1日本@名無史さん2019/11/20(水) 22:30:03.88
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・質問が続くようでしたら,「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。
・ここは日本史板なので,沖縄史は対象として不可です。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。
・煽り質問もままあります。スルーしてください。
前スレ 【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
http://2chb.net/r/history/1542015068/ 2日本@名無史さん2019/11/20(水) 22:38:53.01
全スレ900以降未回答
923日本@名無史さん2019/10/31(木) 14:34:58.80
質問。対馬の宗氏の参勤交代は『3年に1度』とありますが、これは
a.2年国元にいて1年江戸
b.3年国元にいて1年江戸
c.3年国元にいて3年江戸
d.それ以外
どれですか?
924日本@名無史さん2019/10/31(木) 17:17:22.67
d
鹿苑寺・ノートルダム寺院と違い首里城は支配の象徴でしょうか?
945日本@名無史さん2019/11/08(金) 18:14:09.06
家柄&遠山景元で思ったのですが、鳥居耀蔵(養子なのは知ってる)に繋がる旗本鳥居家の系図を教えて下さい。
975日本@名無史さん2019/11/15(金) 00:20:07.22
下記の二つ、日本史的にはどちらの方がより重要なトピックでしょうか?
・明治維新期の「王政復古の大号令」
・敗戦時のいわゆる「人間宣言」
3日本@名無史さん2019/11/20(水) 22:57:25.78
明智光秀はもともと足利幕府からの出向という立場、義昭の名代のような存在で織田家に助力していたのでしょうか?
そう定義すると織田家臣団からの嫌われようや
比叡山延暦寺焼き討ちに前向きだったり
義昭追放後の扱われ方が雑だったりするのも納得がいくし
また本社を蔑ろにした信長に対して謀反にいたった心理などが繋がるかなって思うのですがどうでしょうか
4前スレ9812019/11/21(木) 03:41:17.45
前スレ997さま、ありがとうございました!
実は、海外の友人がフクロウ(ミミズク)のタトゥーがほしくて
ググってたら、あの画像がでてきたみたいです。
いまから、再度メールおくります!
本当にありがとうございました!
5前スレ9812019/11/21(木) 03:50:35.74
変体仮名が読めないと、話にならないんですね(汗)
自分も読めるようになりたいので、スマホアプリいれました。
6日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:05:27.35
7日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:13:53.63
日本は敗戦して米国に占領された訳ですが、
その占領によって日本は一度、滅んだのでしょうか?
独立を取り戻したみたいになってますが、
裏を返せば滅亡していたと言うこと?
主権を回復したみたいな表現も
見られますが日本は滅んだのでしょうか?
占領=独立喪失ではない?
8日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:21:17.67
歴史とは「為政者の歴史」とみたら、いったん滅んだというか
断絶したことになるかもしれないけど、
アナール学派以降は、そんな歴史観通用しないです。
9日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:31:56.43
じゃあ日本の歴史は(神武天皇即位から数えて)2600年とか言ってる奴はウソついて無いと言うことですか?
10日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:44:58.66
人間はアダムとイブからとか言ってる奴らも嘘を吐いてるわけじゃあないからな
11日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:47:38.15
日本の国名や苗字が漢字二文字で
中国の国名や苗字が漢字一字なのは
日本側が中国と差別化をはかるために
漢字二文字にしたのでしょうか?
日本の国名
倭のような例外はあるが
武蔵、長門、薩摩、尾張のように
基本は漢字二文字
日本の苗字
武田、織田、今川など
基本は二文字
中国の国名
中華のような二文字もあるが
基本は元、明、清のように一文字
中国の苗字
司馬、諸葛みたいなのもあるが
基本は李、張、王みたいに一文字
12日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:54:20.47
二文字なのは日本側が明らかに
区別していると言うことですかね?
意識して差別化をはかっていると
言うこと?
13日本@名無史さん2019/11/21(木) 10:58:20.32
>>11
むさし、ながと、さつま、おわり
漢字を当てられるだけで、本来語(やまとことば)。
日本語と中国語の音韻と音節、
それから日本における漢字の訓の歴史を追ったら
おのずとわかるのでは? 14日本@名無史さん2019/11/21(木) 11:24:01.97
>>9
無条件降伏こそしてるけど
連合軍が国際情勢とか加味して損得を計算した上で日本を天皇を残す方が良いと決定したなら
それが国体を保ったという紛れもない事実なんだと思う
そもそも国を消滅させるとなるとテロや独立の火種を永遠に抱えることになるから得策では無い 15日本@名無史さん2019/11/21(木) 11:30:35.42
天皇がいなくなったら国体を保てない?
じゃあ、ルイ16世の処刑でフランスは終わったの?
百田尚樹レベルの歴史観だね
16日本@名無史さん2019/11/21(木) 11:41:20.08
>>14
日本は朝鮮王朝を滅ぼしたから怨まれてるのか? 17日本@名無史さん2019/11/21(木) 11:42:41.79
フランスの歴史は200年
日本の歴史は3万年
18日本@名無史さん2019/11/21(木) 11:58:28.50
19日本@名無史さん2019/11/21(木) 11:59:58.91
>>7
アメリカに併合されたわけではないから(アメリカ国土にはなっていない)滅亡とは違う
植民地支配は第二次世界大戦後、否定されたため
日本という国号は残されていたし、占領統治下で
新たな日本国憲法を公布している
国会も総理大臣も残された
国定教科書は日本語で作られた 20日本@名無史さん2019/11/21(木) 14:47:49.97
>>12
奈良時代に一文字地名を二字に改める勅令が出たからね 21日本@名無史さん2019/11/21(木) 15:21:18.19
>>3
そもそも光秀は幕臣ではなかった
朝倉に庇護されてた当時の義昭に取り入って臣下になった、新参の家臣。幕府機構の中ではなく外にいた。
最初のうちは義昭と信長の仲介などが大きな役割だったっぽい
いちおう義昭と信長の両属の家臣ではあったが、当初は信長よりもむしろ義昭の家臣であることがメインだったのが、信長と義昭が対立して戦闘になった際に義昭から離脱して信長の家臣に転じた。 22日本@名無史さん2019/11/21(木) 15:25:07.66
>>9
雄略天皇より前の在位年数は激しく水増しされてて年数自体は信用できない
二千年よりは短いことは確実。
4世紀か、早くて3世紀ごろまでは遡れるだろうけど。 23日本@名無史さん2019/11/21(木) 17:28:28.46
それは言い切れない
24日本@名無史さん2019/11/21(木) 17:51:02.38
>>11
支那の地名が二字なのにならって日本も地名はムリヤリ二字にした
(むさし→武蔵、さがみ→相模、き→紀伊、つ→摂津、しがらき→信楽、いぶすき→指宿‥)
姓も支那に倣って、源・平・橘など一字のものが当初はあった
後の苗字は居住する地名を取ったのだからどうしても二字になる 25日本@名無史さん2019/11/21(木) 21:03:59.71
なぜ泉→和泉とか上毛野→上野とかを書かないのか。
26日本@名無史さん2019/11/22(金) 02:30:51.83
「‥」の中に入れた
27日本@名無史さん2019/11/22(金) 10:05:27.04
>>21
光秀の出自がはっきりしない
美濃国守護・土岐氏の分家、明智家御曹司で
代々幕府の奉公衆だったという説もある
明智光綱の子という説が正しいなら
祖母(光綱の母)は若狭武田家当主・武田信豊の娘
祖母の兄弟である武田義統は足利将軍家から
11代将軍・足利義晴の娘を正室に貰い受けるくらい名門 28日本@名無史さん2019/11/22(金) 12:23:02.79
敗者の記録って残さないよな
親類縁者殺されてリサーチ出来なかったのかもしれんけど
29日本@名無史さん2019/11/24(日) 00:51:11.12
>>24
>姓も支那に倣って、源・平・橘など一字のものが当初はあった
>後の苗字は居住する地名を取ったのだからどうしても二字になる
源平合戦の頃の本を読んで、ちょうど疑問に思ってた。
○源、平とかの姓に替わり土地の苗字を名乗ったのはなぜ?
(源から足利や新田など)
源や平と名乗っていた方が押しが利きそうな気がするのに。
○逆に他所の土地に土着したのに、その地名を苗字にしなかったのはなぜ?
例えば千葉氏の一門が気仙郡や九州に行っても千葉のままだったり、
下野の藤原流阿曽沼氏が遠野に行っても阿曽沼のままだったり。 30日本@名無史さん2019/11/24(日) 01:20:55.91
伊東氏も日向に行っても伊東のままだ。まぁ伊東の所領は工藤祐経が伊東祐親と奪い合った
因縁の土地でコダワリがあったんだろう。ちなみに工藤祐経は所領は取り返したけど曽我兄弟の
敵討ちで殺された。
たぶん鎌倉時代には武田とか佐竹は頼朝から「源」の使用を禁じられて苗字を使う事を強制されたと思う。
31日本@名無史さん2019/11/24(日) 08:21:50.55
都の貴族で藤原氏がのしてくると藤原だらけになって分かりにくくなったから、同じ藤原でも居住地によって近衛、九条、鷹司、中御門などと呼び分けた
これが定着したけれど、本姓はあくまで藤原
後のポッと出の武家もこれを真似して、織田信長は本姓が平、徳川家康は源をでっちあげてた
(徳川というのもでっちあげだが)
(秀吉は朝廷からもらった豊臣の姓を嬉しそうに名乗ってた)
32日本@名無史さん2019/11/24(日) 08:48:57.30
都では藤原氏がのしたけど、地方の特に新規開墾地の多い関東では武装貴族の源平両家がのしていた
源、平というような天皇家にルーツを持つような高貴な家の者は武家の世界でも絶大な影響力を持った
源、平はそこらじゅうではびこったから、苗字を名乗らなければどこの誰やらわかりにくい状況は都の貴族と同じ
苗字を名乗る全国の武士たちが、本姓を尊重し、源平が交替して覇者となるという思想は根強い
33日本@名無史さん2019/11/24(日) 11:19:25.99
>>29
姓と苗字は併用が普通だった
同姓のなかで家を区別する必要から名字・苗字が使われたのではないかな
居住地から名字をつけてたのは鎌倉時代末ごろまでが多くて、南北朝以後の移住では苗字を変えないことが多い気がする 34日本@名無史さん2019/11/24(日) 16:23:18.22
島津が九公一民とかいう
とんでもない徴税してたと見た
そんなんで農民は
どうやって生活してたんだろうか?
土佐一条氏は兼定ボンクラ扱いされてるが
徴税はものすごい少なかったと見て
さらにびっくりしたが
まあ滅亡しちゃあ元も子もないが
35日本@名無史さん2019/11/24(日) 16:23:57.05
ああsageしたままにしてもーた
すまんです
36日本@名無史さん2019/11/24(日) 18:34:40.97
>>34
その手の税率は江戸時代なら基本的に村単位で個別に違う
んで、他の地域でも九公一民とかいうとんでもない税率の実例があって、たとえば輪島村。
輪島村は行政的には村だが実際は輪島塗が主要産業で耕作地が少ない。当然、住民の大半は耕作地をほとんど持たない水呑百姓。
番頭クラスの幹部でも身分としては水呑百姓に区分されていたことがわかっている。
そこから類推するに、島津領で九公一民とかいう税率が課されていた村は、非農業系の収入が有ったのではないか
ちなみに、耕地(名目上石高)がゼロの村は実在しない。屋敷地が「良田・上田」区分に入れられてるので、家屋があるだけでも検知台帳では耕作地が存在することになっているからな。
鉱山とか貿易とかが主要産業なら九公一民は有り得なくないだろう。 37日本@名無史さん2019/11/24(日) 21:43:46.00
鎌倉幕府で三代将軍実朝が殺された後は公家(五摂家?)から将軍になる人物を出すようにしていましたが、
武田、村上、新田、足利などの源氏から将軍を出した方が源氏の幕府の流れは崩れないので良いように思えます。
なぜそうしなかったのでしょうか?
また最近女系天皇が話題になっていますが、もし
清和天皇→その子孫の八幡太郎義家→義家の四男義国→義国の次男義康(足利の名字を持つようになる)→その子孫の足利尊氏〜足利義昭、あと関東足利氏→現在の足利の当主
この流れの中に婿養子とかなくて男系で続いていたら神武天皇直系のY遺伝子は足利にも引き継がれているのでいざとなったら足利から天皇を出すことも可能ですか?
とうの昔に臣籍降下はしていている家系ですが。
また村上源氏などもどうでしょう?
徳川は例えば家康などは源家康を名乗ってましたが実は徳川が源氏というのは詐称、捏造と聞きましたのでここでは外します。
38日本@名無史さん2019/11/24(日) 22:10:40.17
島原の松倉氏は幕府にいい顔をしようと手伝普請なども積極的に買って出る始末
九公一民の年貢収奪を行い、追い詰められた百姓や旧領主は島原の乱を起こした
幕府が主導する大規模な鎮圧軍により、一揆の者をなで斬り、統治に失敗した松倉氏も大名で唯一、斬首刑となった
松倉は反乱は切支丹のせいだと説明して、今日の教科書にも影響を与えているが、これは自分のせいではないという言い訳
薩摩も八公二民の高税率
厳しい監視と統制で百姓に一揆を起こす力も与えなかったのは、北朝鮮の政策と同じ
39日本@名無史さん2019/11/24(日) 22:32:29.43
>>37
北条は親王将軍を目論んだが、京都の抵抗により摂家になってしまったもの
親王は天皇の子なんだから文句の出様のない盤石の権威となる
武力を持たない権威だけの親王、摂家の方が北条としてはいいんジャマイカ
武力を持ってる源氏に声かけたりしてたら自分の地位が保てなくなりそう 40日本@名無史さん2019/11/24(日) 22:42:48.00
島津最低だな
41日本@名無史さん2019/11/24(日) 23:43:47.42
20年ほど前に読んだ本に終戦直後の侍従が皇族の臣籍降下について、
GHQの命令でやるってのはムカつくがあいつら皇室の名を汚すばかりだったからザマァ(超意訳)
って言ったってのを読んだのだけど誰が言ったかって判らない?
42日本@名無史さん2019/11/25(月) 06:20:03.77
一休さんのお墓は宮内庁管理なのに
徳子のお墓は宮内庁管理じゃないのは
なんでなの?
(´・ω・`)
43日本@名無史さん2019/11/25(月) 06:26:52.31
あ、徳子のお墓も宮内庁管轄どした
失礼
(´・ω・`)
44日本@名無史さん2019/11/25(月) 14:48:44.35
>>37
北条のライバルになるような家は将軍にしないでしょう
北条時政が源氏の血を引く娘婿・平賀朝雅を将軍にしようとしたが
政子・義時に反対され隠居に追い込まれてしまった
実朝の後、政子が都から迎えた摂家将軍・九条頼経は
源頼朝の同母妹の孫で女系で血は引いている
あと一度臣籍降下して天皇になったのは宇多天皇だけです
ただし宇多天皇は光孝天皇の皇子で、天皇の実子(一世源氏)でした
天皇の実子ではないのに臣下から天皇になった例はありません 45日本@名無史さん2019/11/25(月) 23:58:38.60
>>37
「やる夫が鎌倉幕府を成立させるようです」
というやる夫スレよりコピペ。
【源氏将軍の場合】
┏━ ○○三二一
┃ ○○三二一 <俺が外戚に!
┃Σ● ○○○三二一
┃ ○○三二一 <いや俺だ!
┗━ ○○三二一
将軍 御家人
【皇族将軍の場合】
身分の壁
┏━ ┃ ○○
┃ ┃ ○○ <仕方ない……。
┃ ● ○ ┃ ○○
┃ ┃ ○○ <ちくしょー
┗━ ┃ ○○
将軍 高級御家人 低級御家人 46日本@名無史さん2019/11/26(火) 15:40:44.26
そういや鎌倉幕府は
結局最後は源氏に倒されたんだったな
47日本@名無史さん2019/11/26(火) 15:44:28.42
>>46
倒せと命令した最高責任者は後醍醐天皇
楠木やら源氏でない者も討幕に参加
全部足利だけの功績にされているがw 48日本@名無史さん2019/11/26(火) 16:06:51.68
鎌倉を落としたのは新田だろ
義詮は飾物程度でしかない
49日本@名無史さん2019/11/26(火) 17:56:43.23
>>48
全国的に後醍醐天皇に賛同する者が多かったための鎌倉幕府滅亡であって
地理的に近い新田が鎌倉へ攻め込んだからと言って新田だけでは成功してなかった 50日本@名無史さん2019/11/26(火) 21:43:22.60
後醍醐帝による引き抜きで離脱するまでは新田は足利配下にいた模様
離脱する際に同行せず残留した支流も複数あったが、これは新田から抜けて足利に転じたのではなく、もともと足利の配下だったのが離脱に同行しなかっただけ
そういう状況の中で、足利の配下としての新田が鎌倉を落としたんだ、討伐軍の総責任者は現場指揮官たる新田とは別と考えるべきだろ
51日本@名無史さん2019/11/27(水) 00:53:21.72
>>49
何で多くの武士団が後醍醐帝に味方したんだろう?
鎌倉幕府:武士を第一に考える政権(ただし北条氏優先)
後醍醐帝:親政やるし公家の領地を取り返す
なら幕府の方がまだいいような。 52日本@名無史さん2019/11/27(水) 06:01:49.00
今更鎌倉側に付いたところで領地が爆発的に増えることは無いからね
それは文永弘安の役で公然のものとなってるし
それなら新世界で勝ち組にって思う頭領は多かったのではないかな
53日本@名無史さん2019/11/27(水) 11:30:43.30
>>50
色々と言ってることがおかしいな
新田は直接鎌倉幕府と主従関係を結ぶ御家人で足利の家来ではない
足利尊氏は隠岐を脱出した後醍醐天皇の討伐のために
鎌倉幕府の命令を受けて幕府軍として都へ向かい
そこで逆に後醍醐天皇に迎合して幕府の六波羅探題を滅ぼした
幕府の命令を受けていない新田が足利尊氏と一緒に都へ行かなかったのは当たり前
都が後醍醐天皇の手に落ちたと聞いて幕府は終わったと思いそれから鎌倉を攻めた 54日本@名無史さん2019/11/27(水) 11:56:38.02
新田の挙兵理由は納税拒否
55日本@名無史さん2019/11/27(水) 18:37:14.41
56日本@名無史さん2019/11/27(水) 19:12:11.59
実力主義でやってみたら倭国大乱を招いてしまったしなぁ
やっぱりうまくやってゆくためにはと、非合理的な女王推戴方式をやるしかなかった
王権神授とかいう非合理的なブルボン王朝を倒して、人間の理性を頼りにした合理的な世の中をつくるというのがフランス革命の理念だった
だが、革命がもたらしたのは止めどない対立とギロチンの活躍だった
革命思想は危ないということで保守思想というのが「新たに」生まれてきたのがフランス革命の教訓
労働者を搾取する資本家を倒し、人類の理想である共産社会を目指す
やってみたら、ロシア革命政府による農民餓死、スターリンによる粛清の嵐、毛沢東も農民餓死を招き、カンボジアではポル・ポトが‥
人間がちょいと考え付くような伝統無視の理性的な政治形態というのは‥当てにならん
57日本@名無史さん2019/11/27(水) 19:19:45.02
>>55
イスラム世界でも実力者たちはカリフを傀儡にして自分はスルタンとして君臨してるし、普遍的でありふれた現象じゃないか 58日本@名無史さん2019/11/27(水) 20:41:31.65
ドイツは今、メルケル首相が率いているが、影は薄いけれど大統領は別に居る
59日本@名無史さん2019/11/28(木) 07:37:58.73
神武天皇のことで質問なんですが。
1.神武の話は全部、ウソ
2.モデルとなった人物が居て
ウソを盛っている
3.全部、真実
どれでしょう?
60日本@名無史さん2019/11/28(木) 09:44:41.83
61日本@名無史さん2019/11/28(木) 10:20:00.91
>>60
むしろアメリカみたいな国のほうが少ない。
たいていの国は独裁者が出て、国民は地獄を見た経験があるから
大統領と首相とわかれている。
あの中国でさえ、国家主席と首相と別れていてかなり厳密に10年の
任期制度が守られているからな。 62日本@名無史さん2019/11/28(木) 10:35:29.11
あんまり関係ない話だが中国にも共産党以外の政党がある
国民党革命員会、民主同盟、民主建国会‥その他全8党
ま、お飾りで言い訳のためにあるだけだけど、中国は「実質上一党独裁の国」と言わねばならないことになっている
近頃はニュースでもこの「実質上」の文句を省略しているようだけど
63日本@名無史さん2019/11/28(木) 10:45:44.39
64日本@名無史さん2019/11/28(木) 10:51:39.12
神話の天皇の年齢は割る2すると良いあんばいになる
65日本@名無史さん2019/11/28(木) 12:20:56.46
ならないよ
二分の一でも百歳越えるし異常
66日本@名無史さん2019/11/28(木) 13:27:28.73
>>60
イタリアにもインドにもイスラエルにも大統領がいるで
イランなんて、首相、大統領、最高指導者がいるし 67日本@名無史さん2019/11/28(木) 17:32:28.76
>あの中国でさえ、国家主席と首相と別れていてかなり厳密に10年の任期制度が守られている
くまのプーさんは十年以上やるつもりのようだけど
>中国は「実質上一党独裁の国」と言わねばならないことになっている近頃はニュースでもこの「実質上」の文句を省略している
人民解放軍は共産党の私兵だからね誰も逆らえないのよ
68日本@名無史さん2019/11/28(木) 18:23:36.80
>>61
たしか、ソ連って大統領と首相がいて、最高権力者が書記長と、三人の幹部がいた記憶 69日本@名無史さん2019/11/28(木) 18:30:09.99
ソ連の共産党ってどうなったの?
70日本@名無史さん2019/11/28(木) 19:48:17.95
共産党書記長だろう。自民党総裁と同じ
ソ連の大統領って末期もいいとこ
71日本@名無史さん2019/11/29(金) 02:43:59.52
72日本@名無史さん2019/11/29(金) 08:17:31.18
いや、全員ではないが二百越える記述が何人かいるだろ
半分として百ちょいのが。
73日本@名無史さん2019/11/29(金) 09:05:49.68
書紀には歴代天皇治世の初年を十干十二支で書いてある
それを並べてゆけば大変な長寿だった計算になってしまう
書いてあることを真に受ければそうなってしまう
74日本@名無史さん2019/11/29(金) 23:22:44.37
半年暦、4倍年暦説
日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回ずつ行われるものが多いが、
古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦』がある。
また一つの季節を一年と数え、一年を四回カウントする『4倍年暦説』もある
実在が有力な21代雄略天皇『古事記』124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍
26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍
この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる(wikiより)
75日本@名無史さん2019/11/30(土) 07:26:54.31
>>59
天皇陛下から遡っていって神武天皇に相当するご先祖様は間違いなく存在する。
なにをやっていたかはともかく。 76日本@名無史さん2019/11/30(土) 14:16:42.84
アダムかもしれない
77日本@名無史さん2019/11/30(土) 17:26:53.62
イエスからさかのぼって、アダムにあたる人は存在する
つってるもんじゃん
78日本@名無史さん2019/11/30(土) 18:27:12.32
アダムにあたるチンパンジーは存在する?
79日本@名無史さん2019/11/30(土) 19:40:45.27
存在しない
人類とチンパンジーの共通祖先はチンパンジーとは違う別種の動物だから
80日本@名無史さん2019/12/01(日) 02:16:39.15
>>77
旦那、イエスに男系の祖先は存在しませんぜ。 81日本@名無史さん2019/12/02(月) 00:09:06.98
茶坊主は僧でもないのになぜ髪の毛を剃る必要があるの?
82日本@名無史さん2019/12/02(月) 08:31:09.53
>>81
喫茶は僧院から広まったので、武家の茶の儀でも出家遁世の坊主が執り行うものとみなされた
江戸時代になってからの茶坊主は僧体の伝統はあるものの中身は身分の低い武家である
ただ、偉い人の元へも出入りし、城中の雑務をこなし、有職故実にも明るいので威張っていた
茶坊主を描いた勝新太郎の映画"河内山宗俊"なんどは面白い 83日本@名無史さん2019/12/02(月) 08:41:59.21
‥間違えた
勝新のは"不知火検校"で検校の映画だ
河内山は山中貞雄監督の戦前の映画、面白かったが
84日本@名無史さん2019/12/04(水) 15:41:30.39
中曽根さんの親分格が読売新聞トップで日本の原子力の旗振り役をした正力松太郎
この人は日本一の新聞社のトップだし、大物であることは間違いないが、
子分格だった中曽根さんは首相に上り詰め、長期政権を築き、長生きもして
大勲位という称号も得ている
正力さんと中曽根さんの個人的な関係はどこまでいっても、正力>中曽根かもしれないが、
世間一般的には、中曽根>正力になっていると考えるほうが妥当ですよね
85日本@名無史さん2019/12/05(木) 01:45:34.75
正力は日本プロ野球生みの親なので中曽根より上
86日本@名無史さん2019/12/05(木) 13:00:48.54
プロレスの父、力道山はもっと上になっちゃうな
87日本@名無史さん2019/12/05(木) 22:19:38.39
明治政府の中枢に入った桂や大久保と、彼らのかつての上司で華族に列せられた元藩主らは
世間的にはどちらが上かっていうのと似ているな
世間的には桂や大久保が上でしょ
88日本@名無史さん2019/12/06(金) 08:54:50.40
島津久光vs大久保利通
89日本@名無史さん2019/12/06(金) 10:50:41.84
後にノーベル賞を取った人と、その人に学校の教師としてお勉強を教えた恩師と、どっちがエラいか尋ねている感じがする
90日本@名無史さん2019/12/06(金) 11:18:30.38
明治政府の中枢に入った桂や伊藤と,の人に学校の教師としてお勉強を教えた恩師に居候していた甥っこ(吉田)と…
吉田の方が有名だったりするなぁ。なんもやってないのに
91日本@名無史さん2019/12/06(金) 12:01:11.33
立花宗茂ってなんで大名復帰出来たのですか?
もし田中吉政家に跡継ぎがいたら復帰は無かったですか?
92日本@名無史さん2019/12/06(金) 14:07:39.07
古代においては都がよく移動してました
古くなった都、捨てられた都の建物や塀、区画などは積極的に壊され、更地にされたのでしょうか?
それとも、完全放置で朽ちるままにされたのでしょうか?
後者の場合、朽ち果てて更地になるにはかなり長い年月がかかりますよね?
古くなった都、捨てられた都がその後どうなっていったのか興味あります
93日本@名無史さん2019/12/06(金) 14:10:01.01
使える資材は転用された
94日本@名無史さん2019/12/06(金) 14:19:57.87
都が捨てられたら、地元民が廃墟の建築資材をとって
再利用したり薪にしたりするでしょう?
すぐなくなりそうな気がするけども
95日本@名無史さん2019/12/06(金) 15:27:29.77
大型の樹木は古代でも貴重品だったから転用が基本っぽい
石材は転用が多いとはいえ残されたもの多かったらしい
難波宮跡地を開墾して本願寺を建てたとき、古代の礎石がたくさん得られたのを喜んで石山と呼んだことから石山本願寺という俗称が生まれたとかね
石山という地名ではないので正しくは大坂本願寺と呼ばなければならないんだけど
96日本@名無史さん2019/12/06(金) 18:27:55.08
97日本@名無史さん2019/12/06(金) 18:50:31.54
>>91
大阪城に入られるとやばいと思ったのだろうて。 98日本@名無史さん2019/12/07(土) 19:06:20.11
>>91
立花宗茂は関ケ原で西軍に組して改易、浪人になった後
同情した前田や加藤といった豊臣恩顧大名からの家臣取り立てを断り
江戸へ出てなんと徳川家康の譜代家臣で徳川四天王の一人、本多忠勝を頼った
家康直下の敵の懐に入り込んだことで本多忠勝が宗茂の有効利用を家康に勧めた
>>97
大阪城に入られるのが困るなら真田幸村だって取り立てられただろうし 99日本@名無史さん2019/12/07(土) 21:57:17.84
真田幸村は浪人じゃないだろ
配流の身だ
100日本@名無史さん2019/12/08(日) 15:54:42.78
>>99
結果、大坂城入りしただろ
和歌山から大坂なんて近いし 101日本@名無史さん2019/12/08(日) 16:20:44.03
真田幸村は大名だったことがない
102日本@名無史さん2019/12/08(日) 19:47:30.64
戦国時代が殺伐とした時代は分かるのですが
後醍醐天皇とかの南北朝時代は、庶民とか社会情勢的にどうだったのでしょうか?
上だけの争いで世の中はそれほどでもなかったのでしょうか?
103日本@名無史さん2019/12/08(日) 20:46:57.62
南北朝時代より前の村は外来者に寛容だったのが、南北朝時代に何かあった結果として、どこの村も外来者を受け入れない排他性を強めた
つまり
104日本@名無史さん2019/12/08(日) 20:51:48.92
歴代天皇で処刑、殺害された天皇を教えてください
蘇我馬子に殺された崇峻天皇は知ってます
105日本@名無史さん2019/12/08(日) 21:03:14.29
日本各地でも守護、国人たちが自分たちの利害を北朝、南朝にかこつけて対立し、戦乱に明け暮れていた
106日本@名無史さん2019/12/09(月) 04:50:48.04
>>101
秀吉から幸村本人が万石単位の領地もらったとか聞いたけど事実じゃないの? 107日本@名無史さん2019/12/09(月) 05:43:48.59
関ヶ原アフターに立花宗茂が柳川に籠城したとき島津軍が救援に来たとのことですが
その島津軍の軍勢はどれ程で東軍との戦いはありましたか?
また空振りに終わった後退却するのに追撃は受けませんでしたか?
108日本@名無史さん2019/12/09(月) 17:17:01.44
この仙台城(青葉城)の仙台空襲で惜しくも焼失してしまいましたが、肥前名護屋城から移築されたものだそうです。
しかし九州から仙台までどうやって移築したのでしょう?
いったんバラバラにしたのを船に積んで関門海峡から瀬戸内海、鳴門海峡から紀州沖、太平洋という航路でしょうか?
仙台港から材木を仙台城がある青葉山まで運ぶのも大変そうです。 109日本@名無史さん2019/12/09(月) 18:09:20.63
肥前名護屋城大手門を仙台城に移築したと伝わるが真偽不明である
110日本@名無史さん2019/12/09(月) 20:16:48.12
肥前なら鹿児島回りの方が楽なんじゃない?
111日本@名無史さん2019/12/10(火) 04:34:45.81
太平洋の荒波を知らぬか
112日本@名無史さん2019/12/10(火) 11:33:08.70
日本で国籍法が制定されたのは
いつですか?
113日本@名無史さん2019/12/10(火) 12:18:04.55
>>111
だから昔は太平洋側より日本海側の方が水運の動脈だったんだよね 114日本@名無史さん2019/12/11(水) 06:20:43.45
日本最古の英雄叙事詩(韻文)って何でしょう?
115日本@名無史さん2019/12/11(水) 09:02:58.63
中世の頃は天皇のことを国王、天皇家のことを王家と呼んでいたんだよな
いつから天皇と呼ばれるようになったんだろう
明治かな
116日本@名無史さん2019/12/11(水) 09:17:54.43
117日本@名無史さん2019/12/11(水) 10:01:25.10
いつからって飛鳥時代だよ
118日本@名無史さん2019/12/11(水) 11:01:37.37
>>92へのレスありがとうございました
再利用するため、建物の木材が他所へ運ばれて行き、
廃墟のようになっていき、朽ちていったんでしょうね
そのまま、長く放置されてやがて更地になっていったのでしょう
年月の重みを感じます 119日本@名無史さん2019/12/11(水) 11:11:08.54
平家物語が韻文? うっそ〜ん
日本では和歌でさえ、英語圏でいうところの blank verse の、
さらにアクセントの強弱要素を欠いたぬるい様式だから、
そもそも韻文自体がほぼないに等しいでしょ
五山文学(漢文)とかにちょっとだけある
120日本@名無史さん2019/12/11(水) 11:12:15.90
>>117
太平記に出てくるバサラ大名で有名な人が名前は忘れたが、王は木彫りを置いておけばいい、国王なぞ流して捨ててしまえってって言ったんでしょ
中世においては天皇は王とか国王って呼ばれてだんだよ
それより昔は天皇って呼ばれてたってこと
大河ドラマで平清盛は王家の犬にはならんって言ってたし 121日本@名無史さん2019/12/11(水) 11:12:25.87
廃都もその後は農地化している
この経過がどうであったか知らないが、興味深い
農民が勝手に開墾して行ったのか
班田確保のために朝廷主導で水路開削や耕地の区割りなどしたのか‥
122日本@名無史さん2019/12/11(水) 11:27:25.92
>>120
皇族や公家の日記では天皇のことは、天皇、主上、禁裏と書く
親王(親王宣下を受けた皇族)、王(親王宣下を受けていない皇族)
と区別があるのできちんと区別をしている
天皇のことを王というのは皇族の身分差に疎い武家が
ちょっと小馬鹿にして言う場合だな
足利尊氏は臣下だが息子の幼名は千寿王だし
かなりくだけた言い方になる 123日本@名無史さん2019/12/11(水) 11:46:13.51
律令には天皇と書かれていたものの、日ごろは「みかど」「上(うえ)」「上(かみ)」「主上」「天子」など多くの呼称が用いられていた
明治憲法で「天皇」の公称が確立
外交文書では天皇、皇帝の二様があったが、昭和11年に天皇に一本化された
中世には「王家」の使用例も文献に多くみられる
大河ドラマ「平清盛」での「王家」呼称は、現代用語としての「天皇」とは違う歴史的存在を示すためには「王家」が適当との歴史学者の説に従っている
124日本@名無史さん2019/12/11(水) 12:20:57.12
>>117
天皇という呼び方自体は飛鳥時代末に成立してるけど、当初は天武天皇を指す固有名詞で地位のことではなかった可能性が。持統天皇の時代ぐらいだと持統天皇のことではなく故・天武天皇を天皇と呼んでたらしい
奈良時代になると天皇号として正式に使われてるのかな
平安時代のいつ頃かに変わったのかもしれないね 125日本@名無史さん2019/12/11(水) 12:22:04.62
>>119
後世に伝わった韻文なんて万葉集の長歌ぐらい? 126日本@名無史さん2019/12/11(水) 12:49:56.52
韻文ではなくとも、古い英雄叙事詩となれば日本武尊の物語
127日本@名無史さん2019/12/11(水) 12:58:40.36
>>124
持統天皇も天皇だよ
「唐書」で倭国王が、自分の国の国号は日本、王は天皇だと言ってきた
とあるので一代限りの国号や称号ではない 128日本@名無史さん2019/12/11(水) 15:20:52.59
古事記や日本書記のヤマトタケルの記事を叙事詩と呼ぶのは違和感があるし、
韻文じゃないけど英雄叙事詩にふさわしいのは平家物語だろ。
129日本@名無史さん2019/12/11(水) 16:07:09.39
>>123
中世に王家の使用例は多くないよ
同時代の平家物語などに使用例ゼロ
鎌倉時代末期になると「花園天皇宸記」に「王家の恥」
「神皇正統記」に「王家之権」などの使用例が少数あるが
これは天皇個人をさしたものではなく
天皇、上皇、法皇、親王、内親王、王、女王をすべて含めた
皇室全体を指して言っている 130日本@名無史さん2019/12/11(水) 17:30:03.82
それじゃ、同時代で天皇・天皇家の用例はいくつあるの?
131日本@名無史さん2019/12/11(水) 19:15:50.48
シュリーマンみたいに日本神話や神武天皇などが史実であることを証明したいのですが
歴史学と考古学
どちらの道に進むべきでしょうか?
132日本@名無史さん2019/12/11(水) 19:34:53.22
大きな誤解があるけど、シュリーマンはミュケナイ文明の遺跡を発見しただけで、
トロイア戦争があった時代よりもかなり新しいものだったし、
同じ場所のトロイア戦争と同じ時代の地層にあった遺跡にしても、
そこれがホメロスがうたっているトロイアなのか、どこにも確証がない。
アガメムノンのマスクと呼ばれてるものも、シュリーマンがそう呼んだだけで
それがアガメムノンの肖像だという証拠は皆無だからね。
133日本@名無史さん2019/12/11(水) 20:14:23.87
>>132
勉強不足でした、ありがとうございます。
でも方向性ということでは考古学ということになるのでしょうか。
日本の場合、古代を知れる文献は出尽くしていて研究に限界がありそうなので、発掘とかする考古学に進もうかなと思います。 134日本@名無史さん2019/12/11(水) 22:05:07.64
発掘で食べていくのは大変だよ
ロマンなんてとっとと捨てることだな
135日本@名無史さん2019/12/11(水) 22:10:12.18
宮城の人で高卒の工員だったが考古学が好きで、石器発掘で成果を上げ、NPOの石器文化研究所副理事長として日本の旧石器時代の上限を10万年さかのぼらせる業績を上げた人が居たなぁ
石器探しの名人としてゴッド・ハンドの名を馳せた
136日本@名無史さん2019/12/11(水) 22:22:48.14
シュリーマンには、別の発掘物から型を取り、黄金の仮面を複製して発掘現場に置いているとのウワサは当時からあった
20世紀の末にはアガメムノンのマスクの信ぴょう性は公式に疑問視されるに至った
137日本@名無史さん2019/12/11(水) 23:01:22.95
138日本@名無史さん2019/12/12(木) 00:10:35.64
>大河ドラマで平清盛
本郷和人が「産経新聞との縁を切らないのは、↑で王家という言葉を使わせたのは本郷というネット上のデマに対して
唯一弁明の機会を与えてくれたのが産経だからだ」と何か月か前に書いていたが、結局「天皇→王」と言わせた時代考証者が誰だったのか未だに不明なんだよなw
139日本@名無史さん2019/12/12(木) 04:02:10.92
>>138
誰ってそりゃあ責任を問われるべきは歴史考証の人だろうに。 140日本@名無史さん2019/12/12(木) 17:20:26.48
141日本@名無史さん2019/12/12(木) 19:22:25.01
TVでちょろっとやってた岩屋岩蔭遺跡。
ド素人の女が苔の一念で縄文時代の天体観測所後だと証明し、村だか何だかで職を得たような説明だったが、
wikiを読むと市民団体のトンデモ説扱いになっててワロタ
142日本@名無史さん2019/12/12(木) 19:44:03.18
>市民団体のトンデモ説扱い
そりゃまあ、九州王朝説だって「市民団体のトンデモ説」になるわけだしな
143日本@名無史さん2019/12/12(木) 20:49:31.99
>>140
ゴッドハンドは日本考古学の恥部だからなぁ。 144日本@名無史さん2019/12/12(木) 22:06:16.17
教科書の記述が変わったんだよな
佐倉の歴史民俗博物館の展示も変わったような
145日本@名無史さん2019/12/14(土) 09:03:40.71
平禅門の乱(1293)の「平禅門」って平頼綱の別名?
146日本@名無史さん2019/12/14(土) 12:49:25.90
ぜん‐もん【禅門】
1 禅宗の法門。禅宗。
2 俗人のままで剃髪(ていはつ)し仏門に入った男子。禅定門(ぜんじょうもん)。入道。
ということで個人名ではない
147日本@名無史さん2019/12/14(土) 13:32:41.14
清盛入道とか言うのと一緒だな
148日本@名無史さん2019/12/14(土) 16:58:46.92
>>145
マイペディアで平頼綱の項目をひくといいよ 149日本@名無史さん2019/12/14(土) 19:35:55.98
百科事典マイペディアの解説
平頼綱【たいらのよりつな】
鎌倉後期の武士。得宗御内人(とくそうみうちびと)。ライバル安達泰盛を,1285年の弘安合戦(霜月騒動)で滅ぼしてから幕政を専断。
しかし1293年執権北条貞時に攻められて自害。これを頼綱の法号をとって平禅門(へいぜんもん)の乱という。
→関連項目河野通有|二月騒動|北条貞時
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて
150日本@名無史さん2019/12/19(木) 10:39:01.51
武家政権のトップには
征夷大将軍、太政大臣、関白などが考えられるのですが
どの地位につくかで政権の性格、政策に関わってくるのでしょうか?
どんな違いが出てくるのでしょうか?
151日本@名無史さん2019/12/19(木) 12:01:48.86
関白や太政大臣の方が将軍より公家寄りなイメージはあるよね
152日本@名無史さん2019/12/19(木) 12:05:52.21
征夷大将軍は遠征地(幕府)にて権力を奮えるが基本朝廷にお伺いを立ててる形
やり過ぎると朝敵に
太政大臣は朝廷政治のトップ
朝廷に参内してそこで国を動かす力を持つ
実行部隊の武士を掌握していることが前提
関白は天皇の補佐、天皇の意思に関われる
勅許や勅令による独裁権を得る
天皇のミスは丸被り
153日本@名無史さん2019/12/19(木) 13:39:58.28
>>152
太政大臣平清盛辺りは公家同様、天皇がいる内裏に出勤
娘を天皇の中宮にして安徳天皇の外祖父になるなど
公家とやってることは変わらなかったと思うが
関白豊臣秀吉は京都に住み必要があれば参内もしたが
基本は聚楽第で武家のための政治を執るのが中心で
諸大名たちを集住させて自分がいる聚楽第に出勤させており
内裏に出勤して天皇の勅許や勅命を出すのが仕事ではないしな 154日本@名無史さん2019/12/19(木) 14:41:19.33
やってることがあまり変わらないとすると、
平清盛の時は幕府の前例がなかったので太政大臣で、本人も貴族政治を志向したような感じですが、
秀吉は、足軽出身なので正当性、権威づけのために関白に就任したのであって
もしそこまで低い身分でなかったら征夷大将軍となり幕府を開いていたのでしょうか?
155日本@名無史さん2019/12/19(木) 15:01:21.31
足利義昭がいつまで征夷大将軍だったか
調べてごらん
156日本@名無史さん2019/12/19(木) 15:03:10.42
>>153
義満も晩年には太政大臣として公武の政務を取り仕切ったけど、太政大臣に就任するより前の征夷大将軍の頃と大きく違う政治ではなかったと思う 157日本@名無史さん2019/12/19(木) 15:07:08.38
>>154
当時まだ義昭が征夷大将軍に在任だったせいで就任が難しかった
むしろ関白の方が就任しやすそうだと気づいて、どうせなら将軍より関白の方がいいと思っただけでしょ
秀吉の頃には、関白より将軍の方がいいと考える人はいなかったと思われる 158日本@名無史さん2019/12/19(木) 16:37:09.36
織田信長は征夷大将軍になる道筋に居たなどとも聞きますが、足利義昭が居たのにですかね
159日本@名無史さん2019/12/19(木) 17:51:47.04
信長は義昭のとこの軍を退けて、戦勝してるからねえ
(毛利家にかくまわれてた)
対するに、秀吉は毛利と最初に講和し同盟関係を持ってた
その辺の影響もあったかもしれんね
160日本@名無史さん2019/12/19(木) 19:56:01.96
>>156
足利義満の太政大臣就任は征夷大将軍を息子の義持に譲った後
実権は義満にあったとはいえ表向き武家政治から引退した後で太政大臣となった
中世以降は清華家の長老が就任する名誉職となっており
義満も一年半で太政大臣を辞めている
江戸時代の徳川将軍は武家官位としての太政大臣で朝廷とは分離しており
一度も参内したことがなく天皇に会ったこともない武家の太政大臣がいた 161日本@名無史さん2019/12/19(木) 21:52:16.56
>>158
義昭も足利義栄を追い落として将軍職を奪っているじゃん 162日本@名無史さん2019/12/19(木) 21:56:50.50
足利義栄は将軍のまま死んだだけだろ
163日本@名無史さん2019/12/23(月) 20:20:16.25
日本史ぜんぜん知らなくて
何読んだらいいのかわからなくて困っています。
主に戦国時代とか江戸時代とかで
ある程度まとまって広く浅くみたいで
おすすめなものってありますか?
もしくは手始めにとか入りにいいのとかありますか。
164日本@名無史さん2019/12/23(月) 21:19:00.85
講談社学術文庫の日本の歴史(全27冊ぐらい? の通史)の、室町時代後半から江戸時代前半までの五冊ぐらいを読んでみたら?
165日本@名無史さん2019/12/23(月) 21:36:58.24
教科書しかないだろ
166日本@名無史さん2019/12/24(火) 05:40:27.79
古事記の天皇の名前は
神様の名前に比べて
なんでクッソ長いの?
(´・ω・`)
167日本@名無史さん2019/12/24(火) 07:05:14.25
168日本@名無史さん2019/12/24(火) 18:24:10.01
角川まんが学習シリーズ 日本の歴史
169日本@名無史さん2019/12/24(火) 20:57:31.62
>>163
全然知らないレベルなら学習漫画がいいよ。
図書館いっといで。 170日本@名無史さん2019/12/29(日) 00:05:17.72
明治天皇の崩御の時に忠臣だった乃木希典も殉死しましたが、
「時代錯誤だ」との批判が結構あったと聞きました
主君や高貴な人物の死に合わせた殉死が時代錯誤ではなかった時代の最後は
何時頃だと思われますか?
また、当時の明治天皇は「神聖不可侵」「主権の総覧者」「日本国民の精神的支柱」
等の側面から、歴代天皇と比較してもかつてないほどの権威や神性を帯びていたと
思われますが、それでもやはり忠臣の殉死が「時代錯誤」と思われた最大の理由は
もう封建主義の時代ではなく、制限付きとはいえ民主主義国家であったからですかね
171日本@名無史さん2019/12/29(日) 11:23:24.35
1680年、徳川家綱死去時に堀田正信が自害したのが江戸時代最後の殉死だという
あとは武家諸法度で禁止されたから流行らない
そして1912年乃木大将夫妻殉死
今日死ねと言われて静子夫人はあせったようだ
1989年昭和天皇崩御の後、全国で元軍人など数名の自殺者
172日本@名無史さん2019/12/29(日) 17:30:03.15
>>171
乃木希典夫妻の殉死は美化されすぎているが
希典の遺言状に残される静子の老後のことまで書かれてあるため
当初は希典だけが死ぬ予定であったらしい
夫妻の遺体見分は希典が静子を殺してその後自害したもので
静子は巻き添え死とも言われている 173日本@名無史さん2019/12/29(日) 21:15:14.10
昭和天皇の時も殉死してる人がいたのか
というか、それは本当に殉死なのだろうか・・
174日本@名無史さん2019/12/30(月) 02:57:42.46
CERNがLHCで極小ブラックホール生成実験をおこなって
地球がつぶれると言って自殺する人もいるくらいだからな。
175日本@名無史さん2019/12/30(月) 03:01:03.93
>>170
時代錯誤って言うか殉死が余り誉められたものじゃないって事で作られたのが兵馬俑をはじめとする副葬品だし、日本でもどう遅く見ても江戸時代には明確に殉死禁止令がでてるから殉死は本当に忠義かって言う疑問は古くから有る。
それと乃木のあれは殉死というより明治天皇によって科せられた自分より先に死ぬなって命令を果たしたから自殺しただけでしょ。 176日本@名無史さん2019/12/30(月) 10:34:19.63
生贄と殉死を同じに見るなよ。朝鮮は時代錯誤
177日本@名無史さん2019/12/30(月) 21:44:11.03
日本だって城たてる時の生贄とかあったわ。
178日本@名無史さん2019/12/30(月) 23:48:00.00
卑弥呼が死んだときは殉葬者奴婢百余人なんてのがある
殺される奴婢はたまったもんじゃないが、一応これも卑弥呼を喜ばせるためという点で、自分で死ぬ殉死と共通しているとは言える
179日本@名無史さん2019/12/31(火) 00:17:54.94
特に城郭建築の人柱においては否定的な見解が多く、井上宗和は、「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。
人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べており、
興味本位の出版物を除くと、城郭の人柱については全否定されている。(井上「日本の城の謎」祥伝社文庫)
180日本@名無史さん2019/12/31(火) 01:04:24.18
姥捨伝説と同じ
姥捨ては「お話」ばかりが伝わるのみで、いつ頃どこでこういう姥捨てをやっていたという「真面目な」史料は無い
181日本@名無史さん2019/12/31(火) 11:22:54.28
182日本@名無史さん2019/12/31(火) 15:50:27.01
架橋、築堤、築城など水利・土木工事の際、生身の人間の霊質を柱に乗り移らせて頑質にできる旨の人身御供伝説があるが、実際に行われていたかは定かではない
183日本@名無史さん2019/12/31(火) 16:07:33.71
魏志にて倭の文化とされるジスイだっけ、水先案内人? の風習とか記紀神話でヤマトタケルの東征のときの嵐/水難対策の風習とかとの類似性は感じられるかな
太古にそういう風習があったとか言う伝聞があって、それが説話に反映されたのかもしれないな
184日本@名無史さん2019/12/31(火) 19:01:40.58
魏志倭人伝
持衰(ジサイ)は航海中、髪はボサボサ、シラミだらけで衣服は垢だらけ
肉食せず、婦人を遠ざけ、神の怒りを受けないように慎む
無事に往復渡海できれば持衰には生口、財物を与える
疾病、暴風あれば慎みが足りなかったのだから殺す
神様の機嫌取りの役目だな
185日本@名無史さん2020/01/04(土) 00:47:47.52
失敗した持衰は「殺サント欲ス」ってことだったってから、ホントに殺すに至ったかはちょいと怪しいな‥‥
186日本@名無史さん2020/01/04(土) 08:11:59.80
高麗門は朝鮮からのパクリなの?
187日本@名無史さん2020/01/04(土) 12:58:39.12
名前の由来について書かれたサイトは、由来が分からないと言う疑問を書いてるところ以外に見つからない感じだ
ここが少しマシか
https://blog.goo.ne.jp/sanzaemon01/e/8d0e080f2cbcf417f8bc4dd9b4ac1aaf
>何人か韓国からのお客さんに訊ねたのですが、こんな形式の門が韓国にあるかどうか判らないと言われました。
>どうやら、秀吉による朝鮮侵略の文禄・慶長の役頃に発明された日本オリジナルの城門のようです。
という記述が。
また、
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/moch/castle/castle_klg03.htm
>高麗門の由来は??
>?城のつくり方図典 には断定的な書き方ではないのですが大筋次のように書かれています。
>> 文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて、豊臣秀吉が命じた朝鮮侵略戦争である文禄・慶長の役も、当時は「高麗陣」(または唐入)と呼ばれた。
>> この文禄・慶長の役の激戦を通じて、新しく発明された「新兵器」が高麗門であるらしい。朝鮮半島へ上陸した日本軍は、各地に日本式の城郭を建造しており、
>> 今日ではそれらを倭城(ウェソン)と呼んでいる。その倭城の城門として建てられた最新型の城門が高麗門であろう。だから、朝鮮式の城門ではなく、まったく日本式なのである。でも高級感の漂う名である。
>上記から歴史的な背景、名前の由来などははなんとなくわかるのですが何かちょっとすっきりしません。
>著 名 城のつくり方図典
>著 者 三浦 正幸
>発 行 2005年6月10日 初版 第三刷
>発行所 株式会社 小学館
朝鮮の人が発明したものではないとの説が有力か。 188日本@名無史さん2020/01/05(日) 12:32:33.04
アメリカがイランの革命防衛隊トップの司令官を爆殺して大問題に発展しそうな勢いだけど、日本のかつての張作霖爆殺事件と同じようなもんですかね?
もっと大きい?小さい?
189日本@名無史さん2020/01/05(日) 18:11:10.80
状況が全く違う
張作霖が死んだからといって中国全土で民衆が、その死を悼んだわけではない
(実効支配化になかった)大半の中国人は軍閥の親玉が死んだかどうかなんて関心がない
190日本@名無史さん2020/01/05(日) 22:45:44.40
ここ最近、神社(や神道、神職)が庶民に近い存在になったのは明治以降であって、
それ以前は神社はお寺と違って庶民にとって近い存在ではなかった、という言説を目にする
一方で、室町時代などは神社の拝殿で能が演じられて、村人が子供からお年寄りまで集まって
鑑賞していた、みたいな話も聞く
ある意味、神社が庶民の信仰+娯楽+文化活動の場であったという感じ
お寺と比べてどうこうって話ではないが、こういう話を聞くと神社も決して
庶民から遠い存在ではなかったと思える
ずばり、明治以前の神社と庶民の距離ってどんな感じだったのでしょうか?
お寺の方が庶民に近かったのはその通りだと思います
191日本@名無史さん2020/01/05(日) 23:48:43.76
村々に散在する小規模神社を完全に無視した怪しい言説ですね
高貴な人々の専用で門戸の狭い神社もあった、って程度のことではないかと
あと、明治以後ではなく江戸時代以後ね
192日本@名無史さん2020/01/06(月) 00:01:47.55
元は庶民から遠かったであろう伊勢神宮なんかは江戸時代初期に早くも門戸開放済みですね
旅行会社なみのネットワーク作って庶民の参拝を誘致してますよ
193日本@名無史さん2020/01/06(月) 06:45:54.78
神社は天皇が変わったとか元号が変わったとか情報発信基地でもあったよ
各種祈願も昔の方が切実だし距離が遠いはずはないよ
194日本@名無史さん2020/01/06(月) 10:34:37.96
>>193
普段庶民が参拝していたのは地元の村社だし豊作の祈りをささげて祭りをやるのが主要で
そんなところで天皇崇拝も新元号発表もやってない
明治時代に国家神道ですべての神社は天皇のいずれかの祖先神を祀るとなってからは
すベての神社が天皇の配下に入れられたが
伊勢神宮も南北朝時代に伊勢斎宮が廃絶してからは皇室との関係も疎遠になり
お伊勢詣では庶民の楽しみになっていた
明治時代以降、民間に降嫁した元内親王を伊勢斎主にして年に一回の祭りを主催
天皇皇族は何かあるたび参拝と急に皇室の神社として復活 195日本@名無史さん2020/01/06(月) 11:32:37.60
菅原神社や乃木神社は?
196日本@名無史さん2020/01/06(月) 20:25:10.03
明治以後に新設された新興の神社の場合、
>ここ最近、神社(や神道、神職)が庶民に近い存在になったのは明治以降であって、
>それ以前は神社はお寺と違って庶民にとって近い存在ではなかった、という言説を目にする
「それ以前」の時代には神社自体が存在していなかったから……
197日本@名無史さん2020/01/06(月) 23:52:43.33
>>190へのレス、ありがとうございました
参考にしてみます 198日本@名無史さん2020/01/07(火) 03:15:17.26
日本にとって初の国外の領土は何年頃でどこでしょうか?
199日本@名無史さん2020/01/07(火) 10:24:26.49
400年頃 任那日本府
200日本@名無史さん2020/01/07(火) 10:33:47.41
任那日本府は日本成立のかなり前の話だぞ
201日本@名無史さん2020/01/07(火) 11:14:07.26
言葉は生き物で時代によって変わるのは仕方ないですが、
「〜公」(織田信長公みたいな)という言い方はなぜ
なくなってしまったのでしょうか?
どういう理由が考えられるでしょうか?
民主主義の時代で特定の人物を持ち上げる言い方が
時代に合わなくなったという理由も考えられますが、
目上の方に対する尊敬語で「〜様」「〜殿」という
言い方は現在にも残っていますよね
なぜ「〜公」という言い方はなくなったのでしょうかね?
202日本@名無史さん2020/01/07(火) 11:35:02.48
>>210
「貴様」はもともと尊称だったのに今となっては蔑称になってしまった
同様に亡くなった偉人を称える意味の「公」も
今は先生を「先公」というなど他人を揶揄する言葉になった 203日本@名無史さん2020/01/07(火) 11:42:52.69
〜公は制度上のものではなく、君主が国家を体現するという考えから言われるようになってきたもの
封建制がなくなり各地の領主が居なくなれば自然と廃れた
204日本@名無史さん2020/01/07(火) 11:45:39.35
>>201
三位以上または参議に任じられると公と呼ばれるらしい
前田利家は参議だから利家公だな
頼朝は正二だから頼朝公、義経は従五だから義経公とは言われてないよね
大体敬称なしで義経って言われてる気がする
明治だと慶喜は公付きですね。従一位だそうです
中曽根も従一位だから公付けて呼んでも良いはずだけど聞いたこと無いですね
死んだからこれからかな? 205日本@名無史さん2020/01/07(火) 11:55:51.72
>>204
日本国憲法施行後は呼ばれていない気がする
すでに亡くなっている人でも吉田茂公(正三位)、鈴木貫太郎公(正二位)とは呼ばれない
あと女性は三位以上に叙位されても公を用いない 206日本@名無史さん2020/01/07(火) 12:32:44.02
>>204
死後叙位の三位以上にではなく、生前に三位以上だけだったのではない?
戦後は生前に三位以上の人っていないよね? 207日本@名無史さん2020/01/07(火) 13:45:47.33
山梨の人は信玄のことを信玄公と呼んで敬っているけど、
信玄は朝廷からは大した位をもらっていないのだよな?
208日本@名無史さん2020/01/07(火) 13:58:34.84
信玄は贈従三位だよ
明治時代にだけど
209日本@名無史さん2020/01/07(火) 14:43:36.54
中学生です。レポートを書く上でわからないことがあるので質問させていただきます。
藤原京と平城京において、当時陰陽道の考え方はあったのでしょうか?
調べても平安京のことがほとんどでなかなか見つけられませんでした。
寺社の位置などに鬼門などの考え方は影響しているのでしょうか?
よろしくお願いします。
210日本@名無史さん2020/01/07(火) 15:09:07.34
女子中学生なら教えてやるところだが、残念だ
211日本@名無史さん2020/01/07(火) 15:38:13.48
>>204 >>207
武田信玄は生前従四位、死後四百年ほどたった明治時代に従三位
天正年間成立の「甲陽軍鑑」ですでに「武田法性院信玄公」の記載があり
公は普通に貴人に対する尊称 212日本@名無史さん2020/01/07(火) 16:13:10.78
>>209
鬼門の考えは平安期に出来たようだから平城京藤原京はあっても後付けでしょうね
霊獣が四方を守るという考えは平城京の時には入ってきているみたいですけど 213日本@名無史さん2020/01/07(火) 17:53:24.16
裏鬼門とかあるよね
214日本@名無史さん2020/01/07(火) 17:58:26.11
昔、何かの本で「鬼門というのは、開封では地形の関係上北東からの風が強いから、窓や出入り口を設けてはならないとされた。
風土の違う日本では意味がない」と書かれてたな。
何の本だったか覚えていないが。
215日本@名無史さん2020/01/08(水) 05:06:14.61
216日本@名無史さん2020/01/08(水) 07:59:11.67
西暦導入後なら明治以後か
日清戦争後の遼東と台湾ではないの
217日本@名無史さん2020/01/08(水) 08:00:31.44
>>214
開封って、北宋のとき以外に首都だったことないよなあ
すると北宋の頃の風習なのかな? 218日本@名無史さん2020/01/08(水) 18:08:18.08
219日本@名無史さん2020/01/08(水) 18:54:28.41
日本史なのか何なのかもはやよく分からないんですが、日本の文化かな。
貰い物の今年のカレンダーに大安とか仏滅みたいなノリで、輩ヤカラとか腸ハラワタとか肆ホシイママとか書いてあるんですが
一体なんでしょうか?もしよろしければ教えてください
220日本@名無史さん2020/01/09(木) 07:34:15.81
221日本@名無史さん2020/01/09(木) 13:01:14.69
北条義時はなぜ江間四郎を名乗ったの?
222日本@名無史さん2020/01/09(木) 13:39:35.24
院って何ですか?
光格天皇以前は天皇号ではなく院号
でも院政といえば上皇や法皇がやるもの
仏閣も知恩院や青蓮院などがある
徳川家光の諡号は大猶院で同名の寺院が日光にある
223日本@名無史さん2020/01/09(木) 18:15:40.45
>>221
実父のあとを継ぐのではなく別家を立てて独立するつもりで父親と距離をとってたからでは
最終的には家督を奪い取るような形になったので別家を立てる必要がなくなりましたけどね
あとは、父親が北条家の総領ではなかったので、北条の名字を名乗るまでには解決すべき問題が多かったのかも 224日本@名無史さん2020/01/09(木) 18:18:18.61
>>222
院政は院のうち一部の実権もちだけがおこないます
院政をとってる上皇は「治天」「治天の君」といって、その他の上皇とは別格です
院政をとれないまま終わった上皇の方が多いですよ 225日本@名無史さん2020/01/09(木) 18:23:58.24
ちごた
院という名称の来歴ですか
建物名、廟の名前かな
名前を直接呼ぶのがはばかられる高貴な人を居所の名前で呼ぶ風習がありましてね
226日本@名無史さん2020/01/09(木) 18:48:33.69
女院は御所の門の名前だよね
227日本@名無史さん2020/01/09(木) 21:13:01.97
>>226
日本初の女院・東三条院(藤原詮子)は里第の名前だよ
2人目の女院・上東門院(藤原彰子)からはしばらく門の名前が続くが
やはり里第の名を付けられた人もいる
里第の名前にすると上皇の院号とかぶりやすく避けたのかもしれん 228日本@名無史さん2020/01/10(金) 08:48:27.65
太平洋戦争のレイテ沖海戦でもし戦艦大和有する栗田艦隊がレイテ湾を目の前にして反転しなかったら
レイテ島のアメリカ軍を後退させるくらいはできていましたか?
229日本@名無史さん2020/01/10(金) 18:21:41.06
佐藤大輔の『征途』という仮想戦記では栗田艦隊が突入したせいで米軍の侵攻計画が遅れ
スターリンが要求していた北海道の一部までソ連軍に占拠されて、樺太と北海道北部が北朝鮮のような独立国になったという設定になっている。
ソ連邦崩壊と共に南北日本が統合されれば、北方領土も樺太も合法的に日本領w
230日本@名無史さん2020/01/10(金) 21:56:14.61
広島、小倉へ落とす計画の原爆をテニアンへ運ぶ重巡洋艦インディアナポリスを伊58潜が沈めたのも大きかった
これがなかったら原爆投下が終戦までに間に合ってしまったと言われる
被曝もなく、沖縄、北海道、東北の日本復帰を迎えることができたのだ
231日本@名無史さん2020/01/11(土) 15:59:21.56
>>229
なるほどその仮想戦記だと栗田艦隊のおかげでアメリカの侵攻が遅れてその間にソ連が北海道から北を占領すると。
栗田艦隊の反転は結果的には日本を救ったことになりますね。
北方領土や南樺太、北海道は当時は本州以南との格差が大きそうで、ソ連に占領されていたらますます格差が広がりそう。
ベルリン擁する東ドイツ、平壌の擁する北朝鮮は、WWU以前は栄えていたと思うので、北海道から北とはまた事情が違ってそうです。
>>230
まあ原爆よりも仲介を期待していたソ連が満州から日本領に攻めてきたことが終戦の最終的な決定打になったみたいなので、
原爆投下がなくてもソ連の裏切り?よって終戦はしてたでしょうね。 232日本@名無史さん2020/01/11(土) 17:03:32.47
日本の歴史に置いて時の権力者が
天下人にならなくなったのは
いつからですか?
233日本@名無史さん2020/01/11(土) 17:40:25.65
原爆が終戦に間に合わなかったと言っているのであって、終戦はそりゃぁあった
しかし、地上戦となって沖縄県民、北海道民の犠牲は大きかった
234日本@名無史さん2020/01/11(土) 19:38:19.55
降伏後にロシア軍が攻め込んで来たんであって
降伏前だったら余裕で撃退しているけど,ロシア軍はそんな強くないし海上輸送能力もない
よって降伏が遅れても北部戦線は何も変わらない(日にちがそのまんまずれるだけ)
235日本@名無史さん2020/01/11(土) 20:16:35.04
降伏を表明しただけで、受諾されてはいない
また、ロシアの参戦はヤルタ会談等で先に決められてたことで、ロシアだけの責任ではない。連合国全体の共同責任、もしくは米ソの共同責任と言うべき。
236日本@名無史さん2020/01/11(土) 23:50:34.91
どういう思いこみでソ連を撃退できたはずと思ってるんだ?
237日本@名無史さん2020/01/12(日) 00:33:57.62
日本の降伏後も戦争をやめずに一方的に攻め込んできたソ連軍は満州や樺太千島で日本人民間人に対しても乱暴狼藉を働いたと聞きます。
なんで日本は韓国が日本にしているようにロシアに抗議しないのですか?
238日本@名無史さん2020/01/12(日) 00:51:47.14
文化露寇,日露戦争,シベリア出兵,満洲事変,ノモンハン事件と全戦全勝だったから
239日本@名無史さん2020/01/12(日) 01:53:06.74
シベリア出兵やノモンハンが勝ちだった世界線が存在するのか。
シベリア出兵で勝ってたらノモンハンは存在しなさそうな気もするが。