1日本@名無史さん2020/04/15(水) 22:40:20.10
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・質問が続くようでしたら,「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。
・ここは日本史板なので,沖縄史は対象として不可です。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。
・煽り質問もままあります。スルーしてください。
前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart39【歓迎】
http://2chb.net/r/history/1574256603/ 2日本@名無史さん2020/04/16(木) 01:30:32.49
保科越前守
3日本@名無史さん2020/04/16(木) 08:28:04.95
保科越前守
4日本@名無史さん2020/04/16(木) 20:22:59.40
飛鳥時代・平安時代の疫病で新型コロナやSARSのような症状のものありますか?
この時代の疫病って中国から持ち込まれた感染症だったりしませんか?
5日本@名無史さん2020/04/16(木) 22:50:35.97
中国発祥じゃない疫病であっても中国から直接もしくは中国から朝鮮半島経由のどちらかでしか日本に入り込まなかった時代だと思う
6日本@名無史さん2020/04/16(木) 23:21:03.41
渤海との交流もあるし、満洲・沿海州からくる可能性だってないわけではないだろう
7日本@名無史さん2020/04/17(金) 09:49:34.95
渤海も満洲,沿海州も中国だろう。唐の領域ではないが
8日本@名無史さん2020/04/17(金) 11:21:04.91
満州、沿海州は言葉が違うだろ
9日本@名無史さん2020/04/17(金) 18:33:34.30
長城以北を中国と言い張るのは
かなり強い違和感があるな
10日本@名無史さん2020/04/17(金) 18:38:50.90
満州はともかく渤海は半分だけ中国の中だろ
渤海郡を中国の域内における拠点としたから渤海という国名なんだし
11日本@名無史さん2020/04/17(金) 20:43:32.59
古代日本には馬がいないとされますが
東北地方が馬の産地になったのはいつからですか?
12日本@名無史さん2020/04/17(金) 21:49:00.32
奈良時代の天然痘大流行はかなりの規模だったみたいだけどな
政権中枢の藤原四兄弟はじめ人口の約三割が亡くなったといわれる
この流行の影響で奈良の大仏と全国の国分寺の建設、墾田永年私財法が成立
13日本@名無史さん2020/04/17(金) 22:41:28.92
中国人は元々、新型コロナに変異したコウモリのコロナに耐性があり
アメリカ人に感染して変異したタイプが東アジア人に感染したという説
変異したことで東アジア人にも感染するようになったがやはり致死率が低い
日本人は飛鳥・平安のどこかで中国人が感染したコウモリコロナに出会ってたんじゃないかと
【新型コロナ】A型(米豪)→B型(東アジア)→C型(欧州)、突然変異で三つのパターン形成…武漢発生源は証拠なし?
http://2chb.net/r/newsplus/1586960792/l50 14日本@名無史さん2020/04/17(金) 23:43:30.51
15日本@名無史さん2020/04/18(土) 00:10:39.14
昭和の戦争で中国が満洲を侵略した後の事情で歴史を捏造してはいけない
16日本@名無史さん2020/04/18(土) 00:11:38.04
17日本@名無史さん2020/04/18(土) 00:21:42.07
>>16
んなことはない
「古代」の範囲を知らないのか何なのか明らかでないが、
小学中学で習う初歩中の初歩の日本史くらいは勉強しておいたほうが良いぞ 18日本@名無史さん2020/04/18(土) 07:44:09.08
東北地方南部は奈良時代のうちに日本の一部として扱われてるよな
中部は平安時代に入ってからだが、平安時代は古代だし。
しかし、東北地方の北部が日本の一部として組み込まれたのは奥州藤原氏を滅ぼしてからで、つまり中世に入ってからだよな
19日本@名無史さん2020/04/18(土) 08:56:25.46
奥州藤原氏は「鎌倉幕府に」服属しなかったから日本人ではないとかいう珍説?
古代に鎌倉幕府なんてないのだが
既に斉明天皇の時代には津軽の人々が朝廷から官位を賜っていた
平安時代には郡も設置されていた
古代から日本だね
20日本@名無史さん2020/04/18(土) 09:53:52.24
蝦夷は「天皇陛下に」見捨てられてたから日本人ではないとかいう珍説?
21日本@名無史さん2020/04/18(土) 12:13:07.48
奥州藤原氏が日本の地方豪族としては最初に東北地方の北端まで支配した、それまでは北端を支配するのは日本の豪族じゃなくて独立した現地豪族(アイヌ系か? 不明)
しかし、藤原氏はその領内を(従来から日本の一部として扱われていた地域を除いて)日本の一部という形式にせず、化外の地、外国として統治する形式にして、自らは朝廷に従っていた
だから北端まで日本として扱われるようになったのは鎌倉時代から
22日本@名無史さん2020/04/18(土) 12:20:14.23
>>19-20
古代の東北地方は、面の支配ではなく点の支配、一部の領主が朝廷に従っていて、飛び地的に朝廷の支配下の土地が散在してるだけだよ
面の支配が及んでたのは東北地方の南部だけ、多賀城とかあたり
平安時代になると秋田城介とかあるように、もっと北進してるけど、面の支配ができてるのはもっと南部だよね
奥六郡あたりになると、面の支配ではないよね
奈良時代のうちに支配が及んだ地域だって班田収授はほぼ施行できてないし 23日本@名無史さん2020/04/18(土) 12:36:09.50
いや。阿弖流爲や安倍忠頼(晋三の先祖)は日本人だったろうに
24日本@名無史さん2020/04/18(土) 12:50:25.93
>んなことはない
バカじゃねーの
25日本@名無史さん2020/04/18(土) 12:56:06.17
>>23
安倍氏は中央から赴いた天下り系なのか現地人なのか不明確だろ
阿弖流為は現地豪族だろ
どとらも、明確な日本人とはいいきれない 26日本@名無史さん2020/04/18(土) 13:01:48.46
長髄彦や卑弥呼は日本人と認めませんか?
27日本@名無史さん2020/04/18(土) 18:29:26.44
長髄彦や卑弥呼は日本人だろうけど、阿弖流爲や安倍忠頼は明確な日本人とはいいきれない
28日本@名無史さん2020/04/18(土) 20:41:56.88
29日本@名無史さん2020/04/18(土) 20:45:58.75
縄文人は日本人とは認めないのか?
30日本@名無史さん2020/04/18(土) 21:20:41.27
>>25
現地人だとしても、日本の服属して名前まで日本風にしたのなら最早日本人
その後に反乱して鎮圧されたことを理由に日本人ではないとすることはできない 31日本@名無史さん2020/04/18(土) 21:43:05.00
明智光秀って土岐源氏だったので征夷大将軍になれる資格はありますよね
本能寺の変は朝廷のために賊の信長をやったという話ですし変のあとに征夷大将軍になっていれば光秀に味方する大名は増えていたのでは?
32日本@名無史さん2020/04/18(土) 21:47:00.52
大返しで時間がなかった
朝廷も下手なことをして敵視されたくないし慎重にならざるを得ないだろう
33日本@名無史さん2020/04/18(土) 21:55:36.99
>>31
就任手続きに時間かかるしな
でもひょっとしたら、内定してる扱いしてたかもしれんね
光秀滅亡後には大慌てしてるし、その前後の日記が欠落してる現象とかもあるし 34日本@名無史さん2020/04/19(日) 13:58:14.16
もう爺の光秀に味方なんて誰もしないよな
先が無いもん
35日本@名無史さん2020/04/19(日) 14:28:27.43
少なくとも、本能寺の変の直後には朝廷の人々の多くが(洛中の商人含めた有力者たちも多くが)光秀に取り入ろうと、おもねったと思う
なんせ武力で信長を滅ぼした直後だ、ヘタに機嫌を損ねたらなにするか分からんしな
その間に光秀と懇意にした、懇意にしようとしたことじたいが秀吉の時代になると失点となったから、記録がない。処分されちゃったんだろ
36日本@名無史さん2020/04/19(日) 15:01:53.04
義昭から無理やり将軍職を奪うの?
それこそ光秀討伐の大義名分になるよ
37日本@名無史さん2020/04/19(日) 16:58:08.59
信長の領内では国衆の名前があまり挙がってこないのは中央集権が進んでいて国衆は織田家直属の家臣になったなのでしょうか?
38日本@名無史さん2020/04/19(日) 18:50:41.31
>>31
幕府開くのに清和源氏とか関係ないぞ。
室町の足利氏はたまたまで、徳川はどこかの名家の末裔と
いうことにしたくて、こじ付けで清和源氏にしといた。
そもそも鎌倉幕府4代目以降は藤原氏や皇族将軍になってる。
>>34
親族の細川親子が謹慎したのに対し、泣き言めいた
書状送ってる時点でアウトだわな。
(藤孝を取り立てるためで天下平定したら隠居する、とか)
他に味方した人といえば、混乱に乗じて旧領を回復しようとした
京極や武田くらいで彼らは真の味方とは言えないし。
秀吉が大返ししなくても立ち枯れた可能性大だと思う。 39日本@名無史さん2020/04/19(日) 19:01:52.23
細川の文書は藤孝が捏造した文書という説もあったのでは
40日本@名無史さん2020/04/19(日) 19:35:50.70
>>36
光秀の本意ではないかも知れないが、
将軍職は天皇から賜るものだから光秀討伐の大義名分にはならないだろう 41日本@名無史さん2020/04/19(日) 21:38:44.54
明智の書状が秀吉に奪われず無事毛利の下に到達したらどうなったか
明智と毛利が同盟すれば多少は可能性が出てくるか
42日本@名無史さん2020/04/20(月) 11:36:28.10
ドラマ脳
43日本@名無史さん2020/04/20(月) 11:59:51.46
100年前のスペイン風邪のときはどうやって立ち直ったんだろう
44日本@名無史さん2020/04/20(月) 12:09:23.76
二年三年と長くかかったことやら感染者総数から考えると集団免疫で収まったとしか思えない>スペイン風邪
45日本@名無史さん2020/04/20(月) 12:12:09.16
藤原四兄弟は全滅したね
46日本@名無史さん2020/04/20(月) 12:17:03.75
これだけは欠かさずみてる
日本史好きなら絶対みろ的なテレビ番組あったら教えて
47日本@名無史さん2020/04/20(月) 12:49:17.48
>>46
ぶらたも
ヒストリア
ちえいず
DJ日本史(ラジオ) 48日本@名無史さん2020/04/20(月) 18:54:45.15
BS朝日「建物遺産〜歴史的文化財を訪ねて〜」
49日本@名無史さん2020/04/20(月) 23:21:29.63
>>41
中立同盟ならともかく、攻守同盟は作れないだろう。
秀吉を挟撃するのがせいぜい。
織田家は信雄の軍が無傷で残ってて、信忠の美濃や尾張の
軍も糾合できるだろうから、明智の前途は明るくないと思う。
この地域で味方しそうなのって、失地回復を狙う安藤守就
みたいな人しかいないだろうし。 50日本@名無史さん2020/04/20(月) 23:44:19.56
勿論、「真の味方」というわけにはいかないだろう
でも、秀吉の件は毛利と利害一致、勝家の件は上杉と利害一致で後方を脅かせる
信雄と信忠くらいは明智で何とかしてほしいね
徳川が味方に付いてくれたら良いけどな
でも仮にその場は大成功したとしても光秀の後を継げる者がいるかというと厳しいか
51日本@名無史さん2020/04/21(火) 00:33:01.36
信忠は明智が最初に殺してるよな
信雄は、前後の行動が怪しくて、ひそかに光秀と共謀してたのではないかと疑う余地さえある状態と思う
もし光秀が「信長の首をとった、討ち取ったぞ!」と宣伝できてたら三日天下にはならなかったのではないかな
52日本@名無史さん2020/04/21(火) 08:32:51.91
スレタイ読め
53日本@名無史さん2020/04/22(水) 23:25:27.92
家康って名家好きで守護大名の末裔を探し出しては
旗本にしてあげてますね。
武田、一色、畠山、赤松、山名、今川、吉良など。
でも細川京兆家、斯波武衛家はどうして取り立てて
あげなかったんだろう?
名門中の名門だろうに。
54日本@名無史さん2020/04/25(土) 11:25:04.27
ローマ帝国がキリスト教を国教化したことよりも、キリスト教を公認したこと(ミラノ勅令)の方が
歴史上の重大事項とされているのが意外に思える
弾圧→公認→国教化という流れで、弾圧から転じた歴史的価値は大きいが、長い目で見たらやはり
「国教化」の方が重大事項のような気がしないでもない
55日本@名無史さん2020/04/25(土) 12:14:52.14
ミラノ勅令 → 信教(もち基督含む)の自由を認めた法令 <人類の歴史の進歩を著わす>
国教化 → (実体は)アタナシウス派の他宗派への弾圧活動 <負の歴史>
どうだろう?
56日本@名無史さん2020/04/25(土) 15:10:16.86
源平合戦のころは兵が全員ぶつかりあうような総力戦はほとんどなく、
代表が何人かきりあって勝敗が決まるみたいなことをどこかで読んだのですが、本当ですか?
それと元寇のころの鎌倉武士って戦争を知らない世代しかいなかったので江戸時代みたいに平和ボケした状態ですよね?
57日本@名無史さん2020/04/25(土) 15:26:36.75
代表者だけで戦うという風習はなかったと思うけどなー
ただ、戦国時代と比べて戦闘員が少なかったのはたしか
戦闘員は騎馬弓兵に分類されるらしい「武士」だけで、足軽も雑兵もいないから、人数が少ないんだよね
戦闘員より何倍か多い従者・下人が同行してるけど、戦闘要員じゃない
そして、だ
鎌倉時代は頻繁に紛争があって、平和な時期の方が少ないぐらいだから、江戸時代と違って平和ボケする暇はなかったはず
58日本@名無史さん2020/04/25(土) 15:51:26.70
59日本@名無史さん2020/04/25(土) 20:18:32.10
>>55
そういう解釈も成り立つけどね
ただ、当代随一の大帝国がキリスト教を国教化する
つまり、それ以外の宗教は認めない、というのはすごいこと
ローマ帝国の国教化がその後のキリスト教や世界に及ぼした影響も
めちゃくちゃ大きいだろう 60日本@名無史さん2020/04/25(土) 21:27:44.17
和弓って現在では弓道部の人が毎日的に当てる練習をしていますが、昔の(武人はともかく)弓隊の足軽は弓の稽古を日々していたのでしょうか?
あと武田の騎馬隊とか馬に乗りながら槍を振るう稽古をしていたのですか?
61日本@名無史さん2020/04/25(土) 22:43:22.76
弓はもともと足軽の武器じゃなく正規の武士の武器だった
武士の主力の武器は刀ではなく弓だった
もちろん日常的に練習はしていた
62日本@名無史さん2020/04/25(土) 23:33:32.14
江戸時代の旗本って江戸在住が義務付けだったそうだけど、
隠居しても領地に住めなかったの?
63日本@名無史さん2020/04/26(日) 16:00:21.71
だいぶ前にタバコは昭和人でも吸わないと
他スレで言われました。
かなりショックでした、父が
元喫煙者で今、慢性気管支炎を
患っているので。
祖父も元喫煙者で直腸ガンで死去。
ちなみに自分は非喫煙者です。
って言う事はタバコは明治人や大正人に
好まれるのですか?
まさかタバコは江戸人に好まれていたとか?
いまいち日本の喫煙に詳しくありません、
詳しい人は是非教えてくれたら非常に
有り難いです。
気になって×2、仕方がありません。
64日本@名無史さん2020/04/26(日) 16:15:19.10
タバコは明治から昭和の成金趣味
昭和人でも吸わないってのは昨今は昭和生まれでも吸わないってこと
それを理解できないあなたの脳には病気があります
65日本@名無史さん2020/04/26(日) 16:27:21.89
昭和末期ごろには、成人男性の大多数は喫煙者だった
低所得者でも買えるよう税率の低い低価格タバコもあったし、普通のタバコもそう高い値段ではなかった
66日本@名無史さん2020/04/26(日) 16:41:43.33
煙草を吸うのはマナーだよ。平成に入ってから煙草CMが規制され,分煙が徹底され,禁煙に到る
今は喫煙シーンですらタブー扱い
67日本@名無史さん2020/04/26(日) 19:05:31.69
>>62
旗本って幕府の直臣だし、大半は幕府の役人が他の旗本たちの領地も合わせて一括で領地を治めてて、自分の領地を治めることができなかったからね
正月とかに領民があいさつに訪れる以外に交流がないのが普通
五千石とか大手の旗本は別だけど 68日本@名無史さん2020/04/26(日) 22:42:51.82
多数の小国に分立していた中から、その中の有力国のプロイセンが統一して「ドイツ帝国」を築いたのは、
薩摩(とか長州とか)が統一して「大日本帝国」を築いたようなもんですか?
69日本@名無史さん2020/04/26(日) 23:47:27.38
違う
70日本@名無史さん2020/04/26(日) 23:54:42.52
お城や歴史博物館のお土産になっている嘉永年間大名地図を買ってトイレに貼って眺めてるのですが
その中で三人だけ卿が付けられているのに気付きました
その三名は加賀宰相、水戸中納言、尾張大納言でした
将軍家慶と紀伊中納言には付けられていませんでした
また島津や毛利など後の勝者にも付けられていません
はたしてこれを作成した方は何を持ってこの三名に卿をつけたのでしょうか?
71日本@名無史さん2020/04/27(月) 01:26:20.75
>>68
ドイツの場合、ドイツ全土を統一することを諦めて「2つのドイツ」という方向で統一を進めていった
東ドイツのことじゃないよ、オーストリア帝国とプロイセンの2つって意味な
日本で喩えれば、薩長が幕府を滅ぼさずに幕府系の東日本国と薩長主導による西日本国に分けて、それぞれ別個に統一しようとするようなものかと 72日本@名無史さん2020/04/27(月) 02:28:30.04
今井信郎って自分は見張りしてただけって言ってますが、
龍馬暗殺時の詳細とかがWikipediaにのってますよね?
自供して殺したって言ったのか、あくまで見張りだけと言ったのかどっちなんですか?
73日本@名無史さん2020/04/27(月) 07:46:01.16
>>70
「卿」は参議以上大納言以下の貴族にたいする呼び方だから
尾張水戸加賀は当主が参議か大納言になってる
嘉永の時点だと家慶は太上大臣で当然大納言より上
紀伊家は当主が後継いだばかりの子供の慶福(家茂)でまだ参議になってない
毛利(敬親)も島津(斉彬)も官位が参議より下 74日本@名無史さん2020/04/27(月) 07:49:44.41
>>73間違えた
家慶は左大臣
太上大臣は死んだあとだった 75日本@名無史さん2020/04/27(月) 09:53:34.11
>>64-66
有り難う御座いました。m(_ _)m
自己解決しました。
日本の喫煙は江戸時代に伝わった様です。
西暦1603年辺りの頃に・・ 76日本@名無史さん2020/04/27(月) 10:20:32.34
それはキセルだし 吸ってる人は少なった
77日本@名無史さん2020/04/27(月) 10:22:15.53
>>73
ありがとう
将軍は公なんだな、付いてなかったけど
紀伊中納言慶福て書いてあったけど嘉永年間には左近衛権中将
さらに将軍になって安政になってから参議なのか
中納言は誤植か 78日本@名無史さん2020/04/27(月) 10:32:19.91
79日本@名無史さん2020/04/27(月) 12:11:11.48
>>76
今のような紙巻きたばこって戦後に出てきたんだっけ、戦後に普及した(登場は戦前か戦中)か、どっちだっけ
戦中のタバコ販売(配給だった)は紙巻きじゃなくて計り売りだったことは、当時の販売店の祖母から聞いている 80日本@名無史さん2020/04/27(月) 15:25:52.53
明治5年、土田安五郎が紙巻きたばこの販売を始める
明治27年宮内省が菊の御紋入り恩賜のたばこ製造委託を始める
紙巻きたばこがたばこの中で主流となったのは日本では第一次大戦後のことである
大正12年、紙巻きたばこが刻みたばこの製造量を初めて上回った
81日本@名無史さん2020/04/27(月) 15:46:09.88
82日本@名無史さん2020/04/27(月) 15:47:40.30
>>79
天皇から賜わる「恩賜の煙草」というのが映画やドラマでたまに出てくるけど、紙巻きタバコだよ。 83日本@名無史さん2020/04/27(月) 16:06:09.01
>>79
キセルに詰めるための刻みたばこと、紙巻き用のたばことは葉の刻み方が違うので、その戦時中に量り売りをしていたというたばこが紙巻き用であるのなら客が自分で紙に手巻きして吸っていたのだろう 84日本@名無史さん2020/04/27(月) 18:17:21.46
計り売りのタバコ葉の件だけど、たしか何種類か扱ってたはずなので、両方あったのではないかなあ
紙巻きをおいてたかどうかは、聞いたのに忘れたのか聞いてないのか、どちらだろうか
当時のキセルの現物も残ってるよ
あと、当時のものかどうか不明だけど、飾り用っぽい物も残ってるよ
85日本@名無史さん2020/04/28(火) 03:03:56.16
江戸後期に樺太とかを案内してくれたアイヌ達にお礼として与えた品物の中にも煙草があった
これはどんな煙草だったのだろう
86日本@名無史さん2020/04/28(火) 07:32:13.01
タバコは大きな葉っぱだが、そのままであの小さなキセルの火皿に詰められるわけもないのだから葉っぱを刻んだものだっただろうよ
刻みたばこは紙巻用とは違って極く細く葉を刻んだ繊細なものだったな
87日本@名無史さん2020/04/28(火) 07:45:14.32
時代劇で御馴染み、銭形平次親分が居間に座ると前には物入れまで付いた立派な火鉢(と言っても木製のサイドテーブル風)がデーンと据えられていた
炭火で暖も取り、湯も沸かし、煙管(キセル)に詰めたタバコに火も点ける
子分のガラッ八が親分てぇへんですぜと駆け込んでくると、親分はきせるの雁首を火鉢の角でパーンと叩いて煙草の灰を叩き落とし、捜査活動に出動したものだ
88日本@名無史さん2020/04/28(火) 14:20:36.95
公家はなんで藤原北家だけ一人勝ちしたんでしょう?
南家とか式家みたいな乱を起こした家が没落するのは分かるが。
89日本@名無史さん2020/04/28(火) 14:25:08.80
みんなで仲良くより一人勝ちするのが歴史のありようでは?
五摂家並び立ったことのほうが不思議だ
90日本@名無史さん2020/04/28(火) 18:42:44.30
>>89
いや、だから何で一人勝ちしたのかって疑問です。
物部、蘇我とかわが世の春を謳歌した一族は追い落とされてますよね。
どうして藤原北家だけ長続きしたんだろうと。 91日本@名無史さん2020/04/28(火) 19:15:53.49
主要な貴族家を家臣にして取り込んでいったことが大きいような気もする
多くの貴族が朝廷の臣であると同時に藤原氏の臣でもあった。
あと、朝廷の財力が衰えて、藤原氏の家臣にでもならないと朝臣としての収入だけでは生活できないものが増えたこと?
92日本@名無史さん2020/04/28(火) 23:11:12.09
>>91
つまり藤原北家に対抗できる家がなくなってしまったと。
古代豪族からの流れの貴族は藤原氏の配下に組み込まれたので、
段々と官位に名前が見えなくなったんでしょうか?
奈良時代から平安時代に掛けて、次第に名前が見えなくなって
歴史の中に埋もれた感じですし。 93日本@名無史さん2020/04/29(水) 01:00:24.06
承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変で対抗勢力を積極的に潰しに行ったのもある
94日本@名無史さん2020/04/29(水) 03:03:06.20
藤原氏と北家が台頭する過程なら
・長屋王の変
・橘奈良麻呂の変
・藤原仲麻呂の乱
・宇佐八幡宮神託事件
・藤原種継暗殺事件
・伊予親王の変
・平城太上天皇の変
も重要
95日本@名無史さん2020/04/29(水) 16:46:15.53
>>94
うーむ、関係はあるが藤原北家が主体とは言えないものばかりではある 96日本@名無史さん2020/04/29(水) 17:52:38.84
平成の大宰相として安倍晋三氏の名前は後世の歴史教科書に載るかね
安保法制でいわゆる普通の国へ一歩前進したこと
米国連邦議会での演説は平成外交のクライマックスの象徴になるのでは
G7伊勢志摩サミットでは世界の首脳から好かれる安倍総理と評判になった
経済の面では完全雇用の状態を達成した
97日本@名無史さん2020/04/29(水) 19:02:03.97
どういう風に進歩したっけ?
米軍による沖縄侵略を防げないばかりか沖縄住民弾圧に加担するばかり
より傀儡国家へと後退した印象が強い
98日本@名無史さん2020/04/29(水) 19:50:54.76
あちこちに喧嘩をふっかけてるトランプが日本に対してはあまり文句を言わないのは、安倍さんが個人的に好かれているからではないか
99日本@名無史さん2020/04/29(水) 20:15:22.52
というよりも単なる傀儡、道具といったところだろう
100日本@名無史さん2020/04/29(水) 20:18:29.07
>>93の「承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変」のうち、
昌泰の変だけが教科書に名称としては記載されていなかった
意外にも菅原道真に関する記述自体が余り細かくは書かれていないね 101日本@名無史さん2020/04/29(水) 22:30:37.03
幕末における朝廷内の勢力図の変化、8月何日だったかの政変って
マイナーだけど、もっと重大な事柄じゃないですか?
長州派の公卿の失脚であり、キーマンの岩倉も蟄居させられた政変ね
102日本@名無史さん2020/04/29(水) 22:36:56.11
>>98
違う。喧嘩を吹っ掛けられる前に安倍が全てを受け入れるからです 103日本@名無史さん2020/04/29(水) 23:07:55.95
そういえば飼料用トウモロコシ買うのどうなったんだろ
104日本@名無史さん2020/04/30(木) 01:25:59.34
>>95
でも、それらの事件がなければ北家ひとり勝ちにはならなかっただろ 105日本@名無史さん2020/04/30(木) 06:25:28.25
因果関係があるというだけで羅列するなら乙巳の変やそれ以前もあるし親が生んでくれなければともなり兼ねない
北家主体は絶対条件ではないがもう少し決定的な要因が欲しい感がある
106日本@名無史さん2020/04/30(木) 15:26:45.72
19世紀後半の日本が独立を守れたのは米国のおかげでしょうか
幕末に米国と条約を締結して独立国家としての地位が保全されたということでしょうか
107日本@名無史さん2020/04/30(木) 17:43:04.65
欧米が中国や朝鮮を独立国家として認めなかったという話は聞いたことがないし
フツーに日本の教科書を読めば、江戸幕府と各国との不平等条約を改めさせるために
新政府が苦労していることが書かれてあるのだが…
108日本@名無史さん2020/04/30(木) 18:05:38.84
いえ。アメリカ連合国が米国を攻撃してくれたから手が回らなかった。
国内でもっとリー将軍を称えて善いと思いますが…
109日本@名無史さん2020/04/30(木) 18:30:20.41
>>106
幕府も突っぱねれば戦争になりかねないとして通商は認めないが補給だけは認める 日米和親条約
更に通商を求めてきたので突っぱねると戦争になりかねないので日米修好通商条約を結んだ
内乱になれば外国につけ込まれる所だが短期に政権交代 明治維新
中国のようにならないよう富国強兵に邁進
独立を保てたのは知恵と努力の結晶ですよ 110日本@名無史さん2020/04/30(木) 18:50:37.92
日本の明治時代について学びたいという外国人に英語でお薦めの書物をご存知の方おられませんでしょうか
111日本@名無史さん2020/04/30(木) 20:26:45.55
>>106
記録文書の分析によると、幕府は開国前から開国不可避なことは把握済みで、
最恵国待遇の原則を考慮して最初の条約締結相手国は日本に対する利害がもっとも少ないであろうアメリカの一択だと想定し、
ロシア等の干渉をはねのけながらペリーの到着を待ったとか、
その時点からすでに通商条約が不可避であると想定してはいたことがわかってきた
後年に問題となった不平等条約の件は、条約締結当初の時点では最善策であり、あれ以外の条件は採用し得なかったことも明らかとなった 112日本@名無史さん2020/04/30(木) 20:30:17.20
>>107
中国はともかく朝鮮は独立国と認めるには条件が足りなかったとされている
日韓併合に反対して国際連盟で韓国の独立を求め、日本による併合の無効を求めた際にも韓国は独立国の要件を満たさないとして門前払いされている 113日本@名無史さん2020/05/01(金) 00:30:09.07
戦艦大和は日本の戦艦の中では対空兵装が充実していたと聞き出したが、沈没時の戦闘で敵機を僅か十数機しか撃ち落せなかったのは何故ですか?
VT信管がないとこんなもん?それとも当日の天候が悪くて敵機を識別し辛かったから?それとも敵機の性能が良すぎたから?
114日本@名無史さん2020/05/01(金) 11:34:52.43
高校レベルの日本史でさえ自信ないので学び直したい
まずは「詳説日本史B」と「詳説日本史研究」 どちらがおすすめですか?
115日本@名無史さん2020/05/01(金) 14:47:18.92
>>113
高速で飛ぶ小さな目標に弾丸を当てるのは難しいと言うことだな
機銃で飛来物に弾丸を当てるのは現代ではレーダー技術の粋を凝らしてやっている
大和も就役後に戦訓を生かす形で対空火器を泥縄式に増設して行ったがなぁ
「男たちの大和」という映画をみたが、機関砲の弾倉に詰めた弾丸はあっと言う間に打ち尽くしてしまう
弾倉を取り換える係の忙しいこと
あれでは弾幕を張るというほど撃ちまくるのも難しそうだった 116日本@名無史さん2020/05/01(金) 15:14:51.61
大和が設計された戦前の戦闘機と実際に戦った戦時中、特に末期ごろの戦闘機で性能が違いすぎたことも大きいかもね
117日本@名無史さん2020/05/01(金) 15:17:15.01
装填係の他に方向指示係、機銃の方向係、機銃の上下係、撃つ係が居るんでしょ
当たるわけ無い
118日本@名無史さん2020/05/01(金) 15:35:02.73
日本には馬が古代にはいないとされてますが
馬の名産地の東北にもいなかったということですか?
119日本@名無史さん2020/05/01(金) 15:46:35.73
戦艦の大砲は照準の係からの指令によって一斉に砲身の向きが整えられる
大和の対空機銃もその方式に準じて機銃群ごとに機械的に照準を行うようになっていたが、航空機相手の射撃にはついてゆけるスピードではなかったようだ
戦闘開始でその指令系統も乱れて各機銃の目測照準になった日にゃぁ当たるわけもない
映画の主人公配属の機銃は増設露天機銃で最初から丸に十の字の目測照準器でやってた
120日本@名無史さん2020/05/01(金) 16:06:41.60
>>118
もともと日本列島にウマは生息せず
日本各地の発掘による所見では4世紀末から5世紀にかけて日本での馬飼育の痕跡が見られる
奈良時代には東北が有数の馬産地として姿を現してきた 121日本@名無史さん2020/05/01(金) 16:14:03.20
〉〉120
返答ありがとうございます
4世紀後半に飼育しはじめて
奈良時代にはもう有数の馬産地って相当早くて驚き
122日本@名無史さん2020/05/01(金) 17:27:42.96
>>118
そもそも、野生種の馬を家畜化したのが世界全体で1度だけ、他は家畜馬が逃げて野生化したのを再家畜化してるだけ、と言われてるし 123日本@名無史さん2020/05/01(金) 19:14:31.72
>>112
質問は19世紀、日韓併合は20世紀
>>113
日本海軍の対空射撃は撃墜を目的にしているのではなくて敵機の攻撃意図を削ぐのが目的。
映画なんかで指揮官が目標を指示して手動による対空射撃をやってるけど、本当に効率よく撃墜を企図するなら
機銃や砲をエリアごとに区分して、敵機がいようがいまいが決められた角度にだけ射撃しなければならない。
時速数百キロで飛行する目標を目で追いかけても意味がないし、攻撃を受ける艦艇は左右に舵をきり続けるから弾道は直進しない。
あと、大和の主砲の威力は凄まじくて爆風楯で覆われていない機銃は主砲射撃中は使えないからカタログスペックは当てにならない。 124日本@名無史さん2020/05/01(金) 19:42:21.98
>>123
19世紀の韓国は中国の属国だから独立国扱いされないだろ 125日本@名無史さん2020/05/01(金) 20:06:14.47
126日本@名無史さん2020/05/01(金) 20:46:19.91
日清戦争の頃までは独立国扱いじゃなく中国の一部扱いだったからロシアの進出もなかったんじゃん
中国の保護下じゃなくなったから日本とロシアの係争地になったんじゃん
127日本@名無史さん2020/05/01(金) 23:33:06.61
>>120
では馬は誰が連れてきたんだ?
中国からの使節とか? 128日本@名無史さん2020/05/01(金) 23:42:53.48
雷撃機が魚雷を放とうというときはまっすぐに照準を定めて直進する
大和が対空射撃をバリバリ行う中を、舵も切らずまっすぐに進んでくる米雷撃機には敵ながらその勇気に感心させられたと言う
米軍機乗組員も雄々しくその義務を果たした
そうして巨艦には攻撃機が殺到した‥‥
129日本@名無史さん2020/05/01(金) 23:46:15.56
>>127
掘り返してりゃどこかの馬の骨が出てくるだけさ
誰が連れてきたとか書いた物はねぇよ
誰がどうやって連れてきたか‥考えろよ 130日本@名無史さん2020/05/02(土) 00:11:41.01
馬は百済王から贈呈されたと記紀に書いてあるだろ
131日本@名無史さん2020/05/02(土) 06:02:00.03
6世紀末にロバやなんかを百済から贈られたなどとあるが、考古学的にはもっと古い時期から馬の骨が出てるってことだ
132日本@名無史さん2020/05/03(日) 17:10:12.02
日本人の特殊性である表立って個人が自己主張するのははばかれるのに、集団でのいじめや匿名でさまざまな嫌がらせをする文化は歴史的には何に由来しているのでしょうか。
133東大2020/05/03(日) 17:29:40.23
134日本@名無史さん2020/05/03(日) 23:10:19.26
好太王碑にある高句麗との戦いで馬の重要性を知ったとも考えられているね
任那経由で入手したのだろうか
135日本@名無史さん2020/05/04(月) 07:34:47.43
丸木舟に舷側の板を張ったくらいのフネしか持ってないが、一頭ずつ運ぶんでは効率が悪い
ウマはくくりつけて泳がせてみようぜ
体、全部沈んでしまうということもないようだ
まぁ、可能かどうかは後世の者が実験航海すりゃいいこどだし
‥‥などと倭人どもがワァワァとやっております
136日本@名無史さん2020/05/04(月) 07:56:27.53
>>132
律令制や神道からかな
主導する人には権威が必要
それ以外は何様?ってなるんじゃないかな
ブランド主義的な物が根付いてる 137日本@名無史さん2020/05/04(月) 10:37:20.09
138日本@名無史さん2020/05/04(月) 11:56:26.69
原稿の頃は丸木舟の時代ではない
139日本@名無史さん2020/05/04(月) 12:46:45.73
オホーツク海周縁で活動していた北方系旧石器時代人(日本列島にいた旧石器時代人のグループのうちでもメジャーな集団のひとつ)がもちこんでて北海道や東北には早くから野生化した馬がいた、という可能性は?
140日本@名無史さん2020/05/04(月) 13:32:50.42
養老二年(718年)、出羽、渡島(北海道)の蝦夷八十七人が京の都へ上り、朝廷に馬千匹を献上した、と扶桑略記にあるが、当時の渡島(北海道)に馬はいなかったので、このときの馬は出羽のものであろうと言われている
十五世紀には戦に敗れて蝦夷地へ逃亡した武士も居たので、馬を持ち込んだ可能性もあるが記録もなくてわからない
江戸時代になると幕府巡検使が蝦夷地に渡った際は乗用、物資輸送に多数の馬を使用しているので、すでに相当数の馬が飼われていたと思われる
141日本@名無史さん2020/05/04(月) 22:00:25.47
アイヌ語で馬のことは「ウンマ」と言う
明らかに日本語から来ている
稀に「チョーメ(チョメ)」とも言うようだが、これも上馬か乗馬が語源と考えられている
子馬のことは「チョーニ(チョニ)」と言うそうだが、これは不明
そんなに古くから馬と付き合いがあるわけではなさそう
142日本@名無史さん2020/05/05(火) 00:53:32.61
>>94
藤原北家が権力を握り続けて没落しなかったのは、荘園制度が大きいのかな?
摂関家に名義貸しを頼むと税だけでなく様々な負担が免除されたので、
いろんな連中が摂関家に
「うちの土地をおたくの荘園ってことにして下さい」
って頼んだので、摂関家がなくてはならない存在になって潰されもしないし
対抗勢力も出ず、北家一門も枝葉のごとく広がった。
この解釈はどうだろう? 143日本@名無史さん2020/05/05(火) 20:30:41.56
論点としては、寄進先は別に藤原家に限られないことと、国司からしたら不満であることか
農民から支持を得ることが貴族同士の権力争いに直結するかというのもありそう
元の実力差が既にかなりあったのが更に広がったというところか
144日本@名無史さん2020/05/05(火) 23:19:36.09
新選組って幕末の政治や文化に直接大きな影響を及ぼしたわけでもないけど、
100年以上経った現在でも有名で人気もある
新選組っていうグループ名だけでなく、その中の剣士が何人も有名でいる
これってかなり凄いことだと思う
145日本@名無史さん2020/05/06(水) 03:44:38.16
>>142
荘園の寄進先は「いろんな有力者たち」だよ
大抵の「いろんな有力者」は更に寄進して藤原氏の元に集まる傾向はあったけどね
寄進が階層的だった点、これを見落とすと荘園のことを理解できなくなるほど重要、たぶん。 146日本@名無史さん2020/05/06(水) 12:31:34.30
マレー沖海戦で一式陸攻に沈められた戦艦プリンスオブウェールズ号は、カタログスペックでは毎秒四千発もの対空砲を放つことができたそうですが、
マレー沖海戦では陸攻17機にしか被弾させることができず、内墜落させたのは僅か一桁に過ぎなかったそうです。
プリンスオブウェールズの射撃主の練度が低かったのでしょうか?
それともカタログスペックの方が過大評価だったのでしょうか?
147日本@名無史さん2020/05/06(水) 14:58:03.40
寄進を受けた藤原が更に皇族に寄進している例もあるしな
148日本@名無史さん2020/05/06(水) 16:53:27.76
日本の双発攻撃機の多くは被弾、工廠修理2機、隊内修理25機、喪失2機、21名戦死の被害を出しており、2艦の対空砲火の激しさを証明している
日本のような遅れた海軍国では大砲も当たりはしない、航空勢力に至ってはイタリア並みで全くたいしたことはないと思っていたのだが、英軍の複葉攻撃機に慣れた目には日本の航空機は速度が大きくて対空砲火が心細くなってしまった
とにもかくにも航空勢力を伴わない艦隊は脆弱なものになってしまった時代の到来が示された
英軍駆逐艦による救助作業を日本側は全く妨害せず、沈没を確認した日本機は翼を振って敵の敢闘をたたえた
南海の花束:後日、現場には花束二束を投下し、敵味方の戦死者に捧げた
149日本@名無史さん2020/05/06(水) 18:23:51.51
>146
↓を読んで納得してくれ
「第2次大戦のイギリス戦艦」『世界の艦船』第634号、海人社、2004年11月
この種の質問を続けるのなら軍板のミリオタに聞いた方が熱心に回答してくれると思うよ
150日本@名無史さん2020/05/07(木) 01:55:37.54
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%9C%9D
鈴木重朝が処罰されないどころか、家康に雇ってもらえた理由は何でしょうか?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍本隊に属して伏見城攻防戦の先鋒
となって一番乗りを果たし、伏見城に籠もる鳥居元忠を討ち取った。戦後は浪人の
後に伊達政宗に仕え、後に政宗の仲介により慶長11年(1606年)に徳川家康に
直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本
として付けられた。
家康からしたら、最悪級の敵では?
あくまでも、それぞれの仕える君主の旗の下に行われた純粋な戦闘行為の結果
と割り切ったのでしょうか? 151日本@名無史さん2020/05/07(木) 08:09:56.20
人物については伊達政宗の保証付きだったということなんだろ
152日本@名無史さん2020/05/07(木) 08:37:51.13
一兵卒が任務を遂行しただけだからな
恨みで手打ちにすれば西軍に付いた将兵は次は俺かもってなる
鳥居を討った兵を許せばみんな安心して徳川に従うだろうって腹でしょう
153日本@名無史さん2020/05/07(木) 18:11:41.30
雍歯の故事に倣ったんじぇねぃ
154日本@名無史さん2020/05/08(金) 01:12:11.94
官軍の官ってどっからきてるんですか? 皇軍ならまだわかるんですが
155日本@名無史さん2020/05/08(金) 05:16:38.72
中国語から
156日本@名無史さん2020/05/08(金) 15:15:13.27
祖彌窮ら甲冑を環き山川跋渉した昔でもあるまいに、いくさは将軍のやること
天子様が軍を率いるわけではありまへん
官軍(政府軍)の呼び名でよろしい
天子様が軍服お召しになって白馬に跨る時代になってから、皇軍とか呼ぶ人もお居やしたなぁ
満洲国つくったりして戦雲たなびくようになってから新聞やらで皇軍、皇軍言うてましたわ
その後は聞きまへんし、流行り言葉やったん違いますかぁ
157日本@名無史さん2020/05/08(金) 18:15:41.55
天皇が直接に軍を率いた最後っていつ頃だろう
候補だと思った承久や南朝はすこしちがうんだよなあ
奈良時代まで遡るのかな?
158日本@名無史さん2020/05/08(金) 19:37:59.41
保元の乱かな
159日本@名無史さん2020/05/08(金) 20:29:42.44
天皇は王ではなく皇帝なのになぜ幕末では尊王攘夷という言葉が生まれたのでしょうか?
また孝明天皇は熱烈なる尊王攘夷派の長州藩をなぜ嫌っていたのでしょうか?孝明天皇にとって長州藩は自分を押してくれてる藩になるにもかかわらず
160日本@名無史さん2020/05/08(金) 20:35:54.61
天皇が直卒したと感じるのは壬申の乱のあたりかな
穢れ思想の影響もあるのか戦場に出るのは滅多にない
161日本@名無史さん2020/05/08(金) 20:51:14.98
尊王攘夷は春秋時代の支那の言葉をそのまま使っている
周王を尊び、侵入する夷を攘(はら)う意
162日本@名無史さん2020/05/08(金) 21:03:32.11
現代人は結果を知っているから、そんな思考になる
二百年以上安定的に続いていた政治体制を崩そうとしているのだから
現代でいうと暴力革命を是とする過激派みたいなもんだぞ
163日本@名無史さん2020/05/08(金) 21:17:56.27
>>159
朝廷をぶっ潰そうなどという勢力はなかったんだから
薩長も徳川も尊王、勤皇の気持ちには違いがない
薩摩の方が天皇を将棋の駒に例えてか「玉」などと秘かに呼ぶだけタチが悪かったくらいだ 164日本@名無史さん2020/05/08(金) 21:57:36.78
>>158
保元のときは軍の総大将に行ってこいといって作戦方針を命じただけで軍の指揮を取ったわけではなくないか
本陣の建物から出てないし、承久のときと大差ない気がする 165日本@名無史さん2020/05/08(金) 21:59:31.71
>>163
皇居に突貫するような、普通なら大逆と認定されるほどの問題行為を行ったのは長州以外みんなすぐに敗北して消え去ってたんだよな? 166日本@名無史さん2020/05/08(金) 22:00:56.06
>>163
皇帝やら天皇のことを玉体と呼ぶのは普通だし、略して玉と呼ぶのも珍しくない気がする 167日本@名無史さん2020/05/08(金) 22:47:23.27
玉を取った方が勝ちだ、などと言っていた
168日本@名無史さん2020/05/09(土) 04:43:28.50
>>156
どうでもよい文を字間違えて引用するとは 169日本@名無史さん2020/05/09(土) 13:22:18.68
官軍 vs. 賊軍
枢軸国 vs. 連合国
皇軍 vs. 鬼畜米英
プロバガンダ
170日本@名無史さん2020/05/09(土) 21:26:18.45
軍人か軍人じゃないかの線引きは何ですか?
明治〜昭和の時代の天皇は軍人でもありましたが、
何をもって「軍人」とするのでしょう?
171日本@名無史さん2020/05/09(土) 22:04:05.64
ヒント:日本近代史板
172日本@名無史さん2020/05/10(日) 01:48:19.54
173日本@名無史さん2020/05/10(日) 08:23:59.56
皇帝は他の王を束ねる存在だもんな
174日本@名無史さん2020/05/10(日) 08:32:13.63
滋賀の高島の三尾氏なんですが
壬申の乱の時に滅んだんですか?
皆殺しにされたの?
継体天皇を輩出したのは三尾氏だし
当時、絶大な権力を誇ってたのに、壬申の乱以降から急に姿を消しているのですが。
175日本@名無史さん2020/05/10(日) 09:15:49.38
>>172
天皇は海外ではキングではなくエンペラーと呼ばれてるぞ 176日本@名無史さん2020/05/10(日) 11:22:41.49
エンペラーはおかしい、日本の王にすぎない
韓国はそう言ってかたくなに日王としか呼ばない
そういう韓国も日清戦争の結果、支那の属国を脱したとき、もう支那の子分の朝鮮王じゃないと大韓帝国皇帝を称した
それでも立ち行かなくなって倒産、日本と合併(併合)
日本も支那皇帝の子分じゃないからと倭王ではなく天皇と称したのだ
177日本@名無史さん2020/05/10(日) 12:12:20.73
>>174
壬申の乱のあと、大友方の豪族たちは凋落し大海人方の豪族たちが台頭した
大友方についた豪族たちのうちで復権したのって藤原氏ぐらいじゃね? 178日本@名無史さん2020/05/10(日) 13:42:14.29
>>177
滋賀高島市出身の人間なんですが、有力豪族の三尾氏の子孫とかどうなったのか?気になりまして
急に消え去った感じがします。
安曇川三尾の人も、聞いた限りでは知らない感じです。
不思議です。
有力者は皆殺しにされて、遠縁は平民とか身分を落とされたのかな?とか思ってます。 179日本@名無史さん2020/05/11(月) 07:52:42.56
歴史的事実としての日本建国は701年の大宝律令の成立をもってとするのが妥当でしょうか
その場合、建国記念日は条文が完成した8月3日が妥当でしょうか
180日本@名無史さん2020/05/11(月) 11:36:21.37
現在では全く違和感ない神社参拝の作法「二礼二拍手一礼」
これって大昔からの伝統ってイメージがあるけど、戦後かららしい
正直、マジかよ?って思う
それまでは普通に深々と一礼するだけだったらしいけど、
ある時から急に「二礼二拍手一礼」ですよって決められたのか?
当時の人々はどう思ったんだろう?
神社って全国津々浦々まであるし、初詣や観光、願掛け、お祭りなども含めて、
神社参拝って結構国民広くに関わることやん
詳しい人の見解を聞いてみたい
181日本@名無史さん2020/05/11(月) 12:16:37.43
神社作法が公式に決められたことはない
明治期に神職の作法として決められたものを一部抜粋して、これがお参りの作法だ等と紹介した人がいて、徐々に広まったらしい
エセ蘊蓄の拡散定着、要するに単なるデマだったってとこでしょう
182日本@名無史さん2020/05/11(月) 15:00:33.02
もともと縄文のアニミズム信仰が先で
それから、神道がそれを利用して広めたんだ。
だから、縄文人がそんなことにこだわってたとは思えない。
183日本@名無史さん2020/05/11(月) 15:14:33.32
そんな古いもんじゃない
神道のいろんな風習の多くは、世間で思われてるよりはあたらしい
184日本@名無史さん2020/05/11(月) 16:51:16.78
二礼二拍手とか昭和の頃は言われてなかったな
仏様と違うのは拍手することだとくらいしか言われてなかった
だいたい礼して終わりだったらお祈りするヒマがない
仏様に対するときと同じように手を合わせて祈ってたもんだ
185日本@名無史さん2020/05/11(月) 17:13:17.80
未来の質問になるけど、このまま新型コロナが収束したら安倍総理は世界的な英雄として評価されますか
誰ともうまくいかないトランプとの関係も良好だったわけだし、なんか不思議な魅力があるのかね安倍総理って
186日本@名無史さん2020/05/11(月) 17:59:56.78
むしろ、コロナでごたついているのに
・なにもかも放り出す
・岸田辺りに禅譲(傀儡)
・自民党総裁任期を延長
どれにするのかが気になる
まぁどれを選んでも朝日新聞は批判するんだろうけどw
187日本@名無史さん2020/05/11(月) 18:26:13.11
>>185
幸運に助けられた迷走総理みたいに扱き下ろされるだろうね 188日本@名無史さん2020/05/11(月) 18:27:57.78
安倍総理のライフワークである憲法改正を目指しての4選じゃないかな
189日本@名無史さん2020/05/11(月) 18:34:13.62
安倍総理には憲法改正に命をかけてほしい
数年前に話題になったアーミテージ=ナイレポートの内容によると日本は憲法改正してOKだったはず
アーミテージさん、ありがとうと言える日がくるといいな
190日本@名無史さん2020/05/11(月) 18:43:58.46
葬式が喪服が黒ってのも明治かららしいね
死装束に代表される白が主流だった
結婚式も黒の振袖を使って留袖に仕立て直すのが一般的だったみたい
191日本@名無史さん2020/05/11(月) 19:29:35.94
>>190
関西だけど、三十年くらい前の親族の葬式では、近親者は白装束着てたぞ。
それで棺桶担いで、先頭は提灯とか持ってたぞ。 192日本@名無史さん2020/05/11(月) 20:26:15.99
>>181
でも、多くの神社には参拝の作法として「二礼二拍手一礼」と書いた紙が貼ってある
手を洗ったり口をゆすぐ所にもその作法が書かれた紙が貼ってある 193日本@名無史さん2020/05/11(月) 20:33:26.56
>>192
貼ってなかったから国民一般はそんなこと知らなかった 194日本@名無史さん2020/05/11(月) 20:44:08.64
そんな本職用の作法は明治以前にも遡らないものだし、一般人がその通りになんぞしなくていい、祈る気持ちが一番というのが最新の潮流だろ
195日本@名無史さん2020/05/11(月) 21:15:55.70
日本の神様では「天照大神」が最高神、神様の代表格になっているけど、
その親である伊弉諾尊、伊弉冉尊がなぜ代表格にならなかったんだろう
天照大神の親だというだけじゃなく、この「日本列島」を産み出した神様でもあるのに・・
196日本@名無史さん2020/05/11(月) 21:28:27.80
参拝の作法の違いとか言う前に
江戸時代以前だと神に祈る=仏に祈るだしな
197日本@名無史さん2020/05/11(月) 21:42:05.37
>>195
古代ギリシャの最高神はゼウスで、ゼウスの父親であるクロノスも母親であるガイアも最高神ではない
もちろんクロノスの父親であるウラノスもだ
だが、それに違和感を感じる人は少ないだろ
それに、親を重視するなら、イザナギの親は? スサノオ神は無視? 198日本@名無史さん2020/05/11(月) 22:33:23.63
>>197
伊弉諾尊、伊弉冉尊は神話の中ではっきりと「日本列島」を
産み出したとまで書かれているんだよね
天照大神や素戔嗚という重要な神の親でもある
なんか判然としないなって思ってしまう
天照大神を貶める意図とかは皆無だよ 199日本@名無史さん2020/05/11(月) 22:38:19.74
伊弉諾尊は世界そのものだからじゃね
ゼウスの子イエスを崇めるのと同じ。この世界に遣わされた担当神様
200日本@名無史さん2020/05/12(火) 00:19:56.43
イエスはゼウスの子ではなくない?
神のことを「でうす」ということはあるけど
名前は「JHWH」
201日本@名無史さん2020/05/13(水) 22:32:41.34
仙洞御所の敷地内から秀吉が最後に建てた京都新城の遺構が発見されたそうだが、
京都新城の敷地範囲は目の前にある京都御所よりもはるかに広大だったみたい
京都御所+周囲の公家屋敷を合わせた範囲くらいあるみたい
関白政庁の聚楽第も御所よりも広大だったらしいけど、御所からは少し距離があったし、
朝廷の重要な役職の関白の政庁という建前もあった
しかし、京都新城は特別な役職の政庁っていうわけでもなかったっぽいし、なによりも
天皇のおわす御所の目の前、また格式高い公家たちの屋敷の目の前にそれらを凌駕する
広大な城を建てるってなかなかの度胸じゃないですか?
いくら権力や財力があろうとも、ちょっとやり過ぎな気がするがいかがですか
202日本@名無史さん2020/05/13(水) 23:16:45.60
>>201
今日の新聞で初めて京都新城の存在を知ったんだが、
何のために建てたんだろうな? 203日本@名無史さん2020/05/14(木) 05:58:36.67
関白屋敷としてだな
二代目の関白豊臣秀次を成敗してその屋敷たる聚楽第を壊してしまった後、また京都新城を建てた
三代目関白秀頼を想定していたんじゃないかな
関白は朝廷の役職だから御所の近くがいい
204日本@名無史さん2020/05/14(木) 15:08:04.14
ところが、秀頼は京都にやってきたときにちょいと宿泊しただけで、大坂に行ってしまい、ご存じの通り関白になることもなかった
京都新城は秀吉没後の北政所の屋敷となり、後に跡地の一部が上皇のための仙洞御所となった
205日本@名無史さん2020/05/14(木) 15:15:10.76
徳川時代より信長秀吉時代の方が金持ってる感じがするのは何故だろう
206日本@名無史さん2020/05/14(木) 16:32:22.83
南蛮貿易で稼いでた
金銀の産出量が多かった
とかかな
207日本@名無史さん2020/05/14(木) 19:50:37.32
単に家康が倹約家で、ノブヒデが派手好きだったからそう見えただけの気のもするが。
208日本@名無史さん2020/05/14(木) 20:01:16.84
でも家康も立派な江戸城つくったし、駿府城も立派なものだったらしい
209日本@名無史さん2020/05/14(木) 20:01:57.27
信長の最大石高は700万石で家臣団も大名化してないから徳川幕府の400万石より上なんだな
210日本@名無史さん2020/05/14(木) 20:15:51.39
聚楽第は豪華絢爛だったらしいが、京都新城は聚楽第に匹敵するくらいの豪華絢爛さだったの?
そこまではいかない?
211日本@名無史さん2020/05/14(木) 21:24:39.39
タイトル忘れたけど長谷川等伯の小説で京都新城が取り上げられていて珍しかった記憶
212日本@名無史さん2020/05/15(金) 10:12:49.98
>>210
高台院(ねね)の屋敷だった当時の京都新城と都大路の賑わい
(当時のドローンによる空中撮影)
213日本@名無史さん2020/05/15(金) 12:53:11.01
>>212
聚楽第の金屏風絵を見るともっと高層だし、全体的にやっぱり聚楽第の方が凄そうだね
京都新城が悪いわけじゃないけど 214日本@名無史さん2020/05/15(金) 15:50:14.66
弥生人の側頭部で髪をくくる髪型
古代天皇とか絶対にやってるイメージですが、
あの髪型とか衣服とか装飾は、後世のイメージですか?
それとも根拠はある?
飛鳥時代とかでも格好とか分からない気がするのですが、その前の時代なんか分かるのかなあ?って思います。
215日本@名無史さん2020/05/15(金) 16:32:31.42
みずらはその後も絶えていたわけではなく、少年の髪型として幕末まで一部で結われ続けていた
古墳時代の埴輪に見られる髪型である
1983年、茨城県武者塚古墳(7世紀後半)からみずらに結われた髪の片方がほぼ完全な状態で出土している
216日本@名無史さん2020/05/15(金) 18:35:25.71
武者塚古墳被葬者頭部から発見された髪
聖徳太子の両脇の少年が髪をみずらに結っている
217日本@名無史さん2020/05/15(金) 18:37:28.02
218日本@名無史さん2020/05/15(金) 18:43:21.39
>>216
すいません。
みずらって、かつらみたいな装飾品なんですか?
それとも自毛? 219日本@名無史さん2020/05/15(金) 19:56:51.29
髪の毛はどんどん伸びるものだから、どうかしてまとめなくてはならないでしょ
220日本@名無史さん2020/05/15(金) 20:01:50.95
>>218
自毛で結う。でも古墳時代あたり以降の髪型であって弥生時代は不明です。 221日本@名無史さん2020/05/15(金) 20:28:51.39
>>219
当時は切る道具が無かったから
くくるしかなくて、こういう髪型になったのですかね? 222日本@名無史さん2020/05/15(金) 21:23:51.13
男女とも古代以来江戸時代までずっと髪は髷を結えるだけの長さがあった
短くなったのは明治以降に西洋流の調髪が入って来てから
223日本@名無史さん2020/05/15(金) 21:45:20.71
縄文時代は漆塗りの櫛、動物の骨製のヘアピン、糸製のヘアバンドも出土している
弥生前半の土偶では男は筒状、女は髷状の頭をしている
弥生の終わり頃としては魏志倭人伝に「婦人被髪屈紒」とある
紒(ケイ)は髪を結ぶ、束ねるという文字である
昔もいろいろと髪を束ねて身だしなみを整えていたようだ
224日本@名無史さん2020/05/16(土) 00:00:26.80
京都御所の紫宸殿は最重要クラスの儀式をやっていたらしいけど、
そこまではいかないレベルの儀式はどこでやっていたのですか?
また、公家のさまざまな日常業務はどこでされていたのですか?
それらをやっていた建物はもう今は残ってないのですかね
225日本@名無史さん2020/05/16(土) 00:49:04.63
>>209
>信長の最大石高は700万石で家臣団も大名化してないから徳川幕府の400万石より上なんだな
前から不思議なんだが、清洲会議で織田配下の武将が
独立大名になったのはドサくさ紛れなのか?
三法師を跡継ぎにしたのも、所詮織田家の宗家ってだけで
みんなを統率する大織田家のトップってわけでもない。
もし信忠が生きていたら彼がトップで、勝家や秀吉はその配下の
ままだったんだろうかと気になる。 226日本@名無史さん2020/05/16(土) 09:00:11.95
>>224
江戸時代の霊元天皇は天皇代替わりのときの重要儀式である大嘗祭を復活させたという
重要儀式も途絶えたりしてたんだな
同じく光格天皇は新嘗祭を始めとして朝廷の儀式を復活させた
新嘗祭などは担当の公家が自分の屋敷で細々と伝えていたという
公家に任せてたのもあったんだね 227日本@名無史さん2020/05/16(土) 15:40:12.17
大坂夏の陣のときは、大坂の民衆に対する虐殺、略奪もおこなわれたのでしょうか
228日本@名無史さん2020/05/16(土) 16:32:29.89
>>
戦のあとで兵士が人や物を掠奪するのを乱妨取り、乱取りと言った
そもそも乱取り目的で戦に参加した農民も多く、それは悪事とも思われていなかった
桶狭間では今川の兵が乱取りに夢中になっているスキを織田方は突いたという甲陽軍鑑の記事はさもありなん
大坂夏の陣図屏風には乱妨取りの様子が描かれている
真田幸村の娘は落城後、仙台兵に乱妨取りされた
229日本@名無史さん2020/05/16(土) 17:29:52.95
言っちゃ悪いが近代でも現代でも、起こってることだしな。
血気盛んな兵士の娯楽ってそれしか無いからな。
230日本@名無史さん2020/05/16(土) 22:12:18.98
>>226
ありがとうございます
現在の京都御所って、途中で御所が火災か何かで使えなくなって、
貴族の邸宅に天皇がご厄介になってそのまま御所(仮御所)になって
現在に至ったって聞いた
それはつまり、その貴族の邸宅にあった大きな建物を紫宸殿にしたっていうこと?
それとも、その貴族の邸宅に後から紫宸殿(や他の建物)を増築していったってこと? 231日本@名無史さん2020/05/17(日) 00:12:33.51
今の京都御所の地が里内裏となったのも南北朝のとき以来明治初年までと長かったから、紫宸殿もそこに建ててたでしょ
それ以前のことはあまりに古くて覚えていません
思い出したら教えてください
232日本@名無史さん2020/05/17(日) 01:14:06.67
里内裏(仮御所)がいくつかあって院政で政治の主体が摂関家でなくなり
京都御所に落ち着いた
233日本@名無史さん2020/05/17(日) 05:12:59.65
今の京都御所に陣取って院政をやってたのは天皇じゃないんですけど
あと、紫宸殿はどうなってたかと質問されてるんですけど
234日本@名無史さん2020/05/17(日) 11:23:11.43
公家の筆頭格の近衛家や鷹司家の本宅敷地よりも、秀吉が建てた城郭の中の
一つにすぎない京都新城の方がはるかに広大で、それが近衛家や鷹司家の
本宅敷地の至近距離のところにあったのが何とも言えないですね
235日本@名無史さん2020/05/17(日) 11:27:22.94
>>225
清洲会議後も秀吉は織田家家臣であって
小牧長久手で織田家との主従関係が逆転したんだよ 236日本@名無史さん2020/05/17(日) 14:50:13.27
古代の倭の評価は中国から見たらどんな評価なんでしょうか?
高句麗、新羅くらいの評価なのか?それよりも上か?下か?知りたいです。
客観的には難しいと思いますが。