俺の場合アースの琺瑯看板のイメージが本当に強烈だな今でも。
あの看板、田舎の方に行くといまだにあるからスゴいよね。
由美かおるや官公学生服の看板と一緒に貼られている。
子どもの頃、近所にあの看板があったんだが、それが水原弘だとはまだ知らなかったし、そのときにはすでにこの世の人ではなかった事を最近になって知った。
今も田舎の方の子どもたちはあの看板を見て、俺の子どもの時と同じく「何このオッサンw」と
思ってるんだろうなw
そしてそれが日本で最初にレコード大賞を取った水原弘という歌手だと説明できる大人さえも
もうほとんど居ないんだろうね。
40年も前に他界してるのに今も看板として田舎で生き続ける不思議な水原弘w
へんな女というへんな歌唄うへんな歌手
「みずはらひろしぃ〜」クスクス( *´艸`)
水原弘は映画俳優でもあったんだよね。
水原弘の映画見てみたいな。
デイリーモーションで水原弘の歌いっぱいありますから聴いてみてください。
「黒い花びら」「黒い落ち葉」「黄昏のビギン」「君こそ我が命」など水原さん本人の曲のみならず
「白い花咲く頃」「逢わずに愛して」「マイウェイ」など
他の歌手の曲もカバーしています。素晴らしい歌唱力です。
ホウホウ看板
もう本人は40年も前にこの世にいないというのに看板だけは生き残っている、
ヘンな歌手、水原弘w
へんな女、久々に聞いたら、ずいぶんグレードの高いコミックソングだな。
今から50年近く前の曲だとは到底思えない。
知らない若い人に聞かせたら、まだ最近の曲だと思うだろうね。
黒い貝殻 耳に押しあて
波に聞く 夏の思い出 悲しい
嗚呼 嗚呼 嗚呼 嗚呼
嗚呼 嗚呼 嗚呼 嗚呼
冬の海に泣く 俺
砂浜に 涙のあと
黒い落ち葉が 夜の銀座を〜↑
風に吹かれる 暗い街角〜↓
>>9
「悪名波止場」
1978年は激動の年だった
水原は病気で、田宮二郎は自殺で逝き
勝新太郎と青山ミチは薬物で逮捕され
脇には藤田まことも出演していた
みんな、静かに散った今は亡いあの人たち 子どもながらに田宮二郎の自殺は覚えてるわ。
猟銃で自殺したとかショッキングな見出しで、毎日ワイドショーでやっていた。
あのタイムショックのハンサムなオジサンが何で自殺したのか子どもながらに謎だった。
>>18
教えていただき、ありがとうございます。
水原さん、亡くなる寸前まで仕事頑張ってたのに無念だったでしょうね。 誰にも渡せる愛じゃない
あなたのすべてが好きだから
>>1
ニューバランス(スポーツシューズメーカー)が不倫&被害者女性イジメのベッキーを起用
http://www.oricon.co...p/news/2094062/full/
2017-07-13 10:53
タレントのベッキー(33)が13日、都内で行われたニューバランス2017秋冬アパレル広告キャンペーン『#進化する個性』新作ビジュアルお披露目プレス発表会に出席。
15日から開始される同キャンペーンの広告キャラクターに起用されたベッキーは「すっごくうれしい」と目を輝かせた。
他人の家庭を破壊、一般人女性を芸能事務所ぐるみでイジメぬいたベッキーをニューバランスがCMに起用。
ニューバランスはイジメと不倫を容認する企業?
健全なスポーツのイメージとは真逆なドロドロ不貞ベッキー http://www.offshot.jp/30th/3017.html
水原ひろしさん
と言えば第一回レコード大賞を受賞された凄く怖いという印象の方でした。
その水原さんと東芝の番組で北海道へご一緒させて頂いた時でした。
旅の途中の飛行機の中でも少しお話しをさせて頂いたのですが、とにかく礼儀に厳しい方で
その事を得々とお話しされていました。そして札幌市民会館楽屋での出来事・・・
僕等と赤い鳥、そして水原さんが同じ楽屋で、水原さんの音合わせの最中に楽屋では赤い鳥
がミニコンサートばりにビートルズの唄などを大きな声で歌っていたんです。
やがて水原さんが帰ってきました、僕等は尾藤イサオという恩師から芸能界のしきたりや
礼儀などを徹底的に叩き込まれていましたので、散らかっている楽屋の整理に入りました。
しかし、赤い鳥のメンバーはそういう事を口うるさく言ってくれる先輩がいなかったのでしょう、
楽しそうに止めなかったんですよ。そうしたら、
水原さんが・・・ド迫力ある一言「皆の場だからコンサートは終わり」・・・く〜・・格好良かった!!
男はああじゃないといけないと心から思いましたっけ。 URLはれないので、『自惚れや、たまのらくがき、五七五』というブログより
どうでもイ〜ラストアーカイブス その353「中村主水」
シビレたといえば、魅惑の歌声。いつか聴いた、オリジナルを水原弘さんが歌った「黄昏のビギン」がどれだけ良かったことか。
歌う前に藤田さん、自らのMC…
「『てなもんや〜』が終わったと同時に私の人気も落ちました。
ちょうど、笑福亭仁鶴さん、桂三枝さん、横山やすしさん、西川きよしさんといった、吉本の若い人が出て来たころです。
そのころ私は、テレビから消え、ちょうど地方のキャバレーなんかを歌で回っていたんですが、
そのときに、水原弘さんに、『まこちゃん、この楽譜使いなよ』って、おミズ(水原弘)が自分のレパートリーの楽譜をコピーしてくれたんです。
楽譜と言えば歌手の命ですよ。にも関わらず、嬉しくってねぇ。
そうして私が、おミズの曲を地方のキャバレーで歌っていたときに、放送局から『今度、こういう時代劇の主人公に』とお誘いを受けたのが、『必殺〜』でした。
だから、おミズは『てなもんや』から『必殺』を繋いでくれた、恩人なんですよ
尾藤イサオ
当初は人気絶頂の「水原弘」のバンドホーイ兼前座歌手として活動していたが、
渡辺プロと提携していた「大橋プロ」の「ブルー・コメッツ」の専属ボーカル「鹿内孝」が独立したのを期にボーカリストとして迎え入れられた。
1981年1月サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバルで黒い花びらをカバー
URLはれないので、『健之くん応援委員会』というブログより
いい歌でした!!「忘れていいの」BS♪
以前、NHKのラジオ「ミュージックメモリー」という番組の中で、作曲家の平尾昌晃さんがおっしゃっていた言葉が印象に残っているのですが、そ
れは、歌手の水原弘さんや、当時彼のマネージャーだった長良じゅんさん(お二人とも、既に故人となってしまわれましたが)のお話をされる中で、
1973年頃に、平尾さん作曲で、水原弘さんが歌った「雪国」というワルツの話が出て、
きっと当時、水原弘さんも見事な歌いぶりだったのでしょう、
「男がうっとりするのが、歌謡曲なんですよ〜」と、感に堪えてたように語っておられたくだりでした。
http://ameblo.jp/counselors/entry-11241048573.html
「お水が俺のところに来て三年目に紅白に出たんだけど、それまでの大晦日は二人で浅草のスナックで飲みながら紅白を見てたんだ。
お水の先輩や後輩が画面に出ているわけ。いつか、あの場所に戻ろうなあ…って励ましあってね。
6年ぶりに紅白に出た年は二人で抱き合って泣いたなあ。
お水は照れ屋だから声を押し殺して泣いているわけ。
あいつの涙が俺のズボンの太ももにポタリポタリと落ちるんだ。
今もあのぬくもりは忘れないよ」 「どこまで太るんだろうか?と心配な時期があった」「米のご飯を止めて良かった」とインタビューに答えていた。
http://isaosuzuki.jp/history/episode06.html
その当時、水原弘も平尾昌晃のボウヤみたいなものだったけど、凄い歌唱力だった。
彼の歌はジャズではないけど、ジャンルが違っても素晴らしかった。
「ブルーソックス」も僕が作ったグループだ。
そこで森山加代子、水原弘の前座みたいな物だったけど。
当時、客で「ちょっと歌わせてくれよ〜」「ジェニージェニー歌わせてよ〜」とうるさい若者がいた。
水原が「おまさん歌わせてやろうか?」、僕は「いいよ」と言った。
(あいつは優しいから)
それが、何と驚くなかれ、あのジェリー藤尾だったのであ〜る。 http://miyearnzzlabo.com/archives/24871
(玉袋筋太郎)まあでも、天下のスターのね、水原弘さんの付き人から始まり、あれも、この本で読んだんですけど。お金がね、手を四本出して、4万円だと思ったら4千円だったっていうエピソード。
(小林悠)その、月収がね。『4』って出されたから。
(なべおさみ)4千5百円ですから。アパートの・・・
(小林悠)家賃が。
(玉袋筋太郎)(笑) http://www.tontonclub.com/visit/walk/06/
後藤
それは「日比谷イン」というナイトクラブでしょ。良くジャムセッションをしてましたね。ス
テージの前にダンスフロアーがあって、踊れるようになっていた。今の松本楼も米軍に接収されていた。
五十嵐
そんなこともあったね。
後藤
確か澤田駿吾さんのバンドが出ていて、チェンジバンドがハワイアンでした。水原弘が出ていたのを覚えているわ。
原田
水原弘はそれから歌謡曲の世界に行って、「黒い花びら」で第1回の日本レコード大賞を取って、スターになってしまった。 福井県鯖江市の西山公園のウクレレ地蔵
http://www.geocities.jp/shinfuji_jp/jizou.html
水原弘さんはNUA掲示版に岩本さんが書かれているように、山口銀次とルアナ・ハワイアンズの歌手としてデビューし、
その後歌謡曲の歌手に転進した方で、当時はハワイアン出身の歌謡曲歌手は大変たくさん居たようです。
古い話ですが、今は形骸化してしまった「日本レコード大賞」の第1回大賞を「黒い花びら」で受賞した歌手水原弘さんはわが国音楽史を飾る人物でした。 http://yapou.club/archives/710
康 もちろん。当時彼が銀座で一番可愛がっていたのが歌手の水原弘。
『黒い花びら』で一世を風靡したばかりのころですよ。
それで、勝ちゃんの場合、飲むと言っても一軒では済まないわけだから。
最初水原弘と2人で飲んでても、4、5軒はしごするうちに20人、30人になっちゃう。
もう誰が誰だかわからないわけですよ。
それで最後はラテンクォーターに行って飲むわけでしょ? http://to-ryo.com/menu01/2012/06/-2274-50-4542.html
初めて会ったのは45年前の昭和42年、水原弘が「君こそわが命」でカムバックした時で、兄事した名和治良プロデューサーの仕事だった。
僕は水戸のキャバレーで水原の心底を見定め、惹句の「三千万円作戦」を作ってお先棒をかついだ。
そこから長い親交を得た歌手水原、作曲者猪俣公章、作詞の川内康範、制作の名和ちゃん、宣伝の田村広治…と関係者を一人ずつ見送ったが、
まさか長良氏と、ハワイで客死というこういう形で別れることになろうとは…。 URLはれないので、『ピアノは語る グラスは微笑む』というブログより
「ラソンブル」でライブ演奏
ドラマーの白鳥洋一さんは85歳、現役最年長と思われます。
ブルーソックス(水原弘バンド)の初代ドラマーで後にはリーダーも務めました。
https://news.infoseek.co.jp/article/cyzo_20140721_558901/
映画の撮影で京都に滞在した水原弘と勝新太郎。
総理大臣の月給が25万円だった当時、祇園に繰り出した2人はなんと1カ月で120万円も酒に費やしてしまったのだ。
もちろん、所属する渡辺プロダクションの社長・渡辺晋から叱責を食らうのはなべの仕事だ。
また、若き日の石原裕次郎、美空ひばり、勝新太郎、水原弘の4人が一堂に会し、夕方6時から朝7時まで新橋で毎晩飲み明かすという、
今では考えられない宴会が行われていた。この席にも、なべは付き人として毎晩同席していたのだ。 http://boutyoutei.webcrow.jp/rou1.html
「52年10月15日、ホテルニューオータニのレストランで、筆者は水原に会った。
あいかわらず向う意気は強いが、疲れのにじんだ表情で、皮膚も黄色っぽい。
アルコールを禁じられているのに、ワインを口にしつつ、『それにしても高利の金は恐ろしい。しかしオレなんかはまだいいんだ。
たとえ芸能界の第一線から消えても、ヤクザの掌の上に乗っけられて、借金の肩がわりにカラダを担保に取られるよりはましだよ』」
(水原弘−−「タレント残酷物語」)
「昭和53年7月5日午前7時28分、水原弘は死んだ」
「肝硬変による食堂静脈瘤破裂、すさまじい吐血をくり返した挙句の、無惨な末期であった。
その前年の10月15日に、ホテル・ニューオータニで会った時、死相がすでにあらわれていた」(「タレント残酷物語」)
「最後に会ったとき、水原はしみじみと私にいった。『すくなくとも俺は、他人には金をもうけさせたよなあ、労さん(と彼は私を呼ぶ)』
『休めっていうけど、休んだらかえって俺はゼンマイがきれてしまうような、そんな気がするんだ。
歌いつづけていないと、落伍してしまうんじゃないかと、不安になっちまう。そいつが労さん、タレントの業っていうやつだろう?』」
「馬鹿をいえ、もうとっくに落伍している。1周遅れてトップになることだって、と私はいいかけてやめた。
水原はしんじつ淋しい、すがりつくような眼をしていたから」
「わかれぎわに、勘定を自分でしようとする水原に、『きょうは取材だよ、こちらで払うのが筋というものだろう』と制止すると、人
なつこい笑顔になって、『そんなことをすると、いまに水原弘になっちまうぞ』」(「タレント残酷物語」) http://www.m-tigers.net/koyuroku/n1101.html
並木輝男
1938年11月15日生まれ。東京都出身。1957年に阪神入り
人付き合いは幅広い。芸能界にも顔が利いた。
レコード大賞歌手の水原弘(故人)さん、クラリネット奏者の鈴木章治さん(故人)らと、同席して杯をかわせたのも並木さんの顔。
同氏が結婚式を挙げた時の媒酌人は、勝新太郎(故人)さん、中村玉緒さん夫婦だったが、
このお二人の結婚式に、『枯れ木も山の賑わい』で出席させていただいたのも並木さんからのお誘いがあったから。
あの豪華な披露宴には目を丸くした記憶がある。 http://archives.mag2.com/0001369693/20111206231415000.html
水原弘さんはこの年(昭和33年)春のウエスタンカーニバルではパラダイスキングのメインボーカルとして
「国境の南」というスタンダード曲を歌いながらステージを左から右へ横切って行きましたがその歌声と姿がものすごくカッコ良かったのです
そんな中ある日水原さんが新しいバンド「ブルーソックス」を作った事を知り渋谷に聴きに行きました
まだ中1で一人では入れて貰えないので母親について行って貰いました
この日のステージの事は母親も覚えているそうですが水原さんが声をかけてくれました
そうして忘れられないのがこの日水原弘さんとその時デビューしたばかりのジェリー藤尾さんが掛け合いでリトル・リチャードのレディテディを歌った事です
まだ白人音楽のウエスタンが主流の時代に黒人のR&Bやロックを積極的に取り入れて
「黒いフィーリングを持つ歌手」と呼ばれた水原弘さんは翌昭和34年に「黒い花びら」で第一回のレコード大賞をとりました 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:7bff9ed63942b4cd01610d20b2c06e65) 1998(平成10)年度 渡辺プロダクション創立40周年記念碑的社史
「抱えきれない夢〜渡辺プロ40年史〜」
弟3章 106頁
www.watanabeforum.com/publication/40th/pdf/wbp04.pdf
16/17
http://www.yuiyuidori.net/iryou-fukusi/kumiaiho/2012/115/115_01.html
――思い出に残るエピソードなんかもお聞きしたいですね。
元倉● 入職した翌年に、北九州健和総合病院に内科の研修に行ったんですが、
ここで初めて、洗面器いっぱいに血を吐くというのがどういうものかを経験しました。
ここは労働者の町で、酒の飲み過ぎで肝硬変の人が多くて、食道静脈瘤が破裂すると、大量の血を吐くんです。
ちょうど水原弘がコンサート公演で来ていて、肝硬変で吐血して、健和総合病院に入院してきました。
夜にもう1回吐血したため、鼻からバルーンのついたチューブを挿入して止血する方法があるんですが、主治医と一緒にそれを水原弘にしたことがあります。だけど、大出血すると、あの頃はそれ以上やれることがなくて、結局、その後に病院で亡くなりました。 http://indy.main.jp/fc/monologue/2007/3/13.html
何でも、生前の水原に最後に取材したのが大下英治さんなのだそうで、
水原に「今、いい歌手は誰だと思う?」と尋ねられた大下さんは、「五木ひろしはどうか?」と窺いを立てます。
それを聞いた水原は、即座に「ダメだ」といいます。
なぜダメか。
「アレ(=五木)はココ(=喉)で歌っている。オレ(=水原)はココ(=胸=ハート)で歌っている」
と死期が迫った真っ青な顔の水原は、自分の胸板を叩いていったといいます。 http://rockcandy1013.blog.shinobi.jp/tokusatsu/entry_1153
やはり自伝の中で特に印象に残ってるのは、
歌手・水原弘さんの付き人時代の話から仮面ライダーアマゾン出演までのエピソード。
この辺の話は他のインタビュー記事でも読めますが、自伝では更に詳細に書かれています。
役者を目指して上京し、運良く日活の研究生になったものの、
勉強嫌いでサボってばかりだった岡崎さん。
そんな岡崎さんを歌の力で改心させたのが、水原弘さん。
私が生まれる前の歌手なので、全然知らなかったのですが、
第1回日本レコード大賞受賞者なだけに素晴らしい歌手だったのでしょう。
その素晴らしさが、文面からひしひしと伝わってしました。
付き人時代では、水原弘さんを御大と呼び、心から慕っていたようです。 https://entertainmentstation.jp/60524
中村八大から「黒い花びら」の相談を受けた長田は、「ビクターのフランク永井なら10万枚はいくよ」と言った。
中村八大は自分がオーディションして選んだ水原弘のしゃがれたハスキーな低音のおかげで、
「今までにないセンスの曲ができた」と自信を持っていたので、彼が歌うのがベストだと考えた。
そこで東芝レコードに自分の思いを伝えるとともに、日本の新しい音楽を作っていきたいとアピールすることにしたのだ。 http://kobe-kobecco.com/archives/12556
―元々は何故、水原弘さんの付き人に?
山下 中学生のころ、難波の大劇(大阪劇場)で水原弘さんのショーを見ました。
水原さんは、楽器は弾きませんからマラカスを持って歌います。
バックでバンドが演奏するのですが、そこからGS(グループサウンズ)「ザ・スウィング・ウェスト」が誕生します。
僕は「エエなあ」と思うようになり、何度か通ううちに水原さんから「なんでこの世界に憧れているのか?」と聞かれ、「好きやからです」と答えました。 http://hakodate.dreamlog.jp/archives/919969.html
故 函館出身歌手 長瀬晴美
はるみさんは、水原弘さんのボーヤ、ジュニアはドラムの、チコ菊池さんのボーヤ経験があり、
ボーヤ仲間らのネットワークがあるみたいです。
赤坂で仕事中(作曲家猪俣公章先生の経営)、水原弘さん(御大)が来て席に呼ばれ、レミーマルタン御馳走になりましたよ。
後から、知りましたが猪俣公章先生と水原弘さんとは切っても切れない恩義理の関係でした。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) https://tabepro.jp/954
楽器をやり始めたのは、「水原弘とブルーソックス・オーケストラ」に入ってから。
本当はドラム志望だったんだけど、なぜかラテン打楽器のコンガで。
当時の日本にコンガをやっている人は少なかったから、師匠なんて当然いない。
パーカッションのライブを聴きに行ったりして、独学でワザを盗みながら覚えていったんだ。 昭和53年7月5日西日本新聞朝刊
3時のあなた「悲運水原弘が危篤に」など おミズが存命なら、どんな歌手になっていたか気になる
さよなら映画、また近いうちに 単行本 -- 1997/10/1
田山 力哉 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4873762065
映画界の害虫よ去れ!死を賭して闘った評論家田山力哉の魂魄の著作集。映画界を震撼させたキネマ旬報の辛口コラム、映画祭の華・カンヌレポート、
傑作実名小説『水原弘』『渥美清』、蔵原惟繕、深作欣二、黒木和雄、篠田正浩、降旗康男、ジェームス三木、菅原文太、原田芳雄、岩下志麻らが無頼派評論家・田山力哉を偲ぶ。
『レコード大賞 水原弘の死』 http://www.littlejohn.jp/hidaka_goro_show/kotobano_vitamin05.05.07.htm
「新吾おまえオレの事思い出しただろ?」ってから、
「私は仕事するたんびに、これは勝新太郎恩師に、喜んでもらえるだろうか?少なくとも恥かいてないだろうか?と、思ってました」と
「そうだろ?思い出したろ?オレもサインのたんびに思い出した」
座頭市のサインは私が考えたんですよ。
「だから、オレは何万枚サインしてるかわかんないから、何万回もおまえを思い出した。
新吾な!裕次郎も死んだ。水原弘も死んだけど、オレはよく思い出す。思い出したときにそいつは生きてるんだよ!
で、傍に居るんだよ!おまえはオレを思い出したろ?だからオレはおまえの傍にいつも居たよ!オレはおまえを思い出したよ!
だからおまえはオレの傍に居たよ!だから30年こうやってったって、なぁんにも久しぶりじゃないじゃないか!」こうおっしゃった。 http://kei561208.hatenablog.jp/entry/2016/08/04/111710
1959年には「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。しかし第1回とあり、今の華やかなものではなく、
永 「局の前の喫茶店の2階で授賞式があった。コーヒーが出てるだけ」
外山「レコード大賞の1回目は」
吾郎「授賞式がステージじゃなくてカフェ。なんかゴルフのコンペみたな感じだね」
永 「今だからレコード大賞って分かるけど、1回目は誰も何だかわからない」
外山「1回目は永さんが、作詞なさった“黒い花びら”、水原弘さんの。が、受賞したんですよね」
永 「そう」
外山「1回目はそうですよね」 http://www.geocities.jp/fujiskre/kca7.html
1959(昭和34)12月15日、当時赤坂にあった日本コロムビアで日本作曲家協会制定の
第1回日本レコード大賞の最終審査が行なわれ、水原弘の歌う「黒い花びら」が受賞作品に決まった。
当時の日本作曲家協会の会長は古賀政男。この賞は、レコード歌曲の向上と発展を目的として
制定されたものだったが、当時は一般の関心がうすく、12月27日(日)の午後に文京公会堂で
開催された受賞発表会には観客もまばらだったため、止む無く会場の外を通りがかる人に頼んで
観客になってもらったというエピソードも伝えられている。
受賞した「黒い花びら」は、永六輔作詞、中村八大作曲によるもので、同年7月に公開の東宝映画
「青春を賭けろ」の主題歌として製作されたもの。当初はこの映画の主演だった俳優の夏木陽介に
歌わせる予定だったが、楽曲がむずかしいことから歌手が歌うことになり、当時まだ新人だった
水原弘に白羽の矢がたった。
作詞の永六輔、作曲の中村八大、共に歌謡界ではまだ名前の知られていない時代、新人歌手の水原弘、
そして、レコード業界では新興だった東芝レコードから発売された「黒い花びら」が、レコード大賞の
最初の受賞曲だった。
東芝レコードは現・東芝EMI、旧・東芝音楽工業。1955(昭和30)年9月から電機メーカー
東京芝浦電気(東芝)の中の音楽ソフト部門としてレコードを発売しており、このヒットが出た翌年の
1960(昭和35)年10月から東芝音楽工業として独立した。 水原弘さんに関する多くの貴重なエピソードありがとございます。
http://www.abegeorge.net/essay/131128.html
あれは借金だらけになった水原弘が、横浜のハコで唄っていた頃だから、昭和44年の暮だ。
水原弘は、俺が青山でやっていた「ロブロイ」のお客でもあった。
低音の魅力で一世を風靡した大歌手に恥を掻かせたくなかった俺は、
子分も連れず自分で運転して横浜のキャバレーまで行ったのだが、楽屋で見た光景に胸が詰まった。
俺より先に楽屋に来ていた金貸しに、口から出任せの言い逃れやカラ約束を言いたてる様子が哀れで、
俺は無利子で用立てた集金をする気も失せてしまった。
その当時の俺はマスコミの言う暴力団で、正確に身分を名乗れば、
二卒会(ニビキカイ)小金井一家新宿東貸し元、矢島武信舎弟、安部直也ということになる。 http://www2062uh.さくら.ne.jp/sp/relay/81-2.html
−−日野さんがミュージシャンとして活動し始めたのは中学を出てすぐだったんですか?
日野:そうですね。
僕は花村菊江、野村雪子、曽根史朗、そういう人たちの歌謡曲の伴奏を町内会のコンサートで吹いていましたから、
中学のときには新宿の「リド」っていうキャバレーに毎日行っていたんです。
上手くは吹けないけど一応お金はもらっていました。
そして卒業と同時に厚木の米軍キャンプで水原弘の伴奏をやっていたバンドに入りました。 「白い花が咲く頃」など水原弘がカバーした曲は、本家より上手ですね。
まるで、違いますね。
懐メロのように感動的にお金持ちになれるのはなぜ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
THL6L
おミズが「ダニー飯田とパラダイスキング」に在籍していた当時をメンバーだった佐野修さんが「ヤクザっぽくて、きっぷもよかったから、メンバーは次郎長と呼んでいた」と語っています。
おミズが「ダニー飯田とパラダイスキング」に在籍していた当時をメンバーだった佐野修さんが「ヤクザっぽくて、きっぷもよかったから、メンバーは次郎長と呼んでいた」と語っています。
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☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。☆
そのためには、公的年金と生活保護を段階的に廃止して、
満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば
財源的に可能です。頒布も含め、よろしくお願い致します。
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>>文字から受ける雰囲気だと29は激怒して叱りつける、>>31は毅然と注意してる雰囲気
年齢的に丸くなったのか、相手がアマチュアバンド出身っぽい赤い鳥だったからなのか? 昨日の第60回レコード大賞で「黒い花びら」の映像が流れていませんでした
40回記念の頃は流れていたんだけど・・・
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 607 -> 600:Get subject.txt OK:Check subject.txt 607 -> 607:Overwrite OK)0.85, 0.62, 0.59
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板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 607 -> 600:Get subject.txt OK:Check subject.txt 607 -> 607:Overwrite OK)1.06, 1.12, 1.00
age subject:607 dat:600 rebuild OK!
デビュー曲の「黒い花びら」がちゃんとステレオ録音されてた
当時としては珍しいことだ
>>112
時系列が変ですね
歌手か曲かどれかが記憶違いなのか?
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 609 -> 603:Get subject.txt OK:Check subject.txt 609 -> 609:Overwrite OK)1.36, 1.48, 1.48
age subject:609 dat:603 rebuild OK!
>>128
いや、それはない。
オミズはうまいが、本家にはかなわない なにこの神スレ。
水原のエピでいっぱい。
やばすwww
真ん中に産まれちゃ困るじゃない〜か〜
今ならトランスジェンダーの団体からクレームがついてNG
星野陽平『芸能人はなぜ干されるのか』 78ページ
水原弘がマナセ→ナベに移籍したのは引き抜きだって書いてある
『水原は会社設立までという口実でマネジメントを渡辺プロに委託したが、半年も経たないうちに渡辺プロに所属することになった。
身内からタレントを引き抜いた晋に対し、曲直瀬正雄は「あの泥棒野郎!」と激怒した』