一部で野蛮だの脳筋だの言われている鎌倉武士ですが、実際はどの様なものか考えてみましょう
朝夕の鹿狩り・狐狩りに山野を家と思って乗り回しているので、
どんな難所でも落ちる事を知りません。
坂東の習いで、合戦の時には、親も討たれよ、子も討たれよ、
死ねばその屍(しかばね)を乗り越えて戦います。
西国の戦いは親が討たれれば供養の法事をすませ、
子が討たれれば嘆き戦いを中止します
兵糧がなくなれば田を作り、刈り入れた後に戦おうとします。
夏は暑い、冬は寒いと嫌います。東国の戦は決してそのようなことはございません。
>>3 「平家物語」に見える斎藤別当実盛の言葉だな。
関東武士の生態がこの通りであったなら、関東武士が平安時代以来、遠く都を離れて
朝廷の秩序の外で自力救済の道を歩んできたからだろう。
良く言えば勇猛果敢であるが、その反面、殺伐・荒涼としたものを感じる。
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そもそも生活保護を申請するくらいの気力や能力があれば引きこもっていない
だから役所のほうから申請してやらんとだめだろ
・奈良、京都主導の古代日本は朝鮮より下っ端の後進国
:|ヽ、 |ヽ: うがっ……これは捏造……これ…捏造……
:/ ヽ─┴ ヽ:
:/( ) ( )\: ノ\ ノ\
:/ !|l ⌒(__人__)⌒ \: ノ ヽ──丿 ヽ
:< ヽ |r┬-l` /u >: / \
:\ |r l -/ /: / u i 都合の悪い物は全て捏造認定か、さすがだな…
:ノ u `ー'∪ \: | |
丶 ノ
日本と朝鮮半島の歴史と文化の交流というものを考えてみますと、長きにわたりまして、日本は朝鮮半島よりも明らかに後進的な国です。
『古代豪族と朝鮮』京都文化博物館編
河内飛鳥(大阪府)の文化は百済につながる人々によって創造された百済色の濃い文化であった。
(『河内飛鳥』山尾幸久・立命館大学教授)
秦氏というのは新羅を母国といたしまして、五世紀の後半に日本列島に渡来してまいります。そしてこの京都に住みつきます。
(「渡来人と平安京」井上満郎・京都産業大学教授)
◇本朝食鑑
馬は奥州・常州の産が第一で、信州・甲州・上野・下野・上総・下総の産がそれに次ぐ。
関西の産は劣弱であって関東産に及ばない。
近代九州に稍良い馬がある。就中薩洲の産が高大強捷で関東の産に劣らない。
あるいは、古来よりこのようであったともいわれている。
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(__」 ゙ー-‐' ゙ー-‐'(___」 人
(__)
(__)11
1:肩ロース 6:ヒレ
2:肩 7:ランプ
3:リブロース 8:そともも
4:ばら 9:テール
5:サーロイン 10:すね
11:贅六
鎌倉時代の弓って、現代人の腕力と体術では引けないバケモノみたいな強弓じゃなかったっけ?
橋下摂津守「学力もだめ、体力もだめな大阪の幕末維新、どないなっとんねん」
【幕末の学問】
『コンサイス人名辞典日本編』に採録された文人の出生地(教育社歴史新書84p57/塚本学/信州大教授/福岡県出身)
1801年〜1850年 ※江戸出生の大名は江戸生まれの人数に含まない。
江戸生まれ 73人
京都生まれ 11人
大坂+堺生まれ 5人
長崎生まれ 6人
その他 326人
幕末の大阪府は長崎市以下…
【幕末の武芸】
江戸(東京都区部)出身の幕末剣豪 → 男谷信友、勝子吉、寺田五右衛門、白井亨、高柳又四郎、千葉栄次郎、伊庭八郎、榊原鍵吉、山岡鉄舟…その他多数
埼玉郡(埼玉県東部)出身の幕末剣豪 → 秋山要助、岡田十松、戸賀崎熊太郎、中村万五郎
肥前国(長崎県)出身の幕末剣豪 → 中村一心斎、高尾鉄叟、渡辺昇
五畿内(大阪府+京都府+奈良県+神戸市)出身の幕末剣豪 → なし
幕末の大阪府は久喜市以下…
>>2 蒙古襲来絵詞の完成度の高さを見れば鎌倉武士は世界最高水準の文化人だが
蒙古襲来絵詞は鎌倉武士が依頼しただけであって、絵(詞章もだろう)は職人なり文人なりが描いた(書いた)ものだろう。鎌倉武士が文化人だったわけではないでしょ。
>>24 鎌倉末期の肥後にあって無足御家人とも云われる階層の武士が、巨額を投じて描かせた史実こそ文化である
↑巨額…は?
鎌倉の新仏教の坊主に寺建ててやる御家人とかどんだけ巨額か。
他にも同時代の絵巻物は地方にあるよ。あほくさです。
なぜ国宝で宮内庁のお蔵物なのかな?わからないバカがいる
>>29 救いようのないバカはおまえだよ。金が掛かってるから御物(昔はこれだった)になったわけではない。
若冲の群鶏図は御物だったが、金が掛かった絵画だから御物なのではない。同時代の絵画には若冲以上の絵師はいたし貴重なものもたくさんあるが、別に御物じゃなかったりする。バカは御物と宮内庁に目が眩むんだろうな笑
鎌倉時代は日本史上最も野蛮で無駄な時代だった
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった
>>32 なんJから発したエピソードが影響力持ちすぎてるんだよね
ニュース速+とか別の板でも元寇スレが立つと必ずといっていいほど書き込まれる
幕府創建の頃と末期滅亡前ではぜんぜん違う気がする
戦闘集団から官僚的集団へ変貌したというか
>>32 まぁツッコミどころ満載何だが一例を挙げると
「此門外とをらん乞食・修行者めらは、やうある物ぞ、ひきめかぷらにて、かけたて/\おもの射にせよ」
と発言した男衾三郎は絵巻物の題名を見ればわかると思うが悪役ではなく「男衾三郎絵詞」の主人公な
更に「ひきめかぷらにて、かけたて/\おもの射にせよ」の解釈だが山川出版の「詳説日本史研究」によると
門前を通った人間を蟇目鏑で威嚇して追い込んでから追物射によって射殺するということで
続く「馬庭の末に生首絶やすな」の「生首」もこうした行為による犠牲者のものとされている
確かにこれは物語上の話ではあるが男衾三郎は兄の二郎と対比される形で武士の理想の姿として描かれており
武家の男子を教育する意図を持って作られたものでもあるのだから鎌倉武士一般に人命軽視の
風潮があったことは否めないだろう
山川出版の「詳説日本史研究」では鎌倉武士の倫理観を示す史料として続いて「阿弖川荘上村百姓等片仮名書申状」
を引用しているのだがその内容は百姓が地頭の暴政を領家に訴えたもので
地頭が百姓の妻をとらえ「ミミヲキリ ハナヲソギ」など体刑に及んだことまた地頭の下人たちの夜討ちによって
多くの百姓が命を落したことが記されており「男衾三郎絵詞」が絵空事ではなく現実にそれ以上の
ことが行われていたことが証明されている
一般庶民の間でもちょっとしたことですぐに斬ったり斬り合ったりしてたんだろうな
鎌倉がなければ現代の子孫も別の家系で成り立っていたかも知れないな
【2022年大河ドラマ鎌倉殿の13人】
騎兵戦全盛のこの時代に馬から下りて戦う戦国武士のようなヘボ武者がいるとしたら近畿のお猿さんだけだよ
「馬に乗ッつれば落つる道を知らず」の東国武士は悪所に馬を入れて戦った。
合戦の時は四季を問わず夜昼の区別もない。一年中行われるべきもので日頃からその備えを怠らなかった。
それは戦闘をもっぱらにする高度に訓練された戦士の生活に他ならない。
西国(上方)武士の合戦は季節の訪れとともに行われるもので、一種の年中行事のようなものであった。
用意した合戦は全て4~5月頃に集中している。
(五味文彦)
要するに貴族社会のマンネリ儀式の延長線上にあったのが弱兵・上方武士のオママゴト戦争。
そりゃ勝てるわけないって。
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