dupchecked22222../4ta/2chb/762/25/history166772576221737756459 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚 ◎正当な理由による書き込みの削除について:      生島英之とみられる方へ:

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚


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1日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:09:22.25
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!

九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。

議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!

前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾伍
http://2chb.net/r/history/1665596245/

過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。

2日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:09:49.60
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

3日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:10:01.68
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

4日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:10:13.05
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
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5日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:10:25.16
◆邪馬台国の場所

383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう

6日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:10:38.86
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう

では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区~南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう

春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる

奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう

7日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:10:51.48
考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ

298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ

https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ

8日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:12:16.45
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない

9日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:12:31.80
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w

まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)


包囲される奈良盆地の図
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10日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:12:50.10
九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない

九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する

その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期~終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より

弥生時代後期~終末期
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古墳時代前期
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弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している

破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する

考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末~4世紀初頭頃

11日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:13:04.68
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
> 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ

12日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:13:19.13
淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡

弥生時代の海の勢力図
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下


弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。

https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。

> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ

13日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:13:34.93
136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう

14日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:13:49.34
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

15日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:14:25.65
対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄

https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』

16日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:14:39.73
鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)

http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。


古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ

http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。

17日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:14:57.53
576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74
さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

18日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:15:16.69
>>4のデータについて

184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう

>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう

と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

19日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:15:33.14
>>10補足

923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。

> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。

> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。


確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな

20日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:15:48.80
カバネについて
臣が外様で連が譜代

> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455
> > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう

21日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:15:57.31
テンプレ終わり
以下引き続き議論継続

22日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:16:14.48
結局前スレも伊都チョン連呼という狂人が負け犬の遠吠えとばかりに根拠の無い妄想駄文を連投するばかりで
まるで歯応えが無かった
たまにはちゃんと根拠を以て論理的にテンプレに反論する論客でも現れれば少しは面白くなるんだが
もうそんな骨のある奴は残ってないのかね

23日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:18:42.36
前スレハイライト
まさかの「考古学」という言葉の意味さえ知らない伊都チョン連呼くんであったw


> 485 :日本@名無史さん :2022/10/27(木) 02:06:26.76
> >>478
> お前のいう考古学は一般に言う考古学では無い
>
> 九州には大陸の史書以外には古伝と神社の由緒しか存在していない
>
> 記紀ですら九州のものでは無いw

> 859 :日本@名無史さん :2022/11/05(土) 02:53:14.59
> >>485
> お前はそもそも考古学という言葉の意味を知らないw
> ブンケンガーは考古学ではないw
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6
> > 考古学(こうこがく、英語: archeology)は、人類が残した物質文化の痕跡(例えば、遺跡から出土した遺構などの資料)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。
> > 対して、歴史学は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。
>
> だから俺はちゃんと>>4>>6などで遺構・遺物との照合をしているだろう
> これが考古学だよマヌケw

24日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:19:58.47
伊都チョン連呼くんはいい加減に負け犬の遠吠えをやめて事実と向き合いなさい

25日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:24:56.64
伊都チョン連呼くんには何度もソースを要求したが一度も出てきたことがない
それが彼が負け続ける原因の一つ
一番の敗因は彼自身の頭の悪さだけどw

26日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:35:05.90
>>2
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 水行十日 水行十日 陸行一月

この前の段落が読めないと話にならんのカモ? だけど?
南至 邪馬壹國が、九州島までの馬韓ではない半島南岸から水行十日であって、
陸行一月は九州に上陸後の梯儁の女王宮までの行軍だぞ?

正しく読めないなら、話にならんのだが? アラシ確定の
記紀とか、伊都とか、都万、阿波?で、スレ埋めればwww
早かったなwww

27日本@名無史さん2022/11/06(日) 18:51:27.47
>>3
247年帳政は伊都までの倭人選船の航路1万500里を里程で記録した。
奴国と不彌國は、駐留した伊都、一大率から100里である。

240年の梯儁は行軍つまり自前軍隊の宿営で進軍なので
軍事用語の水行陸行、年行を使用した。

これは渡海に要する待機などの実際の時間経過
ではなく、魏が瀬戸内海を大和まで進軍するなら? www
のような、草が生える、推定される時間の話である。

28日本@名無史さん2022/11/06(日) 19:00:30.60
>>5
都万厨の馬鹿さ加減の謎は
倭人伝の魏使が行って無い、山門瀬高の邪馬国の女王宮以南で
なんで、初めて九州を探検した魏使の話が成立するのか? である。
アラシは、スレに要らなくないか?

29日本@名無史さん2022/11/06(日) 19:05:11.01
魏志を正しく読めば魏の遣使は倭国に行ってない、倭国に行ったのは遼東公孫氏というのが分かる

30日本@名無史さん2022/11/06(日) 19:14:16.27
>>29
なんで、真実を隠蔽したいんだ?
だって、チョンだから? とかか?

邪馬台国が日本史に共有できない
記紀否定の古代史の真実を語っちゃおうという
コンセプトとは、共有不可能なんだが?

まあ、邪馬台国は」筑紫地域で
豊国や備前備後は含まない平野内だぞ?
倭人伝には日本古代史のホントの事が書いてある。

31日本@名無史さん2022/11/06(日) 19:17:47.55
魏国に自前の水軍が無いことは魏志杜畿傳にあるまた遼東公孫氏が倭国からやってきたことは公孫度傳に明記されてる

32日本@名無史さん2022/11/06(日) 19:43:14.43
九州説のバカどもって、仲哀天皇とかヤマトタケルとか神宮皇后の九州征伐をなんだと思ってるの?
九州に邪馬台国があったのならこんなことしないだろ

33日本@名無史さん2022/11/06(日) 20:38:53.96
>>32
一大卒って北部九州になかったから
そんなことしたの?w

34日本@名無史さん2022/11/07(月) 09:00:52.28
スレ開始から伊都チョンフルボッコの展開ワロタw

35日本@名無史さん2022/11/07(月) 09:33:49.72
九州説の拠り所、日本書紀の神功皇后記

山門w

九州説の記紀依存は病的
邪馬台国を隠し卑弥呼を神功皇后に見せかけていると分かっていながら山門に固執

36日本@名無史さん2022/11/07(月) 09:36:01.39
>>25
ま、自分で定義した完全検索による嘘つき認定の考え方に自分も引っかかるというスレ史上初と言っても良い惨めな惨状を晒した伊都チョンに言われてもねぇ

37日本@名無史さん2022/11/07(月) 09:45:36.34
>>32
さらに、九州に大和があったら東征も起きないよね。

38日本@名無史さん2022/11/07(月) 09:53:22.21
あと、伊勢と三島の件だけど、昔から内宮の本質は出雲だなんて程度の話なら言われてきた事でしょ
昔は出雲系の土地だよ

39日本@名無史さん2022/11/07(月) 10:35:45.49
>>35
ちがうよ。タシリヒコ

40日本@名無史さん2022/11/07(月) 11:13:59.01
まず、倭人伝の大前提として
筑紫地域の21国連合を女王国=邪馬台国と言っている。

これは九州北部の南北2千里内にあって、
240年の建中校尉梯儁が参問して漢字にした21国は
洲島之上にあり、 周旋しても 五千餘里で7万戸しかない。

帯方郡からは、韓方可4千里中の7000里含む12000里である。
その南は狗奴国で女王国の境界は21国で尽きている。

さらに南に2月行4千里で侏儒國、
さらに南東1年船行24000里で裸國 黒齒國
倭国の範囲の中で女王国がいかに小さいかを理解できる。

600年隋唐の倭国認識も南北3月行、東西5月行であって
南北3月行はこの九州南北、5月行は奈良で見た東の山である。
関東から、東北北海道は毛人域であり倭なのか知らない。

樺太から琉球までが日本なら、中華より日本の南北が大きい。
これを中華感覚で九夷とすることは、清国じだいまでできて無いw

18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
は、邪馬台国21国の詳細について陳寿の加筆だが、
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
魏時2回の使の行程のる説明によって知り得た30国以外は何も知らない。
と言っている。

そして、参問した21国を知り得た国名として次有を21回列記して記した。
これが邪馬台国の全ての詳細だからである。

41日本@名無史さん2022/11/07(月) 11:59:21.34
>>32
記紀のたわごとだと思ってる。
倭人伝を読む限りでは、本州は246年まで、
九州の統合が成立してないみたいだけど?

崇神の四道将軍で吉備まで来て
日本武尊や仲哀も九州いったの?

卑弥呼時代どころか、313年の楽浪帯方郡撤退まで、以北はもちろん
日本からは既に植民地だった韓南部の征伐なんかに行って無いんだけど?
いったいいつ誰が、韓征伐なんてしたの?

九州は卑弥呼の239年に公孫氏滅亡。
245~6年に馬韓王朝滅亡を見て、対魏の防衛の必要を感じて
本州勢力と協力する事となったから、一大卒を入れたんでしょ。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
主語の使である帳政は大倭を見た。 一大卒検察機関が有り、王の書簡や贈り物も検閲されている。

この報告によって魏と女王国の外交の三国志記録は247年で終了している。

42日本@名無史さん2022/11/07(月) 12:29:33.60
>>31
杜畿伝読んで来たけど? 魏の水軍の話じゃなくて
杜畿が太守に着任する時、地元民が歓迎しないで
黄河の渡し場を占拠した、って話だったぞ?

まあ黄河ならこの時朝廷の送った援軍は水軍かも知らんけど。
この紛争を回り道で対応して丸く収めて杜畿が活躍した話だけど?

公孫度の父も遼東人で玄菟郡にいたらしいけど、
遼東公孫氏が倭国からやってきた?
って、話は無いような? どこでしょうか?

43日本@名無史さん2022/11/07(月) 14:18:21.96
>>41
〉崇神の四道将軍で吉備まで来て
日本武尊や仲哀も九州いったの?


記紀は村雲の系図は堅持しながら物部氏を神武であるかの様に書いている。
故に万葉集にもある様に後で高天原が九州に変更されている

つまり、敵と味方が入れ替わってる部分があるんだ

4大将軍は物部の敵方
景行は物部ワカタラシ彦なのでそのままで解釈

大彦は派遣されたのではなく敗走したルートとなる

44日本@名無史さん2022/11/07(月) 14:34:37.35
>>10
目の付け所は良いし内容から学べるんだけど?

何で、考古学的に なのに
神武東征の時期は3世紀末から4世紀初頭頃
のトンチキに、なっちゃうんですか?

313年以降は日本海ルート諸国も九州北部海人も
半島に進出して百済新羅の高句麗戦を後押ししてたわけで
これによって、牛馬の移入と鉄の国内生産と言う富国強兵の
古墳時代政策に変化したんだよ?

考古学的に銅鏡は古墳墓制に伴う信仰の神器だし、
前方後円墳に馬飼いの高句麗墳墓を伴う朝廷の御牧が
400年代には甲斐、武蔵や上州にまで広がっている。

考古学成果が神武東征の真実、になるわけが無いと思うがw

45日本@名無史さん2022/11/07(月) 14:59:05.26
九州に邪馬台国は存在しない

順序が逆
先に朝貢済みの邪馬台国がない限り、国家承認直後の国に属国旗を渡して肩入れするなどあり得ない
九州の朝貢勢がヤマトと名乗っただけ

その時の倭の使い方は、倭国が地域名を表す言葉であって、なんとはなしに既に日本列島を倭と認識していただけの説明にしかならない。
その頃既に狭義の倭国という認識はなかったのではないか?

46日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:14:34.47
>>43
だから、歴史の話なら万葉集は古事記の神々
神武天皇が九州から始まる話であって、高天原は天界でしょ?

物部って表意文字の氏姓が出来たのは、
天皇が漢字名を名乗った400年辺り。
遡れば370年仁徳天皇の七支刀辺りから、
百済人も漢字で日本の天皇が聖帝であると証言している。
漢字が無いと氏姓も姓も生まれない。

250年辺りでの倭人の名前は倭人伝でも判る。
官 概ね前後の国で雇ってる通訳案内人。卑奴母離は帳政の倭人船の乗船者
対海国/卑狗(狗邪韓国) 奴国/卑奴母離(奴国) 卑は臣下の意
邪馬臺/伊支馬(壱岐) 彌馬升 彌馬獲支(邪馬国) 奴佳?(奴国)
狗奴国/狗古智卑狗(古智が個人名)
大夫では
奴王/(難)升米 都支王/(都市)牛利 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
この文字の違いは帯方郡の役人による聞き取り国名と梯儁の命名国名の違い。

氏姓が無いので、所属国名に2文字程度の和音が名である。
後世でも氏姓が無いなら、何々村の権兵衛とかだし。

47日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:23:16.22
>>42
曹丕が「はじめて」杜畿に命じて湖に船を浮かべて水軍を調練させたと書かれてる
公孫度の養父「が」遼東人で玄菟郡で公孫度はその父の祭祀を継いだのだけど公孫度自身は遥か東からやってきたと書かれてる

48日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:32:21.01
公孫豹にうり二つの公孫度が公孫氏に養子入りした。
そうすると養子縁組先の家に本貫が変わるので、公孫度も玄菟郡出身になるわけだ。
公孫度の本来の出身地が不明というのは三国志研究の課題になってる。

49日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:34:00.11
>>40
〉まず、倭人伝の大前提として
筑紫地域の21国連合を女王国=邪馬台国と言っている。

女王国に属する国としか書かれてないのでは?
つまり、厳密にヤマトの位置関係を表すものではない気がする。

単純に解釈するだけなら長門から北に邪馬台国があって、伊都が飛び地でも十分に成立する

50日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:35:29.97
>>46
〉物部って表意文字の氏姓が出来たのは、
天皇が漢字名を名乗った400年辺り。
遡れば370年仁徳天皇の七支刀辺りから、
百済人も漢字で日本の天皇が聖帝であると証言している。
漢字が無いと氏姓も姓も生まれない。

それはあり得ない。
それなら音読み訓読みに分化したりしない。
言語学上は文字が一番最後になる

51日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:37:55.41
>>39
そういえば金印に赤字でタリシヒコと書いた捏造画像があったな

52日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:39:57.12
玄菟郡じゃなくて襄平県だった。後漢書と三国志で違うからごっちゃになる

53日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:41:44.52
>>46
〉(難)升米

だしまい=タジマノモリ

おかしくはない気がするが?

逆に九州物部の宿禰、たけしうちの宿禰は、役職名が省かれて、タイシュウエツ。

おかしくはないと思われるが

54日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:43:48.17
>>46
〉神武天皇が九州から始まる話であって、高天原は天界でしょ?

歴史学に天界は存在しない
神話やファンタジーと史実は区別するべきだ。
そんな風に出雲口伝の本にも書いてある

そもそもが人間に知覚できる神など存在しない
故にそんなことが記紀に書かれたところで何も変わらない

55日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:48:59.59
>>51
じゃー隋書にあるタシリヒコは誰?

56日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:49:24.64
>>44
〉考古学成果が神武東征の真実、になるわけが無いと思うがw

まさにそれですよねー。
歴史学で判断するところを特にこのスレ主は考古学とか抜かしてる。

中身を見ると八幡愚鈍とか考古学とは無関係のものばかりw
自分のやってることすら理解してなくて他人事

57日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:53:42.06
>>26
〉正しく読めないなら、話にならんのだが? アラシ確定の
記紀とか、伊都とか

おいスレ主まで荒らし確定とかウケるww

58日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:55:29.98
>>41
〉九州は卑弥呼の239年に公孫氏滅亡。
245〜6年に馬韓王朝滅亡を見て、対魏の防衛の必要を感じて
本州勢力と協力する事となったから、一大卒を入れたんでしょ。

口伝の本でも確かに、九州勢は大陸の脅威もきっかけとなってヤマト攻めをしたのではないかと書いてありますね

59日本@名無史さん2022/11/07(月) 15:58:00.25
>>55
判断が難しいですよね
タラシ彦で考えるのなら、息長系の諡号がついたところから考えるのが妥当と思われますが

成務含めて二代がタラシ彦

その後は天武前後が息長系の諡号になってる

設定としてはそのどちらかの話になるんじゃないかと

60日本@名無史さん2022/11/07(月) 17:28:58.99
>>59
600年にタラシ彦は難しいですね。
倭国=邪馬台国 であれば、厳しく思います。

61日本@名無史さん2022/11/07(月) 18:23:54.21
>>59
600年のタリシヒコは押坂大兄の太子彦 姓の天は香具山の有る天の宮
隋書によれば、当時の倭王は兄弟で執政していた。 
弟が隋史を迎えた新造の法隆寺、斑鳩宮に在った法皇聖徳である。

天皇の系譜は記紀は嘘が多いので、金石など成文史を追うだけなら
雄略~503継体~531欽明~571敏達~591押坂(タイシヒコ)/聖徳~622舒明(タムリ)
~天智(15~19歳)後見/極悪鎌足で、男子直系である。 女帝なんて居ない?
神功皇后も。 なんで? 男女平等企画が古代史に反映するよwww

62日本@名無史さん2022/11/07(月) 18:39:31.94
>>57
スレ主が、名無しなんで、
知らなくてすまんけど、

2がスレ主ってのは、あってるのかな? 
本人ならそうだけどw

くまモン師匠は、
都万厨じゃ無かった
かな?

63日本@名無史さん2022/11/07(月) 19:21:43.60
魏志倭人伝を正しく読むなのに
なぜか記紀が出てくる。

64日本@名無史さん2022/11/07(月) 19:26:27.04
九州説の主張が240年の倭王は九州にあった?
では無くて、倭人伝は240年の筑紫を記録している。

と言う言事なんだが? 判るかな?

これによって、日本史で記紀が否定されるか?
日本の歴史学者は、神話否定は容認できないのかね?

240年の邪馬台国21国が筑紫なのは史実だし
魏時は、これ以外の倭人国に関して何も知り得てはいない。

東夷伝序文と倭人伝評曰に、
陳寿が倭人域について残したかった記録の真実が有る。

序文より
近日之所出 遂周觀 諸國
采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
評曰より
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

倭人伝が、成立してない倭国伝でないのは
つまり、日本列島には倭国が成立していないという、そういう事だ。

伊勢なら700?、古代なら500年以降に成立するであろう、
神社の記紀の後で、辻褄合わせした伝承?
淡路島とか日向からとかの
高天原とかとかからの記紀は
絶対的、謎の神話なんだけどなwww

65日本@名無史さん2022/11/07(月) 19:28:42.39
魏志倭人伝に
筑紫の記述はない。

66日本@名無史さん2022/11/07(月) 19:34:20.47
狗古智卑狗
はチクシヒコが正しい。
聞き間違い

67日本@名無史さん2022/11/07(月) 19:43:32.07
>>65
だから筑紫と言う、表意文字は無いし
筑紫が本州と合同する以前に、固有の国名を必要としていない。

筑紫が筑紫である為には、他国との接触が必要だが?
自国に自称の固有名詞が出来るのは、
人物画像鏡の百済から見た日下大王が居た
日本が陽の下、みたいな場合である。

百済は自国を辟中つまり日本の最前線と言っていた。
七支刀と人物画像鏡、高句麗土王碑と船氏墓誌で
日本の古代史は解決してないか?

まあ雄略期の、稲荷山鉄剣は8台250年程度までの
日本の王の存在に遡れる訳だが?

68日本@名無史さん2022/11/07(月) 19:55:35.30
>>66
だから、狗国の古智が個人名で
卑狗は狗国の家臣である事を意味する。
って言う、漢字の無い日本人に関する
中国人による個別識別での漢字命名の話なんだが?

69日本@名無史さん2022/11/08(火) 00:03:57.87
>>68
それがどうしたの?

70日本@名無史さん2022/11/08(火) 00:05:56.03
>狗(拘)古(右)智卑狗

右智は「佐治」に対する対義語
※智は、知・治と同じ首長的な意味合い

臣智 - Wikipedia
臣は秦、辰と共通する音であり、智は治、知と同じように首長または族長を意味する「チ」という土着語を漢字に書き換えたものである。

>有男弟佐治國

たぶん、みんな気付いてると思うが

佐治 = 幸 (山幸彦や海幸彦の「さち」)

※古事記(712)上「火遠理命、其の兄火照命に、各佐知(サチ)を相易へて用ゐむと謂ひて」

そして!

●漢字の成り立ち博士
幸の漢字の成り立ちは酷い状況でも自分の幸せを見出す罪人の気持ち

2020/07/01 — 「幸」 の漢字の成り立ちは刑罰で、自由に動けないようにするために使われた 手枷 てかせ の形を表した象形文字。

つまり!

>狗(拘)古(右)智卑狗 の「拘」

こう くるんですw

答え見えましたねw 完璧でーす

71日本@名無史さん2022/11/08(火) 00:06:02.13
>>67
別に国とは言っていないが?

72日本@名無史さん2022/11/08(火) 00:11:27.10
>>71
隋書では竹斯国。

73日本@名無史さん2022/11/08(火) 00:21:50.65
卑弥呼時代は10国の女王連合が
トヨ時代では30国となった、俺の説

つまり、邪馬台国は狗奴国と交戦状態になったが
邪馬台国は滅んでない

この説を後押しする
狗(拘)古(右)智卑狗さん 研究でしたw

まるで海幸彦みたいだけど
(天孫族と隼人族との闘争を神話化したものだから、ベースにはなってそうw)

74日本@名無史さん2022/11/08(火) 01:24:09.48
>>72
そうだよ。
卑弥呼時代に他国との接触があっても
筑紫はない。

75日本@名無史さん2022/11/08(火) 09:06:40.95
>>66
クコチヒコ(きくちひこ)は大彦系ですよ
新撰姓氏録

76日本@名無史さん2022/11/08(火) 10:18:43.29
>>73
〉まるで海幸彦みたいだけど
(天孫族と隼人族との闘争を神話化したものだから、ベースにはなってそうw)

まさに尾張家は海幸彦です。
尾張(海家=天)と、男系尾張の大王家は二度、物部(山幸彦)にやられている。

本来の天孫が、天孫(物部の磐余彦)にやられている矛盾の構図が、尾張家と物部家の関係そのものになるわけです。

天孫が天孫を攻撃した様な幻惑があるのはこのため

77日本@名無史さん2022/11/08(火) 10:53:46.66
つまり、天孫ムラクモからクニクルまで(倭国大乱期の物部の姫の輿入れ→モモソヒメによる安定)と、開化天からヒコイマスまで(垂仁+宇佐津姫による景初動乱)で血筋に変化が出ている訳です。

倭国大乱期では天孫に変えられた磐余彦が母系で入り込み、開化になる。
つまり天孫村雲が天孫(物部)にヤマト入りされる。
次に、その母系天孫物部になった天孫村雲の大王家が、天孫物部イクメに征服される


天孫は天孫を攻撃する形になるので過去の編纂者は右大臣の無理難題を血筋で解決した。

これはホアカリ饒速日が同一人物であったから。
そして、2回目と1回目の大乱の順序を逆にして、物部系の祖である饒速日(神代)の前から同祖の一族がヤマトにいた事を仄めかしている。
イクメの父親イニエはニニギにされ、同一人物崇神はハツクニシラスになってネタバレをするが、さらに混乱する結果になった。

78日本@名無史さん2022/11/08(火) 11:00:16.49
故に、物部系の一族は記紀服属を逆手に取り、天孫降臨伝承を各地で作った。

岐阜の水無神社のカンナビである位山には天孫降臨伝承がある。
そして、分家筋の磐余彦(ウマシマジ=佐野命)の子孫の物部十千根と、さらにその子孫の守屋を祀る地域になった。
因幡神社もあることから、開化の後のヒコイマス系の一族(母系物部)が岐阜に流れて行って飛騨王朝伝承を作ったと考えられる。
稲葉国造は、ヒコイマスの息子のヒコミチヌシの家系。
政権を失ったので、ミカドワケを後年に名乗った。
本拠地は丹波。同じく敗れたヒボコ族とも集合し、大丹波のエリアで栄えることになった。

79日本@名無史さん2022/11/08(火) 11:02:15.02
我が国に欠史は存在しない。

80日本@名無史さん2022/11/08(火) 11:08:08.03
>>62
都万厨だと、なにかまずいですか?

いちおう、伝承の本では
魏書の邪馬台国は邪馬台国ではなく、物部と宇佐の連合の軍隊で、その他大勢の軍の構成員は、都万にいた人たちで、そこから吉備、出雲を攻め、畿内ヤマトを倒したとあります。

つまり国名としての実態がない軍隊を魏書は邪馬台国という九州勢の自己紹介を鵜呑みにして書いています。

解釈によっては構成員多数派の都万が便宜上の邪馬台国になってもおかしくはありません。

81日本@名無史さん2022/11/08(火) 11:15:01.48
解釈上は、物部のいた筑後も、総大将の宇佐津姫の豊国も邪馬台国であるという解釈も間違ってはいません。

しかし、連合軍なので、他国から見たら九州は単純に見たら小国の集まりにしか見えません

問題は、九州の朝貢勢が、自分の国をヤマトと名乗ったことなのです。

既に朝貢済みのヤマトを改めて名乗ったという事が重要なのです。
故に、後漢の後継者を自認する魏国に、我が国でいう錦の御旗を与えた。

少なくとも最初の挨拶で「今からお前の国を承認するから八本の旗と、役人派遣をするわ」になるわけがない。

九州勢は、魏国をペテンにかけた。

図らずも、ここでもヤマトがヤマトを攻撃したかの様な書き方になってしまっている。

記紀はその魏書の構図を上手く対比させている、

82日本@名無史さん2022/11/08(火) 11:38:24.51
魏書は、時代の違う姫巫女を卑弥呼と同じ表現として書いている。
トヨの年齢と大陸の言葉である歳長大(35歳以上)を逆算してもどう考えても倭国大乱期末期にすら間に合わない。

つまりは、邪馬台国の位置の説明すら混じってる可能性もあるし、狗奴国から攻撃されて九州に暫定政権を立てていても魏書の内容は成立する。

極端な話、誰でもヤマトを名乗れたのが二回目の倭国大乱期ということになる。

83日本@名無史さん2022/11/08(火) 11:41:06.13
>>72
600年でいちおう、ちくし という
地名にはなってたみたいだね。

竹斯は智狗斯のような和音を読み替えただけでなく
竹という表意文字になっているが、倭人が選んだ名前だろうか?

ちなみにこの裴世清は、邪馬臺が邪摩堆ではないか?
と言う注釈の原因となった、奈良のヤマト名を漢字表記した時の使。

邪摩堆をヤマトと読むのは隋唐ではあってるのか?
ヤマタイが九州訛り、って話なのw

女王国の邪馬国にあった臺の 邪馬臺国は、
建中校尉梯儁が命名した、表意文字による漢語であって
奈良の大和とは関係が無い。 
そもそも論で240年の奈良はヤマトだったのか? 

天皇の和名は、ほむたわけ や たりしほこ
みたいのに淡海三船が漢字付けたんだろ?
タリシホコ=太子彦が居ないんじゃ嘘八百丸出しだけどw

84日本@名無史さん2022/11/08(火) 12:08:57.63
>>80
物部は海部、斎部みたいな皇室初期豪族
直近の武門ワケの氏姓だろうし、どこか知らんけど、

宇佐が地名であるなら邪馬台国とは関係ない
国東半島~遠賀川宗像の瀬戸内海勢力地域です。 
都万は瀬戸内海からも孤立してないかな?

瀬戸内海交通が本格化するのが、
邪馬台国が本州と連合した250年以降
だというのが考古学成果であって、
宇佐伝承は神話からの後付けなのでは?

85日本@名無史さん2022/11/08(火) 13:20:40.13
>>83
〉天皇の和名は、ほむたわけ や たりしほこ
みたいのに淡海三船が漢字付けたんだろ


淡海は開化系で物部関係者
右大臣が纏めさせたという説がありますね

天武の時に編纂委員会で呼ばれてない物部
しかし実際には招いた側、黒幕だったから出てこなかったのかもしれない

86日本@名無史さん2022/11/08(火) 15:08:14.05
>>84
〉宇佐が地名であるなら邪馬台国とは関係ない
国東半島〜遠賀川宗像の瀬戸内海勢力地域です

おお〜。私は実は本の内容を書いてるだけの人間なので生きた情報となると疎いのですが、宇佐の領域は国東半島とかちゃんと出ています。

何故都万が地政学的に重要なのかは知りませんが、平野部が多く、稲作に適しており、人の住めない沼地を開拓できる水稲を軸に人口が食料の増産とともに増えたのではないでしょうか?
確か、吉野ヶ里は佐賀との境に近かったかと。
佐賀の菜畑遺跡は日本最古の水稲遺跡でしたよね。
三嶋(越智)は、私は九州にいた一族と思っています。
それが出雲やホアカリ勢が入る前から摂津、つまり金剛山系西側から開拓を始めてた気がします。

宇佐古伝に関してはまさにその通りで。正確には記紀服属をしながら古伝を公開しています。
口伝のの公開に関しては、出雲を除くほぼ全てが記紀の記載方法を逆に利用して公開しています。

籠神社→記紀服属で村雲(神武)とカゴヤマを隠して系図を公開(本系図)付属の系図で村雲が神武と暗示。東征してない神武。

宇佐神宮→記紀服属で2回目の東征の人物である崇神(イニエ)を、神武として内容を公開しています。
なので応神の先祖が神武と書いています。

和歌山の物部総本家(現橋本家)と、オコベ神社の宮司家の小野田家(ルパング島のあの小野田さん)は、記紀服属で最初の物部東征である磐余彦を神武とする歴史を取材に答えています。

唯一服属しない歴史を公開しているのが出雲の富家になります。

古伝の公開は命懸けなんでしょうね。
神武は、村雲、磐余彦(ウマシマジ=佐野命)、イニエ(崇神)の三人に当てられた架空の大王になります。

記紀に服属して書いてるから逆らってませんよという事な訳です。

87日本@名無史さん2022/11/08(火) 15:19:42.08
>>84
景初の頃は吉備国、つまり平型銅剣のエリアで、当時のヤマトはこのルートで朝貢が出来ない状態でした。
ましてや仲違いしたとはいえ、ヤマトの尾張は親戚なのに対して、物部は完全な敵

ゆえに最初の東征ルートは四国南から若山ルートになったそうです。
隼人族は九州で物部がスカウトした土着民で傭兵だった様ですね。
これは複数の古伝で言及されています。
二度目の景初は真っ正面から吉備国と戦った様ですね

88日本@名無史さん2022/11/08(火) 15:21:49.45
>>84
〉瀬戸内海交通が本格化するのが、
邪馬台国が本州と連合した250年以降
だというのが考古学成果であって、

見方を変えると、物部勢が九州からヤマトを統一して、瀬戸内海も手中に入れたとも言えるわけでございます。
連合ではなく日本統一とも解釈できるわです

89日本@名無史さん2022/11/09(水) 16:47:22.68
 最近、東大阪の鬼虎川遺跡で巴形銅器とひし形模様の描かれた楯が出土し
それが吉野ヶ里遺跡から出土した巴形銅器の鋳型とピッタリ一致したんだって
その遺跡の東正面が生駒中腹にある石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

 饒速日尊と宇摩志麻遅命を主祭神とする神社、
吉野ヶ里遺跡はニギハヤヒ、物部氏の本拠地だと前々から思ってたが、確信がもてた。

90日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:16:03.02
その石切神社の南側に近鉄額田駅があって、
その南側に枚岡駅、枚岡神社がある
枚岡神社は中臣氏の氏神で主祭神,天児屋根命,比売御神?,経津主命?,武甕槌命

なお、吉野ヶ里遺跡には今ひし形模様、巴形銅器が付いた楯が観光用に置かれてるが
あれ、石切神社鬼虎川遺跡から出土した楯がモデルだからね。

91日本@名無史さん2022/11/09(水) 17:19:24.49
中臣氏はニギハヤヒの家来で、
関東茨城の鹿島神宮と千葉香取神宮などと関係が深い。

茨城水戸市の那珂川、霞ケ浦鹿島神宮の中臣氏、
香取神宮のフツヌシ(経津主)九州コンビ。

霞ケ浦周辺からは、関東では珍しく巴形銅器も結構出土する地域。

92日本@名無史さん2022/11/09(水) 18:11:06.31
巴形銅器って、あれ太陽信仰のシンボルで誰にでも提供する物でなく天孫守護的な、
近代風に言えば親衛隊、皇宮護衛官の様な目印で、
部外者は近づくなと威嚇するものだろう。

奴国出土の巴形銅器鋳型からは香川さぬき市から出土した巴形銅器が製造され
側には、百襲姫伝承のある水主神社があり、関連が感じられる。
尾張一族が統治してた名古屋周辺、からも結構出土してる。

この巴形銅器の鋳型は九州北部吉野ヶ里と奴国地域の2か所からしか発見されてず
出雲には欠けらが有るとか無いとかと言う珍しい青銅器らしい。

93日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:07:46.44
>>88
なんで物部が九州起源なんですか?

朝廷が九州統合したのは、倭人伝で250年以降であって
物部は出雲自身か、同等の銅鐸期の200BCが始祖に近い豪族。

この頃の畿内豪族は、日本海宗像の海神~出雲~越~丹後
~近江~尾張美濃~伊勢~阿波~瀬戸内海吉備~九州東岸まで。

氏姓が無いのは有史以前なので、当然漢字の氏姓が無いのであって、
現代皇室の起源は、物部蘇我海部斎部越吉備近江尾張の豪族の富と姫
古代史の真実、源氏物語の後宮における、性治で進行した。 領地の地名も
漢字が無きゃ、平仮名1~2文字、後の前後のような分別が必要なら3文字の発音である。

この歴史は、戦国時代の覇者、信長も破壊してはいない。
父母や祖先に背かないという道徳は倭人が呉の太伯の後を削除した
下劣な虐殺戦争での中華思想の三国志に、でも散見する。

94日本@名無史さん2022/11/09(水) 20:20:15.12
済まない。 JENEで、スレがDAT落ちになって
更新しなかったんで、

TESで書き込んだ。
多分以降、話は通じる。

同じ症状で、ジェーンなら修正は 
「強制過去ログ化」 を実行 。
でした。

95日本@名無史さん2022/11/09(水) 21:56:54.40
宮下文書と云われる古文書があるが可なり怪しい物のようで、富士王朝とか何とか

富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)にある
北東本宮小室浅間神社(旧称・阿曽谷宮守神社)の宮司、宮下家に伝来した古文書

これを整理し1921年(大正10年)6月25日、宮下家文献をもとに
三輪義熈が著した概説書となる『神皇記』が隆文館から発行された。

96日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:01:18.56
そして、吉武高木遺跡群では1981年~2005年まで19次にわたる発掘調査が実施。

当然古文献を元に宮下文書が書かれたのが大正10年で
1981年発掘の遺跡の事など知るわけがない。

それなのに発掘記録と宮下文書に書かれた内容がピタリと一致してて
ある一部分の内容は古文献が残ってて伝承されてたんだろうと思う。
吉武高木遺跡群の大型建物(長井の宮)と河合の埋葬墓地の関係が見事に一致してる
とても信じられないが。

97日本@名無史さん2022/11/09(水) 22:12:23.15
吉野ヶ里遺跡と「天孫降臨」

「南の水門」とは
『宮下文書』は「南軍」について「附地見島、南の水門より攻むる大将は、
元帥火須勢理命(海幸彦)、副帥経津主命・建御名方命、軍勢五萬餘神とす」と記す。
「附地見島(筑紫)」の「南の水門(有明海)」から攻めている。
「南軍は南水門より上陸し、賊の大軍と戦い、奮撃轉鬪六百五十日にして、
遂に賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。

「南の水門」とは「有明海」であろう。「南軍」は長崎を廻り、有明海に入り、
「佐賀県南部」に上陸している。 「賊軍を西北方面に撃攘しぬ」とある。
先住民は「佐賀県南部」から「西北方向」に逃げている。

98日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:15:18.63
>>93
〉なんで物部が九州起源なんですか?

朝廷が九州統合したのは、倭人伝で250年以降であって
物部は出雲自身か、同等の銅鐸期の200BCが始祖に近い豪族。

相当に本質に迫られたご意見と思います。
物部氏は、神功皇后期前後で部民姓を与えられますが、同族集団という意味合いですよね。
海家と違ってかつてなんと呼ばれていた家なのか判明していないという事です。
再渡来した徐福はホアカリの名を捨て、和名饒速日を名乗り、出雲のイチキシマ姫を娶り、九州での習合相手、協力者を獲得しました。
当時の大陸は男系分化。日本列島は女系分化でしたので、習合相手がなければ単なる外国人居留地しか形成できないわけです。築秦国東の秦国領域と同じですね。

九州は、出雲で国譲り事件を引き起こしたホアカリの事もあり、下に置かれた地域でした。

大陸の脅威に真っ先に晒され、貿易の美味しいところは持っていかれる。
畿内ヤマトに対する敵愾心は強かったと考えられます。
ちなみに、尾張家の部民性が海部と思われますので、本来であれば物部氏に関しても家名が当然に存在していたと思われます。

景初以降の年代の政治の動きは、単なる同じ家系の親戚同士のお家騒動に過ぎません。
少なくとも正当性や相続権利を主張しあった争いと考えられます。(三韓征伐と同じ考え方ですね)
違いは宗教くらいのものでした。

制服ととるか、連携ととるかは精神的な事と思われますが、考古学的にはそういう中身は分からないものなのではないでしょうか?

99日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:21:56.93
>>95
山下文書の種本は寒川文書とされていますね。
鹿島エリアは古くはミナカタ、物部、大彦系のエリアでのちに八井耳系のタテカシマ(鎌足の先祖)がやってきて程なく中臣(弓前)が入り込んできています。
いつ、中津と弓前が統合して中臣家になったかは判然としませんが直接出雲から嫁さんを貰ったというよりは、八井耳と習合して臣姓を名乗った様な気がしています

100日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:25:04.82
文章の内容から見ても名草にやられた彦五瀬を擁護し、名草を悪く書いているので物部系の話が中心になっていると言われています。
これが大陸の史書を照らし合わせると、記紀により隠され、大陸には出てくる築秦国の東の秦国系の文書なのではないかと分析される話につながります(前スレの古本屋エリナ氏の動画)

101日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:27:06.77
山下文書は、徐福と武内宿禰が出てきて色々学んだとか一見ファンタジーが描かれていますが、後年に子孫たちを受け入れてきたという事が示唆されています。
そして、それよりも古い権威ある一族がいたという方が描きたい内容であったのでしょうね。

102日本@名無史さん2022/11/09(水) 23:52:57.39
>>89
築秦国は、2世紀までは完全に物部王国とも言える勢力だった様です。
曽我氏出身の推古女帝は587年に先祖が物部宗家(本当は文家筋の石上系)を滅ぼした事を気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡にフツヌシを祀る神社を建てたそうです。
確か今でも吉野ヶ里南方の、みやきには物部神社があるはずですよ。
しかし3世紀以降に半島への出兵で大勢な物部族が駆り出され、吉野ヶ里は衰亡。九州での物部の勢力は大きく力を落としたそうです。
そして記紀の邪馬台国時代から物部が消されたことにより、吉野ヶ里も書かれなかったことで忘れられていったそうです。

103日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:13:10.96
>>90
枚岡神社。シブいですね。
確かあそこは春日の元宮とも言われるところで、中臣家の地盤があったところとされています。
私は支持出来かねる部分もありますが、出雲口伝の本ではコヤネは元々はヒボコ系の分家で、その名の通り、ほんの小さな勢力から始まった一族と書かれています。
更に別勢力で息長家がありました。
ヒボコ系はスサ族に食い込んで集合を繰り返して勢力をつけていったとありますのでその辺は整合しますが、大陸の任那、倭国領域、秦韓、金金冠迦羅のナカという史書からの関係で言えばヒボコの先祖筋になるので個人的には半島で敗れてヒボコより後年に渡来したヒボコの本家筋の様に捉えています。

話を神社に戻しますが、既にあの神社にはミカヅチと鹿(銅像があります)がいますから、関東領域で鹿島(登美家のミカヅチと、諏訪の千鹿頭神の領域)て神官を経験した後の神社と解ります。
そしてこの神社では本殿一位のコヤネが春日大社では二位に落とされています。
元々鹿島で鹿が祀られており、春日には鹿島か鹿がもたらされたとありますので、九州の鹿神事は後年に志賀島神社にできた山褒祭りが出来たあたりで持ち込まれたのではないでしょうか?

律令時代には中臣藤原の天下になりますが水銀が出た中央構造線とその両端には鹿島が置かれます。
九州にも鹿島があるんです。

104日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:17:52.11
>>93
〉現代皇室の起源は、物部蘇我海部斎部越吉備近江尾張の豪族の富と姫

繋がって系譜で言えば、現在の皇室は継体天皇を出した北陸蘇我家が男系の祖になります。
徐福の血は女系でしか繋がりません。
そして、携帯天皇は富家から養子入りした事代主系の富太彦。
男系は出雲に遡ります。

今更徐福のことなんてバレても全く問題はありません

105日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:19:40.50
現在の皇室は、蘇我臣系。
出雲の、つまり臣系の皇室になります。
南朝北朝なんてどうでもいい話になります

106日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:30:04.98
宮下文書で解釈するのであれば徐福から8代目の人物からカバネが「福岡」になっています。
尾張氏に対応する物部氏の古い名を推測であげるとするのであれば福岡氏という事になるのではないでしょうか?
それと斉の国の人物である徐福がこの系図だと真の黄帝第四王子という事になっているので、古くから物部氏は秦国系を名乗ることで徐福を隠してきているのではと書いた推測がここでも書かれているのがわかります

107日本@名無史さん2022/11/10(木) 00:46:44.28
宮下文書は、アマテラスやらオシホミミが出てくるので、記紀成立後に書かれた忘備録のようなもので記紀に合わせて書いてあるので、神武の位置付けでだいたいどの一族が纏めたのかは推測ができるのではないでしょうか?

108日本@名無史さん2022/11/10(木) 01:10:56.57
宮下文書が仮に九州勢の誰かの一族のまとめた文書であり、仮にそれが渡来人であったとする。
そしてお上に逆らわぬ様記紀の内容に服属しながら独自性を出しているところは高天原。
宮下文書では高天原は、「天竺真郡州」と書いているのでこれが本質なのかもしれない。
また、大物主と猿田彦が共通の先祖から分かれていると出てくるので、少なくとも2回目の東征以降、の物部政権が終わって三輪山の女神が伊勢に入った以降に歴史を俯瞰している事がわかる。
そこでは、大陸の史書の解釈だと我が国な関係のない、金冠迦羅系のウガヤフキアエズが先祖になっていることから中臣家とも集合した物部とわたしは考えています。
そしてクニトコタチを富士山に住んだ天皇として書いていて、それこそがトヨウケであるとしているので、伊勢神宮下宮の成立後、つまりワカタケルよりも後に纏めたと推測できる

109日本@名無史さん2022/11/10(木) 01:17:58.93
んで、朝鮮系のウガヤフキアエズと徐福を含む系図が書かれ、秦国系のエリアである辰韓の系図が統一して書かれているので、つまりはヒボコと徐福の系統がかつては大陸では一緒だったという事を書いているわけだな。

そういう話をテキトーにまとめれば伊都チョンの様にヒボコスサノオにならんくもないが、どう考えても古すぎて別の家だろって話

我が国側の歴史としてはヒボコは役職名に近く、大国主(実際には17人もいる)と、同じく解釈により歴史が全然変わってしまう存在

110日本@名無史さん2022/11/10(木) 01:19:31.49
系図としては母系、男系の区別がないので、立場を変えて上手く他の豪族との親和性を出せるように美味しいところをまとめて、他の豪族との親和を目指している系図の様に思う

111日本@名無史さん2022/11/10(木) 01:22:32.82
忌部は男系で言えば出雲の分家だけど、おそらくヒボコか中臣家に近いところから嫁さんもらったのだろうね。
後年には藤原中臣体制を意識してか、大陸出身(コヤネ)を名乗る様になった
故に天神系譜に忌部の祖としてコヤネが出てる
あれは母系を上手く使って繋げた系図の様に思う

奥方が出てない一般の系図など当てにはならない

112日本@名無史さん2022/11/10(木) 01:29:15.63
徐福系の血筋は欽明天の女系からしか遡れないと書いた。

そして、宮下文書では欽明天皇の神社復興を最後に朝廷との公式祭祀が途絶えたと書かれている。

113日本@名無史さん2022/11/10(木) 12:52:36.37
>>90
〉石切神社鬼虎川遺跡

大変勉強になりました。ググってみてとても感動しました。
あれ持ってた人たち、超強そうww

今年の盆はセブリ縦走と吉野ヶ里行ってきまして青銅器も見てきましたが、実は盾はちゃんと見てきていませんでした。

やっぱり農耕の神事ではなく、戦闘に関するシンボルだったので残らなかったのでしょうかね。

114日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:37:11.05
生駒山系と言うのは標高300~642mの南北約30km、東西約5kmの山々で、

じつは、長髄彦(ながすねひこ)って生駒山体そのもじゃ無いかと思う。
大阪市内の高速道方面から見ると脛と膝(生駒山頂)のように見える。

石切神社の北方には神武東征に出て来る日下(くさか)、楯津(たてづ)の港の楯津があり
その北に行くと、吉武高木にある飯盛山(楠正成で有名)があり
その北方交野市にはニギハヤヒが天の磐船で降臨した磐船神社がある。

115日本@名無史さん2022/11/10(木) 15:39:21.39
つまり、生駒山系山体自体が物部軍団の山城だった、山の扉、門番でヤマト?

生駒山の麓一帯は物部一族、家臣団の拠点だったんだろう、
あの弓削道鏡の弓削神社や物部氏と関係深い矢作神社、渋川神社が八尾市にある。

そして後、物部氏は石上神宮へ
枚岡神社中臣氏は関東鹿島から白鹿に乗って春日大社へと移ったんだろう。

116日本@名無史さん2022/11/10(木) 16:12:21.97
九州博多湾、山幸彦ニ二ギ系と有明海、海幸彦ニギハヤヒ系が全国制覇へと進軍、
まるで、薩長土肥藩が革命、明治維新を進めたように。

神話や神社伝承伝説を見てると、いかにニギハヤヒ系物部集団が
日本全国、東北北陸から九州まで広がって行ったか分かる、まずは物部王朝が先行し

追いかけニ二ギ系の神武東征軍、天孫族たちが巻き返し王朝奪取、
悔しいけど物部さんはイワレヒコさんに同じ天孫組だとしり禅譲させられたんだろう。

117日本@名無史さん2022/11/10(木) 18:32:40.59
>>116
だからその東遷ってのは西暦で言うと何時なんですか?
200辺りから247年までの筑紫域の女王卑弥呼は東遷しないし、
漢四郡の在った、313年までに韓征伐なんて
日本海ルートの王だってしてないよ?

記紀の時系列が成立しないのに
何で記紀に迎合してる神社伝承が歴史のネタになるのかな?

神代どころか神武が2百数十年なら
崇神から神功応神迄だって被っちゃうだろ。

実際に開拓植民地ではなく、倭王による政治的
半島進出が在ったってことが確定するのは、
倭人伝に記録が有る、卑弥呼と明確な半島状況記録の
246~313年以降で、明らかな考古金石文の証拠としては、
記紀の言う370年の仁徳天皇?に贈られた七支刀からなんだが?

考古学的に明らかな史実を、明らかにしてない記紀や
おまけの焚書されてない伝承ってのは史書なのか?

118日本@名無史さん2022/11/10(木) 21:19:28.83
>ニギハヤヒが瀬戸内海を移動して大阪湾に現れたのが紀元前2世紀の終わり頃だろな。
>巴形銅器が出土した層が弥生中期だと云われてるから。
>そして、神武東征が建武中元2年(紀元57年頃、奴国王が金印授受)の後だろ。

弥生中期から後期の高地性集落「国立歴史民俗博物館(歴博)
紀元前2世紀~紀元2世紀」環濠集落も巨大化していき、特に顕著となるのが
弥生中期、紀元前2世紀の終わりごろで、大阪湾岸から瀬戸内・北部九州にかけて集中する。

山口県でも清水遺跡など高地性環濠集落があり、
紀元前1世紀~紀元2世紀では、広く瀬戸内から大阪湾岸に分布している。
紀元3世紀以降になると近畿とその周辺部にほぼ限られてくる。

畿内の高地性環濠集落の多くは、地理的に大阪湾や瀬戸内海、
それを囲む平野部を広く眺望する高台に営まれる。
その多くに火炊き場跡が検出された。のろしによる通信跡と推定されている。

119日本@名無史さん2022/11/10(木) 22:05:43.31
ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そおたはくめか
うをえ にさりへて のますあせゑほれけ
布留部(ふるべ) 由良由良止(ゆらゆらと) 布留部(ふるべ)

>これ石上神宮の「ひふみ祝詞」とだけど、よく見ると今の五十音訓に似てて、
>いろは歌の古代版だろな。わをん、だけがなく(わを(うぉ))で発音してたんでは。

>高句麗の地名では、一ひ二ふ三み、七なぬ十とく、と発音してた様だし
>現代人がAエ- Bビ- Cシ- Dディ- と発声練習する様な感じだろ。和語も難しいから。

120日本@名無史さん2022/11/11(金) 00:39:58.75
「男子は大小となく皆黥面文身す-三国志がみた倭人たち」 

弥生後期中葉~古墳前期の鯨面絵画(2~4世紀)土器分布図
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

邪馬台国と物部 黥面の土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布
『魏志倭人伝の考古学』佐原真から。
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

121日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:16:52.10
>宗像地域と出雲、丹後半島までの日本海沿岸地域だけ、これが出雲文化圏なんだろな。
>中国と同じ6穴の土笛とうけん、はこの地域にしかない。

弥生時代の土笛は、(陶土員とうけん)とも呼ばれる焼物の笛で、起源は中国。
河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡などで出現しています。

西日本で土笛が出土した遺跡の分布図
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
https://www.city.munakata.lg.jp/w018/030/020/020/350/201501270037.html

122日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:45:05.94
>>26
>>2の用例に示した通り、「水行十日 陸行一月」とは「水行ならば10日掛かり、陸行ならば一ヶ月掛かる」という意味だからそれは成立しない
水行10日の後に陸行一月するというのは誤読

123日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:56:51.72
>>28
都万厨とかいうのは知らんが、南水行二十日という記述だけで考えれば別に薩摩でも成立し得るし
>>3の通り放射読みなのでそれは別に邪馬台国の位置には影響しない
だが副葬品の分布を見ると北部九州と文化的な繋がりがありそうなのは宮崎側に見える
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

鹿児島方面は免田式土器がそこそこ出土している一方で、北部九州の海人族が権威の証としたゴホウラガイを沖縄方面から運ぶ際の中継地点になっていた形跡もあり
女王国側とも狗奴国側とも付き合いのあった中立地域ではないかと思う

124日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:58:28.61
>>32
記紀を盲信するとそう考えてしまうのか
どう見ても嘘が書いてあるだろ

125日本@名無史さん2022/11/11(金) 01:59:37.68
>>34
雑魚は鎧袖一触だったがw
負け犬伊都チョン連呼くんのの願望は儚く消えましたとさw

126日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:00:54.52
>>35
筑後山門に比定しているのは考古学の成果によるものだが
バカはテンプレも読めないからそんな勘違いをするんだな

127日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:01:52.85
>>36
その妄想は前スレで木端微塵に論破されていますw

> 853 :日本@名無史さん :2022/11/05(土) 02:33:38.75
> >>469
> 相変わらず救い難いバカだなお前は
> お前と俺とのこのやり取りは
>
> バカ「お前はこの前温度計で気温を測っていたけど、その測定機じゃ電圧を測れないぞ。」
> 俺「何言ってんだこのバカは、温度計は温度を測るためのものなんだから電圧なんて測れるわけないだろ。電圧計使えアホ。」
> バカ「お前が使った測定機では電圧が測れなかった!ブーメラン!!」
> 俺「ダメだこりゃ」
>
> こういうことだぞw
>
> 測定器ってのはみんな用途が決まっていてそれ以外のものは測れないのが普通
> 温度計は温度を測るためのものなんだから電圧が測れないのは当たり前
> 完全一致検索は「世の中でそう言われているかどうか」を測るためのものなんだから俺が発見した事実が出てこないのも当たり前
>
> こんな当然のことも理解できないのはIQ80未満の伊都チョン連呼くんだけだぞw

128日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:02:29.92
>>37
九州にあったから東征しなきゃ畿内に移動しないわけだがw

129日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:09:39.16
>>44
>何で、考古学的に なのに 神武東征の時期は3世紀末から4世紀初頭頃
それ以前の畿内には鉄すら無く都と呼べるようなものは無かったからだよ
逆にその時期以降は突然大量の鉄器を入手するなど不自然なほどの急成長を遂げる
畿内に初めて都を立てたのを神武東征と呼ぶならば考古学の見地からはこの時期の出来事ということにならざるを得ない


>313年以降は日本海ルート諸国も九州北部海人も 半島に進出して百済新羅の高句麗戦を後押ししてたわけで
その根拠は?

130日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:16:03.27
>>45
旗を貰ったのは台与のときだから卑弥呼の代で朝貢済みの邪馬台国が北部九州に存在した、で問題なく成立するわけだが
筑後山門の邪馬台国が後に畿内に都を移してそこをヤマトと呼ぶようになった
順序が逆なのは君

131日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:20:19.57
>>49
>単純に解釈するだけなら長門から北に邪馬台国があって、伊都が飛び地でも十分に成立する
伊都の一大率は女王国の北方を監督していると記されているので成立しない
伊都国の位置は女王国連合の中でも北の方でなければならい
逆に言えば邪馬台国は伊都よりもっと南にある

132日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:24:23.07
>>56
>>129の通り考古学の成果で間違いないがw

お前は>>23の通り考古学という言葉の意味さえ知らなかったモンキーなんだから今更イキっても滑稽なだけw

133日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:26:36.48
>>62
スレ主という概念自体に賛同しないが>>1>>2は俺だよ
>>123の通り都万には大した拘りは無い
どっちみち邪馬台国の位置には影響が無いからな

134日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:33:04.47
>>130
〉旗を貰ったのは台与のときだから

??
ヤマト入りした連中が揉め事起こして収拾つかなかったから大陸の介入でトヨが後継者になったんだろ?
八本の属国旗なんてその前のタジマノモリの話であって開戦前の話だろ

マジかw

135日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:35:05.91
>>126
〉筑後山門に比定しているのは考古学の成果によるものだが

根拠なし

山門の話は歴史学であって考古学ではない

お前は日本語そのものを理解してない

だから昔から伊都チョンと呼ばれる

昔からそう入れてるのにこっちに粘着w

136日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:37:25.18
>>125
お前が一番情弱でレベルの低いスラングを連発してるだけの役立たずだろw

137日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:44:30.62
そういや自作の五十猛や五十迹手が同一人物とか抜かしてたあの画像は最近は貼らないのか?伊都チョンww
あれは何度見ても傑作だなw

138日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:48:14.18
トウケンのメッカは九州と出雲ww
ホアカリ饒速日の渡来した地域がメイン

この楽器が元でホアカリの一族である尾張氏は笛吹連とも呼ばれる様になった。
その頃には竹笛になってたらしいが。
故に尾張氏の立てた葛城坐火雷神社は笛吹神社とも言われている

139日本@名無史さん2022/11/11(金) 02:51:29.48
神功皇后記が初出の山門がいつのまにか九州から奈良に移転したことになってると主張するアホがいる

140日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:40:56.91
さて、>>17の図にも書いてあるが前スレで神功皇后がトヨだと書いた
その根拠の一つとして阿知女作法があり、アチメは安曇とされており安曇磯良に対して玉を欲したのは神功であるから
玉を欲したと歌われているトヨヒルメ=神功だという話をしたわけだが、その次のフレーズも興味深い

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%9F%A5%E5%A5%B3%E4%BD%9C%E6%B3%95
>④のほります とよひるめかみたまほす もとはかなほこ すゑはきほこ

「元は金矛、末は木矛」の意味が不明とされているが、俺の説に則ってトヨヒルメを通説の天照大神ではなく、磯良に玉を求めた神功と考えれば理解は難しくない
まず神功が借り受けた玉とは潮の干満を操る干珠・満珠の2つの宝玉とされているが、そもそも潮汐を操ることなど出来るわけがないし、
いくら古代人が迷信深くてもそのような効果が本当にあるかどうかは実際に海に行ってみれば一発で分かってしまうのだから彼らがそんな事を信じていたとも考え難い

また書紀によれば神功に対して
「和魂(ニギミタマ)は王身(ミツイデ=ここでは皇后の身のこと)に従って寿命(ミイノチ)を守ろう。荒魂(アラミタマ)は先鋒として師船(イクサノフネ)を導こう」
という神託があったとも記されている
つまり2つの玉というのはこの和魂・荒魂のことであるが、神道の言う一霊四魂のようなスピリチュアルな意味ではなく、これは暗喩である

筑前国風土記逸文によれば神功の三韓征伐には安曇氏から安曇大浜・小浜の兄弟が従軍していたことが記されている
この二人の伊都国王子こそが和魂・荒魂であり、つまり和魂=長男、荒魂=次男といった程度の意味である
干満を操るとはこの兄弟が半島航路の潮流を熟知していたという事だ
そう考えれば金矛・木矛とはこの兄弟の名前であると分かるだろう
大浜・小浜という海人族としては出来すぎた名は号と考えられる

過去スレで神功の水先案内を務めた射楯大神=五十猛=磯武良の父である雷大臣がヒボコの正体だと書いたが
王子2人の名が金矛・木矛ならその父親である伊都国王が日矛であることはとても自然である

根拠に基づいて論理的に考察し正しく論を立てれば、こうして様々な事象を総合的に説明出来る
これが醍醐味というものである

141日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:43:15.93
>>140関連

> 465 :日本@名無史さん :2022/09/26(月) 01:06:28.21
> >>434
> イソシと言われて名付けた地名がイヅシなわけが無いだろアホ
> お前のその妄想解釈は>>464の通り考古学的にも否定される
> 伊都の本家は糸島で但馬の方が出先機関だ
>
> 天下るとは海(アマ)下るであり海人族の本拠伊都から船で遠方へ下向すること
> だから神話でも神が天下る際に船が使われているだろう
> こう読み解けばヒボコは渡来人などではなく朝鮮半島に行って戻ってきた倭人だ
> この時代でそれをやった高貴な身分の人間といえばご存知雷大臣だな
> イトテ=射楯大神=イソタケルなので実際には子孫ではなく息子と名乗ったのだろう

142日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:48:05.64
>>134
ああそこは記憶違いだったわ
だが最初の朝貢から9年も経っているので趣旨は変わらん
お前の負けは動かない

143日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:50:11.17
>>135
>根拠なし
残念だが根拠は過去にとっくに示されている

293 :日本@名無史さん :2019/09/01(日) 23:41:52.72
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 ->画像>22枚

有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>247のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る

144日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:52:24.54
>>136
そうやって何ら論理的に反論できず遠吠えを繰り返すから君が負け犬だとハッキリシチャウんだぞ伊都チョン連呼くんw

>>137
>>8にあるだろ
目まで腐ってるのかw
脳だけにしとけw

145日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:53:34.74
>>138
>ホアカリ饒速日の渡来した地域がメイン
根拠ゼロの妄想

>この楽器が元でホアカリの一族である尾張氏は笛吹連とも呼ばれる様になった。
根拠ゼロの妄想

>故に尾張氏の立てた葛城坐火雷神社は笛吹神社とも言われている
根拠ゼロの妄想

うーん、根拠ゼロの妄想しかないw

146日本@名無史さん2022/11/11(金) 03:55:34.62
>>139
神功=トヨの頃はまだ九州が都だからな
その孫である仁徳天皇の御製に九州にしか生えていない檳榔が出てくるのはまだ九州にいたから

147日本@名無史さん2022/11/11(金) 09:53:24.03
>>142
相変わらず日本語がおかしいな、伊都チョンw

148日本@名無史さん2022/11/11(金) 09:56:48.20
>>143
で?山門が初出神功皇后であって考古学的な話とは無関係なわけだが?

根拠になんてなってないだろ

山門呼称は記紀服属で後付けの地名。
九州地名はヤマトから山代にかけて存在する
都万だって亀岡近くにあるぜ?w

考古学的な結論は出ていない

149日本@名無史さん2022/11/11(金) 09:59:49.84
>>140
磯良は魏書にも記紀にも出てこず、神功皇后記の後年の後付けのストーリーに過ぎない
考古学とは一切無関係

150日本@名無史さん2022/11/11(金) 10:04:48.41
宇佐のアチメワザには石上のひーふーみーが出てくる。
宇佐が物部と和解するのは後年の話
そもそもが応神期以降の神事で後付けのもの
細女に対する細男の舞が磯良舞の真髄
つまり豊彦の事だよ
宇佐の作った神事なんだからそれくらい気づけw

151日本@名無史さん2022/11/11(金) 10:09:54.97
宇佐がアチメワザを作ったのは、その昔任那が豊日国と呼ばれていて、宇佐や中臣家にも関係する土地だったからだろ


lud20221111102649
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