展示物から新見解について説明する富山市教委埋蔵文化財センターの学芸員=富山市婦中町安田の安田城跡資料館で、青山郁子撮影
15年前の富山城の発掘調査で見つかった火災の焼失廃材が、戦国武将、上杉謙信による一向一揆勢攻略(1572年)によるものではなく、初代城主とされる神保長職(じんぼながもと)(生年不明〜1572?)が1560年、退避前に自ら居城だった富山城に火を放った時のものである可能性が高まった。発掘調査した富山市教委埋蔵文化財センター(同市婦中町速星)と、富山市郷土博物館(同市本丸)の研究に基づく新見解で、安田城跡資料館(同市婦中町安田)で開催中のミニ企画展「秀吉の越中出陣前後の婦負」で紹介されている。【青山郁子】
03年度の発掘調査で、中世富山城の堀に堆積(たいせき)した土の中から、火災で焼けた跡が残る木材や粘土の塊、土器、炭化した穀類などが多数見つかった。土器の形状などから16世紀前半〜中ごろのものと判明し、同センターは当時、上杉謙信が、富山城を牛耳っていた一向一揆勢を攻略した際のものとする見解を発表していた。
しかし昨年、富山市郷土博物館で特別展「謙信 越中出馬」が開かれた際、萩原大輔学芸員が、謙信の書状の写しが収録された「新編会津風土記」に記された「神保在城号富山地自落」との一文に着目。長職が謙信に攻められ退避する際に、謙信に居城を使わせないよう自ら富山城に火を放ったことを示しており、03年度の見解を、両者で再検討した。
その結果、謙信側の史料から、一向一揆勢が平和的に富山城を明け渡していたことが判明。また、「自落」は近年の調査で、自らの家や城を焼き払う「自焼没落」を示すことが分かった。
安田城跡資料館の企画展では、出土物など約90点の史料を展示し、歴史学と考古学との学際的研究で判明した新事実を紹介。萩原学芸員は「富山城の歴史の新たな部分を知ってほしい」と話している。7月1日まで。入場無料。月曜休館。27日午前10時から、展示解説会、3月10日午後2時から萩原学芸員の講座「白鳥城は秀吉の本陣か?」もある。参加無料。
毎日新聞 2018年1月25日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20180125/ddl/k16/040/162000c?inb=ra
15年前の富山城の発掘調査で見つかった火災の焼失廃材が、戦国武将、上杉謙信による一向一揆勢攻略(1572年)によるものではなく、初代城主とされる神保長職(じんぼながもと)(生年不明〜1572?)が1560年、退避前に自ら居城だった富山城に火を放った時のものである可能性が高まった。発掘調査した富山市教委埋蔵文化財センター(同市婦中町速星)と、富山市郷土博物館(同市本丸)の研究に基づく新見解で、安田城跡資料館(同市婦中町安田)で開催中のミニ企画展「秀吉の越中出陣前後の婦負」で紹介されている。【青山郁子】
03年度の発掘調査で、中世富山城の堀に堆積(たいせき)した土の中から、火災で焼けた跡が残る木材や粘土の塊、土器、炭化した穀類などが多数見つかった。土器の形状などから16世紀前半〜中ごろのものと判明し、同センターは当時、上杉謙信が、富山城を牛耳っていた一向一揆勢を攻略した際のものとする見解を発表していた。
しかし昨年、富山市郷土博物館で特別展「謙信 越中出馬」が開かれた際、萩原大輔学芸員が、謙信の書状の写しが収録された「新編会津風土記」に記された「神保在城号富山地自落」との一文に着目。長職が謙信に攻められ退避する際に、謙信に居城を使わせないよう自ら富山城に火を放ったことを示しており、03年度の見解を、両者で再検討した。
その結果、謙信側の史料から、一向一揆勢が平和的に富山城を明け渡していたことが判明。また、「自落」は近年の調査で、自らの家や城を焼き払う「自焼没落」を示すことが分かった。
安田城跡資料館の企画展では、出土物など約90点の史料を展示し、歴史学と考古学との学際的研究で判明した新事実を紹介。萩原学芸員は「富山城の歴史の新たな部分を知ってほしい」と話している。7月1日まで。入場無料。月曜休館。27日午前10時から、展示解説会、3月10日午後2時から萩原学芸員の講座「白鳥城は秀吉の本陣か?」もある。参加無料。
毎日新聞 2018年1月25日 地方版
http://mainichi.jp/articles/20180125/ddl/k16/040/162000c?inb=ra