裁判でも一切反省の弁を口にしなかった小島
「むしゃくしゃした出来事」と題されたこの手記には、2018年6月9日の凶行を決めた2日間が記される。
長野県木曽郡でホームレス生活を送っていた彼に何があったのか。接見を重ね、手記を託されたインべカヲリ★氏の解説とともに掲載する。
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祖母と最後の電話をしたと捜査資料にあるから、おそらく平成30年3月16日なのだろう。この日から絶食をやめて、食べ物を口にするようになった。
まず砂糖をスポーツドリンクで流し込むことから始めて、レトルトパックのおかゆ、雑炊に移り、カップ麺やパンに移っていく。
コンビニで袋いっぱいに食べ物を買って、長野県木曽郡上松町にある寝覚(ねざめ)の床(とこ)美術公園の「裏寝覚」にある東屋(あずまや)に戻り、少しずつ食べて、お腹いっぱいになったら眠る。
23日に木曽署の近くの銭湯で量った体重は45kgだから、16日の体重は、それよりも軽いはずだ。あと何日、どれだけ生きていられたかは分からない。
それからは食べ物がなくなる度に、買いに行っていたから、けっこうな量を食べていたのではないか。
しかし、吐いたり下したりで、全部は吸収できていない。腸捻転や腸閉塞にならなかったのは幸運だった。
19日から22日までの4日間、雨が降ることをスマホで知った。
23日には裏寝覚を出ようとしていた。
16日の電話の後から、私は物を食べながら、新幹線の中で人を殺す計画を立てていた。この頃は品川から新横浜までの間で殺(や)ろうと考えているなど、最終的な計画とは少し違う。
電話の後は、もう家族に迷惑が掛かるなどということは問題にならなくて、あとは私の心の倫理的な問題だけだった。果して見ず知らずの人を殺すことは赦(ゆる)されるのか。法によって許される、のではなく、私自身が赦すのかという問題だ。
見ず知らずの人を殺すにはもう少し、何かがなければならないのではないか。その何かは、まだ私にはない。何かが起こってくれればよいのだが。
餓死しようとしたのは家族のためで、本当は刑務所に入りたい。
でなければわざわざ時間の掛かる餓死など選ぶものか。
それに本当に3カ月何も食べていないのなら生きているはずがない。
食べる機会があれば、しっかりと飲み込み、吐き出したりしない。本当はまったく死にたくないのだ。
刑務所に入るのは子供の頃からの夢である。これを叶えずにどうして死ねようか。そして「むしゃくしゃした出来事」が起きた。
警察との攻防
3月21日の朝、木曽署の警察官が3人来た。
最初は友好的に職務質問が始まった。名前は? 住所は? 職業は? 家族は? どう生活している?
雨の中、この東屋から出ていくことを迫られるが、断った。
誓約書を書く。
確か内容は「2018年の3月19日から4日間、雨が降り続きますが、私は危険を承知でここに居るので、何があっても誰にも責任を問いません」だ。
これを役所の人が見る。
はねつけられた。警察は態度を変えて、友好的ではなくなった。
私は雨が止んだら出ていく、と言ったが、警察官はいますぐ出ていけという。その後は、
「出ていけ、邪魔だ、迷惑」
「断る。雨が止んだら、出ていきます」
といったやりとりだ。
「雨に濡れることだけではない。地面が濡れていたり視界が悪く危険だから、出ていくことはできない。晴れたら、出ていきます」
「上にある森林鉄道が展示されている屋根の下で雨宿りをしたらいい」
「ここが危険なら、そこも危険である。私は夏の台風もここで過ごしたのだ。ここは経験的に、相対的に安全である。私の命に一番責任を持っているのは私だ。どうするかは私が決める」
「ねざめホテルに泊まったらいい」
「そんなことに遣うお金はない。私はホームレスなのだから。いっときのために、千秋の苦しみを味わう訳にはいかない。私の人生はこれからもまだまだ長いのだから」
さらに私は言った。
「私には生存権がある」
「この場合はあたらない」
「ホームレスが立ち退きを迫られた時に、断る理由としてよく使われるのが生存権だ。だから私も生存権を主張する。この雨の中、屋根のある下から立ち退かそうとするのは人道にもとる。血も涙もないのか」
1/8(水) 8:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200108-00601729-shincho-soci