・Disgusting moment diners 'sprinkle pubic hair into food' at Indian restaurant before refusing to pay for their £70 meal
イギリスのランカシャーにあるレストラン、ジャーンズ バーベキュー キッチンに設置された監視カメラの映像に、不快な映像が捉えられた。
この映像には2人の客のうちの一人が、カレーとケバブのプレートの上に、自分のショートパンツから手を入れて引っこ抜いた陰毛をふりかけている様子が映っている。
その後、この客は70ポンド(約9,900円)の食事代の支払いを拒否したという。
支払いの際に彼らが食事の上に毛があると言い出したため、店のマネージャーはすぐに監視カメラの映像をチェックしたのちこの映像を確認、客らを営業妨害だと非難した。
彼らは10分間にわたる言い合いをしたが、客は20ポンドだけを置いて店を去ってしまった。
店のマネージャーによると、この客らは2人で食べるには多すぎるメガプラッターというメニューをオーダーしており、これは3個のナン、チキンビリヤニ、ラムビリヤニ、チキンカラヒ、ラムカラヒ、シークケバブ、チキンケバブ、6つのラムチョップ肉を盛り合わせたもので、6人分の食事にちょうどいい量だという。
※詳細はリンク先へ
動画:
(画像)
15:30 BST 02 Sep 2020 Daily Mail
https://www.dailymail.co.uk/news/article-8689443/Disgusting-moment-diners-sprinkle-pubic-hair-food-refusing-pay-70-meal.html >>2よく考えると大した事ないが2で書き込んだ事による加点で評価されるべき。 店名忘れたけど、女の子のマークのファストフード店
日本には店舗ほとんどなくなってしまった
前に本国のアメリカで人間の指が豆のスープに入ってて
その客がクレーマーで指を入れた犯人だったって事件あったよね
店側は悪くないのにあの店といえば、というイメージになってしまったな
なんて店だっけ?
監視カメラを突きつけられた後にも言い争い・・・客側の言い分が気になるw
俺は観光旅行のお土産屋で万華鏡買おうとしたら店員の若い姉ちゃんが無愛想だったから文句言って帰って万華鏡覗いたらチリチリの毛がたくさん入ってて
姉ちゃんがわざと自分のマン毛を入れたことに気づいたよ〜ん
昔おれは授業で「揺りかごから墓場まで」
というのを習った
流石はイギリスなんて思ったもんだ
実は植民地政策で成り立っていただけじゃないか
フォイエルバッハは言った、台所で泣くものだけが真実を知ると。
そしてまたここは華厳の場所でもある。甘さにも辛さにも原因があり、
因果の連携こそが表面的な現象の本質を見抜いて勝つ、それを教える場所。
腐ったもの、遺伝子組み替え、隠れモンサント、見抜こうと思ったら
見てくれだけではダメ、経過、実態、そして自分のカンも、……台所そこは?
うまくやれば、みぞゆうを三枚に下ろしてみじん切りにできる場所。
これ能天気過ぎますかね? まあ、台所脳ですな。
そう、台所な脳なんです。台所な脳でないとだめだめです。
たかが未曾有ごときで無力になったら千載一遇のカモにされるから、
でんでん、でんでん。
証拠を出してもゴネて逃げるなんて
まるで韓の付く国の人みたい
ネオリベ、TPP、劣化評論、文学叩き。見殺しというより
いそいそと殺しにかかる権力妖怪でんでんにみぞうゆう、
弱いものを生贄にすることで助かろうとする穢れ「信仰」の呪術男。
コロナ禍であらわになったこの国の本質の見抜きを12ページでまとめた、
今の笙野文学総集編。収録された『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』
(河出書房新社)出版は2020年5月です。
来月刊行予定の『会いに行って――静流藤娘紀行』でも大きく扱われている『志賀直哉・天皇・中野重治』。その中野重治を台所に呼び出して語りかける作家。「四十年ほども死んでいてもう世間を見ていない」中野重治に現状を丁寧に説明するわけですが、それが近々復刊する『水晶内制度』から『だいにっほん三部作』『ひょうすべの国』『ウラミズモ奴隷選挙』まで総まとめになっていて、近作をあまり読んでない方にも「入門」としてお勧めです。
自由貿易は誘ってくる。さあ、国境を越えよう自由な行き来をしよう
それは弱肉強食の旅、女湯も越えよう、「平等」に一律に妊婦に放射能を、
自由に女を殴り子供を犯そう、移民は閉じ込めて奴隷にしよう。
われわれは「平等」だ、まきちらせまきちらせ。もっと苦しむように、
死をまきちらすのだ。しかし金だけは外国へまきちらそう。
そうすれば国びとは「平等」に苦しむから。この毒こそがでんでんの権力、
みぞうゆうの減らず口。
さて、みぞうゆうの復興における「千載一遇」のTPP詐欺、EPA地獄、
でんでん、その後もまた打ち続いて、みぞうゆうの各県災害中、
「千載一遇」の日米貿易条約、でんでん、でんでん、そしてついに、
みぞうゆうの、疫病、「千載一遇」の(ばかーっ!)でんでん。
さあ、スポンサー大事のマスコミが切断して隠れ蓑にしてしまった、
コロナ「騒動」に紛れ、今から一層「やりやすい」五月の国会だ。
今まで不幸はどこか遠いところで知らない少数の人間が受けているものだった。
しかしこれからはみんな「平等」になる。ここの国びとは。もう連帯するしかない。
それは、今から? もとい、大分前からずっとそうすべきだった
(つまり先述のように)。
原因は天変地異ではないよ経済政策だよ。
コロナの死も今後は、未知の新種の疫病で死ぬのではない。
ただ見慣れた政府の延長線上において、生きられるものも死んでいくだけだ。
健康でも本土でも、男性でも。昔はこういうの棄民って言ったよね?
ところが今は拡大して一億総棄民、国びとは棄てびと、グローバル棄民主義。
「健康でも本土でも、男性でも」
では文学は。無力、無効、売れない文学に意味はない、と皆さんおっしゃる
文学にいったい何ができるのか。ちゃんと分かりやすく書いてあります。
というかいつもちゃんと分かりやすく書いてあるんです。
因果を捕らえずに単独の表層だけを見ていたら見かけの似ている偽物が
その上を覆うから、捕獲されるから。因果関係を切って身振りだけをして
来る存在は正体が判らないしかし台所から見てみればそれは、妖怪みぞうゆう。
文学の仕事は、そんな本質の見抜きという地味な仕事である。
それが極私的言語の効能であり、いつも始原の混沌に帰ったり
自分の歴史を振り返って、身辺を書いていく必然性である。
予見は自ずからそこに生まれる。むろん知っている些細な事を
すべて使う心構えだけ。ていうか、そもそもコロナの前に医療は
無効とか言うか? 予防さえも無効なのか生活指導も無効なのか?
手洗い声かけも無効なのか? そんなはずはない。
毎度毎度同じ構造の危機言説がやってくる。すべてあやかしだ。
切断されているから恐く大きく見える。
それで一体何が無効なんですか? だって無効になる程大層な事を文学で
しているつもりは「ない」んですよ。ただ、コロナが収束した後も、
自分が生きられるようにしておかなければならない。
生きられるようにすることが文学なだけだ。それまで自由貿易をくい止めて
戦争も止めて、何よりも自分が存在するための免疫を守るんだ。そして未来は、
今まで払った私の国民年金(少額)をきちんと貰い、
公営水道の水で洗った国産の蓮根や巨峰を安心して食べ、
テレビで令和妖怪の連続逮捕を見たいんだ。
デモは一年に一度さえも、なかなか行けないけれど、
昨年秋は殺民売国って段ボールに書いて、官邸前に行って農民連や食健連の人に
混ぜて貰って、座りこんできた。リウマチで少ししかいられなくて悪いけど。
ID:9UIXyDQ4
著作権侵害で賠償請求と逮捕だね
時はTPP批准、高プロ法成立、水道法の改悪から約半世紀後、
舞台は世界企業の植民地となった奴隷国「にっほん」。
そこは世界銀行に住む妖怪ひょうすべと、その手下にして政権与党
「知と感性の野党労働者同盟(略称・知感野労)」、
その党員ジュニアで構成される「NPOひょうげんがすべて
(略称・ひょうすべ)」に支配されていた。女性も時にその手下となり、
ひょうすべの婦人部である、「野党リベラルフェミニズム、
手をつなごう男とだけ(略称・ヤリテ)」に加入して偽のフェミニズムである、
イカフェミニズムで同性を苦しめていた。
かつては世界一豊かだった国、しかし愚かにもTPP批准で国家主権を失った。
そのジェンダーギャップも114位からさらに底辺へ。
性暴力、経済暴力、差別暴力が支配原理となり、
男尊化と植民地化はとどまるところを知らぬ。少女は遊郭に送られ、
農地は核廃棄物の置き場にされ、痴漢とヘイトスピーチを警察が守り、
国民の75パーセントは債務の奴隷。井戸は埋め立てられ水道代は五倍、
払えぬ人々は川の水を汲んで逮捕される。女性は幼女妊婦までも滅亡の危機に……。
ならば? 死ぬしかないのか?
逃れよう、隣国へ! 方法は二通り。
ひとつは自力での移民や亡命、もうひとつは隣国ウラミズモへの
帰属を決定する投票、奴隷選挙である。もしこの奴隷選挙に勝てば
その選挙区はにっほんから離脱できる。ただしこれらで救われるのは
、実は女人だけ。というのもこのウラミズはまさに女人国で、……。
旧茨城県を領土として、不意に出現した歴史浅き国。
ここには危険施設の引き受けを独立条件とした黒歴史がある。しかし今では……。
TPP不参加のゆえに水と食べ物に恵まれ、国家主権は保たれ、
老後も医療も無事。子供は外国の精子を買ってシングルマザーかダブルマザー
(夫婦ならぬ婦婦)で産む。女性移民も受け入れ、人口は増えていた。
むろんユートピアではない。監視カメラだらけの警察国家である。
三百年後の男女平等を目指すと称し、男性の人権を制限していた。
まず、国境からの男性侵入者を射殺、
にっほんが後始末を押し付けてくる痴漢強姦犯は、国家施設
「男性保護牧場」で見世物にし、その他には美男奴隷を観光資源にしている……。
ああ、にっほんは地獄、でも民主主義のない国ウラミズモは??
さて、あなたならどちらに住みますか
そういいながらここの女性たちは独特の笑い方で、
「はははははははは、はっ」。
「はははははははは、はっ」。
おいでよ女人国へ、ようこそウラミズモへ
>汚れつちまつた悲しみに
>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる
>たとへば狐の皮裘(かはごろも)
>小雪のかかつてちぢこまる
>なにのぞむことなくねがふなく
>倦怠(けだい)のうちに死を夢む
>いたいたいしくも怖気づき
>なすところなく日は暮れる……
1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)の中原医院で生まれた。両親の柏村謙助・フク夫妻は結婚後6年あまり子供に恵まれず、中原家当主の政熊にも実子がいなかったため、長男の誕生をおおいに喜び、3日にわたって誕生祝いを行った。当時、父の謙助は軍医として旅順にいたが、手紙で「中也」と名づけるよう送ってきた。10月、生後6ヶ月で母・フクと祖母・スヱと関東州の旅順に渡る。中也を手元で育てたいという謙助の希望によるものだった。翌年の夏、謙助は山口に任ぜられ、一家は山口の中原家に戻った。翌年には広島に異動。
1911年4月、広島女学校付属幼稚園に入学。謙助はよく中也を連れて釣りにでかけたが、自分たちと階層の違う近所の子供とは遊ばせなかったという。1912年9月、謙助は三等軍医正(少佐)に昇進、金沢に異動。翌年から中也は北陸女学校附属第一幼稚園に通う。
なんだ犯人はやっぱり乞食韓国人なんだな。
ガースーには是非とも、在日韓国人・韓国人・韓国系帰化人の国外追放を達成してほしい。
1914年、謙助は朝鮮の竜山に栄転するが、学齢に達していた中也はフクとともに中原家に戻り、地元の下宇野令小学校に入学。成績優秀で「神童」と呼ばれた。1915年、謙助は上司に申し出て山口に転任、中原家と養子縁組、中也の苗字も「柏村」から「中原」に変わった。この年、弟の亜郎(つぐろう)が脳膜炎で死去。中也は後年『詩的履歴書』に、詩作をはじめたのは「亡くなった弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である」と記している。政熊が軽い中風に倒れたのをきっかけに、謙助は予備役編入を願い出て許可され、1917年に中原医院を継いだ。
1918年、中也は山口師範附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)に転校。ここでも成績優秀で、戦闘的でありながらひょうきんなところがありクラスの人気者だったという。中也の両親は教育熱心で、フクが予習復習を受け持ち、謙助は納屋に閉じ込めたり煙草の火を踵に押し当てるなど厳しい懲罰を与えた。湯田温泉の風紀がよくないのを心配して外で遊ぶのを禁じ、溺れるのを恐れて水泳もさせなかった。小学校6年のころから短歌を作り始め、フクとともに『婦人画報』に投稿、1920年(大正9年)2月号で次選になり掲載された。また『防長新聞』(戦後に存在した同名紙とは別の新聞)にも短歌を投稿、入選している。
1920年4月、12番の成績で山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学。しかし読書にふけり、成績は80番にまで下降、教師が家に注意したので、小遣いがもらえなくなり、立ち読みをしたり、図書館を利用するようになった。2学期の成績は50番まで持ち直したが、2年生ではどん底の120番まで落ちる。このころ、中也は両親に隠れて、防長新聞の短歌会「末黒野の会」に出席していた。この会で知り合った吉田緒佐夢、宇佐川紅萩と歌集「末黒野(すぐろの)」を1922年5月ごろ刊行。中也は「温泉集」と題した28首を収めた。飲酒や喫煙を覚えた「不良少年」となっており、成績はさらに下降した。
1923年、3年生の原級留め置き(落第)が決定。通知を受けた謙助は落胆し、数日間往診に出なかった。一方中也は級友を勉強部屋に集め万歳をして答案を破いた。祖母スヱが「この位のこと何です」と部屋を掃除したという。
落第したことで中也が山口中学にいたくないという意思を示し、謙助も世間体が悪いということで転校させることになった。1923年4月、京都の立命館中学校3年に編入、中也は一人で下宿生活を送ることになった。秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読んで衝撃を受け、ダダイズムに傾倒、詩作を始める。3歳年上の女優・長谷川泰子と知り合い、翌年から同棲する。泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優として月給をもらっていたが、解雇されてからは中也の居候となってしまう。帰省した中也が痩せているのを案じた中原家は仕送りの額を増やしている。
1924年、7月から11月まで京都に滞在した6歳年上の詩人、富永太郎と親交を結ぶ。富永太郎は連日中原の下宿を訪ねて語り合った。富永太郎が頼ってきたのは京都帝国大学文学部国文科在学中で立命館中学の非常勤講師を務めていた冨倉徳次郎だった。作文の時間、詩を書いてきた中也は冨倉の家に呼ばれるようになり、やがて大学生グループと展覧会を見に行ったり酒を飲んだりするようになる。中也は「ダダさん」の愛称で呼ばれた。12月初旬、富永太郎は東京に戻る。喀血したことを医師に診断してもらうためである。
1925年、中学を4年で修了した[注釈 1]中也は、大学予科受験を理由に泰子と上京する。日本大学や早稲田大学を希望していたが、書類不足や遅刻で受験できず、予備校に通うという条件で仕送りを受け、東京住まいをはじめた。富永太郎の紹介で東京帝国大学仏文科1年の 小林秀雄と知り合う。11月富永太郎が結核で死去。同じ頃泰子が中也のもとを去り、小林と同棲する。
1926年、日本大学予科文科に入学するも1科目も試験を受けないまま、9月退学。実家には知らせなかった。その後アテネ・フランセに通いフランス語を学ぶ。富永太郎や小林が参加していた同人雑誌『山繭』に「夭折した富永」を寄稿。東京で中原の書いたものが活字になったのはこれがはじめてである。翌年の10月、高橋新吉を訪問。また自分の詩集の刊行を考えはじめる。
1928年、5月4日に前衛音楽グループ「スルヤ」の第二回発表演奏会で、諸井三郎が中原の「臨終」「朝の歌」に曲をつけて歌う。中也は前年知り合った河上徹太郎を通じて、詩を持ち込み曲をつけてくれと頼んでいた。3月に往診先で倒れた謙助は病床で印刷された歌詞を読んで涙を流したという。5月16日謙助が死去。中也は謙助が倒れてから月に1度見舞いに帰省していたが、母のフクは世間の目を気にして葬式には帰らせず、喪主である中也は病気であるということにして取り繕った。謙助の一周忌には、中也が中学2年の時に書いた「中原家累代之墓」を墓碑に刻んだ
1929年4月、同人雑誌『白痴群』創刊。同人は中也の他に河上徹太郎、村井康男、内海誓一郎、阿部六郎、古谷綱武、安原喜弘、大岡昇平、富永次郎が参加。後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳を毎号発表。しかし中原が大岡、富永次郎と争ったり、原稿の集まりが悪くなったりしたことで、翌年4月に6号を出して廃刊となった。以後「雌伏」の時期となり、詩作が止まる。
1930年、9月に中央大学予科に編入学。12月、小林と別れた泰子が築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産。中也はその子に「茂樹」と名づける。種痘を勧めたり、あせもや小さな傷を気遣う手紙を書いたり、時には一日預かるなど可愛がった。
1931年、中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学。授業は午後5時から2時間だけの夜学だった。中也はフランスに留学するため、外務書記生の試験を受けようと考えていた。9月26日、4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核で死去。父の死に目に会えなかった中也は恰三を見舞ったあと、母のフクに「もし恰ちゃんが死んだら、こんどは死に顔をぼくに見せてから焼場へつれてってください」と伝えて上京。フクは言われたとおり恰三が亡くなると中也を呼び戻し、死に顔を見せてから焼場へ連れていった。中也は泣かなかったが「恰三のことがかわいそうでならぬといったふう」だったという
1932年、6月に初の詩集『山羊の歌』の出版を計画。1口4円で150口、600円集まれば200部印刷する予定だったが、申し込みは知人10名ほどで、7月にもう一度募集を出したが、申し込みはなかった。中也と親しい大岡らは払い込んでもどうせ飲んでしまうに決まっているとの判断だった。フクからも300円送ってもらったが、製本まで資金が足りず、刷り上った本文と紙型を安原喜弘が預かっている。このころノイローゼになり、強迫観念や幻聴があったが、年末から年明けの帰省で回復。
1933年、3月に東京外語専修科を中程度の成績で卒業。外務書記生の道はあきらめ、近所の学生にフランス語を教えて小遣いを得ていた。『山羊の歌』を出版するべく、出版社に持ち込むがうまくいかなかった。12月、『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行。この翻訳がはじめての商業出版である。本が売れたことで中也は小林秀雄とともにランボーの代表的訳者として名を残すことになった。無印税だったが、中也はこの訳詩集を中原本家はもちろん遠い係累にまで送った[4]。
同じく12月、遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚。中原思郎著『兄中原中也と祖先たち』59頁によると、「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直な子であった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかもしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば、素直な結婚はその一つの不思議である。見合いは吉敷の親戚中村家で行われた。上野孝子は下殿中原家の親類筋にあたる。中原系族間の結婚である。」という。中原家地元の温泉旅館「西村屋」[5]で身内だけの結婚式と盛大な披露宴を行った[6][7]あと上京。
1934年、10月に孝子が郷里で長男・文也(ふみや)を出産。11月『山羊の歌』が野々上慶一の文圃堂から出版されることが決まる。装丁は高村光太郎、四六倍判、貼函入り、背表紙は題、著者名が金箔押しという美装豪華本である。12月10日、3円50銭で市販された[8]。この後帰省、文也と対面した。翌年3月まで郷里に留まり、ランボーを翻訳するが、長門峡に遊んだ際吐血している。
1935年、3月末単身上京。前年出版された『山羊の歌』は好評であり、詩壇とも交流、原稿依頼も来るようになった。また1月から小林秀雄が『文學界』の編集責任者となり、中也は4月以後毎号新作の詩を発表した[9]。しかし詩だけで家族3人が生活していけるだけの収入は得られず、フクは月100円以上の仕送りをしていた。中也は文也を可愛がっていたが、一緒になって遊ぶというより、文也が遊んでいるのを見守るという接し方だった。
1936年、日本放送協会の初代理事だった親戚の中原岩三郎のあっせんで協会の文芸部長との面接に出かける[10]。定職についてほしいというのがフクの希望だったが中也にその気はなく、入社することはなかった。6月25日、山本文庫より『ランボオ詩抄』刊行。生涯初めて印税を受け取る[11]。11月、2歳の文也の容態が急変、入院させる。中也は3日間一睡もせず看病したが、文也は小児結核で死去。葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フクがなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった。12月に次男・愛雅(よしまさ)が生まれたが悲しみは癒えなかった。幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡。フクと思郎が上京した。
1937年1月9日、フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある中村古峡療養所に入院させた。ここで森田療法や作業療法を受け、2月15日帰宅。騙されて入院させられたと孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ鎌倉町扇ヶ谷に転居する。5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。7月、小林秀雄、三好達治ら友人たちの間で第二詩集出版の話が持ち上がる[12]。しかし中也は心身を休めるため帰郷を考えていた。
9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されている。9月15日、野田書房より訳詩集『ランボオ詩集』が刊行され、売れ行きは上々だった。23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、翌日小林秀雄に渡している。夏ごろから良くなかった体調がさらに悪化、10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えた。歩行困難もありステッキをついて歩いていた。5日、鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(清川病院)に入院[13]。脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断された(今日では、結核性の脳膜炎とされている)。15日、フクと思郎が駆けつけたときは既に意識は混濁していた。明治大学で教えていた小林は1週間休講にして病室に詰めた。河上徹太郎は毎日東京から病院に通った。22日午前0時10分永眠。苦しむことなく安らかな死だった。通夜は22、23日と2日にわたって自宅で行われ、24日寿福寺で葬儀告別式が営まれた。葬儀からほぼ1ヶ月後、遺骨は『一つのメルヘン』で歌われた吉敷川近くの経塚墓地に葬られた[14]。
1年後の1938年1月、愛雅が病死。4月『在りし日の歌』が創元社から刊行された。
女の子主義とは簡単に説明すると、男の子が女の子に束縛されても、女の子は全ての場合において男の子から一切束縛されないようにしようという思想である。この主義に基づいた場合、例えば恋愛や結婚をする場合、男の子はまず女の子から直接許可を得なければならず、結婚の最終決定はこれに相互の母親と姉妹・義姉妹が加わる、というように男の子は私的にも公的にも全て女の子の意向に束縛される。
こういった思想を唱える国は当然経済・政治・社会・軍事が安定せず、長く存在することは出来ないのが普通である。
ちなみに日本の場合、こういった事を唱える方は「男尊女卑」とか「男女平等」といった大義名分のもと男性を「粗大ゴミ」「ウィルス」とバッシングしている場合が多い。 しかし冷静に考えると女<男(男尊女卑の法則)と男=ウィルスという主張のため、女<男=ウィルスとなる。要するに女<ウィルスという方式が成り立つ。 自分達をゴミ以下ウィルス以下と見るとは誠に謙虚である。この謙虚さは賞賛すべきであろう。
また、女の子主義者たちは男女平等と言っているため男性差別反対論者と同じ人たちだと思われるだろうが 実際に女の子主義者たちはものすごくそれらのものに攻撃的である。男のくせに情けないなどの罵倒にはじまり 挙句の果てには男性差別反対派はネトウヨと完全に定義や語義矛盾(人権擁護してるのは主に左翼のはずであるのだが・・)ととれる言葉を利用してくる。 とても男女平等という言葉を利用している人間とは思えない行動ではあるが、女の子主義はすべてのことは女の子のためにあるというご都合主義であるため全く矛盾していない行為なのである。 というか、女の子主義的に考えて当たり前でしょ(プンプン)。
ちゃんと提供された料理にケバブが入ってたんだから >>2 は優秀だと思う。
…俺の環境の日本語変換は「ケバブ」を知らんようで「毛バブ」と出してくるが。
顔にモザイクでなく、下半身にモザイクが必要な証拠画像だったら
英国紳士としてもっと高評価を得たんじゃないかと感じました。 世界的には女の子主義は欧米諸国や北米などで認められている傾向がある。それらの国では無理やり女の子の数を男と同数にしたり、社会進出のために様々な福祉政策などの制度を整えているのである。しかし、日本の女の子主義とは違い女の子に厳しい義務を認めることや国から専業主婦は怠け者と言われたり、女の子だけのサービスや専用施設に取りやめの勧告や違憲判決などがでたりするなど、どうも日本の女の子主義とは違い不完全な女の子主義が作られてしまっている。
それ故、日本の女の子主義に嫉妬した他国の女の子主義者たちが「日本の男女平等は遅れている」という批判を浴びせている。実際に男女平等指数で日本は下位にいるのはこのためであるとの指摘もあるが、日本の女の子主義者たちはわざわざ男女平等指数のランクを下げるように抗議するという謎の行為を行っている。これは日本の女の子主義をさらに強化しようとする意図があり、皮肉にも他国の女の子主義者たちの嫉妬心を逆手に取られた展開に持ち込まれてしまったのであった。
なお、イスラム諸国などでは女の子主義は基本的に否定されているが、説明はめんどいので割愛。
古代ローマの昔から(当時日本では弥生時代)、西洋文明はいかに女性の気を引くか、いかに女性に気に入られるかという技を磨いてきた。そのひとつの集大成がオウィディウス(前43年 - 17年)の「アルス・アマトリア」(邦題「恋の技法」)である。もちろんレディーファーストは基本だ。21世紀にもなって今さら女性の気を引くためにレディーファーストを身に着けようと努力している大和男子は、残念ながら彼らに2000年の遅れをとっているといわねばならない。
中世に入り、レディーファーストの技法は騎士道と結びついた。騎士は神と女性と子供を守る崇高な存在とされ、レディーファーストは女性を神のごとく崇め奉るための作法となったのである。実際問題として貴族の次男坊や三男坊は金持ちの女性をひっかけて永久就職しないことには、死して屍拾うものなし、となるので切実な問題だった。こうして強く正しく美しい騎士のイメージとそのイメージ作りのノウハウが次第に強化・洗練され、その騎士の振る舞いの象徴としてレディーファーストが取り上げられるのである。ただ、戦争というものはいつでもどこでも同じようなもので、騎士は戦場で検閲により削除やXXXXXのようなことをやっているのだが誰も気にしない。
いずれにしろ、このように長い時間をかけて社会に浸透した作法であるので、欧米においてレディーファーストは単なる習慣的な振る舞いに過ぎず、これにいちいち感激するようではあれがいくつあっても足りない。付け加えれば、本当の恋人になれば、日本人には想像もできないような甘く、美しく、めくるめく、とろけるような待遇を受けることができるらしい。やはり2000年の差は大きく、日本人男性にはいかんともしがたい。
近年、レディーファーストに関する歴史的経緯の検証が進み、その結果、レディファーストが女性の尊重という志向よりも、むしろ女性が男性よりも優れているはずがないという男尊女卑の志向から発生した文化であるとする結論を主張するグループが存在している。
即ち、女性は腹で考える生物という表現があるように、男性の思考では想像できない行動を女性が起こすことがある。こうした行動は公共福祉の向上、円滑な社会制度の運営の支障となるため、男性が一歩引く態度を示し、女性に優位性を感じさせることでそうした障害の発生を抑えるために発展した文化であるとするものである。
たとえば、男性が女性の荷物を持つという行動は、後述するように女性の財産を男性が支配するための手段であり、普段から荷物を持たせないようにすることで女性の身体負荷を軽減し筋力向上を阻止するのである。女性は荷物を持たせることで、身体負荷をかけることが無くなり、腹で考えた結果男性の上に立つという優越感に浸れることで精神的安定を図れるようになる。 上着を女性にかけるという行動も同様に、女性を寒さから保護することで、寒さに対する抵抗力を奪い、男性よりも体感性能で女性が上回ることが無いようにするのである。女性は、上着を男性からかけてもらうことで、自らは快適に過ごすことになり、腹で考えた結果男性の上に立つという優越感に浸れることで精神的安定を図れるようになる。
さて、気を取り直して、以下、レディーファーストの実践例をいくつか挙げる。歴史の重みはともかくとしても、振る舞いそれ自体は簡単なことだから、君も今からやってみよう。
建物や部屋を出るときは、ドアは男性があけてあげて外に出るのは女性が先である。男には家をでれば7人の敵がいる[1]。ドアの外に出たとたんにマシンガンで蜂の巣にされることがあるかもしれない。だから、女性が先に出てあたりを確かめるのである。女性には7人も敵がいないから、蜂の巣にされる危険も少ないという実に合理的な判断に基づく方法である。
女性の荷物は男性がもつ。何も無ければハンドバックまで持つ。ハンドバックには、もちろん彼女の財布・クレジットカード・携帯・免許証などが入っているはずだ。これはすべて現金ないし相当な額の現金に換えることが可能なものである。これを自分の手元においておかない手は無い。また、レストランなどで男性が会計をすることもレディーファーストの作法のひとつであるが、彼女の財布やカードを持っていれば便利でもある。
道路を歩くときは、男性が車道側を歩く。車道側を歩いていたほうが道路全体を広く見渡せ、よりいい女を見つけやすいからである。連れの女性より半歩程度後ろを歩くべきである。こうすると連れの女性に自分の表情を見られるのを防ぐことができる。さらに、このポジションであれば、本当にいい女を見つけた時、連れの女性とは他人のふりをしてデートの相手を即座に代えることも可能である。
階段やエスカレータで上るときも女性が先。女性の外見的魅力のひとつが腰つきであって、これをありがたく鑑賞しなければ失礼にあたるであろう。だから、自分の鼻先に女性の腰がくるよう、2、3段下を歩くべきである。ただし、あまりに魅力的だからといって、手で触ったり、お尻でパフパフしてはいけない。美術館で作品に手を触れてはいけないのと同じ理屈であり、そういう不届き者は蒲田行進曲[2]か戦艦ポチョムキン[3]を実践してもらうことになる。
似たような例では、部屋に女性が入ってきたときに、部屋に座っている男性一同は立ち上がって女性を迎える。これは「襲いかかりたいくらい貴女は素敵だ」というゼスチャーである。だから、デブスが入ってきた場合はかえっていやみになるのでしなくてよい。本当に素敵な女性には襲い掛かってもよいが、男性一同で立ち上がるのは「おまいらに抜け駆けはさせんぞ」と互いを牽制しあう意味もあるので、普通は女性が座るタイミングで、みんなで一斉に座ることになる。
タクシーなどに乗るときも女性が先。この場合、女性を先に乗せてそのまま女性だけ連れ去ってもらうことになる。女性にはその後どこかの大富豪のハレムで一生、リッチに、ゴージャスに暮らしていただこうという、究極の親切である。もちろん自分も何がしかの分け前をいただけることは言うまでもない。
それほど親切にしたくない場合は、自分も一緒に乗って彼女を家まで送ってもよい。字義通りのレディーファーストではないかもしれないが、それもお約束のひとつではある。そのときもやっぱりタクシーに乗るのは女性が先。後から男性が乗るとき、あるいは降りるときに女性は座席を横に移らなければならなくなる。あの狭いタクシーの中で座席を移ろうとすれば、スカートの裾が乱れてうふふ。
なんでこういうのって加害者晒さないの?犯罪者に人権なんて無いだろ
「ウェ〜イ」って感じだった丸山穂高議員
天皇陛下の即位を祝う「饗宴の儀」。この時、泥酔して皇族に不適切な振る舞いをしたと指摘されている人物がいる。“NHKから国民を守る党”の丸山穂高議員だ。
秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまと、次女・佳子さまに対する丸山議員の言動。
その詳細が、出席者たちの目撃証言でわかってきた。
出席者:
佳子さまに順番に挨拶をしていたら、丸山議員が「殿下! 殿下!」って言いながら突然割り込んできた。「ウェ〜イ」って感じだった
十数人の出席者が順番に並び、佳子さまに挨拶をしていた時、酒に酔った様子の丸山議員が、突然割り込んできたという。
出席者:
すごい勢いだったから佳子さまも動揺していた。こいつ正気かよと思った。周りにいた全員があっけにとられていた。話しかける前から、ずっと佳子さまの方を見てウロチョロしていた
さらに、丸山議員が眞子さまにプライベートなことに関して質問し、それを自慢するように語っていたと別の出席者は証言している。
■「問題がある行動は全くしていない」と否定
事実であれば、皇族に失礼との批判は避けられないものとみられる。
丸山穂高議員は21日記者の取材に対し…
丸山穂高議員:
確かにお酒は飲みましたけど、みんな飲んでいる場ですし…
などと「問題がある行動は全くしていない」として事実関係を否定している。
しかし、国会議員からは、“皇室行事に招待する人物の選別が必要”との声もあがっている。この問題では、国会でも調査が続いている。
政府が無能すぎて発言できない
「コロナ禍だけど頑張って」なんていったら終息したことにしたい政府と対立するからな 野党の力になってしまう
今上天皇ほんまにまったく出てこないな
大災害大災害&大疫病のとんでもない時代なのに
例えば「ウヨク」と言う単語聞くだけで街宣車以下略。
街宣やってるウヨは在日から金もらってやってるだけだから。
愛国心を捨てた日本人が再び愛国心持たないようにイメージダウンさせてくれって意味合いで。
企業活動の中でもしばしばボランティアで…発言。
ここは国有企業ではありませんから、と。
金ではなく、何事も行為で解決しようとするから、どこかアリガタメイワク。
「週末掃除手伝いに行くよ」とかorz
ウヨ派のベンチャーの社長さんと知り合いだが彼は凄いよ。
何事も、金。人も物も事も金で動かす。ある種投資家だと思う。
だけどそうやって得た金慈善基金してる。
実際河原のゴミ拾いとかするサヨなヤシいるけどさ、
そんな時間あったら働けと。働いた金で清掃させれば?と。
その方が何倍も有効かと。
イギリスのグルメ番組見てたら
イギリス紳士が食事中のワインを決めるのに試飲をしたいと言ったら
開けたらそのワイン全部買取になりますとボーイに言われて
試飲も出来ないのかと立腹して揉めてたな
すぐ監視カメラをチェックするあたり、たぶんこの犯人は今まで何度も支払い拒否してるんだろな
>>11
NHKだと「お粉」というらしい
某芸人さんがあそこでの収録で
「“お粉振りま〜す”ってやられるんすよ」
とラジオで言ってた
まあ岡村隆史さんなんだけど >>74
無駄な長文の大量投稿でスレッドから人が去るよう仕向けてる可能性もあるかと。
「また○○人が迷惑かけたのか」みたいな指摘が出ると都合悪い人とかね。 18からずっとπPANにしてるわ
最初の彼氏が外人だったからそうさせられた
ていうか涼しいから気に入ってる
店長「陰導を渡してやろう」と言ったとか、言ってないとか
目の前のオカズで抜こうとしたんだが、毛だけふりかけて遊んでみたんだよ
こういうことして楽しい人種がいるんだ
勿体ない
趣味悪い
頭も悪い
罰金どれぐらいとられるかな
日本だと防犯カメラの費用も請求される
>>84 >>106 の合わせ技。
あらかじめすっかり毛を剃っておいて、ふりかけ用の毛は別に持参、
今回の方法で支払い拒否、店の監視カメラ映像を突きつけられたら
大勢の客の前でパンツ下ろして「どこの毛だって?」と開き直る。
…みたいな手口が成立しそう。 自分でトッピングしたんだから
逃がさずに最後まで食わせりゃよかったのにな
分けわからん長文投下する奴が出てくると
ちよんが犯人っていうことに信ぴょう性が出る
>>12
ウェンディーズバーガー昔のボリュームに戻してほしい。
今のは ぶ厚すぎて注文する気になれない 店を去ってしまったじゃねぇだろw
呼ぶべきものを呼んどけよw
>>2
スレ立ってから1分以上時間があって、考えた結果がそれかよ
まったく称賛に値するな ロンドン五輪以降も続くロンドンでのテロ(に見せかけたどうせ中国テロ)で防犯カメラの設置台数に設置の仕方のマニュアル増えたの知らなかったんだろうな。
まぁイギリスなんだしせっかくだからテレビで晒して言い訳させてしっかり破滅させてほしい。親自殺しそうになるかな?うーん。
イスラムの人はひげをはやすから
無理に下のほうの毛でなくてもよかったのでは
>>129
「日本人の客が来たら料理にツバ吐いて出す」みたいな感じで、
「イギリスでは外国人客への嫌がらせとして料理に毛を混ぜてくる」みたいな
悪い噂があって、それに乗っかる形でインネンつけたのかも知れん。
もちろん実際どうなのか知らないけど。 いま、NHKBS1で【スコットランド・ハイランド横断紀行】を見てるんだが…
綺麗で雄大な風景がたまらないわ……行ってみたくなったわ。
>>1 警察には連絡したんだろうな。こんな映像があれば立派な営業妨害だもんな… >>10
評価に値しまい
「ケバブ」を引き合いにだした根拠が希薄 >>134
その食べ物の陰毛を調べたらキッチンの男の陰毛も混ざっていたとかなんとか