月並みだがここも新幹線開業で一気に寂れた
というか新幹線が必ずしも沿線に幸福をもたらすとは限らない好例第一号
速達便が新幹線に流れたぶんできた余裕でもって
ローカル便に力入れてくれたら良かったのに
桜が綺麗だった諏訪峡
撮影ポイントとして古くから知られ
撮り鉄の聖地とも
>>4
贅沢な悩みだがな
今じゃ在来線存続さえ保障して貰えない 新潟側は望んだかもしれないが群馬側はそれほどでもなかった
不便になるなら造らなくて良かったのにとぼやいてる人も知ってる
連カキコ失礼
急行ゆけむりではじめてクロスシートに座れてはしゃいでた小一のとき
じつは115系だったことを知ったのは鉄に興味を持つようになってからのこと
当時はロングシートしか知らなかったから向かい合わせて座れる、進行方向に向かって座れるシートが
とてつもなく高級のように思っていた
国鉄のネームドトレインは数々あれどゆけむりは個人的には五指に入るダサさ
>>12
上毛高原からアクセスできるし、水上がそこまで不便になったわけではない。関越道と新幹線で湯沢が便利になって、水上行くなら足延ばして湯沢にっ、て流れになったのと、何より水道水温泉が問題視されたんだろうよ。 昭和58年に水上で下車したとき、
ホテル旅館の送迎車両が列をなしていて
法被着た従業員が客寄せの声を張り上げていた
昔の温泉駅風景が見られた最後の時期。
急行用だと165系などは固定クロスだったでしょ
115系とそんなに変わらない
>>14
その頃だと急行と新特急の両方あったな上越新幹線が大宮駅暫定発着の頃だから昔の上越線最後の黄金期大舞台の頃だな >>18
1983(S58)には急行暫定運用はもう終わって、鳥海以外は珍特急だらけじゃなかったか?
急行形はわずかな169系信州しか見なかったと思う。 ゆけむりと草津は長らく渋川解結だったはずが、いつから新前橋に移ったんだろう?
渋川駅から路面電車が出ていたことを本で読んで、
遺構探しに出掛けたことがあった
当時はネットもないわけでこれという目星もないままに
駅周辺を半日歩き回って何の収穫もなく帰途に就いた
>>24
いつ出掛けたのか分からんが
一番遅くまで残った伊香保線でさえ、昭和31年廃止。
半世紀近く前の遺構探しは無理があるよな >>19
1983なら急行佐渡よねやま健在だった 3往復しか佐渡は当時既になくなってて
1往復は季節運転だったしさらに下りの
1本はほとんど深夜近い時間帯だったが1983はまだ関越道ができてなくて故に高速バスがなかったので混んでたらしい
新潟や長岡は今の方が便利だがその反面水上はじめ上越新幹線スルーの所も多い水上今や廃墟ばかりなのにつながりそう >>28
そらぁ見知らぬ人の顔・視線を数時間も間近に見るのはキツいでしょ。
だからこそ新幹線200系初期の3人掛けは、まとめて背中向き(集団離反)配置にしたわけで。 >>28
そらぁ見知らぬ人の顔・視線を数時間も間近に見るのはキツいでしょ。
だからこそ新幹線200系初期の3人掛けは、まとめて背中向き(集団離反)配置にしたわけで。 長岡行夜行を深夜の水上で下車、
雪のホームで一晩、上下夜行を撮影し
あとはストーブのあった待合室で仮眠
日が昇って後、水上機関区でEF16撮影
さらに鈍行で北上し石打で構内留置中の
EF16を撮影したのは2月のことだった。
>>11
ダサいってよりも俺はテレビの2時間ドラマを思い出す
湯けむり殺人事件、湯けむりミステリー列車みたいな題名で
テレ朝や日テレでやってたぞ >>24
渋川駅の、コンニャクのまち渋川へようこその看板はまだ残ってるかな
コンニャクと言えば下仁田が代表になってるが
収穫量はこちらが上ということでアピールしてたのに
井森美幸が宣伝してしまったためにお株を奪われた涙
コンニャク麺を買ったのは駅構内の売店だったか、駅前の商店だったか・・ >>27
高校3年の夏、受験予定の大学の下見に上京するのに佐渡を使ったけど
自由席の乗車率8割ぐらいだったなぁ >>12
まあ水上が一番割を食ったとは思うが
どの道ライバルは多いわ高度成長期型歓楽温泉街では厳しかったと思う 佐渡号の思い出
廃止直前の頃は編成も短くなっていて
グリーン車もなく往年の威容は消えていました
最終日には見に行くことができず鉄友が新潟駅で撮ってくれた写真が
手元に残っています
時を同じくして上越・東北新幹線の都心乗り入れ「グリーンラインが北国へ!」の宣伝がにぎやかに。
時代の変わり目を体感しました。
サロは最後まで連結していたし
編成も12両とか13両が10両編成になっただけだから
駅撮りの写真だとあまり違いはわからないレベルだと思うなあ
サロはサハシの間違えかな?
165系は地元の浦和や大宮で何度も見たが、新潟車だけがクモハが下り側で独特な雰囲気だった。
あとカーテンがどれもこれも茶色と化しててやたらボロく感じた印象が強い。
K1編成は保存するはずが雪害か大雨の浸水で断念した…って何かで見た気がするが本当なのかな。
>>カーテンがどれもこれも茶色と化しててやたらボロく感じた印象が強い
ううう、良く分かるw
破れてたり、お茶かコーヒーの染みもあったし、うらぶれていたよ
>>41
改正直前ならグリーン車が連結されていない可能性はある
特急鳥海が583系で一時運行されたのもダイヤ改正の関係 ゴメン、ニュースというよりトピックと言った方が適切だね
訂正する
>>45
著書っつう著書にはあるべきするべきうるさい冷蔵庫さんが「必要ないんです」とは珍奇だな。
『列車本数が激減した今こそ、単線化して交換設備を復活し地上ホームに集約すべきである』とは吠えないのか。 東武伊香保軌道線の線路の一部は高崎の石屋の敷地に残ってたけどいつのまにか駐車場になってた
>>37
食堂車がなくなっただけでも格落ち感は確かにあった
正直味は望むべくもないが快適なグリーン車ともども非日常を感じられる空間だった 佐渡号に格を感じるか‥‥?
言っとくがこれは煽りではない
気を悪くしたらスマン
>>51
ゆけむり+草津と違って全部が遠い新潟まで行くってのが、えもいわれぬ重要列車感があったな。
自分が見慣れた頃にはサハシは無かったし、上に書いたように茶色カーテンのクタビレ車ばかりだったが。 それもあるんだろうがなんと言っても、田中角栄全盛期が大きいだろうな旧新潟3区の長岡市以外の駅と東京や首都圏をこまめに直結していたことに意味ある。
川島冷蔵庫比べては失礼だが宮脇俊三が赤谷線と魚沼線両方に乗ってかつときはとき小千谷止まってくれないので不可能嘆いていたがまさにその頃のイメージ。
>>53
あー、西小千谷から徒歩で小千谷駅に行き、延々と普通列車で夜の11時過ぎにに帰宅したエピがあったね。
クルマで青海川から小千谷へ抜けたとき「ここが宮脇さんの歩いた“長い橋”かあ」と思い出したものです、ハイ。 越後川口前後は複線化でルート変更されてるけど、切り替え前の写真や映像はあるかな?
既に電化されてた路線としてはそこそこ大規模な変化だよな。
>>52
わかる。
遠くまで行く列車の方が格上という感覚は子供心にあった
この発想、どこから来たんだろう・・ >>56
長い・大きい=エライ
子供心なら何でもそうなんだよね。
まあ、歳をとってカッコつけた言い方をするなら、
「トーキョーからずっと離れた故郷の想いをのせているからさ」 水上駅で阿藤快さんが何かの旅番組のロケをしてるところに偶然出会した
「なんだかなあ〜」を連発してた(笑)
水上駅はキオスク今もあるのかな。
昔は普通列車しか停まらないような駅でもキオスクがあったような。
>>59
今月頭に水上駅行ったけど、キオスク閉店してましたな。
昔は、キオスクだけでなく駅そばもあったのに、余りの凋落ぶりに愕然とした
近くにコンビニもないから、食料の調達も出来なかった >>60
無くなってしまったんですか!?
確かに駅そばありましたね。
定期特急も駅弁もみどりの窓口もなくなり水上の凋落っぷりはハンパない。 一日に数本と決まってて、いずれもわずかな乗り継ぎ時間じゃソバ喰うこともできないよね。
>>60
駅前にデイリーヤマザキだかが有ったけどそれも無くなりましたか(゚Д゚;)
水上の聚楽がリニューアル中だけどそんな状況ではお客来ないか?
いや、みんな車で行くのか… >>63
キオスクの跡に、近くのコンビニの案内の紙が貼ってあったけど、水の紀行館(だっけか)の方まで行かないと無いみたいで、駅から歩いて10〜15分くらい掛かるようで。
デイリーヤマザキがあったのって相当前の話かと >>64
水紀行館の近くに
なんかローカルなスーパーが有りましたが、
水上ICの方にセブンが有るそうですが。
駅周辺では飲み物と土産物屋のお菓子くらいしか買えませんねぇ(>_<) 上越線で駅弁販売している駅も高崎、越後湯沢、長岡だけで寂しい。
それからキオスクと言えば土合駅に売店らしき跡があるが季節営業でもしていたのであろうか。
新幹線開業前は通過待ちのできる中線がある駅が沢山あったなぁ。
八木原、群馬総社、敷島、岩本、後閑、土合、土樽、塩沢、五日町、越後堀之内、小千谷、越後滝谷と。
>>67
2線化で中線を取っ払っちゃったところや一部残して保守重機線にしちゃったところもある。前橋手前の井野もあった。
土合は壁面に沿ってホームだったのを中線を潰して拡張して曲げたためにホームに入る線型が変なシケインに。
清水と新清水トンネル内の土合と土樽の真ん中辺りの途中に信号所があったがどっちももなくなった。
清水トンネルは土樽側から入ると最初バラスト路盤が3/4辺りから突如コンクリート路盤に変わるが、
信号所のポイントがあった所だけバラスト路盤になってる。新清水トンネル内に信号所も同じ。 水上のデーリーヤマザキがまだ元気だったころに食糧調達のために入店
しかし商品棚にはライバル社のパンがズラッと・・・あれ?記憶違いかな
お盆休みの頃だったので夜中も客が引きも切らず食べ物系は飛ぶように売れてた
>>69
あれデイリーヤマザキじゃなくてYショップな スキーヤーは板や靴を担いで電車に乗り込んでたのでしょ大変だね
そりゃクルマに流れるわ
>>72
まだ関越道も無い頃だぜ。
トラックも行き交う17号254号を群馬やさらに三国越えしてまで、貧相な冬タイヤのクルマで行けたもんじゃない。
だから北群馬や湯沢・石打は鉄道が頼りでそれも1泊コースだった。
荷物ウンザリってだけじゃなく、関越トンネル開通でクルマ事情が鉄道に勝ったのだよ。 >>32
EF58に比べると地味さが拭えないがよくまとまった好ましいスタイルの電気機関車のひとつ
昔から水上撮影地の写真が鉄道雑誌によく載せられていた 清水越えでEF64あたりと組まされると憤慨してたw
冬の撮影は寒さは当然として融雪溝に落ちたり急な運休でお目当てに逢えなかったり
苦労した記憶しかない
EF55のラストランを渋川で見送れた
ホームに居た同好の士と一緒に感泣した
旧客を10両くらい引き連れて敷島→渋川の鉄橋を一気に駆け抜けるとこなんか絵になった>EF55
>>80
あれ長大編成だから様になるけど
車庫で一両ポツンとしてるのを見ると意外と格好悪かったりする 末期国鉄は動く骨董品の陳列をなぜに上越線で実行しようとしたの?
2004年10月に都内から新潟へ出かけたついでに石打に降り立った
人影も車両も無く、上越線産みの親の銅像と無駄に広い駅構内配線が上越線華やかなりし頃を想像させた
かつてここに181・165・EF16・EF58が忙しく出入りしてたのかと思いながら、
物思いに耽ってると目前を足早に駆け抜けて行く681はくたかの姿
しかし速いだけでは物足りなく感じるのが鉄chanの性だろうか
その翌週末、中越地震発生
越後川口〜越後滝谷は復旧後も地震で傾いてしまった架線柱がそのまま現役で残ってた
復旧後の徐行運転で車窓から目の当たりにした被害を前に言葉が出ず、法面の応急措置も痛々しく見えた
今年の西日本豪雨や北海道胆振地震を取り上げるまでもなく
自然災害は鉄路に致命的なダメージを与えますな
あれだけ強く揺れても在来線は一両も脱線しなかったのは奇跡
>>88
あちこちで急停車はしたろうが、土砂崩れに巻かれたり乗り上げも無かったのはホントに奇跡的。
急行佐渡の落石事故みたいなことがあってもおかしくなかった。
新幹線ときの姿が何より衝撃だったから、在来線の無事は取り挙がらなかったよね。
東日本も津波さえ無ければ…。 今は完全復旧を簡単にあきらめて廃止検討がデフォルトでしょうに
昨日雲霧の中越後湯沢から上り線に乗った、人生二回目だが初回はあけぼのBソロで寝て通過記憶無し
電車だとすいすい登り降りしますな、湯檜曽ループは小さいなと思った。昔人の峠越えの工事の労苦が忍ばれました
>>83
ネットで調べると現役末期の主戦場は高崎線らしい。
高崎線で現役引退、上越線で現役復帰(その後本当に引退)。 オリエント急行88も上越線に来たな
バブル景気真っ盛りの頃。
鉄道がメディア主導のイベントに巻き込まれるようになったと嘆息する向きも多かった
あの時のフジテレビは飛ぶ鳥を落とす勢い
どんな企画でも確実に当ててた
土合駅のトイレの流し先を考えたら夜も眠れなかったことがある
>>93
バブル景気時代は、カネを儲けることも大事だが
それよりもカネを使うことに値打ちがあるみたいな風潮 >>93
wikiには上越線内で連結器が外れる大事故が起きたと書かれてるが
どこだったんだろ >>84
煙も吐かないし走行音も控え目だし、五感に訴えかけるものに欠けるというところじゃない? どうみても訴えかけるものが微塵もない荷電クモニ83
昭和55年くらいで物流の主役はトラック輸送に取られて荷電は下火
それでもときおり通常の電車に1両連結されていたし
稀に通常の電車につなげずに単独で5〜6両連結するとなかなかの壮観
写真に残さなかったのが悔やまれる
>>86
土砂崩れに電車機関車が飲み込まれなかったのが奇跡
でも不幸にも国道側では・・・
地震は本当に嫌だ 荷電なんてよほどのマニアしか気づかないw
クモニ83は115系と組成すると雨樋の位置が揃って格好良かった
惜しむらくはカボチャツートンの塗り分け位置も揃ってれば言うことなかったんだが
逆に兄弟で組成すると雨樋が凸凹するというww
そういやカボチャだのサンドイッチって、本当に高崎の高校生どもが言い出したのか?
107や115の引退に際して突如出てきたから、また鉄ファン誌あたりが創ったのかと思ったんだが…。
カボチャツートーンの前の、
黄色と赤茶色の組み合わせは「リンゴツートーン」などと呼ばれてました。
どれもみんなマニアの間で使われ始めた呼び名で現場従事者にとっては耳馴れないものであったそうです。
聞いたこと無いオイラはマニア呼ばわりはされないな、よかった。
いつ頃から誰が言い出したのか、Pトップだのパックだの、1118がゲッパなんて語源からして解らんわ。
高崎駅で荷物の積み降ろし光景を見たことがあるが、
機械はおろか台車さえ使わず、職員のバケツリレーで片付けていた
機械にまかせられる仕事を何人もの人間にやらせてるわけは、
機械化は合理化につながるので労組が反対してるという話だった
でも結局の所合理化すると人が余る訳だろ?
国鉄の場合新規事業とか難しいから
余った人遊ばせとくしかないじゃん
そうしたら合理化になってないよな
だったら人がやるのが合理的だ
そりゃ合理化ネタと言えば駅務よ
駅の中にある庭の盆栽を手入れすることだけが任務の人も居たって話だからな
こんなことしてたら人件費だけで儲けがぶっ飛んで赤字になるのはあたりまえ
小千谷のような地方都市の玄関駅だと軽く20人以上が常駐してたのでは?
町の中心駅でも何十人も職員がいそうな雰囲気はあったな
今や駅長もいない業務委託駅みたいな感じ
質問させて下さい。長年の謎です。
私は昭和43年生まれですが、幼稚園か小学校低学年の頃の話です。
父親に抱っこされて、六日町に住むばーちゃんの見送りに大宮駅のホームにいました。
急行佐渡が入線してきました。
はっきり覚えています。少し錆の浮いた、佐渡のヘッドマークを…
で、ここからが質問なのですが、佐渡に乗りこんだばーちゃんが、つり革につかまって私に手を振っていました。ちょうどドア袋の辺りかな?記憶では。
佐渡につり革ってあったのでしょうか?
ばーちゃんは既に亡くなっています。
私はあんまり鉄道には詳しくないんですが、湘南カラーで佐渡のヘッドマークはハッキリと記憶しています。たぶん165系だと思います。
客室出入り口付近だけ、つり革仕様の佐渡ってあったのでしょうか…?
>>116 駅の売店で着脱可能なつり革売っていて、デッキまで満員の長距離列車では役立ったよなあ。それ使ったんじゃないの? 売店で売っていたつり革、一本人気がリコ式のだった。上越線急行の車内で、地下鉄丸ノ内線に乗って通勤している気分を味わうのがブームになっていたからなあ。トンネルを抜けるとそこは後楽園だった、という気分!
かつての上越線の写真を見ると、新潟側の架線にツインシンプルカナテリー区間があって、運転密度の高さを感じさせる。
でも、普通列車は日中1時間に1本位か。新前橋辺りはもっと多いけど。
土合駅の地下の待合室で駅寝したヤツがいたけど、冬は意外と暖かったらしい
外よりはヌクイって事じゃないの?
土合駅の地下待合室で一晩過ごすの怖くて嫌やな。。