俺40代自営業
とある農家のお客様のお宅におじゃました時のこと
もう何年にもわたり何度も出入りしていたのにそこの主の爺さんがある日突然「あんたの爺さんと同じ部隊だったんだよ」と話を聞かされた
俺は遺影でしか知らない爺さんの話を他人様から聞くことになるとは思いがけずつい長居した
でも南方だったか大陸かは忘れた
うちの婆さんは元気な頃は全く戦時中の話はしなかった
逆に痴呆がでだしてから人に聞かせる感じではなく「あの時は大変だったね」って一人言みたいに喋ってたのが印象的だった
きっと元気な頃はあえて口にしなかったんだろうな
もう一人の爺さんは復員していて高田浩吉という歌手(?)と同じ部隊だったらしい
昭和30年代だろう テレビにその人が出てる時に「この人と同じ部隊だった 歌が上手くてな」みたいな感じで家族に話したとか
wikiみたら戦前から芸能活動していて兵役に就いたみたいだけどテレビのない時代は知らなかったんだろう それとももう既に有名人でなんでお前がいるのみたいな感じだったのかな
話は戻ってお客様の爺さんのお宅は無事復員したその主によって農業をしっかり再興し栄えたのだろう
方やうちの婆さんは女手一つで貸家住まいから商売を起こし苦労して少しの財産と多くの信用を残し三代目の俺が曲がりなりにも今も商売を続けられている
戦後みんながいろんな苦労して日本が復興したんだなと切に思う
でも今の日本は英霊が残したかった日本になってるのだろうか
きっとなんだかなあって思ってんじゃないかな
>>3
タイムリーに新資料が発見されたのに、もう既にスレに書けなくなってる
ニュース系の板は足が早いな ・死んだ祖父の誕生日が天皇陛下と同じ日だったので記念のメダルを
もらっていたのだが敗戦時満州にいた時にやってきたロシア兵に
もっていかれたため現存してない。
亡くなった祖母から1回だけ戦争の頃の話を聞いた。
約30年前の8月15日。
祖母の弟はとても勉強ができて、近衛兵となったそう。
ある時、出撃命令が下され、天皇陛下から直接タバコを戴いたそう。
そして、御国の為に帰らぬ人となった…。
細かい部分は忘れてしまったけど、そういう話。
俺は広島育ちだから、原爆の話、戦争の話を小学校で良く「平和教育」の名の下に聞かされていた。
図書館にあった「はだしのゲン」の影響もあり、天皇=悪! 戦争=悪!が頭に刷り込まれていた。
でも、祖母の悲しそうな中に誇りを感じる口調を前に「日本は悪いことをしてたんだろ?天皇は悪い人なんだろ?」なんて言えなかった。
祖母は静かに小さな声で話すんだけど、凄い迫力だった。
背負ってる物が違うように感じた。
話の最後に応接間を指差して、「あの人(祖父)も中国で戦ってきたんだよ」と。
祖父はキョトンとした顔で「何の話をしてるの?」と言っていたw
俺の優しいじいちゃん、ばあちゃんが悪人なわけないじゃねえか、と自分の中で物凄い違和感が生まれ、(しかし何故かゴリゴリの左翼だった中高時代を経て)大学生になって徹底的に歴史を勉強した。
…俺は俺達のじいちゃん、ばあちゃん達を心から誇りに思う。
戦後直後「我々は第三国人である」って威張ってる人たちがいたので
困ったという話をきいたことがある。
日教組の強い地域で育ったので、学校の先生の言ってることと違ってて
えらく混乱した。
家族ぐるみで昔からの知り合いの爺さんの父親が戦時中シナで重鎮と関わっていたのを知った。
その重鎮の名を書いたらググったら特定されそうなんで書けないがすんごい大物。
その人は民間人だったがつまりは工作員だったらしい。
けどとある本に拠ると蒋介石側の二重スパイだった可能性もある。
その人と一緒に引き上げて来た仲間が数人いるが全員超絶頭が良かった。
うち一人は自分の小学校の時の教師だった。
強烈なサヨクで日教組どころでない共産党員だというので地元で有名。
てことはシナで工作していたのは蒋介石越えて共産党軍側の工作員になっていたのかと思ってしまう。
教師だった人は今も超高齢で存命。
うちの爺さんは都電の運転手だった。戦争が激化するにつれて
運転手・車掌・整備・保線・交通整理もどんどん徴兵され戦地に送られた。
代わりを勤めたのが女性と朝鮮人で、特に女性車掌は評判が良く、
以降都電やバスの女性車掌が定着して、戦後職員が復員してきても
「車掌は女性」が変わる事はなかった。
車掌は美人ぞろいで、若い運転手はみんな美人車掌と結婚した。
交通整理(信号のある交差点は少なかったので、都電が通る交差点には
交通整理の職員が立つ)も女性のほうがうまかった、と言ってた。
女性が毅然として交通整理した方が、皆が言うことを聞くらしい。
女性はいいんだが、出稼ぎ朝鮮人にとって都電に勤務すると「俺は官員様だ」と
思い込むらしく、プライドが高く使うのが大変だった、と言ってた。
電車の運行はチームワークが重要なので、日鮮職員みんなで懇親会やったりして
チームワークを保とうと努力したが、酒が入ると朝鮮人は殴り合いを始めて
しまうので、日本人職員が出席したがらないので困った。
一度百人町にある朝鮮人の後輩宅に野菜のおすそ分けを持っていった事があるが
おっかないババアが怒鳴り散らして「多分、日本人が何しに来た、みたいな事を
言ってたと思う、とのこと」殺伐とした感じだった。今に始まった事でなく
戦争中から在日との融合は難しかったみたい。
戦争中の日本
じゃなくて、
戦争前の日本
を取り戻そうとする右翼って少ないよね
うちのひいばあちゃんがそういう考えで
部屋の鴨居(長押?)の上にはひいひいじいちゃんの写真と、違う壁の鴨居に昭和天皇のお写真が飾ってあった
いわく、戦争おっぱじめた「近衛」はいい男なのは顔だけでその実「天子様」は御神輿にしか思って無いアカだとかなんだとか
昔はみんな自由にできたし、彼氏(ひいじいちゃん)と「ラプソディ」っていう映画見に行ったり汽車乗り継いで銀座で遊びあるったもんだと
軍隊とアカが天子様よりもえらくなっちゃって、天子様の赤子を横取りして自分の飼い犬かなんかみたいに厳しく躾けだした
自由も奪って会社も国が買い上げちゃって、金儲けも口出すようになって、そのくせ配給でなんとかしようってんだからありゃ筋金入りのアカだ
どこにそんな権限があるんだバカヤロー!ってしょっちゅう怒ってたよw
終戦ちょっと前に生まれた祖母に聞いた話だけど
祖母の父親(自分にとっては曾爺さんです)は戦争に行ったけど要領良く立ち回ってたから
戦場にも送られず生きて帰ってこれたとよく自慢してたらしい。
その後は親の田畑を受け継いだり
コンクリートが儲かると聞いてその事業で成功したみたいで
21世紀まで生きて自分も可愛がってもらった記憶あるけど
その話聞いたら何故か曽祖父が尊敬出来なくなった。
これはあくまで自分の曽祖父に対しての気持ちだけど
要領良く生きるより戦地で正々堂々と戦って欲しかった。
>>15
その要領の良さは尊敬に値すると思うけどな
脳味噌一つで自らの身体から命の危機を遠ざけたんだろう? 能力ある素晴らしいお人じゃないか
戦後に事業で成功したのなら経済の上で国に貢献したことになるし、尊敬の眼差しで見てもバチは当たらないんじゃないかと思いました
戯言失礼 かと言って「戦場で敵何人殺したぞ」と自分の子に語る戦争体験者もあまり居ないと思う
昔、鶴瓶の深夜Tvでの投稿で
父親が縁側で近所のなじみの奥さんと庭を眺めながら
「俺も戦場では人を殺した」とポツリと言い
近所の人が「そうか殺したのかぁ」
と答えその後二人共無言になり座っていた
そんな場面を見かけてしまった娘さんからの
「戦場で人は殺さなかった」と自慢する人はよく居たが、父の戦争体験なんて聞いた事もなかった。
と家族にも言えない父親の心の内を察する娘さんの心情の投稿だった。
徴兵体験者が多く居た時代は、戦争で人を殺さなかった自慢は多かったんじゃないかな。
うちの爺さんは味噌屋の長男で、昭和12年に25才で跡を継いだ。
その際に世話になった地元小学校の恩師が18才のヤクザ風の少年Kを連れて来て
「感化院(今の少年院)出たばかりのどうしようもない奴で、身寄りもいない、
世話を見てやってくれ」と言われ、仕方なくKを住み込みで働かせてやった。
Kは見るからにヤクザ風なので、他の従業員から白い目で見られていたが、
爺さんが弟のように世話を焼いてやると更正して、真面目に働くようになった。
そのKも3年後に21才になると徴兵検査で甲種合格となり、そのまま軍隊入り、
既に日中戦争が泥沼化していた。
爺さんは3人兄弟で、次男は大戦が始まるとすぐに赤紙が来て、3男は学徒出陣。
昭和20年春、長男の爺さんにもついに赤紙が来て連隊本部に出頭すると
まず身体検査を受けた。結果を待っていると徴兵官の軍曹が爺さんの顔を
凝視している。軍曹殿は赤鉛筆で書類の爺さんのところに大きく×を書いた。
「○藤○郎、不合格!」と怒鳴る声に聞き覚えがあった、Kだった。
立派になっていたので見た目では全く判らなかった。
身体検査で不合格になり、家へ戻された爺さんは21世紀まで生きて、
その後新兵とともに満州へ渡ったK軍曹は生きて帰らなかった。
Kの面倒を見たお陰で生き残った爺さんは、この話を一つ話のように語っていた
ちなみに弟2人も帰ってきた、3男はまだ生きている
うちの爺さんは所謂西洋音楽マニアで、レコードやら楽器を集めてたらしいが、
大戦終盤はそういう軟弱な趣味は憚られるようになり、敵性音楽だの言われて肩身が狭かったそうな。
しかも似たような軍歌ばかりで辟易とした社会だったと。
その反動で、戦後はパンクを始め、今じゃ丸禿げロックやってるぜ!!!
うちの近所では昭和20年8月15日の朝に海軍機に空爆されて大きな被害を出した
農村で軍事施設などもないから一度も空爆などされた事がなく、
まさか爆弾落とされると思わず、朝飯を食べていた家が多く
庭に爆弾が落ちた家は爆風で家が倒壊、都会から疎開していた親戚も含めて
11人中9人が即死、爆風で遺体損傷が酷くて男か女か判らなくて困ったそうだ
8月15日は村人みんなで遺体捜索や片づけに追われ、玉音放送も聞いたけど
あまり記憶にない。爆風で顔と頭がズル剥けて男か女かも判らない遺体の
印象のほうが強い、と婆ちゃんが言っていた。
戦後の米軍の記録によると、飛行停止命令が出る直前だったから、
最後に弾薬を全部使ってしまえと関東上空を中心に、
数百機の海軍機が我が物顔に飛び回っていたそうで、
遊び半分に、民家とか普段狙わない標的を狙って爆弾を落としたらしい
老人施設の年寄りに聞いた話ですが
昭和19年の神戸市の中学校の生徒の大みそかは、友人の家に集まり三宮の生田神社と兵庫の湊川神社
へ初詣に行き、小学校時代の同級生の巫女さんをひやかし、闇屋で酒を飲んで福原の遊郭に行くことだったそうです。
ちなみにその爺さんは神戸中学、火垂るの墓の清太と同じ学校です。
しかし神戸中学には餓死した同窓生なんか一人もいなかったと言ってました。
また昭和20年の9月頃は須磨海岸で浅利を取ったり、長田港で漁師の手伝いをして魚を貰ったり、六甲山で牛乳絞りをして現物をもらったりで飢えるようなことはなかったそうです。
■■■
通名の方々:
テレビ局・新聞社・ラジオ局・出版社・
芸能人・テレビに出てる人・本を出している人・雑誌の表紙・芸術家・
スポーツ選手・アダルトビデオ・性風俗・ヤクザ・暴力団・部落(同和)・
教員・大学教授・ノーベル賞受賞者・医師・弁護士、検察官、裁判官・政治家・公務員・
経団連・経済同友会・公益法人・旧軍人・巣鴨プリズン・明治政府〜・
塾・予備校・専門学校・ 自動車教習所・ 商店街・飲食店・寺・2ちゃんねる・
■■■
母達姉妹弟の戦中戦後はリアル「後ろの正面だあれ」(海老名香葉子著)
疎開前の舞台は母の出身地、開した先は父の出身地の近く
場所も年代も一緒なので両親や伯母から聞いた当時の話と重なる部分は多い
母達は親戚をタライ回しにされても最終的に生き残ったので「蛍の墓」ほど
悲惨では無いが、祖母は苦境の中で若くして病死した
爺さんは米どころ新潟の農家出身で日米戦争始まった時は
中学生だったので、東京の親戚に米を運ぶのが仕事だった。
東京で羽振りのいい叔父さんの所へ米を届けると
叔父さんは「よく来た」と言って
銀座の資生堂パーラーでホットケーキをご馳走してくれた
全く経験した事のない衝撃のウマさに
「本当にほっぺたが落ちるかとおもった」と言っていた
25の資生堂パーラーの話は、五年前にも2に書き込んでますね
そもそも韓国人は被害者でも戦勝国でもなく、ドイツと併合していたオーストリアと同じ立ち位置にある。
被害者だといつまでも言い続ければ美味しい話が転がり込み、楽して日本から金を奪えるからである。
実際には慰安婦を売ったのも韓国朝鮮人、その業者も韓国朝鮮人、それを利用したのも韓国・朝鮮系日本兵だ。
戦後は韓国が米軍や韓国軍のために慰安婦制度を自ら推進していたのである。
日本が戦犯国というのであれば、韓国は共犯者であるにもかかわらず、日本を声高に非難することで、
韓国は被害者であると国際社会と自らに言い聞かせ、信じ込ませ、日本にたかり、利用することに注力してきたのである。
ドイツはオーストリアに補償も謝罪もしていない。またドイツも慰安婦を大量に利用していたのである。ユダヤ人の組織的殺戮などのような事実は日本にはないし、欧米の有色人種の植民地開放が日本の大儀であった。
戦後も徴兵制や軍隊派遣、軍需産業育成に努力してきたドイツが、国際平和に貢献してきた日本を批評できる立場にない。
日本を利用して発展し、日本を食いつぶし、最終的には日本を支配し、日本に復讐する、それが韓国の長期的な野心なのだ。
現在も、生活保護費も、朝鮮学校費も、在日特権の数や、パチ産業独占も、人権差別を利用し、強制連行されたと嘘をついて、金も技術も日本から盗み取っている。
また在日コリアンは日本中の駅前をパチ屋とサラ金にして、今も日本人から搾取を続けている。。。。。
韓国との関係縮小、在日コリアンの一掃が日本の復活の鍵である。
今年78になる親父から聞いた話
子供のころ住んでいたのは茨城県の磯原(現北茨城市)
風船爆弾の発射基地があったのは隣町の大津
なので毎日たくさんの気球が飛んでいるのが見えたそうです
空を埋め尽くすくらいの数の風船爆弾を眺めながら
あれがアメリカまで飛んでいくんだなどと同級生達と話していたそうです。
学生時代の話だけど
クラス担任的な先生がいらしてあるとき
クラス全員にご自分の経歴など話してくれた事があった
もともとは海軍士官になりたくて江田島の海軍兵学校で学んでいた
でも戦争末期だったので卒業しても乗りこめる艦艇などあるわけが無くて
陸上の防御陣地の指揮をとっていた
その陣地では敵機の攻撃を受け「今度こそもう駄目だ」と死を覚悟したことが何度もあったそうです
終戦後は職業軍人とみなされて公職追放に指定されてしまい就職できなかったそうです
警察予備隊が設立された時も入隊したかったけれどまだ指定されたままだったので志願できなくて
悔しい思いをしたとのことです
それでもあきらめずにいてやっと追放が解除されたのですぐに志願して入隊したそうです
そしてそのまま陸上自衛隊に勤務されて陸将補で退官されたということです
「自分は戦争中に何度も死を覚悟した、だから今更怖いものなどなにもない」とも仰られていて
事実学生がその筋の(いわゆるカタギでは無い)人たちとトラブルになった時も
単身相手の事務所に乗り込んで直接話合ってトラブルを無事に解決したこともあったそうです。
例としては不適格かも知れませんが男塾の江田島塾長のような独特の風格をおもちでした
わたしが社会人になってから自衛隊や防衛省の方たちと
何度かお仕事をさせていただいたのですがあれほどの風格を
お持ちの方はいらっしゃらなかったですね、器が違うとような感じでしたね
やはり死線を踏み越えるというような特異な体験がないと見つけることができないのでしょうか
一昨日の夜、TVでやっていた、学力王(クイズ)決定戦。
壮絶バトルをやくみつるが制したわけだが、
ラストの方の問題で、岩倉使節団の5人の写真が出て、「名前を全部答えろ」という問題があった。
早押しで答えるのだが、やくみつるほか各界のインテリ著名人がボタンを押せないんだorz
一人、チャレンジして、一番難しい「山口尚芳」を「大隈重信」(佐賀は当たりw)としてしまったのだが、
許せてそのレベルじゃろ。
日本人の歴史への疎さにショックorz
酷いモンだ。
ま、反日・反保守自由主義のやく氏は、当然明治維新否定派(会津プロパガンダ派かも)だろうから、態と答えなかった?
>>17
地域柄もあると思うけど、ワシが子供の頃、銭湯でじーさん連中は、中国やビルマでした悪い話を自慢しあってたな
レイプしたとか放火したとか捕虜いじめしたとか
地域柄(工業地帯)とか職業とかによるんじゃなかろうか 去年、祖父が亡くなった。
海軍の船乗りだった。
支那事変から従軍していたのと海大出で結構な階級だった。
軍人一家のため、弟の大叔父は近衛中尉。
その祖父の母、曾祖母の話
日露戦争に従軍、ハルピンの前線の陸軍戦時病院から大連にある後地軍事病院までを行き来した看護婦だった。
婦長の曾祖母は、ある程度の高官専門に看ていたとのこと。
曾祖母の担当したある軍人さんは、笑顔がステキな優しい優しい軍人だったらしく軍人であることを忘れるくらい。
田中さん(僕の名字、仮名)ここでゆっくりお茶でも飲んでいきなさいよ、頂いた金平糖とビスケットがあるけど食べませんか?と、どっちが患者かわからないくらい優しかったそう。
ある日、曾祖母は内地転換の辞令が出た、日露戦争が終結に向かうのは、運ばれてくる兵隊の量で曾祖母も気づいていたらしい。
帰国し徴用解除、勲八等叙勲。
その後、大正に入り実家で主婦業に勤しんでいると、ある日、朝日新聞、地方紙の記者が黒塗りの取材ハイヤーに乗り10人くらいおしかけてきたそう。
明治の女は強いとばかりに『何事ですか、騒々しい。うちには新聞に載るような悪さをするような人間はおらん』と記者を並べて捲し立てたそう。
記者たちは、無礼を平謝りし『香椎浩平陸軍中将閣下がこの度、熊本第六師団長に任ぜられました。
着任の挨拶の際【日露で死に目を見たこの私が今諸君らの眼前にあるのも従軍看護婦の手厚い看護のおかげであり、国体一丸となり有事に向かう精神を決して忘れるな】と述べたあと
司令室にての囲み取材であのときの看護婦に一言礼を改めて申しあげたい、熊本出身と聞いて同じ九州ものとしてあの時気持ちがいくぶん楽になったとのことで、田中さんに当時を振り返って頂いて取材と司令室までご案内さしあげたい』と。
曾祖母は、びっくりして家で一番の着物を羽織り向かったとのこと。
当時の写真と切り抜き記事は実家にある。
また第六師団だった大叔父は、その後師団長推薦で近衛兵に。
小さい頃から直接聞いて、亡くなったあとも祖父もよく話していたがもっと詳しく聞いておけばと後悔。
在日朝鮮人だが、祖母も祖父もいわゆる
強制連行とかじゃなく普通に来た。
みんなそうでしょ。戦時中婆さんは
挺身隊で軍需工場に動員もされたが、
模範的日本人として表彰もされた。
婆さん曰く、いつも助けてくれたのは
日本人だって。戦後密造酒で生計立ててた時も、いつも気にかけてくれてた警察署長の奥さんが、手入れあるみたいだよって教えてくれてたらしい。で、手入れの原因が朝鮮人の嫉妬によるチクリ
>>36
彼らが同胞と呼んでいるのは金を血で繋がっている者だけ
それに該当しない奴は他人ですものね >『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、
>舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
>其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。
>遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
>と会津の者から聞いたそうだ。
>寺石正路「南国遺事」より
人間のやる事じゃないね…。どうやったらこんな残虐になれるの?
会津武士道とか会津魂とか会津士魂とか全部嘘だったの?
有名な杉原千畝や樋口季一郎だけでなく東京裁判で処刑された日本のA級戦犯たちは、実は全員がシンドラーでした。
強硬な反ユダヤ主義者であった英国チャーチル首相や米国のルーズベルト大統領、それにハル国務長官の介在から、
ユダヤ系難民1000名弱を乗せた船が米国政府の指示による湾岸警備隊の実力・武力行使により接岸拒否されて
送り返されていた1939年のセントルイス号事件や、反ユダヤ主義・イギリス政府による関係諸国への強い警告と
圧力によりカリブ海中米や地中海沿岸の国々でユダヤ人難民船の接岸拒否と滞在・通過ビザの発給停止が多発し、
その結果、多くの人々が欧州に送り返されて収容所送り=ホロコーストの運命となり亡くなっていたこと、
英国の巡視艇から突如銃弾を浴びせられて多数の死傷者を出した難民船・タイガーヒル号事件や、2ヵ月以上も接岸を拒まれ続けて
行き先を失った船もろとも沈没し、800名弱が犠牲者となった1941年のストルマ号事件の様な酷い事例の数々とは違い、
日本政府は欧州から大陸シベリアを経て遠路逃れてくるユダヤ難民たちを、人道的見地からも庇う施策を閣議決定し
当時同盟関係にあったナチス・ドイツ=ヒトラー側からの強い抗議と再三にわたる返還要求も断り続けて
舞鶴・神戸など日本国内と居留地・上海、満州等で累計2万人以上のユダヤ人たちを匿い救っていた英雄です。
現在、靖国神社に祀られている彼らについて意見は様々有りますが、人道・人権を唱えては重んじる欧米の諸国には
これら非常に不都合な真実となる歴史について修正したり否定したり、消し去ったりすることは出来ません。
そんな日本と靖国を批判する上で世界の共感を得る為に、毎度ヒトラーとナチスを性懲りもなく持ち出しては重ね合わせ、
声高かつ酔狂に叫び続ける韓国と中国はまずその間抜けな歴史認識から改める必要性がありますが、最近では彼らと一緒となり
抗議してくるユダヤ系人権団体の人々も、この上なく無知で呆れ果てた人達なのかと言わざるを得ない話でもあり、
今も世界で学ばれて当たり前に流布されている勝者に都合良く選択されたプロパガンダ臭のする歴史話だけではなく、
これらかつての戦勝国側にとって極めて不都合な真実となる歴史にも皆が謙虚さをもって向かい合うこと、そして経緯を考えれば
直接の加害者であるドイツの責任だけでなく、ユダヤ難民に酷く冷淡で拒み続けていた英国と米国、更にはフランスさえも
共犯であり合作だと言えるホロコーストという人道への罪を繰り返さないために、平和と人道への罪という理由付けで
そのまま彼らの手で処刑された日本側の面々ですら多くを匿い救う事の出来ていたユダヤ人達の話は、今もかの国には有りがちな
二枚舌の言い訳とダブルスタンダードと、この問題の奥底に深く存在していた原罪のすり替えを許す事なく
忌憚なく語られてこそ、これからも世界で共有されて考察されるべき大切な歴史案件になるのだと思われます。
>>33
去年なくなったおじいさんの階級は?
海大出で去年なくなったというなら中佐だったんじゃない?
もしかしたら存命だった海大出身者&中佐の最後の一人だったかもね ______ ______
r' ,v^v^v^v^v^il / ヽ
l / jニニコ iニニ!. / へ き 嫌 l
i~^' fエ:エi fエエ)Fi ! イ れ 日 l
ヽr > V ! ト い は l
l !ー―‐r l <. ! な l
__,.r-‐人 `ー―' ノ_ ヽ /
ノ ! ! ゙ー‐-- ̄--‐'"ハ ~^i \_ _ノ
ヽ ! ヽ、_ _.ノ i \  ̄ ̄ ̄ ̄
ヾV / ! /.入
きれいなジャイアン
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
司馬と会津プロパガンダの嘘つき m9(´Д`)
韓国ネットユーザーの反応 「日本の支配から解放された直後のソウルの姿を見てみよう」 日帝支配を写真で比較
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/45577482.html
日帝・使用前 (日韓併合前のソウル)
↓
日帝・使用後 (解放直後のソウル)35年間の成果
2. 韓国人
ファックwwwwww
3. 韓国人
これが歴史の時間に習った、厳しい収奪で地獄のような弾圧をを受けて暮らした日帝時代のヘル朝鮮の姿なのか…
28. 韓国人
35年間の近代教育を無視することはできない
62. 韓国人
このようなものは、日本に感謝しなければならないのでは?
86. 韓国人
数十年間洗脳教育を受け「日帝時代=朝鮮の呪い」と学んだ俺の信仰を害する写真である。 すぐに削除するように
アップするのであれば、強制徴用や慰安婦の写真だけにしておけ 関東の太平洋沿岸の町で生まれた親父の話です
戦争当時小学生だった父は浜辺で婦人会の人達が竹槍訓練をしているのを見たそうです
現場は遮蔽物など何もない開けた砂浜なのでそんな所で竹槍構えていたら
敵に銃撃されてすぐに全滅だと思いますが
あの当時はみんなまともな判断ができなかったんでしょうね
>>46
まあ竹槍訓練すること自体がアレだからな。
俺の父親(大正12年生)が満州在住で関東軍に召集され、敗戦間際丘に自軍が居て
周りをソ連の戦車が取り囲んで、打開できるわけ無いのに何人かは粗末な爆弾抱えて
(「アンパン」のような立派なものではない)戦車の下に突っ込んで自爆したが
戦車はちょっと揺れるだけで何事もなかったかのように動いていたと。 >>47
自己レス。細かいが大正14年生まれの間違いねw 戦時中じゃないけどちょっとタイムリーだから投下させて。
俺もいい年になっちゃったけど、
うちの親は戦前生まれで戦時中はぎりぎり子供で戦争行ってない。
ただ、当時を生きただけあって戦争と言う物は良くわかっていて、
戦後、激しく学生運動に参加。
学生運動でありながら反共反左で反戦。
毎日学生運動に明け暮れた結果、特高にマークされ、
就職活動は全て妨害が入り就職できなかった。
ちょうど今話題の、
学生運動すると就職できなくなる話題のリアルバージョン
結果、教員の資格を取り、
なんとか電気も通じてない山奥の学校の採用を受けれた。
教員になってからも、反日教組でストライキも不参加、
反日教組の癖に反戦だからって君が代不起立。
結果、昇進試験は一生受けれず
教員でない今も孫の入学式は君が代不起立
こんな話自分から話す訳もなく、
残業が多かった俺にそんなに残業あるわけないと文句言ってきた時、
一生公務員だったやつにはわからない!的な事を言ったら、
俺だって好きで公務員やってたんじゃねぇ!って言い返されたから
俺も若かったな・・
■動画
元駐ウクライナ大使 「じつは日本のテレビ界に『外国人』が入り込んでいるんですね…」
馬渕:実は日本のテレビ界に外国人が入り込んでるんですね。これは私自身も経験しました。私の知り合いとまでいかないですが知っているある、はっきり言えば在日の方がね
「息子がNHKに入りました」と喜んでおられたんです。僕はその頃はまだそんなにNHKでも(そういう例が)目立たなかったんで、粋な事をやるもんだと思ったんですが
今そういう事の影響が凄く出てきていると思うんです。
渡部:反日の在日系の人、あるいはその手のまわってる人が非常に高い地位にいっぱい居る様な気がするんですよ。
馬渕:そうですね。そこで思ったのは米国は確か私が聞いてる範囲ではTV局には外国人は入れないと聞いています。それは公共のいかに民間放送とはいえ公共の電波ですから
それを外国人が牛耳るのはおかしい。だから日本も本当はそうすべきです。でもすぐにそうすることが無理なら少なくとも本名で仕事はしてもらう。
渡部:そうなんです。それでも日本に忠誠を誓えば良いんですけどね、その忠誠が日本に向いてなくて日本悪しかれという気持ちが働くんですよね。
馬渕:そうです。だから私はもう韓国人がどうだとか中国人がどうだと言う前に日本の公共のテレビですから、テレビ電波ってのは公共の物だから日本人であるべきだと
職員は日本人とすべきだと思います。日本名を語って出自を隠すのはやめるべきだと。
渡部:そうです。それから特に政治家も含めて公職に就く人は全部プライバシーがないと思って貰わないといけないです。
馬渕:そうですね。ですからやはり選挙公報にいつ何々帰化したってのは書くべきです。ご承知の様に国会議員は日本国籍を持ってないとなれませんから。だけども一世の人もなってる訳ですね。
渡部:私は更に言えば、オバマさんなんかも親・先祖みな(ルーツが)辿って放送にも新聞にも出るじゃないですか。だから三代目くらい迄は出すべきだと思う。公の人と公務員は。
でないと日本は本当に(冗談抜きに)食い散らかされてしまう。
馬渕:日本の場合政治家で在日から日本国籍をとって即国会議員になった人も居るわけですね。でもそれは自分が元在日だったというのは隠しておられるんです。それはおかしいと。
渡部:僕は三代まで遡る、三代くらい迄遡らないと駄目だと思うんです。もっと遡っても危ないのは朝日新聞で急に親中に傾いた社長がね、自分は中国系であることをポロッと洩らした事がある。
恐ろしい事です。例えばNHKの台湾の問題で日台戦争があったなんて、こんなのは誰も聞いた事がないです。それを描いたのは誰か、馬鹿でも良いんだけどそれをTVに撮った奴は誰かと言うと
その系統に決まってるんですよ。
馬渕:そうです。だからそう言う意味でも本名で、私はTV局は外国人は入るべきでないと思いますけど、すぐ無理なら本名に変えさせると、日本名では仕事をするなと
日本名でそれは要するに騙してる訳ですから、日本人の警戒心を解く為にやってる。それは悪意をもってやってると言わざるを得ないですよね。
だからおよそジャーナリズム界に入るとか選挙に出るとかその時はハッキリさせるべきですよね。
逆にはっきりさせない事が私は差別だと思っているんです。逆になぜ本名では出来ないんですかと私はそう言いたいんです。それは自らが自らを隠している、自らを貶めている差別しているんではないかと。
だから堂々と本名で仕事して下さいという事だと思います。
渡部:台湾系の人はわりと隠しませんね。あれはどちらかと言えば台湾系の人は下心がないと言っても良いんですかね。
馬渕:そうだと思います。堂々と本名でいってそういう心がないから、かえって自分に自信があるんだと思いますよ。 親父が住んでいた所は田舎町だったので
戦争が終わっても特に米軍が進駐してくるということはありませんでした
それでも一度だけGIが来たことがあったそうです
町で一番大きな病院にきたそうです
GIが子供にお菓子をくれるとという噂は親父達も聞いていたので
友達と一緒におっかなびっくりで病院の前にとまっているジープに近づきました
するとGIは親父達に一枚ずつガムをくれたそうです
なんの用事でGIがきたのかはわからないそうです
ご先祖様は戊辰戦争戦ったんだぞ!
その話は小さい頃よく聞いた。
もっとも爺さんは俺が子供のころ死んだ。
亡くなる前にちょっと踏み込んだ話を聞いたが、
小学生の頃だし歴史になんか興味を持つ以前の事なので、
何となくうろ覚えしてた。
話と言うのは、
ご先祖様・・といっても、爺さんの爺さんなんだけど
江戸の市内取り締まりをしてて、薩摩屋敷砲撃したとの事。
今何気なく思い出して調べたら、政治的な前段階はあるにせよ、
実力行使で戊辰戦争の発端になった江戸の薩摩藩士包囲攻撃ってこれじゃないか!
爺さんの爺さんが戊辰戦争おこしたと思ったら複雑だわ
しかも最初に屋敷に入ってるし・・・
>>52
うちの婆ちゃんの家もド田舎なので進駐軍の駐留とかはなく、
ジープ2台で一度来ただけだが、婆ちゃんの家の前まで来ると一人が大声出して
ジープが急に止まり、米兵達がジープ降りて、難しい顔をしながら
婆ちゃんの家の門前辺りを指さして話し込み始めた。
土蔵の2階に隠れて、小さな窓から見ていた婆ちゃんはドキドキだったそうだ。
原因は、その地方ならどこにでも咲いている赤いケシの花
翌日「道端のケシを抜け」と村役場からお達しが来て、みんなで訳もわからず
抜いたそうだ。ケシは強いから翌年は元通り生えてきたそうだけどね。
多分、そちらに行ったのも「感染症が流行っていないか」
「結核患者はどれぐらいいるか」等の衛生管理が目的だった可能性が高いと思われ
特に当時の日本は結核患者の数が多くて、GHQも進駐軍に感染する事を恐れて
結核患者の数が増えていないか常にチェックしていたから、
病院に行ったならその関係の調査の可能性が高い 爺ちゃんは戦争中子供で行く事はないけど、
毎日食べ物が家にあるわけではなく、畑あさったり魚取りに行ったり
子供ながら食糧は自分で得る生活でつらかったと言っていたが、
婆ちゃんは、近所から色々分けてもらったし
家にお手伝いさんいたり、特に苦労した事はなかったみたい。
結婚時は身分の違いでものすごく反対されたそうだ
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ヽ:::::::\| l::::::::::::::::... / :::.ゝ` ̄ ̄/ / ヽ
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l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l | |
http://y2u.be/z2qK2lhk9O0 終戦時に小学二年だった親父に墨塗り教科書について聞いてみた
教科書に墨をぬったの?と聞いたら
最初はなんの話のわからない様子でした
そして教科書の話だといったら
墨塗りでは無くて先生が手書きのガリ版で藁半紙に印刷した紙を
教科書がわりにして授業を受けたそうです
小学校低学年だったからでしょうかね
うちの祖父は太平洋戦争時、空母赤城に乗ってたんだけど、
どーしても気になる話がひとつある。
真珠湾だったか他の攻撃だったか分からないんだけど、
撤退時、1隻だけものすごく走るのが遅い艦があったんだって。
けどその艦に合わせてたら反撃くらってしまうからって、
「貴艦の幸運を祈る!」つって泣く泣くその艦残して先に帰った。
恐らくダメだろうなと思ってたけど、その数日後、その艦は無傷で無事帰ってきた。
っていう話なんだけど、史実調べてもそれっぽい話が見つからないんだよなぁ。
祖父は残念ながらもうだいぶ前に亡くなってしまって、父が祖父から聞いた話を
又聞きしてるだけなんで、空母だったって言ってた気がする、とか言ってたけど
それもあいまい…。
朝鮮半島より渡航記録 (1925年-1926年) ( 新聞各社報道 / 大阪朝日新聞 大阪毎日新聞 朝鮮朝日 福岡日日新聞 京城日報 中国新聞 )
・『巧妙な鮮人の密航/当局も取締りに悩まさる』 京城日報 1925/5/15 〔3/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人労働者を内地へ密航させる/大仕掛な企て暴露』 京城日報 1925/5/21 〔3/6〕 ・朝鮮 【渡航】
・『四十二名の密航者検挙/第一回の小手調べ/募集人は厳重処分』 京城日報 1925/10/11 夕 〔5/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『労働者釣りの悪玉縮み上る/密航者は次第に減少の傾向がある』 京城日報 1925/10/16 〔6/1〕 慶南・朝鮮 【渡航】
・『鮮人丗五六名を乗せた奇怪な密航船来る/白木署に上陸して行衛不明/其筋では頗る重大視(門司市)』 福岡日日新聞 1926/3/12 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『小発動機船で鮮人の密航団/三十名釜山から門司に上陸し行方を晦す』 大阪毎日新聞 1926/3/14 夕 〔2/5〕 門司・福岡 【渡航】
・『長さ四間の発動機船で/鮮人三十余名密航す/氏名も目的も行先も判らぬ/時節柄厳戒を加ふ』 中国新聞 1926/3/14 〔〕 門司・福岡 【渡航】
・『密航鮮人一部発見さる/小倉駅頭にて(小倉市)』 福岡日日新聞 1926/3/14 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航】
・『鮮人密航団を発見/同勢三十六名の内/十六名を捕へて送還』 中国新聞 1926/3/23 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日新聞 1926/4/7 朝鮮朝日 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『大胆な鮮人団帆船で密航/玄海を横切って鐘崎へ/福岡署に知れて取調らる(宗像郡岬村)』 福岡日日新聞 1926/4/11 夕 〔1/2〕 宗像郡・福岡 【渡航】
・『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日新聞 1926/4/13 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『密航団鮮人取押へらる』 大阪毎日新聞 1926/4/16 〔11/7〕 門司・福岡 【渡航】
・『七十余名の密航船/下関で発見』 京城日報 1926/4/17 〔3/3〕 下関・山口 【渡航】
・『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日新聞 1926/4/17 朝鮮朝日 〔〕 宇和島・愛媛 【渡航】
朝鮮半島より渡航記録 (1926年-1926年) ( 新聞各社報道 / 大阪朝日新聞 神戸新聞 朝鮮朝日 福岡日日新聞 京城日報 京都日出新聞 中国新聞 )
・『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日新聞 1926/4/24 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日新聞 1926/4/29 〔5/9〕 下関・山口 【渡航】
・『又も鮮人の密航団/山口へ六十名』 福岡日日新聞 1926/4/29 〔1/2〕 山口・山口 【渡航】
・『六十名の密航団/山口県の北海岸で発見』 京城日報 1926/4/30 夕 〔2/4〕 ・山口 【渡航】
・『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県三百名(東宮行啓を控え県警察部は漫然渡航者を乗船地で阻止しているが密航を企てる者も増加。大津郡深川村に60名上陸』 京都日出新聞 1926/4/30 長門・山口
・『大密航バレる』 大阪朝日 1926/5/1 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『鮮人が帆船で渡っても密航でない、つまらぬ取締りをされては思想上面白くないと朝鮮総督府から横槍』 神戸新聞 1926/5/3 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【社会】
・『又も糸島に密航団/朝鮮から渡航六十余名(糸島郡芥屋村)』 福岡日日新聞 1926/5/4 〔1/2〕 糸島郡・福岡 【渡航】
・『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日新聞 1926/5/5 広島 〔〕 ・山口 【渡航】
・『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日新聞 1926/5/20 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『二十余名の密航者団逮捕/下関水陸両署活動/時節柄とて重大視す』 中国新聞 1926/5/26 〔〕 下関・山口 【渡航】
・『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日新聞 1926/5/28 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪しい鮮人密航者/夜陰に乗じ門司海岸に上陸/大部分を取押へ取調中』 神戸新聞 1926/5/29 〔8/4〕 門司・福岡 【社会】
・『大里に又密航団/十九名の鮮人(門司市)』 福岡日日新聞 1926/5/29 〔1/2〕 北九州・福岡 【渡航】
・『密航鮮人団逮捕/募集した鮮人男女を/売り飛ばすつもり』 中国新聞 1926/6/6 〔〕 徳山・山口 【渡航】
朝鮮半島より渡航記録 (1926年-1927年) ( 新聞各社報道 / 大阪朝日新聞 大阪毎日新聞 神戸新聞 朝鮮朝日 福岡日日新聞 京城日報 九州日報 )
・『密航者体裸で泳ぐ/鮮人が陸岸目蒐けて/泳ぎ上つた処を引捕ふ(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日新聞 1926/6/12 〔1/2〕 遠賀郡・福岡 【渡航】
・『鮮人青年が密航企つ/上海から乗船』 神戸新聞 1926/6/20 〔8/10〕 神戸・兵庫 【社会】
・『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日新聞 1926/8/14 朝鮮朝日 〔〕 ・朝鮮 【渡航】
・『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日新聞 1926/8/25 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日新聞 1926/10/6 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日新聞 1926/11/17 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『朝鮮から五六十名/御大喪に参列さしたい/不逞団の取締は厳重にする/湯浅総監下関で語る(浦塩或は上海方面から密航、十分警戒)』 大阪毎日新聞 1927/1/15 朝鮮 〔9/2〕 下関・山口 【警備】
・『警備船で密航者取締』 京城日報 1927/2/24 〔6/3〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『三名の鮮人怪漢繋留中の発動船を盗み出す/機関長を脅迫して運転を初め舵を操り沖合に逃げ去る(内地密航鮮人の所為と睨み厳重捜査中)』 大阪毎日新聞 1927/3/2 朝鮮 〔9/3〕 釜山・朝鮮
・『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日新聞 1927/3/3 朝鮮朝日 〔〕 豊浦・山口 【渡航】
・『六十名の密航鮮人/下関吉見海岸に上陸(山口県吉見村)』 九州日報 1927/3/7 〔1/5〕 下関・山口 【渡航】
・『鮮人丗四名内地へ密航途中暴風にあひ対馬に漂着す』 大阪毎日新聞 1927/3/8 朝鮮 〔9/7〕 釜山・朝鮮 【渡航】
・『怪帆船の中から百名の密航者現はる/下関市外吉見海岸で発見され釜山へ送還さる』 京城日報 1927/3/9 〔7/5〕 下関・山口 【渡航】
・『密航発覚頻々(吉見村)』 大阪毎日新聞 1927/3/11 朝鮮 〔9/8〕 ・山口 【渡航】
・『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日新聞 1927/4/9 朝鮮朝日 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり
斗南藩史の作者である葛西冨夫は
「飼い犬に足を噛まれるとはこのこと……
会津戦争に追いうちをかけられたようなこの一揆は
敗戦にうちひしがれた会津藩士にとって
大きなショックであったろう」と記している。
何なの?会津系の奴って。領民を犬くらいにしか見てないのか!
会津が最終的に領民から見放されたのがよく解るわ!
>>59 うちの爺さんも空母に乗ってたらしいけど、
潜水艦を追い掛け回してた。とか、艦隊から迷子になったとか、
味方の迷子船を捜してたとかって話を聴かされたんだけど、
ほんとにあったのかしらん?
有名どころの空母の史実にそんなのなかったぜ。 ◆台湾人の顔面
淡褐色、広鼻、突顎、タラコ唇
ラオスっぽいような、ポリネシアっぽいような、
つか、ハノイですね〜
実にハノイ!
1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな
◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA 池田屋事件直後の元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので、すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し、会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。
原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという記載が全くなく
そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に、古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと突然「御所放火」が登場することを指摘する。
つまり長州が京に放火して天皇を拐うというのは
会津・新撰組によるでっちあげ。
近代、現代だけでなく、当時からせこい工作やってるのが会津だよ。
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津人による捕虜虐待、捕虜惨殺の記録。
会津プロパガンダで長州を加害者に仕立て
会津を被害者に仕立ててるが
実の加害者は会津だった!!!
会津プロパガンダで被害者に成り済ましてるクズ!
反日プロパガンダと同じじゃないか!
会津は日本の特亜!支那朝鮮と変わりない!
会津藩兵による草莽の志士への襲撃も行われた。
殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き
身の危険を感じて故郷から脱出した。
しかし旧水原代官領に住む草莽の志士
三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が
進駐して来ても留まっていたが
三月に会津藩兵の襲撃を受けて
殺害されてしまう。
(水原町編年史第一巻)
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所は
こうした行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。
(新潟市史通史編3)
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史
個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が
町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)
武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や
衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、
百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)
金銭や食糧の徴発以外にも
小千谷等の戦場が近い村々では
農兵の取立てが行われた。
半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を
強引に奪われただけでは済まず
農兵の食料までもが村々から取り立てられ
村々は二重の負担に苦しむ事になる。
何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して
正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に徴募された農兵は
「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」や『竹槍』で
小銃を装備した新政府軍に挑まされ事になる。
しかしこのような農兵の士気が上がる筈がなく
戦いが始まれば一目散に逃げた模様である。
(小千谷市史下巻)
会津を貶めたいようだがこんな連続コピペは逆効果だとわからんのかね。
『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな?
◆台湾人の顔面
淡褐色、広鼻、突顎、タラコ唇
ラオスっぽいような、ポリネシアっぽいような、
つか、ハノイですね〜
実にハノイ!
白虎隊のことを再確認するためにも、まず白虎隊記念館に立ち寄る。
館内には、史料1万2千点が所狭しと展示されている (有料)。
「会津藩は勤皇なり」の意味も理解できよう。
第2次世界大戦で、奈良と京都と共に、なぜ会津への空爆を
アメリカ軍が避けたのかも納得できるであろう。
http://www.aizue.net/index.html
これ米軍に確認とってるの?
史料があるから避けたんだってて脳内解決だろ(笑)
会津プロパガンダ洗脳者とか制作者って
何で脳内解決しかしないの?
あとさ、会津も新潟爆撃で余った爆撃
落とされてなかったか? 会津の偽金
山川は、会津へ帰ると、すぐに軍事会計の
総裁に抜擢された。長く京都の守護に
当たっていた会津藩の財政は逼迫しており
戦争など出来ないほどに苦しかったのだ。
山川は、この財政状態から抜けだし、
軍資金をひねり出す大役を
果たさなければならなかった。
ここで山川は一つの失敗を犯す事になる。
京都で、会津藩は藩費の不足を充填する為に
幕府に金銀貨鋳造の特許を申し入れ
許可されていた。山川はそれを思いだし
貨幣鋳造を進言し採用となるのである。
会津藩の軍用金は、この金によって
補強されたが、それは後に
「会津藩の偽金作り」と言われ
貨幣価値の暴落を招き
庶民は生活の苦しさから
ヤーヤー一揆を引き起こしてしまうのである。
会津が郡山で放火や略奪をした史料です
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合 併40年記念号
英国公使館員の維新戦争見聞記
■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。
◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。
会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。
馬に乗った皇女と見つめ合う元藩主の孫、それで何かが始まった?
チョンの恥知らず従軍慰安婦どもが、熊本地震に寄付する、しないとかワメいているそうだなw
世界中でウソ捏造が暴露して、民衆の反発がヒドイので、必死で「いい人ぶりっ子」ww
しっかし、この売春ババアどもは、自分たちの年齢が「第2次世界大戦」当時に
合致しない、と気づかないんだなww
日本人の当時の乙女、幼女は高齢化で極端に減少し、「戦争を語り継ぐ会」も
次々に解散している。
超長寿国の日本ですら、戦争体験者は極、少数だ。
チョンの奸国は、日本ほどの長寿国ではない!!!!
かなり短い!
それでもなお、売春婦がゴマンと生き残っているということは????
そう、聡明なおまえらが感づいている通りだ。
捏造なのだ!!!!
朝鮮戦争時のアメリカ軍や北にすりよって、春を鬻(ひさ)いだ
恥知らず女どもが、金が欲しくて詐欺に走ったのだ!!!!
売春婦どもの証言には
1)「ジープで連れ去られた」=日本には第2次大戦当時、ジープはなかった。あるのは
馬1頭立ての輜重車だった。
2)「ヘリで」=ヘリなどは日本軍には発想すらなかった。
3)「機関銃で脅されて」=日本軍の機関銃は軽機関銃でも大きく重く、数人で設置して
使用するものだった。数も少なく、弾丸は希少だった。売春婦ごときの威嚇に使われたのは、
軽量で持ち歩けるアメリカ軍の「トムソン」であったのは明白だ。
その従軍慰安婦とやらがのさばる原因になったのは山口の労務報国会下関支部のウソツキ吉田清治で
その従軍慰安婦とやらを大事大事にしてやってるのが山口下関の安倍晋三な件。
734 公共放送名無しさん sage ▼ New! 2016/06/10(金) 02:49:23.20 ID:eYIS9Mxs [3回目]
明治生まれの俺の爺ちゃんが
子供の頃に麹町区、今でいう九段坂で、なんかの式典があってそこで見たことあるって言ってたな斎藤さん
>>99
斎藤一?明治生まれだと、偉人にあった事がある人が割りといるよね。
あの写真のような顔だったのか知りたい… 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長
もう亡くなったお婆ちゃんから、曾々祖父さんが近藤勇のお小姓やってたって聞かされたな。
誠の旗も飾ってあったけど、あれは当時のじゃないよって言ってた。
最後は北海道で亡くなったそうだけど、北海道で戦死したわけじゃないよっつってたから屯田兵にでもなったんだろうか
神戸の中学に通っていた俺の爺ちゃん、同級生が甲子園ホテルでボーイのバイトをしたら進駐軍のアメリカ女と一発できたという自慢話を聞き、死に物狂いで英語を勉強してドアボーイとして採用。
三か月働いたが、一発もやれず童貞のまま辞めました。
その後、学制変更で中学校が高校になり神戸大に進学、語学力を買われ共同通信に入社、平凡な人生を終えました。
その孫の俺、魔法が使える年齢になりました。
10年前に他界した、うちの爺さんは、中国行ってた。カメラ持っていってたから、戦地の写真が沢山残ってて、転戦を辿れた。子どもの時、田舎に行くと毎回写真の説明された。今となっては録音すべきだったと後悔。
あまり、考えないようにしてたけど、やっぱ人殺したんだよなあって、ちょっとかなしくなる。
ちなみに、この戦地の写真って貴重かね?他界した後に、母が持ち帰ってきたて実家にあるのだが。あと軍人手帳は、まだ生きてる婆さんが渡すの渋った。
うちは戊辰戦争しか参加してないよ。
戊辰戦争の時に既に40歳の壮年兵。
砲術小隊って書いてるから、遠方で大砲撃ってたんじゃないかな。
その息子が45くらいの時に日露戦争だったが徴兵の年齢制限を上回ってセーフ
その孫が48歳で太平洋戦争でこれも徴兵の年齢制限を上回ってセーフ
そのひ孫の世代はもう日本は戦争やってない
以降、平和な日本が続く
もう、自分は40越えたから、例え徴兵制になっても、兵隊になることはないけど、まだ小学生の息子は、ひょっとしたらと思うと胸が痛い。昔の親達の苦悩が忍ばれる。。。
80年前はほとんどの国で徴兵制が行われていて
「男は徴兵の試練がある、女は出産の試練がある」と考えるのが
当たり前の時代だからな
戦時中にウチは馬を一頭徴用されたみたいです。あの時代に馬を持ってる農家はかなり金持ちですよね?
僕の予想ではウチは武士の子孫だと思います。江戸時代に数代襲名してるので間違いないです。
>>113
馬は乗馬用なら中級以上の武士を連想させるし、農耕用なら自作農以上の農民ってところ。
世襲名自体は富農程度でもやってる。例えばうちがそう。酒蔵だった。 我が家もごく普通の農家だったけど、農耕馬いたよ。何頭も飼っていたなら豪農だろうけど
徴兵制がどうのと言ってる人は多いけど、むしろ懸念すべきなのは、すぐ隣に侵略国家がある現状で
戦争反対反対とやかましくわめくことによって国の自衛が疎かになり、戦場が国内にやってきて
民間人として被害に遭う方なんだけどね。
本当に迷惑だからいい加減にしてほしいわ。凜略上等の隣国は我が国より貧しいから、無防備だと
富を奪うために平気で戦争を仕掛けて来かねん。実際サンゴとかゴッソリ奪われただろうに。
戦前の東日本の農家なら、農耕馬を飼っていて当たり前
馬は運搬用の軽トラック・トラクター・堆肥製造・現金収入源(仔馬を産むから)
を兼ねる、農家にはなくてはならない必需品。西日本だと馬より牛が多いが
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl >>119
grec○_se15000さん2015/11/20 23:46:35
私の記憶だと、戦後日本に残った
朝鮮人が245人だったと思います。
この朝鮮人達は、朝鮮半島が日本だった
頃から日本に住んでいるので、私個人は
永住してもいいように思ってます。
法的な事は解りませんが。 第二次世界大戦で、じいちゃんはゲリラ活動中の金日成を追ってたらしい。
やっと見つけた金日成に向かって一斉射撃したけど、逃げられたって。
「あの野郎、あのとき殺しておけば」
って、北朝鮮関連のニュース見ながら呟いてて、まじで驚愕戦慄した。
>>122 一味ねだやしにしなければ、手下の一人が金日成襲名 >>123-124
殺しておけば実際どうなったかって話じゃなくて、歴史の証人がこんな身近に!って驚きね。
晩年、龍馬暗殺を告白した渡辺某の家族もこんな気持ちだったのかなーみたいな。 >>125
そうだよね。ほんと凄い話だと思う。俺の父親(大正14年生まれ)には残念ながら
そんな話は無かったなぁ。あ、歴史上の人物じゃないけど某国営放送の解説委員で
政治部長にまでなった人物が旧制中学の同級生で配属将校に下僕のように媚びまくって、
(信長に対する秀吉みたいに、配属将校が靴を脱ごうとするとき、速攻に寄って行って
ゲートルを解いてやったりねw)いたということを聞かされたくらいかな。 金日成追ってたじいちゃん。
あと、新兵で中国のどっかに派遣されたとき、度胸をつけるためと称して、なんの罪もない中国人を銃剣で殺すように命令されたんだって。
周りでその男の家族が泣いて命乞いするなか、命令に従わざるを得なかったって。
あれは心底辛かった、と。
狂気だよね、本当に。
もう誰も見てないかな。
父方母方の先祖達の話を色々聞いたから、書き込みたい。
ちなみに2ちゃん書き込むの初めてなので、変なとこあったらすみません。
母方の曽祖父母の話。
明治の人で、曽祖父亡き後、ひとり残っていた曽祖母が亡くなった後、日記や手紙などから祖父らも知らなかった曽祖父母の来歴が分かったらしい。
祖父達が信じてた曽祖父母の過去は「九州から進学のため上京した曽祖父が、遠縁の曽祖母と親戚の世話で結婚し、東京で所帯を持ち、卒業し就職した」というもの。
でも本当は九州で地方役人の夫と子供のいた曽祖母は、うだつの上がらない夫より書生だった曽祖父の有望さに賭ける気になり、何もかも捨てて7歳年下の曽祖父と東京に駆け落ち。
東京の学校に曽祖父を入れて曽祖母が稼ぎながら卒業させ、判事にさせた、というのが真相だったらしい…。
ちなみに祖父ら子供達は、曽祖母は曽祖父より3歳年下だと聞いてたらしい。サバ読むひいばあちゃんがちょっと可愛い。
母親が結婚前に亡くなったので私は会ったことはないけど、亡くなる直前まで、ピンと背筋を伸ばしてハキハキ物を言う、気の強い人だったらしい。
祖父曰く、「明治生まれの女の胆力は凄まじいからなぁ」だそうな。
父方の先祖の話。
曽祖父は孝と言うが、孝の親の話。
孝の父親は寅次郎と言い、村のお巡りさんだった。
犯人逮捕の賞状や立派なお墓なんかがあり、孝も写真や故人にまつわる物が多く残されていたから、この2人の親子関係をみな信じていた。
けれど本当は、孝と寅次郎の関係は父子ではなく、祖父と孫だった。
寅次郎には娘が2人しかおらず、長女に遠方から婿を取ったそうだ。
長女は孝を生むが、産後が思わしくなく、他界した。
昔の風習で、次女が婿と結婚し、孝を育てることになったが、その前に易者に結婚の良し悪しを占ってもらったそうだ。
すると「干支の回りが良くない」という結果が出て、寅次郎はそれを信じたらしい。
婿は実家に帰ることになり、孝は次女が独身のまま育てることになった。
両親不在と言う理由から、孝は祖父である寅次郎の養子となって、育ったようだ。
婿のことは、寺にも当然墓にも記録が残ってないし、うちにも手紙のひとつも残されてない。
なので今となってはどこの人なのか、名前は何か、ということすら分からなくなってしまった。
祖父の葬式の席で、祖父の妹である大叔母に聞いた話です。
この話は祖父も祖父の弟も、誰も知らなかったらしい。
大叔母はその話を大叔母(孝を育てた寅次郎の次女)から、家の歴史として他所に嫁ぐ際に聞いたらしいです。
その話を聞いた時、父親が驚きすぎてギックリ腰になったのはダブルで衝撃的だった…。
お婿さんカワイソス
この孝さん(曽祖父)の嫁取りにまた色々話があるんだけど、またの機会があれば書き込みます。
大正の終わり頃、俺の爺さんは大学生で、旧大名の伯爵家の書生をしていた。
常に書生が3名ほど、女中さんが数名、執事と運転手がいたそうだ。
書生は子供達に家庭教師したり、庭仕事など力仕事をやる他に、
伯爵家の護衛係でもあるので、みな体格が良かった。
伯爵様は貴族院議員だったので、自宅に政治家がよく来た。
政治家が来ると、茶を出すのは書生の役目で、女中は客間に
入れなかった。話が外に漏れるのを警戒したんだろうな。
世相を反映して右翼みたいのも来たそうだ。その時は警棒や目つぶしを
学生服に仕込んで、皆で部屋の中で控える。右翼が子爵様を威嚇する
ような事を言うと、黙ったまま全力で右翼を睨みつける。
それから20年後、戦争が激しくなると、伯爵夫妻が女中一人を連れて
3人で我が家の離れに疎開して来た。伯爵様が女中を呼ぶ時の
カン高い「きーわー」という声が、時代掛かっていて可笑しくて、
親父たち兄弟は声マネをして、祖父に叱られた。
訪問先のお婆さん(大正4年生まれ)から聞いた話。
農家の女が初めてタクシーに乗る時=嫁入りの時 だったそうな。
今の子供たちは爺さん婆さんから戦争の話を聞くこともないんだよなぁ
俺が高校に進学したときに爺さんが新兵苛めで苦労した話をして激励?してくれたのが懐かしい
戦時中に半島に赴任していた爺ちゃんによると
朝鮮の人たちは色々物をくれてやさしかったそうだ
政府への矛先をそらすため反日教育を推進した韓国政府と
それに対してすぐに反論しなかった日本政府の対応を嘆いていた
たぶn日本の土着民も朝鮮の土着民も似たようなもんだったと思う
そこにアラブから凶暴な氏族がやってきた
まず朝鮮半島で土着民を奴隷にして王族をやって
そこを唐に追われると、日本にやってきて天皇を名乗る
日本の土着民を身分制度の最下層の農奴に追いやり
歯向かう奴の首を片っ端から切り落として家畜やペットのように
大人しい品種に変えていった
日本人が世界的にみて従順で大人しいのは天皇による激しい圧政があったことを物語る
そのアラブからやってきたというのは
あるときは長州の部落民
あるときは新羅や百済の王族
あるときは秦氏
あるときは祭祀族
しかしてその正体は、スファラディ・ユダヤ人だ
日本に神社を広めたのはそのユダヤ人
日本の土着民はずっと農奴にされていて
自分の田畑を持てたのは実に70年前のGHQの農地改革のおかげ
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
痛みを感じにくい特異体質で、新兵イジメで木刀で尻を何度も叩かれても平気な顔してたら
尻の皮が破れて肉が出てきたらしくて、それでもちょっと痛いな、と感じる程度で、早く飯食いたいわーって思ってたら
これだけ打たれても声一つも出さずに涼しい顔してるとは根性のある奴だなって評価されたらしい
昔は、セムシの奴が学年に1人はいたな
電車乗っても、セムシのおっさんとか結構いた。
セムシというか、くる病なんだろうけど。
今は全く見なくなった。
でかいタンコブ付けてるおっさんも多かったな。
それから脱腸で、腰から袋でつり下げているおっさんも
少なからずいた。
ハゲてるおっさんの半分ぐらいは、中曽根首相みたいに、
鬢の系を伸ばして1:9分けやってた。
あの髪形の正式名称は何と言うんだろう?
今はほとんど見ないな
カツラが進化したからかな?
今から30年以上前の吉田松陰という本では
玉木文之進の息子 玉木彦助は俗論派として処刑されたって書いてある。
今から30年以上前の吉田松陰という本では
玉木文之進の息子 玉木彦助は俗論派として処刑されたって書いてある。
元集団疎開児が戦争体験語る10/28 12:40nhk
子どもたちに戦争の恐ろしさや平和の大切さを学んでもらおうと鳥取市の小学校で、太平洋戦争末期に神戸市から鳥取市に集団疎開した84歳の男性が、戦争体験を語る授業が行われました。
この授業は、戦争を体験した世代が高齢化するなか、戦争の恐ろしさや平和の大切さを子どもたちに語り伝えていこうと、鳥取市の湖南学園が行ったもので、6年生の14人が参加しました。
授業でははじめに、太平洋戦争末期の昭和19年には神戸市からおよそ2500人の子どもたちが県内に集団疎開したことが紹介されました。
そして実際に鳥取市に疎開した神戸市の森口武彦さん(84歳)が疎開中はあまり食料がなかったのでイナゴを捕って食べるなどしてひもじさを乗り切ったことや、夜になると家族が恋しくなって泣いたことなど戦時中の体験を語りました。
その上で森口さんは、「自分のような苦しい目にはあって欲しくないので、戦争のない世の中を作って欲しい」と子どもたちにメッセージを贈りました。
授業を受けた男の子は、「戦争の話はこれまで直接聞いたことがなかったので話が聞けてよかったです。戦争はいけないことだと感じました」と話していました。
松江市戦没者追悼式11/01 09:33nhk
太平洋戦争などで亡くなった松江市出身の戦没者を追悼する式典が松江市で行われ、遺族が祈りをささげました。
追悼式は松江市出身の戦没者5152人を悼み、平和な世界を願って毎年、行われているもので、31日は遺族らおよそ220人が参列しました。
式では遺族を代表して松江市遺族連合会の古藤政宣会長(80)が「英霊が願われた平和を守り、明るく豊かな郷土を築きあげていくため、戦争の悲惨な体験を将来の世代に伝える努力をしていくことを誓います」と述べました。
このあと、参列者が1人ずつ祭壇に花を手向けて祈りをささげました。
自身が生まれる2か月前に父親が戦死したという角田一夫さん(73)は「この日が来るたびにおやじがどういう人だったか思いをはせながら、平和な世の中を作っていかなければならないと気持ちを新たにしています」と話していました。
また、2歳の時に父親を亡くした細田美惠子さん(75)は「子供を残して亡くなった父たちの苦しみが、私も人の親になってわかりました。平和を願う日としてこの式典をずっと続けてほしいです」と話していました。
松江市遺族連合会によりますと、松江市出身の戦没者の妻は現在およそ20人とこの10年間で10分の1に減り子供の世代も平均年齢が76歳と高齢化しているということで、今後、孫の会を結成し戦争の体験を継承していきたいとしています。
戦争の記録伝える展示会11/29 13:09nhk
戦争の悲惨さを多くの人に知ってもらおうと県内で集められた戦没者の遺品などを展示した企画展が松江市で開かれています。
これは戦争の悲惨さを知ってもらおうと島根大学が毎年開いているもので、会場の島根大学附属図書館には日中戦争や太平洋戦争の戦没者の遺品などおよそ90点が展示されています。
このうち、昭和12年に松江市雑賀町から中国に出征した山村栄吉さんの日記には、戦死する前日までの出来事が自筆でつづられ、当時の心境がうかがえます。
また、松江市内に住んでいた若者が出征する際に渡されたものだという日の丸に書かれた寄せ書きには、60人以上の名前が連なっていて、無事の帰りを祈った周囲の思いが見て取れます。
ほかにも戦時中に出版された雑誌の付録や、戦争体験がつづられた資料などが展示されていて、その時代に生きた人々の暮らしぶりや思いを学ぶことができます。
この展示会は島根大学付属図書館で来月22日まで開かれています。
赤紙を配って平和を訴える12/08 12:13nhk
12月8日は、76年前に旧日本軍がアメリカのハワイを攻撃して太平洋戦争に突入した日です。
松江市では母親など女性たちで作る団体が戦時中の召集令状であるいわゆる「赤紙」を再現したチラシを配って戦争反対を訴えました。
この活動は、戦時中、「赤紙」と呼ばれた軍への召集令状によって国民が戦場へ送り出されていった歴史を語り継ぎ、平和の尊さと戦争反対を訴えていこうと、母親など女性で作る団体が毎年、12月8日に全国各地で開いています。
松江市ではこの団体のメンバーなど10人あまりが朝の通勤や通学の時間にあわせて「赤紙」を再現したチラシおよそ600枚を配りました。
ことしのチラシは、核・ミサイル開発をめぐる北朝鮮情勢の緊迫化にも触れられたうえ、「戦争は人殺し以外のなにものでもなく、犠牲になるのは多くの国民です」などと書かれ、日本は憲法9条を守り平和外交に徹するよう呼びかけています。
活動を行った「島根県母親大会連絡会」の浜田倫子副会長は「命を生み出す母親は命を育て、命を守ることを願っています。命を奪う戦争は嫌だという一心で活動を続けていて、若い世代にも引き継いでいきたい」と話していました。
>>137
朱子学的に考えて当時の日本は朝鮮にとって「上位」だったからだと思うぞ
単に軍事的に強いというだけでなく儒教的な道徳的にも上位
今は日本は第二次の歴史に関して道徳的下位にあるので
日本が頭を下げて朝鮮に教えを乞うべきというのが朱子学的解釈。
事実はどうでもいいんだぞ。 ポルトガル領事から贈られた懐中時計2017年12月14日(木)更新itv
明治初期にポルトガル領事から当時の松山藩知事に贈られた懐中時計が見つかりました。
この18金の懐中時計は、明治4年、1871年にポルトガル領事ジョゼ・ロウレイロが長崎を訪れた際、
当時の松山藩知事久松勝成に贈ったものです。魚の鱗のような模様が施され、方位磁石と温度計が付いています。
今年3月、県歴史文化博物館が松山市在住のコレクターから寄贈されたのをきっかけに研究を進めた結果、
ポルトガル領事と松山藩知事との交友が明らかになりました。
懐中時計の内蓋にはそれぞれの名前と贈った年が刻まれていて歴史的背景が分かることから、価値が高いということです。
このほか久松家の家紋・星梅鉢もあしらわれたこの懐中時計は、今月19日から来年1月28日まで、西予市の県歴史文化博物館に展示されます。
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