傾き始めた太陽がオレンジ色に染めるコートで、ふたりは声をかけ合い、笑顔を交わしながら、黄色いボールを追っていた。
愛媛県松山市で開催された、ITF(国際テニス連盟)公認のジュニアテニストーナメント。伊達公子の尽力により産声を上げた新設大会で、彼女たちはペアを組みダブルスの試合を戦っていた。
与えられたシードナンバーは『1』。前週に山梨で開催されたジュニア国際大会でも、ふたりはダブルスで頂点に立っている。
170cmの長身選手がドライブブレーを打ち下ろせば、もうひとりは軽快なフットワークでボールを拾いまくり、柔らかなタッチでドロップショットを相手コートへと沈めた。
長身選手の名は、石井さやか。しなやかな細身の選手は、久保杏夏(きょうか)。
そのふたりのことは知らなくても、両者の父親の名は、耳に馴染みがあるはずだ。
石井の父は、元プロ野球選手の石井琢朗。横浜ベイスターズと広島東洋カープでプレーし、通算2432安打を記録した名野手だ。久保の父は、元サッカー選手の久保竜彦。快足と跳躍力を生かしたダイナミックなプレーで人気を博し、『ドラゴン』の愛称で知られたゴールゲッターである。
久保杏夏の名が、テニス界で広く知られたのは4年前。彼女が小学6年生の時である。全国選抜Jr.テニス選手権と、全国小学生テニス選手権で二冠を達成。国内では敵なしで、その視線は早々に世界へと向いていた。
父が著名アスリートであることも知れわたり、また久保本人も、その事実を重荷に感じているふうはなかった。現役時代から寡黙で知られる父は、「俺は娘には口出ししないから」とうそぶいたが、娘は「歩いている時の姿勢や、食べるものもいろいろ言われるんです」と、無邪気に父親の素顔を明かす。
「ジュースはダメだからスポーツドリンクを飲んでいたけれど、最近はスポーツドリンクもダメって言われるから、お水くらいしか飲めなくて」
笑顔でそうこぼしていたのは、中学1年生の頃だった。
だがその後、彼女の名前が、華やかな舞台で記される機会は減っていく。
「ここ数年は、ケガばっかりで......。とくに腰がずっと悪いんです。腰椎分離症とヘルニアが合体して、大会に出ても1、2試合が限界なんです」
かつての快活な口調とは異なる落ち着いた声音で、16歳になった久保が明かす。ケガのため試合出場そのものが減り、大会等に出ても、早期敗退が続いていた。
その久保と入れ替わるように、国内のジュニアタイトルを次々勝ち取り、国際大会でも結果を残すようになったのが、1歳年少の石井さやかである。
久保がケガに見舞われるようになった頃、石井は、久保と同じコーチの門を叩いた。
彼女たちが師事するのは、元デビスカップ代表選手であり、コーチとしては錦織圭らの指導経験を持つ米沢徹。現在は複数のジュニア選手から成る「TEAM YONEZAWA」を結成し、若手育成に手腕を振るう、この道の第一人者だ。
その米沢に指導を求めた理由を、石井は「世界的に活躍したいと思ったから」と明言した。
事実、彼女はTEAM YONEZAWAに加わった翌年に、小学生時代は手の届かなかった日本一のタイトルを掴み取る。恵まれた体躯に新コーチの指導が噛み合い、そこに勝負師のメンタリティが備わったがゆえの、潜在能力の開花だろう。
なお石井は、父親とテニスについて話す機会は少ないと言うが、かつて受けた精神面での助言は、今も胸に刻まれているという。
「前の私は、試合中にけっこうイラつくタイプで、心が乱れて負けることが多かったんです。お母さんは『そういうのダメでしょ』って言うけれど、お父さんは『イラついた時は、怒りを出してもいいから、すぐに切り替えて』って言ってくれて。お父さんはメンタル面をよくわかってくれるので、すごい助けられます」
その父の言葉を聞いてから、試合中の心持ちが「楽になった」と石井は言う。日頃の練習でも、すでに世界で活躍するトップジュニアとしのぎを削り、心技体を磨いてきた
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae2b01be09da5eca37bb37de92fca1e152449cd4