残念ながら財政的に非常に苦しかったこと,アメリカさんが日本の
軍国主義の復活を恐れるといったようなことから,連合軍司令部との折衝には
いろんな難点がございまして,原案がずたずたに切りさいなまれ,われわれが
意図したものができなかったのは,はなはだ遺憾な気がいたしますけれども,
現在に至るまでの身体障害者の福祉の概略というか流れというものを見ます
と,終戦直前の軍人援護の考え方が一般の人にまで及んでいるといったような
感じがいたしてなりません。
身障福祉法をつくるときの一番大
きな問題は,何といっても全国の国立病院,療養所等に数万の傷病軍人がたむ
ろしていまして,あるいは恩給が切られ生活に困り,街頭へ募金に出る一方,
治療は終ったのに外へ出ましても-ソディキャップを持った身では,あのイソ
フレの社会で太刀打ちをしてやっていける自信がないといったようなことから
社会復帰がたいへんおくれておったのでございます。
身体障害者福祉法をつくるのにどういう法律の体系につくるかということが
一番問題になりました。いろいろ議論した結果,いまも身体障害者福祉法が
そのままに残っておりまするけれども,これは更生法である,身体障害者に
社会復帰をして一生懸命に働いていただく.そして人並みの生活をしていた
だく,そういうことができるようにあらゆる援助をしようじゃないか,そうい
う法律にしたのでございます。
一番大きな問題は,あるいは両手両足を失い,あるいは両足
を失ったうえに失明をした,昔はそういう人々を廃兵と申しました。そういう
もう全く社会復帰の困難な人々を入れるための施設を二カ所,別府と静岡県の
伊東につくることにいたしました。 「廃兵院」といった言葉は穏当を欠くとい
うことでこれを「保養所」という名称でつくることにいたしました。さてそう
いう人々のお世話をすることになったについては,そういう人々が一体どれく
らいいらっしゃるんだといったようなことで調査をしてみますと,都道府県か
ら「入りたい」と言う希望者は相当数ございました。
ところが恩給が復活しますと,途端にrそういうお国の為に身体障害者に
なられた人々をそういうところへ送るのは人情として忍びない」といっ
たようなことで,入る方が途端に減ってしまいました。
それでその施設は,その後一般の人々の施設になってきております。
この経験から,身体障害者の「在宅福祉」のためには,恩給のような年金制
度が絶対に不可欠の制度であることを痛感させられたわけであります0
さて昭和38年には,戦傷病者戦没者遺族援護法の中の戦傷病者について,一
般の身体障害者福祉法で援護を受けるのはどうもわれわれ国家保障の概念から
いってもおかしいといったような要望があったようでございまして,先ほどご
紹介がございましたように,私はそのころは国民年金の創設準備をやっており
ましたので直接関係をいたしておりませんが, 「戦傷病者特別援護法」という
法律ができて,こちらでお世話をするようになったようでございます。
その後昭和45年には「心身障害者対策基本法」ができ,さらには同じ年に
「心身障害者福祉協会法」ができて,群馬県の高崎に大きなミコロニー;ができ
ました。そこで心身の重い障害者をお世話するといったようなことになり,そ
のほかにたとえは「身体障害者雇用促進法」,これは労働省の関係でございま
すが,そのほかに「恩給法」とか「厚生年金法」 「国民年金法」 「船員保険法」
「労働者災害補償保険法」 「各種共済組合法」等,年金関係がそういう方面で
処理をされるということでございますので,一人の身体障害者に対する法律が
いろいろな法律でいろんな援護が行われる,こういうことでございまして,冒
本の行政はいろいろと縦て割りでございますけれども,援護を受ける身体障害
者はお一人でございます。したがってきわめて複雑多岐にわたって非常にむず
かしいいろんな問題がその後起きておるのでございます。
https://www.sjnkwf.org/katsudou/sousho/sousho-no_00009.pdf