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新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう
「まつかぜ」2往復のとき,5〜8Dだったのだが,
これって1〜4Dは昭和50年3月で消えた「なは・日向」「かもめ」だったのな。
「まつかぜ」大阪〜博多を乗りとおしたよ
食堂車で食事2回珈琲1回利用したよ
景色は最高だし結構楽しかったので苦痛でもなんでもなかったなぁ
ちなみに前日は名古屋〜天王寺を「はやたま」で乗りとおしました
なので名古屋〜博多 30時間位?かかったかも
食堂よりご案内申し上げます
食堂ではお料理、お飲み物など取り揃えまして
皆様のお越しをお待ち申し上げております
ピンポンパンポ〜ン♪
まつかぜって85年3月でキハ181置き換えになってますが、85年1月に気動車特急のヘッドマークが
イラストマーク化という記事がwikiにあります。ってことはキハ82の先頭にイラストの「まつかぜ」マーク
も付いてたんですよね…?本とか調べても見たことなくて半信半疑なんですが。
>>10 これかな?
http://blogs.yahoo.co.jp/kobe_x_japan/GALLERY/show_image_v2.html?id=http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/d5/8f/kobe_x_japan/folder/1074746/img_1074746_14158939_0?1218020692
ところで、急行のさんべとかあきよしの話題もここでいいのかな?
あと、山陽特急時代のいそかぜとかは…だめかw
>>11 このマークです。でも、この写真もですがこれを付けてるのはキハ181しか見たことありません。
82でもホントに3ヶ月だけ絵マークつけてたのか…?
いそかぜ
小倉〜博多間 性能挑戦ばりの全開走行は良かった。
山陰区間のうっぷん晴らしと言わんばかり
今でも はまかぜ が大阪〜姫路間120キロ走行には劣るけど
80系まつかぜは、最後まで文字のみのヘッドマークで走ってました。あと数ヶ月で
置換えになるので、新調しなかったのではないかと思いますよ。
まつかぜの文字ヘッドマークも、同じようで字体が異なるものがありました。
>>15 やや細字の、角が丸いゴシック体とかですな?
(太字、角ありゴシッック体が一般的?)
S50,11だったが米子ー東萩間を利用したが指定は最悪で山側のB。
せっかくの「まつかぜ」なので山陰の海が見たかった。隣席の九州に帰るとのお婆さんが
田儀あたりが海がきれいだと教えてくれたので小田を過ぎるあたりから食堂車でカレーと
コーヒーで夕方近くまで粘っって車窓を見入っていたな。
途中で海の見える駅(駅名?)で東京行きの「出雲」を待たせ通過。
かたや当日中に博多に、かたや翌日には東京に着いているとは思えぬほどの長閑さだった。
1981年ごろのダイヤだと、博多から「まつかぜ」全区間乗り通すより
山陽回りで普通列車乗り継いで行ったほうが早く着いたとおもた。
>>18 山陽乗り継ぎの方が早いよ
昭和54年頃乗った「まつかぜ」
車掌さんに聞いたら大阪〜博多を乗り通した客は俺と友人の2人だけしかいなかった
単線で待避があったからね。
おまけに米子だと結構長い時間停まっていた気がする。
その同じ路線をSまつかぜやSおきが飛ばしまくってるなんて考えられんな。
時間帯がちょうど良く、しかもすいていることが多かったので
一時期仕事で博多から黒崎まで行くのに「まつかぜ4号」をよく使っていました
たしか8時15分に出る列車ではなかったかと
車内で書類をまとめたり、アイディアを考えたり
あのディーゼル・エンジン(?)の音がとても良かったですね、とても好きな列車でした
架線がない低いホームを滑るように入線してくるキハ。
えがったゾ〜w
http://www5f.biglobe.ne.jp/~cyositekitetu/matukaze.html
>>15 まつかぜの愛称板は手書きに見えて仕方なかったな。
私の父母は「まつかぜ」で山陰へ新婚旅行をしました
私はその時できた子供
「まつかぜ」万歳!
>>27 82系時代はもろに毛筆風の筆文字だったような
「あさしお」は細字のpop調で、あれも不思議な書体だった
どっちにせよ、国鉄式の一般的丸ゴシックから外れた書体を使っていたのが印象に残る
約30年前にサンドイッチ600円、ミルクコップ一一杯200円だった食堂車。
エンジンの振動が小刻みに伝わり食いにくかった。
>>33 片方がしばらく、名無しやったと思うよ。(盗難?)
1Dが「なは・日向」
3Dが「かもめ」
5Dが「まつかぜ1号」
7Dが「まつかぜ2号」
ゴーマルサンで1Dと3Dが廃止されても5Dのままだった「まつかぜ1号」が
あわれにみえた。所詮日陰者扱いなのか・・・。
ヘッドマークで思い出したが、米子で盗む馬鹿がいたんだよな。
>>37 一般的には1Dの名称は「なは・日向」って事になってるの?
当時は山陽区間の停車駅では「日向・なは」って放送されて滝ガス。
>>39 当時はみどりも健在だったからなぁ。
「まつかぜ」の食堂車は、空いていた印象しかないです。
数人の客がいても、コーヒー程度だった様な。
このスレ流行らないなー。
「まつかぜ」「いそかぜ」に限らず
「あさしお」「はまかぜ」「やくも」「おき」などを含めた
往年の山陰路を走った特急の懐古スレにしたらどうだろう?
82まつかぜ末期の80年代前半って
50系より旧客の鈍行のほうが多かったんだっけ?
>>47 そうだね。
僕が25年前、餘部のお立ち台に撮影旅行に行ったときはみんな旧客だったよ。
確か京都口のローカルには50系があったようだったけど・・・。
臨時だいせんが12系だったかな。
普通列車の編成にはナハフ11型も混ざってたな。
福知山にはナハフ11−1もあったよ。
京都から『山陰』のオハネフ12に乗っていったけど、今思えばパラダイスだったよ^^w
まつかぜなんか、目一杯引き付けないと最後尾がトンネルの中・・・なんて、今の4連はまかぜに比べたら贅沢な苦労だったね^^;
>>49 いやそうではなくて、中途半端に電化したことや
短絡急行線を求めた自治体もあった事もある。
仮に昭和40年代の初めに京都−出雲今市、尼崎−福知山が
電化されていたら、山陽筋と共通運用が図られていただろう。
新幹線が山陽路を通ったことで
結局陰陽短絡線が主流になるのは仕方ないんじゃないか?
京都や大阪から米子や松江に行く人って新幹線+「やくも」が
ほとんどだっただろうし。
漏れはガキの頃、広田尚敬氏の鉄道の写真本を読んで、
大阪〜博多間を通しでディーゼル特急が走っていたことが信じられなかった。
しかも、彼の本は廃止になった列車を結構載せていたから、事情がわからない
お子ちゃまには少々わかりにくい解説があったw
あと、スレ違いだが、ヘッドマークに関しては、北海道のキハ183が
80系用の五角形ヘッドマークを付けている写真なんかがあった。
まつかぜはこういうことは無かったのかな?
運行区間が短縮される直前に友人と二人で
博多ー新大阪間乗りとおした.
(行きは飛行機だったけど)
朝昼晩とも食道車を使った.何を食べたかはもう覚えていない.結局在来線食堂車はこれが最後になってしまったな.
リクライニングでもない座席でよく乗りとおせたものだ.今じゃ浜田あたりでギブアップだろうな.
「まつかぜ」の絵入りヘッドマークは綺麗なデザインでしたが
付けられていた期間は非常に短いものでした
ディーゼル特急の絵入りヘッドマークでは「しおかぜ」のもの(初代)も良かったですね
神奈川に住んでるおいらにはどっちも縁の無い列車だったな
九州行ったときに、「いそかぜ」を2回見ただけ
博多駅に到着した下り列車と、「はやぶさ」の最後尾から見た行き違いの上り列車
一度、山陰を走破してみたかったな
>>53 昭和の50年代の終わりにもなると、乗りとおす人なんていませんわ。
大阪から松江までのG車に乗りとおした時に、宝塚までに
乗り込んだのは、自分を含めて5人、2人は城崎、2人は鳥取でした。
このまま、松江から空車で博多まで行ったのでしょうかねえ。
>>54 60-3から61-11までのわずかな期間しかありませんでしたね。
>>58 80系まつかぜは60-3改正まで。60-3以降、全列車が181系化されてから、絵入りマーク化された。
>>5-6 いそかぜ益田止めになる前に、下関から関門トンネルに挑む前に言ってたよ。
小倉に着く前は「JRグループ、特急いそかぜをご利用いただき…」とか、
さらにQでは聞けなくなった新幹線乗換案内も聞けたし、
小倉近郊の乗換案内を片っ端からしてたよ。米子のレチ氏に感心したもんだ。
まつかぜおきはまかぜあさしおくにびきはくといなば
鳥取住んでる俺はいそかぜだけは無縁だったなあ
「いそかぜ」廃止が決まった頃
幕末ファンでよく萩参りをする友人夫妻に萩に行くならこれに乗れば、と乗車を勧めたところ
乗車しての感想
「遅かったねぇ」
「ボロやね、何でもっと綺麗にせんっちゃろうか、誰も乗らんばい」
長門市近辺の車窓は最高だったと言っていましたが
3両編成時代に小倉〜米子全区間乗りました。
益田で駅弁が買えました。
自由・指定ガラガラで指定には外人さんしか乗っていなかった
ロールカーテンだけで横引きカーテンが無かった
のも懐かしい
米子打ち切り181系化直前のS59年のクリスマスイブに大阪から下関まで
乗りました。(予定だった。)大阪は冬晴れだったのに、豊岡付近から天気が
あやしくなり、城崎を過ぎると猛吹雪。佐津か柴山で立ち往生状態となり
夜10頃ようやく香住までたどり着いた。その日山陰線のダイヤはマヒ状態だった
ようで、深夜2時頃に米子に到着し、車中泊。翌朝、駅弁とお茶の差し入れがあり、
「おき1号」に案内され下関に向かった。城崎発車時点で、米子以西への客は2人
だけだったみたい。80系「まつかぜ」最初で最後の乗車体験です。
>>64 まあ、遅かったから181も派手に揺れることなく、エンジンも大回しせず、乗り心地は最高だったが
急行ながとってさんべに比べると地味なのか、あまり語られることないよな。
90年代初頭まで生き残っていたのだが。
現在上府駅建設中のあたりを爆走していくのを通学中に毎朝見てた。
>>70 山陰線西部はいろいろな愛称のローカル急行が設定されてたから各々印象が薄いのだろう。
古くはしんじ・美保・石見etc。九州直通のあきよしもユニークな運転形態だったし。
「まつかぜ」は博多→新大阪を通しで2回乗車。1回目は自由席。
でも、指定券を集め出してから今度は指定席で乗車。しかし、運悪く山側だったので結構ガッカリした。
景色の良い区間は食堂車に足を運んだものの、コーヒーだけで長時間居座る度胸はなく、
結局自席に戻って大人しくしていた。席を移ろうにも車内は満席の盛況だった。
でも、よく見ていると、九州方面から乗車した乗客の多くは東萩で降りて、
入れ替わるように乗ってくる乗客も多かった。
鳥取で増結があり、それもほぼ満席になる程当時は人気の列車だったんだ。
その後、「おき」がデビューし、僅か4両(後に3両)の基本編成で運転される状態に驚きを隠せなかった。
「さんべ」と違い、末期の「ながと」は山口県北部から下関・北九州へのビジネス向け時間帯(下りが朝、上りが夜)運行で、
半日以上かけて山陰線の西半分を走り通す「さんべ」に比べると、よそ者は使いにくかったしな。
「安芸」の廃止が決定したころ
東京→(新幹線)→新大阪→(安芸)→下関→(まつかぜ)→新大阪→(新幹線)→名古屋→
(344M)→東京なんてやったな。
土曜夕方出発で月曜朝帰着。
切符を都内某駅で全部買ったら「乗りにいくだけ?どうもありがとうございます」
といわれた。
いそかぜ
博⇔⇔佐世保
多⇔小倉⇔⇔新大阪
↓
宮崎
新大阪・大阪〜米子・博多間
懐かし板の「まつかぜ」なら「新大阪・大阪〜鳥取・博多間」だろうが!
とつまらない突っ込みを入れといて…w
s40〜43頃にも、いそかぜ(大阪-宮崎)があったんだね。
>>77 80系末期の付属編成が米子回転だったのと、181系化で分断された博多まつかぜ
と、鳥取まつかぜ前身のやくもが新大阪・大阪〜米子の運転だったので、米子は間違いではない。
むしろ鳥取が抜けてるだけ。
まつかぜ、あさしお、はまかぜがキハ181系化されて、運用から外された
キハ80系が向日町運転所、加古川、篠山口などの駅構内に留置されているのを
みかけた。また、境線大篠津駅構内に、廃車になったキサシ180などとともに、
キハ80が一両留置されているのをみた。
キハ82の列車名板は、たしか四角形(台形の天地逆)だよね?
留めネジの位置のせいか、五角形と表現されてるのをたまに見かけるけど。(w
>>81 キハ82の愛称板は逆五角形じゃなかった? 角度は緩いけど。
四角形になったのは181系だったと思うよ。
82系「まつかぜ」には東萩から松江まで、トマトジュース一杯で
ずっと食堂車から美しい景色を眺めていた。他に客はあまりいなく、
ウエイトレスさんも「にぎやかしでいいですよ」と快諾してくれた。
その時の車両は、キシ80−901だった。
松江からは「やくも」のキサシ180にコーヒー一杯で新見までいた。
さすがに伯備線はカーブも多く、山が近いので気分悪くなって新見からは
席に戻った。キサシ180は寒色の内装だったので、何故か幼稚園の便所を
連想させられたのも一因だったと思う。
昭和57年ころ下宿していた京都から小倉に帰省するとき、思いっきり早起きして大阪から小倉まで「まつかぜ」に乗車
しました。さすがにみどりの窓口で怪訝な顔されましたが…
真昼間から日本海をながめながら食堂車でエビフライをつまみに酒飲めてサイコーでした。
小倉で下車後、駅裏のトルコ風呂もえがったですよ。
一度だけ下り「まつかぜ」に小倉から博多まで乗りましたね
次の日の朝から博多で急遽会議が開かれるというので一杯だけひっかけて
小倉駅で切符を買って最初に来た列車に乗りましたがそれが「まつかぜ」でした
すいていましたが改札のとき車掌に特急券を買わされました
下関から萩まで鈍行で3時間。いそかぜの復活を期待します。
>>86 その区間、下関―新山口を電車、新山口―萩のバス利用が多いだろう。
だからいそかぜが無くなっちゃうんだw
急行さんべなんですが
下りのうち1本は3分割して山陰線と美祢線と山口線を経由した後に
全部が併合して博多へ向かうという
いわば完全分割併合3階建て列車だったことがあったと思うのですが
検索しても山口線経由は小郡止まりという情報しか出てきません
わたしの記憶違いでしょうか
>>88 昔は末端区間まで行く急行・準急があったよね。
キハ82系がキハ58系の様に分割・併合が容易な
車両だったら、津山や三次あたりにも特急が
設定されたのだろうか・・・
「さんべ」、なつかしいです。
3階建てというのも記憶にあります
分割後・もう一度併合というのも記憶にあります
でも3つが全部併合だったかの記憶がないです。ごめんね。
「さんべ」下り2号、上り1号の事ですね。新幹線博多開業以前までは
3層経てでした。基本編成はグリーン車1両を含む4両で普通車1両が指定席でした。
この4両は鳥取〜熊本間を美祢線経由で結んでいました。第一付属編成はモノクラス3両で
全車自由席。こちらは米子〜熊本間を素直に山陰線経由で進み、長門市で別れて
再び下関で一緒になる、あの有名な列車です。第二付属編成はモノクラス2両で
い両が指定席。この編成は鳥取〜小郡(現新山口)間で、山口線経由。この編成のみは
小郡止めで、再び合流する事はありませんでした。
この山口線「さんべ」は新幹線博多開業時になくなったため、あまり知られていません。
同じ時期に走った「あきよし」が益田〜厚狭間を美祢線経由と山口線経由で離合運転をしていたので、
そちらと混同される事が多いようです。
>>88 記憶に自信があるわけではないけれど、1970年ごろは完全分割併合3階建て列車だった様な気がする。
これができるのは3線経由の時間がほぼ同じだからという説明を当時の鉄道雑誌で見た様な気もする。
昭和42年ごろ
「あきよし」は
浜田始発で石見益田で分割
山口線経由東唐津行,美祢線経由天ヶ瀬行
厚狭で再併結。
「やえがき」は
米子始発で長門市で分割,下関で再併結,共に熊本行
30年前大阪駅で
800着の【銀河】と800発の【まつかぜ】が、横に並んでいました、今、考えると、凄いですね。
>>95 同時発着だから接続してなかったんだよね。
出雲3号だと丹波地方へは早過ぎるから接続してくれればいいのにと思ってた。
>>97 末期は銀河の方が少し早く大阪に到着しててた様に思います。
まつかぜ1号は、大阪駅に7:30(末期は7:40)に入線して来たので、車内に荷物を置いた後に、水了軒の駅弁や途中で食べる
食べ物などを買いに行っても全然時間の余裕がありました。
今から思えば、もっと食堂車に行けば良かった・・・
こんな書き込みしたら怒られるかも…
大阪発着【まつかぜ】が現役の頃
カメラを持って大阪駅構内を走り回ってましたが
【11番線381系しなの】が撮影の終わりでした。
今、思うと【はまかぜ】は播但線経由だから?人気は無かったような気がする。
当初は『まつかぜ』は京都〜博多、『やくも』は新大阪〜浜田。グリーン車が2両だったのは、『やくも』の方が先。
>>101 はまかぜは運転区間も編成内容もぱっとしない存在でしたからね。
昔の「はまかぜ」は何のための播但線経由か???だったな。
姫路〜和田山全通過だったからなぁ。
>>104 初期は姫路で新幹線に接続も、していなかったみたいね。
もそもそ先生が苦言を呈してた記事を読んだことがある。
はまかぜは豊岡などから県都神戸へ行く需要のためだろう。
ええっ(οдО;)
やくもってグリーン2両だったの?
当時はまだ新婚旅行のメッカは国内で、縁結びの神様である出雲大社へ行く新婚さんが多かったからだと聞いています。宮崎行きのオールA寝台車の「ことぶき」なんてのもありましたね。
まつかぜが13連で運行していたとき後ろから2両目のグリーン車に乗った
S字にカーブしているところでは先頭車両が見えなかったのを覚えている
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
82年夏、電化幹線撮影に食傷気味になり、C57C58重連撮影後、益田に抜け、美保三隅を目指した。快晴の夏晴れながら
日本海はどこまでも澄んで美しく、海バックの定番ポイントを走りぬける80系
まつかぜは6連ながらまさに山陰のクイーンだった…。
ああ・・・あのころに戻ってシャッターを押してみたい・・・。
大阪駅1番線の博多行きの文字。
非電化単線つまり旧線時代の武田尾駅をゆっくりと通過して行った姿。
でも結局乗らないまま消えた。
キハ181系化された「まつかぜ3・2」号と、キハ80系で残った「まつかぜ1・4」号
最初のうちはキハ181に「まつかぜ」のヘッドマークは、なんとなくそぐわないようにも思えた。
まつかぜは大阪→宝塚→福知山の停車駅でこそ!特急!と思っていたが、
末期は三田や篠山口、柏原に停車して残念に思えた。
また、臨時のまつかぜがあったような気がするのと、波動用として三田駅
の上りホーム裏の側線に181か82か忘れたけど、車両が留置されていたよう
に思う
特急あさしお、はまかぜ、まつかぜ3・2号がキハ181系化された時、
運用離脱したキハ80系が、向日町運転所、加古川、篠山口などの駅構内の
側線などに分散留置されていた。
まつかぜ4号の食堂車で
今は亡きばあちゃんと食べたカツカレーの味が
今でも忘れられません
夏休みの朝、『博多行き』を中山寺駅までチャリで見に行ったのを思い出したぜ。もう32年も前だな。
82系(キシ80)の食堂車の雰囲気は、電車特急のそれにはない風格があった…
確か昭和53年10月以降、北海道以外でキシ80を連結してたのはまつかぜだけだったな。
>>119 篠山口には停まってもよいと思っていたが
>>126 その前もキシ80が営業してたのは「くろしお」と「にちりん」だけか?
>>128 くろしおはキハ81とキロ80を2両つないで営業してたな。
にちりん80系は昭和48年頃にキシ80はなくなっていた。
昭和50年3月まではかもめ・あさしお・はまかぜにキシ80があったけどな。
79年の時刻表をみているがまつかぜで大阪⇔博多が指定席で9100円だな。この金額で今乗れるなら喜んで乗る
>>130 当時なら山口・秋芳洞ミニ周遊券利用が有用だな。自由周遊区間までの経路に福知山・山陰線が使えた
から下関―博多を別途に買えば全区間乗車ができる。
片道は山陽夜行か、山陰夜行のさんべか鈍行山陰号を利用すればトータルコストで良かった。
俺は83年にそのミニ周遊券を使い、まつかぜ4号を全区間乗り通した。
ただ79年頃から首都圏発着はそのミニ周遊券が消え、代わりに特急おきに乗れるフリーきっぷに替わった。
「まつかぜ1・4号」の食堂車の人気メニューだった「大山おこわ定食」
これは、米子から材料が積み込まれて販売されていたようで、大阪を出発した
ばかりの「まつかぜ1号」の食堂車では、まだ販売されていなかったようだ。
大山おこわ定食w
鉄道ジャーナルの列車追跡か何かで載ってたような。
今夜が、炊き込み御飯だったのは偶然かな。
>>132-133 出雲・やくもにもあった。列車追跡は出雲からでなかったか?
まつかぜのフル編成が餘部鉄橋をわたる写真を
みたことがある。
かっこよかったなあ
1県1停車駅の原則があり、上下で豊岡と城崎に分散停車させてた(上下ともいずれかは通過)って本当?
昭和50年代の時刻表を見ても、豊岡も城崎も上下とも停車になってるんだけど。
昭和40年代には、すでに両駅停車になってましたが、運転開始時にはどちらか一方が通過だった筈。
>>137 レスサンクス。
ということは、おそらく昭和36年の運行開始時の話ですね。
まつかぜ1号を抜かさすために川西池田で20分くらい停車していた鈍行によく乗った。通勤時間帯になんちゅーおおらかな時代だったのか
>>139 その時代は大都市近郊でも非電化で通勤機能をなさない路線がたくさんあったな。
京都口の山陰本線・奈良線・名古屋口の関西本線もそう。
その当時の鈍行のおおらかさからは、4年前の福知山線事故なんて想像もつかなかっただろう。
>>140 昔は通勤通学は私鉄が当たり前だったね。今は宝塚〜大阪はJRが勝ってるんちゃう?
>>141 さすがに宝塚〜梅田は阪急志向でないか?伊丹ならJR志向と思うが、どちらも
東西線直通を生かした利用客がどの程度いるかだな。
JRで伊丹〜大阪は約15分。阪急では塚口乗り換えで約20分。伊丹市バスはJR伊丹まで乗り入れてるからJRの勝ちやね
清荒神や中山寺行く時に阪急宝塚線乗ったけど、急行と言いながら豊中からずっと各駅停車で、川西能勢口からはもうガラガラ。
宝塚は今津線から西宮北口乗り換え客が目立ってた。
限られたパイを分け合ってる印象だ。
福知山線と言えば、まつかぜや旧客の残影があるのだが、今は阪急のあずき色や木目の内装、窓の鎧戸ブラインドの方が、並行するJRよりクラシックな感じがする。
>>136-137 福知山線〜山陰本線特急が「まつかぜ」「やくも」だった頃は・・・
「まつかぜ」は豊岡停車、「やくも」は城崎停車でした。
詳しくは分からんのですが、新幹線岡山開業直前は両列車とも豊岡・城崎ともに停車していました。
宝塚・豊岡・城崎ってホームからはみ出さずに13連止まれた?
福知山は止まれた記憶があるが
かつて、福岡に住んでいた時、博多から小倉まで新幹線、小倉から浜田まで
いそかぜ、というふうに乗っていた。すみません、こんな乗り方が、いそかぜの
引退を早めたんですね。
>>148 いや、あると思います、そんな乗り方。
引退はあなたのせいで早まったりしたことはないですよ、たぶん。
>>150 せめてG車が残ってるうちにやってもらいたいですねぇ。もちろん原色に戻して。
前回のリバイバルは6連でうち4両が先頭車って、なんか情けない編成だったから。
一番記憶に残っているシーン。
掃除のおばちゃんが、溜まった灰皿の中身を捨てて回っていたこと。
二番目、大阪博多乗りとおしで、朝昼食堂車でめし食い、昼下がりに「これで
食堂車の営業を終了しま〜す」というアナウンスにがっくり。
実は夕方、別のチームが営業し、前出の大山おこわ定食にありつくことに、
味の記憶はないが、活気溢れる食堂車であった。
六両だったか七両だったか、米子からの短編成でも食堂車があった。
今では信じられない光景だ。
>>151 廃車予定の「はまかぜ」キハ181系列を使えば、
グリーン車も再現出来ますね!!
西が、国鉄色に戻すかどうか・・??
まつかぜの食堂は、いつ行っても、数名の客が居て、ビールでも飲みながらゆっくりくつろいでいた様な印象が
あります。
当時は、まだビールを飲める年齢ではありませんでしたので、そのうちゆっくりと思っていたら、食堂車が無く
なってしまいました・・・・
こないだ東萩に行ってきたけど、
恐ろしく田舎な駅で驚いた....
駅周辺は寂れちゃってるねえ
このあたりの山陰本線は本数もほとんどないし、
くるのは単行各駅停車ばっかりで
単なるローカル線だった...
山陰でも萩あたりになると、瀬戸内側までの距離もさほどじゃないからねえ……
下関も山口市も山越え道路で比較的短時間……
京都行、米子行、益田行と徐々に短縮されていって、
ついには廃止されちゃった列車系統だったね
しかも晩年は小倉発着…
寂しくも懐かしい
門司を悠々と通過していく様がたまらんかった。
今はないもんな。
島根県の大田に親戚がいたので子供の頃、大阪からよく乗りました。朝8時にでて石見大田に着くのは午後3時前。時間帯の便利さから行きはまつかぜ、帰りはやくもというパターンが多かった。
当時、親が話ではまつかぜの指定が取りにくくて、一度三瓶で行ったこともあります。上下のまつかぜが交換するのが出雲市で、下りのまつかぜと上りの急行出雲がすれ違うのが、確か石見大田だったと記憶しています。
まつかぜが誕生当時は下りが城崎、上りが豊岡停車だったのが、やくもが出来たときに、まつかぜが豊岡で、やくもが城崎に変わったんだと思う。白鳥も同様に上下で動橋と大聖寺を分けていて、雷鳥としらさぎ誕生時に動橋のみ停車になったはず・・・。
あのころの山陰線の特急
あさしお・はまかぜ・まつかぜ・やくも・おき
「やくも」は新幹線連絡エル特急として後には電車にもなってその地位を不動のものにした。
いつ廃止されてもおかしくないようでしたたかに残っているのは「はまかぜ」だな。
京都・大阪・福知山・城崎・鳥取・上井・米子・松江・出雲市・石見大田・浜田・益田・東萩・長門市・下関・小倉・博多
博多「まつかぜ1・4」号はキハ181系の車両数の関係などから、キハ80系のまま
残ったが、60.3改正で米子発着に改められたときにキハ181化された。
どうやって「まつかぜ1・4号」用のキハ181系を確保したのだろう。
米子運転所担当の特急「おき」の編成を減車したりグリーン車を廃止、そこで捻出された米子運転所の
キハ181系の一部を向日町運転所に転属させて「まつかぜ1・4号」の1〜4号車を「おき5・2号」と
共通運用させることで「まつかぜ」2往復のキハ181系化が完了したのだろうか。
>>164 60-3改正まで、「おき」は小郡配置の181系で運用されていたのを、この改正で米子または
向日町に転属させ、一部列車の短縮やそれに伴う運用数の整理、編成短縮を行い、80系の
置き換えを実施した筈。
小郡では、確かキハ180に余剰廃車も出たと思います。
「まつかぜ」の食堂車の営業は、日本食堂米子営業所か大阪営業所が
担当してたようだったけど、都ホテル列車食堂も「まつかぜ」の食堂車営業を
行ってなかったかな。
>165
昔は石見江津は通過でした。
やくもは、最初から停車していたと記憶しています。
福知山線の踏み切りで、だいせんやまつかぜに昔よくしょんべんかけられたな。
>>161 私のとこも大田・川本に親戚がおりますので、子供の頃何回か行きました。でもうちは貧乏だったので「さんべ」か「だいせん」でした。(笑&涙)
一度京都の金持ちの親戚と一緒に行くことになり、見栄をはって「まつかぜ」に乗りました。でも汽車賃浮かすため、当時小学校一年だった私を幼稚園児にしたてただ乗りしました(笑&涙)そのとき食堂車利用しましたのを昨日のように覚えております。
また金沢にも親戚おりましたので、何度か行きましたが、貧乏でしたので「白鳥」ではなく「ゆのくに」でした。(号泣)
現在発売中の習慣朝日(4・16号)で自民党の石破茂氏が「はまかぜ」「まつかぜ」を熱く語っている。軍事オタクで有名だが列車オタクとしても知られ、なかなか造詣が深いらしい。
鳥取出身で、子供の頃乗った80系「まつかぜ」や、消え行く181系に思いを馳せ、古きよき時代をなつかしんでいる。
民主党の前原氏と自民党の石破氏、プライベートでは何か鉄道趣味の話でもする事は
あるのだろうか?
ともに、山陰本線に関係ある場所の選挙区ですね。
前原は撮り鉄、石破は乗り鉄って感じがする
個人的には石破の鉄話の方が好き
>170
子供の頃、一人でまつかぜに乗ったとき、隣の席にたまたま座った人に、食堂車でビーフシチューのセットをご馳走になりました。
>>172 以前鳥取のFM局?がやった番組で石破氏と前原氏の対談が実現、
話の内容がひたすら鉄話に終始したそうだw
まつかぜや出雲などの話をし始めると、食事も忘れて延々と続きそうなお2人ですね。
島根のおじさんは、まつかぜを大阪便、出雲(急行)を東京便と呼んでいました。
福知山の会社に勤めていた親類の話じゃ、来客用の切符手配は、
東京方面→出雲、大阪方面→まつかぜ、京都方面→白兎が定番だったそうな。
時間帯的に?な面も有るけど、列車の格みたいなものも考えんといけなかったんだろうか?
>>179 昭和50年代頃までは該当列車が一番使い勝手の良いダイヤだったはず。
京都〜鳥取だと「あさしお」もあったけど、下り午前と上り午後は使いにくかった希ガス
まつかぜは使いやすいダイヤでしたね。鳥取到着も丁度良い時間帯で、出迎えに来た人と一緒に
昼食を取ってから、目的地に移動するのがいつものパターンでした。
一方、夜の大阪→鳥取間の移動は、もっぱらはまかぜ2号(のち3号)を利用してました。大阪駅を
18:00丁度に発車するので、仕事を終えてそのまま乗車する事もありました。
ガキの頃の遠い記憶。
萩−東萩間が豪雨の影響だったか何かで不通となった。
下関方面から上ってきた「まつかぜ」は萩駅で足止め。
その日婆ちゃんに連れられたオイラは、所要で萩駅から長門市駅まで向かうところだった。
乗車予定の下り鈍行は同じく東萩で足止め。
暫く萩駅で待っていると、足止めされた「まつかぜ」は折り返し鈍行に成り下がって運行することになった。
オイラはまんまと特急車両で優雅な各駅の旅となった。
ちなみに「まつかぜ」乗客は、チャーターバスで東萩に移動し、
本来オイラが乗車予定の鈍行が益田方面へ折り返すとのことで、それに乗ったらしい。
そんな想い出が蘇った。
>>98 遠投
オレが覚えてるのは「つるぎ」との並び。
確か「つるぎ」が7:20頃大阪着やったはずやから、えらい早うから大阪駅に来てるもんやねんなぁ、と驚いた覚えが。
俺も「まつかぜ」京都(大阪)−博多 乗ってみたかったなあ。海を見なが
ら食堂車で食事したかった。今考えると贅沢だよね。
数年前に、その半分くらいかもしれんが、倉吉ー新山口 の「Sおき」で
多少の鬱憤晴らしをした。海側の席取ってね(山陰は海側が日も当たらなく
て良いよね)
>>186 その全区間乗りました。上り4号だったので山陰海岸がきれいな区間で食堂車で食事をしたけどガラガラ。
道中長かったので松江あたりからかったるくなり、倉吉あたりから外は真っ暗に。
鳥取から巡回してた車販のおねえさんがかわいかったw
>>186 俺も4号の13連の後から2両目グリーン車に全区間乗った
鳥取出てからの〜←こんな感じのカーブでは7号車辺りが見えて1号車が見えなかった
さすが13連(俺の乗った車両から見ると12連)と感動した
>>187 >>188 186です。レスありがとう。
188氏のようにグリーンで乗りとおすのは憧れだったけれど、当時は
そういう身分でもなかったしね。
13連か。素晴らしい。俺の乗った「Sおき」は増結してても4連だったもの。
景色のよいところを走る長距離特急はいいよね。白鳥も魅力だったけ
れど、山陰のクイーンには及ばなかった。
>>190 昔は乗客もたくさんいましたしね。
スレ違いなんですが、貨物・普通・急行を押しのけて走ってました
米子発のあさしおは当時9か10両でしたが、鳥取をでるとカーブが
ありまして、その長さを感じましたね。
>>190-191 昔のまつかぜ1・4号は鳥取折り返しの8〜13号車も含めて全車指定席だったけど
下りの1号は大阪発はいつも満席
たまに「まつかぜ1号」の指定が取れなくて立席特急券で鳥取に出張に行っていた
親父の受け売りだが
一度だけ親父が鳥取出張に俺を連れて行ってくれたのが良い思い出
確か11号車だったと思うが、食堂車の3号車まで行くのが子供心に長かった覚えが
あるよ
昭和47年の8月に鳥取から京都まで特急あさしおに乗った。
がらがらだったな。
>>191 特急で基本2連、昔では考えられなかったですね。
>>192 確かに1号は良い時間です。それにしてもいつも混んでいるとは。
そのニーズが他の手段に移ったのでしょう。
良い思い出ですね。確かに11号車から3号車は長いわ。
長い先にはお楽しみ(食堂車)があったのですね。
鳥取が田舎のうちの親父の場合、昭和50年ごろまではもっぱら「まつかぜ」などの特急利用で、
それ以降は、圧倒的に山陰特急バスの利用でした。何せ、安くて早かったですから・・・
ただ、昭和51年夏だったか、まつかぜ1号の指定席が取れず、急行「みささ」で鳥取まで行った事
がありました。「みささ」も混んでいましたが、今では夢の様な話です・・・
>>195 まあその頃までは国鉄運賃も安かったからね。その後無謀な運賃・料金50%値上げから
毎年のように値上げした上に、高速道路の延伸で競争力が落ちて利用者減少していった。
だから博多直通のまつかぜも昭和55年あたりからはそれほど混雑しなくなったのでは?
件の昭和51年頃は東京〜浜田の元祖出雲も、寝台券が連日満席でなかなか入手できなかったと聞く。
80年代初頭の子ども向け特急列車図鑑みたいな本だと、
博多まつかぜを通しで乗る人は滅多にいない という様な記述をよく見た。
富士の西鹿児島行きとかも同様に。
>>197 関西〜博多を往来する人は通常新幹線か山陽本線利用だから、それは当たり前。
博多まつかぜも2つの列車をくっつけたようなものだったから、60年3月にいそかぜと
米子で分割されたのが事実上の列車性格を物語っていた。
当然全区間乗り通すのは酔狂なマニアだけになる。
博多まつかぜや、西鹿児島直通の富士以外にも昭和50年代までの国鉄はそのような列車は多数存在した。
気動車時代のくろしおも名古屋〜天王寺を直通してた事や、気動車にちりんの日豊線経由
博多〜西鹿児島など。
>>196 てか出雲は羽田⇔出雲便が拡充されるまで連日満席が普通だった
但馬に乗れなければはまかぜ、だめならあさしお、伯耆、まつかぜ、
いなば、白兎、伯耆、だいせん、はまかぜ、あさしお、それでも無理なら
まつかぜ、826レ、だいせん。
鳥取から大阪へ行く手段が豊富だった。
>>202 急行『伯耆』は、運転開始当初はのちの「みささ」のルートを走ってたのです。
伯耆 とか 白兎 はガキの頃、読み方が分からんかった
伯耆は間合い運用で境線に入り、G車を利用しました。
大阪8時発の下りまつかぜ1号は鳥取駅1番線に到着、
後部6両を開放後出発していき、残った6両はそのまま
上りまつかぜ1号として大阪へ折り返していた。
下上2号も同じだった気がする。
下りまつかぜ1号は、地平時代の鳥取駅でも1番線到着でしたね。
下り「まつかぜ2号」は鳥取駅到着後、一旦西側の留置線に引き上げて
博多発の上り「まつかぜ2号」が鳥取駅に到着する少し前に、増結編成
として1番線に入線して待機した覚えが有る。
鳥取に来ると木製の古びた跨線橋を渡って2・3番ホーム西端に行き
鳥取機関区にたむろする車両を眺めていた。
宝塚駅のホームの長さに在りし日のまつかぜ号に思いを馳せる。
特急列車に風格があった時代。
北近畿(笑)
>>210 特急「まつかぜ1・2号」が13両編成
夜行客車急行「だいせん3・4号」は荷物車・郵便車込みで13両&DD54
同じ「だいせん」で日中走るDC急行はキハ58系12両編成
普通列車でも10両編成が有った時代
>>210-211 その代わりその当時は大阪近郊輸送なんて話にならなかった時代。
82系時代の「まつかぜ」の食堂車、つまりキシ80の車内は独特な雰囲気だったね。
博多営業所の人が大阪まで乗務していたせいもあって、
山陰からの帰りだというのに、博多へ行っていたような錯覚を覚えてしまったほど。
>>213 米子営業所が受け持っていて、米子で食堂車従業員全部交代してただろう。
「まつかぜ」は、少なくとも最初の京都−松江間の特急時代は
同じ向日町のキハ82系を使う「白鳥」と共用運用で、大阪営業所
が食堂車を仕切っていた筈なんだが
「まつかぜ」食堂車の管轄の履歴は以下の様な感じか?
S36.10〜S47.3:大阪営業所
車両と食堂車営業は「白鳥」と共用運用
S47.3〜S57.7:米子営業所
「白鳥」が電車化(盛アオ所属)&「やくも」新設により、食堂車の営業を
「やくも」と共用の米子営業所へ移設
S57.7〜S60.3:博多営業所
「やくも」電車化により食堂車営業中止、山陰本線の食堂車営業の昼行特急が
「まつかぜ」のみとなったため博多営業所に移転
>>215-216 大山おこわ定食は米子営業所特有のメニューだったろう。
昭和58年に乗った博多まつかぜも大山おこわ定食が存在してたから、216の時系列には合わない。
それと伯備線やくも新設と、白鳥電車化は半年ずれている。
>>217 食材を途中停車の米子で仕入れる事で、営業所が変わっても提供は出来る
特急『まつかぜ』号には一度だけ(?)乗りました。
三江線を乗りに行った際、江津から米子までの区間乗車でしたが・・・。
まだ80系DCの頃で、乗車して席に荷物を置いてすぐに食堂車に行ってみましたが、
食堂車のクルーが、米子?で交代するために飲み物しかオーダーできませんでした。
何処の営業所が食堂車の担当とかは知りませんが、出雲市駅だったか松江駅に近づくと
なんと食堂車のテーブルに掛けてあるテーブルクロスもクルーと一緒に列車から降りるようで、
この作業のために食堂車から追い出された記憶があります。
スレ違いですが、米子からは181DCの特急『やくも』号で岡山へ向かい、こちらの列車でも
食堂車を利用しました。 今ではとても考えられないのですが、特急DCを二本乗り継いで
違う形式の食堂車を利用することができました。
やくもで大山おこわ定食のそばに
醤油と間違えてソースをかけた記憶がある。
ウェイトレスが笑っていたような・・・
今考えるとつゆってついてなかったのかな?
>>219 内田百間の随筆にも、関門トンネルを挟んで食堂車の従業員が交代する際を題材にした
ものがありましたね。
交代直前で一品料理が出来ず、ビールを飲みたいのに定食を食べる事になり、テーブル
クロスの交換についても触れられいました。
映画「砂の器」に「まつかぜ」が映ってる。
しかし、車内はなぜかクロスシートだった。
木次線のシーンもある。
>>206 博多直通のまつかぜの末期は
1号大阪発が10両編成くらいで、後ろ3両を米子で切り離しだったよね。
その3両は4号に?いで大阪に戻ってきていたはず。
まつかぜ全区間G乗車で朝昼晩と日本海を見ながら食事、憧れでした。
結局できずじまいで廃止…
なんとか廃車まぎわの南紀でGに乗り、あの独特の上下調整式のヘッドレストに
感動していじってみて鬱憤をわずかながらも晴らしましたが。
やっぱりやってみたかったなぁ…
青森白鳥でもできずじまいでしたし…涙
書き忘れましたが、あの当時のDMH系のエンジン音、癒される音で、
ジョイント音と共に、いつまでも乗っていたい気持ちにしてもらえましたよね…」
>>223 末期の博多まつかぜは、基本6両・付属3両の9両編成が所定で、
多客時に付属編成に1両増車して10連での運転でした。
>>220 大山おこわ定食のそばは「割子そば」なんで
器のそばに、一緒に出された汁を「かけて」食べるのですわ。
キシ80は、まつかぜ4号、おおとり(下り、上り)、オホーツク2号で
乗っただけ。
>>229 昭和50年代のキシ80は、くろしお電車化後の本州ではまつかぜの孤軍奮闘だったからな。
他のキシ80は全て道内だった。
そんなキシ80が、昼行特急の食堂車で最後まで残るとは当時想像も付かなかった。
あ〜あ。
とうとうキサシ180だけは利用せずじまいだったんだよぉ…
97年のJR10周年記念きっぷで小倉→米子と廃止1ヶ月前に益田→小倉を乗った。
海側景色の素晴らしさのお陰で時間が凄く短く感じた。残念ながら乗車率は…。
どちらも廃止やむなしだった。
一両に一人だけってのも珍しくなかったよね。
小学生の頃、家族で一度利用したが、
あまりに客が少ないのを見て騒いでいたら
偶然通りかかった乗務員に睨まれたのを覚えてるわw。
山陰線特急が、智頭急開業以降「南北に結ぶ特急」になってしまったからね。
東西を結ぶ特急は、通勤時間とか帰省時期以外は少ないのも当然でしょうな。
スーパーまつかぜを見ると、近鉄の「京阪特急」を連想してしまう。
>>236 その昔、近鉄難波〜近鉄京都を結んだ特急があったんですよ。
あ、それのことか。そういえばありましたね。
それなら納得。あんなのに特急料金払ってまで誰が乗るのか?とか思って見ていたことを思い出しました。
頭が固いもんで丹波橋で相互乗り入れしてた京阪宇治〜近鉄京都・近鉄奈良〜京阪三条の事かと思いこんじゃいました。
あれはたしか準急クラスでしたよね。
まつかぜに限ったことじゃないけど
発車前に爆音を立ててホームに止まっていた頃が懐かしい
暑い時期だけだったかもしれない
>>233 山陰本線西部はまつかぜの頃からガラガラだった。長門・萩などは小郡へバスに乗って
新幹線利用が主流になってるから、山口県下の山陰本線は事実上ローカル線に過ぎない。
昔はですよ、20系銀河が大阪駅に朝8時に滑り込むとまつかぜが同時に発車し、山陰線廻りで夜19時30分に博多に着いていたなんて、マジで信じられん
宝塚を出ると美しい渓谷の景色がひろがる。それを見ながら食堂車でメシを
>>241 ただ当時としては下り銀河からまつかぜ1号に接続してほしかったな。
銀河到着と同時に発車とは何とも意地悪いと思った。
上りの新大阪行きなら銀河に間に合い、新幹線乗継ぎなら名古屋まではOKだったのに。
まつかぜで山陰の海沿いを走りながら、食堂車で飯を食べるのが乗客のトレンディ
>>244 最後の頃は、銀河の到着がちょっとだけ早くなって、到着と同時にまつかぜ1号が発車
という事は無くなった様な・・・
>>246 '88年11月に24系25型化されたと同時に大阪駅07:43になった
>>247 国鉄最後の86年の間違いだな!?その改正なら同時にまつかぜが消えた時だ。
85年3月改正で「いそかぜ」の編成内容知った時にはショックだったな。
えっ、こんなになっちゃうの?って。そりゃまあ、需要の実態はもちろん分かってたけどさ。
>>249 当時は博多まつかぜから食堂車とグリーン車を外せば同じような。
あの改正は急行壊滅、特急も電車特急食堂車全廃&貧弱編成続出だから、他と比較して
いそかぜの編成内容に驚く事でもなかった。
いそかぜが益田〜小倉になる時、エーデルの展望車2連に車両変更しても良かったと思う・・・
>>242 武田尾あたりの眺めが最高に良かったですね。
今はトンネルだらけになってしまいましたが
まつかぜとやくも(新大阪⇔浜田)には、10回以上のりました。
まつかぜは1等が1輌なのに、やくもには2輌つないでいたことが、子供心に
気に入らなかった・・・。
>>255 あれ?12両時代は基本編成食堂車&グリーン付き六両+附属鳥取回転編成グリーンのみ六両
って思ってたんですが、自分の勘違い?
まつかぜ末期には鳥取回転三両でグリーン一両だったのは間違いないと思うんですが…
新大阪やくものあった時代はまだ基本編成のみだったんですか?
>256
新幹線がまだ新大阪止まりだった時代の話ですわ。
新幹線が岡山まで開通して、やくもが伯備線に移ったときに、旧やくもが鳥取止まりの
まつかぜ2号になって、本家のまつかぜの付属編成にもグリーンが入って2輌になった
んだと思う。
4703改正以降の本家まつかぜの付属編成は、鳥取まつかぜやはまかぜとも共通運用
でしたからね。
47-3改正〜47-10改正までの向日町運転所の80系は、北は青森から南は西鹿児島まで
の広域を担当していたので、保守は大変だったと思います。
ありがとうございます。
気になったんで調べてみたら、基本食堂車付き7両(でした。すみません)は変わらず、
新幹線岡山開業までの間に附属編成(この頃は鳥取じゃなくて米子回転だったんですね)が
グリーンなしの六両→グリーン付き六両に代わったみたいですね。
で、末期に鳥取回転キハ82キハ80キハ80の三両に変わったと。
80系末期は附属編成の共通運用があさしお、はまかぜ、やくもから名称変更した鳥取まつかぜ
になったんですね。
しかし、向日町の80系は北海道のそれと負けず劣らず(それ以上?)に八面六臂の活躍をしていたんですね。
その頃を堪能したかったなぁ…
>当時のまつかぜと急行出雲は山陰線の花形でしたね。
>>259 付属編成が3両になったのは、伯備線電化開業と同時に行われたS57-7改正で、
この時博多まつかぜを除く、全ての向日町担当の80系が181系に置き換えられて
います。
また付属編成は、この時鳥取回転から米子回転に変更されています。米子で解放
された付属編成の3両は、直ちに車内整備が行われた後、上りまつかぜに連結され
大阪に戻る運用になっていました。
私が最後に80系まつかぜに乗ったのは、年末で1両増結された付属編成の増結車
でしたが、もう27年も前の事になりました・・・
3両編成の特急なんて昔では考えられんなぁ。昔は10両でも短いと感じていたのに・・・。
今は「特急残してやってるだけありがたく思え」状態だもんな
※ ただし自治体からのお布施がある場合を除く
ちょうど20年前に東萩から下関までいそかぜに乗ったなあ。
山道だとバスに酔いやすい体質なので列車にして、
行きは急行ながとだったけど、キハ58が騒音・振動が酷かったので、
帰りのキハ181は時間は掛かるが快適でした。
いそかぜ っていつまで車内販売あったかねぇ。
少なくとも博多まで行ってた頃はあったような覚えがある。
小倉発の時に一度乗ったが車内販売の記憶はないなぁ。
まつかぜは、宝塚とかで後ろの車両がホームからはみだしていたなぁ。
>>268 豊岡と城崎も2両か3両はみ出していた
福知山ははみ出さずに止まれた
>>269 地平時代の鳥取駅では、ホーム延長の一番長い、駅舎寄りの1番線に停車していました。
>>272 多分、日本交通のバスが中国縦貫道以前の地道の時には乗っていたと思う。
時代にもよるけど
大阪から鳥取への出張に
昭和40年代後半〜50年代前半の下り「まつかぜ1号」を使っていた親父の話だと
平日でも指定席満席で立ち席特急券で乗車してデッキで待機、城崎あたりでやっと空き席が
出来はじめて座れた事が多々あったとか
俺が親父に連れられて「まつかぜ1号」に乗った時も、立ち席特急券で乗っていた人が居たし
中国縦貫道開通前まで、うちの家族が鳥取に帰省する時に「まつかぜ」を利用していましたが、
指定席が取れない事が多く、「はまかぜ」を利用するか、夜行の「だいせん」、稀に姫新線経由の
急行(まつかぜと所要時間で大きな差がなかった)を利用していました。
鳥取までは殆ど満席でしたし、鳥取駅では折り返しの上り「まつかぜ1号」を待つ乗客も多く、
駅は人で溢れていた記憶があります。
>>273-275 レスthxです。
帰省ラッシュ時ならまだわかりますが、
平日でも立席特急券って・・・すごい乗車率ですね。
平日ってことはビジネス需要でしょうか。
国鉄時代って長大編成で空気輸送というイメージがあったのですが、
まつかぜに関しては13両なりの需要があったんですね。
山陰本線が水害で不通になったとき、急行さんべは「まつかぜ1・4」号の
間合い使用の80系気動車で小倉〜東萩間で運転された。
80系が「さんべ」運用に入ってるときは、食堂車を営業していたかどうかはわからないが
>>270 なぜ赤文字だったんでしょうね?
>>277 それって、美祢線経由の車両はどうしてたんでしょうか?
>276
大阪から大田に行くときに、まつかぜの指定が取れなくて三瓶で行ったことがある。
米子以東に限るとは言え、博多「まつかぜ」の13両編成は圧巻だっただろう…。
今の山陰特急なんて2〜3両が基本だから、正に隔世の感と言う他はない。
当時、13両以上繋いでいたDC特急はほかには、かもめ、なは・日向、白鳥、おおぞらぐらい?
「まつかぜ」は運転開始当初から福知山線経由だったけど、向日町運転所〜大阪間は北方貨物線経由で
車両を回送し、大阪発京都経由で京都から山陰本線に入ってもよかったのではないか
>>283 兇徒で折り返す手間が面倒だし、そんな事をしてるくらいなら、
最初から京都始発で運転してるでしょう。
年末、GWのごったがえした8時過ぎの宝塚駅が懐かしゅうございます
>>283,
>>284 京都・大阪発着を福知山で増解結,は考えられたのかも知れないけど,
まあ,京都絡みの客は福知山以東は「あさしお」利用で,って意向だったのかな?
>>283 運転開始時は京都−(大阪)−松江だよ
京都発のメリットがあまり無いからそのうち大阪発になった
まつかぜ1号の博多着は20時55分だったが、山陰本線の線形の悪さや、
車両の性能面、単線区間の多さ、車両のドアの不具合による遅延などで、
博多には遅れて到着することも多かった
単線での待ち合わせとドアの不具合以外は理由にならんわ
>>291 その時間食うことが、速度が何より大事な筈の新幹線でも見られるような時代になったから、ついそんなこと思った。
58系急行の頃だけど、連結器・ジャンパ線・貫通幌で10分近くかかった。
今はそのあたりが自動化されたり、貫通幌の接続がなくなったりで
3分ぐらいですむ。
久しぶりに餘部鉄橋を見た。昔の橋桁は餘部駅側にわずかに残るのみ。
あの鉄橋を渡る上りまつかぜを撮影したのは30年も前のことだ。
鉄橋も俺もお互いに年をとった。
キハ80系の「白鳥」や「まつかぜ」などが大阪から青森・博多・西鹿児島間などを、
無給油で走り通せたのは、キハ80系の燃料タンク容量が大型トラックや大型バスよりも
大きく、そのため片道でも無給油で1000キロくらい走れたからだろうか
>288
まつかぜが13両の時代には、少なくともみどりはDCではなかったはず。
>>298 みどりが電車化される昭和42年だと、まつかぜは9連か10連じゃなかったかと。
>>287 京都―大阪がカットされたのは、その改正で京都発着のあさしおが設定されたからだろう。
まつかぜが京都発着だった時代は、京都―福知山で特急が皆無だった。
キハ80系のシートの背ずりは、直角に近い角度で設定されているため、
最初に腰かけた時は掛け心地が良いように思っても、長時間腰かけているうちに
だんだん疲れてくる。
「まつかぜ」の大阪〜博多間を乗りとおすには、かなりの忍耐も必要だった
しかし考えてみると、「おおぞら」とか「おおとり」もそれ位の距離走ってた。
まあ、こんなこと言い出したら、電車化前の「はつかり」から「白鳥」から、際限なく
出てきちゃうけど…。
>>303 なればこそ、気晴らしがてらに立ち寄る食堂車が必要だった道理。
>>302 その点、キハ181系は人間工学を駆使して設計したシートになっていたのは偉い。
>>302 >>「まつかぜ」の大阪〜博多間を乗りとおすには、
>>かなりの忍耐も必要だった
良い子は真似しないから大丈夫
「白鳥」は実用で使う人もいたらしいが「まつかぜ」は趣味以外まずねえなw
作家の宮脇俊三氏(故人)も「まつかぜ」の大阪〜博多間全区間を乗り通しているかもしれない
「まつかぜ」の博多→新大阪を2回も乗り通した自分は、相当物好きで“悪い子”なんだな!
でも、まあなんだ、その当時なんて、この程度の距離や所要時間の列車なんか、
そんなに珍しいものでもなかったんだけどな!
今の時代、座席のみの列車で10時間以上走る列車なんかもうないんじゃないか?
山陰本線の特急列車が「まつかぜ」一往復のみだった頃、鳥取・島根など
山陰県下の子供はみな、線路脇などで「まつかぜ」が通過するのを見るたびに、
「まつかぜ」は全車指定席の食堂車までついた豪華列車で「まつかぜ」に乗れる人は金持ちだけ」と
思ったに違いない。
当時の山陰県下の子供から見た「まつかぜ」は現在の「トワイライトエクスプレス」や「カシオペア」以上の
豪華列車に見えたのだろう。
>>309 それなりのステータスはあっただろうね。
鳥取以西で編成が短くなってたから、豪華列車はオーバーだろう。
それなら大阪〜青森単独時代の気動車白鳥の方が、全区間グリーン車2両だったので華があった。
目立たなかったかも知れないが、「くろしお」にもグリーン車2両に食堂車まで連結していたんだな。
でも、「まつかぜ」ほど“風格”を感じなかったのは、白浜までの短区間の列車があったりしたからだろうね。
“風格”と感じるのは、編成も堂々としていて、孤高の存在を感じる列車だからかな。
>>311 当時の南紀は名古屋・関西方面からの新婚旅行先だったので
1等車比率が多いのはある意味当然。
昭和40年代の後半にも成ると、ハワイ等の海外への新婚旅行が
容易になってきたのでの、電化の際に普通の特急になってしまったが
>>308 >>「まつかぜ」の博多→新大阪を2回も乗り通した自分は、
>>相当物好きで“悪い子”なんだな!
いや、ちょいわるぼうや
>>311 名古屋―天王寺のくろしおは、それこそ風格があっただろう。
唯一のキハ81運用で、列車番号も1D・2Dのトップナンバーだったし。
>287
昔は、京都や神戸に配慮して、西行きは京都発、東行きは神戸発の列車が多かった。
まつかぜの全区間乗車の話はよく聞くが、くろしお(天王寺〜名古屋)の話は
あまり耳にしたことがないなぁ。
>>317 どちらも全区間乗車はアブノーマルだったけど、くろしおも決して無かったわけでない。
ただ普通に大阪〜名古屋は新幹線以外に、急行比叡・関西線経由のかすがや、近鉄特急など
と比べて著しく時間がかかり、値段が張ったのもあっただろう。
まつかぜはくろしおと比較したら大阪〜博多の列車選択肢が乏しく、価格差が新幹線より著しく高い
わけでなかったのもあるだろう。
やっぱり「物には限度がある」ってことなのかな。
「くろしお」で天王寺―名古屋間乗り通すんじゃ、多分東海道線の各停の乗継
よりずっと時間かかった筈だから…。
「まつかぜ」の大阪―博多間となると、特に新幹線の博多開業前なら、
そこまで荒唐無稽なことじゃなかったと思える。
1964年3月改正時
まつかぜ 京都730−大阪801/805ー博多2055
筑紫 京都734ー大阪808/815ー博多1950
かもめ 京都800ー大阪831/835ー博多1730
さつま 京都1031ー大阪1105/1110ー博多2248
みどり 大阪1340−博多2235
まつかぜで大阪ー博多乗り通すのは、それ自体を
目的にした人のみだろう。
少なくとも一般客は選択しない。
列車選択が少ないとか、荒唐無稽じゃないとか言ってるやつは
寝てから言え。
>>320 口のきき方ってもの弁えろ。
大体誰が「まつかぜ」の全区間乗車を自然のことだなんて言ってる。
他人の発言の意図も読み取れん分際で減らず口叩くな。
「まつかぜ」に二度も全区間乗車した“ちょい悪坊や”ですが、
「くろしお」の名古屋→天王寺にも全区間乗ってますよ!
他にも通常使わないような区間でも、東京→西鹿児島の「高千穂」や「富士」にも全区間乗ってますし、
山陰で言うなら、824列車とか鳥取→熊本の「さんべ」、名古屋→大社の「大社」、
それに小郡・福山→三井野原の「三井野原スキー」、京都→敦賀の「小浜ビーチ」などなど…
早い話、この当時のマルスで印字できた列車の臨時を含めた国鉄全線の、ネームドトレインの99%は全区間乗ってます。
長距離鈍行もロンゲスト10には全区間乗りました。
はっきり言って、“物好き”ですよ!
>>321 寝言を言ってたじじい起きたのか?
>>大体誰が「まつかぜ」の全区間乗車を自然のことだなんて言ってる。
そんなこと誰も言ってないだろ。
お前が勝手に俺がそう主張してると思ってるだけ。
痴呆妄想老人乙、れすと いん ぴーす
くろしおの全区間乗車は鉄道雑誌でもあまり記憶がないです。
まつかぜは、山陽本線普通列車乗り継ぎと、所要時間がほぼ同じだったような。
>>327 博多〜大阪は普通列車乗継ぎでも、まつかぜと同じく13時間近くはかからなかっただろう。
でも当時の山陽本線は今より普通列車の本数が多くなく、小郡や三原などの待ち時間が長かった
ので、今より時間がかかっていただろうな。
そうすると景色が退屈しない山陰本線の方が、景色や車両のバリエーションがない山陽本線より
良かった意味はある。
昭和43年10月時刻表
特急まつかぜ
大阪0801→2051博多
急行「つくし1号」
大阪0915→1857博多
山陽本線
大阪0757→1017播州赤穂1022→1151岡山1153→1321三原
三原1405→1604広島1645→1950小郡2025→2334博多
昭和50年2月時刻表
特急まつかぜ
大阪0800→2050博多
急行「つくし1号」
大阪0844→1823博多
山陽本線
大阪0725→0901姫路0917→1053岡山1056→1237三原
三原1257→1953下関2022→2146博多
コレより新しいのは知らん。各々調べてくれ。
>>329 新幹線博多開業前では山陽本線の特急・急行が頻繁に走っていたから、普通列車は
優等列車の退避が多く、時間はかかっていただろう。
それに様々な特急・急行列車を眺められていたから、その頃の山陽路は退屈しなかった。
山陽本線普通列車乗り継ぎと比較するなら、新幹線博多開業後でないと・・
>>323 白鳥 上野ー大阪間の御乗車経験はございますか?
>>331 それを経験してるなら、70歳前後の年齢のようなw
さすがにそこまでは経験ありませんな…。
初めて「山陰均一周遊券」を使って山陰に出かけた時には、
東京→新幹線→新大阪→「しおじ71号」(583系)→広島→国鉄バス広浜線夜行バス→浜田…
というマニアックなルートで入り、当時ピカピカの181系DCを使った伯備線経由の夜行「おき52号」で松江→大阪と帰りました。
まだ山陰本線の米子以西にはSLが多数健在で、SLブームの火付け役となった伯備線布原信号場にも撮影に行きました。
山陰の特急といえば、「まつかぜ」しかなかった時代です。
まあ、そういう時代を見てきた年代ですが、旅費は新聞配達して稼いだ金で行きましたよ。
>333
181系が運用を開始していた時代なら、
82系だけど『やくも』(新大阪〜浜田)は既にあったのでは?
新大阪−浜田の特急「やくも」はS40.10よりキハ82系で登場
S47.3の山陽新幹線岡山開業時ダイヤ改正時に「まつかぜ」に統合
(「まつかぜ1・2号」の付属編成を使用した大阪−鳥取の「まつかぜ2・1号」に)
新大阪−出雲市(伯備線経由)の特急「おき」はS46.4下旬よりキハ181系で登場
S47.3の山陽新幹線岡山開業時ダイヤ改正時に「やくも」(岡山−出雲市)に改名
>>334氏の言う通りですね
かもめ、いそかぜ、みどり、なは、日向・・・、ややこしかった。
>>115 別の意味でオモロいわ(笑)
by 野村克也(京丹後市出身)
おおぞら、おおとり、北斗、北海、エルム、オホーツク、白鳥、ひばり、
やまばと、つばさ、はくたか、ひだ、南紀、くろしお、かすが、まつかぜ、
やくも、はまかぜ、あさしお、ゆあみ、銀嶺、かもめ、なは、日向、いそかぜ、
みどり、有明、にちりん、おおよど・・・。
181だったら乗ってたかも。
希少価値あったもんなあ・・
かつて、奈古〜長門大井間が長期にわたって不通になった事があったが、
復旧・開通した時にはNHKのニュースで「まつかぜ」の走る姿を映していた記憶がある。
不通だった時は、どういう運転をしていたのだろうか?
打ち切っていたのか...それとも山口線か美祢線経由の迂回運転だったのか..???.
「やくも」の電車化後、山陰地区の特急で食堂車を営業していたのは、
寝台特急「出雲1・4号」と博多「まつかぜ1・4号」のみとなったが、
両列車の食堂車の営業ぶりは「出雲1・4号」の方が充実していたようで、
また、「まつかぜ」の食堂車のメニューもメニューに書いてある料理がすべて
揃っていたわけではなく、欠品も多かったという。
>>344 博多まつかぜは途中駅までの折り返し運転で、博多側に残されていた編成は、急行さんべ
に使用されていたのではなかったかと。
つばさの485系電車化で余剰になったキハ181系を米子、高松などに
転属させようとした際、米子機関区でもどこの車両基地でも受け入れを拒否されたようだが、
やくもの電車化で余剰になったキハ181系のあさしお、はまかぜ、まつかぜ3・2号への
転用はスムーズに行われた。
一つはキハ80系の老朽化による車両の取り換え目的もあったようだが、
もう一つは国鉄の労使関係による対立が緩和、改善されたされたこともあるようだ
10月6日(土)
なつかしのやくも号運転
381系国鉄色
大阪6:41発→松江12:18着
山陰デスティネーションキャンペーン日本旅行特別企画
>>348 ずいぶん出発が早いな。
乗る人も大変だね。
>>348 出発時間が早すぎますね
岡山県に入るまで外は暗いから車窓は楽しめないでしょう
山陽新幹線が出来る前の特急(485系)は大阪〜岡山を
最速2時間で走っていたそうだから
松江着を12時台とするなら、大阪発は7:50〜8:00でも間に合います
なつかしのやくも号に使用される381系は、当然、福知山電車区の381系?
>>351 >岡山県に入るまで外は暗いから車窓は楽しめないでしょう
10月でさすがにそれはない。
年末年始ならそうかも。
朝一に大阪を発車していた博多行きのまつかぜ号
グリーン車2両と食堂車を備えた13両編成の長大編成
しかし、当時の非電化単線で列車本数も極端に少なかった福知山線や山陰本線に比べると、なんか不釣合いな印象だな
>>354 昔は少本数・大編成が当たり前だったからな
>>354 1977年昭和52年に乗ったが結構込んでいたよ
当時は中国自動車道もなく鉄道優位の時代だったけど
中国道が昭和50年に途中区間まで開通してから、結構乗客が減りました。
鳥取までは、山陰特急バスの方が早くて安くなりましたからね。
福知山線や山陰本線にあれだけ長大編成の特急が走っていたのは、
当時はまだ高速道路が整備されていなくて、交通手段は鉄道が圧倒的に優位だったからなんだね。
>354、355
その当時は、鳥取で後部6両か7両を切り離して、その切り離された編成が、
上りまつかぜ、または上りはまかぜとなって大阪に戻る車両運用だったため、
長大編成になってたんじゃないか
福知山は13両止まれたが、
宝塚・豊岡・城崎はホームの長さが足りず
「○号車○号車はホームを外れて止まります」
の車内放送が懐かしい
>>360 下り1号で鳥取に来た8〜13号車は、上り1号で大阪に戻り、宮原で整備の上、下り
はまかぜ2号で鳥取へ行き、駐泊。
翌朝、上りはまかぜ1号で大阪に行き、再び宮原で整備の後、午後の下りまつかぜ
2号で鳥取に戻り、上りまつかぜ2号の大阪寄に連結されて、13連で大阪に戻りました。
こうやってみると、博多編成と鳥取編成は、常に同じ編成が連結して走行した事になり
ますね。
不思議なもので、同じ車両でも鳥取まつかぜはまかぜに運用されている時よりも13連の一部でいる時の方が輝いて見えたものでした。
まつかぜは日が長い初夏に乗るのが一番だったんだろうな
俺は下りに3月に乗ったが、無念にも宍道湖あたりでもう夕日が沈み、あとは無人の漆黒の闇の中を
ひたすら西下するだけで、白砂青松の山陰海岸を拝むことは叶わなかった。
まつかぜ、ずいぶん昔だな。
確か82系13連の末期の頃上りの福知山あたりから乗ったと
思うが、最終コースで車内にはゴミが散乱した感じで、
そこいらじゅうにゴキちゃんがウヨウヨしてた記憶しかないなw
空いてたから窓際座ったら窓の隙間からも
覗いてたなんてのは、アノ時だけだったな。
下りのまつかぜと、スレ違いだけど白鳥の末端区間の寂しさといったらなかったね。
スレ違いだけど白鳥はそうだったな。
特に1993年平成5年に普通列車が701系電車になった後
まつかぜは最後まで旧型客車鈍行とのコンビ良かった
昭和60年3月13日に博多に到着した「まつかぜ1号」のキハ80系は、
博多到着後、下関からEF62に牽引されて山陽本線経由で向日町運転所へ回送後、
函館運転所と名古屋第一機関区へ転属したんじゃなかったかな
子供の頃、特に理由はないが、『まつかぜ』が好き、『やくも』は嫌いだった。
だから『やくも』にグリーン車が2両連結なのが悔しかった・・・。
>>369 分かるなぁ、まつかぜは山陰路のエース特急ってイメージだったよ。
やくもは短距離連絡特急って感じだった。
まつかぜって超大編成だったのにグリーン車1両だったのか。
その代り食堂車はたしかあったよね。
まつかぜの食堂車営業は、日本食堂と都ホテル列車食堂が担当していたようだが、
都ホテルはいつごろ、まつかぜの食堂車営業から撤退したのだろうか
>370
『やくも』が新大阪〜浜田の時代の話です。
当時は出雲大社のある山陰地方へ新婚旅行へ行くカップルも多く、時間帯が
良く、東京からも利用できる『やくも』にはグリーン車が2両連結されて
いたと聞きます。
後に『まつかぜ』の付属編成にもグリーン車が組み込まれます。
>>370 やくもが短距離連絡特急って
これだから
ゆとりは
まあ、大阪発着時代の「やくも」を知っている人なんて、そんなには居ないでしょうし、
仕方ない。自分もかろうじて見た世代だし。
「まつかぜ」と「やくも」という愛称の組み合わせは、なかなか良いと思う。
>>374 自分の無知を棚上げするな。
やくもが伯備線経由になったのは、40年前だぞ。
当時10歳としても50歳。
まだ、いっぱい生きてる。
>376
既に40年か・・・。
感慨深いね。
特急おきは短命だったね。
>>376 このスレを見ている人で、実際にこの時代の「やくも」を見た人が少ないのではという意味
で書いたのですが・・・
私自身は大阪生まれで、親の故郷の鳥取に帰省する時に、「まつかぜ」や「やくも」、47-3
改正以降は「はまかぜ」も含めて、何度となく乗りました。47-3改正前後の鳥取駅は、まだ
高架化工事着手前で、構内には機関区もあって大きな駅でしたが、それに比べ駅前は狭く、
雑然としていた記憶があります。
最後に80系まつかぜに乗ったのは昭和59年12月。もう28年も前の事になってしまいました。
>379
私も昔の鳥取駅の記憶が微かにある。
鳥取の町が大火に遭う前の話だが・・・。
ID:IvI3Foiw
ウザい爺さんだな(´・ω・`)
>>376 帰省で何度も特急なんかに乗るとは贅沢な
山陽新幹線岡山開通前に大阪から島根県に行くには、特急にでも乗らないと
時間が掛かり過ぎてやってられなかったよ。
夜行だいせんは、定期の他に臨時が出ていて、夏休みの時期は混んでいました。
臨時(下り52号)に1度乗りましたが、定期が10系の時代に12系が使用されていて、
「臨時の方が良い車両使ってるやん」と思いながら乗ったものです。
>>385 定期列車の客を分散させようとする目的もあったとか
「まつかぜ」が京都発着だったころは、京都〜大阪間はガラガラだったという
大半の客は大阪で乗降していたか、京都〜大阪間では内側線を走る新快速等を
利用していたからだろうか
>>387 京都まつかぜと新快速が同じ時間帯に走ってたことあったの?
上りのまつかぜとかもめは何故か大阪駅は8番線到着だった・・・。
キハ80系とキハ181系は併結できないが、国鉄時代、向日町運転所で、
「まつかぜ」用のキシ80などがキハ180などと連結されて留置されているのをよく見かけた。
キハ180の方向幕が「特急あさしお 京都−倉吉」などといることもあった
京都からの山陰本線の優等列車で松江以西に行く列車がなかったような記憶が・・・。
(出雲を除く)
昭和61.11改正で特急「まつかぜ」廃止後に設定された米子発着の特急「はまかぜ3・4号」は、
元「まつかぜ3・2号」を播但線経由に改めただけの列車だった。
>>395 まつかぜ2、3号と同時間帯に運転されていた、大阪〜浜坂の急行但馬の廃止はそのとき?
396
61・11改正で急行「但馬」は姫路・大阪〜豊岡〜浜坂間の各2往復ずつの運転となり、
列車の廃止は平成元年
キハ181系化された「まつかぜ1・4号」は1〜4号車が
「おき5・2号」と共通運用となったが、「おき2号」が遅延したりした場合は
上り「まつかぜ4号」にも大幅な遅れが生じることになる。
その場合はどうしていたのだろうか。
遅延したまま運転していたか、米子運転所のキハ181系4連を
「まつかぜ4号」の付属編成に連結していたのだろうか
まつかぜの絵入りヘッドマークの時代は短かったですね。
博多「まつかぜ」が全車指定席だったころ、下りのみ普通車は浜田から自由席に
なっていた。
10年くらい前に益田〜東萩でいそかぜ使ったけど、リクライニングしない座席だったな。
その数年前に急行さんべに乗ったけど、ボックスシートのままだった。
急行砂丘は座席交換してたのにやる気なさすぎだわ。
>>401 何しろ博多まつかぜ系統分割して、2往復が181系化された昭和60年3月から、
福知山線全線&山陰線福知山〜城崎電化した昭和61年10月末までの1年半だったからな。
中国自動車道や山陽新幹線の開通で大阪〜鳥取〜米子間は
日本交通高速バスやマイカー、新幹線と「やくも」利用の方が早くなり、
「まつかぜ」の客離れを招いたといえる。
昭和57年に「まつかぜ3・2号」がキハ181系化されて、それまで使用されていた
キハ80系よりも車両は良くなったとはいえ、こういった措置ももはや手遅れだった
まぁ鳥取、米子へ向かうのに大阪から城崎まで単線グネグネで北上してるんじゃ、
中国道や新幹線+やくもへの勝ち目は…
>>406-407 だから智頭急行を開通させて特急を走らせたとも言える。
新快速に追い立てながらも、東海道・山陽線でかなり高速に飛ばせるし。
>>404 21年前に下関〜東萩間を往復した時は、リクライニングシートに交換されていたけど。
その1年前の春・夏休みに乗車した急行ながとは、
ボックスシート座席が埋まり、立客が少しいる乗車率。
大阪から鳥取や米子へは、新宿から伊那や飯田などとセットで「素晴らしい高速バスと時代遅れな国鉄」の典型例みたいな形でよく紹介されていましたね。
「まつかぜ」の食堂車のメニューが「大山おこわ定食」など
特別なメニューは別として欠品が多かったのは、米子・出雲市以西では
それだけ「まつかぜ」を利用する人が少なかったからだろうか
>>411 担当営業所が米子だったので、それもある。
出雲市以西の島根県西部から九州方面に向かう場合、「まつかぜ」を利用するよりも
特急「おき」で小郡へ出て、小郡から新幹線に乗り換えた方が早かったようだ。
そのため「まつかぜ」は区間利用者も多かったようだ。
>>413 浜田・江津ならバスで広島出て新幹線の方が「おき」より実用性があっただろう。
いずれにせよだから「いそかぜ」が廃止になるわけだw
キハ181系化された当初の「まつかぜ3・2」号が宝塚駅などで、
黄色の103系電車やキハ47系と並ぶと、キハ181系が新型特急車両のように見え、
福知山線が大変貌したように思えた。
「あさしお」も運転開始当時は食堂車を営業していたが、営業は振るわず、
昭和50年に廃止された。
博多「まつかぜ」と違って走行距離が短かかったことや、宮津線の天橋立以西では、
回送列車同然のようにガラ空きだったこと、メニューもカレーライス程度の軽食主体で、
食器もアルミ製といったように、長距離客が利用する博多「まつかぜ」の食堂車とは、
かなり差があったからではないか。
電化以前の福知山には「まつかぜ」のヘッドマークを掲げた
電車特急を描いた看板があったなぁ。
子供だった自分は山陰線を縦貫する博多行の電車が走るんだと思い
心ときめかせていたが、蓋を開けてみたら…orz
初代の特急「いそかぜ」はかつて京都〜宮崎・佐世保間で運転されていたが、
この列車は43・10改正で宮崎「いそかぜ」が「日向」に、佐世保「いそかぜ」が
「かもめ」に改称されて廃止された。
二代目「いそかぜ」は運転区間が米子〜小倉、益田〜小倉と運転区間が順次短縮された後、
廃止されたが、初代がプラス成長だったのに対し、2代目はマイナス成長の列車だった。
>>210 (笑)という意味では駅舎
道路挟んで宮殿のように壮大な大阪急電鉄宝塚駅
粗末な掘っ立て小屋国鉄宝塚駅
東京都知事選挙の争点に女性専用車両の廃止
東京の問題は、女のわがままによって生まれた女性専用車両が存在し
車内で男性が被害を受け、不便さを押し付けられ、混雑した状況に不当に押し込まれていることです。
<女性専用車両にはこんな女が生息しています>
;list=PLzeFCSP7xRziIIipBhtKgGQ-aCrLXq8Hi
新しい東京都知事のテーマは、
男性を差別した悪質な女のわがままである女性専用車両を廃止させることです
東萩とか山陰線西端部に特急の設定がないのがいまだに信じられない
酉によくある2両編成のローカル特急としてでも設定されないままなのが残念
やっぱり陰陽の距離が近いからアクセスが新幹線経由がメインだから?
それもそうだし、飛行機やバスもそうだろう
けど、そもそも人がもういないんですよ
>>425 急行すら走ってないのにいきなり特急を要望するとは贅沢な
いや、今は特急すら走っていないのにいきなり急行を設定することがない
まつかぜで大阪→博多へ行ってみたかった。食堂車でライスカレーも食べてみたかった。
キハ181系の「まつかぜ1・4号」は中間車のドア位置が米子寄り、「まつかぜ3・2」号は
中間車のドア位置が大阪寄りとなっていたが、なぜ異なっていたのだろうか。
向日町運転所持ちのキハ181系「まつかぜ1・4号」はキハ80系時代の「まつかぜ1・4号」に合わせて、
車両とドアの向きも合わせていたからだろうか
博多まつかぜの廃止直前に、今は無き山陰ワイド周遊券を使って「まつかぜ1号」
の鳥取→益田間を乗りに行った。キハ80の自由席に乗車したが、車輪がフラット
でうるさかった。列車は結構スピードを出して走っていた。
米子をすぎて食堂車に行ったが、内装が薄汚れていた。ビールと大山おこわ定食
を注文したが、メニューには「大山定食」と書かれていた。ウエイトレスも
「大山定食」と呼んでいた。
もう30年も前の話。
博多「まつかぜ1・4号」のキハ80系は、晩年は車体の汚れや傷みが目立ち、
車内でもいたるところできしむ音がしていた
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昭和40年代前半は、特急は宝塚さえ通過、豊岡と城崎も振り分け停車(いずれか一方は通過)だった。
同様に、三ノ宮と神戸も振り分け停車だった。
特急に風格があった時代だった。
非力で鈍速で簡素なジィゼルカーに風格ねえ‥
食堂車の椅子はプラスチックで学食みたいだし、カーペットも敷いてない1等車だし
「安芸」がなくなる少し前に,
東京→新大阪→「安芸」→下関→「まつかぜ」→福知山→・・・山陰周遊。
なんてことやったけど,風格はすばらしいけど,おっとりした走り方で
かわいらしいイメージがあるな。もっとも山陰本線じゃもっとおっとりした
亀みたいな列車にその後たくさん乗ったが。
そうだっけ?
20系や181系なみにまともな椅子だったような記憶もあるが。
新幹線博多開業後つばめ等の本州方面の昼行特急が廃止された後に唯一昼行特急としてのこったまつかぜの博多〜大阪のサボを見て凛々しさを感じたものだった。
>>440 いっとき、「いそかぜ」宮崎行きというのがあったな。
確か、その頃は、
いそかぜ…宮崎行き、大分で半編成落ち
かもめ……西鹿児島・長崎行き
みどり……佐世保・大分行き
つばめ……熊本行き
だったと思う。
熊本電化から大分電化までの期間か。
てことは、
熊本……1.5編成
西鹿児島…0.5編成
大分……1.5編成
宮崎…0.5編成
長崎…0.5編成
佐世保…0.5編成
となり、都市規模に比して、日豊線優遇のような感じもするが(とくに大分)、
やっぱ新婚客ほかの別府需要が大きかったのかなあ。
九州方面に新婚客の需要があったのは70年代までかな
別府と宮崎が双璧だったらしい
ただ宮崎は“都市としての”宮崎ではないんだな
>>443 宮崎市内のホテル街見れば、かつては「観光都市」だったことがわかる。
観光の拠点として繁栄したということ。そのために椰子の木を大量に植樹した。
>>430 亀レスですが
もし方向転換をする「あさしお」と同じ運用に入っていたとしたら
片方だけ逆になることもあるのかな、とも思ったんだけど
当時のダイヤを知らないので、勝手な推測ですが
昭和60年3月改正でのダイヤで見ると
特急「あさしお」3号城崎行(舞鶴・宮津線経由)は豊岡に到着時点で編成の向きが京都発車時とは
逆になっており、終点城崎到着後、折り返し上り「あさしお」6号で山陰本線経由で京都へ向かう。
この時点でドアが京都寄りになっており、京都着後折り返し米子行「あさしお」7号で米子へ向かう。
米子着後翌、「あさしお」4号京都行で米子出発、その次発の米子機関区担当の「まつかぜ」2号は
ドアの位置が京都寄りのため、午前中は倉吉、鳥取に停車する「あさしお」4号とドアの位置を合わせていたのではないか
ドアの位置が米子寄りで向日町運転所持ちの倉吉発着の「あさしお1・8」号と「まつかぜ1・4」号の鳥取、倉吉到着は午後だったが、
同じく午後の「まつかぜ3」号と「あさしお」7号は姫路から逆編成となる向日町担当の鳥取発着の「はまかぜ1・4」号とドア位置を合わせていたのではないか
そのため、鳥取・倉吉駅などでは午前、午後とでホームの特急ドア位置が異なっていたようだ
いそかぜのヘッドマークは長門海岸の大岩がデザインされているが、昔これを見てヨットだと思った
東萩駅や長門市駅に
優等列車(優等車両)の発着が皆無という状態が
いまだに信じられん。
>>396 まつかぜの城崎一新大阪を北近畿にして
但馬の城崎一大阪をまつかぜの米子一城崎につなげた
他のまつかぜやだいせんの城崎以遠が廃止になったのと違い生き残った
>>444 南紀や日南の没落は 本物の ハワイに行ける様になった事が大きい
鉄道を利用しての新婚旅行がもうないよね。
時代の流れだ。仕方ない。
鉄道による旅行は移動時間が勿体ない罠
旅行先での滞在時間を極力長くするには移動時間の短い交通手段を選ぶのは自然な選択。
特急まつかぜ1号の指定席車に乗車して大阪から米子以西を乗り通す場合、指定席特急券が米子回転車に
割り当てられた場合、乗客はどうしていたのだろうか
大阪→米子間の指定席特急券と米子→博多間などの自由席特急券を勧められて購入して、
米子から博多発着編成の自由席車に移動していたのだろうか
東京から「富士」で出発して下関で「まつかぜ」に乗り換え。
山陰海岸の車窓を堪能するのは最高の汽車旅だった。
「富士」の食堂車でしこたま飲み翌朝は二日酔い、「まつがぜ」の
食堂車で迎え酒をしたのも今では遠い思い出の彼方。
お酒が飲める人が羨ましいな
俺は全然ダメだからこの手の長時間移動はすることがなくて暇を持て余してしまう
(マイナスタクシーサービス不足)(アエロ沖縄空港ドナルド凍結バイト)
(河北なぜ大阪人ヘアカラ福祉バンクドーハの悲劇ビジネス
(ゆとり不動産取締王過払いポイント著名店員廃炉舞台監督カクテルナイト
>>376 俺その「やくも」浜坂から乗った事あるぞ父母の実家が居組だし
初めて乗った特急が正に其の「やくも」だわ
それまで急行「但馬」や「だいせん」ばかりだったので凄く嬉しかったのを覚えてるわ
因みに俺52才(年齢の話が出てたので)
昔は鉄道の旅は車窓からの眺めで十分楽しめたが
いまは田舎でも線路際に無粋な広告や無秩序な開発が横行して
眺めを楽しむことが出来なくなりつつあるのがさびしいね
>>2 80年10月迄は鹿カコの「にちりん」 「おおよど」
と併せて3編成並んでたな
ことぶき周遊券てまだあるのか?
九州一周したときに交通公社で作ってもらった
>>466 とっくの昔に無いので、フルムーンをご利用下さい
>>468 鉄を除く若いカップルで国内を汽車で旅行するってかなり少ないだろ?
>>466のことぶき周遊券で九州一周した世代は団塊世代より上だよ
適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁スキンケア」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングトルネードオーバードライブシュート西口
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース
懐かしい。小学4年の頃、花園駅から二条駅まで10円、京都駅まで30円だった。
駄菓子屋行くと嘘ついて親父のカメラこっそり持ち出して行ったりしたな〜。
自分の記憶違いだろうけど、二条駅から黒煙を吐き出しながらゆっくりと発車する、まつかぜの「博多」の、文字と食堂車を連結した超大編成に心躍った記憶が蘇る。
でもおそらくまつかぜを見たのは京都駅で、黒煙まき散らし食堂車を連結していたのはあさしおだったのかな。
それとも臨時列車で京都発山陰本線走破するまつかぜがあったのかな?あと、なんとか夜中に家抜け出して近所の山陰線を走る出雲を見れないかと無謀な計画を立てたりしてたな。
あー懐かしい。
>476
でも全然専門的な知識はなかった。
ネットもない時代、小学3,4年の僕の情報源といえば本屋で立ち読みする
鉄道ファンや鉄道ジャーナルなどの雑誌だけだった。
それも本屋のおばさんに阻止されゆっくり見れたことがない。笑
でも、そんな環境が逆に夢をみさせてくれたのかも。米子、松江、太田、江津、浜田、益田・・
なぜか山陰が好きだった私は毎日時刻表を眺めてどんな駅なのか夢想して思いを馳せていた。
そんな危うさ?を親が察知したのか、春休みに家族旅行連れて行ってやるからプラン考えてみろ、
と言われた時は毎日毎日時刻表がボロボロになるほど捲り夢心地でプランを練った。
しかし今考えると非現実的で非経済的で、それこそ筋金入りオタしかこんな乗り方するかよ、という計画書だった。
当然のように却下され黙って勝手にプラン練られて勝手に進められた時は結構ショックだったが、そこは鉄道大好きのお子様。
すぐにケロッとして旅の道中は、「もう30分待てば急行ながとが来るから見たい」とか
鳥取ー浜村の近距離移動にわざわざ時間待ちして「白兎に乗りたい」とか言って困らせる坊やだったのでした。
小学校3〜4年は秘密基地ごっことザリガニとりだ。
好きな女の子ができて照れ隠しにわざと意地悪したり
昔京都駅の改築前には西口がありましたね。
三哲発の市バスだと、確実に座れたので西口から出ることもありました。
80年代の京都駅は長距離のターミナルで、今の賑やかさの微塵も
無かった気がします。
昭和54年3月に特急まつかぜ大阪−博多間全区間に乗車。
大阪8:00発、鳥取で13両から7両編成に減車、博多到着20:51着。
前後に乗車の列車は、
上野から急行佐渡にて新潟へ
新潟から特急北越にて新大阪、ひかりにて広島県福山へ親戚の家に宿泊後、
普通列車にて宇野へ、岡山にて14系急行阿蘇・くにさきを見物。
宇野から急行鷲羽にて早朝大阪到着、博多到着後新幹線こだまで小倉に、
小倉から急行かいもん20系B寝台で西鹿児島へ、
西鹿児島9:41発寝台特急富士個室にて東京到着10:10
懐かしき国鉄全盛期。
もう一度乗りたい。
特急おおとり、北海、いしかり、はつかり、ひばり、みちのく、加越、
14系特急つばさ51号。上野−黒磯間ノンストップ
12系特急ゆうづる51号、確か特急料金100円引き
急行狩勝、ぬさまい、池北、天都(興部発のキハ12単行編成に乗車、バス窓+二重窓、室内扇風機すら無し)、
礼文、利尻、天北、紋別、るもい、ニセコ、らいでん、いぶり(札幌−伊達紋別−倶知安−札幌全区間乗車お盆時期で2両編成)
えりも、せたな、松前、えさし、ちとせ、はぼろ、臨時天売観光(キハ22,2両編成)、十和田、八甲田、津軽、よねしろ、くりこま、仙山、千秋、
こまくさ、天の川、鳥海、月山、いわて、もりおか、まつしま、あづま、いわき、いいで、出羽、ざおう、あがの、ばんだい、くずりゅう、
立山、能登路、能登、こまがね、きそ、かすが、さんべ、山陽、安芸、ぎんなん、のりくら、赤倉、臨時奥伊豆51号、伊那、妙高,信州、とがくし、
あぶくま(全区間東北本線なのに常磐線ときわの基本7両と同一編成、もりおかの間合い使用か)
むろね(車掌が急行券検札のあと同一人物がワゴンにて車内販売、それも大船渡線内で今では考えられない。)
普通からまつ、山陰
現在も愛称使用列車を除く。
以前の京都駅は、今みたいなもみくちゃな状況ではなく
もっと落ち着いた雰囲気だった気がする。
その分阪急や京阪の駅周辺は昔のほうがにぎわっていた気がする。
特に大宮。
山口県宇部市 寂しすぎる商店街「宇部中央銀天街」 2014/10/05
山口県宇部市 宇部新天町名店街を自転車で走ってみた。 2014/08/03
00222 宇部市 宇部新天町名店街 ハミングロード新天町 20161202 164824
宇部新天町名店街 ハミングロード新天町 20161202_165455 山口県宇部市 商店街
宇部市新天町アーケード空撮2017/7
あまりの変わりっぷりに驚きました。
平成初期までは自転車を置いて歩かなければならないほど人が多かったですよね!
一本裏通りは飲み屋街で、毎晩人であふれてた…らしいw
車が無いと不便な町だけに、郊外に大型店舗が数店できただけで17万人の町はこの変貌とorz
キハ82-キロ80-キシ80-キハ80-キハ80-キハ82-キハ80-キハ80-キハ82-キハ80-キハ80-キハ82
優等列車どころか、東萩ー益田間は日中の移動すらままならなくなった。
石見地方、特に江津の寂れ方は凄い。
駅前の商店街は最早街の体を為しておらず、人通りというものが消えていた。
出雲市15万、松江市20万、隣県の米子市17万、計52万。
これでようやく、山陽側の倉敷、福山あたりの1都市と見合う程度。
20年位前に小郡(現新山口)発下関行きの快速列車があった。一日一本の朝七時くらい発。
いそかぜの車両だった記憶がする。
上りは小倉発益田行きでも下りは益田発小郡行きだったのかな?
特急料金なしで特急車両に乗れるのがうれしかった。
>>489 一時期、下関発米子行の特急「おき」が上り1本のみ設定されていた。
米子発下関行の特急「おき」の設定は無かったが、貴方が乗ったそのキハ181系の快速列車は、
下関発米子行特急「おき」のキハ181系で、小郡から下関への車両送り込みを兼ねた列車
>>490 ありがとう。おきのwikiを見たらこのことが書いていました。
長年の疑問が解決しました。
私は本屋で鉄道雑誌を立ち読みする程度のただの鉄道好きなので、皆さんの
知識やここに書かれている昔ばなしは見ていて勉強になりますし楽しいです。
今はこぎれいな187系に置き換わりましたが、ネットで181系を見ると
昔を思い出し懐かしくなります。
昭和57年に松江駅で長大編成のまつかぜを見た
そして平成になってからスーパーまつかぜの通過を安来駅で見た
2両か3両の特急が一瞬で通過していく姿はあまりに情けなかった
鉄道に詳しくない人間が見たらあれは工事用車両に見えると思う
>>495 道路整備かな。国道490号の代わりの県道32号線(一部は萩有料道路)開通で小郡から萩まで
一気に1時間早く着けるようになり、レンタカーと小郡発着の高速バスにやられた。
>>496 その当時、松江駅でのまつかぜは6両か7両だったので、長大編成とはいえない。
やくも電車化があった年なので電車化前は大阪〜鳥取が13両、やくも電車化後は
大阪〜米子の9両が最長だった。
もっとも現在のキハ187系2両に比べれば、長大編成だけどw
>>496 その頃はまだ食堂車があって旧城崎現城崎温泉〜鳥取間がnonstopで香住、浜坂、東浜
(7月20日〜8月20日臨時停車)
岩美は急行だいせんのいわば住み分けちゃんとできてたが
中国道開通伯備線も電化昭和57年の時点で既に終わってた
旧型客車も現役バリバリだし国鉄ならの無駄許された時代
キハ82まつかぜのゴミ箱からカブトムシが出てきてコンニチワ!って足を上げたのにはビビった
もちろん持って帰った
>>481 ラッシュ時にあの跨線橋を渡るのは大変だと思う
一度しか利用したことないけど、あの時まだこんなのがあったのかと感心した
>>506 大阪〜鳥取も、運賃・所要時間で高速バスが有利だった。
今のスーパーはくとで、所要時間は勝負になっている。
高速バスにはまだ対抗策ありそうで脅威
さらなる値下げ、車両デラックス化、スピードアップ、発着地の改善←これがデカい。鉄道は簡単にはできない
>>435 特急は冷房付きだけでも
価値があった時代だろ
>>496 子供が乗りたいとも絶対言いそうにない
先頭形状もろともね
>>503 その中国道も1分に1台平均しか通らない
過疎高速と揶揄されてるのがね
>>512 過疎区間はな
でも高速バスが走ってる区間は交通量多いぞ
関西発九州行きの気動車特急では山陽経由のかもめにも乗ったことあります。ほとんどの区間が電化なのにキハ82系と言う珍しい運用だったと思います。一時期は食堂車2両を含む14両の贅沢な編成でした。
>>514 運行区間に少しでも非電化区間があればディーゼルカーってのは普通のことだが
鳥栖-長崎間機関車牽引ってわけにはいかないだろう
>>516 北近畿というセンスがもうアレですね
だれの発案?
南近畿とか東近畿とかはまず聞かないね
なぜ北だけ付けたんだろ
181系の間合い普通に乗ったけど
豊岡から出てる12系の方が
換気も出来て快適だったな
>>519 南近畿ワイド周遊券というのがあった
和歌山市-紀和間は乗れない
ワイド・ミニ周遊券の範囲は何度か変更されているけど
北近畿ワイド周遊券
東は敦賀から西は鳥取まで
南は寺前、三田、保津峡(1980年、国鉄時代)京都(1995年、JR時代)
南近畿ワイド周遊券
(1980年、国鉄時代) 湊町 天王寺 王寺 木津 亀山より南 紀和-和歌山市を除く
(1995年、JR時代) JR難波 天王寺 王寺 木津 名古屋より南 紀和-和歌山市も含む
>>519 たしかに東近畿は全くだけど
南近畿については周遊券であったから
それほど言わないほどでもないのではと。
「ヒガシ」って方角で唯一濁音が入るからか、
一般化しないね。
大阪のミナミ、キタ、と同じように
京橋周辺を「ヒガシ」って名付けようとしたけど
まったく一般化せずそのままだし
益田/下関間って、もはやどいうにもならないほどの閑散区間なの?
ながと・さんべ・いそかぜのような列車を走らせる意味はもうないのかな?
2両で益田までのまつかぜを延長運転とか
気動車の特急に乗るのは初めてだったかも知れない。
1967年の夏、キハ82系「まつかぜ」は排気の陽炎を揺らめかせながら博多駅のホームへと入線してきた。
81のスマイリーなブルドック顔は図鑑や写真で知っていたが、ボンネットではないむしろ一般的で見慣れたはずの貫通型前面の洗練された端正さに魅了された。
何度か乗った151系に準じたボディーカラーにも違和感なく、特急r鉄砂での数時間の山陰への未知の旅へと思いを馳せた。
ないないw
自分の文章に酔ってるだけだろ
プロは「特急r鉄砂」なんて許さない
文芸誌で随筆寄せるのって、小説書きなれている人が普通だし
俺はここでは極まれな文章の上手い人だと思ったけどな
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