4世紀の外交を示す数少ない文字史料である七支刀(複製品)=大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で
「加耶」と呼ばれた朝鮮半島南部とのつながりをうかがわせる筒形銅器=大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で
「謎」があると歴史は面白くなる。大阪府立近つ飛鳥博物館(河南町)で開催中の特別展「4世紀のヤマト王権と対外交渉−東アジア情勢と古墳の変化−」は、信頼できる文献が少なく「空白の4世紀」と呼ばれる謎多き時代に焦点を当て、わずかな文字史料や古墳の副葬品などから輪郭を浮き上がらせる試みだ。
4世紀、中国の歴史書から倭国(古代日本)の姿が消える。3世紀以前は、いわゆる『魏志倭人伝』にある邪馬台国や卑弥呼の記述などから積極的な外交関係がうかがわれる。しかし266年に卑弥呼の後継者、台与(とよ)が西晋に朝貢して以降、5世紀の「倭の五王」の時代まで記録がなく、長く関係が途絶える。日本の外交に何が起きていたのか。
4世紀のわずかな文字史料の一つが、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)に伝わる「七支刀(しちしとう)」(国宝)だ。展示は複製品だが、表裏に刻まれた61文字の銘文を確認できる。内容については諸説あるが、大まかには「泰和4年5月16日、よく鍛えた鉄の七支刀を作った」「百済王の世子である奇生聖音が倭王のために作らせた」などとされる。「泰和」の年号は東晋の「太和」とみられ、369年に作られたことになる。日本書紀には百済から「七枝刀」などの宝物が献上されたとの記述があり、その関連性が注目される。4世紀後半、日本が朝鮮半島の百済と親密な関係を結ぶようになったことをうかがわせる「証人」だ。
古墳の副葬品も空白を埋める貴重な存在だ。展示を担当した広瀬時習(ゆきしげ)総括学芸員は「3世紀後半ごろまでは三角縁神獣鏡を中心に中国とのつながりを示す品が多いが、徐々に変わる。銅鏡は日本産とみられるものが増え、バラエティー豊かな石製品や特殊な青銅器がみられるようになる」と指摘する。
日本と朝鮮半島で同じ遺物が見つかることもある。「筒形銅器」と呼ばれる縦笛の先端のような形をした青銅器もその一つ。長さ15センチ前後で、やりなど長柄の武器の石突きだったとか、棒の先端に付けて祭儀具として使われたという説がある。韓国では最南部の王墓級墳墓から出土。この地域は当時「加耶(かや)」と呼ばれ、日本にとって大陸の玄関口となる重要な場所だった。日本では近畿から中国地方にかけての広い範囲で大小さまざまの古墳から見つかっており、それぞれの被葬者が朝鮮半島と行き来する中で入手した可能性も指摘されている。
展示を通じ、4世紀の日本外交が、南北朝時代という次々と王朝が変わる混乱期にあった中国から、朝鮮半島、特に加耶や百済へとその重心を動かしていたことがおぼろげながら見えてくる。広瀬さんは「3世紀から5世紀にかけては、巨大な前方後円墳が集中するエリアが移り、ヤマト王権内部で勢力の主導権争いがあったという考えも出されている。そこには、それぞれの勢力の独自の外交方針が影響していたのかもしれない」と指摘する。謎の世紀をめぐる想像は尽きない。
12月2日まで。月曜休館。近つ飛鳥博物館。【花澤茂人】
毎日新聞 2018年10月21日 東京朝刊
https://mainichi.jp/articles/20181021/ddm/014/040/047000c?inb=ra
★1:2018/10/21(日) 19:08:36.45
http://2chb.net/r/newsplus/1540141770/ 占領者である現代の朝鮮人は半島から出ていってください
適当考古学で食ってる文学部博士多すぎ
リストラしろよ
中国で1枚も出ない三角縁神獣鏡が中国と繋がっているとなぜ言えるのだろう
英雄イ・スンシンの功績
@秀吉軍が釜山を攻めて最前線の海軍(イ・スンシン二等兵)が逃げて秀吉軍を上陸させました。
A李氏朝鮮朝廷(ソウル)まで秀吉軍に占拠されました。
B海軍(イ・スンシン二等兵)が海上の日本の輸送船を襲いました(笑)→さらにまた襲いました(笑)
C李氏朝鮮が日本の手に落ちている事を今知りました。
D日本が平壌まで攻め落としました。
E明に助けを求めます。
F海軍(イ・スンシン一等兵)は勝てない事を察し攻める事をやめました、逃げたので朝廷から拷問を受け死刑判決に。
最古の記録が外国のものしかないジャップ
どんなにイキって嘘歴史作っても中華文明には遠く及ばない悲しさ
邪馬台国〜大和王権の〜の部分がテーマなんだから関係あるだろ。
東遷説をとるなら足跡の地であるはずだし、大和政権下ではしばしば政庁が置かれ
大王墓が造営される支配の中枢エリアだったんだから。
>>4
魏志倭人伝は、事跡と相当な部分で一致することが歴史家によって検証され済み。
まあ、日本の記述の「空白の4世紀」については、
前スレでも述べられていたが、当時の日本の国家の勢いが旺盛で、「中華」を自負する中国にとって鼻白むものだったからだろうな。
正確な記述を記そうとすれば、どうしても「日本称賛」になってしまうからな。 畿内説学者は安倍さんにそっくりです、
平気で愚にもつかない内容で嘘を吐く、
だから幼稚園児すら呆れている
大山古墳からちょっとなんか出てこないかねw
なんつーか、意図的にこの時代の記録は隠してるようにも思えるんだよね
ありがとう韓国。
ありがとう渡来人。
私たちジャップだけでは、今でも毛皮をまといこん棒を振り回していたことでしょう。
侵略と残虐行為を、ごめんなさい。
>「七支刀(しちしとう)」
これ 歴史泥棒が帽子掛けを振り回した物を刀として再現した代物
時期は 700年以後
>よく鍛えた鉄の七支刀を作った」「百済王の世子である
釜山出身 李明博 元大統領の孫
>>6
成分が一致するから中国製なのは疑いようがありません(畿内派) 土蜘蛛と温羅とか大蛇とか国栖とか熊襲とか蝦夷とか
これらが本来の邪馬台国人です。
東晋の「太和」四年(369年)解釈では日本書紀の記述と齟齬が生じる
書紀で補完したいなら西晋の「泰始四年」(268年)の説を採るべき
大阪を掘れば何か出てくるよ
都市化進み過ぎて発掘が全く出来てないから
>>24
魏の敵国だった呉の国で採れた銅だけどなw
明らかに呉が滅んだ280年以降の鏡wwww卑弥呼もう死んでるwwwwww >>10
おまエラだって同じだろうが(笑)
朝鮮半島の記述上の最古国家である箕子朝鮮は中国の文献(史記)に載ってて
おまエラの記録文献じゃねえよww
ああウリナラファンタジーの檀君朝鮮とかは13世紀以降に突如捏造された国家だからな(笑) >>13
てか、記録に無いのは、その時期、朝貢してなかったからだろ?
4世紀初頭に華北が崩壊し、漢人は南部で王朝作った(南朝)。
東アジアの政治秩序は崩壊し、大和朝廷は統一を果たし、
半島に進出してブイブイ言わす。南朝なんざ無視無視w
ところが、5世紀頭、高句麗に負けて、慌てて南朝に朝貢orz >>26
268年に百済なんて存在しないからw
魏志韓伝に全く出てこないw 俺の仮説
カササギ
この鳥は外来種であるが北九州では留鳥である
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある
なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか
魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか
銅鏡などの錆びついた物証だけではなく
鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば
邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
>>31
だから逆に奈良から近便の外港だったんだよ。京都と大津の関係。
府南部の古い陸地も弥生時代から規模の大きな集落が多いし、
政治の中心かは別にして人口の点で先進地域であったとは思われる。 >>5
なんで奴らが陵墓調査を要求しないのかと言うとですねー
つまりそ−ゆーことかーw 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度
サチヤマ白村の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した
地名や遺跡等の広がりから考えると、邪馬台国とは九州北部の海人の国だろうな
海人たちは縄文時代から沖縄から北海道まで交易していたことが分かっているし、
この優れた航海術をもった海人たちが、本拠地の北部九州から東進して勢力を広げたのも分かっている
これが神武東征神話の元になったのだろう
空白の4世紀に海人たちが畿内へと進出したのが神話化され神武東征として記録されたと考えられる
東海と山陰に共通しているのは、安曇族の関係地であること
地図で見ると、本拠地の志賀島から日本海ルートは出雲を経て近江、さらに岐阜、愛知と東海へまるで畿内を迂回するかのように進出している
瀬戸内海ルートは淡路島まで進出し、この地図には載ってないが難波にも安曇江がある
神武東征神話でも難波から畿内へ上陸している
淡路島の弥生時代の鉄工房は技術的に北部九州の系統であるらしいので、志賀島を本拠地とする安曇族が持ち込んだのだろう
> https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
> 中略
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
これで淡路や近江など至近距離に鉄工房があるにも関わらず、畿内の弥生末期〜古墳初頭の遺跡から鉄製品が
ごく僅かしか出土しないというパラドックスの説明がついた
邪馬台国時代には安曇と畿内はまだ別勢力だったというわけだ
畿内は当初安曇族の進出を拒んだため、安曇族はこれを迂回して包囲するように勢力圏を拡大してゆき、あるときついに畿内勢も
安曇を受け入れざるを得なくなっていった、と考えるべき
それがいつ頃なのか、は畿内で鉄製品が増える時代と考えれば良いだろう
つまり4世紀以降ということになる
隋書に倭国の王姓は「阿毎氏」とあるが、隋の使者に対して海人(アマ)の出自だと名乗ったのだろうな ぬう…あれはまさか古代魏に伝わる秘技・閃血面樽邪亜弐…
韓国で大ヒットの【fUCk JAPAN】
おめえ、障害者か?
「元々、お前の国が障害者なのか?(はい)
ここ日本に住むチン○みたいなオ○ンコやろう
ジャップスはビッチ障害者馬鹿ビッチ達
お○んこ野郎ども!
食う?お前の母さんも食う?(ハイ)良いか? 目茶良いって
障害者ビッチよ!目一杯てんかんやってろ!
俺は百済。俺達宗主国。韓国はニッポンの宗主国
未開だったお前らにしてあげたこと覚えてるか?
御使して挨拶しな(ハイ)前で跪け(ハイ)
永遠に従え(ハイ)泣きながら祈れ(ハイ)
ジャップ!街にゃすっかり核をくらった爆弾たち
広島bomb!長崎bomb!東京bomb!ジャパンbomb!
ボン!ボン!ボン....
核落としてやるからな!核落としてやるからな!
>>34
朝貢しようにも半島から黄海地域は寒冷化と乾燥で
北方民族の侵入南下 記録をとれる国家がないでしょ
日本も気象の影響うけて強勢国家であるはずがない 戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。
増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。
残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。
また、国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、
朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関-釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間だった。
終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、
北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、
終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。
戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。
現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、
戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、
現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留したものである。
(1959年7月13日 朝日新聞)
http://cdn35.atwikiimg.com/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=23&file=060308.jpg だから古代の朝鮮人と、言語と名前を捨てた朝鮮人は別人種ですから
日本人が日本の位置で発生していない以上は、アフリカらからいろんなルートでたどり着いた民族だろ
如何なる分野でも半島を持ち上げるような内容はマユツバと思うようになってしまったわ
邪馬台国(ヤマト)
畿内、出雲、北部九州の西日本広域を治めた連合国、後のヤマト王権の前身
卑弥呼
邪馬台国の女王、太陽を崇め祭祀を行う
後に天照大神として伝説となった
台与
邪馬台国の女王を引き継ぐ
ヤマト王権
奈良に拠点を置き東海地方まで版図を広げる
卑弥呼の祭祀を引き継ぐ一族、大王が邪馬台国の実権を握り、後の天皇家となった。
天皇
日本の君主として天照大神を信仰し祭祀を行う、国号を太陽、日の本、日本とした。
邪馬台をヤマトって当て字にさらに当て読みした感じだよな
半島って言うけど、陸続きの時代はただの地べた
痩せて荒れた荒野
どうでもいいがこれ系のネタになると突然右も左もコピペ厨がワラワラ沸いてくるのやめろよな。誰もそんなもん読まないしNG面倒だわ
>>24
ちなみに更に詳しく分析すると
その成分も鏡によってバラバラなのが、京大自身の研究で判明しちまったしなw
どう考えても下賜されたものじゃない 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻1 『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
東アジア三大帝国
大唐帝国
大モンゴル帝国
大日本帝国
この中で最強はハーンと皇帝と天皇を称した大唐帝国
倭国と日本は同一と思いきや実は違う
おもしろいことに中国の正史「旧唐書」には倭国伝と日本国伝のふたつがある
さらにひどいのは日本に対する評価で
「日本人はすぐ話を大きくしてホラばかりふくから中国人は誰も信じてない」とあり、倭国に対する扱いとまったく異なる
うそだと思ったら調べてみよう!
朝鮮から来た胡散臭い七支刀なんて廃棄しろよ。穢らわしい
第一、枝が6本で七支刀なんて何なんだ。7も数えられない朝鮮人ならではだな
>>58
そ、そんなものより桃の種がいっぱい出てきたんだぞ><(畿内派) 近畿最古の砦、纏向は景行天皇の都と書いてあんのに邪馬台が近畿のわけねえわな。
そして景行天皇が九州の邪馬台攻めて集めたのが三角鏡な。
この時九州にあった邪馬台は滅びた。
狗奴国の皇子、卑弥彦神武は張政に言われて吉備から河内へ流れ纏向を作った。
>>61
ちょっと違うぞ 日本伝は新唐書
大和も邪馬台国も似たような発音だからどっちでもいいじゃねぇか(畿内派) >>66
新羅本紀
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して
これを防がせたが勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
卑弥呼登場→173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。
(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はどうか?」と聞いた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「我々は海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
況や百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
新羅の王はこれを聞いて「それもそうだ」と納得した。 >>54
>邪馬台国(ヤマト)
>畿内、出雲、北部九州の西日本広域を治めた連合国、後のヤマト王権の前身
>邪馬台国(ヤマト)
魏志倭人伝に記載されている、北部九州にあった国。
後に邪馬台国と宇佐の血を引く神武が畿内にあった出雲の造った国へ参加する。
そして、神武の子孫が欠史8代の間にクーデターを起こし、
出雲、畿内、関東甲信越を支配する出雲の国の王権を簒奪する。
これが後にヤマト王権となる。
じゃね? >>63
切っ先は7つあるやん。
とか言いつつ、俺も「ヤマタノオロチは九頭竜」説だがw 九州王朝説の人間は糸魚川で翡翠がアホ程とれて
色々な遺物が出土してるのを完全に無視した理論しか出さないよな
>>72
宗像三女神の長女のオキツシマヒメは、糸魚川のヌナガワヒメと姉妹なんだぞ。
いや、「穴兄弟」と同じような意味での「棒姉妹」だがw 九州なんか歴史的に観て違う民族の様な気がするんだけどな
昔から住んでいるならあんな火山地帯に永住しようなんて正気の沙汰じゃない
庄内式土器の流れは神武の足跡そのものだろ。
1、2世紀の倭国大乱時に吉備から河内へ流れた勢力がありそれが神武一派。
九州の邪馬台が台与の時代後半には、近畿の肥沃な土地で人口も増え纏向に景行が神殿を作り上げたんだろ。
その後は景行の九州征伐にある通り、邪馬台は土蜘蛛として惨殺されるが、中には景行に同調する土蜘蛛もいたという。それが纏向土器の九州移行だったんだろ
畿内はいわば出雲の植民地で、大国主が君臨していました。 そこへ北部九州から神武一行がその国に新参者として招かれました。
神武は大国主の娘 or 孫娘の婿殿となり、葛城に住むことになりました。
ところが、彼の子孫は尾張氏などと共謀してクーデターを起こし、政権を簒奪してしまいました。
この政権簒奪は欠史8代と言われる天皇の時代の事(孝の字を持つ4代の天皇でしょうか)で、
それは記紀に「神代」での出来事として描かれています。
>>73
うちの一族はイチキシマヒメの寺に代々関わる一族だけど九州なんてそれこそ明治になってからしか関わりは無い
滋賀や奈良や広島や岡山や新潟は関わりあるけど九州に全く繋がらない 九州の土蜘蛛は竪穴式住居の茅葺きの屋根に土を被せた家に住んでいたというが、九州邪馬台の一般人はこんな家に住んでたんで洞穴に住んでると勘違いされてたんだろ。
九州は台風の通り道でもあり屋根に土の補強をする事で強風に耐えたんだろうな。
>>4
そんなものはない
あるなら具体的に上げてみろ >>14
あんたサヨクなのに日本史に興味あるって不思議だね >>77
あんたんちの事は知らんがなw
九州は火山も多いが温泉があって良いところだぞ。 >>79
大和にも土蜘蛛は居て その祖先は尻尾あったんだぞw
サイヤ人だったらしい >>82
それは今の話だろ?
古代の戦略で考えたら異民族は来るし、火山は噴火する様な所に国の中心地なんて構えない
ましてや長く永住してる民族ならそんな場所普通は避けるのが当たり前 伊都国の支配範囲は出雲から紀伊半島まで及んでたんだろうな。
まず神武に紀伊の領地を破壊されたんだな
まあこの紀伊半島の由来も伊都国に由来するのは容易に想像できる。
国譲り神話あるから、出雲の姫を天孫の皇がめとったんじゃないか?
スコットランドとイングランドみたいな感じ
>>83
戦後盗まれまくったけどちょいちょいはある
そもそも古代に繋がるなら由緒正しい名がある
一様うちは安倍一族や加茂一族より歴史は長いがことごとく歴史は処分されたり重要な歴史的な土地は新宗教に土地事抑えられてる >>86
あるけど九州程ヤバイ火山地帯なんてないだろ
イエローストーン級がゴロゴロしてんのに >>90
それさ、物的証拠はないけど、太古から続く王族の一族っていってる? >>92
物的証拠もあるよ
今の天皇が真っ青になる様な物もね
天皇の氏が何処から来たかもうちの一族にちゃんと繋がる名がうちにはある
それを代々うちの一族以外の人も守って来たんだから 出雲は国譲りというより神武の虐殺に白旗揚げたんだろうな。
なんせ土蜘蛛と呼ばれた支配者は身体をバラバラにされ見せしめにされたからな。
恐らく土井ヶ浜遺跡の300体殺害並みのことはしてるんじゃねえかな。
あそこもバラバラ遺体に切断されてるし、これらは官軍の仕業だよ。
>>93
まあ古代から親族が殺されまくってるからね >>95
氏で先祖が辿れるって知らんのか?
日本で歴史が無い様な連中は繋がらないだろうけどね >>76
あのね出雲が凄い国、絶大な影響力を持った国だったら
中華帝国の正史である魏書魏志倭人伝や隋書倭国伝
それに朝鮮の新羅本紀や百済本紀、高句麗本紀に出てくるんだけど
塵の如く倭国倭人関連で出雲らしき記述が全く出てこないんだけど
創作されたファンタジーに妄想を膨らませるのはいいけど
現代になってさえ未開人と変らない幼児性を伴った精神構造なんだよなぁ
高度なIQを持ったアインシュタインの宗教に関した語録で
「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」ってのがあるけど
置き換えると
「宗教のない科学はかたわ、客観的事実のない神社宗教は盲目」ってなるね
古代も現代も変らない比率で盲目的な未開人が存在するのが恐ろしい 一族の記憶を持ってるらしいな
多分妄想性人格障害かなんかだ
>>98
書物は親族でも長男家を継いだ代表しか見れないし保存してある場所も違うから俺でも見れない
口が固い奴しかなれない決まりだからな
一応物も書もあるとは聞いてる
物なら観たことあるけど >>102
なら和邇氏でもちゃんと調べたらどうだ? 当時の国の関係を
遺跡の埋蔵物や記録物から勢力図を整理すると
やはり
「東征」が事実であると思われ
呉--新羅--出雲・近畿・東海・甲斐
呉の年号(赤鳥)が入った神獣鏡が
鳥居原狐塚古墳(山梨)安倉高塚古墳(宝塚市)で発掘済
魏--百済(和人)--九州
魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」
東征後
魏--百済(和人)--大和
白村江で「百済軍」が「唐&新羅軍」に敗退し、大量の百済人が関西圏に亡命。
移民により大和が力を増し
中国は魏が勝利
呉--新羅勢力は縮小ののち、国譲りで出雲に隠居
邪馬台国って結局奈良だったんでしょ(´・ω・`)???
>>104
先祖がわかると嘘がわかるって?
神通力かなんか? 日本は古代より中国に朝貢してきたのである
安倍はそれに従ったまで
お前達も見習え
そういうスレ
>>105
それを調べると先祖の記憶が持てるのか? >>89
なるほど姫がレイプされたのか
つまり、イギリスに占領されたミャンマーみたいなやつだな 福岡で先祖代々とか言える名前は、地名と同じ人ばかりだろ
立花、久米、三井、清水、高野とか
もしかして、神社系の名前か?
息永、秋永、鶴賀とか亀とか?
どうだ当たりだろ
>>61
倭国伝と日本伝がそれぞれ存在し、なおかつその評価もまったく違うってのは興味深いな
別種というのは別名という意味だとどこかで読んでそう信じてたけど、やっぱり別の国として一時期並立してたのかと思わされるね >>40
安本美典って朝鮮人ぽい名前だよな
古田武彦を敵視するようになった理由とかもモロチョン >>101
>あのね出雲が凄い国、絶大な影響力を持った国だったら
>中華帝国の正史である魏書魏志倭人伝や隋書倭国伝
>それに朝鮮の新羅本紀や百済本紀、高句麗本紀に出てくるんだけど
>塵の如く倭国倭人関連で出雲らしき記述が全く出てこないんだけど
だから出雲が支配していたのは、畿内、出雲、関東甲信越。
だからそれらには出雲らしき記述がでてこなくても矛盾しない。
なぜなら、大陸の連中が歩を進めたのは北部九州までだから。
ある意味、「出雲らしき記述が出てこない」という事は、「魏志倭人伝にある邪馬台国」
は、北部九州にあったという状況証拠になりうる。 >>115クナ国は大分
日本唯一の鉄鏡が出た所なんだよなあ >>60
唐のあの版図はわずかな間で大半の期間は狭隘なもの
唐の皇帝一族は縊り殺されてドブに投げ込まれて終わった
支那の典型的最期 >>85
実際噴火のせいで九州の縄文人全滅してるし
そういうのあったからこそ、弥生系が渡来して、足掛かりにしやすかったんだろ
他の地域は古くからの縄文系の人が住んでるわけだし >>119
どうぞ自由に
自身の能力に応じた判断すればいいじゃないの? >>120
大分は豊(トヨ)の国でございましょう。
卑弥呼の宗女もトヨだし、神武の婆ちゃんもトヨ。 日本が要因じゃなくて、大陸が南北朝時代で動乱の時代だから
通信が途絶してたんだろ
>>124
お前こそ自由に
自身の能力に応じた判断すればいいじゃないの? 前スレであった山門説(みやま市)がしっくりくるかな
この時代は現代人以上に見た目による顔の差がはっきりしてそうだし
謎に包まれた頭蓋骨には憧れの顔に近づけるための整形の意味があったのかも
>>106
百済は倭人じゃない。
高句麗系の言葉だったのは、ほぼ確実。 >>130
_
「みなと」じゃなくて「やまと」なので、海に面した地じゃない。
それに、地政学を考えれば、覇権を握れるのは、
守りの固い盆地のくに、しか有り得ない。
盆地やそれに近い守りの固い地形を探すべし! >>129
俺も>>44には大筋で同意。
ただし、安曇族の拡散の様相はよくわからんな。
4世紀に拡散が始まったのなら宗像族との交代になるが、
磐井の敗北(6世紀)という話もあるし。 >>122
7300年前の事を言っているのなら
少なくとも熊本平野を含めた九州中北部は噴火を挟んで
長期間に渡る連続した同一文明の痕跡があるのでそれは間違い
火山噴火が狩猟採集社会に与えた影響:鬼界アカホヤ噴火を中心として
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1440989/scs0220.pdf
曽畑低湿地遺跡(熊本平野)
出土した土器をはじめとする遺物からは
付近において轟A式土器期から曽根式土器まで継続的な土地利用がうかがえる。
当該地域周辺における噴火を挟んでの人類活動の様子は、
出土した塞ノ神B式土器(BP7450年〜BP6570年まで継続)から轟A式土器(BP6926年〜BP6190年まで継続)
轟B式土器(BP6231年〜BP5160年まで継続)から曽畑式土器(BP5450年〜)
まで長期間にわたる土器形式群の年代幅からも裏付けられる。
横尾遺跡(大分市)
花粉分析の結果によれば鬼界噴火を挟んでの極端な植生変化は認められない。
野中遺跡(福岡市)や向田遺跡(飯塚市)では、鬼界噴火直前直後と考えられる轟式土器群が出土しており、
鬼界噴火後も人類の活動は継続していたと考えられる。
九郎遺跡(佐賀市)でも轟B式土器はまとまって出土しており、鬼界噴火を挟んで人類活動は継続していたと考えられる。
つまり九州レベルでみたときに、土器の型式を制作し継承していく人間の営みは途切れることはなかったと評価できる。 >あのね出雲が凄い国、絶大な影響力を持った国だったら
>中華帝国の正史である魏書魏志倭人伝や隋書倭国伝
>それに朝鮮の新羅本紀や百済本紀、高句麗本紀に出てくるんだけど
>塵の如く倭国倭人関連で出雲らしき記述が全く出てこないんだけど
そう。そのとおり。 ところが日本では出雲が畿内、出雲、関東甲信越に及ぶ国を築いていたことは明らか。
これを合わせると、大陸の連中は、
@出雲の勢力と接することはなかった
A出雲が神武の子孫に乗っ取られてしまった後の「ヤマト」と接した
のいずれか。 と少なくとも魏志倭人伝は、
@の出雲の勢力と接することはなかった、という事なのだろう。
>>133
日本書紀にも高麗からの流入がかなりあったの書かれてるからな
当時のヤマト支配下が結構多民族だったりして
それが結局日本
倭は倭人の国なんだろうけど日本は縄文人に倭人以外の移民色々って感じかもな ヤマトが邪馬台国で無いとすれば、纒向遺跡の規模から言って
ヤマトには倭国連合を凌駕する国家連合があったと考えるのが妥当だよね
『日本書紀』は、
「半島で新羅に滅ぼされた百済の国王含む大移民団が、日本へ亡命した」ことを詳しく伝えている。
20万人とも言われる彼らの多くは、現在の大阪に移民したw
664年 百済王子善光を難波に居住させる
(百済王を中心とした国家規模の移民団が難波に移住する)
665年 百済の亡命遺民四百余名を近江国神崎郡に居住させ、田を支給する
666年 百済の亡命遺民二千余名を東国に居住させ、自活させる
669年 百済の亡命者七百余名を近江国蒲生郡に移す
縄文人の主要遺伝子であるY染色体DNAのYAP+(D2系統)、
東日本では35〜40%保持しているのに対し、
西日本、特に大阪などの関西地方では10〜20%と少ない。
>>1
まあ 今の韓国人の祖先はエベンキと
元の賊兵と現地人のハイブリットだがな
それが現実 >>134
筑後國山門郡(現在のみやま市)ね
そして別に邪馬台国は覇権国家じゃないだろ
合議制で女王を立てた国だ
みやま市の土蜘蛛族の墓?権現塚古墳でいいのか?
是非ともきちんと発掘して欲しい >>141
違うぞ
1000人連れ去りとか倭人は余計な事やっていた
新羅本紀
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。
其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。 >>137
鬼界噴火って結構大げさに恐れられてるけど、実際それほど大したことなかったのかねえ >>63
それは中国の刀だぞ
百済が中国から貰って複製を作った
その複製を倭王のご機嫌取りで朝貢した >>49
王朝史において "こうあるべきだ" はどこでも同じだよ。
ただし誰もが認める結果の「その過程」においてが多い。
逆に伝・傳の方がその過程の部分の事実を少しだけ伝えてる
こうあるべきだを叫ぶ声の大きい連呼ほうではなく、
その時代の方針から権威が認めようとはしない
集団性がある自分達としての小さな声「も」重視したいものだ。
その葛藤の中に争いの本質と事実がある。 >>145
エベンキは剽悍な騎馬民族
韓国人のルーツじゃないと思うぞ >>152
映画「幻の邪馬台国」の卑弥呼さまは美しかった。
俺も一瞬、「島原説でいいや」と思ったもんw >>115
ちょっと待て
敵対国の王様も方言レベルの呼び方の差しかないということは、卑弥呼というのは「王様」とか「親分」くらいの意味か? >>146
誤読だらけの邪馬台国―中国人が記紀と倭人伝を読めば…
この本の解説サイトぐぐって読んでみ
それで納得できなきゃどこ見ても納得は出来ない 旧唐書 日本伝
日本国は倭国の別種である。その日本人の多くは尊大で誠実に答えない。それで中国人はこれを疑っている。
うーん、これはまるで朝鮮民族に対する評価…あっ
歴史のことに大阪が出しゃばって来るとややこしくなるな
バカしかいないから心配
ギャンブルばっかやってりゃいいのに
>>147
そこが卑弥呼の墓だろね。
で邪馬台は九州だね。
纏向は景行の神殿で箸墓は神武か景行、日本武尊の墓だよ。 俺は邪馬台国問題は複雑過ぎて良く分からんのだが、もし大和説を取るならば和辻哲郎説を取る。魏の使者は北九州で足止めされた、倭人伝における卑弥呼の描写とはとはその頃大和で行われていた大規模な祭祀の事だ、みたいな説だ。
>>147
覇権国家でないと、盟主にはなれん。
邪馬台(やまと)が合議制で王を立てたわけではない。
魏志倭人伝の邪馬台は、倭国大乱で覇権を失い、
女を王に立する(=覇権無き権威となる)しか道が無くなった
哀れな邪馬台末期の姿だわ。
卑弥呼の死後、邪馬台の復権を夢見て男が王に成ったら、
倭国中が不服で、攻められ1000人以上殺されて、
(多分、王は殺されたか自害。)女王臺與を立てて収まった。 親魏倭王と刻まれた金印がでてきたら、もうそこが邪馬台国としか言えないよな
ただなんせ金なんで、どっかの権力者に奪われて小判やらに加工されてなきゃいいけどな
>>165
それを聞いて、ゴッドハンドがアップを始めましたw >>166
偽物が用意できるもんならな
いくらかかることやら >>44
安曇氏が大阪に来たのは、神功皇后が安曇氏を呼んだんじゃないか?
畿内での安曇氏の本拠地は難波か河内だ。
神功皇后は新羅征伐に行く途中九州安曇氏と出会い、安曇氏はお供している。 >>110
どうゆう役割なのか調べればわかるだろ? 心の底からどうだっていい。
邪馬台国(ヤマト<日本>のイ国)がどこにあったとしても
だから何だと言うのか。
じぶんちの庭掘って金印でてきたら
じぶんちが邪馬台国になっちゃうんだぜ
>>61
>>すぐ話を大きくしてホラばかりふくから中国人は誰も信じてない
どこの民族だよ もう一つ魏志倭人伝と魏王朝に関してゲスの勘ぐりと言う新たな視点から推理してみる。
邪馬台国が北九州の独立老弱小国だった場合、しかも魏に遣使しようとする国が北九州にしか存在しなかった場合、魏はその弱小邪馬台国を倭の中でも飛び抜けた国として偽装する必要がある。その結果として魏志倭人伝の奇妙な記事が生まれた。
>>74
まあ、4つの大陸プレートが交差するところに、5千万人くらい住んでいる人たちもいるわけだし >>174
一つ魏志倭人伝が間違いなく盛ってる記述は
邪馬台国の住人がみんな今よりもご長寿だと言う記述だね。
東方見聞録の様に、さも自分で見てきた様に記録しておきながら
実際には来てない可能性もあると思う。 蘇我氏と物部氏の争いって大臣同士の争いじゃなくてトップつまり皇位をめぐる争いだったんだよ
よくよく考えれば大臣の争いをわざわざ書き残すわけないもんね
日本書紀は改ざんだらけだね・・・
継体系ってつまり物部系ってことなんだよね
用明天皇は蘇我氏だし
崇神天皇の8代後が5世紀の雄略天皇。
崇神天皇が実際にいたのは3世紀末頃だろうから、神功皇后が亡くなった後に応神天皇が生まれる必要はない。
4世紀に朝鮮半島に進出していて矛盾はない。
>>127
陳州から百済経由で日本に来ているのは確定してる >>163
俺はもう少し時代が下った、弥生時代以降の様子に興味があるんだよね。
この時代の様子は、現代の神社の分布や風俗にもある程度痕跡が残っているのだ。
たとえば、宮本常一「瀬戸内海文化の系譜」によると、瀬戸内海の海人は3つに分類される。
一つは九州南部から四国にやってきた人々で、これが隼人。
愛媛の大三島に祀られているオオヤマツミを信仰し、男は漁、女は農耕を営む集団。
村上海賊もこの末裔なので、女性は船に乗らない。
二つ目は九州北部を出自として宗像の神を祀る集団。
瀬戸内海では広島の厳島神社を作った。こちらは夫婦ともに船に乗って
(あるいは船を住居として)漁で暮らす。
三つ目は摂津が本拠地の住吉の神を祀る集団。
もともと瀬戸内海に居た人たちで、潜水漁や蛸壺漁を行う。
んで、この分類には安曇族は登場しない。記の応神記あたりでは
淡路島に居たらしいけど、早いうちに移動したか住吉の民と同化したか。 >>182
仏教を隠れ蓑にした天津神と国津神の争いだと思うの >>176
魏志倭人伝ではないが「倭人自ら云う、太伯の裔なりと」と言う記事も奇妙だ。倭人すなわち中国語とは異質な言語世界に居る住民の話す言葉からどうやって「これは太伯の事だな」とわかったのか。いやはや、不思議な事だ。 >>174
あの記述は、乱に敗れて、女を王にするしかなくなった、
みじめな邪馬台だわ。卑弥呼の死後、また同じ目に。
魏側に偽装する必要があるのなら、あんなみじめな話は載せない。 蘇我氏はやはり天皇家だったんだよ
蘇我氏と物部氏は天皇の位をめぐって争っていた
蘇我氏も天皇になったけど最終的に物部氏が勝ったということ
継体系って物部系ってことなんだよ
>>181
何年前だったか忘れたが、やはりODA止めます、って話が出て、
その際、外務次官が、ODAは止めるが、別の形で・・・・って
話してたの覚えてるw 「別の形」で続くんだよw >>182
仏教(グローバリズム)vs神道(ローカリズム)
ちなみにリベラリズムによれば神道は統一教会が作ったものなので
物部氏や中大兄皇子は文鮮明のシンパ。 >>185
倭国に古来からある支配体制とはヒメヒコ制なんだよ
姉弟か兄妹の男女による共同統治を行っていた
卑弥呼はそれ
蘇我氏が天皇の頃もそのように用明天皇と推古天皇の兄妹で共同統治していた
万世一系をはじめたのは天武天皇の頃から >>61
調べてみたらホントでワロタwww
このホラ吹き特性は朝鮮由来だわな
百済からの移民なのかなぁ 上町台地〜泉北丘陵日本の歴史が凝縮されている
かつて大坂城の地にあった生国魂神社
生玉神足玉神は宮中式内社にも祀られている
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀である八十島祭で中心的な役割を担っていた
難波宮跡
坐摩神社、神紋は白鷺、井戸の神々でこれも宮中式内社に祀られている
祝詞では皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭 日之御蔭と隠れていたとある
聖徳太子が建立した四天王寺
創建当時から木造の鳥居があったと言われている
住吉大社、神功皇后にお供し畿内の主権奪還に協力した住吉大神が祀られている
仁徳天皇陵日本一大きい古墳
方違神社、崇神の時代に創建された方違幸大神が祀られている謎の多い神社
天の八衢と関係があるのか?
堺という地名と共に興味深い神社である
大鳥大社、関東にも広がる大鳥信仰の総本山
摂関家の大番頭であった大鳥連の祖神とヤマトタケルが祀られている
空白の4世紀の謎を握る神社と思われる
神功皇后が三韓征伐に出立した伝承が残る和泉の地
竹取物語を連想させる光明皇后の誕生の伝承も残る
大阪は古代史の重要な地だが、軽視されたり無視されたりしているのが不思議
>>191
継体系とは物部系ということになると物部氏こそ天皇家ってことだよ >>185
俺はむしろ魏王朝の偽装のほうを想定しているんだわ。魏志倭人伝における外交関連記事は芝居がかっているので。 あと、>>163を見て、谷川健一の「青の一族」の話を思い出した(「青銅の神の足跡」に所収)。
沖縄の名に「あお」が付く一族が黒潮と対馬海流に乗って北上し、
各地に痕跡を残してている話。その当時、新潟に住んでて近所に
「青海神社」があったから、なんか感動した。 >>179
やはりそこだよね!
すごく腑に落ちた
ありがとう >>191
物部に限らず古代氏族のほとんどは天孫降臨のときの随伴神に発祥してて
天皇家との血縁を至上とするようになったのは平安期に入ってからだからね。 >>66
半島南部とは関係は有るだろうな。
崇神・垂仁の時代で居なくなったんで半島系が探しに来てる。
任那の蘇那曷叱知(そなかしち)
加羅の都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)
新羅の日槍(ひほこ)
ここで加羅の阿羅斯等は、後でもわが国でも東漢(あや)や漢=おとこと訓するように、
広開土王碑の武力誇示の安羅国だと思うが、都怒我を"つのが"であれば兜か武装していた思われる。倭人伝の張政等と連想も可能。 >>159
馬鹿だなおまえこの時代は大阪府が中心なの知らないのか
無知はでしゃばるな >>186
天皇家の傍流らしいのだが、先祖は三韓征伐に出征していたとか。
その際に、あちらと変な関係が出来たのか、
蘇我満智の子は、蘇我韓子(からこ=合の子)、その子は蘇我高麗(こま)。
この辺り、どうやら半島から嫁をとって、あっち化したようだな。 >>197
魏は自分達を正当化する戦術が上手いからな >>194
日本人ならもっと確実に調べるんだな。
天武天皇側は別に親唐じゃない。
だから唐側が悪く書いてるだけだ。 >>196
継体の女系に物部が入っているということですか?
その場合、外戚として権勢を振るうのが常ですね。 >>202
商売の中心地に政治の中心を置くのは妥当な判断だからな
今の東京がそうであるように >>168
興味深いのは、最近ちょいと被差別民の起源について調べていたら、
あちこちで安曇氏の先祖の磯良(イソラ)が出てくるんだよね。
どうやら元ネタの史料は一つのようだが、真偽のほどはわからない。 >>206
そりゃねぇわ それだとあの超有名な飛鳥の石舞台古墳
誰のだよ あれが天皇陵かよw >>200
それは皇室の外戚として権力を持とうとする場合ですね。 >>201
加羅の都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)
常が荒人? 常に荒々しい人?
ひょっとして、怒ると優しくなるとか?
いや、その方が、怖いか >< >>207
女系ではないんだよ
物部氏こそ天皇家ってことだよ
同様に蘇我氏も天皇家だった
外戚になるしかなかったのは百済人の藤原氏 >>195
実家が方違神社の近所で、子供の頃よく遊んだが、そんな謂れのある所だとは知らなかったわ。
境内から真横に円墳があるから、その関係だとは思ってたけど
因みに今は縁切り、縁結びの御利益の神社扱いやで
方違=悪縁を切って、良縁にあやかる的な >>213
皇統はニニギの子孫が継ぐというのが記紀の建前では?
蘇我氏は皇孫だったと思います。 >>210
蘇我氏は天皇になったけどけっきょく負けてしまったからね
天智と天武と藤原氏によって悪にされて業績を消し去られ奪われたんだよ >>212
福岡にもゆかりの神社があるよ。
こちらは「現人(アラヒト)」と表記されている。
那珂川町の現人神社は住吉神社の本津宮とされているし、
田川郡香春町の現人神社は宇佐神宮との関係が深いらしい。
いずれにしても、渡来系金属精錬集団が祀った神だよね。 都怒我阿羅斯等
つのがあるひと
角がある人
見た目そのままじゃないの
>>197
記紀、魏志倭人伝、漢書、晋書も含めて、疑っている。共通点がある処と物証を
築き上げるしかない。 延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識
>>216
記紀は天武のはじめた万世一系につじつまを合わせるにそれまでの王朝を改ざんしてるんだよ
天武や藤原氏によって都合のいいようにねつ造されたのが記紀 >>217
大化改新で、本当の意味で天皇中心に
なったのかな?