現代日本人の成り立ち
縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム(全遺伝情報)を解析した結果、現代日本人は大陸から渡ってきた三つの集団を祖先に持つことが分かったと、金沢大などの研究チームが17日付の米科学誌電子版に発表した。
大陸の集団から分かれた縄文人が暮らす日本に、古墳時代までに2段階にわたって大陸から遺伝的に異なる集団が流入したとみられる。日本人の祖先を巡っては、縄文人と弥生時代に大陸から移住した渡来人が混血したとする「二重構造モデル」が有力とされていたが、チームは新たに「三重構造モデル」を提唱した。
チームは、国内の6遺跡で出土した人骨から計12人分のゲノムを取得し解析。既に報告されている国内の他の遺跡や大陸の遺跡の人骨ゲノムと比較した。
すると約9000年前までの早期の縄文人は、2万〜1万5000年前に大陸から来た1000人程度の小さな集団だった。約2000年前の弥生人には北東アジアの集団との混血がみられ、約1400年前の古墳人はさらに東アジアの集団と混血していた。
弥生時代と古墳時代に、文化的に大きな変化が起きており、それぞれ異なる集団の流入の可能性が指摘されていた。金沢大の覚張隆史(がくはりたかし)助教(考古分子生物学)は「国内には膨大な数の遺跡がある。出土した人骨のゲノムを調べれば、人々の移動や混血の実態を解明できる」と話している。
毎日新聞 2021/9/21
https://mainichi.jp/articles/20210921/ddn/001/040/002000c?inb=ra
現代日本人のルーツについて新たな研究成果を発表したのは、金沢大学の覚張隆史(がくはり・たかし)助教を中心とする研究チームです。
遺跡から出土した人骨のゲノムデータを抽出し解析する「パレオゲノミクス」という手法で、今回、縄文時代から古墳時代までの人骨と中国など大陸から見つかった人骨のデータを比較、解析しました。
「これまであくまで2つの祖先集団を基本にして考えられているものですけど、今回少なくとも3つ、それ以上になる可能性があるという新しいモデルを提示したことが今回の論文のキモになります」(金沢大・覚張隆史助教)
解析の結果、早期の縄文人は約2万年前から1万5000年前に大陸からやってきた1000人程度の小さな集団で、弥生時代には北東アジアから人々が日本列島に流入し、さらに古墳時代には東アジアに起源をもつ人々と混血していることがわかったということです。
※省略
今回の研究成果について県埋蔵文化財センターの河西健二所長は。
「古墳時代の人が現代人のほぼ原型、類似しているということがわかったというのは考古学的にはすごく衝撃的」「古墳時代に須恵器が入ってくるとか金属器が入ってくるという大きな動きがあることはわかっていたんです。それが人を伴って来たのかというところはなかなか検証できなかったので、今回古墳時代に血が混じってきているのがわかりましたから、これまでの研究に当てはめながら検証することができるようになる」(県埋蔵文化財センター・河西所長)
9/22(水) 20:31配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210922-00010001-tuliptv-l16
しかし金沢大学の中込滋樹氏らによる最新の研究によると、縄文人、弥生人の他に、第三の祖先が関わっているのだという。それが古墳時代の古墳人である。
「弥生時代」(前10世紀〜後3世紀中頃)に続き、3世紀頃から始まる「古墳時代」では、馬の飼育が行われるなど、生活に大きな変化が起きている。このため、この時期に大陸からの人の流入があり、古墳人が登場したと指摘する意見がかねてからあった。
※省略
またこの研究では、弥生人や古墳人の遺伝子が大陸の人たちに近い一方、縄文人はそれとははっきり異なっており、彼らが長い間孤立して暮らしていただろうことも判明している。
※省略
しかし稲作が伝来したとされる弥生時代に、北東アジアから弥生人が渡来し、さらに古墳時代に東アジアから3番目の祖先がやってきた。現代の日本人には、こうした3集団の祖先の血が流れている。
2021年09月22日
https://karapaia.com/archives/52306005.html
★1:2021/09/25(土) 23:15:54.07
http://2chb.net/r/newsplus/1632579354/ ちょっと教えてほしいんだけど
今、仁徳天皇量の発掘やってるよね?
そこからDNAとれそうな物が出たとして、今の天皇陛下と繋がるの?
親から子へ半分だから、何世代もあとになったら鑑定しても血縁の証明とかできないと思うんだけど
>>稲作が伝来したとされる弥生時代
まだこんなことを言ってるのか?ゲノム解析してるなら稲もやれよ。
>>2
これ不思議
朝鮮半島に近い九州の人は顔が濃いのに >>10
既にある程度人口が多かったので新たに来た渡来系が住む場所が少なかったのだろう 現在の日本人と同じ古墳人は
穢族と弥生人が混血して生まれました
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多い
日本人の起源/中橋孝博
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人から最も離れている。
日本人のきた道/池田次郎
近畿人の特徴は、朝鮮半島や中国大陸に現在住んでいる人々の特徴と概ね一致する
日本人はるかな旅/多賀谷昭
マタイの福音書の1章17節に注目
https://www.biblegateway.com/passage/?search=%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8%201&version=JLB
14代・14代・14代と「14代ごとに歴史の転換点や偉人の誕生、壊滅的な出来事が現わされる世界」が神様により作られている
次に富士山噴火の歴史に注目
一度目の噴火である貞観大噴火は、14+14+14+14=56代目天皇の時に起きた
二度目の噴火である宝永大噴火は、14+14+14+14+14+14+14+14=112代目天皇が上皇陛下として存命だった時期、113代目天皇の時に起きた
そして現在の令和天皇陛下は、14+14+14+14+14+14+14+14+14=126代目
さらに富士山が噴火する時は必ず現在のように「咳の出る肺病」が大流行している
感染症と大規模災害が同時に発生する複合災害は、過去何度も起きている。
例えば平安初期の貞観富士山噴火(864年)のときは、咳逆病(しはぶきやみ・インフルエンザ)の流行が続いていた。
『日本三代実録』には「863年は前年から咳逆病が大流行し、大納言・源定、内蔵権頭・藤原興邦、平城天皇皇女・大原内親王、大納言・源弘などが相次いで死去した」と書かれている。
5年後の貞観地震(869年)のときもまだ咳逆病は収まっていなかった。
そこで朝廷は、京都の祇園社(現・八坂神社)に祭られていて疫病を打ち払う神と敬われていた牛頭天王(ごずてんのう)と素戔鳴尊(すさのをのみこと)の祭り「祇園御霊会」を挙行。
当時の国の数に合わせ66本の鉾を立て巡らし、諸国の悪霊が宿るように仕向け、そこへ祇園社の神を祭り、みこし3基を送り込んで諸国の穢れを祓い厄払いした。
以来、毎年7月30日が祇園祭として今日まで定着している。
江戸時代の南海トラフ地震ともいえる宝永地震(1707年10月28日)と、その49日後に発生した宝永富士山噴火(12月16日)のときもインフルエンザが蔓延していた。
100キロメートル離れた江戸でも、新井白石の自叙伝『折たく柴の記』に「夜に入りぬれば、灰また下る事甚し。『此日富士山に火出でて焼ぬるによれり』といふ事は聞えたりき。
黒灰下る事やまずして、十二月の初におよび、(中略)此ほど世の人咳嗽(しはぶき)をうれへずといふものあらず」と書かれており、降灰とインフルエンザ(咳嗽)で呼吸器疾患者が続出したといわれる。 仙台平野あたりまで前方後円墳が分布してるんだから、そりゃそうだと思うわ
秋田美人は革命後日本に同化した「白露西亜の血」なのだ!!
韓国からの渡来人がほとんどだろ
マヌケな古代の縄文ジャップを駆逐してなw
クソジャップは韓国に一日三度ひれ伏して毎日韓謝するべき。
ワレらが自然とともに1万年以上も平和に暮らしていたこの列島に、ある日、朝鮮半島から一重まぶたでのっぺり顔の弥生人がやってきました。
「縄文人のみなさん、どうかお願いします。朝鮮半島が戦乱なので逃げてきました。しばらくここにいさせてください」
快く迎え入れ、飢えているのを見かねて魚や獣を差し入れてやったこともあります。
ところが、朝鮮半島より列島の方が稲作というものに適していることが分かると、やつらは恩を忘れワレらに向かって、
「邪魔だから田に近づかないでくれ」などと言うようになり、遂には、「この土地は昔から俺たちのものだ」と言い出しました。
それからというもの、やつらは「福は内」と言って朝鮮半島から仲間を呼び寄せ、「鬼は外」と言ってワレらに石を投げつけました。
特にひどくなったのは、飾り付けられた馬に乗った人たちが来てからです。
ワレらを追い払おうとし、抵抗する仲間を殺し首長は見せしめに半殺しにしました。
本土で生き残った者は、前方後円墳造りを強いられ、耕作に適さない湿地や山地に追いやられました。
そして、やつらはハクソンコウの戦とやらで故郷を完全に失うと「今日からこの列島を日本ということにした」と言い、攻撃は東北や南九州にまで及びました。
東北では、ワレらの英雄がやつらに一泡吹かせましたが、騙されて京都に連れていかれ殺されました。
ワレらの楽園は蝦夷地と琉球だけになってしまったのです。
それからしばらく、蝦夷地と琉球だけは平和でした。
ところが、千年ほど経つと、やつらは蝦夷地や琉球にまでやってきました。
蝦夷地の仲間はだまし討ちにあい、土人と呼ばれ、男は強制労働、女は慰安婦にされました。
琉球は王朝を築いて発展していましたが、これも征服されました。
その後、奥二重まぶたで出っ歯の弥生人、古墳時代人の子孫は世界に向けてワレらにしたのと同じようなことをしましたが、罰が当たって戦争に負けました。
その時、琉球のワレらの仲間は、「同じ日本人だから」というやつらの言葉を信じて協力しましたが、敵の弾除けにされたくさん死にましました。
スパイの濡れ衣で殺された仲間もいますし、泣き声で敵に見つかると言われ殺された赤子もいます。
挙句、やつらは、琉球を戦争した相手の統治下に差し出しました。
今は日本に復帰したことになっていますが、基地はそのままです。
蝦夷地では、ワレらの仲間を土人と呼ぶのをやめよう、先住民族と認めようということになりました。
ところが、鮭を獲ることさえ妨害するのです。
最近は、アイヌはいない、アイヌは成りすましなどと言い、琉球のワレらの仲間も土人と呼んで侮辱しました。
蒙古襞があってのっぺり顔の朝鮮半島からやってきたやつらは、ワレらとは違う人種です。
ワレらには、本土日本人と韓国人は同じに見えるし、遺伝子的にも同じだそうです。
本土日本人は、先住民のワレらと同じ人種だと嘘をつく一方でワレらを土人と呼ぶのです。
韓国人と同じ人種の本土人は、「同じ日本人」と「土人」を都合よく使い分けるのです。
これが、日本列島全体の先住民であるワレらから見た日本の歴史です。
肌の白い金髪白人の成立もこの5000年以内の話
それまでは褐色肌で非金髪のコーカソイドしかいなかった
そもそも縄文人とは、氷河期にシベリアから来た集団(チベットと同系)と
氷河期が終わり水没した東南アジアから船で来たスンダランド人の混血。
一方、弥生人は、スンダランド人が半島で華北系の集団と混血したもの。
>>27
欧州に広く金髪・白い肌が広がったのは、
ローマ帝国滅亡の遠因になったゲルマン民族大移動
の結果。 🐴征服されてたら、声調のある言語になってたんじゃ?
よかったじゃん
ネトウヨも誇らしいだろ
お前らは中国と朝鮮半島から来た古墳人の子孫だってはっきりして
これで無理して縄文系ぶらなくていいぞ
弥生男系のDNAは今ほとんど残って無いんだよな
結局縄文男と弥生女の混血のみ行われたって事だ
D1bが今も濃く残ってるのはそういう事だろう
古墳人とやらも男子は弱かったのか女子のみ連れてきたんだろうな
まぁ日本列島に辿り着けた民族はごくごく少数だっただろうな
>>31
現代朝鮮人とは何も関係ない話だから
とっとと帰国しとけ。 >>35
これが決定打になって、新しい騎馬民族征服説が必要になった
それが古墳人なのだろうね
半島南部で見つかった前方後円墳をぶっ壊したり
三つの古墳が偶然重なっただけで前方後円墳じゃないニダ、とか
嘘ばっかついてるチョンの戯言に騙される日本人はもういないが 弥生時代前期・・・春秋戦国時代で滅亡した呉越、遅れて斉など中国沿岸部の避難民が渡来
弥生時代中後期・・・朝鮮半島南部の伽耶(倭人根拠地)経由で多くの人が往来
古墳時代・・・秦氏や東漢氏など多くの職能集団が渡来
飛鳥時代・・・百済高句麗の滅亡で大量の避難民が渡来
こんな感じかね
大陸からの渡来は断続的とはいえ大体中国がヒャッハーな事態になった春秋戦国や三国五胡十六国時代に多いんだろうな
>>2
渡来人と言っても下戸遺伝子を見ると
関西は中国南部から直接渡来だろうな
この地図は酒を飲むと顔が赤くなる下戸の人口分布図
(アセトアルデヒドの分解能力が低い下戸遺伝子【ALDH2 * 504Lyの対立遺伝子】保持者の分布図)
呉の故地、福建省広東省山東省台湾と近畿地方に集中している (華北満州朝鮮半島は低頻度)
下戸遺伝子 有 : 弥生人 中国南部(稲作民)
下戸遺伝子 無 : 縄文人 中国北部(畑作民、遊牧民) 漢民族 朝鮮人
渡来系弥生人の中国江南起源に関する人類学的研究
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-08041152/
>劉王城遺跡出土の春秋時代末期の人骨2体から抽出されたミトコンドリアDNAの塩基配列が、
>北部九州弥生人のそれと一致することも判明した。
>また、この劉王城人骨では、2体に上顎両側の側切歯を対象とした風習的抜歯痕が確認され、
>この風習でも日本の弥生人集団との共通性が認められた。
>原田博士
>他の多くの種類の遺伝子を使って人類の系統樹を作ってみると、
>2.5〜3万年程前に、中国大陸の南方でALDH2*2遺伝子が誕生したと推定されます。
>この(下戸)遺伝子は環境に中立な遺伝子だからこそ集団中に保存され、
>各集団の遺伝子頻度を調べることよってさまざまな事が分かったのです。
>もし病気と関連するような遺伝子だったならば、淘汰されて保存される
>ことは無いですから、こうやって調べることは出来なかったでしょう。 >>41
中国は歴史的に異民族の侵入で南に押し出される連続だから、古代だともうちょっと北に住んでいたのかもしれない
山東半島あたりとか >>35
サンプル4件で残ってないとするのは論外だわ 江南人は一重瞼は殆どいないが、一重瞼の関西人はやたらと多いから
関西人の祖先が江南人と言う説には賛成しかねる。関西人の容姿はどう見ても
北方系なので下戸の北方系民族もいたと思っている
>>44
日本に渡来してから下戸遺伝子が増殖したんだろ >>1
そりゃ倭国がグローバル化したのがその頃だからな
その後百済や高句麗の難民も大量に受け入れてるから奈良時代はもっと半島比率が高かったはず
今更すぎなんだが・・・ 縄文人と弥生時代に大陸から移住した渡来人が混血したとする「二重構造モデル」
にさらに渡来人を追加
飛鳥時代にも渡来人を追加している
>>47
DNA見るに弥生時代に大規模な人口流入は恐らく無かった可能性の方が高い
縄文時代には既にある程度入って来てたので恐らくそれを縄文vs弥生のようなプロパガンダに利用された
まあチャイナとかはその二重構造の方が歴史的優位性保てるからな
この対立構造説はチャイナが裕福になってからTVなどで盛んに行われた 日本人は一般的に言われる「黄色人種」ではないよ。
黄色人種(イエロー)とは韓国人や中国人のことを指す言葉であって、
日本人はむしろ白人の仲間と欧米では考えられている。
>>32
半島から女さらってきたんやろ
海洋民族って昔から海賊とワンセットだし 古墳時代に来たのはほとんど韓国人。何を中国人かのように捏造してんだろ?
百済人は畿内に多く定住し、高句麗、新羅民は関東平野の開拓で送られた。
埼玉県志木市は新羅(シラギ)→シキへと変化したもの。
東京都狛江市は高麗(コマ)郡が狛江と変化した。
駒場など馬に関する地名が多いのも渡来人が馬を育ててたから。
彼らが関東武士になって朝廷と対立した。
>>53
古墳時代の現在の朝鮮半島南部の韓国地域は倭人しか住んでなかっただろう
当時のどの民族を韓国人と呼んでるのか? 倭人=朝鮮半島人なんだよ。それが増えて日本列島にまで押し寄せてきた。
>>55
朝鮮半島人には間違い無いけどそれ航海に長けてた縄文人だよね
後に同じに地域に任那日本府も作ってさ
この民族らは皆縄文人だと思うよ
前方後円墳も全て今の韓国地域に残ってて
ようは古代の南朝鮮は日本人が長く住んでた今の北海道みたいな土地だったんだな むしろ今朝鮮南部に住んでる民族はいったいどこから来たのかを解明するのが先
少なくとも弥生や古墳期にはいなかった種族が現代の韓国人
日本人のアイデンティティとして縄文D1b遺伝子が他には見られない独自の個性あるけど
韓国人アイデンティティってあるのかね?
彼らは何人なんだろう?
歴史的に半分はモンゴル人の血だと思うけど
]>>59
全然違う
韓国の五大姓(人口の半数)の出自
慶州金氏 新羅王家 C2____ ツングース系
李氏__ 李氏朝鮮 O2 M134 漢民族系
朴氏__ 新羅王家 O1b2a2a_ 沃沮、穢系
鄭氏__ ____ C2____ ツングース系
韓国の五大姓(人口の半数を占める)のY染色体C2率とO1b率
・金(992万5949人) O1b率28.8% C2率21.2% C2が21.2%と特出している 韓国人全体のC2率は12.6%
・李(679万4637人) O1b率31.5% C2率18.8%
・朴(389万5121人) O1b率46.5% C2率12.7% O1bが46.5%と特出している 韓国人全体のO1b率は31.4%
・崔(216万9704人) O1b率___ C2率12〜13%
・鄭(201万0117人) O1b率___ C2率24%以上 C2が24%超と特出している 韓国人全体のC2率は12.6%
李氏
韓国の父方のハプロとM134李成桂モーダル-1
http://yayul.egloos.com/2902477
金氏
キム(金)氏の父方のハプロ分布推定
http://yayul.egloos.com/2896475
5475051
>2006年、韓民族の起源の研究用役研究で東部、朝鮮半島、のハプログループCシリーズ
>(CおよびそのSubgroupを区別しないものであること)の割合が28.6%と高騰する現象(下図参照)
>が発見されて大きな関心を起こしたことがある。
>しかし、このような現象は、上記の現代韓国人のデータでは確認されていない。
>モンゴルのように時代の変化を考慮するか、またはまだ標本数があまりにも小さいのにによる歪み、
>乃至、特定の支配集団に限られた遺伝的特性に見なければならない。 >>59
古代の新羅、百済時代は比較的日本人に近い
後に靺鞨など、沿海州方面から来た人々が朝鮮に増えて、それらの系統が李氏朝鮮を作る時代では日本人に近い朝鮮原住民は下層階級として虐げられるようになっていた 後三国時代(後高句麗、後百済、新羅)が終わって、高麗が建国された。この高麗は高句麗の遺臣が建国した国であった。が、しかし、大部分はかつての新羅人であり、後期になる程、新羅語になっていった。
高麗は一時、元帝国に占領されたが再び独立した。この後に革命が起きて、李氏朝鮮となった。この革命で支配層の白丁は最下層の賎民に落とされてしまい、かつての賎民が支配層となった。
このかつての賎民とは、渤海国あたりに居住した靺鞨人の末裔で、朝鮮半島にも想像以上に流入していたようだ。彼らの言語が現在の朝鮮語であり、文字がハングル文字であり、それまでの高句麗・新羅語とは異なる言語と考えて良い。この李氏朝鮮の人々の末裔と彼らの言語が、それぞれ、韓国・朝鮮人と朝鮮語である。
すなわち、高麗時代に書かれた三国史記や三国遺事は現在の韓国・朝鮮人の先祖の歴史書では無かった。
高麗と李氏朝鮮の違いは、
@言語が高麗語から朝鮮語になった。古代朝鮮語とは実は高麗語(高句麗・新羅語)であり、日本語に近かった。
A 宗教が仏教から儒教になった。
B 支配者層と支配された賎民層が入れ替わった。
C 漢文の読み書きが漢文訓読から直接翻訳になった。
D 朝鮮語を書きあらわすハングル文字が発明された。
、、、など、文化的断絶が大きい。
>>53
高句麗百済が滅んだ時代ってずっとあとやぞ? 縄文、弥生、
亡命ゲルマニア人、モンゴル系匈奴、
古代朝鮮人、漢四郎、
百済、新羅、高句麗
モンゴル系鮮卑(壬申の乱のころ)
10種類ぐらいは混ざってる
世界的にみても
王皇族や位が高い部民は
政略結婚で地位を保ってるから
そのあたりのDNAを調べるべき
>>59
王族と済州島以外の朝鮮にはモンゴルの血はほとんど入ってない。全土で漢民族の血が濃いが、南部になるほど縄文の血が濃くなる >>69
現代韓国人からD遺伝子はほとんど見つからないから縄文の血は入ってないでしょ 縄文人が朝鮮半島から渡来したのなら九州が1番縄文遺伝子が濃くなければ
いけないし、九州から東に行くに従って縄文遺伝子は薄くなるはずだが
東北などは濃いので、縄文人と一括りでは無くて南方系と北方系の
縄文人がいたのでは無いのかな?
>>73
縄文人は朝鮮半島の各地から渡来した人たちの子孫だよ。
九州地方は阿蘇山等の噴火で絶滅に近い結果になったが。 >>76
東北地方から渡ったものの子孫。
津軽海峡横断遊泳というのがあるが、北海道から津軽海峡には泳げないが、津軽海峡から北海道には何人も成功している。
ヒグマも本州から北海道に渡ったものが生き延びた。
朝鮮半島のゴミが日本列島に流れ着くが反対はないのと同じ。
丸太船では逆の結果は出せないのだよ。
アイヌが東北に進出したから本州にアイヌ語地名が残っているわけではなく、本州には縄文人がいたから本州に縄文語地名があり、それをアイヌ語で読み解けるというだけ。 こういう縄文人とか何とかって
わざとチョンを誘き寄せてセルフネガキャンさせるために話題振ってるようにしか思えんな
百済は元々は扶余、高句麗、新羅、朝鮮などの種族は中国東北部の
広大な満州平原で暮らしていたが先祖はエベンキから派生した
ツングース系の狩猟民族 それほど大きな違いがある訳じゃ無い
>>1
古墳時代は朝鮮半島に攻めに行った
矢印の方向が逆だ 弥生時代以降に朝鮮半島から日本に渡来したのは殆どが関西〜東海〜関東に
住み着いているから関西人や関東人が朝鮮人に似ているのは仕方が無い
耳垢とか指紋とか縄文人弥生人の特徴といわれるものが
片方だけじゃなく両方あるのって普通に両方が先祖にいるってことなのかな
いちいち朝鮮人がこういうのを曲解して
日本に住む正当性を得ようとしてるが、
現代朝鮮人には何の関係も無い話だからな。
>>32 >>35
見れる部分だけだと「国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=」の
父系の遺伝子は縄文系の近いグループに多くが位置付けられる、ってことだから
この遺跡の人骨だけでも「縄文男と弥生女の混血のみ」じゃないくてあくまで多くだし
この遺跡だけの分析で全てがそうだというほど広範囲の調査結果じゃないが >>80
稲作は朝鮮半島より九州が先
中国人から見ると、朝鮮半島より南の九州を
先に目指すのは当然のこと
稲作が定着すると人口が急に増えるから
戦力で優位になる >>90 ※いつまでもウソを書くんじゃ無い
国立歴史民俗博物館のHPより引用
大坪里遺跡(朝鮮半島南部)我が国で最初に水稲稲作を始めた
唐津市の菜畑遺跡よりも約200年早く稲作開始
松菊里遺跡(朝鮮半島中西部)菜畑遺跡とほぼ同時期に稲作開始 >>90
魏志倭人伝の時代になっても朝鮮半島から来てるよ。朝鮮半島から見える対馬、対馬から見える壱岐、壱岐から見える九州というように見えるところを伝ってやってくる。 稲作・養蚕・高床式……
日本文化の起源は弥生
劣等縄文では断じてないぞ
騎馬民族征服王朝説は、日本文化は弥生時代の移民によって形作られたが、その後朝鮮半島南部にあった騎馬民族をルーツとする半農の王朝が新羅の圧迫を受けて九州北部に到着し、瀬戸内海を通って畿内を征し都と定め古墳時代となったというもの。
その通りとしか言いようがない。
これに反対する説は、騎馬民族文化なら去勢をしたはずだが日本にはその文化がないとか言いがかりに近いことをいう。
古墳時代には邪馬台国の時代にいなかった馬が重用されたのは事実なんだし、去勢していたかいないかは不明なんだよ。
戦国時代に去勢した記録がないらしいが、もろに騎馬民族みたいなのが活躍した戦国時代にしてない理由がどこにあるか検討した方が良いと思うわ。
朝鮮半島Wikiから
朝鮮半島の気候は、南部においては温暖で湿潤な温帯で夏は蒸し暑く、一方で冬は緯度の割りに寒冷である。北部は亜寒帯から寒帯であり、また山地も多いため夏も冷涼で冬の寒さは非常に厳しい。地球上における同緯度の他地域と比較しても、高地を除いて世界で最も亜寒帯が南下している地域である。西部は対馬海流の支流が黄海に流れ込むので比較的暖かいが、東部は対馬海流が日本海北部で冷やされて南下しており(リマン海流)、寒さに拍車を掛ける。朝鮮半島の中で最寒の地とされるのは、鴨緑江上流の中江鎮である
以上から、水も冷たく米の稲作には不向きで紀元前に米作が出来てたとは絶対に思えない
>>58
88%の「渡来人」と思い込んでるのがすでに倭人なんだろ。
半島南部の倭人を。
日本人と韓国人が似ているのは、半島に取り残された倭人が
韓国人の先祖になったから。
朝鮮人の遺伝子は大半が倭人と中国人のミックス。
歴史書に記述とも一致する。 >>97
そもそも倭人というのが朝鮮人という基本を忘れてないか? >>95
騎馬民族征服王朝説はそもそも根拠がない
その論が遺跡の痕跡などで実証できてない空論に近いもの 航海技術が発展する前に日本列島から朝鮮半島に渡るのは無理。
朝鮮半島のゴミは九州から東北まで広く流れ着くが、日本列島から朝鮮半島に流れ着くことはない。
米の稲作の発祥は長江南部であるから、朝鮮半島に稲作を伝来するには、米の栽培が出来ない地域を通り伝来したことになる
よって、そんなことはあり得ない
そもそも、部族の違う中華の国々を横断して向かった事になる
それも無理
朝鮮半島から日本への伝来はあり得ない
朝鮮人のウソ、もう性質だな
>>100
縄文時代から公開技術はあったはず
船は木製だから物証みたいなのは出土しないけど 済州島あたりに対馬海流に乗って長江文明の難民が流れ着いた可能性ならある
だが半島は無いだろ
>>1
たしかに石川県や新潟県は日本海の対岸の国と顔や背格好が似ていて明らかに人種が違う雰囲気があるわな
冬ソナとかに出て来そうな人も多いね
山形県の辺りも瞳の色が青っぽい人もいて人種が違う感あるわ >>91
もろに倭人のエリアじゃんw
朝鮮半島で一番古い稲作遺跡は任那地域にあり、
中国人が倭人が住んでいると書いた土地だったw
倭人が水稲稲作を半島で始めて、日本に持ち帰って日本列島で広がった。
朝鮮では南部の倭人のエリア以外では広がらなかった。
5000〜3000年前は、半島南部と日本の日本海エリア、中でも西日本の特に九州北部と交流が多かった。
環日本海文化という。 >>98
倭人が朝鮮人?
ってことは、日本人はすべて朝鮮人?
じゃあ、今の朝鮮人は何なんだ? 古墳時代AC250年から650年ごろまで
百済は日本人が土地だったからな
百済の王は、天皇家の家臣
古墳時代AC250年から650年ごろまで
百済は天皇家の土地だったからな
百済の王は、天皇家の家臣
新羅に敗れて、帰国しただけだから
その後、モンゴル勢が朝鮮半島を影響下にし
AC700年ごろからは中華の属国になった
1500年代になって豊臣秀吉が百済を奪還しに半島へ軍を送り込んでる
>>35
たったこれだけで断定するのって、カルトだなw 九州には山のような甕棺墓がある、もちろん人骨も。
日本各地には少しは縄文人コツがある。
大阪の国府遺跡には多くの人骨が出た。
このあたりを調べてからだな。
福島と利尻島の縄文人の遺伝子を12%しか引いていないから日本人は縄文人の遺伝子は少ないといわれもなあ。
たったそれだけしか調べてないのに、そう言い切るって
科学的だと思えんな。
ほんとに科学者なのかね。
ただの・・・
>>113
現韓国人と現日本人の差もほとんど無いんだから
縄文人が子孫をたくさん残したという仮説を支持する方が無理あるやろ🤔 >>113
何をもって縄文人の定義とするかだが、例えばハプログループD1a2aを縄文人の定義とするのであれば、現代日本人に占めるハプログループD1a2aの割合は既に分かっていると思う 縄文時代やさらにその前の石器時代にあったのはせいぜい丸木舟。それで日本列島から朝鮮半島に渡れるわけがない。
ところが朝鮮半島からは何もしなくても日本列島に流れ着いてしまう。この事実は大きいよ。
ヤマト王権の設立グループがそもそも渡来人である可能性もゼロではないから。
>>107
倭人のエリアでも、稲作が始まったのは北部九州では無くて朝鮮半島が
先だったと言う事だぞ。この意味分かるかな? >>116
縄文人は朝鮮やエベンキと似た人種だと思われる
が弥生人は違うのよね、船に乗って日本の九州南部、四国、紀伊半島に上陸してると思われる、その弥生人が米作を持ち込んだ
豊かになり、いっきに人口が増えてる 日本は1万5000年前〜1万年前に海で隔てられたのに
そんなたくさんの人が海を越えて日本に来れるはずがない
徐福と一緒に来た人もせいぜい数百人だろうし
徐福が来れたのは始皇帝の資金援助があったからだし
民間人が数万人単位で海を越えるなんてありえん
氷河の上を歩いて渡った人の方が圧倒的多かったと思うがな
北方系でまとめると縄文人と朝鮮人のルーツは近いやろ
>>118
朝鮮半島は倭人以外には誰も住んで無かっただろう
少なくとも5000年前から1万年間は無人の土地だった事は発掘調査で証明されてる
稲作を始めたのはいずれにしても縄文倭人達 >>120
朝鮮半島の沖合に出ると、動力ない限り日本列島に流れついてしまうんだぜ。 >>120
つまりあれか、日本人はヒトじゃないと。 >>113
俺も全く同感、縄文遺伝子の割合はもっと多いと思っている
但し地域により違うはずで、そもそも弥生時代の関西地方は縄文人が
いた形跡が少ない。いたとしても渡来人が来たので逃げ出したか、山の中に
隠れ住んだんだろう >>122
その倭人というのが朝鮮半島ルーツなんだよ。もっと言えば中国だけどな。
それが対馬海峡渡って日本列島にやってきたんだよ。 小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号
畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、 東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。
このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、 東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、 東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に 一致することは興味深い(以上、75頁)
(追加)形質人類学的にみた未解放部落
われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調 査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。
(中略)
身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅 は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、 一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国 東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。
大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持 つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ ているものと思われる。
(大阪大学医学部教授)
古墳時代に縄文人と弥生人の混血は、ほとんど終わり
今の日本人の形になったと言う話やからな
>>126
朝鮮半島に前方後円墳を作ったのもそいつらだと?
倭人は縄文人だろう
何で韓国は国内調査しないのかね?日本の調査団なら一年で全て明らかに出来るだろうに 天皇家は弥生人で
遣隋使や遣唐使に持たせた
書簡も漢文だったと思う
古墳時代になり、平民が使っていた縄文語と
弥生が持ち込んだ漢文とが混ざり
今の日本語に進化したんじゃないかな
>>130
倭人(わじん)は、
1. 狭義には中国の人々が名付けた、当時、西日本に住んでいた民族または住民の古い呼称。
2. 広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から西日本の範囲の主に海上において活動していた民族集団。
一般に2. の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり、「倭人」の語が1. を指すようになったものと考えられている。 >>133
だよね。
倭人が日本ルーツだと誤解する人がいることも分かるが、それでは歴史の話はできないね。 >>133
結局日本人だよね
日本国成立前だから便宜上倭人と呼んでるだけで
中身は縄文人に他ならない
3万6千年も前から日本に住み続けてたら当然朝鮮半島は日本の土地だったろうな
ほぼ地続きなんだし 前方後円墳をつくれる土木技術は渡来人じゃないと無理でしょ。
倭国の都が畿内だったことに変わりは無い
遣隋使も遣唐使も難波から出港してる
>>139
それ矢印が全部逆なんじゃ無いの?
そもそも半島原住民とやらは存在しない
一万年以上まったくの不毛な無人半島だった事はわかってる
さて誰が前方後円墳を建設したんでしょう
日本より遅れて >>141
半島には倭人しかいなかったと言ってなかったか?
その倭人はワイ族と言って、>>139のルートで日本列島に稲作をもたらしたんだよ。 >>142
濊族はもっと遥か後にモンゴル人にくっついて来た民族だろう
1000年前に白頭山噴火でモンゴル人が逃げ帰って残された民族
その末裔が今の朝鮮半島人だと思ってるけど >>139
水稲稲作が日本に伝来したのは紀元前10世紀頃なので紀元前473年よりも
遙かに前の時代。その当時の船や航海技術では東シナ海を横断して
北部九州に来るのは不可能。稲作伝来は山東半島→朝鮮中西部→朝鮮南部の
順番だ >>144
この絵の済州島ルートは自分も怪しいと思ってる
小集団と書いてあったからまあいいかと思って無視してた 1200年代の80年間に続く蒙古襲来で朝鮮人の男は殺され女はレイプされで、ほぼ人種の総入れ替えが行われたと思ってる
蒙古に金魚の糞みたいに付いてきた濊族が最後大将が居なくなったのを良いことに国を乗っ取った感じか
だからそれ以前の古代の話は現代韓国人とはまったく違う民族のお話だと思って読んでる
>>146
このスレはそれ以前の古代の話に関するスレなんだが >>148
古代朝鮮人の血は現代朝鮮人にほぼ受け継がれていないという念押しなだけ
日本に文化を伝えたと喧しいから一応ね 群馬で見つかった古墳時代の鎧の武者は朝鮮人だという話。
近くで見つかった女性は長野だか東北だかの人、そしてその子供だと思われる遺体
火砕流に向かって正座してたんだよね
外国からきて家族を作って火山から逃げられないと覚悟して最後に振り向いておりゃーと向かっていった勇敢な姿が想像出来るんだけど優秀で勇ましい人が渡ってきて子孫を残していったのかな。
>>150
どうやって朝鮮人だと特定出来たんだろう?
古墳期の朝鮮人の遺骨ってほぼ無いんじゃない? >>95
虚勢だけでなく遊牧民の装備である短弓と片刃刀もないぞ
というかこれらがあったのはヤマト王権ではなくこれと敵対していた東北の蝦夷なんだが
蝦夷が沿海州から日本海を渡った移民かそれに影響された連中だった可能性は高い
ヤマト王権はどこからどう見ても農耕民族だよ 古墳をけむじゃくらのサルに近い人間が作ってたとしたらビビるわ
ほとんど俺らがやってたようなもんだろ
弥生人が日本へ渡って来たのが
春秋戦国時代だとすると、呉の難民が朝鮮半島を経由できるはずがない
>>155
山海経には倭は燕国の属国ってことになってたが >>101
江南から九州へ東シナ海を横断するのと
山東半島から朝鮮半島へ黄海を横断するのなら
どちらが困難か馬鹿でもわかるだろ >>70
Y染色体がなんなのか全く理解してないでしょ >>159
うーん解ってなくも無いと思うけど
現代朝鮮人からD1b遺伝子見つからないでしょ
日本人より古い遺伝子が見つかれば驚きだけどさ 現代の韓国人の先祖は日本人女性でしょ?
ただ北方から頻繁に騎馬民族がやってきて男は殺して女をレイプしたから
男系には日本人の遺伝子は残ってないけど
>>10
でも福岡は気質が朝鮮そっくりだよ
福岡から関西まで分布して関西に都市を作っただけでは 弥生人のルーツは北東アジアってことになってるけど満州あたり?
稲作できない地域だけどどう説明する?
渡来人なんてデマだろ
もともと日本に住んでた人の食生活が変化して体型が変わっただけだ
海に隔てられてるのに民間人が来れるわけない
もしそれが可能なら現在の技術なら北朝鮮からみんな船で来てるよ
来たとすれば、始皇帝が金出して徐福が数百人程度引きつれるのが限度
満州で米の稲作を始めたのは日本人だからな
それまでは麦がメインな
北京でもコメは食ってないから
この中に目が吊り上がって小さく、エラが貼ってパーツが顔の中止に集まってる人がいます
逆に日本人が世界に渡来してたんだと思うよ
黄河文明も長江文明もシュメール文明も縄文人だと思ってる
3万年以上の歴史が証明されてる民族って他にいるのかね?
現存する最古の民族とギネスに載ってもいいレベルの日本民族だろう
>>166
北京も満州(の渤海沿い)も、紀元前3000年には水稲を始めている。 >>143
濊族のWikiいっぺん見てこいや馬鹿タレ
人尿洗顔の挹婁とは違って、殷に近い文化の民族だ >>168
3万年まえの世界各地の人類を「日本人」と呼ぶことにすればそうなる。
日本は存在しないが、そう呼べば。 >>173
気候は一定ではない。
温暖期の地層から水稲跡がでている。
近代では稲作は可能。
遺跡が出るのだから否定のしようがない。 >>174
上海や南京の米でも食えるレベルで無いのにか >>95
漢民族は西戎や西涼の異民族から馬を買ってただけで騎馬民族ではないからでは
漢民族は馬飼いでしかないから去勢は伝わって来なかった >>150
子供の首が転がっていたので、生け贄だろう。
家族なら鎧着てる間に逃してるよ。 >>176
去勢なんてやろうと思えば思いついてやれるよ。 >>171
世界各地?
3万年前の人類なんて数えるほどしか見つかって無いだろう
縄文人は現存する最古の民族だと思うよ
現在の日本人のDNAに確実に残ってるわけだし 平安人と鎌倉人と江戸人は
やはり顔つきや体つきが違うの?
昭和人と平成人と令和人も?
鎌倉時代の日本人は頭が長く目と目の間がぺったんこで出っ歯で黒人ぽかった
何で弥生人や現代人と違って出っ歯で頭が長かったか解明されてない
江戸初期なら鎌倉時代に近いが、幕末なら今生きてる世代に近い
戦後生まれは戦前生まれより鼻の下が短く顎も小さい
昭和50年代生まれ以降は体型が中性化してきた
>>24
逆。
4成紀、農耕民族の倭国が朝鮮半島に進攻。
百済や新羅を配下にした。
高句麗の好太王の石碑に書いてある。 >>181
現代でも地方によって違うよ
体毛とか身長とか顔つきとか >>182
関東人のスタンダードでは?
色浅黒く、鼻筋が通らず、あごがゴツい。
江戸時代でも、西の公家顔vs東の武者顔の対比はそんな感じ。 >>183
そもそも朝鮮半島に進出ということが間違いだと思う。
以下にWikipediaからのコピペを載せるが、「倭」が日本列島とは書かれていない。
倭人は朝鮮半島から次々と日本列島にやってきた弥生人だとするなら、「倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った」とあることからも、「倭」の本拠地は「任那・加羅」と見るべきだろう。
また、「百済と通じた」とあり、百済を支配などしていない。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[5]。 >>178
去勢は馬集団の管理方法と一緒に発展してる
そう簡単に思いつくもんじゃない
日本にはほぼ同じ事する羊飼いもいないし 茨城には木田余(きなまり、きだまり)という地名があるので
磐余もいわまりと読みたくなる
ここは意外に考古学話題が盛り上がるよな。
さすが5ちゃん、高学歴ばかりだな。
>>178
日本では騎馬民族と表現しがちなように、理解が浅い
狩猟民族、遊牧民族、農耕民族というような観点で言えば
狩猟民族は動物を狩るだけで動物を飼い慣らす事はしない
遊牧民族は牧草を求めて動物の群れと共に移動しながら飼うので
去勢して荒々しさを取り除いた動物の群れを飼い慣らすという文化
中国の宦官はそれを人間に適用しているパターン
蛇足だが、遊牧民族は人間を家畜のように飼い慣らすスキルがあるので農耕民族を支配する事が出来た
農耕民族は牧畜をしないので動物の群れで牧草を求めて移動しながら飼う事はしない
少ない頭数を相手にするか、多い頭数でも柵の中に閉じ込めて飼うかなので去勢まではしなくても飼う事が出来る
逆に武士が荒々しい駄馬を乗りこなしてドヤ顔してたりする >>163
弥生人っていう特定の1種族が渡来してきたわけではないだろ
それこそあらゆる地域から継続的に移民が渡ってきた
様々な地域の風習が伝わって来てても不思議じゃない >>190
普通遊牧民って言うよね
誰が騎馬民族なんて言葉を使いだしたんだろう >>95
いや・・・日本が馬の去勢するようになったのって明治になってからやぞ 誤記修正
✕:
農耕民族は牧畜をしないので動物の群れで牧草を求めて移動しながら飼う事はしない
少ない頭数を相手にするか、多い頭数でも柵の中に閉じ込めて飼うかなので去勢まではしなくても飼う事が出来る
○:
農耕民族は動物の群れで牧草を求めて移動しながら飼う事はしない
農耕用などで少ない頭数を飼うか、家畜用で柵の中に閉じ込めて飼うかなので去勢まではしなくても飼う事が出来る
国内でもそうだったけど、これだけ海外に戦争をふっかけるのが好きな民族はアジアでも日本とモンゴルだけだよ。
日本は明らかに戦闘民族。
中央政権による地方制圧
中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。
その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、
その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。
第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。
東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。
若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。
陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。
そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。
このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。
焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。
このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。 四道将軍の地方制圧
北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。
『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。
翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。
山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。
『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。
中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。 池田次郎『日本人のきた道』より
大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。
古墳人骨がほとんど出ていない東海・中部地方・東北北部を除く日本列島を九地域に分けると、古墳人集団は三群に分けられる。
第一群は畿内集団だけで、これには畿内現代人が入る。
第二群は南九州・西九州・北陸の三集団で構成され、これには津雲縄文人、西北九州弥生人が属す。
第三群は第一群と第二群の中間に入るが、第一群により近いグループである。これには北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部の五集団が北九州・山口弥生人とともに含まれる。
第一群と第三群を渡来系古墳人、第二群を在来系古墳人とよんでおく。
第一群の畿内古墳人は、高顔と鼻根部の平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている集団である。
また、短頭性がもっとも強いが、この頭形は現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性である。
古墳時代・奈良時代の人口密度がもっとも高く、大和王権の拠点であった畿内は、古墳時代になっても朝鮮半島からの移住者を大量にうけ入れた地域だった。
畿内古墳人が、韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人からもっとも離れているのもそのためである。
資料の約半数が筑前・筑後・豊前から出ている北東九州・西中国古墳人の中心は福岡の平野部にあり、そこから南へむかっては南九州古墳人の、西へむかっては西九州古墳人の縄文人的特徴への傾斜を示すが、
豊後の山間部だけは特別で、そこには古い体質を保持しつづけた古墳人が居住していたのである。
資料の約八割が関東地方から出ている関東・東北南部古墳人は、顔面平坦度や頭蓋小変異の出現頻度で縄文人と大きく異なる。
身長は畿内古墳人とともに古墳人のなかでも高身長の部類に入り、頭蓋・四肢骨のすべての特徴に大陸的・農耕民的要素が認められる。
頭蓋計測値で第二群に入る北陸古墳人は、鼻根部の平坦度がやや弱く、低身長で、四肢骨の特徴にも縄文人的要素がみられる。
しかし、縄文人との距離は畿内現代人と同じくらい遠く、むしろ第三群の関東・東北南部古墳人に近いので、同じ在来系古墳人でも南九州・西九州の古墳人と同列に扱うことはできない。
頭蓋計測値(11項目)の形態距離に基づく古墳人集団の関係(男性)〔池田次郎〕
渡来…畿内
縄文…南九州・西九州・北陸
中間…北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部
古墳時代から奈良・平安時代にかけて、政治・文化の中心部と辺境部の住民のあいだに明瞭な違いがあることは、各地の古墳人の特徴からも明らかである。
奈良時代、大和人にとって言語や風俗習慣の異なる異様な存在は、『古事記』、『日本書紀』など古典にあらわれる隼人・熊襲・肥人・土蜘蛛・国栖・蝦夷など古代の異族であった。
『古事記』、『日本書紀』、『風土記』によれば、土蜘蛛の分布は九州から東北地方までの十〇ヵ国にわたり、そのなかには大和も入っている。
水野祐によれば、『風土記』に記載されている北部九州の土蜘蛛の半数は肥前国西北部の沿岸に居住し、アワビなどをとっていた潜水漁労民で、『魏志倭人伝』にいう倭の水人とはこれらの土蜘蛛だったという。
西北九州弥生人が漁労を主生業とし、縄文人的な形質をもつ在来系弥生人であることを考えると、肥前の土蜘蛛はこれら弥生人の体質を守り通した漁労民だったかもしれない。
残り半数の北部九州の土蜘蛛は、豊後の山間部に住んでいたと伝えられているが、この一族は古い体質を残している豊後古墳人となんらかの関わりがあるのかもしれない。
隼人・熊襲・蝦夷・土蜘蛛は、いずれも辺境の地に割拠していた異族であるが、大和にも国栖とよばれる異族が住んでいた。
吉野川上流域の山岳地帯で狩猟民として独自の文化伝統と体質を守りつづけていた国栖は、大和人と接触する機会が多かったために、その異様な習俗と風貌がとくに目をひき、異族として扱われたのだろう。
池田の説明では弥生から古墳時代にかけての渡来集団は連続的に捉えられています。また、縄文人の形質を残す集団もいます。
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
前方後円墳がある都道府県は下記の通り
奈良県
京都府
大阪府
滋賀県
岩手県(東日本唯一)
意外にもたった5府県しか無いのである
>>201
嘘つけタヒねや無い都道府県の方が少ないわ ADMIXTURE分析
縄文成分
アイヌ50〜100%
沖縄30〜40%
ヤマト12〜28% >>203
それで白人ハーフやクオータに嫉妬しまくり 眼窩 高く浅い:低く深い
寒冷地適応 高く浅い
>>205
北海道の縄文扱いに違和感
なぜなら1880年まで北海道は人口20万しかおらず
大半が全国各地からの移住者だから。 >>49
紀元前200年頃に秦が滅亡したので、流民が朝鮮半島へ南下し日本にも来てたと思う。
そこで、土木技術やらが北九州に入ってきたかも。 縄文人は弥生人とセックスしたい
弥生人は縄文人とセックスしたい
混血具合から証明されてる
縄文人と弥生人が結婚するのが一番幸せ
>>183
その通り
騎馬民族の服装が出てくるのは倭の半島/大陸進出を示す証拠でしかない 今は弥生時代は紀元前10000年とか言われるし
稲作なんて関係ないこともわかってる
>>8
いま紀元前10くらいになりましたよね、弥生時代
昔はその頃はまだ縄文時代って習った >>38
朝鮮半島でやらかすとみーんな日本に逃げ込んできたから、日本国内で朝鮮半島での諍いを継続
部落差別は朝鮮人が持ち込んだもの >>23
これが本当かどうかは知らんが
なんかアメリカ建国の歴史に似てるな >>203
現代のアジア人特に日本人は白人の
美醜の価値観を植えつけられてるからな >>217
東京と北海道の資料は当てにならない
各地からの寄せ集めだから >>144
なんでこっちから稲を貰いに行く前提なのさ
簡易な構造船ならむこうは持ってたでしょ ヤマト王権自体が司馬仲達に追い出された大陸勢力の可能性があるからね。突然巻向に現れているんだから。
大陸から船でやってきて、そこらを歩いてる言葉も通じない土人なんかとよくセクースする気になれたもんだ
>>227
構造船で来たのならその技術の痕跡があって然るべきだしそれがどうして失われたのかが気になる
この先発見があるかも知れんが >>115
ハプログループは支配してたグループを推定できても、最大多数のグループの推定はそれでは無理。
つまり、縄文人にD系統が多かったならその時点から日本人の支配階層は変わっていないことを意味する。 アレクサンダー大王のころには中国と海上交易が行われている
当然造船技術もあったろう
長江流域で稲作をしていたのが既にチベット由来の民族だったのだろう
異民族支配(黄河流域 北方)から身を守る為に日本に向かったのかな〜
縄文人はスンダランドから来たのだろう
暖かい地域の方が文化は活発だと思う
両極が凍り付いた状況では海流も弱かったはずだ
島伝いに来れたのかもしれない
海面上昇でスンダランドが水没して
日本に来たのだろう
その頃は半島あたりは気候が厳しくて人は多く住んでいなかったのだろう
温暖化して他所から来たのだろう
北から稲作は伝わらないのだな
>>211
辰韓は秦韓とも言って大陸系の韓ですよね。
天日槍は実は辰韓の時代、紀元後2世紀頭に渡来したのだそうです。
現在では日本書紀に倣って新羅の時代としているようですね。
筑紫の国も昔は筑秦国と言ったそうです。
ま、そりゃ昔から属国だったのだから朝鮮半島にも進出しますよね、当時の日本はw >>200
日中の歴史書が一致して倭人=非大和朝廷としてるのに
現代の学者が倭人・邪馬台国=大和朝廷なんてでっち上げるのはなぜなんだろう 現代中国が起源として黄河文明を主流において、揚子江以南の文明を抑圧してることの影響が
東アジア全般に及んでるんじゃないかな。
中国南部の寧波ニンポーあたりから日本の北九州への海路はかなり古くからあったはず。
台湾から日本へ到達するのはかなり難しいかもしれないが、それより少し北のニンポーなら
日本に来れた。
>>95
去勢してたかどうかは考古学的に分かる
また文化的にも深い影響があり
聖書の色々な概念は遊牧なしでは成立しない
遊牧羊社会がユダヤ教徒社会に当て嵌められているのは明らかであり
特に去勢誘導羊のキリストへの反映については谷泰の先駆的研究がある
イエスを羊飼いに当て嵌める考察は以前からあったが
去勢誘導羊も念頭とおかないと理解しきれない挿話が多い
こういう事は記紀にはない
遊牧は行われず家畜がいるだけだからだ
屠殺も聖なる行為とは認められず賤民の仕事という位置づけだ
これは常用食としておらず屠殺は日常的な行為でなかったことを意味する
ミトラ教のミトラス神は極端としても
この手の類の儀式が残ってないとおかしい 騎馬民族征服王朝説は佐原真が鬼のように叩いたので根拠なく否定されてるが
モンゴルみたいな馬上戦闘集団が突如襲来して征服したって説ではなく扶余・高句麗辺りの半農遊牧民が南下して百済や伽耶にいたのが馬連れてやって来たって話だからまあその通りだよね
今回のゲノム解析はその傍証になり得るのではないかと
>>238
倭人を日本人だとしたくない謎の勢力のせいでは >>241
少なくとも馬具を神聖視してた奴が
支配者として力を増して来たのは間違いない