永遠のライバル球団である巨人と阪神。過去にこの2チーム両方に所属した外国人選手はわずかに2人がいる。1人はジョージ・アリアスで、オリックスから阪神に移籍して活躍した後に、メキシカンリーグを経て2006年巨人に入団した。では、アリアスより先に、「プロ野球で初めて阪神と巨人の両チームに所属した助っ人」は誰だったか覚えているだろうか?
暗黒期の阪神に入団した迷助っ人
阪神時代のメイ
1998年3月、阪神が新しい助っ人投手の入団を発表した。その選手の名前はダレル・メイ。彼こそが、後にNPB史上初となる阪神と巨人の両チームに所属することになった選手だ。
1992年のドラフトでブレーブスに入団したメイは、そこでは目立った活躍はできなかった。しかし、エンゼルスに移籍後の1997年は先発候補として期待され、29試合に登板。結果は2勝止まりだったが、今後を期待される若手の1人だった。一方、1990年代に入り不振を極める阪神は、チーム再建のために年齢の若い助っ人を求めていた。そこで、当時25歳で今後の「伸びしろ」に期待できるメイに白羽の矢が立ったというわけだ。
期待の若手助っ人ということで期待されたメイだが、二軍で17イニングを投げて19被安打11失点とまったく使い物にならなかった。しかし、この年は湯舟敏郎など一軍の先発左投手が相次いで離脱したため、同じ左のメイを一軍に昇格せざるを得ない状況に陥る。
期せずして一軍昇格を果たしたメイは、球速は140キロそこそこながら、鋭い変化球を武器に安定した投球を披露。二軍登板時とは別人のような投球で、6月6日の横浜戦(札幌円山)で来日初勝利を挙げると、そのまま先発ローテーションに定着。エース・籔恵一とともに阪神投手陣をけん引した。ところが、当時の阪神はいわゆる暗黒期で、メイは好投しながらも貧弱な打線のおかげで満足な援護が受けられず、1年目は4勝(9敗)しか挙げることができなかった。
2年目で数々の騒動を起こしたメイ
2年目は野村克也氏が阪神の監督に就任。リーグ上位を目指し、前年に好投したメイにも大きな期待が掛けられた。しかし、シーズンの半ばからメイの「問題児ぶり」が徐々に浮き彫りになっていく。
特に巨人戦では、松井秀喜に故意と思われるデッドボールを与える(1999年5月29日)、判定に怒って審判の胸を小突く(1999年7月18日)など、今も双方のファンの記憶に残るトラブルを起こした。このうち、後者の事件は審判に暴力行為を行ったとして2週間の謹慎処分が下される。しかし、ここでおとなしく謹慎しないのがメイ。なんと謹慎期間中に「歯の治療をする」とうそをつき、恋人と海外旅行に行ってしまったのだ。
この年の阪神は最終的に最下位に沈んだものの、シーズン半ばまで上位争いをしており、メイの騒動はチームの上昇ムードに水を差すこととなった。そのため、野村監督はメイを激しく非難。これに対してメイは逆切れし、両者は激しく対立することとなった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/033fa1c63adae71d699c6d57a330489f2b14a495?page=1
12/3(木) 11:02配信
https://npb.jp/bis/players/23123886.html
成績
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/show_img.php
男松井秀喜、故意死球のあとサヨナラヒットで感情を爆発させる
暗黒期の阪神に入団した迷助っ人
阪神時代のメイ
1998年3月、阪神が新しい助っ人投手の入団を発表した。その選手の名前はダレル・メイ。彼こそが、後にNPB史上初となる阪神と巨人の両チームに所属することになった選手だ。
1992年のドラフトでブレーブスに入団したメイは、そこでは目立った活躍はできなかった。しかし、エンゼルスに移籍後の1997年は先発候補として期待され、29試合に登板。結果は2勝止まりだったが、今後を期待される若手の1人だった。一方、1990年代に入り不振を極める阪神は、チーム再建のために年齢の若い助っ人を求めていた。そこで、当時25歳で今後の「伸びしろ」に期待できるメイに白羽の矢が立ったというわけだ。
期待の若手助っ人ということで期待されたメイだが、二軍で17イニングを投げて19被安打11失点とまったく使い物にならなかった。しかし、この年は湯舟敏郎など一軍の先発左投手が相次いで離脱したため、同じ左のメイを一軍に昇格せざるを得ない状況に陥る。
期せずして一軍昇格を果たしたメイは、球速は140キロそこそこながら、鋭い変化球を武器に安定した投球を披露。二軍登板時とは別人のような投球で、6月6日の横浜戦(札幌円山)で来日初勝利を挙げると、そのまま先発ローテーションに定着。エース・籔恵一とともに阪神投手陣をけん引した。ところが、当時の阪神はいわゆる暗黒期で、メイは好投しながらも貧弱な打線のおかげで満足な援護が受けられず、1年目は4勝(9敗)しか挙げることができなかった。
2年目で数々の騒動を起こしたメイ
2年目は野村克也氏が阪神の監督に就任。リーグ上位を目指し、前年に好投したメイにも大きな期待が掛けられた。しかし、シーズンの半ばからメイの「問題児ぶり」が徐々に浮き彫りになっていく。
特に巨人戦では、松井秀喜に故意と思われるデッドボールを与える(1999年5月29日)、判定に怒って審判の胸を小突く(1999年7月18日)など、今も双方のファンの記憶に残るトラブルを起こした。このうち、後者の事件は審判に暴力行為を行ったとして2週間の謹慎処分が下される。しかし、ここでおとなしく謹慎しないのがメイ。なんと謹慎期間中に「歯の治療をする」とうそをつき、恋人と海外旅行に行ってしまったのだ。
この年の阪神は最終的に最下位に沈んだものの、シーズン半ばまで上位争いをしており、メイの騒動はチームの上昇ムードに水を差すこととなった。そのため、野村監督はメイを激しく非難。これに対してメイは逆切れし、両者は激しく対立することとなった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/033fa1c63adae71d699c6d57a330489f2b14a495?page=1
12/3(木) 11:02配信
https://npb.jp/bis/players/23123886.html
成績
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男松井秀喜、故意死球のあとサヨナラヒットで感情を爆発させる