皆さーん、おはよーございます
嵐さん、おはよー
相談王子さん、
早く、早く
俺の体おかしいよ
あそこが突然に硬くなって
朝起きたらパンツに
シロップが
やたら女が欲しくなった?
相談者の方も誰もいらっしゃらないようですので、勝手に書き込みます。
たぶん毒親と言われるような親の元で育った新社会人の者です。
自分の境遇や現在の悩み、愚痴を吐き出したくて来てみた初心者です。
話は長いし、鬱々としてるかもしれませんが誰でもいいので話を聞いて下さると嬉しいです。
この後のはメモ帳にまとめて来ます。
>>10
ありがとうございます。人がいてホッとしました。
自分が毒親育ちなのでは?と思ったのは昨年3月頃からです。
それから色々な情報を調べ、まとめを読みました。
社会人となり、新人教育に力を入れ親身なアドバイスをして下さる会社の上司に「誰か愚痴や悩みを相談する人はいないの?」と聞かれましたが、お恥ずかしい話そういった相手は私にはいませんでした。
そこで、このスレに書き込んでみようと思いました。
よろしくお願いします。
簡単な前情報としましては、私は国家資格を取得し今年4月に就職した女です。
大学時代から一人暮らしをしており、就職した今も一人暮らしをしています。
兄弟は下に妹と弟が一人ずつ。昨年、父方の祖父が亡くなりました。
>>11
誰かがみていますよ。今返信出来ないので書くだけ書いて下さい。 >>13
本当にありがとうございます。メモ帳に内容をまとめながらなので、遅くなってすみません。
現在の悩みとしましては
・今さら反抗期のような状態になっており、親とどう接して良いのか分からない
・注意や指摘をされている時、自分の境遇を誰かに伝える時、失敗し混乱している時に誰かに優しくされた時に訳も分からず泣いてしまう(そのせいで職場で何度も泣いています)
・一部の感情が麻痺しており、嫌なことがあってもはっきり嫌だと思えない、怒ることが出来ない(以前カウンセリングを受けた時にそう言われました)
・人に何かを頼む、相談することができない(現在職場で挑戦し、改善を目指しています)
・境遇のせいか生まれつきかは分かりませんが、ノンセクシャル(非性愛者)を抱えている
上記に関連すると思われる私の境遇は長くなるので後述します。 悩みについての詳細です。
・今さら反抗期のような状態になっており、親とどう接して良いのか分からない
親が毒親ではないか?と思い、過去のことを思い出していくと親(というか、母親)のことをどれだけ信頼して良いのか分からなくなっています。
今まで何の疑問もなく母の言動を信じてきましたが、それが揺らいでいる状態です。
現在、親元を離れ独り暮らしですが、冠婚葬祭や盆、正月といったことで母と会う、会話をすることが憂鬱で苦痛です。
しかし、他の兄弟や親戚の手前それをはっきり言う事もできず、何より母を傷つけてしまうのではないか、伝えたら家族関係が壊れてしまうのではないかと思うと不安で言えません。
・注意や指摘をされている時、自分の境遇を誰かに伝える時、失敗し混乱している時に誰かに優しくされた時に訳も分からず泣いてしまう(感情的になっているわけでは無く、頭は冷静)
現在、これを打っている時も涙が止まりません。ティッシュが足りなくなります。
たぶん中学生くらいから、主に注意されている時に泣いてしまいます。
頭はしっかりしているので、何故怒られているのかなどの相手の話はきちんと聞いるし理解しています。
一方的に理不尽に怒鳴られている、怒られている時ではなく、親身に注意してくれている時や励まされた時ほど泣いてしまうので、相手の方を困惑させてしまいます。
そんな相手に自分の境遇や悩みを伝える時や、自分で過去を思い出している時も涙腺が崩壊してしまいます。
泣かれているところを見られたくないし、親身になってくれている相手を困らせたくないので特に悩んでいます。
・一部の感情が麻痺しており、嫌なことがあってもはっきり嫌だと思えない、怒ることが出来ない(以前カウンセリングを受けた時にそう言われました)
中学生の時、色々と事情があり母から「頼むから怒らないで欲しい」と言われました。
元々、母の言う事を素直になんでも受け取ってしまう私はそれから怒ること、怒りの感情がわくということが無くなりました。
悪口を言われても、理不尽な言動をされても、セクハラを受けても、なんだか不快に感じた、くらいにしか感じず、周囲の人が言うような「ふざけんな!」って感じにはなりません。
不快に感じている自分を冷静な自分が客観視しているような感じです。
こうなった頃から、他者への興味が薄れたのか出来事や人の顔、名前を覚えるのが極端に苦手になりました。
・人に何かを頼む、相談することができない(現在職場で挑戦し、改善を目指しています)
何か困ったことがあっても、自分でどう行動すれば解決するのか。自分が無理をすれば解決するならそれでいい。と、考えてしまいます。
職場は「報告・連絡・相談」を徹底しており、何かを質問・相談しても嫌な顔をする先輩、上司はいません。
だから、職場でできるだけ相談・質問が出来るように努め、改善を目指していますがまだまだ至らない状況です。
仕事の性質上、同僚と協力して学んでいかなくてはいけないのですが、一緒に学びたいと言えず仕事の出来が他の同僚に置いていかれてます。
ちゃんと頼み事ができ、学んでいければいいのですが…
・境遇のせいか生まれつきかは分かりませんが、ノンセクシャル(非性愛者)を抱えている
これは私自身、もう諦めているので治るものなら治って欲しいくらいにしか思っていません。
他の悩みが解決したら治るのではないかと、うっすら期待しています。
だらだらと長くなってしまい、すみません。
お言葉に甘えて、遠慮なく書いていきます。
以下は私の境遇です。
自分の中での整理としても書いてるので、長くなってます。
私は、看護師の母と会社員の父のもとに生まれました。
父方の祖父母は農家で、同居です。
両親が共働きだったため、普段は保育園や祖父母に預けられました。
祖父母は孫を可愛がりはしますが、お菓子を与えてばかりでそれが原因の一旦だったのか私や他の兄弟は皆幼い頃から身体が弱く、病弱で何度も病院のお世話になりました。
かと思えば世間体を気にする人々で、親戚や近所の人達が来ると幼い孫を放って相手をするので、ハイハイしている私や妹は縁側(古い家なので高さが40cm以上ある)や階段から落ちたりしたこともあったそうです。
祖父は無口で大人しく、良くも悪くも普段から何も言わない人でした。
祖母は表向き親切で農作物を親戚や近所の人に分け与え、孫にも優しかったのですが、裏では母をいびっていたそうです(私が鈍いのもありますが、陰湿だったこともありあまり公にはなりませんでした)
父は祖父に似ていて大人しく、鈍い人で、母がしっかりしている分、なにかと母に頼りきりでした。
母に上手くしつけられ、一通りの家事はこなせます。
母は貧乏育ちで、お金を出したくない。進学させたくないという親に頭を下げ、女一人でも稼げるように看護師になった人です。
母の兄弟も全員看護師で、末っ子だった母は上の兄弟にお金を借りてどうにか進学した苦労人です。
母は普段は優しいのですが、忙しさや仕事や祖母の事でのストレスがあったのでしょう。
不機嫌な時は大声で怒鳴り散らし、恐らく無意識にコロコロと意見や態度が変わる人でした。
責任感が強く、ほぼ一人で子育て、家事、親戚付き合いをこなしていました。
町から離れた山の中に住んでいたこともあり、近所に同い年の子供は少なく、私の遊び相手は下の兄弟でした。
小学生の頃、共働きで家にいない両親に代わって子供ながらに家事を手伝おうとしたことがありました。
しかし、その日は仕事で嫌なことがあったのでしょう。
帰ってきた母は家事に不満を言い、怒鳴り散らしました。
そんなことが重なり、おまけに母一人で完璧に家事をこなしていたため、私達兄弟は家事を手伝うという習慣がないまま育ちました。
母に苦労をかけたことは、今となっては申し訳なく思っています。
勉強好きだった母はたくさんの医学書を持っており、小学校低学年の頃から私はその挿絵を見るのが好きでした。
そうしていると母に褒められるのも嬉しかったのでしょう。無意識のうちに、私は医療に興味を持ちました。
そのせいだったのかは分かりませんが、この頃から私の将来なりたいものを母が貶す、ということがありました。
兄弟の面倒を見るのが好きで、子供好き→保育士さんになりたい→母「他人の子供を面倒見るほどの責任感も優しさもないあんたには向いていない」
甘いものが好き、お菓子が好き→パティシエになりたい→母「あんたは器用でもないし、修行が必要。そこまでの忍耐なんてない」
絵を描くのが好き→絵を学んで、何か芸術系の仕事に就きたい→母「そんな将来性もないものに就いてどうするの?本当に好きなことは仕事にするべきじゃない」
動物が好き→獣医とまではいかなくても、動物園の飼育員などになりたい→母「獣医はあんたの頭では無理。飼育員は動物好きでなりたい人がいっぱいいて倍率が高い。なれなかった時、どうするつもり?」
これらの内容を、場合によっては2時間近く怒鳴られながら言われました。
そんなことをされても、母は私のためと思って言っていたのでしょうし、完全に母を信頼しきっていた私は言われるがままにあっさりとなりたいものを諦めました。
いわゆるエネミーってやつだったのだと思います。
小学校高学年くらいの時でしょうか。
私は一匹の子猫を拾いました。母に飼いたいと頼みましたが、祖母が動物嫌いで私や兄弟は病弱。近所の目もあるためNG。
裏庭でこっそり飼うも、近所の人に見つかり遠くの山奥へ捨てられてしまい、その後二度と会えませんでした。
それから、実家では動物は飼えないのだと思い、私が動物を飼いたいと話すことはありませんでした。
でも、一人暮らしをしてから動物を飼うのは密かな夢でした。
中学生になった頃、今までは同じ敷地内の祖父母の家で過ごし、寝る時だけは別宅へ行くという生活が大きく変わりました。
原因ははっきりと露見した祖母のいびりでした。
仕事の後に勉強会へ出席するため、母はスーツや鞄一式を服屋さんの大きなビニール袋に入れて祖父母の家の玄関に置いていました。
朝の身支度や家事を済ませ、私達兄弟ももうすぐ家を出る。
そんな時、母の大声が聞こえました。
何事かと慌てて玄関へ向かい、様子を窺うと母は祖母を怒鳴り散らし、泣きそうになりながら袋をまさぐっています。
聞いていると、祖母が袋の中にゴミを入れたのだそうです。曰く「袋があったから、ゴミ袋だと思って入れた」と。
しかし、中身はアイロンまでかけられたスーツと仕事用の鞄。子供の私が見てもゴミ袋には到底見えません。
私が母と一緒になってゴミを取り出している時の祖母はいつも通りの顔をしていて、なんだか不安になりました。
その日の夜。兄弟は別宅へ行かされ、祖父母と父と母は家で何か話し合っていました。
詳しいことは覚えていませんが、私はその隣の部屋で明りもつけず黙って話し合いを聞いていました。
珍しく祖父が大声で怒鳴っていて、普段怒鳴ることはあっても泣かない母が大泣きしていたことは覚えています。
話し合いの後、私達家族は別宅で過ごし、祖父母とは盆、正月の時以外は別々に風呂・食事を摂ることが決まったと言われました。
話し合いの際、母は今朝のことで祖母を責めました。父は母を庇わず、祖父母の肩を持ったそうです。
母は私に「実家が遠くなければ。子供があんた一人だけだったら、離婚している」と言いました。
この頃から、母は色々な愚痴を私に話すようになりました。
すみません。自分で書きながら長いな…と思ってます。
中学校は何かと色々あったので長いです。
その後、私は反抗期になりました。
覚えてはいませんが、母曰く食事を別に摂ったり顔を合わせようとしなかったりしたことがあったそうです。
私が唯一反抗期で覚えているのは、母の仕事が休みで家にいる時。
母と会いたくなくて、帰宅後に母がいる別宅ではなく祖父母の家に直行しました。
中学の自転車はいつものところへ置き、自分の靴は家の中に持ち込み、普段は開け放していて玄関から丸見えの座敷の襖を閉めて中に籠城しました。
祖母は私がいることを知っているし、祖父母の家に入って玄関からすぐの襖を開ければ、すぐに見つかります。
なんとなく、心配されたいと思っていました。母に自分を見つけてもらいたかったのだと思います。
結局、母は私を探しには来ませんでした。
いい加減夕飯の時間にもなり、母の動向が気になった私は祖父母の家を出て別宅へ行きました。
たまたま畑から野菜を取りに行っていた母と庭先で出会うと、母は酷くあっさりしていました。
「いるならちゃんとただいまを言いに来なさい。もっと遅かったら警察に電話してたわ」
と、母は言っていました。
母は私を探してはくれない。心配はしても、自分で探さずに警察に行ってすぐ大事にするんだ。
そう思うと、なんだか反抗心とでも言うのでしょうか。そういったものが、あっさり無くなりました。
何かを諦めたんだと思います。
確か私の反抗期があっさりと終わった頃、妹が不登校になりました。
別にいじめがあったとかではありません。
友人とはしょっちゅう遊びに行くほど仲良しで、不登校になってからも電話や遊びの誘いがよくありました。
先生と少し揉めたのがきっかけだそうですが、普段はそんな小さなことで揉め事を起こすような子ではありませんでいした。
家では大人しくゲームや漫画をしていて、勉強も細々と続けていました。
理由がいまいちはっきりせず、口コミで良かったカウンセリングを受けてみると「愛情不足」だということでした。
詳細は伏せますが、徐々に学校に行くようにもなり2年くらいかけて妹は復帰しました。
妹の不登校が収まってきた頃、今度は弟が不登校になりました。
理由は曖昧。カウンセリングなどへ行くと、弟はADHDだと言われ病院から薬も処方されました。
弟は酷く荒れていて、物を投げるし壊すし、暴力的で暴れるしで家の中はぐちゃぐちゃ。
兄弟喧嘩はしょっちゅうで、私は怒りに任せて暴れる弟を拘束することもありました。
そんな中、発達障害について学んだ母は「頼むから怒らないで欲しい。ADHDは怒ったら悪化するから。妹はしょうがないけど、せめてお姉ちゃんなんだからあんたは怒らずにいて」と私に言いました。
それから言われた通り、私は怒るのをやめました。
我慢している、というわけではなく怒りの感情と言うものが全く湧いてこないんです。
周囲を客観視しているだけ、とでも言うのでしょうか。
弟が暴れていても、私は手も口も出しませんでした。妹と揉めていた時は妹を助けに行ってたような気がしますが、記憶が曖昧です。
そのうち薬が効いたのか、弟は大人しくなりました。
注意されている時に訳も分からず泣き出す、というのは反抗期の思い出の後くらいから起こりました。
カウンセリングに私も行きましたが原因は分からず、母は「泣けば済むと思っているからだろう」と言っていました。
今もたまに同じような状況の方がいないか、原因は何なのかネットで検索しますが見つかりません。
高校受験の時の記憶も曖昧です。
元々真面目にコツコツ勉強する習慣などなく、受験勉強などほとんどしませんでした。
それでも地頭は悪くなかったのか、学校の成績は平均を超えていました。
気付けば友人が行くからと決めた第一志望に落ち、母に言われるがまま私立の県内でも大きい進学校へ入学していました。
異変を感じ始めたのは高校入学してからです。
まず、私は人の顔と名前がさっぱり覚えられなくなっていました。
1クラス30人ほどでしたが、1年かかっても覚えたのは担任の先生と親しくなった友人数名だけ。
他の20人以上は顔を辛うじて覚えているだけで、名前まで覚えたのは2、3人程度。
それは学年が上がってクラスが変わっても同じでした。
中学までは問題なくクラス全員の顔と名前を憶えていたはずなのに。
そして、イベント事への興味が無くなっていました。
文化祭は友人が楽しそうにしているから一緒に楽しくなれるけれど、修学旅行は行く気になれませんでした。
1年生の時も2年生の時も、学外へ行くイベントは休みました。
私立ですから、イベント事はお金がかかります。それを言い訳に、とにかく行くのが億劫でたまりませんでした。
さらには、物忘れが激しくなっていました。
週に2回ある体育で、体操着を1ヶ月連続で忘れてきたり。
授業後に毎回出される宿題を1週間近く毎日出し忘れたり。
宿題はやり忘れないように、授業後の休み時間にすぐやっていました。そのことを先生は知っていて、いつも提出だけを忘れるので怒るに怒れなかったようです。
黒板に宿題を提出するよう書いてあっても、文字から視線を外すと内容を忘れていてまた提出を忘れました。
予定や思い出も、よほど印象に残らない限りは忘れました。
高校生になってから、母が私に愚痴を言う事が増えました。
隠れてしていた祖母のいびり、仲良くしていたようで裏があった親戚付き合い、妹や弟の学校の先生の対応の仕方。
それだけでなく、妹や弟、父に対する不平不満。
印象に残っているのは「流産した子が生まれていればよかった。何で三人も生んでしまったんだろう。下の子なんて、産むんじゃなかった」という内容です。
私は母の愚痴を聞いて適当な相槌を打つだけで、上記のような内容を聞いても特にショックを受けませんでした。
本当に麻痺していたんだと思います。
祖母や親戚が裏でそんなことをしていたと知って、不信感は芽生えてきました。
それでも長女だからと、今までやって来たような態度を崩せませんでした。
親戚で集まれば笑顔で相手をし、家族も入れて20人前の料理を母を手伝いながら作り、配膳し、祖母が親戚に渡したがる野菜を準備し、包装して配りました。
不登校になった辺りから、妹も弟もあまり親戚付き合いの手伝いをしません。
盆や正月になるたびに私は母の愚痴を聞きながら、手伝いをしました。
母は冗談交じりに私を「お母さん」と呼び、私は頼られているから頑張らなければと尽くし続けました。
あれだけの親戚付き合いと仕事と家事と子育てを両立していたからでしょう。
ある時、母が過労で倒れました。
入院して数日間、家に帰れなくなりました。
命を落としてもおかしくない状態だったそうです。
でも、私は何も感じませんでした。
以前、もしも親が亡くなったら下の子の面倒はお前が見るのだと言われ、通帳や印鑑の場所や頼るべき親戚は誰かを教わっていました。
母が亡くなったらそれを実行する。
せめて高校は卒業しないといけない。
バイトは進学校だから禁止されているが、事情を伝えれば許可が出る。
父の稼ぎは悪くないし、さらにバイトで自分が働けば妹と弟の面倒は見れる。
生活は出来る。問題はない。そんなことしか、考えてませんでした。
その時の状況を母は「あんただけはいつも通りで全然戸惑ってなくて頼もしかった。妹と弟が頼りにしていた」と言っていましたが、それもそのはずです。
ショックに感じてなどいませんでした。
夜勤で母がいない時などよくあります。その時の生活は、それと何一つ変わらなかったのですから。
母は回復し、また働きだしました。
高校3年になり、進路をどうしたいかと聞かれましたが私は何も思いつきませんでした。
今考えると当たり前です。
前述したように、私がなりたいものは小学校の時から全て否定され続け、そのたびに諦めてきましたから。
なりたいものを全部否定されて、唯一残ったのが母と同じ医療職でした。
夏休みも終わり頃、母が見つけて来た医療系の大学の見学に行きました。
見学はそれなりに楽しく、送迎してくれた母は「あんたが自分と同じ道に進んでくれたら嬉しい。あんたはマッサージとかが上手いから、合うんじゃないか」と言っていました。
私は母に頼まれ、中学の時からツボ押しやマッサージを学んでいました。
褒められるのが嬉しかったし、認められたような気がしました。
高校受験の時よりは努力しましたが、相変わらず大した受験勉強もせずに私は滑り止めで受かった大学に進学し、一人暮らしを始めました。
一人暮らしをして初めて親元を離れると、少しホームシックになりました。
しかし、5月になれば慣れてきてむしろ快適なほどでした。
高校ではやってなかった部活やサークルを始めました。思う存分趣味の話が出来るのが楽しくて、先輩は私が知らなかった趣味の話も知っていました。
バイトを始めました。元々真面目でしたし、経験から覚えていくタイプだったのか仕事を覚えるのはあっという間でした。店長から褒められ、頼りにされるのが嬉しかったです。
試験は合格できるほどほどに勉強し、普通に次の学年に上がることが出来ました。
高校の時までは季節が変わるごとに風邪をひき、毎年インフルエンザや肺炎にかかっていたのに、一人暮らしを始めてからは軽い風邪しかひきませんでした。
親へ連絡したいとは微塵も思いませんでした。
3か月以上連絡をしない時期もあり、母が心配して顔を見に来るほどでした。
その頃、母は仕事を辞めていました。
専業主婦になって、愛情不足できちんと目をかけてあげられなかった妹と弟を育てるんだと言っていました。
私のことは、「心配だけど反抗期もちゃんとあったんだから大丈夫」と言っていました。
母は盆や正月に私をアパートから実家まで送迎すると言いながら、家にやって来ては泊っていきました。それ以外でも遊びに来ました。
親戚の相手をしなくて済むから楽なんだそうです。
農家だからと野菜を持ってくるはずだったのを、何度も忘れました。
お腹が空いたからと私が買っておいた食料を食べ、私のベッドで寝ていました。
愚痴を言うのは相変わらずです。
私が大学であった愚痴を話すと、聞いてはくれますが気付くと母の話になります。
実家では猫を飼い始めました。
妹が拾って来て、人懐っこい様子から母も気に入ったらしいです。
基本は野良ですが、近所に隠れて餌をやっていました。段々懐いて、とうとう家の中で飼いだしました。
実家へ帰ると、元々動物関連の仕事に就きたいと言っていたんだから出来るだろうと、猫の爪切りをするよう頼まれました。
ネットで調べたやり方でやると家族は喜び、実家に帰るたびに私が猫の爪を切るようになりました。
家族は猫を一員として迎え入れ、可愛がっています。
今も家族のラインは猫の話題で持ちきりです。
でも、私は猫を可愛いとは思うけれど、家族として迎え入れる気持ちにはなれませんでした。
この頃から、祖父は体を壊し入院や施設入所をするようになりました。
実家に帰っても祖父がいないのが当たり前になっていました。
お見舞いには妹も弟もほとんど顔を出さないそうです。
私も実家に帰った時に顔を合わせる程度でした。
大学3年の頃に、私はノンセクシャル(非性愛者)という言葉を知りました。
興味本位で調べていましたが、その内容は自分に似た所がありました。
家族には一切話していませんでしたが、高校、大学と彼氏がいたことがあります。
いわゆるダメンズと言われる人だったので、すぐに別れました。
しかし、相手を好きじゃなくなったのはダメンズが分かる前からでした。
ハグをされるのが嫌でした。キスをしたいとも思いませんでした。相手に言われ体の関係も持ちましたが、イクことはあってもそれを気持ちいいと認識しませんでした。
気付けば体に触れられるのが気持ち悪くて、生理的に相手が嫌になり顔を見るのも嫌になっていました。
思い出してみれば、妹や弟をハグして可愛がることはあっても、私が親から抱きしめられることはありませんでした。
親は妹と弟にかかりきりで、私が甘やかされることはありません。
独り暮らしを始め、親がアパートを去って本当に一人になってしまう時、母から抱きしめられましたが違和感を感じました。
いつからだったかは分かりませんが、私は相手が誰であっても体に触れられるのを嫌だと感じるようでした。
これでは恋愛なんて無理だな、と思うと恋人が欲しいとは全く思わなくなりました。
今でも恋人はいません。
大学4年の春頃、私に変化がありました。
母の愚痴を嫌だと思うようになりました。
母に頼られ、親戚付き合いの手伝いをするのが億劫になっていました。
実家にいた方が体を壊し、風邪をひきやすくなることに気付きました。
それでも母を拒めず、母は相変わらず私のアパートに来てはゆったりと過ごし、家族や親戚の愚痴を話します。
適当に聞き流し、あしらっていると「冷たい」「優しくない」と母に言われました。
冬になり、国家試験と卒業試験が近づきました。
お恥ずかしい話、私の成績は良いとは言えませんでした。
真面目にコツコツやっていたわけでもなく、試験もその場しのぎだったので。
模試の成績は合格点に全く届かず、私は成績不良者として毎日決まった時間に大学で自主勉強をしなければならなくなりました。
試験内容は基礎と応用があり、先生曰く応用の方が配点が高いのでやればあっという間に点は上がる。
でも、基礎が固まっていないと問題が難しくなった時に柔軟に対応できず、国家試験に落ちやすいそうです。
言われた通り、私は基礎を固め続けました。
その間にも模試はあります。成績は下がることなく上がり続けましたが、基礎しかやっていないため上がり方は緩やかで、相変わらず合格点に達しません。
そんな中、祖父が亡くなり葬式を上げることになりました。
私はまた母に言われるがまま手伝い、親戚の相手をしました。相変わらず、妹も弟もあまり積極的には手伝いません。
葬式の後、母は私の成績のことを責めました。成績不良者は大学から親に連絡が行くのです。
私は母に基礎を学んでいること、配点の事、成績は一応上がっていることを伝えました。
母は感情的になると人の話を聞いていなかったり覚えていなかったりします。
説明したことは忘れられ、何度も責められました。
そのたびに説明するのも嫌になり、私は諦めて母の怒鳴り声や私を責める声を聞き流しました。
卒業試験の3日前、母は突然明日会いに行くと連絡してきました。
用事を聞きましたが返事はなく、試験勉強のため朝7時半〜18時は家にいないことを伝えました。
試験前日の朝、母から電話がありました。
時間は7時前で、もうすぐ着くが何か欲しい物はないか。コンビニによるから朝ご飯が欲しければ言って欲しいと言われ、頼みました。
しかし、7時10分になっても母は来ません。
朝ご飯以外の家を出る準備は済んでいました。
成績不良者は8時までに大学に着き、ミニテストをすることになっていました。
遅刻すれば皆が無言でテストが配られるのを待っている中、教室に入らなければなりません。
急げば20分で大学に着きますが、時間に余裕がありません。
15分を過ぎた頃になって母はようやくやってきました。
私のために総菜を作ってきた。コンビニで冷凍食品の総菜も買ったというのです。
以前用件を聞いた時に返事がなかったため、何も知らない私は昨晩作り置きのおかずを作って保存したばかりでした。
ただでさえ時間が無いのに、朝ご飯を食べ冷蔵庫と冷凍庫を整理し母の作った総菜を詰め込まなければいけなくなりました。
呆れながら慌ただしく準備や片づけをする私に、母は「せっかく作って来たのに冷たい」「優しくない」と言います。
そして、またベッドに寝っ転がりながら私に葬式の時の愚痴を話すのです。
私は数年ぶりに酷い苛立ちを覚えました。
愚痴を話し続ける母を説得して家から追い出し、慌てて大学に行きました。
勉強を応援しに来たと言いますが、邪魔にしか思えませんでした。
卒業試験は4回あり、一度でも合格点を取れば卒業できます。
1回目は不合格で、明日に控えた試験は2回目。
これは、後数点届かず不合格でした。
このまま続ければ次は合格できるだろうと頑張っていたところに、母から電話が来ました。
3回目の試験の4日前です。
電話をとって話を聞けば、2回目の試験に落ちたことを知った母が怒りに任せて暴言を吐きに来ていました。
確実に成績は上がっており、毎日その時間は大学で勉強していることは伝えてありました。
それなのに、その勉強しているはずの時間に電話をしてくるのです。
おまけにその内容は「こんなことなら保育士や動物の仕事に行かせるんだった。今からでも勉強し直せ。こんなに合格できないなら向いていないんだ、止めてしまえ」
成績で怒られるのは諦めていました。自業自得です。
母は前々から「あんたの進路は私に責任はない。失敗しても親を責めるな」と言っていました。
私は一度も親の愚痴や悪口を言ったことはありません。
進路も否定されはしましたが、その言葉通り諦めてしまったのは自分の責任だと分かっていますし、そう母にも伝えてありました。
何故、今までになく必死に努力している最中に、その諦めたはずの物まで引っ張り出して責められなければならないのかと、言葉を無くしました。
母の怒号は1時間以上続き、私からの相槌がなければさらにヒートアップするので通話口で曖昧な返事をすることしかできませんでした。
恐らくこれで最後です。
3回目の試験で予想通り私は合格し、国家試験も受かりました。
母は笑顔で「おめでとう」と言ってきますが、もう私は素直に喜べなくなっていました。
就職し、完全に親から離れて暮らしていると、母と会わずにいるのがどれだけ精神的に楽かが分かります。
それでも前述の悩みのようなことが色々と残っていて、生き難さを感じます。
母の苦労も大変さも、話を聞いて知っていました。
母こそ毒親育ちであったことを理解しており、ただ感情的になって怒鳴り散らしたら止まらなくなってしまうことも分かっています。
私は、母を本心から嫌うことはできません。
でも、こんな風に育ちたかった。こんな職に就きたかったと零す母の理想を、私は上手く誘導されてなぞって来ただけにしか思えてなりません。
絵が好きな妹はデザイン関係の進路に進みました。
音楽が好きな弟は恐らくその道を進むのでしょう。
猫は今も実家で可愛がられています。
絵も音楽も動物も私は好きで、将来進んでみたいと母に言ったことがあります。
現在は資格があって生活は安泰で、職場の上司は親身になってくれて何不自由ない生活です。
それでも、ずっとどこか納得がいかずモヤモヤしたままです。
一度カウンセリングを受けてみて、麻痺した感情を戻すため、過去にあったことをその時感じたことも含めて整理してみると良いと言われました。
ダメですね。読み返してみても、内容が淡々としすぎです。
別に悲劇のヒロインに浸ってみたかった訳でもなく、ただ整理して愚痴吐きのつもりで書いていましたが自分でも思っていた以上に長すぎました。
まさかこんな長文を読んで下さる方がいるとは思えませんが、長々と失礼しました。
>>42
お疲れ様です。私の感想です。お母様との関係は良く分かりました。しかしお父様との関係が見えて来ません。
そしてご両親の夫婦関係も見えて来ません。
貴方とお母様の関係しか伝わって来ません。
余りにも母親との関係が強過ぎるのですね。
私としてはやはり診療内科を受診される事をお勧めします。
理由としてはお母様との関係がトラウマになっているように思います。
貴方の気づかないもっと心の深い所に何か有るようにおもいます。
親元を離れられたのは正解だとおもいます。
全体の流れからお父様との関係もあるのではとかおもいます。
此れだけ長い文章ですが良く書かれているとおもいます。
先にも述べましたがもう一度この書き込みを元にカウンセリングを受けて見てはいかがですか。
ノンセクシャルについては又別の事だと思います。
少しは落ち着かれたでしょうか。 >>42
続きます。
人とは書く事によって心の本質がみえて来ることも有ります。
私の個人的な事ですがお母様から少し距離を置かれたほうがよいかともおもいます。
最後に此れからの人生は貴方が決めていく事です。
どうか今回の書き込みが貴方の此れからの人生への旅立ちとおもいます。
辛い事や悲しい事は此れからもあるでしょう。
此れだけ長い文章を書いた貴方です。
もう貴方のなかで答えは出ているのではないですか?
大変お疲れ様でした。少し休んで下さい。 質問です
自分と仲の良い女性がイジメを受けて弱っているのを知っている時
仲の良い女性の見ているところでイジメ加害者から話しかけられて雑談などを振られたらどうしますか?
冷たくはせず笑顔で対応しますか?
>>43,42
ありがとうございます。
まさかこんな長い話を読んでいただけて、お返事が頂けるとは思っていませんでした。
父とは一緒になって母に振り回されている感じです。父の性格は私とよく似ています。
ほどほどに心配してくれていて、でも私が自立するように距離感を保っていてくれるので一緒にいるのが苦ではないです。
大学進んでから昔なりたいと話していた絵の関係の仕事の話題を振ってくるなど、ちょっと鈍いというか、遅い感じはあるのですが父なりに心配してくれているのでしょう。
母との関係に悩む前は何でも母に話をしていましたが、今は相談事は父にすることが圧倒的に増えました。
両親の夫婦関係は良い方なんだと思います。
母の機嫌が良ければ、一緒にテレビを見たり家事をしたりとのんびりしているので。
母が暴走して暴言吐いてても、父は静かに受け止めていますし。
今までの祖父母との関係や父の優柔不断さで母は苛立ちが溜まっているのだと思います。
専業主婦になってからは、母は落ち着いてきていますが…
父がどれだけ不満をためているかは、子供から見ても全く伺えません。
自分では、そんな大した境遇ではないと思えてしまうんです。こんなことで悲観している自分がおかしいのではないかと。
それよりも母の境遇の方が深刻だったので…
母との関係が強すぎるのは、その通りだと思います。
おっしゃられた通り、自分でも理解していない根深いものがあるのかもしれませんね。
本当に、忘れていることが多いんです。
亡き祖父や、祖母との思い出、父との良かったはずの出来事、妹や弟との関わり…
精一杯思い出しても、上記に収まってしまうんですから。 >>46
ノンセクシャルについては、もっと精査しなくてはと思っています。
母と距離を置きたい。関わりたくないというのが本音です。
でも、今まで全く母に反論せずにいたのが染みついていて、上手く反論や距離の置き方が出来ません。
そういう意味でのトラウマを克服していかなければならないんですね。
就職して5月頃に思い切ってカウンセリングを受けてみましたが、一度だけで次に繋がらなかったということがあります。
もう一度改めて、今度はきちんと通えるところを探してみたいと思います。
本当に、ありがとうございました。 >>45
話題によると思いますが、笑顔で対応はできないですよね。
私なら特に表情は変えず適当に返事をして、素知らぬ顔で仲の良い女性のところへ行きます。
女性が気にしないように全く別の話題でも振りながら。 >>93 俺は男で11年付き合って結婚直前に、俺に彼氏もいる事がバレて破談になった男です。
彼女が妊娠できなくなるまで待たせて最悪な結果となりました。
40代でも妊娠できると言いますが、40代での妊娠率なんて2%とかやし、精神的ダメージもかなり負わせたので、すぐに立ち直り、誰かと結婚とか現実的に無理だと思う。
前スレで自殺してもおかしくない状態言われたけど、確かに本当にいつされてもおかしくない位のレベル。
最後に会った時の様子が魂が抜けてしまったみたいに、覇気もなく青白く、一点をボーっと見つめて話しかけても答えにならないというか。あれが演技でなければ
彼女には結婚歴があり前の旦那の酷いDVでかなり前に離婚し、身体にも沢山傷があり、男性不信で俺に心開いてくれるのにも時間がかかった。
エッチできるまで2年位かかった。
それに彼女は子宮の病気も持ってるし。
何が言いたいかと言うと、俺は屑。また彼女を追い込んでしまった。
酒に酔って連投してしまった。
しかも謝罪どころか、送金100万完了して「これで終わり。おれもまともに生きる」と送ってしまった。
残りの人生は、彼氏と一緒になれなくてもセフレとして抱かれるしかないかなと思う反面、また女にも手出してしまいそうな自分が怖い