【名将・野村克也 ボヤキの内幕】#6
野球人として、野村克也の対極にいたのは長嶋茂雄だった。
長嶋は野村にないものをすべて備えていた。野村は長嶋にないものを持っていた。長嶋は意識しなかったが、野村は強烈に意識していた。「月見草」と「ひまわり」が、長嶋でなく、野村から生まれたことが、何よりの証拠ではないだろうか。
■「あれなら監督いらんわな」
ヤクルト時代、野村監督は巨人を目の敵にし、その頂点に長嶋監督がいた。「何だ? カンピューターって」と皮肉を言い、「欲しい欲しい病で、選手取りまくり。あれなら監督いらんわな」とあてこすり、そこから野村監督は長嶋監督が大嫌い、長嶋監督は無視で、2人は犬猿の仲とみられていた。
だが、実際はどうだったか。
「あいさつしないんだ」と野村監督がしんみり言ったことがある。
「名球会の旅行でさ。ヒコーキの中で一緒になった。普通なら挨拶するでしょ。おれ監督だよ。息子がお世話になりますとかさ、それくらい言うのが普通じゃないか」
ヤクルト就任の年、長嶋一茂3年目。キャンプで野村監督、一茂を絶賛した。「すごいパワーや。関根さん(前監督)がホレこんだのもわかるわ。これで4番は決まりや」とまで公言した。
就任1年目のキャンプで、どの選手に最初に接触するか、報道陣が注目する中、野村監督は一茂のフリー打撃をネット裏で観察、「いち、に、ホイ、そうや!」と声をかけた。父親の挨拶には不満でも、一茂の評価には影響していない。マスコミ受けを狙っての「一茂4番」だったかもしれないが、根っこのところでは野村監督、長嶋茂雄にあこがれていた。それがこの発言に表れたと思う。
一茂はエリート。父親譲りでマスクもよく、努力の必要なく客を呼べる選手。「おれなあ、ヤジ飛ばされた。藤山寛美やて。似とるか?」と笑ってぼやく野村監督には、一茂4番は「プロは人気商売」からみて、理想的だったに違いない。
これはしかし、一茂の腰引きが直らず挫折。野村監督はキャンプ終了後、無念そうに言った。
「外人のコーチに聞いたんやがな、言うとったわ。球を怖がる、それを直すことだけは、コーチにはできん、とな」
野村監督はテスト生上がり。努力だけで這い上がった。長嶋茂雄は野球のエリート、スマートさで抜群の人気を誇り、「逆立ちしてもかなわん」相手だった。それが野村監督の原動力となった。
■嫉妬、敵愾心、自虐
自分にないものを持つ相手に嫉妬し、その強さが敵愾心を生み、それがバネになった。長嶋茂雄という存在があったからこそ、野村克也は学んで強くなった。生まれ育ちや顔でなく、見えないところで勝ちたい。月見草という自虐は、誇りの裏返しだったと思う。
長嶋茂雄氏は、野村克也の死に、「野球への底知れぬ愛は、永遠に生き続ける」と弔いの言葉を贈った。「永遠」の中に、実は長嶋さんも、野村さんに、自分の持たないものを見ていた、という気がしてならない。
巨人軍に「永久に不滅です」という言葉を残した長嶋監督が、野村監督に「永遠に生きる」と別れの言葉をかけた。この言葉を、生前の野村監督はいちばん望んでいたのではないだろうか。
では、すべての記録を破られた、王貞治との関係はどうだったか。=つづく
(林壮行/元 日刊ゲンダイ運動部長)
▽野村克也 1935年、京都府生まれ。府立峰山高から54年にテスト生として南海に入団し、65年に戦後初の三冠王。26年間の現役生活で首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回。90年にヤクルト監督に就任してリーグ優勝4度、日本一3度。99年に就任した阪神では3年連続最下位に終わった。2006年から楽天監督。09年にチームを球団初のCS進出(2位)に導き、この年限りで退団。24年間の監督生活で1565勝。20年2月11日に虚血性心不全で死去。享年84。
日刊ゲンダイDIGITAL2/20(木) 9:26配信
https://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20200220-00000008-nkgendai-base&topic_id=20200220-00000008-nkgendai
野球人として、野村克也の対極にいたのは長嶋茂雄だった。
長嶋は野村にないものをすべて備えていた。野村は長嶋にないものを持っていた。長嶋は意識しなかったが、野村は強烈に意識していた。「月見草」と「ひまわり」が、長嶋でなく、野村から生まれたことが、何よりの証拠ではないだろうか。
■「あれなら監督いらんわな」
ヤクルト時代、野村監督は巨人を目の敵にし、その頂点に長嶋監督がいた。「何だ? カンピューターって」と皮肉を言い、「欲しい欲しい病で、選手取りまくり。あれなら監督いらんわな」とあてこすり、そこから野村監督は長嶋監督が大嫌い、長嶋監督は無視で、2人は犬猿の仲とみられていた。
だが、実際はどうだったか。
「あいさつしないんだ」と野村監督がしんみり言ったことがある。
「名球会の旅行でさ。ヒコーキの中で一緒になった。普通なら挨拶するでしょ。おれ監督だよ。息子がお世話になりますとかさ、それくらい言うのが普通じゃないか」
ヤクルト就任の年、長嶋一茂3年目。キャンプで野村監督、一茂を絶賛した。「すごいパワーや。関根さん(前監督)がホレこんだのもわかるわ。これで4番は決まりや」とまで公言した。
就任1年目のキャンプで、どの選手に最初に接触するか、報道陣が注目する中、野村監督は一茂のフリー打撃をネット裏で観察、「いち、に、ホイ、そうや!」と声をかけた。父親の挨拶には不満でも、一茂の評価には影響していない。マスコミ受けを狙っての「一茂4番」だったかもしれないが、根っこのところでは野村監督、長嶋茂雄にあこがれていた。それがこの発言に表れたと思う。
一茂はエリート。父親譲りでマスクもよく、努力の必要なく客を呼べる選手。「おれなあ、ヤジ飛ばされた。藤山寛美やて。似とるか?」と笑ってぼやく野村監督には、一茂4番は「プロは人気商売」からみて、理想的だったに違いない。
これはしかし、一茂の腰引きが直らず挫折。野村監督はキャンプ終了後、無念そうに言った。
「外人のコーチに聞いたんやがな、言うとったわ。球を怖がる、それを直すことだけは、コーチにはできん、とな」
野村監督はテスト生上がり。努力だけで這い上がった。長嶋茂雄は野球のエリート、スマートさで抜群の人気を誇り、「逆立ちしてもかなわん」相手だった。それが野村監督の原動力となった。
■嫉妬、敵愾心、自虐
自分にないものを持つ相手に嫉妬し、その強さが敵愾心を生み、それがバネになった。長嶋茂雄という存在があったからこそ、野村克也は学んで強くなった。生まれ育ちや顔でなく、見えないところで勝ちたい。月見草という自虐は、誇りの裏返しだったと思う。
長嶋茂雄氏は、野村克也の死に、「野球への底知れぬ愛は、永遠に生き続ける」と弔いの言葉を贈った。「永遠」の中に、実は長嶋さんも、野村さんに、自分の持たないものを見ていた、という気がしてならない。
巨人軍に「永久に不滅です」という言葉を残した長嶋監督が、野村監督に「永遠に生きる」と別れの言葉をかけた。この言葉を、生前の野村監督はいちばん望んでいたのではないだろうか。
では、すべての記録を破られた、王貞治との関係はどうだったか。=つづく
(林壮行/元 日刊ゲンダイ運動部長)
▽野村克也 1935年、京都府生まれ。府立峰山高から54年にテスト生として南海に入団し、65年に戦後初の三冠王。26年間の現役生活で首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回。90年にヤクルト監督に就任してリーグ優勝4度、日本一3度。99年に就任した阪神では3年連続最下位に終わった。2006年から楽天監督。09年にチームを球団初のCS進出(2位)に導き、この年限りで退団。24年間の監督生活で1565勝。20年2月11日に虚血性心不全で死去。享年84。
日刊ゲンダイDIGITAL2/20(木) 9:26配信
https://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20200220-00000008-nkgendai-base&topic_id=20200220-00000008-nkgendai