日本の夜行列車も2019年7月現在で定期運転しているのはサンライズ「出雲」・「瀬戸」だけになり、臨時列車で
何とか走っている「ムーンライトながら」も一時期より運転数を減らして残すのみとなり、
これらもいつまで運行が継続されるか不透明な状況で今後が気になります。
その一方で「ななつ星」「四季島」「瑞風」「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」など、豪華な客室を売りにする
寝台列車は従来の夜行列車とは全く趣向が異なる、ツアー方式クルーズトレインへの業態転換が特徴です。
当スレでは、もはや輸送列車としては絶滅寸前となった夜行列車全般について、
過去の列車の思い出話を中心に語ることで雑談などをします。
辛うじて現役である列車やクルーズトレインは、鉄道路線・車両板の個別スレでお願い致します。
※個別スレへのリンクは>>2以降で
前スレ(夜行列車総合スレ★16@鉄道懐かし板)
http://2chb.net/r/jnr/1549693515/
鉄道総合板の夜行列車総合スレ(★14)はこちら
http://2chb.net/r/train/1517052329/ スレ立て、お疲れ様です。ムーンライトながらの運転規模縮小は気になっていました。
時々、閲覧することにします。
もう臨時ムーンライトながらもスズメの涙みたいだけどそろそろ終焉なのかも知れない。
昔は毎日運行の鈍行夜行(普通・快速夜行)が国内に9系統走っていたので本当に便利に使えて
ゲーム感覚の鈍行夜行列車だけで長崎から釧路まで乗り継ぐ事ができてよき時代であった。
ただ残念だったのは青春18のびのびきっぷが発売された1982年には小樽と釧路を結ぶ
鈍行夜行の"からまつ"が廃止になっていたのは悔やむ。
>>1
スレ立ち上げ乙でした。 >>6
このスレの次スレが立つ頃には、現役の夜行列車は本当にサンライズだけになっているのかもね
30年前の人間が今の状況を見て「本当かよ!」と嘆くって感じなのかもなぁ >>7
30年前なら分割民営化直後で、夜行列車の退潮が取り沙汰されていたので、
ある程度想像されてたかもしれない。
いや待てよ、1989年のバブル期は「北斗星」ブームや、関西からの「ムーンライト」シリーズなど、
夜行列車が復権しかけていたので、もう数年前後するのがいいか。
1993年なら九州ブルトレの食堂車廃止や、上野口夜行列車の整理などで退潮傾向が再度
明らかになったので、その時なら想定できたかもしれない。
また1984〜86年の国鉄末期も、夜行列車がかなり削減されたので、その時期も30年後は
絶望的と想定されたような。 安心しろ。
夜中に走る貨物があるかぎり「夜行列車」はなくならない。
自分にとってJR化になった後の夜行列車削減が目立ったのは1993年と1994年
まりも・妙高・かいもん・日南・八甲田・津軽・ゆうづる・出羽・中央夜行421M・
あさかぜ1・4号・みずほ・つるぎ・さんべ・の廃止と臨時列車化と臨時天の川と
臨時おが、臨時十和田、臨時おいらせの完全廃止。
当然この後も東京発着ブルトレ全廃など夜行列車廃止の波は来るけど1993年と
1994年の17種廃止は夜行列車全廃に於ける布石なのだと感じた。
スレ建て乙
>>3のほどちゃんの島ってサイトまだあるんだね、昔よく見てたので懐かしい
今や「寝台車にのるには」の項も歴史的資料になってしまった
比較的新しい話になってしまうが、個人的に2005年のあさかぜ・さくら廃止あたりから加速度的に減っていった印象がある
この年の正月に「あさかぜ」乗ったけどガラガラだった
最後尾にカメラ据えてずっと回してるような人もこの頃はまだ見かけなかった >>9
その意味では「夜行旅客列車スレ」とすべきだったんだろうかw
>>8他
いずれにしても、新幹線の延伸(+幹線の3セク化)が止めを刺す一因になったのは
言うまでもないんだろうけどね
それなりに人気はあったはずの北斗星・カシオペア・トワイライト・はまなすさえ
あっさり消えることになっただけに >>12
昔は郵便や荷物を扱うついでに客扱いしていたような夜行普通列車もあったからどうだろ >>12
その新幹線のおかげでJR北海道は破たんの危機 >>10
それとあけぼのが地元(東北本線沿線)と縁のないものになっていく過程を経験したから
00年代以降の各地で起きた廃止もそりゃ当然だし単に夜行廃止だけで終わるもんじゃないよなという感じで醒めた感覚で見たのはまああった 大きな節目は1994年の単純な減便開始からやね
その後サンライズとカシオペアを製造するも見切りをつけたようで
あとは車両の寿命と運命を共にしただけのこと
歴史をまとめるとこんなもんやで
カシオペアはJR北海道が1998年に新幹線建設と言い出したから
※客車の減価償却は20年
サンライズは諸説あるものの、
一番可能性が高いのは、福知山経由で残さなければならなかった山陰出雲と下関あさかぜの併結運転による時刻変更がひどかった
下関あさかぜ(客)東京1900→下関0955、下関1650→東京0733
山陰出雲(客)東京2100→出雲市1057、出雲市1739→東京0657
>>17がバカなのは自分で草を付けていることからも明らか 北斗星・カシオペア・トワイライト・はまなすの廃止は客車の老朽化と
機関車の老朽化と青函区間を走れるAC25KV電気機関車の新製がないから
他にも廃止要因はあるけど
北海道新幹線がいよいよ現実のものになろうとしていた頃のパンフには、三線軌で新幹線と貨物列車がすれ違っているイラストの下に
「夜行列車については、(どうなるか)まだ決まっていません」と書かれていて多少期待してたんだがなぁ
今思うとその時点で既に既定路線だったような書き方にも読めるけど
小学生のころ、直江津発長岡経由上野行きの夜行急行よねやまに何度か乗った
2歳下の弟と2人だけで、ハックルベリーみたいな移動だった
伯父に乗せてもらい、母に迎えに来てもらった
平和な時代だった
>>20
病院へ行け
>北斗星・カシオペア・トワイライト・はまなすの廃止は客車の老朽化と機関車の老朽化
新幹線への集約による使用用途損失
新幹線は1編成で一日4往復できるが、北斗星は1編成で一日0.5往復しかできない
はまなすは上記によるDD51廃止が原因
さらに共用区間となった青函トンネルは閉塞と整備の関係から運転本数が決まっており、まだ不足している貨物列車を減らすか新幹線を減らすかしない限り、定期夜行(寝台も含む)を入れる余地すらない
カシオペアは電源車以外重大な故障で運転日を数回連続して運休したことがあったのか?
>青函区間を走れるAC25KV電気機関車の新製がないから
上記より使用用途損失で牽引する列車がないため、機関車は不要 >>23訂正
新幹線は1編成で一日「2」往復できるが、北斗星は1編成で一日0.5往復しかできない
(東京−新函館北斗1往復、東京−新青森1往復) カシオペアが入ってるところがなんだかなあって思うが、20も23も強ち間違いではない。
卵が先か鶏が先かっていうだけ。
カシオペアにしたって当時の交通新聞にJR東との持ち合いで増備の話を
一日一回しか客を運べないものに投資する余力はないから断ったと
当時の柿沼副社長のインタビューが載ってたしなあ
昔は「よねやま」は夜行だったんだ。
知らなかった。
長岡経由の直江津行き昼行急行のイメージしかなかった。
>>11
東京駅でのブルトレは、90年代半ば頃からガラガラだった。
食堂車全廃、阪神淡路大震災の長期運休で、利用者減に拍車をかけていた。 >>29
99年の禾重の「富士」ルポだったかで、合計で1両か2両で事足りる程度の客しかいないというのがあったと思う。
ガラガラの列車追跡はそのころ既に珍しくなかった。 東京駅で通勤帰りの客が下り東海道のホームにあふれてるときに
無駄に空気運んでる寝台特急とかが出発していくのは腹だたしかった
小田原発にしとけと
どうせ小田原発だったら>>31みたいな奴は
東京駅で通勤帰りの客が下り東海道のホームにあふれてるときに
無駄に大荷物持って小田原発の寝台特急に乗りこむ客が同じ電車で移動するのが腹だたしかった
飛行機か新幹線にしとけと
みたいな感想しか持たなかったと思う 寂しい話だね。確かに自分が社会出た90年代半ばには九州出張でブルートレインは選択肢に無かった。
昨日秋田今日鹿児島とかのハードスケジュールだったし。ある時同僚が帰りの飛行機が撮れなくて困っていて、面白いからブルートレインの夜行で帰って来れば?と言ったらすかさず「アレは嫌だ」と拒否されたw
80年代だと特に瀬戸内海沿い工場へのサラリーマンの人とかよく乗ってた気がするが。
東京駅出て有楽町新橋のホームのサラリーマン見るとあの人達は普通の日常送ってるんだなと少し感傷的になったものだ。
急行よねやまは、上野発はam7:30発前後だったんだが
1978年ころまで京浜東北線南行きで通勤していて、よく上野から
鶯谷駅のカーブですれ違ったもんだったが・・・記憶違いか?
尾久に回送する寝台特急・急行型電車の隙間を縫って大宮方面に走っていったよ。
JR東日本の夜行急行は最期まで絵柄テールサイン作らなかったな
津軽
八甲田
妙高
アルプス・・・
津軽のHMはイベントのお遊びで見たことはあるけど
北陸民だが、関東出張では特急北陸のB個室ばかり使った
多分50往復はした
東京フリーきっぷで乗れたからね
駅前の焼鳥屋秋吉でふたふたになって車内シャワーを浴びてから寝るんだよ
新幹線などいらんかったのになあ
>>34
1994年夏に大阪へ恐竜博を見に行くのに往路は銀河のA寝台上段を取った。
山側だったので、当時の通勤経路の大森-横浜あたりの京浜東北線ホームに並ぶリーマンの皆様におっつーwwwという気分に。 >>37
大阪〜金沢を先に造らなかったもんで大阪が大慌てしてるんやで >>37
北陸出身東京在住だが一度も乗らなかったな。
上越新幹線とはくたかか、夜行バスでいいやってなってた。
一筆書きで名古屋経由もよくやった。 >>35
上野7時30分前後は、佐渡1号でなかったか。よねやまは上野を9時台発だったような気がする。
>>36
20系おがで、なまはげを模したテールサインを作った。 >>34
東京〜鹿児島県下は20時間程かかっていたので、避けたい気持ちは確かにある。
食堂車営業がなくなってから、東京〜博多でも選択肢から消えたのでは?
どちらかの時間帯が悪く効率悪くなり、食堂車で気分転換しにくくなった。
売店扱いのフリースペースでは、わびしさが漂って仕方ない。
それに食堂車営業廃止と同時期に、地下鉄が福岡空港へ延伸したし。 東京発着ブルトレの食堂車は1980年頃までだよな
沿線の郷土料理やメニューも多く、車内で揚げたトンカツやエビフライを
車内で食べられてコックも2〜3名乗って食堂車は活気があった
当時は開放B寝台コンパートメントが中心だったので個室といえば1976年
に登場した独房のようなまだ名も無き1人用A個室があっただけ
旧客や20系の52p幅3段蚕棚寝台を経験している身には25形の2段ハネは
何とも過ごしやすくて日中の相席BOXでも気にならなかったし、昔は
それが当たり前だったので苦痛に感じなかった
1989年の春に富士とはやぶさにソロが連結されたので乗りに行ったがソロは
北斗星のソロより機能的で素晴らしかったけど食堂車は劣化というか陳腐化
して最悪だったよ。メニューが少なく、コック1名だからレトルトやレンジチン♪
ばかりで凋落化しており、もう終わったと思ったわ
やっぱり日本食堂門司営業所・長崎営業所・米子営業所でないと・・・
>>43
在来線の昼行特急の食堂車が廃止になりつつあったから、食材等の
スケールメリットが得にくくなったと思う。 国鉄末期のよねやま
9:34 上野発
14:42 直江津着
>>37
自分は金沢市民だけど1989年に単身赴任の東京転勤が決まり、8年間は
出張での金沢⇔上野移動と年4〜5往復の実家帰省などの単純計算で100回近く
乗ってるけど北陸は12両中5両がソロでほぼソロが取れたけど急な出張だと
空がなくて急行能登のB寝台に救われた事もある。
寝台特急北陸が減車する前に乗れて満足だったけど今は定年を迎えて
子供たちも独立したので夫婦で金沢市に住んでるけど昔がなつかしい。 >>42
昭和51年〜昭和54年頃の目撃談で書いたつもりなんだが
急行佐渡・よねやまが併結して運転していた時期はこの頃に
ないんだったろうか?
時間は、あさの通勤時間だったから間違いはないのだが
あの頃の京浜東北線は103系10両編成で3+7or4+6だったか記憶は薄い!!。
大船側が7or6だったかな?で、大船側が高運転台で順法闘争の時代で、
運転台の日除けに新聞を挟んで読みながらの運転(現代では考えられないが)の時代であった。 >>42
9時台発だねよねやまは上野も直江津も
521列車が柏崎と直江津の中間あたりでよねやまの通過待ちをしてた記憶ある。521列車も522列車も523列車524列車も途中で快速や急行通過待ちがやたら多く4列車とも全区間乗らなかったの残念。 49氏の京浜東北103は低運クハ挟んで80年代半ばまであって、たまに方向幕が大磯とかなっててインド人もビックリ、じゃなかったかな?
北陸のアニキさん達には失礼ながら距離から言っても真っ先に廃止されると思っていたのが最末期まで残ってたのが意外 。
wiki見ると、北陸は3桁鈍行→急行→特急と出世魚みたいな列車。昭和30年代前半は大阪ゆきのだった頃もあるとあるので31年の時刻表見たら福井発着で少し残念。
でも北陸601列車の後に上野発米原行きという香ばしい鈍行列車発見。日付けが変わる頃に発車するけど昼間1日走り続けて終着駅には夜7時着というw
>>51
学生時代は寝台特急北陸になんか乗れなかった、周遊券で能登か越前の床ごろ寝ばかり、最後尾のスハフ・オハフから立小便したこともある
働き出して少し金に余裕ができてから常宿にしたのさ >>49
昭和51年〜昭和54年頃、急行佐渡・よねやまが併結して運転していた時期はない。
佐渡とよねやまは共通運用で同一編成だった。
>>52
風向きによってはションベン丸かぶりになりそうだなw
列車内からではないが、カーッペッって吐いた痰が逆風に乗って自分にくっついたという話もたまに聞く。 床にゴロ寝するような混雑だと、トイレに行くのも一苦労だわな
どうせタレ流しだし、トイレもデッキも同じだ
最後尾妻面からのアーチ放水
走行中にデッキからいたせば間違いなくびちょびちょになる
>>49
佐渡・よねやま以外に、当時上野口の165系は、ゆけむり・なすのなどもあった。
また信州・妙高などの169系とも区別が付いたのかも疑問。
7時台発の妙高か信州も当時はあったと思うが・・ 20系スレでスレチと書かれたヤツへ
>昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、
>旅は楽しいものでも快適なものでなく、劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。
「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
特急なので当然全席指定だから、
>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
なことはない
>>57
急行信州・妙高が169系なのは横川〜軽井沢でEF63を連結して協調運転するため
165系も同区間でEF63を連結して運転は可能だけど両数制限がある >>58
>「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
>特急なので当然全席指定だから、
>>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
>なことはない
2人の刑事が列車で九州へ向かったとは書いてあるけど、乗り込んだ汽車は特急「あさかぜ」だったと何処に書いてあります?
九州に向かう列車は「あさかぜ」以外はないのですか?
そしてその引用先の書き込みを見ると、乗り込んだ2人の刑事はその後一人が京都で座れ、もう一人も大阪で座れたと書いてありますよね?
特急「あさかぜ」は京都も大阪も乗客は乗り降りできないダイヤであったのはないですか? >>58
そして小説「張込み」の映画化は「昭和33年1月封切り」と書いてあるよね?
一方で、あさかぜの運転開始は「昭和33年10月」とも書いてあるよね?
であれば、↓の結論はおかしくないですか?
>「あさかぜ」はその1956(昭和31)年11月から運転開始
>特急なので当然全席指定だから、
>>汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、尻を下ろして一夜を明かした。
>なことはない 特急「あさかぜ」は昭和31年11月から運転しているワケ
「冷房がない。蒸気機関車牽引区間で煙が入るから苦痛」と言われればそれまでだが、
少なくとも急行みたいに床に新聞紙を敷いて座るような環境ではない
その夜行急行「さつま」の対比として、夜行客車急行の環境が改善(全冷房化)されるのは、
(寝台 昭和41年前後)
夜行 昭和48年10月からの「音戸」・「きたぐに」から
横川駅からあさまの(長野行き)の後方に電気機関車が連結されました。
それが、私の初めての横軽経験で昭和の50年代前半の出来事。
軽井沢の西武百貨店に電電公社へ提出するFAX取り付け申請書に
捺印を貰いに日帰り出張で行ったのを思いだしたわ。
蒸気機関車が出すばい煙との闘いが昭和50年まで続いていた
だから、いまでも都会のバカが気動車に乗ったら、トンネル手前で窓を閉めず、他の乗客が注意されることしばし
ID:XaBN2OXHは急行と特急の区別もつかないちょっとおかしいやつなんだろう
種別の正確さも理解できないお子ちゃまかい?(ケタケタ)
老害以前にこの趣味で特急・急行区別できないのはヤバイだろ
どーでもいいんですけど他スレの揉め事持ち込まないでくれませんか
このスレが一番よい話題だね
新幹線が遅れた影響をモロ受けた客車
50系客車なんかつくらんで旧客を使いたおせばよかったのになあ
あの赤い客車はいつ見ても吐き気を催した
地方都市で旧客通勤列車の転落事故がシャレにならんくなったからな
筑肥線に1本だけ残ってた朝の東唐津発博多行で博多駅到着直前に転落した高専生がちょうど入線してきた回送まつかぜ号に轢かれ死亡したのが大きなきっかけだったらしい
この列車は以前から転落事故を繰り返していて地元新聞に載ってたとかこの数週間前にも女子高生が室見川鉄橋で列車から転落する事故が有ったとか
まあここの場合は路線もろとも廃止になって地下鉄に移行したんだがね
別府ヤングセンターへおいでの際は特急富士でどうぞ。
昭和31年時点であさかぜは10両編成で登場、
10両だけど三等はナハネとナハで速度維持
する為に編成軽くするのに随分苦労してた
のがわかる。でもその後20系化される前までに
3両増結が可能だったのは蒸気牽引区間がC59
から62にかえられたとかかな?
秋田出身の友人とその周囲は設備面で50系は好意的に受け止めてたな。
ただし、赤字の国鉄が真っ赤な汽車ってどういう冗談だ?と言ってた。
我々リアルヤングからすると口にするのも恥ずかしい名前だがますます繁盛の様子。自炊1泊
4500円でお芝居付き。帰る日もお芝居見てゆっくりして帰ってねの巻。
だいたい鉄輪温泉は旧型客車みたいな居心地の宿が多いねえ。
はやぶさを待つのに時間があり、小倉でパチンコをしてフィーバーしてしまい、
泣く泣く打ち切った苦い思い出w
50系客車だったら、快速海峡が好きだったなぁ。
今考えたら、ED79の電気暖房のインバーターで冷房を稼働してたって言うし。
10系寝台車も冷房は電気機関車のインバーターで稼働すれば良かったのに。
>>78
転落事故って単に落ちた奴が馬鹿なだけでは?
自然淘汰じゃね? そう思うのはお前の勝手だが、世の中は違うようだな。
つまりお前自身がバカかなのかどうか、何かしらの問題があるって事です。
子供の頃姉ちゃんが
宮城道雄は便所の穴から転落した
と嘘を教えやがった。
盲目でトイレに入るのは難しいからとドアからおしっこしようとして落ちたんではなかったか?大検校の権威損なうから遠慮してあまり言われなかったみたいだが。
教え子の高峰秀子自伝によると三味線のお師匠している間は凄く厳しいが、そう出ない時は動き回ってよくコケたらしい。
今だと銀河で移動ってなんか質素だなと思うが当時は進駐軍車両上がりのマロネ40連結した別格の急行だった罠。
>>85
ああいう使い方もあるんだなと感心した。
貨物の50番台にも装備していたし。 >>77
50系客車で唯一夜行列車で運転されたのは、高松〜高知の快速だなw 10系寝台車は鹿児島線日豊線山陽線北陸線東北線位しか運用なかっただろう。
後はスハフ12系と20系寝台車連結したり。
青函トンネル内の北斗星、はまなすも電源車のディーゼル発電止めて、電気機関車から電気引っ張った方が安全だったんかな?
>>93
台湾のように非電化区間のみ電源車を着ける方法がある。 技術進展に伴い、それほど消費電力もなく、かつそれほど長時間停車もなかったからできたこと
カニ22時代には
直流区間で電圧変動が大きくて給電電圧では賄いきれず、ディーゼル発電も併用しただの
架線温度の上昇があったことから、停車時にカニパンが接触する架線箇所は径の太いものにしただの
昭和30年代後半と違って技術が進んだなぁと思わせる記録ばっかり
おそらく昭和50年代後半に入らないと停車時においても機関車からの電力供給は難しかったと思われる
蟹22の電動発電機って電気を力エネルギーに替えてそれをまた電気エネルギーに変換。モータを回してブラシ消耗、発電機回してえブラシ消耗、巨大モータと巨大発電機自身の半端ない重さって気の遠くなるような効率悪さだよね。
>>95
当時の国鉄が何のために軽量客車を導入したかを考えましょう 機関車の電暖用電源供給は長大編成だと間に合わないのでは?
10系寝台車は編成中3両から5両だったし、
青函トンネル内では貨物列車ED79重連で485系6M2Tだったから。架線電圧的には大丈夫?食堂車が不安だったなぁ
まぁ北陸、東北は全部が電暖車だから繋げばいいだけの話なんだけど、非電化区間や
電暖車使ってない所を考えると制約多くてやらないな
>>99
どうなんだろうな。前も少し話題になったけど、電暖容量が約300kVA。581は150kVAx2で
10両いけたからそのくらいはいけるけど、北斗星は11両でも食堂車あるから足りないだろうし
函館で電源車用意して繋げてってのは向きもあるしやりたくないだろ
>>97
ディーゼルエンジン+発電機より軽いし効率いいしメンテも楽だけどな
問題はMG、DG両方とも載せたこと
後出しで考えてもこんだけ否定的な要因あるんだから電源車で正解なんだよ しかし終戦直後とかはものすごい人数の乗客が客車の屋根上や機関車の炭水車のうえにへばりついてたというのに、その当時の夜行列車は転落事故は起きなかったんだろうか
>>100
交流20キロボルトだから問題ないでしょ
電流値小さいし >>101
東北(黒磯)スジと大阪−米原−北陸(要するに米原経由の「きたぐに」)が両用
冬場「きたぐに」は
電気暖房は停車時切るため走行時に蓄熱のため強くしていたら、下段寝台の乗客から「熱い」と言われ、
電気暖房→蒸気暖房の時は、凍り付いた蒸気管が溶けるまで冷蔵庫となり、乗客から「寒い」と言われ、
ろくなことがなかったとの由 >>104
東北筋はEF58も電暖仕様だったけど
ついでにEF57も電暖仕様に改造してた >>105
指摘サンクス
昭和30年代の客車列車を眺めすぎていたら、つい忘れていた
宇都宮EF58電暖化 昭和45年〜
宇都宮EF57電暖化 昭和40年〜 急行きたぐに復活して欲しいなぁ。
特急きたぐにでいいから。
サンダーバード付属編成とか気動車はまかぜ3両とか
大人の事情で絶対無理いやそれどころか北陸新幹線敦賀開業分断乗り換え必須w
あいの風だけは乗り気だがほかの二社が反対しそうなイメージ。
>>102
バングラデシュへ行けば、その答えが見つかるかもw 1970年代の厳冬期に札幌から急行利尻に乗ったが、旭川駅の26分停車で
機関車交換(ED76500→DD51)に変わるためSGの暖房送気が止まると車内は
急に冷え込み、DD51が連結されて蒸気が送られて来ても外気がマイナス13度
もあるため、中々適温まで上がらずにやっと暖かくなったら今度は暑すぎたけど
塩狩峠に差し掛かると外気温が更に下がったのか、今度は適温になったと
思ったら寝てしまった・・・今更ながら極寒の蒸気暖房の難しさを感じた旅であった。
東北線電暖化された後も年末年始臨でゴハチがSG炊いて走ったというのが面白いね。ボイラー運転出来る機関士の手配とか給水とか色々運用面で電暖とは勝手が違ったと思われるが問題なかったんかな?
>>116
暖房罐扱うのはボイラー技士もってる機関助士 割と遅くまで関門を越えてた旧客夜行は急行さんべだけど下関到着から門司出発の間は暖房無しだったんだよね
およそ20分程度の暖房カットでも問題にならないんだから九州の冬は楽だな
>>116
荷レで使ってた56はSGで残ってたし、特に問題はなかったんでは
>>115
自分が利尻に乗った時は塩狩越えるのに後部補機ついてたな。暖房補機だったのか知らんけど
ちゃんと汽笛合図してて後ろからも推してるのがわかった いったい神岡行きはどうなるのかと不安になり駅員に尋ねると、この「のりくら7号」の後部6両を切り離し、前の3両が神岡行き、後ろの3両が途中の猪谷まで行くのだと言う。
細かい表現は違っているかもしれないが、「時刻表2万キロ」の第一章。
そもそも名古屋からの夜行「のりくら」は何両編成だったのだろう。富山で切り離す付属編成が6両なら、最低でも3両は金沢まで行ったのではないか。とすれば富山までは9両で運転されていたのか。
昼間の「のりくら」と編成を合わせるためだろうが、新聞輸送がメインのような夜行急行を長編成にして、乗車率がどのくらいだったのか気になる。
急行のらくろ(のりくら)
急行ドラえもん(かいもん)
特急のんき(南紀)
今月発売のピクはサンライズ特集だが、個室車も取り上げられ、幅広い資料となっている。
通常号では特に買って良かった。
鉄道ピクトリアル9月号の「特集:サンライズ出雲・瀬戸」と
「285系車内カタログ〜ようこそ"サンライズ瀬戸・出雲"へ」は
読み応えがあった。客車時代の「出雲」「瀬戸」も懐かしく読んだ。
上野〜青森間の東北・常磐線夜行急行に最後まで旧客グリーン車を連結してたのは十和田5号・2号が最後だっけ?
>>125
1979年10月の急行十和田5号・2号の12系化で旧型グリーン車のスロ62が編成から外された。
因みに急行八甲田と急行津軽の旧型グリーン車は1980年3月まで、上野発着の上越線・信越線経由の
夜行だと急行能登・急行越前・急行鳥海が全て1982年11月14日にて旧型グリーン車が外されてる。 長距離夜行にロザの需要がなくなったんだね
今ならボックス席よりリクライニングできる方が長距離なら需要ありそうだけど
オロ12かオロハ12を見てみたかった(ジョイトレ除く)
昔は出張規定でグリーン車は良いが寝台車は不可って所が結構有ったからね
新幹線博多開業まで博多あさかぜにグリーン車が連結されてたのはそのせい
>>126
旧型グリーン車「津軽」は1978年10月まで、「八甲田」は1979年3月までだろう。
だから>>125は正解で、「十和田」の12系化に伴い外された時期は合っている。 1985年の夏休みに新幹線と583系はつかり号乗って三戸の祖父の家に帰省した。3日後に三戸から立席特急券で客車ゆうづるに乗って青森まで行った。青森では今はなき特急むつ、特急たざわ、寝台特急日本海を撮影した。
俺のおやじの田舎が渋川なので上越線の夜行急行列車も好きだったけど謎なのが急行鳥海が渋川駅を停車していたこと。メリットあったのかな?もちろん上りは早朝なので通過してたけど。
>>128
意外だな。
そのころのB寝台なら(長距離なら今でもそうだが)、グリーン料金より寝台料金の方が安くつくだろうに。A寝台不可なら理解できるが。 >>125 >>129
十和田は12系化でロザなくなったけど、津軽は12系化しても10系ハネにしばらくはスロフ62
ついてたよな。秋田回転車のハネがつくからハネとロネにロザが挟まれてハザは
12系というおかしな編成だったの覚えてる。どっちもなくなったのは55.10じゃないのか >>131
下り急行鳥海は渋川駅(23:02-03)に停車してるね
上り鳥海は通過になってるが上り夜行列車だと
上り急行佐渡4号(708M)が渋川駅停車(3:02-03)だが
この時間帯に利用客があったのかは不明 >>133
この編成表で見ると「つばさ」「やまばと」が6号車がグリーン車の同一編成。「あけぼの」が20系だった模様。
「あけぼの」は55.10に24系に置き換わっているので、この編成表は53.10〜55.9のものだろう。
上野〜青森「あけぼの」は24系化後に、秋田切り離し車両は無くなってるはず。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%80%A5%E8%A1%8C%E6%B4%A5%E8%BB%BD+%E6%99%82%E5%88%BB%E8%A1%A8#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0 >>121
1982年9月に金曜に名古屋から金沢まで利用したが乗車率は1名/ボックスなので25%程度。
名古屋を出た時は11両で途中富山で7両切り離して金沢まではハ+ロ+ハ+ハの4両。
富山切り離しの中にキユニ26?28?が連結されて名古屋での積み込みが慌ただしかった。
名古屋を発射すると岐阜で「あさかぜ」を先に通過させてから高山本線に入って行ったっけ。
途中の分水嶺でエンジンの轟音で目を覚ました記憶がある。
乗客は富山までの登山者、ハイカーが大半で富山〜金沢間は空気輸送みたいなもの。
当時、福井に朝早く着きたかったのでこの列車利用したのだが今からすればいい思い出。 1982.11.15の「前日発」まで
越前 スロ62(スロフ62の時あり)
金フイ 番号 廃車日
2060 83.11.01
2108 83.11.01
フ2032 82.10.25
能登 スロ62(どちらともその前日(13日発)まで)
金サワ
2056 83.11.01
2057 83.08.02
2058 82.10.25
鳥海 スロ62(秋田発はその前日(13日発)まで)
秋アキ
2021 83.08.05
2026 83.08.05
2052 83.11.01
>>138
1980年10月に名古屋駅から乗車した夜行急行のりくら9号は金沢から七尾線経由で穴水まで延長され、
更に穴水から能登線の珠洲まで延長運転されるロングな運転を行っていたのを覚えてる。
急行「のりくら9号」は早めに入線していたが、荷物車のキユニ26新聞輸送(名古屋発行の翌日の朝刊輸送)が
使命だと何かの本で読んだ事があるけど自分が乗車した日は所定の急行「のりくら9号(707D)」の
名古屋→富山間に富山地鉄乗入で立山行臨時急行「むろどう号」(富山4:45→立山5:40)を併結して、
編成がめちゃくちゃ長くて深夜の高山線を行くローカル気動車の夜行列車には見えなかった。
急行のりくら7号(707D→6707D→423D)時刻
名古屋23:49、尾張一宮0:04、岐阜0:15-22、美濃太田0:50-53、飛騨金山1:33、下呂1:56-57、
飛騨萩原2:02、飛騨小坂2:22、高山2:54-3:01、飛騨古川3:19、猪谷3:58-4:00、越中八尾4:19、
富山4:36-41、高岡4:55-56、金沢5:27着(ここから季節臨のりくら7号「6707D」)5:34発、津幡5:44-44、
羽咋6:14、七尾6:36-38、和倉6:44、穴水7:14(ここから普通423D)7:20、中居7:27、比良7:31、
鹿波7:35、甲7:41、前波7:47、古君7:51、鵜川7:55、矢波8:00、波並8:04、藤波8:08、宇出津8:12 83年4月1日客車配置のうちスロ62・スロフ62
注記なき場合は2休
秋アキ 2021、2026、2052(秋アキはすべて1休)
静ヌマ 2061
名ナコ 2076、2086、フ2010、フ2027
長ナノ フ2026(現役)
>>131
旧客だとドアが手動(というか事実上開けっ放し)なので本来運転停車でも営業停車にしてる
ケースがある(乗降可能なので)ね
瀬野とか都農とか
渋川がどうかしらんが(佐渡は違うだろうが) 飛行機のファーストクラス並みのシート・シートピッチなのに、
内装が12系ノーマルそのままという、実に素晴らしい仕様だった
>>146
オロ12は四国どころか、本州や九州など全部で 70両以上がお座敷列車や欧風列車で在籍していた時代もあった。
臨時夜行列車ではゆうゆうサロン岡山を使ったゆうゆうサロン瀬戸内やユーロライナーを使ったカートレイン・
ユーロ名古屋や名古屋圏のシュプールで夜行列車としても運転実績がある。
JR東日本
お座敷列車・なごやか (1981年 - 1997年) - 東京北鉄道管理局 オロ12 805〜808 計4両
お座敷列車(カヌ座) (1981年 - 2002年) - 新潟鉄道管理局 オロ12 706・オロ12 809〜812 計5両
お座敷列車・白樺 (1983年 - 1996年) - 長野鉄道管理局 オロ12 837〜 840 計4両
お座敷列車・くつろぎ (1983年 - 1999年) - 高崎鉄道管理局 オロ12 841〜844 計4両
お座敷列車・やすらぎ (1986 - 2001年) - 高崎鉄道管理局 オロ12 853〜856 計4両
お座敷列車・ふれあいみちのく (1986年 - 2002年) - 盛岡鉄道管理局 オロ12 845〜848 計4両
お座敷列車・江戸 (1986年 - 2000年) - 東京南鉄道管理局 オロ12 849〜852 計4両
お座敷列車・オリエントサルーン (1987年 - 2000年) - 仙台鉄道管理局 オロ12 857〜860 計4両
欧風客車・スーパーエクスプレスレインボー (1987年 - 2000年) オロ12 715 計1両
JR東海
お座敷列車・いこい (1982年 - 1997年) - 静岡鉄道管理局 オロ12 821〜824 計4両
お座敷列車・(ナコ座)(1983年 - 1999年) - 名古屋鉄道管理局 オロ12 829〜832 計4両
欧風列車・ユーロライナー (1985年 - 2005年)- 名古屋鉄道管理局 オロ12 829〜832 計4両
JR西日本
お座敷列車・いきいきサロンきのくに(1981年 - 2007年) - 天王寺鉄道管理局 オロ12 813〜816 計4両
お座敷列車・旅路(1981年 - 2007年) - 広島鉄道管理局 オロ12 817〜820 計4両
お座敷列車・サワ座(1982年 - 2006年。1993年再改造) - 金沢鉄道管理局 オロ12 825〜828・825・827・828 計7両
お座敷列車・あすか (1987年 - 2016年) - 大阪鉄道管理局 オロ12 851〜854 計4両
欧風列車・ゆうゆうサロン岡山 (1985年 - 2011年)岡山支社-オロ12 707〜710 計4両
JR四国
(波動輸送用) (1988年 - 2010年)四国鉄道事業本部 - オロ12 5・6・9・10 計4両
オロ12 5・10の2両を座席2+1列配置、読書灯・足置き付きのリクライニングシートに、
オロ 6・9の2両は車内がカーペット敷きになっている
JR九州
欧風客車・パノラマライナーサザンクロス (1987 - 1994年)門司鉄道管理局 -オロ12 711〜714 計4両
お座敷列車・(海編成) (1980年 - 1994年) - 門司鉄道管理局 オロ12 801 - 804 計4両
お座敷列車・(山編成) (1983年 - 1994年) - 門司鉄道管理局 オロ12 833 - 836 計4両 強風の余部橋梁で落ちて終了した「みやび」はオロ12じゃなかった?
(ジョイトレ除く)っていうのが読めない連中の「すくつ」なんですねわかります
>>127
61.11以後のかいもん・日南の12系を知らんのか?
末期は50系の垂れ流しトイレ使用閉鎖に伴うトイレ設置のため、久大本線の普通列車に必ず1両以上つながれていたけど >>155
知らないのはお前だろ
転用した座席が元グリーン車用というだけで
グリーン車の扱いは客扱い上も形式上も一度も受けたことはない あのオハは周遊券旅には最高だった。
当然窓割りは合ってないけど。
盆の帰省シーズンの満席な日南で、小倉で座席転回してしまってゴメンね、正面(小倉まで後部)のオネエチャン。転回してくれたらお互いに足伸ばしてゆっくりできたのに。
>>156
でも「リクライニングできる方が長距離なら需要ありそうだけど」は満たしているだろうがバカ
12系3000番台を書かなかったことくらい察しろ愚か者 >>152
>>148って自分の知識を自慢したくてしたくて書きこんでニンマリだったんだろう
最初にジョイトレ除くって書いてあるのも気づかずに 普通車でリクライニングシートが使われ始めたのは、1972年製の183系0番台が最初
もちろんあの悪名高いR51ノーマル
ストップ機能が付いたR51BNは1978年製から
そういえば普通車でリクライニングシートが使われ始めたと言えば
14系座席車も1972年登場で定期夜行急行では1975年3月10日から
急行阿蘇、くにさき、雲仙、西海に使われ始めた。
当時九州内のワイド周遊券やミニ周遊券でも乗れて関西エリアから
費用をかけずに夜行列車で移動できたので学生時代はよく世話になった。
183系電車を夜行列車で乗ったのは急行アルプスの末期くらいだと思う。
>>158
あのね、そんな末期の特殊な改造例でドヤ顔してもらうために書いたんじゃないの。全国津々浦々で運用されていた現役バリバリの時代の話をしたまで、
まぁ空気読めないのが治らない奴に言っても仕方ないがな
スレの流れを淀ませてしまいその他の人(´-ω-`)スイマセン
変な奴と同一ボックスになってしまった気分だ、、デッキに移動して床に新聞紙敷いて凌ぐかw どうでもいいな
ヲタが妄想に条件つけてレスして、それを無視した老害ヲタが、シランのか〜って知識自慢
いつものヲタの日常
>>149
最後までよんだのでつね
まあ最後まで読まないから152のようなレスになるわけですが >>162
夜行快速のボックス席なら同一ボックスの3名分は子供で買えば
空気の読めない変な奴とかキモヲタと同一ボックスになる事は
なくなるから子供で買い占めて(750円の出費)しまえばええわw >>166
そんなことをやっていたから夜行が無くなった。 >>166のネットダフ・買い占め屋によって夜行がほぼ全滅した 本当はそういう席は車掌の権限で他の人に売り渡していいことになってるんだけどね
クソ馬鹿が買い占めやがったらたいていの奴は出かけねえんだよアホ
五輪チケットは転売禁止されてるんだっけ?
1000万円でも売れそう
ムーンライトえちごは2席厨が多い列車だったが、俺が乗ったときにも通路隔てた隣の席が乗り鉄風情の2席厨だった
その日は早々に指定券が完売してて、赤羽駅手前で車掌が切符拝見で来た時もレチが隣の席は空いてますかと確認したら
乗り鉄ヲタ風情が友達が高崎から乗りますと深刻してその後に長岡から乗るかもと惚けていたが車掌はもうアカンと
思ったのか離れていった。俺は磐越西線の224Dに乗り換えて223列車を撮影するために新津駅で下車したけど
結局その友達らしき人は乗らないで隣の席は空いたままだったよ。
何で車掌はその友達が乗ってくる駅まで指定席を他の立ってるお客に売らなかったのか理解に苦しむ
1994年12月だったのでムーンライトえちごではなく、ムーンライトでした
>>169
全席指定の列車で、マルスで残席がないなら始めから乗らないから、他の人に売ることはない。
自由席付きなら有り得るが、国鉄時代ならともかく、民間になった現代では万一の際のクレームが怖くて車掌もわざわざそんなことはしない。
制度の欠陥。 「指定席券」故の欠陥だな。
急行でやらかした輩は居たのかな?
>>172 実際にもう一人が乗らないとしても、全区間二席分の収入が入るわけだから、JRにとって損はないのでは。モラルの問題は別として。
その実質空席のところの指定席を第三者に売るとなったら、席確保している奴にお願いしてキャンセル手続き取らなくてはならないが、面倒なんでは? 「有効の乗車券と一緒に販売する」前提があったための盲点
一応、指定された駅から乗車していない場合は無効になる
西の車掌にしかりつけて2席厨の席をはく奪させ、無理やり発券させたことがある
2席厨はダダをこねたけど、乗車券を持っていないことが発覚して詰んだ
>>176 確かに、乗車券持ってなかったらキセルだわな。でも、指定席車両乗ったときに車掌が指定席券に乗車券確認するものではないのか?
車両巡回する暇がなかったのか? 大垣行きは、酔っ払いサラリーマンが眠ってしまい、乗り越して大慌てしたたな
急行能登もな
一時期高崎線の終電だったからやらかす人がいた
おやつに越後の笹団子が回ってきたのは車内販売で調達してたのかな
>>179
高崎で降り損ねると直江津だったもんなw >>177
空いてる座席で誰がどこから指定とってるのかもわからんのにか?
176のはバカがわざわざ「隣の席も俺が買ってるから自由に使うぜぇ♪」とか調子こいて二席分の指定席券を車掌に提示でもしたんだろ。
まあ176は自由席があったムーンライトかなんかかね。 >>181 >空いてる座席で誰がどこから指定とってるのかもわからんのに
最近では車掌が端末で各指定席の予約、空席状況確認できるようになってるわな。
誰かはわからずとも、端末でこの区間は空席と表示されているのに誰か座ってたら、おかしいとわかるだろ。
端末の無かった頃は、事前に予約状況確認してメモを作って、それと照合していたのだろうけど。
仮に車内検札で見逃したとしても、到着駅の改札で駅員が見張ってるから、こいつ全車指定席の特急に乗ってきたはずなのに、指定券持ってないのはおかしいと気づかれるだろう。
最近は自動改札が普及しているから、より厳密にチェックできる。 >>182 >乗車券分は丸損だろが
そのために車内検札で乗車券に指定席券などチェックし、必要なキップ持たないで乗っている奴がいないかどうか、寝ている客を叩き起こしてでも確認するわけだろ。 昔の「ジャーナル」だかに、車掌が「今日は空いてるさかい、ひとりで4席でも8席でも買うてや」と買い占めを促してるかのような発言をしたとの記載があった。在りし日の「ムーンライト九州」だった気がする。
列車が走っている限り、急遽途中駅から指定をとるものもいるということすらわからない車掌がいるんだな。
>>184
話が噛み合ってないっつうか、理解できないみたいだが、2席とって一人で乗ってるヤツは、座ってる席の指定席券を見せて終わりだわな。
そもそも空席に客が座ってる話はしてねえし。
指定席に客が座っていない話をしてるんだが。 >>179
>>180
1995年12月上旬金曜日夜に忘年会2次会で遅くなった帰りに乗った急行能登の
自由席に座って大宮までは起きていたのだが気が付くと下車駅の上尾は通り過ぎて
鴻巣を発車したばかりでこれ以上寝過ごす訳にはいかず寒いデッキで待機して
確か1:03着の熊谷で下車。
上り能登を待つのも面倒で熊谷駅からタクシーで上尾の自宅まで帰ったがもう
懲りて飲んだ帰りに能登を使う際は着席しない事を心に決めたよ。
当時の能登は信越線経由だったので高崎から先は横川、軽井沢、小諸、上田に
停車したので流石直江津まで行く事はないけど飲んだ帰りは要注意。 昔、種の列車追跡で、「能登」で酔っ払いが戻したというのがあった。
今では、昔に比べてゲーゲーやっているオッさんはすくなくなったような気がする。
20年以上前に上尾とかに住んで都心まで通勤する時点でアウト
昔、上司で五井だか姉ヶ崎に一戸建て買って移り住んでたのがいたが、20時過ぎると東京駅から電車がないといってた
>>166
>>187
旅客営業規則147条5項
同一旅客は、同一区間に対して有効な2枚以上の同種の乗車券類を所持する場合は、
当該乗車については、その1枚のみを使用することができる。同一旅客が、
同一区間に対し有効な2枚以上の指定券を所持する場合についてまた同じ。 但し特例として さくら、みずほ、あさかぜ1・4号 に連結した4人用B個室の
カルテットは3人分の乗車券があれば3名で貸し切る事が出来た時代はある
上尾ならまだいいんじゃないのか。
昔、ベッドタウンとして栄えたが都心から遠いために人気が下がっている街に、動物の名前がついているのがあると何かの雑誌で読んだ。
曰く、熊谷、牛久、龍ヶ崎…
持ち家とは書いてないのに勝手に飛躍してアウト判定か
親元かもしれない、借家かもしれない
RJの489系能登ルポで、定期で乗れる様になり、金沢レチの話として車内で急行券発券に追われてるとあったな
>>192
>昔、上司で五井だか姉ヶ崎に一戸建て買って移り住んでたのがいたが、20時過ぎると東京駅から電車がないといってた
ネタも大概にしたほうが良いぞ 呑むたび横須賀〜木更津の往復ビンタを食らったもんです。
大垣行き乗車の基本
サハに乗る
進行左側の座席に座る
>>201
複線で左側は基本だろ?
慣れればモハは問題ないけどな >>201
複線で左側は基本だろ?
慣れればモハは問題ないけどな >複線で左側は基本だろ?
昼間なら景色を見たい側に座るだろ
サハしか乗れないなんて言ってる人は165系化された時代にはもう乗れませんね
贅沢だな
10系寝台車とか全車エンジン付だったぞ
しかも10系のは排気量が比較的小さいせいかエンジン音が甲高い
はまなすのハ座に乗ったときは
足の裏が熱くなったわ
>>210
言わなくてもわかることをわざわざ念押ししてる連投バカご本人さまか? 言われなくても分かることが分かってない奴がよういうわ
それとも日本には白夜とか有るとでも言うんですかねw 大垣夜行の話なのに
これぞザ・鉄オタの会話という臭気が充満してる感じで目が痛くなるw
>>201
大昔の大垣夜行は8号車と9号車がいずれもサハ153だった。
自分は大垣での米原方面接続列車に乗るときは1号車のクハ165が多く、
大垣からの米原方面接続列車に乗らない時は一番空いてた12号車の
クハ155に乗る事が多かったけど非冷房なので当然夏場は避けた。 >>212
字が読めない輩に白夜なんていうムズカシイ言葉使っても読めないんでないの? 座席指定とかいらないんだよなあ。
乗って移動さえできればそれでいいんだわ。
>>208
> しかも10系のは排気量が比較的小さいせいかエンジン音が甲高い
乗った事ないの丸分かりだね、床下排気で漂う排気の臭いと低いエンジン音が特徴だったんだよ。 >>217
をう、昼行のハナシは一ミリもしていないから読めてるぞ。 201レ「はまなす」は函館を出ると繁忙期でも結構な空席
やっとこさ取った指定キハフから自由オハへ移動
夏場は東室蘭の手前から朝日がまぶしかったな
>>221
函館と室蘭・苫小牧経由の札幌は、1980年10月に夜行急行すずらんが廃止になったくらいだからな。 夜行急行すずらん、懐かしいねぇ
下り急行すずらん4号(1217列車)函館 23:40 → 6:08 札幌
上り急行すずらん4号(1218列車)札幌 23:15 → 6:10 函館
@スハネフ12,Aスハネ16,Bオロネ10,Cスロ54,Dスハ45,Eスハ45,Fスハ45,Gスハ45,Hスハ45,Iスハフ44
下り急行すずらん4号の札幌着が朝早いので札幌着が7:34と遅く、そのまま
乗っていれば滝川駅(9:56着)まで行けた山線廻りの鈍行夜行43列車に
乗ったら小樽から通勤客が大量に乗って来て岩見沢まで窮屈な旅だったよ。
>>223
廃止後は多客期に臨時すずらん51号で復活したけど14系座席車が
不人気なのか、いつ乗っても空いていた。急行ニセコの予備車で
運行されたけど1986年くらいで臨時も消えてJR化後に室蘭と旭川を
結ぶ特急の名称になってしまった(特急ライラックの補完的役割)。 >>224
札幌~旭川の特急名で、「すずらん」は入らなかったが・・ スハネフ12で妄想が捗るな
10系なのか、12系のハネ化なのか
>>227
10系オハネフ12を、サロ165みたいにユニットサッシ化して延命?を想像。
趣味的にはOKだが、俺的…いらん。 14系14形使用の寝台特急で最初に廃止になったのは北星
24系25形使用の寝台特急で最初に廃止になったのは安芸
では24系24形使用の寝台特急で最初に廃止になったのは何?
あったら嫌な夜行列車
・特急ブラックホール
・急行はくしょくわいせい
・特急冥王星
冥王星はあったぞ
Munchen〜BerlinのCityNightLine Pluto号が
>>230
特急明星は583系・24系25形・14系15形(あかつき併結)を
使っていたので>>229設問の解答としては「明星 1986.11廃止」は
違うのではないかな?ブーだなww 24系24形で最初の全廃止はおそらく出羽1993.12.1改正
>>237
最後まで使っていたものに限るとは書いてない 名前がなくなった場合を含むのであれば14系14形は「いなば」(1978年10月)が最初
>>230
>>237
明星は1975年3月に24系25形が投入されているから正解は明星ではない
明星が廃止になった1986.11月には車両担当区所に24系24形の配置はなかった >>241
お前の質問の出し方が一番悪い
後出しで条件を追加する時点でお前のせいだろ >>243
自分の知識を自慢したくてしょうがないんだろ
実は中途半端なクセにな 自分の知っていることをベースに他人が書いたことに駄目だししてマウンティングするためやろ
「正解は俺が決める、異論は認めない」
控えめに言ってクズですな
マウント合戦にはうんざりだわ
最近はどの板やスレでも頻発してるように思えてならない
マウントとは、. 山、馬などに登る、乗ること。だろ
ジョークの解説ほど無粋なもんはないと思うんですが・・・
ヨーロッパでは温暖化で飛行機利用やめようと夜行利用者が増えてるそうだけど、どの程度の増加なんだか。
NJの場合は5+5両編成を途中駅で組み換えしながら運行してるレベルだから
二点間の需要はそう大した事なさそうだけどね
基本は寝台車-クシェット2両-座席車2両で路線によって寝台車が2両つく編成がある程度
>>254
石破せんせーを自民党総裁にしたら
延命・・・
いや、山陰新幹線が現実かな。 >>257
サンライズより先に自民党追い出される可能性すらあるだろ。 石破(笑)
もう馬鹿ミンスとおんなじろんちょーになってきたなw
健全な批判は歓迎されるべきだが、後ろから撃つのは信用をなくすだけだろう。
>>29
毎日通勤で東京駅ホームにいた者としては、ガラガラでしかも傷んだ車両が発車していくのを見ては、先は長くないと容易に予測できたな。
憧れとか旅情よりも、車体ボロボロやん、みたいな憐れみが漂っていた。 高崎に転勤で住んでいた時、東京本社で会議があると帰りは飲んで、急行能登にしばしば世話になった。高崎着後に車掌に起こされて、何度も事なきを得た。あれは車内検札の時に赤ら顔ということでマークされていたのだろうか。
サンライズだけが残ってる現状、なぁ
まぁやっぱり寂しさはあるよね
おもひでぽろぽろで主人公が山形に行くときに乗っていた寝台列車があけぼの3号だった
HMがついていなかったので子供んとき見ていて「?」だった
>>266
大阪有効時間帯になる臨時サンライズをわざと臨時それも超レアものにする現実即ち出雲大社ブームインバウンド去ればいつ廃止になってもおかしくないレベル >>269
全く正答しない冬眠から目覚めた自論推しとかを論破して、事態を収拾しろよ >>267
おもひでぽろぽろ は1982年の夏が物語りになっているけど
特急あけぼの2往復はまだ全区間ヘッドマークが付かなかった >>271
主人公は1956年(昭和31年)生まれ
今年で63歳 サツキも75歳くらいか
メイが67歳くらいか
生きていれば
おもひでぽろぽろがそんな昔が舞台のお話というのに愕然とする。
>>276
東北新幹線の開通から、既に37年も経つんだぜ…
自分の中ではまだ「つい先日営業開始したばかりか」って感じだけど、
多分自分の感覚はどこか狂ってる気がして仕方ないw 「おもいでぽろぽろ」は1982年なのであけぼの2往復はまだ3段ハネだった
24系24形だけど映画の予告映像を見ると車内は既に2段ハネになっている。
14系と24系の3段ハネを2段ハネへ改造開始が始まったのは1983年12月
くらいで最初はさくら・みずほ・出雲3・2号だけで東北方面の列車は確か
1984年〜1985年くらいだと記憶している。
「おもいでぽろぽろ」予告編
>>278
この作品見てないから詳しく知らないけど、90年代に上映されていた気がするけど違う? 90年代なら14系/24系寝台特急であれば2段化が済んでるよね。…出雲3/2号の例外はあるが。
取材当時のままにしたのでは?
ED75にHMつけてないところは忠実
あの頃は手紙や電話で間違い警察が動いてたんやろなあ
1991年平成3年27歳設定映画だったから
1966年昭和41年オンエアーされていたNHK朝ドラのおはなはんであるだとか、NHKの人形劇ひょっこりひょうたん島や西郷輝彦の星のフラメンコであるだとか1966年昭和41年オンエアーされたもの1966年昭和41年ヒットソングだとかが次から次に出てきたのは違和感あったな
1982年昭和57年に27歳だということは1966年昭和41年にはヒロインタエ子は11歳ということになるわけであって小学5年生ということになる訳でヒロインは1955年昭和30年生まれいうことになる
『おもひでぽろぽろ』は、岡本螢・刀根夕子の漫画および、それを原作とした
スタジオジブリ制作の劇場アニメ作品。漫画版は『週刊明星』に1987年3月19日号から
同年9月10日号にかけて連載。単行本は青林堂から全2巻にまとめられ、1988年に
刊行された。 劇場アニメ作品の監督・脚本は高畑勲。
全編に徹底したリアリズムが貫かれ、舞台となった1982年の山形県山形市
高瀬地区の様子や仙山線高瀬駅などが緻密に描かれている。また、1966年の
描写においてもその当時の様子を徹底的なリサーチを元に描いている。
どっちみちあけぼの牽引機に看はついていない時代だったと考察する。
思ひ出ぽろぽろ最後まで鑑賞した感想
改札のつっけんどんな態度は国鉄時代だからご愛敬として、主人公のいいところ、
例えば、読書感想文や演技の上手さを褒めずに摘むところは、それはないだろうと同感。
子供の時見たときは????だったが、歳とって見ると改めて感受性が違って見える。
今となっては、こだわりが強かったりわがままだったり、あんな大昔のこと鮮明に思い出して引き出すとか
サバンサ症候群かなんかか?と思う。
サヴァン症候群だなサバンサではまるで奥さまは魔女症候群みたいな感じなので
う〜ん、うちの婆ちゃんも確かにまるで戦前のことをまるで昨日のことみたいにかつしょっちゅうそんな感じだったので年取ると誰もそんな感じになるかも昭和30年代の話を鮮明にする親世代もしかり
SL時代こだわる鉄ヲタであるとか旧型客車時代にこだわる鉄ヲタだとか確かにサヴァン症候群なのかもしれないけども要は程度の問題ということだろうたぶん
>>287
若い頃の記憶って長期記憶と言って、結構鮮明に残るものだよ。人生経験が少ないからちょっとしたことでも残りやすい。そして反復して思い出すことでさらに焼き付く感じ。個人差はあるだろうけど。
20〜30代歳からは残っても薄い記憶になりがち。 確かに。
小学校のクラスメイトの乳首が見えた瞬間とか、何十年経っても鮮明に覚えているよな。
>>289
オレはかわいい子のスク水の股の食い込みが…(^^) 山形駅構内にあけぼのが入線してくるシーンで、ED78+EF71の中間台車の音も録音されてるか
耳をすまして聞いたけど、客車の台車の音しか入っていない・・・
91年公開で取材録音した年は90年だと思うので、奥羽本線怪奇工事直前かな?
ギリギリ仙山線迂回運転始まる前くらいか。
>>291
> 奥羽本線怪奇工事
走る列車は百鬼夜行、ですか 板谷を走ってるんだから改軌前だろ。まぁ映画の演出になにか言うのもなんだけど
山形いくのに夜行の必要ないよな
寝台特急あけぼの1往復の板谷峠経由ラストは1990年8月31日まで
なお翌日1990年9月1日から東北線〜陸羽東線〜奥羽線経由に変更
更にもう1往復の あけぼの は1往復を高崎線・上越線・信越本線・
羽越本線・奥羽本線経由に変更し、列車名を「鳥海」とした。
因みに仙山線経由に変更したのは夜行だと電車した急行津軽のみ
そんなぐぐれば出てくるようなことをわざわざ書く必要あるか?
ねーよ
>>294
東北新幹線→仙山線経由の「あけぼの」が80年代に走っていたらすごかった 1982年の設定になってる映画だが当然1982年でも東北新幹線開業前だな又は1982年でも11月の上越新幹線開業の前
>>296
ぐぐるまでもなく懐かし板相応の連中は当たり前に知っとることだ。 宮城家山形県あたりなら眠ってるから関係ない
目的地に定時に着くか、それだけしか関心がない
山形到着時刻が3:40か
あれ6月頃でまだ夜明けが早いからいいもの
夜行ざおうあったけど、455だしな
ピンクの電車でボックス席の夜行じゃ絵にならんのだろ
583の臨時津軽(仙山線経由・寝台も連結されていた時代)には辛うじて乗ったことがあるけど、
その時のかすかな記憶で想像を膨らませるしかなさそうか>自分の場合
「時刻表2万キロ」のように、「津軽1号」で4時台に山形に着いて左沢線の始発に乗るとかでなければ、昼間の特急で4時間台で着けるところに夜行で行く理由はなさそうだ。
氏が、同じく昼行4時間台の仙台へ「新星」で行ったときは丸森線の始発に乗るのが目的だった。(「汽車旅12ヶ月」)
失礼、「津軽2号」だった。
「津軽1号」で出掛けたときは4時台に十文字で起こされたのだった。
津軽1号の山形駅到着が1:38
津軽1号の十文字駅到着が4:09
津軽2号の山形駅到着が4:45
「時刻表2万キロ」と言えば第一章の神岡線のくだりが印象的
夜行急行のりくらを下車した氏は猪谷駅で女性に怪しまれる妄想を描いた場面
わいも読んだがいちいちここで細かく書くこっちゃねーよ馬鹿
おもひでの上野駅推進運転のシーン、
ラッパ屋がいなかった。
>>310
山形に停まるのは「あけぼの3号」だから、所定ならカニ24を車止め側にして入ってくる
もちろんカニ24でもラッパ屋は居るし、車端部ひっかけ型前照灯を付けて入ってくる
>>303
当時は電車急行の夜行も冷房があって軽快な走りで、それなりに快適だったから選択肢になった。
上野〜盛岡の夜行で「いわて」が選択肢はそれなりにあったし。 急行八甲田が1979年3月まで普通車は非冷房車だったので
夏場は夜行の急行いわて3号(105・106M)の涼しい車内は
本当にありがたかった
普段キハ二三両の陸羽東線をDE10に引かれて
24系ブルートレインが行くなどなかなか今考えれば面白いんだが、鳴子温泉に泊まった時に線路際に見に行く事もなく夜間通り過ぎる気配を感じるだけなどと鉄への情熱が如何に覚めて事かと。 今では相撲取りあけぼのになった嫁の気配を布団の中で感じている 。
陸羽東線のDE10、85km/hに達すると5秒で非常制動がかかるから、
83km/hキープしながら走っていたそうだ。
ATS-Pなんかないのにどういうシステムだったんだろう?
>>314
グリーン車以外は全部非冷房だよ
>>316
陸羽東線のDE10重連あけぼのは現車12 換算44.5を定数48で
速度種別:特通客F2で走らすのがかなり難しいかったらしい。
せめてDD51牽引ならもっと楽だったけど新庄運輸区にDD51が
いなかったためにDE10×2牽引になったらしい。
その後にDD51が客車を牽引して陸羽東線を走行した実績は
あるのだが既にその時は高崎線〜上越線〜羽越線経由に経路が
変わっていた。 >>314
1976年、急行出羽の編成表 冷房車は5号車のみ
@キハ58(指) Aキハ28 Bキハ58 Cキハ58 Dキロ28(G)キハ58 Eキハ58
Fキハ58 Gキハ58 Hキハ28 Iキハ58 Jキハ58 Kキハ58
因みに下り「出羽」は1〜3号車は上野→新庄、4〜7号車は上野→酒田、8〜12号車は
上野→山形だが、11〜12号車は臨時「ざおう」の運転状況で決まる運用である。
5号車のキロ28(G車)以外にも屋根の上にエアコン室外機を載せたキハ58や
キハ28はあったけど冷房を使用可能にする電源を持つキハ28が少ないのと
福米間(板谷峠)の急勾配をEL補機なくして克服するため、エアコンに使う
電源発電パワーは自走のために使っているものだと思う。急行おが1号も同じ。 >>318
>福米間(板谷峠)の急勾配をEL補機なくして克服するため、エアコンに使う
>電源発電パワーは自走のために使っているものだと思う
冷房用電源ユニットは走行用とは完全に独立してるからこれはないよ グリーン車以外非冷房ならキロ28以外は2エンジン車で統一した方が良かったんじゃないかなと思うけどな。
板谷峠をEF71の補機なしで越えるんだし。
そういえば件の403Dに別件の401Dや季節列車6105Dや臨時の9415D、
更にいいで・ざおう・きたかみ・たざわ・もがみ・しらゆき・よねしろ
もグリーン車以外は非冷房で架線下を走った急行ディーゼルが懐かしい
>>320
東北にもキハ65みたいな500PSの車両があれば冷房化もエンジンもパワーあって
よかったのだが残念ながら東日本や東北にはキハ65の配置が無かったのが惜しい >>322
まあ東北が冷房化の優先順位的に低いのは仕方がないわな 四国のDF91・DF50が牽引した夜行列車ってありますか?
>>324
DF91牽引は分からないけどDF50牽引ならあるよ
高松ー窪川間 準急105列車と106列車で高松〜高知間がDF200、高知〜窪川がC58牽引
高松ー窪川間 準急7列車と8列車で高松〜高知間がDF200、高知〜窪川がC58牽引
高松ー宇和島 準急5列車と6列車は全区間C58牽引なので除外
他にも設定があったかも知れないが列車名は自分でぐぐって調べてみて!! 訂正:DF50をDF200と書いてしまった
自分のブログでDF200撮影記事と画像をアップしたばかりなので頭が混乱
準急とDF200 が同列で語られていてこの人ヤバい、と思ったわ
まぁそんなお年頃w
>>322
東北は最後までキロは自車のみ給電、キハは指定席車以外非冷房が当たり前だったからな >>329
冷房故障の時は急行料金が半額だかの払い戻し対象だったからね。 東北でも455系の電車急行は割と早い時期に完全冷房化を達成してたけどな
>>325
準急瀬戸・南風と準急土佐だけなんですか
この2つの準急列車の編成に寝台車入っていなかったから昼行だとおもってました
教えていただきありがとうございました >>333
105列車・106列車・・・準急「土佐」
7列車・8列車・・・準急「南風」(準急「せと」併結)
5列車・6列車・・・準急「いよ」
因みに瀬戸は本州内の列車で四国乗り入れは1988年の
瀬戸大橋線開業からです。 5年程度で終了した大阪−須崎/松山間の客車航送を忘れているよ
*ハニ・*ロハ・*ハ・*ハフの4車種だったので、寝台車はなかったけどね
どういう夜行列車があれば「庶民の」需要が掘り起こせるだろうか
>>337
それを117で一応やって見るんだろう。酉が
で、広報もせずにやっぱり需要ありませんでしたと文句言わせず終わらせるつもり >>337 東京発大船渡、釜石、久慈、寒河江、酒田、鳴子行き、キハ110改造リクライニング3列シート車による6両編成夜行列車、妄想だけど
究極の東北多層立て列車で、福島、小牛田、一ノ関、花巻で増結分離。料金は夜行バス並み。
深夜に自働で増結分離できる装備が必要かも。 キハ110改造リクライニング3列シート車による6両編成夜行列車w
なのに料金は夜行バス並みw
どんだけ貧乏人なんだよwww
そもそも線路がつながってないこともわかっていないアホにかまうな
>>337
駅から自宅や観光地等までの超早朝バスを走らせる。
夜行列車で朝3時4時に着いても、その先の接続が6時以降着の夜行バスが来る
まで無いとなるとみんなバスにする罠。
後は個室と簡易式個室とゴロンとシートとシャワー・ランドリー車両で編成する
とか。 シュプール号には連絡バスがあったからまんざら間違ってない年齢的懐かしだが
ここはいつから脳内妄想夜行列車スレになったんだよ
自分に都合がいい条件ばかりで笑ってしまうな
いまから43年前なら三陸を走る気仙沼線経由の臨時夜行急行ならあった
臨時急行「南三陸」9338列車、気仙沼を18:40に出発して折壁18:57、千厩19:10、
摺沢19:30、陸中松川19:42、陸中門崎19:51、真滝20:15、一ノ関20:25と停車
して一ノ関から臨時急行「もりおか51号」8208列車に併結して一ノ関20:43発の
仙台からは常磐線経由で上野到着が5:05だった
気仙沼から一ノ関まではDE10、一ノ関から仙台がED75、仙台〜上野がFE80で
客車は盛モリの旧客が12系だったと思う
南陸中だよね。気仙沼線はまだ全通してないから大船渡線。まぁ駅名はそれなんだけど
EF80も仙台までいってないでしょ。平か水戸で交換
>>348
引っ込んだヘッドライト
EF65F型みたいな顔
裾が低い車体
1台車1モーター
なんか風変わりな機関車だった >>357
EF65Fは全てでないけど窓上にツララ切りの庇があって
連結器も特殊だからEF80の顔に似てるのはEF65Pの方だよ >>349
ツッコミd
5ちゃんの論述文は話半分やね S51.1.4〜S51.1.7 9336レ〜8208レ
急行もりおか・南陸中
上野←一ノ関・気仙沼(上りもりおか52号・上り南陸中)9336レ〜8208レ
←上野
1 2 3 4 5 6 増1 増2 増3 増4 増5
スハフ
42 ナハ
11 ナハ
11 オハ
35 オハ
35 スハフ
42 オハフ
33 オハ
35 オハ
35 オハ
35 オハフ
33
※S51.1.6の編成。
※1〜6号車はもりおか(上野−一ノ関)、増1〜増5号車は南陸中(上野−気仙沼)、1〜6号車と増1〜5号車の順序は逆かも。
※上りもりおか52号・上り南陸中はS51.1.4〜7に運転。
※上り南陸中の一ノ関−気仙沼間は普通列車。(9336レ)
>>356
ARC資料館の丸コピじゃねえか
コピペするならせめて引用符使え
コピペ元のURL貼れ 一番多種多様なカマ交換した列車ってあけぼの?
EF65
ED75
EF71 ED78
ED75
DD51
だっけ?
>>360
少なくともその当時はそうだったらしい
それ以前以降に、それ以上の記録があるのかは知らんけど 20系さくら初期
EF58
C62
EF10
C59
C57
20系あかつき初期
EF65-500
EF30
ED72
DD51
C60
>>360
順序が違うけどな 急行日向 1960.6〜
京都-EF58-姫路-C59-広島-C62-下関-EF10-門司-DF50-大分-C55-宮崎-C51-都城
急行日本海 1960.6〜
大阪-EF58-米原-E10-田村-ED70-敦賀-DF50-富山-C57-秋田-C61-青森
急行日本海 1965.10〜
大阪-EF58-米原-D51-田村-ED70-糸魚川-DD51-新潟-DF50-酒田-DD51-秋田-DF50-青森
急行津軽
1956.11〜
上野-C61-白河-C57-郡山-C57+D51-福島-EF16+EF16-米沢-C51-秋田-C57-大館-C57+D51-弘前-C57-青森
1959.9〜
上野-EF57-黒磯-C61-郡山-C51+D51-福島-EF16+EF16-米沢-DF50-秋田-C57-大館-C57+D51-弘前-C57-青森
1960.6〜
上野-EF58-黒磯-ED71-福島-EF16-米沢-DF50-秋田-C57-青森
1965.10〜
(下り第1) 上野-EF57-黒磯-ED75-福島-EF64-米沢-DD51-秋田-DF50-青森
(上り第1) 上野-EF57-黒磯-ED71-福島-EF64+EF64-米沢-DF50-秋田-DD51-青森
1968.10〜
(下り2号) 上野-EF57-黒磯-ED71-福島-EF71/ED78-米沢-DD51-秋田-DF50-青森
1972.3〜
(下り2号) 上野-EF58-宇都宮-EF57-黒磯-ED71-福島-ED78+ED78-米沢-EF71-山形-DD51-秋田-ED75-青森
1975.3〜
(下り2号) 上野-EF58-黒磯-ED71-福島-ED78+ED78-米沢-EF71-山形-DD51-秋田-ED75-青森
1980年10月1日時刻改正であけぼのが20系から24系に変わった時は
上野〜黒磯 宇都宮運転所のEF65PF牽引
黒磯〜福島 福島機関区のED75牽引
福島〜山形 福島機関区のEF71+EF71かEF71+ED78の共通運用牽引
山形〜秋田 秋田運転区のED75-700牽引
秋田〜青森 秋田運転区のED75-700牽引
だけど
1975年3月までの山形〜秋田間は秋田運転区のDD51牽引で
秋田〜青森間は1980年と同じED75-700が牽引した
因みに1975年の福島〜山形の牽引定数は特通客E8(41)、1980年の
同区間牽引定数が特通客D0(44)なので1975年3月までの福島〜山形は
EF71が1両のみで牽引していたらしい?現車14Bの20系をEF71が1両
のみで33/1000を克服とか一瞬信じられないけど乗客満席だった
14系10Bのつばさ51号をEF71が1両で越えたのだから可能なのかも?
>>366
昭和48年あたりから空転が発生しはじめ、同年冬季には大幅遅延が発生し、
その対策として冬季は手すきのED78ないしEF71が補機として山形まで連結することが常態化