【動画】小山田古墳、飛鳥時代最大方墳か
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190131/movie/2050001820_20190131184753.html
奈良県明日香村の小山田古墳
2014年に養護学校の建て替え工事に伴って発見され、7世紀中ごろに造られた未知の古墳とされる奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳(7世紀中ごろ)について、方形の古墳(方墳)の南辺の長さが80メートル以上になることがわかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が31日発表した。千葉県栄町の岩屋古墳(長辺約78メートル、7世紀)や他の天皇墓を上回り、飛鳥時代の国内最大規模を誇る巨大方墳だったとみられる。天皇陵なのか、あるいは豪族・蘇我氏の墓なのか。被葬者像をめぐる議論にも弾みがつきそうだ。
橿考研によれば、昨年12月下旬から古墳の西南端付近にあたる約64平方メートルを発掘調査し、墳丘西端と想定される裾部がみつかった。14年の調査では古墳北辺に石張りの大きな掘割(ほりわり、濠〈ほり〉)が出土。東西の長さは約70メートルとされたが、南辺の長さは80メートルを超えることが明らかになった。
また、結晶片岩や「榛原(はいばら)石」の板石の破片も多数みつかった。14年の調査でも、北辺の掘割の斜面に結晶片岩と榛原石が階段状に積み上げられた遺構が出土し、西辺でも同じように板石が積み上げられた可能性が高いとみられる。
小山田古墳の規模は、聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(長辺66メートル)や、蘇我馬子(?〜626)の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳(一辺約50メートル)などを上回る。
小山田古墳の被葬者像を巡って…
(残り:544文字/全文:1166文字)
朝日新聞デジタル 2019年1月31日19時16分
https://www.asahi.com/articles/ASM1X6KNPM1XPOMB015.html
明日香村にある飛鳥時代の古墳のひとつで、四角い形が特徴の「方墳」が国内最大の規模があったとみられることが、奈良県立橿原考古学研究所の調査でわかりました。
舒明天皇や蘇我蝦夷といった、当時、権勢を誇った人物の墓という見方があり、今後の研究が注目されます。
調査が行われたのは、明日香村にある「小山田古墳」です。
7世紀中頃の飛鳥時代に造られた四角い形が特徴の「方墳」で、これまで1辺の長さがおよそ70メートルとみられていました。
今回、橿原考古学研究所が古墳の外側の発掘調査を行ったところ、北から南にかけて広がっていて、大きいところでは幅が80メートル以上あることがわかったということです。
これまで、飛鳥時代で国内最大の方墳とされてきたのは、幅がおよそ78メートルある千葉県の「龍角寺岩屋古墳」で、橿原考古学研究所は今回の調査で、「小山田古墳」が「龍角寺岩屋古墳」を超えて最大の規模があったとみられるとしています。
研究者の間では、天智天皇の父親、舒明天皇や蘇我蝦夷など、当時、権勢を誇った人物の墓という見方があり、今後の研究が注目されます。
橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は、「古墳の規模は当時の最高権力者が葬られたことを裏づけるものではないか」と話しています。
【古墳の被葬者は】
小山田古墳に葬られた人物について、専門家は、古墳が造られた7世紀中頃の飛鳥時代に強大な権力を持っていた天皇や豪族の名前をあげています。
その1人が天智天皇や天武天皇の父親で641年に亡くなったとされる舒明天皇です。
東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「舒明天皇は大寺院の百済大寺を造るなど、天皇としての権威を高める政治を行っていて、強大な権力を持っていた。そうした政治的背景を踏まえると、舒明天皇の可能性がある」と話しています。
一方、絶大な権力を誇った豪族で645年に自害したとされる蘇我蝦夷が葬られたとみる専門家もいます。
大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、「古墳は蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があった本拠地、『甘樫丘』のすぐ近くにある。また同じ時期か、あるいは少し前の畿内にある王の墓より大きなものであることからも、当時、権勢を誇った蝦夷が生前に築いたとされる墓と一致するのではないか」と話しています。
NHKニュース 01月31日 17時48分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20190131/2050001820.html 蝦夷の墓として作られたが暗殺されたため破棄されたんだよ
蘇我氏の名前って好きこのんで付けるような名前じゃないよね?
馬子、蝦夷、入鹿
本当の名前は別にあったりして?
蘇我氏の古墳でしょ。甘樫丘に邸宅があって墓も作ってたらしいし。
舒明天皇は、改葬されてるのか
大したもの出てこないかも
>>11
この当時は天皇が勝手に決めることもあったみたい。
天皇「お前は明日から馬子を名乗れ。」って。 記紀はフィクションだから蘇我氏なんておらんかしれん
中国の遣隋使の記録には聖徳太子も推古天皇も出てこない
遣隋使や冠位十二階はタリシヒコという男王の功績という記録ならある
でもタリシヒコの治める地には阿蘇山とかいう火を吹く山があるらしいからわけわからん
乙巳の変の時の蝦夷は60歳くらいだったと思われ
生前から墓を用意してたかも
四世紀後半からの「三韓征伐」で半島勢力と変なつながりが出来て、
その中から生まれたのが曽我氏らしい。
だが、半島系じゃなくて支那系だったかもしれんな。
方墳というのは、始皇帝陵とか支那系だよね。
蘇我氏は天武天皇が作り出した架空の存在だろうね
記紀以前の話はすべて妄想だよ
いわゆる勝者の記録
馬子?の石舞台古墳も方墳で小山田古墳とほぼおなじ大きさ
ちょっとだけ小山田古墳の方が大きいか
昭和の頃に中臣鎌足と思われるミイラが見つかったときは警察総動員で古墳を包囲してあわてて埋め直したんだよね
見つかるとやばいものがあったって話よ
>天皇か蘇我氏か
あの時代、蘇我氏が天下を取ってたのだから蘇我氏が大王家
>>11
中臣氏
可多能祜(かたのこ)、御食子(みけこ)、鎌足の最初の名は鎌子(かまこ)
物部氏
荒山(あらやま)、尾輿(おこし)、守屋(もりや) 推古までと舒明からで古墳の作りが大きく変わってると言われてるね
古事記も推古まで
>>38
前方後円墳は6世紀半ばで終わり。
飛鳥時代の天皇陵は方墳、後に八角墳になる >>38
この時代に前方後円墳なんてもんはないし方墳は渡来系の特徴であり蘇我氏の象徴と言うべき墳墓 >>41
まあ日本のこの時代の(主に文献)史学者は
蘇我氏は渡来系とはまだ認めてない人が多いけどね
ただ土器や古墳からみるに、流石に「渡来人とよく交流してた豪族」
で済ませるのはちょっとな‥‥
「聖徳太子→厩戸王子」みたいに、今後は書き換えられるかもね >>21
タリシヒコって統治者って意味だからね
アマノタリシヒコは天皇の古い呼び方
蘇我氏=天皇 >>21
記紀はフィクションだけどそれは天武や不比等が自分を正当化した部分だよね
天智や天武以前の日本の統治者で天皇だったのは物部氏や蘇我氏だよ >>11
蘇我氏が滅亡した後に
勝者が貶めるために動物の漢字を当てた説と
別の名前を持っていた説があるね
中国も随の煬帝とか良い意味の無い名前を
血縁の唐が後から付けたし
同時期の日本も同じような文化だった可能性も 蘇我氏の時代までチーズとか乳製品作ってたけどいつのまにか無くなった
>>30
阿武山古墳ね。アブサンなんて、鎌足は飲んべえだったのかと思ったらアブヤマでやんの。 >>50
赤兄が壬申の乱で没落するまでは十分有力豪族だしな。
物部氏も大友皇子の首を手土産に物部麻呂が復活したし。 明治マセソン商会維新150年と孝明天皇睦仁親王と田布施システム
>>11
馬子に入鹿って、合わせて「馬鹿」だからな 蘇我氏の居宅があったという甘樫の丘のすぐ隣だからな
これはきっと出るよ
>>11
当時の感覚なら何も不思議はない。蝦夷も今の鬼的な扱いで他にも多数いる
鹿は神の使い。馬は大陸の武の象徴 梅原猛がくたばったから発表したなw
〜としか考えられない!とヨタ説言い出すからなー
蘇我氏はなぜ自分らの祖先に韓子とか高麗とか渡来人を疑われるような名前を付けたのだろうか?
当時はそちらの方が進んでいたので憧れでつけたのであろうか?
蘇我氏が歴史書まで燃やしたせいで、日本の古代の貴重な資料が失われた。
>>30
レントゲン撮ってるよ
弓道の鍛錬による肘の骨の変形(大化改新では弓をとって中大兄皇子に従った)
高速で走っていて地面に叩き付けられたと思しき骨折(落馬)など
歴史記述を裏付ける状況 今の日本史は天武天皇によるでっちあげだよね
中国の記録と整合性がとれない
卑弥呼も倭の五王もアマノタリシヒコも記紀には出てこない
遣隋使や冠位十二階は随の記録にもちゃんと残っている
ただし蘇我氏や推古天皇や聖徳太子の名前はいっさい出てこない
そこに出てくるのはまったくの別人よ
>>44
それらは少なくとも天皇陵ではないということ >>47
継体天皇以降の皇統を疑っている歴史学者はいない 蘇我が天皇だった説は昔からあった
遺伝子検査すればいいのに、宮内庁の妨害がいつも入る
継体天皇って越前の王だよね
たしか腹心のアラコって人が朝鮮人であると記紀に明記されてるね
あっ(冊子)
入鹿のために生前から作っていた古墳だろうな
大化の改新の後、潰されたと
大化の改新後は蘇我本家は逆臣とされたので、馬子の墓=石舞台古墳ももともとあった土盛りを剥がされた
>>21
まあ、勝った側に都合のいいことしか書いてないわな。
民間伝承では判官贔屓とか出てくるわけだが。 >>69
その頃朝鮮が存在したとは、歴史的発見ですな。 継体天皇って越前の王だよね
たしか腹心のアラコって人が朝鮮人であると記紀に明記されてるね
神功皇后が新羅征伐した時、新羅が奴隷として差し出した馬飼いの子孫
奈良は外部勢力による畿内統治の拠点やからな
謎が多いわ
大阪側と大分違う歴史的背景があるかもしれん
隋書を調べてみたら
倭国の王は邪靡堆(=邪馬台?)という都に住み阿蘇山とかいう火を吹く不可思議な山があるという
うーむ、畿内に火山は無いんだよなぁ
東京が首都だから、歴史も東京や千葉県でおきたイメージ
千葉に蘇我氏が暮らして東京で大化の改新みたいに
>>75
神宮皇后は卑弥呼をモデルにした架空の人物で
新羅征伐も白村江の戦いを元にした架空の出来事だろ
そんな人物も遠征も無かった >>66
蘇我系の天皇は方墳
吉備系の天皇は円墳
みたいな感じか >>80
まず阿蘇というのは今でいう阿蘇山の事ではなく一般的な火山の事。
(アイヌ語でも燃える事をアソと言う)
そもそも隋書が書かれた7世紀に阿蘇山の活動などない。
また隋書の阿蘇山の記録は以下の通り。
死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。
貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。
葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。
阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。
如意宝珠があり、その色は青く、?卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。
新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
…どこにも祁馬臺國の首都が阿蘇山の近くだなどという記述はない。
そもそも対馬を経由して九州北部に上陸してから
各地で見聞きしたものを乱雑に書いた書物にすぎないので
阿蘇山と祁馬臺國の首都の位置を結びつけるには無理がありすぎる。 方墳って半島由来じゃん
蘇我氏はやはり渡来人なのかね
>>75
河内馬飼首荒籠(あらこ)が朝鮮半島系というのは、お前の妄想だねえ 古墳とか墳丘墓自体が渡来人の文化だから
蘇我氏以外も全部朝鮮とか中国になっちゃう
>>91
墳丘墓が渡来じゃなくて
そう思いたいおたくが渡来なんだろうね 四大王時代とかの頃だと今の天皇家と同等の皇が4家あったわけで、
その中でも方墳だったり円墳だったり流行りでやってたからね。
東方や出雲の別王朝の可能性もあるしで、まあ記録ない国は想像しかできない。
>>92
倭人みずから呉の子孫だって言ってるんだからしょうがねーだろ >>94
と書いているのはシナの史書な
シナの中華思想から来た記述だろうな
それを信じるのはあんたが渡来系だからだろうなあ
日本人の祖先はイザナミイザナギです >>87
阿蘇山に決まってるだろ
山がついてるんだから
乱雑って何を見ていってる >>83
どちらも架空とは限らない
おかしな奴がいるもんだな 何か神話はダメちゃんが居るみたい
キリストも実在じゃないんだろ
・日本の記紀は全てファンタジー
・シナの歴史書は全て事実
こういう主張をする渡来系がいるなあw
大化の改新っていうのは日本が大陸から独立する為のクーデターだったんだよな。
>>40とか>>39とか
その頃から、天皇にかかる枕詞の「やすみしし(八隅知し)」が出てくるんだよね。
八方を隅々まであまねく治めるという意味だが、その思想を具現化したのが八角墳。 >>101
イエス・キリストは孫弟子にあたる人が福音書にまとめているものがある。
よって十二使徒が実在したのは間違いなく、12人が共同して1人の救世主
をでっち挙げたとは考えにくい。 蘇我氏が日本の真の皇系なんだよな
ゴロツキ中大兄とか藤原にクーデターで乗っ取られたけど
日本人の半分は中国のO系統
半分は縄文のD系統だよ
それでO系統は西日本に多いんだよ
>>104
全然違うだろ
乙巳の変では日本の支配権が
蘇我大王の王朝から百済系の渡来人に移っただけ。
蘇我氏の上に立っていた孝徳天皇などそもそも存在しない。
外国から送り込まれていたエージェントである鎌子にそそのかされ、
このクーデターで政権を掌握した人物…
記紀では中大兄皇子と名づけられている人物の実際の名は、
百済王族の翹岐(ないし扶余族の豊璋)だ。
そして乙巳の変に乗じて鎌足はそれまで中央にあった全ての史書を焼き払ってしまった。
日本のそれまでの歴史を記述した国史』(クニツフミ)と
天皇家の真の出自を記した『天皇記』(スメラミコトノフミ)が消失してしまったとある。
百済という国は朝鮮語読みでビャクジェ、漢読みでパイチー、音読みでヒャクサイと言う。
ところが日本ではなぜかクダラと呼んでいる。
これは当時の日本人…というかクーデターで政権を掌握した百済一派の下で
人々がビャクジェの事を「クンナラ」「クンナラ」(朝鮮語で「大国」の意)と呼んで褒め称えていた事の名残だ。
クンナラが訛ってクダラになった。
ところが半島では大唐の後ろ盾を得た新羅の力が増して百済は滅亡寸前に。
天智天皇こと翹岐は大軍を派遣して百済を救出に向かうが、白村江の戦いで惨敗。
数年後に百済は滅亡し、天智政権は後ろ盾を失って国内で孤立してしまう。 そして新羅は日本に送り込んでいた新羅の皇族・金多遂を使って日本に巨大な内乱を起こす。
金は東側の地方豪族を味方につけた大規模のクーデター・壬申の乱を起こして
天智の子を自害に追い詰めし、天武天皇として即位。
この天武天皇が事実上最初の"天皇"だ。
今の皇統に繋がる初代である。
鎌足の子の不比等はこの新羅系王朝の重鎮となって権勢を振るうようになる。
ここまでは良かったものの、不比等は新羅を裏切り日本を"独立"させてしまった。
不比等は新しく日本の史書(ふひと)を作り上げた。
天武以前の大王は実は全て血の繋がりも何もないのだが、
畿内を支配していたさまざまな豪族を、架空の歴史によって1本に結びつけ
偽りの"万世一系の血筋"からなる創作上の王朝を作り上げた。
そして日本の暦、現政権の歴史が非常に旧いものであると創作して作り上げた
日本書紀を、大唐に献上して外交の道具とした。
これによって、実はそれまでの数千年間中国や朝鮮の植民地にすぎなかった倭国が
真に日本として独立を果たしたわけだ。
遺伝子、文化、遺跡、文献などすべての物事は弥生人が江南あたりから来たことを指示してんだよ
>>100
架空だっての
まさか本当に記紀に書かれている事がそのまま事実で
その通りの人間が実在し、その通りの出来事があったとでも思ってるのか >>115
全部が架空ではないけどな
葛城蘇津彦とか七支刀とかは向こうの文献にもあるし実物もある。 >>109
俺の感覚が変なのか、どうも蘇我氏と葛城氏のイメージが被るんだよな。
つか、記紀の記述が被っている気がする。 >>116
俺も全部が架空とは言ってないわ
ただ推古天皇とか、明らかに架空の存在はいるわな
西暦607年、倭国は「日出る処の天子 、書を日没する処の天子に致す」
という親書を持たせて小野妹子を隋に派遣した。
翌608年、隋はこの使節に対し、帰国する妹子と一緒に、
文林郎・裴世清を日本に派遣。
裴は日本で「倭」の国王に謁見する。
この時の事を『倭国伝』はこう記載している。
『開皇二十年、倭王あり。
姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)
阿輩鶏弥(おほきみ)と号す。…
王の妻は鷄弥(きみ)と号し、後宮には女六、七百人有り。
太子を名づけて利歌弥多弗利(リカミフタリ)と為す』
(倭王はアメノタリシヒコという名で、オオキミ [王] と呼ばれている。
オオキミの妻はキミという称号である。
倭王の後宮には6〜700人の女が仕えている。
また、皇太子の名前はリカミタフリと言う) >>118
新羅が攻め込まれたことは向こうの文献にも書いてある。 実 に 不 思 議 な 記 述 で あ る。
天皇家が国内外に支配者としての正当性を示すため作り上げた捏造史書
『記紀』によると、この時代倭国の大王(オオキミ)は推古女帝であり、
皇太子は厩戸皇子 (聖徳太子)だったことになっている。
しかし、他国について客観的に記した『隋書』『倭国伝』によると
倭王は名をアメリノタリシヒコといい、後宮に700人近く女を囲っているという。
これはどう見ても男である。
よって、隋書を見る限り、当時の日本はアメノタリシヒコという
男王によって支配されていた国であり
推古女帝などという女性はそもそも存在しなかった事となる。
また、百歩譲って厩戸皇子が倭王だったとしよう。
しかし、太子は聖徳太子とか豊聡耳など数々の別名を持つにも関わらず、
アメノタリシヒコだのリカミタフリなどという名は、
日本側のどのような史書を見ても一言も記述されていない。
要するに聖徳太子も実在しなかった可能性がある。
いや『記紀』に記された古い日本の歴史、そのほぼ全ての記述が嘘だった可能性が高いのだ。
ちなみにこの時畿内に上陸した裴世清は
この時の都こそが『魏志倭人傳』にある祁馬臺國であるとはっきり断定している。
『邪靡堆(やまと)に都す。すなわ魏志の所謂(いわゆ)る邪馬臺(ヤマト)なるものなり』(『隋書倭国伝』)
>>117
同じく長い蔓を持ち、双方が蛇の化身である葛(クズ)の一族と藤の一族が
複雑に絡み合って葛藤しているんだろ
葛とは奈良県南部に棲んでいたが、征服王朝によって奴隷に貶められた国樔(クズ)の事。
不比等は国樔たちが数百年にわたって全国の山々に張り巡らせたカスミを横取りし、
金属資源の鉱脈情報を得るために、小角を捕らえて流罪にし、人質とした上で、
鉱脈情報との交換条件で解放した。 >>115
神功皇后は居ます! (><)
というのはさておき、福岡県のそこかしこに、皇后が子を産んだとか雨宿りしたとか
水を飲んだとか笠を木にかけたとか、「わびしい」と言ったとか村人が輿を担いだとか、
濃密な伝承が残っているわけよ。
>>119に関連しても、、
西宮の廣田神社は神功皇后が新羅征伐からの帰りにアマテラスを
祀った神社なんだが、平安時代の延喜式の外交プロトコルでは、
新羅の使者はここで酒を与えてもてなすことになっていた。
新羅の人を仇敵の神功ゆかりの地でもてなす意図は、要するに嫌がらせだがw、
この嫌がらせが機能したのは、新羅人にとっても神功皇后の伝説が
共有されていたからだよね。てなわけで、当時の日本と新羅との間では
神功皇后は生々しく存在していたと。
「物理的(生物学的)に生存していたかどうか」などいうと些細な部分にこだわるのは、
嫁をいびる姑みたいなもんだw >>112
「朝鮮語」ではなくて当時朝鮮半島南部で使われていた言語と書くべき。
今は話者が存在しないその言語と日本語の根幹のルーツが同一だったと推定
されている。数の数え方などでも共通性が見られる。 この方墳が宇宙人が作ったものならば、古代に宇宙人が来訪していた証拠となるかもしれない
>>117
そりゃ両方出雲系だからなあ
方墳ってことは ウンコ韓国人は時空軸が歪む
ウンコを食べる新羅との関係
836年 遣唐使の保護要請
845年 国交断絶
866〜870年 ウンコ新羅海賊来襲
884年 ウンコ新羅海賊来襲
892年 後三国時代始まる
893年 ウンコ新羅海賊来襲
935年 ウンコ新羅滅亡
延喜式
905年 編纂開始
927年 完成
967年 施行
>62
神皇正統記に日本は三韓と同根だとか文書が残っていたが桓武の時代に全部燃やしたって記述があるらしい
神皇正統記(14世紀)とか、全然関係ない話をするウンコ
>>127
そもふも藤原不比等のフヒトってどういう意味なのかというと
何の知識もない人間には「並ぶ者のない存在」の意味に見えるかもしれないが
実はフヒトの当て字だぞ
フヒトとは何かというと書人(フミヒト)、朝廷で文書を作っていた役人(多くは渡来人系)の事で
史書を編纂していた者たちもこれに含まれる >>116
その二つに関しては割とそうだよね
新羅は6世紀初頭までは弱かった(慕韓・辰韓の中では強い国て感じ)し どうでもいいんだけどな
平安時代で倭国大乱前のあり様に戻ったんだから
【奈良】小山田古墳、飛鳥時代で最大の「方墳」と判明 被葬者は天皇か蘇我氏か
ウンコもぐもぐは、全然違う話してる
ウンコ韓国のためのプロパガンダしに来てる
方墳はピラミッドやジッグラトだからエジプト人メソポタミア人征服王朝説で盛り上げよう
中国人は福建省を中心に沿岸部に酒に弱い人が多い。台湾人も弱い。
日本人は近畿を中心に酒に弱い人が多い。
大昔は政治は出雲物部系がやってたけど、仇敵のタケミカヅチをあがめる中臣が実験を握ってから没落した。
なんか別スレでも見かけたやべえのが来たな‥‥
平日昼夜問わずだったが、休日でもこうなるてえと
>>137
台湾が見づらくなっているのは政治的配慮によるものか?
台湾の歴史については皆さんご存じの通りだが、南部の
先住民族の存在を忘れないようにね。 藤原鎌足は朝鮮人
大化の改新以後日本古来の氏族を粛清しまくって
現在にいたるまで上流の家系として隠然たる権力を
>>141
ID:GVbANN6J0
がウンコを食べる朝鮮人 >>142
ID:TiHDtAiG0 は、なんでそんなにウンコ好きなん? >>104
大化元年はホントは西暦695年なんだ
大化の改新はホントは7世紀末の出来事なんだ。 なんでもうんち!と言わなけきゃ気がすまない精神年齢なんだろう
藤原鎌足(中臣鎌子)
父:中臣御食子 小徳(冠位十二階で2番目)
母:大伴智仙娘 大伴咋の娘。大伴咋は、大徳(1番目)
確実な元号まで弄るのは、どうかしてる
日本書記は大化の改新の記事を50年前にずらしてるね。
大和朝廷が建元したのは大宝からなのでそれ以前に元号は大和朝廷には無い。
飛鳥時代の古墳って日本人らしくないな
ひょっとしたら朝鮮人でわ
蘇我氏はすごいよな。
あのカーペンターズも蘇我氏のことを歌ってるし。
ID:FZfhWaiH0
独りが50年ずらしてるニダと言い張ってる
日本書紀は、天武天皇が編纂を命じてるんだから、それならそう書きゃいいだろ
>>60
疑われるようなどころか技術持ってるよアピールで誇って付けたんだろ
今で言うならジョブズとかトヨタ、ベンツって名前にしたのと同じ キトラ古墳のキトラとか意味が分からんからな
大和言葉でない可能性が高い
>>156
あんなの完全に中国じゃん
東西南北に白虎とか青龍とか書いて >>148
それは無理だろ 天智天皇とならあり得る >>156
亀虎って地名から来てたんじゃなかったっけ? >>11
かもな。
後から中大兄皇子と中臣鎌足が付けたんやろな。蘇我氏が悪のイメージもそうだからな。 >>121
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命、卑弥呼と新羅が同じ穴のムジナと言いたいだけやろ
倭国大乱の罪は消えないぞと >>11
小野毛人(えみし) 小野妹子の子。天武朝の太政官、小錦中
佐伯今毛人(いまえみし) 聖武から桓武まで。正三位・参議
鴨蝦夷(えみし) 壬申の乱で天武側。勤大壱 舒明天皇の初葬地の「滑谷岡」と
蘇我蝦夷の山背大兄王の私民を使役して造った墓所か。
蘇我蝦夷の場合、山背襲撃から蝦夷死亡までの2年で出来るか?って話になるし、
逆に私民使役を蝦夷への貶め風評記載で
それ以前に造っていた話もあるが、
墓所を造るとしても、父親の石舞台方面だろというのが人情。
舒明帝の初初葬地だと、自然な丘だったというのと、
蝦夷が諸王を従えさせるのに自分の近場を選ぶというのもあり。それ以前に造ってないといけないが。
結局、天武天皇以前のことはまったくわからないのよね
>>167
権威ある学者らが目を皿のようにして『記紀』などの捏造史を読み漁り
現実の古代史だと思い込んで証拠を探そうとしてきたが
何の事はない、『古事記』に書かれた天武天皇以前の歴史というのは
全世界で最も読まれている書物であり、全世界で最も有名な書物…
『聖書』を日本にローカライズして骨子とし、そこにさまざまなものを付随して作り上げた
ファンタジー小説にすぎないからな
『記紀』の神代七代から畿内に王朝を築くまでの話は
読み比べてみれば最初から最後までほぼ『聖書』と一緒だというのが明らかなのに
日本人はほとんどが宗教オンチでユダヤ・キリスト教の事をほとんど知らないから
完全に気づかないかこれを無視してしまう。
ちなみに古代イスラエル人らは自分らの民族を「ヤマト」と呼称していた。
(「ヤ」は絶対神ヤハウェの略称で「神」、「ウマト」はヘブル語で「民族」、
「ヤウマト」=「神に選ばれた民」の事。今でも時たま言っている)
よってここではヤマト民族と呼ぶ。 とりあえず簡単に一部を抜粋して、天皇家のなりたちについて
記紀の書くところを紹介するとこうなる。
◆弟の王権継承
古事記:日本列島に流入して異民族を駆逐し、ここに王権を築いた天皇家は、
元を辿れば天から降りてきた「ニニギ」の末裔である。
しかしはじめ地上に降りる予定だったのは、ニニギではなく先に生まれたオシホミミだった。
ところが彼がモタモタ準備をしているうちに、年少のニニギが彼に代わって地に降りてしまう。
旧約聖書:パレスチナに流入して異民族を駆逐し、ここに王権を築いたユダヤ王家は、
元を辿れば天から祝福されたヤコブの末裔である。
はじめヤマト民族の始祖になる予定だったのは、
ヤコブではなく先に生まれた兄のエサウだった。
ところがエサウがモタモタしているうちに、ヤコブが彼に代わって神から継承権と土地の支配権を得てしまう。
(ついでにヤコブは新たに「イスラエル」という名前を神から与えられ、それが後の国名になった)
◆美しい花嫁とブサイクなその姉
古事記 : 天孫降臨したニニギはコノハナサクヤ姫という美しい娘をみそめて結婚を申し込む。
ところが姫の父は彼女だけでなく、彼女の姉イワナガヒメももらってくれと言うが
姉があまりにブサイクだったためニニギはこの姉を姫の父につっ返してしまう。
旧約聖書: 継承権を得たヤコブはラケルという美しい娘をみそめて恋をして結婚を申し込む。
ところがラケルの父は彼女だけでなく、彼女の姉ももらってくれと言うが
姉があまりにブサイクだったためヤコブはこの姉をラケルの父につっ返してしまう。
◆子供たちの反目と仲直り
古事記 : ニニギとコノハナサクヤ姫の間にはたくさんの子供が生まれた。
その中の一人である「山幸彦」は、狩猟採集を生業とする人物であったが
兄の海幸彦に苛められた挙句、それまで住んでいた内陸部の土地を捨て、海神(わたつみのかみ)の国へ行く。
その国で強い神の力を得た山幸彦は、兄の田畑を凶作にさせるなどしてこれを苦しめるが
後に山幸彦と兄は合流して和解する事となる。
旧約聖書: ヤコブとラケルの間ににたくさんの子供が生まれた。
その中の一人である「ヨセフ」は、遊牧を生業として生活していたがも
兄たちに苛められた挙句、それまで住んでいた内陸部の土地を捨て、大河ナイルに面したエジプトの都へと行く。
その国で強い権力を得たヨセフ。兄たちは凶作によって極貧状態になってしまって苦しみ抜くが
後にヨセフと兄たちは合流して和解する事となる。
◆偉大な征服者の誕生
古事記 : 山幸彦は海神の娘トヨタマヒメをめとって「ウガヤフキアエズ」を産む。
これが天皇家の祖先であるウガヤ王朝の成り立ちである。
ウガヤフキアエズには4人の息子ができるが、2番目と3番目がいなくなってしまう。
4番目の息子が神武天皇である。
彼はその偉業により「カムヤマトイワレビコ・スメラミコト」と呼ばれた。
旧約聖書: ヨセフはエジプト祭祀の娘をめとって「エフライム」を産む。
これがダビデ王家の祖先であるユダヤ王朝の成り立ちである。
エフライムには4人の息子ができるが、2番目と3番目が死んでしまう。
4番目の息子の子孫がヨシュアである。
ちなみにヨシュアはその偉業により「カムヤマトイブリベコ・シュメロンマコト」
(ヘブル語でサマリアの王、ヘブル民族の高貴な創設者の意)とも呼ばれた。
◆王国の建設
古事記 : 神武天皇は東にある「豊葦原豊瑞穂国」(豊かに葦の茂る国の意)を侵略、これを征服。
この地に後々まで続く一大政権を築き上げる。
旧約聖書: ヨシュアは東(ヘブル語で「ミズホ」)にある
「カナン」(カヌ・ナー=ヘブル語で「豊かに葦の茂る地」の意)を侵略し、これを征服。
この地に後々まで続く一大政権を築き上げる。
聖書世界では世界の中心地はカナンであり、エジプトは西の国である。
つまりヨシュアはミズホの方角にある豊葦原なる中つ国にイスラエル王国を築いたわけだ。
これ以降も、天皇家の物語と家系図は隅々までユダヤ王家のそれと類似。
後に大王家が自分の家のルーツを旧約聖書に求め、これを改変して古事記に組み込んだ事は明白だ。
古事記の元ネタとなった神話や伝承は山のようにあるが、それらの中でも最も強い影響を及ぼしているのが
「創世記」であるというのは、その類似点の多さから客観的にわかる話だ。
『古事記』は天武天皇の命令で舎人の稗田阿礼に語せた帝紀と旧辞を、
太安万侶らが撰録したものとされている。
しかし実際にこの書物の総監督をしていたのは藤原不比等。
そして天武天皇も不比等も新羅シンパの人間だ。
ずっと後にローマ帝国の事を当て字で「羅馬」と書くようになったが
その名の通り、新羅(シルラ)とは東に作られた新しいローマ帝国の事。
西のローマ帝国を終点とするシルクロード上のさまざまな文化や伝承、宝飾品を集めた多文化国家だった。
道教や仏典、原始キリスト教のみならず『旧約聖書』も既に新羅にあった。
その新羅に強い影響を受けて新羅シンパらによって編纂されたのが古事記。
国内のみで完結するものではなく大陸の強い影響を受けて作られた書物だ。
◆天照の復活
もっと言えばヨシュアとはこんにち一般にイエス・キリストと呼ばれている男の本名だ。
大征服者、実質上のイスラエル王朝の始祖であるヨシュアにちなんでイエスはヨシュアという名を父母から与えられた。
そして言うまでもないくらい世界的に有名な話だが、イエスは無実の罪で釘で貫かれ、十字架上で磔刑に処された。
彼が死亡した途端世界が真っ暗になり、墓穴から死者が蘇って歩き回り、
エルサレム中が大混乱に陥ったと『福音書』にはある。
ユダヤの祭司らが神に祈ってもこの暗黒は晴れる事はなかった。
イエスは洞窟の岩屋におかくれになった。 (貴人が薨去する事を「おかくれになる」と言う)。
イエスについて使徒の長ペトロは訊ねられたが、知らないと言っているうちに長鳴鳥が大きく鳴いた。
固く岩の扉で閉ざされたイエスの横穴墳墓にやってきたのはマグダラのマリア。
裸になって男の上で腰をくねらす商売をしていたが、後に改心してウズメ (イエスの事をヘブル後でウズと言うが
ウスの女の事)、すなわち内縁の妻になったと言われる。
ウズメの前で2人の力持ちの天使が磐戸を開き、イエスの復活を教えた。
ただの人間として死亡したイエスは復活によって不死の存在となり、新約聖書で「義の太陽」と書かれる太陽神となり、
マリアや弟子たちの前にその姿を現し、40日後には天界に昇って姿を消した…。
聖書外典『マリアの福音書』ではマグダラのマリアのみが使徒たちを追い抜いて真の教えを与えられ、
太陽神の巫女としてイエスの教えを説いている。
『古事記』にも明らかにパクったと見られるこれとクリソツな話がある。
そして一度死んで復活した太陽神を最高神として位置づけ、天皇家の祖神としている。
『古事記』では岩屋の中に閉じこもった天照に対して、高天原の大祭司であるアメノコヤネは
「あなたより尊い神がここにおられる」と囁く。
天照が扉の隙間から顔を出すと、そこには榊の枝に架けられた八咫鏡があり、
暗い岩屋の中の死者である天照と、樹に架けられて吊るされ、鏡の中で光り輝く天照が互いに対峙する話がある。
これは聖書における、十字架に架けられて死亡した人間のイエスと
復活して光の神になったイエスを対比したものが元ネタだ。
『福音書』にはイエスが変貌山に上がって天界と交信した時、その頭部が暗闇の中で白く輝き、
彼の前にいた弟子のペトロとヨハネが大いに驚いたとある。
『古事記』によると天照が岩屋から姿を現すと、その顔の光によって岩屋の前にいた神々の顔が白く輝き、
彼らは喜んだとあり、この出来事が「面白い」という言葉の語源になっている。
これにしても聖書が元ネタの話だろう。
とにかく『古事記』にある、畿内に王朝を築くまでの話は6割方元ネタが『聖書』と言っていい。
>>172
豊葦原豊瑞穂国が、稲作技術を携えて列島にやってきた人たちにとっての
「約束の地(Promised Land)」だったというのは同意だが、
本家約束の地のカナンが「豊かに葦の茂る地」というのは初耳だわ。
カナンは別名を「乳と蜜の流れる地」と言うように、牧畜に適した草地(畑作地帯)で、
葦や水稲が生える湿地じゃないよね。 まあ日本人向けに書き直したんだろうなあ
旧約があまりにも厳格すぎ選民思想すぎて失敗したから緩い感じにしたんだろうなあ
倭の五王なんて不自然なレベルで記紀に出てこないのはおかしいよね
天武天皇は中国側の記録にある倭の五王を知らなかったのか?
蘇我氏くらい謎に満ちた支族もいないというか?
6世紀にもなってからいきなり現れてしかもトップの地位で
根拠地も不明
渡来人とは仲が良くて
中国への強烈なあこがれとも反発心ともとれるような思いというか
ユダヤとも中国ともとれるような名前とか
絶滅したわけでもないのに後裔支族を全く聞かない
あごめん
ユダヤとも朝鮮ともとれるような名前の間違い
なお遺伝学的にはユダヤのカケラもないもよう(笑)
日本固有のDとC、日韓共通のOで10割をしめます
ユダヤ要素どこいったwww
ユダヤ起源論なんてばかばかしい
韓国人みたいな真似はよせ
>>186
日本には伊勢神宮というユダヤ神殿があるけどな なんでユダヤにそんなにロマンを抱いてんの?
ロマンってそんなもんかもしれんけど
>>188
伊勢神宮なんて存在しないぞ
伊勢にあるのはただの「神宮」だ
もういっぺん歴史やりなおしてこい 日本人と韓国人の6割が遺伝的には区別できない(ともにO1b2もしくはO2)と聞くが、韓国人も起源はユダヤなのかい?
神宮が神格化されたのは近代以降
これテストに出るからなー
記紀に書いてあることは嘘ばっかり
乙巳の変で天皇紀・国記が焼かれてしまったのが
残念でならない
電波古代史流してるの、ウリスト教系カルトだって解るだろ
統一教会か、キリストの幕屋
馬子は聖徳大使との絡みで、入鹿は改新で討たれるまでは権力握ってたのは
理解できるけど、蝦夷の存在意義がいまいちよくわからない
乙巳の変が本当にあったのかどうかさえ怪しいんだよね
中国の正史によると当時の日本列島には倭国と日本国があって、戦争の末に日本国が倭国を吸収したとある
記紀で言うところの壬申の乱のことだとは思うが、さて…
>>196
正しく訂正された新唐書から削除された時点でね・・・ >>23
和気清麻呂を濁麻呂に改名させた例はある。 ID:Qh6vYJce0
↑↓
ID:X9j5AVXY0
また始まったよ
そりゃ猿田彦とか見せられてユダヤと思わない方が難しいとおもうよ
>>196
そうだとすると、日本国というのは饒速日がつけた国名だから、饒速日系がニニギ系を屈服させたことになるが
そのご藤原の台頭によってまたニニギ勢力に戻ったということか? 中国の旧唐書にはたしかに倭国伝と日本国伝の2種類があるが、これ書いた本人たちもなんで二つ同時に成立してるのかわかってないレベルだからね
>>203
> 日本国というのは饒速日がつけた国名だから、
そ、そうなん!? >>208
饒速日が奈良に降り立つ時に
虚空見日本国
そらみつやまとのくに
と言ったんだよ >>209
おお、ありがとう。
要は、日本書紀編纂時の呼称が登場人物のセリフに反映されているわけね。
同じようにイザナギ・イザナミの国生みの場面でも、本州の呼称が
「大日本豊秋津洲」になっていいる(古事記では「大倭豊秋津島」)。 豊秋津洲は神武天皇が言ったんだよ。
上から見て蜻蛉が交尾している形ににているので
>>211
けっきょくのところ、
> 要は、日本書紀編纂時の呼称が登場人物のセリフに反映されているわけね。
だよな。 >>212
まあそういう事だなあ
結局名前付けたのは記紀の編纂者という事になるかもしれん >>213
それが、古事記の方は「大倭」なんだよね。
たぶん日本書紀は、「日本」という国号を広めたい人たちが
書いた正史なんだろなと。 >>8
蝦夷が生前に作った墓で、中身はカラとかいうオチかね?(;・∀・) >>214
太安万侶は倭系の人だったんかな?
多氏って出雲だと思ったのだが??よくわからんなあ 大田田根子のイメージがあったんで出雲かと思ったら違うんだな神武系なんだな
推古が架空とかじゃなくタリシホコは近畿天皇家とは無関係の九州の王者だったというだけのこと
>>219
じゃあわざわざ隋に使節を派遣した聖徳太子も妹子も
みんな畿内でなく九州で生活していた事になるわなw
そして聖徳太子が仕えていたのは推古ではなくタリシヒコって事になるわな
妹子は自分が仕える王に隋の使節を会わせる役割担ってたんだから
ありえねーよ 日本の歴史を否定したいパヨクは脳内妄想ばっか
さすが共産主義とかいう脳内妄想を作り上げるだけあるわ
中国と日本の記録で初めて両方に一致する人物は阿倍仲麻呂(698-770)
これテストに出るからなー
>>220
邪靡堆には阿蘇山があるって書いてあるし、実際そうなんでしょうよ 日本書紀の最古の写本は平安時代のものだから、オリジナルがどんなものか誰も知らない
古事記に至っては南北朝だし
クリエイティブな武士が副業で書いたラノベかもしれん
隋書の阿蘇山は新しい知見だから入れただけかも。
そして倭が(いまでは)大国だと尊敬して新羅や百済の通使が
往来してると
「新羅百濟皆以爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來」(隋書)
それと(>>225)既に都が畿内にあったこととは矛盾しない。
倭の2度目の朝貢(プレゼント)の翌年、隋の裴清が
国使として倭の都を訪れてる。けどその道順は畿内のもの
としても矛盾はないよ。魏志のものは北九州だけどね このへんの歴史ってちょっと疑わしいんだよな
隋の記録と日本側の記録がいろいろ食い違ってて、実は隋の記録の方が正しいんじゃないかという
ずいずいずっころばしは
遣隋使に選ばれた、小野妹子を送り出すときに歌われた歌である
仁徳天皇陵も調査する時代なんだから阿武山古墳も再調査すればええのに
奥州藤原のミイラなんか今でもちゃんと管理されてるんだろ
>>227
魏志倭人伝の風俗は北部九州の記述だが、行程は投馬国以降ぶっ飛んでるからなぁ >>232
魏志の「投馬国」と「邪馬台国」の2つは、筆者の陳寿が誤解して
入れたと言う説もある。魏略(散逸)にはないし、魏略(引用)の方が自然 とりあえず、擬似的同族性というのは知っておこうよ
と毎度こういうスレみる度に思う
日本においては、歴史に誰が?とかいつ?とか性別は?とか意味ないのかもしれない。
神社に祀られる神様すらころころ変わっても気にしない民族性だから
そのくらいの緩さが日本の強さでもあるのかもしれんし弱さでもあるのかもしれん。
それはどっちがいいのかは分からん。
外国のように厳格に、殺し合うのがいいのか
日本のように異民族で婚姻していがみ合いながら共存するのかいいのか
平安時代初期だっけ?
日本の神様が仏教に帰依した、みたいなトンデモストーリーが普通にあるからな、日本史って…
>>118
だから九州王朝なの
隋書なんて読まれてたんだから、会えて嘘を書く意味もないんだよ >>209
饒速日が日ノ本と言ったのは河内。河内には日下の地名が残る。
饒速日命信仰は古代から今日まで大阪全土が圧倒的だ。
奈良は一部のみで仏教勢力の方が圧倒的に強かった。 >>239
橋本と橋下が互換なように、日本と日下も同じという
理屈はわかるが、「くさか」という訓みが解せん。 日本書紀の天孫降臨で天皇のご先祖様が「この地に宮殿を建てよう、韓の国がよく見えるし」てのがあるじゃん
その韓国岳ってガチで存在するんだね
はじめて知ったよ
しかも日本を代表する日本百名山
場所も高千穂のすぐそばだし間違いないよね
記紀を史書と捉えるのではなく経典あるいはプレゼン資料と捉えれば、内容としてはその心が分かればそれが真実かどうかはあまり問題では無くなる。
方便みたいなもので
>>240
読みは知らんが大阪の饒速日信仰は本物。
人々の長年の思いは本物だった。
仏教が主流になろうが習合されようが、何も変わらなかった。
都道府県別でも大阪は饒速日命を日本一祀っている。
大阪人達は歴史の証人。 そりゃもともと神武の前は饒速日が治めた土地だから
さらにその前は事代主かな