2019年を振り返ると大きな事件がたくさんあったが、私にとって忘れられない出来事の1つは11月末に中曽根康弘元首相が101歳で亡くなったことだ。
日本外交史からすると中曽根氏は、それまで日本政府が曖昧にしようとしていた日米同盟の「軍事的」意味をはっきりさせ、米ソ冷戦構造の中での日本の地位を西側の一員として確立させた首相だ。実際の表現は少し違ったそうだが、中曽根氏が言ったとされた「日本は太平洋に浮かぶ不沈空母」という言葉は有名だ。
アメリカとの協力を強化しつつ、日本の自主性も追求した「中曽根外交」は、私が日本外交に興味を持ったきっかけの1つだった。実は大学院生だったころ、中曽根氏に直接お会いしてお話をうかがったことがある。
そのころ私は、武器輸出三原則による制約の中で、アメリカに対する武器技術供与を認めた中曽根氏の決断について論文を書こうとしていた。しかし公開資料は少なく、どのように調査を進めたらいいのかもよく分からず、とても困った。そこで、ほとんどわらにもすがる思いで知人を通じて中曽根氏に質問の手紙を出した。2004年のことだ。
相手を尊重する姿勢にあふれていた
事前の予想とは裏腹に、すぐに中曽根事務所から「お会いしましょう」との返事が来た。国会近くの事務所を訪ねたとき、テレビや新聞を通じてしか知らない大物政治家に日本語で質問しなければならないということで、どれほど緊張したか。
言葉に詰まっていると、「あなたは韓国からの留学生? 私は日本の首相として初めて韓国を訪問したんだよ」。中曽根氏は、そうにこやかに語り掛けて、私の緊張をほぐし、韓国についての思い出などを挟みながら、私がちゃんと聞きたいことが話せるように誘導してくれた。時には私に質問もし、答えにも興味深そうに耳を傾けるなど、相手を尊重する姿勢にもあふれていた。
事前の手紙で主な関心事項をお伝えしていたので、準備もしてくださったのだろう。中曽根氏は私の質問に対して、当時の情景描写とともに、次々と具体的な人名を挙げた。卓越した記憶力に感銘を受けたし、そのおかげでその後、当時の秘書官や関係省庁の方々に話を聞くことにもつながった。こうした調査は普通、実務者から話を聞き、最後にトップにたどり着くものだが、私の場合はまるで逆になってしまったのだった。「韓国からも、他の国からも、もっと多くの留学生に日本に来てほしいんだよ」。インタビューの場で、そう励まされたことも強く印象に残っている。
思えば首相就任直後の1983年、「留学生10万人計画」を打ち出したのも中曽根氏だった。各国からの留学生を受け入れ、知日派を養成することによって日本とそれぞれの国との友好関係を発展させようとの政策だ。実は私も日本の文部省から奨学金を得て留学に来ていたので、そもそもその政策の恩恵を受けていた。そう考えると、中曽根氏は自分の政策で増やしたからこそ、留学生には親切にし、丁寧に対応しようと決めていたのだろう。
「留学生10万人計画」はその後、福田康夫政権時の2008年に「留学生30万人計画」となり、今の安倍晋三政権にも引き継がれている。私のように、計画を決定したご本人から親切な対応を受けるのはさすがに特殊なケースだろう。ただ、日本に来た留学生がその後、日本についてどんな印象を持ち帰り、日本とどう関わり続けるかは、留学時代の経験や思い出の一つ一つに大きく左右される。
中曽根氏の留学生に対する思いや姿勢が、これからも日本社会に広く引き継がれていくことを願っている。
<本誌2020年1月28日号掲載>
https://www.newsweekjapan.jp/amp/tokyoeye/2020/01/post-10.php?page=2
2020年1月24日(金)19時40分
外国人リレーコラム 李 娜兀(リ・ナオル)
日本外交史からすると中曽根氏は、それまで日本政府が曖昧にしようとしていた日米同盟の「軍事的」意味をはっきりさせ、米ソ冷戦構造の中での日本の地位を西側の一員として確立させた首相だ。実際の表現は少し違ったそうだが、中曽根氏が言ったとされた「日本は太平洋に浮かぶ不沈空母」という言葉は有名だ。
アメリカとの協力を強化しつつ、日本の自主性も追求した「中曽根外交」は、私が日本外交に興味を持ったきっかけの1つだった。実は大学院生だったころ、中曽根氏に直接お会いしてお話をうかがったことがある。
そのころ私は、武器輸出三原則による制約の中で、アメリカに対する武器技術供与を認めた中曽根氏の決断について論文を書こうとしていた。しかし公開資料は少なく、どのように調査を進めたらいいのかもよく分からず、とても困った。そこで、ほとんどわらにもすがる思いで知人を通じて中曽根氏に質問の手紙を出した。2004年のことだ。
相手を尊重する姿勢にあふれていた
事前の予想とは裏腹に、すぐに中曽根事務所から「お会いしましょう」との返事が来た。国会近くの事務所を訪ねたとき、テレビや新聞を通じてしか知らない大物政治家に日本語で質問しなければならないということで、どれほど緊張したか。
言葉に詰まっていると、「あなたは韓国からの留学生? 私は日本の首相として初めて韓国を訪問したんだよ」。中曽根氏は、そうにこやかに語り掛けて、私の緊張をほぐし、韓国についての思い出などを挟みながら、私がちゃんと聞きたいことが話せるように誘導してくれた。時には私に質問もし、答えにも興味深そうに耳を傾けるなど、相手を尊重する姿勢にもあふれていた。
事前の手紙で主な関心事項をお伝えしていたので、準備もしてくださったのだろう。中曽根氏は私の質問に対して、当時の情景描写とともに、次々と具体的な人名を挙げた。卓越した記憶力に感銘を受けたし、そのおかげでその後、当時の秘書官や関係省庁の方々に話を聞くことにもつながった。こうした調査は普通、実務者から話を聞き、最後にトップにたどり着くものだが、私の場合はまるで逆になってしまったのだった。「韓国からも、他の国からも、もっと多くの留学生に日本に来てほしいんだよ」。インタビューの場で、そう励まされたことも強く印象に残っている。
思えば首相就任直後の1983年、「留学生10万人計画」を打ち出したのも中曽根氏だった。各国からの留学生を受け入れ、知日派を養成することによって日本とそれぞれの国との友好関係を発展させようとの政策だ。実は私も日本の文部省から奨学金を得て留学に来ていたので、そもそもその政策の恩恵を受けていた。そう考えると、中曽根氏は自分の政策で増やしたからこそ、留学生には親切にし、丁寧に対応しようと決めていたのだろう。
「留学生10万人計画」はその後、福田康夫政権時の2008年に「留学生30万人計画」となり、今の安倍晋三政権にも引き継がれている。私のように、計画を決定したご本人から親切な対応を受けるのはさすがに特殊なケースだろう。ただ、日本に来た留学生がその後、日本についてどんな印象を持ち帰り、日本とどう関わり続けるかは、留学時代の経験や思い出の一つ一つに大きく左右される。
中曽根氏の留学生に対する思いや姿勢が、これからも日本社会に広く引き継がれていくことを願っている。
<本誌2020年1月28日号掲載>
https://www.newsweekjapan.jp/amp/tokyoeye/2020/01/post-10.php?page=2
2020年1月24日(金)19時40分
外国人リレーコラム 李 娜兀(リ・ナオル)