台湾の音楽やグルメが楽しめるイベント「台ワンダフル」が18日、東京都渋谷区の恵比寿リキッドルームで開催され、約800人(主催者発表)の来場客でにぎわった。
日本と台湾の音楽交流は近年、ますます盛り上がりを見せており、互いの音楽イベントに双方のアーティストが出演するほか、アーティスト同士の共演も多く行われている。
こうした現在に至るまで、両者の音楽における関係にはどのような変遷があったのか。日本と台湾が深い関わりを持った、日本が台湾を統治していた時代から振り返ってみた。(金谷かおり)
■日本統治時代、一人の男性が台湾レコード産業の発展に影響
日本は1895〜1945年の50年間、台湾を統治していた。統治時代に対して台湾では、公衆衛生の向上やインフラ整備などへの評価がある一方、差別など負の面があったことも記憶に刻まれており、捉え方は各個人や年代によってもさまざまに異なる。
台湾には、かつて中国大陸から渡ってきた人たちが多く住んでいる。台湾出身で日本統治時代における台湾の音楽について研究している国立奈良教育大の劉麟玉准教授(音楽科教育)によると、日本が統治した当初、台湾の漢民族社会で広く一般的な音楽(台湾伝統音楽)は中国大陸に由来するものだった。
1900年代に入ると、日本では欧米から入ってきたレコード産業が発展し始め、その波は間もなく台湾にも到達する。
劉准教授によると、「11年には『日本蓄音器商会』の出張所が日本全国各地にあり、そこには台湾の台北や『朝鮮の京城』(現在の韓国・ソウル)も含まれていました。
台北の出張所は後に『台湾日蓄商会』となり、その後『台湾古倫美亜販売(台湾コロムビア)』となります。日系では他に『勝利』などがあり、30年代になると台湾人が経営するレコード会社も出てきました」。
「日本蓄音器商会」は現在の日本コロムビア、「勝利」は日本ビクターで現在のJVCケンウッド(音楽事業は子会社のビクターエンタテインメントに継承されている)にあたる。
統治時代の台湾で発行されていた新聞「台湾日日新報」には当時、日本蓄音器商会の蓄音器「ユーホン」や新曲レコードの発売などを宣伝する広告が度々掲載されていた。
劉准教授によると、20年代半ばから台湾日蓄商会、台湾コロムビアの代表を務めた栢野正次郎という人物が、台湾におけるレコード産業の発展に一役買ったという。
「当初の台湾日蓄商会は(台湾に住む)日本人に向けて日本の曲を販売していました。しかし栢野氏は日本の曲に加え、台湾人が歌う台湾語(現在の台湾の公用語である北京語とは異なる地元の言語)の歌や伝統演劇などをレコードにして販売することに熱心でした。
日本から台湾へ録音技師を派遣したり、台湾人の歌い手を日本に派遣して録音したりすることもあったようです」
そして30年代になると、台湾人によるヒットソングが続々と生み出されるようになった。注目に値するものとしては、●(=登におおざと)雨賢という作曲家による「望春風」や「月夜愁」などがある。
しかし、戦時色が強まると「望春風」は「大地を招く」、「月夜愁」は「軍夫の妻」へと、それぞれ日本の軍歌に書き換えられていった。
劉准教授はこうした統治時代についてこのように話す。
「学者として客観的事実に基づいて言うと、日本による統治がなかったとしても台湾の音楽は別の発展の仕方があったかもしれません。偶然、統治された結果、台湾は欧米よりも近い日本から音楽産業が入ってきて発展していった。
そこにおいて栢野氏の果した役割は、商売のためであったとしても一定のものがあります。一方で、戦争や戦後混乱期における空白がその後の台湾の音楽に与えた影響は、まだ十分に検証されていないのも事実です」
■戦後、共通した「アイドル黄金期」
日本の敗戦後、台湾では大陸から渡ってきた中国国民党による統治が始まった。台湾では日本統治からの解放と国民党による統治を歓迎するムードもあったが、国民党は大陸における中国共産党との内戦が激化するにつれて台湾への支配を強めていく。
http://www.sankei.com/entertainments/news/170819/ent1708190005-n1.html
(>>2以降に続く)