奥山政幸(写真)に対する記者の印象は、彼が中学生のときから基本的に変わらない。2008年のことだが、菅澤大我監督率いる名古屋グランパスU15は夏のクラブユース選手権を制した。
奥山はそんな強豪チームのセンターバック(CB)として“堅い”プレーをしていた。しかし体格にはあまり恵まれないし、足も決して速くはない。DFとしては高質なキックの使い手だったが、彼より上手い選手は同じチーム内だけを見ても何人もいる。例えば左利きなら話は違うが、彼にはトップでやるための分かりやすい「売り」がなかった。
中3の時点で身長は171センチ。U18、大学、プロと進むと次第にその体格でCBを続けることは難しくなる。「奥山はプレイヤーとして、今後どういうキャリアを進むのか」という悩ましさは彼に関心を持つ人なら誰もが感じたことだろう。
もちろんJの育成組織と言えども全員がトップに昇格するわけはない。ただ奥山は「この選手はどうすれば上でやれるのか?」と我々に考えさせられる“何か”を持った選手だった。とにかく判断力、統率力、安定感といった強みを彼は持っていた。U18昇格後も、1年生からCBのポジションを取った。
彼は名古屋U18から昇格せず、早稲田大学に進んだ。大学サッカーの名門でも1年生でまず右サイドバック(SB)のポジションを取り、2年生から4年生まではCBとして試合に出続けていた。中2の頃から若干伸びていたとはいえ身長は173センチ。それでも大学サッカーのトップレベルで十二分に通用していた。
早稲田大は古賀聡監督のもとで[4-4-2]の緻密なゾーンディフェンスを取り入れ、コンパクトな組織で守るスタイルだったことも彼にとっては良かったのだろう。4年次は金澤拓真キャプテンとの「173センチコンビ」でCBを組み、19年ぶりの関東1部制覇にも貢献した。
早稲田大のア式蹴球部(サッカー部)はJリーグを射程に入れるレベルでも、就職を選択する選手が多い。ただ彼は大学の最終学年を迎える直前に、進路をはっきりとプロに定めた。彼はこう振り返る。
「大学3年くらいから(全日本大学)選抜に入るようになって、プロを意識するようになりました。この身長ですしCBで上を目指すというのはなかなか厳しいことがあると思って、ボランチを中心にやれればいいと。就職活動も並行してやろうかなと思ったんですけれど、単純に小さい頃からの夢でしたし、後悔したくないなというのがあった。プロにチャレンジしたいなという思いが強くなって、就活は途中でやめました」
奥山は面接こそ受けていないが、就職に関するセミナーには何度か顔を出し、Webテストも受けたという。彼なら一般企業の選考を受けてもしっかり結果を出したと思うのだが、いずれにせよ彼は就活より困難な“蹴活”に踏み出した。プレイヤーとしては堅実な彼だが、人生設計では夢を優先した。古巣の名古屋グランパスやFC町田ゼルビアを含めて様々なクラブの練習に参加し、最終的にはレノファ山口と契約を結んだ。
プロ2年目の今季は町田への移籍を決めた。奥山は言う。「レノファとはやるサッカーがガラッと変わった。大学のサッカーに近くなって、その分でやり易さはすごくある。意外とすんなりここの環境に慣れました」
町田の守備組織は早稲田大と似ており、それは奥山を活かすスタイルでもある。彼は今季のリーグ戦27試合のうち15試合に出場し、現在は6試合連続でフル出場中。昨季は5試合しか出場できなかったことを考えれば、移籍は成功だった。
奥山は直近の2試合に限ると左SBとして出場している。ただそれは不動のレギュラーである松本怜大が累積警告で欠場していたことによるもの。そこまでの4試合は右SBだった。また町田に加入した時点では主にボランチとして考えられていた。彼には守備的な位置ならどこでもそつなくこなす適応力、クレバーさがあり、監督にとっては使い勝手のいい存在だ。
SBとしての手応えと課題を、奥山はこう述べる。「対人のところなど、守備面で強みを出せていると思う。攻撃は最後の精度と、そこにどれだけ関わっていく数を増やせるかというのが課題」