![【奈良】古代豪族・葛城氏の繁栄、体現 御所・室宮山古墳 朝鮮半島での戦闘の際、現地の人々を連れてきて葛城の地に住まわせる ->画像>5枚](https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/10/14/20191014ddlk29040273000p/9.jpg)
竪穴式石室の内部に収められた長持形石棺。縄を掛ける突起がある=奈良県御所市室で大森顕浩撮影
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奈良盆地の南西部には古代豪族・葛城氏の勢力圏だった葛城地方が広がる。名峰・金剛山と葛城山を望む位置にある室宮山古墳(御所市、5世紀初頭)は全長238メートルの大型前方後円墳で、葛城地方最大規模だ。被葬者は日本書紀に登場する葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ)とする説が有力。豪華な石棺や多数の埴輪(はにわ)、朝鮮半島製の土器などに、その権勢がうかがえる。【大森顕浩】
古墳そばの神社から延びる階段で後円部を登っていく。「ハイキングコースとして人気があるのです」。御所市教委の後藤愛弓主査が案内してくれた。たどり着いた平らな墳頂部にある二つのくぼみが、南北に並ぶ竪穴式石室の位置にあたる。
天井石が一つ欠けている南側の石室の中に降りると、長持(ながもち)形石棺(板石を組み合わせた石棺の一種)が見える。長さ3・5メートル、幅1・4メートルあり、縄を掛ける突起が付く。5世紀代の大型古墳の長持形石棺は、大山古墳(仁徳天皇陵)など大王(天皇)クラスとされる。後藤さんは「竪穴式石室の中に収まった状態の長持形石棺を見ることができるのは全国でここだけ。見学者が絶えません」と話す。
石室は二重の埴輪(はにわ)列で囲まれていた。内側は円筒埴輪、外側は盾、靫(ゆぎ)(弓矢を入れる道具)、かぶとなどの武器形埴輪で厳重に守っていた。
一帯は4世紀まで目立った古墳がなく、5世紀に室宮山古墳が突如出現する。大王の古墳に匹敵する規模と内容にふさわしい被葬者として想定される襲津彦は、日本書紀では朝鮮半島での軍事行動や外交を担った人物とされる。書紀が引用した朝鮮半島の歴史書「百済記」にも類似名称の記述があり、実在の可能性が高いと考えられている。
襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んだとされる。「古墳の時代は、襲津彦が外戚として力をつけた時代なのです」と後藤さん。
古墳からは朝鮮半島との関連を示す遺物も出土した。1998年9月の台風7号で、未調査のままだった北側石室付近で倒れた木の根から半島製の陶質土器が見つかった。高温で焼かれた灰色の硬い土器で、この中に船形のものがあった。船首の波をよける板を模しており、文様が刻まれていた。海を越え半島に渡った襲津彦をほうふつさせる発見だった。
書紀によると襲津彦は朝鮮半島での戦闘の際、現地の人々を連れてきて葛城の地に住まわせた。室宮山古墳の南西約2キロには祭祀(さいし)場や工房などを含む大規模集落遺跡・南郷遺跡群があり、葛城氏の支配拠点とされる。室宮山古墳よりやや時代は新しいが、半島由来の土器や建物跡が多数見つかっており、渡来人の居住がうかがえる。
後藤さんが重視するのは古墳の場所。西にある金剛山と葛城山の間の水越峠を越えて大阪に向かう街道と、南下して和歌山に至る街道の交差点に位置する。付近には南郷遺跡群や、葛城氏の居館跡とされる名柄遺跡がある。古墳は丘陵の先端部を削って造成したようだ。「海外の新しい技術や文物を入手しやすい交通の要衝を押さえていた。見晴らしのいい場所で周囲から際だって見えたはず」と想像する。
金剛山と葛城山のもとに造られた大型古墳は、権力の誇示だけでなく、当時の葛城の地の繁栄ぶりを体現している。「名前の分かる具体的な人物の生きた証として、現場を訪れて歴史の息吹を体感してもらえれば」と後藤さんは話している。=次回は10月28日に掲載予定です。
■室宮山古墳
御所市室。後円部は東、前方部は西に向いている。国史跡で、指定の正式名称は「宮山古墳」。近鉄御所駅から奈良交通バス「宮戸橋」下車徒歩10分。後円部の墳頂の見学は無料。
毎日新聞 2019年10月14日
https://mainichi.jp/articles/20191014/ddl/k29/040/211000c?inb=ra