著書執筆に際し捏造や盗用があったとして東洋英和女学院の院長職などを懲戒解雇された深井智朗氏(54)を巡り、岩波書店は13日、不正が認定された深井氏の著書「ヴァイマールの聖なる政治的精神」を絶版とし、回収すると発表した。
同書は2012年5月刊行。東洋英和女学院大の調査委員会は、本の中で紹介されている「神学者カール・レーフラー」という人物や、レーフラーが書いたとされる論文の実在が確認できず、別の文献からの盗用などもあったと認定した。深井氏は10日、院長職とともに大学の教授職を懲戒解雇された。
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/16453281/ こういうの趣味でええやろw
税金使うなよ
ドイツ人に任しとけよw
出典を捏造?するってすごいなw
自説を裏付ける資料が見つからなかったとか?w
一瞬カオス・ルーラーに見えたのでオーバーキルされてきます
他の奴は「成程、あのレーフラーがそんな記述を…」とか言ってたのか?
卒業制作他ほぼ全ての作品が盗用の元銭湯絵師見習いは
いつになったら大学から処分を受けるんだろ?
岩波はホッブスの法の原理の文庫でも剽窃疑惑があるせいか品切れにしてる
公式のアナウンスがあって然るべきだが
「ずっと昔から神学者カール・レーフラーはあったの?」
僕は肯いた。
「うん、昔からあった。子供の頃から。
僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。
でもそれが神学者カール・レーフラーというきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。
神学者カール・レーフラーは少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。
僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。
たぶんそうする必要があったからだろうね」
人物と論文を捏造して
そこから引用なんて一昔前のポスト・モダン小説そのもの
てか そのつもりなんじゃね?
文学としてなら、実在しない本の書評集があったりするけどねぇ
結局自分のペンネームって事だったのね。
イザヤ・ベンダサンみたいなものだな。
こんな本は売れないだろうし
生徒に教科書として無理やり売ってるパターンだな
かのカール・レーフラーがー、とか言いながら、真面目な顔して議論してた奴とかいるのかなw
滅茶苦茶、茶化したいw
>29
前に電車でカントの話してるカップル見たことある
調べられなければわからないだけの知識はあるわけだ
創作の道に進むという手はある
村上春樹の師匠であるデレク・ハートフィールドを思い出した
>>6
今に始まったことではない。名前でもってるだけで、編集能力は極めて低い。 アンサイクロペディアのオスカー・ワイルドみたいなもんかと思ったが
実在の人物な分向こうのがましだったなw
他の本で持ってるものがあるが、作者がこれじゃ正直信憑性が疑わしすぎる。
処分したほうが賢明かな?
珍書奇書としてプレミアつきそう
架空伝記とか架空図鑑の類いが
好きなマニアにうけるかも
>>40
暇つぶしに、内容を検証してみては如何かw 検索してみてわかったが
おれもこの人の「プロテスタンティズム」って新書読んでたわ
けっこう面白かった気がする
>>8
本にするのに、現代の日本人の考えとして書くより、当時のドイツ人神学者の話として書いた方が説得力があったということだろう。 >>44
オボちゃん騒動を忘れたとはなあ
文理以前にお前さんの記憶力の問題だな >>40
そもそも信憑性を問題にする本は出していない。
持っていて知らなかったのか? >>44
はあ?
文系のこの大学は学院長であろうと切った。
医学部を守るために薬学部からのねつ造の告発を握りつぶして告発者を解雇した学長がいたのはどこの理系だったかな。 >>45
それ、書評読んで気になって買おうかなと思ってたけど
絶版される可能性あるんなら急いだ方がいいかな 本読んだわけじゃないけど文系ってつきつめると何でも政治学になるよな
権威・権力に弱いんだろう
岩波全体にうっすらと胡散臭さが増したかもな
ジュニア新書とかはさすがに大丈夫だろうなおい
そして今日でもなお、日本人の神学者カール・レーフラーに対する意識はおそろしく低い。
要するに、歴史的に見て神学者カール・レーフラーが生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。
神学者カール・レーフラーは国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが神学者カール・レーフラーだ。
>>45
私は持ってることに気付いたw
中公新書
かなり面白いよ
実は大学時代にこの人の講義を聴いたことがあるけど、変な感じでは無かったけどね
静かに壊れて行ったのかな… 日本が勝ってしまう太平洋戦争小説もあるんだからまあそういうな
中国バブルの崩壊
日経平均一時400円超の下落、ドル109円前半 米中関税合戦で=東京市場
(ロイター37分前)
* 【橋下 徹】氏が、フジテレビと共謀し
主に関西周辺の医科大学と取引して
【筋ジストロフィー患者(OGBT)】を作り出していた
【病原の核細胞付きタンパク質】を身体に混入し増殖させる
* 橋下 徹氏とは【安倍首相の後継指名者】である
┏( .-. ┏ ) ┓a2
この人の本から宗教改革から市民の権利とかいろいろ考えたわ
信教の自由は、君主の信教の自由から拡大
聖典の教義の解釈が自由になって教派教団が多数分裂して発生
自分で作り出した妄想なのか
証拠提供探し出すのが面倒だから捏造したのか
ネタ提供してくれてる現地の人に騙されたのか
単に語学のレベルが低すぎて読み間違いが積み重なった上なのか
どれなの
てか、なんで今頃になってわかったの?
日本人みんな英語とかの原文調べたりしないの?
ドイツ人とかだったとしても、著名人なら英語にはされると思うけど?
うさんくさいカタカナ語がはびこるのって日本人の勉強嫌いにも原因があるだろ
盗作を疑われ絶版になった池宮彰一郎の「島津奔る」は相当面白かった
>>69
見つけたのは同業の学者だからネット社会云々は関係ないよ 大手出版社のネームバリュー神話、肩書き神話は酷いな。
結果こういう事件が起こる。
>>73
『遁げろ家康』も。
小牧長久手までが良くて、それからはやっつけ感が半端なかった。
そのやっつけパートで司馬遼のパクリ(関ヶ原の軍議?)があって絶版。
作品の価値には何の関係も無かったのが残念ではある。 この人、実在するよ。
何いってるの?
民明書房からもたくさん訳本でてる。
盗用はまだやってしまうやつが出るのもわからんでもないけど
存在しない学者捏ち上げるってすげえな
俺、深井が書いた「神学の起源: 社会における機能」を持ってる。深井が書いた本自体がプレミアの価値がつきそうだな。
深井智朗
埼玉県出身[5]。1989年東京神学大学大学院修士課程を修了後、1992年からアウクスブルク、ミュンヘンで哲学、社会学、神学を修め、1996年アウクスブルク大学(ドイツ語版)哲学・社会学部で
哲学博士(Dr. Phil.)[6][7]。1996年から2012年まで聖学院大学教授。2012年から2016年まで金城学院大学教授。2016年から2019年5月9日まで東洋英和女学院大学人間科学部教授。
2017年10月から2019年5月まで学校法人東洋英和女学院院長。青山学院大学、東京大学大学院、立教大学大学院、国際基督教大学等の非常勤講師、客員教授も務めた。
2005年、「超越と認識 20世紀神学史における神認識の問題」で京都大学博士(文学)。また『超越と認識』
で第13回中村元賞、『十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム』で2009年度日本ドイツ学会奨励賞受賞、2015年に韓国語に翻訳された『思想としての編集者』が2015年の韓国出版文化賞を、2018年に『プロテスタンティズム』で読売・吉野作造賞(第19回)を受賞した。
俺は学校では勉強しなかったので知らない。知っているのなら知りたい。
日本の教育がおかしいと思う。
[1]
例えば。
これ高校で習ったか?ネットで探しても出てこない。唯一出てくるのはこの論文ぐらいだ。1963年を最後にぷっつり消えているのか?
アメリカ独立戦争と今呼んでいるものを、ベトナム戦争前はアメリカ”革命”と日本ですら、呼んでいた訳だ。
[国立研究開発法人科学技術振興機構 [JST]J-STAGE]
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/29/1/29_KJ00002439021/_article/-char/ja/
通貨条例とアメリカ独立革命、 社会経済史学 1963 年 29 巻 1 号 p. 1-26
抄録
Whereas many economic historians, including E. L. Bogart, concluded that English policy of issuing paper money in colonial America was a failure as it led to serious depreciation,
[2]
他方で、米国では独立戦争の話だから全員知っているはずだ。
[Wikipedia]
Currency Act
https://en.wikipedia.org/wiki/Currency_Act
The Currency Act is one of many several Acts of the Parliament of Great Britain that regulated paper money
issued by the colonies of British America.
The Acts sought to protect British merchants and creditors from being paid in depreciated colonial currency.
The policy created tension between the colonies and Great Britain,
and was cited as a grievance by colonists early in the American Revolution. >>ここではさきに,深井智朗・東洋英和女学院院長がドイツで博士号を取得している事実にこだわっておき,同時についでに
「深井先生の仕事の粗さはしられた話です。そもそも,きわめて初歩的な発音間違いがあったりして,彼のドイツ語の語学力にも疑問符が付けられていました」という指摘も併せて考えながら,つぎの分析をしてみたい。
ただその前に,こういう点も断わっておきたい。
11月10日朝刊の記事なると,「深井氏は,レーフラーのつづりが実際は『Carl Fritz Loffler』だったとし,「日本語にしますとどちらもレーフラーとなってしまう……」と書かれているが,9日21時44分に報道されたその前段階の記事のなかで,深井氏は
レーフラーのつづりが「Carl Fritz L●( ● は o に〈ウムラウト〉付き)ffler」だったと認め,「日本語にしますとどちらもレーフラーと
なってしまうためにこのような誤りが起きたのだと思います」と書かれていた。
朝刊の記事に書かれた上記の Carl Fritz Loffler が,もともと正しくは「Carl Fritz L●( ● はoに〈ウムラウト〉付き)ffler」
だったのであれば,これは Carl Fritz Lffler と表記されねばならず,このあとに出た記事じたいにおいて正確さを欠いた(より正確にいうと間違えた)ドイツ語姓名の表記になっていた。
(オー・ウムラウト)という活字そのものがみつからなときは,「oe」で代用することは,ドイツ語の基本
をきちんと習った人であれば,しっている。
だから,9日時点に報道された記事では,「Carl Fritz L●( ● は o に〈ウムラウト〉付き)ffler」だったのであれば,と書いていた。
ところが,つづく10日朝刊の記事のなかでは,この「 (オー・ウムラウト)」でも,あるいはまた「 oe 」でも表記されずに「 o 」のままになっていた。
昨晩(11月9日)
からこの記事(報道)に注目していた本ブログ筆者は,あれあれと考えさせられながらも,この変化はいったいどうことを意味するのかと,首をひねるほかなくなっていた。
平凡社も上智大の神学集みたいなシリーズ出してるが大丈夫だろうな
いっそのこと日本の神学関連の本や論文を大規模調査しろよ。
まあ、胡散臭い金髪が、大学でメディア論を教えてたり、自称脳学者がアハアハ言ってるだけで学問になっちゃう国だからな。
で、こんな奴らの薫陶を受けた連中が、日本が世界に誇る高学歴エリートを自称し、派遣・低学歴はオレらの肥し、と豪語してんだから、そりゃ終わるわな、こんな国。
教文館の「新キリスト教組織神学事典」にも深井が書いたところが載ってる。
まさか、小学生の感想文でもやらないような稚拙な手口で捏造なんてすると誰も思わなかっただろうな。
そもそもこの領域自体がそういう要素を含んで歴史を刻んできたのでw
>>90
アメリカ独立戦争はアメリカ独立革命に含まれるいち事象、という位置付け
つまり英仏の市民革命とおなじ範疇に属すものと考えられてる
独立したアメリカがイギリスと同じような君主国だったらただの独立(戦争)だが
独立宣言に表れるように市民の生命、自由、権利を尊重する社会を目指した点が革命要素になる お笑い秋篠宮一家
全匹キリスト教徒?(ロンギノスの槍)
秋篠宮(ネオナチ)
・親は白人?
・アホすぎて、学習院の内部進学ボーダーを全入にまで下げさせた実績持ち
・ヤリサーを主催する。同世代のおっさんおばさんに異様に嫌われる
・そもそも本当の親は誰だこいつ。
・兄を引きずりおろし、自分を天皇にするクーデターを画策中(死ね)
紀子
・朝鮮。イニシャルが K. KiKo = KKK
・アキヒトの愛人
眞子
・顔が筒香
・小室のチンコに夢中なのが全国民にバレる
佳子
・父親がタイの愛人に生ませた女
・馬鹿すぎて学習院で留年不可避になりAO推薦で逃亡
悠仁
・日常会話は韓国語
・人造人間
・悠仁 = ゆうじん = 裕仁(ゆうじんとも読める)。日帝復活の切り札(死ね)
・耳が聞こえない
・授業中に突然大声を出す。ものほんの発達障害。
・トランプで自分が負けると相手にブチ切れ。
k/h
キング牧師の論文は半分は盗用らしい。
論文を盗用しても、有名になれるからな。キング牧師は、いまの時代だったら学位を剥奪されてると思う。
>>キング牧師(男性は、1964年にノーベル平和賞を受賞した米国の人種差別運動のヒーローで、1968年4月4日(39歳)に暗殺された。1955年、ボストン大学で宗教学の研究博士号
(PhD)を取得したが、1991年(没後23年、取得後36年)、盗博が発覚した。盗用文字率は約52%(推定)と多いが、ボストン大学は博士号をはく奪しなかった。
神学だと分かる人は少ないから有名なあたりで言うと
シェイクスピア、フランシス・ベーコン説というのがあって
シェイクスピアはフランシス・ベーコンのペンネームだったという学説が
学術的かつ大真面目にしかも根強く語られると言う例などがあり
ドイツ宗教学って日本では、学問の中でも超ドマイナーな学問だろ。
カール・レーフラーさんなら駅前の郵便局で切手買ってたな
この話は表向きは否定しても裏で半笑いでニヤニヤする人がいてもいいんですよw
ネットで検索したけど綴りが間違っているのでヒットしませんでした
みたいな可能性はないの?
それともドイツの大学に直接問い合わせしたのかな
どうですか学術的な権威の象徴・岩波書店というところ味噌ではないかと
それにしてもグルでないなら岩波の編集者は墜ちたなあ
平凡社の編集者なら見抜いちゃうぞ!とか言っちゃうか
誰もやらないだろうって稚拙な手口で人を騙せるってことがわかった。詐欺のやり方には、参考になるな。
>>109
学術出版で編集者が内容に口を出すことはまずない
用語の統一や誤字脱字のチェックまで
なんかマンガの編集者みたいに手取り足取り世話してくれる
(本当かどうか知らない)と思ったのかな 深井氏「お前らが異世界神学者カール・レーフラーの存在を認識できないだけなんだよ!」
>>年間読書人2019年3月29日
5つ星のうち5.0
二階建ての神学者:深井智朗小論
深井智朗は、私がもっとも信頼する日本のクリスチャン学者だ。
しかしこの評価は、日本のキリスト教業界では、かならずしも褒め言葉にはならないだろう。
なぜなら、私は無神論者であり、呵責のないキリスト教批判者(の嫌われ者)だからである。
しかしながら、私は「キリスト教」を批判しはしても、「キリスト教徒(クリスチャン)」をひとまとめに全否定しているわけでもなければ、その立場で否定しているわけでもないことは、私が殊に厳しく批判することの多い
カトリックの場合でも、例外的にではあれ、現ローマ教皇フランシスコを最大限に高く評価していることからも明らかであると思う。
深井が「神学者」であるか
「キリスト教学者」かといった分類は、すくなくともその「信仰」においては、ほとんど意味がない。
「神学者」と「キリスト教学者」の違いとは、「神学者」は「キリスト教は真理である」という
「信仰」を前提として学問をする人にことであり、一方「キリスト教学者」とは、自身の「信仰」
はいったん脇に措き、学問の対象としてのキリスト教を可能なかぎり客観的に研究(学問)する人のことだ。
つまり、どちらも個人的な内心では「キリスト教は真理である」という「信仰」を持っているのだが、自身が他者に向けて「キリスト教」の評価を語る場合に、「結論ありき」で語るのか、それとも「事実分析を前提として」
語るのかの違いである。当然、前者は「信仰を共有する身内向けの議論」であり、後者は「内外を問わない開かれた議論」であると言えよう。
>>このような分類からすれば、深井智朗は間違いなく、後者の「キリスト教学者」なのであるが、深井が
「神学をする者」つまり「神学者」ではない、とは言えない。
深井智朗は「職業的神学者」ではないだけで、当然のことながら自身の中で、否応なく「神学」をしている人なのだ。
そして、さらに言えば
「神学者」として有能か否かは、その肩書きには拠らない。
優れた神学者とは「(キリスト教の)神の意図を、正確に読み解いて伝える人」であるからだ。
したがって、深井智朗を「神学者」と呼ぶのも、間違いではない。問題は「職制上の分類」ではなく、その「行ない」なのである。
さて、「キリスト教学者」
として数々の業績を残してきた深井智朗の著作の中では、本書は最も「神学者」寄りの仕事だと言えよう。
だからこそ「学者」である深井は、「はじめに」において、次のように慎重な断りを入れている。
『 キリスト教会の礼拝で、聖書を朗読し、そこで読み上げられた言葉を解き明かす習慣があります。「説教」
と呼びます。しかし、本書は「説教集」ではありません。また、歴史家や神学者は、聖書に登場する人物を調べて、聖書を読む助けになるようにと、「人名事典」や「神学事典」の
項目を書きますが、ここに収録された文章は、学問的な事典項目でもありません。もちろん、これを読んだことで聖書の全体像や概略がわかるという意味での啓蒙的な「聖書の入門書」であるわけもないのです。
(中略)
(※ 詩人の)八木重吉の詩のように、聖書を読んでみたいと思ったのです。(中略)彼と同じように
「ことばのうちがわにはいりこみたい」という願いを持って読み、感じた情景を描いてみました。もちろんそれは、私自身の読み方、見方に過ぎません。』
この「断り書き」は、いったい何を意味するのか。
もちろん、本書の文章が、著者の「個人的な聖書理解=信仰理解」
であると言っているのである。
ここに書かれたことは、キリスト教の「公式見解」でもなければ「正解」である保証も無いと、あらかじめ断っているのだ。
しかしまた、ここに書かれたことは、深井個人にとっての
「信仰」の姿を描いたものだとも言えるし、その「信仰」に自信を持つからこそ、他の「神学者」のように、あたかも自分個人の「解釈」を
「キリスト教の公式見解」であるかのように語る気もない、という宣言だとも言えよう。そもそも自信が無ければ、単なる「自身の個人的解釈」をわざわざ公刊したりはしないのだから、これは当然のことなのである。
>>さて、深井智朗の「自身の信仰」に対するこのような自信と「学問に対する厳格さ」は、いったい何に由来するのだろうか。それは、自身の
「信仰の純粋性」に対する自信の表れだと、私は見る。
つまり「私は、信仰に不純なものを紛れ込ませていない。信仰さえあれば、あとは捨てられる」
という自信が、深井の「学問的厳格さ」を支えている。どんなに「学問対象としてのキリスト教」
を突き放して「分析」しようと「私の信ずるキリスト教信仰はビクともしない」と、そう信じているから、世俗の学者と同様の「客観性」を保てるのだし、「客観性」が保てないような
「ひ弱な信仰」に対しては厳しくもなって、「自身の個人的なキリスト教解釈と真のキリスト教信仰を、安易に(自己満足的に)混同してはいけない」ということ(甘え・依存の峻拒)にもなり、あのような厳格な「断り書き」を付すこともしたのである。
では、深井智朗の
「学問的厳格さ」とは、どのようなものなのであろうか。
私はそれを、本書の「ヘロデ」の章で深井が紹介している
『ヴィルテップ』という人形劇の形式に、読み取ることが出来るように思う。この人形劇の特徴は、舞台が「二階建て」になっており、上では「天上の神のドラマ」が、下では
「地上での人間のドラマ」が、同時進行で演じられるという形式になっている。
『 この人形劇では、上の舞台ではつねに神の人間救済の計画や努力が演じられるのです。
いわば神の世界が演じられるのです。下の舞台では地上の人間の姿が演じられます。ですから、崇高な天上の世界と、生々しいこの世の裏切りや混乱、血が流れ、傷つき、慰められることを拒否したくなるような衝撃の両方を同時に見ることになるのです。
信仰とは、下の舞台を捨て、それから離れ、上の世界に逃れることではありません。下の世界がなくなり、上の世界だけになるように努力
することでもありません。信仰とは生きている間、逃れることの出来ない下の世界で、上の世界があることを確信できることです。
信仰をもって生きている人でも、信仰がゆらぐ時があります。上の舞台で、天で起こっていることが、すなわち神が私たちのためになさろうとしておられることが見えないから不安になります。しかし上の舞台は、下からは見えないのだけれども、そこにあるのです。
下の世界で地を這うように生きながらも、上の世界を信じるのです。上の世界と下の世界が決して別物ではなく、繋がっていることを示すために、神の独り子は上から下へと向かい、上と下がひとつであることを明らかにしたのです。それがクリスマスの出来事でした。』(P65〜66)
>>ここで重要なのは、深井が『信仰とは、下の舞台を捨て、それから離れ、上の世界に逃れることではありません。下の世界がなくなり上の世界だけになるように努力することでもありません。
信仰とは生きている間、逃れることの出来ない下の世界で、上の世界があることを確信できることです。』
と言い切っている点であろう。
と言うのも、下の世界である地上から『上の世界に逃れること』
すなわち「天国へ行く」
ことがキリスト教信仰の目的だとする教派もあれば、『下の世界がなくなり上の世界だけになる』ことも信じて
『努力』している教派も少なくないからだ。
つまり、ここで語られているのは、深井自身も認めているとおり、深井自身の「キリスト教信仰」の姿なのである。
こうした深井智朗の「二階建てのキリスト教信仰観」からすれば、もっぱら「上の世界」を論じるのが「神学」
であり、下の世界を論じるのが「キリスト教学」だということになるだろう。
したがって、「キリスト教学」
の世界では『生々しいこの世の裏切りや混乱、血が流れ、傷つき、慰められることを拒否したくなるような衝撃』を
直視して、それに正面から取り組まなくてはならない。つまり「生々しい地上の現実」から目を逸らすことで『上の世界に逃れ』ようとしたり、「生々しい地上の現実」を『消し去って』
まるで『下の世界がなくなり上の世界だけにな』ったかのような「現実逃避」に陥ってはならないのだ。
たしかに「キリスト教学」は、もっぱら「生々しい地上の現実」
を扱うのだけれど、それは決して「非信仰」を意味しはしない。
なぜなら、「下の世界」で
人間が何をやっていようと、「下の世界」は「上の世界」と繋がっており、「下の世界の研究」が「上の世界=神」と無縁だなどということはあり得ないし、「神はすべてを見守っておられる」と信じられるのが「キリスト教信仰」だからだ。
したがって、クリスチャンの
「キリスト教学者」もまた、何者をも怖れず、何者の「顔色」
をうかがう必要もない。ただ神を信頼して、人として誠実に「真理を追究」していけば、その先に神が立っていると確信することができるできるはずで、それこそが「信仰」なのである。
つまり、深井智朗の
「キリスト教信仰」は、「信仰」と徹底した「リアリズム」が、矛盾しないのである。
だからこそ、一般的には「矛盾」だと考えられることも、彼の信仰では矛盾にはならない。それが矛盾に見えるのは、「キリスト教信仰」を誤解しているからであり、要は「神を信頼していない」からなのだ。
『 神に救われるというのは、悪人がこの世からいなくなるということではないのです。またこの私が神に救われるというのは、この私の中から悪い部分が
全部なくなって、完全な、悪などおこなわない人間になれるということでもないのです。
この私の中にあるどうしても取り除けない部分、なんどでも繰り返してしまう過ちを神がすべて知っていて、その神が、それでも、あなたを愛する、それでもあなたを滅ぼさない、それでもあなたが生きてゆくためにあなたを
支えると言って下さるのを知ること、これが救いなのです。
(※ 同様に「創世記」で描かれているとおり)ノアだけが救われて、その後世界には悪がなくなり、ノアは生涯無垢で、罪をおかさず生きたのではないのです。神は(※ ノアの家族と一部の動物以外を、地上からぬぐいさった)洪水の後に決心してくださった。
決して無垢であるだけではないノアがいて、このノアが愚かなことをして、救いようがないような状態であっても、それでもノアを滅ぼさないのです。
見捨てないのです。そのノアを救うことが神の決心なのです。
どんなことがあっても、どんなみじめなことになっても、それでも神はそれをすべてご存知で、この私を救ってくださる。これが聖書の救いです。この私の愚かな部分によりそってくださるのです。』(P113〜114)
>>だからこそ、神の前で、人は「罪」を隠す必要がないだけではなく、人の前でも「自身の罪」を隠して
「聖人君子」ぶらなくてもいい。むしろ「人の前でだけ聖人君子ぶる偽り」こそ「世俗的な過ち」であり「神への信頼欠如」なのだ。
深井は、十二使徒の中でも、イエスによって厳しく叱責されることの多かったペテロが、しかし最も信頼され、後事を託されたという事実(P125)と、にもかかわらず、なぜ「ペテロの失敗譚」
が後世に数多く残ったのかという疑問の、一見矛盾した事実を提示した上で「それはパウロ自身が、自分の失敗譚を語ることで、イエスへの信仰の素晴らしさを語ったからではないか」と推測してみせる。つまり「ダメ人間」
でも(イエスにサタン呼ばわりされた人間でも)「イエスは救ってくださる」と、ペテロは自身を実例にして、この信仰の力と素晴らしさ語ったのではないか、と推測したのだ。
こうした深井の信仰理解
からすれば、「不都合なこと」を隠蔽するような信仰は「偽物」なのである。どんな人間でも救ってくださる主イエス・キリストを信用し切っておらず、世俗的な「体面」を取り繕っているだけ、ということになるからだ。
『 人間が、人生の問題を隠蔽したり、遠ざけたり、放棄したりするのではなく、真の意味で方向転換し、悔い改めるために、ヨハネの首のみならず、神の独り子イエスのいのちまでも必要としたのだと聖書は私たちに語っているのではないでしょうか。』(P158〜159)
そんな贖いきれない犠牲を、決して無駄にしてはならないのだ。
当然、ペテロの末裔を名乗るカトリックが、しばしば「異端審問」や
「十字軍」といった問題を、過去の話あつかいにし、無かったことにしたがるのも、同じ誤ちである。そうではなく、カトリックこそペテロのように生きなければならない。
『ペテロは生涯同じことを繰り返したのです。立ち上がっては、また倒れる。正しく理解しては、また誤る。しかしそのたびに彼は立ち上がるのです。
なぜなら彼の救いのために祈るキリストがいるからです。伝承に拠れば、最後にはローマに戻り、ローマ皇帝ネロのキリスト教大迫害の中で「逆さ十字架」につけられ殉教したのでした。』(P132〜133)
>>『佐藤一一しかし、道徳の授業で習熟度をチェックし、評価した上で単位も与えるというのは異常な話ですよ。
もっとも学習指導要領では、評価は文章で行い、点数はつけないということになっていますが。
深井一一ただキリスト教の学校も、たとえば聖書の授業で試験をして点数をつけています。これも問題といえば問題ですから。』(P143)
『佐藤一一日本の神学は東西で大きくふたつにわかれていて、圧倒的なシェアは東の東神大系です。関西には細々と同志社と関西学院(関学)
がありますが、関学はどちらかというと社会活動のほうに重点を置いている。
そうなると、教会形成の神学という観点からは、同志社と東神大が重要になります。
ところが、同志社と東神大はたがいに口も利かない仲(笑)。
五〇年くらい全然接触がない。だから勉強していると、全然別の生態系で発達しているからおもしろい。
私が東神大出身の人と仕事をしているというと、みんなびっくりするんですよ。交流があったのって、一九六八年ぐらいが最後じゃないかと思います。
深井一一たぶん私は
東京神学大学の人たちからえらくきらわれていると思うので、東京神学大学を代表しているとは、とうてい言えません(笑)。』(P219)
こうした会話の意味は、現在の東京神学大学の神学が、シュライアマハーが批判した「プロテスタント・スコラ主義(プロテスタント正統主義)」
と同様に「保守的」である、ということを知っていれば、けっして理解困難ではないだろう。
また、深井が語るとおり、シュライアマハーの『宗教について』が、「宗教を侮蔑する教養人のための講話」というサブタイトルを付して、キリスト教批判者にむけて書かれたかのような体裁を
採りながらも、じつはそれを煙幕にして「教会の保守性」を批判した本であった、という点を考え合わせれば、深井智朗の日本の神学界における立場と、その自己認識も自ずと明らかになろう。
要は、現在の東京神学大学の神学的立場からすれば、深井の学問的あり方は「世俗的」でありすぎ、その意味で
「教会批判的=初期シュライアマハー的」でありすぎると見られている、ということなのだ。
同様に、なぜ同志社大神学部出身の佐藤優が『東神大出身の人と仕事をしているというと、みんなびっくりする』のかと言えば、それは、日本の神学界の主流に君臨する誇り高き『東神大』
出身の人が、傍流の「同志社大学神学部出身」であり、かつ「本職の神学者でもない」佐藤優という「キワモノ」を相手にするとは、とうてい思えないからなのである。
つまり、深井智朗は「地上=現実の生活」において、現に『あの人と付き合うと得かどうか、あの人の友人になると人生にプラスになる。あの人とつきあっているとみんなからうらやましがられる。そうやって愛を計算する』
ことを潔しとしなかったが故に、「東神大」系の主流神学者にはならず、逆に『東京神学大学の人たちからえらく嫌われ』ることにもなったのであろう。
>>このように「日本のキリスト教神学業界」において、嫌われようと、傍流におかれようと、深井は「ペトロ」のように「キリスト教界の失敗の歴史」
を語ることを怖れなかった。
私のような外部の人間から「隠すな」「誤摩化すな」
「それは詭弁だ」
などと批判されることのない公正さで、「キリスト教の歴史」と取り組んできた。だからこそ私は、深井智朗を信用するし、高く評価もするのである。
もちろん、だからと言って、まったく注文を付ける隙がないとまでは言わない。なにしろ、神の実在を信じているという段階で、私にすれば
「(無意識ではあれ)どこかに誤摩化しがある」し「弱さもある」という、基本的な評価は変わらないからだ。
本書においても、と言うか、自身の「信仰」を語るという、その意味で神学的な(二階部分に属する)
著書である本書においては、いつもの研究書では見えにくい「弱さ」
や「不十分さ」の
見てとれるところも少なくはない(当然、クリスチャンが読めば、そこは弱点には見えないだろう)。
しかし、深井がクリスチャンであろうとなかろうと、そもそも人間には誰しも「弱さ」や「不十分さ」はあるのだし、深井の、キリスト教徒であるが故の「弱さ」や「不十分さ」、つまり「不完全性」は、決して
「非クリスチャン」のそれよりも大きいとは言えないのであるから、本書における細かな弱点を、ここでいちいち指摘するのは止めて、深井には「より厳格であれ」と望むに止めておきたい。
ともあれ、神の存在を信じ、それとの紐帯を常に感じているからこそ、この地上で「強く正しく美しく」
生きることが出来るという理想を、精一杯生きようとしている深井智朗という人を、私は最大限に高く評価したい。たとえ、彼の信じる「神」がフィクションだとしても、それに「逃げる」のでもなければ、それを「嵩に着る」
のでもなく、その信仰によって、この地上をより良く生きようとするのであれば、その生き方を肯定するのに、私も決して吝かではないのだ。
そして、その上で、個人的には「それでも、貴方は神なんて実在すると思います?」と問うてみたい。
無論、その答は
「貴方が納得できるようには説明できませんが、実在します」だろうし、所詮、人の内的確信は、他者には検証のしようもないのだから、最後は「そうですか」と言う他ないのだろう。
けれど、それでも私は、世間に蔓延る多様な「信仰という現象」を、キリスト教も含めてそれらすべてを、自身が納得できるまで疑わずにはいられないし、その意味でも、歯ごたえのある信仰者でだからこそ、かえって深井は
注目に値するし、私の研究対象となり得るのだ。「地上にあることを怖れない信仰者」であるからこそ、深井智朗は、私の地上的研究の対象に値する「本物の信仰者」なのである。
新潮社「ファンタジーノベル大賞への応募を心よりお待ちしております」
オカリン「カール・レーフラーを知らないだと!?何を言ってるんだダル、あんな有名な神学者を知らないとは!え、存在しない、だと?何をバカな事を・・・」
宗教自体がインチキなんだから、カール・レーフラー
ぐらい居る事にしても問題ないだろ
神学自体がエセ学問やんけ
逆に読みたいわ
ソレナンテ・エロゲの伝記とか書くのと同じだろ
>>131
ネゴトワ・ネティエの生涯は、涙なしには語れない 参考文献のチェックすらしてねーってことか
著者名や書名のチェックとか
原稿そのままスルーかよ
神学は偽書だらけだろ
有名な新約聖書のヨハネの黙示録も偽書説あるし
引用元まで創作する創造力に一本取られたっていう研究者も多いだろ
京大系のロスジェネが、糞オカルト老害をぶっ殺したっていう痛快さw
低学歴にはわからんだろうなあww
こんなもん買ってるの100人もいないんじゃないの?
深井の本も絶版になるから買うならいまのうちだよ。世紀の捏造で伝説になるだろうからな。
>>25
それそれ
「ユダヤ人」持ってました。恥ずかしい。 >>年間読書人
シュライアマハーの熱き信仰心
2019年3月2日
本書が何を語ったものかを端的に示しているのが、「あとがき」における深井智朗の、次の言葉だ。
『 この対談で試みたことは、『宗教について』の新しい、厳密なコメンタリーを作るということではなかったと思う。むしろシュライアマハーの
神学的な思考の奥深さ、彼の時代感覚、彼の世界を見る目から学ぶことで、一見、私たちの生きている
世界とはまったくかけ離れていることを論じているかに思える
『宗教について』を
使って、現代の諸問題を読み解く視点を獲得しようとしたのだ。毎回、二〇〇年以上も
前に書かれたテクストと向き合っていたのだが、私たちの視点は過去
にではなく、現在と将来に向けられ、岐路に立つ現代社会の諸問題と対峙していたのだと対談を終えた今は思っている。』(P258)
つまり、本書を読んで、シュライアマハーについての
「新しい解釈(知識)」
を得られたとか得られなかったとか言っているような読者は、本書を読めていなかった、ということなのだ。
本書は、これまでは「近代的理性に迎合してキリスト教神学を歪め、やがてカール・バルトの超越主義によって
超克された、過去の人」
という、表面的かつ通俗的なシュライアマハー解釈を『宗教について』
を読み直すことで翻し、「信仰者としての時代との向き合い方」を、シュライアマハ�ゥら学ぼうとしたものなのである。
>>そして、そうした問題意識は、ろくに原典に当たりもしないで、バルトが流行れば「シュライアマハーなど古い」
と決めつけ、著名な佐藤優や深井智朗がシュライアマハーを採り上げれば「今はシュライアマハー
(の再評価が)熱い」などと、俗物根性丸出しで右往左往する人たちの信仰心を批判して、暗に「だから、今のクリスチャンはダメなのだ」と言わしめるものなのだ。
『 シュライアマハーもそうですが、敬虔主義のまじめな人たちが信仰を
持ちつつ勉強していくと、佐藤先生がさっきおっしゃったような信仰と自然科学とか、信仰と学問の矛盾と
いった問題に悩む。そこで自分たちの信仰と現実にどう折りあいをつけるか、どこまで折りあいをつけられるかという実験をはじめるのです。ここまでは許してもいい、ここまではキリスト教の神学と
自然科学は和解できる、といったふうに、少しずつ自分の信仰をひろげていく。
教会から「そんなことをするな、それはサタンの誘惑だ」と言われたりしながら、それでも少しずつ戦っていく。』(深井・p15〜16)
『 使い古された言いまわしかもしれませんが、シュライアマハーは「死んだ宗教」とか「魂のない宗教」
はだめだと思っている。ドイツのキリスト教は、他の国に比べれば、教会も立派、制度も立派。プロテスタント的なプロイセン
はすばらしい……にもかかわらず、でも、なにか死んでいるんです(笑)。
そこには生命がない。シュライアマハーは教会だけではなく、敬虔主義にも、啓蒙主義にも、そう感じるから批判している。』(深井・P58)
本書で何度も指摘されているとおり、シュライアマハーは
『宗教について』に「宗教を侮蔑する教養人のための講話」というサブタイトルをつけて、同書がいかにも「啓蒙主義者の誤りを批判して、キリスト教信仰を擁護する本」
であるかのように装いながら、同時に「教会をダメにしている、自称〈敬虔な教会人〉」たちをも批判している。
シュライアマハーに
言わせれば、近代的理性を怖れて、それとの対決を避け、妄信に引き蘢ることで自分は「純粋な信仰者」でございという
「アリバイ作り」に明け暮れているような臆病な手合いは、信仰者の名に値しない「教会依存者」だ、と感じられたのだろう。
そして、こうした
「熱い信仰心」(や、熱さの裏返しとしての、徹底的に冷めた信仰心)こそが、キリスト教信仰の本質なのだと、佐藤優はまとめている。
キリスト教は教義そのものに根本的な問題があると思う。
隙間産業的な
神学とか日本人でやってる人殆どいなそう
ドイツ人とインド人の名前は適当でもそれっぽく感じるね。
>>142
>A本件論考中に述べられている「エルンスト・トレルチの家計簿」の根拠資料となる1920-23 年のトレルチ家の借用書や領収書等の資料は実在せず、被告発者による捏造と判断する。
エルンスト・トレルチは実在するけど家計簿は捏造か。
深井さんって面白い。 神学とか天文学にあこがれがある
すごく男性的で知的なイメージあるよ
>>156
これはビビった。
みんな、こいつの凄さまだわかってないよね。 むしろ「ここからここまで完全捏造」
「これはアレとソレから切り貼り捏造」と注釈つけた本出すべきw
>>142
岩波は何事もなかったかのようにするつもりだったんだろうね
最高にカッコ悪い >>1
東洋英和女学院院長に研究不正疑い 引用論文存在せず?
https://www.asahi.com/articles/ASLC972PYLC9UCLV013.html
「ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム」(岩波書店、2012年刊行)。
4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されているが、
当の論文の書誌情報は示されていなかった。
これに対し、北海学園大の小柳敦史准教授(ドイツキリスト教思想史)が3月、日本基督教学会を経由し、公開質問状を送った。
「暫定的」とする回答が深井氏から学会に届いたのは7月2日で、9月25日付の学会誌「日本の神学」にあわせて掲載された。
それによると小柳氏は、深井氏が記述した索引にある「Carl Loevler」を書籍やネットで調べ、
論文が掲載されている可能性のある雑誌も30年分閲覧したが、名前も論文も発見できなかったという。
小柳氏は「単なる『間違い』ではなく、深井氏による創作であると疑われる内容が含まれることが判明」したと指摘。
10月25日号の「週刊新潮」がこうした経緯を報じた。
深井氏は、レーフラーのつづりが実際は「Carl Fritz L●(●はoに〈ウムラウト〉付き)ffler」だったとし、
「日本語にしますとどちらもレーフラーとなってしまうためにこのような誤りが起きたのだと思います」と説明。
ドイツ語の書籍(カタログ)の名を挙げ「日本では未見」だが「そこにご指摘の文献の指示があります」と回答した。
その書籍を小柳氏が入手し、全文を検証したが、引用したとされる箇所は見つからなかった。
日本基督教学会 深井智朗氏への公開質問状と回答を学会誌に掲載 2018年10月3日
http://www.kirishin.com/2018/10/03/18971/
発端が面白すぎる
深井智朗は1964年生まれ
小柳敦史准教授は1981年生まれだというから
第一人者()が若造に刺された訳だw キリスト教、特にピューリタンに関しては、
お前らジャップより、アフリカ系の方のほうが詳しいだろ。
実際アフリカ系の方は教会にも通ってらっしゃるし。
ああ、なるほど。それでお前等ジャップは人種差別しているのか。
なるほど。
お前等ジャップは、俺の想像をはるかに超えた、屈折してゆがんだエイリアンだったのか。
俺が間抜けなボンボンで甘かったんだな。
>>164
1964年生まれだと活躍し始めた頃はまだネットないか、黎明期くらい?
それならマイナーな海外の分野だと現地に飛んで原典当たるしかないから案外検証するの難しいのかもな
翻訳されてないだけで現地では知られてると言い張られれば人が少ない分野だと他の研究者は黙るしかなかったのかも
今になってやっと捏造を検証できるようになっただけで
この人昔からこんな感じで論文書いてきたのかもね 2009年から、カールレフラーの名前で活動していた日本人がいるみたいね
春秋社もおかしいな
疑惑がほぼ確定してるのに、本を出版するなよ
独自調査もしていないようだ
下手すると博士論文も捏造、剽窃してるかもしれないぞ。
>>151
深井さんは、磯田道史「武士の家計簿」を読んで、「自分も、こういうのを書きたい!」と考えたのだろうか… 東京神学大学自体が特殊な大学で大学と言うより牧師養成学校みたいなもの。
新書の「プロテスタンティズム」も、いずれ消えるかも…
西洋文明が廃れたら。自然と日本のキリスト教も廃れるだろうな。
鉄道模型店が海外ではHOが主流、といいはるようなものか。
機関車一両20万円。
何故、神学は難解なのか。キリスト教は矛盾だらけだから、そこまでしないと教義を説明出来ないから。
カールレフラーはは実在するだろ
Twitterアカウントあるぞ
>>162
早稲田大学「なんかー、草稿が本チャンで提出されちゃったみたいでー、テヘペロ☆」 フィクションとして出版してたら成功してたかもなwww
昔は、こういうやり口で権威が作られていったのだ
Aさんがテキトーに捏造したものを、Bさんが引用、それをCさんが引用
さいごにAさんが再引用する
浄土真宗の歎異抄方式
>>175
日本のキリスト教なんてほとんど存在感ないやん?
結婚式くらいか >>46
別の有名なドイツ人神学者の著作(翻訳)からの盗作だったそうだ。 この物語はフィクションですって一文加えときゃいいのに
>>13
言ってない。
誰だよこれとなって、文献表も注もなく、探しても見つからなかったから、創作じゃないかと学会に告発された。 さすがに、注が抜けてたら指摘するでしょ。
新書じゃなくて、専門書だよ。
神学の世界ではネットが広まる初期の時代なら、捏造が通用したってことだろ。
偽文献を大量に作って、学者間で引用し合うとかどうだ?マイナー過ぎたらバレなさそう。
782 名無しさん@1周年 2001/11/11(日) 03:46:00 ID:
〇井氏が牧会している教会の元信徒だった人から聞いた話だけど、女性問題が発覚したときの騒ぎといったら凄かったらしい。
その元信徒さんも、〇井氏のたいへんな崇拝者だったが、結局、愛想をつかせて教会を出た。
うちの教会の牧師先生も、彼がなぜ辞職しないのか不思議だと言っている。
「働き手が少ない」というが、伝道者を志願する人はけっこういる。
正確には、『働き手になれる人が少ない』というべきだろう。
なりたいからなる、のではなく、神さまから明確な“召し”を受けた人だけが牧師になるべきだ。
牧師になるための準備期間中も、自分に「牧師としての資質と適正」があるか否かをよく見極めていただきたい。
新学校の教授も、個々の神学生の信仰者としての態度をよく観察して、少しでも問題のある人間は、どんどん落としていっていただきたい。
最近、女性問題絡みのスキャンダルで倒れる伝道者が非常に多い。
これは異常だ。
>>196
思いっきり名前出てるwww
2001年に既に話題になってたのかよw
まだまだありそうだな 岩波は最近騙されまくってて、可哀想だな
自業自得だけどね
>>196
そのスレの692からの流れ、まだどこも取り上げてないよな?
キリスト教の世界では女性関係の悪評があったらしいのに
なぜ院長まで昇りつめれたんだろう(しかも女子大の) 狭い世界はきちんと外に向かって声上げる人いないとあくまで噂で握りつぶせるからでは
大体、昔から捏造の疑惑はあったのに
きちんとした告発がなされたのは今回が初めてなんでしょ
データ捏造=研究不正するような研究者は,データの切り貼りもしている可能性がある。
文献・資料から自分に都合のいい部分だけ切り取って,自分の主張の典拠にしている可能性がある。
昔から文系には結構あった話だけど。
研究不正を行った人間の主張・論文・著書は,信用できない。研究者世界から追放。
牧師の世界も坊主の世界も衣一枚捲ればドロドロだってことだな
文系は文学部の外国語文学・文化の学者ですらその言語のバイリンガルじゃない奴が多いくらいだから
(特に高齢者)
他人の論文(日本語)読んでわざわざ引用元の外国語論文読もうって奴が
理系に比べるといないんだと思う
深井はドイツ語の簡単な単語の発音すら怪しいレベルらしい。それどころか単語の綴りの間違いが非常に多いことらしい。
パクリがバレて初版絶版になったラノベを持ってたが今もプレミアなんてついてない
>>207
いや、その二つのスレッドは、元のスレッドの書き込みがかなり削除されてるみたい
>>196のスレッドには全部載ってるんだよ。見てみて この本を評価してた人もいるんだよな
佐村河内を評価してた人といい
今どう考えてるんだろうな
架空の人物を捏造までして論文を書きたいものなのか?
まったく理解不能。
サイコパスとかなんだろうな。
論文以外でもいろいろやってそう。
アウグスブルク大学に留学してたんなら、多少はドイツ語できるはず
岩波は最近食い物にされていないか?
大学教員は、基本的に盗作者が過多だぞ
真面目系クズに騙され過ぎだ
「プロテスタンティズム」(中公新書)を読んでみたくなったぞ
文系の学問なんて信頼性よりもコンテンツに常に疑問を持って批判的読み方をするのがあたりまえのはずだし
勘違いしてる奴おるけど、
そもそも大学文系学問て、例外なくフィクションなのだが?
イスラム法学者「女子が浮気したら死刑な。」
日本法学者「死刑は2名殺したときだけね。」
欧州法学者「死刑は人権違反だから禁止しろ。」
法学の死刑制度ひとつとってもフィクション物語に
支えられてるのが文系学問の本質や。
もう21世紀なんだから、
普遍性も再現性もない大学文系学部とか全部廃止しろよ。
昔、東大で有名だった哲学の先生も盗作してるとゼミの教授に教えてもらった
疑問なんだけど。何で神学では、21世紀にもなって神は何かとか議論してるのか。
結局、キリスト教徒自体が神は何かについてよく分かってないってことだろ。
人物自体ねつ造とかひどいなぁ
神学に興味ある人の数は、減ってるかもしれないが
こんなやつが学位だの賞だの、バンバンとれるとは世もまつ
岩波文化人周りは今でも中世の宗教世界を感じることができる珍しい世界だよな
この方にお目見えできただけでも光栄と思い給えとか普通にある
その親戚すら神官のような扱いだ
天皇以上だ
>>37
ペンネームをカール・レーフラーにして本出せばいいよね。で、そこから引用 >>58
マジレスするとカーブで遠心力を抑える線路の傾き >>「互いに愛し合いなさい」との教えがあるキリスト教プロテスタント教会で、目を覆うような泥仕合が続いている。
東京・世田谷区の玉川平安教会(日本基督教団)で2010年、牧師が信徒を提訴する前代未聞の事態が起きた。2人の牧師の言動や不透明な会計などに疑問を持った信徒が教団内で辞任要求書を配布したことがきっかけだった。
和解したものの、教会ではその後も総会が開かれず、会計も明示されなかったため、14年には逆に67人の信徒が牧師2人を訴え、その訴訟は今も続行中。
この間、教会運営はままならず礼拝出席者も激減。献金も減少してしまった。法廷で旗色が悪くなりつつあった牧師2人は解任を恐れたのか、昨年秋、自らの責任は認めないまま辞意を表明。この3月末に辞任した。大半の信徒は胸をなで下ろし、後任の牧師招聘に動き出した。
ところが、2人はすんなりと教会を後にしたわけではなかった。藤田義哉主任牧師は教団に出した辞任書の内容を開示しようとせず、後任の問題にも口を挟んでいるという。
もう一人の山口隆康牧師(東京神学大学名誉教授)は、合意の上で行われたはずの、給与のこれまでの削減分3121万円を、「未払い給与」として退職金とともに支払うよう役員会に請求してきた。代理人を立てて折衝を申し入れるとしており、決着はついていない。
山口牧師は教団の重鎮で、以前、信徒の一人に新教会建設のためと称し、教会ではなく自分に「300万円をください」と要求したことがあるという。
言行を威圧的、カルト的だと受け止める信徒もいるが、教団は傘下の教会の人事権や監査権を持たず、仲裁を行う立場にもない。明治以来、政財界にも信者が多かった日本基督教団だが、体質の劣化を問う声が上がっている。
>>230
なんの社会的影響力も価値もない文系の論文で捏造する意味がわからない
特に人文系
自然科学みたいに世界で共有される知識で捏造したら問題だが、人文系の作文でなぜ不正するのか不思議 深井本人も自分が書いた論文の内容を分かってないんだと思う。
こいつは、人の論文を繋げただけなんだろ。
絶対に書いた本人も論文の内容を分かってないだろ。なんとなく小難しい言葉を使って書いてるだけで。
>>227
まぁ、究極的に言えば、数式で定量的に論じない分野
特に、社会学、法学、文学、芸術学、神学などは
フィクションというか、論者の勝手な言い分を書いてるだけとも言える
経済学も、仮定に現実離れしたものがあったりして、そこが問題となったりするけど
その仮定の上に構築された数理モデル自体は、数式での議論なんで、
論者の作文みたいなのが入り込む余地はない
もちろん、数式をコネ繰り回して、その結果、出てきた数値などから
「だから、こうだ」みたいな推論とかの部分は、論者の意見みたいなのが入り込む余地があるけど >>238
一応、論文とか著作を書けば「業績」となって
大学とかのポストを手に入れやすくなるってメリットはある
なので、捏造無しで書くのが難しいと思った場合に
自分の理想とする結論を簡単に導くために、「参考とした論文」を創り上げたり、
その架空論文の作者すら創り上げるってケースが出てくるんだろうな >>232
捏造してなければ、良い論文ってわけでもなかったりするけどねw
秋篠の紀子なんて、9ページの論文で博士号取ってるんだぜw
さすがに捏造は無いんだろうけど、9ページねぇw >>210
理系は基本、日本語と英語だけで事足りるけど
文系の場合、分野によっては、ドイツ語とかフランス語とか
英語以外の語学力も必要となったりして、査読が困難って事情はあるかもな
まぁ、文系の論文を精密に査読して、仮に捏造が無かったとしても
「それで?」って感じはするけどw こいつの書いてる論文自体が他人が書いた文書の継ぎ接ぎなんだろ。さも、高尚なことを書いたように見せかける。ペテン師だよ。
>本の中で紹介されている「神学者カール・レーフラー」という人物や、レーフラーが書いたとされる論文の実在が確認できず、
>別の文献からの盗用などもあったと認定した
鼻行類みたいな感じの奇書として売ればいいんじゃないかと思ったが盗用あるんじゃ駄目か
>>243
社会学なんかパヨクの巣窟でいかに政治的詭弁を作り出すかって感じだもんな
イスラム原理主義みたいな感じ 日本のキリスト教って独特の胡散臭さがある。特に、牧師の説教は胡散臭い。
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神学の本自体も疑いの心を持って読まないとな。岩波とか新潮社と言った権威ある出版社だからと言って、100%間違いがないとは言い切れないな。
まさか、そんな手口を使わないだろうと思って読者としては意表を突かれた感じがするだろうな。