>>1
乙
初めて、お寺の模型を作り始めてます。
ドマイナーな寺院(建築)好きの素敵な紳士淑女が集い、
古の文化がぷんぷん匂うスレとなります様に・・・。
1/150 法隆寺金堂建立実行委員会
裳階 連子 今作ってるのは↓の作例の法隆寺金堂です。 この方上手ですね。
https://nabeck.web.fc2.com/kondo.htm
日本史も、卑弥呼あたりから平安時代位が好きで、Nゲージを一両完成させてから、
ふと、金堂を見つけて作り始めました。
・・・で内陣の柱を立て、四半敷の床を貼ったまでが↓。
裳階の窓を、実際の連子窓ふうにしようと、現在奮闘中。
模型の窓部は隙間なしのため、くり抜き作業。今日は1面やっと・・。(四隅に4か所小穴→穴を目印に裏から溝堀→穴をまたいで表からニッパーで引っ掻き→彫刻刀で溝押し&切り)
窓は南北で16×2、東西で12×2・・56窓。 窓の幅が約5ミリなんで、0.5ミリの連子を5本くらい入れる計画。
実際の連子の形状、本数は良くわかんないんので、カンチキで一か所やって見ます。 とんがり部分が前面ですよね。
プラ材なんか加工してて思うのは・・昔の人の大工道具、特に鋸なんてどうやって考え付いて、
どうやって作ったんだろうだろう?です
青銅器、鉄器と進歩して、鉄で刃物を作る迄は分る気はしますが、のこぎり刃の発明はどんなだったか
想像ができません。
刃物では、カスタムナイフを自作しましたが、そのころ読んだ日本刀の本には、
鎌倉時代までに製鉄、鍛造技術は完成した・・とありびっくりしました。 大工道具も日本は進んでいたんでしょうね。 >>3
連子子の隙間から中が覗けたら、建立当時の大工さんの気分になれそうだね
古墳時代からそれなりに大工道具はそろっていたそうですが
寺院建築の輸入により発展したそうです
法隆寺建立時には直角に切られる鋸もあったようですね
カンナはヤリカンナしかなく、金堂の柱も雲斗きょうもヤリカンナで仕上げられているそうです
棒に刃物がついてるものでどうやって雲斗きょうなんて繊細な文様を彫り込んだのか
驚くばかりです
柱の表面に何となく凹凸があるのはヤリカンナで仕上げた痕だそうです やっと本届いたと思ったら、北川/入江さんの法隆寺じゃなく、
カラーブックスの奈良の寺シリーズ1,「法隆寺」だった。 (北川さんのは再注文。)
何かの間違いだと思うが、 注文確認で見たら、合ってるんで、狐につままれた感じ。
でもカラーブッククスは、どれも良書なのでOK。
昭和44年9月一日発行の初版。 著者は寺尾勇/入江泰吉。
50年以上前なので、斑鳩の里の風景写真は良い感じ。
後半の解説部での金堂の記述を一部紹介(だいじょぶかいな?)
「堂内に入ると・・厳粛である。・・・私は沈み込んだこの堂内で古代の匂いをかぐだけでこころ安らかになる」
寺尾さんは、当奈良教育大学の教授。 (東京生れ 京大 著書は飛鳥・奈良)
匂い嗅ぎてーーーー。
>>6
だんない
1/150 法隆寺金堂建立実行委員会
関東支部
北関東連絡事務所
裳階 連子 >>7
その本は見たことがありませんが
そのイメージで行くと結構がっかりするね
でも法隆寺は当時のままでいてくれて感激ひとしおです
近辺に住んでる人にしたら便利な生活をしたいというのは当然ですが
古代寺院建築について勉強したい場合は
岩波書店のIWANAMI GRAPHICS22「古寺建築入門」(工藤圭章 渡辺義雄)がおすすめです
96ページしかない薄い本ですが、写真も豊富で説明もとても分かりやすく
今でも重宝しています >>8
どんな本か見てみます。
所で例の連子窓ですが・・・、連子の形状(断面形状)、ご存じですか? 正方形か?ひし形か?
寸法は分りますかね?
連子窓は、よく見ると開口率なんか色々みたい。 上記の本で、入江さんの「回廊の連子窓の写真」(当該本38頁)
からすると、開口率が58%程度。
金堂の裳階では(正確にはわかりませんが)見つけた画像から推測するに50%以下。
連子窓は、見る角度で視線を遮る機能と、盗賊除けなんでしょうけど、意匠の元は中国でしょうか?
また、「日本の寺院建築の連子窓の考察」・・なんて論文あるんですかね? >>8
アマにありました。 1円
もったいない本舗さんにもありましたので注文。
本舗さんをひいきにしてますが、最近は初版ばかりを送ってくれます。
↑のカラーブックスも初版でした。
買うのがマイナーな、重版されない本ばかり・・とは思いたくないです。ww >>8
連子窓の連子子の断面は正方形だと思われます
法隆寺の金堂五重塔回廊の連子窓は隙間が広いそうですが
サイズまでは分かりませんでした
研究者の皆さんは基本的に法隆寺の裳階を邪魔だと感じていたようなので
裳階の連子子となると触れることもあまりなかったのかもしれないです
でも、裳階の扉の連子子は一枚板から掘り出している貴重なもので
法隆寺の中の人も胸を張っていました
連子窓は寺院建築に欠かせないものなので大陸半島由来だと思います
法隆寺建築は半島由来だとされているし
寺院建築の本は古書のほうが手に入れやすいですね
昔のほうが寺院建築ファンに活気があったのかもしれないし
新発見や新見解がたくさんあったのかもしれません
最近の大発見は唐招提寺金堂が平安期だったということくらいではないでしょうか
といっても、奈良時代の終わりごろという見解だったのでそれほど違っていたわけでもないという程度ですが
でも研究者は建築様式でそれを推定していたのだから驚きます >>11
連子は正方形なんですね。 有難うございます。
今日は連子の試作をしました。
材料に悩んだ末、「工作用(方眼)紙」にしました。
一辺0.4ミリ以下の寸法の角材探せなかった事が主要因。 0.5ミリだと正面幅が0.5×1.4142で幅5ミリの窓には数本しか入れられない)
最初はうまく切り出せませんでしたが、20本(長さ〜10センチ)程切ってるうちに何とか、0.4ミリに近い物が出来、組み込み試作します。
旨く行けば、一窓に最低5本位は嵌め込まなくてはならないので、最低でも高さ12ミリで280本必要です。ふうー
実際の裳階連子窓には、一窓6本の連子があるようです。
仰る通り、扉上部にも連子があるのは知ってましたが、あれを再現する元気は在りません。
一体物でしたか・・・・。
扉は、内側に開いてる状態を考えてるので、連子部谷間に黒を流して、ごまかす予定。
(扉はワンセットの部品では出来ない為、勾欄の「万時崩し」失敗も想定し、裳階朱壁と勾欄は別部品を購入済み 送料込み889円)
今年の東大寺修二会では、お松明を人数制限下で行うらしいですね。
去年TVで二月堂の番組があり、昔も疫病平癒を坊さんたちが祈って居た・・・を聞いて感に入りました。 12追加
工作用方眼紙の厚みは0.4ミりです。
ネットで売ってる奴の厚みが0.4ミリ・・なので文房具屋さんに行ったら似た商品めっけ。
(一枚82円。 ネットは最低100枚、単価約50円)
綺麗なオネイサンと、10枚重ねて計って確認。
親切にして暮れたので2枚買いました。・・・が全然一枚でもあり余る。(方眼が30×40センチ)
連子子が6本だと知り写真を見てみたら窓の真ん中に仕切りの柱(?)が入ってるんですね
裳階の床とか内陣の床とか、作ってる人にしかわからない視点があるので勉強になります
法隆寺にも修二会があるみたいですね
西円堂で行われるとか
金堂では修正会が行われるようです
こうして何百年と儀式が続いていることを思うと
世界遺産とか観光施設ではなくちゃんと宗教施設としても生きているんだなと改めて思います
修二会を見に行ったことはありませんが、東大寺に行った際に
二月堂の写真は一枚しかとってないのに、
お水をとる閼伽井屋の写真ばかり撮影していた謎行動を思い出します
でもなかなか味のある建物なんですよ
大寒、まあまあ寒かったですが、マイナス6度予報は大外れで、マイナス1.5でした。
お住まいの地域はいかがでしたか?
法隆寺 西円堂の修二会、「薬師悔悟過」法要ですね。
薬師如来の前で、法要との事で、今年は念入りにお願いしたいです。
連子窓、縦棒の組み込み試作しましたが。 今のところ5本がやっとで、再検討が必要。
紙だと、以後の塗装もどうなるか不安なので、0.3ミリ厚のプラバンでもやって見ましたが、色々問題ありです。
明日また再挑戦。 東西方向の朱壁でやってますが、試作は活かして、北側に使う予定。
ところで、金堂の北側と南側での、見た目の差は何かありますか?
ほとんど対称ですよね。 昇り龍は右だし・・。
Appenndix:最近うpする画像が無く寂しいので、
年末年始に作った「三球儀」 ・・・中国製木製キット ・・・二十四節気、七十二候貼り付け。五日で気候を替える発想が好きです。
本当は、↓みたいなかっこ良いのが欲しいんだけど・・欧米ではOrreryって言うんだよね。
法隆寺の金堂は飛鳥・白鳳期の特徴で四方からの鑑賞に耐えられるようになっている
正方形に近い形で、それは五重塔との兼ね合いでそうなってると考察されているので
五重塔と同じで見たところ特に違いは見当たりません
強いて違いをあげるとすれば、見学に行くと南・東・西の入り口は扉が開いていますが
北の入り口は扉が閉まっているくらいです
>>17
なるほど、そうなんですね。有難うございます。
レス11で、「研究者は・・・法隆寺の裳階を邪魔だと感じていたようなので・・・」とありましたが、
前、紹介した、カラーブックス(保育社)ー法隆寺では、著者の寺をさんは、こう書いててます。
「・・大岡実氏は・・細い部材としての”もこし”を用いることによって、主屋の太い柱を外部に表さないのが主眼で
雄大な気分を失わないで、しかも軽やかな気分を出す手段である・・と裳階を理由づけている。」
また、裳階は、後世の追加なんて論議が、昭和44年ころまでには有ったようですね。
大岡実氏は、日本建築の造形感覚の基本は・・
「 雄健であるためには粗放になり、荘重であるためには鈍重になること極端に嫌ったことが、日本人の特性」
・・とも言ってたそうです。
素人の私が金堂の裳階をみても、優美を感じます。
今日は残りの朱壁の窓のくり抜きと、白壁部品の艶消し白塗色。
(瓶の残量が減ってたので、ネットを調べたら、タミヤのフラットホワイト100円が、500円近く・・市場で何かが起こってるらしい。
ちょっと前に調色用の、ガラスの小瓶が市場から消えたことが有りましたが、その時は万年筆のインクがブームで、
インクの調色用にで、瓶の大量に買い占めが有ったらしいです数十円の瓶が1000円でした。) >>19
頂いた2番目の画像の、ノレンの画像が良いので、これも模型に付ける予定。
小生、ステレオ写真も趣味で、平行四辺形の画像を正方形に直してくれるアプリケーション
を最近手に入れたのですが、バッチリ四角形のノレンが出来ました。
ノレンではないですよね、名称ご存じでしたらお教えください。
また、その上方にドラのような、鐘のようなのがありますが、あれは
誰が、どのように鳴らすものですか?・・・も追加でお願いします。
連子窓、約半分組み込み。
頼んでる、紹介いただいた本二冊、まだ届かず。
アマゾン、素人みたいな運送業者使ってたけど、なんかトラブッタと推測。 >>21
暖簾のようなものは仏前幕というようです
そのまんまの名称ですねw
鐘は鰐口(わにぐち)で、鳴らしているところは見たことありません
神社に吊るされてるのはロープ(?)をぶつけて鳴らしているので
何かで叩くんだろうなとは思います
経験上、古書は郵便で来ることが多いので
もう少し待てば来るのではないでしょうか >>21
有難うございます。 質問ばかりで申し訳なし。
本、二冊ともさっき郵便物で届きました。
北川/入江氏の法隆寺・・・良い本ですね。 昭和37年初版発行とは思えない、豪華本ですね。
本文は、まだよく読んでませんが、半分ほどを占める入江氏の写真がすごい。
また、紙の手触りがしっとりしてて、紙質まで凝っていて感動もの。
ネットでは決して見られない物も多く、感謝です。
21Pー金堂上層の勾欄から透けて見える窓はやっぱり連子窓の様ですね・・ここも無理です。
ということは、上も吹き抜け・・・砂ぼこり入っちゃいますよね? 内陣は格子天井で守られてるから良いのかな?
それと、勾欄のある「上層」へはどうやって行くのでしょう? 階段があるんですかね?
「古寺建築入門」もカラー図版が多く良いですね。 まだパラパラ読みですが、金堂扉、おっしゃられていた如く、一枚板なんですね。
厚みも書いて在り参考になります。(8.5センチかーー。縮尺で0.56ミリ・・結構削らなくてはなりません。 もしかしたら削ってるうちに連子窓が出て来るかも)
天蓋についての記述が、両本とも多く、貴重なものなんですねーー。
「法隆寺」37−38P、天蓋上部の天人象、初めて見ました。 (金属製でしょうか、木製でしょうか?)
雨降り、雪もよいなので、ゆっくり「れんじこ」貼り付けにいそしみます。 >>23
いい本だと感じていただけて何よりです
何の本で読んだのか覚えがないので間違ってるかもしれませんが
金堂の本体内部に初層の屋根に上れるところがあって
そこから屋根に上ったのちに、二層目の窓から中に入れるとか
二層目の屋根に上るには入母屋屋根の妻の部分にそのための出入り口があります
上る用事があるのは大工さんくらいだろうからひょいひょい上れるんだと思います
もうちょっと調べてみます 天蓋は法隆寺の建築(浅野清)という本によると
天人像の下の鳳凰は木彫りで天人像については単に彫刻となってるのと
天蓋はすべて木製のようなので木製だと思います
幕(木製)の下に吊るされている瓔珞(ようらく)も木製となっています
>>24,25
北川/入江氏の「法隆寺」は本当に良い本だと思います。
お寺の本は、この本だけで(法隆寺だけで)良い様に思います。
いつも詳しい説明ありがとうございます。
半分も理解できておりませんが、、どうぞお見捨てなく。
連子子あと東西に長い朱壁を残すところまで・・・・、まっ直ぐに立てられないのが残念で、
あとは何とか庇と塗装でごまかせればよいなと思います。 TEST
imgur ,ばっかだと負荷大きいのでフリッカー試し。
フリッカーでの画像保存が良くわかんないので、
またimgurさんのお世話に・・・ああ。 半分裳階朱壁を乗っけてみた。
(連子子 曲がってるなーーー。ww 直せるから良いけど・・・)
こんなところで勘弁してください26先生!
↑追記
Invalid と表示され、imgurみたいに飛んでくれないみたい。
上に表示されてるURLの?マーク以前(を・・・5ch・・)消去して、
https以降のURLにして、リターンで飛ぶようです。
めんどくさくて、これだめですね。
今日は、内陣中央10本柱部分と、裳階連子窓部の下塗り塗装。 &
飛天絵(10柱の乗ってる壁に描かれてる)部分開始。(プラバンにコピー絵貼り付け・・北面の#11から#16絵)
柱の塗色ー朱色探してたら、下のステレオ写真ー法隆寺発見。
http://moto184.blog10.fc2.com/blog-entry-156.html
ステレオ写真・・ご存じない方へ あなたでもきっと見えるー裸眼法・・・
@↑のWEBで、設定で画面の大きさを75%くらいに小さくする。
A平行法で見る
BPC画面に顔をくっつくほど、近づける。 目は遠くを見てる感じ・・。
Cゆっくり、目の焦点を変えずに(ぼーーっとしてる。何か見ようとせず)PC画面から顔を離してゆく。
D画像がなんか変な感じーーと思ってると・・あら! 飛び出て見える!
E 一回ダメでも、ゆっくり何回か繰り返してみる。
ステレオ写真については、いづれまたに機会にでも。 法隆寺金堂の諸問題」(竹島卓一)という本の最後に裳階について書かれていました
竹島さんは大岡さんと浅野さんの後任で法隆寺の大修理を担当された方です
連子子の断面はやはり正方形だそうです(ほっとしましたw)
裳階は最初は計画になかったと考えられていて、
解体工事での調査によると最初は南面だけに裳階かどうかわからないものが取り付けられた跡が
見つかったそうです
法要に関係するものでしょうか
その後は四隅の構造が弱くて軒の垂下が始まったようで、そこを支えるために
支柱とともに裳階が作られたんじゃないかと考えられているようです
しかし、現在のものと違い天井のない裳階でどのようなものだったのか
わかっていないそうです
現在のものは慶長の修理の時に改められたのを概ね踏襲しているようです
>>28
器用なもんですね
連子子なんて細かくて自分がやったら発狂しそうですw
金堂の平面図もきれいな長方形ではなくて少しずれているそうなので
まあご愛嬌ということで >>33
裳階 後付け説あるんですね。
模型では一段下がった所に裳階朱壁が立つ様になってますが、実際はどうなんでしょう?
裳階の天井は、井桁の木組みですよね?(格天井?)
今日は、飛天壁作り。 それと並行して、10本柱・組み物塗装。
朱色、どーしようか迷った挙句、明るめの赤で塗色(赤+オレンジ+白)
模型では、上層の窓は緑色、風鐸などは金色で、創建当時の色を表してるようですが、
小生、箱を開けて最初にしたのが、この色剥がし。 現在の枯れた色合いを再現する積りで
居ましたが、柱を鮮やかな朱で塗っちゃうとこれはこれで良い感じ・・・うーーん迷う。
しかし、大宝蔵院(殿)の塗色が創建当時の色合いを再現してるの思われますが、
連子窓を緑に塗るのは・・・・・・やっぱ現状の古色で行こうかな。
須弥壇の手すりも鮮やかな朱色で、色が剥げてるところは黒色・・・下地は黒漆ですかね?
柱は、色無いところは、木の色ですよね。 >>35
金堂の裳階は完全に後付けみたいですよ
40年(?)以上後に完成した五重塔は金堂とのバランスをとったのか
完成時にすでに裳階がついていたようです
ということは、金堂完成後五重塔が完成するまでの数十年で
何らかの理由で裳階を付けたということになり
謎は深まるばかりです
その五重塔も軸部が完成した後、何十年の単位で放置されてたようで
そちらも謎です
上層の連子子は「裏板が失われていた」という記述があったのと
写真を見ると連子子の奥の方が白っぽい気がするので
裏に板がはってあるんじゃないかと思います
現在はガードされているのでご心配の砂埃が入るようなことはないと思われます
現在の金堂は内陣の軸部だけ新しいのでそこだけ朱色ですね
それ以外は昭和の修理で色を塗りなおしたという記述もないし、実物も色味を全く感じないので
ほぼ素木状態だと思います
最近再建した興福寺中金堂は創建当時の色合いで仕上げられてますが
現代人の好みではないと思うのでちょっと勇気がいったんじゃないかと思います
当時は防腐剤の意味もあったようですが、今はさすがにもっといいものがありそうですし
須弥壇の手すりは創建時には使われてたかどうかは分かりませんが
何度も修理されてるので漆塗ではないかと思われます
っていうかほかに考えられないですw >>35
裳階が建っている位置は特に一段下がっているとも思えないです
敷物の石と瓦の差で多少は高さが違うかもしれませんが・・・
裳階の天井は棹縁(さおぶち)天井です
梁らしきものの上に張られています
白黒の写真を見ているのですが、白っぽい天井の下に素木っぽい棹縁が壁に沿って入っています >>37
キットが売ってるんですね
5円玉と紐だけではなく土台みたいなものが必要なのかな >>36
金堂の裳階・・面白いですねーーー。
35レスの後、長めのURL貼ろうとしたら久々のERROR。
約二日アクセス禁止でした。 昨年は余所でやれとかBBXだとか色々なアク禁に苦しめられました。
2〜4日レス無いときは。「またなんかやらかしたな」・・と思ってください
模型の基壇・・・中心が1ミリ弱下がっているので、どーしたものかを検討。
床を上げるには10本柱を引き抜かなくてはならず・・。
裳階朱壁の位置決め・強度等を考慮し、泣く泣くこのまま行く事に決定。 (裳階窓くり抜きで、変形・強度不足も・・)
今日は飛天壁完成。 >>36
20面の飛天が描かれている壁をプラバンで作り、柱に乗っけました。
柱+組み物の高さが不揃いで、修正に次ぐ修正でなんとか・・。
次は有名な壁画の壁に行こうと思いますが、内部・外陣の様子は何となく分かるのですが、
裳階側がどんな風になってるのか分かりません。 (画像探したけど、見当たらず)
白壁で良いでしょうかね?
金堂内に入ったご経験がおありでしたら、階段を上って、内陣迄の様子をお教えください。
外側の柱は18本も有るようで、難工事が予想されます。
(柱は、Φ3の半丸のプラ棒でやる予定ですが、コーナーを如何するか思案中)
>>41
柱の高さが揃わないとかは当時の大工さんと同じ苦労かもしれないですねw
金堂は白壁です
厚さ20センチの耐震壁で軸部の連結が脆弱な金堂の命綱になっています
裳階内は見学通路となっているので、何か目に付くところもなく
とにかく薄暗いです
金堂は扉が多い建物だと思いますがそれでも金堂内は暗く
内陣の様子がほとんど見えません
昔は金堂の扉を全て閉めて仏像やら玉虫厨子やらを詰め込んで宝物庫のようにして
外から拝んでいた時期もあるというので
昔の人も暗いなあと思っていたのかもしれません >>42
いつもありがとう御座います。
壁画壁も0.2ミリプラバンにしようと思いましたが、もう少し厚めの方が良いかな。
でも柱の上方が細いので、四角の板材側も加工が必要になって・・・。どーしよう?
それと、柱上部の組み物と組みものとの間も白壁で、ここん所も作る予定なのでですが、
どのように壁を作るか、おお悩みです。(止めるのが、楽なんですが・・)
内陣、天蓋まで作ると、内視鏡のようなカメラで見てみたいですが無理。(なんかスパイカメラ見たいなの売ってますけど)
裳階から上部は接着せず、内陣を見えるようにする為には、天蓋だの格天井だのはどう
作り、固定するか・・・苦難・・いや楽しみがいっぱいです。ww
>>43
現在の壁画はパネル形式の額縁が頭貫の面からぶら下がっているそうです
火災後に修理の担当をした竹島さんは直接壁画が描かれるように
用意しておいたのにと怒っておられたようです
金堂内部の柱はそれぞれ壁画が美しく見えるように形が工夫されているのに
壁画が壁から10センチも離れていてはそれが無視されてるとのこと
それと、ご存じだとは思いますが金堂の外陣の柱は両端の柱間が狭くなっています
五重塔と中門も同じなのでそういう様式なのか隅の強度が弱いせいなのか
よく分かりませんが法隆寺の特徴です >>44
追伸
図面眺めてて分かりました。
壁画 2,3−4,5−7,8−11,12のある四隅の壁が小さい・・柱間が
狭い・・・ですね。 >>44
追伸2
不思議に思ったので、方眼紙で確認したところ・・・
中央等間隔柱群の周りに東西南北に直線的に、周囲柱を配置した場合、
中央柱の柱間距離を1.0とした場合、周囲柱の離間距離が1.0以下では、四隅の柱間隔は
1.0以下に自然となるようです。
(逆に、1,0を超えると、四隅の柱間隔は1.0を超えますね。)
で、さっきの資料をPC画面上で計ると・・おおよそ0.65でした。 いよいよ明日は、三球儀も立春を指し示します。
立春と言えば、神社でしょうか、「立春大吉」のお札が欲しかったですね。
あれは神社ですかね?
最近はお寺も神社も、御朱印が盛んなようですが、発祥はどこですなんでしょうか?
四国のは有名ですけど。
今日は壁画壁作りの続き。
柱の「頭貫」の位置、大きさが不明で、また、柱の底部の「基礎」やらもう一段部材やらの寸法
も不明のため・・
規定の縮尺の壁画の大きさを基準として「壁」をでっち上げました。
扉がいっぱい有りますが、枠だけちょっとつけて、透明プラ板で行く予定です。
記録的な」速さで春一番が吹いたとか・・・・。
定義が東京都で・・ってのが気に食わない。
建立も中々進まず、今日は8,9号壁画を貼った所までです。
外陣柱:Φ3プラ半丸棒。 四隅は9度部品製作により3部品構成。 その他は半丸2本で壁挟み込み。
どうも写真にするとショボイなーー。 金堂の頭貫は頭を貫いていない名ばかり頭貫となっています
柱と柱を繋いで横の連結を果たしているというよりは
分厚い土壁を支えているそうです
平面は柱間の距離にばらつきがあって
そのせいか建物自体も正確な長方形にはなってないようです
それは建物だけではなく基壇の形も同じように正確ではなく
どっちに合わせたのかはよく分からないそうです
なかなかアバウトな造りなのに整然とした美しさのあるのも
金堂の魅力ではないかと思います
柱の列が増えましたね
材料が違うし資料も少ないので実際に建てるより大変かもしれないですねw
>>50
手先があんまし器用じゃないのと、適当な性格なので、ご期待の物
とは隔たりがあるのは、ご寛恕ください。
壁は、やはり厚い物なんですね。 0.2ミリプラバンじゃーバチ当たりますね。
所で、「頭貫」は ずぬき、ですかね?
今日は、南面の外陣壁をつくりました。 六つある扉は透明にしようと思いますが・・・・、
見学者がある時などで扉を開ける時、全部(180度)開いてるものですか?
中途半端に開いてると、回廊の通行の邪魔になると思いますが、(裳階の扉も同様に) >>51
いえいえ器用だと思いますよ
頭貫は「かしらぬき」と読みます
金堂本体の扉は外開きで180度開いてたかどうかは記憶にないですが
構造を見るとそれに近いくらい開くと思います
裳階の扉は内開きですが通行の邪魔にならないくらいには開いていたと思います >>54
外陣は庇(ひさし)部分となるので天井を張らないと垂木が見えてしまいます
「法隆寺金堂の諸問題」(竹島卓一)によると
天井は柱の上の斗組で支えられた梁や桁の上に組入天井を張っています
組入天井とは格天井の一種で太い格材を細かく組んで板を張った天井のことです
角材のことは格縁(ごうぶち)といい、金堂の格縁は幅三寸一分(93、9ミリ)高さ三寸六分(109、1ミリ)で
縦、横ともに九寸六分(290、9ミリ)間隔で組んであります
組み方は、南北両面は南北通りを下木にして、東西両面は中間の二間(柱と柱の間を1間と呼びます)だけ
東西通りの短い方を下木にしています
下木は木柄の三分の二を残して三分の一を残した上木と相欠(あいがけ)組としています
相欠とは一材の高さ内におさめる手法です
両端の処理は外陣柱側は通し肘木の上面に揃えて落とし込んであります
この通し肘木は雲肘木が直接乗せている横木のことです
内陣側は力肘木や通し肘木の上に乗せて廻り縁をめぐらせています。
天井板は格間に当たる部分を白く塗り、それぞれ六弁の蓮華文(れんげもん)が描かれています
格縁が当たるところは蓮華文を描いた画家たちの落書きが発見されているそうです >>55
通し肘木が載っているのは雲肘木ではなく雲斗ですね
失礼しました
大宝蔵院は新しいですからどうですかねえ
端の処理が両方同じなのでそこは違いますが
サイズなどは模してるかもしれないですね >>57
肘木、雲肘木、雲斗・・・勉強します。
バルサで作って柱に乗っけたのは、肘木なのか雲斗なのかも良く分かってません。 モチ皿斗なし。
組み入れ天井の製作は、0.5ミリ厚のプラバンを0.5ミリ幅で切り出し、
2ミリピッチで、0.5ミリ+で溝を掘り、格子状に組む・・・でやって見ます。 金堂外陣の格天井は上木と下木の組み合わせで支持力を発揮させているそうなので
構造材(構造体?)と呼んでいいのかもしれません
建物を安定させるための手法が他の寺院建築とは違うのかもしれないです
>>59
古代の技術って、本当に謎ですよね。
数学、力学も現代程発達ししてたはずもなく、設計基準書を作って教育したわけでも
ないのに・・・出来ちゃう!
金剛組でしたっけ、・・・どんな形で技術が伝わって来たか知りたいですね。
建築関係の歴史書では、どーなっていますか?
今日は、南面の外陣壁を間違って作ってしまった事に気づき、作り直し。
壁画を12面貼り終えました。 >>60
日本の寺院建築の原型は中国の宮殿建築です
中国の宮殿建築は紀元前から様々な国や地方で発達していて
それが漢代に仏教が伝来した時に仏教建築に転用されました
そのため地方ごとに特色があります
その後、朝鮮半島に仏教が渡りおそらく朝鮮半島でも地方色が出たり中国の地方の特色の影響を受けたりなんだりして
日本に仏教伝来とともにもたらされました
実際はこのころにはさまざまな建築様式が入ってきたようですが
残っているのは法隆寺様式だけです
その後、遣唐使で唐の建築様式が直接移入されそれが官の建築様式として採用されたために
唐の様式が日本の主流の建築様式となります
これを和様建築(わようけんちく)と呼びます
遣唐使の廃止で国風化が進み、といっても野屋根が発生した程度で大きな発展があったわけではありませんでした
野屋根とは垂木の上にさらに屋根をかけて屋根の傾斜をつける技法で
外観上、屋根が重苦しくなっていきます
鎌倉時代に東大寺の大仏殿再建するにあたり重源が中国の南宋の様式をもたらします
この様式は大仏様建築(だいぶつようけんちく)と呼ばれ、大規模な堂を作るのに適していましたが
あまり日本人好みではないようで定着しませんでしたが
便利な部分は和様建築に取り入れられました
これを新和様と呼びます >>61
長くなってしまいましたが続きます
大仏様に少し遅れて、日本に禅宗が入ってきます
これは宋の建築様式でそのまま禅宗様建築と呼ばれます
これは日本人好みだったようで定着しました
韓国や中国でも見られるのでそれぞれ特徴はあると思いますが
東アジアで一番定着した様式ではないかと思われます
日本では和様建築に取り入れられることもあり
これを折衷様と呼びます
黄檗宗の建築も特徴的だと思いますが黄檗宗の寺院でしか見られないようなので
普及はしなかったようです
簡単に説明するとこんな感じだと思います
違っていたらまた訂正します >>60
建築史、有難うございます。
木造建築の歴史は分っているんですね。 日本でのみ研究が盛んなんでしょうね。
屋根瓦で、下り棟、隅棟てありますよね、法隆寺・金堂や近所のお寺なんかも同じ形なんですが、
普通の一般住宅の屋根でも、これを見つけ(www)た時は、なんか感動でした。
中国の古代宮殿でも瓦は有ったんですかね?
法隆寺時点の瓦なんて、現在でも焼いて実際に使ってるのは日本くらいなんだと思いますが、どうでしょうか? 組み入れ天井・・・途中報告。
「0.5ミリ厚のプラバンを0.5ミリ幅で切り出」→紙方眼紙に比べ、旨く行きません。 定規を押さえるのに手が痛い。
「 2ミリピッチで、0.5ミリ+で溝を掘り」→これは計画倒れ。刃幅0.35ミリの模型用鋸でやろうとしたけど、切り出した後だと、旨く行きません。
もう、残された案は、2ミリピッチの横棒に、長さ1.5ミリの小棒をシコシコ接着する方法しか・・・。
切り出したプラ板は応力で曲がっちゃうし、ねじれちゃってるし、正確に長さ1.5ミリに切るのも至難だし、どーしよう?。
今日は壁画壁の建て方。 扉部分は頭貫まで。 枠と扉は明日以降。
>>63
古代寺院建築の研究は現存する建物が圧倒的に多い日本が
先行していると思います
建物が失われていても、基壇や柱跡(礎石、礎石を抜き取った跡、柱を抜き取った跡)が
分かれば柱の配置や出土物(瓦など)から建物の性格や規模や様式が大体推定できるようです
他にも壁画や家形の焼き物(?)や家形石棺なども重要な参考資料ですし
特に中国には「造営法式」という12世紀に刊行された当時の建築様式や技法が集められている
技術書のようなものがあるので資料は豊富です
瓦は中国では夏の時代には作られていたとされ、周の時代には平瓦と丸瓦の区別があり
春秋戦国時代には本瓦葺の手法が完成していて、軒の先端につく瓦には瓦当(がとう)がついていました
瓦当とは軒の先端にある瓦についてる文様のついた丸い蓋のようなものです
蓋と言ったら語弊がありますが…
穴が空いているのでふさぐついでに装飾をっていう発想かどうかは分かりませんので
日本へは588年に百済から仏殿建築の工人とともに瓦博士が派遣されて伝わります
古代の瓦は現代の瓦と違い密度が低く湿度調整に優れていました
日本の瓦当の文様は百済の影響で蓮華文(れんげもん)が多く
この文様の特徴で出土した瓦からその建物と同じ文様の瓦を持つ建物との関係が推定されたりするようです
蓮華文とは蓮の花を上から見た図です >>65
また、詳しい説明有難うございます。
若気の至りで、拙宅は鉄骨ラーメンALC壁の安普請。
(当時はどーしても屋上が欲しく、木造二階で屋上は法律上だめでした。)
瓦屋根の雨仕舞構造は、兎に角驚くばかり。 板葺きじゃー100年も持たないでしょうし・・・。
中国は様々な基礎技術(建築・鋳造・製陶・・)はすごいですね。伝承はともかく。
組み入れ天井・・・諦めきれず、溝方式に再トライするも、やはり寸法精度が出ずギブアップ。
天井板に見立てた透明プラバンに、棒材貼り付けで行くことに。 >>66
中国では宮殿建築として発展したのが大きかったんだと思われます
宗教建築と違って要求が幅広いですし
あと日本と違って木材が豊富ではなかったというのもあったのかと >>66
組み入れ天井・・・もうあきまへん、印刷にします。
ペパクラ用紙に印刷して、隙間をくり抜こうとしましたが、これも旨く行かずギブアップ。
上階の勾欄の卍崩しのくり抜きも・・・暗雲。
・・・で色々調べたたら、インクジェットで透明フィルムに印刷できるらしい・・・。
どーしても、「上からのぞいて、朱色の格子がみたいのです。
(金堂ので上を見上げるようには見えないので。)
今回の法隆寺・金堂を作るきっかけは何かと言うと
「内陣の仏様を”タテバンコ”風に作りたいと思ったからんでです。
小生のペパクラ初めは、もうだいぶ前ですが、イチローの3000本安打の時に、イチローを作ったのが
きっかけ。その後数例作りましたので、良かったら↓参照してください。(レス番 724と731)
イチローさんおファンの方はぜひ、作ってみて下さい。
小生の5ch(当時2ch)の最初がイチローの3000本安打のスレでした。
http://2chb.net/r/mokei/1456152190/ >>69
5ちゃんには「模型・プラモ」板があるんですね
そちらにスレ立てすればよかったですね
この板の人はあまり寺院建築には興味がないようですし
模型を作るにはいろいろな材料や方法があるんですねえ
満足できるものができればと思います >>70
私も5chの全貌は良く知りませんが、(まず板が分かりません)、模型も分野別で、
此のスレのような「のんびり」は先ず見たことないです。
プラモ、鉄模なぞは、新製品情報が大部分で、「作る事」へのこだわりは敬遠されがちです。
ところで、組み入れ天井は、透明プリンター用フィルム待ち・・・で裳階庇部品を合わせみたらアララ・・・外陣柱と干渉。
製品の庇部品は、外陣柱の頭貫の高さで、裳階天井から水平なので、とても外陣柱に組み物を乗っけるわけには行きません。
何処が具合が悪いのか断面図を見ても、不明。
仕方ないので部品を柱に当たらいところまで削り。
「一層朱壁」は組み立て説明書では前記庇部分に接着指示だけど、外陣柱に乗っけることにします。
外陣柱の上の組み物、白壁・・はどこいっちゃったんだろーー?もう少し考えてみます。
おおむね、建てた外陣柱の位置とサイズは「一層朱壁」のそれと同じなので外陣柱は「一層屋根」を支えていることが分かります。
(裳階朱壁、一層朱壁・・等は組説の言葉です。)
>>70
何となく謎が解けました。
(裳階朱壁の上の)一層朱壁の外側から見える組み物は、「外陣柱の上の組み物」ですね。 (南北面六つ、東西面五つ)・・四隅の組み物を除いた組み物は内陣柱と梁(桁)で結合される)
つまり、外陣壁の壁画の上に見える白壁は、この一層朱壁の内側・・ということだと思います。
・・・でも内陣柱の上に乗せた組み物と一層朱壁の組み物とは高さが同じはずなのに・・・・違ってる・・・ビエン。 >>70
裳階朱壁、庇を接着する前に、裳階のなかった創建当時を記念写真。
なんかお堂風に見えますね。
次は外部の木部を塗装するため、色を検索中。
画像には良いのが無く、YOUTUBE動画に至近距離の動画が有りましたので、
此れを参考にしようと思います。 >>73
裳階がないと軒の出が大きいことが良く分かりますね
裳階をつけて支えないと垂れてきそうです
裳階は元禄の修理の時までは天井もなく衝立のような感じだったようで
主な目的は軒の保護だったんだろうと思えます
見た目も裳階があったほうが安心感や安定感があって今の時代の好みかもしれません >>74
訂正です
天井が付いたのは元禄ではなく慶長でした
裳階と外壁を繋ぐ梁もその時についたようです
確認してから書き込めばよかったです >>74
裳階の天井・・竿縁天井でしたっけ。
外側から見ると、どんな色でしょう? 一般には見られませんよね。
どんな色が良いと思いますか?
前に書いた、TOUTUBE金堂動画では、基壇から数メートルからの映像で基壇の色まで
分かります。 マンガン土でしたっけ・・また仕事が増えて喜ばし限り。(でも西面の映像は無い)
・・でまたまた基壇で知りたいことが多々・・・
・基壇は一見コンクりートみたいに見えますが、石なんですかね?
・マンガン土の正体? 基壇の素材との関係?
・基壇の上面には規則的な「筋」がありますが、これは平たい石を敷き詰めてあるからでしょうか?
いつも済みません 頓首 >>76
裳階の天井の色が白なので裏も白なのかなとは思うけど
昭和の修理で加工を施したのかどうなのか何の記述もないので
何とも言えませんねえ
法隆寺の基壇は二段になっていて二重基壇とか二成基壇とか呼びます
上の基壇は上壇(上成)、下の基壇を下壇(下成)と呼ばれることが多いです
この二重基壇は日本では例が少ないですが、基壇の本場の中国では三重基壇も見られるそうです
昭和の修理ですべて解体したそうですが、石が入れ替えられていたり
新しいものに入れ替えられていたりで
創建時の詳細はほぼ分からなかったようですが
みすぼらしかった外装の石を金堂にふさわしいものにしたようです
塗られているマンガン土は漆黒のものやら淡い色のものやら様々混ざっていて
歴代の修理の度にわざわざ塗っていたのかとも思えますが
いつから黒かったかのかは分からないようです
あまり詳細に触れられてもいないのもそういうことだと思います
石積みは上下ともに壇上積(壇正積)ですが、上壇は凝灰岩で束石のない壇上積なのに対して
下壇は花崗岩で束石のある檀上積です
下壇は周囲を切石で積み、上面は微かに水垂れ勾配を持った漆喰叩きになっています
https://imgur.com/4PQifKe >>77
続きです
写真が見当たらないので確認していませんが
上壇は敷石と書かれているので凝灰岩が敷かれているのだと思います
西面の写真です
https://imgur.com/CqarWiK
見ていて気が付いたのですが、裳階の入り口の上あたりに
斜めに柱のようなものがかかっているのが見えます
その上の瓦が他と違うのでこれは屋根に上がるための階段ではないかと
ちなみに北面側は立ち入り禁止で何かあったような、どうだったかな >>79
貴重な写真&説明有難うございます。
基壇の塗装にも一層気合が入りそうです・・。
今日は裳階と庇を組付けました。 補修の容易化を目指し、接着剤は使わずに接着力の弱い両面テープで・・。
竿縁天井をは、いい加減な画像を作り、裳階天井部分に貼り付けました。 色は薄オレンジ色で。 白っぽい色にすればよかったーーー。
それと裳階の板庇の色塗り・・・白っぽい色なんですよね。
次は、一層朱壁(外陣柱との取り合い)をどうするか?
天蓋、格天井をどうするか・・はまだほとんどアイデア無いです。 >>80
裳階の屋根は大和葺という手法です
色はこんな感じですが何とも言い難い色です
画像によっては白っぽく見えたり素木に見えたり
裏から見るとこうなっています
白く塗ってあったように見えます
>>81
いやー色や形が良く分かりますーー。 参考にさせていただきます。
庇の板の葺き方・・良くj出来てますよねーー。
写真集が出るのを待ちわびます・・・。ほんと
内陣の写真なんかもお持ちでしょうか? >>82
大和葺は平瓦を重ねて葺く手法に似てますね
図書館の大型本でお寺のシリーズが置いてある場合があるので
調べてみてはどうでしょうか
写真集とまではいきませんが法隆寺なら必ずありますし
ちなみに中は撮影禁止な上にとにかく暗いので、
仕事で撮影したもの以外の写真はないと思います >>83
金堂の天蓋、格天井の画像を再収集。
格天井のイラストに目が留まり、西岡氏の・・
「法隆寺―世界最古の木造建築 (日本人はどのように建造物をつくってきたか 」を見つけ、ポチリました。
この際なので、西岡氏の
「宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み (日経ビジネス人文庫 )」 も合わせて・・。
一層朱壁をプラ板に接着。 外陣柱の四隅と朱壁との隙間に粘土を介在させ、上の荷重を受けるようにしました。 >>85
外陣頭貫の上の壁画とは斗栱(ときょう)間にある
栱間壁(きょうかんへき)や栱眼壁(きょうがんへき)のことです
斗栱とは組物のことで栱というのは肘木のことです
肘木と書かずに栱と表記している本も多いです
栱間壁は組物と組物の間の壁のことを指し、
栱眼壁は組物の中に含まれる小壁を指します
内部の壁一面に何かしら描かれていたということですね
栱という漢字は表示されるかどうかわからないので一応説明すると
木編に共です
古建築の本には必ず出てくる用語なので見たことがあると思います >>86
続き
金堂の火災前には壁画の模写が終わっていたそうなのですが
12面の壁画しか再現されていません(再現といってもパネルを吊るしてあるだけですが)
よって、現在は真っ白ですが再現できないこともないけどやってないんだと思います
いつも参考にしている「法隆寺金堂の諸問題」(竹島卓一)によると12面の壁画以外は
それぞれ同じ図柄の繰り返しだそうです >>90
羅漢図の位置は・・・・
模型で言うと、一層朱壁の内側に白色の部品を接着する白壁の部分です。
表の組み物の形を茶色にでも塗って、壁画の部分を作っておこうと思います。
阪大の研究が済んで、壁画が再現したら、貼り込みましょう。
7号壁画の白黒概要図を練習で、貼り付けます。 88のカラーは止めます。 >>90
「宮大工棟梁・西岡常一”口伝”の重み」 日経ビジネス文庫読み。
・・・・で西岡氏のあらましを知れました。 やはりすごい人だったようですね。
金堂の屋根の大棟の鬼瓦・・面白いですね。 西岡氏は「鴟尾」押しだったとか。 模型はいっそ鴟尾にしようと思いました。
でも鴟尾って何・・で検索していて↓の論文を読んで考え直し。 龍も付けちゃう事だし、鬼瓦でも良い気がしてきました。
YAHOOか何かで、「法隆寺 金堂 鴟尾」・・で検索し・・・下の表題のPDFです。
「法 隆寺金 堂 ・五 重塔 昭和修理 の 方針策定過程 に (示 さ れ た 保存 の 概 念)」 >>91
金堂内が暗いのと今みたいな照明がなかった等で
模写の条件が悪くて大変だったようですが
こうして研究されて再現までされれば当時の苦労が報われるというものですね
解体修理をして復元できるチャンスが巡ってきても
現状維持に傾いてしまうのは
責任の取りようがないので仕方がないことなのかもしれないですね
上の人の意向も様々ですし
薬師寺東塔も解体修理が終わりましたが
元は連子窓だったと思われる壁を連子窓に変えなかったようなので
現代でも現状を変えるというのはなかなか難しいようですね
調査の結、連子窓の痕跡がなかったのかもしれないですが
腰貫(壁の真ん中くらいに入ってる貫)の下に束が入っているのは連子窓の手法だそうです
海龍王寺の西金堂も同じように束が入っているので
その上の壁の部分は連子窓だったのではないかと目されています >>93
「修理」は難しいんですね。
92の東工大の論文おおかた読みました。 要約すると・・
大岡、浅野さんたちは金堂を「復元」する事を目指し、裳階を廃止鴟尾を乗っけることを計画
したが、昭和24年の火事以降、方針が「慶長以前の中古」を目標にして「保存」に重点を置いた・・・ですが
個人的には、「保存」に重点を置く事が良いように思います。
論文277頁の大岡、浅野両氏の金堂復元図(図ー1,2)で裳階無し、鴟尾有り図面を見てびっくりですね。 >>94
鴟尾といえば唐招提寺金堂の屋根に乗っている姿が刷り込まれているので
屋根の形状が違う法隆寺金堂ではちょっと違和感がありますね
山田寺跡から発掘された回廊に乗ってた鴟尾は
ちょうど回廊が折れるところに乗せていたようで頭が二つある双頭鴟尾です
面白いですがそれも違和感があります
そこに鴟尾は必要なのか?とすら思えますw
古代では鴟尾が様々な屋根の上で見られたのかもしれないですね >>95
「日本人はどのように建造物をつくってきたか 1 法隆寺」
草思社 198010月25日 第1刷発行
本日到着したのは、1981年1月7日の第7刷。三月で7刷りなので、随分と売れた本みたいです。
著者の一人が西岡常一氏で「絵解き本」とよんでる如く、精緻なイラストが大変綺麗。 小生のような
素人には最適本ですし、昔からこの手の絵入り解説本が好きです。
建築の流れを、基壇、木組、屋根ふき、壁、塗装・・を追ってくれてる。
完成の絵は、また驚くことに、裳階なし、鴟尾付き・・・。西岡さんの執念。
塗装で面白かったのは、「初重内部はベンガラ」と書いて在ります。
現時点での模型で、内陣柱とうの色を朱色に塗りなおす積りが、赤のままなってしまって居り、どーしたものかと思ってましたが、
ベンガラなのでOKとしますか。 何となく、赤色が良いと思ってましたが、実際はどうだったのでしょうか?
金堂建立は・・組入天井の印刷はOKで、ついでに「上重」の勾欄の万時崩し部分も透明シートに印刷。
組入天井の原画はPPで赤線で作成。 勾欄は、ネットの画像拡大コピーし、卍の空間部分を切り抜き、
スキャンした物を画像にし、PPに貼り付けて印刷。
勾欄の卍パターンは、長手と短手で両端部のみが違うようです。 >>96
その本は持ってます
大工さんたちが本当に楽しそうに生き生きと仕事をしていて見ていると楽しくなります
西岡棟梁が関わっているからそうなったのでしょうか
鴟尾だったのは出土物からもほぼ確定していて実際にそう再現しなかったというだけなので
まさに創建時の姿が描かれていることになります
柱の色は調査の上に再現されていると思うのでベンガラの成分が検出されたのかもしれないですし
当時はベンガラのみが使われていたのかもしれません
赤い色は
ベンガラが赤色酸化鉄、朱が硫化水銀、朱土が泥絵の具で鉄分を含む、丹が鉛丹
だそうなので薄くなっていても判別はつきそうです
上層の高欄も出来上がって完成が近づいているみたいですね
高欄は慶長の修理の時に屋根の下垂に対応するために前に持ち出されてたとかで
新しくされてます
以前古書店で買った解体前の金堂と天蓋の絵葉書を見つけました
発行が大和法隆寺になっています
いつ頃の写真かまでは分かりませんが二重基壇が黒っぽいです
>>97
また貴重な資料、有難うございます。
基壇の写真は明治時代でしょう
か?、100年くらいで随分と色が落ちちゃうものですね。
天蓋は複雑な形状ですねーー。 どう簡略にするか、上部はどんな風なのか・・悩ましいです。
瓔珞部分もネットの画像を拡大コピーして隙間をくり抜き画像作りましたが・・・・
縮尺寸法横16ミリに縮小すると・・あらら小さくて見えません・・ビエン せっかく赤・青ノマジックで綺麗に色付けしたのに・・。
瓔珞は前木製・・との事でしたがガラス製だと思います。
ベンガラ色々ネットで見てますが、塗った色より暗めが正解みたいですねー。
塗りなおしも難しいので今のまま行きます。
上層勾欄は組入れ天井と同時に、透明フィルムの印刷トライです。 (光沢面なので、艶消しクリアを吹く予定。)
これからの大枠の工程は・・・
格天井(上の本を参考)→天蓋→下層屋根→上層屋根・・・・・・・須弥壇修正→仏様達→基壇塗装。
一層朱壁から上は取り外しできるようにするつもり。
格天井・天蓋は中央柱群の上に乗せておき、外陣の組入れ天井も、取り外せるように、
力肘木(ちょこっと物)に乗せるだけにしようと思います。
>>98
基壇の外装の石は風食が激しいのと度重なる修繕で
取り替えられたり入れ替えられたりされていて
元の様子が分からなくなっていたそうなので
この絵葉書がその状態のようです
昭和の修理で丁寧に調査して何とか体裁を整えたのが現在の金堂基壇で
たくさん見えている黒く着色された石がどうなったのかはちょっとわかりません
でも方向によってはまだ黒いところもあるので、状態が良いものはそのまま使われているはずです
下にぶら下がってる紐みたいなのも木製だと書いてあったので
随分器用なもんだと思いましたが、それは別のものを指していたのかもしれません
すみませんでした
その木製と同じ本で天蓋が針金でつられていると説明されてたので
そんなことあるのかと思っていましたが絵葉書にばっちり映っていますねw >>99
基壇、創建当時は真っ黒だったんですかね?
隣の五重塔の模型の作例で、基壇を真っ黒く塗ってる人もいました。
天蓋・・・側面と斜め下からの画像を見ると、すんごく複雑な形状なのがわかりますね。
天井部分は支輪ありの格天井風で、垂れ壁を付けてその下に瓔珞。 垂れ壁の上と天井の上にも何やら台形の飾りもあり。
いっぱい居る木製の仏様の再現は諦めざるを・・・・。
格天井も天蓋も彩色の絵が満載で、出来立ては綺麗だったでしょうね。 >>100
昭和の時点で創建当時の石はもうなかったようなので、色がどうだったのかは誰にも分りません
黒色は基本的には黒色マンガンで着色してあるそうですが
違うもので着色しているものもあったので
基壇は黒という意識はあったのかもしれないです
現物から探るのは不可能なので基壇の色の記載のある文献資料でも発見されれば
はっきりするんじゃないでしょうか >>101
基壇、真っ黒に復元されて無くて良かった気がします。
下に中国で3番目に古い木造寺院、仏光寺の動画をあげます。
9世紀の物らしいですが、どの程度の修復かは分かりませんが、中々1000年経過の
雰囲気はあるようです。 見ててなんだか落ち着きます。
柱はベンガラですかね?
>>101
天蓋の瓔珞・・・。
下の資料@の画像を利用してましたが、文書は読んでませんでした。
良く読むと、例の防水型の飾りは、おっしゃる通り木製なんですね。
筆者は、
「紡錘形の木筒は、ひょっとしてトンボ玉の代わりかも知れないと思うようになってきた。当時ガラスで丸い玉を作ることはできても、長細い形のものを大量に作る技術がまだなかったのではないか?」
・・と述べてます。
小生は古墳時代にはもう水晶の切り子玉などが有ったので、紡錘形の物も、何か貴石の細工物
だと勘違いしてました。
日本の古墳出土のものは、切り子型、管型、丸形で、紡錘型は無いし、一つの墓に数個しか副葬されてない。
天蓋の瓔珞に水晶切り子を使うとしたら、1000個以上必要だし・・。 線の模様は無いし・・。
やはりこの紡錘型瓔珞は謎ですね。
http://avantdoublier.blogspot.com/2008/09/blog-post_29.html >>103
ガラスが使われなかった理由は法隆寺は官寺ではなくて私寺なので
予算の関係だったのかもしれないですね
五重塔が完成までに時間がかかっているのも予算の関係だったのかもしれないですし >>102
仏光寺は昭和45年発行の「中国の建築」(竹島卓一)という本では
中国で二番目に古い建物だとされているので
その後さらに古い建物が発見されたということになりますね
さすがにもう発見されないとは思いますが期待していたいと思いますw
この本によりますと、正面7間で36.2m、側面4間で8.7m、
柱間の広いところは5.37mの大きさです
注目すべきところは、のちの絵様肘木と禅宗様建築の詰組への発展過程がみられるところです
絵様肘木は通し肘木や桁に普通の肘木の形が掘られている部分です
柱の色はベンガラっぽいですけど詳しくないので良く分かりません
画像検索して見比べるとそうかなといったくらいですw
修繕は屋根は確実にやっていると思いますが
本によると瓦の葺き方がこの規模の堂にしては簡易な葺き方だけど
こういう葺き方が中国にはあるので不思議はないけど・・・という内容の記述があったので
創建時は本瓦葺だったとしてもおかしくはないといった感じでしょうか >>104
>>105
瓔珞・・・予算の関係ですか。 赤い玉・・珊瑚か瑪瑙か・・でも300個以上ありそうで、それでもお金はかかってますね。
仏光寺・・・瓦やねは修繕してあるんですね。 柱や組物なんかも修復してるんでしょうか?
文化大革命後は文化財にお金を掛けてるんじゃないのかな?
今日は、格天井・・とりあえず完成。
断面図から、プラバンでおおよその大きさで作成。
支輪の間のきれいな絵は、天蓋の写真のわきに写ってる物を使い、プリント貼り付け。
天井の内部の上部部分もどんな風だか不明のため、同じ絵柄を井桁状に貼り付けました。
(格天井の外側もどんな具合か分からないため、内側と同じにしてしましました。) >>106
金堂の下層は火災で雲斗きょうも燃えてしまったので復元するために
宮大工に作ってもらい、技術的に申し分ないものができたそうですが
元のものと比べると物足りないので結局彫刻家の石井鶴三らに彫ってもらったそうです
創建時にそのくらいの技量のある工人が関わっていたということで
瓔珞にガラスを利用する必要がなかったということかもしれません
屋根は雨漏りの原因になるので頻繁に修繕される個所なので仕方がないです
仏光寺についてwikiを見てみたら、1930年代の再塗装により芸術的価値が損なわれたとか
17世紀以降修復が行われていないとか、あまり恵まれた環境ではなかったようです
新しい手法が入ってないということは古式が残りやすいのでいいといえばいいのかもしれませんが >>107
春はまだまだですね。 風の寒さや・・なんてもんじゃなく一番風が冷たかった気がします。
確かに木製・紡錘型瓔珞はすごいですね。
今日は、天蓋の三日目。 展開図を修正し、量産体制(3個)に入りました。
正確な寸法が分らず、最後まで縦横寸法に悩みました。(WIKI情報だとネット画像情報とどーしても合いません)
見せて頂いた「絵葉書 天蓋」の横寸法を基準にやっつけました。透明シートで印刷した瓔珞部分を下にくっつけようと思います。
ここまでを画像アップします。 >>107
写真撮りましたので・・・。 一層朱壁の位置決めがまだです。
ほんと近接で見るときったないですねーービエン
普通に見かける画像は裳階部分が大きく見えるのに、模型にしちゃうと、裳階部分は目線下に
成っちゃってなんだか変です。 完成写真は水平に近くないと、きっと迫力でないでですね。 >>109
10円玉と比べると随分小さい模型なんですね
これは大変なわけですね
寺院建築の本には宗教要素の強い内陣についてはあまり記述がないので
役に立てなくて申し訳ないです
が、寺院建築が宗教建築である以上は宗教要素も加味して考えないといけないと
思ったりします
天蓋のサイズは約2.4メートル、奥行き約2.1メートル、高さ0.8メートル以上とありますね
結構大きいものなんですね >>110
結構小さいんですよ。
基壇部が約12×14.5センチ。 屋根の上までで12センチですね。
まあこれ以上大きいと置くとこも大変ですし、 またこれ以下の大きさだと、精密度が無くなります。
1/150は鉄道模型のNゲージに相当し、人形が流用可能。 人形の身長が大人で1センチちょい程度ですね。
金堂完成時には何か人形を基壇に置きたいです。 飛鳥美人さん人形・・なんてあると良いですね。
今日は天蓋上部を完成させる。 天人像がどーしても乗せたくて、いい加減なスケール、数を乗せました。
格天井に天蓋を吊るす方法をどうしようか思案中。
・・で天蓋をどの高さにすればよいかが不明。 飛天図のちょい下あたりかなと思われますけど、
釈迦三尊像の上方どのくらいか?
三尊像を試作し、須弥壇に乗せて見て、様子を見る予定。 >>110
今日は、東大寺二月堂のお水取りーお松明だったんですね。
奈良はもう春ですね。 寺院に置いてある復元模型くらいの大きさだと思っていたら
全然小さいんですねえ
金堂の須弥壇は恐らくですが創建時から、やけに前方(南)に出ているそうで
内部の写真を見ると天蓋もそれに合わせて吊るしてあるように見えます
背面は天井が見えているのに前方は見えてないのです
背面の方は組入天井が二列くらい見えています
これはさすがに再現は無理だとは思いますが参考までに
天蓋の高さは仏像から結構余裕がありますね
小壁の半分くらいのところに瓔珞の先が届いてるくらいでしょうかねえ
下から見上げたような写真しかないので正確には分からないですね
>>113
情報有難うございます。
天蓋の位置を調べてて、またもや間違いに気づきました。
中央の天蓋は左右のにくらべ一回り大きいのに、早まって三つとも同じものを作ってしましました。
模型組み立てる前に、仏像、天蓋を大きさを調べておいたのに・・・。
釈迦三尊像の大きさを再度確認し、天蓋との距離を見ようと思いましたが・・・
はて???? 須弥壇の高さは・・わからず。途方に暮れてます。
地面から仏像が置かれてる位置までの距離・・・または須弥壇の寸法・・お持ちの書籍の
どこかに有りませんでしょうか? 正確な数字は分かりませんが、写真を確認したところ
須弥壇の高さは内陣柱の六分の一程度の高さで
真ん中の仏像が乗る台の高さは須弥壇の高さと合わせて
内陣柱の半分よりちょっと下くらいの高さに見えます
>>115
わざわざ有難うございます。
兎に角内陣の写真は少ないですね。 写真撮影禁止なんですかね?
YOUTUBEにあるNHKの法隆寺関連の放送では、芸術的な映像でしかなく、
国宝なんだから、しっかり微に入り細に渡って、国民に見せてほしいものです。
金堂壁画も、現在ではパネルが掛かっているとの事ですが、それだって国民は知りません。
須弥壇高さ、お騒がせしました。
金堂断面図に須弥壇のアウトラインが有りました。高さ60センチ程ですね。
写真ではコンクリートの基礎みたいに見え、手すり(欄干?)が埋め込まれてるように見えます。
どんな構造なのか?しりたいですね。 >>116
堂内はおっしゃる通り撮影禁止です
中は暗いので世に出回っている写真は照明を入れて撮影されたものと思われます
全て集めて写真集にしたら面白そうですね
壁画のパネルは竹島さんが朝日新聞社に抗議までして本当に怒っていらしたようですね
どうしてパネルでという結論になったのかはわかりませんが
直接となると相当なプレッシャーがかかるのかもしれないです
須弥壇は土壇を漆喰で覆って亀腹(かめばら)のようにしてあるのだと思います
そこに高欄を取り付けて、内陣と外陣を仕切っているといったところでしょうか
内陣には壁がないですし
これは元禄の修理の時の改造で、それ以前はもっと低くて広い「木造の」仏壇が
内陣柱を取り囲んで設けられていたと考えられていて
内陣柱にその痕跡があるそうです
言われてみれば木造のほうが自然ですね
法隆寺の金堂内に亀腹というのも変な話ですし
亀腹は主に床下に見られる白い漆喰の饅頭みたいな形のもので
版築して石で囲って基壇にして、という作業が簡略化されたものとみられています
東大寺の法華寺のがわかりやすいです >>117
訂正
法華寺 → 法華堂
三月堂と呼ばれる建物です >>117
金堂の須弥壇、白いのは漆喰なんですね。
亀腹、見てみました。なんか面白い技術ですが、なんでこんな事したんですかね?
東大寺法華堂の須弥壇も見てみました。 立派ですねーー。 なんでこういうのが、金堂に
無いのでしょう?
「土の上の高欄」・・も新技術でしょうね。
前に作った須弥壇は手抜きなので、由来が分かりましたので、頑張って、実物らしくしてみます。 >>119
釈迦三尊像の全高は3.8メートルとの事で、図面で見ると、内陣柱の上の組物の
高さとほぼ同じくらいになる見たいです。
これからすると、天蓋はほとんどが格天井のなかで、瓔珞の下面がこの位置位ですかね。
釈迦三尊像の台座の画像を探してたら、下の本を見つけぽちりました。
この像だけは、良いタテバンコ(風)が作れると思います。
小学館
週刊 ニッポンの国宝100 34 四天王寺扇面法華経冊子/法隆寺釈迦三尊像 釈迦三尊像が乗る台と天蓋の位置は小壁二間分ほど前(南)に出ているようです
その空いた二間分の空間に仏像が二体ほど北を向いて立っています
最初に質問されていた仏像がそのうちの一体です
そこまで余裕があるかわかりませんが参考までに
>>121
仏様達の安置位置についての情報も少ないので助かります。
有難うございます。
内陣をいくら作り込んでも、「見た目」の写真を撮るには特殊なカメラが必要で、
安くて良い物を、また探そうと思います。
法隆寺金堂を実際に見学したいとは思いますが中々・・・なので、
組入れ天井の下に立つVRを体験したいので。 >>121
小学館 ニッポン国宝の100 VOL34 到着。
内陣正面から見て、左の増長天から右の持国天迄の見開き写真が載ってる。
阿弥陀三尊像、釈迦三尊像、薬師如来像も、本来の台座で・・・。
後方の吉祥天、毘沙門天も良い感じで、これらの画像を使おう思います。
今日は須弥壇の修正。
勾欄を「一応」二段に改修。 (勾欄ー上から架木、平桁、地覆・・と言うらしい。 地覆は再現できず、また支え木の斗束もいいかげん)
でも一段と二段じゃあ雲泥の差。
下塗り乾いたら、漆喰部分を白、勾欄部分を朱赤、ギボシ部分を黒で塗装予定。
須弥壇は仏壇の元だそうですね。・・で仏壇にも須弥壇がありますね。 123補
内陣検索で下の動画発見。 なんか中国語の説明付きで、後半に金堂の内陣あり。
NHKよりずっと良い。 釈迦三尊像、台座はどうもレプリカの模様。
これで大分様子が分かって来て・・・・
・中央天蓋の羅網は三尊像の光背あたりまであること・・・。 天蓋の宝飾を瓔珞と書いてきましたが、「羅網」・・・と解説あり。
・仏像の高さは「像高」と称し、体部分のみの大きさを言い、台座等は含まない。 ・・・やっと分かりました。
・外陣の本来扉部分は、現在、ガラス窓らしき明り取りになってる。 これなら昼間で、外扉が開いていれば結構明るい思われますと。
https://butsuzolink.com/horyuji/ >>123
そういう本?雑誌?の写真はとてもきれいなので
いいものができそうですね
古い図鑑のカラー写真は謎の絵画感があり時代の流れを感じます
寺院建築の用語や名称が複数あるものもあり
どちらも間違いではないと思います
丸軒瓦も鐙瓦(あぶみがわら)と呼んだり
出桁を丸桁(がんぎょう)と呼んだりします
金堂にはかつては玉虫厨子も置かれていたそうなので
大事なものは管理の行き届いたところにもっていってしまうのは
現代では仕方がないのかもしれません >>125
金堂内陣の仏様で苦戦中。
「像高」はデータあるものの、台座の大きさの情報は無く、
ネットの画像から推定するも、矛盾だらけになってしまう。
釈迦三尊像の全高さが3.8メートル・・・が頼り。
四天王や毘沙門天、吉祥天の像高は約1.2〜1.3メートルで、縮尺で9ミリ弱。
印刷してみましたが、小さい小さい・・。
どんな具合か早く須弥壇に並べてみたいのですが、不安がいっぱい。 >>126
釈迦三尊像を検索したら東京芸大がレプリカを作っているようですね
完全に同じものができたようで見分けがつきませんw
しかし後ろの光背に天女のようなものが縁どられているので
少し背が高くなっています
天蓋と光背の先端に距離があるなあと思っていましたが
これならちょうどいいくらいになりそうです レプリカはクローン文化財と呼んでいるようです
検索するといろんな画像がみられて面白いです
>>127
釈迦三尊像のレプリカありますね。
やはり金箔のハゲ具合迄再現とは行かないみたいですね。
今日は、昨日注文した「スパイカメラ」が到着で、試写。
写真はまだ撮れてませんが、動画はOK.
でも焦点40センチ以上くらいで、金堂壁画を数センチの近距離で綺麗に撮影できない様で、残念です。
まずは須弥壇の仏様を完成させてから、また考えます。 須弥壇 仏様達乗っけてみて記念写真。
なんか想像してたより混雑してて・・サイズ違いかもしれません。
>>130
これは小さいですね
並べるだけでも一苦労ではないでしょうか
須弥壇が見事です >>131
今日は一層屋根に取り掛かりました。
一層朱壁に有名な雲斗雲肘木を18個接着し、一層屋根に接着する構造です。
屋根はすでに良い感じの塗装がされておりますが、裏側は茶色のみで、ここは塗り替える予定。
雲斗雲肘木も気合をいれてラシクしようと思いますが、どーしたら良いのか良い方法が思い浮かびません。
画像も良いのがあまりありません。
しかしこの屋根はでかいですね。 南北の短手の垂木(模型の)を数えたら69本有りました。
垂木端面は白っぽく見えますが、金属飾りは残存してるんでしょうか? >>132
初層の組物は写真にとりにくい場所にあるのであまりないかもしれませんね
下の方が裳階に隠れて写らないのです
垂木には金具はついてないようです
よくよく見ると赤っぽいところがあるので元の色が残っているようです
尾垂木の断面は緑っぽいですが金具の色がうつったのか緑に塗られていたのか
よく分からないですね
>>133
? >>134
最初の雲斗雲肘木の画像、綺麗ですね。
何とか再現したくなりますねーー。 小さくて見えないけど・・。
軒瓦は、またまた綺麗な模様の瓦ですね。 模型では端部にはなんの細工もありませんので、ここはどーしたもんか?
瓦の着色済みの色は、変に黒っぽいですが、この画像で見ると、よく見かける灰色なので塗り直しが
必要なようです。
裳階と雲形肘木の間には「駒犬(説明書ママ)」も有りまして、どんな具合になるのか楽しみ(&不安)です。 >>135
狛犬が写真に写っていました
四隅を支えていますね
昭和の大修理でこのような後補材をどうしようか迷ったようですが
必要という結論で残したそうです
取り除いていたら今頃屋根の形が変形していたかもしれません
瓦はごく一般的な瓦の色だったと思います
初層の雲斗きょうは燃えてしまったので新しく作ったものです
著名な先生を招いて彫ってもらったものなので心して再現してくださいw >>136
今日は屋根の塗装用に下塗り塗装(スプレー)しようと思ってましたが、
風が強くダメでした。 明日は風が収まるのを祈ります。
裳階から屋根を支える動物たちを検索しましたが、どうもハッキリしません。
南東:狛犬(獅子) しっぽが六つ位に分かれてる。 東頭
南西:狛犬(獅子) しっぽが立ってる。 西頭
北西:像 鼻が長く伸びてる。 鼻が西
北東:像 鼻短い 耳垂れ
・・・と思われます。
模型には狛犬の様な微妙に異なる4匹が入ってます。
レス番1の作例では龍も狛犬・像も金色のままで製作されてます。
この柱(狛犬・獅子)も江戸時代の修復時の物ですか? >>137
元禄の修理(1696年)の時に象や獅子の支柱が入ったとされています
竹島卓一さんは「四隅の支柱を動物の彫刻で擬装した」と書かれているので
専門家にはあまり好ましく考えられていないようです
江戸時代の修理自体が好まれていないのもあると思いますが
想像ですが修理時の時代性が出てしまっているというのが
やはり受け入れがたいのかもしれません
江戸時代中期以降、細部の意匠が著しく発達して木鼻に凝った彫刻がつけられるようになりました
木鼻は岩波書店の古建築入門の72ページに説明があります
(奈良時代の木鼻には派手な装飾はありません)
木鼻につく動物はほとんど獅子、象、獏で獏がいまいちわかりにくいと思うのですが(私見ですw)
象の鼻が短いのが獏ではないかと睨んでいます
これらは現代でもよく目にするほど普及しているので、法隆寺に出現しても不思議はないです
普通は向拝の正面に獅子鼻が付き、横に出る部分に象鼻や獏がついてるように思います
正しい配置は分かりませんが、それが影響してるのかもしれないです
雲肘木の支柱といえば、昭和の解体前の写真では雲肘木の下辺の先の方に角材の支柱が置かれ
その近くに彫られた渦の部分と支柱とを針金のような金具で固定されていました
さすがにこれは痛々しいので、今はどうなっているのかと「いかるがの里法隆寺」で写真を探したら
20番の写真に支柱がきれいに収まっているものがあって安心しました
この写真は配管のパイプのようなものや裳階の上の部分も写っていて面白くて貴重な写真だと思います >>138
龍の支柱と同じ時期なんですね。
「いかるがの里法隆寺」の書籍は↓ですか?
著者 北川桃雄 入江達吉
出版社 淡交新社
昭和37年 >>140
ありましたありました。 20番写真の雲形斗供 。
これは裳階の屋根から支柱がでてますね。
動物が支える雲形斗供とはくり抜きの個数が少ない(1個)ですね。 隅木の方の奴は2個
模型はこの辺の再現度合は悪く、スジボリも無く、雲の曲線もダメなので、
隅木側の4個の下側に小木片を追加してみました。
ええ、もちろんデザインナイフの刃は新しい物に替え心して削りました。。 >>140
今日は裳階の扉作り。
一枚板なんですよね。
プラ材質が硬く、やすりがけで、左手の人差し指の爪もいつの間にか削っていて、
気が付けば・・痛いです。
模型では鋲の表現は有りますが、取っ手のモールドが無いので何かくっつけなくては
なりません。(「古寺建築入門」岩波書店に良い写真がありますね)
扉は接着せず両面テープ止めの予定。 >>140
「いかるがの里法隆寺」を再読してたら、金堂の部で、
仏さまで、須弥壇で北向きの二仏を思い出し。
塑像吉祥天と地蔵菩薩の画像探して、ご安置。吉祥天の大きさは分りませんでしたが・・・。
今は大宝蔵院に移されてるらしいです。 >>140
いやー、NHKの「岐阜 願興寺解体」見終わりました。
いつも夕飯食べて、ニュース見たらテレビ消すんだけど・・・。
部材全部を解体し、今後5年かけて修理復元するとの事。
最後の、外郭の柱の中の二本の貫が組み合わさってるのをハズス所が良かったです。
四百年で柱の下が腐食で明治時代に下支えの木が足してありました。
法隆寺金堂の昭和の修理では、解体までは行われなかったんですかね?。 >>141
雲肘木の彫刻が施してあるのは金堂だけで
五重塔と中門は形だけで彫刻はないです
メーカーさんはそこを踏まえて模型を作ってほしかったですねw >>142
厚みは10センチくらいあるんですよ
内開きなので扉が内側に入ってしまい
あまり人の目に触れないのでもったいないです
柱もとても太く、奈良時代の寺院はダイナミックです >>143
金堂は一時期は倉庫のように仏像などがたくさんおさめられていたようですが
それにしてもなぜ二体だけ北向きなのか不思議ですね
何か決まりごとがあるのでしょうか
決まりごとがあったとすると、倉庫状態だったことの説明がつかなくなるのですが >>144
見ましたよ〜
明治時代に修理したとは思えないくらいボロボロでしたけど
修理といっても雨漏りを直したとか柱の傾きを直したとかって程度だったんですかね
屋根が何ともお粗末な色になっていて残念な感じでした
同じ明治時代に修理された国宝の栄山寺八角堂はもっときれいに保存されているのに
国宝と重文の差でしょうか、それとももともとの完成度が違ったのでしょうか
頭貫はあのように繋いでいるんですね
ということは、他の貫もあのようにつないでいるってことですね
ちなみに法隆寺金堂の頭貫は頭貫同士がつながっていなくて
それぞれただ柱にさしてあるだけで、頭貫の役割はないそうです
その代わりに分厚い壁と太い柱で建物を支えています
法隆寺金堂は昭和の修理で解体されています
基壇の外装の石も外して版築や礎石の調査もされています
調査目的で主要な堂宇は昭和の大修理の時に解体修理されていると思います
最近では薬師寺の東塔も解体修理されてましたね
創建時の姿は再建された西塔のようだったと思いますが、
創建時の姿に戻さずに解体時の姿に戻したようです >>148
今日は虫の知らせで、BS-美の壺みました。
「天平の仏象」のお題だったのですが、法隆寺の登場は無し。
その代わりに、入江泰吉氏がお弟子さんの話と共に出てきて、
興福寺 阿修羅像の紹介で、入江さんの写真が紹介されてました。
入江さんの阿修羅像の写真で、阿修羅像が一躍有名になったそうです。 >>149
上層の雲肘木です
古い時代の寺院建築の肘木には舌(ぜつ)という装飾が彫り出されています
金堂の肘木にも舌がみられます
なぜこのようなものがついているのかというと、斗の下に皿斗がついているように
肘木の下に皿斗のような板が入っていたのの名残ではないかという説が有力です
現存する舌は法隆寺、薬師寺東塔、山田寺東回廊跡から出土した肘木くらいでしょうか
飛鳥資料館に行けば山田寺の舌を間近で見られます
ご参考までに >>150
仏像だけなら古い時代のものが結構残ってるということですね
建物は燃えたら終わりですが、中のものは持ち出せますからね
阿修羅像が有名になるきっかけがあったんですね
びっくりです
入江さんの写真ならその力がありますね
>>151
獅子も象も想像以上に小さいですね
目がチカチカしてきそうです
垂木の数が実際よりも少ないなら手を抜いたなってわかりますが
多いというのは大盤振る舞いですねw >>152
また貴重な資料、有難うございます。
134でみせて貰った、上層の雲形肘木とちょっと形が違うようですね。
上層のは昔の奴で、下層のは新しくしたんでしたっけ?
上層の雲形肘木はかっこ良く作りたいです。 >>153
雲形雲肘木(雲斗雲肘木)に尾垂木が乗り、その上にも雲の形の雲肘木ありますよね。
これも法隆寺金堂の特徴ですか?
模型ではこの部分は無く、隅木との間には何もないので何とかしようかなと考えております。 >>153
今日は一層屋根の塗装。 軒瓦の丸部分、垂木端部を彩色。
垂木端部は何やら白っぽく塗装されてますが、やはり腐食防止でしょうか?
あと、忘れてた組入天井(印刷もの)を外陣天井に設置。
柱、壁の設置がいい加減のため、組入天井もつぎはぎで、これまた不揃いの力肘木
に乗っける工事・・・でした。 >>155
出桁を受ける実肘木(さねひじき)のことだと思いますが
他の建物は普通の形の肘木が使われています
ちなみに肘木の上に斗を乗せて出桁を支えると秤肘木(はかりひじき)という呼び方になるようです
用途は同じです
法隆寺は雲の形を彫り出して徹底していますね
これらの名称や用途などはお持ちの岩波書店の古建築入門の46ページ辺りから
詳しく出ています
図がとても分かりやすいです >>156
古い時代のものだと垂木の先に垂木先瓦(たるきさきがわら)という装飾がついているのですが
法隆寺金堂はどんなもんでしょうかねえ
垂木は傷みやすいようで、古い材がそのまま使われているということは稀なようなので
垂木先瓦ではなく腐食防止を兼ねて色を塗ってあるのかもしれないですね >>158
「古寺建築入門」 P47 図81雲斗栱・・・これですこれです。
尾垂木の上に乗ってる、出桁と隅木を支えてる組物で雲の形。
名称は書いてませんが、「法隆寺 世界最古の・・」草思社・・のP26上の図で出桁のみ支えてる
組物を「雲肘木」と書いてるので、やはり雲肘木の複合版なんでしょうね。
また組物関連で下のブログ発見。 女性のブロガーらしいですが、
「古建築についての私的研究・感想ノート、および訪問記」・・・と自己紹介してますねーーー。
軒と組物・・・わかりやすい説明です。
https://chounamoul.exblog.jp/9961306/#2kum >>159
すごく分かりやすいブログですね
中国と朝鮮半島の古代建築についても書かれていて
勉強になりますね
図もたくさんあって説明がさらに分かりやすくなっています
いいブログを紹介していただきありがとうございます >>160
このブロガーはなんか謎の人扱いされているようですね。
金堂建立も組み立て説明書も残り一ページ。
一層屋根の塗装も飽き気味なので、いよいよ勾欄の「卍透かし」表現に・・・。
印刷済みの卍崩し部分の寸法を再度良くみたら0.3ミリ程大きくボツ。
これでは使えないので再度小さくしたものを試作し、模型側も当該部をくり抜いて
最終印刷寸法をやっと決めたところです。 >>160
勾欄(高欄)苦戦中。印刷寸法は決まりましたが、
東西と南北の卍崩しの形状、色を見直し中。
斗束の数 東西=3、南北=2 、斗束の間の卍文様のパターンは東西・南北で同じ。
でパターンの数は東西=4で南北=3・・・・。
模型の勾欄の寸法は約 73×49ミリで、4:3とは異なる。
さてどっちでしょう?
@模型の寸法が間違っている。
A模型の寸法は正しい。 & 東西・南北の斗束間の寸法が異なっている。
斗束間の寸法が同じ方が作図・印刷は楽なんですが・・。
また色も・・。 検索して得られる勾欄の色がまた不思議な色で、茶色の画像も有りますが、
多くは朱色がかった薄茶色。
なんか塗装したような感じの色。 >>160
謎は解けました。 私の目とパターン認識能力が低いせいでした。
東西南北の斗束ワンスパンあたりの卍崩しのパターンが違い、南北は東西より短い。
「いかるがの里 法隆寺」淡交社の図19、図21が往時の姿(現在も?)。
しかし下の資料の、南北勾欄のパターンは謎。
この画像を元にしていたので、なおさら混乱しました。
2014年2月の画像との事ですが、この勾欄はどーしたんでしょう?
まさか、修理のために出来の悪いレプリカを乗っけた・・・なんて無いですよね?
http://photozou.jp/photo/show/197391/201821886 >>160
おはずかしい!
良く見たら五重塔の勾欄・・・・・・・・・・・ああ!
西側と思われる高欄の写真です 質感はこういう何とも言えない感じです
プラスチックっぽいというか木っぽくないというか
>>165
この高欄は現在見られる物ですかね? 色が塗装色の様で、腐食防止なんでしょうね。
この色合いがまた難しいです。
今日、透明シートに卍崩し部をしたものを台紙を剥がしたところ、色が透ける程薄く、原図を色直しです。アア
>>166
これまた貴重な写真ありがとうございます。
ここは良く見えるところなので、頑張ります。
ところで、高欄の斗束の間隔を見ていたら、一層、二層の雲斗雲肘木(力肘木)の間隔も気になり、
模型の寸法を見てみたら、おおよそ同寸法でした。(四隅を除いて)
これは正確には同じ物でなくてはいけませんよね。 模型では数ミリ違ってます。
(約20ミリの間隔 約3メートル 1ミリずれてても15センチのずれですから誤差ですかね) >>167
これらは2016年ごろの撮影なので現在も同じはずです
高欄は慶長の修理で位置を前方にずらすという改造を受けていて
昭和の修理で位置を戻して作り直してあるようです
ただ見た目の肝心な部分の資料が乏しく、前例を踏襲したりして
正確には復元しきれなかったようです
「何しろ建築の修理は、資料がないからといって、そのままにしておくわけにはいかないから」
と竹島さんが例の本で残念がっています
色については触れられていませんでしたが、見れば見るほど高欄が浮いて見えて
不思議な質感ですね >>167
斗組の間隔はお手持ちの「古建築入門」の表紙の裏に
金堂の図が載っているのでわかりやすいと思います
上層と下層は通し柱ではないので独立した柱間になっています 竹島さんの本を見てみるとこのような説明になっていました
柱間は唐尺や高麗尺では上重に細かい端数が出るので、木割を当てはめてみると
初重:広い柱間が垂木12本(12支)、狭い柱間が垂木8本(8支)
実際の長さで比べると東西面の真ん中の広い柱間は南北面のそれより少し狭いです
上重南北面:中央部の広い柱間11支半、端の狭い柱間7支
上重東西面:中央部の広い柱間は11支、端の狭い柱間は7支
※垂木の心と垂木の心の距離を「支」といいます
柱の真上に垂木がなく、垂木と垂木の中間の隙間(垂木間)の中心が柱心と一致すると
切りのいい数字になりますがならない場合は半で表します
実際にどのように設計したのかはわからないとのことですが
上重の柱間は初重との関係で好きには出来ないそうなので
端数がたくさん出てもそういうものかもしれないとのことです
>>170
「古寺建築入門」の表紙裏の金堂ー上図で垂木の数を数えたら、
おっしゃるとおいでした。
この本の図はすごいですね。
金堂の上層は面白いと言うか、床は無いのですかね?高覧部分の床は有りますよね。
上層階の柱は「柱盤」なる太い材木を四方にまわし、その上に柱を
たててるんですよね。 (草思社 法隆寺 P32〜P33)
初重の中心柱群で荷重を受けてますが、柱から「柱盤」までの間の強度は足りてるんでしょうか?
また地震ー横揺れに対して弱そうに見えますが・・・。
五重塔も似た構造ですが、心柱があるので大丈夫とは思いますが。
高覧用透明シートが無くなってしまったので、配達まち。
印刷が薄いので、二枚重ね貼りで行く予定ですが、再度の失敗を予想し、違う印刷シート
で試します。組み込み天井の赤はOKだったんですけどねー
(最初の奴は エレコム ラベルシール 高光沢透明タイプ はがきサイズ 5枚入り) >>171
金堂の上層には床も天井もなく、当初は側回りと簡素な小屋組みだけで
ろくに梁も入ってなかったようなので金堂の外観を整えるために
付加されたものではないかということです
現在はしっかり補強してあるようなので安心です
ちなみに、柱は14本の側柱のみで長さはおおよそ下層の柱の半分の長さだそうです
下層とは完全に分離していて理論上は柱盤を持ち上げれば上層を持ち上げられます
金堂の構造は弱いというのが定説でしたが、平城宮跡の第一次大極殿の復元では
金堂の構造が採用されています
上層の柱が下層の柱と柱の間の真ん中にあるので、上層の荷重を効果的に
下層の柱に伝えているそうです
金堂の土壁は分厚いですが、土塗壁も地震の際の復元力と吸収エネルギーが
大きいということが分かっていています >>171
五重塔は地震の揺れと共振しない、つまり地盤と一緒に揺れないので
一番大きな揺れから逃れられます
これは地面の揺れと建物固有の揺れ方がうまく合わずに
ズレができて揺れ幅が大きくならないそうです
共振してしまった時も、木組みに元に戻ろうとする抵抗力があったり
大きな変形が生じても持ちこたえられるので倒壊することはありません
五重塔はキャップ構造という帽子を5つ重ねたような特殊な構造なのが
大きいんじゃないでしょうか
心柱は各層と全くつながってはいませんが、大きく揺れるときには
心柱に接触することにより飛び出しを防ぎます >>172
金堂の上層・・そうなんですか!
震度5以上の地震でも耐えてきたはずですから、感嘆ですね。
中國・韓国などは大きな地震は無い(無かった)でしょうし、日本の地震の
度合を考慮して設計・施工したんでしょうかね?
現状の上層構造(14柱構造)はいつ頃・・と推測されてますか?
我が家なぞは東北大震災時、壁に亀裂が入りました。(北関東 震度5強)
今日はなんとかかんとか高欄を完成させました。
卍崩しの印刷は色が問題で、フィルムシートの光反射も気になります。
(インクジェットで、透明シートへの茶系の色乗りが悪い。 赤はOK)
上層に取り掛かります。 >>172
上層途中ですが、ちょこっと乗っけてみました。
雲斗肘木楽しみです。
>>174
金堂を建てた人たちが中国の斗組建築をどの程度理解していたのかは分かりませんが
恐らくあまり理解していなかったのではないかということなので
修理の度にうまいこと補強されて現在に至るといったところでしょうか
慶長の修理での上層内部の補強がすごくて、昭和の修理では元々どの程度の強度のものだったのかは
分からなかったそうです
それでも現代まで現役で現存しているということはありがたいことです >>175
想像以上に本物みたいになってますね
本物を何度か見てきたので間違いありません >>176
そうなんですか!
奈良県に今後とも大地震が起こらない事を祈りますが、
令和の時代には耐震補強をお願いしたいですね。
五重塔はどのくらいの震度迄耐えられるんですかね?
>>177
御覧の通り↑上層の屋根の淵ーー垂木〜茅負の間の寸法が変なので、一生懸命
削ってます。
下からの眺めで大ぶりの出桁も特徴的なので、出桁・組肘木・雲斗肘木を旨く表現できれば良いな
と思ってます。
組入天井も勾欄・卍崩しも、印刷でしか出来なくて心残りです。 >>177
上層、出桁新調。
ちょっと大きすぎたのか、雲肘木の取り付け位置が下にずれ。 しゃーない。
コーナーの雲斗雲肘木の取り付け具合を、画像で調べ中。
上層屋根の軒の具合・・垂木が茅負より前面に出てる・・・が模型では表現されてない(たいら)
ので何とかしようと思いましたが、良い案が無く断念、
ところで、金堂の周囲は砂地ですよね?
砂利だと思って画像さがしたら、細かな砂の様に見えますが、どーですかね?
出来たら木の台にのせ、周囲の地面も作りたいとおもいます。 >>178
何冊か本を見てみましたがどのくらいの地震に耐えられるのか
はっきり書いてある本はありませんでした
揺れにも種類があるのでそれなりに対応できるということでしょうか
>>179
基壇の周辺は雨落ち溝(犬走り)として砂利が敷かれています
五重塔のほうがはっきりしています
どこにでも転がってそうな写真ですが参考までにどうぞ
>>180
>>181
南海トラフ地震での予想震度は、斑鳩町で震度6強、のようです。
5強でも結構の揺れでしたので、心配です。
昨日片づけ物をしてたら不思議な本が出てきました。
発行法隆寺、印刷(株)便利堂・・・奥付・・「金堂壁画 法隆寺」
発行年月日、値段無。 家人が買ったものなのかどうか? 私が買った記憶なし。
壁画が修復された1968年の本の様で、おっしゃられた様に、出来上がった絵は額装された事が記されてます。
「最初の計画では、現在の白壁を若干削ってそこに額装した壁画えをはめ込む予定だったが、
・・・許可されなかったので・・・パンエルは厚さ2.8センチ・・・重さは大壁で約80キロ・・。
(各地で展覧会後)11月中旬まで今度プ外陣の内壁に取り付け・・・11月下旬には・・・盛大な
開眼法要が行われる。・・・・19年ぶりによみがえり・・・」
なんとも不思議な本です。
「壁を削る事が許可されなかったので・・」そりゃそうでしょねー。 >>182
阪神淡路では奈良は震度4だったようですね
それ以前にはもっと揺れてるかもしれないですし
昭和の修理でだいぶ良くなってると思うので大丈夫でしょう
竹島さんの本によると壁にじかに描いてもらうようにしておいて
竹島さん自身もそう訴えたようですが、あのような形に落ち着いたようです
そのころはまだ壁を塗った職人も存命でどうにかなったのにって嘆いていました >>183
金堂の壁画修復・・壁に直に描くことも検討されてたんですね。
昭和の大家先生の絵でも、直に描くのに反対意見が有ったのでしょうか?
ここ数日拙宅の下水管が不調で、業者さんとの復旧工事で建立すすまず。
今日、一部の桝間のパイプを交換したほうが良いとの結論に・・ああ。
金堂の上層屋根・・「大棟」のカーブが気になり図面と照合したところ、両端が高いことが判明。
両端を低くする改修工事。
3で揚げた「作例」の4枚目の写真で確認してみてください。
作者の「↑屋根のカーブも上手く再現されたなかなか良いキットだと思いました。」の
上の写真。 >>184
大棟(他の棟も)は南蛮漆喰が使われていて、両側の肌熨斗瓦を銅線で繋ぎつけ
熨斗瓦は九枚積(ほかの棟は3枚)、それぞれ要所を銅線で繋ぎとめ、
端の部分を形よく反り上げてあるそうです
なお各棟には防火用の導水鋼管を通し、ところどころに射水口を装置し
特に大棟は鋼管も太く、そのうえ避雷針もつけないといけないために
苦労したそうです >>184
もともと壁画を直接書いてもらうつもりだったので
仮仕上げたようです
壁画を描くときにきちんとしたものにする予定だったそうです
なんでそんな状態の壁を大事にしたのか
よく分かりませんね 南蛮漆喰ってなんだろうと思って調べたら
近年開発されたメンテナンスフリーの漆喰だそうです
当時のできうる限りのことをしていたことがわかります
屋根の重量を減らすために土を敷かずに瓦を葺く選択もしたそうですし
次に解体修理されるのがいつになるのかは分かりませんが
その時にも最善の選択をしてほしいものです
>>185
大棟の平たい瓦を熨斗瓦と言うんですね。
放水用の射水口もあるんですか!
年に一度の防火訓練時に放水訓練もするんですかね? 水の膜でうまく火が消せそうですね。
ブラタモリで、比叡山延暦寺で、周りの地面から水が噴き出る消火設備を見たことありました。
大棟のカーブは修正しました。
おかげで鬼瓦部分が減ってしまったので、これまた修正が必要。
四隅の「隅棟」の先端にも鬼瓦があるようで、これも何とかしたいです。
創建当時にも隅棟は鬼瓦だったのでしょうか? 大棟は鴟尾だったんですよね?
昨日今日で、上層の四隅の雲斗雲肘木を加工(上部の2か所穴あけ加工)し通肘木に固定。
龍が旨くはまる様位置調整。
>>188
びっくりな装置ですよね
それだけ火を出してはいけないという意識が強いってことですね
法隆寺の瓦という本によりますと
鬼瓦は鬼の顔になる前は蓮華文の鬼瓦(鬼ではないですが役割が鬼瓦)が
使われていたそうです
が、金堂は鬼面の鬼瓦が使われていたようです
実際に南部諸大寺系の鬼瓦が出土していますが
創建時までさかのぼることは難しく奈良時代のある時期に捕捉されたと考えられています
南部諸大寺系の鬼瓦はどんぐりまなこで鼻孔を前面に大きく開いた獅子鼻を
表すのが特徴です
不思議なことに平安時代の鬼瓦の出土はなく鎌倉時代になるとまた出土しているそうです
鴟尾は出土しているので間違いないと思われますが
復元してもしなくても国民やら専門家の偉い人などがうるさかったようなので
無難に前例を踏襲したのではないでしょうか >>189
鬼瓦の歴史も古いんですね。
最近は瓦屋根の家も減ってますが、ちょっと古そうなお宅が、降棟、隅棟、鬼瓦付きの立派な瓦屋根
だったりします。
でももうこういう家はもう殆ど、近所では建築されてません。
今日は上層屋根の塗装。野地板の裏面ガ白いのは、胡粉が塗ってあるらしいですね。
やはり腐食防止のでしょうか?裳階の屋根も白かったですね。
日本固有だと面白いですね。 >>190
面白い情報ですね
ちょっと調べてみました
日本の美術「日本建築の装飾」(伊藤延男)によりますと
胡粉とは蠣殻の粉末で炭酸石灰を主成分とする。現在、白色には
ほとんどこれを用いる
だそうです
その隣に鉛白(えんぱく)の説明があり、
炭酸鉛と水酸化鉛よりなる。朱との混和は不可能。
被覆力に優れる。上代には胡粉と称す。
だそうです。
ちなみに朱は硫化水銀です
法隆寺は上代の建築物なので鉛白が使われたのでしょうか?
ちょっと気になりますね 「野地板の胡粉」は、主にお城の模型作家の方のブログからです。
URLの引用は、このブログは、5chでは危険そうなので、暇が有りましたら、下の検索ワードで
検索し見てみてください。
「薬師寺東塔の製作ダイジェスト 前編」
このかた、法隆寺の1/150 五重塔も作っていて、設計図の通りに修繕して作ってます。
これを見て、五重塔は止めようと思いました。
今日は聖火リレーが法隆寺を走ったとか・・・。
奈良京都ではコロナが下火になり、オリッピック選手が観光出来るとよいですね。
金堂の白壁もそうかな・・・と調べたら、表面は白土らしいです。
出典、以下のタイトルのPDF
同じく下の検索ワードで見られます。
「古代から中世前期における 石灰と漆喰の利用 - CORE」
今日は上層の木部塗装。
今日は鬼瓦らしきものを粘土で・・。
ベースの大きさ、砂地表現を決めて、パウダー・小石類を発注。
散歩道で見つけた川砂も採集。
大詰めに近づくと、なんやら寂しい感あり。
仏前幕とか、防火バケツとかの小道具もリアリティーには欠かせないと思う。
今日は金堂のベースを作りました。
ベース:23×19センチ コルクボード貼り
東側の昇降石段には敷石のアプローチが有るので、東側をちょっと大きめに・・・。
基壇を1ミリ上げて砂利・砂を1ミリ敷設準備完了。
厚さ1ミリの板材等の木材は、クラフトショップで購入したひのき材。
金堂の画像よく見たら、屋根のてっぺん、に避雷針、北側に導電ケーブル。
奈良時代にはない物との混合がまた良いですね。
>>195
着々と完成に近づいていますね
法隆寺などの非常に古い建造物はどうしても現代の技術を導入しないといけないので
よく見ると色々発見できて面白いですね >>196
ベースに乗っけてみました。
コルクボードに下塗りし、基壇の色塗りを開始。
東側の石畳みで先生と一緒に写真を撮ってる情景にしようと思います。
蓮華文の鬼瓦の画像です
大阪の太田廃寺の鬼瓦です
時代は白鳳時代です
今は大相撲は白鵬時代ですがw
蓮華文の鬼瓦が表紙になってるいい本をネットで見かけたのですが
何という本だったのか忘れてしまいました >>197
瓦はたとえ割れていても残りやすいので、その寺や建物の創建年代、由来、性格などを
判別する資料としてとても重要です
どこの窯で焼かれたとか、この寺とあの寺で出土する瓦が同じ文様なので
関係があったのではないかとか
文様でどのくらいの年代のものなのか推定したりもしますし
とにかく重要なものです
瓦葺の古代寺院は関西圏だけに建てられていたわけではないので
自治体ごとに色々出土瓦を持っていて展示してたりして面白いですよ >>198
立派な古代寺院が出来上がりそうですね
こうしてみると屋根の角度が強引なのは
庇を深く出したいためなのかなと思います >>200
いや、良い形の鬼瓦ですね。怖い形相のものより素敵ですね。
鬼や鬼瓦の歴史を研究してる人も多いのでしょうが、現在の歴史研究の最先端の
結論はどんなでしょうか?
鬼瓦+白鳳時代で検索したら、また例の有名な「忘れへんうちに・・」の方の文に遭遇。↓
この方の文は難しくて私には理解できませんが・・ご参考に。
http://avantdoublier.blogspot.com/2015/03/blog-post_24.html
現状の鬼瓦のWikipediaでは、パルミラ起源で中国へ・・とありますが、
仏教伝来時に入ったとの説もあるようですね。
金堂の四天王の足元に組み敷かれているのも、確か鬼でしたよね。
金堂建立も先が見えてきて、名残り惜しいので、毎日ちょこっとづつ、塗装して楽しんでます。
今日は川砂、白パウダー、鉄模用バラスの按排を見ました。
まだ龍、仏前幕、風鐸、バケツ等も残ってますので楽しみです。 今日はサボってた金堂仕上げ開始。
鬼瓦、屋根の塗装と風鐸。
模型の風鐸は形がイマイチ。 「舌」がなんともオソマツなので、↓を参照してプラバンで作成。
今日の風は風速5メートルは超えてるけど、五重塔も台風21号(いつの?)で塔のてっぺんの飾りに
ついていた風鐸の「舌」が落下したとの記事がWEBにあり。
風速50メートルで風鐸本体は落ちないんですね。 すごい。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/201909190002/
金堂の風鐸の舌は風の揺らぎが役目で、鐘を鳴らすのはその上にある細工のようです。
その分「舌」が下に垂れさがっていて優美ですね。
五重塔側から見た金堂の妻部分の画像ですが、五重塔の風鐸が映っています
こういう質感のものなんですねえ
金堂の釘隠しみたいな花の形のものがかわいらしいです
五重塔の垂木には金具がついているんですね >>200での蓮華文の鬼瓦が表紙の本は
古代東国仏教の中心寺院・下野薬師寺(シリーズ「遺跡を学ぶ」)
という本でした >>203
最新かどうか定かではありませんが・・・
鬼瓦は棟の末端に雨仕舞と装飾を兼ねて置かれており
元来は瓦ではなく木の板だったそうです
ちなみに飛鳥寺、川原寺、藤原宮跡などの初期(飛鳥時代)の大寺や宮殿では
鬼瓦が出土していないので木製、あるいは銅製だったとされています
この当時のものは蓮華文で「鬼板」と呼ばれていて形はほぼ正方形です
蓮華文は三国時代の百済や新羅の系譜なので当時はそちらの影響が色濃かったということです
白鳳時代もまだ蓮華文の鬼板で主流の文様は蓮華文一個だけの文様となりますが
法隆寺の若草伽藍は蓮華文が4個のパターンですね
これは多数蓮華文と呼ぶようです
鬼板に限らず蓮華文にはいろいろな種類があり、どの系統か判断できるので
恐らく便利です
大宰府では唐文化の伝来を印象付ける鬼面が出現します >>203
続き
奈良時代にはまだ僻地には蓮華文も残っていましたが鬼面文が普及して
この時代から鬼瓦と呼ばれるようになります
この時代の鬼面文はまだ獣面や人面に近い獣面文だったようです
新薬師寺本堂の鬼瓦は当時のものが載っているそうです
恐らくこれではないかと思います
鬼面文の系統は3つあり
大宰府系の鬼瓦(新羅出土の鬼瓦に類する。円頭梯形(ていけい)の鬼板に獣的な鬼面文)
これは近畿では見られない種類だそうです
南都諸大寺系(アーチ形。鼻が異常に高くどんぐり眼)
これは舞楽面に通じるそうです
宮殿様式・パレススタイル(平城宮所用。アーチ形で鬼の面貌が小さく怪異)
全身の鬼面もあるそうです
平城宮跡では鬼面文のほかに鳳凰文や宝相華文も出土しています >>203
続き
平安時代になると稚児棟が出現します
新羅統一時代の有角獣面文が見られるようになります
鎌倉時代では蓮華文は極めてまれになります
獣面は角の原始形である隆起が見られるようになり顔が前に飛び出します
内部を刳りとって軽量化され、構造上の発達としては屋根に固定する装置が付きます
室町時代には角が二本になり面相は大体決まり、足元にひれなどが付きます
粘土を盛り上げて作るのは高度な技術が必要になるので職人の技術も発達したのでしょう
桃山以降にようやく鬼瓦らしくなります >>205
27日にURL2個貼ったレスでまーたERROR からBBXで5ch出給ヨで書き込めず=E・・。
=@前は3個くらb「貼っても問題bネかったのに・=E・。
建築以外にも鬼瓦も研究されてますねー。 知識がどんどん増えます。
鬼瓦・風鐸がとり完したので、いよいよ龍の支柱建て。
金堂の北面または南面して、右側が昇り龍で左が降り龍。
なんで右が昇り龍なのか調べてみましたが不明。
日本のお寺で、右の龍の頭が上は多いようですが、これを降り龍だとする説明もあって混乱します。
陰陽五行説では上昇、下降が右旋、左旋に相当するとか・・。
じゃあってことで、中國の昔の寺でも見てみようかと・・で引っかかったのが下の 中國 山西省 太原市 「晋祠」
(Jinci templeでyahoo アメリカあたりで検索すると画像等見られます)
http://chugokuseikatsu.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-cf4f.html
ここの画像だと、龍は上に向かって右回りも、左回りもいるようでなんとも不可解。降り龍は見当たらず。
で金堂の龍は右手昇り龍は(上を向いて)左旋で上昇していますが、降り龍は右旋で降りて来くる意匠。
龍の首の向きを建物の内側に向ける・・という意匠何だろうと思いました。 >>210
寺社建築の屋根の妻の先端には懸魚という火除けの装飾が
飾られていますが、そういう意味で龍の装飾を置いたのかもしれないですね
それまでの支柱を元禄の時に今の龍の彫刻のついた支柱に替えられたので
昭和の時に取り外したかったようですが、どうしても支柱が必要なので残したようです
そのために、建築の本ではほぼ無視されているので詳細は載っていませんでした
しかし目に付く場所に立っているし、親しみやすい龍が題材になっているので
人気は高いんじゃないかと思います >>211
「古寺建築入門」で懸魚みたら、法隆寺金堂の「妻意匠」にある「拝みの飾り金物」が
懸魚の原初的なもの・・とありました。
まーたこれも付けたくなっちゃいます。
木で魚というと「魚板」って格好良いですよね。
小ぶりなものを玄関に置いておきたいです。 >>211
基壇東側マンガン土の黒表情が難しくて、もうエイヤです。
金堂周囲の砂利の敷設中ですが、最初基壇周囲に、鉄模(鉄道模型)用のバラスト、その他を川砂を
撒いてみましたが、どどちらも粒子径が大きく不格好。
川砂は茶こしでふるい選別+新材料=麦飯石のトンカチ粉砕で何とかなりそうです。
麦飯石は「百均材料を使って・・安上がり」・・の鉄模記事を見つけ、ダイソーに走りました。
なんでも金魚鉢の水を浄化するのに良いんだそうです、麦飯石。
懸魚を検索してて、故人ですが「京大の天沼俊一さんの”日本古建築研究の栞”」というPDF
を8編程見つけました。
これまで話題にしてきた内容がありますので、お暇が有りましたら見てみて下さい。 調べてもなかなか出てこないのでご存じの方がいればと思い、質問いたします。
この画像の社の建築様式に名前はついていますか?
それとも建築様式が混ざっているだけですかね?
流造に庇に切妻屋根がくっついた形なのかな?
>>216
手持ちの本を調べましたがこの形は載っていなかったので名称は特にはないかもしれません
流造りに千鳥の縋る破風を付けたバージョンではないでしょうか >>212
懸魚にしてはちょっと変わった形なのは
まだ一般的な懸魚の形になる前なんですね
魚板はありそうでなかなか見かけないです
見つけるとちょっとうれしいアイテムです
懸魚はついてないのを探す方が大変なくらいですけどね >>213
釘隠しではなくて桁隠しなんですね
隠さなくてもいいのに
建立時の基壇は色どころか使われた石材すら判明していないようなので
思い切って真っ黒にしても誰も文句言えないかとw >>214
麦飯石というのはなかなか複雑な経歴を持つ石のようですね
模型などに使われるのが一番幸せな使われ方かもしれないです
天沼俊一さんのことは名前も見たことがありませんでしたが
戦前の専門家なんですね
ご紹介してくれた論文は文体が古いながらも、知ってる単語しか出てこないので
何とか読めましたw
ありがとうございました
手挟は鎌倉時代に向拝が出現して初めて登場する部材というか
装飾材なんですね
手挟は見事な彫刻のものが多数みられますが見上げていると首に来るので要注意です >>220
明治5年の法隆寺金堂の写真発見。
お時間有りましたら、下の国立文化財なんちゃらのHPで見てみて下さい。
また、見るのに手間がかかりますいが・・・・。
@HP中ごろの右に検索欄あり。「作品を検索する」の所に平仮名で「ほうりゅうじこんどう」と入力。
A金堂のステレオ写真が一枚出て来るので、写真をクリック。
B右の欄に、明治5年に撮られた画像集があります。
法隆寺関連は中ほど以降にあります。 金堂の写真としては日本初でしょうね。
法隆寺のお坊さんの写真も面白く、小僧さんも写ってます。 寺の小僧・・も最近は聞きませんね。
https://emuseum.nich.go.jp/
金堂では、先生のレス97で見せて頂いた画像と同じで、基壇が真っ黒に写っております。
周囲の地面も現在ほどには砂利等整備されておらず、「荒れた」雰囲気が伺えます。
まだ国宝なんて概念も無く、古いお寺・・の感覚で見てたのでしょうね。
寺院ばかりでは無いですが、何かの参考になさってください。 >>220
金堂、外構工事中。
細かな砂利表現は、麦飯石のパウダーがGOOD。
(麦飯石は柔らかくて、ハンマーで叩くと細かな粉が出来ます。・・が袋半分を粉砕して小さなコップのしか・・・。)
完成写真は金堂周囲の建物が有ったほうが良いと思い、画像編集技術にトライしましたが、
専用のプログラムが必要のようでやめ。(ペイントじゃあ力不足)
色々考えて、周囲にタテバンコ風に五重塔なぞをおいて青空バックに撮影・・・をトライしてみようと思います。
夏空の朝で、東南から塔と一緒の構図は外せませんね。
先生のお好きな構図はどんなですか? 時刻・方角・・とか。 >>221
こんなに古い写真が残ってるんですねえ
ご紹介ありがとうございます
すごいことだと思います
基壇は解体修理前はかなり黒かったようですね
今はすっかり色が剥げてきてますね
創建時は何色だったのか、そもそも壇正積の外装だったのか
興味が尽きません
東院伽藍の南門らしき写真もありますね
南門は東院伽藍の正門ですが現在は使われていないというか
特に貴重な建物というわけでもないとは思いますが
不明門で近寄れないようになっています
写真では門が開いていて、しかも人がたくさんいて使われているようで
南門ではないみたいです
東院伽藍南門の写真です
写真両脇の黒っぽい線はアナログ放送ではなく
敷地を囲っている柵です >>222
どこから見るのも好きですが
並んでる姿を正面から見るのが一番好きですかねえ
塔とのバランスをとるために金堂が重層で大きいという見解があるくらいですし >>225
ヤッパリ塔を入れた構図にしたいですね。
来週以降は梅雨の晴れ間が有るらしいので、それまでに外構工事と、
五十の塔を準備しておきたいと思います。
三日前に他すれでまたERRORしでかしまして、アク禁でしたが、
EDGEからだと書けそうなので書き込みトライします。 かけます様に。 >>225
外構工事も終わり、仏前幕準備中です。 赤いバケツは三つつくりました。
天気が悪いうちになんとか写真撮れるよう、完成させる予定です。
写真撮影の都合上、金堂と五重の塔との距離が分らなくてはいけないので
ここ数日調べましたが、本日やっと下の資料を見つけ判明しました。
東西中心距離=31.5m。
これは五重の塔の高さとピッタリ同じ。
なにか関連が有るのでしょうか? ゾゾっとしました。
見つけた資料は、小生にはほとんど理解できない内容ですが、先生なら何かの参考になるのでは?
「V 付 章 奈良文化財研究所」・・・で検索して・・・
この文字通りの所をクリックして下さい。PDF ファイルです。 >>225
金堂一応完成・・という事にし、撮影の練習という事で、数枚撮影。
ピンクがわたくし裳階連子でケータイで撮影中、背広が先生で基壇の説明中。
五重塔も置いて・・・と思っておりますが、今日の試写で、青空バックは難しい事が
分かりましたので再考要。
思わず手に金堂を持って撮影しちゃいましたが、上層があばれ、龍柱が傾いて、そんな事とは知らずに・・・wwww。
>>227
31,5メートル
単純に敷地面積の関係ですかねえ
塔が倒壊しても金堂が無事なぎりぎりの距離とか
でも塔はほとんど倒壊していなけど、落雷などでよく燃えていたようなので
そこらへんが関係あるのでしょうか?
手持ちの本を探してみましたが、記載は特に見つかりませんでした >>229
227での資料紹介で、方法をお示ししましたが、旨く行かないみたいです。
「V 付 章 」のみでの検索だとYahoo、Googleともに「V 付 章 奈良文化財研究所」が出て来るようですので、
このタイトルをクリックしてみてください。
PDF表題は「西院伽藍と若草伽藍の造営計画」です。
来週は天気が回復するらしく、龍柱修理し、良い撮影ロケーションを探そうと思います。 >>230
読めました
尺と向きの検証みたいな内容ですね
尺には唐(から)尺と高麗(こま)尺があり、さらに大工によって尺が違ったりしたようなので
建物規模などを推定するときに悩ましいことになるようです
向きは伽藍の正面の方向で一般的には南大門から入るように南向きが多いようですが
たまに向きのおかしな伽藍があって悩ましいことになるようです >>228
青空に映えてますます本物みたいですね
持てるほど小さいとは思えません >>232
写真撮影用の小細工は・・・プラ製まな板の上に金堂をのせ、左側(西側)に五重の塔の画像、
後ろ側(北側)に大講堂の画像を配置。
これ作っておけば、季節・時間でいろいろな表情の写真が撮れると期待してます。
連子さんと先生の配置も色々変えてみたいです。 夏雲ご期待ください。 朝起きるのが8時半ころなので、夏の早朝は無理です。
・・で五重の塔の高さ31.5mは相輪の上までですよね?
まともに調べて行くと分けわからなくなりました。
結局「基壇から相輪上部まで107尺」・・が有りましたので大和尺約30cmで、相輪トップまでの長さが31.5mと推察しましたが・・・。 >>233
「五重塔はなぜ倒れないのか」(上田篤)によると
塔身高が22.87メートル、総高32.55メートルとなっています 文化財を探る科学の眼6「古代住居・寺社・城郭を探る」という本では
地面から相輪の一番上までが34.1メートルになっています
他にも32.4メートルという本もあり、どうなっているのか全く分かりません
基壇と相輪込みで34.1mでいいようです
これは金堂の約二倍の高さだそうです
>>236
五重の塔の全高が分かったのですね。 すごいです。
私も結構しぶとくネットを探し回りましたが、分かりませんでした。
五重塔の撮影用タテバンコは31.5mとして完成しているのですが、2.5センチも低いのでは・・・弱りました。
現代の技術で建物の高さを正確に測る事位は簡単に出来るのでしょうに、
それをしないのは、学者先生達にも東洋的な大らかさがある様な気がします。
>>237
心柱の長さがおよそ32m(16mを二本繋げたもの)
心礎は基壇上から2.7mか3m地下にあり心柱もそこから立っている
基壇の高さがはっきり分かりませんが写真に写ってる人間から察すると1.5mくらいはありそう
相輪は思いのほか大きいというか長い
心柱は基壇下には1.5mくらい埋まっているから地表からの心柱の長さは30.5m
地表からの心柱の長さは基壇と塔身を足した高さ
相輪というものは思いのほか大きいというか長い
と考えると34.1mが妥当かと思われます >>238では相輪の長さが短すぎると思ったので
調べてみたら薬師寺東塔の相輪は10mくらいあるそうです
法隆寺もそれに近い長さだと考えます
心柱は鉛筆キャップのように先の方は相輪がかぶっているようで
本で見た簡単な図だと相輪の下半分くらいは中に心柱が入っているようです
32−1.5+5mでやはり35近くあるということで34.1でいいようです
相輪は7〜8mといったところでしょうか >>238
>>239
法隆寺 五重の塔の画像は小さいのしかなく、34.1mに大きく拡大するとぼやけ具合が益々ひどくなってしましましたww。
相輪部分は上部なので、ボケがなおの事ひどくです。
薬師寺東塔の相輪部分をみてみましたが、法隆寺の五重塔のそれとよく似ていますねーー。
相輪部分だけもう少しましな画像を探して格好よくしようと思います。 一番きれいに写ってる相輪がこのありさまです
相輪はかなり上にあるのできれいに撮影するのは難しいものです
この相輪は鎌がついてることが特徴ですね >>241
法隆寺の五重塔の相輪ですね。
五重塔の模型は、先人に余りにも立派な方が素晴らしい物を作っていることもあり、
作らないと決めてましたが、相輪をみてると、ムラムラと創作意欲が・・・。
金堂の横に置いておくのもよいかも・・と思い始めました。 >>242
実際の順番も金堂が完成してから五重塔が作られているので
ありだと思いますw 新神戸駅前の何とか館と言う所に行ったら、唐招提寺の実物大模型があって驚きました。
>>244
有難うございます。 唐招提寺の模型すごそうですね。 木造なんでしょうか?
鑑真さん、詳しくは知りませんが畏敬尊敬しております。
・・で検索中に下のブログ見つけました。 薬師寺の東塔が修理されたんですね。
法隆寺の五重塔つくりの参考にしようと思います。
ダイレクトリンクは怖くてできませんので、「薬師寺 東塔解体 ジョギングの散歩道」で検索し、
下のタイトルの2番目です。
”薬師寺東塔解体修理見学 - ジョギングの散歩道”
法隆寺五重の塔は今日到着の予定で、1/150 断面図探し中です。 >>244
竹中大工道具館ですね
そんなすごいものが展示してあるなんて盲点でした
唐招提寺金堂の大修理を竹中工務店がやってる縁でしょうか
スーパーゼネコンが伝統建築も大事にしているというのは心強いことです >>245
もう届くんですか
素早いですね
薬師寺東塔はもう書籍も発売されていて
買ったのですがまだ読んでいません
ちょっと読んでみます
法隆寺五重塔は通し柱がなく帽子を重ねている様子に例えられる構法です
心柱は構造材ではないので通し柱ではありません >>247
竹中大工道具館ちょっと見ましたが、大したものですね。
中には法隆寺五重塔の1/3模型もあるようです。竹中工務店良いですね。
フジミ模型の五重の塔届きました。 1/150の塔断面図をつくりました。
・・・で先人のブログ(仮にAさん)によりますと・・
・各層の朱壁の高さがだめ。特に初層
・相輪の高さが大きい
とのことで、部品と断面図を見て見ましたら、相輪の大きさはそれほど違わず、初層の
朱壁の高さも〜1mm程度の差しかなく、Aさんの元にしている図面が変なのかもしれません。
各層の屋根の寸法も若干ちいさめです。Aさんもフジミ模型も元図なり寸法(全長とかの)
データの出元が色々なのかもしれません。
国宝の割にはデータがきっちりしてない印象です。 全高も色々でしたし。
全高3.5mは法隆寺のあるパンフレットの数字のようですね?
勾欄の卍崩しは相変わらず無。Aさんの言う如く垂木も雲斗栱もだめだめで
金堂の苦労の3倍はありそうです。
>>246
創業1610年で織田信長の家臣だった人が興したようです。 >>248
どこからどこまでの長さを指しているかで
いろいろな数値が出てきているような気がします
初層の側柱の長さは3.21mとなっています
同じく初層の柱間寸法は両脇が1.87m、真ん中が2.68m
この柱間というのは、柱の中心から中心までなの、か純粋の柱の間の距離なのかは分かりません
相輪はどこからどこまでの長さかは不明ですが9.69mとなっています
近畿能開大ジャーナル第25巻のによりますと、この大学?の卒業制作で
法隆寺の金堂と五重塔の模型を製作するそうなのですが、
修理工事報告書の図面に定規を当てて各部材の寸法を拾っているようなので
細かいサイズは記されてないのかもしれません 続き
西岡棟梁は全部材の寸法を測って実測ノートとしていたそうです
それが見れたら解決なんですけど無理ですね
>>249
「職人たちの西洋建築」という本にちょっと出てますね
内容は主に清水建設の歴史ですが、一番早く明治42年に法人化したのが竹中工務店なんだそうです
創業者の竹中藤右衛門さんは職人の修業は積んでないものの
代々名古屋で棟梁を受け継いできた家庭で、初代より14代目に当たり、
さらにさかのぼると織田信長の普請奉行までつながると書かれています
藤右衛門さんは次男で関西に進出し、その後の神戸支店が竹中工務店の本流になっているそうです >>252
名古屋城を木造で復元するのも竹中工務店だったような気がする。 五重塔仮組してみました。
二層までの屋根の高さはマアマアですが、三、四、五層の屋根高さは3〜5ミリくらい
低く相輪の下部で全高として10ミリも低かったです。
(前掲のAさんブログでは、二層、三層の高さが不足・・との指摘)
金堂もそうでしたが、断面図はA4サイズの紙に印刷できますし、眺めていると、
随分小さく感じられます。
四天柱と心柱は作り込もうとおもいます。(側柱は一層朱壁の一部ですので・・)・・と言っても心柱は基壇上ですがww
でも心柱の五層上部との取り合いが、まだ不明です。
五重塔は金堂に比べて、ネットの情報量が少ない様に感じます。
連子窓の再現はパスし、各層の出桁、一層屋根下の邪鬼、五層の補強柱も何とかしたいと思います。
>>253
復元が実現したら原点に戻るって感じですかねえ
揉めてたエレベーターはつけたら便利だなあと思います
松本城にしか入ったことはないのですが
階段が急で足を置く板が狭くて恐ろしかったので >>254
専門家の皆さんがあまり五重塔には興味がないのか
金堂のことばかり論じられているような気がします
理由は五重塔は構造に問題がないからだと思われます
不滅の建築シリーズの法隆寺五重塔という本によりますと
上層基壇の一辺は12.5mで上層は創建当時のもので
下層基壇は江戸時代のものだそうです
この大きさは飛鳥時代の上級寺院の標準的な大きさです
五重塔の初重は一辺が6.41m
五層目の屋根だけ急こう配で、これは元禄の修理で高くしたのをそのままにしたようです
もとは相輪の露盤が約80cm下にあったことが判明しています
ということは、創建時には今より80cm低かったということなのかどうかまでは書かれていませんでした 続き
心柱は昭和の修理の時には地中に埋まっていた部分は腐って空洞になっていたので
空洞部分を砂で埋めて今は基壇上から立たせているようです
安全のために心柱を木枠で囲っているとか
心柱の継ぎ目は3重目のところにあり、継ぎ目のところには
鎌倉時代に火が出たときの焼けた跡が残っているそうです
>>256 、>>257
五重塔の詳しい寸法等、いつも有難うございます。
やはり心柱は、現状として基壇上からで正解だったのですね。
三重あたりに継ぎ目・・・良い情報です。 一本だと何時どのように心柱を設置するか悩んでましたww
四天柱を立てて組入天井まで作ろと思い色々みてましたら、基壇上には大変貴重な
「塑像群」があるのが分かりました。
断面図にも「須弥山」の記載もあり、画像も「忘れへんうちに」の方のブログには
四面の写真もあり、これもタテバンコ風に組み込みたいと思います。
・・・がやっぱり資料が少なく「塑像」群の詳細の記載はまだわかってません。
あるイラスト絵には須弥壇が描かれておりますが本当かどうかわかりません。
四天柱はこの「須弥山」を貫いて立っている様子なので、どうしたものか思案中です。 >>258
心柱は八角形で補強のために添え木をしています
仏堂の種類に八角堂というものがありますが、これは霊廟建築です
この八角形もそういう意味があるんでしょうかねえ
ちなみに八角堂で使われる柱も八角形です
この心柱が建てられた時期と塔全体の建立が始まった時期がかなりずれているようで
本格的な建立が始まった頃には、すでに根元に普及の兆しが見られたのではないかと推測されています
根元は地中に埋めてある掘立柱でさらに何十年も吹きさらしになっていたので仕方のないことですが
というわけで、無事に完成させるためには心柱の補強をしないといけません
創建当初からとみられる補強が二種類確認されています 続き
6行目は普及じゃなくて腐朽です
一つ目は
写真がないので良く分からないのですが心柱の根元に凝灰岩の石組を喰いこむように
置いて固定しているようです
これはあとから挿入するのは出来ない場所にあるそうなので創建当初からということになります
二つ目は
断面図に載っているかと思いますが(載ってないのもあるようですが)
初層、二層、三層の四天柱の上に組んである四天枠の上に井桁を組み、
その上に短い束を置き、その束と心柱を釘で止めているそうです
この釘が二本だけ創建当初から使われていたもので、
これも創建当初から補強されていたということになります
この時代の釘はすさまじく長持ちしますね
続き
内部の塑像は側柱から内側に1mくらい余裕があるようです
現在は塑像は塔と同じで二重基壇になっている仏壇の上に
束を立てた須弥壇の上に置かれています
須弥壇には長方形の穴に金網が張られた一般住宅に見られるような換気口がついています
須弥壇から上はネットでも写真を探せば出てくると思います
仏壇はコンクリートということはないと思いますが、そういう質感の二重基壇です
二重基壇といっても束石など何もないのっぺらぼうな二重基壇です
不滅の建築シリーズの法隆寺五重塔に写真がありました
(他にも心柱と井桁の様子など興味深い写真が見られます)
この仏壇の下に心柱を補強している石組が組まれているようです
解体した時に旧仏壇が出てきたのですが、この仏壇が小さかったうえに
四天柱が鮮やかな丹塗りで上方には幕のような絵が描かれていたので
柱は露出していたと考えられています
旧仏壇の後方には心柱を囲う壁もあり、その壁が上等な壁だったそうなので
それも見せていたのかもしれません
しかし、そうすると建立時期の謎がますます深まるというものです
>>261
ありがとございます。
「不滅の建築シリーズの法隆寺五重塔」・・さっそくあまでポチリました。
五重塔の塑像はネットでは部分の画像しかなく、全貌が分かりませんでした。
今日は一層屋根の出桁・肘木・垂木をしつらえました。(四隅は未)
一層の朱壁の扉も開けておいて塑像がチラリと見っるようにしたいと思います。
裳階、朱壁にも「連子窓が」ありますが、金堂以外の方法で何とかスリットを開けられないか
検討しております。 これができれば少しは内部が明るくなると思います。 >>262
不滅の建築シリーズは他に唐招提寺金堂を持っていますが
普段目にしないような写真が見られる貴重な本です
が、建築がメインの本なので塑像の全体像の写真はないです
恐らく塔のなかにあるので全体を写すのは不可能なんだと思います
しかし塑像がどのようなものなのか良く分かる写真が見られます
朗報になるのかどうかわかりませんが、裳階の板扉の連子窓は連子窓風の装飾で隙間がないようです
本が届いたら確認してみてください >>263
不滅の・・待ってるんですけど、まだ来ません。
模型の初層朱壁(名称は適当 12本の側柱の壁)には扉が付いて居り、
下部は2個の白壁、左右に「連子窓」風があります。
塑像の画像で一個だけ網が張られているのがあり、てっきり連子窓だと
思いスリットを開けようと工夫してみましたが旨く行かず、頭にきて、金堂と同じ
工作用紙の細切りを連子子にしてみました。(まだ一面)
裳階にも板扉が有るんですね? 模型には付属してません。
ネットの画像を見る限る、いつも裳階の入り口は開けっ放しの様なので、扉は無い物だと思ってました。
今日見た塑像の画像では、その扉部分にはアルミサッシ+網・・の画像が有りましたが、
今はそんな風になってるんですかね? >>264
写真で確認しますと、五重塔は裳階内にすら入れないように見えます
塔の壁に連子窓がはめ込んであるためでしょうか
中の塑像はあまり興味がなかったのでちらっと見ただけですが
塔の入り口にガラスがはめ込んであったかもしれないです
さらに用心のために金網が張ってあるのかもしれないですね >>265
本届きましたーーーー。
初層の様子がはっきり分かりますねーーー。 感謝です。
床の四半敷様子、回廊天井、内陣天井まで見られますねーー再現はどーしましょ?
朱壁入り口左右は連子窓の様ですが、内陣内側から見ると全部白壁になっており、どーしたもんでしょうか?。
この白壁にも金堂壁画と似た壁画があった・・・の論文を今日見つけました。
上層の高覧が見える写真(写図最後から2枚目)では連子窓が横に開いてる様に見えびっくり。
開閉可能な連子窓なんでしょうか?・・で本当に外気解放の連子窓なんですかね?
なぞも増えて仕舞いましたが、全貌に近づいてるようで嬉しいです。
裳階の板扉は作らねばなりませんねーー。連子窓は金堂と同様簡略化できそうですし・・。 >>266
見るだけなので全然気が付きませんでした
観察眼が素晴らしいです
素晴らしい五重塔が出来上がるのではないでしょうか
塔内の壁画跡というのはその白壁のところにあったものでしょうかねえ
はがして保管してあるようなのでそこに新たに白壁を作ったと思われます
連子窓の内側に扉をつけるというのは
唐招提寺金堂や栄山寺八角堂に見られるので
そのかわりに壁を作ったのかもしれないです
連子窓が内開きで開いているのも面白い写真ですね
出入り口になっているのでしょうかねえ >>267
五重塔の内陣壁画、復元されているようです。
YouTubeで見つけました。大分前のNHKスペシャルの様です。
「幻の壁画よみがえる 〜追跡・法隆寺五重塔の秘密〜」のタイトルで探してみて下さい。
3’40”当たりでは露盤下の屋根に出入口が有るのがわかります。珍しいですよね。
55'30"あたりからは、初層のCGが見どころです。
・・でやはり例の連子窓風の裏側が、壁画のある白壁(壁画のある)のようで・・・
苦労して連子子を貼り付けても、内部側から白壁を貼るのはなんとも変な感じです。 >>268
こんな番組があるんですねえ
今はこういう番組は作れなくなってしまったんですかねえ
残念なことです
宮大工が露盤の出入り口から出てくると思いきや
奈文研の専門家の方が出てくるとは
しかも平然と
驚いちゃいますねw
白壁のついでに壁画も再現すればいいんじゃないでしょうか
金堂と同じ壁画でいいようですし
入らない部分は切り取ればいいわけですし >>269
例の連子窓の再現と須弥壇+塑像の再現を・・と思ってましたが、壁画も出て来てしまい、大幅な改造が必要となりました。
壁画はNスペの画像を利用する予定です。
(模型は初層ー内陣側は何の工夫も無く、白板を4方向に貼り付ける様になってるのみです。)
・・・で、心柱は創建当初から二分割だったのでしょうか?
心柱についての情報も中々見つかりませんーーー。
〇サイズ、分割時接手方式、露盤・覆鉢〜相輪との接合状態、塗装の有無・・・等分からない事だらけです。
「不滅の建築」で側柱の画像はありましたが、四天柱の画像は未見。
金堂の時と同じく赤(朱)色に塗色しようとは思ってますが、心柱はどーしたものか悩みます。
>>269
今日はすんごい法隆寺五重塔の模型見つけてしまいました。
「独自の設計図・御影石・漆塗部材・漆喰壁・焼き瓦
法隆寺五重塔の模型を縮尺1/25で製作しました。昭和16年生まれ。
51歳のときに資料収集開始(平成4年)、設計図を独自に作成、土台は御影石、
朱の漆塗り檜部材、しっくいの壁、屋根には自宅の窯で焼いた瓦3万枚。
完成は平成24年5月。高さ約163cm、重さ約150kgf。」
・・・だそうです。
お時間在りましたら「法隆寺五重塔(北九州)」で検索し「法隆寺五重塔(北九州)-Google Sites」を見てみて下さい。
前文の下に「製作過程」あり。
世間には・・の感慨にふける間もなく、この製作過程を見ますと、素晴らしい出来だと思いますが、
なんと心柱は相輪まで達してます。
あくまでも「独自の設計図」で実物とは違うんでしょうか?それともこれが事実なんでしょうか? >>270
以前連子さんが買われた西岡棟梁の「日本人はどのように建築物をつくってきたか 法隆寺」で
金堂の後に五重塔を建てています
そこに心柱の継手が描かれています
当時はあまり仕口や継手が発達していなかったそうなので
簡単なものだったのではないでしょうか
この本の絵を見る限り心柱が相輪の一番上まで達しているようです
どこまでを心柱と呼ぶのかよく分かりませんが
考えてみれば心柱と相輪を別々にしてしまうと
相輪が落ちてきそうで怖いですよねw >>270
心柱のサイズは下径が79cmの八角材で
四方に方形の添え木となっています
心柱は見た感じ、彩色の痕跡が見当たりませんね
内部の部材なので保存状態がよさそうなものですが
立てられた後に何十年も吹き曝しになっていたようなので
どんなもんでしょうかねえ
でも四天柱は鮮やかな朱色が残っているようなので
やはり素木なのでしょうか
とはいっても、工事が再開した時点で心柱の根元が怪しげだったようなので
やはり朱塗りにしたと考えたほうがいいかもしれません >>271
見てきました
瓦まで自宅で焼いてしまうなんてすごいですね
そして、やはり部材などのサイズは自分で計算するしかいというのが・・・
そういう資料は一切ないということなんですかねえ
色々調べたようですが基壇は黒にしなかったんですね
ちなみに「日本人はどのように建築物をつくってきたか 法隆寺」では基壇は黒にしたと
書かれていました
51歳が71歳になりましたというのが本当に建立したみたいで感慨深いです
祝賀会をやったというのが喜びの大きさを物語っていると思いました 五重塔の基壇にはこのくらい黒色マンガンが残っている個所もあります
>>272
「日本人は・・」金堂ばかり見て五重塔は見てませんでした。 お恥ずかしい限り。
初層の柱・木組みの図(66〜67)はネットでよく使われている図ですね。
心柱の構造も余すところなく書かれていて、改めてびっくりです。
例の初重の連子窓も裏から白壁にした事も書いて在りますねーー。
・・・で金堂・塔の中距離が、塔の水煙くらいまでの高さが一緒の図迄・・・。
この本は金堂と五重塔の聖書ですね。
これで心置きなく製作に入れますが、心柱の接合方法は簡略化&露盤迄にさせて頂きます。ww
ご監修の程、本当に有難うございます。
1/150 法隆寺五重塔建立実行委員会 北関東支部
裳階 連子
初重の内側の小壁用の部品を追加発注中です。メーカーのサービスがメールのみなので、いらついてます。 >>275
今日はやっと心柱と四天柱を立てました。
心柱の鉛直(垂直は)基壇四隅から糸を張り、距離を測ることでと取ってます。
12.6ミリなので、実長さで18.9メートルですかね。
側柱は朱壁の角にそれらしき物を貼り付ける予定です。
しかし、まだ相輪の内部に心柱が有るのが信じられませんww
どうやって防水してるんでしょうか? やはり漆でしょうかね?
薬師寺東塔の解体時に、何か相輪の情報はありましたでしょうか? >>277
薬師寺東塔もそうだと思いますが
五重塔の本によると心柱は相輪の宝珠まで伸びているそうです
そしてコップを逆さにして積み立てていくように
組み立て行くので水は入らないんじゃないでしょうか 鉄道模型のNゲージで神社とか寺の模型があるね
五重塔を組んで飾ってる
>>278
相輪の防水構造ー九輪等の寸法精度がすごいんでしょうね。
耐久試験を行ってから・・なんて分けにも行かないでしょうし・・すごいですね。
相輪部の細部を見てみたいです。
初重朱壁内部をつくり、肘木まがいをちょっと載せました。 心柱は長めにしてあります。
隅木、桁、雲肘木などは屋根裏で表現してます。
>>279
神社やお寺はセットで売ってるんですねえ
全部揃えて並べたら面白そうですが
夜はちょっと不気味かもしれないですねw >>282
金堂に比べ荷重受けの組物の大きさが、小さいように思います。
雲形肘木も小さいようです。
荷重をきっちり計算して大きさ・位置を設計してるんでしょうね。
五重塔にも後に裳階が必要になった・・と説明されてますが、二層と三層の屋根は
支持が無いのはどーしてでしょうか?
五層屋根下部ろ四層屋根との間に追加の柱(彫刻付)がありますよね。
今日は五重塔内陣の八つの白壁に「壁画」を貼り付け、蓮模様の格天井を付けました。
内陣内側の柱を含めた木部は朱色にしました。
今後の組付け順序は、内陣に塑像を組付けー裳階製作ー一層屋根・・です。 >>283
五重塔は金堂よりも柱が細いようなので
上に載る部材も小型になったのではないでしょうか
何回も参考にしている竹島さんの「法隆寺金堂の諸問題」によると
斗栱は斗と肘木と尾垂木の3つの部材で構成されていて
尾垂木は屋内ではしっかり固定されることにより、てこの原理で軒下で斜め下に突き出して
出桁を支えることができて屋根の勾配を保ったまま軒を深く出す役割を果たせています
法隆寺建築の場合は軒を深く出しすぎているようで軒を支えきれない構造です
金堂の失敗をもとにしたのか、五重塔は4,5重目の斗栱を一本造りにたようですが
早い時期から支柱も林立されていて、昭和の修理の時には4本の一本造りの斗栱が
折損していて取り替えたそうです
これは、法隆寺五重塔は低減率がどうのこうのと褒められていたりしますが
これは塔身の話で、軒の出はあまり縮減されていないことによります 続き
昭和の修理ではそのまま組み立てるわけにはいかないということで
・屋根の葺土を廃止
・隅木の断面の高さを屋根面一杯に高めて支持力を強化
・初重以外は隅斗栱に鉄棒を通して内側へ吊りつける補強法
を講じたそうです
初重に鉄棒を通さなかったのは裳階があるからで
4、5重目に支柱を残したのは軒の出が大きいので鉄棒だけでは
支えきれないと判断されたからだそうです
鉄棒の画像
矢印の先に鉄の棒があります
>>285
五重塔も「昭和の大修理」の対象だったんですね。 解体時の写真を数枚ネットで見つけました。
「鉄棒」・・なんだか不安な気がします。 錆ますよね。
心柱の修理はどんな具合だったのでしょうか? ネットではカットして年代測定した・・とかありますね。
初重の塑像、扉・・と行く前にどうも「日本人・・・法隆寺」66〜67Pの初重組み立て図のB図
が気になり・・・隅の尾垂木が心柱の近くから伸びている所・・・格天井(プラ板印刷もの)
の上に束・通し肘木・尾垂木を乗せました。
・・が今図面を見ながらこれを書いてて気づきました・・・束と通し肘木・・・上下逆でしたビエン。 >>286
当初は2,7m下の地中に心礎があり、その上に心柱を立てていたので
掘立柱式でしたが、昭和の修理のころには地中の部分は腐朽して空洞になっていたようです
現在はその空洞を砂で埋めてその上に心柱を立てています
カットされたのは下の部分ではないでしょうか >>287
心柱は創建当時の物なのですね。 すごいですね。
やはり檜なんでしょうね?
檜のWIKI有ったので読んでみました。なんと針葉樹なんですね・・・知りませんでした。
WIKIでは加工しやすい・・と説明されてますが、結構硬くて丈夫そうです。
厚さ1ミリと2ミリの板材をカットして隅木や桁等に使ってます。
1ミリ角だと実長15センチ角に相当しますが、隅木の大きさとしてはこんなものですかね?
金堂の記念写真を撮る機会(雲具合)を狙っていますが、今日はいきなり雲一つない青空になっちゃいましたww。
昨日までは曇り空ばかりでしたが・・・。
(280の印刷五重の塔は金堂横で一緒に写真に納まる予定の34メートル五重の塔です)
>>288
心柱は檜です
「文化財を探る科学の眼6」によりますと
ヒノキは加工もしやすく固さは中くらいで耐久力は最大だそうです
伐採後300年は強度を増しながら安定し、その後ゆるやかに炭化(長時間の材質の変化)が始まり
1000年以上も健全であるという研究があります
心柱は年輪年代法によると594年の伐採だそうなので
1400年以上も健全ということになりますね
連子さんの五重塔もヒノキの部分は1400年後も健全かもしれないです 続き
隅木は写真で見る限りでは尾垂木とそれほど変わらないように見えますね
サイズはどの本を見ても書いてないので、他との比較で推定するしかないんでしょうかねえ
お役に立てなくて申し訳ないです
>>290
いつも有難うございます。
先週からの猛暑で体調がおかしくなり、数日寝込んでました。
・・がやっと東北の空が夏らしい様子になったので、今日金堂の記念写真とってきました。
五重塔は一層朱壁の壁をつけてから、連子窓作りを頑張ります。 >>291
最近は一気に夏が来るので気を付けてないと
体調を崩してしまいますね
無理なさらないように気を付けてください
バックに講堂が出現し、ますます本物みたいですね
法隆寺は青空が似合います
創建時には講堂は回廊の外にあり
それによって寺院のあり方の変遷が分かるそうです
面白いですね ネットに木製の五重塔の模型見つけました。
以下のワードで検索してみて下さい。 2420円の奴です。
「DIY つくるんです! つくろう!3Dウッドパズル 五重塔 TGN02」
全高が320mm・・でスケール的には1/150よりおおきいですね。
裳階の連子窓もアリーノ、勾欄の卍崩しもアリーノで一寸良いですね。
組物は誇張が過ぎてますかね?
>>293
組物はもちろん屋根から壁まで簡略化しすぎているので
工夫のし甲斐がありそうでいいですね
加工しやすそうな材質なのもポイントが高そうです >>294
木材を使用した法隆寺金堂、五重塔も販売されてますがいづれも高価です。
瓦を木で表現するのが難です。
体の調子は戻りましたが連日の猛暑で、模型に手が中々伸びません。
・・・で本あさりをしてたところ。amazonで「五重塔のはなし」坂本巧(監修)に行き当たりました。
そこでの☆ひとつのレビューが大変面白かったので紹介します。
本をけちんけちょんにけなしてしてるのですが・・・・。 295続き
「塔」の起源について書いてます。
要約すると以下です。
「塔」の研究でどれほど認定されているのかは分かりませんが、とても面白いです。
@五重塔の本体は心柱である。
A「塔」の起源と発展・・
・シャカの遺骨を八つにわけ「八塔」を作った。 形は土饅頭に日傘を刺したもの。
・土饅頭の下に「基壇」があり、この基壇がそのご墳墓の形上で重ねられ、日傘も重ねられていった。・・・ここんとこはよくわかりません。
・中国にわたって・・基壇が「重層塔の屋根」に変化し、土饅頭の形は「伏鉢」になり
その上に祀り上げられ(ママ)、複数の日傘は一本の竿にまとめられ相輪になった。
B「亀腹」と塔の伏鉢の起源はインドの土饅頭。
@の論拠は弱いですがネットネーム・・Dr Mugemu CLL闘病中・・の方も相当な方とお見受けします。
「塔」の起源は現在でもAが大方の見解なんでしょうか?
・・・でこの本の購入はやめて「五重塔はなぜ倒れないか (新潮選書)」1円をポチリました。
>>295
「五重塔のはなし」持ってますよ
ひどい言われようですねw
内容はQ&A形式で大成建設の人や棟梁や専門の人が解答しています
大げさに言うと、これから五重塔を建てようという人向けです
歴史的な価値のある塔やその歴史については語り尽くされているので
新たな視点で編集された本だと思います >>296
この人は仏教に精通している人なんでしょうか
すごく詳しいですね
インドでの歴史は分かりませんが
中国に入ってからは大体書かれている通りではないでしょうか
中国での歴史は「五重塔はなぜ倒れないか」に詳しく書かれていますのでお楽しみに
中国では仏教伝来時にすでに高層の楼閣建築が開発されていたというのが驚きですが
これは道教で建てていたものだそうです
楼建築というのは、独立した構造体を上方に積み上げていく構法のことです
西岡棟梁と何だか揉めていた竹島卓一さんの著書によりますと
雲岡石窟には、単層の塔身にインドのストゥーバ形の屋根を乗せた形式のものや
多数の層を積み重ねた層塔形式の彫刻が両方とも多数みられるそうです
どっちが当初の形なのかは分かりませんが、隋の時代に仏舎利を分けて
全国に五重の木塔を作らせたと伝えられているそうです
その後、塼(せん・レンガのこと)塔が主流になり唐を過ぎると塔の平面が八角形が
普通となったそうです
相輪は初めは中国の木塔で乗せられるようになりましたが
これは短いもので、韓国の相輪は長いです
ちなみに韓国の塔建築の平面は日本と同じ正方形なので
隋のものが半島に渡り、その後相輪が伸びて日本に伝来したものと思われます >>296
塔の本体は心柱と相輪だとよく本に書いてありますし
塔の成り立ちから考えると仏舎利がメインで
仏舎利は心礎や相輪辺りにあるのでやはり心柱と相輪が本体ではないでしょうか それと、「五重塔のはなし」は古代建築を期待すると
コレジャナイ感が大きいので読まなくてもよいかと思われます
>>300
「五重塔はなぜ倒れないか」読みました・・・
勉強になりましたが、難しかったーーー。
7章の「木造古塔の心意気」が良かったですが、この本でも相輪の記述は少なくですね。
「塔」の起源も色々書いてありましたが、日傘はありませんね。
「なぜ倒れないか」、「心柱」の正体もまだ本当の所はわかんないようですね。
耐震強度はコンピュータ解析で分かると思いますが・・・。
中国には法隆寺の五重塔ににた塔は。レリーフでしか残って無いとの事だったので、
ちょい調べたら、七言絶句の有名な寒山寺に、高さ52mの五重塔「普明宝塔」見つけましたを。
勾欄の卍崩しもあります! 相輪も似てますし・・・九輪が七輪に見えますがどーなんでしょう?
唐代からの建築物らしいですが・・本当かどうかは不明。まさか法隆寺の五重塔を真似て・・なんてありませんよね?
@検索ワード=「苏州寒山寺普明宝塔及塔院设计」 タイトル=同じ
A検索ワード=「中国(上海〜蘇州〜杭州) '08.3.18〜21 2日目(3月19日) 〜その2〜」 タイトル=中国 >>301
普明宝塔は韓国の五重塔よりも日本の五重塔に近い感じですね
中は中国式で上まで登れるようですが
中国も韓国も現存している古代建築が少ないので
比較が難しいのは残念なことです
相輪は韓国のは日本のみたいに気合が入ってないですね
周囲の自然と調和させるという思想で相輪を目立たせないようにしてるのかもしれないですね
しかしそれでも相輪を上にあげているということは相輪が大事だということですね
ネパールにも1702年建立の五重塔がありますが、こちらにも相輪があるようです
よく分かりませんが、これが原型に近い感じなのでしょうかねえ >>301
蘇る薬師寺西塔という西岡棟梁の本に
法隆寺五重塔の大まかなサイズが載っているのを発見しました
基壇のサイズや各層の柱高や裳階高や軒とかですが >>302
寒山寺の普明宝塔は先の本にある通りで、階段があるみたいですがどんな階段なんでしょうね。
登ってみたいです。
仏舎利塔の意味あいよりあたりの眺望も重要視するのも中國のおおらかな所ですね。
戦時の望楼の役目も有ったんですかね?ところで、法隆寺とは関係ありませんが、漫画で「栄螺堂」を知りましたが、あの構造は
日本以外にもあるんでしょうか?
上り下りの階段が交差しない構造の様で、とっても不思議です。
五重塔は裳階の32ある連子窓のうち8窓をくり抜いたところでサボッテおります。
面目なし。 >>304
「日本から見た韓半島の古代木塔址」奈良文化財研究所
で検索すると、中国や半島の塔建築の写真や断面図が豊富で興味深いですよ
さざえ堂はオフィシャルサイトによりますと
「会津さざえ堂は約220年前の寛政八年(1796年)に建立されました。
二重螺旋構造の木造建築物としては世界に唯一のものです。」
だそうです
コロナの時代にお手本になる建築ではないでしょうか >>305
「日本から見た韓半島の古代木塔址」・・・PDF見つけて読みました。
日本にもすごい形の塔 あるんですね。
談山神社の重三重塔、安楽寺・八角三重塔・・・こんなのはNHKー美の壺あたりで放送してもらいたいですね。
資料有難うございました。
会津の栄螺堂・・やはり日本だけでしたか! 考える人もすごいですが、建てちゃう大工もすごい!
世界遺産ですね。
>>305
法隆寺五重塔 裳階の連子窓やっつけました。 塗装未
初重 四天柱内部の塑像(画像)を貼り込み、裳階の上にのせてパシャ。
四天柱の外側を貼り付けた為裳階屋根の上からは差し込めなくなり、やむを得ず裳階屋根に切り欠きを作りました。
壁画も一寸写ってます。
>>307
質感が本物みたいでいいですね
鮮やかな壁画もいい感じです >>308
お恥ずかしいです。
初重連子窓は、金堂裳階連子窓より幅が狭く(模型では4ミリ弱)
約0.5ミリ角の連子子は4本入れるのがやっとでした。
窓は無理やりあけるため、上下寸法がバラバラで、連子子を垂直に立てるのが難しいです。
それにしても、初重の連子窓の内側を白壁にし、壁画を描いたようですが、連子窓を潰す
理由はどんなものだったのか・・・不思議ですね。
連子窓を作ってから急に、壁画を描きたくなったんですかね? 307 四行目訂正。
× 四天柱の外側を貼り付けた為
〇 側柱の外側を貼り付けた為
四天柱は基壇に乗ってる、赤いやつです。
>>308
今日は裳階の塗装および下部の白壁とりつけ。
塗装前に裳階を基壇に乗せ、図面で屋根先端部の高さをチェックし、2ミリ程
高かったので裳階上部(連子窓上部)をカットし調整。
再度チェックし一層屋根高さ共々1ミリ以内になったので良しとしました。
五重塔はプロポーションが肝腎なので、気張ります。
(1ミリの誤差が15センチの誤差になるので各層屋根部高さでこのくらいの誤差なら良いと
勝手に判断し、基準の高さは各隅木の位置としました) >>309
連子子を並べるのはひし形みたいにするので
大変そうですね
法隆寺五重塔は特に初層は裳階が最初からついてたようなので
本体の方は連子窓がなくても問題ないように思えますが
他の塔を見ても扉のない壁には全て連子窓が入っているので
それが基本形だったのかもしれないですね
多重塔は三間が基本なので扉の両脇に連子窓が付くとかっこいいですし >>312
連子窓連子子、0.4ミリ角の材料の切り出しがどーしても不器用な為
出来ませんでしたし、角を正面にするのもダメでした。
素材の紙の板厚が0.4ミリなので、切断面を正面に持ってくるのがやっと、
白く見える連子子は紙の裏の色で、0,4ミリ以上が多い物が正面になってしまっている状態です。
今日は心柱の調べ中に見つけた「継ぎて構造」の資料↓をあげます。
継ぎ手の形の見事さは以前から目にしてますが、
五重塔の心柱の継ぎ手も見事ですね。 非対称なので方角を考慮した結果なのかと思います。
検索ワード=「すごい継ぎ手&仕口図鑑 Gakkenドゥーパ!誌で紹介されました。」
タイトル= 同上
(検索、面倒くさく申し訳なし。 検索ワードのコピペ貼り付けで見てみて下さい。 Yahoo上から4つ目くらい、Googleで一番上にあります。)
>>313
とても小さいですからねえ
ピンセットで扱うような小ささではないかと思います
法隆寺の修理報告書みたいなのもあるんですね
買えないと書いてありますが、たとえ買えたとしても
買えるような値段ではなさそうですねw
貴重な写真をたくさん見せていただきました
ありがとうございます 西岡棟梁の「木に学べ」という本に
相輪について書かれていました
塔の上の方は荷重が減っていくために風で煽られやすくなりますが
相輪という重しを乗せることで対策がされています
法隆寺や薬師寺の相輪は3トンもあり、装飾だけではなく構造上も重要な役割を果たしています
それが、構造としての役割が忘れられ装飾に特化(軽くなった)していったそうです
>>315
相輪の重さは3トンもあるんですか? びっくりです。
薬師寺東塔の相輪は新規に製作されたそうですが、とても古代の製作物には見えませんでした。
水煙は法隆寺のものよりも複雑な文様で綺麗ですね。
今日は二層の屋根裏の組物(通り肘木等)を作り始めました。
初層から切り取った扉は、裳階の扉に移設しました。
外側から見ると塑像が直に見えるので、面白いです。 >>315
今日の夜9時 BSPで法隆寺やりますね。ちょい調べてたらなんと、今年は・・・
「聖徳太子が薨去されてから1400年目の御遠忌の年」だそうで、4月から法要等やってたんですね。
なんと記念すべき年に模型を作っていることか!
ところで、五層の屋根を支えている支柱(力士像)は江戸時代の物と本にありますが、
一層の屋根・尾垂木を支えている(邪鬼)も江戸時代の物でしょうか? >>317
そんな番組やってたんですね
しかも今年が1400年の節目の年だなんて
聖徳太子のためにもいいものを作らないとですね
彫刻に置き換わったのは江戸時代です
それまでは普通の束で支えていたと読んだような気がします
早い時期から束で下垂を抑えていたのではないでしょうか
寺社建築の装飾がド派手になったのが安土桃山時代で
その後江戸時代にだんだん収まっていったそうですがその名残でしょうか
それともお金出した人のご意向かそれは分かりませんが >>318
「邪鬼」さんも江戸時代のものでしたか。
両手で尾垂木を支えてる姿が良いですね。
今日は二層の屋根下部を追加加工し二重と組み合わせました。
屋根高さ基準で4ミリ低かったので調整。
裳階屋根は1ミリ程低く、修正不能なので各屋根高さも1ミリ低くしなくてはなりません。
基壇の高さは分りませんが、見た目のプロポーション損なわれない事を祈ります。
あと心配なのが屋根の高さが実物とどうか?です。 >>318
319時点の画像は↓です。
相変わらず接近は汚いですね ビエン
基壇は空洞になっており、心柱の支えがみえますね。
南面から画像で、貼りつけた塑像がチラっと・・・。
>>319
参考になるかどうかわかりませんが
初層柱丈 3.152m
二重柱高 1.430m
三重柱高 1.395m
四重柱高 1.273m
五重柱高 1.121m
*二重から五重の柱高は柱盤下から台輪天まで
台輪とは柱の天頂と大斗(法隆寺五重塔の場合は大斗皿斗)の下に入ってる板のことです
台輪を入れることで柱の高さを均等にできると聞いたことがあります
どこからどこまでの距離かはよく分かりませんが
こんなのもありました
二重軒 初重屋根より4.000m
三重軒 二重屋根より3.810m
四重軒 三重屋根より3.750m
五重軒 四重屋根より3.550m
数字の内容をもうちょっと調べてみたいと思います >>320
なかなか迫力があっていいと思いますよ
実物の柱には槍鉋で削った跡が付いていますし
法隆寺五重塔には迫力が必要です >>321
いつも有難うございます。
高さ方向の各屋根(軒)の高さでは・・・
正確な寸法をご教示いただきましたが、これを見てもおおよそ、各高さは近い寸法ですね。
また図面では各屋根の寸法(大きさ)もおおよそ同じ低減率(≒マイナス770ミリ)なので、
各屋根先端を線で結ぶと一直線に近いものになってる様です。
ある資料では「Aライン」なんて呼んでましたので確認してみました。
模型の屋根の寸法は横手方向に若干小さめの様で気に食わないのですが、修正する技量も無いのでそのままとします。
雲形斗栱は二層屋根まではいい加減でしたが、三層屋根からは尾垂木の斗栱を格好良い物にしようと思います。 別のページに法隆寺五重塔の図があり、そこで下の重の軒から上の重の軒までの距離が載っており
それと一致していました
相輪全体の長さが9,576mで、地面からてっぺんまでは33,546m
五重目の屋根(垂木の上から露盤の下までの高さ)が2,960mで
他の重と違って傾斜が強いです
これも改造されたものですが、わざわざ直さなかったそうです
>>324
正確な寸法有難うございます。
やはり真面目に採寸・記録されているのですね。 相輪長さはミリ単位まで・・・・。
隅木の雲形斗栱・・ネットで画像尾探し、毎日新聞社の「法隆寺五重塔」の大きな写真から
大きさを推定しました。
側柱からの出代長さで約2メートルの長さの様です。大きいですね。
力肘木との組み合わせ構造も含め金堂の物と同じらしいです。(くり抜きの形状、くり抜き個数も同じようですが実際の寸法までは分りませんでした。)
今日は一層の勾欄を付けました。 金堂より小さな卍崩しをプリントで作り、貼り付けました。
勾欄の高さも金堂よりちいさいですね。
まだ早いですが、模型の風鐸も金堂の物よりかなり小さく、どんなふうに吊り下げるか悩みます。
実際五重塔の風鐸は金堂より小さいのでしょうか?
大きさで音色が違うと思うのですが、塔の方は高い音が合うのですかね? >>324
また先生が気に入りそうなブログ見つけました。
中国の古代建築ブリグです。 ちょっと読みましたが・・・・私には手ごわいです。
検索ワード: 「日本じゃ無名?の取って置きの中国一人旅」
Pinterestではなく、「songye.exblog.jp/」のほうです。
「目次8」が出て来てしまいますが、下の「総目次」から順次よまれる事をお勧めします。(目次8も含まれます)
上海の塔の勾欄の模様など‥面白いです。 >>325
斗栱って大きいですよね
雲斗栱は一本の木から彫り出されているのでさらに迫力があると思います
地元の寺院を見た後に奈良の古代寺院を見ると
何から何までサイズが大きくて古代のスケール感に感激します
風鐸のサイズは金堂と五重塔が並べて書かれている図を見ても
大きさはそれほど変わらないんじゃないかと思いますが
風鐸に触れている本を持っていないので良く分かりません
「日本人はどのように建築物をつくってきたか 法隆寺」には
五重塔の風鐸は相輪を作るときに一緒に作られたと書かれていますがそれだけです
ネットで探したら2018年の台風21号で法隆寺の金堂の上層の風鐸の舌が落下し
そのサイズが縦19センチ、横32センチというのがありました
想像以上に大きいですねw
ついでに五重塔の相輪の風鐸の舌も2枚落下して、そのサイズは縦7センチ、横11センチだそうです
それでも結構な大きさです
風鐸のそれぞれのサイズというのも、作っている人ならではの視点だと勉強になりました >>327
五重塔の風鐸、金堂と同じものらしいんですね。
有難うございます。
早速メーカーに金堂の風鐸が買えるか問い合わせをしました。
五重塔の風鐸は金堂の物より小さくて高い音・・・なんて考えづらいですよね。 >>328
あくまで図で見た感じなのでどの程度正確なのかは不明です
作られた時期が違うと思うので何とも言えません
どういう計画で作られていったのかは分かりませんが
あくまで金堂がメインなので金堂より目立たないように五重塔は設計されたのではないかと思われます
そうすると風鐸は少し小さくなるのかもしれませんが
風鐸がどの程度重要な装飾だったのかもわかりません
相輪の風鐸(カメラの限界)
五重塔の何層目かは不明な風鐸
>>329
相輪にも風鐸あるんですね。 どうしたものか悩みますww。
五重塔の風鐸・・淡交社の、いかるがの里 法隆寺の39図でみると(やはり)風鐸少し小さく見えます。
法隆寺のどこかに聞くことが出来ないかと調べたら、「法隆寺出張所」なるところを発見。
「主な業務 ・国宝法隆寺中門ほか2棟の保存修理に関すること
・法隆寺未指定重要建造物の保存修理に関すること
・法隆寺保存古材調査に関すること
・電話番号 0745−75−2337 」
奈良県県庁に属する部署のようです。
不躾/失礼ながら、電話して聞いてみようかなと思ってます。 >>330
そんなところがあるんですねえ
詳しく教えてもらえるといいですね
なかなか知ることができないことですし
相輪の風鐸は写真で見ると小さそうですが
舌の横幅が11センチとなると本体の方は20センチくらいの高さがあるのでしょうか
想像の2倍の大きさです >>331
金堂の模型での風鐸は本体で高さ約2.5ミリでした。
(そこにオーバー気味の舌・高さ約1ミリをくっつけました。)
五重塔の方は高さ約1.5ミリ程で上部に余計な先尖り棒が付いてて格好わるいです。
追加注文で金堂の風鐸が購入出来れば良いんですけど。
やはり相輪の風鐸は無理かなーー。 >>331
追伸
相輪の風鐸の数を探していたら、相輪の例の鎌の情報見つけました。
群馬の好事家が手に入れたようです。
柄の部分は約1メートル、刃の部分は約30センチらしいです。
検索ワード:法隆寺五重塔の魔よけ用「影打ち」の鎌 高崎の岡田さん入手
上毛新聞の記事みたいです。 >>331
法隆寺出張所に風鐸の寸法を電話で問い合わせました。 ・・・・・が
「修理したこと無いので、寸法データは無い。 国会図書館に国宝保存修理報告書には
風鐸の写真があるので見てみたら?」・・でした。
残念。
その風鐸の写真には「寸法が分かるようなスケールは写ってないので大きさは分らない」との事でした。
さらに金堂と五重塔の風鐸で、みための大きさ、音の差を尋ねましたが、分からないとの事でした。
愛はあるんか?と言いたいですね。 >>334
風鐸自体の修理はしたことないんですね
台風で舌が落ちてくるわけですw
金堂と塔が並んでる写真を見ても、風鐸の高さは同じくらいに見えますが
向いてる方向がバラバラなので横幅がどうなっているのかはよく分かりません
五重塔と一緒に作ったのなら金堂にも同じものが付いていると思いますが
どんなもんなんでしょうね
薬師寺東塔の風鐸は落ちてそのままになっているそうで
現在は風鐸が付いていないようです
魔除けの意味があるとは言うものの、後世では装飾の一つになっていたのかもしれません >>335
金堂、五重塔の写真をその後ネットでかき集めて比べた所、両者の風鐸の形は同じようです。
ただ表面の模様は複数ある様です。(本体上部の凸の有無)
国会図書館のデジタルコレクションでは、「法隆寺国宝保存工事報告書」はインターネット公開はされていませんでした。
報告書は改版されていて値段は40万円くらいするらしいです。
備忘録ですが、報告書の目次をあげておきます。
口繪金堂壁畫 一 槪觀及び圖面 二 竣工後の細部 三 解體 四 組立 五 基壇 六 軸部
七 斗栱 八 軒廻 九 屋根及び妻飾 十 瓦 十一 天井 十二 壁 十三 扉及び窓廻 十四 勾欄
十五 裳階 十六 金具 十七 畫壁處理 十八 天蓋 十九 發見資料
風鐸の写図は八の軒廻りでしょうか? 300頁を超える物のようです。 >>335
模型メーカーに金堂用の風鐸部品注文してましたが、本日返答あり。
3個(セット)欲しかったのですが1個しか在庫が無いとの事・・・。
なんとか粘土で「型取り」して、風鐸16個製作してみようと思います。
五重塔ー屋根の大きさで悩んでましたが、コピーした図面が高さ方向はOKでしたが、
幅方向が若干小さめだった為と判明しました。
これは、毎日新聞社の「・・・五重の塔」の60頁掲載の図面と対照して分かりました。 >>336
40万円ですか、強気な価格ですねw
目次の紹介をありがとうございます
風鐸はもし載っているのなら金具にあたるのでしょうか
かなり詳細が分かる竹島さんの本にも登場しないので
載ってないかもしれないですね >>337
本体の大きさを考えると風鐸はすごく小さくなると思いますが
気合を入れて頑張ってください
西岡棟梁の本によると屋根の1辺の長さは
初重14m
二重12.670m
三重11.820m
四重10.364m
五重9.376m
だそうです >>339
屋根寸法有難うございます。
頂いた寸法を150で割ると・・・なんと毎日新聞社の「法隆寺五重塔」の
60頁断面図に一致!
1/150の図面だったんですね。 コピーした図面はこれより5.5%大きかったです。
模型の現物は約1ミリ大きかったり小さかったりですが、まあ許すとしましょう。 >>339
金堂の風鐸部品1セットのみ購入出来ました。
五重塔3屋根軒分の12個をなんとか粘土を使って複製を試みていますが、
当初の計画とおりには行かず苦戦中です。
まず粘土にてメス型作成が旨く行かない。
柔らかいうちに溝を掘って乾燥させると、どーしても反りが出てします。
部品を旨く二分割できない。 ・・・・・・
なので、部品を「約半分」粘土に押し付けて型取りした物へ、粘土を押し付け、固めた後カッターで
形成する事にしました。
当然不格好な物になってしまいますが、他にアイデアが浮かびませんので、止む無しです。
風鐸の写真を一杯入手したので、舌を含め、金堂よりより良くしたいです。 吊り下げ糸も極細に・・・。
>>341
細かい作業ですね
12個も作るのは気が遠くなりそうですが
頑張った分いいものができそうですね >>342
風鐸 なんとか17個つくりました。
今回の吊り金具は、ミシン糸をほぐして細いものにしました。(金堂の時は結構太かったです)
二層目も接着中で、三層目を仮り組したところ高さが足らない様で修正中です。
毎日新聞社の「法隆寺五重塔」の60頁の図面はほぼ正確に1/150だと思いますが、
さて風鐸は・・と見てみると・・・ダメですねここは。 >>342
風鐸に目途が付いたので三層に取り掛かりましたが、初層の高さが高さが変な事に気づきやっと修正。
(320の画像では分かりにくいですが、白壁が裳階上部の面よりおおきく上にズレあり)
・・で二層屋根の雲形斗栱が勾欄に干渉してることも判明し、ここも修正。
雲形斗栱が若干大きかったようです。その他恥ずかしいミスも有り。
現状三層屋根まで完成・・・してると良いのですが。 >>342
二層勾欄が設置出来れば三層を載せられるのですが、またミスアリで明日に延期。
ところで五重塔を建築していて疑問が・・・。
古代木造建築に共通ですが、「建築中の雨ー防水は語の様な物だったんでしょう?」
現代ではブルーシートやら何やらありますし、階層が低ければ屋根を葺いてしまえばなんとかなるでしょが、
五重塔等では屋根の仕上げ順序や、防水ー雨除けはどんなだったんでしょうか?
雨模様を察知し、稲莚を掛けたのでしょうか?
半年一年で建物が完成しないでしょうし、首をかしげます。 >>345
法隆寺の五重塔は建設途中で何十年も雨ざらしになってたようなので
あまり気にしてなかったのかもしれないですね
「日本人はどのように建造物をつくってきたか法隆寺」を見ると
壁を作るのは最後の方になっているので、風通しがよくすぐに乾いたのかもしれません
何かで覆うと水を吸って重くなって却ってよくないような気もします >>344
一から全部作るのと違って(作ったことはないのですが)
いろいろ大変なことが起こるのですね
模型が本物に忠実じゃなかったりするようですし
細部の寸法もはっきり分かりませんしね 先週の新聞だと思いますが、興福寺の東金堂や回廊の跡が出土した記事が載っていました
1180年の南部焼き討ちの後に同規模で再建したので、二時期の雨落ち溝があったそうです
記事の内容とは全く関係ないのですが、現在の東金堂は1420年ごろの再建だそうですが、斗栱が丸見えで
もっと軒が深い方が奥ゆかしくていいのではないかと思ってしまいます
恐らく東金堂の軒部分の写真です
写真の整理をあまりしていないので記憶を頼りに探したので定かではありませんw
野屋根で屋根が大きく見えるのが嫌なのかもしれませんが
3手先が4手先くらいの高さになっています >>346
瓦下の土とか壁とか雨は大敵ですよね。 何か雨除けは考えていたと思われますが、どんなのか想像できません。
きっと現代でも感心するような方法ではなかったでしょうか?
>>349
興福寺 東金堂の斗栱は複雑な形状ですねーー。 どんな組み方なのか想像だにできません(´;ω;`)ウッ…。
今日やっとのことで三層勾欄・屋根を取り付け、心柱の継ぎ目の高さ調整(三層勾欄位置)までやりました。
三層まで来ますと、塔の形に大分近づいた様な感じです。↓
>>350
晴れた日だけ作業するとかしてたんですかねえ
雨でぬれるのを計算して部材を作っていたとかなんかありそうですね
基本的に斗栱は構造というか組み方が同じだそうなので
法隆寺様式とそのほかの一般的なものは同じです
法隆寺のは形が特殊なだけです
本物は重みで安定させているようですが
この小ささではそれは無理ですねw
4層目から狭すぎて斗栱の様子が変わってくるので期待が高まります >>351
今日は四層目仕上げと五層目の高さ調整しました。 両者2ミリづつかさ上げ。
屋根のプロポーションはまずまずだと思います。
模型の先輩の言で「五重めは野小屋を設けるため・・・」の文があるのですが理解できませんでした。
でちょい調べたら「屋根荷重対策」らしいですね。
見つけたWEBでは・・
「平安時代の中頃、990年に建立された法隆寺の大講堂では、化粧垂木(構造材か否かは関係なく、軒下から見える垂木の総称)とは別に、その上に急勾配の野垂木をかけて屋根を葺き、
天井のなかに見えない小屋組(野屋根)をつくる構造とした。
これによって屋根荷重を野垂木と地垂木で分担できるようになり、さらに、屋根の勾配を急にして雨仕舞をよくしたり、化粧垂木の勾配を屋根勾配に左右されずに決められるようになり、
軒の出を延ばせるようになった。
こうして法隆寺の大講堂以降、野屋根をもつ構造が一般化し、日本に独特の深い軒裏空間がつくりだされていく。」
・・・とありました。 ですが断面図をみると五重塔も同じではないかと思われます。
以下にWEBの参照方法載せますので、ご覧になってください。 何時もすいません、出禁が怖くてURL書けません。
検索ワード:新美術情報2017 (ヤフーもグーグルも先頭のもの)
仏様の画像の下の「建築」にポイント当てて「日本の建築の形1」をクリック
「▶︎屋根裏から始まる日本化」の項にあります。 >>352
面白くて参考になるページの紹介ありがとうございます
現在の法隆寺五重塔は五重目の屋根だけ勾配が急で
それは元禄の修理で野屋根が作られたからだそうです
元は下層と同じゆるい傾斜だったようです
昭和の修理の時に傾斜を創建時に戻す案もあったようですが
今の姿が世間に認知されてるという国民感情な理由と
4,5層目の軒を下げないために内側に重みが欲しいという構造上の理由で
野屋根がそのままにされたそうです
4,5層目は塔身の縮減は大きいですが軒の出はあまり縮減されてないというのが
大きかったのではないでしょうか
そのために支柱も残していますし 続き
野屋根を作ると見た目にも屋根が大きくなってしまいますが
古い専門家の先生方は野屋根の大きな屋根を嫌う傾向があるように思います
野屋根が発生する以前の建物は屋根が軽快で美しいということです
復元模型を見ると屋根が軽い方が素朴な感じがします
重い屋根に見慣れた身としては、少し物足りないような気もしますが
唐招提寺金堂の創建時は野屋根のない軽快な屋根勾配だったそうで
現状の重い屋根を嘆いています
現代の専門家の先生方は重い屋根をどんな風に見ているのでしょうか
続き
野屋根の発生前は化粧屋根裏といって見せるためにきれいに仕上げた垂木が見えています
奈良時代の建物の中に入り見上げると化粧屋根裏が見られます
中で撮影していいという建物はないので写真がありませんが
検索すれば出てくると思います
野屋根では見られることはないのできれいに仕上げられていない野垂木と
見られるために仕上げられた化粧垂木が存在します
要するに二重屋根になっているということです
>>354
>>354
五重塔五層もやはり野屋根なんですね。 より詳しい解説有難うございます。
元禄の修理で野屋根にした・・・は面白いですね。
元禄の修理の中身はどの文献から分かるのか(金堂もふくめ)、教えてもらえると有難いです。
今日は五重の尾垂木作成。 尾垂木、雲形斗栱、追加された支持柱の位置関係を見たところ、
どうも雲形斗栱の大きさがやはり大きい模様。どうした者か思案中。
また、支持柱は斗栱の下面から下層屋根までと・・写真と「不滅の建築1の図面」とで確認出来ました。
(本当にこの断面図は最高ですね。元図は昭和修理の報告書から起こしたものと推定されますが、
劣化していている物が多いです。制作当初にコピーした図面はなぜか隅木の形もへんです。) >>356
元禄の修理については手持ちの本ですとお馴染みwの
「法隆寺の建築」(浅野清)
「法隆寺金堂の諸問題」(竹島卓一)
に載っています
元禄の前の慶長の修理では大手術を断行したので、それまで伝えられてきた古形式の多くが
失われてしまったそうです
金堂はこの慶長の修理で構造上の弱点を補うために、適切な箇所に適切な補強を施されるだけでなく
思い切った様式上の変更も加えられたようです
昭和の修理で様式の復旧は行われましたが、上重の内部の補強はそれを踏襲しさらに強化を図っています
その約90年後くらい始まった元禄の修理では、金堂は慶長の修理で大修理を受けたあとだったので
屋根の葺き替え、飾り金具の補足、内陣の仏壇の改築、その周囲の高欄の新補、裳階屋根板の補修、
基壇石の積み替え、下成基壇の改造、支柱のゾウや獅子や竜など主に外観に関することがなされたようです >>357
いつも有難うございます。
「法隆寺の建築」(浅野清) あまでポチリました。
「法隆寺金堂の諸問題」(竹島卓一)は・・・
「建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題・・・中央公論美術 刊行年 1975」ですか。
445P 箱入り随分と立派な本ですね。 金堂製作中読んどけばよかったかな? 続き
五重塔については、慶長の修理の様子は探し出せませんでしたが
元禄の修理は費用を桂昌院に頼り、主に五重塔に使われたので、軒丸瓦が葵の紋と桂昌院の里方の紋が
交互に並べられたり(昭和の修理で撤去済み)、五重目の勾配を人目を引くように(浅野清さんによると)
急にしたり(そうすると心柱がの長さが足りなくなるので、心柱の頂に継木して相輪を持ち上げ
露盤・伏鉢・請花を改鋳し、露盤に鍍金の葵紋を入れた)、力士や竜の支柱がついたりしたようです
昭和の修理では、関係当事者の判断によって復原が見合わせられたものもあるものの
調査の上出来る限り復原されています
今後の修理に当たっては、復原資料が失われているものが多く
これ以上の復原はあり得ないという見解のようです
不滅の建築シリーズは写真もいいけどイラスト?もいいんですよ
>>358
竹島さんの方は一般向けではないと思うので
気が向いたらどうぞとしか言いようがないですw >>360
あまより大分遅れて「法隆寺の建築 浅野清」本日到着。
法隆寺の歴史、金堂・五重塔の建築について、すごく読みやすく明快な文で感動しました。
ちょい調べると昭和の修理の立役者の一人だったようですね。
金堂と五重塔の間にある灯籠も江戸期の物なんですね。 筆者には不評ですねww。
他の著書に「古寺解体」があり1,000円で買えるようですが今回は止めておきます。
本の帯に「切り縮められていた方りゅじ五重塔の謎」・・がありどうしようか迷いましたが、
専門書に近い内容そうなのでパスします。
「一握りの古材と柱穴の発掘から古寺を復元していくユニークな読み物!」には惹かれますが…。
模型は4層ー四隅の雲肘木を2ミリ上昇の修理が完。
5層の雲肘木と4層勾欄が大きく干渉することが判明したため、同様に隅木・雲肘木を3ミリ程度は情報へ移動しなくてはなりません。
5層まで出来てしまうと、あとは心柱設置と相輪、風鐸設置、塗装、木製土台製作・・・。
灯籠どーしよーかなー?
>>362
日蓮、真宗、オウム、藤堂家は、中身は同じばい菌です、聖人、日本国に、殺菌されます。 >>361
裳階も不評ですよw
ついでに後世に改造されて屋根が大きくなってるのも不評ですw
「古寺解体」は昭和の大修理がどういう状況で行われていたのかとか
浅野さんが担当した大講堂や伝法堂のことが主に書かれています
当然、金堂や五重塔のことも書かれていますよ
それ以外には法隆寺以外の奈良の古建築の調査とそれをもとにした考察や復原などです
これも面白い本です >>364
浅野さんすごい方ですね。
「古寺解体もお持ちですか」・・・日本の古本屋に有るんですが、支払いが面倒なのでためらってます。
カラーブックスの「奈良」に面白い文が有ったので、抜き書き。 ご存じでしょうが、良い文なので・・。
「第二次世界大戦の戦禍から、奈良、京都の文化財を守ったのは米国の東洋学者ランドン・ウォーナー博士であると言われている。
(中略) 爆撃から除外する文化財のリストを作成して大統領や軍に働きかけたのが彼であった。
(中略)そして戦後、法隆寺の壁画が焼けたという知らせを受けた時、大学の研究室で頭を深くうなだれ、目に涙だをためて黙して語らなかったのも彼であった。
いま法隆寺の西北隅、松の木立越しに五重塔を遠望できる静かな丘の上に、高さ1メートル余りの五輪塔がたてられている。
法隆寺に限りない愛情をもっていたウォーナー博士の追善供養のために、伽藍ををそっと見守って貰おうと寺が建てた塔なのである。」
五層も何とか修理が終わり、心柱・相輪を如何しようか思案中。
いっその事、心柱を最上部まで・・、九輪も作ってしまおうかと画策中です。 >>364
やっとこさ心柱を継いで、5層まで組み上げました。
屋根の重なりを上部から見ると、若干ゆがみがあります。
九輪の試作品を一個乗っけてみましたが、まあまあですかね?
>>367
本物みたいな色合いですねえ
相輪は五重塔の本体なので気合を入れて作ってください >>368
今日は覆鉢を載せました。
覆鉢から上の心柱の太さの様子が良く分かりません。 カンチキで削ったので、細くしすぎた感があります。
画像を集めて修正の予定です。
薬師寺の東塔の修理で相輪も修理しており、写真はあるのですが、大きさの明示はありません。 塔の本体なのに・・・。
九輪にも小さな風鐸が散り下げられていますが、この表現はどーした者か?
一番の難関かもしれません。 >>369
参考になるか分かりませんが「蘇る薬師寺西塔」によりますと
法隆寺五重塔の九輪の第一輪の直径が1.060m
第九輪の直径が0.753mとなっています
この本の写真を見ると輪と輪の間には擦管(さつかん)という筒が入っているんですね
昔の人はすごい作業をしてたものです >>370
有難うございます!! 助かります!
図面を計ってますが・・・九輪第一輪の直径はほぼ合ってました。
・・・が第九輪は大きすぎてました。 図面が間違ってるんでしょうね。
修正します。
一番下の擦管の直径は分かりますでしょうか?
写真からΦ41センチと推定しましたが、もっと太いかも・・です。 >>371
西岡棟梁の「木に学べ」に載っている相輪の図を
定規で測ってみたところ、一番下の第一輪の直径というか幅は7.1か2ミリくらいで
その下の擦管は4ミリないくらいです >>372
わざわざありがとうございます。
それだと縮尺は1/150でしょうね。
一番下の擦管の直径を3ミリにしようと思いましたが、3.5ミリ位にしてみます。 >>372
追伸
水煙の中ほどの擦管の太さも、出来ましたら、寸法をお教えください。
中央から龍車・宝珠に向かって更に細くなってるようです。
心柱やはり削りすぎてまして、粘土を追加し乾燥させてます。 >>374
細くなる部分は1.1ミリほどで水煙の一番上あたりは0.9ミリほどです
ちなみに水煙の高さは1.515メートル、装着幅は1.030メートルだそうです
実物は想像以上の大きさですね
相輪で3トンというのも納得です >>375
お手数をお掛けしました。
有難うございました。
覆鉢の直径は分かりませんが、ここはカンチキで・・。
露盤の葵の紋はやはり笑っちゃいますね。
粘土が乾いたので、寸法調整で削ってます。 暑い日さむい日
お堂の中で休んでいいのかどうかもよく分からない
人いないからだめなんだろう多分
あるのは階段登るじゃまをするさいせんばこ
かけこみ寺にすらならないのか
>>376
相輪伏鉢は高さ0.400m、直径1.212m、
面積0.985uだそうです
ちなみに葵の紋が場違いな露盤は0.485m、
一辺1.460mとなっています
他は
平頭:なし
請花:高さ0.785m
水煙:高さ1.515m、装着幅1.030m
龍車:水煙から龍車天0.424m、立径0.215m、横径0.272m
宝珠:高さ0.515m、立径0.242m、横径0.250m >>378
更に詳しい寸法有難うございます。
心柱の調整をやっとこさ終了し、覆鉢を粘土で作り乾燥が終わりました。
頂いた寸法で、覆鉢を検証します。
九輪の試作が出来が悪かったので、本日気合を入れて再度作り直しました。
今週は、九輪の風鐸をどのように作るか検討し、一応これで‥の所まで試作完了しました。
風鐸は、他の塔の九輪の物の情報で・・高さ17センチが有りましたので、1/150として1.2×0.7ミリの大きさとして紙で試作しました。
気がかりは水煙で、プラモの部品は形を完全再現してない為改造したいところですが、
余りの細かさで・・・どうした者か・・。
龍車、宝珠は寸法頂きまして安心です。 >>378
九輪の加工に入ろうとしましたが、写真等をよく見ると、各々の輪の高さが
異なるのに気が付きました。 (試作は全部高さ2ミリで作りましたが・・)
どうも各々で違うようです。(上方に行くほど直径も高さも小さい様です)
再三申し訳ありませんが九輪の高さ寸法分かりましたらお願いします。
(薬師寺東塔の九輪は、一部の写真から推定すると、H/L≒0.2でした。比が同じだと綺麗に見えるような気がしますがどうですかね?・・)
また、九輪に吊り下げられている風鐸の大きさについても同様に、分かりましたら、お願いいたします。
頓首 片田の会社、櫛形のアーウエイつきあっとるとこ、生意気やな、えいさい、片田の、つきあっとるとこやろ。
日蓮、真宗、オウム、藤堂家は、中身は同じばい菌です、聖人、日本国に、殺菌されます。
>>380
「木に学べ」の図を測ってみると一番上が1ミリで
一番下が1.2か1.3ミリくらいになっています
風鐸は一番上が吊り下げてる器具も含めて1.4ミリほどで一番下が2ミリほどですね
大きさは2種類あるようで(実際は分かりません)、上3輪が1.4ミリほどで
下の残りが2ミリに書かれています
どこまで正確に書かれているのかは分かりませんが、風鐸の数は正確に書かれているようなので
それほど間違ってるということもないと思います >>383
寸法、有難うございます。 九輪の改造がこれでできます
ですが、九輪の形が円柱状で、実際の物が肩がRになってるのに比べると格好悪いです。
(側面は細切りしたプラペーパーを一周回した物を透明プラバンに貼り付けた物なので角が90度です)
塔を下から望んだ写真でどのように写るか心配です。
九輪の風鐸は一個当たり8個釣り下がってますよね?
雷除けの大きな鎌も付けたいです。 >>385
図の風鐸はついてないところもあるのですが
写真ではしっかりついていますね
図はいつの時点の姿かは分かりませんが昭和の修理の時には落ちていたのかもしれないです >>386
今日は九輪二つ作り心柱に取り付けました。
風鐸を8個接着するのは、とても難しく、企画通りには中々行きません。
輪を等間隔に置く事も、心柱と並行に置く事自体がそもそも難ですww。
8個揃ってない・・・良い情報です。一つくらい無くても大丈夫ですねよね。
九輪は下から四大菩薩、その上に如来に相当するそうですが、バチが当たらないと良いのですが。
>>386
下から3番目の九輪を乗せたところで、最初の九輪(なんか指示代名詞が変)の大きさが
8ミリ程度であることに今更気づきました。
これではいかんと、これまで作ったものを九個選別しました。
最初の九輪を涙ながらにニッパーで撤去。
家人の急病もあり、中々進みません。 週末落ち着いて、取り組みたいです。
受花は九輪完成後、水煙・竜車・宝珠まで組みあがった後の取り付けの予定です。 >>387
風鐸が落ちていたという記述を読んだことがあるような、ないような感じなので
探してみましたがさらっと見ただけではみつけられませんでした
家の方が急病になられたということなので、あまり無理をしないように
相輪の作業をしてください >>389
有難うございます。 今の所は大事に至らず、一安心です。
2018年の秋、台風21号の風で金堂、五重塔の風鐸の舌が落ちたようです。
(検索ワード:法隆寺 金堂 風鐸 落下)
九輪で苦労してますが、九輪の本体を一から作り直し、本日、一番下を組付けました。
(各九輪の高さと直径を計算し、木材をテーパーに削った物の然るべき場所で細切りプラペーパを一周させて、先ず周囲を作る。
出来上がった部品の寸法を確認しつつ九個を作成し、透明プラバンに貼り付け。
糸を貼り付けた風鐸部品((約1ミリ角))を8個貼り付け・・・糸は細い絹糸を3つに分解して使用。) >>389
相輪作業、やっと下から七輪迄組付けました。 まあまあの見た目です。
段々と、一つの輪に八つの風鐸を貼り付ける作業が難しくなってきました。
風鐸の大きさが下から上まで同じ大きさなのか、気になって色々調べてみましたが、
分かりませんでした。
上の方の風鐸は小さめにして窮屈にならないようにしています。
水煙は実物の形を大きく損なっているので、改造を試みています。
(実物は上部と下部とでデザインが違うのですが、模型では下部をバッサリ省略。) >>389
今日は九輪完成。
塗装は水煙、竜車、宝珠、受け花が出来てから一括で・・。
水煙の下部を製作。(細い真鍮線で小さな枠を作り、中に模様線をいい加減に入れたもの)
頂いた寸法で大きさを調整し(心柱の太さも)、貼り付け予定です。 >>389
水煙の取り付け完了。 一寸大きめになっちゃいました。
宝珠の形は、下からの相輪の画像がしか見当たらないので良く分かりませんが、
薬師寺東塔の物の形に近いと推定し、先とんがり桃の形にしようと思います。
(毎日新聞社 法隆寺五重塔 P60の図面もそうですが・・・)
竜車を粘土で心柱に付けようと苦戦中。
宝珠が乗ったら画像をアップの予定です。 >>393
宝珠の図はどれを見ても、法隆寺のは曖昧な形になってしまってますね
薬師寺のほうがすごく丁寧に書かれているのに
水煙を比べてしまうと、薬師寺東塔の水煙は評価が高いので
余計にシンプルに見えてしまいます
下からの写真ですがご参考までに
画像検索してみましたが、法隆寺の宝珠といえば夢殿の宝珠の方が有名なようですね
確かに目を引く華やかさです
同じ八角堂の栄山寺の八角堂の宝珠はシンプルなんですけどね
>>394
画像有難うございます。 宝珠の上部に柿のヘタ見たいのが見えますね。
どんな形何でしょうか?
宝珠は前述のごとく先トンガリの桃みたいにしたいのですが難しいです。
先とんがりは心柱の最頂部とし、避雷針は削除で・・・。
竜車との取り合いが結構難しいですね。 小さいので削るのが難です。 >>395
宝珠一応乗っけてみました。 完成までは時間がかかりますので、途中経過という事で・・・。
竜車共々まだ形は変ですが、少しづつ整形してゆきます。
受け花製作後塗装の予定です。 >>395
受け花を紙で製作し何とか設置。
魔よけの鎌は柄のの部分をΦ0.5真鍮線を一番下の九輪に四本差しました。
鎌の部分は、紙で製作し貼り付ける予定です。
今日は第五層の江戸期の補修と言われる、トーテンポール形の彫刻柱を製作。
五層隅木と四層の降り隅棟との間に設置。 怪物の手足が格好良いのですが、再現できませんでした。 模型方面の流れのところ申し訳ないです。
寺院建築に詳しい人へ質問したいのですが、
塔上に設置される水煙(典型的な形状タイプ)ってのは、お堂に設置されている例はありますか?
「水煙宝珠」はあるみたいですが、形状的には火焔宝珠と類似しており、
前述のような塔タイプ(全体に縦長、水煙板が四方に立っている)が用いられている例は見掛けません。
やはり、いわゆる水煙というものは、塔専用なのでしょうか?
それとも実例があればご教示ください。
>>393
横からすみません。法隆寺の相輪ですよね?
ふだんから画像探すのが好きですが、ネットには他にも大きい画像があるようです。
たしかに「柿のヘタ」みたいに見えますね。
が・・・
https://www.flickr.com/photos/m-louis/50066065352/
↑
このページの右下のダウンロードマークから「Original(3185×5521)」
を選択し、超高画質画像を見てみてください。
推測ですが、「ヘタの突起」に見えるものは、左右2か所のボルトではと。
一つ目の画像で柿のヘタに見えるのは、
撮られた角度でボルト2個とも同時に写ってるだけ、のように見受けられます。 小生個人の見立てでは、
宝珠そのものはタマネギ形で、上の棒へと一体形状になっているように見えます
で、4本ある金属縦帯を、リング状の横金具で結束しているように見えますね。
現代ボルトは避雷針アースの最上部の固定のためかなと推測します。
>>400
貴重な画像有難う御座います。
竜車、宝珠の詳細が分かりますね。 ドローを使って撮影したんでしょうかね?
心柱は何処まで有るのか知りたくなりますよね?
宝珠の頭の部分は此れに倣いたいと思います。・・と言ってもあくまで雰囲気ノレベルですが・・。
>>394
今日は一層屋根隅木を支える邪鬼と風鐸を一個設置しました。
風鐸のサイズ感をまずは見てみます。
・・とやってるうちに宝珠が破損 ああ。 >>400
どの図を見ても玉ネギみたいな形に書かれているので
先のとがってる部分にスポッとはめて固定している感じですかね
上の様子が良く分かる貴重な画像ですね >>399
あるとしたら宝形造りとか六角堂とか八角堂しかないと思い
八角堂で検索したら四国八十八ヶ所霊場第5番札所の無尽山荘厳院地蔵寺にある八角堂に
それらしきものが立ててあるようです
中はどうなってるかは分からないので心柱の有無は不明です
結構新しそうです
古い時代だと落雷が怖いので相輪は立てないんじゃないかと思います >>399
>>406
水煙も火炎(火焔)の形であり、
火炎は「お釈迦様が火葬されたことをあらわす」・・相輪のWikipediaの水煙の説明書き。」
・・・が正しいとすると、「火炎」は塔(塔刹)にのみあると言えますかね?
火炎宝珠は知りませんでしたので、国内も見たついでに中國は・・・と以下も見てみました。
お時間ありましたら御覧になってください。
複層のお堂の様な建物に相輪があります。この建物もお釈迦様の骨が有るんでしょうか?
ご質問の4枚「水煙(火焔)」は見当たりませんでしたが、多種の形状がみられて面白いです。
荘厳院地蔵寺ー八角堂に火炎宝珠があるのは、八角堂がお釈迦様の骨と何か関係が有るのでしょうか?
URL: https://image.baidu.com/
(hを先頭に足しhttpsにして検索してください。百度のHPです)
検索ワード: 相輪 火焔
上部の 「图片」をクリック・・・で画像のみがみられます。(クリックしても、その画像しか出てきませんが。) >>407
古代の八角堂は霊廟です
本当は八角形ではなく円にしたかったようですが
技術的にできなかったので八角円堂と呼んで日本では八角堂が円堂だそうです
法隆寺の夢殿も八角堂で聖徳太子が祀られています
塔建築とは別物ですね
新しく建てられてる八角堂は…なんでしょうかね?? ピサの斜塔、、、
あれは傾いてるけど建物は円筒形。
建築技法に建材の違い、石と木も関係してるのかも。
日本は羊羹カステラを直方体に作る
西洋はケーキを円盤、円筒形に作る
造形文化の違いか??
お堂に対する相輪(水煙と書いてしまいましたが)についての件、おそくなりましたがご回答ありがとうございました。
「方形屋根のお堂」を模した神棚の露盤部分に板が載っており、そこに宝珠を載せたく
探していたところ、私に縁のある社寺の五重塔の、落慶当時の記念品(相輪の置物)が
安価で出てまして、載せたらおかしいかどうかを知りたかったのでした。
その後、やはり宝珠でなければと思いなおし、高かったですが、やはり火焔宝珠にしました。
大変余談ですが、露盤宝珠の受花ですが、正面側は「真正面に花弁」がくるように配置するのが
門外漢から考えても順当だと思いますし実際多数がそうなっています。
しかし、私が再現したいお堂の受花は、今朝のお参りで高台へ見に行ったところ、
花弁の切れ目が真正面になってました。どんなことでも例外ってありますね。
正方形のお堂(の屋根)のことを、最狭義には「宝形造」って言うんですね。
たったいま知りました。少し充て字が違っていたんですね。
建築一般用語の「方形屋根」までは調べられていたので
惜しいところまでは迫ってたみたいでした。笑
>>409
中国や半島ではすぐに木材が枯渇したそうですが
日本は比較的木材に恵まれていたために
木造から離れられなかったというのが定説のようですね
石造のギリシャ建築は木造建築時代の名残で
木造建築のモチーフや構造がデザインされているようです >>394
今年は法隆寺模型で大変お世話になりました。有難うございました。
五重の塔、風鐸を3層途中まで吊り下げました。
大きさは実物画像と比べてやはり大振りになって仕舞いましたが、これで行きます。
完成は年越し、土台は更に時間がかかりそうです。
金堂と並べての記念撮影は来春かもです。
暑いのもダメですが、寒いのもダメです。 >>411
詳しく解説している書籍がないのでわかりませんが
花弁の枚数にもよるんじゃないでしょうか
露盤宝珠の一番の役割は雨仕舞をすることでついでに装飾もしちゃおうという発想のようなので
特別に宗教的な意味はないのかもしれません >>412
古くは八角堂や六角堂も宝形と呼ばれていたそうですが
四角い堂なら方形のほうがイメージがしやすくていいですよね >>414
こちらこそ、いろいろ勉強させていただいてありがとうございました
とても小さい風鐸を吊り下げるというだけでも気が狂いそうな細かさですね
負担にならないように気長に頑張ってください
来春の完成を楽しみにしています >>416
もちろん枚数にもよるでしょうけど、
菊紋は花弁がどれだけの枚数だとしても花弁間隔線が正中とならないように、
やはり正面に花弁というのが日本人の美的間感覚的にはより順当ではと個人的に思うわけですわ。
だから意外だったというわけです。 >>420
強風でずれることがあるかどうかわかりませんが
そうでなければあまり考えなしに取り付けたのかもしれないですね >>411
>>416
法隆寺・五重塔では
九輪の一個の上部の花弁模様の数、吊り下げられている風鐸の数また受け花の花弁の数を色々の画像から
判断して8個としました。
受け花花弁の配置は南面正中らしいので、その様にしました。
8(個)は4(方位)の倍で、シンプルな曼荼羅模様の配置的みたくで綺麗に感じました。
それにしても、九輪、受け花、水煙、宝珠、さっかん・・銅合金とはいえ複雑かつ大きな鋳造品が
あの時代で完成しており、水密構造で心柱に被せらて居た事には驚くばかりです。 宝形造りという名称は露盤・伏鉢・宝珠を総称して宝形と呼ぶことに由来すると
「古建築入門」に書かれていました
方形より先に宝形という漢字が使われていたようです
石造りの宝形の受花も花弁が正面(露盤が四角なので面の部分を正面とします)になっていますね
そうやって彫ってあるということはそれが正式なものと思われます
>>422
現在の相輪は平安時代のものだと読んだことがありますが
創建時にも当然相輪があったと思うので
すごい技術ですよね
建築中の様子を見に行ってみたいものですw >>423
なるほど。面白いというか興味深いですね。 >>425
「古建築入門」によると、宝珠は正しくは如意宝珠(にょいほうじゅ)と呼ばれ
海底に住む竜王の頭から出現した霊妙なものの象形だそうです
宝形造りの方三間堂は、八角堂や六角堂と同じく廟建築から派生して
御影堂や開山堂などに利用され
あるいは常行堂から出発して阿弥陀堂に転化したそうです
特殊な役割を持った堂から本尊を特定しない仏堂として普及したので
外観からはその性格が限定できないようになりました
だそうです
宝形造は使い勝手が良いですね >>426
「古代建築・・」読みました。
宝珠ー竜王の頭から出現した霊妙なものの象形・・・とありますね。
相輪のWIKIでは「相輪最上部の宝珠は舎利容器」と説明がありますが、五重塔基壇したには
舎利容器が確認されているとの事で、なぜ二つの舎利容器があるのかが不思議です。
また、「心柱自体に舎利を収めた」例もあるそうですね。(五重塔はなぜ倒れないか)
宝珠を年始から一寸勉強しようと思います。
今年は本当に良い年でした。 いつの間にか本スレのレス数を超えてましたね。
来年もよろしくお願いいたします。
良いお年を・・・。 >>426
あけおめです。
本年もよろしくお願いいたします。
七草ですが年末年始模型作りはおおさぼりです。
宝珠が気になって検索をしてますが、中々なぞは深いです。
「仏塔」からでは・・世界遺産 マハボディ寺院(大菩提寺) (Mahabodhi Temple)
の画像で頂上に紡錘形の(様な)物が乗っているらしいですが、高さが52mで下からの写真しかなく、
どんな形か不明。 また建造時も紀元前3世紀「らしい」との記述しかなく、宝珠の「原型」かどうかは不明です。
(おなじ敷地内にある小さな仏塔には宝珠がついてますが、制作年代は不明。)
この他の印度、ネパールの古い仏塔(釈迦の舎利保存)の上部には「珠」は見つけられていません。
「舎利容器」からは・・当麻寺・西塔に会ったという舎利容器の上部には紡錘形の宝珠が有りました。
建造は7世紀らしいですので、舎利容器と宝珠の関係はこの時代に、日本にあった事は確実です。
法隆寺・五重塔の基部の舎利容器はその蓋上部の一寸潰れた「珠」があり、さらにもう一つ玉が乗っていたようです。
「火炎宝珠」からは・・
夢殿の宝珠見てみました。 「光芒宝珠」なんですね。
東大寺金銅八角燈籠にも「火炎宝珠」があり、両者を見ると、光芒も火炎もまるで、
「水煙」の形そっくりですね。(東西南北四面に、珠の周りに配置)。
東大寺 ↓(先頭h無しURL)
https://narakanko-enjoy.com/?p=20427
また西大寺には火炎宝珠付きの13世紀製作の仏舎利容器(金銅透彫舎利塔)を見つけました。
「宝珠」そのものからの検索では、色々ありますが、決定的なものは分かりませんでした。
お稲荷さんのマークや、五輪塔の頂上に宝珠ありますね。 年末の闖入者です。今年もよろしくおねがいします。
私は知識ではお二方にとうてい及ばないので、せめてマハボディ寺院の画像をざっと探してみました。下が先端部の最大画像です。
://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Maha_Bodhi_Temple_Bodh_Gaya_India_-_panoramio_%2820%29.jpg/640px-Maha_Bodhi_Temple_Bodh_Gaya_India_-_panoramio_%2820%29.jpg
;ccb=1-5&_nc_sid=cdbe9c&_nc_ohc=jNfiF7UjmXIAX9H4pH2&_nc_ht=scontent-itm1-1.xx&oh=00_AT8dwh77_xXZeHaGTJvo7Ol-GbtNj5Lc3rmUHcKGHMYSqg&oe=61FFC6D3
430のURLはいったん破棄し、以下に貼りなおします。失礼しました。
;;ccb=1-5&_nc_sid=cdbe9c&_nc_ohc=jNfiF7UjmXIAX9H4pH2&_nc_ht=scontent-itm1-1.xx&oh=00_AT8dwh77_xXZeHaGTJvo7Ol-GbtNj5Lc3rmUHcKGHMYSqg&oe=61FFC6D3
>>426
>>430
マハボディ寺院画像有難うございます。
宝珠とは呼べない位の紡錘形状がキツイですね。 ただし、花弁が下部に付いているところは現在の宝珠と似てますね。
宝珠形の元は「蓮の花の蕾」では無いですかね? ・・新説として論文でも書きたいですwww。
宝珠のある舎利容器見つけました。宝珠の形状がそのままです。
三国時代(百済)ー王興寺址出土 ・6世紀
577年・・現存法隆寺の創建とほぼ同年代の物ですね。
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s38.html
また韓国の「仏国寺」の「釈迦塔」(石造)の中に舎利容器があり国宝として博物館にあるそうですが、
画像は確認できませんでした。
もう一つ気になるのが法隆寺に残された百万塔ですね。
これはもう、上部の蓋が相輪と記され、古代仏塔のサンガイから、「九輪」との中間形状ですし、
最上部の宝珠も先が尖がり気味で良い格好ですね。
追記
百万塔・・・現在のヤフオクで90万円で出品されており、過去鑑定団では150万円の根が付けられたらしいです。
レプリカは・・と調べましたら、ありました。
実物より小ぶりで、宝珠も紡錘形がきつ過ぎますが、木製・胡粉塗りで@4,000円・・・思わずお年玉にポチってしまいました。
先生と、430さんに是非プレゼントしたいですが叶いません。
陀羅尼経のレプリカもあるらしいので、良かったら以下のURL参照して下さい。
(参考: https://tsumabikiya.base.shop/items/32278331 ) 432追記
最近IEの調子が変でEDGEへの切り替えを促されますが、まだIEを使っている関係で、
参照WEBがうまく行ってない様です。
最初の舎利容器のWEBは「古代日本と百済の交流 - 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘 -」です。
また、百万塔のレプリカはEDGEでないと旨く見られません。
今後はEDGEで見られる事を確認いたします。済みませんでした。
寺院建築では軒瓦の文様は蓮華文(れんげもん)が基本ですし
相輪のてっぺんには蓮を模した宝珠が君臨していますし
蓮は魔よけの意味でもあるのかと思ってしまいますね
中国や朝鮮では動物が描かれてる瓦当(軒瓦の面の部分のこと)はあるのですが
日本で普及してなかったことを考えると、寺院ではなく宮殿や住宅で使われていたのかもしれません
この瓦当の文様でどこの窯で焼かれたものだとか、朝鮮半島のどこの国からの影響かがわかるので
なかなかおもしろいです
>>432
薬師寺東塔の修理終了記念の本(内容はいまいちです)に
宝珠に蓮弁をつけた写真が載っていたので
蓮であることは間違いないと思います >>430
これが中国に渡って朝鮮半島に渡って日本でよく見る相輪に変化したと思うと感慨深いですね
日本では相輪は基本を忠実に守って受け継がれていったようですが
他国はバリエーションが豊富だったそうです
相輪にも国民性みたいなものがあるのでしょうかね >>432
百万塔は円形の三重塔になっているんですね
その中に経典を入れて奉納したということは
当時の塔の重要さがうかがわれますね
そのうちに仏像の方が重要になり塔はあってもなくても良くなっていったそうですが
「小建築世界」という本に載っているのですが重文の福岡の誓願寺の銭弘俶八万四千塔と
正倉院宝物の「塔なまり(漢字は金に宛に)」、新羅統一の松林寺五重塼(せん)塔の
内陣のようになっている舎利器も見事です 先生、このスレも一年になりました。
なにもお礼が出来ませんが、今日聞いた曲を贈ります。
塔、頑張りますので、今年もよろしくお願いします。
(おじいさんの古時計ー子供の頃からすきですが、この娘の サビの、never to go again
が心地よかったので・・・。 hを先頭に付けてください。 437さんもどうぞ!)
>>438
おっ、一周年なんですね
こちらこそいろいろ勉強になるのでありがたいです
古時計の歌ってアメリカのポピュラーソングだったんですね
英語で聞く古時計の歌もいいものですね
ありがとうございました 宝珠についての記述を探していたら、「古寺細見」(近藤豊)に
水煙は元来火焔を意匠したために昔は火焔といったが、のちに火を嫌って
水煙と呼びかえた、という記述がありました
今更火焔だといわれても水煙にしか見えないので困りますw
>>440
なるほど。火伏せの理屈は解りますし、そういう経緯というだけのことであって、
まあ塔のもの(相輪)についているのは慣習どおり「水煙」でよいと思います。
ただ、宝形造のお堂に載ってる露盤宝珠のビラビラについては、
水煙と火焔と、どうやら明確な区別があるみたいです。
お堂だって燃えたら困るのに、ゲン担ぎは塔だけなんですね。
まあ落雷やら、お堂などよりも、より高い塔のほうか被災しやすいからでしょうけど。
は呼びませんよね。 >>441
宝形造りではなく八角堂(八注造りともいうそうです)になりますが
興福寺北円堂の宝形の火焔はいかにも炎で素晴らしい出来だと思います >>443
興福寺北円堂の火炎宝珠、法隆寺五重塔の水煙と同じく四方に広がる平面鋳造品ですね。
火炎宝珠は鎌倉時代以降では密教系で舎利容器が多く見られるようですし、なんと稲荷神社系でも
神社の屋根に乗っけてる例がありました。
擬宝珠のWIKIの説明も結構面白く、「歴史」の項に・・
「伊勢神宮正殿の高欄に五色の飾り・・」
「敦煌の壁画にそれらしいものがある。」・・・とありました。
ところで、相輪の宝珠の下にある「竜車」も不思議なものですね。調べてもほとんどその意味が不明です。
百万塔レプリカ来ました。 説明通りの綺麗な胡粉塗りで良い品です。
法隆寺金堂、五重塔の裳階屋根に貼胡粉が塗られていたそうですが、丁寧に塗られていれば
現代の白ペンキより綺麗だったと想像できます。
(陀羅尼経の画像をネットから拾い、中に納めました。) >>444
薬師寺東塔の新調した竜車には宝珠と同じく蓮弁がついているので
蓮が二つ付いているということになると思います
蓮が一つの塔よりも二つのほうが格が高いということになるかは分かりませんが
なぜ竜の車なのかは分かりませんが竜舎とも書くようですね
火事から守ってもらうために水の象徴の竜の家みたいな感じなのでしょうか
胡粉塗りの百万塔はきれいでしょうねえ
創建時の五重塔を見てみたいものですね
裳階の屋根と調和した色合いだったことでしょう 竜舎が本来の字義でしょうかね。
方形だったり円筒形だったりもあるみたいです。
法隆寺五重塔の模型作りさぼりにサボッテおり、申し訳なし。
年初より野暮用に煩わされておりまして・・・。
今日までで、相輪の仮塗装と、三層以上の風鐸設置までです。
相輪水煙にも四つの風鐸が有りますが、各層軒の風鐸と同じものを想定していましたが、
画像の再確認から大分のようでのようなので、新規製作が必要と分かりました。
実物では高さ30cmくらいと思われます。
また、屋根風鐸の大きさは推測でつくり、高さ4〜5mm,実物換算では60〜75cmです。
やっと見つけ資料は↓ですが、説明文の「寸法」がさっぱり分かりませんでした。
「長辺」も分かりませんが、高さとして163mmはどお考えても変です。
奈良県立図書の資料の様ですが、資料の質が低いと思いました。 URL先頭hを省いてます。
http://opacsvr01.library.pref.nara.jp/custom/htmls/pages/normal/T-04-14.html >>447
落下した舌のサイズは結構な大きさなので
風鐸もそれなりの大きさであるはずですし
貼っていただいた奈良県立図書館の風鐸のサイズは
どうやら写真のサイズではないでしょうか
他の画像も同じようなサイズになっているので
まあ写真のサイズなんて必要なのかという話ですが >>448
ですよねーー。
舌に三つ穴が開いてるので軒の風鐸の画像だと判断できますが、16センチはおかしいです。
相輪−水煙の風鐸悩んだ末、模型に入ってる軒ー風鐸部品を使うこととし、糸を接着して乾燥ちゅう。
建築に関するお話が出来ず申し訳ありませんが一点・・・。
古代史が好きで関連本を何冊か読んでますが・・・、仏教伝来前の神社建築について教えて頂けませんか?
まず、神社建築で日本で一番古い物はどこで、どのような形式だったんでしょう?
仏教と共に建築技術も伝わって来たとすると、神社建築もそれ以降となるでしょうし、法隆寺より古い木造神社建築は無いとは思われますが・・・。
一番古い神社を調べましたら、奈良の大神神社と推定されており崇神天皇(紀元前)の時代・・・とあります。
画像を見ますと、茅葺の屋根ですが斗栱・隅木があります。 >>449
神社建築の本殿で仏教伝来前の古い形式のものは
住吉造り、大社(おおやしろ・たいしゃ)造り、神明造りです
これらは、弥生時代の高床式の倉(掘立柱の上に箱を乗せたもの)の様式で
日本独自の建物です
そのため神社は床が高くなっており、それで寺院と神社を見分けられます
どれが一番古いのかはちょっとわかりませんが
住吉造りは大嘗会(天皇が即位の後に神様と食事をする儀式)のための仮説の建物を
受け継いだもので、神明造は校倉の転用だそうです
大社造りの一番古いとされているのは神魂(かもす)神社で1583年再建で
神明造は仁科神明宮(長野)で1636年です 続き
大神神社には本殿はなく、拝殿というのは平安時代に仏教の影響で作られたものなので
古い形式というのはないのではないかと思います
>>451
神明造・・見てみました。
伊勢神宮に見られる様な形で、日本古来の物なんですね。いたって簡単な構造で装飾のようそが多いですね。
「組物」は重量屋根を支えたり、複層(重層)の荷重を耐えるために出来たものですよね。
二階建ての神社を探しましたら「富士山本宮浅間大社 本殿」が見つかりました。
神明造+組み物+懸魚・・・でお寺みたいな神社でした。
また、奈良県桜井市にある「談山神社」は7世紀ころ「十三重塔」からお寺として始まったみたいですが、今は神社です。
五重塔彩色してみましたので掲げます。 水煙懸架の風鐸はまだですが・・。
あそこは「センゲン神社」と音読みで明治以前はほぼ寺だった名残
基本神社は訓読み
宇佐ハチマンも同じ
アサマ と ヤハタ が本来の読み方
>>452
やっぱり本物みたいですねえ
それっぽいところに置いた写真を見せたら本物だと思われそうですw
浅間神社本殿はその名も浅間造りという名称で
二階部分は富士山を遥拝するためという見方があるようです
二階部分は流れ造りという向拝方向に屋根が長く出ている造りで
本殿によく使われています
これは屋根が曲線なので仏教建築の影響を受けています
談山神社はお寺だったんですね
談山寺と言い間違えることが多いのですが語呂がお寺の時の方がいいのかもしれませんw >>453
そういう決まりがあるんですね
大社造りはおおやしろづくりが本当の読み方と本に書いてあったのは
そういうことなんですね >>452
天然光のもとで撮影したらもっとリアルかと >>454
いつも過分のお言葉ありがとうござます。
「模型とは本物に近づける物」ですので注力が報われる様でうれしい限りです。
金堂・五重塔の「模型」についてまとめてみようと思い資料を探して居ましたら、したの
中川詠子氏の論文に出会いました。 近畿能開大学の先生らしいです。
法隆寺金堂・五重塔の模型を授業で製作されたようで、すんごい成果物&文章なので
読んでみて下さい。
検索ワード=「古建築の構造模型の製作と構造技術の理解 〜法隆寺金堂」
PDFマーク付きです。 途中割り込みで寸ません
何処かの有名寺院の境内にある五重塔なんですが
建築物にしては小さいし模型にしては大きいのがあるのです
それは軒の高さが子供の背丈程度で人が入って宗教行事をするには窮屈そうでした。
仏像を安置するだけなら十分かも知れませんが、これは実用建築物なのか模型なのかよく分かりません。
ストゥーパが元なのは知っていますが、礼拝と建立目的上は大きさは関係無いのでしょうか
ご教授下さい。
>>458
建築には詳しくありませんが、興味ありますね。
画像やその他の情報とかお教えください。 所在地、県名とか・・ >>458
行ったことがないのでサイズ感は分かりませんが、とても小さい五重塔といえば室生寺ですかね
塔は中に入って何かをするという性格のものではないので小さくても問題ないかと思います
五重塔は法隆寺のころは金堂と同等以上の扱いだったようですが
室生寺のころには重要度が低くなっていたと思われます
元興寺や海龍王寺には古式を良く残した五重塔の模型がありますし
瓦塔(がとう)という塔の形の焼き物も作られていたので
五重塔は外から拝むものなのだと思います >>460
>>458
室生寺五重塔見てみました。 日本で一番小さい五重の塔だそうですから、これでしょね。
1998年台風で大損壊、そのご修復されたようですね。
高さ16メートルちいさいですね! でも初層軒高さは2メートルはありそうですが・・。
で2010年 平城遷都1300年を記念して、「改修時発見された」五智如来が公開され、初層扉も開けて公開した様です。
↓ 先頭h無し
http://www1.kcn.ne.jp/~ongaku_m/tourist/rediscover7.html
心柱も立派で法隆寺五重塔の次に古い塔らしいですね。
立派な塔なのに、なぜ小さいんでしょうね?
金堂(本堂)以前に建てられたものなので、開山の時のなにかの事情でしょうか?
屋根も瓦ではなく、板です。 予算かなー? 山の斜面で広い土地もなさそうです。 >>455
そうそう
出雲大社も正式にはいずものおおやしろ
でも実は出雲大社と名乗るようになったのはごく最近で古来からの正式名称は1000年間以上 杵築神社 きづきのかみやしろ 458です、そうです、室生寺のやつでした。
解説ありがとうございます。あの中に人が入るのではなくて、あれ自体を拝むものなのですね。
元々がストゥーパなので納得出来ます。
海老名のイオンショッピングモールの中庭にもありました。あれはイミテの塔?。
中途半端な大きさの五重塔ならぬ七重塔でした。調べたら、あれは模型の部類らしいです。
昔あった相模国分寺のを1/7にしてショッピングモール開設記念に作ったと言います。
まだ東部ワルドスクエアーのやつが潔いでしょう。
>>461
仏教寺院は当初は平地伽藍と呼ばれ街中(?)にあったのですが
奈良時代も終盤になってくると密教系の影響で山地に進出しだします
これを山地伽藍とか山岳伽藍と呼ぶのですが、室生寺はこれに当たります
といっても、室生寺は密教系ではなく興福寺の別院としての創立ですが
しかし山地にあるので山地伽藍の特徴を備えた寺院になっています
山地伽藍の特徴は
周囲の自然環境を生かして堂塔の配置に決まりはなく、屋根も瓦よりも
自然素材(室生寺五重塔と金堂は檜皮葺)が好まれます
色も彩色せずに素木造りになる場合が多いです 続き
室生寺五重塔が小さい理由は、別院ということや場所の問題だったのかは
よく分かりませんが、斗栱が二手先だったり屋根が丁寧に作りこまれているので
経済的な問題ではないと思います
軒も二軒で地円飛角(じえんひかく)になっていますし
地円飛角というのは法隆寺金堂や五重塔には見られませんが
古い様式の一つです
地垂木が丸材で飛えん垂木(軒を伸ばすために地垂木の上につけられる垂木)が角材になっています
室生寺五重塔以降の遺構は地垂木も角材になっているので最後の地円飛角と呼ばれています
ちょっと寂しいですね
>>462
神社も「かみやしろ」なんですね
では神宮も「かみのみや」になるのでしょうか
それとも「じんぐう」読みに引っ張られて「じんじゃ」になってしまったのでしょうか >>463
全国の国分寺は七重塔だったようで、しっかりと監修された復元模型は
結構作られているように思われますが、これはちょっと違いますねw
市制50周年の年は五重塔になり100周年になると十重塔になるというと面白い塔ですが
一番大きな復元模型は大阪万博で造られたようで、
その時の巨大な相輪が東大寺に展示されています
国分寺の総本山の東大寺は100m超えの巨大な七重塔が二基建っていたとされていますが
発掘調査をした結果、基壇が思いのほか小さくて、とても100mを超えるような塔は無理ということになり
関係者たちが困っている様子をNHKの番組で見たことがあります >>465
これは創建時を復原した模型でしょうか
基壇が黒くないのは公式見解なのか気になりますね 書き忘れていましたが、室生寺五重塔の相輪は宝珠と竜車ではなく
宝瓶(ほうべい)と宝蓋(ほうがい)が用いられています
が、これは後補で創建時はどうだったかは分からないそうです
日本では他に例がないですが、中国や半島には多いようです
>>466
室生寺、五重塔・・密教系なんですね。なるほど山の中ですものね。
「二軒で地円飛角」も初めてみました。 丸材を垂木にするなんて面倒でしょうに!
七重塔・・・すごい物ですね。 もはや美しさより「どーだ」感が感じられます。
>>472
日本の垂木は角材にしてから丸くしています
中国と半島は丸木を持ってきてそのまま並べているようです
どっちも違う方向で非常に手間がかかっています
この違いは垂木の並べ方にあるようです
日本は平行垂木が多く中国と半島は扇垂木です
東大寺などの国分寺は国が造営した寺なので
国が威信をかけて建てたんでしょうねえ・・・
国分寺が廃れていったとはいえ現存していないところを見ると
あまり頑丈ではなかったのかもしれません >>473
五重塔ほとんど進んでなく、申し訳なし。
角材を作ってから丸材ですかー。大変ですね。丸材と角材とを組むのも大変そうですね。
ところで、大きな神社などで、手斧初め式てありますよね。
お寺さんではやらないんでしょうか?一寸調べたら金剛組では自社内でやっているようですが・・。
そして2019年時点で宮大工は、兼業含め1000人、専業では300人程・という記事を見つけました。
またこの記事では、「宮大工が継承してきた伝統工匠がユネスコ無形文化遺産へ登録が進んでいます。」も
有りました。
佐渡金山より重要だと思います。
ドイツと日本の大工さんが技を競うテレビ番組を大分前見たこと有りますが、木組み
技術だけでも十分誇れるとも思います。
無形文化財に登録申請するのには「宮大工」を如何訳すんでしょうか? ままではお寺さんがかわいそうな気もします。
宮大工の呼称をどう思ってるのか、「宮大工さん」に聞いてみたいです。 >>474
寺院も起工式や上棟式はあるようです
西岡棟梁の「木に学べ」によりますと
神式と仏式の両方をやって、白装束の宮大工が仕切って行うそうです
新築の場合は地曳きから建前などの式もあります
建前の時はカンナで部材を清めあげる儀式があるそうです >>なるほど、大工さんも大変ですね。
寺院建築は大阪の四天王寺が一番古いそうですね?
大陸から建築技術が渡来し、一気に高度な建築物が出来ちゃったようですね。
そこで、神社建築がそれまでの形から寺院建築にどのように移行していったか・・が興味沸きます。
やはり突如組物・瓦の寺院ふうの神社が出来たんでしょうか?
昨日ニコニコ動画の「ニコ美」で奈良博物館開催の「お水取り展」を見ました。 (なんかお水取りは気になってましたので)
二月堂で修二会が開始される前日(2月28日…昨日)に神道の「お祓い」をするんだそうです。
修二会の始まった752年(天平14年)当時は神仏習合だったらしく、東大寺も神様を大事にしてたらしいです。
修二会勤行中には「神名帳」なる神様の名前が書いて在るのを読み上げるんだそうです。
日本史は詳しく無いので、大化の改新あたりは良く分かりませんが、そのころの神社建築の
変容・・・なんて研究が有ったら読みたいです。
また今日から2週間、毎晩7時から有名な「お松明」がニコ動で見られるらしいです。
さっき見に行ったらもう終わってました。 写真なんかだと深夜に1〜2時間くらいやるんだと思ってましたが、意外に早い時間で、短時間で終わる物の様です。
(ニコニコ動画無料ですので、よろしかったら。)
>>476
「古寺再現」(藤島亥治郎著)によりますと
四天王寺は日本で一番古い伽藍の一つだそうです
古いといっても全部焼失したことが少なくとも7回もあって
近世以前の建物は残っていません
昭和4年の室戸台風で仁王門とともに倒壊した五重塔は文化年間に再建されたもので
ずんぐりした大きな塔で普段は開放して五重目まで登れるようにしていたようです
そのために台風の強風で倒れたのではないかとされています
現在は鉄筋鉄骨コンクリートの伽藍に再建されていますが
これは建築基準法で木造が無理だったのと、寺側が木造を嫌がったためだそうです
二月堂のお松明を昨日やっと見られました
二月堂に火がつかないかとヒヤヒヤしてしまいますね
12日にお水取りがあるようです
閼伽井屋(あかいや)の板蟇股(いたかえるまた)の写真です
閼伽井屋前の説明板
二月堂の隣には三月堂(法華堂)があり、こちらは半分だけ奈良時代の建築になっています 四天王寺古いよね
あと善光寺も凄いよな 仏教が数多の宗派に別れる前からの寺
また五重塔で申し訳ない。
震災の話題に乗る様で恐縮だが、五重塔耐震構造云々が良く言われる。
実は私は震災当時、日野の高幡不動に参詣していた。
あそこの五重塔が各層、互い違いにスライドする様に揺れていたのを覚えている。
伝統的に木造で作られたものはその様に揺れて減震する作りなのは知っていた。
しかし、そこの五重塔は戦後昭和の鉄筋コンクリートの筈。
基礎から天辺まで鉄筋で通して造ってあるのだが、それがその様に揺れるのが不思議。
鉄筋でがっしり通して造ってあるのならそんな揺れ方はしないと思うのですが。。。
>>476
日本に仏教が伝来したころに、寺院を建立するための人も
日本に渡ってきたそうなのでその人たちが指導して造ったのだと思われます
新しい技術に日本の大工さんたちも驚いたことでしょう >>478
日本に伝来したころに仏教と現在の仏教は
仏教建築みたいにいろいろ違っているんでしょうかね >>479
すごい体験ですね
西岡棟梁も慌てて観察したそうですし
画像を見ると木造建築にしか見えないくらい精巧に作られてますね
実際に建てた桜建設という会社のサイトによると
実際の古代の五重塔と同じ構造になるように作られているようです
そのために同じ揺れが起こったのだと思います
素晴らしい技術ですね >>479 です。ありがとうございます。
わざわざ調べて下さって。なるほど、実際の古代の五重塔と同じ構造に作ったのですね。
長年の疑問が解けました。
実は塔頂の水煙部が落ちてすごい音がしました。
その時は護摩堂に居たのですが、軒に吊してある風鐸が落ちたのかと思いました。
幸い落ちてきた時に人に当たったり護摩堂に当たったりの被害はありませんでした。
これも御仏のご加護でしょう。
今日、震災時刻に参拝をしてまいりました。(合掌) すみませんスレ違いかもしれないのですが質問よろしいでしょうか?相輪橖の所在地についてなのですが…
相輪橖は全国で8基現存しているそうなのですが、@比叡山延暦寺A日光輪王寺B茨城県西蓮寺C徳島県太龍寺D太宰府とスマホで調べてこれだけ分かったのですが、残りの3基は何処にあるのでしょうか?ご存知の方がいらっしゃったら教えていただけませんか?
>>483
事故がなくてよかったです
古来、五重塔の被害というのは相輪が折れたり傾いたりするくらいなようなので
金属の相輪が一番脆いのかもしれません >>485
仏教堂塔事典(前 久夫著)には主な遺構として
7基挙げられていて、四天王寺と身延山にもあるようです
四天王寺のものは江戸時代で身延山は?マークになっています
身延町のサイトを見ますと、近代以降に作られたものも含めると17基あるとなっていて
数が増えてしまいますね >>485
検索したら群馬県藤岡市の浄法寺にもあるようです 485です、すみません番号をふったのですが?マークになってしまっていました。
487さんありがとうございます!四天王寺 相輪橖と検索しましたら写真出ました、身延山 相輪橖もサイトを見つけることが出来ました!教えていただきありがとうございます。
485です、488さんありがとうございます!重要文化財のサイトで検索もしてみたのですが、国指定だったようでだいぶ狭い検索をしてしまっていたようです。検索して下さりありがとうございます。藤岡市のサイトで相輪橖確認出来ました!これで現存しているという8基全てを確認出来ました、書き込んでくださった方々ご協力ありがとうございましたm(_ _)m
>>485
>>488
相輪橖…初めてみました。 相輪のみが立ってるんですね!?
丸太のみの仏塔もあったらしいですが、随分と豪華ですねー。
中に心柱は有るんでしょうか?
オリジン好きの性癖と共に日本の古代史本を数冊読んでますが、日本史をまともに理解してません。
法隆寺の模型を作りつつ日本の寺院建築や神社建築の原初も知りたいのですが、先ずは知識の断片を紙にかいて
整理を始めました。
時間的にみると日本の建築史ではBC2000年の高床式倉庫が木造では一番古そうですね。
それからAC300年代に出雲大社ですか・・・。
BC370年に高句麗に仏教伝来・・・で593年頃四天王寺ですね。
出雲大社の建築様式は気になります。この頃(大和朝廷時代)の建築はどんなものだったのでしょう?
あと、読んだ本でおもしろかったのは、「飛鳥寺の日本書紀の記述は・・刹塔を立てた」です。
四天王寺も中門を入ると正面が塔のようで、やはり仏塔が寺院では重要なんですね。
模型の五重塔は中断中です。ご寛恕ください。 >>492
多重塔や多宝塔から屋根と軸部を取り除いたものということと
高い位置にあげる必要もないので心柱を必要としてないんじゃないでしょうか
「仏教堂塔事典」によりますと
古くは蘇我馬子が大野丘に建てた塔というのも
切り倒して焼いたそうなのでこれだったのではないかということです >>492
仏教建築伝来以前の日本の建物は掘立柱です
ただ掘立柱だけだと柱が沈み込んでしまうので
掘立柱の下の地中に礎板という板を入れて対策をしていました
仏教建築とともに礎石も入ってきたのですが
その後も重要ではない建物は掘立柱で建てられていました
掘立柱の利点は礎石の上に建てる柱と違い、柱だけで直立できることなので
斗組のような柱同士を連結させる仕組みは必要がなく
古来の神社建築のような単純な建物で済みます >>494
掘立て小屋と言えば聞こえが悪いですが、掘立て柱の歴史はふるいんですね。
日本の木造建築の源流は「三内丸山遺跡」(〜BC40C)でしょうか?
掘立柱建物として高床式建物、六本柱建物が復元されてますね。高床式では正倉院の壁構造の様な木組みになったました。
また、その後の「吉野ヶ里遺跡」(〜BC4C)の復元された物見やぐらでは「柱の通し貫き構造」が見られます。
そこで木組み技術の歴史は・・と見つけたのが↓です。 BC70Cで中国ではもうこんな技術が有ったんですね!すごいです。
日本のBC40Cでも大陸との交流があったのでしょうね。 (先頭のhは割愛)
https://songye.exblog.jp/27423834/
出雲大社、大和三輪神社・・・あたりも検索してみましたが、古墳時代・大和王権時代はほとんど分かった居ない事が分かりました。ww
纏向遺跡の発掘で、日本の建築技術研究が進んでいるようですが・・↓、これからですね。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/12610
ちなみに山内丸山のアレは6つの穴からあれこれ想像した5つだかの候補から選んだモノを建ててみただけ
実際はどんなんだったのかは永遠の謎
この事情を知ってればあんなもの作るべきじゃなかった
奈良の佐味田古墳出土の家屋文鏡に描かれている4棟の家屋が4世紀前半くらいの
豪族の建物とみられているようですね
竪穴式住居のような建物も描かれていますが
竪穴式住居は中国や半島にもあり、それぞれ風土に根差した発展がされたようです
校倉造りは世界各地で見られるメジャーな工法のようですが
日本が他と違うのは高床式になっていることだそうです
これも風土に根差してそうなったといったとこでしょうか
>>496
出土品にこういう絵が描かれていたというわけではないんですね
他の復元建物は建物としてのクオリティが高いのに
このなぞの建造物だけ時代が違う感じですね >>499
家屋文鏡・・・4Cですか・・・。
確かに柱は認められますが、縄文時代から2000年以上も経過していることを考えると、
あまり建築技術は発展しなかったんでしょうか?
竪穴住居もまだ有ったとは・・・にわかには信じられませんねー。
(家形埴輪の検索から↓の5C頃の 埴輪工房の復元家屋を見つけました。 家形埴輪と上記の家屋文様は似てますね)
https://intojapanwaraku.com/culture/161903/
同時代の創建と言われている出雲大社、大和三輪神社とこの「家屋」との乖離は一体何なのでしょう?
>>501
奈良・平安時代までは農民は竪穴式住居に住んでいたようですよ
住んだことはありませんが、住み心地はそれなりによかったのかもしれないです
当時は大工道具も種類が少なく発達してなかったので
現在出雲大社でみられるような洗練された本殿ではなく
もっと素朴なものだったのではないでしょうか
大和三輪神社は大神神社のことでしょうか
当時の大神神社は建物自体がなかったと思われます
神社に建物を常設するという発想自体が仏教寺院の影響を受けたといわれています 相輪橖に似た(?)ものとして傘堂がありますね
一本の柱の上に屋根が載ってるお堂です
本柱一本では心細いのか一本だけ控え柱というか補助してる柱が入ってはいますが
YouTubeに奈良文化財研究所の「なぶんけんチャンネル」があるのですが
最近アップされた「第13回東京講演会」のシリーズが面白いですよ
山田寺がテーマで寺院建築の東アジアとの関係とか瓦とか分かりやすく説明してくれています
>>502
竪穴式住居は平安時代までですか! なんか雨仕舞が悪そうですけど、何か工夫が有ったのでしょうね。
大工道具ですが、手元のカラーブックス「古墳」では・・・
百舌鳥大塚山(古墳)で鍛冶道具の 鉗(かなはし)、鋸、斧、手斧が出土しているようです。
大和三輪神社は大神神社とも言われてるようです。
3月29日にまーたBBX頂いてまして、出禁でした。 (´;ω;`)ウッ… >>503
傘堂 見てみました。 なんとまあ不思議な形ですね。
奈良県の物しか探せませんでしたが、17Cの物の様ですね。
江戸時代のなぜこんな物を、不思議ですね。
画像検索dうぁ、タイにもあるようですね。 建設時代は分かりませんが・・。
「カラタゥンの傘堂」で検索してみて下さい。 屋根がまた不思議な形で、これもおもしろいです。
もう先頭hハズシのURL添付も、怖くて貼れませんので、御免ください。 >>505
壁のようなものができていたりして形は進化していたようです
半島からの渡来人の集落跡ではオンドルの形跡が発見されているそうです >>506
カラタゥンの傘堂は初めて見ましたが面白いですね
日本のお城みたいなものが屋根に載っていると思いきや
登れるところまではとても簡素なので
屋根の部分も軽い材料でできているのでしょうか >>508
ご無沙汰です。
「なぶんけんチャンネル」、山田寺・・見ました。
しっかり仕事されてるのが分かります。
山田寺の連子窓が発掘されたのですね! すごいですね。
それとやっぱり現存する法隆寺ー金堂・五十の塔のすごさを改めて知らされます。
古墳時代の住居、居館の木製遺物の発掘があると良いのですが、中々無いのでしょうね。 模型全然進捗有りませんが、金堂も一年以上経過し、ホコリがひどいのでケースを新調したので
記念写真を撮りました。
狭い居間の片隅、いつもの汚い画像で申し訳なし。
作品(?)の置き場所を設えたので過去の物も合せてお目汚しまで・・。
@法隆寺 金堂 1/150 内陣に壁画・仏様安置
A法隆寺 五重塔 1/150 内陣に壁画・塑像安置、相輪全再現 (ベース未)
B招き猫 胡粉塗り原型を購入、彩色 (後ろはネット購入の骨とう品)
Cイチロー紙人形 7年前製作タテバンコ風
D豊田章男社長ラリーデビュー(2012)記念 自働車模型 (タミヤ製1/24模型に社長ーモリゾウ人形制作し搭載)
E昨年金堂を野外撮影した際の 五重塔
書斎が欲しいです。 >>508
五重塔のベースも完成してませんが、1/150の金堂・五重塔のプラモメーカーには同縮尺の
法隆寺・夢殿がありました。
夢殿は製作する積りは無かったのですが、一寸調べている内に↓のすごい模型を発見してしまいました。
1/20スケールでとても精工な模型で、闘争心が湧いちゃいました。
内陣には救世観音像もあり、宝珠もすごいので作り甲斐がありそうなので、トライしてみます。
お時間在りましたら・・YouTube で 「木製模型 法隆寺 東院 夢殿」で検索してみて下さい。
ただメーカーでは絶版らしく、あまで6000円、楽天で10000円・・・安いの探します。
・・・と思ってましたが、ヤフオクで3500円(定価より高い)でゲットしました。 >>509
山田寺で出土した土砂が流入して倒壊した東回廊の一部は
法隆寺より50年以上前のものだそうです
山田寺跡に行ったことがあるのですが、畑に囲まれたのどかなところで
土砂が流入するような山もなく不思議な感じがします
現代に至るまでに全部流入しちゃったと言うことなのでしょうかねえ >>510
ケースに入れてもらって大事に扱われて
金堂も五重塔も喜んでいるんじゃないでしょうか
本物の方もこうやって大事にされながら現存しているんですね
自動車にイチローに招き猫に仏堂に五重塔が並んでいるさまは壮観です
見る人は飽きずに見ていられるんじゃないでしょうか >>511
夢殿は東院伽藍の本堂です
じつは鎌倉時代に大改造を受けていて創建時の姿ではありません
しかし創建時の模型を見るとちょっと簡素というか素直な感じなので
今ほどのカリスマ性は放ってなかったと思われます
模型の完成が楽しみです >>514
本堂なんですか、すごいんですね。
このあたりの模型は金堂・五重塔・夢殿は必ずラインアップされてますね。
夢殿検索してて、鎌倉時代に大幅に変更された図面(比較断面図)みました。
また野小屋追加したんですね。
ところで、いくら探しても建物の大きさ(寸法)が分かりませんでした。
資料お持ちでしたらお教えください。
断面図は見つけましたので、基壇寸法だけでも、在りましたらお願いします。
スケールモデルは、まずは寸法・形状が分らないと先に進めませんので。 >>515
夢殿は一般的に有名で人気のある建物ですがそのわりに
専門家の方にはあまり人気がないようであまり詳しい記述がみられません
基壇は当初は一重の基壇でしたが、のちに現在に見られる二重基壇に改造されたそうです
基壇のサイズは最大径は11.3mです
建物自体の一辺は5mで、他の寸法は見つかりませんでしたが
野屋根によって屋根が2m高くなり軒は80センチほど深くなったようです
参考になればいいのですが
柱は内転びで八角柱です
ちなみに八角堂の柱は八角柱で六角堂の柱は六角柱です 本に載っている図を測ってみたところ
11.3mは基壇ではなく建物の最大径だと思うのですが
本には基壇の最大径だと書かれています
上層基壇の端と建物の距離は5mの三分の一くらいです
それだと狭いような気もしますが、もともとは一軒(現在は飛えん垂木がついて二軒)で
軒の出が少なかったのでそんなものかもしれません
明日図書館に行く用事があるので、ちょっと見てきますね
市のセンターに併設された図書館ですが寺院関係の図鑑があると思います
>>518
ご面倒掛けます!
八面の側壁の横幅はお教えくださった寸法より現物が小さかったので、当方も調べてみました。
奈良県見県庁の文化財保護課に問い合わせましたら、色々ありましたが、資料のデータをメールで送ってくれる事になりました。
電話口で先ず、上記の幅を教えてもらったところ「柱中心幅で15.403尺(455.7cm)」であることが分かり現物とは10センチ程度の誤差です。
わざわざ図書館にまで・・申し訳ありません。
資料名は「國寶建造物法隆寺夢殿及東院廻廊修理工事報告 」 昭和14年の修理の報告書らしいです。
(法隆寺国宝保存工事報告書の第9冊め?)
(国会図書館ではWEB公開はしてませんでした。”CiNii 国立情報学研究所 学術情報ナビゲータ”のサイトで書名を入れると
所蔵の機関の一覧が見られる様です。 これで見るとこの書籍を所蔵してるのは上記保護課の他、奈良文化財研究所、奈良県立図書情報館等23ケ所でした)
>>519
昭和に解体修理をしただけに寸法のわかる資料があるんですね
小さな図書館なのでさすがに工事報告書は置いてませんが
とりあえずどんな説明がされているか見てきますね
送られてくる資料データが楽しみですね >>520
資料送られてきました。
第6図 平面図
7図 立面図
8図 断面図
11図 隅行詳細図
12図 斗栱詳細図
13図 軒規(矢巨)図
第7図以降はスケール(尺)が記入されてます。
第7,8図ネットで見られる画像とおそらく一緒です。 模型屋さんもこの資料を入手して製作してるものと思われます。
ただし、スケールは小さくて読みづらく、印刷しても読み取り精度は高くなりませんでした。
電話口のオネイサンの「15.403尺」は読み取れませんでした。ww
各部の寸法をチェックして行こうと思います。
第11図以降は私には宝の持ち腐れで、申し訳ないです。 せっかくの花金の午後の時間を浪費させてしまいました。
先生にも何とかにもPDFお送りしたいですね。 こういう時にはツイッターなんかが便利そうですが、やってませんし・・・・。 >>521
無事に資料が来たんですね
古い報告書なので字が潰れてしまっているのは残念です
そのせいで詳細が出てないのかもしれないですね
さすがにそんなことはないと思いますがw
どの本に書いてあったのか分からないのですが
自分で書いたメモだと基壇の一辺が5mとなっていました
でも手元の本の平面図を見ると5m以上になるという謎現象が起きています
図書館には「日本の名建築写真選集 法隆寺」という大型本で
法隆寺の建築物についての本がありました
やはり西院伽藍がメインで、夢殿の写真は3枚ほど
内部の写真も一枚ありました
差し渡し径は天平尺38尺(11.266m)だそうです
天平尺は1尺が29.6mです
尺にも高麗尺、唐尺などの種類があり、物差しを作る人によって
結構バラバラなことがあるようです >>522
差し渡し径38尺は基壇です
言葉足らずでした >>521
基壇の上部側面の一辺は、貰った資料からの推算だと〜6.6メートル位だと思われます。
内部の写真いいですね。 文章の説明でも結構なので、お教えください。
内部の情報も殆どネットには上がってませんね。
>>524
凄い資料ですね。
丹念に調べればある物なんですね!
しかし英語とは・・・・。なぜ国民には知らせてくれないんでしょう? 外人の方が良くし知ってる何て・・・。
左上の図は四半敷の床のパターン図でしょうか?
今日は最初に紹介した1/20の模型の動画と図から、基壇上は更に二段の段がある様なので八角の部品を二つ作り始めました。
断面図を見るとドーム状の構造物が中央にあり、上部から心柱が宝珠に向かって立ってますね。
心柱も一本物出もなさそうで、上部は継いである様ですが、ドームとの接合は、この断面図だとどんな構造なのかは
分りません。
不思議な構造ですね。この辺は内陣の様子どころか画像は先ずなさそうですし、お先真っ暗です。 >>525
入側柱(内陣柱)も八角柱で地垂木はまだ朱色が残っていました
地垂木の上に張られている板は白く塗られています
入側柱も側柱(外側の柱のこと)と同じ8本で
上に掛けられたドーム状のものに張られた板も白く塗られていました
板は横向きで少なくとも8枚見えました
入側柱と側柱の距離は1,6mと書かれている本がありました
連子窓は裏側に扉が付いています
これは他でも見られるので一般的な装置だと思いますが
扉が全部閉じられていたので、どのような装置になっているのかよくわかりませんでした >>526
入側柱の外側にも何やら段があるんですね
その段から外側が通路ということで1,6mということかもしれません 「法隆寺」(浅野清 著)には
内部は凝灰岩の二重の仏壇があり
二重目の壇が内陣一杯を占め、その外を囲って八本の八角柱が立っていると書かれています
内陣(身舎)には八角形の円蓋形の天井がつくられていて、仏壇の中央には
漆塗八角の厨子が置かれています
これは夢殿の修理が完成した昭和15年に、元禄に改装された不調和な厨子に変えて
新調したものだそうです
>>525
床のパターンは恐らく図の通りになっていると思われます >>529
有難うございます。 金堂、五重塔の同様に四半敷貼り込みます。
側柱+ドームの構造も何となく分かり、救世観音像の厨子の形も画像で見つけましたので、
何とかなりそうです。 心柱は先端の宝珠部分まで有りそうですね。
内陣の中の像も一杯あるらしく、賑やかになりそうで楽しみです。
宝珠周りの「光芒、光明」はどーした者か困ってましたが、↓の模型屋さんで過去販売されているのを発見。
問い合わせたところ、再販の予定があるとの事(〜半年)でした。
寸法チェックしたところ、1/150で高さ10mm程度でほぼ正確で、形状も実物に限りなく近く、すごい物です。
見てみて下さい。
検索ワード=「石屋 エッチング 商品概要」
一番最初の「商品一覧」・・・の下方に画像あります。 >>529
以前スパイカメラで金堂の内陣を撮りたいと思い失敗しましたが、
今回「大人の科学ー2013年、付録=USB特撮カメラ」を購入し再度トライ。
結構接写がきいてよいのですが、カメラが大きく内陣内部までは入れられませんでした。
何とか画像撮影・保存まで出来ましたので、スンゴイ汚い画像ですがあげてみます。
法隆寺金堂が夜間ライトアップされていた・・がありましたが、その疑似体験をちょっとだけ出来た感じ・・だと良いんですが。
夢殿は基壇の途中です。 >>530
宝珠は芸術的ですが、作るのは大変そうですね
精巧なものが売っていてよかったです
しかも大きさもそれ用に作られているのでピッタリそうですね
>>531
金堂、本物みたいですね
本物と違ってガラス板も入ってないので、本物よりもリアルだと思います >>532
石屋産のエッチングはすごいです。 530のWEBの「組立説明書」では
夢殿の修理報告書にも言及しており、更に光明の配置まで考察してますね。
USBカメラで金堂・五重塔・夢殿の内陣画像をまた(今度は綺麗に)撮りたいと思います。
夢殿の入側柱(八角形)を製作してますがどーも旨く行かず苦戦中です。 二面幅2.5mmの八角形は難しいです。
建物自体の八角形も、矩形に比べれば余程難しかったと思われます。
基壇上の2段の八角形も、COS62.5度なんぞが出て来て往生しました。
数字はともかく部材の加工も八角形は難しい! 八角柱って難しいんですね
八角堂は現存数も少ないですし、実際にもあまり建てられなかったのかもしれないですね
>>534
今日は夢殿の入側柱8本に白壁を取り付け基壇上で組付けてみました(画像略)。
柱自体八角には見えず、上部に白壁(プラバン)を貼り付けるも、垂直・上面からの八角も
全然マトモでなく、しばし沈吟。どーした者か思案中。
連子窓も今回はΦ0.5の真鍮線で密に組み入れようと試作しましたが、やはり「密」は難しく、
何やら鉄格子の様に見え、監獄の様になってしまうので中止。(真鍮線20本も買ってしまい・・・しばし沈吟)
相変わらず夢殿の内部の様子の画像が一枚しか見当たらなくて困ってます。
それに救世観音像のお身高さがほぼ等身大らしく(1.2センチ 1/150)御厨子は大きそうですが、
見栄えがしなさそうで、これも心配。
「金堂の釈迦三尊は大きかったんだなー」としきりに感心してます。
この救世観音は元は金堂・釈迦三尊の左に安置されてたそうです。 >>535
内部の画像は、本当はダメなのですが撮影してしまっている人がいて
それをアップしていたりするのでGoogleで夢殿内部などで画像検索をしてみるといいかと思います >>536
なるほど、撮影禁止なんですね
出版社もやはり恐れ多いので撮影許可取らないんですかね?
USBカメラが面白いので、夢殿動画がアップできるかテストしてみます。
如何かな?
>>537
グーグルで赤い太子像が写ってる画像見つけました。 有難う御座いました。
先生が見つけられた夢殿図面が海外版だったのを思い出し、海外サイトを見てましたら
内陣の一枚をやっと見つけました!
これでおおよその内陣の様子が分かります。
Yahooアメリカ・・・yahoo.com で
「JAPAN – Horyu-ji day trip from Osaka/Kyoto: world’s oldest wooden structures」
・・・の検索ワードで見てください。 このタイトルのサイトです。 ・・ Christratravel bog でGB BLOBA ・・・・の書き出し。
下の方の画像群の下の方にあります。 >>536
夢殿救世観音のお厨子の大きさが気になり、前掲の模型やさんー石屋さんならと思い、
メールでお尋ねしましたが、資料はお持ちでないとのご返事をいただきました。
・・が宝珠の光芒のエッチング部品の在庫が1個見つかったとの連絡をいただきました。ラッキーでした。
今後、1/150金堂・五重塔の模型を作られる方々のために、石屋さんに勾欄の卍模様のエッチング部品をつくってもらいたいです。
その後厨子の画像をネチネチ探してましたら厨子の上部に何やら金色の宝珠があるらしいことが
分りました。 この厨子は新しいんでしたよね? 意匠の元は何処なんでしょうか?
ダメもとで奈良県の軍家財保護課さんに又問い合わせメールをしました。
今日までに一層朱壁の連子窓をやっつけました。 実際は一窓に16本の連子子なのですが、10本がやっとです。 >>539
在庫を見つけてもらって一安心ですね
宝珠は最難関ですからねw
厨子は救世観音像が一体あるだけなんですね
8面もあるから何体か納めてあるのかと思っていましたw
厨子は正木直彦が呼び掛け、岸熊吉が設計したそうです 正木直彦さんは東京美術学校(東京芸術大学)の学長だった方で
岸熊吉さんは東京美術学校の出身で法隆寺の大修理にも携わった技師のようですね
製作をしたのは昭和の大修理をしていた宮大工なんでしょうかねえ
厨子金具は清水南山(彫金師)と魚住為楽(金工家)という二人の名前が出てきました
他は手持ちの本やネットではたどれなかったので
正木さんも岸さんも厨子については触れていないと思われます
今となっては大いに自慢してほしかったですね
>>540
救世観音像の厨子は昭和の修理時にお二方の尽力で作られたんですね。
凄い事ですね。金具も塗りもさぞすごいんでしょうね。 金色宝珠迄あるんですものね。
でも作り変えられる以前の厨子も木みたいです。
奈良県文化財保護課さんの返答はまだ有りません。
例の修理報告にそれまでの厨子と新規の厨子に関する情報があり、また資料送ってくれると良いのですが・・・。
夢殿の4面の連子窓は金堂モカイの物に比べて正面開口率が極端に少なく、図面では概算で17%でした。
前期の内陣写真をみますと、おっしゃられたように内部から板で覆われており、蔀戸なのかメクラ板なのかわ分かりません。
4つある入り口の「遮板」の真ん中の開口部には蔀戸が設えてありますね。
扉とこの蔀戸は夜間は閉じる物なんでしょうかね? 閉じるとするとどのように閉じるのかは謎です。(どこから閉じて外へ出るのか?) >>540
奈良県の文化財保護課の方から昨日↓の丁寧なメールをいただきました。
「夢殿の修理報告書と昭和資材帳を調べましたが、どちらにも厨子の高さは記されていませんでした。
形については修理報告書に八角形と記されており、大きさについては昭和資材帳に幅と奥行きがともに
227.0?であることが記されています。
また昭和11年に制作された黒漆塗の厨子であることがわかります。
手元にある資料でお答えできるのは以上の内容になります。」
高さの情報はいただけませんでしたが、二面幅が2270mm(〜7.5尺)で正しいと思われます。
有難い事です。
高さは石屋さんのおっしゃられる如く、画像からの推定しかなさそうです。 >>543
創建時の厨子とは違うデザインの厨子なので
あまり重要ではなかったのかもしれないですね
玉虫厨子みたいな凝ったものでもないですし
連子窓の内側は栄山寺八角堂は板扉付き連子窓などと説明されて
実際に扉を開けてる古写真もありますし、中に入った時に扉があることを確認したのですが
夢殿は空いてる写真もないですし、どこにもそのような説明が見られないですし
中は暗くてよく見えないですし板で塞がれているかもしれないですね
法隆寺は五重塔もそうですし >>544
栄山寺八角堂の連子窓は板扉付きなんですね。
やはり密閉出来る構造が基本なんでしょうね。 夢殿の窓にも蔀戸つけましょう。
ところで、栄山寺八角堂の連子窓の開口率はやはり小さいですか?
窓の縦幅が大きいので、採光量を計算してると推察します。
今日はつべの曲を。 先週は嬉しい事も、悲しい事も色々ありましたので・・・。
YouTubeで「【感動】プロ本人が登場した路上ライブ、最後の演奏に拍手が止まらない。」・・で
検索してみて下さい。 POPS曲が元曲らしいです。 >>545
紹介された動画の元曲は中島美嘉の冬の華ですね
中島美華の歌声も聞こえてくるようないい演奏でした
さて、「栄山寺八角堂 文化庁」で画像検索すると
白黒の古そうな写真があるのですが、その写真は珍しく連子窓の内側の扉が開けてあります
特別公開で見に行ったときは閉じてあったのでめったに開けてないと思われます
珍しい画像なので是非ご覧ください
扉は上下の長押に軸穴をあけてそれで開閉させています
この時代はこれが一般的な扉の吊り方です
夢殿も内側にも長押があるので扉でもいけると思うんですけどね >>546
栄山寺八角堂 内側の扉・・・の画像見つけられませんでした。
画像元のサイトはどこでしょうか? 是非見たいです。
この画像以外に、開閉構造が分かる物はありますか?
今日は夢殿基壇床に「床パターン」を張り付けました。
「四半敷」と思ってましたが、堂内画像を見ると金堂などの様な小振りなタイル形状を
敷き詰めるのではなく、大振り(60p角)の基壇構成石材を敷き詰めているように見えます。
堂の周りの回廊部分は平らで境目も小さいですが、堂内はゴツゴツですね。
>>547
Googleの画像だけを検索できる機能で「栄山寺八角堂 文化庁」で
検索すると上の方に白黒の写真が出てくると思います
文化庁の事業で何か募集した時のもののようです >>548
有難うございます。 見つかりました。
8世紀建造で、内部に彩色画が残ってて国宝・・・すごいですね。
夢殿より小ぶりですね。
連子窓の遮蔽はなんと観音開き、扉構造。
窓の覆いといえば蔀の上下スイング構造しか思い浮かびませんでした。
入側柱構造を基壇に接着し、いよいよドーム屋根に取り掛かってます。
先ずドーム形状を粘土で製作中。 この後どーするか思案中。
法隆寺ライトアップを検索していて↓の五重塔の画像発見。 雰囲気いいです。
今回作った五重塔と同じものを組み立て完成品を販売してる会社があり、それを購入した人が
レビューで画像をアップしてました。 お時間在れば・・・・グーグルで。
検索ワード: 楽天 お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 五重塔
一番上のサイト 「お城のジオラマ鍬匠甲冑屋 - みんなのレビュー」から
レビュー投稿画像・・に有ります。
25,000円! 送料無料 ケース付き
(検索後の「画像」の方が早いかもです。) >>549
見つかってよかったです
栄山寺の八角堂は夢殿よりも小さいですが、屋根が野小屋構造ではないので
夢殿よりも古式を色濃く残しています
小さいために内陣柱は四本しかありません
どのように側柱8本とつないでいるのかというと、内陣柱から二本ずつ梁を渡して
連結させています
夢殿のドームですが以前に図書館で見た「日本の名建築写真選集 法隆寺」の
内部の写真によりますと、ドームの下の小さな壁の部分に
連子窓を横にした小さな窓のような飾りがつけてありました
窓にはなっていないようで、装飾としてつけてあるような感じでした
これは内側の様子でその反対側の外側がどうなってるのかは分かりません >>549
ライトアップ画像見ました
ライトアップすると見慣れて親しみのある五重塔が
荘厳な雰囲気になりますね
塔のライトアップといえば、YouTubeにこのスレでも以前話題になった談山神社の>549
ライトアップ画像見ました
ライトアップすると見慣れて親しみのある五重塔が
荘厳な雰囲気になりますね
塔のライトアップといえば、YouTubeにこのスレでも以前話題になった談山神社の十三重塔の
ライトアップ映像のライブカメラがありますね
今の時期にライトアップしているかは分かりませんが >>551
談山神社のライトアップ動画見ました! 綺麗ですね! 有難うございます。
毎年やってるんですかね?
大分昔のJR東海のテレビCMがなぜか好きで、テーマ曲をクラシックに詳しい友人に聞きました。
↓のツベの2’50””までがすんばらしいので是非。
つべで以下の検索ワードで・・・
@ 「 JR東海 いま、ふたたびの奈良へ。 2006年 冬 法隆寺編 」
A 「 ボロディン オペラ「イーゴリ公」より「韃靼人の踊り」 」 >>551
三段基壇に石材パターンシートを貼り、入側柱を建て木材部に赤彩色してみました。
・・・がどーにも八角柱が不細工なので作り直しです。 動画の絵は無かったことに・・・。
八角柱が製作が鍵なので、色々考えた末、3mm角檜材を購入し、
角をカッターナイフで削る方法を試した所、これで何とかなりそうです。
削る前に赤色に塗って置き、削り代を見ながら削るのが奏功でした。
朱壁の内側(堂内側)は模型のままではだめなので、メーカーさんに朱壁部品の在庫確認中ですが、4月末から音沙汰無し。
連休中にめーかーさんのネット環境がメンテ中だった事も災いした模様。
製品自体が古く部品在庫が無いかもしれませんので、次善策が必要となりそうです。
夢殿入口の侵入禁止部材で、上部の格子が内外から見て白いのが気になってます。
(外から見ると白壁のようですが、堂内側から見ても白いので、壁では無さそう。)
紙(障子紙)が挟んであるとも思えますが、どんな構造なんでしょう?
>>554
菱連子の白い部分はやはり紙ですかねえ
明治時代の写真を見ても白いですし、ネットで見られる内部の画像では
白い部分から光が入って明るくなっていますし
裏から貼ってあるのかもしれないですね
連子さんもお持ちの古建築入門の「建具・欄間」で
奈良時代末に内陣外陣の境目に結界を作るようになり
上が菱格子の欄間、下には格子戸を立てる構えが流行したとなっています
夢殿は内部に人が入るスペースを設けずに扉に結界を設けたといったところでしょうか
調べたところ、夢殿は屋根の葺き替えを除くと明治28年(1895)までに
少なくとも4回の修理記録があります
1161年の當麻寺曼荼羅堂が菱格子と格子扉の写真が載っているのですが
この結界らしきものは1230年か1383年の修補の時のものでしょうか >>555
菱欄間(菱連子)の上部はやはり紙なんですね。
やはり和紙で表現したいですけど・・・。無理か?
菱欄間、見たこと有る形なので新しい物かと思いましたけど、古い物なんですね。
結界・・ですか。
欄間の有る家に住みたかったです。
今日は入側柱(列柱)と横桁、上部の斗束部品を製作しました。
丹朱の色を調合し塗色後、上部に白壁部品とともに組み立て予定。 >>556
「奈良の寺〈2〉東院伽藍と西院諸堂」 という大型本をゲットしました
対象範囲が広いので夢殿にさかれているページも少ないのですが
内部の白黒の写真が載っていました
菱格子の白い部分が結構破れていたので
障子紙で間違いないと思います
障子紙を真ん中に挟んであるようです
菱格子の下の部分は内部にも外側と同じタイプの扉がついているようです
どのように開くのかはよく分かりません
もしかしたら菱格子の下の枠と格子は取り外してあって
扉の内側が見えているのかもしれません
連子窓の内側は扉になっているようには見えないので
やはり板がはめ込んであるようです
カラー写真だったらもはっきりわかったかもしれないのですが・・・
ドームの下の小壁の外側は真っ白なので横にした連子窓はなかったです >>557
情報有難うございます。
やはり菱格子は紙が挟んであるのですね。 不思議な構造ですね。
2枚の格子板が取り外せるように(または開く構造)なってるんでしょうね。
御紹介の大型本・・アマゾンで1円で出てましたので、早速ポチリました。
同じ本だと良いのですが・・・。
今日は入側柱群を朱色で塗り、上部の部分を3か所作りました。( 上部はTの字型の木材2枚の間に白の0.3oプラ板を挟む T型部品も朱色塗色)
次いで、出入り口上部の上記菱格子部分の開口・・・ですが2枚やって部分的に格子が破れてしまいました・
白のプラバンを挟むため、部品の菱格子部分を裏から削って行って、開口してるぶぶんが現れたら完成ですが、あまりに薄くなるため、
ピンで無理やり開口しようとすると(針で刺して無理やり開口させる)部分的ですが割れてしまいました。
(これは自動車模型のフロントグリル部分で以前やった方方法で、手間はかかりますが、完成するとかなり綺麗です。
現在メーカーに同じ部品の在庫を確認中ですが、返答無し。 在庫があれば同様に菱部分を開口して、薄紙をサンドイッチしたいのですが・・。)
朱色今回はオレンジ色をまぜ、法隆寺の他の建物の復元で塗られている色に近い色にしました。
創建当時の色は見てみたいですね。 どこかで研究して再現してくれると良いのですが。
神社も赤使いますよね? 仏教伝来以降でしょうか? >>557
夢殿途中経過です。
上左の入側柱は最初の奴で出来が悪いやつです。 動画で上げたものを壁を修正して赤を塗りましたが、
国宝には申し訳ないので作り直しました。
下のランナーにテープで留めてあるのが、菱格子部分を裏から削って隙間を開けたものです。
2枚とも部分的に破れちゃいました。
一番右は白の塗料を隙間部分に乗せたもので、これでもまあまあなんですが・・・。その横がそのままの、入り口部品です。
右端の赤くて丸いのはドームの元形状(粘土)。八本支柱の組み立てに使う予定。
白い傘見たいなのは、紙製のドームの白壁部分のトライ品です。(赤丸型に被せて・・・)
>>558
神社の朱色は仏教伝来以降です
それまでは色は塗られていませんでした
ボンドの大きさと比較するとかなり小さいですね
詳細のはっきりしないことが多いですし今まで以上の難敵ですね >>561
神社がパクったんですねww。
「奈良の寺〈2〉東院伽藍と西院諸堂」今日届きました。
岩波書店も良い本だしてますね。 夢殿内部の写真は珍しいですね。
鈴木嘉吉、渡辺義雄さんは高名の方々のようで、法隆寺を説得出来たんでしょうね。
鈴木さんの後半の建築解説はすごく勉強になります。
ハトロン紙が挟んである本は久々でした。
夢殿入り口の菱格子・・・うまく行きそうにないので、模型用の小さな格子(メッシュ)を探しましたが、良い物はありませんでした。
思案した結果、網戸のメッシュをずらすと菱型の比率が程度替えられ、サイズもほぼ良いのでこれで、何とかしようと思います。
二重の斜めの桟は無理ですが・・・。 >>561
夢殿、入側柱群にドームと上部巻斗と乗せました。
また汚い動画をあげます。
網戸での菱格子の試作途中です。
朱壁部品の購入が可能か否かいまだ不明。
先日、このコロナ禍でプラモデルが大人気・・・とNHKで言ってましたので、
そのせいですかね? >>562
鈴木嘉吉さんは建築史界の重鎮ですね
法隆寺の昭和の大修理にも従事していた人です
国宝建造物の修理や重要な発掘作業の記者発表の場にも
同席していたりしますし
歴史ヒストリアでは東大寺の100mの七重塔の回で
若い職員たちを困らせていたというかハッパをかけていたというか
重鎮ぶりを発揮していました
渡辺義雄さんは古建築入門でも活躍していますね
「奈良の寺〈2〉東院伽藍と西院諸堂」の他のシリーズにも写真を提供しています
世に出ていない貴重な写真もたくさんあるのかもしれないですね >>563
すごいです
内陣はこういう構造になっているんですね
これを建物の内部に入れてしまうのはもったいない気がするほど
上手に作られましたね
聖徳太子も感激すると思いますよ >>565
過分なお言葉有難うございます。
前掲の1/20夢殿模型を再度確認したところ、ドームの8本支柱は太すぎましたww。
細い木材を曲面に削るのは止めて、竹ヒゴを蝋燭で炙りながら曲げて作りました。
入側柱上部の組物の様子は巻斗のみしか見られなくて残念です。
心柱は断面図通りに宝珠上部まで作る予定。
木材のみでの模型は法隆寺金堂、五重塔等も有り綺麗なのですが、基壇や瓦も
木材にしちゃうので、木組み構造としては意味が甚大ですが、「模型」としての意味合いは薄れる様に思います(美しくない)。
以前、瓦も法隆寺五十塔用に焼いていた方が居ましたが、あの方が日本一の建築モデラーでしょうね。
確か基壇も石材だった記憶です。
>>565
ニュースで法隆寺が6月15日にクラウドファンディングを募集したところ、
一日で目標の2、000万円を超えた・・・との事。
良かったですね。
私も幾分か寄進しようかと思います・ >>566
模型作りには豊かな発想と柔軟な姿勢と忍耐力が大事なんですね
連子さんには頭が下がる思いです
確かに木で瓦というのはちょっともったいない感がありますね
どうしても瓦の質感が出ないですしね
「古寺解体」(浅野清)によると長野県小県郡の下之郷の寺に
浅野さんと大岡實さんで夢殿を1/2の規模で復元した堂を造ったそうです
浅野さんによりますと二人とも張り切っていて、復元模型よりも踏み込んだ復原をされたようです
瓦は1/2の大きさだと小さくなりすぎるとかで
瓦だけは7割の大きさにしたそうです
調べたところ長野県の長福寺にあるようです
夢殿で画像検索しますと大岡實建築研究所というところの
金沢市にある宗林寺花山聖徳堂の設計図のようなものがヒットします
これも大岡さんが手がけたようですが、これとは別物です >>567
1日で2000万円超えるというのはすごいですね
法隆寺は貴重な建造物が目白押しなので維持費もかかりそうですし
今後観光客が戻るといいですね
今見てきたら6000万円に達していました
私も法隆寺が好きなのでいくらか参加したいと思います >>568
大岡氏の二つの八角堂見せて頂きました。 凄いですね。
信州夢殿では、連子窓の連子子の数や基壇までも夢殿のまんまですね!
長野県は何となく関西圏の香りがしてうらやましいですね。 (関東人のひがみ)
>>569
返礼品の陀羅尼経入り百万塔・・と行きたいですが・・無理ですねwww 0:36 / 4:08
>>569
>>569
夢殿、模型屋さんから部品の入手状態の連絡がまだ無いのと、体調悪化で、
進展ほとんどなし。 面目ない。
おわびに、また音楽をあげます(バイオリン曲、すとらでぃでは無いですが良い音、曲です)
YouTubeで以下をコピペして聞いてみて下さい。
憂鬱な湿気が少しでも飛ぶことを祈って・・。
INCREDIBLE PEOPLES' REACTION | PINK - Just Give Me A Reason | Violin Cover - Karolina Protsenko スマホだとOkですね! 模型屋さんから連絡あり。夢殿の朱壁部品買える…どの事。一安心です。し貸し、スマホからの書き込みは、大変ですね!!!
>>572
Jane Style・・という専用ブラウザーをインストールして,
書き込めるかテストします。
以下、7月1日書き込み失敗(ERROR 余所・・)を試します。
” >>569 今日模型屋さんからお手紙頂きまして・・・
「回答メール送ってるけどダメみたいなので 振り込み用紙同封するわよ。
迷惑ホルダーもちゃんと見てよね!」・・・との事。 炎天下郵便局に走りました。
もう一週間以上睡眠不足でダラダラですが、来週は少しは涼しくなりそうなので、
部品が届いたら、夢殿建立ー朱壁内部製作ーーがんばります。” >>569
書中お見舞い申し上げます。
YOUTUBEで日本で一番古い民家・・が有りましたのでご紹介。
検索ワード:【若一調査隊】室町時代から残る民家2つの“千年家”
以前教えて貰った如く、室町あたりでも竪穴式の名残があるんですね。
裕福な家でもこれ位なので、庶民の家は茅葺ならまだ良い方だったんでしょうね。
夢殿・・朱壁が届きましたので、内外共に組物など表現できる様になります。
五重の塔に比べ作業量が少なく寂しいので何か工夫したいところです。 >>569
今年の夏は格別ですね。
復調したとたんに脱水症状を来たし大慌て。
夢殿、朱壁製作は難航。 出入り口柵(格子)を内外二枚を張り合わせるのですが、板厚が1ミリ以上の為
薄く削らなくてはなりません。不器用なため8枚中4枚を破損してしまいました。
まともな奴を外向き用とする予定ですが、内陣側がどんな具合になるか不安です。
ところでこの仕切りは創建当時には無かったと思われますが、どうでしょう?
後年に欄間様の立ち入り禁止柵を設けたと推察しますが・・。
まだ「余所」です。 >>569
577は Jane Style からの書き込みでしたが、「鍵」がどーたらの
メッセージが出てびっくりしましたが、下の赤文字で「了解」なんちゃらを
クリックしたら書き込めました。
なんか5chに異変が起きてるらしいですね。
夢殿の進捗が遅く、申し訳なし。 朱壁地色を乗っけた画像上げます。
専ブラからは旨く行くでしょうか?
>>569
578の動画を撮り、Youtubeにあげてみました。(初めてなのでドキドキでした。)
相変わらず船酔いする動画ですが、初めてなので、ご寛恕の程を。
検索ワード: 1/150 法隆寺 夢殿 模型ー1 >>569
異常な暑さが6月から続き体調が変です。(脱水症状)
お盆過ぎ・涼風が出るまでは無理なさらぬよう!
夢殿朱壁を内外二重構造作業中ですが、中々手ごわいです。
・部品の薄肉化が難しい。(細い所が折れまくり)
・内外で寸法差があり、単純に重ねられない。
・入り口上部の斜め格子部品が想定より出来が悪く組み込み難で見栄え悪し。 夢殿の仕切りは創建時にはなかったようですね
というのも、昭和の修理の調査で夢殿の創建時の姿や詳細は解明されているからです
検索するとよく出てくる、奈良時代と鎌倉時代の夢殿を半分に切って並べてある図には
仕切りがありません
創建時の夢殿を再現した模型にもありません
鎌倉時代にはあるので大改造の時に付けられたものでしょうか
連子窓の裏の板も創建時にはなかったようです
書き込めたようでよかったw
youtubeデビューおめでとうございます
周りに置かれているもののサイズと比べるとやはりとても小さいですね
こう暑いと集中できないと思うので、早く涼しくなって欲しいものです
まだ8月初旬ですが・・・
紹介してくれた日本で一番古い古民家の動画を見ました
竪穴から発展していったのが分かりやすい住宅ですね
江戸時代の庶民の家みたいなのは屋根が木の板で重しの石が載ってたりしますが
実際はどんな感じだったんですかねえ
>>581
やはり入り口の仕切りは創建当時は無かったんですね。
昔の建築は兎に角盗難には無防備ですね。
仏様を盗んで売り飛ばす・・・なんてことは奈良時代には無かったのでしょうか?
夢殿朱壁・・もう少しで形だけは出来そうです。
書き込みの制限は解除されたんですか?
私も書き込みトライしてみます。
・・・やっぱり「余所」でだめです。
Janestyle で再トライ! こちらもJaneStyleじゃないと書き込めないようですが
これ使いにくいですね
法隆寺に限らないと思いますが、法隆寺は何回も泥棒が入っており
金堂の壁を破られて中の仏像を取られたりもしているようです
木造だから仕方がないことですが、雷が落ちて燃えるよりはましかもしれません
>>584
Janestyleしか書き込み手段が無いのは困りますね。
夢殿 現状をアップします。
しかしクローズアップには耐えられないですねーー。
肉眼だと連子窓は、見かけほどのあばら家状態ではないのですが・・・。
クリーズアップ画像はWEBカメラじゃないとやっぱり撮れません。
ちなみに・・カメラはロジクールC270。 つべで「分解して焦点距離を変えられる」・・をやってみました。
最初の大人の科学のカメラよりは色が綺麗なので、ツベにアップ動画もこれです。