https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190315/k10011849921000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_047
天皇陛下の勅使が退位報告する神事 伊勢神宮
2019年3月15日 19時08分退位・即位
天皇陛下の勅使が三重県伊勢市の伊勢神宮を訪れ、来月末の退位をご祭神に伝える神事が行われました。
15日は来月末の天皇陛下の退位とその日程を報告するため宮内庁から天皇陛下の勅使が三重県伊勢市の伊勢神宮を訪れました。
このうち内宮では供え物を入れたヒノキのひつを携えた勅使に祭主などを加えた合わせて30人ほどの列が正宮を訪れました。そして、供え物を奉納して退位をご祭神に伝える神事が執り行われたということです。伊勢神宮によりますと、退位を伝える神事は過去に執り行われた例がないということです。
神奈川県から参拝に訪れた50代の女性は「陛下が沖縄などへ精力的に訪れていた姿が印象的です。退位がもうすぐということでこれまで本当にお疲れ様でしたと言いたい気持ちでいっぱいです」と話していました。
また、天皇皇后両陛下は伊勢神宮に参拝する儀式に臨むため、来月17日から三重県を訪問されることが15日、正式に発表されました。天皇皇后としては、これが最後の地方訪問になるということです。
勅使の方の移動手段はなんだろう
徒歩?馬?それとも飛行機?
■
天照
月読尊
月夜見尊
こんな元号は 止めろ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本会議、神社本庁
みんなやるの初めてだから間違っててもそのままスルーなんだろうな
>>1
まだ神の子孫ごっこやるのか? 戦後すぐに人間宣言したんじゃなかったの? 過去に前例ないんだろ〜皇室の歴史がまたいちページw
初めてでちゃんとできるのか?
マニュアルあるのかな
政治家とマスコミは退位。
天皇陛下は譲位と言ってるんだよな。
>>17
んなこと報告されても伊勢神宮も困るだろう >>25
前例は無いらしい
↓
>そして、供え物を奉納して退位をご祭神に伝える神事が執り行われたということです。
伊勢神宮によりますと、退位を伝える神事は過去に執り行われた例がないということです。 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7 >>1
https://ja.wikipedia.org/wiki/一霊四魂
一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つ、という、
幕末の神道家の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観である。
各魂の名称は記紀などによるもので、『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」には新羅征討の際に神功皇后に
「和魂は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂は先鋒(さき)として師船
(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったとある[1]。また、神代には、大国主命のもとに「吾(あ)
は是汝(これいまし)が幸魂奇魂なり」という神が現れ、三輪山に祀られたとある[1]。『古事記』では、
神宮皇后が、「墨江大神(すみのえのおおかみ)の荒御魂」を国守神(くにもりのかみ)として新羅に祀ったとある[1]。
だが、それらの記述には、神には四魂があるとはどこにも書いていない。ゆえに、それらは別個に活動すること
があるとまではいえるが、四魂があるとは言えない。一霊四魂説は、本田親徳とその後継者たちの神学的な解釈
から生み出されたとみることもできる。 なお本居宣長は、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」
に、三輪山の神は大国主命の和魂だとあることなどを根拠に、魂には大きく荒魂と和魂の2種があり、和魂にはさら
に幸魂と奇魂の働きがあるとしており、四魂としてまとめてみるようなことはしていない
近世になって、一霊四魂は本田霊学系の後継者によって、古神道の霊魂観として重視され、本田親徳や大本教の
出口王仁三郎、また出口王に三郎の弟子らによって、構造や機能が詳述されていくこととなる。 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7 >>1
https://ja.wikipedia.org/wiki/川面凡児
川面 凡児(かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。
禊の行法を体系化し、組織的に行なった[1]。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。
思想
川面の思想は、古神道の宇宙観、霊魂観と神人合一法を西洋論理を用いて解き明かそうと試みた点に特色がある。例えば、
荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で
「現人神(あらひとがみ)」であると主張した。(天皇だけが現人神ではない、という主張は注目すべきである) また、
天御中主(あまのみなかぬし)を中心力、高御産霊(たかみむすひ)を遠心力、神御産霊(かむみむすひ)を求心力ととらえ、
この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。 川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。
創造神は、創造がある以上終末が訪れることを前提とした限定的な神であるが、生成神には、終末と見える現象はあったとしても、
実際に終末はなく、永遠の生成発展があると考え、古事記の「天壌無窮」説を近代論理を用いて説明しようとした。 川面の主張
する日本民族の神は、一神にして多神、多神にして汎神であり、一神の躍動するはたらきの現れが、多神であり、汎神であるとし、
この構造をもった神を「全神」となづけ、自らの教えを一神教でも多神教でもなく、「全神教」と名付けた。この神のダイナミックな
構造は、およそ二百年後には、西洋にも理解されるようになり、西洋は、多神と祖霊も祀るようになるだろうと予測している。
ただし、神は、知性で論理的に把握しただけでは足りず、体感、体認、体験しなければならないと説き、そのために禊、鳥船、雄
叫び、おころび、祝詞などの一連の身体作法を体系的に行う必要があるとしている。(彼が提唱した禊は、その一連の身体作法の一
部にすぎない。) なお、天皇が宮中でおこなう祭祀と行法が、本来の魂しずめと魂ふりであり、川面の祭祀と行法は、それから派生
した傍流であると位置づけている。(『宇宙の大道を歩む』より抜粋) >>3 >>4 >>5 >>6 >>7 >>1 >>2
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤
平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日(1776年10月6日) - 天保14年閏9月11日(1843年11月2日))
は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。
復古神道の成立
その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めたのである[6]。ここで篤胤は、
天主教(キリスト教)的天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする、
きわめて首尾一貫した、かつ儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立したのであった[3]。篤胤によれ
ば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が
四海の中心であり、天皇は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それ
が「霊の真柱」なのであった[2]。
出定笑語
平田は『出定後語』の理論を借用して『出定笑語』を書き、文章が平易通俗的であったこともあり、幕末以前、
1820年代、1830年代、1840年代の多くの人に読まれ、明治維新に至る王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になった[16]。
民族宗教の体系化
復古神道においては、日本の「国産み」においてこそ天地創造がおこなわれる。日本は「よろずの国の本つ御柱(みはしら)た
る御国(みくに)にして、万の物、万の事の万の国にすぐれたるものといわれ、また掛(かけ)まくも畏(かしこ)き我が
天皇命(すめらみこと)は万の国の大君(おおきみ)にましますこと」が自明のこととして主張される[3]。
篤胤は、村落の氏神社への信仰や祖先崇拝といった、従来、人びとが日常レベルで慣れ親しんできた信仰に、記紀神話の再編に
もとづくスケールの大きい宇宙論を結びつけ、さらに幽冥界での死後安心の世界を提示した[10]。
幽冥論
また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の
教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。
「御国の御民」論と「みよさし」の論理
一方、現実には神孫たる天皇と将軍を頂点とする支配体制とをいかに整合していくかが求められるが、これについては、
「みよさし(委任)」の論理が用いられた[3][10]。 >>1 >>2 >>3 >>4 >>5 >>6 >>7
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤
平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの古典に収載された古伝説に
は齟齬や矛盾、非合理がふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解すると
いう手法を用いて論を展開した[9]。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはず
だという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた[9]。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界
の事実を明らかにしていくのが彼の関心であるかぎり、これは自然なことであったが、漢意の排除と
文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱にほかな
らない[9][11]。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなかった[3]。彼は、自身も含め
た近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索したのであり、そこで必要な神学
を構築するためにこそ『古事記』『日本書紀』その他の古典および各社にのこる祝詞を利用したのである[3]。
『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観に
ついての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は伊勢松阪の鈴
屋とはしだいに疎遠になっていった。 >>1
https ://ja.wikipedia.org/wiki/一霊四魂
一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂から成り立つ、という、
幕末の神道家の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観である。
「一霊四魂」という概念は本田以前には一切文献にはなく、本田独自の霊魂観であるが、
これには西洋のスピリチュアリズムの影響が伺える。 また、本田の弟子の長沢雄楯(ながさわ かつたて)
の弟子であった出口王仁三郎は、人間の霊魂だけではなく森羅万象がこの一霊四魂から成り立っていると説いている。 神事全般映像記録に残してるといいなぁ
全公開は難しいかもしれないけど後学の為にも
>>27 >>28 >>29 >>30 >>31
https://ja.wikipedia.org/wiki/復古神道
平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、
復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名
な成果をあげ、法華宗や密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した「平田派国学」を大成さ
せた[8]。この平田派国学の流れから後に、本田親徳、川面凡児その他の、「古神道系」宗教家が多く誕生してくる。
その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した[9]。
また、同じ明治の本田親徳や、本田の弟子の長沢雄楯、またその系譜に連なる出口王仁三郎らは、人間の
心は根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が「荒魂」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御
するという日本古来の「一霊四魂」説を体系化した。[10] 辞める前も いそがしいんだねぇ
あと2ヶ月か…
金の切れ目が縁の切れ目
>>33
https ://ja.wikipedia.org/wiki/本田親徳
その霊魂教義は30代半ばに体系化されたとされ神道における霊的側面を理論化し明らかにした。
その内容を大別すると、
神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」。
帰神を実現するための精神統一の修行法である「鎮魂法」。
鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」からなっていた。
神懸かりには三十六法があること明らかにしお告げであっても、それを鵜呑みにするのではなく、懸かった神霊の階級
や種類やを判別する「審神」(さにわ)を重視した。 >>33 >>35
(本居宣長の弟子からカルト扱いされた)平田神学・国学はキリスト教やユダヤ教から一部借用し(内容を全く理解しないでパクリ)、
それに影響を受けた会沢正志斎の仲間の藤田東湖は神州不滅を唱え水戸藩は集団パニックを起こし内ゲバで殺し合って壊滅し
会沢正志斎の弟子の本田親徳はアメリカ新興カルトのスピリチャリズムに共通する点を多く持つ
同じく平田派に影響を受け明治維新後に育った川面凡児は「全神教趣大日本世界教」を設立したが、(本居宣長の弟子からカルト扱いされた)平田神学・国学をベースにした
川面凡児は明治に既に上陸していたキリスト教ユニテリアン・理神論・ドイツ観念論・汎理神論、道教、ヒンドゥー教の儒教劣化版カルトと言える世界観を発表するようになる
明治維新後に育った川面凡児は(既に存在した)西洋カルト宗派をコピーしたか偶然に発明したかは定かではないが、カルト宗教の世界において時代の最先端を走り続けた >>1
明治天皇は儒教的専制君主となるよう積極的に動いていた時期があった(大久保の暗殺後に政治空白が生まれ宮中での天皇親政運動が強まる)
明治天皇とその側近である侍補グループの天皇親政運動は五箇条の御誓文や維新革命後の政治体制に反する存在となった為に伊藤博文が介入した。最終的に軍の支持を受けた伊藤
の封殺案に抵抗する術はなく、侍補は廃された。宮中グループはその後も教学聖旨によって儒教君主化を企んだが伊藤博文はこれも頓挫させた
「〔明治13年〕11月3日(東京)天皇誕生日。この国の人民がその君主に寄せる関心の程度が低い有様をみることは情けない。
警察の力で,家々に国旗を立てさせねばならないのだ。自発的にやるものは、ごく少数だろう」(エルヴィン・フォン・ベルツの日記より)
憲法の制定後は明治天皇の権力はさらに制限され、親政の希望は失われたが、伊藤博文は傀儡となった天皇の権威を最大限利用すべく動き
最終的には西欧におけるキリスト教の役割となることを期待し、操り人形の前提で天皇崇拝を強化した
明治天皇の信任が厚かった宮中グループも、朝鮮朱子学による天皇儒教権威の強化、儒教的・絶対的な天皇中心主義が教育勅語に組み入れられたことで満足(侍補達の権威アップ)し、その後はおとなしくなった
https ://ja.wikipedia.org/wiki/明治天皇
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省
の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/機務六条
宮中側は明治天皇が儒教に基づいた東洋的な専制君主として「天皇親政」を行うべきであると主張し、明治天皇への帝王教育もその路線で行ってきた。これは将来的には天皇を西洋的な立憲君主として近代国家の中枢に据えようとす
る太政官の方針と矛盾したものであった。このため、岩倉や伊藤らは侍補を廃止して親政路線を停止しようと図ったが、明治天皇自身が元田永孚・佐々木高行ら侍補に心を寄せて彼らを私的なブレーンとして遇し、彼らが期待する君主像を実現させようと試みた。
1879年(明治12年)3月10日、明治天皇が「勤倹の聖旨」を公布して政府の財政路線を批判し、続いて元田に「教学聖旨」を執筆させて教育政策を批判した。伊藤らは天皇と宮中側の関係を改めさせようとしたが、急速に立憲制が確立することで
公家出身の門地に依存してきた自分の地位が危うくなることを危惧した三条や岩倉は、元田や佐々木らの宮中側勢力を完全に抑えることには消極的で、大隈財政末期の外債発行問題などでは宮中側と連携して太政官側を動かそうとする動きも見せたのである。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤博文
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。
生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。 >>38
伊藤博文は百姓、山県有朋は奉公人の出身と記憶しているが、明治維新の長州閥に限定すれば大規模な身分変動があったことになる
足利尊氏のように賊軍・朝敵になってから政権を奪取したりする例はあるが、百姓・奉公人の血筋からの出世では豊臣秀吉以来と言えるだろう
王政復古・明治維新後には公家や宮家が権勢を振るう可能性があったが、権力を得たのは伊藤博文と山県有朋を筆頭にテロリスト兼反乱軍(元賊軍)・一揆軍部隊長のような指折りの危険人物
ぞろいであったため明治天皇や側近・皇族・公家を差し置いて実権を握ったのは長州・薩摩の勢力となった。伊藤博文と山県有朋は天皇親政運動を封殺して天皇から実権を剥奪したが
元田永孚や公家からの圧力を受け教育勅語において妥協をしている
伊藤や山県の死後、薩長では天皇や側近に薄気味悪さを感じさせる(怯えさせる)ような人材を輩出しておらず、教育勅語で元田永孚(熊本藩の上級武士出身)がしかけた時限爆弾に
よって国論の儒教化・朝鮮朱子学化の圧力が急速に強まっていくことになる。朝鮮朱子学の暴走の歯止めとなっていた明治の元勲が消えたことで、止め金が失われたわけだ
儒教・朱子学は短期的に社会を安定させる効果と、長期的に停滞をおこし社会を過激な動乱に導く滅びの笛であり、定期的に動乱の渦に国が呑まれていくことになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/元田永孚
朱子学的な大義名分論を日本の現実社会に徹底化して、修身と治国の一体化を図ると共に皇室への崇敬を一種の「国教」として確立することを
目指した元田の「政教一致」路線は、教育勅語を通じた天皇制国家の確立によって実現されていく。 >>39
明治維新の前哨戦において薩摩藩は勅令と軍を使い幕府老中の(殺害)脅迫・強要をして要求をのませたという(文久の変)
さらに小御所会議では優勢な論を展開した山内容堂に対して殺害をほのめかして黙らせた。この当時、勅令・勅書はヤクザ顔負けの強引で理不尽な要求を
押し通すための恐喝・脅迫に使用された小道具だったが、長州は平気で朝敵・賊軍となり戦争を継続し薩摩も裏で強力をしているため勅書など全く意にかいしないものが多くいたということだ
今なら勅書など発行しても銃弾・爆発物で消し飛ぶ、頑張って劣化楠正成を探そうとしても勅書程度に自らの人生を振り回され、生命の危険のリスクをとるのは相当な知恵遅れだけだろう
科学的軍事理論を学んだ連中に勅書などは到底通用する理屈ではなく、血統世襲理論で印象は最悪になるので効果はむしろマイナスとなる
山内容堂や老中の例でも分かる通り武家の名門・門閥一族は自らの命が危機に瀕すると見るや下級武士の脅迫に対してあっけなく屈する腰抜ばかりで、名門の誇りもあったものではない
薩摩藩と長州藩の強さは青白い顔の名門では思いつきさえしない、下級武士ならではの脅迫や暗殺、テロを平気でやってみせる決断力と実行力にあった
つまり薩長の物理的脅迫は現代でも十分に通じる表現方法だということだ
だが薩長の下級武士も道徳面では特権に安住して腐敗しきった公家よりはおそらくマシだった
そして没落する上級武士を横目に下級テロリスト武士が栄達し実権を握ることになる
武士どころか下民出身の伊藤博文と山県有朋が最高指導者に栄達する
https://ja.wikipedia.org/wiki/猪熊事件
公家衆乱行の発覚
左近衛権少将・花山院忠長は、ある時後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。
そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼安備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、
それをきっかけとして二人で逢瀬を重ねていた。その話を漏れ聞いた猪熊は、俄然興味を持ち、かねてから懇意の飛鳥井雅賢
をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなった。
しかし、このように大人数の乱行が発覚しないわけはない。飛鳥井には恨みを含む女性がいた >>40
天皇親政運動を明治天皇の意向を受けて主導した元田永孚による朝鮮朱子学から生まれた国学を用いた天皇儒教権威の強化によって、
戦前は神風神話・神明に加護された神州不滅思想のような神話が生まれた
結果として無様な敗戦をきっする前までは天皇になにか超人的な力(超能力や霊力)があると期待していた宗教的風潮があったと見られるが、戦後に神国神話は
敗戦という現実によって粉砕されごく一部の狂人しか信じるものはいない
https://ja.wikipedia.org/wiki/神州不滅
江戸時代
江戸時代末期、藤田東湖は「神州誰君臨、万古仰天皇」と述べ、「支那」は革命を主体とする国家で王朝交代があるので「正気観念」にも変動があるが、
日本は万世一系の皇室を頂いて永遠に変わらないので「正気観念」にも変動が無く、そこに日本民族の特徴があるとした[1]。藤田東湖は「正気」とは
一般的には道義、特殊的には忠義であるし、更に「正気」の粋を集めた「神国日本」のその皇風が世界に広がり、皇室の御聖徳は太陽にも等しい、とした[1]。
藤田東湖の「正気歌」は吉田松陰や、明治の広瀬武夫にも影響を与えた[1]。平田篤胤の思想と、この水戸学の勤皇思想が混ざり、幕末に「神州不滅」の思想
が巻き起こった[2]。
明治以降
大日本帝国憲法では、日本は万世一系の天皇が統治し、天皇は神聖と明記された。
昭和および太平洋戦争終結時迄は、軍部によって「神国日本」「神州不滅」など、民族主義、精神主義、宗教などの傾向を持つスローガンが広く使用された。
また「神州不滅」の理由として、日本は神国であるから国家の危機の場合には元寇と同様に神風が吹く、とも説明され、神風特別攻撃隊も組織された。 >>41
伊藤博文・山県有朋が明治天皇の親政の希望を断った。プロイセン・ドイツ流の国家主義はカルテル経済のハリボテであったので
両名に対する批判はもっともであるが、伊藤博文が傀儡として天皇を利用しなかったならば国体が廃止されていた可能性は否定できない
明治維新が天皇親政に向かおうとした場合は、薩長や雄藩の軍人による武力行使によって国体(天皇を中心とする国家体制)が消滅していた可能性もゼロではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/孝明天皇
その後、幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身
の権威は低下していくことになった。
1865年(慶応元年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は、艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を
天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留
まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった[注 2]。
このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するよう
になる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言[5]し、
岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果た
し、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記している[6]。こうした中で1866年10月8日(慶応2年8月30日)には、
天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房
が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは
誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている[7]。 >>42
国学・神道の融合による朱子学化を推進した結果として尊王攘夷運動という時限爆弾が荒れ狂い自滅することになった水戸藩は、
弱小国の分際で世界最強国アメリカに無謀な戦争をしかけた戦前日本に重なる
http s://ja.wikipedia.org/wiki/諸生党
戊辰戦争以後
慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争が始まると、諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。これにより水戸藩に戻った本圀寺党を
はじめとする天狗党の残党と諸生党の間で再度抗争が起こり、今度は賊軍となった諸生党はたちまち勢力を失い、市川らは水戸を脱して
会津へ向かった。武田金次郎ら天狗党が藩内での権力を掌握すると、諸生党やその家族に対して激しい報復が行われ、各地で多くの
諸生党士民が処刑されたり投獄されたりした。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/松山戦争
背景
元治元年12月(1865年1月)に関東を劫掠していた水戸藩天狗党の乱が鎮圧された後、水戸藩の藩政は市川弘美ら
中心とする諸生党が掌握し、水戸に居た天狗党の関係者は諸生党によって次々と処刑された。
ところが翌年将軍徳川家茂が死去すると、翌年には天狗党本隊のうち武田金次郎ら遠島に処される予定であった者共
が赦免され、さらに孝明天皇崩御の後、天狗党と共謀関係にあった長州藩が鳥羽・伏見の戦いで勝利すると、天狗党・本圀寺党
の訴えにより諸生党が一転して朝敵に指定された。
経過
天狗党は翌7日から9日にかけて八日市場近隣の村々に押入って金品を強奪し、各村の名主・組頭を縛り上げて拉致し
身代金550両を奪取した上、銚子など周辺の町を次々と襲撃して略奪を繰り返した後、水戸へと戻っていった。飯高寺
の『向城庵記憶帳』は、この時の有様を「辰年十月中旬、水戸藩士天狗共国元にて戦争の上〜八日市・佐原・銚子・東金
などの町家へ乱荒し必死難渋の沙汰」と記している。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/武田金次郎
1864年の天狗党の乱には、祖父や父と共に参加する。のちに乱が鎮圧されて祖父など376人が死罪に処せられたが、若年を理由に遠島処分となる。
1866年、金次郎ら110名は小浜藩に預けられ、佐柿(福井県美浜町)の屋敷に収容されて謹慎したものの、准藩士格として厚遇される。1868年、
王政復古によって朝廷から罪を許され、水戸への帰藩を命ぜられた。
帰藩した金次郎らは、朝廷の威光により藩の実権を掌握。通称「さいみ党」と呼ばれた金次郎らは、仇敵であった諸生党残党に復讐をすべく、
白昼堂々に襲撃・暗殺し、藩内を極度の混乱状態に陥れた。
香川が栃木県の塩原温泉を訪れたとき、物乞い同然のみすぼらしい小屋で暮らす、体の不自由な金次郎と出会った。驚き哀れに思い、香川が金銭を渡すと、
金次郎は喜び、ひれ伏したという。このあと、金次郎は水戸に戻され、3か月後に亡くなった。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/武田耕雲斎
家系
武田耕雲斎の家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系である跡部氏の一族であるという。 >>43
朱子学を教育勅語に編み込んで日本人を朝鮮朱子学で洗脳した元田永孚に先駆けて日本国内に李氏朝鮮の朱子学を復元した壮大な社会実験は、神州不滅を唱えた藤田東湖の水戸藩で行われた
朝鮮人的思考形態を持つ陸軍統制派によってさらに拡大運用された結果として集団パニック症候群が大量に発生した。現代の愛国烈士の姿は天狗党に被る
https://ja.wikipedia.org/wiki/天狗党の乱
天狗党の発生
こうして権力を得た一派は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということ
で、天狗党と呼ばれるようになった。これに対して斉昭は、弘化2年(1845年)10月に老中阿部正弘に対し、江戸では高慢な者を「天狗」と
言うが、水戸では義気があり、国家に忠誠心のある有志を「天狗」と言うのだと主張している[3]。とはいえ、天狗党という集団はその内部
においても盛んに党争と集合離散を繰り返しており、それぞれの時期においてその編成に大きな差異が見られる。まず天狗党は後述する
「勅書」返納問題において鎮派・激派に分裂したうえ、さらに激派内でも根拠地別に筑波勢・潮来勢などの集団があってそれぞれ独自に動
き回っていたことから、『水戸市史 中巻(五)』においては、一味の総称である天狗党の呼称を、最終的に京へ向かって西上した集団に
限定して使用している[2]。
大発勢の出陣と那珂湊の戦い
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ
交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ[15]、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還
を図ることとなった[16]。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政
・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という[17][18]。これに諸生党により失脚させられていた武田耕
雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。
投降
関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員
を鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、
一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められ
たために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。
この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内に
おいて斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他
は遠島・追放などの処分を科された。
乱後
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争は他藩にも例を見ないほどの凄惨な殲滅戦となって人材のことご
とくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。 >>44
(明治維新の序章となった尊王攘夷の)水戸朝鮮朱子学が巻き起こした狂騒は宮家や公家、門閥一族・宗族にとっては最初で最後の復権チャンスだった
葵の御紋の権威は維新戦争での敗戦で失われたが、菊の御紋や血筋で全ての欲望が満たすことができる時代は無様で悲惨な敗戦と共に終わった
門閥貴族の特権意識で戦後資本主義を生きるのは大変な困難だったろうが、それでも縁故資本主義の日本では何のバックもいない貧乏人に比べれば遥かに生きやすかったことだろう
しかしその門閥のアドバンテージも日本の豊かさの源泉であった技術競争力の低下によって経済が崩壊する見込みのある現在では無効となる見込みであり、従来の利権を守ろうとすればするほど
あらがいようのない運命・対流によって深い沼に引きずり込まれ徐々に落ちて、もがき苦しんで死ぬことになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸黄門
この講談話の始まりについては、一橋慶喜を将軍職に就けるため、父である水戸斉昭が裏で動いて、水戸徳川家は「天下の副将軍」であるという話を世間に広めようとしたのだという説がある。
しかしながら光圀が正すのは局所々における役人の不正であり、時には身分制度の掟で結ばれない恋人同士に粋なはからいを示すことなどはあるが、身分制度の矛盾を根本的に正す社会改革にまで踏み込んだ対応を試みようとすることはない。
印籠で平伏するような人間は今の時代いないし、存在しない権威を振り回して暴れたり、洗脳やビジネスツールとして低能を信じさせるための詐欺に使う内質は幼児退行であり、現実逃避に過ぎない
悔しいなら門閥・貴族の一族が本気を見せて日本の経済や競争力を回復させれば良いだけだが、そんな実力がないのは本人達が重々承知しているだろう
なぜ安定して繁栄してきた日本が不運に見舞われ、失敗し続け、衰退中かということだが、それは国民を家畜にしてきたからだ。自由と正義を自ら放棄するような国民は自ら考えることをやめて家畜化され、
上位者である無能で下劣な品性しかない門閥や宮家の残りかすである愛国自慰廃棄物を模倣する。二言目に忠君や国体を連呼するような無能依存体質が下の重層的身分階層に下方伝播・伝染するという至極当然な道理に過ぎない
つまり底辺まで腐りきった儒教的衰退と言える
皮肉なのはアメリカは真剣に日本人が自由を持ち人間としての尊厳を取り戻せるよう願っていたことであり、それが実現すれば門閥一族は一定の権威を保つことも可能だったかもしれないことだ
しかし所詮は飼いならされた家畜しか望まない儒教政府では限界があり、自らの無能という印籠紐によって首がしまって窒息寸前という実に同情が不可能な醜態をさらしているのが現在の状況だ
国難時の力の源泉は皇室や国体の失われた権威ではなく、優れた武器と金となる。それを誰よりも持っているのは言うまでもなくアメリカであり、日本がアカく染まって中国の属国となり日本の血の中国人化が進む前に
アメリカは介入するだろう >>45
民度マックスの水戸藩士達は些細な差で内ゲバを起こし、フランス革命に匹敵する凄惨な同士討ちをした(3歳の幼児を処刑)
内紛・内ゲバの経緯を見ると、水戸藩士は見事なまでに朝鮮人の特徴である中庸徳を会得しており、まさに日本国に現出した朝鮮・中華が水戸藩だったと言える
徳川光国の主導による「大日本史」の編纂の過程において国学が生まれ、水戸藩は神道・国学・朱子学研究の中心地となり、
明治維新に先んじて廃仏毀釈を行うことになる
会沢安あたりは神道からの大義名分論を導き出し、今日の(朝鮮朱子学に洗脳された)愛国烈士の教祖のような存在だろう
弘道館は他にも神道系の国学者を輩出しており、大政奉還・王政復古のプランは水戸藩の貢献が大きいが、同時に内紛による
熾烈な虐殺事件は儒教中庸の強さを証明している
藤田東湖の尊皇攘夷と、元田永孚・佐々木高行の天皇親政は、朱子学をルーツにする点において同祖と言え
国体(天皇を頂点とする国家体制)を作ったのも水戸藩や朱子学者であり、朝鮮朱子学をベースに儒学の官学化を推進し神道と儒学を融合した林羅山からの伝統と認めることができる >>1
今上は土人の住む沖縄や南洋が好き
ロシアや北海道や青森はあまり好きではない >>46
なぜ水戸藩だけが戦前日本の集団中庸パニック症候群に酷似した状況に陥ったかだが、幕府に近い大藩というだけでなく名門中の名門、
門閥の血筋の藩主と藩士達が主導する正統学問の中心という自負と特権意識による藩内序列、血統序列のマウンティング抗争が勃発したからだろう
その根本原因は朝鮮朱子学が(儒教的祖霊信仰・始祖信仰の)神道と結び合わさったのが原因と推定できる
伊藤博文、山県有朋は名門どころか社会の底辺出身であり朱子学の身分差別からは這い上がるべきでない下民であったし、さらに賊軍・朝敵になった後は初期の(上級武士による)朱子学色は払拭され陽明学ないし西洋的リアリズムで
軍事クーデターによって国体も含めて政権をひっくり返すという意識が芽生えたわけであり、尊皇攘夷もあっさり捨て、政権奪取後の天皇親政運動も封殺した
薩摩も逆賊・朝敵である長州と同盟をする点において大義名分からかけ離れ、幕府を滅ぼすことに熱中し、王政復古より幕府の滅亡を優先し政治的協議でなくリスクの高い内戦を選んだ
福沢諭吉「我が国の人民は,数百年の間,天子あるを知らず、唯これを口碑に伝ふるのみ。維新の一挙以て政治の体裁は数百年の古に復したりと称すと雖も、王室と人民との間に至密の交情あるに非ず」
維新以前は天子の認知度は低かったが、廃藩置県があっさり通った段階で五箇条の御誓文は忘れ去られており、明治天皇と宮中、側近の天皇親政運動(五箇条の御誓文とは全く正反対の儒教原理主義)はその流れを象徴した
現実は伊藤博文と山県有朋は、世襲カリスマである明治天皇の意向をいつでもひっくり返す軍事力を持つだけでなく、国民と皇室が疎遠な事を理解して、大義名分論の天皇親政を退けた現実主義者だったと言える
伊藤や山県の死後、薩長では天皇や側近に薄気味悪さを感じさせる(怯えさせる)ような人材を輩出しておらず、教育勅語で元田永孚(熊本藩の上級武士出身)がしかけた時限爆弾に
よって国論の儒教化・朝鮮朱子学化の圧力が急速に強まっていくことになる。朝鮮朱子学の暴走の歯止めとなっていた明治の元勲が消えたことで、止め金が失われたわけだ >>48
水戸藩の佐幕派は家格門閥で、尊皇攘夷派は下級武士という説があるが、家格門閥とはあくまでも血筋とは無関係の水戸藩における家柄のことであり
(儒者を除外した)正統な血筋による序列主義を重んじる朱子学的思想に、血統門閥が加わったことで、家柄vs血筋・血統マウンティング抗争が発生する余地は十分にあった
尊王攘夷派
https ://ja.wikipedia.org/wiki/田丸稲之衛門
田丸氏は村上源氏の名門北畠氏の庶流である。田丸氏は、戦国時代初期の伊勢守護・北畠政郷の四男・顕晴が度合郡田丸城に入り、田丸の苗字を称したことにはじまる。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/武田耕雲斎
武田耕雲斎の家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系である跡部氏の一族であるという。
武田金吾 耕雲斎の七男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年3。靖国神社合祀[4]。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/戸田忠太夫
清和源氏の一門にて河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の七男・源義隆(陸奥七郎義隆)を祖とする。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/安島帯刀
本姓は藤原氏。家系は贈正二位鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする安島氏。
戸田三右衛門忠之の次男に生まれ、母方の叔父・安島彦之允信順の養子となった。三河譜代の名門戸田氏の嫡流・戸田松平家の分家の出自であるが、佐竹氏旧臣の血筋である母方・安島氏の家督を継いだ。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/里見四郎左衛門
四郎左衛門の祖は清和源氏新田氏流里見氏の一族の里見義成の四男・義直を初代とする家系である。
佐幕派
https ://ja.wikipedia.org/wiki/市川弘美
水戸藩士・市川弘教(1000石)の二男として生まれる。弘教の長男・弘業の死去後の1843年に家督を相続。
水戸藩名門
https ://ja.wikipedia.org/wiki/小田氏
小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた藤原道兼の玄孫、八田知家(八田太郎、宇都宮宗綱の子)を祖とする。
https ://ja.wikipedia.org/wiki/結城朝道
本姓は藤原氏。家系は鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする小山氏の同族・結城氏の血筋。 ■
天照
月読尊
月夜見尊
こ
ん
な
元
号
は 止めろ・・・・・・・・\(^o^)/ 日本会議、神社本庁 \(^o^)/
>天皇陛下の勅使
無教養だねえ
頭が頭痛て言ってるようなもん
>>49
生瀬騒動では400人程度を無差別に皆殺しにしたとの伝承が残る。つまりこの程度では公的記録に残らないというわけだが、これを「大日本史」・藩史に書けないところが
朱子学朝鮮坊侍達の限界と言える。不祥事を隠蔽したら、失敗を繰り返さないための分析と進歩もないわけで、これでは都合の良い情報だけを収集するいかさま考証と言われても反論できないだろう し
正史に対する信頼も完全に失われる
水戸藩はその他にも農民に対する秘密警察なみの監視をしており、徳川光国から想起される水戸藩のイメージからは乖離している
朝鮮朱子学による神道の改造によって作文された国学によって水戸藩は廃仏毀釈の先駆者となった。天狗党の乱以前から藩内は些細なことや家格の差で
内ゲバをしている。天狗党の由来は成り上がり者が生意気という意味らしいが、徳川斉昭を擁立した下士派となっている主なものは儒学者である藤田・会沢を除き血筋は上士以上の没落士族もいるため
藩内序列と血統序列による特権意識マウンティング合戦が起きていた可能性は多いにあるだろう
https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸藩
1607年(1602年、1615年とも)の秋に、小生瀬村(現:大子町小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、
藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった(生瀬騒動)。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また
別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人
を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、
藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/結城朝道
かつて朝道によって失脚させられた斉昭や改革派の恨みは凄まじく、彼らがやがて復権を遂げると、嘉永6年(1853年)10月16日に
朝道は拘禁されることとなった。やがて朝道は水戸藩の支藩の筆頭・高松藩の藩主で、幕府内においては譜代大名の井伊直弼ら保守派
との関係が深い松平頼胤が宗家の家督を欲しているのを知り、慶篤を暗殺して頼胤を藩主に迎えようと画策した。しかし計画は露見し、
その3年後に死罪に処せられた。享年39。子・種徳も拘禁され、絶食のために獄死した。 ・
■
天明
明照
こんな元号 止めろ。・・・・・・・・・・・・・・・・・狂った 国家神道=日本会議 神社本庁
>>52
吉田松陰が育てた陽明学徒の維新勢力は禁門の変で賊軍・朝敵となり、さらに天皇親政運動を封殺しており、陽明学徒はその時々の情勢に応じて天皇の利用を流動的に使い分ける傾向がある
陽明学は経典を軽視する傾向が顕著なため、これに驚きはない
そのため陽明学徒には経典も含めて外部から見た道徳的な制約は存在しないが、朱子学徒は事実・現実を無視した儒教序列妄想に強烈な執着を持つ
朱子学水戸藩は内紛と内部粛清でぼろぼろになり、儒教道理等には眼中にさえない陽明学徒テロリスト兼反乱軍(元賊軍)・一揆軍部隊長が政権を奪取したのは合理的必然であると言ってよい
https://ja.wikipedia.org/wiki/陽明学
経書の地位低下
心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」
と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出て
くるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠
を経て、章炳麟へ受け継がれていった。
元田永孚が宮中や教育を朝鮮朱子学で汚染したのに対して、反朱子学である陽明学を学んだ西郷隆盛の西南戦争(第二維新、第二革命と北一輝は名付ける)の例もある
陽明学を学んだ革命愛好家・趣味的革命研究家である北一輝は、明治維新革命の延長(長州は朝敵であったため明治維新と皇道派との整合性はないので延長ではない)
であると皇道派の将軍に売り込むためか、または朱子学的だった世相を考慮して天皇親政を掲げた
一方で窮乏していた貧民層を救うために、明らかに肥大しすぎた皇族資産の凍結・徴収といった皇室・皇族が嫌悪する政策(しかし否定すれば皇族に理は失われる)
を提案しているが、これは皇族サイドの欲やエゴにはマイナス要因としかならず、権力者・序列主義への忠誠が全てに優先される朱子学的思想から逸脱したことで、
信じがたい非礼、として皇族や宮中を激怒させたことは容易に想像できる
天皇親政という朱子学思想(建前)と、弱者救済や改革といった陽明学思想(本音)が混在する倒錯は、賊軍・朝敵となっても力と流血で全てをひっくり返して権力を奪取する(明治維新、足利尊氏等)
という軍事クーデターとの相性は最悪でありニ・二六事件は必然的に失敗した。また北一輝のような目立ちたがりやの革命愛好家・革命オタクが関わり表に出張ると情報が外部に漏れて時宜を見失うことで失敗しやすくなる >>54
>北一輝は、日蓮主義者だったんでしょ。
北一輝は戦前の日蓮主義とは距離があるし、石原莞爾ほど低能ではない
印象としては日蓮宗というよりは日本版(劣化)マニ教の信者に見える
北一輝の著作を見ると(社会・共産主義を否定した上での)社会進化論、超人進歩史観に関する論考と、日本人の古代中世儒教土人社会と西洋の人権の対立をどう解消するかの論考が大半を占めるため、
仏・大宇宙・個人融合観、天理教蔑視といった点が日蓮宗要素となるぐらいで、石原莞爾のような霊感商法的なところはない
北のアメリカ(それと南京政府)と組んで、英国の植民地を解放するプランは、石原莞爾のような上位者の意向に合わせるだけの欧州出羽守には発想さえ難しい
そもそも北一輝は天皇機関説側の人間であり、天皇本仏論を信じているとは考え難い。ニ・二六事件の天皇親政はどう考えても明治天皇が乗り出したような親政とは真逆で
天皇に新憲法を入れさせた後は、天皇から権力・余剰財産を剥奪する道筋にしか見えない。これは青年将校にも大なり小なり共通した思想であった可能性はある
初期の北一輝の社会主義というのは、法の下の平等や、誰にでも国民の権利があるから社会主義というトンデモな定義なので、北の思想では明治維新初期も社会主義になる
だから純正社会主義は、どう考えても社会主義ではない。西郷隆盛は北一輝的には社会主義者となってしまう
証明なしで言葉の定義上から自己理論を導出していくのが北一輝に見られる特徴であり、北一輝の趣味である革命研究、それと西郷隆盛の第二革命は掘り下げるが
定量的な政治経済理論には関心があるとは言えず、ある意味日本人らしい儒教土人的理論軽視、エビデンス軽視は北一輝にも見られる
https://ja.wikipedia.org/wiki/磯部浅一
磯部、北らによると、日本は明治維新革命以来「天皇の独裁国家ではなく」「重臣の独裁国家でもなく」「天皇を中心とした近代的民主国」であったのだが、
「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」としている。そしてその大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた[5]。
磯部・村中・北・西田は、銃殺時に「天皇陛下万歳」は唱えなかった[6]。 >>55
北一輝の問題点は日蓮宗であったことでなく、辛亥革命に参加したエキスパートを名刺代わりにしていたのに肝心の革命技術において名前倒れだったことだ
また日蓮宗がクーデターで今後用いられる可能性はほぼゼロに近い。なぜなら神風・神洲伝説は終わったのであり、日本は極東の弱小国に戻り、
確固とした説のないチャラい教義の島国カルトで有力国との関係を維持・構築するのは不可能だからだ
二・二六事件の将校のうち少数が北一輝との師弟関係的なもので、北一輝の思想は参考程度だったと考えるほうが現実的だろう
青年将校は窮乏する社会との関わりから得た義憤やルサンチマンは持っていたとしても指針がなかった
北一輝は革命オタクとして明治維新の第三革命(失敗した西郷隆盛の第二革命のやり直し)を提供したわけだが、青年将校側に必要なのは大まかな枠組みではな
く失われた明治維新のノーハウであり、それを埋められるのは、辛亥革命に参加した北一輝しかいない
しかし北一輝はあくまで辛亥革命のサポーターであり、外国人である北一輝は当事者・責任者とは言えないし、本物の革命家である孫文は
米国式の信奉者であるため、北一輝とは相容れない。孫文を批判しているが、孫文ほどの能力が北一輝にあったかは疑わしい
北一輝の過剰評価・過剰な名声が合わさったことで、二・二六事件はおかしな方向にいった
小手先的に天皇親政を掲げるのは、朝鮮朱子学土人の心を安心させる一時的効果しかない。明治維新の例でいえば最悪の状況では朝廷に射撃・砲撃をしたり、
長州や薩摩は裏で天皇を毒殺しかねないほどの危険人物を揃えていた (実際に実行したかは知らないが最後まで長州討伐にこだわった孝明天皇のヒ素暗殺説もある)、
足利尊氏や鎌倉幕府は島流しにして差し替えるぐらいの緊迫感があるのに、 北一輝の天皇親政論には合理主義が徹底されているとは言えない
名前の通り「一揆(一輝)」であれば徳政令や米の配給・分配、フランス革命であればパンという明確なゴールがあるため、分かりやすかったが、
大風呂敷をたたんで限定的な直訴でもなく、いまいち悪目立ちばかりして、青年将校の足を引っ張っていた感も拭えない
二・二六事件は今後軍事クーデターがおきる際の失敗例として研究対象となることは間違いないが、北一輝と青年将校が明治維新の事例を踏襲していたのならば
真っ先にやるべきことは余計な政治テロは一切せずに皇居への進軍と、堀によって囲まれ脱出しにくい旧江戸城・皇居の包囲と皇室の身柄確保、さらに皇居を人質にとって他軍の介入排除および統制派の殺処分だ
そして身の危険を感じても天皇が新憲法に同意しない場合は孝明天皇コースとなる ■
天照
月読尊
月夜見尊
■
天明
明照
こんな元号 止めろ。・・・・・・・・・・・・・・・・・狂った 国家神道=日本会議 神社本庁
>>56
強気だった山内容堂や老中も身の危険を感じるや服従したため、孝明天皇コースの確率はほぼゼロと見て良い
ようは薩長のように覚悟を見せれるかがクーデターの鍵と言える
長州や薩摩ならこれぐらいは平気でやるだろう
つまり薩長・足利尊氏ほどリアリズムに徹しきれない時点で敗北は確定していたということだ
長州や過去の幕府の例でいえば朝敵・賊軍になった方がクーデター側が一致団結しやすいのだから、皇居に対しての攻撃を躊躇すべき合理的理由が見つからない
皇居の電気・電話を遮断し、水道さえも止めて外部から隔絶させれば、天皇が偶然に砲撃で死んでも外からは分からない
近衛兵や侍従が狂って天皇を殺したことにして、傀儡にできる若年の新天皇を即位させてもクーデターは成功する
明治維新の教訓を全く踏襲しなかったのが、二・二六事件だと言って良い ■
【国家神道】・・・・・日本書記 、みたいに 歴史改ざん するわけ? 日本会議・神社本庁のカルト集団は?
・天照
・月読尊
・月夜見尊
・天明
・明照
こんな元号 止めろ。・・・・・・狂った 国家神道=日本会議 神社本庁
■
狂った
国家神道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本書記も 歴史改ざんされてた!
平田篤胤も
神道の狂ったシンパ。
日本会議
神社本庁。
退位じゃない譲位な。
日本語は正しく使え糞NHK!!
・
アマテラス
文字って
安倍の 「安」・・・・・・・・・・・・・・・・こんな 元号 止めろ。
国家神道のきちがい集団
日本会議
神社本庁。
>>58
渡来思想である仏教に挑んで敗者となり奴隷となった神の子孫物部氏や、世界を霊力で征服する予定だった「神の子神武天皇」の子孫である「現人神」が
天候関係なくサングラス着用で田舎者が好きそうなコーンパイプでタバコ中毒の中年の一軍人に、取り巻きの高齢者重臣と一緒に命乞いをして身分維持・制度維持
のバーターとして憲法9条という信じがたい悪法を制定し国を売り渡すとは、反科学的で合理的な思考のできない頭の出来が悪い愛国火病には到底予想できず、戦後70年経過しても理解できないのだろう
まさに神話が作られた瞬間と言える
人間なら失敗するので敗北後に命乞いのため売国をした点は理解できるが、神の子孫がこの体たらくなら「自称神の子孫」「偽の神の子孫」だったと判断すべきなのか、
排泄物、目くそ・鼻くそや嘔吐物で出産し嬰児を殺害するイザナギ・イザナミの子孫であればこの程度で納得と思うかは信仰心にもよるだろう
ちなみにイザナギからアマテラス、間をはさんで神武天皇という系譜なので神武天皇は女系から正統性を得たと言えないでもない
https://ja.wikipedia.org/wiki/現人神
なお陸軍中将であった石原莞爾は日蓮主義の見地から独特の終末論的な世界観を持っていたが、著書の
『戦争史大観』(1941年)には「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」
「更に端的に云えば、現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむる」としている。
本書は用紙統制・出版統制が行われている中で検閲を通過して出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第9条
本条の淵源
本条の淵源については、立法経緯が複雑であることもあって様々な議論がある[12]。憲法9条の発案において、その背景にあった、
主な動機は、「連合国が参加する極東委員会の中の、中華民国・オーストラリア・フィリピン・ソビエト社会主義共和国連邦などの
国家や、アメリカ国内世論[13][14]からの『天皇制の保持』に対する批判を逸らす為であった。」という見解で、日本人もアメリカ人
の学者も一致する傾向がある、とされる[15]。 おまわりさんはキチガイ荒しをマークしたほうがよいよ。
>>64
宗教施設にアマテラスの子孫が向かうことが宗教でないわけがないし、事実ですよ 高齢の陛下の退位は多くの純日本国民が認めるところ。
しかし、入内後貸し切りスキーと創価、実家がらみの
催ししかしてこない自堕落な東宮の嫁雅子をどうするのか
これが最大の課題だ。離婚するか廃妃するかはっきりせい。
障害のある愛子はほとんど不登校。
登校しても健常児と一緒に学習できず別室で授業を受けてる。
給食食べてすぐ帰る。
支援学級に入れないで統合失調症の雅子と一緒に野放図に
遊ばせてるのは「虐待」に当たる。
暴れるのは障害児の特徴。まして母親が統合失調症で暴れ
あたりかまわず物を投げ、一度は皇太子の額にこぶ、絆創膏
まで貼る傷を負わせた。
そんな精神病の母娘を一緒にしておくこと自体狂ってる。
早く療育を。このままじゃいずれ鉄格子に入れなければ
ならなくなる。精神病の雅子に皇后は無理。障害のある
愛子に健常校は無理。いずれも虐待と同じ。
1月
平成31年1月01日(火) 新年祝賀の儀 各国の外交使節団の長等(宮殿) ー雅子欠席
平成31年1月01日(火) 歳旦祭の儀(三殿賢所) ー雅子欠席
平成31年1月03日(木) 元始祭の儀(宮中三殿) ー雅子欠席
平成31年1月11日(金) 講書始の儀(宮殿) ー雅子欠席
平成31年1月11日(金) ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所) ー雅子欠席
平成31年1月16日(水) 歌会始の儀(宮殿)ー雅子欠席
平成31年1月17日(木) ご接見(外国大使(イスラエル,アイスランド,リトアニア,ウズベキスタン,ロシア,モルディブ))(東宮御所)ー雅子欠席
平成31年1月18日(金) (「フェルメール展」)(上野の森美術館(台東区)) -雅子欠席
平成31年1月22日(火) ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所) ー雅子欠席
平成31年1月24日(木) ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所) ー雅子欠席
平成31年1月25日(金) ご接見(明治150年記念「世界青年の船」事業参加青年代表)(東宮御所 ー雅子欠席
平成31年1月29日(火) ご接見(離任マリ大使)(東宮御所)ー雅子欠席
平成31年1月29日(火) ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所) ー雅子欠席
平成31年1月30日(水) 孝明天皇例祭の儀(皇霊殿) ー雅子欠席
平成31年1月31日(木) ご接見(外国大使(イラク,マダガスカル,モーリタニア,ガーナ,ニカラグア,レソト))(東宮御所) ー雅子欠席
平成31年1月31日(木) ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所) ー雅子欠席
みんな知ってても黙ってるが
伊勢神宮
中身空っぽなんやで
>>12
斉王か斉王代が詣でるから、勅使が詣でるのは初めてってだけなんだけども
単に交通手段がなかったのが主たる理由だけど
もしかしたら崇神天皇が化けてでるかも知れんし、道中で後村上・後醍醐天皇が太刀ひっさげて斬りかかってくるかも…
熊野詣でと今様が大好きだった方もお伊勢様にはびびってたよね >>67
ま、後から来て「宗教ガー!!」とか抜かしても時間軸が違いすぎるわな >>1
この神事みたいに明治維新の後に新しく作った神事も多そう ユダヤ教ナザレ派 である伊勢津彦の生誕の地が 伊勢神宮
伊勢津彦は 後に猿田彦と呼ばれた人物
キリスト教 ホイホイの地へ ようこそwwwwwwwwww
皇太子様を摂政の地位に閉じ込めるわけにいかないから陛下は生前に譲位される事を決意された。
皇太子様を天皇にする為には必要な儀式であり出費なのだよ
摂政だと昭和天皇みたいに不当な扱いを海外から受けることになるからね
>>100 >>101 >>102 >>103 >>104 >>105 >>106
イザナギの逃走秘話には小便をして川を作り「小便大河」によってイザナミを阻もうとしたとされるものも含まれる
日本の神話・伝説やらを調べた連中は、新生児殺しや、小便や大便の子孫(金山彦?ミヅハノメ?)
と考えるのは嫌だったので、古来からそっと記憶を封印(禊?)していたと想像する
天皇家だけでなく、数千年間の血の攪拌によって日本人もイザナギ・イザナミの子孫と言えるため
日本人の先祖の中には直系ではないものの大便や小便、嘔吐物から生まれたものがいたと類推できる
ベルギーの小便小僧は爆弾の火消しをした英雄らしいが、大人が小便大河で妻の霊と配下のモンスター軍団から逃げ切ろうとしたという挿話が記憶から消去されたのは致し方ない部分もある
神道が先祖霊信仰であるのに仏教と習合し、さらに儒教、そして明治に朝鮮朱子学と取り入れていったのは、ある意味では教義が開放的であったとも言えるが、裏を返せば古代・中世の日本人は割り切っていた部分があったと考える
https://ja.wikipedia.org/wiki/イザナミ
火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。
そして、カグツチはイザナギに殺された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/イザナギ
アマテラスやスサノオ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代先祖とされている。 >>110 >>111 >>112 >>113 >>114 >>115 >>116
やなぎ@hanahana182
2014年11月27日
日本書紀の異伝にヨモツシコメに追っかけられたイザナギが逃げるために小便をしたら川になって逃げきれ
たみたいのあってふーん神ってすごいという感想を持ちました
朝里@現代怪異事典&現代妖怪図鑑発売中@asazato4
2013年12月1日
イザナギの小便川化は日本書紀の黄泉国神話で見られるよ。古事記にはないよ。
朝里@現代怪異事典&現代妖怪図鑑発売中@asazato4
2013年12月1日
スサノオは糞撒き散らしてたけど、イザナギも小便で川作ってたところ見ると親子だなあって僕は思うよ。
スサノオの直系子孫がヒメタタライスズヒメとなるらしい
https: //ja.wikipedia.org/wiki/ヒメタタライスズヒメ
ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛[1][注 1])は、『日本書紀』に登場する人物・女神で、初代天皇神武天皇の皇后[13]。
『古事記』のヒメタタライスケヨリヒメ[2](比売多多良伊須気余理比売[注 2])に相当する。
https: //ja.wikipedia.org/wiki/天岩戸
誓約で身の潔白を証明した建速須佐之男命は、高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、
御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった[1]。
しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、
驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。 >>120 >>121 >>122 >>123 >>124 >>125 >>126
部外者による解釈が自由というなら、いくらでも妄想を書くことはできる
ルピア@支払いしろ@rupia_tk
2016年5月24日
アマテラス男神説は面白いんだけどそれ以上にスサノオに乱暴=強姦された説があって神話ェってなる
やなぎ@hanahana182
2015年12月1日
スサノオさんが高天原でいろいろやらかしたあげく驚いた女性が陰部になんか刺さって死ぬという衝撃の
結末もスサノオさんの強姦説と考えた方が自然だしオウスさんもいける
皇祖神は男だけでも子を作れるし、女一人でも可能らしいが、異説もある
🦑いもお 🦑@Imo0423
2016年1月6日
つーか有名な神話に出るような神キャラにハマった時点で地雷持ってて神話調べるとかになったらほぼ確実にどこかで死ぬ
和神は死ネタ殺伐多め、スサノオがうんことか臓物系多め
インド神話はうっかり近親相姦うっかり殺人うっかり世界破滅宇宙規模
北欧は寝盗り浮気複数股卑猥ネタ多数
やばい
風邪奴@mohu081
2015年10月23日
スサノオってマザコンが祟って追放されそうになって優しい姉に助け舟出されて勢い余って姉をレイプして追放されそ
の追放先でヤマタノオロチに襲われてた少女を助けた代わりにSEX三昧して、相手に子供が出来たら追放されてる身だ
からといって逃げてそんなこんなで子供を200人程作った >>130 >>131 >>132 >>133 >>134 >>135 >>136
島国で数千年の世代を重ねた混血によって、イザナギの血筋が攪拌されたと考えるなら、皇位継承権が全ての日本人にあると主張するものも現れるだろう
(神道の教祖である)神武天皇は神から生まれたのに人間とされている
https: //ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午年[注釈 1]1月1日(庚辰の日)[1]に日向国で生まれた。
母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳のとき(甲申年[注釈 2])に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。
問題はこの神から人が生まれるというシステムそのものだ、であればイザナギ神話の大便、小便、嘔吐物から神が生まれ、その子孫がいるであろう可能性も否定できないだろう
https: //ja.wikipedia.org/wiki/イザナギ
岩の向こうからイザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと[7]、イザナギは「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。
その後、イザナギが黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと様々な神が生まれた。最後に、
左眼からアマテラス(天照大御神)、右眼からツクヨミ(月読命)、鼻からスサノオ(建速須佐之男命)の三貴子が生まれた[8]。イザナギは三貴子
にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
偽書の可能性も指摘されている「先代旧事本紀」が何を主張したところで、この出産システムだと「鼻くそ」の子孫がいたとしても常軌を逸した説ではない
>左眼からアマテラス(天照大御神)、右眼からツクヨミ(月読命)、鼻からスサノオ(建速須佐之男命)の三貴子が生まれた[8]。
現実世界では顔面部分を洗うと目や鼻から出るのは「目やに」と「鼻くそ」、顔からは「体汗」なのだが、神話だから気にならないというだけで違和感が残る
それが小便で河を作ったというイザナギであれば尚更だ >>140 >>141 >>142 >>143 >>144 >>145 >>146
日本の神道は自然信仰というよりは氏神などの先祖霊信仰がより強い原始宗教の一例であり中国の儒教に近い
攘夷思想は中華発祥の朱子学由来だが、宋が攘夷に成功したかは歴史を見ればわかるだろう
https: //ja.wikipedia.org/wiki/尊王攘夷
古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄(中華思想における異民族。
ここでは南方の楚を指す。)を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。
斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷
を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を「王」のモデルとしていたことから、元々「尊王」と書いた。
https: //ja.wikipedia.org/wiki/天子
王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって
「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」
という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝
により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神
の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。
宋学以前なら神道と儒教は先祖霊信仰において、おおむね重なり、律令制度などによって厳しい身分差別制度も導入される
ただ「先代旧事本紀」などの氏神信仰は皇統の価値を希釈化していく要素もあり、中臣・藤原が天皇の血筋よりも格上と主張することも不可能ではない
https: //ja.wikipedia.org/wiki/氏神
本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった[1]。
例として、中臣氏は天児屋命、忌部氏は天太玉命を祀った[1]。また、中臣氏と関係の深かっ
た武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)を、藤原氏が春日大社に祀るなど特殊な例もあった[1]。 >>160 >>161 >>162 >>163 >>164 >>165 >>166
過去には神の子孫である神別氏族物部氏が殺され、その子が奴婢とされた事例がある
https: //ja.wikipedia.org/wiki/奴婢
また蘇我氏物部氏の争いの時も聖徳太子が大連の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢[注釈 2]としたという記述がある。
https: //ja.wikipedia.org/wiki/イザナギ
アマテラスやスサノオ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代先祖とされている。
海人@umihito311
2014年1月17日
イザナミ悪者にする話を見る度に「ヒノカグツチ出産の際に撒き散らかした、大や小やらの
排泄物や吐瀉物からも豊穣神産んだイザナミ様を敬え!!信仰しろ!!あと、イザナギを文句
なしの善玉にするな!!あいつ問答無用で嬰児殺しかましただろが!!」と文句言いたくて言いたくてしょうがなくなる
@mtsuzuki81 @___akarisan
出てこないけどなんかくだらない。
今日習ったことはイザナミの神がゲロを吐いてそのゲロから出てきたのが山の神。
その時した下痢から出てきたのが海の神らしい。おれらはイザナミの排泄物で生きてるらしいぞw >>86
神なんかいねえんだから無駄なことに税金使うな低脳! >>170 >>171 >>172 >>173 >>174 >>175 >>176
猫路@_nekomiti
9月14日
イザナギが黄泉から逃げ帰る場面で、大量の小便でイザナミの手下押し流して千曳岩を置く時間を稼いでて
これだから日本神話はってなった
Goat, The First Mammal@Chi_k0m0ri_72 2015年8月8日
イザナギ「追ってくるwきめぇ」剣振り回す
イザナギ「とりあえずなんか投げとけ」ぶどうになる
イザナギ「小便したろ」川になる
イザナギ「来てほしくないから岩で塞ぐね」
イザナミ「酷くね?お前の国民1000人殺す」
イザナギ「じゃあ1500人生ませるわ」
やなぎ@hanahana182
2014年11月27日
日本書紀の異伝にヨモツシコメに追っかけられたイザナギが逃げるために小便をしたら川になって逃げきれ
たみたいのあってふーん神ってすごいという感想を持ちました
朝里@現代怪異事典&現代妖怪図鑑発売中@asazato4
2013年12月1日
イザナギの小便川化は日本書紀の黄泉国神話で見られるよ。古事記にはないよ。
朝里@現代怪異事典&現代妖怪図鑑発売中@asazato4
2013年12月1日
スサノオは糞撒き散らしてたけど、イザナギも小便で川作ってたところ見ると親子だなあって僕は思うよ。 >>180 >>181 >>182 >>183 >>184 >>185 >>186
珈琲ねむりや ☕田端のコーヒー豆屋@satojun56
2018年12月16日
nemlogの日本神話記事を更新しました。
今回は美女が大便をしているところに忍び込んで、お尻を突っつく話です。
たぬき@akemixxxxx
2018年11月9日
好きな絵本というか親が私に買い与えた怖くてかっこいい日本神話シリーズの
やまたのおろちとか因幡の白兎などを何回も読んだけどお姉さんの職場に牛の生皮や大便を投げ込んでたあいつ何なんだろうね…
迫真お嬢様部@Yukaribashi
2018年9月8日
神の排泄物が自立してうんぬんって逸話は日本神話あたりにあるだろうし神々も小さい頃はうんこちんこで笑い転げてたんやろな >>190 >>191 >>192 >>193 >>194 >>195 >>196
🐻ポチコ 🐹冬コミ@mob84912
2018年9月5日
ギリシャ神話ってドロドロしてるけどオシャレだなぁ✨昼ドラ?
排泄物が食物になる神さまが鼻や尻から出した食物を調理してスサノオに食べさせた話
(それに気づいたスサノオに食物神は殺されました)と、野糞して姉を怒らせた神の話とかある日本神話のアレな感じも大好きだけど…
(いっちゃった感)
内野肘騎(直腸射精)(田口)
@gtgt_yamada
2018年8月9日
ま日本神話排泄物好きだしな
宮門(くもん)@isenokumon
2017年4月27日
日本は神の国
これは決して傲慢なのではなく、あらゆるものを尊重する謙虚な考え方。
日本神話ではウンコも小便も神様として扱われる。
宮門(くもん)@isenokumon
2017年6月14日
なんといっても、日本神話においては、ウンコや小便、ゲロも「神」だからな。
へこきむし@notom1080
2018年12月9日
日本神話のゲロ食わすイベント凄い。
七海ん@ポケGO引退@Nanamingress
2018年10月24日
日本神話の神々、脱糞しすぎ問題
(あとゲロも) >>200 >>201 >>202 >>203 >>204 >>205 >>206
タマノオ@c9171e_tama
2018年4月5日
日本神話は神が家で脱糞し神が殺した馬を女に見せつけて脅かし神がキレて引きこもり神が
ストリップショーでテン上げし神が神を拷問の末放逐するクソミソてんこ盛りてんやわんや
ハチャメチャストーリーやぞ、何が穢れやねん
tcg@katze666
2016年7月13日
とりあえず困ったら脱糞しとくのが日本神話
もつ(もちゅう)@mothu05
2016年5月7日
日本神話といえば天照大神の岩戸隠れだけど
ひきこもりの原因が、弟がママに会いたくて荒くれた上に脱糞したからで
さらにそれをストリップダンスでひきこもりをおびき寄せるというなかなか奇抜な展開 >>210 >>211 >>212 >>213 >>214 >>215 >>216
一条真弓(さいかわ)@dereneko_
2018年11月13日
あと面白いと言えば『日本神話には人間が何処から来たか書いてない』ってとこな。爆笑したよね。
171 : チェーン攻撃(dion軍)@無断転載は禁止:2016/04/30(土) 22:43:38.15 ID:jeG810fh0
色々と考えると個人的に面白い部分はいくつもあるね
例えば、天津神の降臨にしろ国津神との争いにしろ、天津神は最初に外交交渉を何度か行っていること
神話にしては人間臭い
更に全体で言えるのが長男より次男以下が大成しやすいこと
230 : ハイキック(茸)@無断転載は禁止:2016/05/01(日) 02:48:15.62 ID:Li5Le5zq0
神武は東征という名の、堂々たる侵略戦争にうってでてる
ヤマトタケルもまつろわぬ民たちを謀略・暗殺等、手段を選ばず誅殺虐殺してるし
朝廷に従わない土着民たちはクズ・ツチグモ等、蔑視され従わなければ殺戮確定だし、
日本もやってることは他国と変わらん >>220 >>221 >>222 >>223 >>224 >>225 >>226
268 : ネックハンギングツリー(関東地方)@無断転載は禁止:2016/05/01(日) 10:52:06.95 ID:l+xLeWqBO
ヤマトタケルを火責めにした悪い豪族は、逆に自分達の放った火で死にましたというのは後に加工された話で
その場を逃れたヤマトタケルの軍勢によって皆殺しになったのが正しい古事記の記述
…普通だな!
300 : ハイキック(茸)@無断転載は禁止:2016/05/01(日) 19:36:11.35 ID:Li5Le5zq0
ヤマトタケルは有名大社を始め、全国各地で祀られる立派な神様だよ
日本は時代で著名な者(為政者や非業の死を遂げた者等)は、
人物神として神社に祀られ神の1柱になるケースが多い
ヤマトタケルの時代は史実と神話の境界が曖昧な時代で、
ヤマトタケルは立派に神格化した、押しも押されぬ神と言える >>230 >>231 >>232 >>233 >>234 >>235 >>236
中国では封禅なる儀式があり、新嘗祭に似ているとの指摘があるらしい
昔は神儒仏なのだから別に不思議なことでもないが、日本精神を代表し、日本人を認定できると啖呵を切るのであれば
これを否定できる根拠が必要だろう
prastotri @prastotri
日本の新嘗祭は要するに、収穫物を天皇が味見をした上で天に捧げるための儀式であって、ただの儒教の儀式でしかない。
神主が持っているヌサも『礼記』に記述があるし、道祖神についても記述がある。道にある道祖神はあれは儒教のミームらしい。 >>240 >>241 >>242 >>243 >>244 >>245 >>246
つじどり【辻捕り・辻取り】
路上で好きな婦人を捕らえ、妻にしたこと。中世、略奪婚の一種として実際に行われたらしい。
「 −とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるを取る事/御伽草子・物臭太郎」
ゆのんす@y_hm0
2015年8月25日
てか平安貴族性欲やばすぎでしょ
流星塾長はドイツ語を心から愛している@zyukutyo
2015年11月18日
それにしても解説者として出てきた瀬戸内寂聴さんが「平安貴族の恋はレイプから始まります。」って紹介するシーンがあって、
高校からの平安貴族に対する印象がますます変わったよね。平安貴族は「覗き魔、レイプ魔、ポエム魔」(ポエム魔ってなんだよ...)
滝川アリス 🏔@Blois_internet
2018年9月26日
レイプから始まる恋なら良い(平安貴族)
え 💕る@l0624l
2018年10月1日
とりかえばや の漫画を読んでいるけど、ホント平安貴族って最悪だなぁ笑
無理矢理押し入って嫌がる女抱くって、現代ならレイプだよねー
倫理観も今と違うやろから、仕方ないか笑 >>250 >>251 >>252 >>253 >>254 >>255 >>256
うらじ@uraji
2018年4月5日
殴り合う貴族たちって本に平安貴族はんなりしたイメージに反して非常に暴力的で取っ組み合いの喧嘩も多く
刑事罰もないから従者と一緒に集団暴行や拉致強姦などやりたい放題だったと書いてあってビックリした記憶
があるんですけど、こんな風に袖まくりして暴れまわってたんですね。
キール@kir_imperial
2017年7月17日
殴打、拉致、監禁、虐待、殺人、強姦、集団リンチと、なんでもござれのDQNな平安貴族達が
「何あいつら・・野蛮すぎでしょ・・」っとドン引きした当時の武士達の子や孫とかが、鎌倉武士じゃけんのう。
さんぼーほさ@sanbouhosa
2016年12月29日
平安貴族が変態な一覧
・かわいい幼女を見つけると自分好みに育てようとする
・基本的にうわさを聞いただけでも恋煩いしてもじもじする
・噂だけを頼りに夜這いをかける
・割と強姦じみてるし待女にも手をかける
・宮中で男同士でやるのがブームになる
・僧侶がショタをほめてたら肉体関係あり
キール@kir_imperial
2016年3月28日
「源氏物語」っていうか、あの時代の平安貴族達って、ぶっちゃけ中国共産党の不良子弟みた
いなもんで、基本やりたい放題で、強姦陵辱近親相姦NTRなんでもありで、おまけに暴力沙汰
もしょっちゅうで、優雅で雅なようで、その実、血とエロスとバイオレンス溢れる世界だったからね。 >>260 >>261 >>262 >>263 >>264 >>265 >>266
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原惟通
惟通が没した後も、彼の母(式部の継母にあたる)と妻子は帰京せずに常陸国にとどまった。これは常陸に惟通とその一族が
所有する荘園があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の未亡人が平為幹に強姦
されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は逮捕されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。
つじどり【辻捕り・辻取り】
路上で好きな婦人を捕らえ、妻にしたこと。中世、略奪婚の一種として実際に行われたらしい。
「 −とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかかるを取る事/御伽草子・物臭太郎」
nightflighttw@nightflighttw
2016年1月2日
奇習! 封印された平安貴族たちの蛮行 ― “恍惚”の赤ん坊レイプ
脱税レイヤー風呂屋さん@557dg4
2018年2月14日
光源氏がヤリチンなのに、何故人格者扱いされてるか?というと、平安時代の女は男を待つしかない存在であり…
云々以前に、小右記によると平安貴族はレイプが趣味であり、適当な平民を襲ったり、宮中強姦の為に部下を貸し
借りするとかザラだったらしく、そりゃヤリ捨てで済ませる男は聖人だよねっていう
猫太@nekotabarusu
2016年1月24日
平安貴族とかレイプ当たり前みたいな世の中だったらしいからな
ドント@dontbetrue
2013年11月21日
レイプ犯平安貴族「いと犯し」
clavi@clavi_tw
2014年5月27日
@hinata_honjo 王朝貴族文化の華やかさの陰で、貴族は殴り合いの喧嘩をし、強姦し、通りには糞便と死体が溢れていたのが平安時代
の姿のようです。臭かったでしょうねえ。 日本に生まれて日本人として生きてこれて幸せ。韓国人とかが嫉妬するわけだよw
譲位の例はたくさんあるが、その際に伊勢神宮に勅使を送った例は無いのか
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原惟通
惟通が没した後も、彼の母(式部の継母にあたる)と妻子は帰京せずに常陸国にとどまった。これは常陸に惟通とその一族が
所有する荘園があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の未亡人が平為幹に強姦
されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は逮捕されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。 祭祀を全部欠席している雅子の廃妃を早くしてくださいね。
子供じみた言い訳を聞かされる国民は怒ってる。
公務も祭祀もしないで遊び惚けてばかり。
それを25年間も飼い続けた日本国民。
堪忍袋の緒が切れる。
イスラム教徒からしたら
これは禁止している偶像崇拝にあたるんじゃないの?
大丈夫?イスラムのテロで天皇陛下が殺されたら自民党はどう対応するの?
人間には向き不向きがある。
一番不向きなところに最下層から潜り込んだ雅子。
身を引くべき。離婚するか廃妃するか。
本人、皇太子、両陛下が決断される時ですよ。
サブの秋篠宮殿下が名目天皇陛下の役割をすることになる。
いかにもおかしい。
>>105
八咫鏡だから神の偶像でもなんでもない。 "
. 【重要】 日本の官僚どもは、中国の特権独裁のような “ 官僚主導の独裁政治を切望 “ 【重要】
マスコミの露骨な天皇報道は、日本の官僚どもが反日左翼やマスコミや中国と共謀した、日本国の民主制度
の弱体化だ。 なぜ日本国憲法は自由平等民主主義を憲法に明記しながら、同時に天皇制を容認するのか。
この病的矛盾の正体とは、日本国の官僚どもが中国の特権独裁を手本に、いずれ大日本帝国として再建して
官僚や公務員達が、一般国民に対して高圧的強権的に支配するという、官僚主導の独裁政治への切望である。
. 【重要】 戦争で日本国民が大勢死んだ独裁崇拝が、性懲りも反省も無く繰り返される 【重要】
天皇制成立の起源は、西欧の王族のように隣国からの侵略に対して “ その戦いの先頭に立つ “ といった、
民衆からの要請や契約としての社会への貢献といった、歴史上の事実が全く存在しない。 この日本の歴史において
天皇や皇族達が、国の存亡の危機に際して自らの命をかえりみずそれに対峙した事実が、今迄にあっただろうか。
. 【重要】 日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、時期を見て独裁国家に利用するため 【重要】
天皇の起源は詐欺同然であり、さらには人間の尊卑が “ 何の根拠も無く生来的に格付けされた “、皇族という家系
を、常軌を逸した丁寧語で報道するNHKやインチキマスコミを見ると、まさに原爆投下で壊滅した大日本帝国の
再興を思わせる。 日本の特権独裁勢力とマスコミは来年の天皇交代を機会に、
日本国民に “ 飼われている立場 “ から、日本国民の知らぬ間に “ 君臨する立場 “ への格上げを狙っている。
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即位の礼
天皇の起源は古代日本国の九州日向、今の宮崎県高千穂辺りに居住した、特別な才能を持った巫女が発祥。
その占術での政が倭国に拡大した。 だが渡来豪族がその貢献と信仰を奪取して、今の天皇制に変質した。
邪馬台国畿内説は、九州日向から勃興した占術での政を、渡来豪族が奪取したことを覆い隠す偽の説。
さらに日本書紀に卑弥呼の記述が無いこともその理由である。
. 【重要】 日本国の独裁化計画、日本のマスコミは天皇を最高権威のように歪曲扇動 【重要】
日本国の独裁化計画は、NHKの受信料強制徴収を最高裁判所が合憲としたことで、その第一歩が開始された。
さらに天皇自主退位という異例の発表は、この日本国独裁化計画に合わせたもので、NHKや日本のマスコミは
天皇を日本の最高権威であるかのように、度を越えた丁寧語を使って国民を歪曲扇動をする。
. 【重要】 現天皇制での神事は、御殿で飼育された特権我欲だけの人物が行う神様ごっこ 【重要】
この点は最も重要だから再度指摘する。 一個人である人間の神格化を法として宣言してそれを代々継承することは、
自然の全存在体系の元となる根源作用が、その一個人に由来すると宣言したことであり、これはそれを許容した
その国の国民全体が持つ、自然認識あるいは自然観における “ 恐ろしいまでの軽薄さ “ を表している。
. 【重要】 日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、時期を見て独裁国家に利用するため 【重要】
日本の官僚どもが “ 皇族を利用して “、時期を見て独裁国家に移行する事を、天皇を始め今の皇族は非常に警戒して
いる筈だ。 日米開戦時には天皇の宣託として、散々大日本帝国軍部に利用された前歴がある。 大日本帝国の崩壊
後も依然として皇族を残しているが、最近のNHKや日本マスコミの、度を越えた丁寧語を使った天皇報道を見ると、
日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、皇室を利用して独裁国家に移行する時期が近づいている証である。
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勅使といえばすぐに思いつく四字熟語が勅使下向だけど
そりゃまあ勅使は陛下の御許からどっかにいくわけで
どこにいこうと下向になるわけだけど、こういう神宮詣でも下向というのかしらん。
まあ普通に勅使参詣とかそういう言葉を使うのがいいんだろうな
>>107
ごく一部であるが神像っていうのもないではないけどね
なんかモダンアートみたいな感じだよ
似ているものといえばアフリカのテラコッタなんかが近いかな 一昨日たまたま伊勢神宮行ったら見れた
>>2
普通に車
トヨタだったはず
烏帽子と直衣姿で乗っていた 普通は終わってからいくんだけどな 代理だなんてバカにすんなって激怒してたろ
伊勢神宮は今の天皇家の先祖ではないんだけどね
そういうことに無理矢理されてるけど