歴史堂vol.12(朝日新聞出版、11月6日)の特集は「古代史の謎を解き明かす」である。初めての古代史特集だそうだ。「謎の女王卑弥呼の正体」は武光誠さん監修、「邪馬台国はどこにあったのか?」は仁藤淳史さん監修による。
※省略
仁藤さんは、九州説の拠り所である邪馬台国までの総距離(1万2000余里)を実際の距離ではないと否定する。八幡和郎さんがアゴラ記事(19年12月19日)で紹介しているように、魏志倭人伝は「帯方郡(現ソウル近辺)より邪馬台国に至るには1万2000余里」と記述している。九州の上陸地点である末盧国(東松浦半島)まで1万里、さらに伊都国・奴国・不弥国までを合計すると1万700里で、残りは1300里だから、邪馬台国は九州北部を出ないはずである。
これに対し、仁藤さんは、当時の中国の世界観では「1万2000余里」は異民族が住む世界の外れを指す観念的な数字であり、九州説は成り立たないとしている(15年の福岡シンポジウムでも同様の基調講演をされている。「纏向発見と邪馬台国の全貌」、角川文化振興財団、2016年)。
特集全体では畿内説支持のように見受けられる。纏向遺跡によって畿内説は勢いづいており、仁藤さんの観念的数字説で補強された形となっている。
■纏向遺跡は畿内説の根拠として疑問
私は纏向遺跡を卑弥呼の都だったとすることにも、「1万2000余里」を観念的な数字だから意味がないと割り切ることにも、疑問がある。
※省略
■「1300里」と「水行30日・陸行1月」の矛盾の説明
魏志倭人伝は不弥国から邪馬台国は里数ではなく、「南へ水行30日・陸行1月」と日数で記述している。わずか「1300里」に「水行30日・陸行1月」もかかるはずがない。しかも「南へ水行30日」で行くような所に「陸行1月」も歩く陸地は存在しない。明らかに魏志倭人伝のどこかが間違っており、邪馬台国論争が決着せず、様々な解釈が生まれる原因になってきた。
逆に言えば、「1万2000里」と「南へ水行30日・陸行1月」という矛盾がなぜ記述されたのかが解明できれば、邪馬台国がどこにあったのかも明らかになるはずである。
私は、邪馬台国が九州と畿内の両方にあったとすれば、説明できると考えている。九州は福岡の旧山門(やまと)郡(現みやま市瀬高町)の可能性が高い。畿内は纏向遺跡のある大和である。以下のようなストーリーだったのではないかと考えている。
■山門から大和への移住と交易
山門にあった「邪馬台国」の一部集団が、倭国大乱が収まった西暦180年ぐらいから瀬戸内海を通って、大和に移住した。彼らは移住先でも「邪馬台国」を名乗った。
移住があったことは、九州と畿内の地名が類似していることからもわかる。鏡味完二氏は「九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる。…(それらの地名は)ヤマトを中心としている。…これは…九州から近畿への大きい民団の移住ということを暗示している」と指摘する(※「日本の地名」、角川新書、1964年)。
※省略
九州北部と畿内にはその後も頻繁な交流・交易があった。弥生後期に鉄器が九州北部から畿内へ、畿内式土器が九州北部に普及していった。山門と大和の邪馬台国の集団も両地域を行き来しただろう。九州北部から瀬戸内・畿内にかけて、国同士の緩やかな結びつきがあったと思われる。
■陳寿は2つの異なる報告を混在させた
※省略
魏志倭人伝を記した陳寿は「1万2000余里」「水行30日・陸行1月」という矛盾する記録に戸惑ったに違いない。魏志倭人伝は陳寿が記した三国志のごく一部である。推敲の余裕はなく、矛盾する記録をただつなげて混在させたと考えられる。
これが私の邪馬台国九州・畿内並存説の概要である。並存説はネットで調べたら先人がいた(※新邪馬台国論、大和岩雄、2000年、他)。私の説は2つの邪馬台国の成り立ちや、魏志倭人伝に2つが混在した理由の説明が異なる。
大和の邪馬台国は西暦300年ぐらいから大和政権に発展した。
一方、鉄器の普及に伴い、九州北部の優位性は失われ、山門の邪馬台国は狗奴国(熊本)によって滅ぼされた可能性が高い。大和政権が九州遠征して敵を討ったのが、景行天皇や日本武尊、神功皇后の熊襲征伐の物語になったのではないだろうか。日本書記には、景行天皇が九州遠征で山門の先の八女・うきはまで立ち寄って、女神が山中にいるという話を聞いたという逸話がある。大和政権は卑弥呼のことを懐かしんだに違いない。(浦野 文孝)
2020年11月22日 06:00
http://agora-web.jp/archives/2049033.html
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仁藤さんは、九州説の拠り所である邪馬台国までの総距離(1万2000余里)を実際の距離ではないと否定する。八幡和郎さんがアゴラ記事(19年12月19日)で紹介しているように、魏志倭人伝は「帯方郡(現ソウル近辺)より邪馬台国に至るには1万2000余里」と記述している。九州の上陸地点である末盧国(東松浦半島)まで1万里、さらに伊都国・奴国・不弥国までを合計すると1万700里で、残りは1300里だから、邪馬台国は九州北部を出ないはずである。
これに対し、仁藤さんは、当時の中国の世界観では「1万2000余里」は異民族が住む世界の外れを指す観念的な数字であり、九州説は成り立たないとしている(15年の福岡シンポジウムでも同様の基調講演をされている。「纏向発見と邪馬台国の全貌」、角川文化振興財団、2016年)。
特集全体では畿内説支持のように見受けられる。纏向遺跡によって畿内説は勢いづいており、仁藤さんの観念的数字説で補強された形となっている。
■纏向遺跡は畿内説の根拠として疑問
私は纏向遺跡を卑弥呼の都だったとすることにも、「1万2000余里」を観念的な数字だから意味がないと割り切ることにも、疑問がある。
※省略
■「1300里」と「水行30日・陸行1月」の矛盾の説明
魏志倭人伝は不弥国から邪馬台国は里数ではなく、「南へ水行30日・陸行1月」と日数で記述している。わずか「1300里」に「水行30日・陸行1月」もかかるはずがない。しかも「南へ水行30日」で行くような所に「陸行1月」も歩く陸地は存在しない。明らかに魏志倭人伝のどこかが間違っており、邪馬台国論争が決着せず、様々な解釈が生まれる原因になってきた。
逆に言えば、「1万2000里」と「南へ水行30日・陸行1月」という矛盾がなぜ記述されたのかが解明できれば、邪馬台国がどこにあったのかも明らかになるはずである。
私は、邪馬台国が九州と畿内の両方にあったとすれば、説明できると考えている。九州は福岡の旧山門(やまと)郡(現みやま市瀬高町)の可能性が高い。畿内は纏向遺跡のある大和である。以下のようなストーリーだったのではないかと考えている。
■山門から大和への移住と交易
山門にあった「邪馬台国」の一部集団が、倭国大乱が収まった西暦180年ぐらいから瀬戸内海を通って、大和に移住した。彼らは移住先でも「邪馬台国」を名乗った。
移住があったことは、九州と畿内の地名が類似していることからもわかる。鏡味完二氏は「九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる。…(それらの地名は)ヤマトを中心としている。…これは…九州から近畿への大きい民団の移住ということを暗示している」と指摘する(※「日本の地名」、角川新書、1964年)。
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九州北部と畿内にはその後も頻繁な交流・交易があった。弥生後期に鉄器が九州北部から畿内へ、畿内式土器が九州北部に普及していった。山門と大和の邪馬台国の集団も両地域を行き来しただろう。九州北部から瀬戸内・畿内にかけて、国同士の緩やかな結びつきがあったと思われる。
■陳寿は2つの異なる報告を混在させた
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魏志倭人伝を記した陳寿は「1万2000余里」「水行30日・陸行1月」という矛盾する記録に戸惑ったに違いない。魏志倭人伝は陳寿が記した三国志のごく一部である。推敲の余裕はなく、矛盾する記録をただつなげて混在させたと考えられる。
これが私の邪馬台国九州・畿内並存説の概要である。並存説はネットで調べたら先人がいた(※新邪馬台国論、大和岩雄、2000年、他)。私の説は2つの邪馬台国の成り立ちや、魏志倭人伝に2つが混在した理由の説明が異なる。
大和の邪馬台国は西暦300年ぐらいから大和政権に発展した。
一方、鉄器の普及に伴い、九州北部の優位性は失われ、山門の邪馬台国は狗奴国(熊本)によって滅ぼされた可能性が高い。大和政権が九州遠征して敵を討ったのが、景行天皇や日本武尊、神功皇后の熊襲征伐の物語になったのではないだろうか。日本書記には、景行天皇が九州遠征で山門の先の八女・うきはまで立ち寄って、女神が山中にいるという話を聞いたという逸話がある。大和政権は卑弥呼のことを懐かしんだに違いない。(浦野 文孝)
2020年11月22日 06:00
http://agora-web.jp/archives/2049033.html