0001ばーど ★
2019/05/03(金) 14:32:33.29ID:no+r+SP79■6度のトップ交代
平成が始まった1989年、NECは80年以降の拡大路線のさなかにあり、ハイテク産業の雄として、バブル経済の波にも乗っていた。この成長をけん引してきたのは中興の祖でもある関本忠弘氏(当時社長)で、94年に経営を金子尚志氏に引き継いだ後も、会長として影響力を持ち続けた。
だが、成長の階段を一気に駆け上がってきた反動は大きかった。連結売上高は01年3月期に5兆4097億円と、過去最高を記録したものの、急成長に伴う歪みが経営を圧迫していた。日米半導体摩擦や00年のITバブルの崩壊、半導体投資のリスク拡大などにより、バランスシートの毀損(きそん)が広がった。
看板商品だったパソコン「PC9800シリーズ」の牙城も、世界規格の「DOS―V」の上陸や「ウィンドウズ95」の登場によって、きしみが生じ、さらに米デルによるBTO(受注生産方式)でのユーザーと直接結びつくビジネスモデルとの戦いも厳しかった。
■拡大路線にブレーキ
拡大路線にブレーキを掛けたのは99年にトップ(社長)に立った西垣浩司氏。赤字だった米国のパソコン事業や家電からの撤退、02年の半導体事業の分社化などの経営改革を相次ぎ断行し、業績を立て直した。
ただ、改革に伴う社内での軋轢(あつれき)も大きく、改革半ばで西垣氏は03年に一線を退き、西垣氏と同じくITソリューション出身の金杉明信氏にバトンタッチした。金杉氏はIT・ネットワークの統合時代に向けて経営のかじを切った。“双子の赤字”と言われた半導体と携帯電話の両事業の再編でも奮闘していたが、病に倒れ、無念の降板となった。
急きょ登板となったのは、ネットワーク出身の矢野薫氏。IT・ネットワーク統合のコンセプトを「次世代ネットワーク(NGN)」へと進化させ、新たな方向性を示した。
だが矢野時代も激動だった。08年にリーマン・ショックに見舞われる一方で、子会社の不正会計を受けたガバナンス(企業統治)強化や、米ナスダック上場の廃止、半導体事業の切り出しなどに奔走した。
大規模な構造改革を経て、経営を託されたのが遠藤信博氏(現会長)。遠藤氏は選択と集中を徹底し、NECのかつての顔でもあったパソコン事業や、インターネットサービスプロバイダー(ISP)の「ビッグローブ」事業を売却、スマートフォンからも撤退した。
※省略
■日本産業界の縮図
NECの経営改革の変遷は、日本のハイテク産業の栄枯盛衰の縮図と言える。80―90年代前半までは量産型のボリュームビジネスの全盛期。半導体がその象徴であり、設備投資の規模や市場シェアの占有率が勝負の決め手だった。
だが、半導体投資のリスクは1社では負いきれないほどに膨らんだ。さらに韓国、台湾、中国勢の追い上げが年々激しくなり、半導体、パソコン、携帯電話と、いずれもトップを走っていたNECへのダメージは大きかった。
選択と集中で問われたのは、競争が厳しく利幅の薄いハードウエア事業の存続問題。NECは粘り腰で相次ぐ難題を切り抜けてきた。結果として残ったのは、原点の「コンピューター&コミュニケーション(C&C)」に他ならない。その力を社会ソリューション領域に適用することは、国連の持続可能な開発目標(SDGs)や日本が掲げる「ソサエティ5・0」の方向性とも合致している。令和時代に飛躍するための発射台は整いつつある。
以下ソース先で
2019年05月03日
ニュースイッチ
https://newswitch.jp/p/17514