https://nme-jp.com/news/106472/
レゲエ界のレジェンドにしてダブの巨匠であるリー・“スクラッチ”・ペリーが亡くなった。享年85歳だった。
ジャマイカ版『オブザーヴァー』紙によれば、本名をレインフォード・ヒュー・ペリーというリー・“スクラッチ”・ペリーは西ジャマイカのノエル・ホルムズ・ホスピタルで闘病生活を送っていたという。
死因については明らかにされていない。
ジャマイカの首相であるアンドリュー・ホルネスはリー・“スクラッチ”・ペリーが亡くなったことを認めている。
「愛情を込めてリー・“スクラッチ”・ペリーとして知られている伝説的レコード・プロデューサーにしてシンガーであるレインフォード・ヒュー・ペリーODの遺族、友人、ファンにお悔やみを申し上げます」
とアンドリュー・ホルネスはツイートしている。
アンドリュー・ホルネスは次のように続けている。
「間違いなくリー・“スクラッチ”・ペリーは音楽界隈に対する優れた貢献で今後も偲ばれることになるでしょう。彼の魂よ、安らかに」
1936年にジャマイカの田舎で生まれたリー・“スクラッチ”・ペリーは1960年代初頭にキングストンに移住している。
1984年の『NME』のインタヴューでリー・“スクラッチ”・ペリーは自身の幼少期について次のように語っている。
「父親は通りで働いていて、母親は畑に出ていた。すごく貧しかったんだ。自分は学校に行ってたんだけど、何も学ばなかった。自分が学んだことはすべて自然からだった」
「学校を出たら、外での仕事以外にやることはなかった。きつい、きつい仕事だった。好きになれなかったよ。それで賭博をやり始めた。賭博を通して自分の考えを実践して、
他人の考えを読むことを学んだ。これは自分にとってずっと役に立ったね」
リー・“スクラッチ”・ペリーは1950年代後半にレゲエ・スタジオ兼レーベルの「スタジオ・ワン」のクレメント・“コクソン”・ドッドにアシスタントとして雇われて、音楽のキャリアを始めている。
彼はその後アーティストのスカウト、DJ、店長、レコーディング・アーティストなどを務めている。「スクラッチ」のニックネームは1965年発表の楽曲“The Chicken Scratch”から取られている。
クレメント・“コクソン”・ドッドとの確執から60年代中盤に彼はスタジオ・ワンを離れている。
「コクソンは田舎の子どもにチャンスを与えたくなかったんだ。まったくね。彼は俺の曲をデルロイ・ウィルソンのような人に渡したんだ。自分にはクレジットも金も渡されることがなかった。
ひどかったんだよ」と彼は1984年の『NME』のインタヴューで語っている。
リー・“スクラッチ”・ペリーはジョー・ギブズが手掛けるライバルのアマルガメイテッド・レコーズに移って、プロデューサーとの仕事で自身のレコーディング・キャリアを築いている。
しかし、リー・“スクラッチ”・ペリーとジョー・ギブズの不和から、リー・“スクラッチ”・ペリーは1968年にアップセッター・レコーズを設立している。
リー・“スクラッチ”・ペリーは自身のレコーディング・スタジオであるブラック・アークを造って、キャリアが開花していくこととなる。
ドラム・マシーンや他の機材で実験を行っていった彼は銃声やガラスの割れる音、動物の鳴き声などをサンプリングしている。
彼は音源の向上のためにマスター音源にマリファナの煙を吹きかけたと言われている。
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