曹操高陵と大分県日田市
“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは63年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(1893〜1983)が美術研究誌「国華」で取り上げた。
国華によると、直径21・3センチ、厚み2・5ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀(まれ)なこの鏡」と評した。
日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、33年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。
梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。
それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。
「X線で調べたところ、象嵌の…
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朝日新聞デジタル 2019年9月8日08時00分
https://www.asahi.com/articles/ASM9443XDM94UCLV009.html 中国人観光客に紛れ込んだ工作員の仕業、九州は中国の土地運動の始まり
なぜ九州に?って
九州ですよ?
盗んできたと考えるのが普通
>>8
曹操じゃなく二代目が皇帝を自称したんじゃなかった? 人がつくれるものなら、べつにどこにあったっておかしくはないだろ
神武天皇は九州から来ましたって建国神話でも謳われているのに
近畿説支持する奴ってなんなの
>>15
昔は素材的にも技術的にもそんなになんでも作れない
これも世界に数点レベルの貴重品なんじゃないの >>14
曹操は王までで子の曹丕が皇帝になったよ。 966 名無しさん@1周年[] 2019/09/11(水) 18:07:23.54 ID:0NUJ3J9F0
>>301
何ヘラっと嘘ついてんだよ
古物商はなんも知らんで売った
買った方の先生が昔大分の学校に飾られていた盗難された遺物を覚えてて買い戻したんだよ
発掘された時の資料もあってほぼ間違いないじゃろって大分に戻ってきたんよ 曹丕も自称じゃなくて献帝から正式に禅譲されて皇帝になった
>>1
> 日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、
この時点で、信用できん話や 伊都があって山門があるのになにいってんだと
元々九州の邪馬台、山門から奈良の大和に落ち着いた
二元化しようとしてるから戦後の歴史学者なんて高卒ボンクラレベルにしか扱われてないわけで
近畿でも九州でもどっちでもエエ
出土品に興味あるわ 親魏倭王の金印でてこないかなあ
>>18
たぶんiPhone所有してつヤツはAppleの子孫でAndroid所有してるヤツはGoogleの子孫 卑弥呼がいた時代は神功皇后が治めていた時代なんだろ(日本書紀)
なぜ天皇を差し置いて女王を名乗る?
曹操となると卑弥呼の頃より古い鏡だな。
九州でそんなものが見つかるのは面白いけど、これは九州説を否定する発見だと言われるでしょう
>>29
邪馬台は単なる当て字だからな
九州もやま○の国の一部と考えれば畿内に移動したとか無理筋の仮説を提唱しなくても古墳時代の始まりから大和王権の時代にまで歴史は繋がる 邪馬台国(卑弥呼)は九州でしょう
畿内説は関西の学者の希望論、証拠が少なすぎる
金印が発見された志賀島、平原遺跡の伊都国
魏に付いた邪馬台国の女王である卑弥呼に贈った鏡である可能性が大きいのでは
運送員
死亡につき、埋葬しました
どこに持ってくのか?不明だったし
身元もわかりませんでした
>>25
>日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。
記事にはこう書かれているがどっちが正しい? 外からの情報で固まった説が揺さぶられるのは おもろいな
魏が滅べば壊すべき物でしかないのをありがたがるのは倭人だけだった
曹操に日本から送った物なんだよ。
日本製だから日本に同じ物が有ってもおかしくはない。
というか、金印が見つかってる時点で既にびっくりなわけだしなあ
邪馬台国の九州説が有利に
最高級の鏡や金印なんて簡単にもらえない
近畿連中はあおざめているだろうな
>>27
>>41
盗掘って言っても墓荒らしじゃなくて、
いったん発掘されて展示されていた博物館的な場所から盗まれているらしいから(レスの受け売りなのでソース探さないとだが)、
それがそうなら古物商から取り返したぞってことでは? そういえば、近畿説だと金印についてはどう説明してるんだっけ?
>>39
伊都国=委都国=倭都国
だが、伊都国だけは有り得ないんだよ。
すでに邪馬台国に征服された様子が倭人伝に書かれているから 金印とワンセットで送られ
途中、野盗、もしくは反対勢力に襲われ、
どっちも本来の贈答先の手には届かなかった可能性も出てきたな
渡来人からかっぱらったんだろうな
クソジャップが大陸や韓半島の皇帝と渡り合えるわけない、エテ公の酋長だろw
>>46
当時の日本にあれだけの技術は無かった
世界に数点しか残っていない >>14
禅譲って知らない?
少なくとも自称はしていない >>54
いや時代がずれてるだろ
九州の金印は漢の時代のものだから、セットで送るのは無理 持つにふさわしいから持っていた、
のだろう
歴史ロマン
金印は大した事ない説
金印が出たからそこが卑弥呼みたいに言われるが
実は土産物レベルだった金印
高木彬光は邪馬台国は宇佐神宮のある大分説を取っていたけど、本当かもしれんな(´・ω・`)
>>25
>買った方の先生が昔大分の学校に飾られていた盗難された遺物を覚えてて
疑問1
出土したときは錆びた鉄のかたまりだったのだが、普通そんなものを飾るか?
疑問2
京都大学の学者が昔、大分の小学校なんかを訪問したのか?
疑問3
大分の小学校で昔見たものを本当に覚えていたのか?
嘘くさいし作り話だろう >>61
金印のインパクトは、中国の正史に書かれていたものが本当に存在することでな…
逆にいうと、史料で確認できないものなら豪華絢爛な出土品が出てきてもそこまで大きな話にはならない >>50
金印は正式な迎えの使者で有ることの証明になるもので玄関口である島にあってもなんらかおかしくない
後生大事に中央の宝物庫にしまってたと思う方がアホ >>59
曹操の鏡が、いつ作られたかは不明
王権の象徴としての伝来品かもしれない >>34
皇族の娘は「女王」(天皇、直系皇族だと内親王) 日田市内の地名
天ヶ瀬、耶馬渓、夜明、、、、
地図みりゃわかるガチ
結局文献史料が魏志倭人伝以上のものが出てこない以上、あらゆる状況証拠も推論に過ぎず、邪馬台国論争も永遠に決着することはない
>>46
大分県ってのは由来としてオカシイという話。
近代になってから大分県出土を装ったという可能性もゼロじゃない。 シュ儒国・裸国・黒歯国が小笠原〜マリアナ〜とか考えられない
奄美〜沖縄〜台湾〜フィリピン方面と考える方が自然
やっぱ邪馬台国は九州だよ
卑弥呼は孝安天皇の兄の嫁とわかっている。
何が九州。
>>2
曹操の墓は早い時期に盗掘にあっているから、盗まれた可能生もあるかも
4-5世紀になって東漢氏が持ち込んだかも >>73
欠史八代の天皇なのに確定出来るとかゴイスーw どう見ても邪馬台国は九州でしょう
韓国は考古学じゃなくて願望をクリエイトするなんてよく言われてるけど
日本も韓国を笑えないぞ
魏志に書かれてるのは邪馬臺(たい)国じゃなくて
邪馬壹(いち)国である
>>62
金印も曹操の鏡も九州から出土してるんだよなあ 九州出身の奴が近畿で成功して邪馬台国になったんだろ
もうこれで終わりよ
>>77
九州説の面倒な点は、邪馬台国の時期にもう機内にはけっこう大きな国ができてるっぽいことなんだよな
なんでそっちを無視して九州の地方政権王朝を相手にしてたのかがよくわからなくなる 邪馬台国の難升米が明帝からいただいたのかも知れん。
邪馬台国は九州のどこかにある
倭国って実は大国扱いされてた説あるよな
金印にしても皇帝に次ぐような高い地位じゃないと貰えないものだし倭国に対する悪口も少なくて周辺国ほどは見下されてない
徐福の伝説とか関係あんのかもしれんが
>>73
夫の弟が天皇なのに自分は他の国の女王であったと?
どういう状況なのか教えてほしい 邪馬台国は曹叡の頃なので、曹操だとちょっと古すぎるんだよね。
九州にあったのは倭(奴)国。その首都は伊(委)都国。
それを邪馬台国が滅ぼし魏との交易権を握ったのが倭人伝の頃。
もしかしたら正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵が派遣した建中校尉の梯雋が卑弥呼に献上した鏡がそれかな。
>>84
金印は中華内部の諸侯とか周辺大国の王はけっこうもらってる
金印をもらう国は強豪国と認識されてたのは間違いないけど、皇帝に次ぐというほどレアなものではない
半島の朝鮮王とか中央アジアの匈奴王や大月氏王なんかももらってる 邪馬台国の現代読みを大和にこじつけしたのがバレバレ
>>63
「X線で調べたところ、象嵌の…
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ここに書いてあるかも? 筑紫の磐井が大分を目指して山の中に逃げたよな
こいつが持ってたのでは
倭国の王とか遠い蛮国相手に魏が適当に言ってるだけかと思ったら魏王の墓に入れるような高貴な鏡を本当に贈ってたとか胸アツだわ
魏が倭国を呉や北平の裏にある味方にしておきたい大勢力として認知してたって意味にもなるよな
そもそも何回も海渡って使者行き来させてる時点で俺らが思ってるよりずっと進んでたんだろうな倭国
卑弥呼様かっけーあと壱与様かわいい
やまと=山+戸
戸とは、集落入り口の木戸のこと。きど(木戸)→かど(門)
戸で集落・クニを差すようになった。
やまと(山戸)の反対が、みなと(水+戸)=水辺、つまり港のクニ。
>一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。
磐井の乱も6世紀だ
すまんな大分県民。余計なことに気づいてしまって
大陸との往来は命がけの船しか移動手段がない時代
地の利がある九州が表玄関である事は容易に想像がつく
1つは伊都国、1つは狗奴国(肥後)、その中間に邪馬台国
勢力争い激しい邪馬台国末期に九州や出雲、尾張などの勢力が畿内に移動し
ヤマト政権樹立したと考えるのが自分的に1番納得感がある
曹操と並び皇帝となってたのは劉備やろ?
劉備の末裔が日本に逃れてきてたんか?
>>88
書き方あれだからあれだけど弱小国だと貰えないのは事実なわけで
でも倭国の場合はその中の一国でしかない邪馬台国や委奴国か奴国か知らんが貰えるほどの大国だった
古代史について書いたものを読んでるとちょくちょく倭国がクソ雑魚扱いなことがあって違和感ある 大分の土地勘ないけど、
磐井が戦った場所(どこか知らん)から大分の山の中に入ったら日田がある?
>>94
ただ、正史の記述量から考えるとそこまで重要視されてたわけでもないようで、
それが日本の古代に関する記録が少ない原因にもなってるんだよな
邪馬台国くらいの時期に白村江レベルで中華王朝に殴りこみかけていれば
「ないこれあいつヤバい。しっかり記録取らないと」となって、もっと古代の姿が明らかになっていただろうに 地図を見ると日田って福岡・熊本・長崎・大分・佐賀・小倉・下関・久留米・日向・宇佐
などなど九州の名だたる都市のちょうど中心にあるんだな。
ここを抑えたら九州を支配できるって感じはするね。
>>93
日田が邪馬台国起こりの地。そこから筑紫平野を支配し富を蓄え、
博多・奴国の港を手に入れ、漢への朝貢(奴国に朝貢させた)と
鉄輸入独占で列島の覇権国に。
女王国の時代は、倭国大乱に負け、覇権を奈良に譲った姿。
覇権禁止=男王(=剣を持つ王)禁止=女王「共立」だ。
最盛期は、邪馬台の政治軍事経済の中心は、大宰府だった筈。
卑弥呼が大宰府に居たか、古都日田に戻ってたかは、知らん。 卑弥呼 壱与 邪馬台国
いずれも日本の史蹟には一切言及がない。中国の魏志と後世のまとめにしか存在しない名前
司馬炎の泰始の初め、幽州太守張華の求めに対しトヨは遣使し訳を重ねて入貢した。
その時、張華の邪馬台国への手土産が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だった思い出
>>88
他の王の金印は四文字だけど、志賀島は五文字だし、書体がなんか違う。 卑弥呼の年代に筑紫で活躍してたのは神功皇后で孫が仁徳天皇
卑弥呼の墓は巨大だったそうだから、実在するなら見つかり易いでしょうに
巫女が子供産むのか解らないけど、引退したりするよね?
>>84 遠方の国ほど金員をもらっている
逆に近所の挑戦は貰ってない
遠方の国が長江に来ることは権威を示すことになるので
丁重な扱いをしたそうだ 諸葛亮ほどの知恵者なら
倭国の存在は知ってただろう
漢中と倭国で魏を挟み撃ちに出来たのに
天下四分の計という発想は無かったのか
九州は通り道なんだから見つかっても不思議じゃない。
地図見たら福岡と日田は隣接してるのか
>>102
元々は山国だったからヤマという部分はそう 金印もゴッドハンドなんだろ
いまさら認められないだろうが
>>113
倭に興味あったのは司馬懿に滅ぼされた燕王 公孫淵だと思う。
公孫淵は孫権と通じていたみたいだけれど >>103
陳寿ってたぶん差別主義者だろ
皇帝様が超高貴な鏡贈った相手に墨彫った野蛮人扱いとか完全に冷静さ失ってるだろw
こいつのせいで日本の太古が過小評価されてるわ
あと張政って帰った後とか倭国に対してなんか言ってないのかね?普通なんか言うだろ?
絶対話端折ってんじゃん陳寿w >>12 39 50
「漢の委の奴の国王」
わ な
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!! 失笑 >>113
蜀の使者が到着した5秒後にはチクりの使者が魏に向かう展開しか見えない
魏に朝貢してた邪馬台国を寝返らせるとなると相当の見返りを提示する必要があるが、そこまでして参戦させたとしても
半島で暴れるくらいしかできないと思うぞ 卑弥呼も邪馬台国も現時点では架空だしな、もっと見つかるといいね
小学校の頃、先生が金印とかが畑で出るとか嘘くさーって言ってたしさ
>>84
1文字国名な
文化的なものなんだろうが、正統な国として使われる基準 >>120
何でそれで畿内が負けになるの?
九州説には、ときどきこういう突拍子もない考え方するやつが出てくる 当時朝鮮半島の中部ぐらいにいた朝鮮人の祖先の一つである穢族が反乱ばかり起こして楽浪郡や帯方郡は苦労してた
魏や燕は邪馬台国を大事にしてたのはよくわかるな
曹操も死後武帝を諡号されてるから皇帝とも言えるよね。
>>100
倭国の一部に過ぎない委奴国か奴国が金印を貰うくらいだからな
朝鮮の首長は銅印なのに
後の琉球王は銀印 >>124
魏志倭人伝によれば、女王国の南には狗奴国があり、女王と敵対していたという
つまり女王国の所在地は邪馬臺国連合の南端付近であると分かる
卑弥呼は魏から親魏倭王と認められたのだから、その敵対国である狗奴国は
魏との交流を持っていないと考えられる
ゆえに、邪馬臺国がどこであったかは出土品の分布を見れば一目瞭然
九州で出土した副葬品の分布地図
金銀細工や硬玉やガラス製の勾玉など、大陸産のものが
佐賀、福岡、熊本にかけて大量に出土していることが分かる
そしてそれは熊本県八代市あたりでぷっつりと途切れている
ここが邪馬臺国と狗奴国の勢力境界線である@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 陳寿の三国志は真実をついて素晴らしい史書だな
魏志高句麗伝を読めばよくわかる。
其人性凶急喜寇鈔(人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む)
うーむ見事だ
倭人伝はこう
不盜竊、少諍訟 (窃盗をせず、訴訟は少ない)
古代から綿々戸つづく日本人のは民族性を見事に表しているな
>>129
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝 普通に考えれば、魏が卑弥呼に贈った「汝好物」の「銅鏡百枚」の候補だよな
いくら皇帝用の最高級品とは言ってもしょせん鏡、戦略物資でもなんでもないから
鏡好きの忠実な家来にくれてやる、ってのはむしろありそうな話
<<<<1
封印された邪馬台国 沈黙する女王の鏡―いま大分・日田に蘇る卑弥呼の悲劇 (プレイブックス) 新書 ? 2000/11
関 裕二 (著)
千数百年の時空を越えて、一枚の鏡が目を覚ます。
しかも、これまでみたことも聞いたこともない金・銀・石英・瑪瑙で装飾された、
みごとな鉄鏡だ。それが大分県日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡で、
卑弥呼の時代に日本にもたらされた後漢王家の至宝であった疑いが強い。
それにしても、なぜ「邪馬台国論争」はこの鏡を避けてきたのだろう。
だれも口を閉ざして語ろうとしないのは腑に落ちない。
そして国立博物館に封印されてしまったのはなぜか。
こうして、迷宮入り事件の最終章がはじまったのだ。
↑おれは、久留米の祇園山が卑弥呼の墓だと思ってるが、宇佐説もバカにできない
>>128
論点ずらしは、漢委奴国王の金印の読み方どうたらは、無意味だってことでいいか? >>131
卑弥呼や難升米は漢字による表音文字だから魏志倭人伝に書かれている国名もそうかもしれないね。 >>135
「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい) >>134
箸墓は積石塚
箸墓の構造が一部明らかになった。
40年以上前に宮内庁が後円部の頂上付近を調査していた。それが今年の九月に発表されたのだ。
それによると頂部には分厚く石が轢かれ、積石塚のようであったらしい。
箸墓が倭人伝に記された倭国の墓ではなく、卑弥呼の墓でもなく、とうぜん畿内が邪馬台国の所在地ではない証拠である。
倭人伝には「土を盛りて冢となす」とあり、「石を積て封となす」と書かれた高句麗の墓によく似ている。
積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓も五世紀に築造されたと考えるのが正しいだろう。 >>136
なるほど奴佳鞮が中臣になるのか
倭人伝にはないけど那珂が中臣の中かなと思っていた 出土品の一覧はペルシャ製じゃんね
正倉院にもいっぱいあるし、普通に輸入されてたしさ
狗奴国スレでは畿内説の人はこれに手も足も出なかったけど、こちらではどうかな?
> 86 :名無しさん@1周年 :2019/09/06(金) 23:46:57.90 ID:953HWZUu0
> >>1
> 最近日本史板で見た内容とおおむね一致してるな
>
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
>
> >>141の続き
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
>
>
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>129
ただ高句麗人と今の中国人や朝鮮人はあまり関係ないんだけどな
むしろ高句麗語は当時の日本語に近かった説あるし
古代史について考えるときによくやる間違いが、今と同じ場所に同じ民族の祖先がいたと無意識に思い込んじゃうこと
日本は歴史時代以降は渡来人と現在の在日朝鮮人が来たぐらいしか移動がないけど古代の大陸の民族は入れ替わりまくりだよ
日本列島は人口が少なかった当時は略奪するほど飢えることが少なく、むしろ協力しないと生き残れない自然環境だから古代から穏和だったんだと思う >>141,142の続き
> 308 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
> 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
> 海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
>
>
> また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
>
>
> 有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
> 製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
> 狗奴国との国境は菊池川だろう
>
> 鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの 畿内が狗奴国ってのもありだな
なにせあの邪馬台国を追い詰めたのだから
>>139
ほんまや、失礼w
当時、鉄鏡と銅鏡ってどういう使い分けしてたんやろ。日常用と儀礼用、とかはありそうだけど >>143
扶余族が南下して朝鮮半島南部にいた倭人を畿内に追いやったのだろう >>144関連
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
畿内説が優勢とされる邪馬台国の所在地論争で、九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、
謎の王国「狗奴国(くなこく)」の実態に迫る学会発表を行った。
魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。 >>141
南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった
↑明快じゃん 薩摩か熊本だよ
男王卑弥弓呼 ←菊池につながるから熊本かな?
狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人?
↑いずれにせよ、この2国の北部、(女王国は)九州北部しかありえない
狗奴国が邪馬台国に勝利してヤマトに合流したのかもしれない
魏志倭人伝にも、邪馬台国との戦いの結果がかかれていない
隼人が大量に京都周辺に移住してる(させられた)
大隈隼人とか >>141関連
重要と思われるポイント
> 806 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:37:57.84 ID:PRbsOSjX0
> >>793
> >畿内説ってのは中国語読めない人たちが漢文を曲解してるだけのつまらないお話
> それな
> 畿内のアホどもが散々縋りついていた水行十日、陸行一月の記述も暴かれちゃったしw
> もう畿内説は詰んでる
>
> > 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> > 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> > 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> > これを押さえておかないと正解には辿り着かない
> >
> > 【用例】
> > 通鑑釋文辯誤卷六
> > https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> > >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> > 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> > 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
> >
> > 【嘉興府志】
> > https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> > >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> > 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> > やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> > また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 後漢書では狗奴国女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至るとある。
狗奴国は岡山から畿内ぐらいまで
>>151
広域説ってやつ?? ないない あり得ん 畿内説の学者ら みんな馬鹿ばかり 根拠が薄い
森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 >>137
>それが今年の九月に発表されたのだ。
今月? >>137
>積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
>その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓が高句麗の影響だとしたら、
>>143
>むしろ高句麗語は当時の日本語に近かった説あるし
これも含めて、あれだ、神武東征神話が高句麗の神話に似てるんだよね… とにかく卑弥呼の墓は巨大で、その頃を境にして急に巨大な古墳が大和に現れたから
普通に大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えるのが自然だけど
天孫族は海から熊野を通って畿内に入ってるし、前身が九州でも変じゃないだろうけども
卑弥呼の墓は邪馬台国にあるはずなんだよね
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
証明終わり >>152
免田式土器を狗奴国にしちゃったのが畿内説の小林行雄とは如何なものか 司馬維がクーデター失敗したときに、自分が逃げる場所として、意図的に方角を違えて魏志倭人伝に記述式した説
これを前提とすると、司馬の乗っ取りは計画的に曹叡在任中から暖めていたもの、ということになる
しかし、漢委奴国王の金印が日本に残ってたってことは、印をもらった国は滅びちゃったのかね?
国が残っていれば、漢が滅びたあとは後継国に朝貢したくなるわけで、古い印を返却して現行王朝の印をもらおうとするだろうし
>>155
自分は巨大な古墳がある場所は、他所者がトップに立った地域と感じる
デカい古墳を作らせて地元民の経済力を削ぐ
倭国大乱のトヨ以降に中国への朝貢が途絶えているのは、各地でトップ層が入れ替わり、
朝貢どころではないが、地元民を抑え込むためには巨大古墳を作らせる
どうかなこれ >>144,148
そういう複数の考古学資料がだいたい同じ分布になってるのを見ると>>141は大凡あってるんだろうな >>160
卑弥呼の墓が大きいそうですが、余所者なの? >>82
逆なんじゃね?
当時は九州のほうが発展してて、畿内こそ地方政権だったんじゃないの? >>159
後漢に使者を送った伊都国もしくは奴国ほぼ滅びちゃってるように思う。
倭人伝で伊都国奴国の王は存在感がない。
一大卒ばかりが目立つ >>160 地元民の経済力を削ぐ
いい線いってるよ
あれだけ畿内一帯から出てくる銅鐸が全く魏志倭人伝の邪馬台国や倭国の国々に関しての記述に出て来ない
それどころか記紀にさえ出て来ない
断言するけど、人間狩りが得意な九州勢力(のちの大和朝廷)が
先住民(銅鐸族?)を使役してつくったのが あの壮大な古墳群だよ
だから銅鐸発掘地と巨大古墳は微妙に近い場所にある
彼らは濠の中に住まわされてた
古墳の外周の濠を掘り返すと
かわらけ、生活雑器がでてくる
たしか箸墓の濠からも出てきてたはず
↑九州勢力=邪馬台国ではない >>162
別に巨大なんて記述はないよ
魏書東夷伝は韓伝と倭人伝だけは短里で書かれているから径百歩は大したことない(1里=300歩) >>160
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>156
東遷が起きたのは四世紀か
空白の四世紀とか呼ばれてる時代だね 邪馬台国は日田だったのか
そういえば箸墓は5世紀だから邪馬台国の訳がない
>>150
向こうのスレでは>>141ばかり話題になってたけど、本当に大事なのはこっちだよね
そこを押さえているかどうかで全く経路が変わってしまう 久しぶりにロマンに浸れて楽しかった。
あとは弟子ちゃん サボちゃんに任せた!
>>16 172
仁徳天皇は16代
神武天皇は初代
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は
街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる 邪馬台国=奈良説を主張し続けてる桜井市どうすんのこれ
>>141
祇園山古墳って日本で唯一大規模な副葬が見つかってるんだっけ
奴婢を百人も殉葬したという卑弥呼の墓は普通に考えればそこってことになるよね >>128
古代はピアス、刺青、肉食バリバリだよな。
刺青嫌うのは中国文化が起源だろう なぜ九州にって邪馬台国が九州にあったからだよ
何をいまさら
神話が正しくて九州が当時栄えてたんだろ大和朝廷がどこにてきたかとは別にして
菊池あたりに古墳多すぎだし
>>177
なんだそんなのがあるのか
卑弥呼に決まりだな
ぜんぜん知らなかったぞ >>1は>>133のことなのか?
知ってる人は本にしてるんだな、こんなん全く知らなかった
つか国立博物館って?? 祇園山古墳の南の方に岩戸山古墳があるけど、岩戸山という山はない?
何でそう呼ばれている?
>>177
>祇園山古墳
なるほど。磐井はここに陣を敷いたのか、、、
時代が違っても地理は大体同じだから、卑弥呼の時代も陣を敷くのに適した場所だったはず >>156
大和の支配下にはいったってことなんじゃない?
大和の支配下に入る=税という形でそれぞれの地域の特産品を都である奈良に運ぶ
北九州の鉄器の出土年数が確かなら、その特産品を大和に納めるようになった、ということなのでは?
九州=熊襲、が大和に負けて勢力下に入った時期がその頃、というだけの話にも思える
関東・東北=蝦夷、が坂上田村麻呂による東征を受けるのはもう少し後 >>137
5世紀頃の古墳の石室の寸法は高麗尺使ってるからね
埋葬者とは限らないが
高麗人の職人など関わりが深い >>190
鉄器だけならそれでもどうにか説明がつくかもしれないけど、大和朝廷のメンバーを見ると主従は逆みたいなんだよね
九州出自の氏族が連姓=天皇の譜代の配下とされて、畿内などの地域豪族は臣姓=外様の共立者になってる
なにより倭国造の一族が九州の氏族というのがポイントだと思う
畿内政権が元々地元の勢力なら、大和地方の為政者をよそ者の九州人には任せないでしょ
> 300 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 17:41:24.27 ID:yjDSp0sY0
> >>282
> そうかも知れないけど、個人的には違うと思ってる
> 畿内の土着勢力は滅ぼされたと言うよりは九州から来た支配者(のちの皇室)を共立する形で臣従したと思う
> そしてそれが現れているのが氏姓制度だと思う
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)だけど、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/氏-34455
> >日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> >臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> >神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> >すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> >実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征に付き従った元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となるわけ
> 逆に臣姓となった豪族の中に畿内の土着勢力がいると思う
>
> 名目上の地位は臣の方が高いことになっている、それは共立以前は皇室と並ぶ立場の王だったから
> でも、天皇がより頼みとしたのは昔からの家臣である連
> 上記引用で比されている江戸時代でも、外様の加賀藩なんかはどの譜代大名よりも石高は高かったけれど、
> 高位の幕閣には譜代大名しかなれなかったわけで将軍が本当に頼みとしたのは譜代大名だった >>192のつづき
> 342 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 18:29:00.83 ID:yjDSp0sY0
> >>321
> >>300のとおり、オオミワはもともと筑後山門にあった地名
>
> 大倭氏の祖である宇豆毘古は尾張氏と同族で、安曇氏と同祖氏族になる
> だから尾張氏も連姓だし、倭氏で出世した人も連姓になった
>
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国造
> >倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> >天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> >一般に綿積豊玉彦の孫とされ、神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる、海人族の一族。 >>192
ふーん、ほんじゃ熊襲ってどこの地方のことになるの?
大和=東海・近畿あたり
熊襲=九州
蝦夷=東北
みたいなイメージだったんだけど
それに九州て阿蘇山噴火で絶滅してなかったか? ぎしわじんでん普通に読んだらやまたいこくは大分あたりやろなぁと思うだろ普通に
『泥棒家族』って、よくタイトルに市民団体からイチャモン入れられなかったな
今度は『泥棒部落』を上映してくれよ
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた証拠であり
九州に邪馬台国はなかった証拠でもあるね
>>196
うん、最後の方角だけが妙に解せないから>>158
司馬維がクーデター失敗したときに、自分が逃げる場所として、意図的に方角を違えて魏志倭人伝に記述式した説
これを前提とすると、司馬の乗っ取りは計画的に曹叡在任中から暖めていたもの、ということになる
と推理したんだが
死せる孔明、生ける仲達を走らす
死せる仲達、現代日本人を惑わせる
歴史ロマンだよ >>137
古代日本は、4〜5世紀あたりに高句麗の勢力に侵略されたのかね? 240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時
九州は、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だった証拠
だね
九州に邪馬台国はなかったことが確定した
>>1
象嵌
記事の説明を追加
象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味がある。象嵌本来の意味は、一つの素材に異質の素材を嵌め込むと言う意味で金工象嵌、木工象嵌、陶象嵌等がある。その中の金工象嵌は、シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わったとされる。 240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時
九州にあったのは、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だった
証拠
だね
九州に邪馬台国はなかったことが確定した
卑弥呼なのかな。
奈良時代にササン朝ペルシアの王族が日本に来たって話があるから、そっちかもしれない。
日田どんこと豊後大蔵氏は阿智王劉照の末裔と言われてる
てことは霊帝の血筋なんだよな
いろいろつながってる
http://michi01.com/magosaki/233kgy26660801.html
日本書紀
六五四年(孝徳天皇の白雉五年)夏四月、吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たりき。
六五七年(斉明天皇の三年)秋七月、都貨邏國の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊てき。言さく、「臣等、はじめ海見の嶋に漂ひ泊れり」とまをしき。すなはちはゆまを以ちて召しき。
辛丑の日、須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の會を設けき。暮、覩貨邏人を饗へたまひき。或る本にいはく、堕羅人なりといへり。
六五九年(斉明五年)三月、丁亥の日、吐火羅人、妻の舎衛婦人と共に来り。
六六〇年(斉明六年)七月、また覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、「願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす」と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき。
六七六年(天武天皇の四年)春正月、丙午の朔、大學寮の諸學生、陰陽寮、外藥寮、及び舎衛の女、堕羅の女、百済の王善光、新羅の仕丁等、藥と珍異等物を捧げて進りき。
大夏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%8F 中国共産党は
魏志倭人伝を根拠にして
1800年ほど前には現在の日本列島は
中国領土になっており、以後1800年ほど日本を名乗る連中が
不法占拠していて、これに伴う罰として
日本人を必ず絶滅しなければならない
としている
邪馬台国や卑弥呼の話は、日本では
中国共産党がこの主張をしはじめた頃の呼応して
急に出てきた話になっている
魏志倭人伝に出てくる日本の国々はほぼすべて九州なのに、
中国地方にあった出雲や吉備をすっ飛ばして邪馬台国だけ畿内なんて
記載としておかしいやろ
>>2
簡単に盗まれるとか、中国人って間抜けなんだな。 >>209
使者は九州までしか行ってないからな
九州の馬鹿はほとんどこれ >>209
邪馬台国の北(畿内説だと西)の国は全部記録されてるはずだからねえ。 大分県日田の日高の工事現場から出土だっけ?
梅なんちゃらってやつが少し胡散臭いやつだったからずっと黙殺されてた鉄の鏡
そもそも大した鏡でも無いんだろ。支那より日本の歴史のが古いから、シュメール人とかエジプトなんかで鏡の製造法が出来て
それが海経由で日本に入ってただろうし。日本は太陽、太陽の光を反射する鏡が三種の神器に入ってるし
基本的に支那は属国ってて意味だろ。
>>211
伊都国までしか行ってないならそこから先はすべて伝聞
距離も戸数もまったくデタラメかもしれない。
邪馬台国をとんでもなく遠くで大都市のようにウソをいって
自分たちがいかに大きな国かをアピールしたんだろう >>20
チョンみたいなこと言い出すなよ九州のカッぺ
恥を知れ 阿蘇に行きその風景をみれば
ヤマタイの意味がわかる
山の台地に囲まれた自然の常識
狗奴は南阿蘇
古代都市国家は
広大なきちんと整備
区画された田んぼが基本だぜ
国造神社もある阿蘇を山から眺めればよくわかる
いきなり畿内にあるわけねえだろ
トヨタの工場に手りゅう弾を投げ込む住民の熱さを考えれば、邪馬台国の九州説はほぼ確定。
大分県日田はむかしむかしからヒタ
日田の盆地に水が張り
それが引いたからヒタだとさ
馬鹿すぎて受ける
卑弥呼の田
卑田
卑弥呼が生まれた土地
>>1
曹操って遺言で自分が死んでも喪に服すな自分の葬儀は簡素なものにしろって言ってたから牝ジャップの鏡も簡素な品なんだろうよ 卑弥呼
日を観る巫女
火を観る巫女
火を使って預言したシャーマン
火が簡単につくれる、
火山の存在が必須だぜ
阿蘇の火をみて予知
九州の地下アイドルがメジャーデビューで畿内に行ったんだろ
ちなみに「日向」という地名(旧国名以外)は日田市に多く残っているとか。
その「日向」は「ひむか」つまり「卑弥呼」が居た場所を指している。
>>224
火なんて旧石器時代から簡単に点けてたんだけど 卑弥呼
あまねく卑しいと呼ぶ
倭猿の酋長になんと相応しい名かwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
日田の隣の福岡朝倉も卑弥呼の里と主張
そりゃそうだ
特殊な能力があった卑弥呼が外に出て
勢力を作った土地
阿蘇なみのきちんと整備区画された土地
そこから抗争で阿蘇へ
四方を山に囲まれた日田と同じ阿蘇へ
実際は卑弥呼のいた日田市から「天孫降臨」して「(葦原の)中津(国)」へと移動したので
そこが「豊(トヨ)国」と呼ばれるようになったわけだ。そうして卑弥呼の墓もその近く(宇佐)に
作られたと。
いや、やっぱりこの話は良く出来てるなあ
大分はむかしからオオイタ
この世あの世をつなぐシャーマン
イタコ、イタの巫女
むかしむかしから
いまだに硫黄臭が全体にただよう別府は別の府
むかしの人間からすりゃ地獄の入り口
むこうは死国
大分県国東半島
国東はクニサキ、つまりクニの東の端
鹿児島じゃなくなぜか宮崎に日南
われわれと方向感覚が違う
リンクさせりゃクニ
国見の知名も当たり前
日の巫女。神社に仕える巫女
特別な存在じゃ無いだろ… 豪族や地方の集落がそこら辺にも有りましたよ程度
日本の歴史は2600年は超えてる世界一歴史のある国だぞ。支那とか何度滅んでるんだよ
阿蘇噴火、避難
福岡側には別の族がいるから大分側へ
別の府はこわいからひたすら北上
宇佐で紛争
敵の慰霊に神社
下関から中国へ
>>233
「日南」は単に「日向」の南だからそう名付けられた 出雲で紛争
貴重だったはずの鉄が
武器や大量生産に遭遇
もってきたものを大量に破棄
>>35
どっちかというと、漢倭奴国王絡みかもしれないな
後の戦乱で奴国が制圧されて、旧王家の至宝は流出
最終的には出所も忘れられ、所有者は馬の骨に 天草ー阿蘇ー宮崎高千穂にリンクする
淡路ー畿内ー三重伊勢
ヤマタイの正式な継承者
特殊な能力をもった卑弥呼の継承者
大分中津には耶馬溪がある
耶馬が通った渓谷
阿蘇
耶蘇教
邪馬台
耶馬溪
出土ってよく聞くけどそんな最高級品がなんで土に埋まってるの?
長屋王邸とかも、噴火で街が埋まったとかならわかるけど
大分県日田には
ちいさな目立たない会所山神社がある
会所山と書いてヨソヤマ
この世とあの世が会う所はヨソ
卑弥呼関連かもな
大分県日田の月出山岳
月出山とかいてカントウ
関東地方じゃねえぞ
東側の関
何をいまさら
そもそも金印が発見されたのが大分県だろ
>>217
隋書では奈良まで行ってここが魏志倭人伝の邪馬台国ですと書いてあるからな
九州なんか最初からウンコ >>1
鏡なら卑弥呼が魏と交流していた景初三年や正始元年の魏の年号が入ってる
三角縁神獣鏡が畿内で見つかっている
終了 いま国の場所が確定してるのはどこ?
マツラ国と金印発掘されたクナ国くらい?
>>249
マツラ国も九州。今でも地名や川の名前として残る 戦前戦中に中国の骨董が多く日本人よって買われたからな
出土はニセ情報で、中国見上げだと思うよ
魏に朝貢した記録があるのだから
その時貰ったのでは?
>>192
>なにより倭国造の一族が九州の氏族というのがポイントだと思う
>畿内政権が元々地元の勢力なら、大和地方の為政者をよそ者の九州人には任せないでしょ
なるほど道理だのう
やはり邪馬台国は九州にあって魏志倭人伝ののちに畿内に遷都したのか おいおい、これスゲーわ。邪馬台国は九州で決定的じゃん。三国志を知ってる小学生でもわかる話。
日本の鏡は出所不明なのか?
では盗掘品流れを疑った方が早いな
くぐったら益々凄いわ。曹操と酷似した鏡かよ! 中国の学者からアピールがあったんだと!
こりゃ決まりだな。邪馬台国は九州で間違いないわ。
>>250
今回のはそんな数百枚見つかった鏡ではなく、
大陸でも皇帝クラスしか持てないという金銀装飾を施した鏡で世界にも数枚しか残っていないもの
それより付着物や使用されている鉱物などの科学的分析である程度辿れると思うのだが すべての古墳を発掘していいよ
と皇族が言えば解決しそう
>>259
魏の書類とかに残ってそうだけどな
そのレベルなら でも、古美術商が大分の鉄道工事現場から出土したと言ってるだけでしょ?それを考古学者が買ったと。
しかも出土地を調べてもごく一般的な馬具とかが出ただけだったっていう
そんな凄い鏡を持つような人が埋葬されてるような古墳とは思えないっていう
>>230
古代は有明海の海路で繋がってた。
今は筑後干拓で分断されてる。 >>265
美術的あるいは中国銅鏡研究上の価値はあっても、考古学的(歴史学的)な史料としては扱えないからね
どこから出たなどの伝聞は、最近中国で売られていた三角縁神獣鏡と同様に何の意味もないな >>259
国内ではこれしか出ていないという貴重な物なのにね。
出土場所も付着物からある程度絞れる、にも賛成。 畿内お得意のご都合ゴッドハンドと違って、
元々出てた鏡だろう。後からアクションを起こしたのは中国じゃん。
これは決定的だよ。邪馬台国確定だろう。
畿内説論者は徒労でしたな。お疲れ。青春を返せってかw
>>65
金印に使った形跡がないから、もらった人間が後生大事にしまっていたと考えるのが自然 >>272
かなりの熟女好きだね。80歳ぐらいかな 旧石器時代捏造事件を思い出せ。
畿内説とは、
魏志倭人伝の南は方角を間違えて記述されている
という仮説の上に積み上げられた想像群の総称です。
これを史実と主張する行為が歴史捏造事件だと言われても仕方のないことだ。
論理的事実は「畿内説は空想」だということです。
>>87
鏡の種類に触れてはないがテイキョウが鏡を持ってきたと倭人伝に書いてあるのか。
皇帝から100枚の銅鏡は後のチョウセイの時だっけ?
チョウセイが来たのは卑弥呼死去の前後だけど、
倭人伝は卑弥呼死後に内戦で犠牲者多数、トヨが王位について治ったで完結してる。
それ以降も中国人は邪馬台国に行ってて本国に報告しているの確実だね。 ネット見ると、出土したとされるときの状況についてガセネタが広まってるし
購入経緯についても、ガセネタっぽいのがが書かれてる
>>25なんかがそれ 邪馬台国畿内説は完全に崩壊したね。
ただし、大和朝廷なのはたしかなんだからそっちの研究で頑張ってよ。
さて、日田1択なのか流れついたのかを考察すべきだね。
>>237
荒神谷遺跡の鉄拳や銅鐸の大量出土を
出雲の国譲りは史実(要するに武装解除した)でまさにその場所だった、とする本も見たことあるな。 邪馬台国とかよく解らないから聞いてきたけど
倭人伝の記述通り旅すると、琉球か台湾だってさ
福建の真東で、更に東に国があったって言うなら「台湾」だなだってさ
ググってみたら卑南族とかの古墳があった、卑南族の巫女「卑弥呼」でいいんじゃない
刺青はアイヌが有名だし、大義の縄文人なんじゃまいか?
>>278
いんや、崩壊したのは九州説
金印と鏡という動かぬ証拠により
240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時、九州にあったのは、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だったことが確定した これは学者がすごいモノだと気付いて古物商から買ったものだが
由来がはっきりしないうちの適当な情報からいろいろぶち上げてしまって
よくよく調べてみると盗掘三昧の中国から普通に持ち込まれたものだと分かったけど
話が大きくなってしまいそのことを言い出せないまま亡くなられたという話です
科学的な物的証拠がここまで揃っているんだから「邪馬台国」は九州にあったと結論着けていいだろう
ただし、何らかの理由で九州から遙か遠い畿内に権力が委譲され奈良の地方豪族から「天皇」が生まれた
その九州から畿内への権力委譲を象徴的に架空の人物を使い「神武東征」と歴史書には残した訳だ
狗奴国との戦争に加担した見返りにもらったか、
大事な物を隠し保管しとくための邪馬台国の隠れ里的な存在だったかちゃう?
出土状況が怪しいというか、まったく確認が取れてないからな
1933年、ダンワラ古墳で何かが出た
1960年、古美術商から鉄鏡を購入した
2つを同一のものと判断する根拠がないというか、専門家は否定的
発掘に携わった関係者が、当時ダンワラ古墳で出土したモノを須恵器に入れたと述べている
これは鉄鏡と大きさが異なるということで、高島さんもダンワラ出土に否定的
実際どこで出土したかはまったく不明ということだろう
>>281
今までお疲れ様でした。畿内学かなんかしらんけど、あっちに行けw 卑弥呼の邪馬台国が九州だとして、金印や皇帝の鏡など沢山出てきて栄華を誇るハズの九州ではなく、
3世紀の古墳時代には一転して巨大古墳が畿内から出てくる
日本の先進地域は九州であったが、田舎の畿内に飲み込まれたんだろうな
畿内の方が人口が多いとかで
金印と鏡という動かぬ証拠により
240年に、邪馬台国が魏(220年 - 265年)から「親魏倭王」に任じられた時に、九州にあったのは、
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられた【倭奴国】だったことが確定した
邪馬台国は九州には無かったんだねぇ
>>283
邪馬台国と冠が付くと税金を使う大義名分ができるとかあるから、
白熱した論争を続けて欲しいんやろ。
九州は地方税をもっと地元の大学につぎ込んで、いろいろ調べるべきやな。 邪馬台国の場所については親魏倭王の金印が出土すれば一発なんだが、
魏の滅亡後に晋に朝貢した記録があるから、普通に考えれば返却しちゃってるだろうしな…
>>288
鏡に付着してた土を調べたとかいう話じゃなかったっけ? そういえば、旧日本軍が戦争中、中国から強奪してきたという推測も前にどこかで見た
さすがそれはないだろう
錆を落とす前は、ただの鉄のかたまり
お宝だなんてわからなかったのだから、鉄のかたまりを持ち帰るとはとても思えない
マジレスすると、三国時代にはかなり多くの人が日本に逃げてきてるから位の高い人間が九州の山中に逃げてきてても不思議ではない
糸島だけでなく宇佐と並び豊前で重視された香春神社も渡来系氏族が祭神だし、魏に滅ぼされた公孫氏は一族の神社が畿内に残ってる
ここ数十年、畿内説を提唱する学者達は纒向遺跡を根拠とし、何かとお袈裟に持ち上げてきたが、
現時点においても科学的に認めることが出来るのは
「3世紀の九州と畿内は疎遠だった」
という事実だけ。
畿内説は公金横領が目的じゃないのか?などと罵られるのも当然だ。
見ず知らずの女性にいきなり卑弥呼様ァァって土下座してひれ伏すのたのしすぎワロタ
>>82
大陸側から見たら倭国ほぼイコール九州とその周辺って感覚だけど
弥生後期各地に国ができてたのは定説だよね。 >>291
九州に一つの国しかないと仮定するとそうなるのかな? >>294
ソースある?
1962年に錆を落としたとしき、そんな技術はなかったはずだし
当時の土を現在まで保存してたとはとても思えない だから俺がずっと言ってるだろ
卑弥呼は伊都国生まれの伊都国のお姫様
その当時の倭は争いが耐えなかった
卑弥呼は鬼道(アイドル活動)にあつく
次第にその名声は他国にも響くようになり
争ってた国々も共同で卑弥呼の国邪馬台国(ファンクラブ)をつくった
邪馬台国(ファンクラブ兼事務所)の卑弥呼の鬼道(アイドル活動)は
とても人気で邪馬台国加盟国ツアーを開催
次第に常設劇場が欲しいねという話になり奈良に卑弥呼常設劇場が誕生
中国の史書の記述があーなのはアイドル活動を理解できないから女王とし
鬼道ツアーをやってたから邪馬台国の場所もああいう感じに書かれた
>>283
鉄拳や鏡や古墳の件からしても三世紀まつから四世紀にかけて九州から畿内への変動があり、
考古学的にも神武東征(九州勢力の畿内進出)は史実なんだとね。
しかも応神天皇系の皇后は日向出身が多い(大和土着の葛城氏と並ぶ)とか。 >>301
九州に一つの国しかないもなにも
日本の記紀では
九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)の「海神国」(倭奴国・狗奴国)
出雲は、素戔烏尊の「葦原中国」
奈良は、天照大神尊の「大和国」(邪馬台) >>305
日本の記紀では九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)の「海神国」
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)が生まれ
伊弉諾尊からまず
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が生まれた
その天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていたのが筑紫城
・・つまり
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」の印をもらった倭奴国
その後
天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
素戔烏尊(すさのおのみこと)
が生まれて
伊弉諾尊から
天照大神尊は、高天原(畿内)を統治せよと言われ
月読命は、伊邪那美命の根之国(出雲)を統治せよと言われ
素戔烏尊は、豊玉彦の筑紫城(九州)を引き継げと言われた 北部九州は大陸との玄関口で渡来系氏族が多くやってきたから、弥生中期ごろは農業生産能力も最先端だったんだよ
だから人口爆発で農地が足りなくなり、各地に人が分散せざるを得ないことになった
高地性集落が中国地方→畿内と遷移し、戦乱の痕跡があるのもこの頃からの話
倭国は古の倭奴国なり。<旧唐書、倭国伝>
筑紫に三十二代いて神武のときに大和州に移った。
日本国は倭国の別種なり。<旧唐書、日本伝>
或は曰く、「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す」と。或は云わく「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
又云わく「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と。
日本は昔は小国(筑紫)だったが、倭国を併合して大きくなっている。
倭奴国や倭国と呼ばれることが不満なので日本と名乗ることにした。
実家である倭奴国も存続しているから、これとは別種である。
>>307
なるほど
成分を調べたわけではないのか 記紀とか小説はどうでもよくて、やはり物的証拠でしょ
いわゆる動かぬ証拠ってやつ
卑弥呼の時代と古墳時代
なぜ九州の権力が畿内に奪われたのか
九州は外国に近くて危ないから引っ越したのかな?
四世紀半も経て編纂された古事記と日本書記で
熱心に卑弥呼の時代を語ろうとしてる奴いて笑うわw
盗品としても大分じゃあ秦一族か卑弥呼一派と考えていい話だよな。しかし記紀程いい加減な書物はないな!何故もっとちゃんとしたものを書かんのかねえ。大体記されてる戦い方も騙して皆ごろしにして喜んでる連中だからな
>>304
応神天皇系の皇后は日向出身が多いってのが本当なら、
嫁とることを条件に熊襲に暴れてもらうよう手配してもらった可能性が十分考えられるな。 >>1
> 大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、
数日前の朝日新聞に続きが載ってた
発見されたとされる墓の発掘も行ったが、他の出土品は平凡なものばかり
鏡の本当の発見場所は別ではないか? てのが専門家の大勢意見みたいよ そもそも日田から出たのか分からないのか
下手したら日本からの出土でもないかもしれんしな。これはちょっと
元々はこんな鉄錆の塊
錆を取るとこう
オレの知ってる鏡ではない
複雑すぎる紋様
土器とかも胎土分析で、どの地域の胎土を使ってたかわかるようになってきたけど
当時の知見では、科学技術がこんなに進歩するとは予想できなかったから仕方がないな
戦前とは言え、まともな調査ならろくに調べず古美術商に売り渡すとかある訳ないしな
盗掘となると元は中国の可能性も充分あるしな
>>316
なるほどなあ
金印もそうだが出土が曖昧な物はモノ自体に価値はあっても歴史的資料にはなり得ないね >>308 つづき
んが素戔烏尊は「豊玉彦はおっかねぇから引き継ぐのは無理」っつって断ったため、
素戔烏尊は伊弉諾尊から勘当されて
奈良の天照大神尊の「高天原」に立ち寄って、そこも追い出されて
出雲にたどり着き国を造った
そこに大国主がやってきて、素戔烏尊の娘と結婚し、出雲の第八代主王となり、出雲を「葦原中国」という大国にした
そしたらそこに奈良の天照大神尊の「高天原」から使者がやってきて
大国主は、天照大神尊の高天原(畿内)に「葦原中国」を国譲りして
そこに天照大神尊の養子となった素戔烏尊の長男の子・・つまり
天照大神尊の孫の天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が派遣され
その出雲に派遣された天照大神尊の孫の天彌聞尊の子の【山幸彦】が、兄の海幸彦から出雲を追い出されて
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていた筑紫城・・つまり
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」の印をもらった【九州の倭奴国に天孫降臨する】わけだ サビまくった鉄の塊の状態の物
というのが最初の状態で
そんなの見てもも貴重なものとは思わないわけで
伝日田出土
というのは、意図的にうそをつくようなものではないと思うな
そうかもね。
ちなみに劉備、チンギスハン、ナポレオンは日本人だから
>>321
奴国の金印は価値高いのに何を言う。
後漢の光武帝が倭国に金印を授けたと言うのが明記されてるのに。 高千穂に天孫降臨なんて伝説加えるぐらいだからな
元は九州なんだろな
高千穂付近に降臨だと朝鮮半島よりは中国から島伝いで来た感あるよね
>>316
それって発掘当時の話?
昭和初期の鉄道建設の時に出土したとされる古墳は取り壊されて今は現存しないから。 >>324
古美術商は嘘をつかないと思い込む純粋さいいね >>326
金印のモノ自体に価値はある
出土が不明だと別の事柄の証拠にするには難しい >>210
よう間抜け なんだそのくだらない思考は >>327
個人的には反対の解釈だね、。
熊本側から峠を越えて来たとかの表現だと思っている。 >>171
里の実際の長さによっても結論変わるしなあ
仮に「または」の例がそれだとしても、他に「連続」の用例がないということまでは言ってないし >>332
出土の経緯は怪しくとも後世のレプリカじゃないと分かってるんだから
それ以外に何がある、とならないかな? >>331
嘘をつく必要があるのかな?
ただサビてるだけのみすぼらしい塊の出土地を偽る意味とは? >>313
編纂されたのが何世紀か後でも、説話が作られたのは数代後くらいじゃないの? 関西の古墳は発掘調査をしていないだけ、発掘調査をしたら九州の何百倍優れた
出土品がざくざく出て来るよ
>>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦で、その山幸彦の孫が神武です >>322 ラピュタみたいなもの。みんなの頭の中にどこででも存在する。
記紀解釈は混乱の極みだねw
それこそが朝廷の狙いだったのだろう
古美術商に売り渡したやつが盗難経路を誤魔化すために嘘の発掘地を教えた可能性はあるのでは
>>339
古美術商が30年前のことを知っていたと考えてるのか >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦で、
その山幸彦の孫が、出雲・奈良と東征した神武
です >>322 食い散らかした大量の桃の種を見て喜ぶ畿内説派からしたら、曹操の鏡なんてゴミみたいなもんなんだろうな。
>>327
元は九州だよ
ただ、それが畿内に引っ越した部分が謎
三種の神器を重視する文化が弥生末期に畿内に移動してる >>345
最初の発見者が最近まで生きてたので(亡くなってるかは定かではないが)記録がそれなりに残ってるようなので
全くのデタラメとは言えないと思うわ >>327
残念
高千穂に降臨した天孫は、出雲を追い出された山幸彦で、
その山幸彦の孫が、出雲・奈良 を 東征した神武
です >>322 >>346
古美術商が知っている必要はないだろ
伝日田出土と言われてるのをそのままにしとくだけだろうが そもそも売り渡した奴も別の誰かから手に入れただけで発掘地など知らず適当に言った
可能性もあるしな。中韓の盗掘品で大陸の戦争時のどさくさで手に入れたようなものなら
元が何処かなんて誰も分からないだろう
>>355
詳しいことは知らんが
発見者が日田だと言ってるのならそれほど間違いはないだろう 発見者がどういう経緯で鉄の塊を手放したのかがよくわからない
数年前にさらっと読んだ記憶があるだけなので
もっと詳しい人に教えてほしい
>>293
言われてみればそうだが、晋から新しい印綬貰った記録ってあったっけ >>352
古美術商は、日田出土ということだけは知ってただと?
それを鵜呑みにできる純粋さはおれにはもうない 久大線の工事の時に古墳が見つかる
その古墳の出土品に件の鉄鏡が含まれていた
発見者の渡辺音吉は、その古墳があった場所の土地所有者
工事の時に出土品を回収する許可はもらってたので回収する
どういう経緯で鉄鏡を手放したのかは知らない
奈良の古美術商から京大教授が購入する
さび落としをすると装飾がすごくて大発見となった
京大教授が出土地を調査する
発見者の渡辺に繋がり、出土場所の調査を行う
>>354
九州の出土品は、57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨した倭奴国のものだから
そりゃあ金印も出るし、皇帝が持ってるレベルの鏡も出る
240年に「親魏倭王」になってから、たかだか40年かそこらで大和政権に変わってしまった邪馬台国からは、んなもん出ない >>360
美術品なら謂れも記録するのは常識じゃないか?
お前は純粋さだけじゃなくて常識もないんだよ >>332
今回の鉄鏡の場合は盗難にあって不連続な時間があるが、金印にはどんな疑いがあるの? >>361
>その古墳の出土品に件の鉄鏡が含まれていた
この時点では、鉄鏡かどうかさえわからなかった
錆びた鉄のかたまり >>354
九州の出土品は、57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨した倭奴国のものだから
そりゃあ金印も出るし、皇帝が持ってるレベルの鏡も出る
240年に「親魏倭王」になってから、たかだか40年かそこらで大和政権に変わってしまった邪馬台国からは、んなもん出るわけがない
桃のタネで精一杯 >>365
それでいいと思うよ
鉄の塊が含まれていた
その鉄の塊が出土したことを渡辺は覚えていたという程度の話だろう >>364
あぁ、
渡辺氏が近所の学校に寄贈しててそれが盗まれたという事だったのかな? >>334
阿蘇山辺りから来たのかなと僕も思ったけど、
その前は熊本平野から来たのか、
ひょっとすると日田辺りから来たのかが気になったことがあったな。 >>8
死後即曹丕は皇帝に、曹操は太祖武帝とされたんだから墓は皇帝格で作られてるんじゃないかな 日田か、また山が深い所でしょう。卑弥呼は温泉が好きだったかもしれんねwww
曹操の時代って事は大体倭国大乱の頃
とはいっても、戦乱は九州よりも中国近畿地方がメインだったように見えるが
宇佐八幡に残る伝承では、宇佐と阿蘇と高千穂の神三兄弟が合議した結果、宇佐が都(畿内)に行くことになったとか
>>378
土をこねて焼いた物体の謂れですらいくらでもあるだろ
常識だぞ 鉄の矢じりとか戦闘に使う鉄製品の出土率みたら九州しかないよ
畿内なんて少ししか出た無いんだから
まあ邪馬台国事態はもう都市部の下に埋もれて出てこない可能性もあるから文明が無くなって掘り起こさないと解らないかもね
戦闘で鉄製品が使えるって貿易してた拠点くらいだよね
当時の畿内では一般人は石器か木製品くらいしか使う経済力しかないよ
あと桃の種
日田から南に伸びてる支流は阿蘇の外輪山付近まであるみたいだしな。
>>370
そもそもだ、北部九州は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国
邪馬台国が九州にあったのなら、邪馬台国は南部九州
南邪馬台国は糸島も、壱岐も、使えません 宮崎を「日向」と名付けたのは、景行天皇が九州へ行った時と古事記に書いてある。
では本当の日向はどこか。
九州で、「日向」とつく地名の一覧
宮崎県には、延岡と日向市の2ヶ所しかない。
ほとんどが九州北部に集中している。
「日向」とはその名の通り、日に向かった所。これらの中心に日があると考えると、
それらを線で結ぶと大分県の日田が浮かび上がる。
さらに日田は、宇佐・中津と隣接し、近くには耶馬溪もある。
耶馬溪は江戸時代につけられた名前だが、もともと山国(やまくに)と呼ばれていた場所。頼山陽がそれに「耶馬」とあてたものだ。
日向は古くは、「ヒムカ」と読んでいた。これを卑弥呼と関連づける人もいる。
また宇佐神宮は神道のルーツとも言われ、卑弥呼の墓説まであるところ。
道鏡事件のときも、天皇家の大事を、アマテラスのいる伊勢神宮ではなく
この宇佐神宮にお伺いをたてている。
そして中津だが、天孫が降臨した豊葦原(とよあしはら)の中ツ国(なかつくに)こそ、
この豊前の中津ではないかという説もある。 >>382
その理屈がよくわからんなぁ
奴国が福岡あたりに存在してたとして
そこを通過できないのはなぜ? >>383
日本の記紀では
九州は、綿津見大神(神武の曽祖父)が造った「海神国」(倭奴国・狗奴国)
出雲は、素戔烏尊が造った「葦原中国」
奈良は、天照大神尊が造った「大和国」(邪馬台)
だっつーの、朝鮮人 これで、やっと、大団円か
長かったけど、まあ大長編の喜劇映画だったよなw
京大の奴らも大変な業を背負ったもんだw
明治の頃、先輩が畿内説をとなえばかりにお
明治以降、次々と発掘される圧倒的な考古学的証拠の前に意気消沈
ただ、後には引けない 三角縁神獣鏡の発掘で大喜びして反撃
ただ、その後、三角縁神獣鏡は国内で続々と発掘w
成分分析の結果も国内で製造と判明
一方、吉野ケ里の発掘もあった
再び、意気消沈 ただ、後には引けない
纏向発掘と年代測定を100年早める詭法で再び反撃
一方、京大が押さえているているマスコミ考古学記者をつかって国民大洗脳作戦
「卑弥呼の墓発見!」とか「桃の実が発見!!」とかw
ただ、纏向は掘れば掘るほど邪馬台国とは別の姿
そして、ついに5世紀の馬具wが発見
そして今回、正真正銘の曹操の鏡が九州で発見
それも、筑後平野からトヨの国大分に抜ける途中の日田で
まさしく、東遷説どおり
ただ、これまでの経緯を見てると京大の奴らは、何せ、生活がかかっているから
九州の発掘物を夜間に纏向の埋めることすらやりかねない
なぜ九州に? の?は要らんだろう。なぜ?を付けるのか?九州だからあるのは
当然と考えるのが本当に考古学を研究している者のありかただ。
>>384
南部九州の邪馬台国が
お前らに変わって倭王になるために魏に朝貢するから
おまえの糸島や、壱岐を使わせろ
っつって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国が
どうぞどうぞと使わせるか?
邪馬台国が九州にあったのなら
邪馬台国は糸島も、壱岐も、使えません >>389
EUの中のドイツとフランスみたいな関係だったんじゃね?
なんか、お前の中の前提がよくわからない
糸島や壱岐は
伊都国や一支国だろ
奴国ではない
そもそも邪馬台国の時代に
「漢委奴国王」は君臨してたのか? >>385
日本の記紀では
九州は生まれたときに4つの顔があった
筑紫の国を白日別(シラヒワケ)
豊の国を豊日別(トヨヒワケ)
肥の国を建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)
熊曾の国を建日別(タケヒワケ) >>384
南部九州の邪馬台国が
お前らに変わって倭王になるために魏に朝貢するから
おまえの糸島や、壱岐を使わせろ
っつって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国が
どうぞどうぞと使わせるか?
北部九州に
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨している倭奴国がある
以上、邪馬台国はどこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えない
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無いし
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い
んだよ その鏡が出た場所のすぐ近くにいた久津媛という謎の人物も気になる
>>198
魏志倭人伝
帯方郡から水行で海岸を循って狗邪韓国まで7000余里(700キロ強)。
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里(100キロ強)渡ると一大国に至る。
また海を1000余里(100キロ強)渡ると、末廬国に至る。
(帯方郡から末廬国まで船で1万里(1000キロ))
東南に陸行し、500里(50キロ)で伊都国に到着する。
東南に100里(10キロ)進むと奴国に至る。
東へ100里(10キロ)行くと、不弥国に至る。
(末廬国から不弥国まで陸路で700里(70キロ))
残り1300里(130キロ)
さらに陸路で邪馬台国のある国東半島に至る。
まとめとして、
帯方郡から、南へ水行20日で、投馬国に至る。
帯方郡から、南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里(1200キロ)である。 >>390
>>384
南部九州の邪馬台国が
お前らに変わって倭王になるために魏に朝貢するから
おまえの糸島や、壱岐を使わせろ
っつって
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国が
どうぞどうぞと使わせるか?
北部九州に
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨している倭奴国がある
以上、邪馬台国はどこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えない
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い 大分日田こそ町興しに卑弥呼を使うべきだよww
おめでとう日田さんw
>>393
全く理解できない
奴国って九州北部の小国家じゃないのか? アホ記者だから許されるけど
歴史の専門家がこれ言ったらアホだと思われるぞ
曹操(後漢の丞相・魏王)は墓を質素にしろと遺言を残して
曹丕(初代皇帝)はそれを実行したと思われる
×「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」
○「後漢の丞相・魏王の所有物の中でも質素な鏡」
>>396
コピペするしか能がないのか?
もっとわかりやすく書けよ >>395
夷人不知里數但計以日
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している
ということは、
方角は、倭人から言われたまんま
距離は、中国からの渡来人のあてずっぽう
なので
【実際の距離に関係無く】
海を渡るときは・・・すべて1000里
陸を行くときは・・・500里(遠いか)、100里(近いか)
のみ 曹操の墓から他にも出てきたものがあるけど
どれも質素なのは調べればわかる
息子曹丕は曹操の遺言を守ったんだろうね
大分県日田市の人は残念だろうけど貴重なものではあるが
ランクとしては高くないよ
ちゃんと現実を知るように
>>399
質素のレベルが今となってはわからんもんで
なにが質素だったか、から考証してると思うけどね
考古学者つうのは >>398
>>390
>>384
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国
は
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)が生まれ
伊弉諾尊からまず
天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が生まれ
その天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神(豊玉彦)が統べていた【海神(ワダツミ)国】という大国だ
邪馬台国はどこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えない
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い >>398
委は倭の略字で委奴国と考えるほうが意味通る
よく教科書にある漢の倭の奴の国王みたいな
あほみたいな訳し方は前例もないし馬鹿説が通説なった
ただ、背景には近畿説や戦前からの大和民族云々みたいな主張がある
これで全部歪められてるわけだ そもそもだ、この時代の北部九州勢力は最新の技術をもった海の民だから半島南部から畿内、東海まで勢力を伸ばしている
そして弥生末期、それまで銅鐸作ってた唐古・鍵遺跡のすぐ近くに九州で信奉されてきた鏡を重視する王権が発生する訳で
曹操の副葬品に金がないのよゴールドが
おそらく卑弥呼の墓には入っているだろうから
曹操の墓の副葬品は倭王以下だと思われる
まだ三国の戦いが続いているときで資金がいるし
墓を質素にさせたのは実に曹操らしい現実的な考えだと思うよ
詳しくは漫画よめばわかる
しかし天皇が持っててもおかしくない代物がなんで落ちてんだよ?それに引き換え巻向じゃ金歯も出てこないんだろ?
>>407
曹操の墓は盗掘されてるから、金目のものはあらかた持って行かれただろ
あと、中国では盗掘品のうさんくさい贋作がわんさか売られてる >>404
いろいろ言い訳してるけど
結局は距離が違うから当てはまらないと言ってるだけなのか?
渡一海千里
というのは慣用表現
海を渡るのは千里を移動するくらい大変だという意味であって
実際の距離が千里である必要はない
そもそも千里だったとしてどうやって距離を測るんだ?
無理だろ
糸島も同じ
上陸地点の呼子から糸島は大雑把に言えば南東方向
陸上の距離も、測定器具を使いながら距離を測ってるわけではない
徒歩で1日歩けば何里という基準があるんだろう
それで測れば五百里
何の不自然さもない 日田さんはこれから大変だね、邪馬台国の一番の候補としてマスコミやら卑弥呼好きが沢山集まるね
これからは探せば祭壇とかも見つかるかもしれんよ。邪馬台国温泉とかやっちゃえばいいよw
卑弥呼は曹叡の時代だから関係ないな
九州説ぬか喜びで草
>>412
本物だとすると、九州が中心だったのは卑弥呼よりもっと前の時代だという説を補強する可能性がある
吉野ヶ里のときのパターン 208年 赤壁の戦いで曹操ボロ負け
209年 劉備が荊州攻略
211年 益州が劉備を向かい入れる
215年 劉備が益州がを掌握する
220年 2月 曹操病死 曹丕が跡を継ぎ魏王となる
10月 曹丕、献帝の勅令によって禅譲され帝位に就く 魏建国
221年 劉備が蜀漢を建国
229年 孫権が呉建国 三国鼎立
239年 卑弥呼の使者が朝貢
>>411
古美術商が言ったことを根拠にするとはさすが九州説ですね 名前は酷い当て字してるんだから俺の女にくれてやろう程度の感覚で
贈ったんだろ
>>415
>>395が妄想かどうかなんて俺には関係ない
邪馬台国が糸島や壱岐を通行するのは当たり前なんだよ
奴国が妨害したというお前の言い分は妄想という事だ 57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
は
初めの主、天御中主(あめのみなかぬし)から生まれた
伊弉諾尊が
まず最初に生んだ天彦尊(あまつひこのみこと)綿津見大神が統べていた
【海神(ワダツミ)国】という大国だ
邪馬台国が奈良にあろうが、南九州にあろうが、
どこにあったとしても、糸島も、壱岐も、使えないのだ
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は糸島では無い
皇帝の御物にふさわしいかどうかは別にして
朝貢してきた賓客への贈り物なんだろうね
神獣鏡は最初から配布用のお土産
>>416
辛い?w 残念だったね畿内説w
お疲れちゃんww >>418
もう一度聞く
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
が
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者に
なぜ、どうぞどうぞと糸島や、壱岐を使わせる? >>408
皇室と卑弥呼を無理に結び付けようとしてるからおかしくなるんだよ
邪馬台国と奈良の倭国は別物だと思ったほうがしっくりくる
畿内説の特に奈良説はこじつけばかりやん
九州説、近江説、大阪説、四国説、沖縄説は面白くて好きだけど纒向厨だきゃあ
こじつけが酷過ぎて >>6
神功皇后を見る限り実家は周防国(秦王国)だな
まあ筑紫も支配していただろうけど 結構宇佐周辺は有力だねえ、日田には耶馬渓とか山国とかあんだなあ
>>423
伊都国や一支国は奴国の支配下ではないからだよ 当時の配達員が面倒臭くて埋めちゃったんだよ(名推理)
盗掘はされているけど
二重にしてて奥に隠した本体はあらされてないという意見もある
>>423
>57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
>金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
>北部九州一帯を統治する倭奴国
邪馬台国の時代には奴国は没落してた
という事だろ
それから
金印や鏡は皇帝の臣下の国に下賜されるものだぞ >>429
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の糸島では無い >>433
そう
EU連合のドイツやフランス等の関係と同じ >>430
うちの先輩が畿内派なんだけど、連続性の問題で金印は志賀島から出てますけどって言ったら、、、、
畿内の方に持っていく予定だったけど持っていく人がめんどくさくなって途中で捨てたんだろう。だってwww
畿内派ってなぜかこんな人が多いだよね、マジで。 魏の初代皇帝は曹丕・・・
高校の期末テストで曹操と書いて間違えたの思い出したわ
>>432
邪馬台国の時代には奴国は没落してた
>57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
>金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
>北部九州一帯を統治する倭奴国
は没落してた??
とんでもありません
帯方郡の公孫氏とグズグスの関係で、
魏も手出しが出来ないほどの全盛期です >>65
1世紀の畿内に王なんていねぇよw
これだから畿内説カルトは >>437
全盛期なら倭国伝でも倭人伝でもなく
奴国伝でないとおかしいので間違い 宋史新唐書でも秦の末裔ちょうねんの王年代紀を調書した上記載したんだから、32、23?年代までは筑紫だろう、ただ仲哀死が卑弥呼だと思うよ。神功は宇佐で船木に軍船を作らせとるからここも基地であったことは確か。
原文略
景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、
天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。
太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。
その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。
制詔、親魏倭王卑弥呼。
帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、
汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。
汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。
すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。
私は汝をはなはだいとおしく思う。
今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、
装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。
汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。
汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。
今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。
銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。
今、絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹を以って、
汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。
また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、←←←
五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、
皆、装封して難升米と牛利に付す。
帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、
我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。
魏から金八両をもらってるのでこれが卑弥呼の墓にあるんじゃないかと
>>434
必死に言い訳しているが
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
が
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者に
なぜ、どうぞどうぞと糸島や、壱岐を使わせるわけが無いのだよ
使わせたら、自分が倭王ではなくなってしまう可能性があるから
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者には
糸島や、壱岐を、【絶対に使わせない】 >>444
>57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
>金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
>北部九州一帯を統治する倭奴国
この3行が大好きみたいだけど
あまり洗練されてないんだよな
コピペするほどじゃないと思うわ >>440
>>434
必死に言い訳しているが
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国
が
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者に
どうぞどうぞと糸島や、壱岐を使わせるわけが無いのだよ
使わせたら、自分が倭王ではなくなってしまう可能性があるから
自分の変わりに新たな倭王になろうとする邪馬台国の使者には
糸島や、壱岐を、【絶対に使わせない】
つまり
− 海を渡る1000余里− の「一大国」は
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の壱岐では無い
− 東南に500里ー の「伊都国」も
北部九州一帯を統治する倭奴国の支配下の糸島では無い
【邪馬台国は九州には存在できない】 >また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、
>五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、
(略)
>そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。
>汝の好物を下賜 とあるから
紺地句文錦三匹、細班華?五張、白絹五十匹、金八両、
五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤
これらは倭国側から求めたものと思われるクレクレ
白絹五十匹 銅鏡百枚
>>444
>糸島や、壱岐を、【絶対に使わせない】
だとしたら、大陸が日本列島の人間を交流するには奴国と必ず関係を持たないといけないのに
奴国の記述が少なすぎる
なのでやっぱり、
アプローチの方法を変えてもお前の言ってる通りにはならないことが判明したわけだ
そろそろコピペばかりの無能の相手はやめとこうかな >>372
Googleマップを航空写真にして見ると日田がそんなに山深いとも思えないんだな。
東側は険しい山だけど西側は平地が開けている。
その平地の中央には筑後川が流れてるからかなりと所まで船で行けそう。 これから日田さんが卑弥呼を活用してどう町興しをして行くのかが興味深いな〜♪
日田は何か名産があるのかな?調べてみよう。
金印もらうから王になるんじゃなくて力関係が逆転してるから金印をもらうんやろ
金印は確かな歴史の物証としても、魏志倭人伝はそうじゃない可能性のが高いけどな
三国志は陳寿の世界観に大きく依存してるが、司馬遼太郎みたいなフィクション作家に近い
>>435
紀元前後は北部九州が中心だってことは機内派云々関係なく常識だと思うんだけど・・・ 魏は「卑弥呼の生真面目さ」を評価して金印を授けたんだよな。
それを「金印に値する強大な勢力だった」からと曲解してるのが畿内説。
頭の中で作り上げた根拠不明のシナリオにしたがって説を組み立てていくのが畿内説のやり方だ。
>>454
当時の倭国が統一国家だったとでも思ってるのか?
典型的畿内説だなw >>86
畿内には鉄器も碌になかったのにどうやって九州倭国を滅ぼしたのか 白絹五十匹
おしゃれさん卑弥呼 絹でテカテカ
銅鏡百枚
卑弥呼の鬼道(米くれたらお祈りしてあげる)を
各地に普及させるための鏡 納税制度の確立
>>450
ほんまや、福岡からも近い。やきそば、うなぎ、やまめ、梨、名物はこの辺だね。
金の日田まぶしとか、曹操のやきそばとか、ひみこ梨とか、色々いけるんじゃないw 日本式の統一国家ってのは江戸時代にしても盟主に過ぎないんだよな。
本当の意味での統一国家とか想像を超える
>>448
必死に言い訳しているが
糸島や、壱岐を、【使わずに】
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する
北部九州一帯を統治する倭奴国と【関係を持たずに】
日本列島の人間が大陸と交流すれば良いだけだろバーーカ m9(^Д^)プギャー
日本列島の人間が大陸と交流するのに、なんで
北部九州一帯を統治する倭奴国と【必ず関係を持ち】
糸島や、壱岐を、【必ず使わなければならねーんだよ】
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里− 対馬國
− 海を渡る1000余里− 一大国(見島)
− 海を渡る1000余里− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
− 東南に500里ー 伊都国(出雲)
− 東南に100里ー 奴国(因幡)
− 東に100里ー 不弥国(摂津住吉)
− 南に水行20日ー 投馬国(近江)
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良) しかし、漢の時代には倭王に任じられるほどの奴国が、
三国時代になると邪馬台国が台頭してきて、その他大勢扱いになっちゃうんだよな
邪馬台国の外交手腕が優れていたのかもしれないけど、よく滅びずに共存できたもんだ
>>457
鉄器がろくにない地域だったから宮を築くのに都合がよかったんだろ 日光を反射させる鏡と絹で卑弥呼キラキラ
↓
部分日食が起こる
↓
卑弥呼殺される
↓
祟らないように奉る
↓
アマテラス神誕生
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里−対馬國
− 海を渡る1000余里− 一大国(見島)
宗像氏の祖は出雲6代主王の息子、吾田片隅(アタカタス)その娘達が宗像三女神とよばれる田心(タゴリ)姫、市杵島姫、多岐津姫
− 海を渡る1000余里− 末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
アマテラスから奈良の高天原を追放された素戔嗚尊が新羅曽尸茂梨に渡り、日本に戻って来る際の上陸地点という伝承が残る、古くから大陸と出雲を行き来する港湾国
− 東南に500里ー 伊都国(出雲)
王は出雲主王
長官「爾支(にき)」は出雲に派遣されれたアマテラスの孫の「邇邇芸(ニニギ)」
− 東南に100里ー 奴国(因幡)
伊都国(出雲)の奴国、大国主の最初の妃「八上比売」の国
− 東に100里ー 不弥国(摂津住吉)
長官「多模(たも)」は、天火明命の流れをくむ、摂津国住吉郡の豪族の田蓑宿禰
− 南に水行20日ー 投馬国(近江)
長官「彌彌(ミミ)」は、スサノオの長男の「天忍穗耳尊」
ー南に水行10日、陸行1月ー 邪馬壱國(奈良)
九州だから出るのは当たり前であって、奈良から出たらおかしいなと考えるのが普通だぞ
ID:1yC9KkT10
こういう人が意地になって、歴史を捻じ曲げるんだろうな
>>461
大陸へ渡るルートは決まってるんだよ
呼子から壱岐対馬を経由して朝鮮半島へ向かうんだよ
出雲ルートは季節風に頼らないと往復できないので頭の悪い空論だぞ
冬の日本海を舐めすぎている
それから
>− 海を渡る1000余里− 対馬國
対馬から1000里の出発地って具体的にどこだ?w
知らんけど
見島は対馬から1000里なのか?
自分に都合がよければ1000里なんてどうでもいいと思ってるんじゃないか?
詭弁そのものだな >>457
滅ぼしてないよ
前方後円墳体制に北部九州も参加したんだよ
奴国が真っ先に加わり、他の九州勢も追随した >>467
コピペ連投したり罵倒繰りかえす奴はおなじみの基地外だから相手してはいけないw >>469
前方後方墳の同時発生=連合の証というのは定説だな
北部九州と畿内は早いうちからなんらかの関係があったんだろう 卑弥呼の時代は2世紀〜3世紀前半であり、3世紀末には女王制が消滅しています。
奈良にはそれに合致する遺跡は無く、史書には無い独自の歴史を歩んでいたと考えられる。
<奈良の歴史>
〜2世紀末 唐古・鍵最盛期
3世紀後半〜4世紀半ば 纏向最盛期
4世紀末〜↓ヤマト政権の種ご到着↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
金印も、皇帝が持ってるレベルの鏡も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね >>471
北部九州と畿内は疎遠だったというのは今や常識だが。
[纏向遺跡]
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する
決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、
古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで
東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる
(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を
含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が
大陸との交易は乏しかったと推定される。 >>403
曹操は布団に房をつけるのもやめたってくらい質素なんだぞ
親魏倭王ってのも
曹真がインドとよしみを結ぶのに対抗したものらしいし >>468
そうしないと邪馬台国は九州ではなくなってしまうから必死だな(笑)
残念ながら倭国からは、30カ国近くが【別々の独自ルートで】大陸に朝貢していました >>467
そいつと近畿パー連呼のやつは見つけたら即NG >>463
4世紀になったら北部九州の副葬品文化と
同時に鉄器もなだれ込んできたけど >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね >>475
纏向遺跡群のホケノ山古墳やら桜井茶臼山古墳、黒塚古墳とか初期の古墳からゴロゴロ銅鏡出てるのはわざと無視してるん?
息をはくように嘘をついちゃダメだろ 畿内説の学者は5ch畿内説を否定しています。
[箸墓古墳]
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」
と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫
は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
三国志関連は鬼門、演技みたいな完全フィクションと正史扱いのノンフィクション風フィクションの逸話が入り乱れてるし
愛読者が多い。曹丕皇帝つっても統一国家じゃねえし・・というか魏はその前に滅ぶし
>>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね
240年に卑弥呼が「親魏倭王」になって、たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑) >>483
それいったら史記でも項羽の個人戦闘力とか盛りすぎだしな
あいつドラゴンボールの初期悟空くらいならタイマンが成立しそうな強さだぞ >>481
それ纏向ちゃうやろw
また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと
古墳時代のものが見つかることが多いので、
纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、
箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できない
ことに注意する必要がある。
石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である
弧文円板(こもんえんばん)が出土している。
ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。
「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は
3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の
大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が
3世紀後半以降の可能性がある。」 >>466
っつーか、
九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね
240年に「親魏倭王」になって、
たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、
あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑) >>1
秦氏(ペルシャ人)が魏を通過する際にもたらした物じゃないかね。 >>479
3世紀に北部九州は前方後円墳体制に飲み込まれる
そもそも前方後円墳は、全国各地の葬制をてんこ盛りにしたものであって、
その一つの要素として、副葬文化を北部九州から吸収しただけのこと
鉄器は3世紀中頃から畿内優勢 >>485
三国志正史の魏の名将たちは項羽レベルばっかよ
泣いて馬謖を切るというが、相手張郃だしな、100回戦って100負ける相手 >>26
正式だけど脅されてだろ。そのあとすぐ死んだし 九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通だよね
240年に「親魏倭王」になって、
たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、
あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑)
つまり、こんな鏡が出ちゃったことにより、邪馬台国が九州にあった可能性は、ますます低くなっちゃったんだ
>>486
ホケノは纒向遺跡の中
黒塚は数百メートル離れてるだけ
桜井茶臼山は3キロほどの距離 日田は邪馬台国でなかったとしても九州を支配するのに最高の場所だよ
筑後川を使えば海との行き来は簡単だし海産物や交易品の搬入も簡単
筑後川流域は行ったことあれば解るけど稲作には最高の場所
しかも佐賀平野も近く穀物の安定供給も可能
地図で見たら分るけど九州全域にも移動しやすく
山に囲まれているので攻められ難いつまり守りも完璧
九州を卑弥呼が平定して本拠地を置くなら最適な場所でもある
今はダムになってるけど川のまんまなら良かったと思う
あと個人的に簗場を川の中に作ってアユを食べてた頃は好きで良く食べに行ったけど
川の中に食堂が無くなって寂しくなったので行かなくなった
元にもどして欲しい
古代史最大のエポックは国譲りだろう
国の主が変わったんだよ。とすると葦原中国とは畿内のことで
そこにはエミシもいた。まつろわぬ民は辺縁に散りズーズー弁が残った
堂々と邪馬台国の後裔と名乗れないのか、滅んだのかのどちらかだろう
>>493
唐古・鍵遺跡も至近距離だし、桜井のあたりで一体何があったのかすごく気になる 九州一帯が
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し、
後漢からの金印も所有する倭奴国だった
から、こんな鏡が出るのは当たり前であって
240年に「親魏倭王」になってから、40年かそこらで消滅した邪馬台国から、こんな鏡が出たらおかしい
・・と考えるのが普通
240年に「親魏倭王」になって、
たった7年間で卑弥呼が死んじゃって、
あとはグズグズで瓦解している邪馬台国が
こんな鏡を持ってるわけがない(笑)
つまり、こんな鏡が出ちゃったことにより、邪馬台国が九州にあった可能性は、ますます低くなっちゃった
九州説、やっちまったね
>>339
中国の盗品
盗人が倉庫に適当に管理
錆だらけになった
盗人は価値を知ってるから高値で日本人に売った 邪馬台国が大和にあったとしたら、その頃には飛鳥時代に続く中央政体が日本に存在したって事になる
そりゃ御用学者は必死に大和説を推すわな
神武天皇の橿原宮も、何らかの施設が2700年前に今の橿原神宮の場所に有ったらしい事までは肯定的じゃ無いけど
春秋戦国時代の中国で周の全盛期時代に、日本に王制が有ったなんて認めたくない事実だからな
実際、倭人が周の成王に薬草を献上した記録もある。この倭人は中国の南方民族だとされて日本人とは無関係とされているけど
さすがに三千年前に日本人が中国にたどり着き、内陸部まで旅をするなんて想像力とは無縁らしい
>>350
だからこの>>1の記事の続きは、本当の発掘場所と言われているところを調査したところ曹操の鏡とは全くレベルがそぐわない遺跡だったのでここで発掘されたものではないだろうという結論 >>499
だったらもっと高く売れる方法はあるだろ
京都大学の教授風情が自費で買える程度のはした金でよかったの?
そして盗人と日田の渡辺氏は仲間だったと言い張るの? 末裔がいたかもしれんな。末裔が大事に持ってて死後一緒に埋められた可能性もあるな。なんだとよw
>>501
没落貴族の墓
という事で済むと思うんだがなぁ >>500
初代天皇の神武は
57年から150年間以上「漢委奴国王」として君臨し
九州一帯を統治する
後漢からの金印も所有する「倭奴国」
日本の記紀では「海神国」
の
三十二代目の国王である「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」の
第4皇子
九州から奈良に東征しないと自分の領土が持てなかった
のさ >>462
長どうしの婚姻関係で共存するみたいなんが、日本列島での風習やったんちゃうかな。
邪馬台国の時代でも奴国はリーダー的存在だった可能性が高いとは思うけどな。
ただ、さすがに他の諸国がそれに不満を持ってたんで、
邪馬台国に傀儡王立てて建前上倭国のリーダーにしてたんじゃないだろうかと
現時点では推測してる。 本当に近畿説を信じる古代学者なんていないよ
大人の事情で事実を曲げようとしているだけ
まほろちゃんの事も忘れないで!
1. 「棺あって、槨(かく)なし」は庶民の墓制について書かれたもの
2. ホケノは槨という用語が使われているが、中国の槨とは違う
同じ漢字で、違う意味
lud20221129075416ca
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・【奈良】古墳の鏡100枚超、邪馬台国の卑弥呼と関係か 専門家「邪馬台国の所在地だと考えるのは自然」「ヤマト政権への連続性が…」 ★6 [樽悶★]
・九州の笑い者 邪馬台国 卑弥呼
・【邪馬台国】卑弥呼論争に一石 統治は纒向、擁立は九州・吉備中心 [ごまカンパチ★]
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・【歴史】「この鏡が邪馬台国や卑弥呼と関連のある物だと言って差し支えない」 大分・日田で邪馬台国との関係探る古代史サミット開催★3
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・【古代】稲荷山古墳、前方後方墳の可能性 邪馬台国・卑弥呼の墓説ある箸墓古墳と同時期、3世紀に築造か 桜井市埋文センター
・邪馬台国の卑弥呼からヤマトの天皇制の間って何があったんだ
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・【歴史】「卑弥呼は中国の魏と外交し、邪馬台国の南にある狗奴国と戦った」 古代日本における女性、妊娠・出産後も社会的地位を得ていた [樽悶★]
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・【奈良】「卑弥呼の後継・臺与の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」 卑弥呼の箸墓に迫った2メートル [樽悶★]
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・【奈良】「卑弥呼の後継・臺与の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」 卑弥呼の箸墓に迫った2メートル ★3 [樽悶★]
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・【福岡】伊都国と奴国テーマに論議、邪馬台国の謎に迫る 飯塚で古代史講座 「伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないか」
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・ハイキングウォーキングの「卑弥呼さまー!」ってネタおかしくない?あれ邪馬台国の農民の髪型なんだけど・・・
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・【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★5
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・【歴史】邪馬台国は“嘘”をついた? 「親魏倭王」の称号を手にした卑弥呼の狙い 奴国の海人が暗躍 [樽悶★]
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