所だな。
間違い
スラグが出ているので高温の脱炭製鋼をしている 156日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:00:40.81
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
157日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:04:12.46
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
158日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:06:25.94
全ての実数が、定義し直されます。。。
159日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:06:36.95
>>959
だからさ、より太陽信仰に近づけるためにスリムなデザインにしたんだよ。
それが天照大神のモデルとなった平原遺跡の日の巫女の八咫の鏡だ。
完璧だろ? 160日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:07:32.05
1=1-1/Ωまたは1+1/Ω
161日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:13:02.22
>>80
>西暦193年「倭人大飢 来求食者千余人」
畿内説の言ってる畿内民が北部九州を訪れた時期の出来事。<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
そんな出来事は書かれていないから、大和説者の造作であり、インチキ。
>畿内系による北部九州の植民地化は3世紀前半<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」は、
紀元前1世紀頃から5世紀の倭王武の頃まで続いた。 162日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:17:03.49
相変わらず
九州はマイ結論を威勢よく宣言するだけで
理由はひとことも言わないのだね
163日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:18:15.17
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
164日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:26:11.10
今、既存の数学の表記方法で、
「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1
のとき、既存の数学の表記方法で、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」=1-1/Ω
とします。。。
165日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:26:42.39
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
166日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:29:36.66
友人の作製した午後の勤務シフトが、破綻しそうなのだったな。。。
167日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:30:01.53
数年前の話、書き込みw
また何か考案(発明)したのか?と言っている人がいたけど、
あれは奥山氏(。。。氏とも言う)のことだったの?
168日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:30:21.21
友人の作製した午後の勤務シフトが、限りなく破綻に近づいた。
169日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:31:49.36
>>159
>だからさ、より太陽信仰に近づけるためにスリムなデザインにしたんだよ。
ほらほら、九州説名物、ご都合主義の言い訳の迷走が始まったぞww
「もともと太陽信仰と無関係なもの」を「より太陽信仰に近づける」って
最初の起点からして破綻しているww
バカすぎw
「平原1号墓=卑弥呼の墓」というデタラメな結論ありきでしか考えないから
最初から最後まで理に会わないたわごとばかりになる 170日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:34:01.60
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
171日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:35:40.83
>>169
どこにも不具合がない完璧な説だよ。
どこか間違っているか? 172日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:36:53.18
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奧山氏のテンプレートは、「纏向古墳群の古墳のどれかが、卑弥呼の墓なのだ」というデタラメな結論ありきでしか考えないから
最初から最後まで理に会わないたわごとばかりになったのだったな。。。
173日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:37:56.30
九州説は過激なスローガンを連呼するが理由は説明しない
意見の異なる者とは対話しようとせず頭から否定するが理由は言わない
コピペ荒らしやオウム返し、スレ立て妨害などで相手の口を封じようとする
こういったテロリズム体質を見れば
九州説が学問ではなくファシスト的な政治史思想や宗教の類いであることがよくわかる
理由を言わずに決めつけるばかりの九州説は、大衆を自分らに文句を言わずに盲従すれば良い豚だとでも思っているのだろう
おおもとが皇国主義思想なだけに、九州説は怖いね
174日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:37:58.30
>>1
FAQ38
>「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して
内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。<
これは、巫女千人や兵が巻向に住んでいなかったという意味でよいか?
巻向は大集落とする学者との整合性は?
王都巻向に誰が済んでたの? 卑弥呼と寡少の人だけ? 175日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:40:44.07
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
176日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:42:27.05
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
ある仮想空間上に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」のか、それとも、そうではないのかを討論するための、結論が出るまで続く討論会「魏志倭人伝時代についての討論会」があったとします。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」です。
この討論会での結論を、「真実」と仮に定義します。
この意見の発表は続きます。。。
177日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:45:14.51
>>158
全ての実数に、「幅」を持たせるのではないのかな。。。 178日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:47:06.53
>>177
厳密には「幅」ではなく、「ぶれ」です。。。 179日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:49:04.92
>>173
理性的な反論ができないから中傷か。
畿内説というのはまことにご立派だな。 180日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:50:29.68
それにしても
『ガッパ ドンバ』『ドリフターズ』『』など、なぜ同じ学校の人たちなんだろう、
181日本@名無史さん2019/11/13(水) 15:53:42.72
『何者にもなれない お前たち』
謎の写真w・・・実際は家の写真だしな
182日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:04:41.34
歌舞伎〜芝居が〜〜〜だったとか、
家の話のことを知っているのかな?知っている人がいるとか?
183日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:07:54.13
『西王母 北辰』
なぜか『北斗の拳』のような話だしな〜?
184日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:12:35.71
>>179
九州説が荒らしばっかりやってる事実からの理性的な分析でしょ
立派な反論だ 185日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:12:50.84
『あまつ きつね』
さいとう某という人物の作品(画像)も出てきたりw
「こうたまん」(不明?)と同じ学校みたいだし
こうたまん=『ドリフターズ』
186日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:15:59.05
同じ学校ではなかった、他の人物だった?
187日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:21:49.77
『サイコソルジャー』(ゲームの動画)という曲w
188日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:28:07.96
>>174
>巻向は大集落とする学者との整合性は?
整合性あるでしょ
大集落の定義には人口は必要ないから 189日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:29:04.87
確実に妹の話なんだろう、
他に同じような家の人もいないだろうし、
5月15日生まれで、・・・、・・・、・・・。
なぜか、まいく・おー?(カブキロックス)MV
190日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:30:47.63
つまり、巻向古墳群が出現した時、巻向の人口は、驚く程少なかったのだな、、、
191日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:33:37.42
宝生流〜?死刑になった(不明?)軍人でもないし、
どういうことなんだろう・・・。
192日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:34:39.82
>>190
銅鐸王国の王家の怨恨を封印するために、人民が、農閑期に交代で集結し、労働し、巻向古墳群が完成したのだったね。。 193日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:36:10.09
奥山氏が薬を飲み過ぎたのでは、ないのかな。
194日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:38:00.26
『近衛 大将 死刑』でもないし
『霊山の大将』(河伯、河童?)おかしな話ばかり
195日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:41:16.97
調べてみると実際にいるんだよな・・・調べてみた?
『宝生流 軍人 死刑』
196日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:44:13.06
>>164
では、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」のΩ乗は、どのような数値になるのだろうか、、、
もし、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」が1ならば、何乗しても、1にならなければ、
既存数学とは別の数学になってしまうのではないのかな、、、 197日本@名無史さん2019/11/13(水) 16:57:28.11
>>196
貴方は、良い所に気づきましたね、、、
では、既存数学とは異なる結果を受け入れるために、新しく、「奥山氏」という名の定数を導入します、、、
すなわち、
「奥山氏」は、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」をΩ乗した数値です。。。 198日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:14:09.13
>>82の追記
>土器の移動は人の移動の指標
土器の統一は、背後に政治的な介入がある<
土器の移動は、市を介しての自然は伝播や模倣と、
「東征毛人五十五國」などのような、軍の所持による拐帯的移動や、
中央政権への上納のような場合がある。
両方がある。 199日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:16:59.87
九州説のいつもの奇痴骸は一日中イミフなこと呟いてるな
200日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:20:30.09
201日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:24:06.17
なんか算数音痴な奥山が小声でつぶやいてるぞw
202日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:24:45.29
>>171
>どこにも不具合がない完璧な説だよ。
太陽信仰とは無縁で、太陽には見えない図象を「太陽に近づける」というのが
最初から意味を成していない
それに内行花文鏡は連弧文鏡の系譜にある
連弧文鏡は最初から太陽はモチーフとしていない
これが太陽に見えたら頭おかしい
平原1号墓の年代は、同時に作られたと考えられている周溝を共有する2号墓の
周溝から出土した土器片(西新町式直前)から2世紀末ごろとされており、
卑弥呼の生前に作られた墓
卑弥呼の墓ではありえない
また、たくさんの銅鏡が出土したことで有名だが、舶載鏡は卑弥呼の時代から
150年〜200年ほど前のものが2枚だけで、卑弥呼の貰った3世紀台の舶載鏡は
1枚もなく、残り38枚は全て仿製鏡
卑弥呼の鏡が出土しない時点で、卑弥呼の墓の候補にすらならない
墳丘の規模も、同じ葬送文化の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓と平面プランで比べて10分の1以下
ボロボロじゃないか? 203日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:27:21.85
それで、どこの池沼なんだ?
『』『』『』内、ググってみた?
204日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:30:32.15
数年前の書き込み
お前から教わることなんてないんだけどw
と言っていた人と同じ
ほとんど教えたほうの人間なのかな?
205日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:34:50.13
『醉臣迷聖造』
どこの学校に行ったとかも知らないし、
松の木の立てられている写真の家。
老婆も・・・・・・・・・・・・・?。
206日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:39:35.41
連弧文は8本の柱が支えている天の
天帝の住む天極(北極星)を中心に九天を表した図象
207日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:43:17.51
立てられている松の木もw
七支刀wと同じような形をしているしw
『あまつ きつね』
なぜか、あのゲームのキャラの画像・・・。
208日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:45:12.39
そもそも太陽信仰だなんてどっから出てきた話なんだ?w
209日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:46:32.42
『西王母 北辰』調べてみたの?
210日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:48:49.94
纏向の大型建物についてのレポート
「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は
3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の
大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が
3世紀後半以降の可能性がある。」
年代が近いと言っても既に卑弥呼が死んだ後の時代だな。
211日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:51:15.14
奥山は100年分の歴史を30年の間の出来事のように印象操作しまくってるフェイク屋だw
212日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:51:16.00
・・・親戚も知らないのかな?
老婆は知っているみたいなんだけどw
銀〜という人もいて、歌舞伎?
何やらの話とか
213日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:52:20.30
銘文
「見日之光天下大明」
214日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:54:09.36
>>208
>そもそも太陽信仰だなんてどっから出てきた話なんだ?w
卑弥呼=アマテラス・太陽神という、九州説の妄想起源の思い込みと、
内行花文鏡の八連弧が太陽っぽく見えるという主観の合わせ技ww 215日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:56:22.08
『醉臣迷聖造』?
わかりやすく言うと家があるでしょ、歌舞伎などを観に行っていたとか、
どういう話なんだろう
216日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:56:53.30
217日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:56:58.76
>>116
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が
学説としては完全に終わった
ということを宣伝してくれている男たち スレ主と類スレ主
手間が省けてありがたい事です 218日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:58:20.72
>>206
>連弧文は8本の柱が支えている天の
>天帝の住む天極(北極星)を中心に九天を表した図象
つまり内行花文鏡は天子の権威を表している王権の象徴。 219日本@名無史さん2019/11/13(水) 17:59:08.95
>>153
>鉄用の砥石が大量に出土しているし
鬼の首でも取ったように叫んでいるが、大和南部の複数の遺跡で砥石が出ている。
その大量の砥石てどこの遺跡よ。
どうせ3世紀後半以降のものだろう。 220日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:00:16.84
太陽神はツングースク
鬼道といえばツングースク
鹿といえばツングースク
つまり畿内発足のヤマト王権はツングース系の半島人の末裔による渡来政権。
邪馬台国民は「呉越の末裔」だといってるんだから関係無さすぎるだろ。
221日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:00:23.02
『飯野町 UFO』
この辺りの話もしていたしな
222日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:03:57.93
『伊達の桃太郎』と『飯野町 UFO』
近所でしょ、同じ町内?
223日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:06:04.87
>>220
なるほど。
畿内日本は朝鮮系、九州倭国は江南系。
そもそも稲作は九州北部に上陸したし、倭人は華南の沿岸部の民族を意味した言葉だったからね。
会稽もその流れで中国側の認識を反映している。 224日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:07:11.14
モモタロウのほうは飯野町青木ではなくて、
青木農園だった?でも、ほとんど同じ
225日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:11:46.95
>>210
ミスリードと、印象操作の見本のようなやり口だな
元記事は
「邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、
「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル
東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、同市教委が27日、発表した。
建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した
4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が
高まるという。
見つかったのは南北に5つ並ぶ柱穴で、長さは9メートル。周辺調査から南端の
柱穴は建物の南西隅と判明し、柱穴は建物の西面にあたる。」
卑弥呼の居館跡とされているのは、建物B・C・Dで、「大型建物跡(3世紀前半)」
>>210がうれしそうに「造営年代が3世紀後半以降」としているのは
それとは別の「約5メートル東側で見つかった別の大型建物」のこと
この図の右端に青く示されている東側建物が、3世紀後半以降ということ
卑弥呼の居館とよく言われる建物B・C・Dはむしろ卑弥呼の遣使よりも前に
柱を抜かれているとされている 226日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:13:56.14
>>225
はいはい、ご都合解釈は畿内説の十八番w 227日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:14:09.56
当時、住んでいた家にあった、
本や書なども誰かにあげちゃったのかな〜wという話。
家はその周辺には住んでいないし、知っている人は知っている。
なぜ詳しいんだろう
228日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:20:31.93
頭の悪い奥山の証言により、纏向で先に立った大型建物が、土方の寄宿舎である確率が、高まったのでは、ないのかな。。。
229日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:21:05.62
『機織り 三重 飯野』
同じようなところがあるけど、ニセだろう
230日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:22:43.31
畿内説は同時期の倭種の国を邪馬台国だと勘違いしてるとしか思えないw
231日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:22:53.80
なぜ関係ない、ニセと認定するのか?
そこには住んでいないからwというだけの話
232日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:29:31.34
>>216
>「見日之光天下大明」
チェリーピッキング乙
日光銘鏡という名前に惹かれたんだろうねw
それ、三雲南小路遺跡の小さい方の2号甕棺から出る、面径65ミリの小さいやつ
この右端だよ
ますます太陽っぽくないだろ?ww
三雲南小路遺跡の大きい方の1号甕棺から出る大きな鏡面径164ミリは
清白銘鏡と呼ばれる
銘文は
「巨エ白而事君 惌沄之弇明 伋玄而流澤 恐疏而日忘美之 外承可說 永思而毋絕」
一応「日」の字はあるけれど、疎遠にして日びこの美忘らるるを恐るだぞw
太陽信仰の証なんてのは、九州説のでっち上げww
根拠なし! 233日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:32:32.73
>>232
ほほう、よく調べたなw
本当は平原遺跡が気になってしょうがないんだろ?
今から九州説になったらどうだ? 234日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:33:08.77
『姥清水』
すさのお、月読?それとも天照の話?
この話はホンモノだろう。
235日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:33:23.30
236日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:33:56.85
237日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:36:05.39
>>233
平原遺跡って平原古墳じゃないの? その古墳のなにがいいの? @阿波 238日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:37:33.31
>>233
>ほほう、よく調べたなw
よく調べたな、じゃなくて、最初からこの程度のことは知ってるんだよ!
情報リテラシーがnearly equal to ZEROで、身内の九州説のブログしか
読まない情弱とは最初から情報量が段違いなんだよ
そして、十分な情報を仕入れている人は、九州説は既に存在しないことを
理解している
九州説のアマチュアはいるが、情弱の老害が残っているだけ 239日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:38:42.16
何度も言うが、現実にはその本質を示す形があるのです。
調査に15年以上かけた成果
佐賀:吉野ヶ里遺跡
妄想に15年以上費やした結果
奈良:纏向遺跡
240日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:40:02.09
>>162
相変わらず
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
マイ結論を威勢よく宣言するだけで
理由はひとことも言わないのだね 241日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:40:46.56
>>233
平原遺跡って平原古墳じゃないの? その古墳のなにがいいの? @阿波 242日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:41:58.37
つぶやき君の話は興味深いんだがどの時代どこにいてどの遺跡や遺物がつぶやき君の祖先のものなのか、素人にわかるようにはっきりと語って欲しい
243日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:42:33.17
>>225
城柵・楼閣跡が見つからないから、
どのみち卑弥呼とは関係ない 244日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:42:34.26
まがいものばかりだという話、
・・・少しは詳しい人もいた。
津?何やらというところがあり、
そこから東国(東北地方)のほうに飛んで行った〜何やらがいるとか、
むかーしの話だと思うんだけど。
245日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:43:08.44
>>236
>神社建築にしか見えないw
つまりは「王宮」ということだな
雄略記の志幾之大縣主の家を焼いた記事でも読んでおきな
幸行河內。爾登山上望國內者、有上堅魚作舍屋之家。
天皇令問其家云「其上堅魚作舍者誰家。」答白「志幾之大縣主家。」
爾天皇詔者「奴乎、己家似天皇之御舍而造。」
卽遣人令燒其家之時、其大縣主懼畏、稽首白「奴有者、隨奴不覺而過作甚畏。
故、獻能美之御幣物。(能美二字以音)」布縶白犬、著鈴而、己族名謂腰佩人、
令取犬繩以獻上。
千木・鰹木 - Wikipedia もおまけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/千木・鰹木 246日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:45:23.84
>>243
>城柵・楼閣跡が見つからないから、
城柵、見つかってるよ?
人が住んでいるところはなかなか発掘が進まないけれど、この城柵の
内側を発掘できる日が来れば、完全決着になるだろ 247日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:45:41.96
つまり卑弥呼と関係ないものを卑弥呼と関係あるように誤魔化していたわけだ。
248日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:46:21.62
〜東北地方に飛んで行った
『飯野町 UFO』『サイコソルジャー』?
249日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:46:33.07
>>246
神社としての本殿の部分はすでに発掘されたわけだから、そっち側にはないもないよ。 250日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:47:12.35
>>233
>ほほう、よく調べたなw
これで「内行花文鏡、連弧文鏡が、太陽信仰を意味する」というのは
『デタラメ』だと決着したな! 251日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:48:20.05
『姥清水』観ていないんでしょ?
『羽山の森美術館』少し調べてみて。
252日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:52:08.40
飛んで行き・・・その後、またどこかへ
たしか、そういう話、同じ話をしている人もいたでしょ、
あっちに行き、こっちに行ったり、祀るところを〜とか。
253日本@名無史さん2019/11/13(水) 18:59:34.88
>>218
天帝は天子ではない
連弧文鏡は漢鏡の大部分を占める普及した鏡 254日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:01:28.63
>>249
>神社としての本殿の部分はすでに発掘されたわけだから、そっち側にはないもないよ。
大型建物跡として有名なのは、巻向駅近くの辻地区
>>246で示している城柵跡は、もっと東の尾崎花地区だよ
こういうところでも、いちゃもん専門の九州説は情弱で物知らず 255日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:02:39.19
>>202
>周溝から出土した土器片(西新町式直前)から2世紀末ごろとされており
考古学的には一番新しいもので年代を比定するのが定石では?
仿製鏡が全国的に見られるのが4世紀以降なのに
平原が2世紀後半はない。
3世紀後半から4世紀初めだよ。 256日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:04:27.63
>>247
>つまり卑弥呼と関係ないものを卑弥呼と関係あるように誤魔化していたわけだ。
卑弥呼と関係ないものであることを、まず具体的に論証してくれ!ww
根拠なしに否定する文字列を並べても無意味だっての
纏向遺跡の状況は、そこに3世紀における列島最大の祭祀王の座所があったことを示している
3世紀の倭国の宗教的権威の最高位が卑弥呼なのだから、纏向遺跡の主が卑弥呼であると
想定するのがもっとも自然 257日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:06:55.79
あの漫画に登場するキャラと同じ
『ドリフターズ』『姥清水』?
あっち行ったり、こっちに来たり・・・、なぜ知っている人達がいるんだろう
258日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:08:11.44
>>254
そんな離れた場所の城柵擬きとか、
畿内説の学者でさえも大型建物と関連付けてないw
奥山さんは印象操作とか捏造が本当に好きだなあ。 259日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:12:09.34
そう言えば「唐子鍵で楼閣の描かれた土器
が見つかったから、纏向にも楼閣があった」
ていう理論も見かけたなw
唐子鍵でも肝心の柱穴跡が見つかってないから
大方大都会九州の楼閣を真似て描いたんだろうなw
260日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:15:08.61
奥山脳内ワールドは現実世界にカスリもしないんだなw
お見事w
261日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:16:31.02
>>169
>ほらほら、九州説名物、ご都合主義の言い訳の迷走が始まったぞww
「もともと太陽信仰と無関係なもの」を「より太陽信仰に近づける」って
最初の起点からして破綻しているww バカすぎw
「平原1号墓=卑弥呼の墓」というデタラメな結論ありきでしか考えないから
最初から最後まで理に会わないたわごとばかりになる <
丸い鏡は、最初は、自分の顔を写して化粧をしたりする事などに使ったんだろうが、
その内に、凹面鏡にして太陽光を集光して火を起こす事を覚えたりし、
遠距離との通信や灯台に使ったりもしたんだろう。
それなら、大きい鏡の方がお宝だ。
勿論、内向花弁鏡の花弁とは関係のない事だ。 262日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:18:07.37
『ウルトラ忍法帖』も同じ、
姥清水何やら写輪眼という作品もあったでしょ?
263日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:20:35.62
畿内で三角縁神獣鏡を製造したという根拠は?
鏡の鋳型とか見つかったの?
264日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:23:02.87
>>246
その垣根の完成予想図の模型もあるなw
吉野ヶ里の警備厳重な城柵
纒向の妄想城柵(垣根やろ?w)
265日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:26:10.72
所詮は畿内説をでっち上げましょう会のやってることだw
スッカスカw
266日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:33:39.44
>>254
大型建築は集会所
>
建物Cが本殿だよ
キナイコシは本当に無知だなあ
日本史の基礎を知らなさすぎる 267日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:33:57.34
>>255
平原のサビ色塗装鏡は日本にも中国にもないから
平原の鏡では編年できない 268日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:34:05.93
>>255
>仿製鏡が全国的に見られるのが4世紀以降なのに
仿製鏡の編年は、まだ確立されていない
土器の方が大量にどこでも出るので、試料が多い分正確な編年ができる
また、平原遺跡では平原1号墓の後もう一世代、3号墓と4号墓が作られ、
その後、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳という前方後円墳が作られる時代に入る
古墳時代の開始年代から考えて、その2世代前の平原1号墓が2世紀末頃というのは
妥当な数字となる 269日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:34:44.19
>>256
>卑弥呼と関係ないものであることを、まず具体的に論証してくれ!ww
関係あることを証明する義務は君にある。
それができないなら畿内説は成り立たない。 270日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:42:20.57
>>267
全国で大型の仿製鏡が現れるのは
4世紀以降だろ 271日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:44:34.52
>>258
>畿内説の学者でさえも大型建物と関連付けてないw
>奥山さんは印象操作とか捏造が本当に好きだなあ。
お前、バカだろ?
尾崎花地区の城柵と、辻地区の大型建物跡は時代が異なるというのが
現在の見方であり、居館域が辻地区から尾崎花地区に移ったというのが通説
辻地区の大型建物はこの図の居館域
尾崎花地区の城柵はこちらの居館域
272日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:46:19.99
>>271
馬鹿かw
ならいっそう辻地区の大型建物に城柵があった
証拠にはならないw 273日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:49:48.21
>>270
>全国で大型の仿製鏡が現れるのは
その編年を見直さないとってこと
桜井茶臼山古墳 布留1式期
三角縁神獣鏡 26面
内行花文鏡(国産) 10面 ← 仿製鏡
内行花文鏡(舶載) 9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡 5面
環状乳神獣鏡 4面
だ龍鏡 4面
細線獣帯鏡 3面
方格規矩鏡 2面
単き鏡 1面
盤龍鏡 1面 274日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:50:21.41
>>268
>仿製鏡の編年は、まだ確立されていない
>土器の方が大量にどこでも出るので、試料が多い分正確な編年ができる
おいおい
数百枚あって無理なんて、サボっているだけだろ
>>268
>古墳時代の開始年代から考えて、その2世代前の平原1号墓が2世紀末頃というのは
>妥当な数字となる
「妥当」
そう信じたいだけだろ
平原の鏡は後漢鏡より新しく、倭国大乱より後の形式だ
早くて2世紀末だが、遅ければもっと遅い可能性もあり、何れにしても卑弥呼の支配下で作られたことは間違いない
作られてから埋められるまでどれくらい時間がかかったかわからないので、3世紀でもいいわけだ
卑弥呼が作らせたのだから、卑弥呼の生前に埋める必要があったとは考えにくい
つまり平原遺跡は卑弥呼の墓と考えるのが「妥当」w 275日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:51:04.30
そんな事よりも、なぜ、ほとんど同じなんだと思う?
『』『』『』『』内、同じような画像ばかりでしょ
276日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:51:15.94
277日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:51:37.84
>>270
>>>267
>全国で大型の仿製鏡が現れるのは
>4世紀以降だろ
ダブスタも大概にしろ。
平原遺跡が2世紀末だというのと一致しないだろ。
それとも九州北部の圧倒的な先進性を強調しているのかな?
それなら話はわかる。 278日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:52:23.79
>>263
>畿内で三角縁神獣鏡を製造したという根拠は?
三角縁神獣鏡の鋳型は出てないからねぇ
伝承から見れば、唐子鍵近くの鏡作神社や、和歌山の日前神宮・國懸神宮に
八咫鏡の前に、試作品を作ったという伝承がある 279日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:52:31.56
何か家の人なんだろうとしか言えない、
老婆も同じことを言っていたし
280日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:52:59.04
>>271
>尾崎花地区の城柵と、辻地区の大型建物跡は時代が異なるというのが
根拠なし。
そう信じないと畿内説が根底から崩れるから、そう信じたいだけだろ。
安心しろ。
もう畿内説は崩壊している。
誰もお前のダブスタには騙されない。 281日本@名無史さん2019/11/13(水) 19:58:07.23
282日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:03:33.03
ウサギの話をしていたこともあったw
白いウサギを飼っていたことがあって〜?
他のスレにも書いた事があるから、説明不要
283日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:03:50.64
奥山が最近何でもかんでも定説と言わず通説と言うように進化した事は褒めてやろうw
284日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:07:52.36
>>280
また、九州はひとことも理由を言わずに断定するんだね
何が「ダブスタ」かも言わない
内容なき誹謗
それが九州説なのか? 285日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:08:53.41
河童〜、なぜか孫悟空の絵と同じw
話は違うんだけど、たしかトランプの〜みたいな話、
ウサギがいなくなっていて。
286日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:10:29.54
なぜ知っているんだろうw
家に本や書などもないし、老婆も読んでいない
287日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:10:36.13
288日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:11:54.34
なんだ。
キナイコシは平原より百年以上も後の鏡と比較して、平原の鏡はできが悪いと言っていたのか。
なんの意味もないじゃん。
289日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:16:11.79
>>287
しつもんをしつもんでかえしては
いけませんよ? 290日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:16:44.95
291日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:17:50.77
銅鏡の年代を考えていたら、伊都国の先進性が浮き彫りになりました。
292日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:18:02.52
>>173
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
過激なスローガンを連呼するが理由は説明しない
意見の異なる者とは対話しようとせず頭から嘘つき騙しをし、
否定するが理由は言わない
史料事実や史料実態荒らしや、オウム返しや、
「畿内や邪馬台国」などと云った存在もしない文言での妨害などで、
相手の口を封じようとする
こういったテロリズム体質を見れば
大和説が学問ではなくファシスト的な政治史思想や宗教の類いであることがよくわかる
理由を言わずに決めつけるばかりの大和説は、
大衆を「自分らに文句を言わずに盲従すれば良い豚だ」とでも思っているのだろう
おおもとが皇国主義思想なだけに、大和説は怖いね 293日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:18:12.71
294日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:18:43.10
>>290
その鏡が作られた時にその鏡があった伊都国を支配していたのは? 295日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:19:06.01
296日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:20:38.81
『姥清水』と同じ話?
トランプ、にんてんどーのようなキャラも出てくるし
297日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:23:22.07
>>184
「南→東」などのような、史料事実などの否定や曲解の嘘付き騙しで、
大和説が荒らしばっかりやってる、
という事実からの理性的な分析でしょ
立派な反論だ 298日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:23:39.98
299日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:25:59.92
300日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:27:16.58
>>188
>>巻向は大集落とする学者との整合性は? <
>整合性あるでしょ 大集落の定義には人口は必要ないから<
大集落が空き家ばっかりでは、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
と整合性がない、でしょ?。 301日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:27:38.33
アリスは女の子、姥清水は男の子w
同じような話でしょ『任天堂 花札』も出てきたり。
302日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:29:18.68
まあ、魏が倭国と冊封関係を結ぶ事前折衝のために派遣した使節団は、半島の西岸から南岸を経て狗邪韓国(伽耶)の拠点の一つである固城から倭への最短距離の航路でもって末盧に着いた。
その航路の方位がまさに東南の中軸線にぴったりであったので、それまで位置のよく分からなかった倭が半島狗邪韓国(伽耶)の固城の東南にあると公的に判定することができ、
そのあと使節団が卑弥呼の宮室に赴いたことで卑弥呼の宮室がやはりその東南の軸線上にあることも分かった。
この使節団の報告書は、魏の皇帝へのブリーフィングにも用いられ、倭は半島南岸の固城から東南にあることが正式なものとして受理された。
だから、このあとに書かれた史書魏略倭は初めて堂々と「倭は(帯方の)東南にある」と書くこととなった。
それ以降、魏志倭人伝も含めて中国史書は魏略の記述を踏襲した。
帯方はその時々の半島の国に置き換えて記されたが、「東南」は一度も改変されなかった。
それは、公式に認定された方位だったからだ。
つまり、魏略倭伝の「東南」は帯方郡庁が起点ではなかったことを示しているということだ。
303日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:30:03.76
>>199
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のいつもの奇痴骸は、
一日中イミフなこと呟いてるな 304日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:30:26.86
あとトトロwさつき、メイ?
305日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:33:12.60
よく考えてみると、本当に、おかしな・・・話ばかり
306日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:33:50.83
>>200
「南→東」などの嘘付き騙しをして憚らない大和説考古学者が、
幾ら「立派なような音痴な事」を叫んでも、
・・・・アホ詐欺師にしかならず、空疎 307日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:33:58.35
>>269
>関係あることを証明する義務は君にある。
>それができないなら畿内説は成り立たない。
残念ながら、証明は必要ない
というか、情報が少ないために証明は不能だ
という状況下において、他のどの候補よりも高い蓋然性が
畿内説にあることを示せば十分
そして、その蓋然性は、
纏向遺跡が列島の広域の交流の中心であること(ありえないほど高率、広域の搬入土器)
纏向遺跡が祭祀中心であること(大型祭祀土坑及び祭祀土坑での多数の搬入土器)
最大の墳丘墓の存在(纏向石塚古墳以降の100メートル級纏向型前方後円墳)
その年代が、2世紀末から3世紀前半に既に存在していたことの証明(桃核の14C年代)
と、これだけの実物証拠で示される訳だ
「平原1号墓出土鏡が八咫鏡」が否定され(円周長を図る意味がない、咫が伝わっていない)
「内行花文鏡は太陽信仰のシンボル」が否定され、糸くず説には何一つ根拠が残っていないw
もちろん、短里なんてないし、一大率のいるところは地方だw 308日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:35:48.22
>>274
>数百枚あって無理なんて、サボっているだけだろ
土器はその100倍出るからなw
>平原の鏡は後漢鏡より新しく、倭国大乱より後の形式だ
仿製鏡に何を言っても無駄
それに「倭国大乱より後の形式」はうそだぞww
適当なことを言ってもすぐにばれるww 309日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:38:18.90
邪馬台国畿内説は、限りなく、完全な破綻に近い状況に、追い詰められたのだったな。。。
310日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:38:47.51
310
311日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:39:22.86
お腹が、空いたな、、、
312日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:40:41.05
>>280
>根拠なし。
根拠あるよ?
辻地区の建物跡は、柱を抜いた後の柱穴に土器を入れて破砕
供献した祭祀跡が確認されているから
それが庄内期の土器だから、布留0よりも前 313日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:41:04.65
>>308
>仿製鏡に何を言っても無駄
それに「倭国大乱より後の形式」はうそだぞww
大型内向花紋鏡は3世紀後半から4世紀初めの鏡 314日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:42:01.34
>>272
>ならいっそう辻地区の大型建物に城柵があった
>証拠にはならないw
残念ながら、ちゃんと柵列の穴が出土しているからねぇ
柵があったのは確定
それを城柵と呼びたくないのが九州説ってだけww 315日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:43:19.97
>>283
>奥山が最近何でもかんでも定説と言わず通説と言うように
単なる多数説を越えて、通説になった時点でもう決まりだよww 316日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:45:35.83
>>312
>辻地区の建物跡は、柱を抜いた後の柱穴に土器を入れて破砕
どこの土人地域の黒魔術だよ
卑弥呼とは関係なさそう 317日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:47:21.84
>>288
>キナイコシは平原より百年以上も後の鏡と比較して、平原の鏡はできが悪いと言っていたのか。
いんや?
どの時期の内行花文鏡、連弧文鏡と比べてもできが悪いよ?
図像の面では、これがない時点で全ての内行花文鏡とは区別される劣化コピーだとばれる
また、鋳物で巣が入ってるなんてのは、王権の鏡としてありえないww
ただ大きくすることだけが目的のできの悪い手抜き鏡なのは、
多くの鏡を見た人にはすぐに分かることw 318日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:50:16.84
>>316
>どこの土人地域の黒魔術だよ
>卑弥呼とは関係なさそう
では、土器よりも割りにくい銅鏡を破砕供献している平原1号墓は
もっと気合の入った土人の真っ黒魔術だなww
もちろん卑弥呼とは関係ないんだろ?wwww 319日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:50:22.12
>>313
>大型内向花紋鏡は3世紀後半から4世紀初めの鏡
あれれ
おかしいなあ
大型内行花文鏡がある平原遺跡は2世紀末と言っていたよね〜
(コナン風の棒読み) 320日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:51:21.16
321日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:54:39.58
鼻の話をしていたこともあったり、
寒いな〜の親戚の家の〜〜〜〜〜は鼻が高くて
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
実際どうなのかは、わからないんだけどw
322日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:55:32.15
>>299
質問者は3世紀と考えているのだけれど。 323日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:57:09.48
>>313
>大型内向花紋鏡は3世紀後半から4世紀初めの鏡
お前さんは、連弧文鏡と内行花文鏡の区別もついてないんだろ?
三雲南小路遺跡でも内行花文鏡が王の鏡だって言ってたんだから?ww
でもあれは、連弧文鏡だ
そして、籠神社の邊津鏡、息津鏡まで内行花文鏡呼ばわりしていたが、
あれは前漢鏡だ
三雲南小路遺跡の時点で面径19センチの大型連弧文鏡が出ている
「大型内向花紋鏡は3世紀後半から」というのは大嘘 324日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:58:07.06
>>319
九州説がウソ以外のこと言うのは極めてまれ 325日本@名無史さん2019/11/13(水) 20:59:03.66
・・・・・・・・・偶然なのかな、
ただホンモノというだけなのかな?
326日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:00:36.95
>>202
>太陽信仰とは無縁で、太陽には見えない図象を「太陽に近づける」というのが最初から意味を成していない
それに内行花文鏡は連弧文鏡の系譜にある 連弧文鏡は最初から太陽はモチーフとしていない・・・これが太陽に見えたら頭おかしい<
円鏡が太陽に例えられるなら、それは、(裏側ではなく)表側の反射面の事。
>平原1号墓の年代は、同時に作られたと考えられている周溝を共有する2号墓の
周溝から出土した土器片(西新町式直前)から2世紀末ごろとされており、
卑弥呼の生前に作られた墓 卑弥呼の墓ではありえない<
21枚の「尚方作」の錆色塗装鏡は、当然「明帝の下賜鏡が元」になって、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与があった鏡であり、当然卑弥呼の死以後の年代になり、
「周溝から出土した土器片(西新町式直前)から2世紀末ごろ」とした事がミスジャッジ。
>また、たくさんの銅鏡が出土したことで有名だが、舶載鏡は卑弥呼の時代から
150年〜200年ほど前のものが2枚だけで、卑弥呼の貰った3世紀台の舶載鏡は1枚もなく、
残り38枚は全て仿製鏡 卑弥呼の鏡が出土しない時点で、卑弥呼の墓の候補にすらならない <
残り38枚は全て仿製鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>墳丘の規模も、同じ葬送文化の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓と平面プランで比べて10分の1以下・・・
ボロボロじゃないか?<
壹與は共立とも書かれず、一種の「仮王」という形であり、魏の薄葬令にも縛られた。 327日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:01:03.37
魏志倭人伝には「西」という方角が出てこない。
これは舞台が西の端に位置することを示している。
よって邪馬台国は九州のどこかしかあり得ないのです。
328日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:10:24.85
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
329日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:10:25.51
>>206
>連弧文は8本の柱が支えている天の
天帝の住む天極(北極星)を中心に九天を表した図象
<
成程。
表が、昼間の太陽であり、
裏が、夜の北極星を中心とする十二支か。 330日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:10:26.03
>>206
>連弧文は8本の柱が支えている天の
天帝の住む天極(北極星)を中心に九天を表した図象
<
成程。
表が、昼間の太陽であり、
裏が、夜の北極星を中心とする十二支か。 331日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:11:05.12
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
332日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:13:35.74
>>210
>纏向の大型建物についてのレポート
「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、
遺跡の最盛期は 3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、
建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。」
年代が近いと言っても既に卑弥呼が死んだ後の時代だな。<
成程。 333日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:17:32.52
>>213
>銘文
「見日之光天下大明」<
成程。
鏡の反射面の丸さは、太陽光の反射を想定されていたのか。 334日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:19:21.36
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
335日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:21:25.06
>>218
>連弧文は8本の柱が支えている天の
天帝の住む天極(北極星)を中心に九天を表した図象<
成程。「九州」も表していたのか。 336日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:25:07.89
何かの数値に、奥山氏という名前を付けたのだったか、何だったか忘れてしまったな、、、
337日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:27:24.91
何かの数値に、奥山氏という名前を付けたのだが、このスレッドに書き留めただろうか、、、
338日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:28:30.32
小椋佳の曲も同じでしょ、最近わかった事なのかな?
それとも悪く言うとストーカー?
339日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:29:45.28
奥山氏という言葉の検索結果が多いので、探すことが難しくなってしまっているな。
340日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:30:46.66
『小椋佳 ピノキオ』
芝居の話、夢を〜ドラクエ、紫色〜。
プリズム写輪眼。
341日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:30:52.24
340
342日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:37:26.36
ネイピアという物事が、片手落ちなので、逆側について研究していたのでは、ないのかな。
343日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:38:27.87
畿内説が九州説を罵倒すればするほど畿内説から信頼が失われてゆく
あ、もう信頼なんてなかったか
344日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:40:11.27
>>320のように、具体的なことは一切言わずに反論したふりだけするってのを九州説の連中はいつもするけど、それってとにかく口数と勢いだけで内容は関係ないっていう声闘のやり方なの? 345日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:40:22.65
倭人伝を放棄した畿内説に邪馬台国を名乗る資格はない
即刻スレを畳んで日本国民に謝罪しろ
346日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:43:27.85
俺たちの旅・・・・・・・・・・・・・、
『俺は旅に出る ポケモン』
347日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:44:32.85
まだ畿内説の言説を信じる邪馬台国愛好家がいるのだろうか?
他説を罵倒し、煙に巻いて他人をバカする言説に耳を傾ける輩がいるだろうか?
九州説と真摯に向き合うべきだろう
348日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:44:40.53
プロ固定が、スレッドを活発化しようとすればするほど、スレッドがゴミ袋になってしまうのだったな。
349日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:45:10.14
>>345
>倭人伝を放棄した畿内説
どこが?
具体的なことが一切言えないのは、バカだからってことでいいかな? 350日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:45:49.51
350
351日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:46:53.75
>>232
>太陽信仰の証なんてのは、九州説のでっち上げww
根拠なし!<
太陽信仰は、円鏡の反射面の話だろう。 352日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:46:58.77
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
353日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:47:06.53
354日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:55:09.87
武器庫の話をしよう、
老婆談、なぜ同じ話なのか?となるはず。
クラの中に刀なんかが沢山あって、
誰かにあげたのか、売ったりしちゃったのかな〜。
ゲームの話ではないw
355日本@名無史さん2019/11/13(水) 21:56:36.18
>>238
大和説には、「南→東」などの嘘付き騙しや、
鏡の「日=太陽」が反射面の方を言っている」という事が判らないアホアマチュアがおり、
情弱の老害が残っているだけ。 356日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:00:24.56
畿内説は何一つ魏志倭人伝と一致してないじゃん。
357日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:01:50.60
ぼくたちは、ただカッパなのではない
・・・こういう作品と同じ話、(年)老いたる何やらとか
358日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:03:46.76
>>245
>>神社建築にしか見えないw <
>つまりは「王宮」ということだな<
卑弥呼の、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
にはならんない。 359日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:04:17.44
歳、老いたる、う〜らしま〜。
これも同じだしな
360日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:05:24.50
プロ固定が、スレッドを活発化しようとすればするほど、スレッドがゴミ袋になってしまうのだったな。。。
361日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:10:13.48
『ワンピース 粉雪』?
『』?『』『』?『』・・・『』?
362日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:19:47.81
万葉集の梅の歌序にも松傾という言葉があったよな
ケチュア語のマチュ、アイヌ語のマク
マチュは年老いた
マクは奥、時間的に奥、古い、年老いた
松、マチュ、マク
363日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:22:07.31
『ワンピース 粉雪』(youtube動画)
確実に「こうたまん」による作品なんだろうけど
『ドリフターズ』
364日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:37:04.12
>>253
>天帝は天子ではない<
天帝は「天の帝」。天子は「天の子」。
>連弧文鏡は漢鏡の大部分を占める普及した鏡<
ふーん。 365日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:41:59.71
邪馬台国は日本書紀の権威づけに利用されたのだろう
つまり、邪馬台国は九州にあった
366日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:42:47.60
絵r
367日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:43:16.41
何十冊も読むと
368日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:43:45.17
>>255
>>周溝から出土した土器片(西新町式直前)から2世紀末ごろとされており<
>>周溝から出土した土器片(西新町式直前)から2世紀末ごろとされており<
>考古学的には一番新しいもので年代を比定するのが定石では?
仿製鏡が全国的に見られるのが4世紀以降なのに平原が2世紀後半はない。
3世紀後半から4世紀初めだよ。<
ふーん。 369日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:48:02.17
>>256
>卑弥呼と関係ないものであることを、まず具体的に論証してくれ!ww
根拠なしに否定する文字列を並べても無意味だっての
纏向遺跡の状況は、そこに3世紀における列島最大の祭祀王の座所があったことを示している
3世紀の倭国の宗教的権威の最高位が卑弥呼なのだから、纏向遺跡の主が卑弥呼であると
想定するのがもっとも自然<
「南≠東」などに拠って、×。 370日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:49:06.59
『デスラー』
『やくざてんぐ』(ヤクザではないけど、なぜか警察、警官と書いてあったり)
『』『』『』
371日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:50:59.05
>>365
俺もそう思うわ。魏志倭人伝の倭も九州だけの大国だとしたら、そこの首都が
邪馬台国であり、女王が卑弥呼。そうなると、大和が成立する以前にあった名前
さえ解らない本州最大の国が別に存在していた事になるのか。はたまた一つに
なり切れない小国達が争いまとまり切れていない危険地帯だっただけなのかもw 372日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:53:15.30
Ω+1とΩ−1は、大きさが2違うが、Ωで割ると、現実的には全く同じになってしまうのだったな、、、
373日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:54:37.97
天使(天子)という設定、キャラなのに、やくざ?警察?
その後?警察になったりしたのかな?
『未来警察うらしまん』何かの家なのかな?
374日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:54:48.80
>>372
つまり、邪馬台国畿内説は、完全な破綻に、限りなく近づいてしまったのだね。。 375日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:55:54.36
>>268
>古墳時代の開始年代から考えて、その2世代前の平原1号墓が2世紀末頃というのは
妥当な数字となる <
平原の21枚の「尚方作」という、
明帝の下賜鏡が元になった鏡の事を隠しているから、×。 376日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:56:35.50
プロ固定が、スレッドを活発化しようとすればするほど、スレッドが、生ゴミで一杯になったゴミ袋になってしまうのだったな。。。
377日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:56:54.34
『ドンバ』〜『シェリフ』『』みたいな作品だし、何か知っているのかな?
378日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:59:19.36
寒いな〜の家の子供の頃の写真
軍人、警官・・・不明、何か?の制服を着ているし
379日本@名無史さん2019/11/13(水) 22:59:35.30
邪馬台国畿内説を宣伝していた奥山氏が、呟きながら発狂してしまったな、、、
380日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:07:16.01
>>1=>>188
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>>巻向は大集落とする学者との整合性は? <<
整合性あるでしょ
大集落の定義には人口は必要ないから
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
↑
根本的に間違っていますよ
集落とは、人が住む家屋の集合した状態の場所のことを指す地理学的な概念ですよ 381日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:08:32.86
魏志倭人伝に登場する倭が九州だけの大国だと仮定すると、
当時は日本の一部として九州は認められていなかったのか!?
比較的安全な国であったから、魏の派遣団が行き来きたのか…
邪馬台国の人々が、本州に行く事を魏の派遣者を止めてたとしたら
命が危ない危険な争いが絶えなかったとも取れるんだよな...
そんな記述がまったく書かれていないから、倭=日本とされてたんだろうか・・・
382日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:12:08.40
ほとんど「こうたまん」(『ドリフターズ』)の作品でしょ?
何があったんだろう、別名義で活動しているとか?
383日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:15:36.26
日本書紀に登場しない邪馬台国は九州にあったから、
当時はまだ日本の中の位置づけに入ってさえいない島国だったから・・・
つまり、邪馬台国は九州にあった説はかなり正しいw
384日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:18:00.76
飯場
「人夫」や「土方」と呼ばれる出稼ぎなどの労働者が工事現場、もしくは近くに
泊まり込みで作業に従事する場所をさし
工事現場では、作業員が宿泊し食事と休息を得る施設として飯場があり、
宿舎も簡易的なものである。
385日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:34:03.73
記紀は神武より前に九州に王国があったことは認めているんだよな。
そして神武の実年代は実は卑弥呼の時代に限りなく近い。
つまり神代の王たちは筑紫倭国の王たちなんだろう。
筑紫の日向で禊をしたイザナギ、筑紫の日向に降臨した邇邇芸、高祖山に祭られている彦火火出見など。
386日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:41:32.99
『ウラシマン』
>主人公
>
>ジタンダ・フンダ
うらしまマリンと同じ
387日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:43:20.19
花札は中々面白いな
松に鶴、梅に鶯、桜に幕、藤に時鳥、牡丹に蝶、萩に猪、ススキに月or雁、菊にサカヅキ、柳に小野道風アメor燕、霧に鳳凰
桜に幕とはどういうことなんやろか
纒向、桜井、桜、幕はマク
388日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:48:26.08
『うらしまマリン』〜『地団駄』(ジタンダ・フンダ)
家の話なのかな?
龍宮〜傾いた松〜寒いな〜・・・の家で、
たしか子供の頃の・・・謎の写真でしょ・・・。
389日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:57:07.80
たしか馬に乗り、・・・みたいな事も言っていたし、老婆談w
390日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:57:57.74
391日本@名無史さん2019/11/13(水) 23:59:50.92
>>385
空白の150年に九州の邪馬台国があって卑弥呼伝説まで存在する
魏志倭人伝は日本の書物じゃないから、確実性は無いが、日本書紀にも
古事記にさえ名前すら登場しない邪馬台国は一体なぜ?九州に邪馬台国が
あったと仮定しても、なんらかの意図が邪魔をして隠してしまったとしか…
とにかく神話が好きな古代日本は、神秘の国として書かれ過ぎて、邪馬台国
や卑弥呼などはむしろ消え去られる運命だったのか!?
神話の一部として信憑性の乏しい者に名前を変えられて登場してるのか!?
曖昧な点が多いのも日本古来の書物の特徴。。 392日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:04:46.55
393日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:16:54.39
一応、魏に認められた倭が今の九州で、そこから本州へと伝わり大和国(日本)へと繋がってくんだろ
邪馬台国は礎となり大和誕生のきっかけを作ったのだが、本国統一でも王でもなく島国が魏に認められる
事への反感から、全て揉み消され、親魏倭王も闇に葬られたんだろうw
九州(邪馬台国)が3世紀頃の本州から大国と認められるはずも無いよな…
394日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:21:53.08
>>393
>九州(邪馬台国)が3世紀頃の本州から大国と認められるはずも無いよな…
ここが意味不明。
弥生時代において、九州北部が先進地域であり、本州は後進地域だ。
まして奴国は朝鮮半島なども含めた東夷の世界で最大の人口を擁する国邑だった。 395日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:26:41.20
>>351
>太陽信仰は、円鏡の反射面の話だろう。
つまり、三角縁神獣鏡でもいい訳だw
「内行花文鏡がー」というのは破綻していると、
ザラゴキレベルでも認めるくらいに論証されてしまったな 396日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:33:53.77
>>383
これとか・・・循環論法の典型だけど
九州説って
ばかだろ 397日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:34:31.61
魏志倭人伝にしか登場しない邪馬台国と卑弥呼
北九州が当時から開けてたのは知らなかったけど、その名前さえ後々登場しない
日本の古来書物も、なんか腑に落ちないくらいおかしいよな…
意図的に隠されているのかもしれん。なぜかは分からないけど、
邪馬台国程度なのに王国気取りなのがお気に召さなかったのかな・・・
398日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:38:49.20
邪馬台国と卑弥呼は天皇家誕生と神話伝説が現れた頃から歴史上抹殺されてるような気はするw
399日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:40:32.61
>>380
>集落とは、人が住む家屋の集合した状態の場所のことを指す地理学的な概念ですよ
おっさん「地理学的」って言っちゃって自滅してるよ
纒向遺跡を大集落だと言ってるのは考古学者だ
考古学では集落の定義には人口は必要ない 400日本@名無史さん2019/11/14(木) 00:59:13.94
>>399
どこのなんちゃって考古学者だよ。
クビにしろ。 401日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:00:08.47
そもそも卑弥呼は邪馬台国の女王ではない。
卑弥呼の王城があった場所が邪馬台国なだけで、卑弥呼自身は倭王だよ。
402日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:04:59.85
福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。
403日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:05:40.51
>>314
まだ区分用の柵を城柵と言ってるのかw
苦し紛れに言ってるのかと思ってたけど、
割と真剣みたいだなw 404日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:06:11.18
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
405日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:07:43.09
>>314
それは城柵ではなく玉垣だろう。
近所の家の柵と大してかわらない規模だけどね。 406日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:09:29.68
>>318
ホケノ山古墳はその九州の破鏡文化の
影響を強く受けてる墓だな。
大和王権の王が何処から来たかよくわかる事例だな。 407日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:14:35.15
>>397
>北九州が当時から開けてたのは知らなかったけど、その名前さえ後々登場しない
本気で知らなかったのか。
弥生文化の発祥の地、最初に稲作が開始されたのが九州北部の玄界灘沿岸なんだよ。
大陸や半島から鉄や銅を輸入し加工するのも九州北部。
博多湾を舞台に成立した銅鏡銅矛製鉄を特徴とする稲作弥生文化が西日本と東日本を席巻した。
纒向は数百年単位で遅れている。 408日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:18:38.84
とあるスレを読んだことがあるでしょ?
皇国〜(不明)〜何やらとか、
そういう活動していると逮捕されたりするとか、
なぜなんだろ
409日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:20:13.71
実際(いま)はそうなんだよw
みたいな事を言っている人がいたり
410日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:22:29.39
頭が悪いんだろうw
それにしても・・・漫画やアニメ・・・など?
家の話なのかな
411日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:27:35.51
ホンモノなんだろう?という話
龍宮〜何やら〜傾いた松・・・w家の話
412日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:31:47.79
倭国=九州とその周辺に滞在する島々と考えられる
なので、邪馬台国は今の九州周辺のみの大国という認識で
魏国は見ていたのだろう。大和朝廷が始まった頃からようやく本州にも
日の丸が差し始めた。小さい大国が倭国だった頃の卑弥呼王が後々登場して
語られる事も実際は無く。やはり天皇家誕生と、神話の時代の突入により
歴史の闇に葬られた邪馬台国伝説ってとこだろw
413日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:34:49.39
>>323
お前が嘘つきだよ。
中国では見られない大型の内向花紋鏡が
日本全国で出てくるのが4世紀以降 414日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:35:02.62
本当に、
一部の漫画やアニメ、ゲーム・・・芸能、メディアなど、
家の話なのかな
415日本@名無史さん2019/11/14(木) 01:52:47.42
『ジタンダ・フンダ』
ほとんど合致している
416日本@名無史さん2019/11/14(木) 06:08:07.87
>>38
>考古学では集落の定義には人口は必要ない<
↑
どこで調べたの?誰が言ってるの? 417日本@名無史さん2019/11/14(木) 06:13:24.50
>>406
>ホケノ山古墳はその九州の破鏡文化の
>影響を強く受けてる墓だな。
>大和王権の王が何処から来たかよくわかる事例だな。
つまらん冗談だな
破鏡なんて2世紀のうちに関東まで広がっている
つまり九州説は
天皇がカレー食ったらインド人だー天皇家はインドから来たのだーと吹聴するような
痴呆ってことだ 418日本@名無史さん2019/11/14(木) 06:20:49.05
間違いゴメン
>>399
>考古学では集落の定義には人口は必要ない<
↑
どこで調べたの?誰が言ってるの?
集落という言葉を誤解釈する考古学者はいないと思うが・・・・・
集落に人はつきもの いわんや大集落となれば・・・・・・
419日本@名無史さん2019/11/14(木) 06:35:06.74
>>399
>おっさん「地理学的」って言っちゃって自滅してるよ <
お爺さん「集落地理学」も知らないとは自滅してるよ 420日本@名無史さん2019/11/14(木) 06:43:01.06
>>417
記紀で神武は筑紫から来たと明言している。 421日本@名無史さん2019/11/14(木) 06:59:17.81
平原遺跡から鉄が出土してるのだが・・・・
巻向はなぜ出土しないの?
422日本@名無史さん2019/11/14(木) 07:34:07.26
>>405
>それは城柵ではなく玉垣だろう。
玉垣という概念のない人は玉垣とは書かない
大陸の感覚では、王がいるところは王城であり王城を囲む柵は城柵と書かれるのが当然
まあ、卑弥呼の遣使の頃の居館域はより東側の尾崎花地区に移っているから、
魏使の見た城柵は尾崎花地区のものだろうけれど 423日本@名無史さん2019/11/14(木) 07:39:17.28
>>407
>弥生文化の発祥の地、最初に稲作が開始されたのが九州北部の玄界灘沿岸なんだよ。
>大陸や半島から鉄や銅を輸入し加工するのも九州北部。
それがド没落して、その後に邪馬台国時代が来るんだよ
時代が合わないところを誇ってどうする?ww
>纒向は数百年単位で遅れている。
北部九州がぶいぶい言わせてたのが、紀元前から1世紀の頃
2世紀半ばには没落が始まっている
紀元前から何百年か経って、2世紀から3世紀に纒向が倭国の中心になるってのは、
>>407の言い分にも合ってるぞwww 424日本@名無史さん2019/11/14(木) 07:49:32.13
>>416
>どこで調べたの?誰が言ってるの?
【集落】
「常時逗留するものばかりとは限らず、逗留期間に長短があったり、特定の季節を選んで居住する場合もある。」
「居住跡2,3棟のものから、100棟を超えるものもあり」(日本考古学辞典 三省堂) 425日本@名無史さん2019/11/14(木) 07:50:51.47
426日本@名無史さん2019/11/14(木) 07:52:34.26
まだやってるのか、ここ
もう纏向で決まっただろ
427日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:10:28.14
>>417
副葬品としての破鏡だ。
わざわざ鏡を割って副葬する文化だよ。
やけくそになってレスが雑だぞw
自演も増えたし本格的におかしくなってきた 428日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:12:43.03
>>413
>中国では見られない大型の内向花紋鏡が
>日本全国で出てくるのが4世紀以降
つまり、平原1号墓が卑弥呼の墓ってのは完全に諦めるんだな?ww
九州説のやつは目先の言い逃れのために何が議論の中心なのかも忘れて、整合性のないことを顔真っ赤で喚き始めるww 429日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:18:06.75
430日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:19:47.72
>>427
>副葬品としての破鏡だ。
3世紀前半に名古屋、静岡、千葉まで波及しているが?
それらに王が九州から来たと?
おばかさんですね九州説 431日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:20:03.66
432日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:20:32.76
433日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:21:10.34
>>427
>わざわざ鏡を割って副葬する文化だよ。
西日本にも東日本にもあっただろ? 434日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:21:30.42
>>426
そうだよ
纏向は古墳造営基地で決定したみたい 435日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:22:03.43
>>413
>中国では見られない大型の内向花紋鏡が
>日本全国で出てくるのが4世紀以降
つまり、平原1号墓が2世紀ってのは完全に諦めるんだな?ww
畿内説のやつは目先の言い逃れのために何が議論の中心なのかも忘れて、整合性のないことを顔真っ赤で喚き始めるww 436日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:23:21.83
>>427
>副葬品としての破鏡だ。
3世紀前半に名古屋、静岡、千葉まで波及しているが?
それなのに伊都国だけの風習だと?
おばかさんですね畿内説w
自分たちが批判されているのに、それをそのまま返してどうするw 437日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:26:59.64
>>436
奥山はネット情報のチェリーピッキングしか出来ないニートだから 438日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:30:18.85
>>424
巻向遺跡は大集落と言っているよまた、短期間でなく100年は存在したのでしょ
また
飯場も集落で良いということになるね 439日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:32:08.57
>>421
>巻向はなぜ出土しないの?
出土してるよ?
鉄鍛冶遺跡も出てるし、埋葬主体が発掘できた古墳のすべてで鉄器は大量に出ている 440日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:35:18.06
>>424
つまり、巻向は
・・・・…・…・・…・…・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【集落】
「常時逗留するものばかりとは限らず、逗留期間に長短があったり、特定の季節を選んで居住する場合もある。」
「居住跡2,3棟のものから、100棟を超えるものもあり」(日本考古学辞典 三省堂)
・・・・・…・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
の間尺に合わない 441日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:35:24.28
奥山説を要約するとこうだ
古墳造営サービス業者が国を統治したと考える。
纏向には住居がないのは工事要員はみな各地から通勤していたからである。
ただし東海からの出張者達はその辺で野宿をしていた。→魚や猪の骨
大型建物は宮殿だが、誰も住んではいなかった。
442日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:35:39.49
テンプレがヘボすぎて草
畿内説で我こそはと思う人間が書き直した方がいい。
それができないなら、もう畿内説は風前の灯だ。
443日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:36:41.88
>>430
>3世紀前半に名古屋、静岡、千葉まで波及しているが?
嘘か本当か知らんが、じゃあ破鏡を副葬する
文化というのは取り下げるわ。
大量の鏡を副葬する文化は中国にも無く、九州から畿内に伝わった。
畿内の王がどこから来たかよくわかるな 444日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:38:39.97
>>439
マキムク遺跡内の鉄が出た古墳の年代は?また、その根拠は? 445日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:43:44.20
0.36788、、、とは、どのような物事の近似値なのだろうか。。。
446日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:43:53.84
黒塚古墳はマキムク遺跡内?
447日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:46:45.71
>>271
>尾崎花地区の城柵と、辻地区の大型建物跡は時代が異なるというのが
現在の見方であり、居館域が辻地区から尾崎花地区に移ったというのが通説<
その「移った」という通説の根拠は何で、
それぞれの時代の時期やその根拠は何なんだ?。 448日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:49:17.21
>>444
ホケノ山古墳
豊岡編年纏向3類
3世紀第二四半期 449日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:51:20.97
天理市も巻向遺跡に広める畿内説ってか?
黒塚から鉄器がでてるが、巻向衰退以降の古墳じゃなかったっけ
450日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:52:45.47
>>278
>三角縁神獣鏡の鋳型は出てないからねぇ
伝承から見れば、唐子鍵近くの鏡作神社や、和歌山の日前神宮・國懸神宮に
八咫鏡の前に、試作品を作ったという伝承がある<
ふーん。 451日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:53:15.12
ホケノ山という名前の、4世紀に出現した古墳には、何者の死体が封印されたのだろうか。。。
452日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:55:07.36
453日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:56:01.56
>>284
また、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ひとことも理由を言わずに断定するんだね
何故「ダブスタ」にならないのかならない?も言わない
内容なき誹謗
それが?大和説なのか? 454日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:56:43.16
巻向に小集落があり多くの土木作業員は簡易的な粗末なところに住んでいたでいいんでねーの
455日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:56:57.71
>>451
滅ぼされた大物主神の、妻の関係者なのではないのかな。。。 456日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:57:29.01
0.36788、、、とは、どのような物事の近似値なのだろうか。。。
457日本@名無史さん2019/11/14(木) 08:58:18.95
「奧山氏」≒0.36788、、、なのだろうか。。。
458日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:00:25.88
何者かが思考を停止して、仮に出現させてしまった、∞という記号は、実在する物事を表現した記号なのだろうか、、、
459日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:01:41.50
炭素年代のお好きな畿内説の方へ
ホケノ山古墳
「奈良県立橿原考古学研究所は、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、
出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、
木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告している」
460日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:01:48.88
何者かが思考を停止して、仮に出現させてしまった、邪馬台国畿内説いう仮説は、実在した物事を表現した仮説なのだろうか、、、
461日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:04:21.99
>>288
>平原の鏡は何世紀?<
壹與が卑弥呼から相続した鏡が大半だから、おそらく248年以前の鏡であり、
壹與が亡くなったのは266年の西晋武帝の話の後で、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与の後にもなるから、おそらく270年頃。 462日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:04:27.89
>>420
>記紀で神武は筑紫から来たと明言している。
その「筑紫」ってどこ? @阿波 463日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:10:05.80
炭素年代が正しいのならホケノは4世紀だね
464日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:14:59.82
何者かが思考を停止して、仮に出現させてしまった、limや→という記号は、意味のある操作を表現した記号なのだろうか、、、
465日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:16:21.81
無という物事は無いのだったな。。。
466日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:17:05.28
物事はブレるので存在するのだったね。。。
467日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:17:21.98
>>463
という理由がないな
九州説はいつも理由がない
宗教? 468日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:19:20.07
lim「奧山氏→自殺体」奧山氏=奧山氏
469日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:20:54.46
奧山氏が自殺体にならない理由は、いつも、何もないのだったな。。。
470日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:21:50.74
奧山氏が自殺体にならない理由は、いつも、何もないが奧山氏は生きているのではないのかな、、、
宗教なのだろうか、、、
471日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:23:55.03
今朝のスレッドでの討論の議題は、荒野の薪と近しい物事なのだろうか、、、
463日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:10:05.80
炭素年代が正しいのならホケノは4世紀だね
472日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:23:55.34
>>459
>木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告している」
それ、ニセ情報だよね
どうして九州説はいつもウソつくの? 473日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:25:35.36
>>471
なぜ九州説は絶対に証拠を出さないのだろうね
詐欺師だからかな? 474日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:25:41.32
>>471
荒野の薪ではなく、樹齢600年のコウヤマキの話題なのではないのかな。。。
463日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:10:05.80
炭素年代が正しいのならホケノは4世紀だね 475日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:26:53.25
邪馬台国畿内説には、証拠が全くないのだったな。。。
476日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:28:18.46
>>475
何者かが思考を停止して、証拠が全くないまま、仮に出現させてしまった、邪馬台国畿内説いう仮説は、実在した物事を表現していない仮説なのだったな。。。 477日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:29:55.02
今朝は、八村塁氏が闘うのだったな。。。
478日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:32:47.86
>>474
ひたすら嘘を連呼するしかなくなった
九州説が悲惨すぎる 4791 ◆UiepmfCeDJqf 2019/11/14(木) 09:47:32.46
考古学的事実に基づき、畿内説をまとめてみた。
新しいテンプレにしようかと考えておりますので、一読をお願いいたします。
畿内における3世紀とは、邪馬台国という古墳造営サービス業者が東海を中心に各地から日雇い労働者をかき集め、各地方豪族の墓の用地確保〜建造〜祭祀〜保守までを請け負っていた時代である。
それなりの人員が必要だったにも関わらず纏向遺跡では住居跡がほとんど出土しない。
発見された3棟の大型建物の床下からは東海産の飯炊き甕が出土しており、この建物が遠方から来た労働者達の為の宿であった事がうかがえる。
その他河内などに住む労働者達は、大和川の通勤小舟で通っていたと言われている。(奥山談)
畿内の古墳造営サービス業者の主力商品は前方後円墳(改)であり、その営業活動は山陰や北部九州にまで及び、やがて全国広域に広まった。
4世紀半ば頃、半島から入植してきた外資系の同業者が馬を使った高効率なサービス提供を開始したため、邪馬台国は敗北し吸収され、消滅した。
飛鳥に根をおろしたこの外資系業者が、「ヤマト王権」の源となったのである。
480日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:47:33.69
>>307
>という状況下において、他のどの候補よりも高い蓋然性が畿内説にあることを示せば十分<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、大和説は「南≠東」や、
「九州倭国の東征毛人五十五國の、別種の旧小国」などで、根本的に×だ。
>そして、その蓋然性は、纏向遺跡が列島の広域の交流の中心であること(ありえないほど高率、広域の搬入土器)
>纏向遺跡が祭祀中心であること(大型祭祀土坑及び祭祀土坑での多数の搬入土器)<
筑紫土器が無く、楽浪や中国の搬入物も殆どないから×だ。
>最大の墳丘墓の存在(纏向石塚古墳以降の100メートル級纏向型前方後円墳)
その年代が、2世紀末から3世紀前半に既に存在していたことの証明(桃核の14C年代) と、これだけの実物証拠で示される訳だ<
文献と考古からは、3世紀末以後であり、
桃核の14C年代でも計測方法の稚拙さやプラズマ化の失敗によri3世紀末以後位にしかならない。
>「平原1号墓出土鏡が八咫鏡」が否定され(円周長を図る意味がない、咫が伝わっていない)<
「咫」は周代から現代まで伝わっているし、おそらく、内行花文鏡の花弁中心を通る円の円周長だな。
>「内行花文鏡は太陽信仰のシンボル」が否定され、糸くず説には何一つ根拠が残っていないw<
内行花文鏡の反射面側が昼間の太陽信仰のシンボルであり、裏面が、北極を中心とする十二支や8方位や、「九州」支配思想の表現だ。 481日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:50:08.98
纒向遺跡に天理市を含めないのは、桜井市の宗教団体の意向だろ?
482日本@名無史さん2019/11/14(木) 09:52:24.19
>>438
複数の年代の遺跡を、近くにあるからといって同じ纒向遺跡としただけ。
詐欺みたいなもの。 483日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:00:52.49
>>482
だという証拠は?
また九州説は根拠もないことを
口先で言い張るだけ? 484日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:06:11.52
今日のワシントンは、調子が良いのではないのかな。。。
485日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:07:46.16
>>474
そもそも、炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って、炭素年代法が正しいと仮定するなら、
ホケノ山古墳の棺は、3世紀中頃の年輪を含む、それ以降に伐採された樹齢数百年の高野槙で、作製されたという事が、判明しただけなのだったな。。。 486日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:15:33.51
487日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:16:06.01
>>474
そもそも、炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って、炭素年代法が正しいと仮定するなら、
ホケノ山古墳の棺は、3世紀中頃の年輪を含む、それ以降に伐採された樹齢数百年の高野槙で、作製されたという事が、判明しただけなのだったな。。。 488日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:16:36.43
1-1+1-1+1-・・・
489日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:16:58.04
490日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:19:59.96
>>42
>まだやってるのか、ここ
>もう纏向で決まっただろ
決まってるんだけど、それを認められない情弱おじいちゃんが数名、意固地になって頑張っちゃってるんだよ
困ったもんだ 491日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:20:40.37
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
ある仮想空間上に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」のか、それとも、そうではないのかを討論するための、結論が出るまで続く討論会「魏志倭人伝時代についての討論会」があったとします。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」です。
この討論会での結論を、「真実」と仮に定義します。
この意見の発表は続きます。。。
492日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:21:08.49
現実に生きている僕達と奧山氏は、仮想空間上にある「魏志倭人伝時代についての討論会」の結論がどうなるのかを、数学的に考えるために、
「真実」と「邪馬台国畿内説は破綻した。」は、ある実数で表現することにします。
「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1
と置き換えます。。。
「魏志倭人伝時代についての討論」においての最初の発言は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」だったので、この時点で、
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1です。
ルールがあります。。。
「真実」=1である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をして、「邪馬台国畿内説は破綻した。」を否定するしかありません。
つまり、「真実」=1である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という意見を積み重ねても、「真実」=1のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1である間「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論があったときには、「真実」の値には-1が加算されます。。。
「真実」=0である間は、この値を別の値に変換するためには、「邪馬台国畿内説は破綻した。」と発言するしかありません。。。つまり、「真実」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」に対して有効な反論をしても、「真実」=0のままです。。。
「真実」=「邪馬台国畿内説は破綻した。」=0である間は、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という発言があったときには、「真実」の値には1が加算されます。。。
すなわち、「魏志倭人伝時代についての討論会」では、
「真実」=1-1+1-1+1-1+・・・
というように「真実」の値が変化します。。。
僕達の頭の良い孫娘だけではなく、頭の悪い奧山氏も、以下の問題を考えて下さい。。。
数学的に、仮想空間上にある「真実」の値を、ある値に収斂させることはできるでしょうか、、、
493日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:22:26.36
纏向の垣根はそれすら怪しいもの。
隙間だらけの柵でイノシシよけにすらならないようなもの。
馬でも飼ってたんじゃないかな?w
494日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:22:29.96
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
495日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:22:49.75
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
496日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:25:02.60
>>308
>>平原の鏡は後漢鏡より新しく、倭国大乱より後の形式だ <
>仿製鏡に何を言っても無駄 <
「仿製鏡」という文言がそもそもインチキだ。
筑紫の鏡の中の「純然たる仿製鏡」は、立岩の鏡など少しであり、
大半は、中国や半島からの伝来鏡や、明帝の下賜の銅鏡百枚や、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、平原鏡も殆ど呉系楽浪鏡師らの関与鏡だ。
そして、大和のホケノの画文帯はおそらく3世紀末の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
大和の△は、呉系楽浪鏡師らに教育された大和の子弟らによる、副葬用の粗悪な△だ。
>それに「倭国大乱より後の形式」はうそだぞww<
倭国大乱なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
卑弥呼の頃に先に呉系楽浪鏡師らが渡来して来て、そこへ明帝の下賜銅鏡百枚が入って来たのだ。
適当なことを言ってもすぐにばれる。 497日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:25:08.98
>>479
なかなか正確な、テンプレでは、ないのかな。。。 498日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:25:14.61
では、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事を、実数1で表現したとき、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事は、どのように表現すれば良いのだろうか、、、
499日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:26:59.41
いつの間にか、八村塁氏が戻っているな。。。
500日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:27:43.11
アシストが記録された可能性が、高いな。。。
501日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:28:26.65
筑紫って月支だろ。後からつけた名で卑弥呼のときはそう呼ばれていないな。倭人領域は中国や半島混乱と共に南下したんだよ。神武東征なんて半島から東に来たんだろ、たたら姫は狗邪韓国の多々羅邑のお嬢さんだろ?
502日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:32:32.59
>>452
>それ全部4世紀のものだから
このように広く認められている編年を南の根拠もなくすべてご都合主義で否定しないといけないんだから九州説は大変だ 503日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:32:50.99
考古学的証拠には形があります。
吉野ヶ里の警備厳重な城柵
纒向の妄想された城柵(垣根)
504日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:38:04.96
>>502
纏向の鉄鍛冶は4世紀だよ。
それ以外の遺物もほとんどが4世紀だよ。
今のところ3世紀であると言われているのは桃核だけ。 505日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:39:09.28
>>493
>隙間だらけの柵でイノシシよけにすらならないようなもの。
つまり、物理的な障壁として設けられたものではなく、祭祀王の居所を聖別するための区画を示す目的だったということだな 506日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:39:29.33
>>474
そもそも、炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って、炭素年代法が正しいと仮定するなら、
ホケノ山古墳の棺は、3世紀中頃の年輪を含む、それ以降に伐採された樹齢数百年の高野槙で、作製されたという事が、判明しただけなのだったな。。。 507日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:40:43.38
「魏志倭人伝時代についての討論会」では、
「真実」=1-1+1-1+1-1+・・・
というように「真実」の値が変化します。。。
508日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:41:29.92
もしかして奥山氏は纏向遺跡を見たことがないのではないか?
「鍛冶の遺物は、領域が拡大した第2次纒向遺跡時代の3世紀後半段階にならないと見つかっていない」
509日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:41:48.96
「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事を、実数1で表現したとき、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事は、どのように表現すれば良いのだろうか、、、
510日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:42:41.15
510
511日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:43:59.76
勝てないチームに所属して奮闘している八村塁氏は、幸せなのだろうか。。。
512日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:44:32.92
>>505
その聖域から東海産ドカタ御用達の飯炊き瓷が出土するわけだが、何の聖域なんだ?w 513日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:45:52.55
>>509
僕達が昨日考えたその続きを、先程見つけたのだが、また見失ってしまったな。。 514日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:47:34.52
銅鏡に詳しい人に聞く
『1世紀後半の中国の後漢鏡が、なぜかその200年もあとの3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から大量に出土している』
515日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:48:11.66
ところで、纏向の掘立柱と同時に存在した前方後円墳があるという証拠は、あるのだろうか、、、
516日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:49:37.56
>>513
僕達は、∞という記号で表された物事なしで、考えたいのだったね。。。 517日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:52:36.27
邪馬台国だった吉野ヶ里が放っていたニニギの一族である物部と海人族が尾張と河内に拠点を築く
出雲が支配していた未開地の奈良を移住地に設定し、
奈良盆地に邪馬台国の祭祀を移動させたためヤマトの名が引き継がれる
と考えるのは自然と思うが
その後出雲はじめ各地の海人族の拠点は淘汰され王権が確立したと
518日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:59:00.77
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
これは卑弥呼の居所に関する記述で
異人コマビト地区にある日本の中の古代韓国吉野ヶ里遺跡のような
集落全体を囲んだ柵ではない
519日本@名無史さん2019/11/14(木) 10:59:21.90
東海・伊勢の猿田彦が纏向を造って九州勢を招いた。
というのもある。
520日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:00:52.13
>>518
纏向は全体的に無防備だから柵の話は出さない方が無難だぞw 521日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:01:34.38
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
522日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:02:48.73
>>520
佐賀人の考えることと日本人の考えることは違う 523日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:04:57.13
>>511
奧山氏が、魏志倭人伝時代の討論を、破綻した邪馬台国畿内説の立場でも楽しんでいるように、
八村氏も、NBAでのバスケットボールの闘いを楽しんでいるので、幸せなのではないのかな。。。 524日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:06:25.61
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏は、スレッドを活発化することも、楽しんでいるのだったな。。。
525日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:06:29.81
>>522
DNAが示すように、
縄文系西九州人の考えることと朝鮮系関西人の考えることが違うのは確かだw 526日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:11:05.07
>>525
佐賀では朝鮮人陶工が苗字帯刀を許されて
庶民より上の立場だった 527日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:12:46.19
528日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:13:25.10
ツングース → スシェン → ジュルチ
ツングース → ツグス → ツクシ
529日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:13:57.64
>>526
>朝鮮人陶工
陶芸はやはり朝鮮人のものだよ。
現実的にこれは認めるべき。 530日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:14:39.75
朝鮮人の奧山氏が、駄洒落を披露しているな。。。
531日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:15:29.00
新人は、ファールの判定を下されやすいのだったな。。。
532日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:19:01.55
帥升王→スサノオ
533日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:20:21.66
>>529
陶芸にもいろいろある
佐賀では朝鮮人、というか佐賀は他に何もない 534日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:23:17.18
柔道の内柴、剣道の正代
535日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:26:42.23
536日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:31:01.37
>>517
物部氏と尾張氏は、ニニギではなくニギハヤヒの末裔です。 537日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:31:58.88
宋史日本国伝
其《年代紀》所記云:
初主號天御中主。
次曰天村雲尊,其後皆以『尊』爲號。
次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,
次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,
次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彥瀲尊,
凡二十三世,並都於築紫日向宮。
彥瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
538日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:36:28.03
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
539日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:39:44.09
>>312
>辻地区の建物跡は、柱を抜いた後の柱穴に土器を入れて破砕
供献した祭祀跡が確認されているから
それが庄内期の土器だから、布留0よりも前<
庄内と小型丸底は、重複時期があり、「布留0」よりも前、かどうかは判らない。
また「柱を抜いた後の柱穴に土器を入れて破砕」では、
使用済みで不要になった土器であり、
尾崎花との先後の根拠になっていない。 540日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:45:45.73
>>459
>木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告している」
うそつきだよね〜
ホケノ山古墳の14C年代 西暦に換算済み
木棺
小片 No1 22―――――――244
小片 No2 1―――――181
小片 No3 20―――――219
小片 No4 BC4―――134
小片 No5 55―――――237
南西の添え柱
BC210――――BC50
小枝 250――300 320――420
木棺は3世紀前半で収まる
木槨は測定していない
添え柱が木槨を支えるものだから、木槨とはこれのことだと強弁することは可能だが
その場合14C年代は紀元前になる
4世紀ってのは小枝の年代だと思うが、小枝の2試料で、重なる部分がなく
100年異なる値を示している 541日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:48:50.43
>>314
>残念ながら、ちゃんと柵列の穴が出土しているからねぇ 柵があったのは確定
それを城柵と呼びたくないのが九州説ってだけww<
>残念ながら、ちゃんと柵列の穴が出土しているからねぇ 柵があったのは確定
それを城柵と呼びたくないのが九州説ってだけww<
柵があっても
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
にピッタリのものか?も判らず、時期も合っているのか?も判らず、
「南≠東」などに拠って、始めから、×。 542日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:55:27.58
八村塁氏は、心を込めて闘っているな。。。
543日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:56:08.62
>>474
そもそも、炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って、炭素年代法が正しいと仮定するなら、
ホケノ山古墳の棺は、3世紀中頃の年輪を含む、それ以降に伐採された樹齢数百年の高野槙で、作製されたという事が、判明しただけなのだったな。。。 544日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:58:11.44
>>512
>その聖域から東海産ドカタ御用達の飯炊き瓷が出土するわけだが
つまり、「東海産ドカタ御用達の飯炊き甕」というのが間違っている訳だな
纏向で行われる国家祭祀・大型祭祀土坑で妻子に用いる供献土器として
持ち込まれたものだ
飯炊き甕が使われるのは、神人共食(しんじんきょうしょく、共食いじゃないよ)の
思想を示すものかもしれない
おまけで、東海産と言っているのは「伊勢・東海系」でむしろ伊勢が多い 545日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:00:09.16
>>467
「奈良県立橿原考古学研究所は、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、
出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、
木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告している」 546日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:01:53.52
>>317
>どの時期の内行花文鏡、連弧文鏡と比べてもできが悪いよ?
図像の面では、これがない時点で全ての内行花文鏡とは区別される劣化コピーだとばれる
また、鋳物で巣が入ってるなんてのは、王権の鏡としてありえないww
ただ大きくすることだけが目的のできの悪い手抜き鏡なのは、
多くの鏡を見た人にはすぐに分かることw <
当然、副葬用の鏡片が多く出きる事が目的であり、
多少の「錆色塗装」で見栄えを良くして上げた、という、呉系楽浪鏡師らの配慮鏡。 547日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:02:31.47
>>529
>陶芸はやはり朝鮮人のものだよ。
>現実的にこれは認めるべき。
この人はいつも半島ageだけれど、在日の人かな?w
織部や瀬戸焼は陶芸じゃないってか?w 548日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:02:55.09
549日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:06:17.94
奥山は✖ 理由は述べてあるのにスルーし自分勝手なことを言う
お前みたいな奴が畿内説にいっぱいいるんだろうな
大集落の定義も説明できてないじゃん
550日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:07:08.97
>>536
>物部氏と尾張氏は、ニニギではなくニギハヤヒの末裔です。
物部氏も尾張氏も、ニニギもニギハヤヒも、 「忌部はん」 の末裔です。 @阿波 551日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:07:29.42
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
552日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:07:58.78
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏は、スレッドを活発化することも、楽しんでいるのだったな。。。
553日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:09:11.48
>>506
>纏向で行われる国家祭祀・大型祭祀土坑で妻子に用いる供献土器として
持ち込まれたものだ <
身勝手な推測だよ、裏付けがとれていない。 554日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:11:02.58
>>536
>物部氏と尾張氏は、ニニギではなくニギハヤヒの末裔です。
物部氏も尾張氏も、ニニギもニギハヤヒも、 「忌部はん」 の末裔です。 @阿波 555日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:11:49.28
訂正
>>544
>纏向で行われる国家祭祀・大型祭祀土坑で妻子に用いる供献土器として
持ち込まれたものだ <
身勝手な推測だよ、裏付けがとれていない。 556日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:12:24.40
奥山は未解決の課題についてもいい加減な言い訳で穴埋めしようとするよね
それがまさに反日韓国人のリアクションとそっくりで笑えない
マジキチだろ
557日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:13:40.67
大物主伸はカエルを好んで食べたことがバレたので、倭国の派遣した鎮魂係員達から、蛇神だと言われたのだったな。。。
558日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:14:51.48
>>522
イミフ
佐賀人も日本人だし・・・私は佐賀県民じゃないけどね 559日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:15:02.66
560日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:16:23.93
>>544
>纏向で行われる国家祭祀・大型祭祀土坑で妻子に用いる供献土器として
畿内説によく見られる異常なバイアス発言w
ドカタを賄う飯炊き瓷であり、桃はドカタのおやつ。
これが現実だw 561日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:16:34.03
>>547
色眼鏡で主張しても、誰も耳をかさなくなるだけだ。
キナイコシの書き込みは品性がない。 562日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:16:53.71
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏は、スレッドを活発化することも、楽しんでいるのだったな。。。
563日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:19:51.86
>>545
それ、ウィキペディアの記述だよな?ww
そして、2008年(平成20年)の発掘調査報告書はこれ
奥山誠義 2008「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の 14C 年代測定」
『ホケノ山古墳の研究』奈良県立橿原考古学研究所研究成果第 10 冊,奈良県立橿原考古学研究所,pp.191–192
その測定データというのはこれ
奥山2008で測定しているのは「小枝」であって「木槨木材」ではないwwww
結局はこれのこと
ホケノ山古墳の14C年代 西暦に換算済み
木棺
小片 No1 22―――――――244
小片 No2 1―――――181
小片 No3 20―――――219
小片 No4 BC4―――134
小片 No5 55―――――237
南西の添え柱
BC210――――BC50
小枝 250――300 320――420 ←これ
ウィキペディアの記述はあてにならないよw
特に邪馬台国関連の話題は九州説がデタラメ編集をしているからねw 564日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:21:57.24
>>561
色眼鏡で山門の信号機を主張してるのがお前だろ 565日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:22:35.47
>>562
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏は、自分の体験から、一部の日本国民が朝鮮民族を嫌っていることを知ったので、
日本国民に向かって、貴方は朝鮮人である、と根拠のない嘘を言い放ち、嫌がる相手を見つけ、嫌がらせることも楽しんでいるのだったな。。。 566日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:23:17.35
>>474
そもそも、炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って、炭素年代法が正しいと仮定するなら、
ホケノ山古墳の棺は、3世紀中頃の年輪を含む、それ以降に伐採された樹齢数百年の高野槙で、作製されたという事が、判明しただけなのだったな。。。 567日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:25:36.70
畿内説の諸君
マキムクに3世紀に人がいないとは誰も言ってないよ。
3世紀のものが見つかる可能性は全国各地にあるよ
なぜなら、3世紀に全国各地に人はいたのだから・・・
要は倭人伝に記述されたもので、3世紀と断定できるものの多寡だよ
桃なんて、倭人伝にでてこないし
568日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:25:49.25
>>566
無知な奧山氏は、年輪に無関係に、高野槙が樹木全体で一斉に炭素固定すると考えているのだったね。。。 569日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:28:23.65
なるほど、、、
ウィザーズは今年最下位になった方が、来年以降は、強力なチームに生まれ変わる可能性が高まるのだな。。。
570日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:28:34.90
570
571日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:29:54.33
バンビシャスの闘っている、経営者にとっては、過酷なリーグと違い、NBAには降格という物事が無いのだね。。。
572日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:31:07.58
>>569
最も強力な新人を、入隊させることができるのだな。。。 573日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:33:35.80
九州雑多作り話は比定地をまず絞らないと
動物園みたいな造りのガジン地区古代韓国とか大村チビ族地域の合わせ鍛え盗品鉄器とか
漢鏡多数副葬の博多湾沿岸にないものを持ち出す
574日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:34:58.08
俺はもう畿内説信者が朝鮮人にしか見えなくなってきたなw
仮定の上に想像を重ね、妄想世界を創り上げてそれを基準に答えてくるから意思疎通が出来ない
575日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:35:34.98
バンビシャスは、闘っているリーグのレベルを維持することを目標に、人気を高めることが必要なのだったな。。。
576日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:37:03.91
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
577日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:38:31.91
578日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:39:03.55
>>564
ハズレ。
九州説だが、信号機には賛成していない。 579日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:39:45.11
信号機とは、どのような物事なのだろうか、、、
580日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:39:56.51
581日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:40:13.67
>>573
ちょっと何を言っているのかわからないな。
日本語でオケ 582日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:42:29.24
>>581
一般の福岡人と肥人地域県民が会話できるようになったのは
だいたい昭和の後半くらい 583日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:43:36.69
倭人とは、揚子江上流域から下って上海付近に来訪し、人口が爆発的に増加した民族が、一部、海洋民族となった者達なのだったな。。。
584日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:45:31.88
585日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:45:53.64
>>563
面白い資料ですね
木棺 の小片がBC4〜237年をどう説明するかがわかりませんが
古材と新材を使用して作った????王?の墓ならそれは無いだろうが・・・・ 586日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:46:34.06
>>583
僕達の関心は、倭人に滅ぼされた銅鐸王国の人民が、倭人だったのか、、、それとも、別の者達なのかという事なのだったね。。。 587日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:47:14.92
信号機とは、どのような物事なのだろうか、、、
588日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:48:26.35
このように九州で本州の文化を早く受け入れた筑前と
下のほうとの境界地帯ではアクセントが崩壊してしまっている
589日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:49:34.89
>>146
既存の数学の表記の仕方は、一旦棚に上げて、0という物事を定義し直せば良いのではないのかな。。。 590日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:50:00.61
>>147
奧山氏の存在するこの世界の全ての可能性を、別の世界で、完全に記述するために必要な標準模型素粒子の総数をΩと仮定します。
つまりΩは巨大な正の整数です。
今、0を二つに分けて定義します。
つまり、0=-1/Ωまたは1/Ωです。 591日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:50:10.13
>>560
九州説による異常なバイアス発言
↓
>ドカタを賄う飯炊き瓷であり、桃はドカタのおやつ。
>これが現実だw 592日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:51:31.30
>>513
僕達は、∞という記号で表された物事なしで、考えたいのだったね。。。 593日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:52:08.36
全ての実数が、定義し直されます。。。
594日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:52:28.13
1=1-1/Ωまたは1+1/Ω
595日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:53:42.07
今、既存の数学の表記方法で、
「邪馬台国畿内説は破綻した。」=1
とし、既存の数学の表記方法で、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」=1-1/Ω
とします。。。
596日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:54:00.69
大陸・半島から色んなルートで入植してきたのが弥生人。
そして、それぞれに王国を造っていたと考えるのが妥当である。
当初は領地獲得のために争いも多かったであろう。
3世紀頃は北部九州に邪馬台国連合が発足し、畿内にはヤマト王権が目を出し始めた時代だ。
もとは同じ文化圏の民族なので各地域で共通性が見られるも当たり前だ。
テンプレはちょっと病的に考えすぎ。
597日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:54:29.06
>>585
炭素年代が200年の誤差が出る証拠じゃねーの 598日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:55:05.02
>>595
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」=1-1/Ωまたは1+1/Ω
とは、しないのですね。。。 599日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:55:35.49
>>591
冗談ぽく表現しただけで、あながち間違いではないだろ?w 600日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:57:37.20
>>598
はい、、、
あくまで、既存の数学表記や方法で考えるためです。定義なので問題は、無いはずです。。。
ただし、∞という記号は、できるだけ排除します、、、 601日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:58:28.73
九州雑多作り話者は基本的に祭祀という概念がないからな
桃核があったらおやつに思えてしまう
602日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:58:44.39
603日本@名無史さん2019/11/14(木) 12:59:03.67
>>585
>古材と新材を使用して作った????王?の墓ならそれは無いだろうが・・・・
この九州説さんの使う日本語も、よくわからない 604日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:01:39.64
>>585
ホケノの規模、発掘物から古木と新木で木棺を作ったとは考えづらいな?
結局 ホケノはいつ建造なのかさっぱりわからん。
地方豪族の墓だろうとは思うが 605日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:01:57.92
>>602
Ωは想像を絶するほど巨大な或る正の整数です。。。
無限大は、観念上の物事です。。。limという観念上の操作でしか扱えません。。 606日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:04:00.82
1+2+3+4+5+6+7+・・・
607日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:05:55.66
>>603
まあいいからさ、
炭素年代で木棺 の小片がBC4〜237年と200年も差の数値を示した謎を解いてみたら 608日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:06:22.95
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
609日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:07:07.36
>>600
>冗談ぽく表現しただけで、あながち間違いではないだろ?w
異常バイアス発言だし
明らかに間違い
単なる労働のために関東や北陸など遠隔地の人が集まる道理がない 610日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:07:10.02
1-1+1-1+1-1+・・・は
=1+(-1)+1+(-1)+1+(-1)+・・・であり、
{1,1x(-1),(-1)x(-1),1x(-1),(-1)x(-1),・・・}という
等比(-1)の数列の和を意味する。
よって、
初項1÷(1-比率(-1)) =0.5
になってしまう。
という数学馬鹿のナゾナゾだ。
611日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:09:05.44
新しく、「奥山氏」という名の定数を導入します、、、
すなわち、
「奥山氏」は、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」をΩ乗した数値です。。。
612日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:09:45.12
奧山氏は、インターネットで収集した物事を、まるで理解しないまま、そのまま引用するので失敗するのだったな。。。
613日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:11:00.75
1+2+3+4+5+6+7+・・・
614日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:12:07.85
>>609
レス番ズレてるぞw
>単なる労働のために関東や北陸など遠隔地の人が集まる道理がない
纏向はそれを集めるほどの強大な勢力があったと主張してただろw
畿内説お得意の循環エラーかw 615日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:13:55.06
>>607
彼が言いたかったのはね 炭素年代の誤差を示しているだけだよ
小片一つだけでもズバリ年代特定ができないと言っているのだよ
木棺
小片 No1 22―――――――244
小片 No2 1―――――181
小片 No3 20―――――219
小片 No4 BC4―――134
小片 No5 55―――――237 616日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:14:05.47
0.36788、、、とは、どのような物事の近似値なのだろうか。。。
617日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:15:04.23
1+2+3+4+5+6+7+・・・
618日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:16:06.05
「奥山氏」の逆数を「類奧山氏」とします。。。
619日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:21:06.00
>>618
「類奧山氏」は、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」=1-1/Ω という定義で切り捨てた、
「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」=1+1/Ω という可能性と関係性が深いのでは、ないのかな。。。 620日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:21:12.95
奥山に数理を教えても無駄
九章算術・ベイズしかり過去笑われているからWW
621日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:22:35.49
奧山氏の存在するこの世界の全ての可能性を、別の世界で、完全に記述するために必要な標準模型素粒子の総数をΩと仮定します。
つまりΩは巨大な正の整数です。
今、0を二つに分けて定義します。
つまり、0=-1/Ωまたは1/Ωです。
622日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:34:47.47
魏や帯方郡などの役人が倭に渡航する際の出航地がどこであったのかは非常に重要な事項であるが、
その出航地は、従来はアバウトな観点から巨済島とされていた。
しかし、巨済島にそのような交易的な拠点があったことについては考古学的な知見がみられず、倭との関係は地理的な観点から推測されたに過ぎない。
そこで、倭と関連する考古学的な遺跡としては、巨済島の北西すぐのところにある固城が注目される。
現在の固城市は袋状の固城湾の奥にあり、伽耶連合の一国で小伽耶と呼ばれた国の中心地であった。
紀元前7世紀〜前500年頃の支石墓が多数残されており、また5世紀には日本の前方後円墳と同じ墳形の墳墓が造られている。鉄や海産物、倭、中国との交易で発展したとされている。さらに16世紀末の文禄慶長の役のときには日本の城郭が造られている。
明らかに古代から近世にいたる日本との交通交易の拠点であったことが推測されるのである。
また、朝鮮半島西岸から南岸へ進んだ船が日本へ渡海するための最短距離の寄港地として利用できる最初の港でもある。
こうしたことから、魏の使節団が倭へ出航したのは、倭や中国との交易で栄えたこの固城であったことはほぼ間違いないといえる。
そして、この固城の沖から対馬、壱岐、呼子加部島へのルートが、まさにぴったりと東南の方位となっているのである。
魏略や倭人伝の「帯方東南」の「東南」の起点は、この固城の沖だとみるのが妥当だろう。
623日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:46:32.23
>>621
同時に、奧山氏の存在するこの世界の全ての可能性を、別の世界で、完全に記述するために必要な標準模型素粒子の総数を―αと仮定します。
つまりαは巨大な負の整数です。
そして、Ω=-αです、、、 624日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:47:15.74
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
625日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:47:30.75
>>622
>5世紀には日本の前方後円墳と同じ墳形
それはチョンボで調査したら異なる時期に造られた3つの円墳だった
>紀元前7世紀〜前500年頃の支石墓が多数残されており
支石墓は壱岐、対馬にはない
倭人伝は紀元前7世紀〜前500年頃、5世紀ではなくて3世紀 626日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:52:50.80
>>607
>炭素年代で木棺 の小片がBC4〜237年と200年も差の数値を示した謎を解いてみたら
謎でもなんでもない
2世紀中頃から3世紀初頭までは異常気候のため炭素年代による判別がつかないだけだ
そこで土器編年を物差しに使う
1様式の存続期間はそんなに長くないのだから、次の様式の測定結果と照らし合わせれば実年代が絞り込める 627日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:57:40.76
>>623
「奥山氏」は、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」をΩ乗した数値で、
「奥山氏」は、(1-1/Ω )をΩ乗した数値であり、
「奥山氏」は、(1-1/(-α))を-α乗した数値なのだから、
「奧山氏」は(1+1/α)をα乗した数値の逆数です。。。 628日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:59:53.40
>>624
>邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
「神の国は近づいた」みたいなノリで連呼してる九州説の姿は
まさに狂信的な宗教の人だね 629日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:04:00.07
>>627
つまり、「類奧山氏」は、ネイピア数に近似するのだな。。。 630日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:04:39.69
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
631日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:09:33.24
0.36788、、、とは、ネイピア数の逆数の近似値なのだな。。。
632日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:11:29.56
「奧山氏」はネイピア数の逆数の近似値なのだね。。。
633日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:19:38.00
奧山氏がインターネットで収集した公式を適用するには、ある条件を満たさなければいけないことを習う授業に、奧山氏は出席しなかった可能性が高いのだったな。。。
634日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:19:45.11
ホケノ山古墳の小枝の年代の件
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
測定結果
「ホケノ山古墳の中心埋葬施設から出土した小枝は3世紀〜5世紀の樹木の小枝であり、南西添え柱材は
紀元前3世紀〜同1世紀に該当する木材が使用されていた可能性が考えられる。」 635日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:24:16.96
そもそも、奧山氏がインターネットで収集した公式は、どのような公式なのだろうか、、、
636日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:29:12.00
kが2以上の整数の時、
(−1)のk乗は、kが偶数の時に1で、kが奇数の時に-1なのだったな。。。
637日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:32:54.39
>>636
では、(−1*「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」)のk乗はどのようになるのだろうか、、、 638日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:36:55.18
Ωの定義から、この世界ではどのような微小な時間単位であっても、Ωを越えないのではないのかな。。。
639日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:37:08.89
>>634
奥山は何故ホケノを3世紀だと言ってるのだろう? 640日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:38:18.59
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
641日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:41:09.07
>>474
そもそも、炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って、炭素年代法が正しいと仮定するなら、
ホケノ山古墳の棺は、3世紀中頃の年輪を含む、それ以降に伐採された樹齢数百年の高野槙で、作製されたという事が、判明しただけなのだったな。。。 642日本@名無史さん2019/11/14(木) 14:57:49.32
>>640
いや、すでに破綻していたのでは、ないのかな。。。 643日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:18:24.03
>>548
>祭祀が行われたという根拠は?
祭祀以外で大型土坑に桃の種やら供献土器やらを突っ込む理由がない 644日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:20:06.46
>>560
>畿内説によく見られる異常なバイアス発言w
>ドカタを賄う飯炊き瓷であり、桃はドカタのおやつ。
>これが現実だw
これを見るだけで、九州説は根拠なくでたらめを書くレベルの低い連中しか
いないことが分かるなw 645日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:21:39.27
使い古してこびり付きの酷くなった飯炊き瓷と残飯が捨てられたゴミ捨て場を祭祀に紐付けるのも大変だなw
646日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:23:55.87
>>565
連続句読点は、指摘されてもいまだに遺蹟と書き続けているあたり、
まともに日本の学校教育を受けていないのが確実
そして、まともな日本の学校教育を受けていない理由は、
まともな日本人ではないからだろう
そのまともな日本人ではない連続句読点が、半島がらみの書き込みを
連投するのは、おそらくコンプレックスの裏返しのミラーリングなんだろうなと思っている 647日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:24:45.90
モモが残飯でない事を示すために「かじり痕が無い」という情報が唐突に発表されてたな。
実際にそういう指摘を受けたのかな?w
648日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:26:57.26
>>567
>なぜなら、3世紀に全国各地に人はいたのだから・・・
これ何度目だ?
まあ、連続句読点は他人の書き込みをコピペするからその類だろうけれど
3世紀に各地から人が集まって大型土坑で祭祀を行っている遺跡はない
その意味で、広域に動員をかけられる人物が存在する倭国で唯一の祭祀中心が
纏向遺跡なんだよw
単に人がいるとかいうレベルの低い話ではない 649日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:29:31.32
大量の桃(モモ)の種が出て来たんだろ?
纏向遺跡の大型建物Dは倭迹迹日百(モモ)襲姫の祭殿跡だよ。
650日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:29:58.76
で瓢箪族の教祖は卑弥呼の時代にボートピープルとして流れて来て巻向にを根城にしたということなのかね?
651日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:33:53.55
>>649
箸墓・後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄神 ̄武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 652日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:45:34.70
>>649
しかしながら、モモソ姫が祭祀をやっていたという記録は?
記紀に祭祀で全国統治に成功したという話がある? 653日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:49:13.61
>>649
ついに解明しやがったw
纏向遺跡=真の神武陵・箸墓守・モモソの祭殿跡 ≠ 筑紫女王・卑弥呼の宮室楼観城柵厳設w 654日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:49:27.78
『伊達の桃太郎』〜『麝香』ジャコウジカ、ほとんど同じ。
『老いたるスサノオ』『ワンピース 粉雪』『』『』・・・。
老婆談、なぜ知っているんだろう
655日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:52:26.04
>>428
日本の他の地域に先駆けて、
3世紀後半の平原で大型の内向花紋鏡が副葬された 656日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:54:07.86
クラの中に刀なんかが沢山あって・・・、
部屋に飾ってあったという、凄い刀(剣?)の話もw
657日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:54:57.07
ここで卑弥呼の王宮の描写を再確認w
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
658日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:58:28.56
>>422
>大陸の感覚では、王がいるところは王城であり王城を囲む柵は城柵と書かれるのが当然
なんだこのおっさん
古代中国における城柵とは、土塁の上に柵を設けたもので、建物を区分するための柵は城柵とは呼ばない 659日本@名無史さん2019/11/14(木) 15:59:59.45
>>609
>単なる労働のために関東や北陸など遠隔地の人が集まる道理がない
纒向だけに注目しすぎ。
北陸の土器は東海でもたくさん出るし、筑紫でも出る。
全体の流れから言えば、纒向は流通の中心から外れている。 660日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:00:26.23
2世紀末〜3世紀の「畿内」には倭国大乱の痕跡なし、纏向遺跡には楼観なし、城柵なし(猪除けの板塀のみ)、兵隊の鉄鏃出土なし、箸墓に殉葬なし
661日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:00:41.33
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
662日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:01:45.86
老いたる〜うらしま?
>鹿の皮を剥ぎ終つた彼が
>倉皇と菅畳から身を起した
その後の話なのかな?
〜〜〜〜〜〜畳や床下の土まで掘り起こされていて、
飾ってあった刀(劔)も
663日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:02:48.10
>>643
>>>548
>>祭祀が行われたという根拠は?
>
>祭祀以外で大型土坑に桃の種やら供献土器やらを突っ込む理由がない
突っ込む祭祀など聞いたことがない。
単にゴミとして扱われたのだろう。
土器もただの土器だよ。
その土器に煮炊きの跡はあるのか? 664日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:03:30.16
土器の流入というのは、貧困な畿内から王都である北部九州へのお上りさんが居た証。
665日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:04:58.98
そして、裕福な北部九州から貧困な畿内へ移住する理由は無い。
666日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:14:38.15
>>648
>3世紀に各地から人が集まって大型土坑で祭祀を行っている遺跡はない
各地から集まっていたというのがウソ
他の地域ではもっとダイナミックに人が移動している
特に人の出入りが著しいのが筑紫
そして桃だけで祭祀と言い切るのは難しい
つまりキナイコシの主張には何一つ根拠がない 667日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:15:24.09
>>413
>中国では見られない大型の内向花紋鏡が
>日本全国で出てくるのが4世紀以降
つまり、平原1号墓が2世紀ってのは完全に諦めるんだな?ww
畿内説のやつは目先の言い逃れのために何が議論の中心なのかも忘れて、整合性のないことを顔真っ赤で喚き始めるww 668日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:17:55.53
落雁(供えるもの)のようなものがあるんだけど、
自分の家(正確には当時、結婚した人)で作っていたと言っていたり、
669日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:28:16.88
『百式 観音』(ガンダム)、仏教〜。
本当は、そういう話でしょ?謎の311後
「どうした聖人でも殺したのか?」と「親戚でも殺されたのか」
という謎の書き込みをしている人がいたり
670日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:36:23.48
なぜか、あの小椋佳の曲も同じ
『きみは それ以上』
『老いたる スサノオ』芸能、芝居の話も同じだしな・・・w
671日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:46:56.94
『あまつ きつね』(画像、ググってみて)
たしか他のスレに書いたのかな?
赤いザク、緑のザク、青いグフ
672日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:56:47.76
頭の悪い奥山の、安らかに眠った死に体は、またいつか、起きるのであろうか。。。
673日本@名無史さん2019/11/14(木) 16:57:38.97
仙狐さん
674日本@名無史さん2019/11/14(木) 17:09:46.41
『ナイトガンダム シャア』
ねこ、いなり・・・その他?
のようなキャラになっていると言っている人がいたり
6751 ◆n7jxAxKCBhb6 2019/11/14(木) 17:22:28.97
>>622
>魏や帯方郡などの役人が倭に渡航する際の出航地がどこであったのかは非常に重要な事項であるが、
>その出航地は、従来はアバウトな観点から巨済島とされていた。
されていません。
狗邪韓国の比定地が金海なのは鉄板の定説です。
3世紀の倭系遺物出土量が圧倒的に多いのです。
後世の文献史料にも、洛東江の流れを利用して巨済島の島陰を一気に南下し、東流する対馬海流に出会ったところで東向きに転じ佐須奈を目指すL字航路が記録されています。
距離的にだいぶ遠い固城を特定する理由は何もありません。 676日本@名無史さん2019/11/14(木) 17:51:27.73
>>675
>狗邪韓国の比定地が金海なのは鉄板の定説です。
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 677日本@名無史さん2019/11/14(木) 17:52:36.18
>>675
>狗邪韓国の比定地が金海なのは定説です
狗邪韓国の狗邪は加羅=伽耶を指しており、伽耶の東の端が金海、西の端はいろいろ説があるが任那四県あたり。
魏や帯方郡から船で倭に渡る場合に最初の良好な停泊地は固城、その次が金海、最後が釜山。
金海や釜山へ遠回りする理由がない。
対馬は南北に交易しているのであるから、倭系の遺物が出るのは当たり前。しかし、使節が倭へ渡海するのと倭人が金海へ交易するのとはまったく別の話。
金海から巨済島へ向かい、それから対馬に渡る航路があったのは当然に理解できるが、しかし魏の使節団が船で巨済島を超えてわざわざ金海まで行って、そこから再び巨済島に戻るコースをとったとは極めて考えにくい。
珍島を回って東へ沿岸を進めば最初に固城があり、次に金海があり、そして釜山があることは先に述べた。
距離的に固城は金海より近い。
魏の使節が陸上を洛東江沿いに南下したと考えれば、金海から巨済島へ出て、それから対馬に渡るルートは当然考えられることであるが、
倭人伝は「水行」と書いており、珍島から東に回頭するコースになるで、最も近い固城が停泊地となったと考えるのが妥当。 678日本@名無史さん2019/11/14(木) 17:52:55.72
私は邪馬台国がどこにあってもいいんだけど、
畿内説は後の時代の文献に合致しない遺構を無理矢理邪馬台国に関連づけてるようにみえる。
畿内説の人の書き込みは、ただ強弁してるだけで全く説得力がない。
679日本@名無史さん2019/11/14(木) 17:54:04.88
>>678
説得力があるのは、倭国(阿波)だけ! @阿波 680日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:02:24.81
>>679
阿波も頑張ってるけど
水の泡になるぞw 681日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:10:45.01
阿波は、参加することに・・・
枯れ木も山の賑わい
682日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:13:21.17
>>667
>つまり、平原1号墓が2世紀ってのは完全に諦めるんだな?ww
>畿内説のやつは目先の言い逃れのために何が議論の中心なのかも忘れて、整合性のないことを顔真っ赤で喚き始めるww
やっぱり日本語読めないんだな
コンビニのレジで働いてる外国人に教えてもらいなよ
君の10倍上手いから
>中国では見られない大型の内向花紋鏡が
>日本全国で出てくるのが4世紀以降
だろ
平原1号の頃、あんなデカい鏡が日本全国で出てきてるか考えてみろよ
ま、考える頭があるならば可能な話なんで
お前に要求するのは酷かも知れないが 683日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:26:09.08
>>371
>俺もそう思うわ。魏志倭人伝の倭も九州だけの大国だとしたら、そこの首都が
邪馬台国であり、女王が卑弥呼。<
違うね。邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國が首都でもないし、
首都が邪馬壹國の中にある、という意味だし、
卑弥呼の都が「女王之所都」。
>そうなると、大和が成立する以前にあった名前
さえ解らない本州最大の国が別に存在していた事になるのか。<
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
「本州最大の国」であったのか?は不明なの。
>はたまた一つに
なり切れない小国達が争いまとまり切れていない危険地帯だっただけなのかもw<
3世紀末頃に、また「東征毛人五十五國」の別動隊が大和の入って来て、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を、征服して墓守り人にして、巨大墓を造らせたの。 684日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:27:00.39
>>682
4世紀以降全国でみられるタイプは
平原の径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡だな。
径46.5cmの内向花文八葉鏡は
王の鏡だから平原以外では見られない。 685日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:28:19.24
阿波は、参加することに意義・・・
枯れ木も山の賑わい、泡も海の賑わい
686日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:29:35.75
>>678
>畿内説は後の時代の文献に合致しない遺構を無理矢理邪馬台国に関連づけてるようにみえる。
>畿内説の人の書き込みは、ただ強弁してるだけで全く説得力がない。
あなたそれ具体的な事実の指摘がない印象論と総論を
ただ強弁してるだけで全く説得力ないですけど 687日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:29:41.81
>>680
>阿波も頑張ってるけど
>水の泡になるぞw
でも、倭国(阿波)には、全然歯が立たないだろ。 わははははは @阿波 688日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:33:20.34
>>685
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 689日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:34:13.87
>>678
> 畿内説は後の時代の文献に合致しない遺構を無理矢理邪馬台国に関連づけてるようにみえる。
> 畿内説の人の書き込みは、ただ強弁してるだけで全く説得力がない。
まったくそのとおりです。
ここの畿内説は宗教の一種ですから。 690日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:34:17.67
>>678
特に奥山って人は人の意見に全く耳を貸さないよね。
視野が狭いってのもあるだろうけど、
完全に人格が破綻してるよね。
理論も完全に破綻してるけどw 691日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:36:53.20
>>681
倭国(阿波)に太刀打ちできないヘタレ説! @阿波 692日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:39:49.67
>>676
>狗邪韓国(順天)は…
三韓時代には順天の地は馬韓に属したとする記述がみられる。
狗邪韓国は伽耶であるので、馬韓の領域とされる順天は狗邪韓国に属さないのではにゃ〜の? 693日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:46:58.43
それよりもガンダム(『Vガンダム』のテーマ曲)の話
トランス何やらと同じでしょ?
何にもない(その先に何もなくても)〜、「つぎはぎ」(カンヴァス)だらけだとか
いろいろと繋げたりしているだけなんだろう、あの記紀神話なども
694日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:49:11.84
>>690
>特に奥山って人は人の意見に全く耳を貸さないよね。
特にって言うか、ここの畿内説は奥山しかいない
たまに葛城が乱入してくるだけ
あとは泡一匹
残りは全部九州説でごわす 695日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:49:28.78
Vガンダム(河童)のテーマ曲
>そのまた背景の裏を見れば、
>継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ!
696日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:49:54.32
>>585
>木棺 の小片がBC4〜237年をどう説明するかがわかりませんが
>古材と新材を使用して作った????王?の墓ならそれは無いだろうが・・・・
測定値には当然誤差が含まれるから、その両端を取ることには意味がない
複数の素材が混ぜ合わされているのではなく、一つの木棺からの試料でも
ばらつきの幅が出るということ
で見れば分かるように、生データの14C BPは1880〜1940の幅があり、
さらにそれを較正曲線を用いて実年代に当てるときにも、年代幅が出る 697日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:51:11.47
>>692
弁韓の領域じゃないの? 馬韓との境だよ。 わははははは @阿波 698日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:52:16.48
なぜ知っている人がいるんだろう、
内部について詳しい、何やら庁(省)などの関係者(工作員?)がいるとしか思えないでしょ?
699日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:53:50.38
>>681
倭国(阿波)に太刀打ちできないヘタレ説! @阿波 700日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:54:12.83
>>696
>一つの木棺からの試料でも
ばらつきの幅が出るということ
古木効果とかいうやつですか? 701日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:55:15.05
>>596
>大陸・半島から色んなルートで入植してきたのが弥生人。
これはよいが
>そして、それぞれに王国を造っていたと考えるのが妥当である。
これはデタラメ
大船団を組んで一気に渡ってくるのではなく、五月雨的に少人数が
ぱらぱらと倭国にたどり着くという状況なので、縄文人社会に吸収されていったと
いうのが正しい
縄文時代に既に沿岸航路による長距離交流がなされていたし、渡ってきたグループ別の
王国が作られる蓋然性はない
人の交流により、混ざってしまう
結局は、河川の利水を管理するための権力機構が水系ごとに集約されて
各地の国・のちの豪族が成長していったと見ればよい 702日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:55:28.79
何やらMIX〜そういうもの同じ
姫トラ何やらという曲、なんにもない〜????という曲があったでしょ、
つぎはぎだらけだ?
703日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:55:32.82
704日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:57:08.46
>>604
>ホケノの規模、発掘物から古木と新木で木棺を作ったとは考えづらいな?
割竹型木棺なんだから、一本の巨木をくりぬいて作るんだよ
「古木と新木で木棺を作った」とか考えるのは物知らずw 705日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:57:54.01
例えば
聖徳太子という人物の話、べつに創作でも良いんだけど、
つぎはぎだらけだ?
706日本@名無史さん2019/11/14(木) 18:58:26.30
炭化物や木の炭素年代測定を行う場合は、年代は特定できますが、サンプルが短命な植物や小枝がサンプルでない場合は、木の成長過程のどの部分をサンプリングするかによって数百年の誤差が生じる可能性があります。
707日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:00:04.91
>>620
>奥山に数理を教えても無駄
>九章算術・ベイズしかり過去笑われているからWW
こんなところでも、九州説の認知バイアスがひどいなw
九章算術の話でもベイズ統計の話でも、正しかったのは畿内説側の説明
九州説側でまともな説明をできた人は皆無で、理解できないまま荒らしを
続けたのが連続句読点
うそも百回を地でやってくるから、九州説は面倒くさい 708日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:02:41.23
>>706
だから木材の場合は一番新しい年代を選ぶべきなんだよ。
しかし畿内説は・・・
アホだからw 709日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:04:30.36
過去に、そういうところ(省、庁?)で、
仕事をしていたことが人々が関係している、
または何かの?本物らしき人物が関係しているとか、
調べてみるとわかるはず、詳しいくない?
710日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:05:11.98
>>381
>魏志倭人伝に登場する倭が九州だけの大国だと仮定すると、
当時は日本の一部として九州は認められていなかったのか!?<
日本なんてまだなく、
当時は大体九州倭国と出雲と越と侏儒國と倭種と毛人蝦夷があったの。
>比較的安全な国であったから、魏の派遣団が行き来きたのか…
邪馬台国の人々が、本州に行く事を魏の派遣者を止めてたとしたら
命が危ない危険な争いが絶えなかったとも取れるんだよな... <
関係がない。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
九州倭国の東征毛人五十五國の軍の主力は、
瀬戸内→河内や摂津→山城→近江→東海→南関東へ進んだようだ。
>そんな記述がまったく書かれていないから、倭=日本とされてたんだろうか・・・<
九州倭国が「日本」も称したのは、西晋惠帝への遣使の時であり、
大和が「日本国」を名乗ったのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時だよ。 711日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:07:35.18
>>634
木槨木片が大嘘だったのは、理解できたか?ww
>「ホケノ山古墳の中心埋葬施設から出土した小枝は3世紀〜5世紀の樹木の小枝であり、
>南西添え柱材は紀元前3世紀〜同1世紀に該当する木材が使用されていた可能性が考えられる。」
小枝二本は、14C年代で重なる部分がなく100年ずれている
小枝 250――300 320――420
つまり、これらが同時にホケノ山古墳の埋葬主体部に埋葬時に入れられたとすることは
不可能で、埋葬時ではなくのちの時代の混入であることを裏付けている
南の添え柱については、大きな木を割り出して作った材の心材の部分だと考えれば
無理なく理解できる 712日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:09:32.51
>>645
>使い古してこびり付きの酷くなった飯炊き瓷と残飯が捨てられたゴミ捨て場を祭祀に紐付けるのも大変だなw
纏向大溝で出る飯炊き甕と、祭祀土坑で出る使用痕のない甕をごっちゃにしちゃだめだよww
こういうところも、九州説は情弱のもの知らず 713日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:15:26.69
>>655
>日本の他の地域に先駆けて、
>3世紀後半の平原で大型の内向花紋鏡が副葬された
他の地域のは、内行花文鏡の作図の原則に従って丁寧に作って完鏡の状態で
埋葬されている
平原1号墓のは手元にある古い内行花文鏡を見よう見まねで適当に作って
伝統的な作図から逸脱した代物で、流水文のところをただの同心円にして面積を稼ぎ
鋳込みのときにも鬆が入るような手抜き鏡
それを、バキバキに割って棺内に入れるでもなく、壷に収めるでもなく、墓地の
土の中にばら撒いてある
内行花文鏡に分類されるというだけで、あとは何の関係もつながりもない、
忘れられた鏡だよ 714日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:18:06.28
>>713
平原の径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡 715日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:21:47.28
>>660
>2世紀末〜3世紀の「畿内」には倭国大乱の痕跡なし、
九州にもない 九州にあると言っている殺傷人骨は甕棺墓で、時代が異なる
畿内にはタケハニヤスの乱、サホビコの乱という3世紀の戦乱の伝承がある
>纏向遺跡には楼観なし、
九州にもない 吉野ヶ里遺跡は時代が合わないし、畿内の絵画土器を参考にして作り上げたもの
>城柵なし(猪除けの板塀のみ)、
尾崎花地区のものはきっちり城柵だよ
>兵隊の鉄鏃出土なし、
これは九州説の年代詐欺
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
>箸墓に殉葬なし
大規模殉葬の確認できる遺跡は日本に一つもない 716日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:23:39.26
>>663
>土器もただの土器だよ。
>その土器に煮炊きの跡はあるのか?
使用痕のないものが確認されているので、使って壊れたものを捨てたのではなく
新品をわざわざ壊して供献している、つまりは祭祀が行われていると判断されている 717日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:24:44.85
>>666
>特に人の出入りが著しいのが筑紫
どこが?ww
具体性なしの、思い込みだぞ、それww 718日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:25:11.07
事実だけ見ると
ホケノ山古墳の槨には4世紀の小枝が副葬されていた
平原1号墓の超大型内行花文鏡は国産大型内行花文鏡の先駆けであり世界最大
これが事実
719日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:27:00.75
>>675
>佐須奈を目指すL字航路が記録されています
初めて知った
ありがとう
対馬のほぼ北端を目指すんだね
ソースを教えてもらえるとうれしい 720日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:27:40.68
250-300のものは被葬者が生前儀式で使っていたもの
320-420のものは被葬者の埋葬時に新たに採取して副葬したもの
721日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:28:10.28
>>678
>畿内説は後の時代の文献に合致しない遺構
これを具体的に指摘して
そうすれば、こちらも具体的に説明できる 722日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:29:02.61
>>721
なにまともなふりしてるんだキナイコシ?w 723日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:34:05.08
>>716
>新品をわざわざ壊して供献している、
それ縄文人の習性だからw 724日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:36:27.43
まあ畿内説としても奥山は戦力外だから、適当に遊んでやってくれ
725日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:37:02.18
>>684
>4世紀以降全国でみられるタイプは
>平原の径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡だな。
また嘘ついてるw
「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
「直弧文帯縁内行花文鏡」 34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
は、大宣子孫内向花文四葉鏡とは違うだろ?
それに、大きな銅鏡は内行花文鏡に限った話ではなく
「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明
「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土
というのもある
無理に、平原1号墓を持ち上げようとするから、取り留めのないでたらめになるんだよ 726日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:45:16.45
>>700
>古木効果とかいうやつですか?
単純に試料の測定誤差と見てよいだろ?
1880±50 1830−−−−−−−−−−1930
1920±40 1880−−−−−−−−1960
1910±40 1870−−−−−−−−1950
1940±40 1900−−−−−−−−1980
1880±40 1840−−−−−−−−1920
というのが、BP値の生データ
±40〜50のデータとしてはよく揃っているといえる 727日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:46:32.98
>>725
>「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
「直弧文帯縁内行花文鏡」 34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
それ大宣子孫内向花文四葉鏡をスケールアップしただけ
コンセプトは同じだから 728日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:48:22.33
>>703
おい、バカ!
>>563を再掲
それ、ウィキペディアの記述だよな?ww
そして、2008年(平成20年)の発掘調査報告書はこれ
奥山誠義 2008「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の 14C 年代測定」
『ホケノ山古墳の研究』奈良県立橿原考古学研究所研究成果第 10 冊,奈良県立橿原考古学研究所,pp.191–192
その測定データというのはこれ
奥山2008で測定しているのは「小枝」であって「木槨木材」ではないwwww
結局はこれのこと
ホケノ山古墳の14C年代 西暦に換算済み
木棺
小片 No1 22―――――――244
小片 No2 1―――――181
小片 No3 20―――――219
小片 No4 BC4―――134
小片 No5 55―――――237
南西の添え柱
BC210――――BC50
小枝 250――300 320――420 ←これ
ウィキペディアの記述はあてにならないよw
特に邪馬台国関連の話題は九州説がデタラメ編集をしているからねw
「木槨木材」は、ウイキペディアに書いてあるが大嘘 729日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:48:22.78
キナイコシが必死ということは
平原の内行花文鏡が頂点ということだなあ
730日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:50:37.92
出土物の中で最も新しいものの時代を採用するのが考古学の鉄則だから
ホケノ山古墳は320-420
731日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:51:02.14
>>708
>だから木材の場合は一番新しい年代を選ぶべきなんだよ。
だから、割り竹型木棺の外側の部分から試料採取してるだろ?
その上で、その試料の測定値の「誤差範囲の中で新しい方がより妥当だ」と
考える理由は何一つないww
測定原理も、統計も何一つ理解していないバカじゃないと、ここまでのデタラメは
なかなか書けないぞww 732日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:52:47.29
733日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:54:16.15
>>727
>それ大宣子孫内向花文四葉鏡をスケールアップしただけ
>コンセプトは同じだから
そして、平原1号墓の46センチ鏡は、スケールアップできてなくて
コンセプトが異なる、のちの鏡にまったく影響を引き継いでいない
手抜きのガラパゴス鏡
大宣子孫内向花文四葉鏡のシリーズは、別に平原1号墓の専売特許ではない 734日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:57:28.53
>>720
>250-300のものは被葬者が生前儀式で使っていたもの
>320-420のものは被葬者の埋葬時に新たに採取して副葬したもの
>>720は>>730だろ?
お前の理論だと、
被葬者が生前儀式で使っていたものは300年ごろで
被葬者の埋葬時に新たに採取して副葬したものが420年ごろになる
ここまで極端に取らなくても、生前の儀式と埋葬時が100年単位で
時間差があるww
無理な言い訳だよw 735日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:57:28.62
>>733
>大宣子孫内向花文四葉鏡のシリーズ
シリーズ化していると認めざるを得ない哀しいキナイコシw 736日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:59:08.10
>>734
お前の脳内世界では時間差があったらいかんのか?
ホケノ山被葬者の爺さんが使っていた小枝を後生大事に使い続けていたのかもしれんだろうが 737日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:00:08.88
>>718
>ホケノ山古墳の槨には4世紀の小枝が副葬されていた
これは嘘
100年も年代が違う2本が、同時に埋葬主体に入るはずがない
>平原1号墓の超大型内行花文鏡は国産大型内行花文鏡の先駆けであり世界最大
内行花文鏡の大型化はその前から始まっている
平原1号墓は銅鏡としては大きさだけは最大だが、
内行花文鏡の規範を踏みにじった大きくすることだけが目的の手抜き鏡
先駆けとはいえないし、のちの鏡に影響も残していない 738日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:00:45.01
>>737
>100年も年代が違う2本が、同時に埋葬主体に入るはずがない
それはお前の願望だなw 739日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:01:16.30
事実だけ見ると
ホケノ山古墳の槨には4世紀の小枝が副葬されていた
平原1号墓の超大型内行花文鏡は国産大型内行花文鏡の先駆けであり世界最大
これが事実
効いてる
効いてるw
740日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:03:38.14
>>723
>それ縄文人の習性だからw
そうだよ?
縄文人がそのまま弥生文化の担い手になっているのだから、基層の文化は
縄文の感性がそのまま維持されている
渡来人は縄文人集団に吸収されているんだよ
今でも日本人が酒を飲むときに海産物の干物、干し貝などをつまむのは
縄文時代の貝塚を作っていた頃からの干し貝に加工してを食べる
習慣が続いているんだよ 741日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:05:20.87
>>739
>>737を再掲
>ホケノ山古墳の槨には4世紀の小枝が副葬されていた
これは嘘
100年も年代が違う2本が、同時に埋葬主体に入るはずがない
>平原1号墓の超大型内行花文鏡は国産大型内行花文鏡の先駆けであり世界最大
内行花文鏡の大型化はその前から始まっている
平原1号墓は銅鏡としては大きさだけは最大だが、
内行花文鏡の規範を踏みにじった大きくすることだけが目的の手抜き鏡
先駆けとはいえないし、のちの鏡に影響も残していない 742日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:06:27.85
事実だけ見ると
ホケノ山古墳の槨には4世紀の小枝が副葬されていた
平原1号墓の超大型内行花文鏡は国産大型内行花文鏡の先駆けであり世界最大
これが事実
743日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:09:20.02
小枝に関してはこんなデータを公表した時点でなにかをあきらめたのだろうねw
744日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:25:15.02
奧山氏は、インターネットで収集した物事を、まるで理解しないまま、そのまま引用するので失敗するのだったな。。。
745日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:26:03.02
>>396
これとか「南→東」などの嘘つき騙しは、・・・循環論法の典型だけど
大和説って
ばかだろ 746日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:26:07.52
この30年で3大ニュースを挙げれば、
・阪神淡路大震災
・オウム真理教事件
・・311東北大震災
であろうか。
これらは永久に語り継がれていくのだろう。
昔、女王の死に際して、あるいは何らかの戦いで、奴婢100人以上が殺される大事件があった。
これほどの大事件ならば、当然ながら代々語り継がれ、それを語り継ぐ語り部もいたりして、その大事件は確実に伝承されてきたはず。
この日本のどこかに、そのような奴婢殺戮の伝承があるはず。
それがどこにもないのなら諦めるけれど、ある、しかも日本書紀・神武東征紀にそれが書かれている。
箸墓古墳であれ、平原墳墓であれ、祇園山古墳であれ、そのような奴婢殺戮の伝承はない。
「ない」時点でこれらは卑弥呼の墓ではない。
神武東征紀に書かれた奴婢大量殺戮の場所、それは高天原(御所市高天)である。
747日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:27:02.89
>>744
奥山氏は、本当は、真実を知りたいのではないのかな、、、 748日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:27:45.88
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
749日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:28:14.26
ベジタリアンの奥山氏は、角度の計算ができなかったことや、赤い玉と特定の10箱で説明しようとした余事象への不理解や、2次宇宙線に対する不理解等で、東京大学大学病院を退院しただけの人物だとバレてしまったのだったね。。。
750日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:29:13.11
奧山氏がインターネットで収集した公式を適用するには、ある条件を満たさなければいけないことを習う授業に、奧山氏は出席しなかった可能性が高いのだったな。。。
751日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:30:07.74
そもそも、奧山氏がインターネットで収集した公式は、どのような公式なのだろうか、、、
610日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:07:10.02
1-1+1-1+1-1+・・・は
=1+(-1)+1+(-1)+1+(-1)+・・・であり、
{1,1x(-1),(-1)x(-1),1x(-1),(-1)x(-1),・・・}という
等比(-1)の数列の和を意味する。
よって、
初項1÷(1-比率(-1)) =0.5
になってしまう。
という数学馬鹿のナゾナゾだ。
752日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:31:16.52
奧山氏は、インターネットで収集した物事を、まるで理解しないまま、そのまま引用するので失敗するのだったな。。。
753日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:32:46.79
それと、
なぜアマテラス(不明)=小椋佳(?)みたいな説があるのか?
なんだよな・・・アニメの話?
754日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:34:30.99
ホケノ山の埋葬施設は石囲い木槨。
当時としては斬新なスタイルであったのだろうが、
有機物の木材を柱にしたから、案の定、腐って崩落したようだ。
そのホケノの埋葬部分に4世紀の小枝があるのなら、
埋葬施設が崩落した時期が4世紀ということだろう。
755日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:35:38.71
>>738
>それはお前の願望だなw
100年も年代の違う小枝を同じときに埋葬主体に入れる理由を教えてくれww 756日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:41:31.27
(日本)レコードの〜なども、
かなり凄い・・・と書いてあるでしょ、テラスだから?
あと氷も世界もw
とか
757日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:47:59.02
>>682
>平原1号の頃、あんなデカい鏡が日本全国で出てきてるか考えてみろよ
つまり伊都国は全国より100年以上も先を行く先進技術を有していたと。
後代の鏡と比較して劣るとかなんとかほざいても、意味がないよね。
平原遺跡が卑弥呼の治世に作られたということは、もちろん卑弥呼もその存在を知っていた。
卑弥呼が伊都以外の後進地域にいたと考えるのは無理なのではないか。 758日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:50:26.61
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、等比級数の無限和を理解することを諦めたので、
奥山氏は、炭素年代法の事を、まるで理解していないが、邪馬台国九州学の立場の者達に、小枝の事で討論を仕掛けているな、、、
759日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:51:49.32
邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。
760日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:53:05.42
昔王が居たが乱れ、共立で卑弥呼が選ばれ、卑弥呼が死に男王が立ったがまた乱れ千人が死にその後に台与が共立されて治まった。大倭が和白を行うのか? 卑弥呼の都が首都とは限らんわね。3韓を考えると。共立の一番の権力者が居るよね。
761日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:53:29.58
奥山氏は、ネイピア数の事を習わなかった可能性が高いのだったな、、、
762日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:55:23.77
奧山氏の祖国は、日本によって植民地にされたのではなく、併合されたのだったが、僕達、日本国民は、奥山氏が所属する朝鮮民族の自尊心を完全に叩き潰してしまったことには変わりはないので、
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏に対しては、特に敬意をもって接すれば良いな。。。
763日本@名無史さん2019/11/14(木) 20:57:29.44
>>701
>縄文時代に既に沿岸航路による長距離交流がなされていたし、渡ってきたグループ別の
>王国が作られる蓋然性はない
別の集団が渡ってきたら、いきなり在地の集団と融合したりしない。
渡来したという事実がある以上、その出身別の王権が形成されるのは当然。
>結局は、河川の利水を管理するための権力機構が水系ごとに集約されて
なぜか畿内説は淀川水系を無視して纒向を河内や淡路島の遺跡と結びつけたがるが、根拠のないおかしなことだ。
そうしないと纒向はただの後進地域であったことになるから、苦し紛れに嘘をつくのだろう。 764日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:01:34.04
>>759
すでに破綻してるよ
あとは残党の殲滅が残ってるだけ 765日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:01:38.13
>>751
奥山じゃないけど、等比数列の和と書いてあるだろw
何言ってんだ? 766日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:02:18.31
連句点増えすぎワロタw
767日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:05:36.31
平原の大型鏡は連弧文鏡というより
九天の図象が中心に小さく銅鼓的なデザイン
南越墓から径40cmを越える鏡が出てるから南越系の工人だろうね
当時の日本では珍しいインドパシフィックビーズも
甕棺墓もベトナム中部のサーフィン文化
768日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:10:14.17
やはり、他人の振りをした奥山氏が出現し、高校生レベル程度の公式をまるで理解していないことを、再び自ら公表してしまったな、、、
610日本@名無史さん2019/11/14(木) 13:07:10.02
1-1+1-1+1-1+・・・は
=1+(-1)+1+(-1)+1+(-1)+・・・であり、
{1,1x(-1),(-1)x(-1),1x(-1),(-1)x(-1),・・・}という
等比(-1)の数列の和を意味する。
よって、
初項1÷(1-比率(-1)) =0.5
になってしまう。
という数学馬鹿のナゾナゾだ。
765 名前:日本@名無史さん 2019/11/14(木) 21:01:38.13
>>751
奥山じゃないけど、等比数列の和と書いてあるだろw
何言ってんだ? 769日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:14:26.86
奥山氏は、頭が悪いな、、、
770日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:14:52.08
770
771日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:18:18.36
>>763
>別の集団が渡ってきたら、いきなり在地の集団と融合したりしない。
この「別の集団」というのが、そもそもまちがい
>>701、読んだか?
大船団を組んで一気に集団で渡ってくるなんてことはなく、五月雨的に少人数が
ぱらぱらと倭国にたどり着くという状況
たどり着いた先で、先住民に助けてもらわなければ、いきなり飢え死にしておしまいだ
先住民に助けてもらううちに、先住民の集団と同化していくんだよ 772日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:18:33.39
>>767
good information
3・9 773日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:19:04.71
奥山氏は、最終項の極限という物事を理解すれば良いのではないのかな。
774日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:22:39.43
>>763
>なぜか畿内説は淀川水系を無視して纒向を河内や淡路島の遺跡と結びつけたがるが、根拠のないおかしなことだ。
淀川水系には、土地がない
775日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:24:03.54
>>766
>連句点増えすぎワロタw
連続句読点はひたすら荒らすのが目的だからね 776日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:24:55.99
>>767
>南越墓から径40cmを越える鏡が出てるから南越系の工人だろうね
>当時の日本では珍しいインドパシフィックビーズも
>甕棺墓もベトナム中部のサーフィン文化
このコピペもバカだよなw 777日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:25:17.96
>>733
>大宣子孫内向花文四葉鏡のシリーズは、別に平原1号墓の専売特許ではない
オリジンが平原で、多くのフォロワーを生み出した
というかそれら全部筑紫で作ったんだろうな
他の地域では鏡の鋳型が見つかっていない 778日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:25:30.16
>>422
>まあ、卑弥呼の遣使の頃の居館域はより東側の尾崎花地区に移っているから、
魏使の見た城柵は尾崎花地区のものだろうけれど<
「南≠東」などに拠って、×。 779日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:29:55.47
>>423
>北部九州がぶいぶい言わせてたのが、紀元前から1世紀の頃
2世紀半ばには没落が始まっている <
九州倭國が大和日本国に併合吸収継承されたのは、白村江の大敗の後だから、×。 780日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:30:46.33
それにしても、なぜか老婆なんだよな、
なぜか詳しいし、老婆は、氷の世界とか、そういう音楽なども好きではないし、
世代が違うからなのかもしれないけどw
でも不思議の国の〜みたいな話は知っている
781日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:31:39.05
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏は、スレッドを活発化することも、楽しんでいるのだったな。。。
782日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:32:01.20
>>776
コピペはしてないが
お前が考えたくないことなんだろう
糸島は倭人特有の卜骨も一片も出てないし
日本にも九州にも拡がらない遺物が出る
倭の女王卑弥呼とは別の無名王がいる千戸の従属伊都國にふさわしい 783日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:34:08.70
>>426
まだやってるのか、ここ
もう纏向は「南≠東」などで×であり、
筑紫で決まっただろ 784日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:39:00.35
>>428
つまり、平原1号墓が卑弥呼も壹與の墓でもない、
ってのは完全に諦めるんだな?
大和説のやつは目先の言い逃れのために何が議論の中心なのかも忘れて、
整合性のないことを顔真っ赤で喚き始める 785日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:40:19.40
むかーし、山の上のほうに住んでいて、家の人間にオニギリなどを作らせて・・・、
『おむすびころりん』不思議の国?そういう話みたいなんだけど
786日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:44:27.28
下のほうで・・・劇、芝居が上演されていたのかな?
なぜか、そういう話
あの映画の話?日本何やら〜、誕生?
787日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:48:52.64
馬に乗っていて、なぜか刀も差していたと言っているし、
『日本誕生』という作品w
788日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:49:57.40
優れたザラコク氏が、邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏の頭が悪すぎるので、意見を発表するための文章の作成に真剣さを失った可能性が高いな、、
784日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:39:00.35
>>428
つまり、平原1号墓が卑弥呼も壹與の墓でもない、
ってのは完全に諦めるんだな? 789日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:50:45.81
>>716
>新品をわざわざ壊して供献している、つまりは祭祀が行われていると判断されている
桃とか乾物を載せていただけだろ。
穴に放り込む祭祀なんてあるわけがない。
欠けてしまったから始末しただけ。
纒向で祭祀なんて妄想。 790日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:51:50.75
>>725
>無理に、平原1号墓を持ち上げようとするから、取り留めのないでたらめになるんだよ
違う時代のものを比較しても意味がない。
アホなのか、知っててわざとやっている詐欺師なのか、好きな方を選べ。 791日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:52:44.36
>>733
>大宣子孫内向花文四葉鏡のシリーズは、別に平原1号墓の専売特許ではない
百年後にも平原の意匠が継承されていたとも取れる。 792日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:53:13.92
>>430
>>副葬品としての破鏡だ。<
>3世紀前半に名古屋、静岡、千葉まで波及しているが?<
名古屋、静岡、千葉は、当然、
九州倭国の「東征毛人五十五國」で征服されて破鏡が伝わったんだから、
平原以後であり、3世紀末頃以後だ。
おばかさんですね大和説者。 793日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:53:22.48
作品に出演をしているわけでもないし、何なんだろう。
本物なのかな?
794日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:54:32.23
>>738
>>>737
>>100年も年代が違う2本が、同時に埋葬主体に入るはずがない
>
>それはお前の願望だなw
墓を暴かない限り、違う年代の2本が入るわけないだろ。
キナイコシは目的のためならいくらでも口から出まかせをいうことが証明された。 795日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:55:26.43
>>740
>縄文人がそのまま弥生文化の担い手になっているのだから、基層の文化は
日本史を根底から覆さないとキナイコシの論理(?)は成り立たない。 796日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:57:21.34
>>771
>大船団を組んで一気に集団で渡ってくるなんてことはなく、五月雨的に少人数が
>ぱらぱらと倭国にたどり着くという状況
根拠のない願望を書いてもしょうがない。
実家のチラシの裏にでも書いてろ。 797日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:58:31.90
>>782
>倭の女王卑弥呼とは別の無名王がいる千戸の従属伊都國にふさわしい
王の名を書かないことはあり得ない。
実は書いてある。
ニギニギしく、「王命を曰く卑弥呼」と。 798日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:58:54.83
それとも、寒いな〜・・・は、他の家なのかな?
『千葉 ネズミーランド』(グーグル、画像)
799日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:59:14.01
>>439
>(纏向)鉄鍛冶遺跡も出てるし、<
破損鉄器の修理工場のような出土物であったし、
埋葬主体が発掘できた古墳で鉄器は大量に出ているのは、ほぼ4世紀。 800日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:02:07.53
800
801日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:02:24.52
山の上のほうに住んでいて、
馬に乗り、腰に刀・・・、下のほうまで行き・・・・wと言っているしw
802日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:04:27.14
まあ、魏略と鉄で大和説は詰んだようだな。
803日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:05:39.79
この意見は、頭が良い者が思い付く、良い意見ではないのかな。。
794日本@名無史さん2019/11/14(木) 21:54:32.23
>>738
>>>737
>>100年も年代が違う2本が、同時に埋葬主体に入るはずがない
>
>それはお前の願望だなw
墓を暴かない限り、違う年代の2本が入るわけないだろ。
キナイコシは目的のためならいくらでも口から出まかせをいうことが証明された。 804日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:06:51.79
鳳凰〜みたいな設定w『サイコソルジャー』も?
805日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:09:33.27
映画、作品に出演したりw
しているわけではないんだけど、なぜか同じ話。
806日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:13:11.98
>>803
つまり、同時期に死体に添えられた、二つの小枝の一方にだけ、熱中性子線の束が命中したのだな、、、 807日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:17:34.02
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝を、このスレッドで実行している朝鮮人の奥山氏は、スレッドを活発化することも、楽しんでいるのだったな。。。
808日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:20:06.67
>>448
ホケノは、3世紀末の庄内1の石塚の後だから、3世紀末〜4世紀。
> 豊岡編年纏向3類 3世紀第二四半期 <
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の森岡は、
まともな人間ではなく、・・・・アホ詐欺師であるから、根拠にならない。 809日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:21:23.19
>>449
>天理市も巻向遺跡に広める畿内説ってか?
黒塚から鉄器がでてるが、巻向衰退以降の古墳じゃなかったっけ<
ふーん。 810日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:24:27.32
戦争などをしている頃の話も同じ、
歌舞伎、芝居などを観に行っていたと言っているし
日本〜という映画以前の話、ほとんど老婆談なのかな?
811日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:27:53.07
>>473
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
何故絶対に証拠を出さないのだろうね
詐欺師だからかな? 812日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:30:38.04
>>478
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
ひたすら嘘を連呼するしかなくなった
大和説が悲惨すぎる 813日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:33:06.37
>>483
だという証拠は?
また「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は根拠もないことを
口先で言い張るだけ? 814日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:34:42.10
>>797
倭人じゃないから書いてないんだよ
後漢書の倭奴国王も書いてない 815日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:35:04.56
>>486
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説がまた嘘情報を流してるな 816日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:35:40.23
>>813
南は東の間違いという話は文書になってる
w 817日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:38:10.59
818日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:39:21.01
>>489
>福岡には城柵はないよ <
甘木付近や吉野ヶ里にあるし、おそらく安徳台にもあるな。 819日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:40:01.43
>>803
>墓を暴かない限り、違う年代の2本が入るわけないだろ。
いや、現実に木製の天井が自然崩落して側壁も倒壊してるのだが 820日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:40:52.52
>>490
もう、筑紫に決まってるんだけど、
それを認められない情弱おじいちゃんが数名、意固地になって頑張っちゃってるんだよ
困ったもんだ 821日本@名無史さん2019/11/14(木) 22:50:50.02
>>817
>どう考えても機内説は詐欺
ほら、九州説はすぐ旗色が悪くなって
そのたび具体性のない悪口で対話を打ち切ろうとする
後世に系譜が残ってるかという話題だったのに
自分に都合の悪い具体的データを突きつけられたら
突然
「違う時代のものを比較しても意味がない。」
とか言い出して
ちゃぶ台返しをする
そんな九州説が詐欺かインチキでしょ 822日本@名無史さん2019/11/14(木) 23:04:32.68
ああ言えばこう言うキナイコシ
823日本@名無史さん2019/11/14(木) 23:20:01.77
不思議なことに、畿内のどの大型内行花文鏡も平原の鏡よりわずかに小さい。
平原の鏡の大きさを超えないようにという配慮だろうか。
そうすると畿内の鏡師達も平原の鏡を知っていたのだろう。
八咫の鏡という名称があり、それに限りなく近い大きさの鏡を作ることができたのだから、鏡師ならば文字通りの八咫の大きさの鏡作りに挑戦したかったはず。
しかし誰もそれに挑戦しなかった。
伊都以外に八咫の鏡を作ることは、王権に対する大逆と取られる可能性があったのだろう。
824日本@名無史さん2019/11/14(木) 23:20:50.53
>>822
ほらまた
w
九州説は
実態を伴わない悪口しか言えない
みじめな負け犬だな 825日本@名無史さん2019/11/14(木) 23:23:42.95
>>823
>平原の鏡の大きさを超えないようにという配慮だろうか。
カチ破られて
小さな墓に
人知れず埋められた鏡の大きさなんて
誰も知ってるわけないわ 826日本@名無史さん2019/11/14(木) 23:42:29.03
>>799
>埋葬主体が発掘できた古墳で鉄器は大量に出ているのは、ほぼ4世紀。
それは九州説信者の願望だろ
現実に公的機関から発表されてる情報は
軒並み3世紀だ 827日本@名無史さん2019/11/15(金) 00:01:04.28
828日本@名無史さん2019/11/15(金) 00:01:29.87
829日本@名無史さん2019/11/15(金) 01:01:49.29
>>828
ちゃんと公的機関の報告書が出てるのだが? 830日本@名無史さん2019/11/15(金) 01:02:43.90
>>827
>八咫という大きさはわかるんだよ。
わかるという証拠は? 831日本@名無史さん2019/11/15(金) 01:07:00.79
証拠なし
理由なし
言い張るばかりの八咫バカ
832日本@名無史さん2019/11/15(金) 03:29:39.76
>>731
>だから、割り竹型木棺の外側の部分から試料採取してるだろ?
どうしてこの詐欺師は平気で嘘をつくのか?
ホケノ山古墳のNo.1〜5は木棺のどの年輪から採取した試料か
不明だよ
だから次の調査では古木効果をなくすために小枝試料を用いた 833日本@名無史さん2019/11/15(金) 06:38:56.86
>>832
それは嘘だな
「次の調査」など存在しない 834日本@名無史さん2019/11/15(金) 07:18:40.54
>>833
2001年と2008年で2回報告書がでている 835日本@名無史さん2019/11/15(金) 07:21:47.56
836日本@名無史さん2019/11/15(金) 07:22:03.36
2019年、NHKが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全く無いことを発表しました。
837日本@名無史さん2019/11/15(金) 07:36:16.22
>>834
あのなあ、2001年のは概報だろ
本報告は精査に時間がかかるのでとりあえず出す速報のようなもんだ 838日本@名無史さん2019/11/15(金) 07:43:49.03
>>728
>小枝 250――300 320――420 ←これ
250ー300 13.9%
わざわざ確率の低い方引っ張ってきてて、クズ過ぎてワロタ
320ー390
320ー420
が本当の値 839日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:06:12.27
840日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:17:26.39
>>502
広く認められている国民や人類の常識の「南」を、
根拠もなく、すべてご都合主義で否定しないといけないんだから、、
大和説学者らや類スレ主楽天は大変だ 841日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:28:27.28
>>517
>馬台国だった吉野ヶ里が放っていたニニギの一族である物部と海人族が尾張と河内に拠点を築く
出雲が支配していた未開地の奈良を移住地に設定し、
奈良盆地に邪馬台国の祭祀を移動させたためヤマトの名が引き継がれる
と考えるのは自然と思うが
その後出雲はじめ各地の海人族の拠点は淘汰され王権が確立したと <
ストーリーは構わんと思うが、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
×だ、と思うな。 842日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:35:44.13
頭の悪い奥山も、ホケノが4世紀だという事に、ようやく気付いたわけだが、箸墓も4世紀であることも、わかっているのだろうか。。。
843日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:36:06.27
魏志倭人伝では、「邪馬台国」ではなく、「邪馬壹國」と書かれていたのだったな。。。
841 名前:日本@名無史さん 2019/11/15(金) 08:28:27.28
>>517
>馬台国だった吉野ヶ里が放っていたニニギの一族である物部と海人族が尾張と河内に拠点を築く
出雲が支配していた未開地の奈良を移住地に設定し、
奈良盆地に邪馬台国の祭祀を移動させたためヤマトの名が引き継がれる
と考えるのは自然と思うが
その後出雲はじめ各地の海人族の拠点は淘汰され王権が確立したと <
ストーリーは構わんと思うが、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
×だ、と思うな。 844日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:37:08.98
謎の人物が出現し、真実を発表してしまったな。。。
842日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:35:44.13
頭の悪い奥山も、ホケノが4世紀だという事に、ようやく気付いたわけだが、箸墓も4世紀であることも、わかっているのだろうか。。。
845日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:38:34.72
>>844
頭の悪い奥山氏も、ついに、ホケノが4世紀だという事を認めたので、次は、箸墓も4世紀である事を認めさせれば良いのだね。。。 846日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:39:43.07
2019年、NHKが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全く無いことを発表しました。
847日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:44:07.42
頭の悪い奥山が、故意に見落としたデータは、真実を示すものだったのでは、ないのかな。。。
ホケノ山古墳の小枝の年代の件
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
測定結果
「ホケノ山古墳の中心埋葬施設から出土した小枝は3世紀〜5世紀の樹木の小枝であり、南西添え柱材は
紀元前3世紀〜同1世紀に該当する木材が使用されていた可能性が考えられる。」 848日本@名無史さん2019/11/15(金) 08:50:37.00
>>540
>ホケノ山古墳の14C年代 西暦に換算済み
木棺
小片 No1 22―――――――244
小片 No2 1―――――181
小片 No3 20―――――219
小片 No4 BC4―――134
小片 No5 55―――――237
南西の添え柱 BC210――――BC50
小枝 250――300 320――420
木棺は3世紀前半で収まる 木槨は測定していない
添え柱が木槨を支えるものだから、木槨とはこれのことだと強弁することは可能だが
その場合14C年代は紀元前になる
4世紀ってのは小枝の年代だと思うが、小枝の2試料で、重なる部分がなく
100年異なる値を示している<
木棺と添え柱は、「樹皮から採取部位の年輪数」や「寝かせ年間」が不明であるから、
小枝よりも 百年単位位古く出る可能性があるし、
いずれも「プラズマ化」などに拠っても50〜100年位古く出た可能性もあるから、
そんなデータは絶対年代の根拠にならない。 849日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:10:56.03
>>544
>纏向で行われる国家祭祀・大型祭祀土坑で妻子に用いる供献土器として
持ち込まれたものだ
飯炊き甕が使われるのは、神人共食(しんじんきょうしょく、共食いじゃないよ)の
思想を示すものかもしれない
おまけで、東海産と言っているのは「伊勢・東海系」でむしろ伊勢が多い<
何だ?、また何の根拠もない「分裂幻覚の妄想的な推論」でしかないのか。 850日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:18:19.89
大嘗祭の主要儀式「大嘗宮の儀」では、最も重要な祭祀の場「悠紀殿」と「主基殿」の神座に徳島産の麻織物「麁布」が供えられた。
麁布とは何だろう。
先月、29日、皇居に納められた美馬市木屋平貢の三木信夫さん(83)によると、
大嘗祭の責任者、宮内庁の楠本祐一賞典長は「神が降りる依り代が麁布です」と語ったという。
平成の大嘗祭の賞典長鎌田純一さん(故人)は、著書「平成大禮要話」(錦正社)で、麁布を置く神座の重要性をこう話した。
「古来神座は神の坐す座として天皇もつつしみ対されて来たところ」
徳島新聞 2019年(令和元年) 11月15日 朝刊 @阿波
851日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:18:42.94
>>547
>この人はいつも半島ageだけれど、在日の人かな?w
織部や瀬戸焼は陶芸じゃないってか?w <
この人はいつも半島sageだけれど、極右の人種差別の人かな?w
天皇家や弥生人は大陸や半島系じゃないってか?w 852日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:33:25.26
>>563
>奥山誠義 2008「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の 14C 年代測定」
『ホケノ山古墳の研究』奈良県立橿原考古学研究所研究成果第 10 冊,奈良県立橿原考古学研究所,pp.191–192 <
「南→東」などの嘘つき騙しをしている奥山は、・・・・詐欺師であるから、
奥山の論考はあてにならないよ。
特にここでも?、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っており、
奥山らの大和説者は、デタラメ編集をしているからね 853日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:46:22.79
頭の悪い奥山は、この世の原理を学ばずに、測定業を営んでいる、可能性が高いのでは、ないのかな。。。
854日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:48:21.42
>>573
>九州雑多作り話は比定地をまず絞らないと<
元々、女王國(≒倭國)は、ほぼ九州島付近。
>動物園みたいな造りのガジン地区古代韓国とか大村チビ族地域の合わせ鍛え盗品鉄器とか
漢鏡多数副葬の博多湾沿岸にないものを持ち出す<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、・・・・アホ詐欺師であるから、
このように、意味不明な「造語」文言を使って、
意味不明な分裂幻覚の妄想のような文章を書く。 855日本@名無史さん2019/11/15(金) 09:57:38.53
>>588
>このように九州で本州の文化を早く受け入れた筑前と
下のほうとの境界地帯ではアクセントが崩壊してしまっている・・・<
筑紫中心の「東征毛人五十五國」があって、本州は筑紫の文化を早く受け入れた。 856日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:22:20.24
>>626
>>炭素年代で木棺 の小片がBC4〜237年と200年も差の数値を示した謎を解いてみたら<
>謎でもなんでもない
2世紀中頃から3世紀初頭までは異常気候のため炭素年代による判別がつかないだけだ<
50年余り位の異常気象があったとしても、
「BC4〜237年と240年位も差の数値を示した謎」の説明にはならない。
>そこで土器編年を物差しに使う
1様式の存続期間はそんなに長くないのだから、
次の様式の測定結果と照らし合わせれば実年代が絞り込める<
土器編年は、始めから「絶対年代根拠にならない」から、×。 857日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:23:57.84
>>628
「南→東」などの嘘つき騙しまでして、
「神の国は近づいた」みたいなノリで連呼してる大和説者の姿は
まさに狂信的な宗教の人だね 858日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:29:39.76
>>634
>「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」
測定結果
「ホケノ山古墳の中心埋葬施設から出土した小枝は3世紀〜5世紀の樹木の小枝であり<
成程。 859日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:40:43.45
>>645
>使い古してこびり付きの酷くなった飯炊き瓷と残飯が捨てられたゴミ捨て場を
祭祀に紐付けるのも大変だなw <
ふーん。 860日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:49:18.10
>>648
>3世紀に各地から人が集まって大型土坑で祭祀を行っている遺跡はない <
纏向よりも沢山桃が出土した吉備では、どうなってたんだい?。
「桃太郎」伝説は、他にもあったのか?。
>その意味で、広域に動員をかけられる人物が存在する倭国で唯一の祭祀中心が
纏向遺跡なんだよw<
「桃と祭祀器具」だけでは、
「広域に動員をかけられる人物が存在する倭国で唯一の祭祀中心」にはならないよ。 861日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:50:19.91
纏向だが
住居跡が、数棟しか無いのに、
大集落とか王都と、推測するには時期尚早だと思う。
あまりにも結論を急ぎ過ぎ!
現段階での推測では、古墳造営キャンプ地と見るほうが、
推測的には、材料が揃っている。掘立柱建物は、宮殿なら周りが閑散としている
祭場でも斎場でも良いが、死者の供養や葬儀で使われた可能性が無いとは言い切れない。
桃は政り事に必要では無い、むしろお供えや、お詣りに使われたのでわ?
吉備で纏向を圧倒的に凌駕する桃かくが、出土してるが、殆ど古墳域であり、
大集落では無い
機内説を否定するわけじゃ無く、先走りで断定的に言うのは賛同できない。
862日本@名無史さん2019/11/15(金) 10:58:08.90
>>861
賛同する
機内説の学者は名誉欲と金銭欲の塊りだから、
花火を打ち上げてるだけ、
いずれ消えて無くなるだろうが、自分の代で無けりゃ良しとする打算的な奴ら^_^ 863日本@名無史さん2019/11/15(金) 11:24:09.61
もう畿内説という名の証明のしようがない空想物語になってるよね。
言い回しがネズミ講の勧誘みたいで気持ち悪い。
864日本@名無史さん2019/11/15(金) 11:35:24.13
>>667
>つまり、平原1号墓が2世紀ってのは完全に諦めるんだな?ww <
平原1号墳は、3世紀の第3四半世紀の末頃。 865日本@名無史さん2019/11/15(金) 11:44:56.99
>>684
>4世紀以降全国でみられるタイプは
平原の径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡だな。<
ふーん。 866日本@名無史さん2019/11/15(金) 11:59:07.17
>>835
>径2尺で周8咫
砕いて埋められてる鏡の直径を
誰が知ってるんだ?
w 867日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:22:34.17
868日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:23:29.74
卑弥呼はアマテラスだったということで良いのでしょうか?
869日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:23:45.93
邪馬台国論争も、もうロマンはありませんが
畿内では、鉄板も解けてなくなるので、
更なる真実を探求しましょう。
870日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:31:50.92
>>868
>卑弥呼はアマテラスだった
アマテラスはどこにいたとお考えなのか、またその根拠をどうぞ。 871日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:33:20.01
皆さん詳しいですけど
みなさん大学生ですか?
20歳前後でここまで詳しいとは
勉強熱心ですね
872日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:40:31.41
>>870
アマテラスは、高天原から降りなかったわけですから、高天原にいたのですよ
勿論、神話上です
質問を、変えます
卑弥呼はアマテラスのモデルだったということで良いのでしょうか? 873日本@名無史さん2019/11/15(金) 12:54:55.17
>>870
>アマテラスはどこにいたとお考えなのか、またその根拠をどうぞ。
アマテラスは倭国(阿波)にいた。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」。
御祭神は大日?女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 874日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:00:57.34
>>870
大嘗祭の「麁布」も、「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」に由来する。 @阿波 875日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:09:50.52
平原女王=天照大神
卑弥呼=神武を東征させた女王(記紀に抹消される)
876日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:11:14.62
877日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:12:43.30
>>866
祭りの時に見た人はいたはず。
そしてその祭りは卑弥呼の時代。
卑弥呼はその祭りも見ていたはず。
被葬者が卑弥呼本人でない限り。
少なくとも生前に卑弥呼はその鏡を見ていたと考えるのが妥当。
当時最大の銅鏡を、女王以外の誰が所有していた?
しかも平原遺跡の他の副葬品は宝飾品ばかり。
誰の宝飾品だったのだろう? 878日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:13:22.39
>>872
>卑弥呼はアマテラスのモデルだったということで良いのでしょうか?
そう考えるのが妥当 879日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:18:05.77
3ポイントシュートを数多く打つ方が、そうでない方よりも、勝つ確率が高まるのではないのかな。。。
880日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:18:41.49
880
881日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:19:31.40
明日は、ファイアーボンズを中央体育館で迎え撃つのだったな。。。
882日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:20:17.17
>>877
>誰の宝飾品だったのだろう?
筑紫忌部。 @阿波
883日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:20:39.16
色々な角度から、3ポイントシュートを打つ訓練を、繰り返せば良いのではないのかな。。。
884日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:21:33.43
実際は家の老婆のことなんだろう、また母親?
わかりやすく言うと、寒いな〜・・・の嫁だしな。
『日本誕生』〜『孫悟空』という作品など、
老婆談と、ほとんど同じだし、あの写真なども。
885日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:24:37.02
『葱の華』
あの写真の家・・・の嫁。
886日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:26:43.72
『扶余族の祖先の直系の子孫が百済人、高句麗人そして新羅人であり、
百済人の話した言葉が現在の関西弁に相当するが、上代には8母音であったり、
彼らのアクセント(京阪式アクセント)から東京式アクセントが出来たという』
なるほどねえ、畿内ヤマトが百済の兄弟だと言われる意味が分かった。
887日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:29:03.03
888日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:29:52.78
老婆よりも前の代?の・・・話などもしているし、
蚕を飼い、機織りなどをしている家があって。
あの写真も老婆が生まれていない頃の写真。
889日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:30:24.39
3ポイントラインのRの中心は、何処にあるのだろうか、、、
890日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:32:00.41
頭の悪い奧山氏には、Rと弧の関係性が、理解できない可能性が高いのだったな。。。
891日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:32:47.55
>>835
平原のサビ色塗装鏡が咫の単位を使ってないから妄想 892日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:33:14.64
3ポイントライン内部の形は、半円と長方形を繋いだ形なのだろうか。。。
893日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:34:44.90
NBAとBリーグでは、3ポイントライン内部の面積が違うのだったな。。。
894日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:35:55.10
色々な角度から、3ポイントシュートを打つ訓練を、繰り返せば良いのではないのかな。。。
895日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:36:24.41
河童、河伯〜?
キュウリのような葉も写っていたりw
896日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:42:28.66
老婆から見て、姑の父親がいたりするでしょ、
なぜか・・何々様なんて言われていたとか、老婆が嫁に来るよりも前の話。
当時の、寒いな〜・・・の母親の父親の話。
897日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:44:43.06
実際は・・・老婆も、そうなのかも?
何やら様みたいな人物
898日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:46:17.32
>>789
>桃とか乾物を載せていただけだろ。
ただの妄想ですね!
>穴に放り込む祭祀なんてあるわけがない。
穴というより、水辺の祭祀、井戸祭祀なんだよ
纏向の祭祀土坑は水が湧く面まで掘り下げてある
>欠けてしまったから始末しただけ。
>纒向で祭祀なんて妄想。
欠けてないんだよ
新品を壊すことで捧げるという様式
反論も、無理筋のめちゃくちゃなことしか書けなくなってきたなww 899日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:46:19.64
もれ(仮)のw・・・母親も同じとか?
900日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:47:09.78
>>790
>違う時代のものを比較しても意味がない。
違う時代のものを持ち出しているのはお前だろ?
平原1号墓は卑弥呼の時代ではない 901日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:47:50.91
2019年、NHKが、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全く無いことを発表しました。
902日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:49:03.89
>>791
>百年後にも平原の意匠が継承されていたとも取れる。
百年前も、百年後も内行花文鏡の作図の原則は変わっていない
その中で、内区が小さいというでたらめをやっている唯一の手抜き鏡が
平原1号墓の46センチ鏡だ
どこにも継承されていないし、どこにも影響を与えていない 903日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:52:01.14
>>711
>小枝二本は、14C年代で重なる部分がなく100年ずれている
小枝 250――300 320――420
つまり、これらが同時にホケノ山古墳の埋葬主体部に埋葬時に入れられたとすることは
不可能で、埋葬時ではなくのちの時代の混入であることを裏付けている<
小枝二本のそれぞれが50年や100年の幅を持ってしまっている、という事が、
計測方法そのものに欠陥があった、という事を示しており、
それにプラズマ化の50〜100年も古く成り過ぎていた、という事も加えれば、
木棺データや隅材データも含めて、ホケノの3世紀前半という結論は、全く×だよ。 904日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:53:46.59
>>794
>墓を暴かない限り、違う年代の2本が入るわけないだろ。
だろ?
つまり、のちの年代に墓を暴くに等しいこと、つまり天井の崩落があって、
それで違う年代の2本が入ったんだよ
小枝2本の年代が違うのは確定なんだから
>キナイコシは目的のためならいくらでも口から出まかせをいうことが証明された。
でまかせ言ってるのはお前だろ?
何を勘違いしているんだ?ww 905日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:55:16.02
>>795
>日本史を根底から覆さないとキナイコシの論理(?)は成り立たない。
縄文人を駆逐して弥生人になった訳じゃないんだよ? 理解してるか?
骨格の変化は、食事の変化で多くの部分が説明できる 906日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:56:23.15
>>796
>根拠のない願望を書いてもしょうがない。
こいつ、本当にブーメランが好きだなぁ
渡ってきた集団がいきなり国を作れるほどの人数で来るなんて想定、ありえないだろうにww 907日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:57:26.71
>>797
>実は書いてある。
>ニギニギしく、「王命を曰く卑弥呼」と。
糸くず説の一番惨めなところがここだよなw
そんな読み方をするバカしか、糸くず説を信奉したりしないww 908日本@名無史さん2019/11/15(金) 13:59:41.53
>>712
>纏向大溝で出る飯炊き甕と、祭祀土坑で出る使用痕のない甕をごっちゃにしちゃだめだよww<
何だ?、土坑から出た飯炊き甕は使用痕がないのか。
土坑からは庄内3が出た筈だな。
という事は、土坑は3世紀最末期だな。 909日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:01:05.64
『西遊記』という作品、
王(king?)〜某という人物もいたり、ほとんど同じ、
910日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:03:31.27
王母〜龍宮〜寒いな〜・・の家の写真。
傾いた松の木も同じ。
911日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:05:32.36
川俣町というところの話もしているし。
912日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:06:39.36
>>904
>つまり、のちの年代に墓を暴くに等しいこと、つまり天井の崩落があって、
>それで違う年代の2本が入ったんだよ
都合の良い時に天上の崩落があったものだな
ただ、何事もないのに石の天上が崩れたりは考えにくい
大地震でもあったのだろうが、その他の古墳でも同じ時期に崩落があったのかい??
まさか、貞観のころだったのではないか?? 913日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:09:33.71
>>713
>他の地域のは、内行花文鏡の作図の原則に従って丁寧に作って完鏡の状態で
埋葬されている
平原1号墓のは手元にある古い内行花文鏡を見よう見まねで適当に作って
伝統的な作図から逸脱した代物で、流水文のところをただの同心円にして面積を稼ぎ
鋳込みのときにも鬆が入るような手抜き鏡 <
いや、副葬用の鏡片の数を増やすために、渡来の呉系楽浪鏡師らは、
大きい目の「古い内行花文鏡の外殻部を広げた」鏡を造って、
錆色塗装で綺麗にした。
>それを、バキバキに割って棺内に入れるでもなく、壷に収めるでもなく、墓地の
土の中にばら撒いてある<
副葬の鏡片用。 914日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:09:51.98
>>898
>穴というより、水辺の祭祀、井戸祭祀なんだよ
>纏向の祭祀土坑は水が湧く面まで掘り下げてある
古井戸に茶碗が捨ててあったのを祭祀と言い張っているだけか。
驚いたな! 915日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:10:57.46
老婆談、そういう映画よりも、前の話なんだよな・・・、
だから、おかしいな?と言っているんだよw
916日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:11:25.62
仕方ないよ!
纏向は、石野と寺澤に与えた玩具じゃねーので!
917日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:11:40.49
>>900
>平原1号墓は卑弥呼の時代ではない
推定年代が公式報告で200年頃なので、卑弥呼の時代なんだけど。
190年頃まで続いた倭国大乱が卑弥呼の即位で終息したと書いてある。 918日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:12:00.27
纏向で出土した東海・伊勢産の飯炊き甕はドカタが持ち込んだ物だ。
畿内説がこんな事を言ってたはずだ。
纏向には全長2.3kmに及ぶ巨大な運河が造られており、たくさんの労働者が灌漑模工事などに従事していたと考えられる。
まあ、俺達は古墳建造工事だと判断してるけど。
919日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:12:27.71
>>902
平原遺跡の鏡だけがスペシャルだったということかな? 920日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:13:40.19
>>905
>骨格の変化は、食事の変化で多くの部分が説明できる
キナイコシがまた苦し紛れの口から出まかせをはじめたぞ!
すっかりこのスレの名物だな! 921日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:14:45.78
>>715
>平原の径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡<
そうか。
「径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡」が、
呉系楽浪鏡師らが造った5枚の巨大「内行花文鏡」の 下絵になったんだな。 922日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:15:29.65
『姥清水』?
923日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:17:21.38
そもそも奈良盆地のどこにそんな運河があったんだ?
地図とかあるのか?
口から出まかせ?
奴国の大溝より狭かったら笑ってやるよ?
924日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:18:51.15
〜〜〜〜〜〜邪馬台国なのか、
何なのか知らないけど、ほんとーは家の話なんだろうw
925日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:22:58.45
926日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:25:42.33
<纏向遺跡が古墳造営基地局だったと言われる理由>
・整地するにもそこそこ大規模な工事が必要
・やたらと土木用が出土する
・住居跡や農具などといった生活痕を示す出土品がほとんどない
・4世紀頃の遺構からは色々出土するが、いずれも記録には記載されていない意味不明な物品ばかりである
・周辺には大型古墳が立ち並ぶ
・纏向の消滅と同時期に周辺の大型古墳の建造も終息している
927日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:26:12.95
>>715
>>2世紀末〜3世紀の「畿内」には倭国大乱の痕跡なし、
>九州にもない 九州にあると言っている殺傷人骨は甕棺墓で、時代が異なる<
大和説学者の年代詐称の詐術。
>>纏向遺跡には楼観なし、
>九州にもない 吉野ヶ里遺跡は時代が合わないし、畿内の絵画土器を参考にして作り上げたもの<
甘木付近にあった。
>>兵隊の鉄鏃出土なし<
>これは九州説の年代詐欺・・・<
これは大和説の年代詐欺。
○ホケノ山3世紀中葉 ○椿井大塚山古墳3世後葉黒塚古墳3世紀後半は、
いずれもほぼ4世紀。
>>箸墓に殉葬なし
>大規模殉葬の確認できる遺跡は日本に一つもない <
祇園山がある。 928日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:26:24.28
ほとんど同じ話(老婆談)なのに、
そういう作品に出演しているというわけでもないし。
『❓』?
929日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:26:39.48
>>923
九州説は「現実が見えない」病
幅約5m、深さ約1.2m
大溝は北溝と南溝の2本の溝が人の字形に合流するもので、確認されている各溝の長さは北溝約60m、南溝約140m 930日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:27:58.11
931日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:28:21.79
>>918
資材運搬だけに一時的に利用する運河なら
ヒノキの矢板で護岸をする必要がない 932日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:29:36.80
>>929
意外と公衆便所かもなw
大型建物に住んでいた土建屋のw 933日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:30:11.76
>>716
>>土器もただの土器だよ。
>>その土器に煮炊きの跡はあるのか?<
>使用痕のないものが確認されているので、使って壊れたものを捨てたのではなく
新品をわざわざ壊して供献している、つまりは祭祀が行われていると判断されている<
それは土坑の話だな?。飯炊き釜の話なのか?。 934日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:33:40.03
>>929
用水路と間違えられそうになったショボいやつかw
纏向に農業の痕跡があったら用水路で決定w 935日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:34:44.16
>>917
博多で庄内式の模倣製作が始まるのが平原1号の直後だから
北部九州が邪馬台国連合に参加するのは共立から少し遅れるだろう 936日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:35:23.10
日本の話。
アニメで例えると、
ミンメイ(書房)・・・、当時、そのような人物がいたんだろうw
戦争をしていた頃の話もしているし。
937日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:36:36.34
938日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:38:44.26
939日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:41:07.31
>>935
> 博多で庄内式の模倣製作が始まるのが平原1号の直後だから
なるほど。
当時は大都会福岡に上京した畿内民達は、福岡の粘土を使った庄内式土器を売って生計を立てていたんだな。 940日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:42:44.11
驚いたな。。。
この図が正しいならば、奧山氏は卑劣な印象操作をしていただけでなければ、BP測定値が20しか差がない小枝に関して、炭素年代法のことをまるで理解していない無知な意見の発表を繰り返していたことになるな。。。
540日本@名無史さん2019/11/14(木) 11:45:45.73
ホケノ山古墳の14C年代 西暦に換算済み
小枝 250――300 320――420
4世紀ってのは小枝の年代だと思うが、小枝の2試料で、重なる部分がなく
100年異なる値を示している
728日本@名無史さん2019/11/14(木) 19:48:22.33
小枝 250――300 320――420 ←これ 941日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:43:19.15
あとガンダム?
テングテングのようなキャラもいたり、なぜかサングラス?
942日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:45:52.28
>>940
奧山氏は、炭素年代法のBP西暦図において、縦軸にも横軸にも、確率的な処理がされていることを、まるで理解できていないのだったな。。。 943日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:47:07.51
>>938
男王の時代を70〜80年と特定していることから、漠然と各地の王権を漠然ととらえているわけではない。
そのさらに少し前には倭奴国が金印を授かっていることから、卑弥呼の前の男王を含め、倭国大乱の「倭国」とは博多湾沿岸のことと考えられる。
もちろん、倭国女王であった卑弥呼も同様である。 944日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:47:14.58
>>939
痴呆だから記憶できないのだろうが
筑前型庄内甕は在地職人の模倣製作 945日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:47:28.58
>>929
それ、古墳造営の資材運ぶ水路だよ
数棟の掘立柱建物を建てるのに必要無いし 946日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:47:47.58
>>930
奴国の大溝は幅lm前後、深さは0.95mほど
溝からは、畿内系・山陰系の二重口縁壷や庄内式の高杯など
の古墳初頭の土器が中層から上層にかけて出土 947日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:51:39.42
なぜか、
いまの福島県(?)のほうに住んでいたことがある
と言っているし、山の上のほう
948日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:51:56.57
>>944
その似非職人が貧困な畿内から来たお上りさんという事だろw 949日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:55:58.73
>>725
>>4世紀以降全国でみられるタイプは 平原の径27.1cmの大宣子孫内向花文四葉鏡だな。<
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.htmlに拠れば、
長℃q孫内行花文鏡
京都府相楽郡山城町椿井大塚山古墳25.5cm 長℃q孫 広範囲に出土する。
だから、やはり渡来の呉系楽浪鏡師らの中の一人などの作さだな。
>「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
「直弧文帯縁内行花文鏡」 34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
は、大宣子孫内向花文四葉鏡とは違うだろ? <
それらは、大きさが魏鏡とは全く違っているから、当然、やはり、
陳氏らとは別の渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡だな。
>それに、大きな銅鏡は内行花文鏡に限った話ではなく
「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明
「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土というのもある<
これらも、大きさが魏鏡とは全く違っているから、当然、
陳氏らとは別の渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡だな。
>無理に、平原1号墓を持ち上げようとするから、取り留めのないでたらめになるんだよ<
30cm以上の鏡は、平原1号の巨大鏡の鏡師と同じ鏡師らの作であった可能性が高いな。 950日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:56:16.29
>>943
極南界の王名の記載がない倭奴国の北部九州は倭国の盟主ではない
その後倭国の王の帥升等が朝見を願い出た
2世紀前半から倭人の風習である卜骨が出る地域の中から
吉備や出雲で大型の墳丘墓が造られる
近畿では後に畿内と呼ばれる広域で土器の斉一化がゆっくりと進む
北部九州では亀棺墓集団のど没落が始まる 951日本@名無史さん2019/11/15(金) 14:59:35.62
BP軸にへばりついている正規分布が、お互いに±1σで重なり合う部分は、おおよそ1689-1711なのだな。。。
だからこの部分が、±1σで算出された較正曲線と重なる部分を外してしまえば、1から0.682を減じた数値の3乗の確率になるのだね。。。
952日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:00:18.26
>>940
奧山氏は、炭素年代法のBP西暦図において、縦軸にも横軸にも、確率的な処理がされていることを、まるで理解できていないのだったな。。。 953日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:02:37.53
纏向に土木よう工具が、多数発掘されてるが、
建造物もほとんどないし、古墳造営メインの飯場で良いよ、。
954日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:06:04.13
よっぽど悔しいんだね
955日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:07:01.09
956日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:07:35.62
>>953
素直にざっと見渡せばそうなる。
そこに数万文字の言い訳を連ねて王都であるかのように妄想しているのが朝鮮式畿内説。 957日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:07:59.51
958日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:10:39.25
老婆談と同じ話でしょ?
むかーし、くが、こが・・・そういう女優もいて、
(どこだったのか、覚えていないけど。当時、住んでいた場所もw)
撮影に来たりしていた
そういう話もしていたり
959日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:10:55.89
ホケノ山が通説通り3世紀前半だと
唯一の拠り所「マキムク鉄がないィー」絶叫ができなくなってしまうので
九州説必死です
960日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:11:10.43
961日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:12:23.54
>>955
そうだな、、、早合点してしまったね。。。
少し考え方を変えて、小枝が両方とも250年から300年にへし折られたのだという確率を考えた方が良いね。。。 962日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:12:49.38
日本国民は九州説
963日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:13:18.13
964日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:13:39.68
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
965日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:13:42.28
>>940
その結果を見てホケノ山を3世紀だと言ってたら、それはもう詐欺という犯罪でしょう 966日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:15:41.96
>>960
住んでいるからと言って日本人とは限らない。
朝鮮式畿内説は朝鮮DNAを持っていなければ出てこない説。 967日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:15:56.12
>>726
>>(ホケノの刳り抜き木棺)古木効果とかいうやつですか?<
>単純に試料の測定誤差と見てよいだろ?
1880±50 1830−−−−−−−−−−1930
1920±40 1880−−−−−−−−1960
1910±40 1870−−−−−−−−1950
1940±40 1900−−−−−−−−1980
1880±40 1840−−−−−−−−1920
というのが、BP値の生データ
±40〜50のデータとしてはよく揃っているといえる<
データの5箇所の採取での中心年で見れば、60年の差異の発生であり、
60本の年輪年数差が発生した、という位の失敗計測であった、という事であり、
そうすると、採取中心と樹皮の間の年輪数が不明であり、更に寝かせ年数も不明であり、
更にプラズマ化効果の50〜100年も見れば、
110年〜160年以上の計測間違いが発生していた可能性が十分にある。 968日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:17:46.55
>>962
ネトのアンケで辛うじて54%の過半数取っただけだろ
伊都説、博多説。筑後説、熊本説、宮崎説と散り散りバラバラになって
どれをとっても泡沫説
阿波よりも泡
それが九州説 969日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:18:39.63
970日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:19:07.98
971日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:22:54.79
>>950
金色がその部族の王に与えられる物である事さえ知らないキナイコシ 972日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:23:36.25
>>967
薄っぺらペラペラの木片だぞ
表面に近いとこだよ 973日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:24:25.38
974日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:25:09.27
そもそも炭素年代法は破綻しているのだが、Ω歩譲って炭素年代法が正しいと仮定すると、
僕達の計算では、両方の小枝が3世紀にへし折られた確率は、3%から4%程の可能性が残ってしまうな。。。
965日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:13:42.28
>>940
その結果を見てホケノ山を3世紀だと言ってたら、それはもう詐欺という犯罪でしょう 975日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:25:37.68
976日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:27:24.35
大口をたたいている割にショボイな畿内説w
佐賀:吉野ヶ里遺跡
奈良:纏向遺跡
↑小さくねえか? 977日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:29:18.53
978日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:29:46.18
ガンダムの某など、なぜ仏教の話なのか・・・?なんだよな。
本当に先住民なのかな?仏教は外から入ってきたはずなのに。
979日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:29:48.76
>>731
>>だから木材の場合は一番新しい年代を選ぶべきなんだよ。<
>だから、割り竹型木棺の外側の部分から試料採取してるだろ?
その上で、その試料の測定値の「誤差範囲の中で新しい方がより妥当だ」と
考える理由は何一つないww
測定原理も、統計も何一つ理解していないバカじゃないと、ここまでのデタラメは
なかなか書けないぞww <
?。
ホケノは刳り抜き式であって、割竹式とは少し違うし、
それが一番「外側の部分」か?も分からないだろ?。 980日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:33:27.79
>>973
甕棺墓集団は九州でも少数民族だからね
韓国の歴史的被差別地域の全羅南道では存続する 981日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:34:13.27
>>977
いずれにしても、図が正しいならば、奧山氏は卑劣な印象操作をしていただけでなければ、BP測定値が20しか差がない小枝に関して、炭素年代法のことをまるで理解していない無知な意見の発表を繰り返していたことになるな。。。 982日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:34:57.43
『三貴子』
実際は渡来系だと言ってる人がいたり、
先住民でもないとか
983日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:36:14.89
>>733
>そして、平原1号墓の46センチ鏡は、スケールアップできてなくて
コンセプトが異なる、のちの鏡にまったく影響を引き継いでいない
手抜きのガラパゴス鏡 <
渡来の呉系楽浪鏡師に拠って、最初に巨大な平原1号鏡で造られ、
その後の少し小さい「巨大内行花文鏡」が、
同じ鏡師やその弟子たちの関与に拠って、造られたの。
>大宣子孫内向花文四葉鏡のシリーズは、別に平原1号墓の専売特許ではない <
勿論個人の専売特許ではない。 984日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:37:22.29
>>979
>ホケノは刳り抜き式であって、割竹式とは少し違うし
だから刳り抜き式だろうが割竹式だろうが
どうして巨木の芯の部分が平らな薄っぺらい木片ばかりになって残ると思うの? 985日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:37:43.25
三貴子?謎の物語によると、
倭何やらなどの勢力に、やられた?とか
そういう話でしょ
986日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:39:19.90
>>975
は?
倭という部族の極南界にあるのが倭奴国 987日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:41:06.32
>>983
渡来の呉系楽浪鏡師とか
あんた一人の空想だろ 988日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:42:26.11
>>986
つまり倭奴国王は倭国王ではありませんね
はい、おしまい 989日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:42:59.48
>>968
>阿波よりも泡
畿内説もだよ。 わははははは @阿波 990日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:43:49.70
>>976
纏向遺跡って大集落じゃなかったの?
当時としては大きい建物ってこと? 991日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:44:17.08
992日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:44:24.01
三貴子?
実際は倭〜何やらなどよりも、
さらに後の時代になってから渡ってきたみたいな事を言ってる人がいたでしょ、
本当の三貴子は、日本(倭・・・不明)に住んでいなかったのかな?
993日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:44:34.67
>>977
いずれにしても、図が正しいならば、奧山氏は卑劣な印象操作をしていただけでなければ、BP測定値が20しか差がない小枝に関して、炭素年代法のことをまるで理解していない無知な意見の発表を繰り返していたことになるな。。。 994日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:45:06.72
>>737
>>ホケノ山古墳の槨には4世紀の小枝が副葬されていた<
>これは嘘 100年も年代が違う2本が、同時に埋葬主体に入るはずがない<
可能性のある最小幅とかでも、比べて見ろ。
>>平原1号墓の超大型内行花文鏡は国産大型内行花文鏡の先駆けであり世界最大<
>内行花文鏡の大型化はその前から始まっている<
何時から?。しかし、平原が最大である事には変わりがない。
>平原1号墓は銅鏡としては大きさだけは最大だが、
内行花文鏡の規範を踏みにじった大きくすることだけが目的の手抜き鏡<
いや、副葬用であり、鏡片用。
>先駆けとはいえないし、のちの鏡に影響も残していない<
平原があったから、その後の半巨大内行花文鏡が造られた。 995日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:45:08.62
996日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:45:59.78
卑弥呼が共立された倭国の極南界にある倭奴国(=北部九州)では
倭人の風習である卜骨が出ない
日本には拡がらない甕棺墓制や首狩の風習があった
997日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:46:28.30
倭国の起源は福岡。
これが倭国創建の祝詞。
■ 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと
恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
998日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:47:44.11
畿内纒向の銅鐸文化は消滅し、九州北部の卑弥呼が率いる倭国の銅鏡文化に塗りつぶされた。
999日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:50:35.94
邪馬台国畿内説は、数十年かけて莫大な税金と人員を投入し200回程も、鉄イオンをばらまく鉄の道具で調査した纏向遺蹟という遺蹟が、卑弥呼の都だったという仮説です。。。
2019年放送のNHKの番組によれば、邪馬台国畿内説には、証拠が全く発見されていません。。。
しかし、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には真実ではありません。。。
同様に、「邪馬台国畿内説は破綻した。」という物事は、厳密には嘘ではありません。。。
厳密には、「邪馬台国畿内説は、限りなく破綻に近づいた。」という物事が、真実です。。。
1000日本@名無史さん2019/11/15(金) 15:50:50.45
福岡の日向は峠の名
-curl
lud20191224120832ca
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/history/1573606266/ヒント:5chスレのurlに
http://xxxx.5ch
b.net/xxxx のように
bを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
TOPへ TOPへ
全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ |
>50
>100
>200
>300
>500
>1000枚
新着画像
↓「邪馬台国畿内説 Part530 YouTube動画>1本 ->画像>77枚 」を見た人も見ています:
・邪馬台国畿内説 part510
・邪馬台国畿内説 part500
・邪馬台国畿内説 Part540
・邪馬台国畿内説 Part500
・邪馬台国畿内説 Part524
・邪馬台国畿内説 Part533
・邪馬台国畿内説 Part542
・邪馬台国畿内説 Part531
・邪馬台国畿内説 Part508
・邪馬台国畿内説 Part507
・邪馬台国畿内説 Part518
・邪馬台国畿内説 Part541
・邪馬台国畿内説 Part534
・邪馬台国畿内説 Part532
・邪馬台国畿内説 Part542
・邪馬台国畿内説 Part548
・邪馬台国畿内説 Part509
・邪馬台国畿内説 Part544
・邪馬台国畿内説 Part528
・邪馬台国畿内説 Part508
・邪馬台国畿内説 Part505
・邪馬台国畿内説 Part538
・邪馬台国畿内説 Part534
・邪馬台国畿内説 Part518
・邪馬台国畿内説 Part514
・邪馬台国畿内説 Part536
・邪馬台国畿内説 Part531
・邪馬台国畿内説 Part504
・邪馬台国畿内説 Part515
・邪馬台国畿内説 Part501
・邪馬台国畿内説 Part511
・邪馬台国畿内説 Part532
・邪馬台国畿内説 Part543
・邪馬台国畿内説 Part509
・邪馬台国畿内説 Part516
・邪馬台国畿内説 Part539
・邪馬台国畿内説 Part512
・邪馬台国畿内説 Part527
・邪馬台国畿内説 Part529
・邪馬台国畿内説 Part513
・邪馬台国畿内説 Part526
・邪馬台国畿内説 Part535
・邪馬台国畿内説 Part547
・邪馬台国畿内説 Part545
・邪馬台国畿内説 Part506
・邪馬台国畿内説 Part501
・邪馬台国畿内説 Part590
・邪馬台国畿内説 Part570
・邪馬台国畿内説 Part580
・邪馬台国畿内説 Part560
・邪馬台国畿内説 Part400
・邪馬台国畿内説 Part480
・邪馬台国畿内説 Part470
・邪馬台国畿内説 Part420
・邪馬台国畿内説 Part490
・邪馬台国畿内説 part450
・邪馬台国畿内説 Part320
・邪馬台国畿内説 part440
・邪馬台国畿内説 Part380
・邪馬台国畿内説 Part460
・邪馬台国畿内説 Part370
・邪馬台国畿内説 Part450
・邪馬台国畿内説 Part430
・邪馬台国畿内説 Part440
・邪馬台国畿内説 Part360
00:53:35 up 29 days, 11:17, 0 users, load average: 9.13, 9.19, 9.55
in 0.039127111434937 sec
@0.039127111434937@0b7 on 011014
|