半世紀ほど前に発掘調査が行われた橋本市古佐田の「陵山(みささぎやま)古墳」について、市教委は報告書「陵山古墳の研究」にまとめた。遺物などを分析した研究者らは、これまで5世紀末〜6世紀初めごろとみられていた同古墳の築造年代について、5世紀半ばから後半とみている。同古墳の石室は、横穴式石室としては近畿で最古級だという。
同古墳は県内最大規模の円墳(直径46メートル)で、1903年と52年、73年に発掘調査が行われた。2003年に開いていた石室への通路が埋め戻された。県内外の研究者らが今回、市教委などが所蔵する土器や埴輪(はにわ)、調査で残された模写図や石室の実測図などを分析した。
埴輪の破片に付けられていたハケメ(筋目)の特徴や、須恵器の形状の特徴などから、遺物ごとに年代を絞り込んだ。
分析した研究者の1人の県立紀伊風土記の丘の瀬谷今日子・主査学芸員は「遺物からは、河内(大阪府)やヤマト(奈良県)の影響や、朝鮮半島とのつながりが見える。紀の川中流や上流の古墳は調査が古くて分からないことが多かったが、これらの地域の古墳を今後評価していく契機になったのではないか」と話している。
一方、石室は平らな石を積んで造られ、表面には赤色顔料が塗られていた。研究した大阪府河内長野市教委文化財保護課の太田宏明・課長補佐は、陵山古墳では墳丘の盛り土内に石室を造る竪穴式石室の技法が用いられ、結果的に横穴式石室になったと指摘している。横穴式石室は、朝鮮半島の百済の影響を受けているとされるが、太田さんは「朝鮮半島で横穴式石室を見た人が、技術をマスターせずに造ったのではないか」と推察する。
武具を含む副葬品などから同古墳の被葬者像についても検討した。太田さんは「古墳が造られた時期は、百済の漢城が高句麗の攻撃によって落城する少し前の時期に当たる。日本からもかなりの数の武人が派兵された。被葬者は渡来人ではなく、朝鮮半島で軍事活動に従事した武人だと思う」と話している。【藤原弘】
毎日新聞 2020年4月19日
https://mainichi.jp/articles/20200419/ddl/k30/040/204000c?inb=ra