0001蚯蚓φ ★
2020/08/19(水) 17:31:06.27ID:CAP_USER100年前には「檀君神話」という言葉は存在しませんでした。檀君神話という奇怪な用語は<高麗史>、<朝鮮王朝実録>はもちろん、<三国史節要> <東国通鑑>等官撰司書、そして数多くの儒学者の文集にただの一度も出てきたことがありません。檀君神話は日帝が我が国の歴史を歪曲して作り出した用語です。「檀君神話」という言葉が登場したのは1921年、日本人、今西龍が「檀君考」という博士論文で初めて使いました。
日帝は<三国遺事>に比喩的表現で簡単に記録された内容を根拠に檀君を熊の神話に変身させます。動物学的に絶対ありえない遺伝子変換で檀君神話を操作し、朝鮮民族を先祖と歴史がない民族にしてしまいました。
このような植民史学が解放後もそのまま継承され、まだ私たち国民は国祖檀君を熊が祈って変身した熊女と男に変わったファヌン(桓雄:天帝桓因の子で天下った神)の息子と思っている人々がいます。真に悲しいことに違いありません。<三国遺事>にある熊と虎の話は熊部族と虎部族を示したもので、熊が人になったというのは野蛮な状態から修道を通じて性格が回復し人間らしくなったことを意味します。
なぜ日本は檀君を神話だと操作したでしょうか?
日本が檀君を神話にした最大の理由は彼らが朝鮮人に植えようとした歴史観が日本天皇中心の「皇国史観」だったからでした。ところが檀君の朝鮮建国史は紀元前2333年である一方、日本神武天皇の建国史はせいぜい紀元前660年で朝鮮の歴史がはるかに優位にあり、皇国史観確立のために必ず除去しなければならない人物が檀君だったのです。このような理由で日帝は檀君が建てた古朝鮮の歴史をなくして三国時代から朝鮮の歴史が始まると歪曲しました。
日帝は1916年1月に朝鮮総督府傘下の中枢院に「朝鮮半島史編纂委員会」を発足し、1922年に「朝鮮史編纂委員会」に拡大改編、1925年に「朝鮮史編集会」を組織し、檀君朝鮮史を否定する植民史観に立った本格的な朝鮮史編纂作業をしました。朝鮮史編集会で植民史観で朝鮮史を主導した人物は日本人では今西龍、三浦周行、韓国人ではイ・ビョンド、シン・ソクホなどが植民史観に立って本格的な朝鮮史編纂作業をしました。
壇君王建を「檀君神話」にするのに同調した人物がイ・ビョンドです。イ・ビョンドは光復になってもソウル大史学科教授、文教部長官まで過ごしました。そのようなイ・ビョンドが死ぬ直前に改心しました。すなわち「檀君は神話ではなく実在し、私たちの国祖という事実を認める。」という改心文を1986年10月9日付け朝鮮日報に掲載しました。
このように檀君を神話にした人物が歴史歪曲を認めたのに、まだ私たちは日帝が作った檀君神話フレームに閉じ込められ、私たち自ら檀君を歴史ではなく神話と歪曲する呆れ返る仕事をしています。
ある人はこのように言います。「檀君を神話と感じようが歴史と感じようが関係ないのではないか、それが今の私たちに何の関係があるのか」と尋ねます。檀君が神話ならば私たちの弘益(ホンイク)精神も根本がない実体がない精神になります。しかし、檀君は歴史なので私たちの弘益精神は根本があり実体がある精神になります。
歴史的ルーツがない実体のない精神は力がありません。イエス、釈迦、孔子、ソクラテスの思想と精神が人類に大きな影響を及ぼしているのは歴史的実体があるためです。そのため檀君を神話として正しく知らないことは弘益精神の価値を傷つけ力を失わせることになります。
私たち民族は開国以来、朝鮮朝末期まで檀君は私たちの国祖であり私たちは檀君の子孫でした。ところが対日抗争期35年をたどりながら檀君の歴史は神話に変調しました。一日も早く日帝が私たちの国祖檀君にかぶせた神話のくびきをはがして檀君史話としての歴史的実体に復元しなければなりません。
そのためには熊が人になって檀君を産んだという童話の内容から変えて乳児期からの誤った国祖檀君のイメージを変えなければなりません。そして「私は檀君の子孫だ。」と誇らしく言うべきです。
*このコラムは本紙の編集方針と関係ありません。
イ・ファヨン教師(仁川計算工業高校)
ソース:コリアンスピリット(韓国語)檀君神話は日帝が作った
http://www.ikoreanspirit.com/news/articleView.html?idxno=59583