どうしたら気分良く生きていけるのか、その方法を考えていきたいと思います
精神心理学的アプローチ
行動経済学的アプローチ
脳神経の仕組み
感情の機微
など様々なものがあれば、
負の感情を知識的に解決しようとする(防衛機制の知性化)や
自分の内面を認知する事で客観的に自己を捉えようとしたり
ありとあらゆるアプローチがあると思います
合う合わないもあるので、生理学的な反応やメカニズムも取り入れて
はっきりしない精神的観念や意識、感覚というところまで広げて
いかにして人生を気分良く生きていくかという事を考えていければいいなと思います
少しずつですが、
まずは、脳の認知メカニズムから
どのように感情が処理されていくのかを
理解していこうと思います
脳神経科学、人類学、心理学、行動経済学付近のアプローチから
この辺りを深めていこうと思います
難しく考える方が気分よく生きられないという事は無いのかな。
楽しい、嬉しい、幸せ等の感情が只の科学反応に過ぎないなんて考えだすと、
心底喜べないし、幸せになれない気がする。
「本当の事を知る事」と「気分良く生きていく事」は必ずしもイコールでないとも思える。
>>3
知識で理解する、防衛機制の知性化の対局ですね
確かに知性化は根本的な問題解決にはならないと言われています
感覚的に理解を深める方法もあるので
両面からバランスよくアプローチしていこうと思います
まずは、概要的なものとして
知性的な理解を大まかに認識して
その後に感覚の分野を攻めていこうかと思っています 感情発生のメカニズムの理解
↓
それに対する対応の解説と追及
↓
実生活での現実的な対応
という流れでできれば良いなと思っています
あまり細かくなり過ぎないように注意しようと思っています
例で言えば
頭の中には
古い脳と新しい脳がある
感情は古い脳で発生し
その感情を意図的に制御するのが新しい脳だ
つまり
感情のコントロールには
新しい脳を動かす必要がある
といった具合です、
それぞれを
大脳辺縁系や大脳新皮質と言ったりしますが
難しい用語はなるべく省いた方がいいですね
新しい脳が感情をコントロールできなくなるのは
余裕がない時
疲労が溜まってる時
緊急事態に直面した時
など
感情には
本当の感情と
本当の感情を覆い隠すための防衛的な感情
があると言われている
鬱や怒り、苦しみのもとは
この防衛的な感情から生み出されてると考えられている
一方で
本当の感情は
喜怒哀楽どれをとっても
必要不可欠な健全な感情と考えられている
苦しみを感じる時に
その悲しみや怒りは本当の感情を覆い隠すための
防衛的な感情なのかもしれないと考える必要があるかもしれな
その上で
その苦しみを生み出している
本当の感情にアクセスして
その、本当の感情が生まれた背景を探ることが
苦しみからの脱却になる場合がある
この本当の感情にアクセスするには
自分でたどり着く方法と
信頼できる他人の協力を得て行う方法がある
感情の発生には流れがある
自分に何かの刺激が加わる(言葉や行動)
↓
それが概念の塊として脳内で処理される
↓
概念はそれと関連する一連の記憶群を呼び起こす(先入観や思い込みとも呼ばれる)
↓
記憶群を基にしてそれに紐づけられる感情が呼び起こされる
↓
感情の処理が脳の運動皮質に伝わる行動となって現れる
例で言えば
車が急に割り込みしてくる(刺激)
↓
煽り運転と思う(概念抽出)
↓
煽り運転=悪い事、悪意、侮辱された、相手が優位、敬意がない(概念に紐づけられた連想記憶群)
↓
怒る(古い脳で処理された連想記憶群がさらに紐づけされた感情を呼び出す)
↓
クラクションをならす(情報が運動皮質に伝わり行動する)
となる
概念抽出の段階で生まれる感情が本当の感情(コア感情)で、
最も本質的な感情だと言える
一方で、
連想記憶群を経由して、より拡大、加工されたものが
本当の感情を覆い隠す感情(防衛感情)と言える
概念抽出の段階で生まれる感情は
煽り運転→恐怖
という恐怖かもしれない
一方で
連想記憶群から生まれる感情が
煽り運転→悪い事、悪意、侮辱された、相手が優位、敬意がない→怒り
となる
別の言い方をすれば
恐怖という本当の感情を覆い隠す防衛機構として
怒りという感情が生まれたとも言い換えられる
防衛感情に焦点を当てても
問題解決の本質になりにくいのは、
そもそもの概念抽出が起きた部位とは離れているからと言える
ここで
本当の感情であるコア感情に焦点を当てると
刺激から最初に生まれた
概念抽出にフォーカスする事ができて
感情の自己認識化がうまくいきやすくなる
むずかしそうだけどおもしろいね
ちょっと質問なんだけど
車の例で
最初に生まれる感情は、
その割り込みの状況や度合いにもよるけど、
単純にその車の動きが危険な場合は
生存本能からくる危機回避のための焦りや驚きや恐怖
車の動き自体はそこまで危険ではない場合は
そういう運転をする人へのこれまた危機回避のための焦りや驚きや恐怖
その後にくるのが連想記憶群?からくる悪い事的なやつなのかな?
上2つはコア感情?ってやつなのかなと思ったけどどうだろう?
もしその運転手が降りてきてこっちに来たらみたいなのは
そういう情報を先に得ていた場合、コア感情である防衛本能?
+
情報の記憶からもくる連想記憶群?
なんかややこしいね
めんどくさかったらごめんね
ひろゆきの生き方は素晴らしいと思うよそういう意味では
借金踏み倒せる度胸がないと無理だがw
>>13
質問ありがとうございます
非常に的確で素晴らしい指摘だと思いました
それを理解するために
本当の感情(コア感情)と
覆い隠すための感情(防衛感情)
の全く違う特性を知る必要があります
脳の話になりますが、
古い脳(大脳辺縁系)は原始的な本能を支配して、反射的で自動的な思考を行います
行動経済学ではこの行動様式を
システム1と総称します
新しい脳(大脳新皮質)は人の認知や理性や深い思考を支配して、努力的に活動を行います
行動経済学ではこの行動様式を
システム2と総称します
例えば
感情はシステム1が
理性や認知はシステム2
が支配するという事です
感情は基本的に熟慮して出すものではないので
自動的に処理されるシステム1なのです コア感情では思考の流れが
システム1(感情)→システム2(認知)→運動皮質による行動
となるのに対して
防衛感情では思考の流れが
システム1(感情)→運動皮質による行動
となり、感情がそのまま行動に強く反映していきます
この際のシステム2(認知)の役割は
システム1(感情)←2(認知)
↓
行動抑制
と、
感情の発生に対して、意図的に認知を発生させて
感情を制御する必要が有ります
いわゆる、
防衛感情では
例えば
カッとなった(怒った)けど冷静になって(システム2が働く余裕を確保する)落ち着いた(認知的に怒りを抑えた)
という状況です
コア感情の場合には
感情に引き続いて認知も連続的に湧き上がるという非常に強力なコントロール性があります
例えば
会社で起きた理不尽に対して怒りを感じた(怒った)ので、それを変えようと出世する事を決意する(認知して行動に移す)
といった言った具合です
コア感情の流れは
心理学の防衛機制の内の
昇華と呼ばれる行動で
感情の処理に感じて最も社会適応性が高く好ましいとされています
これらの根本的な違いは
概念抽出から直接、生まれた感情なのか(コア感情)
連想記憶群という強固な先入観、思い込みから生まれた、柔軟性が低い感情なのか(防衛感情)
という点です
そして連想記憶群に含まれるものには感情があり、これが防衛感情であり、勝手にどんどん湧き出てきてコントロールが不可能になるのです
ここで車の質問に戻りますが、
ご指摘の通り、
上の例が生存本能から来るコア感情に該当すると思います
すなわち、
刺激→危険信号(概念抽出)→恐怖というコア感情(システム1)→視覚による周囲の認知的集中(システム2)→回避
といった具合です、
ただし
緊急事態の際にコア感情から連続的に発生するシステム2はほぼ全て周囲の危険認識に使われるようです
命の危機の際に、時間が止まったように周囲の状況を認識できる
という話がその典型です
一方で
防衛感情は分かりやすく言うと
「勝手な思い込み」です
上の例の回避の後に生まれる
「危なかったな!ふざけやがって」
といった具合です
運転手が降りて来た際には
新たな刺激により
また新しく概念抽出が行われます
そこで最初に出てくる感情がコア感情となります
ただし、
とても重要な事なのですが、
基本的に闘争行為はボクシングや格闘技などを除いて
ほとんどが防衛感情になります
何故なら
危険に対する本能の応答順序は
停止→逃走→闘争
となり、闘争が来る前に
停止と逃走の処理を挟むからです
ボクシングなどの
闘争を前提や目的としたものとは
ここが根本的に違います
車の割り込みの例を挙げてみると
割り込み(刺激)
↓
危険信号(概念抽出)
↓
恐怖感情(コア感情、システム1)
↓
周囲状況の認知集中(システム2)
↓
回避行動(運動皮質)
↓
相手が車から降りてくる(新たな刺激)
↓
危険信号(概念抽出)
↓
恐怖信号(コア感情、システム1)→周囲状況の認知集中(システム2)→停止、回避
↓
連想記憶群(思い込み)
↓
怒り
↓
闘争←冷静になって落ち着く(システム2による後発的な抑制)
となります、
防衛感情がある時には、コア感情もその前に必ず存在して停止、回避の処理が行われており、
コア感情による停止、回避の問題解決がうまくいかなかった時に
その後の連想記憶群による問題解決処理の段階が生まれて、
防衛感情が発生する事になります
生きるという意味では
この流れは素晴らしく生存効率を上げる
進化の結果だと感じます
難しくてなかなか理解が追いつかないので
私の中で整理しながら話すね
というか私はこういうとこで話すという言葉をよく使う
文字のやり取りなのに
これはたぶん情報を整理して理解することが苦手で、人と話しながら理解することの方がやりやすいからこういう感覚になるのかな
あと、全部を記憶できないから1スレ、1文ずつ見ながら書きながら整理してる
全部まとめて記憶して理解して返答するってことも苦手なんだな
いろんな複数の言葉が出てくるとなおさらそれを頭の中で整理して記憶して理解することが出来ない
これも何かしら脳の機能が弱い部分もあるのかもしれない
感覚的にはなぜそうなるのかなんとなくはわかるけど、客観的に完全に理解してるわけてはないな
これも理解できれば改善して出来ることあるのかな?
と思ったら最初の方のレスに少し書いてたね
さてさて話を戻すけど
なんとかなんとなくは理解できたと思う
生存本能、防衛本能、危機回避本能
と
防衛感情(連想記憶群からくるもの?)
とは別物?それとも本能の中にも含まれるもの?
あと、脳の回路って、その結び付きが強いものほど反応が速いと思うんだけど
例えば格闘技の経験や能力がある人は、ない人より停止回避から闘争へ繋がるまでのスピードが速いとか
何かの特定の強い刺激を受けた人が生存効率の高い反応とは別の反応が速く強く出てうまく生きられないとか
これが連想記憶群ってやつなのかな?
生存効率の向上と気分良く人生を生きること
少し似ているようで少し違う
これをいい感じにできれば、ハピネスイェーイに少しは近づけるのかな?
ごめん言葉知らなくて自分をうまく正確に表現できんわw
>>19
ものすごく鋭い質問ばかりで
すごいと思いました
生存本能、防衛本能、危機回避本能
と
防衛感情(連想記憶群)
とは別物か、本能に含まれるものか
という部分ですが、
全て本能(システム1)に含まれます
ただし、「生存本能、防衛本能、危機回避本能」
は
より、命に直結した原始的な本能、
生存欲求、安全欲求の一部によって支配されるのに対して
防衛感情(連想記憶群)
は
防衛という名前こそ付いているものの防衛本能とは別物で
個人の生きた経験の中から生まれた社会的な本能、
安全欲求の一部、集団欲求、承認欲求など
より高次元の欲求に支配されていると考えられます
生存本能、防衛本能、危機回避本能はそれこそ、動物として生きる事を目的に取得されたのに対して
防衛感情は社会生活などの個人の歴史が色濃く出ており、社会的に形成された本能と言えます
防衛感情は後発的に生まれた、高次元の本能とも言えるかもしれません 高次元の本能の例として
プロ棋士は難局以外では本能的に駒を動かせると言われますが、
あれも思考が高次元の本能に落とし込まれた結果で
深い思考システム(システム2)を繰り返し行うと
その行動は本能的な自動行動(システム1)に移行する
という事が分かっています
行動経済学では、この繰り返し行動を1万時間以上行うと
高次元の行動や認知(システム2)が反射行動(システム1)に移行する
1万時間ルールとして知られています
脳の回路の結びつきと反応速度の質問も
まさにこの
システム2からシステム1の落とし込みそのものです
そこの部分の鋭い質問は
思考が深く本当にすごいと思いました、おどろきました
「何かの特別の強い刺激を受けた人が〜」
という部分の質問もまさにその通りで
個人の歴史によって形成された連想記憶群から生まれた
二次的な社会的本能によって
不適応行動が生まれてしまう可能性があります
過度な暴力性や過度な懐疑性、自傷行為、鬱や認知的な歪み
どれも、悲しい過去の経験が生み出した
悲しい高次元の社会的本能の結果と言えます
これらの理解をどのように
「より気分良く人生を生きていくため(ハピネスのため)」に使うかと言うと
悲しい高次元の社会的本能を
自己客観的に認識し直して(システム2による深い認識)
新たな、より社会適合性とハピネスに結びつくための
ガイドとして使ういう目的で理解を行います
歪んだ防衛感情を、幸福性の高い防衛感情に置き換えていく
とも言えるかもしれません
例えば
人から何かを指摘された→こいつは自分の事が嫌いなんだ→怒り、という防衛感情を
最初の概念抽出で生まれたコア感情を認識し直して、それに続く強いコントロール性を使いつつ
それに続いて生まれてくる連想記憶群を新しいものに上書きして
より好ましい防衛感情を構築し直す
人から何か指摘された→この人は自分に成長して欲しいんだ→感謝
といった、具合です
この辺りの捉え方の変更は
自己啓発本などでも繰り返し書かれていたりしますが
そのメカニズムを一切説明していないので
怪しげな宗教チックなものとしてとらえられてしまうのかもしれません
理由もわからず、やり方と結論(自己啓発)だけ聞くと
とても怪しく感じますが、
実は脳のメカニズム、精神心理学、行動経済学などから説明すると
非常に正しい事を言っています
問題があるとすれば
これらのメカニズムを知ってないと
間違った部分に注目して何かを変えようとしたり
全然的外れな行動変容をしてしまうかもしれないという点です
その最も顕著な部分が
怒りというものは全てが悪いわけではなく
本当の怒り(コア感情の怒り)は否定してはいけない
という点などです
コア感情の怒りを否定し続けると
多重人格など、別の問題につながる可能性があるからです
なんか驚いたとかすごいとか言われてるけど
私は似たようなことを考えたり見聞きしたりしたことがあるだけで、全然すごくないっすよ
それに0から1を生み出すゼロイチってのが苦手で、こうやって誰かが何かを道筋立ててくれるとそれはどうかな?あれはこうかな?って言いやすいだけで全然これのスレを立ててくれた方の事がすごいっすよ
私の言ったことも全部説明してくれてるしわかってるから出来ることじゃない?
なるほどと合点のいくことばかりで
確かにシステム2から1への落とし込みに繰り返しが効果的ってのも聞いたことはあるね
俗に言う場数ってやつかな?
慣れないことでもやり続けていたらできてるようになってたみたいな
たぶんここまでは私もなんとなくは知ってるんだけど、
連想記憶群の塗り換え?
いざやるとなるとなかなか難しいものがあるというか
私の場合どこを目指そうてしてるのかがわからないのよねたぶん
あと、怒りへの否定も強いかも
人から向けられる怒りもそうだけど
自分が感じる怒りもうまく処理できないのよね
怒ったところでどうにもならないというか
怒っていい方より悪い方にいくことの方が圧倒的に多かったからかな?
これって書き換えられるものなのかな?
向きたい方向もわからずに
まぁ怒りだけじゃないか
あぁ繰り返しが大切なのか
そこにも嫌な連想記憶群があるな私には
すまん愚痴ってしまった
>>23
怒りが出た際に関しては
手法はアンガーマネジメントと
結局は同じになります
アンガーマネジメントで
落ち着いたり、他の事を考えたり、時間を確保したり、今現在に集中したり
と、
これら全ては
防衛感情による怒りで闘争のために脳がフル回転している時に
システム2が働いて冷静に怒りの感情を外側からコントロールする余地を作る
という脳のリソースの確保をするためだと考えています
休息や趣味といった気晴らしが大切だと言われるのは
この、システム2が働くための脳のリソースを確保するためで、
余裕があれば怒りにくくなるのもこのためです
疲労してると怒りやすいのも
まさにシステム2が働かなくてなっている現象そのものだと思います
これらは、防衛感情の怒りが出た際の対応ですが
事前に防衛感情の怒りを発生させにくくするのは
それなりに大変だと思います
何故なら、防衛感情の怒りが出てくるパターンは様々にあるので
それを一つ一つ概念抽出の段階を突き詰めていく事が必要だからです
中には、刺激は別でも概念抽出は同じ事もあるので
大きな改善に繋がる事もあると思います
最も大変なのは
概念抽出の段階の探索でしょう、
自分でやるか他人の力を借りてやるにしても大変ですが、
コア感情を発見できればそれに続く連想記憶群の正体を明らかにするのがスムーズに行くかもしれません
連想記憶群の書き換えの前に
まずは、概念抽出とコア感情とそれに続く連想記憶群が何かを明らかにしないといけないのです コア感情には特徴があると言われています
その感情に集中した時に
はっきりとした始まりと、ピーク、収束があり、
自己を自己として認識できる強いコントロール感がある
という点です
逆に
防衛感情は
のっぺりとした流れをたどり、
始まりも終わりもはっきりせず
だらだら続く
と言われています
コア感情は、感情そのもの
防衛感情は、感情的なもの(あいつは感情的だ、のような)
と、言いかえられる事もあります
実際に私も辛い気持ちになった時に
十分リラックスして落ち着ける環境下で
システム2のリソースを確保してコア感情の探索を行いますが
この、悲しみは、だらだら続くから防衛感情か?
その前にあるのは、虚無感か?
しかし、この虚無感も全容がはっきりしないな、
コア感情はこの先か?
何かを叶えたいと思った、願望がコア感情か?
何を叶えたかったんだ?
その感情に集中した時に、始まりとピークと収束はあるか?
自己を自己として認識できる強いコントロール感が存在してるか?
とやって、コア感情の探索を行なっていきます
感情の探索中に、我を失うようなコントロール感の喪失が有れば
それは防衛感情の可能性があるので、
その感情の探索を一旦中止して、
他の感情の探索を行います
他人の助けを借りる場合は、
この、自分のシステム2でやってる事と同じ事を他人にコントロールしてもらいます
話を聞いてもらい
感情の探索をコントロールしながら
コア感情か防衛感情かを判断して
コア感情であるならその感情にとどまってもらい
内的な経験を再度経験させる
といった具合です
その後に
行なっていくのが、
概念抽出とコア感情から派生する
連想記憶群の探索ですが、
連想記憶群は内的作業モデルとも言い換えされます
内的作業モデルとは、
心から行動へつながる自分の中のアルゴリズムの事です
このアルゴリズムを書き換える事が
連想記憶群の上書き、
つまりは、内的作業モデルの変化
という事になるのです
内的作業モデルは、
先入観や思い込みの書き換えなのですが、
すでに形成されているシステム1の古い内的作業モデルを否定せずに弱めながら
新しいシステム1の内的作業モデルを構築しないといけません
古い連想記憶群を安易に否定してしまうと
それにつながるネットワークの不協和が発生して
自己矛盾という認知的不協和を強力に引き起こす可能性があります
認知的不協和は
強力な不快感と認知の乱れを呼び起こすので
単純に連想記憶群を否定してしまうと、人格的な障害につながるかもしれないのです
むおぉぉお〜〜
言葉の難しさもあいまってめっちゃ難しそうやな笑
精神科か心療内科か神経科かなんかで言う
暴露療法、行動認知療法みたいなやつかな?
あれ言葉がなんか怖いのよね
暴露療法とか怖そうじゃん
実際自分でやろうとしたことあったけどしんどくてその感情にとどまるってことができなかったわ
しかしなんとなく違う言葉で同じ内容の事を聞いたことはあるかもしれないぞ
つまりは
何があって、その時にまず出た感情はどうで、それを受けてどういう反応が自分の中で起きてどういう記憶として残ったか
っていうのを理解する必要がまずある
ということ?
そして、
何かの先入観とかで事実とは異なる定着の仕方をしてたら書き直せばいいのか
コア感情とは自分でコントロールできてる感覚があるのか
そこが防衛感情との大きな違いのコツみたいなのかな?
しかしヤベーな
たぶん過去の整理できてない?ものが山ほどありそうで大変だ
は〜1個1個か
怒りの話だけど
あれって瞬間的にその場で何とかしなきゃいけないことってない?
怒りというか時間的余裕がない状況の時
その時は余裕がないとか体調悪いとか言ってられないじゃない?
こういうのも人によっちゃ追い詰めてるって捉えられることあるのよね
聞く相手に余裕がない時はそうなるのかな
ふむだからこそ聞く側の自分が余裕を持つことが大切なのか
>>27
そうです
まさにその通りです
生まれた感情にフォーカスして
自分の中の記憶やそれに対する反応がどのように残っているのかを
再度自分の中で経験する事で
その感情や関連項目を際立たせていく手法です
コア感情にとどまる時間と頻度は多いほど良いようです
おっしゃる通り
1人でやるとその恐怖に立ち向かえないので
信頼できる他人と共に
一緒にその感情と向き合い
立ち向かう方法があり、
加速化体験力動療法
と呼ばれます
1人で立ち向かう場合は
システム2のリソースが十分にないといけないので
防衛機制の知性化(感情の知的理解)などを使いつつ
合理的に進めていかないといけません
感情のメカニズムを細かく説明してるのも
これが理由です
何故なら、
信頼できる他人が一緒にいる場合には
自分が感情に飲み込まれてうろたえても
他人が正しい道に引き戻してくれますが、
1人でやる場合には
感情に飲み込まれないようにしないと
その後の探索が出来なくなってしまうからです
怒りに関してはおっしゃる通り、
残念ながら
対処する時間や余裕を確保できない事も現実的にはあります
その場合に忘れていけないのが
その状況になった時に最優先する項目が
「冷静になれる時間を確保する事を最優先する」
という事です、
怒りを抑える事が最優先ではなく、時間を確保する事に集中するのです
そして、その後にシステム2をひねり出す
という流れが1番救いのある選択肢なのだと思います 時間的余裕がないパターンは
怒りに限らず単純に何かを処理しなければならない時に
焦ったり慌てたり諦めたり
いろんな事が起きそうだけどそんな時にも
冷静さを保てる事で集中していい判断ができるかもしれないね
感情の知的理解か
確かにけっこうエネルギーが必要そう
それすらも楽しめるとなおいいかも
様々な要素の中で
とても重要な事柄に
リラックスする(システム2が働くためのリソースを確保する)
という事がある
リソース不足でシステム2が働かない
という事が、様々な悪影響を及ぼす事になる
感情に関しては
防衛感情のコントロールが失われる
というのが1番大きいと思う
逆に言えば、
システム2が働くリソースが
十分に確保され続ければ
多くの場面で、感情の問題も含めて様々な問題を乗り切れる事になる
これが、リラックスや気晴らしの正体だ
では、
効率よくシステム2が働くためのリソースを確保するためにはどうすればいいか
システム1を適度に使う→過剰に使うとシステム2が働き出す
システム2を休めて、使用を最小限にする→リソースの使用を減らす
過去や未来、他の場所ではなく、「今、この瞬間、ここ」に集中する→連想活性を起こさせない
(連想活性は連想記憶群の連続的な発生で、その後にシステム2の認知活動へと結びついていく)
1番悪い例が
明日の仕事の心配をする(未来、他の場所)
↓
明日の仕事を想像した時に、連想活性により、連想記憶群が連続的に引き出され、
明日は何を言われるか、大丈夫か、どうやろうか、など
システム2によるリソースの消費が開始される
今、この瞬間、ここ、に意識を集中して、システム1のみが適度に働く安全安心な環境に身を置く
これが、リラックスの正体であり、瞑想やマインドフルネスの正体となる
無音の部屋では、
人によっては過去に意識が持っていかれて連想活性が起きるため
適度にシステム1のみが刺激される環境
例えば、
安全な自然の中(森の匂い、せせらぎの音、風の感触の今、この瞬間、ここにシステム1が働く)
などが、ハードルの低いリラックス方法(システム2のリソース確保)となる
リラックス方法は
システム1が働く、システム2はほとんど働かない、今この瞬間この場所に集中できる
方法なら、理屈的にはどの様な方法でも良い事になる
スマホの使用と脳過労の話が時々出るが、
スマホの操作が直感的なシステム1なのに対して
情報の認知がシステム2
という問題から来てると考えられる
情報を選択する操作が素早く行われ過ぎて
脳への情報供給過多になっている
という、状況だ
情報の処理は
脳の短期記憶のワーキングメモリに
最長30秒間、最大4つの連想記憶群を保持
する事で行われている
目に入ったネットの情報から
最初に概念抽出を行い、
それに紐付けされる連想記憶群が
短期記憶のワーキングメモリに保持されて
同時に最大で4つの連想記憶群が処理されるという事だ
これらの連想記憶群は30秒すると
短期記憶のワーキングメモリ上から消えるのだが、
途中で新たな概念抽出による連想記憶群が現れると
その4つの席が順次、上書きされていく
つまり、
スマホを素早く操作して
30秒間にせわしなく、様々な情報を視覚に入れていくと
何度も何度も4つある短期記憶のワーキングメモリースペースに連想記憶群が上書きされ続ける
そしてその都度、システム2が呼び起こされ続ける、という事になる
スマホ仕様による脳過労を意図的に避けようとするなら
利き手と反対側の手で操作すると改善するかもしれない
これが
直感的に使えるスマホ操作と脳過労の関係だと考えられる
つまり、
スマホの使用はリラックスとは対極に位置してると言える
旅行先や休暇先で
どうしてもスマホをさわったりしてしまうが、
実はあれはものすごくもったいない事をしており、
旅行先や休暇先で得られるリラックスで得られた
せっかくの脳のリソースを
出先でスマホを使う事で消費してしまっている事になる
昼にリラックスして脳のリソースを確保して
夜にスマホをさわって、せっかく貯めたリソースの消費をしている
と、いう構図だ
夜に退屈で何かするのであれば、
情報取得速度のもっと遅い
本を読むなどの方がリソースのロスが少ないであろう
リラックスや休息による
システム2が働くためのリソースの確保できて、
概念抽出とコア感情の特定ができたら
そこから派生してくる
連想記憶群の書き換えを行なっていく
元々あった連想記憶群は減弱し、
新たな、より、好ましい連想記憶群のネットワークを構築していくのだが、
その際に
元々あった連想記憶群をいきなり否定して
脳内の情報ネットワークに不協和を引き起こし
強力な認知的不協和を起こさないようにしないといけない
それが、
元々あった連想記憶群の「減弱」
と
新たな連想記憶群の構築
という、作業になる
この作業は、
連想記憶群の
言い換え(リフレーム)によって
情報の矛盾(両価性)を拡大し、
よりポジティブで肯定的なストロークに
その情報の認知を意図的に変化させ、
同時に、
ネガティブで否定的なストロークを減弱させていく作業となる
この作業には、
システム2のパワーが大量に必要になるため
リソースの確保を十分にしておく事が大切となる
有名なコップの水の話を例にとろう
「コップに水が半分しか入っていない」
という思考をどのように減弱しながら
新たな好ましい思考に置き換えていくのか
やってはいけない事
「コップに水が半分しか入っていない」という思考を拒否しない
→その考えはネガティブでダメだ
言い換え(リフレーム)の際に、元の思考を強化しない
→「コップの水がもっと欲しい」と、順方向にリフレームするのはダメ
増幅は、順方向、逆方向のリフレーム共に避けた方が安全
→「水が全く入っていない」、「水が相当入っている」という増幅は抵抗を強める事がある
思考の置き換えをする際に行う事
その思考が生まれた歴史や経緯を肯定する
→そう思うようになったのも仕方ないかもね、など
逆方向に言い換え(リフレーム)して矛盾(両価性)を拡大する
→「水が半分も入っている」とリフレームする
リフレームした思考を拡大して強化する
→「水がこれだけあれば、ノドをうるおせる」、「水があって良かった」など
拡大、強化した思考を連鎖拡大して連想化させていく
→良かった、嬉しい、ラッキー、色々できる、満足、など
それぞれの連想記憶群の項目に関して
肯定的な記憶群を強化して
否定的な記憶群を相対的に減弱していく
その際に、
元の記憶群の抵抗が強くならないようの注意しないといけない
なるほど
しかしあれだな
私はリラックスという状況を作るのがひどく下手らしい
物心ついた頃からリラックスとはやや遠いところにあったし、
リラックスしてた事があってもその時の事はおそらく無意識にそうなってたであろうからうまく思い出せない
まぁリラックスを意識的に作れるのかどうかはむしろ疑問だが
なぜならリラックスとは意図的にやれるものではないと思うから
無意識に入るからこそのリラックスじゃない?
>>36
リラックスが無意識か、意図的かは置いておいて
この書き込み内容はまさに
概念抽出、連想記憶群、内的作業モデル
の流れを示しているようだ
どの様に
その結論に至ったのかを
コア感情、防衛感情、
概念抽出、連想記憶群、内的作業モデル
に分解して
その流れを理解していくと
なかなか面白いかもしれない >>1 頭の中をお花畑にすれば気分良く生きられるというのか
正論かもしれないが俺は遠慮しておくよ 大まかな流れは
書いた通りだから
あとは実際にどう感情と向き合っていくかという
実践になりますね
その人は
その人の歴史と経験の専門家なので
他人が分析してできるわけでもなく
私も私自身に対して向き合う
という形でやる事になります
何でも何か思ったら
何故そう思うのか
何かしたいと思ったら
何故それをしたいと思うのか
自分に訊ねる習慣を
私は癖にしてるけど
いいと思うよ
私は子供の頃には1日の振り返りを毎晩自然とやってたけど
だんだん思うことが増えてきて全く追っつかなくなってきたわ
考えつつ
ノートに書き留めるといいですね
日記というのは
思いのほか有用なもののようです
昔の人は良い習慣を持っていましたね
日記か〜
何回か後々書こうとしたことあるが
書くことでそれが明確な事実として逃げられないものになって、圧力が増幅される感じでやれなかったのかやらなかったのか
どこかそれを無いものとしていつでも逃げ場を確保するために明確化しなかったってのはあるな〜
しかしあんまり頻繁には使えないがリラックスというかどういう時に状態がいいかってのはあるにはあるわ
私の場合は、
その日に他の人とやり取りした内容で印象深かったものを
夜にノートに書きだして
この部分は、こういう意図での発言だな
この部分は、こういう影響を与えたな
など、チェックを入れて
こういう受け答えにしていれば、
より好ましいコミュニケーションになったかな
などと自分で採点、訂正して
時々読み返したり
訂正箇所を変えたりしている
それでも、現実では
同じ反省箇所でミスったりするので
なかなか難しいものだなと思えて興味深い
>>44
あ〜うん、やってた
ノートには書いてなくて頭の中でだけど
でもいつしかやらなくなったな
なんでだろ?
頭でわかっても、体がついていかなくなったからかな?
それとも何か上手くいくことに飽きたか
上手くいかないことの方に興味が強くなったか
そして今はたぶん、
上手くいくことにもいかないことにも飽きた可能性がある
いや、上手くいくことにもいかないことにも飽きたことにも飽きてるっぽいw >>45
続けていた事を急にやらなくなる事ってありますよね
肯定的な感情や肯定的ストロークが加わると
前頭葉→運動皮質へと刺激が伝わり
行動へと繋がるようです
一方で
否定的な感情や否定的ストロークが加わると
大脳辺縁系の扁桃体から行動を停止する刺激が伝わるようです
怒られたり、嫌だなと思ったり、何かネガティブな印象があると
行動しなくなる力が働くようです
悪い例だと
○○しなさい!
と怒るのは、
否定的ストロークを加えているにもかかわらず行動を促しているので
脳の反応的には矛盾するようです
心のどこかで後ろ向きな気持ちが生まれた時にやめてしまうんでしょうね テレビを見るのは本当におすすめだ
ゲストトークの多いバラエティや対談、ニュースのインタビューが特に良い
CMでさえ、良い
より良く人生を生きるためには
自己の認識も大切だが、
自己表現や自己開示、
相手の理解も
当然重要になる
バラエティのワイプを見れば
内容に対して人の顔がどのように反応するかの参考になるし、
快、不快の判断基準、
顔の振り方や目配せ、
様々な様子を観察する事ができる
もちろん、
顔は嘘つきだが
様々な出演者の
様々な反応を一つの項目
に関して観察できるので
顔の反応の平均値を観察する事さえできる
中でも、視線の動きや目の周りのシワの動きは
かなり有用な情報となる
司会とゲストとの会話では、
司会者の相づちや、言い換え(リフレーム)の割合がどれくらいなら
話の流れが進むのか
どのような応対だと、話題が切れて次の話題に移ってしまうのか
などが、客観的に数えられる
質問1に対して言い換えは2以上にすると良いらしい
ニュースのインタビューでは
受け答えの人のボディーランゲージから緊張の具合を観察できる
体がリラックスしてるように見える人もいるが、
そういった人は仕込みなのかもしれない
お店の店員さんへの質問は打ち合わせはしていても仕込みではないので
お店を訪問してのインタビューは
緊張具合のボディーランゲージを観察するのにとても良い
CMは
その内容に判断を加えずに素直に聞いて、
心の中で相づちを打ったり、聞き返しをする練習にとても役に立つ
自分の認識が変われば問題解決となるのかどうかが分からない
とにかくやってみよう
無理ならまた別の方法を探す
私は
部下に「〇〇をやる時注意した方がいいですよ」
と言われて少し腹が立った
別に変な言い方をされたわけではないんだが、
指摘された事による認知的不協和で
不快感を勝手にシステム1が感じてしまったんだと思う
部下「〇〇をやる時注意した方がいいですよ」
自分「そうなんだ、教えてくれてありがとう」
と、とっさに返せたらよかった
これが上司から部下への関係なら
普通に「ありがとうございます」
と、言ってるわけだが
逆だと、なかなか難しくなる
こういった事でコミュニケーションが断絶する様を
プロセスロスと言う
「俺の方が偉いのに、なんで指摘されないといけないんだ」
「俺が間違ってるっていうのか?」
「俺を非難してるのか!?」
など、否定的な考えが
「〇〇〜した方がいいですよ」
という言葉から概念が抽出され
連想記憶群から否定的な記憶が引き出されたゆえの
不快感、認知的不協和だと思う
本当は、〇〇という行為自体に注意を向けないといけないのに
「言い方」に注意を向けてしまったゆえの不快感だ
自動に働くシステム1の対処は本当に難しい
>>53
その仕事は本当に必要な仕事?
人との関係以前に仕事に対する意義をあまり感じないような気がした
ただの勘なので検討違いのこと言ってたらそういうことで気にしないでね >>54
部下から指摘された仕事内容に対してかな?
もしもそうなら、
正直いって重要度は低い
だけど、
「それは重要度低いから」
なんて言ったら相手の自尊心を傷つけるので
どのような指摘でも感謝を述べておこうと >>56
もちろん利益に直結するかどうかも重要だけど
ザクッとした説明で申し訳ないけど
影響力の広さと深さ
かな
例えば
人間関係は
目に見える利益に直接結びつかなくても
影響力の広さや深さで言えば
かなり重要だし
そんな感じかな
ただ、
その重要度による尺度も
自分の価値観で判断して
と、なる
もしかしたら
部下にとっては
すごく重要度の高い事なのかもしれない
だから、
自分にとって重要度が低いからと言って
無意味で大したことでは無いと切り捨てない
少なくとも、それを言った部下の前では >>57
なるほど
ちょっと前に戻るけど
部下から指摘された仕事内容というか
その会社がやってるそもそもの仕事内容の方かな >>58
企業自体がやってる仕事って事ね
自分で評価するのも変な話だけど、
日本でも世界でも
ないとほぼ100%の人が困るくらいには必要とされてる仕事かな
私の情報はこれくらいで >>59
へ〜それは大変な仕事だね
楽しくやれるといいね >>60
ありがとう
部下にも仕事を気持ちよくやってもらいたいと思ってる ちなみにその仕事やることになったいきさつって何か聞いてもいい?
そういう仕事する人はどういう人生だったのかな?って昔から気になってたのよね
>>62
結果論だけで言えば、運と誠意と信頼関係と継続かな
転職を何回かしてるんだけど
ほとんどの所で上司とすごく仲良くなるし、転職する時には片腕みたいなポジションだったりするから
上司の許可を得てから転職してた
どの上司も、お前のキャリアのためには仕方ない、嫌になったら帰ってこい
というくらいの信頼関係はどこでも築いていた
時には、そこのトップから他の組織のトップへの紹介で転職した事もある
あと、仕事大好きで休みも趣味で仕事してたりしてた
暇があればゲームするように家でできる仕事をしてた
今に思えば、自分で言うのもなんだけど
真面目だし、人を欺かないし、裏切らないし、損得関係なく非常に高い忠誠心示すし
俺でもそんな部下がいたらなんでもしてあげるよなって思うような働き方してた
自分の命=上司への忠誠心
みたいな、
別に強制されたわけでもないのに性格上そういう働き方してたら
どこの上司もとにかく助けてくれるんだよ
「俺に言えばなんとかしてやるから言え」って感じで
言うつもりないし言ったことないし、上司巻き込むくらいなら1人で地獄に落ちた方がいい
っていうかなり歪んだ信念持ってたけど、
異常なまでに高い忠誠心で、人間関係やら信頼関係が自然と作られて助けてもらえた
あとは、
とにかく結果出すまでは24時間でも36時間でも働き続けたりした事かな
結果出すか燃え尽きるかの二分化思考だった
そんな部下がいたら俺もめちゃくちゃ楽だろうなと思うけど
部下にはそんな人間性のない働き方はして欲しくないかな
思いつくことをとりとめなく書いてみたけどこんな感じです
嫌味な表現があったらごめんなさい >>63
あ、いや
なんというか
幼少期はどんな感じで育ったの?
そうなる前のことやね >>64
幼少期は
小2まで暴力的、運動1番、勉強1番、親の呼び出し1番
小6まで勉強1番
その後
基本的に勉強ばかりしてた
相当わがままで自己中、他人は無視、自分が最優先、
楽に結果を出す事ばかり考えてたから、努力して結果出せば最終的には1番楽じゃんと思って勉強ばかりしてた
幼少期は
自己中の塊で協調性のカケラもなかった
寝ます、おやすみなさい >>65
奔放ナチュラル1番
その後努力して結果出せば1番楽か
そして仕事好き、真面目、損得関係なしの忠誠心ね〜
なんともはや
子供の頃はどういう環境だったの?
そうなる要因でもあったのかな?
ありがと
おやすみなさい >>66
おはようございます
子供の時は親の教育方針で家にテレビがなかった
塾には通っていたけど、父親と母親は放任主義
祖父は厳しめだった
と、いうくらいでしょうか、
ところで聞き返しがお上手ですね
どうやって学ばれたんですか? >>67
ふ〜む
放任主義で祖父が厳しめ
家にはテレビが無い
塾には行ってたか
なんというか想像が難しいな
あんまり会話がないというか、血が通ってない無機質な感じかな?
その中でこうあるべき的な圧だけは祖父から受けてたみたいな?
というのも私はその人の人格形成は子供の頃の環境がほぼすべてと思っててね
大人になってからの環境でも変わらなくはないとは思ってるんだが
それで聞いたの
答えてくれてありがとね
私がお上手?
初めて言われた
なんだろ?
大のテレビ好き
夢物語好き
しかしちょっと前まで人を追い詰めるような聞き方がほとんどだったんだけどね
今回もそういうとこあったかもしれないけど基本は聞きたいから聞いただけなんだけどね
あとは、ここでいろいろ教えてもらって少しは自分を客観視出来るようになってたらいいな~ >>68
お上手だと思います
防衛的な抵抗を起こしにくい言い回しで
さりげなくリフレームしつつ反射してますし
要約のサマライズも
相手に問いかける形式の陳述で
相手の中にある意見を引き出す喚起的なものになってますので
夢物語好きの「発想力」と
テレビ番組の出演者を模倣する「表現力」から学んだのでしょうか
ところで、
多分、自分の中にあるのは
自己責任(義務の遂行と権利の主張)
だと思います
祖父と親の影響は大きいかもしれませんね
聞き返ししてもらえたので
自己客観視できました、
ありがとうございます 【恋愛】30代の“未婚女性”は 「他の男性の悪口ばかり…」僕がマッチングアプリで出会った残念な女性たち ★2 [砂漠のマスカレード★]
http://2chb.net/r/newsplus/1622068320/
マッチングアプリは基本的に同世代か少し上の世代からいいねをもらうため、
たとえばアラサーの筆者の場合は30代前半から30代中盤の女性から頻繁にアプローチされます。
しかし筆者がマッチングアプリで出会ってきた30代女性は、世間一般では“立派な大人”であるにもかかわらず、
接していて「あれ?」と思うことが多いのです。
そのため、20代前半から20代中盤の女性としか交流しなくなりました。
◆残念ポイント@ メッセージが長い
◆残念ポイントA 余計な一言が多い
◆残念ポイントB とにかく慎重すぎる
◆残念ポイントC 自分を省みずに悪口を言う
炎上覚悟で言いますが、マッチングアプリで出会う30代の“未婚女性”の中には、自分を省みることのできない女性が多くいます。
例えば、「この前会った男性だけど、全然気遣いできない人で最悪だった」と審査員気取りで男性に対する批判的な発言が多かったり、
自身のコミュニケーション能力の低さを棚に上げて「何人か会ったけど、誰とも会話が全然噛み合わなかった」と言ってきたり。
聞いてもいないことをベラベラ話すばかりでちゃんと会話のキャッチボールができないなど、
このタイプの女性と話していると不快感を覚えるばかりで、全く楽しくありませんでした。
欠点を指摘してくれる友達が周囲にいないのか、
指摘されても受け入れることができずに逆上してしまうのか。
なんにせよ、関わっていても楽しくないため、距離を置きたくなるタイプの30代女性は一定数います。
恋活・婚活がうまくいかない原因が自分自身にあることを考えてみてほしいですが、
こういうタイプの人は他責的な思考を止められないので無理でしょう。
女子SPA! 2021年5月23日 15時5分
https://news.livedoor.com/article/detail/20242486/ >>69
いえいえ
なんか知らんけどお役に立ててよかったです よく知らないけど
討論に出たりしてる人か
よりよく生きるという意味では
討論には近寄らない方がいいと思う
討論は社会的な闘争だし
認知機能というシステム2を大量消費するから
どんどん脳のリソースが消耗していく
討論で脳のリソース消費を最小にするには
相手と自分の意見を切り離す
感情に感情で答えない
相手に反応せずに共感する
というのが良い
つまり、
討論では討論しないのが1番脳に良い
まぁ気分いい人生が人それぞれ違うだろうからなんとも言えんか
そうだな、
本当に人それぞれだと思う
そして、その
人はそれぞれ違う
という事実を受け止めきれないと
何か言われてイライラしたり
話を無視されて無礼に扱われたと思って
ストレスが溜まっていく
自分が考えてるように他人も考えてるだろう
という、連想記憶群が不快感を生み出す
他人に惑わされないという事が大切なんだろう
他人に過度に期待しないことが肝要だよね。
家族だろうが友達だろうが、あくまで自分とは別人格なんだから。
>>77
本当にそうだよね
時々
あ、この人話しが合う
と思う人にも出会う事があると思うけど
これって
防衛機制でいう
同一視(相手と自分を重ね合わせる)の入り口で
注意しないといけないんだよね
何かの口論で喧嘩した時に
同じだと思ってたのに違った!
ってなって関係が壊れてしまう事があるから
より良く生きていくために
人はみんなそれぞれ違っていて別々である
隣に寄り添って相手の気持ちに共感してあげる事はできる
相手と自分は違うんだから重ね合わせる事はできないし代わりになってあげる事もできない
という人間関係が大切だと思う
付かず離れず、触れるか触れないかくらいがいいのかな >>78
共感って本当にできる?
できてるようでたぶん本当はできてないでしょ
たぶんそういう生き方ができる人って力がある人だけだと思うわ
結局力のない人に気分良く生きることはできない
誰でも努力すればなんでもできるわけじゃないからね >>79
自分は今できなくても
できるようになれると自分自身を信じてるし
できるまで続ける
できないという人には
その人の考えがあるんだろうし
意見は尊重するよ
同意と共感は違うからね
同意(情報への賛同)はできなくても共感(相手の気持ちを理解)はできる
その意見には賛成できないけど
あなたがそう思うにいたった経緯や、それに対する感情は
仕方のない事だったんだろうし、そう感じる気持ちは紛れも無い真実なんだろうね
と、いうニュアンス >>80
横だけどそのニュアンスだと共感というよりは理解なんじゃないか
共感は共に喜び怒り悲しみ苦しむって感じ >>81
そうだね
感情の理解と共感かな
共に喜ぶ場合は
同一視(相手との重ね合わせはまずいと言われてるね)と区別をしないといけないかな
相手が悲しんでる時に
自分の事のように一緒に悲しむのを
防衛機制の同一視
と言って
自他の区別がつかなくなっていて
相手の感情に飲み込まれてると言います
相手が悲しんでる時に
相手の悲しみを理解する姿勢を見せて
それは悲しいよね
って相手の感情に共に寄り添い
それでも、その悲しみは自分のものではない
という、スタンスが
自分を他人を分けるという事です
相手の悲しみを味わうのではなく
悲しんでいる相手の手を取ってあげるのが
同一視と区別される共感となります 比較的ごちゃごちゃにされやすいのが
共感
同一視
同意
同情
です
これらを同じものとして扱う傾向が見られる時があります
それぞれで
共感
相手と一体化せずに自他の区別をつけながら、相手の感情を理解し表現する事
同一視
相手の感情と一体化する事
同意
相手の示した事象に賛同する事
同情
客観的に相手の感情を評価する事
と、なります
例えば、
相手「物を壊したら、怒られて悲しい」
と言った場合
共感
「そうか、物を壊して怒られたのかな?それは悲しい気持ちになるよね」
同一視
「悲しい、辛いよな(自分の事のように涙を流して嗚咽する)」
同意
「物を壊したくらいで酷いよね」
同情
「怒られてかわいそうに(他人事のように評価的に表現する)」
と、なりそれぞれで別々の役割があります
ただ、これらは明確な境界がない事もしばしばあり
一部で重ね合わせるが起きる事もありますが、
精神医学で言う
「共感」には
自分と他人は違う
という条件が付きます
逆に
自分と他人は同じ
という条件が付くのが
「同一視」
ですが
世間一般では、
両方とも合わせて
広義の「共感」と表現しているように感じます
ん〜
ものすごく分かりやすい
精神医学では細かく定義されてるんですね
日本語に訳した人のセンスが凄いわ
共感と同一視を
自分の感情の問題としてみた場合に
コア感情に対しては
システム1(コア感情)→システム2(意識的認知)
という自己が自己であるコントロール感を持つため
「同一視」自分は自分である
という状態になるのに対して
防衛感情に対しては
システム1(防衛感情)←システム2(意識的認知)
という、感情をシステム2から共感的に理解して認知する
「共感」感情に飲み込まれない
という事が必要になってきます
治療を受ける場合は、このコントロール感のない
システム1の防衛感情を
他人が自他の区別をつけて感情に飲み込まれないようにしながら
共感的に理解して治癒を目指す
のに対して
自分で対処する場合には、
大脳辺縁系の扁桃体にあるシステム1の防衛感情を
大脳新皮質にあるシステム2で
感情に飲み込まれないようにしながら
認知的に共感的理解をしてコントロールしたり、感情から離れたりする
という事になります
きっと>>86が正確で分かりやすい説明なんだろうけど逆に専門的すぎて分かりにくいわ
かといってこれを噛み砕いて書き出すと長文になっちゃうんだろうね 他人に話を聞いてもらい、
気持ちの問題を解決する方法と
自分で
気持ちの問題を解決する方法は
基本的には同じだ
そこに共通するのは
認知作業の過重労働を抑え
システム2の働くリソースを確保する
感情の知的理解(知性化)から離れ
評価のない全面的に受容される
自己の内面への傾聴的態度を発現させる
フェルトセンス(言葉にならない形になる前の感覚)
の最も最新部のコア感情へとアクセスする
という事だ
これらを
他人に助けてもらうか
自分でやるのか
だけの違いとなる
認知行動のおさらいをすると
内部、もしくは外部刺激
↓
大脳辺縁系でのシステム1による概念抽出
↓
大脳辺縁系扁桃体でのシステム1によるコア感情の発現→大脳新皮質でのシステム2による社会適合性の高い認知、行動
↓
大脳辺縁系海馬からの連想記憶群の抽出(30秒間で最大4つの連想記憶群が短期記憶ワーキングメモリに蓄えられる)
↓
大脳辺縁系扁桃体でのシステム1による防衛感情の発現←大脳新皮質でのシステム2による努力的認知的コントロール
↓
連想活性による連続的な連想記憶群の発生
↓
大脳新皮質のシステム2による連想記憶群に対する認知の過重労働によってリソースが消耗される
他人に話を聞いてもらい自分の内面と向き合う場合の構造は
相手が評価を加えない全面的受容的な態度で話を聞く
↓
共感を示して、相手の認知的反応(抵抗)を下げる事でシステム2の稼働を落とす
↓
共感、是認、自己開示、アタッチメント形成(愛着形成)などを使って相手とページング(波長合わせを行う)
↓
ページングによって、自分の全面的受容的共感的態度が、相手の態度へと同一化をはじめる
↓
相手が自分の内面に対して全面的受容的共感的に自己探索(フォーカシング)を始める
↓
アタッチメント(愛着形成)の安心感を拠り所としながら、相手の自己探索(フォーカシング)を助ける
↓
防衛感情への自己共感的態度、連想記憶群への是認をしながら自己探索を続ける
↓
コア感情と概念抽出まで自己探索を行う
↓
システム2のリソースがたまる事で防衛感情の認知とコントロール性が高まる
↓
フェルトセンスの奥底のコア感情へアクセスする事で自己が自己である自己感を獲得する
↓
社会適合性の低い連想活性群から両価性(矛盾の存在)を引き出し、社会適合性の高い部分を強化する
↓
より、社会適合性の高い連想記憶群で社会適合性の低い連想記憶群を上書きしていく
と、なる
この、他人がやってる事を
自己の大脳新皮質にあるシステム2で行う事が
自分自身での解決法となる
その際に最も大切なのが
システム2が十分に稼働するだけのリソースを必ず確保するという事になる
自分で自己への共感や是認、自己探索を行なっている最中に
システム2のリソースが枯渇するのが意味するのは
話を聞いていた人が突然目の前から消失していなくなる事を意味する
つまり具体的にはどうすればいい?
特に自分自身での解決方法の方
大前提としてリラックスする事が必要です
これは必須です
リラックスの方法は
軽い運動をする
お風呂につかる
瞑想する
小説を読む(明るい小説)
散歩する
など、人によるので自分がリラックスできる方法をします
次に
脳を過剰に使用する事をやめます
スマホの使用時間を半分にする
過去や未来ではなく、今、ここに集中する
過激な描写のあるゲームやテレビを見るのをやめる
悪いニュースを見ないようにする
など、脳の稼働率を下げます
これらを行なって
脳のリソースを回復させます
リソースがないと始まりません
当たり前
と思うかもしれませんけど
実際に
リソースをためる事
と
リソースの消費を減らす事
ができていないのが現状です
リソースがたまっても
ゲームをやり続けて消費する
スマホを触り続けて消費する
過激なニュースを見て消費する
という事を繰り返して
リソースがたまらなくなっています
旅先でリフレッシュしたけど
夜はスマホを触って
昼間のリラックスを帳消しにする
といった行動が典型例です
スマホ使用などは
その時はスッキリするように感じても
ネガティブな情報の収集
認知機能の高速使用
など
で、中長期的に見ると
デメリットがメリットを上回る
負の循環に陥る可能性がある
その結果、
気分が晴れずに
またスマホを触るという行動を起こす
必要な客観的情報の収集
例えば、天気予報
などは有意義であろうが
暇つぶしに使うといった場合は
その行動自体が、
その瞬間の他の対象(暇など)の
回避行動として使われる代わりに
悪循環を引き起こす
負の強化の要因となりえる
ありがとうございます
なるほどこれは具体的で分かりやすい
旅先の話はホントあるあるだなぁ
能力や財産、人脈など
人生では様々に有意義なものがあるが
気分良く生きる能力
を身につける事ができれば
死ぬまで有効に使う事ができる
とても有意義なものとなる
人生で直面する
挫折
別れ
孤独
人間関係
健康問題
金銭問題
生きることの意味
など
様々な問題に対して
応用性のある
気分良く生きる能力
を身につける事が求められる
問題に直面する時に
全てに共通する重要事項が
システム2活動のリソースの確保(大脳新皮質の活動確保)
システム2活動とリソース消耗の減少(大脳新皮質の過剰使用の抑制)
となる
究極的に言えば
この2つさえ確実に達成できてしまえば
それ自体が、気分良く生きてると言えてしまう
どうやら努力では出来ない事があるって事を知らないみたいだ
勘違いしたまま人を傷つけるタイプ
それに気づかないタイプ
気づいてても出来ないタイプ
気づいててもしないタイプ
いずれにせよ重度の症状だな
少なくも絶対に子供を育てたりなんかしてはいけないタイプのやつ
非難の認識による認知的不協和というものも
システム2のリソースを大量に消費する
すなわち
否定的な意見が自分に向けられた時の
葛藤や抵抗というものだ
これは
残念ながらどんな場所や時でも起きる
そして、多かれ少なかれ不快感を引き起こす
その際に最も大切なのは
それを発信した人間が自分にとって信頼に足る相手か
と、いう事だ
信頼に足る相手の批判は自省の材料となるが
そうではない相手の場合は
無意味だろう
何故なら
それを発信した人間が
どんな人間か分からないのであれば
判断材料にならないからだ
相手の非難は
相手がそう思ったという事実があるだけで
あとは、受け入れる側の決定となる
そこを注意しておかないと
ストレスというものから解放されない
顔も名前も素性も知らない人間の意見が
どれだけ自分にとって価値があるかをよく考えてから
心に入れるのか
捨て去るのか
自己決定する事が大切となる
相手がそう思って言った事
自分の認識
物理現象や事象としての事実
この、3つは必ず分けて考えないといけない
これが、
人間葛藤場面でとても大切になる
同意はできないが、共感はできる
と、いう事だ
同意と共感を混ぜる場面がよくあるが、
この2つを切り分けないと
人間葛藤は解決しにくくなってしまう
あなたの意見には賛成できないけど、
あなたの言いたい事は理解したし、
そう言いたい理由も理解した
というスタンスが
人間葛藤を回避して、
よくよく人生を生きるヒントとなる
「相手がそう思って感じた事」
は紛れもない事実なので
それを、共感という是認行為で表現しつつ
「自分の認識」とは違う
と、ういう不同意を持つ必要がある
そして、
それとは別に
「相手の認識」とも「自分との認識」にも属さない
「物理現象や事象としての事実」
を混ぜないようにする事が大切となる
自分の認識がこの世の事実
相手の認識がこの世の事実
相手の認識と自分の認識とどちらが正しいか
という、的外れな事をやると
よりよく生きていくのが難しくなる
3つそれぞれの項目は、
それぞれが、その属性においての事実であって
別々の属性を持つものだと分けて考える必要がある
言語で理解に努めるが中身はすっからかんなタイプ
結果を伴えないタイプ
井の中の蛙タイプ
こうやって問題点を上げてけばアップグレードしていくのかな?
相手から批判が寄せられるパターンは
その人が見た意見を客観的な事実と誤認した
個人的なトラウマや体験に触れる(例えば今回の例で言えば親から努力を強いられた経験がある
自分の意見と相手の意見を対立させた
自己への低評価や自己効力感(自分の能力の肯定感)の低評価を刺激された
など
何かしらの刺激によるものだが、
当然その理由は本人にしか分からない
だが、
負の感情を引き出すものには
相手のコンプレックスや経験が関係している事があるので
批判に対して
「お前は間違っている」
と指摘するのは推奨されない
何故ならそれは
当然ながら相手の抵抗を高めるためだ
相手の行動の理由を先入観で決めつけずに
「理由は自分には分からない」
というスタンスが必ず大切となる
批判が寄せられた時の態度としては
まず、相手の意見を尊重する事が必要となる
基本的には、
相手の話は途中で腹が立っても全て聞く
その上で
「なるほど、あなたはそう思っているんだね」
という、スタンスで返す必要がある
この場合に行われる事は
相手が、何らかの感情を持って、反応した(思考をして答えた)
という事実に対して
是認を行う事である
この場合には、
相手の意見を尊重し、
相手がそういう意見を持っている
と、いう事実の確認となる
当然ながら
これは同意とは別で、
自分の意見と相手の意見のすり合わせは行わないので
認知的不協和とはならない
そして、
「自分の意見とは違うね」
という行程に入るが、
この部分は言わなくてもいいし、
自己の立場を明確にする場合には自己開示として伝えても良い
抵抗を含んだ反応への返答としては、
「相手の思考を是認して」
「自分の意見とは違う事を確認し」
「事象とは切り離す」
というやり取りで
葛藤場面の回避を無理なく行う事が出来る
具体例的には
「なるほど、あなたの言う通りなのかもしれないね」
と返せば良い
「なるほど、あなたはそう思っているんだね」
とダイレクトに返すと、その後に
「俺はそうは思わないけどね」
と相手が想像で付け加える可能性があるので
その場合には相手の抵抗が高まる可能性があるため
前者の方が対応としては、好ましいと思われる
実際にやってみると
>>102
確かに、そういう考え方もあるね
自分の気付いてなかった事に気がついたよ
ありがとう となる
言語は事実を表さないので
コミュニケーションにおいては
好ましい結果であるなら、相手が勘違いしても構わない
という状態が発生する
相手が
「同意したな」
と思ったとしても
職場や仕事関係など業務の問題が出る場面でなければ
相手の勘違いは問題とならない事になる
大切なのは
自分の認知的不協和を起こさない事
相手の抵抗を高めない事
葛藤を引き出さない事
と、なる
自分の認知的不協和を刺激しないという条件のもとなら
「なるほど、全くもってその通り、俺が間違ってたよ」
と伝えても良いのだが
この場合は
「自分の認識」と「意見への同意の言葉」に乖離が存在するため
思ってる事と言ってる事が同じ(自己一致)
が達成されないため
どこかで認知的な不協和を起こす可能性があるためあまり好ましいとは思われない
これらを実際の場面で不快感なく行えるようになると
大幅に人間関係間の葛藤が減少して
日常生活のストレスを減らす事ができる
反応の種類には
肯定的ストローク(ほめる、肯定するなど
否定的ストローク(否定する、怒るなど
ディスカウント(存在を否定するなど
があるが
相手の言った事を気にせず無視するのは
ディスカウント(相手の存在を認めない)
に属する
「無視」
は、間接攻撃に分類されるため
人間関係が絡む場合に、
批判された時に「無視」するのは攻撃行動になってしまう
そのため、
批判されて無視するのは
一見して受け入れられるように見えるが
実は
否定的ストロークよりも悪影響を及ぼす可能性がある
そのため、
実際の人間関係で葛藤場面が起きた時には
「肯定的ストローク」
で、相手の感情を肯定してあげる事がとても大切となる
例外として、
その相手と関係を継続しない場合には
「ディスカウント」
を行なっても良いが、
その後の関係修復は絶望的となる可能性があるので
よく考えた上で選ぶ必要がある
「好きの反対は嫌いではなく、無関心」
とは
肯定的ストロークの反対は
否定的ストロークではなく、
ディスカウント
という事になる
肯定的ストロークも否定的ストロークも関係性は継続するが、
ディスカウントは関係性を終わらせるからである
クレーム対応など仕事の上では実践してるのに一番大切な家族に対してやらない人って多いよね
気分よく人生を生きるために最も重要なのは一般的には配偶者だろうにね
>>109
本質的ですごく重要な指摘だと思いました
そして、
全面的に同意見です
配偶者を含む家族に対して好ましい態度、接し方をするのは
人間関係の中で最も難しい部類だと言われています
これは、
ソーシャルスキル(対人スキル)を家族、配偶者に適切に使えない
と、言い換える事ができます
会社ではうまくソーシャルスキルを使える人でも
自分や配偶者が
話し合いに乗らない、返事だけして聞いていない(回避行動)
過剰に反応する(攻撃行動)
無視する、乱暴に行動する(間接攻撃行動)
と、いった行動をするのはよくある話です
これは、
通常の社会的な関係では
親密さや接触時間が限定されるため
大脳新皮質の理性的認知(システム2)
を使用した対人スキルで
意識的、認知的に対応が決定されるのに対して
接触時間が多く、親密さの形成されている関係では
大脳新皮質ではなく、大脳辺縁系の連想記憶群といった反射(シシテム1)
によって対応が決定されるためです
接触時間の限定されている相手には
お願い事をしたい→システム2で適切と思われる対応を決定する→お願いをする
と、なるのに対して
配偶者など接触時間が多く関係性が確立されている場合には
お願い事をしたい→システム1を使い連想記憶群からアルゴリズム化された対応方法を抽出、決定→お願いをする
と、なります
この、連想記憶群から抽出された、
家族に対するアルゴリズム化された行動様式は
自分の育った環境が
内的作業モデルと呼ばれる形式化された反応で引き出されます
すなわち、
親に対して「あれやって、これやって、なんでやらないの!」
という対応をしていた場合には
その内的作業モデルが配偶者への対応に引き継がれる事となります
子供のしつけは接触時間の関係から
母親から影響を受けやすい傾向があるため(父子家庭の場合は父から)
結婚の際に
「相手の母親を見ろ」とか「相手が両親に接する時の態度を見ろ」
と言われるのは、
それらの内的作業モデルが自分にも適用されるから
と、いう事を経験的、教訓的に表してるからだと思われます 個人として、
精神的に折り合いをつけたり
リラックスをして障害に対する適応力を保持する
という事はとても大切だが
一方で、
それだけでは乗り越える事が困難な事も多い
そういった場合に
自分以外の他人との
愛着のある関係が救いとなる事も多いと思われる
そういう事を考えれば
問題やそれに対する自分の認識
といった、自分への向き合い方を認識し直す他に
他人との向き合い方、
ソーシャルスキル(対人スキル)
に関しても注意を払わないといけない
一方的に相手がこちらに合わせてくれる
といった事は少なく
こちらが相手に合わせ続ける
という関係性にも持続性はない
対等な関係性で
相手の価値観と自分の価値観をバランスよく組み合わせて
表現する力(アサーション)
の能力が大切となる
「自分はこれだけやってるから、あなたにもこれだけやって欲しいな」
と言ったような、折衝能力になるが
これ一つをとっても
相手の捉え方によっては抵抗や対人葛藤場面を引き起こしてしまう
「なるほど、それだけやってるなら俺もやるね」
といったところから
「なんだ?俺がやっていないとでも言いたいのか?」
といったところまで、
個人の反応は様々に変わる
これらは認知の歪みや価値観、先入観によって影響を受ける
つまり、
アサーションの際には
個人個人をバックグラウンドを含めてよく理解して
その相手の波長にあった表現の仕方をする必要がある
そのため、
対人適応能力と自分の感情のコントロール力、語彙、雰囲気、表現力など
が必要とされる
非常に高次の複合的能力が求められる
自分の問題を認識しない相手との折衝を考えてみよう
自分はうまくやっていると思い、自己評価が高いが
他者からの評価は低く、問題行動を示す相手を例に取ると
「あなたの行動には問題がある」
といった直面化を行うと
相手からの強い抵抗と葛藤場面が引き起こされる可能性がある
逆に
「あなたの行動はとても良いよ」
と表現した場合には
相手との絆が深まり
親密さ、信頼感、愛着が増す一方で
問題行動は棚上げされる
通常のコミュニケーションで相手と折衝をする際には
親密さ、信頼関係、愛着は
前提条件となる
(否定的ストロークで外発的動機づけで折衝する場合は除く)
そのため
相手の内側に立ち肯定しつつ、相手の問題に対する認知の変容を促す
という、矛盾を含む難しい対応が求められる
そのため、
よくあるのは
「お前のここがおかしいから、直せ」
といった否定的ストロークを用いた外発的動機づけ
で相手をコントロールしようとする行為である
会社で上司が部下に怒るような場面である
一般的にマニュアル化した対応方法は示せないが
ヒントとなるのは
自己一致(相手を受用的に受け止め、その上で自分の気持ちと言動を一致させる純粋な心)
と
アサーションを組み合わせた方法である
例えば
「あなたが頑張ってやろうと思って、自分なりにどうしたらより良く出来るかと真剣に考えてる気持ちがすごく伝わってくる。
そういったあなたの気持ちに感謝もしているし、嬉しいし、それを考えると俺もその気持ちに応えたいという思いが強く湧いてくるんだ
だって、本当にあなたに感謝しているから…
その一方で、◯◯に対する対応で変えて欲しいという気持ちもある
あなたには、あなたにしか分からない事があるのかもしれないし、俺も分かってあげたいという気持ちが強いのに
あなたが◯◯をするたびに、俺はとても苦しくて暗い気持ちになってしまうんだ。
あなたが、あってるとか間違ってるということではなく、純粋に俺の気持ちが苦しくてとても辛いんだ。
だから、無理強いはできないけど◯◯の対応を変えてくれると嬉しいという、俺個人の気持ちでの希望がある。
でも…いつも本当にありがとう、感謝してる」
といったような表現もできる
これは
方向性を示す指示的な態度を示しつつ
自分の感情にフォーカスしながらリクエストをする
という
相手の立場を肯定しながら、自分の感情の肯定としてのリクエストを出す
という、構造になる
当然、リクエストの形を取るので選択権は相手側にあるのだが、
選択枝が与えられないまま選ばされる行為と
選択枝を与えられて提示された行為では
相手にとっての認識が大きく異なる
否定的ストロークを用いた外発的動機づけは
一見すると操作性が高いようで
実際の構造は
ネガティブ要因からの回避
という、相手が選択を行った事に留意しないといけない
つまり、
どのような動機づけをしたところで
実際には相手が選択と決定を行っているのだから
肯定的で指示的な選択肢を与えた方が
メリットが多くなる可能性がある
という、事である
うわっつらのテクニック論だけで中身がさっぱりついてきてないな
気分良く生きるが自分さえ良ければそれでいい論でしかないな
それが通用するのはそれに気づかない人か自分さえ良ければそれでいい人同士でだけだろうね
とりあえず何でも出来るってんなら
東京五輪の100m走代表になって金メダル取って世界新出すか
不治の病で苦しんでる人を10日以内に治してきたら認めてあげるわ
こんなネットの口先だけの世界じゃなくてリアルで結果出してきてね
おまちしてま〜すノシ
何も考えていないのと、瞑想の違いは
意識を集中しているかしていないかにある
何も考えていないと、脳は活動が休止しており
瞑想中には、脳はアイドリング状態となっている
暇でボケるというが、これは前者である
怒りや不快感に伴う人間葛藤場面に関して考えてみよう
怒りや不快感を感じる特定の場面では
1、怒りや不快感を感じにくい
2、怒りや不快感を我慢する
3、怒りや不快感を表現する
の3種類の反応がある
1、のように同じ経験をしても怒る人と怒らない人がいるのは、認知の違いによる
同じように「バカ」と言われても、
「大した事じゃない」と意に介さない人もいれば
「ふざけるな!」と怒る人もいる
これは、その特定の場面での状況や情報が連想記憶群に紐付けされた記憶と感情を呼び起こしそれに反応するためだ
いわゆる、個々の捉え方の違いというわけだ
この認知工程において社会適合性の高い連想記憶群が紐付けされていると、大脳新皮質におけるシステム2のリソースの過剰な消費を抑える事ができるため、非常に好ましい
その反面、認知の再構成を行うため、時間と労力と不確実性を負うこととなる
システム2のリソースはこの認知の再構成の段階で大量に消費されるため、難易度も高く計画性と高い忍耐力が要求される
2、の場合は、状況に対する認知の再構成ではなく、状況が起きた後の即時的な情報の再認識、
つまり、状況に対して発生したシステム1による連想記憶群の発生をシステム2によって抑える、もしくは連想記憶群から発生した記憶の認識を評価し直すという行動になる
1、と2、の違いは
1、が、「バカ」→この情報は自分の価値を下げないと認識(システム1)→反応せず
なのに対して
2、が、「バカ」→この情報は自分の価値を下げると認識(システム1)→それほど怒ることでもないと認識(システム2)→反応せず
と、認識による対処がシステム1で行われるかシステム2で行われるかの違いがある
そのため、2、の場合には落ち着いていたり、捉え方の柔軟さが持てるだけのシステム2の余裕が必要となる一方で
その都度システム2のリソースは消費され続けるが、広い範囲での状況に対応できるため柔軟性は高くなるものの、精神的な疲労は蓄積していく事となる
3、の場合にはその状況に対する認知的不協和を解消できる可能性があるが、長期的には人間葛藤を強める可能性があり
結果として、負の悪循環、負の強化を引き起こす可能性があり、将来的なシステム2の大量消費へと繋がる可能性がある
しかし、2、のように我慢をして抱え込んだ際には認知的不協和によるシステム2の大量消費と、思い出し怒りと呼ばれる新たな負の連想記憶群のネットワーク構築が起きる可能性があるため、場合によっては怒りや不快感を表現した方が最終的なシステム2の消費は抑えられる場合がある
例えば、
上司に何か言われて我慢するのは
怒りや不快感を表現する事によって見積もられる将来的なメリットが認知的不協和を解消する現在のメリットを上回ると認識したからだし
部下の気にくわない部分に対して文句を言うのは、
怒りや不快感を表現する事によって見積もられる将来的なメリットが認知的不協和を解消する現実のメリットを下回ると認識したからだ
つまり、その時々でコストの算段をして行動を決定しているが、この算段も当然システム2が十分働く状況下でなければコスト計算はできない
実際にはこのようなコスト計算が行われている場面ばかりでなく、怒りに任せて行動してしまい、コスト計算上で損をしている事も多々ある
怒りや不快感を表現する際に注意したいのが、その表現の方法だ
「ニコニコしながら、心を落ち着かせて相手の言い分も聞きつつ自分の主張をする」
とは、とてももっともらしいがそれは
「ホームランを打つには、ボールをよく見て、バットの芯に当てて、思いっきり振り切ればいい」
と教えるくらい無意味なものだ
つまり、説明はできるけど実際にはできない、という事だ
では、怒りや不快感を感じる際に可能な限りコントロールできる事は何だろう
ホームランの打ち方で言えば「ボールをよく見て、思いっきり振り切ればいい」の部分に当たり
つまり、成功するとは限らないが「目をつむって、バットをふらない」よりも成功確率が高く、実際に自分で確実にコントロールできる事となる
人間葛藤場面で相手との関係性の悪化を抑えつつ怒りや不快感を表現して認知的不協和を解消する際にコントロールできる事は
可能なかぎりゆっくり話すようにする(コントロール難易度低い
声を荒げない(コントロール難易度低い
声を低くする(コントロール難易度低い
といった言語的なパラバーバルの部分になってくるのではないだろうか
怒っていたらシステム2の余裕のなさから言語のコントロールも難しくなり、顔の表情のコントロールもできてせいぜい無表情となるかもしれないが、音声の音色のコントロールがこの中でコントロールするには1番しやすいと思われる
言語情報33%、ノンバーバル33%、パラバーバル33%で考えれば全体の3分の1はある程度コントロールしやすい範囲に収まると思われる
ボールに当たらないかもしれないが、ホームランになる可能性は少しでも高められるという意味で
怒りや不快感を表現する際にはせめて
ゆっくり、平坦な声で、低く話すようにするといいかもしれない
わかるわ
まぁ、快にも色々ある
他人が毒を喰わない快が一番よいかな
人間関係の構築における相手からの質問に対する返答について考えてみよう
相手からの質問は大きく分けて
「答えを求めている質問」と「答えを求めていない質問」に分けられる
答えを求めている質問の代表は、客観的事実を求める質問だ、例えば
「トイレはどこにありますか?」
「次はいつ一緒に遊べる?」
「手伝う事できる?」
といった質問で、これらは客観的に認識できる事実となるため回答を求める、回答可能な質問となる
一方で、答えを求めていない質問は、単純に共感を求めていたり、愚痴の類であったり、洞察を引き出す事を求める質問だ、例えば
「部長腹立つわ、どう思う?」
「あの製品買ってすぐ壊れたけど、おかしいよな?」
「自分の一体何が悪いと思う?」
といった質問だ、そしてこれらに答えてしまう「間違い指摘反射」をしばしば人はしてしまう
つまり、自分の意見を求められていると勘違いしてしまうのだ、そして
「俺は、部長は変な事を言ってないと思うよ」
「安物だし仕方ないでしょ」
「お前は怒りっぽいところがダメだな」
といった回答をしてしまい、相手の抵抗を引き出してしまう
これは、「間違い指摘反射」に対する相手の自律性、主体性、認知の侵害、両価性(矛盾の存在)への片入れによる抵抗的な反射によって起きている
そのため、この際には
「お前も部長の相手して大変だよな、腹も立つよな」(同意のない受容と共感的理解)
「壊れるの早かったよな」(是認)
「何か自分で思うことでもあったの?」(内的照合枠に対して探索をする、洞察を深める)
といった反応をすると、防衛的な抵抗を引き出しにくくする事ができる
これだけを見ると、客観的な事実を聞いている場所は答えを求めていて、感想や意見を聞いている場合は答えを求めていない、と思いそうだが、当然そうとは限らない
つまり、「感想や意見を聞いている場合」に本当にその人の意見やアドバイスを求めている場合もあるという事だ
例えば
「自分は何を直した方がいいと思う?」といった質問だ
これは「自分の一体何が悪いと思う?」という質問とよく似ているが、明確に違う点がある
それは、「解決の方向性を求めているかどうかだ」
これと似たものが
「急に電気がつかなくなったけどどうしよう?」という質問と
「急に電気がつかなくなったけどどうしたらつく?」という質問だ
この2つは本当にそっくりだが、
上は、「困った」という感情に焦点が合っているのに対して
下は、「どうしたらつくのか」という解決の方向性に焦点が合っている
この二つの区別がつかないと、両方で「◯◯すればつくよ」となるが、最初の質問では焦点が合っているのは感情なので、相手の質問に応答してない事になってしまう
そのため、上の質問に対しては、
「それは困ったね」と最初に受容と共感を示して相手の質問に対応するニーズを満たした後に、さらなる相手のニーズに従って求められれば解決策を示す事となる
つまり、
「急に電気がつかなくなったけどどうしよう」→「それは困ったね」→「どうしたらつく?」→「◯◯したらつくよ」
という流れになる
先の
「自分の一体何が悪いと思う?」
「自分は何を直した方がいいと思う?」
の質問においても、質問の焦点がどこに当たっているかを考えなくてはならない、それは
上は「何が悪いんだ」という戸惑いに焦点が当たっており、
下は「何を直すべきなんだ」という解決の方向性に焦点が当たっている
という事だ
つまり、
上は相手の意見の中に解決を求めておらず、下は相手の意見の中に解決を求めている、という事だ
例えば、「自分の一体何が悪いと思う?」という質問に対して「お前は◯◯なところが良くない」と答えてもそれは解決の方向性に答えていない事になってしまう
一方で、「自分は何を直した方がいいと思う?」に対して「お前は◯◯なところを直すといいと思う」と答えると、「◯◯を直す」という解決の方向性に答える事となる
これは非常に相手の焦点がどこに当たっているのかを正確に把握する高い集中力が必要になってくる
上の質問での流れは
「自分の一体何が悪いと思う?」→「何か自分で思う事でもあったの?何かこうしたいとか」→「自分でもよく分からないんだ、自分の悪いところが…何を直した方がいいのかな?」→これは俺の個人的な意見だけど言ってもいいかな?」→「いいよ」→「◯◯なところを直すのはどうかな」
といった流れになる、これは
質問の方向性が定まっておらず、困惑の感情に焦点が当たっている→相手の困惑に受容的に寄り添って洞察を深める→相手が方向性「直すべき事柄の発見」に焦点を当てる→意見を述べる事の許可を求める→相手の同意が得られる→意見を述べる
という流れになる
人間関係の構築における質問場面では、常に「何に質問の焦点が当たっているのか」を考える必要があり、それに対して適切な反応をしないと「この人は自分を理解できてない」というすれ違いによる人間関係構築の失敗につながる
これは、相手がする質問が
「客観的な事実の回答を求めているのか」
「方向性に焦点を当てた意見としての回答を求めているのか」
「感情に焦点が当たっていたり、方向性の定まらない状態に対する陳述に対して、共感や是認や受容を求めているのか」
のどれか、つまり焦点の在りどころを見つける必要があるという事である
当然、焦点がどこに当たっているかは、言語や態度や音声や前後の文脈で総合的に判断しないといけないため、単純にこれだと決め付ける事はできない
それは
「自分は何を直した方がいいと思う?」という質問に対しても「どこか直したいところがあるの?」といった受容的な相手の洞察を深める反応が適切な場合もあるという事である
しかし、一つ言えることは、自分の意見を述べる場合はよほど慎重になって本当に自分の意見を相手が求めているのかをよく考えた上で答えないと、相手が聞きもしたくない事を答えても人間関係構築の邪魔になってしまうかもしれないという事である
アドバイスや意見はよほど慎重に慎重を重ねた上で、最後に残った最終選択肢として行うのが得策であろう
相手が求めていない助言(アドバイス)をしてしまわないようにするためにはどうしたらいいか考えてみよう
前提として
自分は、他人にアドバイスをしたがり
相手は、本人がすでに知っているアドバイスや求めていないアドバイスを必要としない
という前提がある
つまり、相手が「アドバイスを好ましい形で手に入れる」という形でアドバイスをする必要がある
そのために
明確に相手がアドバイスを求めている
アドバイスをする許可を得る
相手のアドバイスを取捨選択する権利を明確にする
相手がすでに知っている内容をアドバイスしない
相手に選択する権利を与える
という事が大切となる
アドバイスを求めているようで求めていない場合
例「○○部長腹たつわ、どう思う?」といったような感情に焦点が当たったものを除いて、明確にアドバイスを求めている場合
例「○○部長との業務連絡がうまくいかないんだけど、どうしたらいい?」
というものに対してアドバイスをする際に
「きちんと部長の手が空いた時間を確認して、手短に結論から話すといいと思うよ」
というアドバイスをした場合には
「もうやっている」と抵抗が返ってくる可能性がある
この際の問題点は、
相手がすでに知っている内容をアドバイスした、相手の選択権を無視した、取捨選択の権利を示していない
という事によって相手から抵抗が引き出されている
さらにこれが、
「○○部長との業務連絡がうまくいかないんだけど困ったな」
というような、明確なアドバイスを求めていない際には、許可も得ていない事になる
では、相手の抵抗を引き出しにくいアドバイスの方法はどのような流れだろう
例
相手「○○部長との業務連絡がうまくいかないんだけど困ったな」←問題の焦点が感情に当たっている、アドバイスを求めていない
自分「それは大変だね、もしよければ俺がやっている方法を話してもいいかな?」←アドバイスする事の許可を得る
相手「ああ、いいよ」
自分「いつもはどんな感じで業務連絡してるの?」←相手がすでに知っている事の情報を集める
相手「部長の手が空いた時を見計らって結論から話すんだけど、どうもうまく伝わらなくて」
自分「手短に手際よく話してるのにうまくいかないんだね、俺がやってる方法があなたにも合うかどうかは分からないけど、俺は少し手間だけど紙に箇条書きにして渡したり、詳細を伝えたい場合は細かい内容を伝えたいので時間が空いた時に資料に目を通しておいていただけますか、って伝えてるよ、どうかな、役に立ちそうかな?」←聞き返しで相手の情報を確認した事を示し、取捨選択の権利、選択肢の提示をする
となる、
ポイントは、アドバイスをする時には常に相手の権利主導で自律性と自由を相手に与えた上でするという事になる
嫌な記憶に思いをはせて憂鬱な感情に浸る場合を考えてみよう
自己の概念には
体験する自己:今この瞬間に体験する事を認識する自己
と
記憶する自己:経験や記憶やそれに関連する思考や連想記憶群によって認識する自己
の2種類がある
例えば、自分の嫌いな人に接した時に
体験する自己は
「◯◯さんと◯◯の話をしている」
という概念抽出をするが
記憶する自己は
「◯◯さんは◯◯な事があって嫌いだから不愉快だ」
という連想記憶が抽出される
不快な感情をもたらすのは記憶する自己である
そしてこの体験する自己と記憶する自己を強く結びつけると
今この瞬間に体験している事が過去の記憶する自己と結び付いて認識されて不快な感情をもたらす
つまり、体験する自己自体は、今この瞬間のあり様を認識しているにも関わらず
記憶する自己と同一視される事で不快な感情として、今ここのその体験が不快なものとして認識される
この同一視(フュージョン)が極度にすすんだものがフラッシュバックである
そして、経験する自己と記憶する自己は紛れもなく別々の自己であるという事を忘れないようにしたい
体験する自己と記憶する自己を一致(フュージョン)させてはいけないという意味ではない事に注意が必要である
記憶する自己とは即ち過去や記憶からの連想に基づく未来の認識を形作る生きるために必要なものとなる
例えば目の前に見るからに危険そうな人物が現れたとしよう
この相手に対して、体験する自己と記憶する自己のフュージョンを行わないと
「目の前に◯◯の容姿の人物が現れた」
という認識だけに終わり、危害を加えられるかもしれない
ここでは
「目の前に◯◯の容姿の人物が現れた」という体験する自己と
「◯◯の容姿は、危険、危害、不快、不安を感じる」という連想記憶群に基づく記憶する自己との一致を行う事で危険性から逃れられる
日常生活では、ほとんどの時間においてこの体験する自己と記憶する自己の一致が行われ続けているが
何もせずにボーっとしてる時に過去にあった不快な物事を思い出したり、自己否定的な感情が湧き上がると
それらの感情をもたらす記憶する自己が現在そこに存在している体験する自己と必要もないのにフュージョンして今ここでその不快感を感じる事となる
つまり、物事の対応に効果的でないのに体験する自己と記憶する自己をフュージョンさせるのは生活の質を高める上で建設的ではないという事である
そのためには、その瞬間に湧き上がってくる記憶する自己は今ここにいる体験する自己とは何ら一切の関係もない事を心に留めておく事が大切となる
例えば、今この瞬間にだれか親しい人と話してる時にフと昨日会った嫌な上司の事を思い出して不快になったとしてもそれは今この瞬間には何も関係なく何ら効果的な作用も及ぼさないという事である
メンタルパワーが落ちる事について考えてみよう
メンタルパワーとはつまり
貯蓄分と消費分とのパランスで決定される
その中でも日中活動時については
貯蓄は脳の活動がアイドリング時に行われ
消費は脳の活動が活性化してる時に行われる
脳の活動のアイドリングによる貯蓄とはすなわち体験する自己を主体とする
今この瞬間の、味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚から受けるものであり
脳の活動の活性化による消費とはすなわち記憶する自己を主体とする
思考である
思考は、連想記憶群による過去や未来に対する想像や、思考の連鎖的発現や記憶から生み出される感情などを示す
その時の活動が
体験>思考になるとメンタルパワーはトータルでプラスになり
体験<思考になるとメンタルパワーはトータルでマイナスになり、マイナスの時間が増えるとやがてメンタルパワーは枯渇し憂鬱などの問題を引き起こす事になる
瞑想やマインドフルネスなどの特殊な体験操作技術を除いた場合には
通常の体験はそれ自体が先行刺激となるため、体験によって思考が引き起こされるのが通常である
しかし、この引き起こされる思考がポジティブなもので体験自体が強く刺激されている場合には消費分は劇的に少なくなる
ポジティブな思考であってもメンタルパワー自体は消費されて入り事を忘れてはいけない
すなわちどんなに楽しい事でも考え続けると必ず疲れるのである
具体的に例を挙げてみよう
容易に想像しやすい「温泉につかる」という事に関して考えてみよう
温泉に入ると疲れが取れるのは多くの人にとって当然だと思うがその理由を考えた事があるだろうか
温泉につかる時の脳への作用は
視覚(温泉の風景)、聴覚(お湯の音)、嗅覚(温泉のにおい)、触覚(肌に触れるお湯の感触や温度)、と
味覚以外の感覚を刺激して「今この瞬間」の体験に強く集中させることができる
さらに温泉のそれぞれの項目が先行刺激として引き起こすものは、快感に対する感情、効能へのポジティブな思考など殆どがポジティブな思考となる
そしてポジティブな思考はネガティブな思考の5分の1以下の集中力占有力であるため
このポジティブな思考が引き起こされても、集中は容易に今この瞬間の感覚へと引きつけられる
これが
温泉の体験による貯蓄>ポジティブな思考による消費
となり、メンタルパワーは貯蓄されるのである
温泉にずっと浸かり続けると
「暑い、苦しい」という感覚へと移行していくため、これらのネガティブな思考や感情が生まれてくると思考による消費分が増えていくため
温泉に気持ち良さを感じる程度につかると疲れが取れ(脳活動のリソースがたまり)
長湯をしすぎると少し疲れてしまうような気がする(ネガティブ思考の発生による消費増加)
という事になる
つまり
日常生活において特殊な体験技術を使わない場合には
5感を複数使い体験に集中できる事柄で、なおかつネガティブな思考の先行刺激にならない事に活動を費やすとメンタルパワーが貯蓄される事となる
逆に
5感をあまり使わずに思考に没頭する場合(特にネガティブな思考)には大量にメンタルパワーが消費されていく事となる
引きこもりといった人が憂鬱を抱えるのはこれが理由であり、
多くの人が嫌がる仕事の場合でも5感は様々に使われ、様々な場面で「今この瞬間の体験」によりメンタルパワーが貯蓄される場面も多々あるため、人間関係などでの消費分が過剰にならない限りは実は働いて活動している事にもメンタルに対するメリットが把握されていないだけで多く存在するのだ
家で憂鬱を解消するのにある程度効果的でハードルが低いのが湯船につかることだ
この際には、5感を可能な限り使い、ネガティブな思考の先行刺激とならずにパワーを蓄える時間を長くする事が大切となる
そのために必要な項目を挙げてみよう
長時間つかれるくらいのぬるま湯(触覚)
自分の好みの入浴剤があればなお良い(嗅覚)
換気扇の音に耳を傾ける、川のせせらぎのような刺激の少ない穏やかな音楽を流しても良い(聴覚)
本は読まない方が良い(先行刺激になる)
目を閉じている方が良い
喉の渇き対策にペットボトルに入れた飲み物を用意すると良い
入浴中に邪魔されないようにする(スマホは切る、誰かに入浴を邪魔されないように)
頭の下にタオルを敷いてリラックスした態勢になる(態勢から受ける先行刺激を減らす)
温度とお湯の感触と音やにおいを感じる事でその場に関係ない思考が湧き出る機会を減らす
といった事を30分から1時間かけて行うと無理なく
体験する自己への集中による脳内リソースの貯蓄
先行刺激となるものはポジティブな思考を生み出すため脳内リソースの消費が抑えられる
5感に集中しやすいため記憶する自己から生み出されるその場に関係ないネガティブな(ポジティブなものでも)思考や感情の発現を抑えられ脳内リソースの消費が抑えられる
といった事が達成できるため
脳内リソースの貯蓄>消費ができてリソースを貯める事ができる
メンタルパワーの貯蓄と消費に関する具体的な行動を考えてみようと思う
以下の前提を覚えておきたい
起きている間は常に体験する自己か、記憶する自己か、両方かに意識は集中している(例:ぼーっとしている時でさえ目の前の視界に対して視覚的な集中をしている)
今この瞬間の、体験する自己に集中するとメンタルパワーは貯蓄される
ポジティブな思考や感情でもメンタルパワーは消費される
ネガティブな思考や感情はポジティブなものの5倍以上メンタルパワーが消費される
短時間に記憶する自己による連続的高速検索が行われるとその分メンタルパワーは消費される(例:ネット情報の高速閲覧、SNSの投稿の流し読み、日常でのマルチタスクなど
体験する自己の集中のしやすさは5感の程度による
5感が先行刺激となって記憶する自己が引き出される
記憶する自己は自然に湧き上がる
以下にある程度現実的な日常生活範囲内での具体的な行動を考えてみよう、瞑想やヨガなどの特殊なものは省く
貯蓄
(5感で得られるものは快適なものの方が好ましい、不快な感覚だと集中力占有力が強いネガティブな思考や感情が生まれるので)
温泉につかり、風景、感触、におい、音に集中する
湯船につかり、感触、におい、音に集中する
食事中に食材の見た目、感触、噛む時の音、味に集中する
穏やか音楽を聴いて音に集中する(その他の感覚は先行刺激とならないようにした方が良い)
眠る時に布団の感触や温度、部屋の音に集中する(特に聴覚は睡眠と関連が深いので音に集中すると寝つきが良くなる場合もある)
散歩をして風や温度の感触、音、風景に集中する
など
消費
物思いにふける、何か考える
ネットやスマホの使用(思考が湧き出る、連想記憶群の高速検索が行われる
テレビの視聴(思考が湧き出る、場面や話題が切り替わりやすく体験する自己にも集中しにくい、ネットの高速的な使用よりは消費が穏やか
本の流し読み(本も思考を引き出すが、その検索速度は穏やかな傾向がある、本の流し読みで高速的な連想記憶群の検索や、刺激の強い本で感情や思考が大量に引き出される、難しい本も消費は早い
人間関係、仕事、健康など様々な悩み(ネガティブな思考と感情が大量に引き出される
この文章を書くこと読むこと(思考が使われている
他人の期待に応えようとする事(まさに記憶する自己と体験する自己のフュージョンそのものである
など
貯蓄と消費は分けて考えられるが、貯蓄が常に良くて消費が常に悪いというわけではなく、
貯めたものは使わないと意味がないので無駄に消費する事や過剰に貯蓄することをやめて、バランスよく貯めて使う事が大切となる
一日中悩み続けるのも生活の質を落とすが、一日中瞑想し続けるのも何のために貯めているのか分からなくなってしまう
子供でも眼に映るものが新しいものばかりで体験する自己によって今この瞬間に集中した上で、感情や湧き上がる思考でバランスよく貯蓄と消費をしているのだから
残念な事に大人の場合は、目新しい体験が少なく体験する自己に集中しにくく、逆に経験の多さからそれに関連する連想記憶群が大量に引き出されて記憶する自己に集中しやすくなってしまうという違いがある
子供と大人の感覚の違いとはつまり
5感から受ける目新しさの違いによる体験する自己への集中のしやすさの差
経験量による思考や感情の引き出し量による記憶する自己の集中のしやすさの差
なのであろうが、大人は記憶喪失にでもならないとこれは解決しようがない
集中力を上げたいのですが、どうしたら良いでしょうか?
>>136
何に対する集中なのか
認知的な変化を必要とするものなのか
外的要因に影響を受けるものなのか
など
対象によってどのようにすれば集中力が高まるかが変わってきます
例えば、勉強の際の集中力を高めたいといった時にテレビを切る(外部要因を減らす)といったようにできる事が変わってきます
一方で、勉強して理解する際には本を読んでその瞬間に取得している情報と記憶する自己の保有する情報を結合するために、両方の自己のフュージョンが必要となります
勉強の際には体験する自己と記憶する自己の両方への集中力が要求される事となるため、5感に集中する訓練をしても勉強に対する集中力は養われない可能性があります
反対に、目の前の対象、例えばボールの存在に集中するためにはボールから得られる感覚
色、大きさ、形に集中する事が必要となるため
集中とは対象とする物や事象や概念への認知の集約とも言い換えられます
集中力を高める概ねの要件は
外部要因を取り除く(静かな部屋へ行く、リラックスできる環境を確保するなど
脳活動のリソースを確保する(任意に集中の対象を選択するため
対象から得られる感覚に意識を向ける(5感を含む
湧き上がるその他の対象(連想記憶群など)を無理に消そうとしない
記憶する自己から得られるネガティブな認識をポジティブな認識に認知し直し
などがありますが
当然ながら全ての要件が必要とはなりません
対象によって必要な要件が大きく変わります
集中の方向性としては
対象に意識をどれだけ向けるかに注意する事が大切で、別の対象に意識を向けないように注意する事ではない
という事です
意識の任意的注意の向け方の訓練という意味の場合は
瞑想、マインドフルネス、自律訓練法、ATP(アクセプタンスアンドコミットメントセラピー
などの書籍を読むと感覚に対する系統的な訓練法ができるので集中の練習になります 今この瞬間に集中するとは、一言で言えば他ごとを考えずに目の前の物事に意識を集中するという事である
例えば
ビールの一口目
湯船につかる瞬間
トイレで我慢していた用をたす瞬間
喉が渇いてる際の飲み物を飲む一口目
立ち疲れて座る瞬間
などの瞬間がそれである
そしてそれらはリラックスと表現されるが、他ごとの全てから解放されて「今この瞬間に集中する」という概念そのものである
問題は、その「今ここの集中」が一瞬で終わり持続しない事だ
次の瞬間にはきっと何か別の事を考え出すだろう
「今この瞬間に集中する」とは「今この瞬間に集中し続ける事」が大切なのだ
信号待ちであなたはスマホを見て記憶する自己にフュージョンしてないだろうか
信号待ちの時の行き交う車の光景、喧騒、肌に感じる風のありように集中し続けた事があるだろうか
食事の際にテレビやスマホに気をとられて記憶や感情と対話してないだろうか
いつも食べてる普通の食事の形、焦げ目、噛む感触、味の複雑さ、噛み切る音、温度に意識を集中してるだろうか
朝食で食べた食べ物のそれらの噛み切る音や焦げ目を思い出せるのであれば集中していたという事だろう
それくらい大人の日常生活では目の前の物事のありように意識を向けずに
記憶する自己が目を覚まして「次に何しよう」とか「早く信号変わらないかな」とか「この動画は面白いな」といった活動をして日々に脳のリソースをその行為に消費しているのだ
日々の行動と将来の結果について考えてみよう
今日の行動が明日の結果につながるのは明白だが、
「今この瞬間の行動」
「行動の方向性」
「結果」
を分けて認識しているだろうか
旅で例えれば
「今何をするか」
「どの方角に向かうか」
「どこに行きたいか」
であるが、これは
「今やっている行動」
「自分の価値観」
「目的というゴール」
で置き換えられる
例えば旅を例にとると、今現在は東京にいるとして
「今何をするか」=布団で寝る
「どの方角に向かうか」=北に向かう
「どこに行きたいか」=沖縄に行きたい
だと、明らかに矛盾しているのが分かるが、日々の行動でも同じ事が言える
マインドフルネスや行動を主体とした一部のカウンセリング、コンサルテーションではそれぞれで目指すものが違う
「今この瞬間の行動」→マインドフルネス
「自分の価値観」→行動を主体とした一部のカウンセリング
「目的というゴール」→コンサルテーション
となる
注意しないといけないのは、「今この瞬間の行動」と「目的というゴール」は時間の経過か達成によって消えるという事だ
「今この瞬間の行動」は、今この瞬間にある行動を示すもので、当然ながら次の瞬間には消える
そして、「目的というゴール」は、達成されれば目的リストから消え、諦めても消える
つまり、自分の指標をこれらに置いた場合には喪失の瞬間を味わう事となる
これがいわゆる、
長期的な結果に繋がらない「今この瞬間の行動」を負の強化と表現したり
結婚を目的にすると失敗するというのが、「目的というゴール」を指標にする事である
一方で、「価値観」は行動でもなければ目的でもない、いわばコンパスのようなものだ
そして価値観に含まれる要素は「自分の行動の方向性を示す性質」である
例えば
親切にしたい
愛情を与えたい
敬意を払いたい
といったものである
ここで注意したいのは
「幸福になりたい」は価値観ではなくて、目的というゴールだという事だ
幸福になる事は結果であって、行動の方向性の性質ではない
つまり、
「幸福になるために人から愛されたい(目的というゴール)」、そのためには人から信頼され愛されるように「こちらから相手を受け入れて(価値観)」、「感謝の言葉を常に言うようにしよう(今この瞬間の行動)」
となるのだ
「今この瞬間の行動」を中心に置けば、「価値観」と「目的というゴール」が変更されて
「価値観」を中心に置けば、「今この瞬間の行動」と「目的というゴール」が変更されて
「目的というゴール」を中心に置けば、「今この瞬間の行動」と「価値観」が変更される
つまり、何を重要視するかで全体像が変わるのだ
今この瞬間に寝ていれば、どこにも向かわず、どこにもつかないし
北に向かうなら、今すぐ歩き出して、北海道につくことになるし
沖縄に行きたいなら、今すぐ歩き出して、南に向かう事となる
それぞれで主体とするものが、
今この瞬間の苦悩からの解放などの場合は「今この瞬間の行動」をありのままに受け入れる瞑想やマインドフルネスかもしれないし
心と対話しながら長期的な安定性を求める場合は「価値観」を大切にする事かもしれないし
企業利益など確固とした目的があ必要なら「目的というゴール」が重要かもしれないし
「価値観」にそって出た「今この瞬間の行動」が「目的というゴール」につながるという一貫性を得るには
この3つの中で変えるのがもっとも難しい「価値観」という自分の行動の方向性の性質をよく考えて認識すると良いかもしれない
仕事についての悩みを考えてみよう、例えば
「仕事で上司からパワハラを受けて辛い」
といった状況を考えた時には
当然、人によって行動、価値観、目的は変わるが
目的=辛い状況をなくす
となるがそこに価値観が存在してない
そこで「そこ」で働く価値観を考えた場合に、その業界に貢献したいというものが出たとしよう
ここでの問題は
「その業界に貢献したい」という価値観と「辛い状況をなくす」という目的が結びついていない点だ
つまり、
「仕事で上司からパワハラを受けて辛い」状況では「その業界に貢献したい」という価値観を満たせていない事になる
これが目的を主体とする場合の問題点の一つとなる、この場合は
「辛い状況をなくす」という目的の設定→「仕事を辞める」という今ここの行動の設定→「その業界に貢献したい」という価値観の変更
となり、行動と価値観の変更が行われる
逆に価値観を主体にした場合を考えてみよう、例えば
「その業界に貢献したい」という価値観→「上司からパワハラを受けている今この状況では行動できない」という今ここの行動→行動できるためには転職活動をして「行動できる場を探す」→「その業界に貢献できる」という目的の達成
となる
再度述べると、行動、価値観、目的のどこをスタートにするかで残りは変更される可能性があるという事になる
人によっては、価値観をスタートにしても
その業界に貢献したい(価値観)→パワハラを我慢する(行動)→貢献できる
その業界に貢献したい(価値観)→職場を変える(行動)→貢献できる
その業界に貢献したい(価値観)→上司と関係を改善する(行動)→貢献できる
となったりもするだろうが、目的が「辛い状況をなくす」から「貢献できる」に変化しているのが注目点となる
結果として辛い状況がなくなる事もあるが、目的設定として達成されるかされないかは主体ではなくなっているのだ
これつまりは、「行動」か「価値観」か「目的」のどれの達成を目指すかという違いになる
「幸せになりたい」という目的を達成する場合には、感情的に幸せという目的の項目が必要になる事があるが
この項目に「価値観の達成」が入るとこの時点で達成不可能になる可能性がある
つまり、「沖縄が目的地」だけど「北に向かいたい」となる
両方満たすものはない
目的を主体にすると達成不可能になる事がある事を忘れてはいけない
「不老不死」は目的にしても達成不可能である
一方で、自分の行動の性質によって決定づけられる「価値観」はかなり広範囲にわたって達成が可能であるが、その目的があなたの意図したものとは大きく違う事もある
「北に向かいたい」という価値観に従えば「北海道に着く」のだから
身も蓋もないが気分良く人生を生きる方法は「人による」としか言えない
「気分が良い」の根本は脳内のホルモンバランスだが
天気の影響を受けて自律神経に不調をきたしやすい人間とそうでない人間は違う
生まれ持った免疫の強さでも異なり免疫の弱い人は神経質になりやすい傾向がある
自律神経の不調や不安の強さはネガティブな感情を引き起こす
それを適度にコントロールできる薬物は今のところない
ゆえに各人が自分の脳と肉体の特徴を知り自分に合った方法で対応するしかない
人によってそれは規則正しい生活リズムであったり食事療法であったり没頭できる趣味や仕事であったり様々だ
また「気分が良いこと」と「より良く人生を生きること」はイコールではない
多幸症というものがあるが社会適合できないという意味においてはデメリットのほうが大きい
人間関係という意味で少し専門的な内容に踏み込んでみようと思う
カールロジャーズのパーソンセンタードアプローチの条件に
自己一致
無条件の肯定的配慮(受容)
共感的理解
があるが
これらは当然、普段の人間関係構築でも役に立ち
良い人間関係を作れる事そのものが自分に対するネガティブな先行刺激となる要素を減らし
記憶する自己による過剰な脳内リソースの消費を減らす事に役立つ
無条件の肯定的配慮(受容)の態度では、相手を肯定的にも否定的にも評価せず、ありのままを受け入れようとする態度
としているが、
人間関係構築には、肯定や是認、相手の話に平行に進む追従や共感といったものが大切になる
「肯定や否定もせず価値判断なしに相手のありのままを受け入れる」という態度が肯定や是認や共感と矛盾してないかという印象を受けるかもしれないが、実際にはそんな事はない
無条件の肯定的配慮(受容)と共感的理解を要素で分解してみよう
無条件の肯定的配慮(受容)は
「相手の記憶する自己、及び体験する自己」を「自分の体験する自己」で認識する行為であり
共感的理解は
「相手の記憶する自己、及び体験する自己」を「自分の記憶する自己」で認識する行為である
つまり言い換えるなら
無条件の肯定的配慮(受容)において受け取った際の情報が先行刺激となり、共感的理解へと繋がるとも言い換える事ができる
これを見て分かるように、受容によって受け取った情報は、先行刺激となるため
完全なる無条件の肯定的配慮(完全な受容的態度)は理論的にしか存在し得ず、ある程度先行刺激となり共感的理解につながったり、価値判断へと繋がるため
受容はどの程度できているかという程度問題となる
体験する自己に集中して自己の脳内リソースを貯める場合にも
それは程度問題であり、過去の記憶を完全に消さない限り完全に体験する自己のみに集中する事は理論的にしかありえないのである
人間関係構築の際の受け答えに関して考えてみよう
相手が「もう何をやってもダメだ」といった場合にどのような返答があるだろう、いくつか列挙してみようと思う
「そんな事ないよ、大丈夫」
「もうダメだよな」
「ダメなのかな」
「ダメだと思っちゃうか」
どうだろう、これらは構造的に大きな違いがあるので見てみようと思う
「そんな事ないよ、大丈夫」
よく言いがちな反応である、一方で構造的には相手の発言を否定して正す「間違い指摘反射」という事が行われている
相手を励ます思いやりがある一方で自分視点の発言と受け取られる可能性がある
「もうダメだよな」
相手の感情に同一視を行い、主語が「私達」になっている、つまり
「(私達は)もうダメだよな(と思っている)」
となる、共感も含まれる反応だが、「共感、同一視、自己開示」の構造になっており
自分側からの発言の特性になっている
「ダメなのかな」
相手の発言を陳述形式で返してる
相手に自己洞察を促す事になる可能性がある一方で、主語が「私」なのかな「あなた」なのかはっきりしない
返答としてはフラットな返しであり、会話が停滞気味になる可能性もある
「ダメだと思っちゃうか」
主語が「あなた」である
自分側からの発言の特性でなく、相手の感情をそのまま返す「感情反映」の形式を取る
構造としては、「共感、受容、言い返し」となっており
相手の感情に追従しており、多くの人に対して適応性のある返しであると思われる
人によっては相手に強く同意(同調、同一視)を求めている場合もあるので
そういった場合は「もうダメだよな」という返しの方が効果的であったり、
相手からの指示的な要素を期待している場合には「そんな事ないよ、大丈夫」という返しの方が関係構築に近道になる場合もあるが、
そういった特性が確定的でない場合は、
主語を相手にして、相手の感情を反映しつつ「共感と受容」を表現するのが技術的にはベターだと考えられる
日常生活で脳内リソースを貯めるのに効果的な行動を列挙しよう
条件は、体験する自己に集中して記憶する自己の影響を減らす行動となる
お風呂の温度を39度くらいにして半身浴で30分以上湯船につかる
食事の際にテレビとスマホは切って食事のみに集中する
信号待ちで行き交う車の音と肌に触れる風に集中する
テレビでニュース、ドラマ、事件事故のドキュメンタリーは見ない
通勤中スマホは使わず電車の音や景色に集中する
朝に目が覚めたらまずは体の感覚に集中し終わってから行動する
眠るために横になったら体の感覚もしくは音に集中してから眠る
仕事の後のコミュニケーションは相手によっては正の強化となるため推奨されるが、不必要に時間を使わない
スマホやネットではSNS、ブログ、ニュースサイトは見ない、客観的情報の取得のためには良い
Youtubeを視聴する場合は会話の入らない風景や車載動画(事故動画は除く)、散歩の動画以外は推奨されない
スマホやネットよりはテレビ視聴、テレビ視聴よりは読書の方がリソースの消費を抑えられる
ポジティブでなくてもいいが、ネガティブな内容や暴力的な内容を含む情報は避ける事が推奨される
推奨されない行動でも最小限であれば抵抗を発生させにくくさせる効果がある場合もある
脳内リソースの貯蓄と消費に関してまとめてみよう
体験する自己に集中するとは、体験する自己を持続する事である
つまり、体験した瞬間に消え去っていく「体験する自己」の意識を維持するという事である
「体験する自己」と「記憶する自己」はセットになっており
刺激→反応、という流れになる
「体験する自己」を言い換えると、刺激を受け取った瞬間
「記憶する自己」を言い換えると、その後の反応
となる
体験する自己への集中は、大脳辺縁系からのシステム1によって自動的に維持される方式と、大脳新皮質からのシステム2によって努力的に維持される方式があり、
記憶する自己も同様に、大脳辺縁系からのシステム1によって自動的に引き出されるものと、大脳新皮質からのシステム2によって努力的に引き出されるものがある
脳内のリソースを貯める方式は
システム1による体験する自己への集中を行い、システム1による連想活性が弱い場合
システム1による体験する自己への集中を行い、システム2による記憶する自己の制御が行われている場合
システム2による体験する自己への集中を行い、システム1による連想活性が弱い場合
システム2による体験する自己への集中を行い、システム2による記憶する自己の制御が行われている場合
の4種類となる
例を挙げてみよう
「システム1による体験する自己への集中を行い、システム1による連想活性が弱い場合」
温泉につかってリラックスし、何も考えずに過ごす
「システム1による体験する自己への集中を行い、システム2による記憶する自己の制御が行われている場合」
温泉につかってリラックスし、嫌な事があったけどどうでもいいやと思う
「システム2による体験する自己への集中を行い、システム1による連想活性が弱い場合」
静かな環境で瞑想を行い、心を穏やかにする
「システム2による体験する自己への集中を行い、システム2による記憶する自己の制御が行われている場合」
静かな環境で瞑想を行い、嫌な事があった事から心を離す
脳内リソースの貯蓄は、体験する自己と記憶する自己の集中の割合で変化するため、例えば
「システム1による体験する自己への集中を行い、システム2による記憶する自己への集中」を行うとリソースは消費に傾く場合がある
考え事をするには、トイレか風呂か寝床が良いという事を聞いた事があるかもしれないが、これは雑音がなく考えに集中できるという意味も含んんでるが、システム1による体験する自己への集中も含んでいる事を忘れてはいけない
つまり、
風呂につかってリラックスしながら(システム1で体験する自己への集中を行い脳内リソースの確保をしながら)、明日の仕事の計画を練る(システム2で記憶する自己を引き出し連想記憶群で未来の事を考えてリソースを消費する)
となる
様々なリソースの消費のパターンを見ていこう
「体験する自己に集中できずに、システム1による記憶する自己に集中している場合」
昨日あった嫌な事をを思い出してイライラする
「体験する自己に集中できずに、システム2のよる記憶する自己に集中している場合」
来週に行われる仕事の作業工程を計画する
「システム1で体験する自己に集中し、システム1で記憶する自己にも集中する」
SNSを見続ける、好きな漫画を読む
「システム2で体験する自己に集中し、システム2で記憶する自己にも集中する」
座って本を読み勉強して理解する
ちなみに、勉強が続かないとは
「システム2で体験する自己に集中できずに、システム2で記憶する自己にも集中できない」状態であり、
本を読んでいるのに頭に入らないとは
「システム2で体験する自己に集中しているのに、システム2で記憶する自己に集中できていない」状態である
最も理想的な生活は
「システム1で体験する自己に集中しシステム1による連想活性が弱く」、「システム1で体験する自己に集中しシステム2によって記憶する自己に集中する」生活だが、これはいってみれば
余暇は飽きない別荘暮らしをして、好きで自分の興味のある仕事で満足して働く
というような、達成が難しい生活になる
多くの人にとって現実的な生活は
普段は「システム2で体験する自己に集中して、システム1による連想活性が弱い」生活をしつつ、
家に帰ったら「システム1で体験する自己に集中して、システム2による連想活性の制御を行い」
たまに「システム1で体験する自己に集中して、システム1による連想活性が弱い」環境に身を置いて
「システム2で体験する自己に集中して、システム2で記憶する自己に集中しながら」仕事する
というのが現実的ではないだろうか、
これを例えで言い換えると
普段は「スマホをあまり触らず、ボーッとする」生活をしつつ、
家に帰ったら「お風呂にゆっくりつかってあまり考えず」
たまに「温泉に行ってリラックスできる」環境に身を置いて
「与えられた仕事に集中して計画を立てて」仕事する
というような言い方ができる
聞いてみれば当たり前のように聞こえるが、脳内リソースの消費パターンを知っていないと
リラックスするつもりで漫画を読んでるのに実は疲れが増えている、といった事にもなりかねないのだ
ちなみにこの文章を書く作業は
「体験する自己に集中せず、システム2で記憶する自己に集中」する作業で
この文章を読んで理解する作業は
「システム2で体験する自己に集中し、システム2で記憶する自己に集中」する作業となる
人間関係構築における「褒める」行為の非効率性とデメリットについて述べようと思う
人間関係構築の際には相手の行動に対して
「褒める」のではなく「是認(認める)」行為が効果的であるが
これは学術領域で効果的に人間関係の「関わり」を効果的に作る方法を探す事で発見された
通常の社会習慣的に学んだ行為では「褒める(賞賛)」事がごく一般的に相手との良好な人間関係を作るために用いられているが「褒める」行為の要素にどのようなものが含まれているか考えてみよう
教育段階においては、「褒める」行為は教育的に効果的である
一方で、相手との人間関係の関わりを作る場合には効果的でないどころかデメリットが発生する場合もある
「褒める」行為がもたらすものは
・評価的要素による相手との上下関係性の勾配の変化
・「褒める」事による「褒められない」事への関連的学習と感情の関連づけ(複合的相互的内包)
がある
評価的なもの、というのはなんとなく理解しやすいかもしれないが、2つ目の複合的相互的内包と呼ばれるメカニズムはしばしば見逃されており
これが「褒める」行為が関係性にもたらす害悪をもたらす
イメージしやすい例を出すと、
親からの期待が強すぎてそれがプレッシャーとなっていた
というものがある
これは身近なものではないだろうか?
「親が期待してうまく出来たら褒めてくれていた、一方でそれが失敗できないというプレッシャーになっていた」
これが複合的相互的内包と呼ばれる現象である
つまり、ある出来事を通してそれから関係づけられる事象を学習するのである
例えば
人に親切にする→褒められる
という行為が行われると
・褒められるためには→人に親切にする
・人に親切にしない→褒められない
・褒められないためには→人に親切にしない
・褒められる→快感
・褒められない→不快感
という流れを自動的に学習する
これは人間に備わった高次元のネットワーク構築能力でもたらされた
そしてこの情報の一団が連想記憶群、つまりネットワークで繋がる情報の集団として脳内に構築される
つまり、「人に親切にするという行為」が「不快感」という負の感情とネットワーク内で結び付けられるのだ
言ってみれば、「人に親切にする行為」を行う時にネットワーク内に存在する「不快感」が連想的にアクセスされるのだ
先の例で言えば
人に親切にする→人に親切にしないとどうなるか→褒められない→不快感
という連想が自動的に想起されるのだ
つまりこれが、
「親が期待してうまく出来たら褒めてくれていた、一方でそれが失敗できないというプレッシャーになっていた」
の正体であり、その学習メカニズムを相互的内包、複合的相互的内包という
これが、道徳的な学習においては効果的である事は言うまでもない
しかし、良好な人間関係を構築する際にこれが行われるとどうなるのか
ある行為について相手を褒める事は、不快感へのネットワーク構築を意味しており、関係性の中に不快感が関連項目として想起される事になる
これが、
学習においては「褒める」事は効率的だが、関係性構築においては「褒める」事は非効率的という事なのである
相手が何かした時に、良かれと思って「よくやったね」と褒めることが実は長期的には人間関係構築に際してデメリットとして働く可能性があるというわけだ
教師が生徒に対して学習目的で「褒める」事は効率的である
では、人間関係構築においてはどうすればいいのか
それが相手の行為を「是認(認める)」する事である
是認は褒める事でもなければ評価する事でもない
相手の行為の存在を客観的に認める行為である
例をあげよう
相手が頑張って何かをやり遂げた時に
褒める→「頑張ったね、よくやった」
是認→「◯◯ができたね」
となる
褒める行為と是認は言葉と理解を通して機能しているため、完全に切り分けられるものではないが、その目的とする事は違っている
つまり、「是認」するかしないか、ではなく「是認」を目指すかどうかなのである
相手が「是認」を「称賛」と受け取る事も当然あるだろうが、目指すものは全く違う
「是認」が目指すものは、相手の行為の善悪を認定する事ではなく、相手の行為そのものの存在を客観的に認め、その認めたという意思を伝える事である
つまり、行為をするしないに関連する快・不快の感情を関連づけないように意図するのである
これが
「うつ病の人に頑張れ」と言ってはいけない
「期待が強すぎてプレッシャーだった」
という「褒める」行為の負の側面の正体である
もちろん褒める事は利点も多いが、それはどのような利点をもたらすものなのか、という事を考えるのも良いかもしれない
子供が食べ物を残さずに食べた時に
「残さずに全部食べてえらいね」と褒めた場合と「残さずに全部食べたね」と是認する場合と
それぞれでどのようなメカニズムが働くのかを考えてから言葉に出すのも良いかもしれない
概念的メカニズムはトップダウンでは意味があるが実際の生活にはボトムアップが欠かせない
そのため、現実的にハードルの低いものを紹介しようと思う
ニトリのバスピロークッション
風呂で枕や腰当てに使える
安くて自分に合わなくてもお金が無駄になりにくい
半身浴の際に腰当てに使うと良い
ニトリの座面がのばせる座椅子(ベルラ)
背もたれが後ろに転びにくい
ある意味アイデア商品
とてもリラックスできる
歯磨きの際のyoutubeでのドライブ映像鑑賞(音楽入りでないもの)
時間をうまく使えてリラックスできる
スイスのドライブ映像など見入ってしまう
気分良く生きるためにネガティブなものにふれない事の重要性についてまとめてみようと思う
関連付けはどのような性質のものでも行われる特徴がある
少しわかりにくいので例を出す
以下のものを2つにグループ分けして欲しい
大きい、小さい
高い、低い
減少、増加
寒冷、温暖
o、O
A、a
過去、未来
どうだろうか、グループは
大きい、高い、増加、温暖、O、A、未来
と
小さい、減少、寒冷、o、a、過去
のグループに分けられたのではないだろうか、そしてその違いは説明の必要は無いと思う
しかし、よく見てほしい
OとAやoとaには単独ではその機能が無いことを、つまりもしもグループ分けの選択肢が
O、Aをグループ分けせよだったら両方とも大きい側のグループに入れる事ができるだろうか?
これが意味することは、与えられた刺激がそのものの性質に関係なく他の要素と関連づけを自動的にされるという事である
このことのわかりやすい例えが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、である
つまり袈裟に難くなる性質が存在しないにもかかわらず
坊主が憎い→坊主がつけている袈裟→袈裟が憎い
という派生関係を構築するのである
これを派生刺激関係という
これが何を意味するかというと、何かと関連する物事を認識した時にそれとは何の関わりがなくても影響を受けるという事である
それは、例えばあなたがイチゴを好きだっったとしてあなたの大嫌いな人がイチゴが好きだと聞いてイチゴを嫌いになってしまうようなものである
そういった意味からも、ネガティブなもの、ニュースやSNSに触れる際にはそれがあなたの全く関係がないと思っている事までに影響を及ぼしている可能性があるのだ
全く違う価値観の人間を寿司詰めにしている会社というものはトラブル必死なんだよな
関係フレーム理論(RFT)による関連づけから効率的な人間関係の構築を見ていこうと思う
関係フレーム理論は連想活性、プライム、ヒューリスティック、バイアス、先入観などといった比較的馴染みのあるものとも関連しているが、要するに
物事は関連する別の物事に良くも悪くも影響を受ける
という事である
こう書くと当たり前に聞こえるかもしれないがその重要性と影響力の広さ、強さを理解してる人はそんなに多くはないのではないだろうか
例えば、「相手を絶賛し相手が素直に受け入れる事が関係性を悪くする可能性」について考えたことがあるだろうか
通常であれば褒めれば関係性が良くなると思いがちだが、褒める事のネガティブな面にも焦点を当てる事ができるのが関係フレーム理論である
与えられた物事によって発生する関係性が、他の一見して関係のなさそうな物事に別のルートのつながりを経由して影響するのである
説明で書くと非常に分かりにくいので例を出すと
「ゴルフ好きの上司に怒られて不快な気分になったら、ゴルフ好きの友達を嫌いになった」
という例である
関連付けの影響は物事の性質や属性を飛び越えてネットワークが構築されるという特徴がある
これは脳のニューロンネットワークは物理作用によって構築される事に影響する
つまり、物事の属性の違いによって脳のニューロンネットワークの生化学的、物理化学的な構造の構築には影響しないという事である
つまり
嫌い↔︎上司↔︎ゴルフ↔︎友達
というネットワーク構造が作られる事で、「嫌い」と「友達」が連結されるのである
神経の脱分極による刺激の伝達、髄鞘、跳躍伝導の話は神経組織を理解する上では大切だが関係フレーム理論とは離れてしまうので触れないが、脳内のネットワーク構築による関連付けはそれが遠くても想像以上に影響は大きくその結果
「嫌い↔︎上司↔︎ゴルフ↔︎友達」という関係が「嫌い↔︎友達」となるのである
そしてこれは、別の言い方をすると
好き↔︎友達↔︎ゴルフ↔︎上司
という関連付けを構築する事も可能である事を忘れてはいけない
そして、ポジティブな影響力はネガティブな影響力の5分の1から13分の1ほどの力しか持たない事も忘れてはいけない
文字化けしてるので補足しよう
嫌い←→上司←→ゴルフ←→友達
嫌い←→友達
好き←→友達←→ゴルフ←→上司
好き←→上司
では、具体的にどのようにこのような作用を人間関係構築に利用するのかを見ていこう
必要な情報は常に「その人に関連した情報」であるのは言うまでもないが、多くの人が勘違いしているのがその利用法である
例えば
対象となる人物A
性格:懐疑的
趣味:野球、釣り
好物:お煎餅
交友関係
友人B
性格:開放的
趣味:サッカー、旅行
好物:コーヒー
友人C
性格:物静か
趣味:読書
好物:寿司
としよう、
この時にAと人間関係を築きたいと思った時に何をしていくか
まずは友人BもしくはCと関係性を築く事を目的とする事ができる
そしてBを含む複数人に対してコーヒーを差し入れしたり、友人Cと本の話をする、というターゲット行動を決められる
「これ」といった絶対的な対象はないが、常にポジティブな関係づけを友人Aまで伸ばす事を意識しながらターゲット行動を決めると効率的になる事がある
例えば理想的いった場合の流れでは
Bを含む複数人にコーヒーを何度か差し入れして
自分←→コーヒー
の関係フレームをBの中で構築する
自分←→コーヒー←→好物
となる
Bとの関係性のスタートラインに立ったら、サッカーか旅行の話をしてBと仲良くなる
開放的なBを伴ってCと寿司に行く
自分←→寿司←→好物
の関係フレームを構築する
Cとも関係性を深める
BとCを伴ってAに接触して野球の話題を振って、「一緒に行きましょうよ」と言う
ここでAの場合も遠回りでターゲット行動を決定してもいいのだが、友人BとCと仲良くなってる場合には、お煎餅を介在した関係フレームはデメリットはないがそこまで重要ではなくなっている可能性がある
ターゲット行動の効果性と影響範囲などを把握しながら効率よく強い関係フレームを構築する事が人間関係構築の助けとなる
関係フレームの特性を利用した極めて巧妙なほめ方をご存知だろうか
例えば
「あなたはすごく親切な人ですね」
とほめた場合に、人によってはそれをお世辞と受け取る人もおり抵抗を生む事がある
相手に取り入る場合にお世辞を使う人もいるが、知的で懐疑的な人ほど額面通りに言葉を取らない傾向もある
その場合
自分「あなたはすごく親切な人ですね」
相手「ありがとう(どうせお世辞だろ)」
となる
一方で、関係フレームを利用した方法で褒めると以下のようになる
自分「昨日、◯◯さんを気にかけて助けていましたね、◯◯さん嬉しそうでした」
自分「そう言えば、◯◯さんからあなたがとても親切な人だと聞きました」
となる
今回の例では事象を対象とした事実(もしくは大袈裟にした事実)についての提示を行なっているだけである
そのため、お世辞だろ、と否定する感情が生まれにくい効果がある
これらの例は、相手を直接「あなたは親切な人ですね」とほめていないにも関わらず
脳のネットワーク結合においては同様の効果を果たす事となる
つまり
あなたは親切な行動をしました→あなたは親切です
という関係フレームが作られるのである
相手が否定しにくい事実に基づいた言及であればあるほどこの方法の効果は高く
「みんながあなたは親切だって言ってますよ」と言うよりも
「昨日あなたが◯◯さんを助けたのを見ていましたが、◯◯さんすごく喜んでいましたね」と言った方が否定される要素が少なく、その上でほめ言葉を言うのと同様の効果を発揮できるのである
>>1みたいに考えすぎないことが気分良く生きるコツ
なんだがそれはあくまで健常者の場合だしな
こういう発達障害ってのは大変だろうなと思う
いちいち言葉で整理し定義し公式化して知性武装しないと生きることもままならない
現実の生活というものは瞬発力や適応力が求められるので精神心理学の知識なんてものはほぼ役に立たない
普通の人は無意識のうちに人の心理を読み場の空気を読み感覚的に即時対応することでより良く生きる選択をする
先天的にその能力が欠如している発達障害の人たちにはこういう遠回りな思考整理が必要なのだろう
というかほぼ一人でメモ書きしてるだけだから
相談板にスレ立てなくても大学ノートで整理すればよかったのでは?と思わなくもない 心理的な関係フレームに関して分子生物学、生理学の面からも見ていこうと思う
関係フレームの構築は人間に特有だと言われており、2歳未満のヒトや他の生物には見られないと言われている
スキャモンの発育曲線を参考にするならば、ヒトの脳の発育が50%未満に満たない場合とも言える
一方で、扁桃体や海馬を含む神経のネットワーク構築
つまりは、「連想」に関してはマウスでも確認ができる
神経の興奮を光でコントロールするオプトジェネティクスを使った変異マウスを作成する事で連想
つまりは、海馬に存在する何か他の物事の記憶から、扁桃体を経由して感情が掘り起こされる事が確認できる
一方で、関係フレームによる
あなたは親切な行動をしました→あなたは親切です
という想起を起こさせる複合的相互的内包を分子生物学、生理学から実証しようとすると問題が起きる
つまり、トランスジェニックマウスを使う場合にはそもそも複合的相互的内包が存在しないという問題だ
一方で、オペラント条件付け、およびレスポンド条件付けに関する実験では有効なため一方向での関係フレームを確認する事はできるだろう
つまり、心理学的な古典的実験に頼るのではなく、例えば
上司が嫌い→ゴルフが嫌い→ゴルフが好きな友達も嫌いになる
という関係フレームの流れを見るために
刺激A→刺激B→刺激C
で刺激Bから刺激Cのネットワーク構築をした後に
新たに刺激Aから刺激Bのネットワークを構築して刺激Cが確認できるかという事で一方向での関係フレームを確認できる
刺激Aによって作られる記憶の倉庫、つまりはエングラムセルからのチャネルロドプシン発現を組み込む事でこれが確認できる事となる
分子生物学におけるトランスジェニックマウス作成は相同染色体に対してテトラサイクリンなどを使った作成方法が確立されているので、基本的な問題は「何」を対象として変異マウスを作るかという話になるので、刺激Aに対して影響を受ける細胞の同定が一番難しいであろうが、この辺りは生理学的、組織学的に探したりqPCRなどを用いて遺伝子の発現量を見たり免疫染色などで地道に探す事で同定できる可能性がある
分かりにくい「今、ここ」に集中する「体験する自己」と、自己の内面へと向かう「記憶する自己」の概念を神経生理学的に説明しようと思う
「体験する自己」とはすなわち神経細胞、ニューロンの結合を意味する
神経生理学的には神経細胞体の軸索が、別の神経細胞体の樹状突起と結合してシナプスを構成する事を意味する
つまりは、軸索のシナプス前部から放出される神経伝達物質を介してシナプス後部のイオンチャネルを開き膜電位を変化させる機構が構築されるという事である
これが、「体験する自己」、刺激に対してネットワークを新たに構築するという事である
一方で、「記憶する自己」は大脳辺縁系の海馬と扁桃体に存在する情報と感情の記憶を引き出す行為である
神経生理学的には刺激を受けたニューロンが発火を起こし、ネットワークを形成した他のニューロンの膜電位を変化させて連続的に膜電位の変化が引き起こされていく工程である、これが「連想」である
これが繰り返される事でシナプス間の信号伝達はさらに強化される、いわゆるヘブの法則が起きる
つまり、嫌な記憶は思い出せば思い出すほど強化されて、その状況で想起されたネガティブな想起はさらにその状況との結合を行い海馬で新たなネットワークが形成される
これが、関連フレームの神経生理学的な正体である
「体験する自己」の要点は、新たにネットワークを形成する点にあるが「記憶する自己」と連合をしないようにする事が大切となる
それが、「今、ここ」に集中するという意味である
概念的に理解される事が多い心理学領域の現象を神経生理学的に理解する事でどのような認識が効果的かを判断できる
様々な分野から多角的に検討してるんだね
毎日のように立つ新しいスレの悩みにも答えられるものは答えてあげてほしい
薬による治療について述べようと思う
心の病に関与する薬が一定の効果をあげているのは確かである一方
それがターゲットとするものを考えた事があるだろうか
神経伝達物質に関与するものであれば、それはニューロン間の伝達
すなわちシナプス後部での膜電位の変化、「連想」の行程に関与するため
直接的にニューロンの活動に介在するため効果的に作用を及ぼす事ができる
一方で、この介在は「記憶の種類」に特異的ではない点を忘れてはいけない
つまり、
記憶A、記憶B、記憶Cを見分けて作用しているわけではない
空間の位置情報を記憶するニューロンの場所細胞など、機能に特異的なニューロンの発見は進んでいるが
それは、「機能特異的」なのであって「種類に特異的」ではない
これは、場所Aと場所Bと場所Cなど、場所というものを記憶するニューロンは突き止められるが、
場所Aと場所Bと場所Cの種類を記憶しているニューロンは区別できない
という事になる
これの意味するところは、
記憶Aだけコントロールして、記憶Bと記憶Cに影響を及ぼさないようにしたいと思ってもできないという事である
分子生物学的にこれを乗り越えようとした場合、例えば
場所Aを覚えた時に発現するタンパク質を同定して、その3次構造もしくは4次構造の立体構造から特定の部位
抗原エピトープを決定し、それに対するモノクロナール抗体を使う事で作用させるいわゆる分子標的薬が必要となる
という事であるが、
記憶はネットワークによって構成されているので、特定の種類の記憶に発現するタンパク質を同定して標的とするのは難しいと思われる
これが、場所を覚えるという場所の記憶全てをターゲットとするのであれば可能であろうが、影響が全ての場所の記憶に影響してしまう
一方で、会話や思考に注意する事はある程度は区別とコントロールが可能である
要するに、場所Aを思い出さないようにして場所Bと場所Cを思い出すようにする事は可能であるし
想起された記憶群の中のシナプス間の伝達は強化され、想起されない記憶群は弱化されるのである
心理学的手法は、経験や実測から基づくボトムアップ方式である一方
神経生理学などを用いた手法は、理論からくだっていくトップダウン方式であるというだけで
目指すところと終着点は似たようなものになる
一言で、「悪い事は思い出さないようにして、今ここに集中すると良い」という格言のようなおまじないのような
まるで根性論のように聞こえる文言も、トップダウン方式で基礎研究的に見ていけば実はその通りなのである
心理学における関係フレームの複合的相互的内包
例えば
上司が嫌い→上司はゴルフをやる→自分の友達もゴルフをやるので嫌いになる
上司はゴルフが好き→ゴルフ関連のプレゼントをする→上司は自分を好きになる
友人に他人が褒めていた事を伝える→喜ぶ→それを教えてくれた自分を好きになる
という
上司が嫌い→友人も嫌いになる
上司はゴルフを好き→自分の事を好きになる
他人が褒めていた→それを教えてくれた自分を好きになる
と、一見して飛躍した相手の印象操作や感じ方は神経生理学的にはシナプス間での結合によって説明がつく
これは、
現象A→現象B→現象Cと刺激が伝わることに加えて
現象Cが現象Aに影響を及ぼすためである
つまり、
友人の事を考えた時に、嫌な上司を思い出す
という事である
神経生理学では軸索から伸びるシナプス前部から神経伝達物が放出され、シナプス後部のレセプターと結合する事でイオンチャンネルを開き膜電位を変化させる事で情報が伝わっていく、つまり「連想」である
この流れを見ると
現象A→現象B→現象Cと一方向に刺激が伝わる一方で、現象C→現象B→現象Aではシナプス後部→シナプス前部の流れとなりおかしいではないかという疑問が生まれるかもしれない
しかし、実際には膜電位変化によってシナプス前部での神経物質が解放される確率が30%前後であるものの、その放出強度はシナプス後部の樹状突起によって決定がされている
具体的には、同一ニューロン(現象A)の軸索からのシナプス間強度は現象Aによって制御されておらず、シナプス後部の樹状突起(現象B)によって制御されているという事である
つまり、
一方向の流れと思われた電気的化学的情報伝達が逆方向に制御されているという事である
大雑把に言えば、これが現象C→現象B→現象Aの逆方向の連想に影響する心理学の関係フレームで説明される複合的相互的内包である
補足を加えると関係フレームによる複合的相互的内包はin vitroでは説明可能であるが
in vivoでは難しい
その理由は先に述べたように2歳以上のヒト以外の生物には複合的相互的内包がないと言われており
加えて人におけるニューロンの発火の測定は、臨床に付随して行われるわずかな細胞での測定に限局されているからである
つまり、in vivoにおいては現象C→現象Aの神経生理学的な細胞レベルでの測定は難しいという事である
心理学的手法を見ていくと理にかなっていると思われるものは多い
一方で問題となるのは、「知ってるけど続けられない」「知っているけど信じない」という事である
例えば、
嫌な事は思い出さないようにしつつも
思い出さないように「しようしよう」とするのではなく、
嫌な事を思い出したらそっとしておく
そして、今目の前にある事に集中して
より意味のある事に力を注ぐ
となるが、これを心理学的に言うと
ネガティブな連想は抑圧せずにおいて
心理的な接触面積を減らすようにする
さもないと他の記憶との連合が起きて接触面積が増える
そのため、記憶する自己ではなく、体験する自己に集中して
正の強化となるものに行動を集中する
となるし、神経生理学的に言えば
大脳辺縁系の扁桃体のニューロンと結びついた海馬の記憶を繰り返し引き出す事によって
長期増強によるネットワーク強化の可塑性が引き起こされる
伝達効率を下げるために長期抑制の可塑性を引き起こそうとする場合
弱い刺激による弱化が求められる
好ましくない記憶を強める膜電位変化と神経伝達物の開放放出を繰り返す事でニューロンの軸索と樹状突起、細胞体でのシナプスを強化するのではなく
新しいシナプス結合を作る事に注意を注ぐ事が好ましい
となる、
つまり、言葉や言い回しが変わるだけで意味するところは似たようなものであるし
ニューロンのネットワーク操作は結局は思考そのものにある
実際にニューロンをコントローラーで操作する事は不可能であるし
思考によって結合の様式が結果的に変わるのも事実である
にもかかわらず、
自己啓発本といった考え方を変える書籍がやや忌避される傾向にあるのは
科学的な説明がされてないのと、自己啓発本を信じる人はそもそも科学的な説明をそこまで求めないからという理由があるのかもしれない
自己啓発本でも眉唾な事を書いている場合もあるが、
神経生理学的に理解して、それを心理学的に参照し、行動に落とし込む
という手順を辿れば効果のない事をしてしまうリスクを回避できるかもしれない
「嫌な事は考えずに、思い出したらそっとしておいて、今この瞬間に集中する」
というのは非常に効果的であるが、分子生物学的、神経生理学的、組織学的に説明しないと信じてもらえないのはもったいないようにも思える
何故なら、そのような細胞動態のメカニズム解明や変異マウスを使った実験はあくまでも基礎医学の話であって
それを知っていても知っていなくても、
「嫌な事は考えずに、思い出したらそっとしておいて、今この瞬間に集中する」
行動をすればどちらにしろ同じなのだから
むしろ、基礎研究のmaterial and methodsを含んだ結果を包括的に理解する場合、心理的な分野ではクロスフィールドの複合的分野の理解が必要なためそれを理解する労力が一体どれほどの人に必要なのかという疑問はある
>>177
正直なところ
「スマホやめて運動すればいいよ」とか「旅行に行くといいよ」とか
様々にある色々な人からのアドバイスは正しいものが多いので実際にはそれを素直に守っていればいいのですが
「信じない」という障壁ができるのが結局問題なのです
例えば旅行にしても
海馬の場所細胞で広い空間認識を司るニューロンは扁桃体と強く結びつく
という結果が出てるのですが、これは
広いとこに行って眺めてくると気分が良くなるよ
と言うのと似たようなものなのです
基礎医学で学術的に証明できる
でもみんなが知ってるわけではない
だから信じない
という非生産的な事が起きてるのでしょう
確かに全てが科学的に証明できるわけでもないし、再現性の問題
グリア細胞に新たな機能が見つかった
など細かいとこをつつく事は簡単ですが
世間で言われている事、心理学的に言われている事、基礎医学的に説明可能なもの
が一致すれば正しい確率は高そうですし、
世間で言われてる事は結構正しい事が多いと思います
結局、一般的に言われてる事に素直に従った人が得だと思いますし
ヨガも効果的なはずです(心理学的、基礎医学的に説明すれば)
素直に信じるというのが本当に難しいんだと思います 人間関係を良くする肯定的ストロークについてまとめようと思う
書籍などに目を通すと、「褒める」といったプラス側の影響
つまりは肯定的ストロークを相手に与えると良いと書かれている事もしばしばあるので単純に褒めればいいと思い
「すごいね」「とってもいいよ」という言葉を使いがちだが、この辺りの問題点についてまとめてみようと思う
関係フレームによる複合的相互的内包や神経生理学的なネットワークの可塑性から見ると肯定的ストロークの種類によって様々な作用が見えてくる
今回は
「評価的賞賛」「自己開示的賞賛」「是認」「ベールに包んだ是認」
の違いについて述べようと思う
上司Aが部下Bの仕事を褒める場合で例を示そう
「評価的賞賛」
先月の案件のできはとても良かったぞ
「自己開示的賞賛」
先月の案件はとても良くできていたと感じた
「是認」
先月のあの難しい案件をやりきる事ができたな
「ベールに包んだ是認」
取引先が先月の案件に大満足してたぞ
となる
似たように聞こえる部分もあるが、目指すものと構造と主語は大きく違う、それはこのように
「評価的賞賛」
先月の案件のできはとても良かったぞ
→私は、あなたの良し悪しを評価する
「自己開示的賞賛」
先月の案件はとても良くできていたと感じた
→私が、どの様に感じたかという事実を提示する
「是認」
先月のあの難しい案件をやりきる事ができたな
→あなたは、何ができたかという能力を事実提示する
「ベールに包んだ是認」
取引先が先月の案件に大満足してたぞ
→私でもあなたでもない第三者が、どのように反応したかの事実を提示する
「評価的賞賛」は、褒めればいいのだから簡単であるが、評価的な優劣をつけられたという抵抗が生まれる可能性がある
加えて、評価の悪い面の連想が複合的相互的内包で生まれる、そのため、単純に褒めるという行為は相手に褒められない行為の連想も作り出す、例えば、親の期待がプレッシャーになっていた、というようなものがそれである
「自己開示的賞賛」は、自分の気持ちという事実を提示するので相手が否定する事は難しい、一方で自己開示的賞賛にも評価的な側面が生まれるので、評価的賞賛に準じるデメリットが生まれる可能性がある
一方で、自己開示的賞賛は事実の提示に沿うので相手が事実認定として受け止めるメリットは存在する
肯定的ストロークで少し踏み込んで調べると、自分がどう思ったかの開示により褒めると良いと説明されてる場合もある
「是認」
よくある賞賛の肯定的ストロークから評価的なバイアスを排除した事実提示型の肯定的ストロークである
是認を使う場合はある程度訓練が必要で、慣れていないと知らない間に評価的賞賛をしてまう事がある
文章構造としては
あなたが、どのような素晴らしい可能性を示したか
という事を事実提示するのである
例えば、
あなたがやったこれは素晴らしい、となると評価的賞賛になるが
あなたはこれをやった(それは言うまでもなく素晴らしい)、という形で是認を行う
この際に、あなたは素晴らしい事をやった、となると是認に評価的要素(素晴らしい)が加わる
このように一部評価的要素を加えても是認になるが、評価的要素を含めずに事実認定によって相手がその良さを自覚できる構造にすると複合的相互的内包によるデメリットが最小限となる
「ベールに包んだ是認」
複合的相互的内包を利用して評価的なものを排除した上で賞賛と是認を相手に事実提示できる
タイミング良く使えばとても効果的である
「ベールに包んだ是認」はその効果性の高さが論理的に理解しにくいためあまり使われにくいが、逆に否定的ストロークではしばしば使われている
思い当たる事もあるのではないだろうか
「みんなあなたが〇〇に失敗したって怒ってるよ」
といった事を、
これはベールに包んだ是認の反対、ベールに包んだ非難である
つまり、自分が主張したい事を主張してないように相手に刷り込む方法である
関係フレームによる複合的相互的内包の理論を知らなくても、ネガティブな方面では効果的に使われているのだ
ベールに包んだ是認は関係フレームで迂回してあなたから肯定的ストロークを与えられた事を認識する事ができる
逆のベールに包んだ否定を考えれば分かりやすいだろう
「みんなあなたが〇〇に失敗したって怒ってるよ」
と教えてくれた人を嫌いになるのではないだろうか
これが関係フレームによる複合的相互的内包によって迂回されるストロークの効果で
ニューロンのネットワークの可塑性を考えれば、実は当然といえば当然なのである
分かりにくいコア感情による感情制御について神経生理学的に述べようと思う
コントロールの難しい「防衛感情」に対して、「コア感情」は怒りでもコントロール性が高いと述べてきた
コア感情は大脳辺縁系の扁桃体から投射される感情が、コントロール性を持って大脳新皮質の前頭葉に認知的に理解されるのだが、心理学的に説明すると概念的で分かりにくい部分もある
概念的に説明すると、怒りや悲しみであれコア感情は深く味わう事で刺激に対するコントロール性が高まる
となるが、言葉では分かりやすいもののメカニズム的には分かりにくい部分が混乱を招く
それでは、神経生理学的なメカニズムで述べてみようと思う
刺激から投射される刺激(体験など)と嫌悪的な刺激(悲しみなど)が大脳辺縁系の扁桃体外側核でシナプスを形成すると青班核からの刺激を含んだ嫌悪刺激のネットワークを形成する、これが嫌悪的な連想記憶群である
ヘブ則により、この刺激が繰り返されるとシナプス強度が上がる事でより強い嫌悪刺激へと変わっていく一方で、刺激が臨界に達すると扁桃体から中脳水道周囲灰白質に向けてフィードバックの投射が送られる事で嫌悪刺激の閾値が下がる
青班核からの刺激は同時に大脳新皮質の前頭葉に投射が行われており、この投射によって扁桃体の制御を行う
つまり、コア感情においては、青班核による扁桃体と前頭葉の制御が行われており、その上で扁桃体での嫌悪刺激(感情を味わう)を行うと刺激に対する閾値が上昇して嫌悪刺激を感じにくくなる(コントロール性が高まる)という事である
一方で、中脳水道周囲灰白質へのフィードバックがうまく行われない(防衛感情)では嫌悪刺激は臨界に達する事がなく閾値の上昇が起きずヘブ則に従ってシナプス強度は上がり続ける、つまり我を失うといった状態である
この際には大脳新皮質の前頭葉の認知機能を使った抑制、つまりは知性的に感情を抑える事が必要となる
すごいね
ここまで具体的に展開できるとは
ageるに協力するよ
>>182で
>嫌悪刺激の閾値が下がる
と書いてますが
>嫌悪刺激の閾値が上がる
の間違いです 生理学的な知見を元にどのように感情と向き合っていけばいいか述べてみようと思う
今回は
「愛する人との別れ」「強迫観念」「普段の情動」のケース
についてそれぞれ述べようと思う
「愛する人との別れ」では
強い悲しみの先に悲しみを受け入れた、といったパターンや
感情をそっとしておいたら強い悲しみが薄らいだ、というパターンがあるが
それぞれで解決方策の方向性が違う
「強い悲しみの先に悲しみを受け入れた」パターンでは
繰り返す情動の刺激でシナプス強度が強化され続けた結果、臨界値に到達する事で中脳水道周囲灰白質からの抑制性の刺激を獲得し結果として「悲しみを感じにくくなった」というパターンだ
「感情をそっとしておいたら強い悲しみが薄らいだ」パターンでは
シナプスに刺激を加えない事でシナプス強度が弱化され
その結果、情動刺激が下がり(膜電位変化しにくくなり)、「悲しみを感じにくくなった」というパターンだ
「強迫観念」の場合は
繰り返す刺激によるシナプス強度が強化されるものの、中脳水道周囲灰白質からの抑制性の刺激が起こらず
ニューロンネットワークの強化が際限なく起きた状態だ
つまり、通常であればある一定の値に達すれば中脳水道周囲灰白質からの抑制性の刺激が出る事で情動が抑えられるのだが、「強迫観念」では際限なくニューロンの発火が行われる
これは遺伝的な影響なのか、青班核からのノルアドレナリン作動性シナプスからの影響かは分からないが、刺激を受ける事自体が症状をより悪化させる可能性がある
そのため、偏執症や強迫性障害では、ヘブ則によるシナプス強度の弱化を目指してあまり触れない事が改善に繋がる可能性がある
「普段の情動」の場合はどうだろうか
中脳水道周囲灰白質からの抑制性刺激の獲得を目指すか、
ヘブ則によるシナプス強度の弱化を目指すか、
だが、中脳水道周囲灰白質からの抑制性の刺激を獲得するためには刺激を臨界へと持ってくる必要がある
つまり、臨界に達するまではどんどん嫌悪刺激が増強されていくという事だ
そして、さらなる問題は臨界がいつ訪れるのか、中脳水道周囲灰白質からの抑制性の刺激を獲得できなかった場合はどうするのかという大きな問題がある
そのため、通常の生活における一般的な情動の場合は、感情をそっとしておいてヘブ則によるシナプス強度の弱化によって情動に対応するのが安全と思われる
この他にも、前頭葉による消去記憶の作成による対応もあるが今回は情動刺激に対する直接的な対応方策を述べた
「不愉快な気持ち」について考えてみようと思う
相手との意見の違いで不愉快な気持ちになった時に何かしらの方法でそれを解消しようとした経験があるのではないだろうか
例えば
自分はフランス料理が好きで「フランス料理は美味しいね」と言った時に友人が「まずいでしょ」と言って言い合いになった場合だ
心理学ではこの
「自分が思ってる事」と「相手からの反応(観測結果)」に違いが起きる事を「認知的不協和」と言い、これを解消する心の動きが出る
それはつまり、
相手の意見を変えさせようとして言い合いになったり
相手が言っている事が正しいかもと思って自分の意見を変えるような場合だ
このどちらかを行い、「自分が思ってる事」と「相手からの反応(観測結果)」の差を埋める事が「認知的不協和」の解消を目指す行為だ
では、心理学で概念的に説明される「認知的不協和」とは神経生理学的には一体何なのであろうか
認知行動に関わる心理作用モデルに「自由エネルギー原理」という仮説モデルが存在する
このモデルとはベイズ推定(確率の推定)と同様の推定を脳のニューロンが行い、観測結果と比較し、フィードバックする事で認知行動が決定されるというものである
これは
自分の思い込みが正しい場合に得られる、ニューロンの活動パターン(認識確率、ベイズ推定における事後確率:予測信号)
と
観測結果(例えば、相手の意見)から得られる、ニューロンの活動パターン(実際に受け取るニューロンの活動パターン:感覚信号)
を比較し、その誤差を最小限にするように循環的にフィードバックするという心理モデルである
つまり、無意識下で
あらかじめ相手の反応を予測する→相手の反応を受け取る→両方の神経活動の差異を確認して認知もしくは行動を修正する→再び相手の反応を予測する
という行程を循環式に繰り返す行為である
あらかじめ相手の反応をある程度予想して話す事はあると思うが、自由エネルギー原理ではどのような認知活動にも自動的にこれが行われており、この「誤差」を修正する行為が「認知的不協和」という事である
そして、「誤差」を修正するために相手の意見を変えようとする(観測結果を修正)しようとするのである
では、この仮説での
予測→観測→誤差判断→フィードバックによる反応
が本当に無意識に行われているのだろうか?
実は行動をする前と後に、ニューロンの活動で予測と回顧が自動で行われているという事をご存知だろうか
行動する前と後ではざっくり10倍の速度で早送りと巻き戻しでニューロンが活動しているのだ
具体的には
行動の直前にリップル波というおおよそ100ヘルツのバックグラウンド神経活動に合わせて、予測的に行動した場合のニューロンの活動が重ね合わされて時間空間的な時系列をもったニューロンの活動が認識される
そして、実際に行動した時にはシータ波と呼ばれるおおよそ10ヘルツのバックグラウンド神経活動に合わせて、実際に行動した場合のニューロンの活動が重ね合わされて時間空間的な時系列をもったニューロンの活動が認識される
そして、行動が終わった直後に同様のリップル波のバックグラウンド上で今度は逆順に神経活動が認識される
この、リップル波のバックグラウンド神経活動上で、行動の直前と直後に行われる、早送りと逆戻しの神経活動がまさに
自由エネルギー原理における、「予測信号」と「感覚信号」の間に生まれる誤差を検出するニューロンの活動だと考えられる
そして、その結果としてその「誤差(予測誤差)」を最小にするために
相手の意見を変えさせようとしたり、
自分が間違っていないか考えてみたりするのだ
これが、心理学で言う、
自分の思い込み(先入観)と違う事を相手が言った時に不愉快になり、
説得しようとして相手に意見を変えさせようとすると相手からの抵抗が生まれる「認知的不協和」の神経生理学的なメカニズムである
では、「自由エネルギー原理」をもとにした効果的な「認知的不協和」の解消法を考えてみようと思う
まずは、観測結果である「感覚信号」を変える最も単純なパターンである
「今爆発音が聞こえて周りを見回した」
これがそうである
爆発音が聞こえたものの、視界に映る観測結果と自分の予想する視界が一致しないために、観測結果を変えた(周りを見回した)という状況である
これは問題がない普通の行動であろう
次に、相手から嫌な事を言われた
この場合はどうか?
言い返して相手を説得して観測結果を変えるよう試みるだろうか?
それが成功するためには、相手の「予測信号」という認知を変えないといけない
よく言う「他人は変えられない」という言葉が表す状況だ
では、相手の意見を受け入れて自分の「予測信号」である自分の認知を変えるだろうか?
それができるならそれも1つの手だが認知を変えるという事は既存シナプスの弱化と新たなシナプス結合の構築を意味する
果たしてそれが簡単にできるだろうか
相手の反応である「感覚信号」も自分の認知である「予測信号」も変えられない
ここで多くの人が苦しむのだが、果たしてどうすればいいのか
これは
相手に「感覚信号」を送らないという方法が残される
つまり、「無視」、いわゆるディスカウントである
無視すると相手は予測誤差を出せないためフィードバックによる修正行為を行えない
これの意味するところは、その結果自分も相手からの反応「感覚信号」を受け取らないという事である
「認知的不協和」の正体は「予測信号」と「感覚信号」の比較の結果生まれる誤差である事を思い出して欲しい
つまり、反応がなければ相手も自分も「予測誤差」を出すための比較ができないのである
2ch、5chでも時々見るのではないだろうか
「荒らしは反応しなければいなくなります」
という言葉を
ボトムアップ式に経験的に理解されている事もトップダウン式に論理的に説明できる事もしばしばあるのだ
この他にも「共感的理解」という方法もある
これは、
あなたの意見には同意できないけど、あなたの感情は理解した
というスタンスの反応方法である
この場合には
自分の認知を変えずに、相手への反応「相手が受け取る感覚信号」を認知的不協和なく返すというやり方である
「共感的理解」と「共感」は全くの別物であるという事は覚えておきたい
>>192
今まで見ていただいてありがとうございます まぁ>>1で宣言しているようにいろんなアプローチからってのはなかなか興味深い
いずれ本にする時の下書きなのかもしれんが 「共感」と「共感的理解」の違いについて述べてみようと思う
「共感的理解」を使うメリットは
自我を保った冷静な状態で意見の違う相手と関係性を構築できる
という点にある
「共感」は意見が同じ場合でないとできないか、共感してるふり(嘘をついている)をする事になるが
「共感的理解」の場合にはふりをする必要がない
具体的に例を挙げようと思う
「共感」
相手: 部長が急に仕事押し付けてきて腹たったよ
自分の心の中の気持ち: (分かる、俺も押し付けられた)
自分: 腹がたつな
「共感してるふり」
相手: 部長が急に仕事押し付けてきて腹たったよ
自分の心の中の気持ち: (お前が仕事してないからだろ)
自分: 腹がたつな
「共感的理解」
相手: 部長が急に仕事押し付けてきて腹たったよ
自分の心の中の気持ち: (お前が仕事してないからだろ)
自分: それで腹がたってるんだな
これらの文章構造の最大の違いは、
「共感」の主語が、「私が」もしくは「私とあなたが」
なのに対して
「共感的理解」の主語は、「あなたが」
という構造になる
なぜこのような事をしないといけないのであろうか、
相手の感情が提示されている場合に応答で好ましいのは
相手の感情を肯定する事である、
これは、相手が感情を伴わない客観的情報の提示の場合の応答方法とは違う、つまり会話のフォーカスが感情に当たっている場合には感情を正当化してあげるという事である
例えば客観的情報の提示の際に
相手: この先を右に曲がると目的地に着くよ
自分: この先の右側に目的地があると思うんだね
と主語を「あなたは」で返すとおかしな会話になってしまう
「リフレクト(おうむ返しなど)」や「(感情)反影」という技法で相手の言葉を追従的に返す事で関係性を作る事もあるが、これは基本的には客観的情報の提示ではなく感情の伴った会話で「私はあなたの話に耳を傾けていますよ」といったメッセージを送るためや相手の自己洞察を促すために行う
「共感的理解」に戻ると
共感的理解では、相手がどのような感情を抱いたのかという事象を肯定し、意見が違う場合でも軋轢なくさらに自分に嘘をつかずに関係性を構築する事ができる
「共感してるふり」ではどうか、これは結果的に自己の中で認知的不協和を引き起こす
つまり、自分の本心から発せられる言葉の推測「予想信号」と、実際に発した言葉「感覚信号」に違いが生まれて不愉快になるのだ
「共感してるふり」をして気分が悪くなるのは簡単に想像がつくのではないだろうか
「共感的理解」は
相手の感情を知的に理解する行為で
相手の感情を前頭葉主体で処理する
一方で「共感」は
自分の感情の発現そのもので
相手の感情を扁桃体で処理する行為となる
どちらも相手の感情を肯定する行為なのだが、日常会話においては「共感」できる場合は共感で返した方が圧倒的に楽なのだが、
「共感的理解」には前頭葉による知的処理を必要とするため、うまく使うためには訓練であったり脳のリソースが確保されている必要がある
とある犯罪者がいたとしよう
この犯罪者は連続殺人を犯しそれでも自分がやった事は間違ってないと言い張っている
この相手に「共感」する事は可能であろうか?
「共感的理解」を行うと以下のような文章構造となる
「私にはあなたのやった事の正当性や理屈を理解する事はできないかもしれない、一方で私には分からないあなただけににしか分からない犯罪を犯す事になった今までの経緯やそれに伴う葛藤や感情があったんだと思う」
となる、つまり
あなたの意見には同意できないけど、あなたの感情は理解した
という構造である
「共感」でも「共感的理解」でも相手の感情を肯定する構造は同じだが
扁桃体による感情の発現なのか
前頭葉による知的理解なのか
で全く別の認知行動となっているのだ
「人は何のために生きているのか」という話題も含めて、人の「意思決定」について述べようと思う
人は何かの目的があって「意思決定」をして行動をしているように思われているが
では、目的を達成するとはどういう事なのだろうか?
例えば、ボールを落とせば地面に落ちるが、地面に落ちるのが目的でボールが落下しているのではない
イオンは濃度は高い場所から低い場所に拡散するが、拡散を目的としてイオンが移動するわけではない
にもかかわらず、人は何か目的があってそれを行なっていると考えられている
そして、生きるという行動をしている時に「何のために生きているのだろう」といった疑問が湧いたとしてもなかなかその目的が見つからない
「生きているのは単なる結果だ」とか
「私は○○のために生きている」とか
「いつか死ぬのに生きるという行動に目的があるのか」
といった哲学的な答えや袋小路に入り込む
では、「意思決定」をする際には目的が必要なのだろうか?
目的がないと「意思決定」ができないではないかと思うかもしれない
ここで、自由エネルギー原理に基づく予想信号と感覚信号の誤差を埋める過程について考えてみよう
これは、つまりベイズ推定(事象が起きる確率)をする上で不確実性を下げる、というニューロンの活動である
具体的に言うなら
ベイズ推定における事後確率(事前確率と条件付き確率の積に比例)が60%だとするなら、特定のニューロン活動時に予想されうる事象の確率を60%に近づけるという活動である
当然の事ながら脳内で数学的な計算が行われているわけではなく、あくまでも不確実性を排除するニューロンの活動をする事でベイズ推定が行われた場合の精度が上がるという事である
つまり、自由エネルギー原理に基づく「意思決定」とは
例えば
「Aさんにプレゼントを贈る場合に喜ぶかどうか」を予想するニューロンの活動でもなければ
「Aさんにプレゼントを贈って喜ぶようにする」ためのニューロンの活動でもない
目的に対してのニューロンの活動ではないのだ
あくまでも、ベイズ推定の際の精度を上げるための行為が自由エネルギー原理における「意思決定」というニューロンの活動なのだ
その行程は
事象が起きた時の自分が受け取る信号パターンを予想する(例えば、予想信号が「011010」だったとしよう
↓
実際に事象が起きた時に感覚信号パターンを認識する(「011011」だったとしよう
↓
両者の誤差を比較する(011010と011011
↓
自分の予想信号011010を011011になるように、もしくは感覚信号の011011を011010になるようにニューロンが活動する
となるのだ
そして、予想信号と感覚信号の予想誤差が下がる事でベイズ推定時の精度が結果として上がることとなる
これが自由エネルギー原理における「意思決定」の正体である
ざっくり説明すると
自分の無意識的な事象予測精度を上げるために、実際の事象と比較してその誤差を生み出すものを減らすようにフィードバック的に「意思決定」がされる
という事だ
「人は何のために生きているのか」という問いに対しては、「生きるという状態を持続するために行動が最適化されている」という答えで返せる
つまり、生きる目的を探すというのは哲学的な話であって、生きる事は目的ではなく事象に対するフィードバックによる状態であり、それそのものが「意思決定」と呼ばれるものだという事だ
ある意味で「生きているから生きている」というのは答えとして近いのかもしれない
それでは、どう見ても自分で意思決定してるように見える「異性への告白」という行為で自由エネルギー原理を見ていこうと思う
相手への好意の発生時には、過去の情報と報酬系が組み合わさったニューロンのネットワークが参照されて、それと一致する場合に
報酬系の作動する過去情報が実行される時の神経活動パターン(予想信号)と、相手を認知した際に発生する神経活動パターン(感覚信号)の予想誤差の比較が行われる
この時に予想されうる神経活動パターン(予想信号)に相手と「付き合っている」という情報が含まれる場合(これがいわゆる願望と呼ばれるもの)に、実際に付き合うという事象を発生させるために(感覚信号の変化)フィードバックとして行動する(告白する)
という様になる
つまりは、「付き合っている」という状態(願望)を目的として行動するのではなく、「付き合っている」という状態と「付き合っていない」という状態の誤差を埋めるために行動(告白)するのであって、この間の誤差さえ埋まれば推測誤差が減りベイズ推定の確実性が上がるため、「自分には無理だ」とシナプス可塑性の変化によって過去参照情報の認知を変化させる事でもベイズ推定の確実性を高める事はできる
いくつかケースを紹介してそれぞれでどうしたら良かったか、という分かりやすい実践的な話に移っていこうと思う
生理学的な話でも電気生理学的な話は少し述べてきたが、アストロサイトを含むグリア細胞や脳内の電場などに関して述べてない事や心理学に関しても述べてない事はかなりあるが、それらは必要に応じて述べようと思う
あまり重要ではないかもしれないが個々の信憑性判断の参考のためにどのような情報を基にしてるか、どの様に取り扱ってるかを今更ながら述べておこうと思う
当然ながら査読が存在していないのでここの情報は学術的な根拠としては使えないが、基本的には基礎研究、臨床研究に準じた形で情報を述べている
多くの人にとっては論文の取り扱いが分からないと思うので情報の根拠として使っている「論文」というものをおおまかに説明しておこうと思う
細かく話すとキリがないのでかなりざっくり書いていこうと思う
Natureで発表されている事も参考にするとおおよそ60%から80%は論文の実験を再現不可能(追試不可能)である
これはサンプルとする研究領域からの数字なので全体における全ての分野の数字ではない
心理学系統では追試ができない割合が多いとも言われる
ここで言いたいのは、
論文になっていれば真実だというわけではなく、impact factorと呼ばれる雑誌の格を決める数字が多いか少ないかで決まるわけではないという事だ
ただし、99%確実な事のみを基にして話しても何も重要な事は言えない
そういった意味で仮説的なものも含めてここでは述べている
論文の信憑性はその論文が引用された回数によって決まるわけでもないし、last authorの業績によっても決まるわけではない
ほとんどはPubMedと呼ばれるサイトで確認できる論文の情報を基にしてここでは述べているが引用文献は特に示さない
PubMedは研究者にとっては当然のサイトなので詳しく述べない
引用文献を示さないのは、それを必要とするのは基本的にその分野で研究している研究者のみで、それ以外の人は通常は読めたとしても実験デザインや手法に関して妥当性を判断できないためだ
特に研究では交絡因子と呼ばれる要素も絡んでくるため、全て翻訳して理解したとしても本業でさえ難しいデザインの問題点の抽出ができないだろうからだ
特に実験デザインの妥当性の判断材料になるmaterial and methodsに関しては専門的に扱っている人以外は正しい理解は通常は不可能だろう
つまり、引用文献を出してもあまり意味のない情報を出してしまうことになるというため特には示さない
とっつきやすい、実際のケースについて話を進めようと思う
ネットの相談欄で
夫が家で物を片付けないからなんとかしたい
↓
ネットで他の人からアドバイスをされて夫が散らかしたものを片付けずに放置した
↓
夫が心を入れ替えて片付け始めるどころか数日でゴミ屋敷になった
というケースを見た
これに対する感想は、全く効果的でない事をやっているのでそうなっても不思議ではない、という事だ
裏付けとなる理論は今までに述べた事を繰り返すだけになるので特に述べる必要はないと思う
批判としては、妻の取った行動は主体性に基づいた非常に本能的な行動であり、問題解決に至らないのは致し方ないと思う
関係性が確立されている場合の対応例を述べる、関係性が構築されてない場合はそれ以前の問題である
まず、「片付けて」といった指示や「片付けないといけない」という立場を手放すのがスタートとなる
夫の思考としては、「片付けなくてもいい」何かしらの理由(それが理不尽かどうかは関係ない)があるのでまずはそこを確認して
相手のその理由に理解を示す必要がある
理解を示す際の注意点は、相手の意見に同意しないという事だ
同意したら散らかしていい事になる
立ち位置としては、「あなたにはあなたなりの大切な理由があるのは分かった、それと同時に私には私なりの意見もあるの」
という2人の意見両方を尊重しつつ違いをはっきりさせる事だ
ここでは相手の中で「両価性を広げる」という、矛盾を発生させる
相手が「俺が正しい」と言って聞かない場合は関係性の構築からやり直す必要がある
両価性が広がったら、開放型質問で「どうしたらいい?」と聞いていく
こちらの意見を押し付ける指示型では抵抗が生まれるので相手に追従しながら話を進めていく
その後に相手がどのように返してくるかは分からないが
自己開示による自己の感情の提示による「家で物が散らかってるとすごく嫌な気持ちになるの」といった情報を加えながら妥協点を探していく事となる
この系統の話の進め方は「動機付け面接」という手法が参考になると思う
気分っていうのは錯覚だよ
自分に暗示をかけてやればいい
>>206
それに関しては自由エネルギー原理の部分で述べておりますが
自己啓発でいうところのアファメーションによる効果は、ベイズ推定の精度を上げる上で効果的に働くと賛同できます 気分っていうのが結果だと思うんだよ
出力だわな
良い気分になる入力をしてやる
良い気分になる原因をつくってやればいいのさ
それは、金かを稼ぐことかもしれないし、友達とつるむこともかもしれない
散歩することかもしれない。うるさい親から独立することかもしれない
>>207
あなたは日本語が下手なんだよ
あなたは伝えてるつもりかも知れないけど、文法がおかしいから読んでるほうは不快に感じるだけで何を言ってるのか分からない >>208
それぞれが自分なりに納得できるものであればそれが科学でも宗教でも良いのかなと個人的には思います
判断はその人の権利ですし 「意思」について考えてみようと思う
人は自分の行動に意図的に自由な意思を持って選択を行い行動してると思いがちだが
人の「意思」と呼ばれるものが行動の決定に必要なのか怪しいというのはしばしば言われる
これは、行動に自信がない、とか、人に流されやすい、という意味ではなく
「意思」そのもの、自分が信念を持って行なったという事でさえそれが「意思」によるものか怪しいという意味だ
人間の「心」というものを考えれば
「そんな馬鹿な、意思があるから自分は決めてるんだし人は物ではない」
と反発するのが普通の反応だ、そしてそれは心理学では認知的不協和と呼ばれるだろう
人は、自分の意見や行動は自分の「意思」が決めてると思うものだし、はっきりした記憶があれば間違いないと思うものだが
記憶にしてもどんなに正しくて100%間違いないと思っていてもそれこそ思い込みでしかないという事はどれだけの人が気がついているだろうか
何かの事件で被疑者や被害者が記憶が確かで絶対に間違いないと言っていても、それは神経生理学的的に言えばその情報に対して海馬でのニューロンの可塑性が強化されているという事を意味するだけである
(情報の伝達はニューロンだけに限らずグリア細胞も関係している可能性もあるが)
グリア細胞や間質での電場を別とすれば、電気生理学的には「意思」や「記憶」はニューロンのあり様そのものに他ならないという事である
つまり、電気生理学的な脱分極そのものや拡散性の神経修飾物質の影響そのものが選択した結果や行動を意味しているのであって、そこに「意思」が介在してるかどうかは別の話なのだ
もちろん、「心」や「意思」が存在するのは間違いないがそれは
意思があるから行動するのではなく
意思は行動に理由付けされた単なる結果かもしれないという事だ
ここで金縛りの例を考えるかもしれない
「意思」はあるのに動かせないから「意思」と「行動」は関係ない、と
だが、通称金縛りと呼ばれる睡眠麻痺は前頭前野から運動野へ投射される刺激が抑制されているだけで意思が行動を決定しているかどうかとは別問題なのだ
「意思」とは認知された対象のひとつに過ぎない
自由エネルギー原理で言えば、「決断」とは予測と現実の溝を埋めるフィードバックの結果を示しているので、あえて「意思」というものを示すとすればそれは、海馬と扁桃体で結びついたエングラムセルと呼ばれる過去の情報を参照して引き出している「推測」なのかもしれない
つまり、「こうしたいから、どう動こう」と思っているのではなく、「過去はこうだった、それから推測するとこうなる、それと外部刺激との誤差はこれだけある、誤差を埋めるための行動が反応的に起きる」という過程に理由付けをしているだけなのかもしれないのだ
連想について考えてみようと思う
心理学的なものと、神経生理学的なものを並列して述べようと思う
「象の鼻は長い」と聞いた後に、「鼻が長い生き物は?」と聞かれればひねくれてない限りは「象」と答えるはずだ
だが実際にはマンモスと答えてもいいはずだ(系統樹において属が違う別の生き物)
さらに、「象の鼻は長い」「長い鼻があると水浴びに便利だ」と聞いた後に、「水浴びが得意なの生き物は?」と聞かれれば、これまたひねくれてない限り「象」と答えるはずだ
つまり、「象」と「水浴び」は直接関連づけられていないのに「象」→「水浴び」の関係性ができただけでなく、「水浴び」→「象」の関係性もできたわけだ
これは人間特有の認識であるとされる
さらに、「象は鼻が長いけどマンモスも長いよ」と聞くと「象」→「鼻が長い」と考えるときに「マンモス」→「鼻が長い」も思い出していくようになる
これらの連想のネットワークが思考に影響しているため、例えば
自分の好きな人の趣味を好きになって、相手がそれを知ると好意を持たれやすい
といった共通の趣味や価値観の一致が好意に繋がるのは、この連想(複合的相互的内包)による結果なのだ
これを神経生理学的に考えてみよう
「象」の情報を構築するニューロンの軸索からシナプス前部の神経伝達物質の開口放出を経由して、シナプス後部の「鼻が長い」の情報を構築するニューロンの樹状突起へと信号が伝わっていく
これは「象」→「鼻が長い」の流れであるが、シナプス接合部のカドヘリンを介してシナプス後部経由で強度が調節される
これはシナプス後部→シナプス前部への情報伝達がある事を意味する
「鼻が長い」→「象」の心理学的な関係がなぜ生まれるのかははっきりしないが
シナプス後部からシナプス前部への強度調節
細胞間質における電場変化による脱分極閾値の変化
アストロサイトによる相互調節
など関係ありそうなものはいくつかある
さらに樹状突起上でのシナプス強度は協調する傾向があるため、「象」→「鼻が長い」が強化されると「マンモス」→「鼻が長い」という連想も強化されてくる
このように「象」「鼻が長い」「水浴び」「マンモス」といった連想の記憶群が強化される一方で、他の連想、例えば「カバ」「水浴び」の連想は弱化により弱くなっていく
相手に「指示」を出すという行為について考えてみよう
相手をコントロールしたいと思った時に多くの人は「指示」や「指摘」や「命令」といったいった形で行為を行う
この、「指摘」により相手をコントロールしようとする行為は自分の中に存在する認知的不協和を解消するための行為となる
自分の中にある認知的不協和を解消するには、
外的環境を変化させる
自分の認知を変化させる
のどちらかとなる
しかし、通常の人は認知的不協和を解消する際に、自分の認知を変化させるよりも外的環境を変化させようとする
これが「指示」という行為となって現れる
人は行動に理由を求める傾向があり、それは「帰属」と呼ばれるが、何か悪い事に対して「帰属」を考える際に
自分の帰属は外的な要因を求め
他人の帰属には内的な要因を求める傾向がある
これを対応バイアスという
つまり、
何か悪い事があったら、
自分に起きた場合は、悪いのは自分ではなく、他人を含む環境が悪かった
他人に起きた場合は、悪いのは他人その人で、自分を含む環境ではない
と思う傾向があるのだ
これはまさに、認知的不協和の処理そのものであり
自分の正当性という認知を変えずに、外的環境に変化を求める事そのものである
何か不快な事が起きた場合に、普通の人は「自分の考えはおかしくない、おかしいのは他人だ」と誰もがそれぞれ考える傾向があるのだ
それが「指示」や「指摘」や「命令」やはたまた「非難」として現れる
では、この「指示」にはどれほど意味があるのだろうか?
対応バイアスを参考にしながら考えてみよう
何か「指示」を出した→相手が言う事を聞いた→自分の行なった「指示」は意味がある
何か「指示」を出した→相手が言う事を聞かなかった→問題は自分の「指示」にはなく、相手にある(対応バイアス)
となる
つまり「指示」は
相手が言う事を聞くという「選択」を選んだ際には、「指示」は効果がある
相手が言う事を聞かないという「選択」を選んだ場合には、悪いのは「指示」ではなく相手そのもの
と認知するのだ
つまり相手が言う事を聞こうが聞くまいが自分の中での「指示」という行為の正当性が揺らぐ事がないのだ
この認知の歪みが人が自分にとって不快な事が起きた時に相手という外部環境をコントロールしようとする「指示」という行為に走らせる
叱る事は大切と考えるだろうか?
叱っても言う事を聞くか聞かないか決めているのは相手であって、叱った行為が相手の行為を決定したわけではないのだ
指示や指摘や命令や非難も同じである
その気になれば暴力を使ったとしようが相手は行動を拒否する事ができるし決定を下すのはその人本人なのだ
言えば相手が言う事を聞くと勘違いしている限りは、行動を決断する権利は、言われたその人本人にしかない事に気がつけないだろう
そのため、指示という命令ではなく正しい形でアサーションを身につけていく必要があるだろう
少し毛色が変わるが、科学がどれほど信用に値するかという事について述べようと思う
これはかなり重要な事だと思う
なぜなら、根拠の多くは科学を基に説明されているので、何かを説明された時にそれがどれ程信用に値するのかをある程度判断できる事で知識の使用範囲が大きく変わるからだ
例えば、
論文に〇〇という事が書かれてました、〇〇は正しいですか?
と聞いた場合と
週刊誌に〇〇という事が書かれてました、〇〇は正しいですか?
と聞かれた場合に同じ答えを出すだろうか?
恐らくだが多くの人は論文に関して
論文に書かれてる事だから間違ってることもあるかもしれないけど多分正しいんじゃない?
くらいの感じではないだろうか?
では、その、「多分正しいんじゃない」という判断をどの程度で捉えているのだろうか
これは研究という産業の構造を知る事である程度雰囲気がつかめる
結論から言えば、
科学の目的とは「可能性を掘り起こす」事である
当たり前と思うかもしれないが、これは、「間違いを排除する」ことが目的ではない事に注目して欲しい
つまり、極端に言えば
この論文は80%の確率で間違っているが、20%の確率で正しい
といった時に「科学」の目的に合っているのである
これが「可能性を掘り起こす」事が目的であって「間違いを排除」する事が目的ではないという事である
ところで、「間違いを排除する」判断を行うのは誰だろうか?
もちろん人間である
人間は当然ながら簡単に誤った判断をする、何故なら人は認識できる事しか正しいと判断できないからだ
1000年前に戻って当時の1番頭がいい人に「鉄が空を飛ぶ事ができますか」と聞いても否定されるだろう
これが単純に「間違いを排除する」行為にフォーカスしない理由の一つである
新しい発見とは常に現在の認識の一歩先を行くので、そもそも正しく認知できる保証がないのだ
これが、可能性を大切にする事に繋がっている
では、可能性を大切にした結果間違いが沢山あってもいいのか?
と反論されるかもしれない
間違いは当然少ないほうがいい
だが、間違いを少なくする最も単純な方法は数を絞る事だ
そして排除された物の中には正しいものも含まれてくる
質のいい物を作る原則を知っているだろうか?
それは、量産である
少数精鋭で優れたものと
量産の中で優れたものを比較すると
量産品の中から最も優れたものが生まれる
そして大量の失敗作も生まれる
これが「科学」である
これは会議で行われるブレインストーミングの要領と同じだ
科学の発展とは平凡な結果を100個集めて起こすのではなく、優れた1つの結果によって起きる特徴がある
鉄に関しても「揚力」の発見によって飛ぶ事が可能となる(当然動力が必要だが)
そこで気になるのが、その科学に関わる人、つまり研究者とはどれくらい信用のできる人々なのか?
という事だ
日本を例に出してもいいが世界の研究予算規模の最も多いアメリカを例に出そうと思う
その理由は、論文を量産してるのが現在はアメリカだからだ
別に日本人が劣っているわけではないが数があまりにも違いすぎる
思い出して欲しいのは、「最も優れたものは量産品の中から生まれる」という事だ
最も予算規模が多く論文の数が多いアメリカの研究者はどのような産業構造になっているのかについて述べてみよう
大雑把な結論から言えばアメリカの研究はビジネスである(大雑把に言ってる事を忘れないで欲しい
そして研究者は、成功者の階段を駆け上る人たちである(金銭的に
アメリカでの研究の成功者が目指す年収はいくらくらいだと思うだろうか?
日本円で言えばおおよそ年収で3000万円から4000万円以上だろう
これは基礎研究の分野で、これが臨床家による臨床研究だと1億以上を目指す事となる(講座のchair
これだけ高収入を目指せる理由は研究という産業の構造にある
分かりやすく典型的なテニュアトについて述べよう(ポスドクや研究教授といったものは別とする
テニュアという永久就職権を得るとハードマネーという大学から支払われる給料が発生する
これは駆け出しでおおよそ年収で600万円くらいである
日本の研究者とそれほど変わらないが、アメリカの産業構造ではこの後が違う
日本のメジャーな研究予算である科研費に相当するものがNIHから支払われ、メジャーなものはR01と呼ばれるグラントである
科研費で言えば基盤Aとか基盤Cといった感じである
科研費と違い、R01からは雇った職員の給与、大学に収める費用、研究費、そして自分の給料が支払われる
科研費でも特殊なものは給料が出るが全くの別物なのでR01の話に集中して進めよう
R01は研究プロジェクトごとに採用されるのでいくつも取得することができる
かなり大雑把だが1つ獲得するごとに年収が400万円増えると考えてもらうと良い(予算振り分けは任意
つまり、R01を6つ取れば年収3000万超えとなる
そして獲得予算のおおよそ30%は大学に収める(例えば年間4億の予算なら1億2000万円を大学に収める
そして残りの予算で職員を雇ったり実際の研究費にあてる事となる
これがまさに、アメリカの研究産業はビジネスであると書いた理由である
しかし、当然競争率は高く2000年であれば20%ほどのR01採択率だったのが今では一桁となっている
この研究資金を獲得するために、
「より新規性があり、インパクトの強い、可能性に満ち溢れた研究結果」を追い求めているのである
その結果、間違ったものも量産されるが、それに比例して優れた研究も出てくるという構造になっている
研究において捏造まがいのものも存在するが、想像を絶する研究も生まれている
こういった暗闇も併せ持つ産業構造の結果、遺伝子工学や分子生物学といった100年前では考えられなかった技術の発展が起きているのである
論文のインパクトの話や査読、論文雑誌に関しても色々産業構造の関わりはあるのだが、別の機会があれば書こうと思う
科学とは可能性を追求する学問であり、間違いも含んでいる
そのため、いかにも専門的で合理的な説明であったとしてもそれは「可能性を追い求めて出した説明」である事を忘れずに、固執的に盲信しない事が個々の判断にとって大切となると思う
認知はどれ程再構成されうるか、つまり「考え方はどれほど変えられるか」という事について述べようと思う
これは
「大人になったら性格はなかなか変えられない」と言われたり
「頭が固くて柔軟に他人の意見を受け入れられない」といった事につながる
他人の意見を柔軟に受け入れる事ができて、性格を協調的に変える事がうまくできればそれは、「より良く生きる」ためのヒントになるだろう
しかし、周りを見て分かるように大人とは自分と違う意見や認知できないものを拒絶する傾向がある
つまり認知的不協和だ
では、これを変えられるのであろうか?
結論から言えば高次機能を司る前頭前野を関連づけたものに関しては制限内で可能である
逆に一次的な感覚野を含む低次機能に関しては絶望的である
これは、「三つ子の魂百までも」をそのまま現している
認知機能の変化とはつまり神経の可塑性
さらに言えばニューロンの軸索の成長や樹状突起のスパイクの増加、成長などを意味する
そして脳の領域ごとにこの成長にはピークと終わりがある
例えば分かりやすいのが言語学習である
英語をどれだけ学ぼうとネイティブに匹敵する発音を手に入れるのが困難な事は体感できると思うが
これは感受期と呼ばれるシナプス増加のピークが聴覚野ではおおよそ3歳か4歳で最大を迎え
その後はシナプスの量そのものが減少していくためである
脳の領域ごとに設定される感受期が認知の適応の限界を決める事となる
感受期を終えた脳の領域はその後は神経可塑性の能力を減少させつつ構築されたニューロンのネットワークが細胞外マトリックスに覆われる事で認識能力を固定されていく
高次認知機能を司る前頭前野では感受期のピークが5歳から10歳に訪れる
これは感覚野の信号が前頭野に流れ込むため、まずは低次の感覚野の認識を固定させてから高次機能を固定させていくというメカニズムによるものである
つまり、一般的にはより原始的な機能を司る部位ほど感受期は早く訪れ、そして可塑性を失っていくという事である
これが性格がなかなか変わらない理由である
しかし、扁桃体で生まれた感情は前頭前野を経由して運動皮質へと信号が伝わるため、前頭前野における神経の可塑性を利用する事で知性的に認識を変える事は可能である
考え方を変えるとは、言ってしまえば前頭前野における高次機能に対するニューロンの再編成を限定的に行う行為であるが
年齢を重ねれば重ねるほどそれは困難となっていく
「年寄りは頭が硬い」と言われる理由である
しかし、頭が硬い事はニューロンのネットワークが変化しにくく確固とした認識を維持できるという利点も存在する
確かに自分の認識できない物事に対して拒絶反応を示すのはとても自然な反応であるのだが、それは神経生理学的に言えば「前頭前野での可塑性が確実に失われている」という事を意味しており、この可塑性は減少の一途を辿る事を忘れてはいけない
もしも、自分と対立したり認識できない意見に対して一定の配慮や理解を示そうと努力できたりしたりできる場合はその人は非常に幸運である
何故ならそれは前頭前野における高次認識のネットワークの可能性である可塑性の能力を幾分か残している事をはっきり示しているからである
他人の意見を受け入れられない裏には神経生理学的なニューロンの軸索と樹状突起の成長力が失われている事を覚えておきたい、つまり、頭の柔軟性が無くなるという言葉はその言葉以上に脳の今後の成長力が失われている事を意味するのだ
理解力の限界、認知能力の限界について述べようと思う
これはつまり「努力すれば報われる」といった美徳とはかけ離れたものとなる
認識できない事を努力して認識できるようになるには、その分だけ脳のニューロンの軸索を伸ばして新たなシナプスを獲得していく必要がある
しかし、最盛期であれば数ミリも伸びるニューロンの軸索も年齢とともに可塑性を失い伸びて行かなくなる
では、「理解できる人」と「理解できない人」の違いが生まれるのが何故なのだろうか
これはつまり、感受期を迎える時期にどれだけそれと関わるニューロンの構築ができているかに影響する
これは例えれば
感受期の間に北海道から四国地方まで線路をつなげていれば、神経の可塑性が減ってからでもなんとか九州には歩いていける
というようなもので、逆に
感受期の間に北海道から東北地方までしか線路がつながっていなければ、神経の可塑性が減った後では歩いて九州まで行く事は到底現実的ではない
と言うようなものだ
ニューロンのシナプスの結合は実質的に距離的な制限の壁があるのだ
必要な時期にその認知能力に近いものを手に入れてないと、大人となってからは認知すること自体が無理なことがある
これは、考えを理解できない人に説明しても神経生理学的な時間と空間の制約によって事実上不可能であるという事を意味する
これはとても深刻な事である、なぜなら例えどんなに論理的に整合性の取れた事を言おうとその内容が高次であればあるほど理解できる人は減っていき、それを理解できない人はその整合性の検証さえできないからだ
これは説得の無意味さにもつながる
論理的整合性の関わる話とは違い、日常会話では抽象的な感情に紐付いた会話が多く行われる
この際の行き違いは
北海道から東北地方まで線路が伸びてる人と
九州から中国地方まで線路が伸びてる人と
お互い歩いて出会うようにする
というようなものだ
つまり、組織学的なニューロンの結合に必要な距離に制約が起きているのだ
一方で、ニューロンは本来の機能と違う事に転用が可能である
これはつまり、優れたニューロンの結合を持つ部位を使って新たに別の用途に利用する事ができるという意味だ
例えば、前頭前野における倫理的推論が優れているなら人の感情を推論的に認知する事でコミュニケーションに活かせたりする
しかしながら、相手側から見た場合には相手の認知能力の限界があるため神経生理学的な可塑性の限界により相手が内容を理解する事が現実的には不可能な事もあるため、どんなに正しい事だったとしても「説明」や説得」や「説教」は無意味である可能性もあるのだ
「人は変われるか?」という事について述べようと思う
これを神経生理学的、解剖学的な部分から見ていこう
変わるとはつまり、脳のシナプスの結合の変化を表す
言ってしまえば
神経の可塑性が高く、シナプスの結合を変化させられれば変わるし
神経の可塑性が低く、シナプスの結合を変化させられなければ変わらないという事だ
残念ながら、「変わりたい」と思う事と「実際に変われるかどうか」は別問題なのだ
ニューロンは有限であり、無限に能力を様々に伸ばす事は不可能である
分かりやすいのが「顔の認識」と「識字能力」と「数学の能力」は拮抗するという事である
これらは視覚野において競合的に位置を奪い合う事となる
視覚野において顔の認識を司る領野が識字能力の発達とともに左半球から締め出されて、右半球へと移っていく
一方で、数学的能力の発達とともに両側で顔の認識を司る部位は数学用に使用されて、両半球において顔認識の反応が薄れていく
乱暴な言い方をすれば
識字能力は高くとも右半球で強化された顔認識によって人の顔への反応は弱まらないが
数学的能力の発達の場合には両半球での顔認識反応の減弱により人の顔にうまく反応しない可能性があるのだ
ここで言えることは、感受期のシナプスの増加の際には能力の発達が拮抗して
可塑性が低くなった後には発達段階で獲得した能力や認識の延長線でしか変化できないという事だ
感覚野における感受期は早く、その結果可塑性も早く失っていくが、一方で最も高次の前頭前野においては脳の中で可塑性が長く続くが、それも年齢とともに減少していく
つまり、「変わりたい」と思った時にそれが感覚野や感情を基盤とした事柄の場合は根本的に変わる事はかなり難しいという事だ
「怒りっぽい性格を直したい」「悪癖を直したい」「人に反発する性格を直したい」
といったいった場合には、感覚野レベル、つまりいわゆる「性格」レベルで直すことは残念ながらあまり現実的ではないのだ
一方で、多くの社会生活において行動は前頭前野を経由するので
例え低次機能で変えられなくとも、高次機能的にはある程度は変える事ができる
言ってしまえば「知性を磨く」事くらいしか大人となっては能力を伸ばす余裕がほとんどないのだ
もしくは、自分が既に持っている「才能」というニューロンの結合を転用して「別の何かに活かすか」
例えば、
音楽的センスがあるのであれば人の声色から相手の意図を聞き取る能力を開花させる事も出来るかもしれないし
数学的センスがあるのであれば、相手の表情の変化から統計的に意図を推論する能力を開花させる事ができるかもしれない
しかし、今の自分とあまりにかけ離れた変化を求めた場合にはそれは神経生理学的な空間的時間的制約に阻まれて現実的ではなくなってしまうかもしれないのだ
ということはあなたはアイドルの顔がよく区別できないタイプですね
他人への情報のすり込みについて考えてみよう
これは特定の相手に対して「どのようなイメージを持たせるか」という意図的な行為である
認知とは情報の学習であるため、言い換えれば「どのように相手に学習させるか」を考える事となる
学習には古典的には「条件づけ」や「連合論」があり、条件づけのひとつで有名なのがパブロフの犬だ
ベルを鳴らして犬がヨダレを垂らす有名な実験だ
連合論は、関連づけられたものが同時に学習をもたらすというものだが
どちらも古典的なものである
実際に条件づけや連合論は機能する場面が多くあるが、そのために必要な要素を説明できていない点に注意しないといけない
例えば、「上司に自分に対する好感を植え付ける」という事を目標とした時に
複合的相互的内包の作用に従って「上司が好きなもの」、例えば上司がゴルフを好きならばゴルフをやり始めて上司に認識してもらえばいいと考えるかもしれない
しかし、これがうまくいくために必要な要素が何であるか理解してないと失敗に終わるかもしれない
例えば、入社した時からすでにあなたがゴルフをやっている事を上司が知っていたとしよう
そこで上司に「○○部長もご存知なように私はゴルフをやっているんです」
と伝えると何か変わるだろうか?
部長からは「ああ、知ってるよ」と言われて複合的相互的内包による
部長→ゴルフが好き
部下→ゴルフをやる
の際にゴルフを介在とした連合が起きない
複合的相互的内包が正しいならゴルフが好きなんだから、ゴルフをやる部下を好きにならないとおかしくないではないか
しかしながら、当然そんな簡単に進まない
なぜなら複合的相互的内包が発生するための必要条件を満たしてないからだ
認知という学習における必須の要素に「予測誤差」、つまり「意外性」が必要なのだ
では、この場合はどうだろう
部長はあなたの事を特に何とも思っていない
そこであなたは部長に言う
「実は学生の頃からゴルフをやっていて好きで時々やりに行っているんです」
そして部長は返す
「え!?ゴルフ好きなの?知らなかったな」
というやり取りである
この際には
ゴルフ→好き
部下→ゴルフをやる→好き
の複合的相互的内包が発生する
つまり学習の際には、「予測誤差」、意外性がないと新たに学習がされないのだ
部長が予測できる事は学習されないのだ
予測→比較→誤差確認
予測信号→感覚信号→予測誤差
これらがあって初めてシナプスの結合による学習、つまり認知が出来上がるのだ
相手が予測できない事を使う事で「効果的な情報のすり込み」ができる
もしも上司があなたがゴマをすろうとしてると気がついてる時に
「私もゴルフをやるんですよ」
と言ったところで、ゴマをするためにそう言っているんだろうという予測を上司が立ててしまうとそれは何の意味もない
相手が予測できない「好ましい意外性」を使って情報のすり込みを行う事が大切なのだ
情報の取捨選択について述べようと思う
ネットも含めて様々な情報が存在するが、情報は触れた瞬間から真実味を増していく
それが真実だろうと嘘だろうと頭の中で認識された瞬間から真実の色が濃くなっていく
嘘も100回言えば本当になる、と言うように情報は触れれば触れるほど認識が強化されていくのだ
そういった情報の取捨選択の判断ができるとより正しい方向性で生きていける可能性がある
特に科学的な情報の取捨選択について述べようと思う
科学といえばその成果が論文として出されて、それをもとにニュースにもなったりするがどれくらい信用できるのか、という事はなかなか分からないと思う
論文が掲載される学術雑誌にはIF(インパクトファクター)という数字がついており、これはその学術誌の影響力を表す
大まかに雰囲気で言えば
10以上あれば一流雑誌であろうし
20位上なら超一流雑誌
30位上なら研究者は人生の中で一度は掲載したい夢のような雑誌
といったいった感じだ
では、この数字が高い雑誌に載っていれば正しい情報かというとそういうわけではない
インパクトファクターが1だろうが0.5だろうが正しい論文は正しい
では、この数字は何の意味があるかというと
新規性と独創性に溢れてメカニズムまで深く触れているインパクトのある論文
が掲載されているという事だ
つまり、一言で言えば「意外性のある面白い情報が具体的に説明されている」という事だ
正しい正しくないをIFで保証しているわけではないのだ
さらに、意外性があって正しい論文でもIFが10以上の雑誌に掲載されない事もある
それは、現象の羅列だけを行いメカニズムを解明してない場合だ
情報としては「AだからBになりました」というだけで一般的には十分なのだが
学術雑誌では、「何故AだからBになるのかの説明と証明」があるかないかで掲載できる雑誌がガラリと変わってしまう
そのため、有名な学術誌に掲載されている論文を読んだだけではなかなか科学的に十分な情報を得られないのである
さらに、Research paperと呼ばれる研究論文は分野が絞られすぎていて情報としては使いにくい場合がある
そのため、様々な報告をまとめたReviewという形態の報告を読むと科学的な情報の取得として便利な事がある
Reviewでは複数の研究論文を統計的に解析して正しさの程度を確認しているものもあるのでそういった報告を読むとより真実味のある情報が手に入るが
情報は確実性が増せば増すほど既知であったり新規性の薄れた情報となっていく
そのため、科学的な情報の取捨選択としては実際には満遍なくResearch paperもReviewも読み、インパクトファクターに囚われすぎずに読む事も大切となる
他にも個々の論文の引用された回数を確認して参考にするのも良いが、被引用数が多ければ正しいというわけではない事にも注意が必要となる
しかしながら、被引用数が多いという事はそれだけ注目を集める報告という事でもあるので正しい正しくないの先入観を持たずにそういった論文を読んで科学的な情報の取得に役立てる事も有意義である
「飽きる」という事について述べてみようと思う
「前はあんなに楽しかったのにもう楽しくない」
「好きでやっていた趣味にもう興味が持てない」
といった意欲の減退は仕事の面でも重要だ
繰り返し行われる事は認知における興味という集中力を減退させる
これは
予測信号ー感覚信号ー予測誤差
のフィードバックによる学習と外側線条体における手続き記憶の確立によって起きる
一言で言えば、「その事柄は自明であり学ぶために注意を向ける必要がない」という事だ
興味がわかない場合に「諦め」もあるが、これも学習の結果による
自分には無理だ、無意味だという「諦め」を学習したのだ
自分が予測をたてられ、さらに実際の結果と予測の間の予測誤差があるほどベイズ推定の精度を上げるために興味という注意力が向けられる
しかし、意識的な注意力にはボトルネックが存在する
それは、同時に2つのことを意識して集中する事は出来ないという事だ
人は意識的にマルチタスクをする事は出来ない
PCの接続で言えば人の集中はパラレルATAではなくシリアルATAなのだ
そのために、ベイズ推定の精度が上がる予測精度の高い物事に対しては意識的な集中力をもはや振り分ける事なく
その作業はシステム1における外側線条体での手続き記憶にとって代わられる
わかりやすい例が、もう何年も同じ道を車で運転している移動のようなものだ
それはすでに意識の範疇を超えて無意識的な自動運転に近いものがある
このように、「慣れ」によって注意力を向けなくなるのは学習によるごく自然な反応なのだ
これはドーパミンといった報酬系でさえ予測が自明であれば反応しなくなる
どんなに美味しいステーキでも365日3食食べ続ければもう何の感動もないだろう
では、慣れてしまった物事に注意力を向けるにはどうしたらいいか
1つは努力的に前頭前野の認知活動を利用して意識的に集中する事だ
しかしこれには努力が必要なため、言ってみれば試験勉強のために集中して本を読む、といった事と同様の労力がかかる
2つ目はしばらくその物事に触れずにヘブ則による長期抑制を目指す方法だ
これを行う場合には短期間で繰り返し刺激が加わると強化がされるという事も忘れてはいけない
つまり、適度に間隔を開けながら行う方が興味は持続するというわけだ
しかし、2つ目の方法でも必ず「飽き」はくる
なぜかと言うと学習においては間隔を開けながら繰り返し予測誤差が認識されると長期の記憶として強化されるためだ
さらに、記憶を最も効率よく強化する間隔は
一定期間ごとに予測誤差を得る方法ではなく(例えば3週間間隔
最初は短い間隔で予測誤差を得て、時間の経過とともに間隔を伸ばしていく場合だ(例えば最初は1週間、次に2週間、その後に3週間
つまり、必ず「興味」の減退は起きるのだが、同一期間内、例えば1年後の興味の強さで言えば1年間の間に同じ回数それを繰り返し行った場合には、最初は多く後は少なく行った場合よりも、最初から一定間隔で行った方が「興味」の減退は少なくなるのだ
これは他人への関心や学習などありとあらゆる事に関連する、興味がなくなるとは学習を終えて自分のシステム1に取り込んだという言い方もできる
途中飛ばし読みしてしまったので既に書かれていたら案内頂きたいのですが、
自己受容の進み具合と気分の良さの関係なども学術的な話があれば聞きたいです
自己受容の際にキーワードとなるのは「フェルトセンス」「自己一致」「自他の区別」など様々な項目があるが
多くあるキーワードの中でも「気分良く生きる」という意味では「自己効力感」が強く影響するのではないだろうか
つまり、「自分にはできる」という自信だ
自己効力感を育てる上では、通常は他人から肯定的ストロークを与えられると共に、実際に成功する体験を積み上げる必要がある
実際に成功するためには多くの失敗も積み上げないといけないので
その失敗に直面した時に他者から適切なフィードバックを受ける事で誤差が修正されて成功へと近づく事となる
他人から「是認」を含む肯定的ストロークを受けて、心理学で言うところのエンパワーメントを得られる事で
自己効力感を手に入れていく事となるのだが、
一方で失敗に対して自省を行いフィードバックを受け入れないと「自己効力感」はおかしな方向に行ってしまう
つまり、根拠のない自信と揶揄されるようなものだ
「自己効力感」があれば自分のあらゆる行動を受け入れられる可能性が高まるが、自省やフィードバックの伴わないものは現実的に不利な状況をもたらす可能性がある
自信はあるけど失敗ばかりして反省しない人がどのように扱われるかを考えると分かりやすいかもしれない
手っ取り早く成功体験を積み上げて「自己効力感」をあげる方法は
自分ができると思う事の少しだけ上の事をやってみる事だ
では、自分ができると思う事をやって成功体験を積み上げるのがどうだろう?
シナプスの可塑性は予測と結果の誤差によって影響される事を思い出して欲しい
つまり、自分ができると予測してる事が実際にできてもそれは脳のネットワークにとっては当然の事なのだ
つまり、何も変わらない
そのために、予測誤差が生まれる上に実際にうまくいきやすい項目を探した場合には
「自分ができると予測できる事の少しだけ上の事をやる」というのが効率が良いのだ
自分が実際にできるかできないか分からないという予測と
実際にできたという誤差が生まれる事で
内部の認知的には「自分にはできる」という自己効力感を生み出す方向にシナプスの可塑性が変化していく事となる
人は困難な物事に対して「自分にはなんとかできる」という自己効力感があるだけでそれに対するストレスが大きく変化するのだ
「興味を失う事と学習」の関連について少し詳しく述べようと思う
特定の物事を繰り返し行い学習すること事で「飽き」とも呼べるニューロンの反応の低下が起きてくる
学習によっては線条体での自動的な手続き記憶が獲得されて無意識的な行動へと変わっていく
行動経済学ではシステム1と呼ばれる種類のもので
自動的で努力を必要としない行動だ
練習を重ねてうまく楽器が弾けるようになったり
認知的にはプロの棋士が反射的に駒を動かせたり
慣れた道を運転するのなどがその典型だ
学習においては短期間で繰り返しニューロンの発火を行う事でシナプスの結合が強化されていく
繰り返しの刺激でも最初は短い間隔で、後になるほど間隔をあける事で効率よく学習が行われる
例えば1ヶ月間に8回訓練を行うとすると
3〜4日間隔で計8回で1ヶ月練習するよりも
1日目、2日目、4日目、7日目、11日目、16日目、22日目、29日目
と最初に集中して、後になるほど間隔をあける方が長期の記憶として強化される
学習の場合はこのような方式で長期の記憶を獲得できるのだが、趣味でこれをやってしまうと効率よくシナプスの強化がされて段々と興味を失っていく
面白いゲームなどでも最初の数日に寝食を忘れて没頭しても終わりの方では飽きてくるといった事があるのはこのシナプスの効率的な強化が影響をしている
そのために、趣味の場合には
1日目、2日目、4日目、7日目、11日目、16日目、22日目、29日目
と1ヶ月取り組むよりも
3〜4日間隔で1ヶ月取り組む方が飽きが起きにくいのだ
しかしながら、一般的には興味に惹かれて最初に集中的に行ってしまう
「鉄は熱いうちに打て」というように学習のためであれば最初に集中するのが良い
さらに見逃されがちなのが「睡眠」だ
睡眠中には記憶が強化されるので(睡眠中のリプレイによるものや細胞間室の拡大による老廃物排除など様々に理由が言われる
寝る前に行った事は効率よく記憶が強化されていく
これはエビングハウスの忘却曲線において睡眠前後で変化が見られる事から昔から知られていた事だ
睡眠直前の記憶は睡眠中に強化される
これを考慮に入れると学習においては睡眠前に行うのが効率的となるが
「趣味」という事柄においては効率的に学習が引き起こされる事となり、結果的には身につける事でより早く「飽きる」事となる
そのために、趣味においては
初期に集中してやり過ぎない
ヘブ則の長期抑制を利用するために間隔をあける
睡眠前に行わない
といった事で「飽き」るのを遅らせる事ができる
これは人間関係においても同じで
適度に距離と強度を保って就寝前に深入りし過ぎない事によってより長くその相手に興味を持ち続けられるようになるかもしれないのだ
>>236,237
改めて問うと、自己効力感と気分の良さの関係を学術的に記述することは出来ますか? >>240
心理学的、解剖学的、組織学的、生理学的、分子生物学的のどのレベルでの学術でしょうか
心理学的なら疫学レベルの話題になりますし
分子生物学的なら表現形レベルの話になります
例えば心理学的でもいいならエンパワメントによって正の強化が促進されるという内容で話せますし
分子生物学的ならチャネルロドプシンを用いたオプトジェネティクスのin vivoの話題になります 学術的な記述の必要性についてあらかじめ述べておこうと思う
>>218-221
および
>>210
で述べているように、研究対象とするわけでないのであれば必ずしも科学的な説明が必要だとは個人的には思わない
メカニズムの解明は確かに因果を解明し得るが
学術的な結果が因果を解明するとは限らないからだ
例えば
Aという遺伝子を欠損させたマウスを使ったらBという現象が確認されました
ヒトの細胞を利用してAの遺伝子発現を阻害したらCという表現形の変化が確認されました
A遺伝子を欠損させたヒトの細胞に対してA遺伝子を相補したらCという表現形が確認できなくなりました
マウスに対してAがコードするタンパク質Dを相補したらBという現象が確認できなくなりました
A欠損マウスでは表現形Cが確認でき、タンパク質Dの相補により現象Bが確認できなくなりました
in vivoおよびin vitroの結果より
遺伝子Aはタンパク質Dを発現させる事で表現形Cを示しBとなる事が示唆された
というような説明が学術的にはなされるのだが
果たしてこれを一般的に理解する事にどんな意味があるのだろうか
何故なら学術的な記述には過誤が必ずつきまとうからだ
特に厄介なのが交絡因子だ
これは、学術的な結果は正しいが因果関係がないというものの代表だ
学術的な説明とは答えに向かうためのヒントの1つであり
必ずしも答えを示すものではない
そういった意味で学術的な記述に固執する必要はないと思う
何故ならそれは手段の1つに過ぎないからだ
そして、これを言ってしまうのは元も子もないかもしれないが学術はそんなに万能でない
ここにずっと書いている事は唯一の答えではなくヒントの1つに過ぎないという事を忘れないで欲しいと思う ||=・= ii=・=||俺は気分を害した、おまひらに決闘を申し込もう‥
|( ノしヽ )|
g| i-=-i |g
>>241
生理学?解剖学?
生物として脳や体の中でどのように
自己効力感(というか自己受容)が気分の良さに繋がっているか聞きたいです。
メカニズムが知りたい >>244
特に領域の指定がないという事で組み合わせて書こうと思います
自己を受容する、自己を自己として知覚するという事と統合失調症の関わり
複数の疾患と脳の機能不全と社会適合性の低下あたりの例を出して自己を自己として認知できなくなった際の不都合など
今日はもう寝るので後日に >>245
うーん、具体的に書くと正しいリクエストになるか自信かったから書かなかったんだけど
ホルモンや脳神経の働きなどについて聞きたかったです
自己受容も細かく定義しないといけないなら、「自分の凄いところもダメなところも受け入れること」ではダメでしょうか 「自己受容と気分の良さ」というのは非常に大型のトピックなので少し分解して述べていこうと思う
まず、「受容」から述べていこう
これはカールロジャーズの「無条件の肯定的配慮」に対応する
言ってみれば、善悪の判断なしにありのままを受け入れる、という事だ
自己受容に関して言えば
>自分の凄いところもダメなところも受け入れる
という方向性が合致するだろう
「受容」は物事の判断なしにありのままを受け入れるという事を意味し
そこには良いも悪いも凄いも凄くないも存在しない
「その事象そのものを受け取る」という「態度」だ
しかしながら、受容は程度問題であって「完全な受容」は理論的にしか存在しない
この辺りは解剖学的には、感覚野、扁桃体、前頭前野といったそれぞれの結びつきの上では仕方のない事だ
「受容」について書き出すと本が一冊書けるので
「受容とは価値判断なしにありのままを受け入れる態度であり、それは程度の問題となる、そして完全なる受容は理論的にしか存在し得ない」
とまとめておこうと思う
「自己受容」に関しては「自己を葛藤なくありのままに認知する態度」とまとめておこう
では、「自己受容」に関して必要な要素を考えてみよう
まずは、自己を認知する事だ
何故なら「自己受容」は他人への「受容」の態度ではないからだ
何を当たり前の事をと言ってしまってはいけない
何故なら自己を自己として認知できない疾患も存在するからだ
自己感の損失である自己監視障害が存在する
自分が自分でないと感じるものだ
コタール症候群、カプグラ症候群という病気が存在する
自己が世界から切り離され自己を自己と、他者を他者と認知できなくなる疾患だ
これらは解剖学的には側頭頭頂接合部の損傷で起きると言われる事もあれば統合失調症に伴う事もある
神経生理学的には知覚と感情の接続不良、つまり感覚系と辺縁系の断絶に関連すると思われる
つまり、上で述べたように
感覚野と扁桃体と高次処理の前頭前野が解剖学的、神経生理学的、電気生理学的に障害があれば「自己受容」、つまり「自己を自己として認知」する事に問題が出る事となる
では、「自己受容」が行われた場合を考えてみよう
自己を自己として抵抗なく受け入れる事が出来るとは
心理学的には「認知的不協和」がない状態
神経生理学的には「予測誤差」がない状態
と言える
これは学習を必要としない、つまり線条体への格納へとつながる
これは「自己受容」という行動(態度)が意思決定における依存や快楽への格納へと繋がる可能性を意味する
「自己受容」が必ずしも気分が良くなる(快楽)というものに直結するとは思わないが
葛藤なく自己を自己として認識するという行為においては停止・逃走・闘争へと繋がる予測誤差の発生を減らす事でそれが行動経済学におけるシステム1、解剖学的には線条体への収納される事で「意思」というくくりでは快楽に繋がるのかもしれない
申し訳ありませんが、「自己受容」における気分の良さという内容に関してはこの辺りまでしか考察できません
>>249
ありがとうございます
>葛藤なく自己を自己として認識するという行為においては停止・逃走・闘争へと繋がる予測誤差の発生を減らす事でそれが行動経済学におけるシステム1、解剖学的には線条体への収納される事で「意思」というくくりでは快楽に繋がるのかもしれない
ここの特に
>収納される事で「意思」というくくりでは快楽に繋がるのかもしれない
が分からなかったので教えて頂けると嬉しいです >>250
線条体は報酬の予測を行なっていると言われていますので「自己受容」が手続記憶として線条体で行われるようになればそれ自体が報酬の予測(快楽)に繋がるかもしれないという事です
一方で線条体の刺激により罰を予測して抑うつ傾向が増えるという話が出る事もありこれらは一見すると矛盾しているように見えます
「自己受容」を極端にすすめれば、自分のどのような反社会的な行動でも受け入れるとなりますし
逆の方向に進めば、自分のどのような行動も受け入れられない、それどころか自己を自己と認識さえできなくなる
となります
そのため当然ながら、「自己受容」=「気分良く生きる」とは単純にならないわけです
通常の基礎医学では、組織学的もしくは解剖学的な観察からメカニズムを予想できますが、脳の領域に至っては組織学的な区別が途上ですので追試をするのでもなければメカニズムに執着する意味もあまりありませんので「〜の可能性がある」程度の認識しか私自身ありません 例えば
皮膚と粘膜であれば結合組織とは基底細胞を境に区別され、脱核の有無によって角化(錯角化)するのかしないのかで明確に区別され
細胞は分化の程度によって細胞特性を判断されますが、脳に至ってはその本質が電気生理学的な特性によってもたらされているため他の臓器で用いるような組織学的、病理学的観察が困難になります
凍結標本やPFA固定といった組織学的観察は電気生理学的特性に必要とされる経時的観察には不向きですし
蛍光顕微鏡などを利用した細胞の経時的観察においても生体内のニューロンの活動を観察する上では不向きです
標薄切片化した脳をパッチクランプでより生体に近い形で観察する方法もあるようですが、「脳」の領域においては脳の損傷と疾患の発生といった疫学的な観察以外は今現在ではメカニズムよりも臨床的なものを重視した方がいいように思います
メカニズムは視点を変えて見る分にはいいとおもいますが、神経伝達物質、神経修飾物質のメカニズムありきでトップダウン式に心の活動を知るのは基礎医学の現状ではかなりミクロな領域に限定されると思います
つまり、シナプスの結合の話をする分には分子生物学、生理学、組織学は良いと思いますが
「自己受容」という大きなくくりになると疫学的な情報と解剖学的、生理学的にわかる情報を繋げていく必要があるので、メカニズムを説明し解明となってしまうとCNSで報告できるレベルではないでしょうか
「自己受容」と「気分良く生きる」という大きなくくりであれば、ミクロなメカニズムの説明は大してできないように思えます
実際のところ私自身は他者への「受容」には興味がありますが「自己受容」にはあまり興味がありませんのでその辺りは精神医学の方面の方か文献を当られた方がいいかもしれません
>>251,251
丁寧にありがとうございました
お付き合いいただきありがとうございます >>253
どういたしまして
私としても「自己受容」とそれに付随する「自己効力感」や「自己一致」の方面の理解が弱い事が認識できたので勉強になりました
ありがとうございます キチガイ教祖とアホ信者の関係性ってこんな感じなのかな
歳をとるとRPGができなくなるという記事を見たがこの事柄について考えてみようと思う
これは、マズローの欲求5段解説や社会適合性、予測誤差、感受期、自己効力感、ミラーニューロンなど様々な領域に渡るクロスフィールドの要素で説明可能だと思われる
記事では
「シナリオの予想がつく」
「結婚してやる時間がない」
「根気が続かない」
などいかにもありそうな理由が書いてあったが、では「プレイ動画を見る」という行為はどうだろう
自分ではRPGをできなくても、プレイ動画を見たり内容の要約を見たりする場合はあるのではないだろうか
つまり、やる興味はないが、知る興味ならある
となる
この部分にはミラーニューロンと予測誤差が関係している可能性がある
マズローの欲求5段階説から考えると
集団欲求、自己承認欲求から外れて欲求の段階が上がる事で興味が示しにくくなったと言えるかもしれない
時間的制約や優先順位の変化による社会適合性の変化で興味を失った可能性もある
では、「シナリオの予想がつく」というのはどうだろうか?
自由エネルギー原理の予測誤差から言えば学習が進み予測誤差が減る事で興味を失ったという事は言えそうだが、その場合には「プレイ動画」を視聴する事にも興味が出ないのではないだろうか
「プレイ動画」を見ている際にはミラーニューロンによって自分で体験しているように認識している可能性があるが、その事に興味を示すという事は予測誤差を埋めている事を意味する
つまり、自分でプレイする場合には
予測信号を出せないか予測誤差を出せない可能性があるのだ
これは「シナリオの予想がつく」というのとは矛盾するように思える
「予測信号を出せない」というよりもむしろ欲求の変化によって「予測信号を出す行為を必要としない」という変化によるものかもしれない
そう考えると、欲求の変化や社会的環境の変化による影響が強いように思われる
「生きる目的」について述べてみようと思う
誰でも一度は考えた事がありそうな「生きる意味」や「生きる目的」だが
生きる意味なんてそもそも存在しない、とか
そういう事を考えるのは今現在に満足してないからだ、とか
いつか死ぬのに生きる意味はあるのか、とか
色々な事が言われているが当然ながら「これ」といった結論は出ていない
哲学的には「生きる目的」は考える事ができそうだが
それを知らないと生きる事ができないうわけではない事は野生動物を見れば当然分かる
では、「生きる目的」なんていうものは存在しないのだろうか
生物の行動が
推測(予想信号)→結果(感覚信号)→予測と結果の差のフィードバック(予測誤差の修正)
という流れの繰り返しである可能性を考えてみると
生きて何かしらの活動をする事は、将来的に行う推測の精度を上げるための活動という事ができる
つまり、今現在の活動は将来的な活動の際の予測精度を上げるための行為であり
その流れを繰り返す事で外界に対する予測精度を常に向上させ続けようとする結果が生まれる
外界に対する予測精度の向上とはつまり、生存確率の向上である
「この森を進むと安全か危険か」といった推測はその精度によって大きく生存確率が左右される
例えば予測精度50%で安全と推測する場合と、予測精度90%で安全と推測する場合とでは当然ながら結果となる「生存」に影響が出る
この推測精度の向上を外界に対して上げるつづける事で将来的な生存確率が上がる事となる
これは、今現在生きて活動をする事が推測精度に変化をもたらし将来的な生存確率に影響する事を意味する
そういう意味で、「(今現在を)生きる目的」は「この瞬間より将来の生存確率を上昇させる事」という事になる
しかしここで注意しなければいけないのは
「生存確率を上げる事」が目的なのであって
「生存する事」が目的なのではない
それはなぜか、
「生存する事」というのは結果であってコントロールができないからだ
一方で確率を変動させる事は可能である
危機感を失えば生存確率は下がり、危機感を覚えれば生存確率は上がる
生存確率の上昇という行為は生きている限り常にできる
例えば余命3ヶ月と宣告された場合でも、当然ながら行動の選択によって3ヶ月目の生存確率が変動する
一方で、「生きる事」が目的となった場合には人は必ず死ぬのだから目的として達成できなくなってしまう
生存確率を0.1%から0.2%に上げる事は死ぬ直前でもできるのだ、つまり生きて活動している限り達成する事ができる
しかしながら、確率的である限りいつかは「死」という確率を必ず引くこととなる
だが、生きて活動する限り生存確率を変動させる事は可能なので
「生きる目的とは何か?」と聞かれれば
「明日以降生きている確率を変動させて上昇させる事」と答える事ができる
その意味では、行動の指針として生存確率を上げる可能性のある行動を積極的に取る事が生きている目的に合致すると言える
例えば、家族を構成して不測の事態に対応できるようにするという事もあるかもしれないし
収入を上げる、というのも非常に単純で効果的な生存確率上昇の手段となる
特に収入を上げるというのは数多くあるコントロール不可能な要素の中でもコントロールが比較的可能な部類に入る
例えば、台風をそらしたり、病気にならない、といった事よりもよほど現実的である
実際には収入の増加を無理だといって諦めている人は多くいるが、収入の増加は明らかにコントロール可能なものに分類される
「生きる目的」が「生存確率を上げる事」と考えた場合には、手っ取り早く生存確率を上げるために現在の収入を増加させる手段を真剣に考えて実行する事が現実的な手段のひとつとなるだろう
どの階層の収入を目指すのかは人によるだろうが、厚生労働省が賃金構造基本統計調査で年齢性別で賃金の階層を報告しているので参考にすると良いかもしれない
報告では年収1200万以上は標準偏差から外れすぎていてひとくくりにされているため、大雑把に言っても年収1200万以上あれば「生存確率を上げる」という目的では恐らく達成されるだろう
下世話なような話ではあるが、認知的にも実質的にも現在の収入を上げるという行為は「生きる」という行為の方向性に合致するので少しずつでも収入の増大を目指すよう行動する事は非常に好ましい活動であると言える
「共感」よりも「共感的理解」を使う方がなぜ好ましいかについて述べようと思う
「共感的理解」とはカウンセリングにおける来談者中心療法の生みの親であるカールロジャーズが示した事で有名だが、非常に有用な態度(技術)なので様々なカウンセリング手法で使用される
相手の感情に波長を合わせる「共感」を行うのは日常生活でも大切な事と言われるが
日常生活においては「共感的理解」という概念はほとんど使用されていない
それは、「共感的理解」が技術的に学習によって身につけるものであり、一般的な日常的な態度としては不自然な所作だからだ
「共感的理解」は、「共感」の態度によって得られるメリットを含むとともに「共感」の態度が持つ問題点を解消する事を目的にその概念が発展した
「共感」は学問的には情動的共感、「共感的理解」は認知的共感とも呼ばれる
その言葉が示すように「共感」は感情である、「共感的理解」は知的な認知活動なのだ
文章構造にも大きな違いがありざっくり説明すると
「共感」の主語は、「私」もしくは「私とあなた」
なのに対して
「共感的理解」の主語は、「あなた」
となる
この、「あなた」を主語にして感情を扱う文脈構造が本能的に使う場合には不自然なのだ
本能的には、感情を扱う場合には「私」が使われる
つまり、感情に対して「私」の意見を述べるのが普通の発言なのだ
音声は相手に自分の所持する情報を伝えるのが本来の役目なので「私」が含まれる感情の情報が伝えられるのが自然なのだ
一方で、「あなた」の感情を含む言葉による情報伝達は「私」から発信するのは明らかに不自然である
何故なら、それは自分の情報を発信するのが目的の発話という行動に矛盾しているからだ
そういう意味で、「あなた」を主語とする、知的な認知活動によって行われる「共感的理解」は学習と訓練によってしか通常は身につかないのだ
相手が上司から怒られて腹を立てている場面を例にあげよう
「共感」では
「部長腹たつね、あんな言い方しなくてもいいのに」
(私とあなたは)部長腹たつね(と思ってる)、(私は)あんな言い方しなくてもいいのに(と思っている)
となる
一方で、「共感的理解」では
「部長に腹を立ててるんだね、もっと違う言い方をして欲しかったんだね」
(あなたは)部長に腹を立ててるんだね、(あなたは)もっと違う言い方をして欲しかった(と思ってるん)だね
となる
明らかに「共感」の方が言いやすいし楽である、一方で「共感的理解」は言いにくいし話していてまどろっこしい
これが、「共感的理解」を使うためには学習と訓練と慣れが必要という事である
「共感的理解」は相手の感情を推測して相手を主語にした相手中心の文脈構造を取るので、私の意見を述べる単純さとは段違いの複雑さなのである
では、何故ここまでして「共感的理解」という技術を利用しているのかというと
「私」の「意見、気持ち」と、「あなた」の「意見、気持ち」を分離するためである
これは自分の「認知」を共感の過程で守るためにも使われる
例えば、和食が好きな人と、中華料理が好きな人と、フランス料理が好きな人と、生の昆虫を食べるのが好きな人がいたとしよう
この時に全員に「共感」すると
和食美味しいよね
中華料理美味しいよね
フランス料理美味しいよね
昆虫美味しいよね
となる、こんな事を繰り返していたら自分の言動と気持ちが自己不一致となり、心が壊れてしまうかもしれない
ここで「共感的理解」をつかうと
和食が好きなんだね
中華料理が好きなんだね
フランス料理が好きなんだね
昆虫が好きなんだね
(私はトルコ料理が好きだよ)
となる、ここで重要なのが「あなたの感情は理解してますよ」と伝える事である、これは「感情反映」と呼ばれる
一般的にはおうむ返しも感情反映の1つである
つまり、「共感的理解」は不特定多数に対して矛盾なく相手の感情を相手のものとして肯定して、その理解を相手に示す事で波長合わせを行い関係構築をしつつ、自分の感情、意見とは分離して認知的な矛盾や自己不一致を避ける事で自分の認知や心を守るために発達した技術(態度)なのである
しかし、日常会話で「共感的理解」が自然と使われる事はほとんどなく、意識的な学習と訓練によって知的に習得した場合にしか自然と違和感なく使えるようにはならないのである
何故なら、「発話」という行動は自然的には「私」の情報を発信する行為なのであって、「あなた」の情報を発信する事を目的とはしてないのだから
「共感的理解」には感情を反映するだけではなく、他にも相手の能力や可能性を反映する「是認」や、情報を迂回して複合的相互的内包を利用して相手の無意識に対して反映を行う「ベールに包んだ是認」など様々な派生技術も存在する
「共感」の能力について考えてみよう
困ってる人がいると「困っているんだろうな助けてあげよう」とか
悲しんでいる人がいると「悲しいよな」と
相手の気持ちに寄りそって共(に)感(じてあげる)の能力が「共感」の力だが
人の気持ちが分かるかどうかと言われる「共感」の力
具体的に言うなら「情動的共感」の力だが、これは一体どのような活動なのだろう
脳のニューロンにはミラーニューロンと呼ばれる他人の行動や認知を自分の中に鏡のように映し出すように活動を示すニューロンが存在する
これは、他人の行動を見たり、他人の状態を認知したりする時に
あたかも自分自身がその行動をしている、自分自身がその状態にあるかのように活動を示す(発火する)ニューロンである
これは「想像」とも関連があり、想像するとあたかもその想像と同じ事を現実で実際に行動しているかのようにニューロンが活動する
つまり、想像した時に発火するニューロンの部位は
実際にそれを行動した時に発火するニューロンの部位と非常に近似しているのだ
ミラーニューロンでは、想像が発端となるのではなく他人の行動や状況を発端として、その行動や状態を自分の立場に置き換えてニューロンが発火する
つまり、「他人が悲しんでいる」のを認識した時
ミラーニューロンによって「自分自身が悲しんでいる」状況としてニューロンが発火するのだ
そして大脳辺縁系の扁桃体によって自分自身がその悲しみを感じたという自分視点から状況を認知する
それが感情的な共感、つまり「情動的共感」なのだ
「共感」の能力は、相手が感じているであろう事を自分も感じるというミラーニューロンによる鏡写しで示されるので
その感じ方が同じであれば相手との波長合わせができて協調を獲得し関係性を構築できる
しかし、「情動的共感」の問題点は、あくまでも「私」が感じた事を相手に示しているという点にある
これが、「情動的共感」では主語が「私」もしくは「私とあなた」になる理由である
つまり、共感で示されるものは厳密にはあくまでも「私の感情」であって「あなたの感情」ではないのだ
これが、誰に対しても共感できるわけではない理由や無理に共感の言葉を示すと苦痛な理由だ
一方で「共感的理解」と呼ばれる認知的共感は全く別の認識工程をたどる
相手が悲しんでいる
↓
相手が悲しんでいる状況を自分の立場に置き換えて認識する(ミラーニューロン)→この段階が「情動的共感」となる
↓
相手の「情動」と自分の「情動的共感」の間に存在する誤差を推測する
↓
誤差から推測される相手の「情動」と自分の「情動的共感」を分離して認識する(これがいわゆる「自他の区別」と呼ばれるもの)
↓
推測される相手の「情動」に対して自分がそれを認識したという事を示す→この段階が「認知的共感」となる
↓
相手からの反応のフィールドバックを受けて推測される相手の「情動」の精度修正が行われる
これが
相手の話を聞く→推測内容に基づいて感情反映をする(共感的理解)→推測内容が正しいか間違っているかのフィールドバックが得られる→推測内容を修正して再度感情反映を行う(修正された共感的理解)
という流れとなる
この際に
相手の話を聞く→自分の感情を伝える(情動的共感)→相手から違いを伝えられる
となっても
「情動的共感」はそもそも相手の情動の情報ではないため、「違う」と言われても修正のしようがないのだ
何故ならそもそも「あなた」と「私」を比較しているので違うと言われてもそれは当然だし
「私」を「あなた」に片寄せしようとする場合には自分の認知を変更するのに伴う認知的不協和の抵抗が生まれてしまう
一方で
「認知的共感」は「あなた」と「推測されるあなた」を比較しているため
相手から違うと言われた場合にはそれは「推測の誤差」を示しており推測精度をあげる行為として「フィールドバックを基にした修正された推測されるあなた」がさらに示される事で相手との関係性としての波長合わせを行うのだ
弓矢で的を狙う際に「この位置なら当たる」と思って放ったのに右にそれた場合に「的がおかしい」と思って同じ方向に弓矢を打つ人は少ないだろう
右にそれた場合には「さらに左の方向に狙いを修正すれば当たる」と思って修正するが、これが「認知的共感」で行われる事である
つまり、認知的共感においては「相手の情動」は相手の中にある客観的事実(情報)として認知して、いかにしてその「相手の中にある情動という事実」に狙いを定めていくかを行うのだ
そのため「共感(情動的共感)」と「共感的理解(認知的共感)」は似たような言葉をしているがその目的も処理工程も全くの別物で基本的には学習と訓練によって身につけないと自然と使える事はほぼありえないのだ
なるほど
この辺はスレタイの肝の部分ですね
脳神経学を含めてこんなことを考える人ってなかなかいなそうだけど学問分野としてあるんだ
素人にも分かるように書いていてくれて面白い
>>266
最近は学問の領域が細分化されて非常に様々な現象が研究対象になっています
例えば、神経と免疫を合わせた神経免疫という学問さえあります
免疫といえば「はたらく細胞」というアニメで免疫の働きが広く知られるきっかけにもなりましたが
通常は循環系から組織への分布によってはたらく免疫作用を神経と組み合わせた学問領域です
小ばなしになりますが、コロナのワクチンの抗原抗体反応などで色々話題になる免疫学ですが、2010年頃をピークに衰退傾向にあります
産業と同じで学問領域もピークと衰退時期があって免疫学に関しては2010年頃に大阪大学医学部のの審良静男先生がノーベル生理医学賞を取れなかったのであの時期が免疫学のピークと言われる事もあります
審良静男先生は一般的には知ってる人は多くないかもしれませんが免疫学でトップ10に入る研究者だと言われていました
ちなみにノーベル生理医学賞をとっていたらToll like receptor関連で受賞すると思われていました、TLRノックアウトマウスを全て所持していたようでそれが世界で勝ち抜いた要因だったようです
その点からも以前書いたように論文の報告数や研究の産業構造でアメリカがリードしているという事はありますが、決して日本人が劣っているわけではないという事が審良静男先生の研究からよく分かります
2010年からは脳神経や思考概念、人工知能のアルゴリズムを含めたいわゆる脳科学が隆盛を迎えておりますので認知に関してもこれからどんどん細分化、研究対象の拡大を迎えてまだまだピークは先になると思います
ちなみにおおよそ100年前にピークを迎えていたであろう学問は微生物学です
野口英世先生ですね、有名な野口英世先生ですが梅毒トレポネーマの培地での発育に成功したと報告してますが、現代においても人に病原性のある梅毒トレポネーマの発育は培地ではなく動物の精巣に植え付ける事でしかできません
このように論文で報告されたものは人知れず結構再現不可能な実験もあるので研究の話や論文を鵜呑みにされないようにされる事が大切だと思います 「共感的理解」に関する注意事項について述べようと思う
「共感(情動的共感)」においても適切に使われるのであれば相手との関係性を構築するのに問題はない
例えば
相手「部長の◯◯なところが気に食わない」
自分「あー分かる!俺もああいうところすごく嫌だ」
と相手の情動と自分の情動が一致していれば、関係構築に関する波長合わせで問題は起きない
よく、「人の気持ちが分かる人になりなさい」と言われるがこれは、共感(情動的共感)を意味しており学習というよりも経験、つまりは自分も相手と同じような立場を経験する事で自分視点の情動として学習をしていきなさいという事だ
一方で、「共感的理解(認知的共感)」は自分が経験するかしないかに関わらず論理的学習と訓練によって習得できる
そして文脈が持つ機能は「共感(情動的共感)」と近似したものを持つ上に、相手からの反応(フィードバック)を受けてさらに相手の情動に寄せる事ができる
こう考えると「共感的理解」はデメリットがないように見えるが、当然デメリットはある
それは、前頭前野の機能する余裕がないと使用できない、という事だ
つまり、「脳のリソース」がないと使用できないという事だ、何故なら「共感的理解」は知的な認知作業であり、いわば数学の計算をするのと似たようなものだからだ
数学でもそうだが、一部の機能は訓練を繰り返す事でシステム1へと落としこまれて自動化するが、複雑な認知作業の伴う数学の証明問題や相手との感情のやり取りの場面においては全てをシステム1で補う事はできない
つまり、どれだけ訓練して慣れたとしても脳のリソースは必要とされると言うことだ
ここで、以前に述べた「脳のリソース」の回復方法が出てくる
以前、「脳のリソース」を普段からの確保する方法と減ったリソースを回復する方法を述べてきたが、これは「共感的理解」を使う際に必要な事となる
頭がカッとなったり、精神的にまいっていたり、緊急事態や心配事で意識が他にとられている場合は「共感的理解(認知的共感)」は使用が難しいのだ
これが「共感的理解」の最大の弱点である
しかし、「共感(情動的共感)」においてはそれらの状況は大きく影響しない
カッとなって相手と一緒に怒ったり、精神的にまいっている時に相手と一緒に弱音を吐いたり、緊急事態や心配事で相手と一緒に反応したり
「共感」は扁桃体を使った一人称の情動であり自動的に沸き起こるシステム1という特性上、そのような制約を受けない
言ってみれば、「共感」と「共感的理解」は裏表のような関係性にある
多くの経験をして人の痛みを知り、「共感」の力を磨く事はとても大切な事だ
その一方で、「共感的理解」の目的は不特定多数の相手と矛盾や葛藤なく関係性を構築するという明確な目的がある
そういう意味では、大切な友人を作るのであれば「共感」を使う方が良いだろうと思う、何故なら「共感」であれば「私の気持ち」と「あなたの気持ち」の関わり方になるからだし、その関係は情動と情動の関わりになるからだ
「共感的理解」は追従、ガイド、指示的といった会話手法の中でも明確に追従を示すものなので、誰に使うのか、というのはよく考えて使うと良いかもしれない
それは本質的には、「あなたの気持ち」と「私が知的に理解したあなたの気持ち」の関わりだからだ
しかし、「共感的理解」に加えて「自己開示」と「自己一致」を使う事で、「共感」と近似した機能を持たせる事が可能であるが、そのためには「自己開示」の手法と「自己一致」の認識の習得が必要となる
むむむ
ちょっと脱線した小話まで面白い
講演も上手そうだ
「共感的理解」における注意点を「追従的会話」「ガイド的会話」「指示的会話」の例も交えて述べようと思う
「共感的理解」を使用した会話は意識的に会話の方向性を変化させられるという特徴がある一方でそれがデメリットになる事もある
概念的に説明すると分かりにくいので例を出そうと思う
最初は一般的に使われる「指示的会話」の例を出すが、3つの中でこれが社会生活の中でかなり使われている
極端な例の方が分かりやすいかもしれないので「アルコール依存症の相手との会話」で例を示す、関係性は初期の段階とする
細かく書くと長くなりすぎるので簡略化して書こう
「指示的会話」
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
自分ーそれは飲み過ぎだろ、体壊すんじゃないの?
相手ーそうなんだけど、どうしてもやめられなくて
自分ー頑張ってやめないと、自分の体なんだし
相手ーああ‥そうだな
となる、自分もアルコール依存症でない限りいかにもありそうな会話ではないだろうか
ちなみに自分もアルコール依存症の場合にはここで共感的に対応する事になり関係性は深まっていくがアルコール依存症はさらにひどくなるかもしれない
「指示的会話」は正しいと思われる事を指摘する事による対決姿勢が目立つので相手からの抵抗を引き出しやすいのだが日常の対立場面では通常は指示的会話をするのが本能である、なぜならそれは自分視点の意見だからだ
つまり、
自分視点の意見が相手と一致していればそれは「共感(情動的共感)」の会話になり
自分視点の意見が相手と違っていればそれは「指示的会話」となる
この2つは単純に相手に共感できるかできないかで方向性が変わるだけで本質的には裏表にある同様の情動的行動である
そのため、どちらも実は本能的な発言なのだ
次に「共感的理解」を使った「追従的会話」の例をあげようと思う、今回の例ではこの組み合わせが「共感的理解」のデメリットを最大限に引き出す結果となる
「追従的会話」
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
自分ー飲みたいという気持ちが強いんだね、飲む事で気持ちが楽になるのかな
相手ーそうなんだ、どうしてもやめられないし、落ち込んだ気持ちを紛らわすにはすごく良いんだ
自分ー飲む事によって気持ちを穏やかにさせる事ができるんだね
相手ーああ、そうなんだだからどうしても飲んでしまうんだ
どうだろう、「共感的理解」による追従で相手との波長合わせを行い関係性を構築できたが、結果的には相手のアルコール依存症を悪化させてる
これが単純に「共感的理解」で「追従的会話」を行う危険性だ
会話内容が好ましい場合は「共感的理解」と「追従的会話」の組み合わせは良好な結果をもたらすが、今回のような例の場合は問題が起きてくる
では、「共感的理解」を使った「ガイド的会話」の例をあげようと思う
この組み合わせが1番難しくかなりの労力と訓練を必要とする
会話を単純化するが段階があるので少し他の例よりも長くなる
「ガイド的会話」
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
自分ー毎日飲んでしまうんだ
相手ーそうなんだ、どうしてもやめられなくて
自分ーどうしても‥飲んでしまう‥やめられない
相手ーそう、飲んでしまう、あまり良くないとは分かっていても
自分ー飲んでしまうものの、やめられるものならやめたいなぁ‥みたいな
相手ーうん、やめられるのならねぇ
自分ーどうしてやめたいと思うの?
相手ーだって、お金もかかるしなによりも健康が気がかりだし
自分ーお金も大切だしなにより体がね、体が健康なだけで気分的にも明るくなるし‥
相手ーそうそう、そもそも気分を明るくしたいっていう気持ちが強いんだよね
自分ー気持ちが明るくなればそもそも飲む必要ないんじゃないか?って感じ?
相手ーうん、どうしたらいいかな
自分ーこれは、知り合いでお酒を飲む人が量を減らした時の話なんだけど話してもいいかな?
相手ーぜひ、聞かせてよ
となる、実際にはこれほど短時間ではここまでいかないが簡略化して書いている
この「共感的理解」と「ガイド的会話」を組み合わせた手法では単純な相手への「共感的理解」の態度ではなく、かなり多くの意図的な方策が取られている
以下に注釈を入れて説明しようと思う
自分ー最近調子はどうかな?
相手ーうーん、良くないな、調子が悪いとどうも酒を浴びるほど飲んでしまうんだよね
自分ーそんなに飲むの?
相手ーああ、どうしても飲まずにはいられなくて毎日缶ビールで10本は飲んでしまうんだ
(ここまでの流れは同じ)
自分ー毎日飲んでしまうんだ
「追従的会話」と同様の方向性だが目的が違う、相手の抵抗が強い場合は最初は相手の情動に追従を行い関係性を強化する、ランニングヘッドスタートと呼ばれる手法で相手の好ましくない情動だったとしても追従を行う
ランニングヘッドスタートの際の注意点は相手の情動を強化しないようにしないといけない
例えば「飲みたいという気持ちが強いんだね、飲む事で気持ちが楽になるのかな」のように相手の情動を強化する流れにしてはいけない
情動を強めない方向、例えば単純なおうむ返しで追従を行う
相手ーそうなんだ、どうしてもやめられなくて
自分ーどうしても‥飲んでしまう‥やめられない
上と同様に相手の情動を強めずに追従を行う
この際にアルコール依存症の害悪について踏み込むと早すぎるフォーカス(早すぎる問題の焦点化)という失敗に終わる
「早すぎるフォーカス」とは十分な関係性ができていない段階で問題を明確化しようとして相手から抵抗を引き出してしまう事だ
相手ーそう、飲んでしまう、あまり良くないとは分かっていても
自分ー飲んでしまうものの、やめられるものならやめたいなぁ‥みたいな
ここで、「両価性(矛盾)の拡大」を行う
相手から、酒を飲みたい気持ちとやめたい気持ちの両面性を持つ矛盾点が出たらそこから、やめる理由を反影して「共感的理解」で返す
この際の注意点は、両方の気持ちを反影しつつガイドしたい方向の情動を文章の最後に持ってくる事だ
情動は会話中のピークと最後の部分に最も影響を受けると言われるが、以前に述べた短期記憶のワーキングメモリの話で保持期間は30秒で最大3つほどの連想記憶群を維持できると説明した
つまり、情動のピークを別とすると会話内容は最後の文章が最も短期記憶のワーキングメモリに維持される可能性が高くなる
これがいわゆるピークエンドの法則の正体である
相手ーうん、やめられるのならねぇ
自分ーどうしてやめたいと思うの?
指示した方向の内容に対して強める様な返しを行う
反影によって相手の言葉を修飾して返すのもいいし開放型質問で返すのも良い
開放型質問は別名、処理質問とも呼ばれて相手の認知能力に処理を行わせる
そのため「どうして」とか「どのように」といった開放型質問によって質問された事柄に関する処理が相手の中で行われて洞察が強められる
開放型質問の注意点は相手に認知処理を求めるため、話の流れが止まったり、相手に認知を処理する余裕がない場合は避けた方が良いという点である
相手に認知処理を行う余裕がない場合は、はい、いいえで答えられる閉鎖型質問(想起質問)を使うと良いが、閉鎖型質問は使用頻度が増えると尋問型の会話になるので多用は避けた方が良い
相手ーだって、お金もかかるしなによりも健康が気がかりだし
自分ーお金も大切だしなにより体がね、体が健康なだけで気分的にも明るくなるし‥
相手の「アルコール摂取」をやめたいとという部分を「共感的理解」で返しつつ、さらに「気分が明るくなる」というところまで拡大、強化する
この際に、拡大内容が間違っている場合は相手から「そうじゃないんだけど」と謝り訂正のフィードバックが返ってくるのでそれを受けてさらに「共感的理解」の修正を行うようにする
相手ーそうそう、そもそも気分を明るくしたいっていう気持ちが強いんだよね
自分ー気持ちが明るくなればそもそも飲む必要ないんじゃないか?って感じ?
相手の反応を受けて「共感的理解」の(感情)反影で返すが、開放型質問と反影の比率は、質問1に対して反影が2以上になると良い
相手ーうん、どうしたらいいかな
自分ーこれは、知り合いでお酒を飲む人が量を減らした時の話なんだけど話してもいいかな?
相手ーぜひ、聞かせてよ
相手から客観的情報の提供アドバイスを求められたらそれを受ける形で「許可を得た上で」情報提供を行う
この際に以前アドバイスを求められた時の対応の判断の項目で述べたように
一見アドバイスを求めているようで求めていない場合に注意しないといけない
単純な男性と女性の違いによるものではなく
相手からの発言の際のフォーカスが「事象」に当たっているのか「情動(感情)」に当たっているのかで対応を変える必要がある
例えば
「ぜひ、聞かせてよ」といった発言であれば情報の提供にフォーカスが当たっている可能性が高いし
「それは、興味深いね」といった場合は情動にフォーカスが当たっている可能性があるので、「興味ありそうかな?」と「共感的理解」の感情反映で返した上で「うん」と答えれば情報提供を行えばいい
逆に「今はいいや」という返しの場合は手順を情報提供ではなく問題設定のフォーカス、関係性構築の手順まで戻す必要がある
このように
「共感的理解」と「ガイド的会話」の組み合わせはかなり細かい手順を踏んで行う認知作業だが、「指示的会話」がダメというわけではない
例えば関係性が強固にできている場合は「指示的会話」でも機能する
親友から「お前が飲みすぎて心配だ、もう飲むのやめろよ、体を大切にしてくれ」と言われれば指示的会話でも成り立つのだ
どのような会話形式でも「関わり」という関係性構築が最も基本な土台となり必要不可欠な要素となる
「共感」と「共感的理解」が全くの別物であるという事をまとめておこうと思う
2つの違いをはっきりさせる事で「共感的理解」の特性がよりはっきりする事となる
「共感(情動的共感)」はまさに自然な反射だ
それは情動を司る大脳辺縁系に依存し、自然と湧き上がる自分視点の情動そのものである
そのため「共感」の力を鍛えるためには多くの経験をして様々な喜びと苦しみを味わって、そうして情動に記憶を連結させていく必要がある
その特性上、共感できる事とできない事は明確に別れる
そのため、意図的に社会的関わりに影響を及ぼす事は難しい、つまりコントロールはできない
「共感」は笑顔で言えば自然な笑顔である
「共感的理解(認知的共感)」は不自然な随意の行動だ
知的な理解と推測を基にして大脳新皮質で認知的にコントロールがされて運動中枢を経由して行われる
「共感的理解」は技術なので鍛えるためには論理的な文脈構造の「理解」とそれを基にして運動野でスムーズに実行するための「訓練」が必要となる
知っているだけでは理解できないし、理解しているだけではできないし、やってみても身につくまでに時間がかかる
その一方で、意図的に社会的関わりに影響を及ぼすことができるという最大のメリットを持つ
「共感的理解」は笑顔で言えば作り笑いである
「笑顔」と「作り笑い」の例え話は単なる言葉遊びではなく、その発生プロセス自体がまさに「共感」と「共感的理解」の発生プロセスの違いが存在する事を例として出すのにうってつけである事を示す
自然な「笑顔」をできるのに、「作り笑い」をすると顔の半分が笑わない
「作り笑い」をするとできるのに、自然な「笑顔」をすると顔の半分が笑わない
という不思議な状態を示す人がいる
これはそれぞれで、
大脳新皮質を経由する運動野に連絡する半球の通路で脳卒中を起こした人
大脳辺縁系から大脳基底核を経由して運動野に連絡する半球の通路で脳卒中を起こした人
である
つまり、自然な「笑顔」と「作り笑い」は同じように顔が笑っていても(作り笑顔は不自然だが)どのようにそれが発生するかの場所も経路も全く違うのだ
「作り笑い」は不自然である、しかし「作り笑い」の練習を5000時間、1万時間行った人はどれだけいるだろう
「作り笑い」は不自然である、それは練習をしてないのだから不自然なままであるのは当然なのだ
どれだけ練習をしても目が笑ってないという事はあるかもしれないが、不自然な任意の動作は適切な練習によって向上する
自分の「作り笑い」と一流の女優さんのドラマでの「作り笑い」が同じレベルであると言える人は少ないだろう
それと同様に、「共感」と「共感的理解」も発生プロセスは全く異なり、「共感的理解」習得には適切で膨大な学習時間と訓練を必要とする
メカニズムを理解しているだけでは不自然な「作り笑い」と同じレベルにしかないのだ
ボールをよく見て、バットの芯に当てて、思いっきり振り切ればホームランが打てると理解していても実際にはできないのと同じである
それと同様に「共感的理解」に大切なのは、メカニズムと文脈構造を理解して、それを基に適切な練習を繰り返し行い、練習を5000時間、1万時間と継続して、はじめて意図的な社会的関わりの構築に役立てる事ができるのだ
先日、ちょうど良い実例があったのでどれほど「指示的会話」が普段から使われており、その結果として会話が失敗に終わっているかを例を出して述べようと思う
これは、私が企業から受けた案内の電話の実例である
この時は日曜の夕方でちょうどうたた寝をしていた時に電話がかかってきて、それで起こされた
相手ーもしもし○○さんでいらっしゃいますか?私はは○○社の○○と申します、××の件に関してお電話を差し上げているのですが
自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
相手ー××の件に関して2、3分お話を致したいのですがよろしいでしょうか
自分ーいえ、今忙しいので
相手ーでは後日にまたよろしくお願い致します
企業案内でハードルを下げるために「2、3分だけ」と言って相手に話を取り次ぎやすくするテクニックがあるが、2、3分で終わる保証もない
マニュアル通りの対応で電話をかけているとは思うのだが自分の用件を伝えたいという「指示的会話」の典型だろう
ここで犯している問題は、「早すぎるフォーカス(問題の焦点化)」である
>自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
で明らかな抵抗を示しているのに
>相手ー××の件に関して2、3分お話を致したいのですがよろしいでしょうか
と、抵抗を無視して問題の焦点化(2、3分話を聞いて欲しい)を行っているので
> 自分ーいえ、今忙しいので
と、不協和による会話の失敗に終わっている
このように、日常でも「共感的理解」を訓練する場は多くあり、中でもセールスの電話はなかなか良い
ほとんどは電話でのセールスは失敗するが、相手がどのように対応してくるか、うまくいくためにはどうすれば良かったか、を考察する機会になる
特に自分へのセールスの場合、セールスがどのような対応をしたら自分が話を聞いたか、という事を1人2役で行うので考察しやすい
電話セールスの場合は、見込み客開拓の法則があり、数をこなして上位5%の優先客を拾い上げるという実績主義があるので、万人に対応する「共感的理解」の趣旨とは厳密には別の目的があるのだが、セールスとのやり取りを考察するのは「共感的理解」の訓練になるだろう
例えば、相手がどのような対応をしていたら自分が話を聞いて相手が目標達成できていたかを考えてみよう
相手ーもしもし○○さんでいらっしゃいますか?私はは○○社の○○と申します、××の件に関してお電話を差し上げているのですが
自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
相手ー○○の件を存じ上げていらっしゃるようで、ありがとうございます
自分ーああ、はい
相手ー○○の件に伴い完了する必要がある事項もご存知でしょうか?
自分ー何かあるんですか?
相手ー現在○○の件に関してどの辺りまでご存知でしょうか?
自分ー○○に伴って△△をしないといけないんですよね
相手ー○○に際して△△が必要になる事をご存知いただきありがとうございます
自分ーいえ、どうも
相手ー○○に際して△△を行う際に複数の選択肢が現在あるのですが、その件に関しても把握されていらっしゃると良いのですが
自分ーなんですか?それ
相手ー△△の選択に伴う現在の状況に関してのお話を2、3分させていただくことは可能でしょうか?
自分ーはい、いいですよ
と、このような流れであれば相手のフォーカス(相手に用件を話すために2、3分確保する)事ができた可能性がある
この流れは「共感的理解」の原則に従って会話を組み立てている
以下に要素を分解して述べようと思う
>相手ーもしもし○○さんでいらっしゃいますか?私はは○○社の○○と申します、××の件に関してお電話を差し上げているのですが
>自分ーああ、その件なら書面ですでにいただいて把握しております
ここまでは同じ
>相手ー○○の件を存じ上げていらっしゃるようで、ありがとうございます
リフレーム(枠付け変更)をして反影を行った上で是認を行う
>自分ーああ、はい
>相手ー○○の件に伴い完了する必要がある事項もご存知でしょうか?
自分の抵抗が強いため、フォーカス(問題の焦点化)は行わず、閉鎖型質問(想起質問)によってハードルの低い処理を相手にさせる
>自分ー何かあるんですか?
>相手ー現在○○の件に関してどの辺りまでご存知でしょうか?
相手からの質問を受けて開放型質問(処理質問)に移行する
>自分ー○○に伴って△△をしないといけないんですよね
>相手ー○○に際して△△が必要になる事をご存知いただきありがとうございます
まだフォーカスに入らずに、反影と是認を行う
>自分ーいえ、どうも
>相手ー○○に際して△△を行う際に複数の選択肢が現在あるのですが、その件に関しても把握されていらっしゃると良いのですが
開放型質問の流れに沿って引き続き「自分ー○○に伴って△△をしないといけないんですよね」のリフレームと反影をしつつ、陳述型の自己開示で相手に換起的に質問を投げかける「その件に関しても把握されていらっしゃると良いのですが」
>自分ーなんですか?それ
>相手ー△△の選択に伴う現在の状況に関してのお話を2、3分させていただくことは可能でしょうか?
>自分ーはい、いいですよ
許可を得た上で情報の提供をする(2、3分話したい)というフォーカスに入る
となる、
当初のやりとりでは自分の話したい事が前面に出すぎて、フォーカスをするのが明らかに早すぎる
まずは会話の流れを作るための「関わり」を行なって開放型質問や換起的質問を加えてから引き出していき、その上ではじめてフォーカスに入らないといけないのだ
引き続き実際のケースを記載してメカニズムも併記しようと思う
先日このようなやりとりがあった
自分ー自分の仕事も忙しい時に仕事を手伝ってありがとう(相手は自発的に手伝ってくれていた
相手ーいえ、そんな、そんな事言ってもらえると思っていなかったので嬉しいです
というやりとりだ
共感的理解の原則に沿って
>(あなたは)自分の仕事も忙しいのに仕事を手伝ってくれて
という是認(相手の行動能力を認める
>手伝ってくれて
作業同盟の明示
自律性の承認
>ありがとう
感謝の言葉としての自己開示
という、是認、作業同盟、自律性、自己開示と複数の要素を含めた言葉を伝えたのだが、その後の反応が予想外だった
> いえ、そんな、そんな事言ってもらえると思っていなかったので嬉しいです
なぜ、ここまで喜んでくれたのか、
メカニズムで述べようと思う
外的刺激(今回の場合は音声情報による側頭葉一次聴覚野、ウェルニッケ野)への入力が、中脳腹側被蓋野のドーパミン作動性ニューロンを活性化させたものと考えられる
腹側被蓋野のドーパミンは報酬系に関係しており、高次認知機能を司る前頭前野と情動を司る扁桃体へと出力する
腹側被害野のドーパミン活動性ニューロンの高まりによって快楽を伴う依存心を強めるが、霊長類においては直接の出力ではなく側坐核の報酬系(動機付け)を経由して扁桃体へと出力しているとも考えられる
腹側被蓋野のドーパミン作動性ニューロンは
予想外の報酬が与えられた時に高まる
予想した後に高まり、実際に報酬が与えられると変化しない
予想した後に高まり、実際に与えられないと下がる
の3パターンである
「旅行の準備をしている時が一番楽しい」というのは、「予想した後に高まり、実際に報酬が与えられると変化しない」のパターンである
今回のやりとりの場合は、予期せず是認の言葉を投げかけられて腹側被蓋野のドーパミン作動性が「予想外の報酬が与えられた時に高まる」状態であり、それによって扁桃体もしくは報酬系を司る側坐核とGABA活動性ニューロンを介する扁桃体への出力で、「うれしい」という情動へとつながったと考えられる
その一方で、是認の言葉が予想内だった場合はどうだろう
強化学習によって予想可能だった場合にはドーパミン作動性が「予想した後に高まり、実際に報酬が与えられると変化しない」ため、予想した時点で扁桃体へは「うれしい」という情動が湧き上がるが、
一方で繰り返す強化学習によって予測誤差が減少してその結果、予測時におけるドーパミン作動性は一部の「依存状態」を除いて減弱する、つまり「言われて当たり前」という状態だ
予想外、予想内、いずれにしても自由エネルギー原理で言うところの予測誤差が生じている間は是認の言葉を投げかけるのは効果的であり、今回の場合は相手のその予測誤差が非常に大きかった事が強い「うれしい」という情動に結びついた
そのため、是認は、例えば会話の例では
一次聴覚野(ウェルニッケ野)→大脳基底核→ブローカー野における発話、のルーチン化したパターンではなく
一次聴覚野(ウェルニッケ野)→大脳基底核→前頭前野→ブローカー野における発話、の高次の知的活動である事が大切だと分かる
学習の繰り返しによってシステム1における自動的でスムーズな技能獲得は是認の学習にとっては大切だが、全てを自動的に行ってしまうとパターン化してしまい是認の効果が薄れる恐れがあるのだ
理想としてはプロの棋士のように、全体的な流れではシステム1を使い、重要な場面では高次の認知機能によってシステム2を使うというのが最も効果的だと思われる
本を読んだり情報を獲得する際のストレスについて述べようと思う
仕事や社会生活の面でも学習は大切だが、例えば仕事に関して専門書を読む、社会生活に関して学術的な記載を読む
といった際にストレスを感じる人と感じない人がいる
そして、週刊誌や漫画なら楽しく読める人がいる一方で漫画が読めないという人もいる
文字情報は大脳皮質後頭葉の一次視野覚で処理が行われて前頭葉の発語に関するブローカー野や聴覚に関係する側頭葉のウェルニッケ野を経由して前頭前野にて認知処理が行われる
文字を読むと頭の中で言葉にして読んでいるように感じるのはブローカー野に影響されている
この際の活動は一次視野覚→前頭前野のフィードフォワードと前頭前野→一次視野覚のフィードバックがループのように行われて処理される
前頭前野での認知処理は、難易度によって中脳腹側被害蓋野からのドーパン活動性ニューロンの活動に影響し、難易度設定が低すぎるか高すぎる場合にはドーパン作動性ニューロンの活動が低下する一方で、難易度設定が適切な場合はドーパン活動性ニューロンの活動が上昇し、前頭前野への出力が上昇する事で動機づけが形成される
これは、読んでいて「楽しい」とか「読み続ける事ができる」といった場合には、その文章の情報がその人の前頭前野における知的な高次認知能力に対して適切な難易度に設定されている事を意味する
つまり、
漫画を読んで楽しい場合には、その人の知的な高次認知処理能力はその漫画の持つ情報レベルと同一レベルにあり、
専門化された文章を読んだ際に楽しめたり苦痛なく読める場合には、その人の知的な高次認知処理能力はその専門化された文章の知的階層と同一レベルにあると言える
一方で、そのような人にとっては漫画を読む事の難易度設定が低く設定される可能性があるため、漫画を読むことに対する動機づけが弱まる可能性がある
通常、絵本や簡単な文章以外で「読んでいてつまらない」「読み続けられない」といった場合には、それは腹側被蓋野からのドーパン作動性ニューロンの活動性低下を意味しており、その人本人の認知処理能力に対して文章の難易度設定が高すぎる事を意味する
文字情報として明らかな文法的誤りや文脈の過剰な支離滅裂さを除いて、文字情報として一定水準の整合性を保った文章においてはその文章が、分からない、読めない、長くて読めない、といった行動の意味する事は、単純にその人の前頭前野での認知処理を行うのには情報が難しすぎるという事を意味してるのだ
そのため、何かの本を読んだ際に読んでいて苦痛を感じる場合には、その本と同一系統でレベルを落とした本を読む事で学習効果を上げることができる
もしも、何かの文章を読んで「読み続けられない」「読んでいて辛い」という場面に行きあたったら、それはその文章がその人にとって簡単すぎるか難しすぎるという事を意味している事を覚えておきたい
文章理解の難易度について述べようと思う
その人の前頭前野の認知能力に対して文章の難易度が高すぎる場合に「長すぎて読めない」という状態となるが
これは具体的には、その人の前頭前野におけるワーキングメモリの能力では文章を理解できないという事を意味する
以前述べたように脳の短期記憶のワーキングメモリは30秒間で最大おおよそ3つほどの情報の塊(連想記憶の一群)を保持できる
例えば、以下の文章を30秒間で読んだ場合にどうだろうか
「新型コロナウイルスに対する免疫獲得の1つの方法としてmRNAワクチンの利用が行われているが、その翻訳量は細胞体に取り込まれた量に依存するため不安定なRNAをいかに安定化させるかが重要である。翻訳されたアミノ酸配列に対する抗原抗体反応によって抗体価を上げるためには特定のB細胞に対して免疫記憶を確立させる事が必要であり、二次免疫を成立させる事で病原体の抗原エピトープに素早く反応させオプソニン効果を含む液性免疫と細胞性免疫を強める事となる。」
30秒で読んで理解できただろうか?
よほど詳しくない限り
> 新型コロナウイルスに対する免疫獲得の1つの方法としてmRNAワクチンの利用が行われてい
の文章で前頭前野の短期記憶ワーキングメモリは限界を迎える
つまり、「新型コロナウイルス」「免疫獲得」「mRNAワクチン」の文章に関する明確な連想記憶が確立できていないのだ
もしも、上の文章を30秒で理解するためには、例えば
>新型コロナウイルスのカプシド表面には3次構造もしくは4次構造を持つタンパク質が存在しており表出した部位が特定のモノクロナール抗体に対して抗原エピトープとなり、抗体の抗原認識部位と結合する
>mRNAによって細胞内で翻訳されたペプチドもしくはタンパク質はマクロファージによって取り込まれ、MHCIIの認識を通して抗原提示が行われて、CD4+T細胞を介して特異的なB細胞からの抗体賛成とそれに付随する二次免疫応答を成立させるための免疫記憶を確立させる
>抗体は単量体、2量体などで機能と名称が変わり、単量体にはIgD、G、E抗体が存在する。病原体の抗原エピトープに結合した抗体は食細胞のオプソニン効果、補体活性化もしくは抗体の直接の細胞体穿通によって液性免疫とそれに続く細胞性免疫を発揮する
という3種類の情報を知識、つまり連想記憶として保持している必要がある
それによって最初の文章を3つの連想記憶の一群に分解して、その3つの情報群を前頭前野の短期記憶のワーキングメモリで保持して文章を理解するのだ
そして、30秒で読んだ文章の情報群が4つ以上の情報の塊となった時に「長すぎて読めない」、つまりその人の認知能力に対して文章の情報量が多すぎて難易度が高すぎる、となるのだ
時々、文章が長すぎると言っている人を見るが、それは単純に「私の前頭前野の処理能力では情報を理解できません」と言っているだけなのだ
これが、「その人の認知機能に対して文章の難易度設定が高すぎる」という事である
一方で、相手に理解させる場合には相手の情報処理の能力を加味した上で、情報量を削る必要がある
一般的に言う「端的に述べる」とは「分かりやすく伝える」という意味ではなく、「相手の認知能力を超える情報を文章に含めないようにする」という意味なのである
何故なら、相手の認知能力で処理できない単語が1つ入るだけで、前頭前野のワーキングメモリの容量が1つ消費されるためだ
「情報を削って端的に述べる」と、相手が保持する連想記憶の範囲内で理解できるため、「端的に分かりやすく説明する」という行為は実は単純に相手の認知能力を超える情報は含めないようにしているというだけなのだ
「分かりやすい説明をする」とは「相手の認知機能を加味する」という意味で相手目線の「共感的理解」に繋がる
これは、万人に対して話を噛み砕いて伝えれば良いという意味ではない
あくまでも「相手の理解力を推定して合わせる」という意味である
例えば、
「ヘルパーT細胞について教えてください」といった場合に
>CD4に陽性のT細胞です
といった場合と
>ばい菌をやっつける手伝いをする細胞です
と言った場合の両方ともが「共感的理解」に準ずる相手目線の「分かりやすい説明となる」
それぞれの違いは、「相手の理解力」がどの程度かという違いだけである
これは、簡単な文章で噛み砕いて説明する事が「分かりやすい説明」なのではなく、
相手が認知できると推定される情報を使う事が「分かりやすい説明」だという事を意味する
腹側被蓋野からのドーパン作動性ニューロンの活動は情報の難易度設定に影響されると書いたが、
知識量が多いと推定される相手に対して
> ばい菌をやっつける手伝いをする細胞です
という説明は情報に欠落が多すぎて苦痛となるので、そのような人にとっては「分かりやすい説明」とはならない事を覚えておきたい
そのため、文章で説明を行う際にはターゲットを絞って書く必要性がある
認知的理解度の違う人たち全員に対して興味深く分かりやすい文章を書くというのは実質的に不可能なのである
単純な文章で書けば万人が理解する事はできるが、上位の人にとっては理解はできるが難易度設定が低く動機づけが弱くなる
しかしながら、それぞれの分野における理解力のボリュームゾーンを考えれば、当然ながら簡単な文章にした方が多数が理解でき、評価が高くなる可能性が上がる
言葉や文字情報を伝える場合には、内容が簡単か難しいかが重要なのではなく、ターゲットゾーンを設定しそこに合わせる事が大切となるのである
これも例え話が具体的でわかりやすいわ
>>110につながる話だね 左側の認識世界と右側の認識世界に対する不安への感じ方の違いについて述べようと思う
左側の運動や体性感覚などは右側の半球が司り、右側は左側の半球が司るという話は比較的有名だと思う
右利きの人は左側の半球(左脳)が優位だとしばしば言われるような事柄だ
左側の半球(左脳)は言語や論理的思考に関連し
右側の半球(右脳)は情緒に関連する
というのは一般的な雑誌でも目にするかもしれない
実際に右脳は左脳に比べて情緒的に不安定だという事が分かってる他に、右側の半球と左側の半球では司る機能に違いがある事も確かだ
では、左脳で意識する「右側の世界の認識」と右脳で意識する「左側の世界の認識」に違いはあるのだろうか
恋愛やビジネスの心理関係の本で、「恋人やビジネス相手の左側にいると相手にプレッシャーをかける可能性があるから右側にいると良い」という記述を読んだ事があるかもしれない、そしてその理由は「左側には心臓があるからだ」というものだ、あるいは「右利きが多いからだ」というものだ
フロイトも足のフェティシズムの理由は足の指先が男性の精器のようだから精を連想させて性欲へと繋がると説明したそうだが、古典的な心理学ではこういった「こじつけ?」と思えるような説明がよくされる
結果に理由を求める、人の「帰属」という性質の影響だが、左側に立たない方がいい理由の説明もこれに似ている
心臓は左というよりも、やや左寄りの中央にあるがどうだろう
足のフェティシズムは足の指の形が精器に似てるからではなく、解剖学的には頭頂葉の体性感覚野において足の指と精器の感覚を司る部位が近接しているのが原因として考えられる
では、「左側に立つと相手にプレッシャーを与えるのは、心臓が左側にあるから」という説明はどうであろうか
脳に機能障害を持った際に片側の世界を無視する、「半側空間無視」という病態が存在する
極端なものでは、世界の片側半分が存在しないものと認知される病態だ
「半側空間無視」は右脳が障害を受ければ左側の世界を認識できなくなる
一方で、左脳に障害を受た「右側の半側空間無視」は、右脳に障害を受けた「左側の半側空間無視」よりも圧倒的に少ない
つまり、右の半球、例えば頭頂葉の体性感覚野に障害を受けた際の左側の「半側空間無視」は圧倒的に病態として多いのだ
これは、左半球と右半球の認知に対する明確な向き合い方の違いにある
左半球は確固とした認知を司るのに対して、右半球、つまり右脳は矛盾を抽出する機能がある
この、矛盾を抽出する機能が右脳が情緒的に不安定な事に通じている
自己の中の「認識」と「外界刺激」の間に矛盾があるとそれを認識するのは右脳だと言われている
これは、左側の世界でも右側の世界でも共通で右脳が機能する
一方で、左脳は自己の中の「認識」を安定化させる、つまり外界刺激との矛盾があっても自己の中の「認識」を優先するのだ
左脳はとても頑固なのだ
この違いが「半側空間無視」の右脳と左脳の病態の差に出ている
左半球の体性感覚野に障害を抱えた場合を考えてみよう
障害により右側の外界世界の体性感覚を感知できなくなるが、右側には世界が存在する事を知的に理解している、そしてそれが自己の中の「認知」、すなわち右側の世界を知覚できないという状態と矛盾する
この矛盾を正常な右脳が認識し、自己の中の「認知」に間違いがあるかもしれないとして結果、「右側には世界が存在する」という結論にいたる
では、右半球の体性感覚野に障害を抱えた場合を考えてみよう
同様に、障害によって左側の世界を感知できなくなる、しかし左側には世界が存在する事は知的に理解できる、同様に自己の中の知覚と外界の概念に矛盾が起きる
しかし、矛盾の認識を司る右脳は障害されており、一方で自己の「認知」を固定化する左脳は正常である
その結果、「矛盾はない、左側の世界が体性感覚野によって知覚できないので左側には世界が存在しない」という、聞いているとホラーのような病態が起きる
この右半球による左側の「半側空間無視」は非常に理解しがたい病態で
単純に左側が見えないのではなく、「左側に世界は存在しない」「左側の手が動かなくてもそれは自分の手ではない」「左手が動いていないのに左手は問題なく動いている(左側外界世界の事実を無視する)」という信じられないような病態を作り出す
そして、患者本人は狂っているわけでもなく、本当にそのように信じてるのだ
言ってみれば、例えば今あなたが左手を動かしたとしよう、当然動いている、その時に横から「いえいえ、あなたの左手は動いていません、半側空間無視によって動いているように感じてるだけです」と言われるようなものだ
当然、今そのような事を言われていても信じられるわけがないが、「半側空間無視」の患者ではそれが起こっている
右側半球の障害を持つ「半側空間無視」の認知する左側の世界は夢のようなものだ
実際に存在しない世界を現実として認知する
これは概念的な思考実験でもなければオカルトでもない、世界とは脳の認知の中に存在するという不思議な話だ
正常な人では、物理現象としての世界は、単に脳の中の世界の認知と近似しているというだけでそれぞれ別物の世界なのだ
ここで、「左側に立つと相手にプレッシャーをかけるのか」という話に戻ろう
「半側空間無視」の症例から、「右脳は矛盾を抽出する」する事が分かる
つまり、右脳は「こうか?いや違う、こうか?いや?どうだろう」というように優柔不断なのだ、矛盾を見つけるのが得意で情緒的に不安定なのだ
「相手の左側に立つと」右半球の体性感覚野や側頭葉の形状認知が働く、その際に左右は脳梁によって統合されているが、右半球の活動は矛盾を抽出し優柔不断だという事を思い出して欲しい
自分の左側にいる「この人」は本当に存在するのか?この人は人なのか?といったまるで哲学者のような認識誤差の抽出を行う
つまり「不安定」な右脳が左側の世界を認識する際になおさら活性化するのだ、そして「不安」になる
これが、「相手の左側に立つと相手にプレッシャーをかける可能性がある」という脳神経生理学的な説明だ
そして、脳の左右の機能役割を見る限り、相手の左側に立つと相手に不安を与えるのは十分可能性としてありえると考えられる
脳の左右の機能役割から見る対象物との左右の位置関係的影響がこのような視点から説明される事があまりないのは少し残念に思う
何故なら、心臓が左側にあるかないか関わらず
ホラー映画を見る時は画面を左側に置けばより怖く感じ
歴史の暗記をする場合は教科書を右側に置けばより強固に認知できる
という事を意味するからだ
そういう意味では、不安な気持ちを抱える際には右側に意識を集中して右手を細かく動かしたり、不安となる対象物を右側で見えるように対処すると心理的不安定さに幾分か対抗できる可能性があるのだ
少なくとも、左側に不安要素を置くよりも良いであろう
記憶の連続性と感情について述べようと思う
これは、現在と過去は「感情」を媒介して連続性が作られるという話だ
逆に言えば、「感情」がないと現在と過去は別の存在になってしまうのだ
大脳辺縁系の海馬が記憶に関係するというのは有名だが、しばしば記憶が貯蔵されている場所が海馬だと勘違いをしている人がいる
脳の長期記憶とは「海馬」ではなく、「脳の至るところに存在するニューロンの結合」を意味する
つまり、脳のあらゆる場所で強く結びついた結合そのものが「記憶」なのだ
「海馬」はニューロン同士を結びつけるための一時的な配電盤にすぎない
例えば
「Aさんと海にマグロを食べに行った」という記憶があるとしよう
最初は
「A さん」「海」「マグロ」といった要素や
「前頭前野」「運動野」「体性感覚野」「視覚野」といった解剖学的な要素が
「A さん」ー海馬ー「海」ー海馬ー「マグロ」
といったように海馬を介して連絡される、そして長期記憶になるためには
「A さん」ー「海」ー「マグロ」という直接の連絡を通して長期の記憶として定着する
これは、複合的相互的内包といった心理学の関連フレームによる概念的な結合ではなく、軸索と樹状突起のシナオプスの強度の増加による神経生理学および組織学的な物理化学的な結合の成立を意味している
情動に関連する扁桃体は、海馬との関連と結びつきが強くそれが感情を強く伴う出来事は記憶の形成を強くする事に繋がる
2011年3月11日にどこで何をしていたかを覚えている人は多いだろうが、2011年3月10にどこで何をしていたか覚えている人はほとんどいないであろう
大脳皮質の全ての部位は扁桃体と海馬と結びついているが、これは大脳皮質の連絡を仲介して短期的な記憶を形成し、後に大脳皮質同士の結合による長期記憶を作るための一時的な役割をするためにある
そしてこれは、「情動」を伴わない情報は結合しにくい事に通じる、楽しい事は覚えているものだし辛い事もそうだ
「情動」を伴わないと過去と現在の情報を連結させる事も難しくなってくるため、時間的な情報の連続性が失われる事がある
「他人と関わらずひとりの方が楽だ」という人もいるが、「関わり」を持たないとはそれに伴う「情動」も持たず、例え特定の人と会っても記憶としては形成されていかない
つまり、「特定の相手」との過去と現在の記憶の連続性をお互いに作らない、つまりお互いに神経生理学的、組織学的なニューロン同士の「関わり」ができない事を意味する
細胞レベルでも社会レベルでも「関わり」が断絶されるのだ
仕事における社会生活において「関係性」を言い出すと「アメリカは実力主義だから」というような日本のコミュニケーションスタイルを軽視するような意見を見る事がある
確かにアメリカは実力主義の要素が大きいが、関係性の要素もかなり大きい
アメリカにおいても実力があれば関係性はいらない、といった状況を私は見た事がない、むしろかなりのコネ社会だと思う
(余談だがアメリカ当地では「アメリカ」ではなく、「US(合衆国)」もしくは「USA(アメリカ合衆国)」と表記されて「アメリカ」単体で表記される事はない、そういったところからもアメリカに対する理解が欠けているのが分かる)
つまり、「関わり」という「関係性」は個人レベルでも社会レベルでもかなりの要素に関わるのだ
動物との関わりも含めて、「関わり」とそれに付随する「情動」は過去と現在という記憶の時間的空間的連続性につながりを持たせるため、「時間」の中で生きようと思うのなら積極的に人と関わり、様々な感情を持つのが良いだろう
そして、どうせ持つなら「良い感情」の方が気分が良い
「関わり」の技術とは単に気分をどうこうするというものではなく、より効果的、好ましい方法で過去と現在、そして将来の記憶の連続性である人生を作っていく技術そのものなのだ
そういう意味では積極的に人と関わり良好な関係性を築く事が自分の人生にとって記憶のみならず将来的にも有意義であろう
ところで、人格をいくつも持つ人がいるが、あれも記憶の連続性が断裂された結果に他ならない可能性もある
どのようなメカニズムでそうなるかまでは分からないが、扁桃体と海馬に関連する「情動」ごと記憶が一見それぞれに切り離されているように見られる
人格が本当にいくつもできるかどうかは分からないが、記憶の連続性に関連する「情動」ごと記憶というニューロンの連続性が切り離されれば、それぞれの記憶が時間的空間的連続性を失い別の個性を作り上げるのも不思議ではないのかもしれない
集中力を途切れさせる技術について述べようと思う
集中力を「維持」する事の大切さはよく聞くと思うが、
それと同じくらい集中力を「途切れさせる」事も重要であるがあまり注目される事はない
どういう事かと言うと、例えば
「やらないといけない事があるのに、だらだらといつまでもスマホを見てしまう」
「やらないといけない事があるのに、漫画を読み続けてしまう」
「やらないといけない事があるのに、他ごとを続けてしまう」
といった場合に、いかにしてその、「スマホを見る」「漫画を読む」「他ごとを続けてしまう」という事からそちらに向いた集中力を引き剥がすかという事だ
意思の力でやるべき事に集中力を向けられれば良いが、当然ながら簡単ではない
では、どうすればいいのか
以前に述べたように集中力にはボトルネックが存在する、
これはシステム1は別として、意識的な集中力はひとつの事柄にしか対処できないという事だ
よくある例が
「心配事があったけど、より大きな心配事ができたら前の心配事が気にならなくなった」
というものだ
意識の集中力はひとつの物事にしか向き合えないのである
そして、特定の物事(例えば漫画を読む事)から集中力を引き剥がすには、この集中力のボトルネックを利用する
その方法には例えばこのような方法がある
スマホを見続けてるが、頭ではそろそろやめて仕事に取りかかりたい
↓
右手の指で2進数を31まで数える(二進指数え法)
↓
31まで数え終わったらそのまま仕事に取り掛かる
このように見るとまるで儀式的な行動に見えるが、これは効率よく集中力を引き剥がす要素がいくつか含まれている
要素を列記しよう
・慣れれば10〜15秒の短時間で終わる
・終わった瞬間に二進指数え法に対する集中が終了する
・その直後に集中力を必要な方に向ける(例えば仕事)
・後頭葉(数覚、視覚)、側頭葉(ウェルニッケ野)、前頭葉(前頭前野、運動野、ブローカー野)、頭頂葉(体性感覚野)と広範囲の大脳皮質を必要とする
・右手で数える事で情動的に安定的な左脳を使える
という点である、実際にやってみると分かるが二進指数え法はやってみると他の物事が一切手につかなるくらい集中力を必要として、慣れれば10秒くらいで終わり、31まで数えるという明確な集中力の終わるがある
集中力のボトルネックを利用して二進指数え法を使うと、それだけに認知活動と集中力が全て使われて、しかも右手があいていれば右手を見た瞬間から1秒で始められる、そして数え終わった瞬間に必要な物事に意識を向ければ
Aへの集中→二進指数え法への集中(集中力の引き剥がし)→Bへ意識を向けてBに集中する
という方法が使えるのだ
直接A→Bへの集中の移行が難しいので、「簡単に集中できて効果的でいつでもできてすぐに終わる」ものに集中を向けてから、Bに集中しようという事だ
簡単に始められて
いつでもできて
効果的に集中力を占有し
短時間で占有された集中力が解放される
という要件が有れば二進指数え法でなくても別の方法でも良いが、効果的に集中力を占有するためには大脳皮質を広範囲に必要とする方法を考えて使うと良いだろう
悩みに伴う両価性(矛盾)について述べようと思う
しばしば見逃されがちな事なのだが、人が悩んだり行動できずにいる時はこの両価性(矛盾)が存在する
すなわち、やりたい理由があるけどやりたくない理由もある、といったものだ
悩んでる人に対して助言をしてもしばしば無視されるのはこの両価性の片方にしか焦点を当てないためだ
決定とは、予測信号と呼ばれる認知(信念や推論)と感覚信号と呼ばれる外来刺激(助言や現象)の差を埋めるように行われる
悩みがある人に助言した場合、両価性の片側の面だけが焦点化され、もう一方は無視されるため、無視された面との差を埋め合わせるように抵抗が発生する、つまり反発して相手の助言という感覚信号を変化させて自分の予測信号という認知との差を埋め合わせるのだ
心理学でブーメラン効果と呼ばれるものがこれに当たる
例を挙げると
タバコが健康に悪いのは分かってるけど、ストレス解消になるので現状維持でやめられない
という状況で
「やめたい」気持ちと「やめたくない」気持ちの両面がある
矛盾があるといった状況だ
こういった状況に関して認知行動療法が用いられたりもするが、認知の変容や行動の強化と弱化については触れずに
パーソンセンタードアプローチによる対応で述べる
タバコをやめたいという気持ちとやめたくない気持ちのどちらかに肩入れすると
先ほど述べた予測信号と感覚信号に差ができるため元の位置への揺り戻しが発生する
「タバコはやめないと!」というと「でもストレスが」という抵抗が発生し
「タバコは吸い続けなよ」というと「でも健康が気になる」という揺り戻しが起きる
これは、常に元の位置へと戻る抵抗が起きるためいつまでも現状維持を続ける事となる
このような両価性の存在する状態では両方の状態を受容する事から始める必要がある
つまり、
「タバコが吸いたいなという気持ちがある一方で、なんとかやめられるといいなと思うんだね」
という対応で揺り戻しによる抵抗が発生しないようにする必要がある
この際の注意点は、指示方向の内容を文章の最後に持ってくる事だ(以前述べた前頭葉短期記憶ワーキングメモリの内容)
そして、そこから指示方向の内容を強化していく流れとなる
これは、予測信号と感覚信号の差である予測誤差を可能な限り小さく納めつつ、予測信号である認知を意図する方向へ導く手順となる
その際には、言い返しや感情反映や是認や要約などの様々な技法を使う事となる
「自分を変える」という事に関して述べようと思う
自分を変えようと思う際に、「効果的でない認知」を「効果的な認知」に変える
といった認知再構成が取られる事がある
自己啓発やビジベス書などでもみる事がある
「自分にはできない」→「なぜそう思うのか」→「視点を変えてみる」→「自分にもできるかもしれない」
といったものだ
ここに行動面の要素を含めれば行動活性化療法やソーシャルスキルトレーニングとなる
では、この認知の再構成は有効なのだろうか?
結論から言えばパーソンセンタードアプローチといった人間性心理学におけるものと同様のニューロンのネットワークの変化を目指す事となる
しかし、これは「効果がある」という事を単に表しているのではない
以前述べたように認知や長期記憶、想起(連想)は
一次感覚野→大脳辺縁系(特に扁桃体と海馬)→大脳基底核→大脳新皮質という解剖学的経路を経由して、例えば
前頭葉ー大脳辺縁系ー頭頂葉ー大脳辺縁系ー側頭葉
といったネットワークを短期的に形成した後に、睡眠中のリプレイやそれに伴うシナプスの強化で
前頭葉ー頭頂葉ー側頭葉
という直接のネットワークによる永続的な長期記憶として固定化される
認知再構成とは言ってみれば、この固定化された永続的な長期記憶とそれに伴う情動を再構成しようというものだ
これには二通りの方法がある
既存の認知を弱化して、新たな認知を大脳辺縁系をからませて1から作る
既存の認知を弱化して、既存の別の認知を強化する
という方法だ
書くのは簡単だが、新たにネットワークを作り出したり、シナプスを弱化、強化したり
以前述べた脳の感受期の制限を理解するとそれが簡単ではない、もしくは不可能な事もある事が分かる
効果的にシナプスの結合を作ったり、強化、弱化するためのテクニックとして精神力動療法や認知行動療法、人間性心理学が用いられているのだが、その目指す所は同じで、脳のネットワークの接続の変化である
神経生理学や解剖学を理解する事で腹側被蓋野からのドーパンの報酬や側坐核の報酬系、縫線体からのセロトニン分泌といった特性を理解して効果的なアプローチを考える事ができるが、腹側被蓋野からのドーパン出力の存在を知っていれば自由にコントロールできるというわけでは当然なく、メカニズムを知る事で効果がありそうだというアプローチに焦点を絞る事しかできない
そして、焦点を絞っても実際にどれほど脳のネットワークの接続を変化させられるのかは別問題となるのだ
これは、「自分を変える」事には限界があるという当然の事をはっきりと認識させる事となる
つまり、どのようなアプローチであれ、限界を超えた領域の事柄に対してアプローチをする
例えば「自分の怒りっぽい性格をなおしたい」といった対象に対して根本から性格を変える事が可能かどうかをよく認識しないといけないのだ
「何を変えるか」よりも「何なら変えられるのか」という点に着目してアプローチしていく必要がある
そういった意味では自己啓発やビジベス書で性格そのものを変えようと思うのは効果的ではない可能性がある
それは、「果たして、扁桃体を含む大脳皮質で永続的に確立された長期記憶のネットワークにどれほど効果を及ぼせるか」というところに行き着く事になるからだ
そのため、性格そのものよりも実際に社会生活に表出される行動面に注目して変えましょうといったアプローチや
すでに存在する認知行動の両価性(矛盾)に解釈的だったり認知的だったり人間性心理学的なアプローチで認知に影響を与えて、それに伴うシナプスの強化や弱化をしていきましょう
というところに行き着く事になるのだ
そういった意味ではマインドフルネスやACTといったありのままを受け入れる第三世代の認知行動療法も同じ方向性を目指している事となる
理論やアプローチ方法は違うが、それによって及ぼされる脳のネットワークへの影響は似たようなものを目指しているのだ
シナプスにおける問題が器質的で病理的なものとなったものに対してこれらのアプローチをする事は効果的でない場合もある事を忘れてはいけない
極端な事を言えば、右脳がない人がいたとしてその人にどれだけアプローチをしても右脳は生まれないのだ
ただしそれは、右脳を相補する機能と社会生活への影響の変化を目指すといった場合はまた別の話である
「自分を変えたい」と思った時に、「何を変えるか」よりも「何なら変えられるのか」という点に分子生物学、神経生理学、電気生理学、組織学、解剖学の点からトップダウン的に計画を立ててボトムアップ式に実践する事が好ましいだろう
そういった意味では「自分を変える」ための手順を解説した本が自分の状態に合っているかを理解するバックグラウンドとなる知識も大切となる
「他者への共感は何を感じているのか」について述べてみようと思う
来談者中心療法のカールロジャーズは他者への「共感的理解」で
あたかも相手になったように感じてその感情の中で自由に泳ぎ、それでいていつでも自分に戻って来ることができる
といった表現をした
文学的なようで哲学的でもあるような表現だが、科学においてはよく、なんでそうなるのか分からないけど効果があり、
後になって説明ができた、といったような事象がかなり多くある
カールロジャーズが亡くなったのは今から40年近く前の事だ
サイコセラピーの領域において人間性心理学という分野を切り開いたカールロジャーズの述べた「共感的理解」は果たして個人の概念的な物に過ぎなかったのだろうか
日常生活を思い返してみると、他人に自然と共感する時に主語が「私」になっているのに気がつくだろうか
相手「○○から嫌なことされた」
自分「(私とあなたが)腹たつね」
相手「海がすごく綺麗だった」
自分「(私が)いいな〜(と思う)」
相手「新しい車買ったよ、見てこの写真」
自分「(私が)かっこいいなぁ(と思う)」
つまり、相手に共感する時にそれは「相手の感情」ではなく、「私の感情」になっているのだ
これは「共感的理解」の「あたかも相手になったように感じる」というものと一致しているように見える
このような現象から確認できるボトムアップ式の理解は、その理論背景やメカニズムの詳細が分からず哲学的な妄想や概念的理解といった真偽のあやふやなものと判断される事がある
精神分析におけるジークムントフロイトのイド(エス)や超自我の概念もそれに当たるのかもしれない
つまり、検証がきわめて難しいのだ
それでいて、そういった概念的理解は事象を基にしている事が多いため、実際には真実である場合も多い
しかしこれは、学問的に記述される概念的理解が正しいという事を意味してるわけでは当然ない
では、「共感的理解」、つまり、
相手の気持ちを自分が相手になったつもりで感じて、そして認知的理解によって相手視点のものとして言葉にする
という行為は妥当なものなのであろうか
相手の行為を観察する事で、あたかも自分がその行為をしているように脳が活動するニューロンは実際にある
これは自動的に行われるもので具体的には前頭葉の一次運動野の下方に位置するF5と呼ばれる領野で、
相手が物を持ったり口の動きをしているのを観察する事で、「あたかも」自分が同様の行動をしているように活動するミラーニューロンと呼ばれる領域だ
これは運動領域に関するミラーニューロンだが、一方で感情においても同様のミラーシステムを想起させる反応が存在する
脳の側頭葉を下げたシルヴィウス溝の奥にあるライル島で嫌悪に関するミラーシステムが観察されている
嫌悪は原始的には嗅覚と臭覚に基づく摂食行動の可否を決定し、ライルの前部領域がそこにあたる
実際に相手の嫌悪表情を観察するとライル島の前部領域が活性化されるが、これは自分が嫌悪を感じる時にも活性化される
痛みや嫌悪に対する情動に関して、ミラーニューロンが存在する事が伺われるのだ
そしてこれは、感情に対して相手が情動に基づく表情や表現をする時に自分が「あたかも」相手になったように情動を感じるという可能性を示唆している
これは「共感的理解」における「あたかも相手になったように」と一致する
しかし、ここで考えてみると、相手が何らかの感情を感じてるのを見て常にその気持ちを「あたかも相手になったように」感じているのかどうかという事だ
当然そうではないのは分かると思う
嫌いな相手が苦しんでいるのを見てその痛みを感じるだろうか?
ボクシングで「殴っている人」と「殴られている人」を見るとき同時にその感情を感じるだろうか?
「あたかも相手になったように感じる」ミラーニューロンがある一方で、相手を対象物として認識するカロニカルニューロンというニューロンが存在する
つまり、
ボクシングで殴っている人と殴られている人を見るとき、例えば
あたかも殴っている人になったように感じつつ、殴られる対象物として殴られている人を認識しているのだ
これは、相手が情動に基づいた行動をしているのを見ると自動的に「あたかも相手になったように感じる」わけではない事を意味する
カロニカルニューロンで相手を対象物として認識すればそれは「物」であり「対象」なのだ
そこに共感はない
カールロジャーズの切り開いた人間性心理学は概念的であるものの現象に対して非常に理にかなったものだと思われる
相手を価値判断なくありのままに受け入れ(無条件の肯定的配慮)、あたかも相手になったように感じてそれを知的に表現する(共感的理解、自己一致)
とは、解剖学的、組織学的に説明すれば
大脳皮質と大脳辺縁系によって構築された長期記憶ではなく、一次感覚野から受ける刺激を長期記憶という連想をからませずに受け入れ、ライル島や他の領野にあるミラーニューロンとそれに繋がる扁桃体で自己の経験として認識し、一人称であるその感情を前頭葉の前頭領域で知的に理解して他人の経験とする二人称として伝える事で、私自身が長期記憶に持つ連想という自己の認識とは別であるという自他の区別を行ったものとして、発言内容が自分の認知と折衝する事なく伝えられる
となる
そして、相手を「共感的に理解」するとは、まずは相手の立場に入っていくというところから始める事が大切なのであろう
努力の方向性について述べようと思う
「努力」は「労力のかけかたの程度」といっても良いが
この「労力」というコストを払うためには動機付けが必要となる
具体的には予測による腹側被蓋野からのドーパミン作動性ニューロンの活動性を意味する
つまり
その「努力(労力)」の予測性である
「努力」をする際のパターンは
1、楽な状況下で将来の報酬を予測して努力する
2、苦しい状況下で将来の報酬を予測して努力する
3、楽な状況下で将来の報酬を予測できずに強制的に努力させられる
4、苦しい状況下で将来の報酬を予測できずに強制的に努力させられる
となる
例えば
1、は将来の職業の安定性を期待して学生の時に勉強して医学部に入る
2、は仕事が忙しい中で将来の独立を期待して休日にそのための勉強や下調べをする
3、は遊びたいのに親から無理やり勉強させられる
4、は仕事が忙しい中で生活費を稼ぐために残業せざるを得ない
といったものである
「努力」による結果の蓄積を考えると
1、の楽な状況下で将来の報酬を予測して努力する事、が結果として1番楽な選択肢となる
それは
楽な時に努力するのが一番楽で
苦しい時に努力するのが一番苦しい
となる
当然と思うかもしれないが
実際には楽な時に「努力」できる人は驚くほど少ない
楽な時には楽をするのが普通の行動だからだ
ずっと楽な状況が続く場合にはいいのだが
実際には生活費という現実的な問題があるので早めに生活の基盤は安定させた方が良い
20代で楽な時に楽をして
40代で楽をできるならいいのだが
実際には40代では苦労する、そして金銭面で強制的な努力を強いられる事となる
40代でそれを行わないとその苦労が50代、60代へとシフトしていく
その間は苦労の期間が続くのだからトータルの苦労の量は蓄積していく事となる
昔の昭和のように猛烈に働く必要はないと聞くかもしれないが
昔は「豊かになる」という報酬の予測性により努力が発生していたのだ
そして現代においても
報酬の予測性を得た人は早めから「努力」という労力を払う事ができ
結果としてトータルの苦労が減る事となる
時々、「努力しても結果が出ない事もあるから無意味」と言われる事があるが
それは当然である
将来の報酬の予測に対する「努力」は予測性であって、確実なものではない
もしも「努力しても結果が出ない事もあるから無意味」と思う場合には
そもそもの予測を変える必要がある
予測の方向性がおかしいのだ
例えば
年収200万から年収1000万を目指したいから勉強しよう
と努力したところで現実的でないのは分かると思う
報酬に対する予測と努力とは
「確率の高いことに対する報酬に対して努力をする」
という事なのだ
勉強で言えばいきなり医学部を目指すのではなく
まずは目の前の参考書を解いてみよう
年収200万であるのであればまずは年収210万円を目指そう
という事になる
達成不可能な目標を設定すれば達成できないのは当然であり
それに対して「努力は無意味」と断言するのは自分ができない事を設定してしまったからだ
努力が叶うというなら人は不老不死を目指すだろう
「努力」とは
自分の目指す方向性に向けて、報酬性のある達成可能な予測をたてて、楽な時に労力を払うのが楽な努力の仕方となる
得てして
強制的に苦しい時に労力を払わざるを得ずに無理な目標を強いられる事、が世間では一般化している
そんなものは苦しいのが当然である
忙しくなってしまったのかな?
更新を楽しみにしてますよ
他人を理解するという事と、他人への発言の返答について述べてみようと思う
他人の心情を理解する方法として大きく分けて2つの仮説が存在する
「他人というものを客観的に分析して理解している」
というものと
「他人から与えられた情報と状況を自分の中で再現して自分自信が主観的に認知する事で理解している」
というものだ
現在では外界の情報は、分析的に理解してるのではなく、状況を脳内で再現してそれに対して自分が経験をする
という方法で認知が行われているという説が有力だと考えられている
認知の発達段階において幼少期は生物以外の対象物でさえ主観的に認識されているという事をご存知だろうか
あなたが、手に車の模型を持って地面を走らせる時に、あなたは車という対象物を客観的に認識しているが
幼少期においては車は対象物ではなく、自己として認識される
これは、幼少期に車の模型を手に取って走らせる時に
自分が車の模型そのものであり、自分が車という存在になり地面を動いているという形で認識が行われる
これから分かるのは、「認識の基本は対象物を主観的にシミュレーションして理解を行う」という事である
あなたが動画で「足の小指をタンスの角にぶつけた」瞬間を見るとき、あなたは苦痛を感じるだろう
認知とは、「状況を脳内で再現して、自己の体験によって認知される」という事だ
この事から他人とのコミュニケーションにおいて何が分かるだろうか
以下の状況を考えてみよう
相手「部長に怒られてすごく腹が立ったよ」
自分「それは嫌だな」
相手「夕日がすごく綺麗だった」
自分「分かる分かる」
相手「このケーキすごく美味しそう」
自分「食べたいね」
どうだろう、相手への返答の基本は主語が「私」となるのだ
共感とは実は相手に合わせているようで、実際には「私」の意見を述べているに過ぎないのだ
相手の感情と自分の感情が近似する場合に、「共感」と呼ばれるのだがこれは相手と自分の感情は完全に分断された別のものであるという事を忘れてはいけない
あなたは、「相手が部長に怒られた時の腹立たしさ」を理解しているのではなく、「自分がその立場であったら、あなた自身の嫌だという感情」を理解しているに過ぎないのだ
この、
「相手の感情」に対して「自分の感情」で返答を行う認知行動の問題点は、例えば
相手「悲しいんだよ」
自分「辛いよな」
相手「いや、悲しいけど辛いわけではない」
というコミュニケーションのすれ違いを引き起こす
つまり、部長に腹が立ったけど、嫌なわけではない
夕日が綺麗だと感じたけど、あなたの理解を求めてるわけではない
ケーキがすごく美味しそうだと思ったけど、今食べたいわけではない
というすれ違いが起こる事があるのだ、これが、外的刺激を主観的に理解する、人本来の認知につきまとうコミュニケーションの問題点なのだ
相手に返事をする時に、自分は相手を理解して返事をしているのではない、という事に気がついている人は少ない
何故なら、他人から話を聞いている時に自分はその人の話を聞いていると思うのがごく正常な考え方だからだ
他人の話を聞いている時に、その情報を脳内で再現して自分がそれを経験してその自分の経験談を相手に伝えている
などとは普通は思わない
だが、この自分の経験談で語るという行為は非常に効率的なのだ
相手の行動や認知を理解して分析して答えるよりも、断片的に与えられた情報で状況を脳内で構築してそこで自分が体験する方がはるかに労力が少ないのが分かるだろうか
これの例が、前頭葉一次運動野のF5領野で発見された把持行動などの主観的再現による認知を発見したミラーニューロンの発見なのだ
では、返答によるコミュニケーションのすれ違いをなくすものとはどのようなものか、それは
「相手を主語」として「感情を含む言語情報を変えず」に返すというものだ
相手「部長に怒られてすごく腹が立ったよ」
自分「(あなたは)そんなにも腹が立ったんだな」
相手「夕日がすごく綺麗だった」
自分「(あなたは)夕日を見て綺麗だと思ったんだね」
相手「このケーキすごく美味しそう」
自分「(あなたは)美味しそうだね(と思った)」
と返す事になる
おうむ返しのようでおかしいと思うだろうか?
重要なのは「感情の言語情報を正確に返す」という点なのだ
例えば
相手「トイレはどこかな?」
自分「トイレはどこかわからないんだね」
相手「子供がすくすく育ってるよ」
自分「子供がすくすく育ってるんだね」
とは返さない、これがおうむ返しで勘違いされる重要な点なのだが、言語情報を正確に返す際に有用なのは
「相手の感情を含む言語情報」なのだ
トイレがどこかはわからないのは感情ではないし、子供がすくすく育つのは感情ではない
状況に対する情報なのだ
例外としては、情報に感情が含まれる場合である
相手「あんなに壮大な景色は見た事がなかった」
自分「(あなたが見たのは)そんなにも壮大な景色だったんだね」
となるのだ
ここで
相手「あんなにも壮大な景色は見た事がなかった」
自分「人生で最高の景色だったんだね」
相手「いや、人生で1番ではないけど」
となるのだ
つまり、
感情の言語表現や、感情を含む言語情報は変えずに返す事で正確に相手からの発言を伝え返し、コミュニケーションのすれ違いを大幅に減らす事ができる
それと同時に感情を含まない情報に関してはある程度の変化が許容される
全ての言語情報をおうむ返しで返すと明らかにおかしい
例えば、「感情を含む情報」を変えずに伝え返しをする場合には以下のような流れがある
相手「子供がスクスク育って嬉しいよ」
自分「順調に成長してるみたいで嬉しいんだね」
相手「ああ、これから色々あるかもしれないけどね」
自分「家族のイベントって様々だものね、子供とは何をして過ごしてるの?」
相手「休みの日は一緒に釣りに行ってるね、大きな魚が釣れるか2人ともドキドキしてる」
自分「釣りかぁ、引きが強いとドキドキな感じなんだね」
相手「そうそう」
となる、「感情を含む言語情報」を変化させずに「状況を示す情報」をリフレーム(枠組み変化)させる事で、相手の感情から脱線せずに情報を空間的時間的に広げていく事ができるのだ
これが、「相手の会話は本能的には自分の体験として認知して話してしまう」という事で、それがコミュニケーションのすれ違いにつながる事とそれに対する対応方法なのだ
会話内容のターゲット(フォーカス)について述べてみようと思う
どうも会話が盛り上がらない、といった事があると思う、例えばこうだ
自分「先週はどこか行った?」
相手「行ったよ」
自分「どこに行った?」
相手「沖縄だよ」
自分「何をした?」
相手「ゆっくり休んでたよ」
自分「ふーん」
相手「…」
ありえそうな会話ではないだろうか?
なぜ会話が盛り上がらないのか、
それを一言で言えば「連想活性」が起きていないためだ
連想活性は特定の刺激(プライム)が引き金となって他の情報が引き出される活動だ
それは例えば、連想ゲームのように繫がりを持つ情報だが連想ゲームとの違いは、連想活性は自動的に意識せずに連想されるという点だ
では、なぜ会話の流れによっては「連想活性」が起きないのか
ここで記憶の形成についてもう一度おさらいしてみよう
記憶の形成は大脳新皮質の情報を大脳辺縁系でブリッジして形成される
大脳辺縁系で記憶を作る際には海馬と感情に関わる海馬の先端にある扁桃体が介在する
つまり、海馬と扁桃体に存在する感情を仲介として大脳新皮質の情報を関連づけて記憶を形成するのだ
これが意味する所は、感情が記憶のトリガーとなるという事だ
フラッシュバックという言葉を聞いた事があると思うがフラッシュバックには強い情動が同時に発生する
フラッシュバックでは特定の要素が情動に働きかけを行い、そこで生起した情動が連鎖的に記憶を引き出してくる
つまり、「連想活性」だ
これの意味する所は、感情に紐づけられる情報が「連想活性」を引き起こしやすいという事だ
先の会話の例を見ると、会話の進行は主に「事柄」にフォーカスして進行している
そのため、「感情」にフォーカスせずに連想活性が起きにくくなり会話が盛り上がらなくなっているのだ
では、先ほどの会話を「感情」にフォーカスしてみるとどうなるだろう
自分「先週はどこか行った?」(クローズドクエスチョン
相手「行ったよ」
自分「へぇ、出かけたんだ?どこに?」(リフレクト、オープンクエスチョン
相手「沖縄だよ」
自分「沖縄に行ったんだ、ゆっくりできたんだね」(リフレクト、感情にフォーカスし始める
相手「そうだね、ゆっくりできたし色々楽しかったよ」
自分「楽しんで時間を過ごせたんだね、何が特に楽しかった?(感情反映、リフレーム、換起的オープンクエスチョン
相手「えっとね
となる
ここでは、返しは相手を主語として行なっている、逆に例えば「いいなぁ、俺もどこか行きたいな」と返すと主語が自分に移り会話の主導権が自分に移るため喋るのは自分となる、つまりその場合は会話が盛り上がってるのではなく、自分が会話を進行させているだけなのだ
会話が盛り上がる為には相手が話したい事を話す必要がある、自分だけ好き勝手喋るのでは盛り上がっているとは言えないのだ
つまり、会話を盛り上げる為には相手を視点として感情にフォーカスしながら喚起的に開放型質問(オープンクエスチョン)を行い、相手の連想を引き出す事が大切となる
上司の立場から見た部下の扱いに関して述べようと思う
部下への応答に関しては大きく分けて
肯定的ストローク(相手の認知に対して肯定的に働きかける)
否定的ストローク(相手の認知に対して否定的に働きかける)
ディスカウント(相手の存在を無視する)
の3つから選ぶ事になる
以前述べたように相手への働きかけで有効なのは肯定的ストロークとなるが何でも
「よくできたね」
「すごくいいよ」
と褒めていても当然ながら生産性が上がるとは限らない
人間の心理とは違い企業の最優先課題は「利益を上げる」事なのだから
それに付随して社員の人間成長なども含まれるが、それは「利益を上げる」という目的のために「社員の人間成長」が有益だから目的の一つとして付随される
これは、いくら「社員の人間成長」が達成されても「利益を上げる」事ができなければ企業としては存続できないという事である
企業は学校ではないのだから
つまり、
人間関係を円滑にしつつ利益を上げるという難しい2つの課題を達成する事が必要なのである
「会社に忠誠を誓う」といったような言葉があるがこれは人間関係で言えば
「あの人が大好きで何でもしてあげたい」と似たような状況となる
会社に忠誠を誓う必要はないが、もしもその人が自発的に忠誠を誓いたいと思う場合にはデメリットはあまり存在しない
「会社に忠誠を誓う」なんて古臭いといった意見も最もだが、誓うか誓わないかはその人本人の自由であり
自発的に忠誠を誓いたいと思う人に関してはメリットの恩恵を最大限に受け入れられる可能性があるので非常に好ましいのだ
人に置き換えれば
会社が好きで働く事は、好きな人と一緒に何かする事
会社が嫌いで働く事は、嫌いな人と一緒に何かする事
となる
人に置き換えればどちらがいいか一目瞭然だろう
問題は、好きになろうと思えば好きになれるわけではないという事だ
これは会社でも人でも同じとなる
上司は肯定的ストロークを用いて人間関係の構築と人員の最大活用を促す事はできるが
本質の所で相手が会社をどう思っているかはコントロール不可能である
これの意味する所は、対応に勾配をつけるという事である
つまり、
企業への献身性が高い人員に対してより多くの労力を払い、そうでない人は減らす必要があるという意味である
これは献身性が低い人員に対して否定的ストロークを使うという意味ではない
肯定的ストロークの量に差をつけるという事である
目安として
上位20%の人員に80%の労力を使い
下位80%の人員に20%の労力を払えば良い
下位80%の人員に関しては大きな問題を引き起こす害悪とならないようにして必要最低限の労力だけを払う事が企業としては有効となる
少なくとも下位80%の人員の不満を解消するために給与を上げるという事はやめた方がいい
もちろん下げてもいけない
一方で上位20%の人員は給与を積極的に上げるなど下位80%の人員よりも格段に高待遇を与える事が現時点で最も効率的な企業の方向性となる
大切な点としては常に勾配に気をつけるという事である
上位20%の人員の内でも20%と80%に勾配をつけ
下位80%の人員の内でも20%と80%に勾配をつける
保守業務や営業など業務についても勾配をつけるようにする
保守業務なら保守業務内の人員で20%と80%に分けていく
「社員を大切にしろ」という声が聞こえるが、その通りで大切にすれば良い
重要なのは勾配という差をつける事なのだ
上位20%の人員は大切さの80%を使い
下位80%の人員は大切さの20%を使えば良い
企業の目的が利益の追求であるという事から言えば一律平等に扱うというのは非常にデメリットが多いのだ
うつ病らしく安定剤飲んでる、飲むと気分が少し良くなる飲まないと不安と頭痛がある、近々病院行って手帳と年金貰えるか相談する、失業中だからハローワークで障害者雇用のコト聞くつもり
注意の集中について述べようと思う
注意というものはどのようなものだろうか
考えないようにしよう、しようと思っても嫌な出来事が思い出されてくる
あれやこれやとやらないといけないと疲労してしまう
様々な事柄が思い浮かぶだろう
以前にも述べた事も含めてまとめると、集中は
集中のボトルネックという現象が存在しており、脳は単一の処理にしか集中を向けられない
自動的な思考と呼ばれるシステム2には集中は必要ない(例:通勤中の運転、鍵の開け閉めなど
集中を必要とするマルチタスクでは高速で集中の切り替えが行われている(例:SNS閲覧
記憶は感情を媒介として形成されているため、強い感情の伴う記憶に集中力が自動的に奪われやすい(例:フラッシュバック
ニューロンの発火はきっかけとなるプライム(先行刺激)で起きるが、自然発火も存在する
痛みといった感覚も集中を必要とする
となると
これらから分かる事は、集中を意識的にコントロールする事には様々な恩恵がある一方で、
集中をコントロールする事が極めて難しいという事である
集中のコントロールの代表が瞑想やマインドフルネスである
瞑想は寝てるのとは違う、考えていないのとも違う
というように
瞑想は例えば自分の呼吸や環境に対して集中を一点に向ける事である
脳の活動としては
呼吸であれば頭頂葉の体性感覚野であったり、
環境であれば側頭葉の一次聴覚野などに活動を集中する事となる
当然これは脳の活動以外の何者でもない
これらのメリットとは、集中のボトルネックで述べたように
その一点に集中しきると他の事柄には集中できなくなるという事である
これが、
ストレスがあって嫌な事が思い出されてしまうと瞑想すると心が穏やかになる
と言われる理由である
瞑想してスッキリするから悩みから解放されるのではなく、集中のボトルネックを利用して悩みを含む連想記憶とそれに紐付けされる感情に関するニューロンの活動を発火させなくさせているのである
嫌な事があっても、さらに嫌な事があったら前の嫌な事が気にならなくなったという事はないだろうか?
これも、嫌な事が上書きされたのではなく、より嫌な事柄に集中が占有された結果なのだ
特定の自傷行為を繰り返す人がいるが、これも相手の気を引くという目的の他に、痛みによって集中が奪われ、その他の苦悩から逃れられるという危険であるがメカニズム的な理由もあるのだ
机の角に小指をぶつけた事があるだろう、その時に小指の痛さ以外何も感じなかったのを思い出して欲しい
しかし、実は机の角に小指をぶつけた後に別の何かに高いレベルで集中をすると痛みが感じにくくなるのだ
その集中には小指の痛さによる集中よりも高い集中力が必要とされるが、実際に行うと本当に痛みを感じない
何故なら、痛みもまた集中によって認識されているからなのだ
手をぶつけたら即座にその手を見るだろう、それが集中によってもたらされた行為なのだ
自傷行為に付随する「なだめ行動」について補足しておこうと思う
サイレントヴォイスというドラマで捜査官が「なだめ行動」といった相手の仕草から嘘を見破るドラマがあったが
実際には「なだめ行動」で嘘を見破れるわけではない
「なだめ行動」について述べておこう
「なだめ行動」は何かしらの心理的作用が働いた時に示すわずかな時間だけ発生するマイクロジェスチャーを含む無意識的行動である
例えば
ストレスを感じて髪を触る
感情を揺さぶられて手を両手でもむ
驚く事を言われて肩をわずかに揺さぶる
といったものがあるが
万人に共通するものではない
メカニズム的なものでは、例えばドキっとする事を言われた場合に
側頭葉の一次聴覚野と聴覚性言語野(ウェルニッケ野)から大脳辺縁系の扁桃体による感情の処理を行い大脳基底核を経由して
前頭葉後方の運動野へと刺激が出力され
遠心性の神経活動により抹消の(例えば指の)運動を起こし
指で頬を撫でると頬と指の感覚神経から求心性に刺激が伝わり
頭頂葉の体性感覚野にて刺激が処理されて活動が一次的に体性感覚野に集まり意識が集中される
つまり、
何か言われた時に感情が揺れ動いてドキっとしたら、情動をなだめるために集中を頬と指の感覚に集めて心を落ち着かせた
という流れとなる
感情を「なだめるための行動」だから「なだめ行動」と呼ばれる
このメカニズムから分かるように
「なだめ行動」が出るのは情動が動かされた時であって、それが嘘かどうかは関係ない
つまり、
「なだめ行動」があったら、何か心に動きがあった
というだけなのだ
この行動は「反射」とは違う事には注意したい
これは自傷行為で述べた集中の占有のマイルドなバージョンであると言ってもいいかもしれない
この「なだめ行動」の解釈が飛躍して
女性が髪を撫でてると好意がある
とか
両手を触ってると相手がストレスを感じている
といった俗説へと繋がっている
「なだめ行動」において注意しないといけないのは
単なる習慣的行動と見分けがつかない事も多いという点だ
目の前で女性が髪を撫でて「何か感情が動いたのかな」と思ったとしても、それが単なる習慣的な癖である場合もある
習慣的癖の場合にはその行動に大した意味はない
「なだめ行動」において最も大切なのは
「なだめ行動によって相手が何を感じているか」ではなく
「無意識に出る自分のなだめ行動が相手に何らかの印象を与えている可能性がある」という点である
あなたが何かストレスを感じて頬を触ったとしよう
そしてそのノンバーバルコミュニケーションにおいて何らかのメッセージを相手に伝えてしまうかもしれないのだ
無理に笑ってもあなたの「なだめ行動」が相手にあなたには好意がない事を伝えてしまうかもしれない
この問題点を克服する道筋の一つがカールロジャースの3原則の一つである「自己一致」へと繋がる
「なだめ行動」は抹消の感覚に認知を集中する事で心理的動揺から集中を奪う無意識的な行動なのだ
「緊急事態」と「集中のボトルネック」と「高度認知処理」について述べようと思う
緊急事態、例えば目の前で起きたアクシデント、致命的なミス、一分一秒を争う非常事態
そのような「緊急事態」を認識した際に人の集中はどのようになるのか
予想できるかもしれないが「集中のボトルネック」によりほぼ全ての認知が
一次視覚野、一次聴覚野、体性感覚野といった外界刺激の収集に割り当てられる
大きな爆発音が聞こえて聴覚野から得られた情報を元にその方向を見るだろう
振り向いたその先には炎が迫ってくる光景が写りその情報が視覚野で処理され
運動野へと信号が伝わりあなたは走り出す
この時にあなたは決して昨日食べた美味しい食事の事は思い出さないし、明日の仕事の心配もしない
全ての集中はただ現在の外界の情報を収集する事に割り当てられ必至に逃げ道を探そうとする
これが緊急事態だ
想像してみれば当然だと思うこれらの行動だが、緊急事態に際してこれらの生存に関わる集中の占有に大きな問題が隠れている事をご存知だろうか?
それは、前頭前野における高度認知処理における情報の理論的処理過程が働かないという事だ
これはどういう事だろうか?
例えばあなたが急いでいる時に車を運転中だとする
そして急にエンジンが止まってしまった
遅れる事は絶対にできないし、タクシーもいない、車を動かす以外の解決法はないとする
あなたはパニックになり必至にエンジンの再始動を試みたり燃料の残量を確認したり
全ての集中を状況の把握に注ぎ込もうとする
それでもエンジンは動かない
ここで必要な事は何だろうか
「緊急事態」において最優先される物事の1つに
「1分でもいいから安全に冷静になる時間を確保する」
という事がある
注意点は「安全に」という原則がある事だ
目の前からボールが飛んできたのに冷静になっていたら当たってしまう
あなたが車の運転中をしてる最中はどうだろうか?
1分間だけ冷静になれる時間を確保できそうだろうか?
冷静になる事の目的は「緊急事態」によって一次感覚野に奪われた集中を前頭前野の高度認知処理へ振り分ける事だ
1分間で冷静になり、あなたは考える
ガソリンは残量が確認できた、エンジンが止まった理由は何だろうか?
そういえば今自分が乗っているのはマニュアルのディーゼル車だ、ディーゼル車なら軽油を使用しているので断熱圧縮によりエンジンの再始動ができるかもしれない
そしてここは坂道だ
あなたはギアを1stに入れてクラッチを踏む、車は動き出した、少しずつ速度を上げて車は走り出し
そして坂の1番下に到達した時にクラッチを一気にかませる
かくして断熱圧縮により高温化したピストン内にて軽油の再燃焼が起きエンジンが再始動した
そしてあなたは走り出す
これは単なるフィクションで、実際にこのようにうまくいくという話ではない
エンジンが止まった「緊急事態」に直面して、単純な一次感覚野への認知集中により情報の収集や反射的な動作のみにしか対応できない場面で
意図的に冷静になれる時間を確保して集中を前頭葉の高度認知処理に集め
ディーゼル車、軽油の発火温度は低い、ピストンは気体圧縮時に断熱圧縮で温度が上がる、クラッチを踏めばエンジンと車輪の回転は切り離される、1stギアでエンジンは最も高回転になる
という知識と一連の連想からエンジンが再始動するかもしれないと推測を立てて行動したのだ
当然ながら実際にこの方法でエンジンが再始動する保証はない
しかし、理論的に合理性のある推測から行動に移すこれらの処理は「緊急事態」において「集中のボトルネック」により情報収集へと認知が集中している状態では事前に知識として知っている場合を除いて対処不可能である
「緊急事態」に対して事前に対処方法を知っているケースは非常に少ない
だから「緊急事態」なのだ
これらからわかる事は、本能的な生存的行動における認知では対処できない事もあり、その際には前頭前野における認知を活用する事が求められる場合もあるという事だ
「安全に1分でもいいから冷静になれる時間を確保する」という事が重要になる場面も時としてあり、その事が解決方法を導き出す場合もある事を覚えておきたい
もしも緊急事態の最中に1分間安全に冷静になれる時間が確保できたならそれは、相当に運がいい事なのだ
「緊急事態」に対する「冷静になる時間の確保」の大切さに関して、フィクションではなく体験談を述べてみようと思う
これは、私がアメリカの東海岸の都市で一人暮らしをしていた時の話である
当時、私は集合住宅の6階に部屋を借りていた
そこの建物へは電子キーで入り、自分の部屋には機械式でオートロックがかかるようになっていた
ある3連休のなか日の午前3時頃にゴミを捨てるために部屋を出た
そしてドアが閉まった瞬間に鍵を持って出る事を忘れていた事に気がついた
慌ててドアノブを動かすが当然動かない
その時は本当に困った
一人暮らしで中には誰もいないし
3連休のなか日でおまけに午前3時頃
そしてその時の季節は冬で外は氷点下だった
さらに自分の格好は半ズボンにTシャツだった
ゴミを捨てるだけで戻ってくるつもりだったので財布もなければ靴もサンダルで出てきていた
ドアが開けられない事に気がついた時は本当にそれが悪夢なんじゃないかと信じられなかった
どう考えても状況が絶望的だからだ
最初にとった行動は、メンテナンスの人が同じ建物内に住んでいたので深夜だったのだが致し方なくドアをノックした
しかし、誰も出てこない
3連休だからどこか旅行に行ったのかもしれない
ちなみに白人はやたらと寒さに強い、真冬なのに半ズボンにトレーナーで歩いてたりする
あの寒さへの耐性は不思議だ
その代わり暑さに弱い
メンテナンスの人が出てこないので困った
最初に心配したのはトイレに行きたくなったらどうするかだ
近くに24時間の薬局(アメリカでは薬局が日本のコンビニのような立場になっている、セブンイレブンもあるが薬局の方が便利だったりする)があるのでトイレに行くならそこか、とも思ったが
入口は電子キーなので出たら絶対に入れない、しかも外は氷点下で雪も積もっている
半ズボンとTシャツとサンダルで出るのは流石に危険だと思った
そこで私がとった行動が
1階のロビーに行って、そこに置いてある椅子に座って休憩する事だ
つまり、「安全を確保できる状態で冷静になれる時間」を作ったのだ
当然ながら椅子に座っていてもドアが開くわけではない
しかし、その時はとにかく冷静になって焦るのをやめよう思い、座ってただひたすらボーッとロビーを見つめていた
15分くらいボーッとしていたと思う
そして、少しずつ考えはじめた
建物の出入り口は電子キーだから出たら戻ってこられない
自分の部屋のドアは機械式のオートロックだ
そして、オートロックの構造を考えはじめた
ドアを閉めるときには動き、開くときには引っかかるような構造
その部位に対してドアが閉まる時と同じような力学作用を与えればいい
その部位に対して部屋側から外側に対して力学的に力を加えれば、その機構は稼働する
ドアの隙間から何か突っ込んで引っ掛けるように力を部屋側から外側に力を加えてやれば開くんじゃないか
今は何もない
そういえばポストの横にゴミ箱があった、そこに何かないか
すぐにゴミ箱に行って中を漁ったら広告用のポストカードを見つけた
手頃な硬さと薄さ
折り曲げてある程度の硬さを作り、部屋の前のドアに戻っておもむろにドアの隙間から引っかかる場所を探してこねくり回してみた
何度かやっているとポストカードがだんだんボロボロになってきた
それでもこねくり回してみる
…ガチャッ!
開いた!
本当に信じられなかった
開く自信は全然なかった
日本のしっかりしたドアだったら絶対に開かなかったと思う
アメリカのいい加減な作りのドアに心から感謝した
あまりの感動に当時のボロボロになったポストカードの残骸を写真に撮ってしまった
このように
「緊急事態」に対してパニックになってよく考えずに建物の外に出ていたら事態は解決しなかっただろうし
朝まで誰かが通るまで待つ事が出来たかも不明だ
しかし、
機械式のオートロックの構造を予想して
どの様な力学的作用を加えればオートロックが動くのか
そのためには何が必要か
その必要なものはどこから調達できるのか
といった推測には前頭前野の高度認知処理が必要とされる
この様な「緊急事態」に際する対応はリハーサル不可能であるし
同じ事態が再び起こることもそうそうなく、「緊急事態」に対する解決方法はその一回のみの機会となる事がほとんどだ
そのため、あらかじめ対応策を準備する事も難しいし、解決方法はその場で創造的に生み出さざるを得なくなる
その、創造的に解決方法を生み出すためには前頭前野の高度認知処理が必要であり、
そのためにはまず、「緊急事態」に直面して全ての集中が奪われてしまっている状況に際して
冷静になれる時間を確保して、前頭前野に集中を集める余裕を作る事が大切となる事もあるのだ
ストレスからの解放で行われる「瞑想」や「マインドフルネス」などの集中について述べてみようと思う
「瞑想」や「マインドフルネス」など(以下、瞑想とひとくくりにして述べる)においては
「いま、ここ」の自分に集中して意識を集中する事でストレスからの集中を瞑想中の意識へと移すのだが、
なぜ、「いま、ここ」なのか考えた事があるだろうか
「瞑想」においては、この「いま、ここ」の言葉が繰り返し表現されるくらい重要な要素となっているが
どうして「昨日のあの場所」や「目の前のコップ」ではダメなのだろうか?
「昨日のあの場所」や「目の前のコップ」でも集中はできるではないか
これには、「空間表象」と「自己表象」と「記憶の強化」が関連する
一言で言えば、
「いま、ここ」の自分の存在に集中する事が「自己の存在」という記憶を脳に強く記述して注意が効率的に向けられる
という事である
とても哲学的で心理学的な説明である
哲学や心理学における問題点の1つに、それは単なる妄想のファンタジーではないのか、と疑問を持つ事である
「瞑想によって自己の「いま、ここ」に意識を向ける事で自己が自己である事に強く意識が向く」
と言われても事実かどうか検証のしようがないのだ
哲学も心理学も多くが思考の中に存在して目には見えない
だからと言って哲学や心理学を否定するつもりはないし、哲学が科学の始祖である事も人類学的な事実なのだから
では、実際に「いま、ここ」の自分に集中すると何が起きるのか
記憶を最初に形成する役割を持つ大脳辺縁系の海馬は大脳新皮質の嗅内皮質から入力を受ける
その経路には「側頭葉アンモン角経路」と「シェーファー側枝路」という経路がある
これらの経路は海馬内に存在するCA1錐体細胞(いわゆる、場所を記憶する「場所細胞」)へと繋がる
さらに自分の空間的な基準位置を認識するとされる「格子細胞」は、頭頂葉の体性感覚野、一次感覚野、前頭前野の自己受容性の高次感覚と連合野を形成して内側嗅内皮質から海馬内の「場所細胞」へと投射し、「空間表象」と「自己表象」が形成されて
「いまこの瞬間、ここに私はいる」という認知が形成されて記憶の形成へと繋がる
つまり、「いま、ここ」の「私」に集中するというのは、「空間的な自己表象」を記憶するという行為なのだ
では、なぜこの「空間的な自己表象」を記憶する過程が効率よく集中する事に繋がるのだろうか
以前も触れたが、集中とはニューロンの発火である
ニューロンが容易に発火する時、それは集中が容易にされているという事である
ニューロンが容易に発火するとはつまり、ニューロン間の結合であるシナプス強度が高まっている状態である
シナプス強度が高まると、ニューロンが発火しやすいという事である
では、空間的な自己表象におけるニューロンの発火について考えてみよう
「空間的な自己表象」を行うときに、海馬内での「側頭葉アンモン角経路」において、以前も触れたヘブ即のシナプス強度の増強(LTP)が起きる
これは、「空間的な自己表象」による刺激が海馬内において、シナプス前部(軸索)から放出されたグルタミン酸が非NMDA受容体と呼ばれる受容体に結合してナトリウムイオンがシナプス後部(樹状突起)に取り込まれた際に、これらの刺激が繰り返し行われる(空間的な自己表象を繰り返し行う)と神経の発火(脱分極)に合わせてNMDA受容体と呼ばれる受容体の出入り口を封鎖していたマグネシウムイオンが取り除かれて、結果としてNMDA受容体がアクティブとなり、カルシウムイオンを取り込む様になる
これは、
非NMDA受容体しか活動していなかったシナプスにおいて
NMDA受容体も活動する様になり
容易にニューロンが発火しやすくなった
つまり、いわゆるヘブ則でいうところの長期増強(TLP)が確立されて
容易に「空間的な自己表象(いま、ここの自分)」に集中しやすくなったのだ
言い換えれば、「いま、ここ」の自分に意識を向ける事は、さらに効率よく「いま、ここ」の自分に集中しやすくなり、その自己表象を記憶しやすくなるのだ
これは大脳新皮質の連合野から空間表象を形作り海馬で記憶を形成するという哺乳類で広く確認できる原始的な機構である
場所と関連づけて記憶すると覚えやすいという話を聞いた事があるだろうか
通称、記憶の宮殿と呼ばれるものだ
そのような経験則からも分かるように、空間表象は記憶の形成と密接に関わりがあるのだ
それは空間を記憶する事で生き延びるための本能的機能なのかもしれない
つまり、
「いまこの瞬間、ここという基準にある自分」に集中すること自体が記憶を形成すると共にニューロンの発火という「集中」をするのに効率的な神経生理学的、解剖学的機能を備えているのだ
これが、「瞑想」において「いま、ここ」の自分に意識を向ける事が大切な理由である
>>340
なんかややこしいこと書いてるけど
記憶するんじゃなくて、記憶の呪縛から離れるんだよ 「報酬」と「学習」について述べてみようと思う
「学習」とは勉強の事ではなく、刺激に対する反応の獲得(記憶の形成)を意味する
勘違いされやすいのだが、反応は「記憶の形成」によるものである
例えばテニスでテニスボールをうまく打ち返せる様になるのは「非陳述記憶(作業記憶)」が反応という形で出たものである
「記憶」というと何かを思い出したり考えたりする事を想像する人が多いと思うが
それは「陳述記憶」と呼ばれ、大脳辺縁系の海馬を利用した記憶回路である
一方で「非陳述記憶」とは線条体を利用した記憶回路であり、これには直感や集中力の向上、マインドフルネスや瞑想の熟達、行動経済学ではシステム2と呼ばれるものにあたる
「陳述記憶」と「非陳述記憶」はメカニズムも概念も全く別のものであり、「非陳述記憶」に関してはその存在を意識するのは難しい
瞑想でいうところの記憶から離れるとは大脳辺縁系の海馬と扁桃体に支配さる「陳述記憶」から離れる事を意味しており、逆に「非陳述記憶」を形成する事で瞑想に熟達していく事となる、「記憶」には意識的な「陳述記憶」と無意識の「非陳述記憶」が存在する事を理解しておかなければいけない
学習において
「陳述記憶」は中脳腹側被害野からのドーパミン出力に影響を受け
「非陳述記憶」は中脳黒質から線条体へと出力し影響を受ける
中脳腹側被害野からのドーパミンの報酬は以前述べた様に
予想信号によりドーパミン出力が発生し
実際の報酬との誤差(予測誤差)が多いほどさらなるドーパミン出力が発生する
一方で、報酬を100%の精度で予測すると、実際に報酬を受け取った際にはドーパミン出力は発生せずに学習を引き起こさない
予測信号と感覚信号(報酬)における誤差(予測誤差)を最小に抑える事でベイズ推定の精度を上げるという自由エネルギー原理の説明と同様となる
つまり、学習を加速させるには正のフィードバック(報酬)(負のフィードバック(罰)では、ドーパミン出力は逆に抑制される)を予想外に与える必要がある
そのためには、常に確実な事にばかり手を出すのではなく
失敗する可能性を含む不確実な事柄に取り組む事で、感覚信号(報酬)を受け取る際の予想外さが変化して、学習へと繋がる事となる
自分の知っている事を繰り返しても学習は進みにくいのである
「自己啓発本の内容」と「分子生物学、神経生理学、組織学、解剖学、心理学、カウンセリング理論、精神医学、臨床医学、疫学を統合的に理解する事」の違いについて述べようと思う
結論から言えば「自己啓発本」を読んで素直に実践していれば大体大丈夫である
問題は「自己啓発本」に書かれている事を素直に受け入れられるかである
何故なら書かれている事を真面目に読むととても胡散臭く感じられるかもしれないからだ
細かいメカニズムに興味がない場合は「自己啓発本」を読んで実行し続けるのが1番簡単かもしれない
一方で、分子生物学から疫学にまたがる多分野を理解するメリットは自分で応用したり効率性を上げられる可能性があるという点である
しかし、多分野にまたがる理解をするためには表面的に理解するか、深く理解するかで大きな差が出てしまう
何故なら、多分野にまたがる理解をするメリットは理解を深める事で応用性を高める事なので、
浅く理解する場合にはそのメリットが存在しないどころか時間と労力がかかる分だけデメリットが多くなる可能性があるためだ
そのため、「心の動き」に関して深く理解するためには、どれだけ全ての分野で深い理解があるかが重要となる
「心」に関するそれぞれの分野での例を出すと
疫学において分散と標準偏差の概念を理解しているか、標準偏差はどの区域が採用されるか、交絡因子を抽出できるか
臨床医学において臨床的な疾患名(保険病名)と病態について理解しているか、遺伝子に病因を求める特定の症候群やカスケードについて理解をしているか、遺伝子の表現形とヘテロの場合の相補に関して理解しているか
精神医学に関して器質的変化に関して何をターゲットとしているか
カウンセリング理論に関して言語的、パラバーバル、ノンバーバルコミュニケーションにおける文脈的機能と心理的な動きに関して理解を深めているか
心理学において様々な現象、バイアス、ヒューリスティックなどの認知の歪みと作用を理解しているか
解剖学において解剖学的位置関係と接続を理解しているか
組織学において細胞同士の接続と接着、細胞の分化を理解しているか
神経生理学においてニューロンとグリア細胞と関係する細胞においてその電気生理学的な性質と細胞機能を理解しているか
分子生物学においてノックアウトマウスなどのin vivo、細胞培養を使ったin vitro、遺伝子変異、ノックアウト、ノックダウン、プロテオミクス、染色、タンパク質の立体構造とその機能
など、それぞれである程度の深さを理解している必要がある
研究においては1種類の細胞の1種類のタンパク質機能だけをひたすら研究している人もいるため、全てを理解している事を求められる訳ではないが、「心の機能」を基礎研究から臨床研究まで横断して理解するためにはかなりの知識量を必要とする
例えば、プロテオミクスにおける質量分析がどのような技術で行われているかを知っていればBLASTを用いたタンパク質同定の意義を理解できるし
タンパク質の立体構造における理解が深ければ大腸菌に作らせてhisタグ抽出した単量体のリコンビナントタンパク質の問題点も理解できるし
免疫染色における問題点、パラフィン固定と凍結標本の違い、臨床研究における病態の理解など
自分で文献を読み進めるうちに自ら問題点を抽出して情報を取捨選択できるという非常に大きなメリットが存在する
多分野にまたがる「心」の理解をする場合は、まずは自分の最も得意とする専門領域を決定してそこから広げていくのが良いであろう
基礎研究から始めてトップダウンに理解するのも良いであろうし
臨床から始めてボトムアップに理解するのも良いであろう
できればその専門領域に職域として従事していると情報が集めやすく理解も深まるのでそれらどれかの職域に従事していると好ましいかもしれない
「多分野にまたがる理解の恩恵」についてさらに深めていこうと思う
以下の説明があったとする
情動と感情の違いは情動が無意識的な生理反応群である一方で、感情は意識的な認知を伴う反応である
情動の元となる情動能は微生物の生存反応に由来し、他の出来事と連合する事で情動的認知が広がる
この文章を深く理解すると以下の様になる
情動はカウンセリング理論で言うところの一次感情やコア感情である
感情はカウンセリング理論で言うところの二次感情や防衛感情である
情動の意識化はカウンセリング理論で言うところの気づきである
情動はフロイトの精神分析におけるエスを含む
情動は解剖学的には中脳線条体に関与する
感情は解剖学的には内側側頭葉(大脳辺縁系)の扁桃体に主に関与する
生理学的、解剖学的には中脳線条体は黒質から、扁桃体は腹側被覆野からドーパンの報酬を受ける
生理学的、心理学的に報酬系は動機付けとして働く
神経生理学的に無意識は非陳述記憶、意識は陳述記憶の記憶形式として保存される
神経生理学的に記憶は前頭前野のワーキングメモリ、短期記憶、長期記憶へと変容する
心理学的に前頭前野のワーキングメモリはおおよそ30秒間に3から7チャンクである
分子生物学的に短期記憶はシナプスの受容体の発現とシナプス強化で起きる
分子生物学的に長期記憶はプロモーターの機能強化とそれに伴う表現形の変化よって起きる
分子生物学においてシナプス強度は受容体タンパク質に影響を受ける
分子生物学においてタンパク質はアミノ酸1次構造、アルファヘリックス、ベータストランドの2次構造、単量体の3次構造、多量体の4次構造に影響を受ける
細菌学において真正細菌のクオラムセンシングが情動能の起源と考えられる
電気生理学においてニューロン間コミュニケーションは神経伝達物質、神経修飾物質、細胞内電場によって行われる
ニューロンにおける細胞間コミュニケーションは心理学における相互的複合的内包を引き起こす
カウンセリング理論における文脈的作用が相互的複合的内包に影響を及ぼす
カウンセリング理論における接続詞、順接の接続詞、逆接の接続詞の技法により複合的相互的内包を方向付けられる
といった理解となる
それぞれの理解においてもさらに
タンパク質なら
どの様に研究がなされているのか
リコンビナントタンパク質の作成方法と使用目的
フローサイトメトリーでわかる事
蛍光顕微鏡と共焦点レーザー顕微鏡の理解
心理学的には
バイアスとヒューリスティックの理解
心理学的現象の理解
言葉の順序、選び方による心理的作用
臨床的には
疾患名と病態
治療方法と健康保険で認められる治療
保険算定要件と保険点数
と無限の枝葉の様に理解が深まっていく事となる
重要なのはこれらの知識と理解を紐づける事であり、理解のネットワークをどれだけ強固にするかである
アミノ酸の一次構造だけを理解していても他人とのコミュニケーションは成立しないが
コミュニケーションの成立をボトムアップで追いかけると
心理学→ソーシャルスキル理論→カウンセリング理論→文法→解剖学的影響部位→組織学→生理学→分子生物学
とつなげる事ができる
そして分子生物学からトップダウン式に心理学に戻ってくる事で応用や発見や理解の深まりが生まれるのだ
理論だけでは実践は生まれず
実戦だけでは理論は生まれない
不必要と切り捨てた知識が多いほど枝葉は減っていくので無理解へと繋がっていくのだ
「理解できない」とは「私は知識がありません」と言っているようなものなので自分の知識がどれだけ広く、深く、多いかに注目する事も時には必要であろう
理解を深める事に関してとても重要な事がある
それは、理論は必ず過誤を含むという事だ
そのため理解を進める際には確定的に進めるのではなく、確率的に進めていく事がとても大切となる
知識を不必要と言って切り捨てる事は確定的な学習様式にあたる事を覚えておきたい
「情動」「感情」のおさめ方について述べようと思う
この事柄は「アンガーマネジメント」に共通する項目となる
まずは、カウンセリング理論と心理学における視点から見てみよう
「人は傾聴される事により自己の感情に気づきカタルシスと呼ばれる浄化を得る」
と説明されたり
「怒っている自分を怒っているんだなと理解する事でアンガーマネジメントする」
と説明されるが
これらの説明を信用できるだろうか?
これらの説明は
「自分の感情に気がつけば感情の束縛から解放される」
と言っているようなものだ
これは正しいのだろうか?
結論から言えば恐らく正しい
情動や感情に伴う生理反応は自律神経への反応として説明される
これは扁桃体の活動に伴う反応であり、無意識的な反応
つまり循環系、内分泌系、体勢運動系への反応を意味する
これらの変化により抑鬱や躁状態などを引き起こす結果となる
では、扁桃体に依存しない感情は存在するのだろうか?
実はある
扁桃体に依存しない感情は島皮質と腹内側前頭前皮質に依存する
さらに島皮質では他者への共感に関連するミラーシステムが観察されている
では、これらの扁桃体に依存しない感情はどのような時に出るのか
それは
社会的やり取りに関わる感情
他者への共感によって生まれる感情
感情の想起によって生まれる感情
と意識的な要素が強い感情である
言い換えればコントロール感の強い感情とも言える
感情はその存在に気がついた時からカタルシス(浄化)が始まるとカウンセリング理論で言われるように
感情に気がつくと脳での活動部位そのものが変化するのだ
扁桃体による自律神経系への出力は無意識的で制御ができない
一方で島皮質と腹内側前頭前皮質による出力は意識的で自律神経への反応が弱い事が分かっている
つまり、情動(一次感情)あろうと感情(二次感情)であろうと、その存在に気がつくと扁桃体での反応が島皮質と腹内側前頭前皮質に移行する事が分かっており、それが結果的に自律神経への反応を弱めるという事になる
これは、
「傾聴において聞き手に映した自分の感情を認識する(もしくは共感する)事で自分の感情に気づく」
「アンガーマネジメントにおいて自分が怒っているんだなと気づく」
事で感情に伴う生理反応をおさめるという説明そのものである
基礎研究レベルの話が多くなってきたので臨床レベルの話を少ししようと思う
気分が乗らない時にどのような行動をすると良いかについて述べようと思う
気分が乗らない時に何をすると手っ取り早く気分を良くできるか
それは、
とりあえず外に出てどこかに向かってみる
という事である
注意したいのは
「とりあえず外に出てどこかに向かってみる」と必ず気分が良くなるわけではないという事である
可能性的に気分が良くなる確率を上げうるという事であり、
当然ながら気分が悪くなる可能性だってある
これは概念的な話ではなく、「期待」と「結果」の差を利用した方法であり
腹側被蓋野からのドーパミン出力を利用した方法であるが
腹側被蓋野とドーパミン出力の内容は以前述べたのと、この辺りを話し出すと生理学的な基礎研究レベルの話に戻ってしまうので省略する
手っ取り早い方法として
@何も期待せずに外に出てみる
A特に行きたいと思わないよく分からない場所に向かってみる
これだけである
自己啓発で聞きそうな、いつもと違った事をやってみよう
というのと近い内容だが、神経生理学的な根拠がある
この中で1番重要な事は@の「期待しない」という部分である
この辺りの神経生理学的メカニズムを理解してると効果的な行動を推測できると共に
知識ではなく行動する事の重要性も理解できる
スレッドをたてて半年ほど経ったが最近どうも時間がないので一旦落としてしまおう
これだけ進んでると半年間くらいは書き込みがなくても落ちませんよ
ここは意味を忘れてしまった単語をこのスレの中で検索できるのでとても便利です
時間が出来たら趣味として続きにを書い欲しいな
もちろんアプローチの仕方を変えて新スレで書き直してもらっても構いませんが