歴史学界の闇 古墳論のトンチンカン 【重鎮 老害】
>>402 どちらがより信憑性があるか?
後漢書郡国志自体は楽浪郡だけのデータではないが
楽浪郡は中国国内の一地方
そこの戸籍は税の取り立ての元となる
当時遥かに日本より進んだ統治機構が成立している中国の人口が
信用できないレベルなら、倭国のことを書いてるなんて信用できるはずがない
>>428 現地語を書く文字がなくても、漢文が読み書きできればいい
播磨風土記に大鷦鷯天皇と難波天皇が別人として描かれている
大足姫の子で4世紀後半の大鷦鷯天皇と仲姫の子で5世紀中頃の難波天皇を合わせたのが仁徳天皇かもね
古事記では応神のところ、日本書紀では大鷦鷯天皇のところで、姫島で雁が卵を産んだエピソードがある
で大鷦鷯天皇と竹内宿禰が和歌のやりとりをする
たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生と聞くや
高光る 日の御子 諾しこそ 問ひたまへ まこそに 問ひたまへ 吾こそは 世の長人そらみつ 倭の国に 雁卵生と 未だ聞かず
汝が御子や 終に知らむと 雁は卵生らし
難波天皇は雁の卵かもしれないね
雁は托卵するのが特徴やね
丹波氏が天皇家の外戚として、
後の世まで権力を握っていたことを考えると、
キングメーカーとしての神功皇后を
想定せざるを得ず、
丹波氏が全国に散らばる歴史のエピソードとして、
大和武尊の東征も事実として考えざるを得ない。
107年とか2〜5世紀の「当時もの」
の文字らしきモノが無さ過ぎな所に
ちょっと違和感があるんだけど
口頭だけで大陸まで渡って
当時の中国の王と会って
おみあげまで貰って
帰ってこられるものなのかな?
>>432 その難波天皇の一族が倭の五王だったりするんだろうか
自分達の研究を守る為に新たな発見を貶め妨害する事は醜い新たな発見があれば訂正していくべきだ
老人が自分の研究を守るために考古学はあるわけじゃない
丹波氏が後の世まで外戚として権力を握っていたのに、
丹波氏が全国に支配を確立する大和武尊の東征はなく、
キングメーカーとして力を発揮した神功皇后も居なかったとなれば、
どうやって丹波氏が天皇家の外戚としての地位を得たのかということになる。
従って、余程の考古学的物証が出ない限り、
大和武尊の東征によって丹波氏が全国に散らばり、
神功皇后の時代に天皇家の外戚としての権力を発揮し、
キングメーカーとしての力を発揮し、
後の世まで外戚としての地位を築いていた
と言う事で間違いないだろう。
>>423 基本的な考え方は同意見だ
架空では無いだろうし連合勢力だから一地方の豪族よりは大きな存在だったとは思うけど
本来邪馬台国も卑弥呼も日本史を語る上で大して重要じゃないんだよ
北九州の一勢力が南の勢力との争いに困って魏の権威を借りようとした、それだけの話
ただ日本の「正史」がその時代から天皇家やヤマト王権が日本を支配していたことにしてしまったから
辻褄合わせのために畿内説を唱えて引っ込みがつかなくなってるだけ
また、高良大社が神功皇后の時代に再建されたとなると、
高良大社がある勢力に蹂躙された事を想定せざるを得ず。
それは熊襲の攻勢による仲哀天皇戦死ということが、
実際にあったと言わざるを得ない事だろう。
九州限定だったのか
近畿も含むのか
北部九州が邪馬台国の勢力圏だった事は明らか
近畿説の根拠は
邪馬台国→大和朝廷
と仮定した場合だろ?
その過程が違えば九州説は有力だな
>>422 別に狗奴国 のために魏に救援を求めているわけはないでしょ
内戦状態の中国にそんな余裕はないし
中国から正式に倭の国の王として正式に認められる魏の権威が欲しかっただけだと思う
晋を滅ぼした魏、趙、韓が周の権威を頼ったように
姜氏から斉を乗っ取った田氏が周の権威に頼ったように
>>442 別に救援を求めなくてもいいけど勢力バランスからすると
わざわざ魏から黄幢を授かるまでもなく一方的な蹂躙になりそう
邪馬台国は丹波國造命として、
天皇家の外戚として、
大和政権で権力を発揮していた。
コレが歴史の事実となる。
漢委奴國王だの親魏倭王だのいう文言も元凶なんだと思うわ
日本の王と中国が認めた、ということになってしまうわけで
そりゃ邪馬台国がヤマト王権じゃないと都合悪いわってなるよね
ソレが記紀を作成したのが、
天皇の外戚に取って代わった藤原氏であるので、
丹波氏の歴史の記録は具体的な部分は、
失われてしまったのである。
日向生目神社を藤原氏が建立したことなっているのも、
博多祇園山笠を藤原氏が始めた事になっているのも、
外戚としての地位を丹波氏から奪った張本人だからであるのだ。
いろいろな所に痕跡があったということは移動していったと考えるのが自然だと思うが
邪馬台国が後50年遅ければ畿内だし50年早ければ九州なんだがな
250年は中途半端過ぎる
まぁその後に滅んでるっぽいから九州だろうと思うけど
>>426 仲哀天皇の父ってヤマトタケルノミコトだよ
どう考えても英雄譚の寄せ集めであって実在したとか考えられないヤマトタケルノミコトの子供って時点で実在性は疑わしい
>>410 女王国まで1万2千里って女王国の一員である奴国までの距離だな
奴国までの里数と対馬と壱岐の島の長さを
>>353の尺度で計って足すと奴国まで1万1900里になるよ
丹波國造命の氏族が、
元伊勢籠神社や伊勢神宮や熱田神宮などを築いて、
後の世に大和政権で外戚としての権力を発揮するためには、
やはり大和武尊の東征があって、
全国に丹波氏が広がったことにしないと成り立たない。
また、生目氏の傍系の大和武尊の系統に、
皇統が移動したのも、
実際に大和武尊がいて、
丹波氏が全国に広がり権力を掌握した、
大和武尊の東征があったとしないと説明できない。
もともと畿内説ってのは
・有史以前から統一国家のはず
・統一国家の元首は天皇のはず
・天皇は万世一系のはず
・外国の史料に出てくるのは天皇か皇族のはず
って言う全く根拠のない前提を無理やりつなぎ合わそうとするトンデモ説だからな
>>453 皇国史観では畿内説だと都合が悪いから九州説が出てきたんだよ
畿内説の確かな証拠を掴んでやるぞと意気込んで橿原考古学研究所に入所して
人生をかけて遺跡の発掘をしてきた本物のプロたちが
次々に九州説になだれ込んでる
畿内説はよっぽど無理筋なんだろうな
日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本で邪馬台国だ。日本の聖徳太子は隋に手紙を送った。百済、新羅、高句麗は倭国で日本の属国」
>>454 九州説は初めからあった
皇国史観で畿内説をでっち上げたが、女王は都合が悪いのでやっぱやめたといういい加減な説が畿内説
>>454 これ
過去に御用学者が九州説を唱えてた
この人らの影響が弱まって学者内で九州説が廃れた
まず第一に、大和武尊の東征以前に、
御間城崇神の四道将軍の派遣があった。
コレは纏向の外来土器の分析から明らかである。
また、四道将軍は北部九州に進出出来なかった事は、
記紀でも外来土器でも明らかであり、
ここから、北部九州には、
日本の本州全土を支配する勢力が、
手を出せない勢力があった事が確定出来るのである。
そのような勢力が東征をした結果、
非常に短期間に日本を再統一し直したという記紀の記述が、
北部九州に強い軍事力を持つ勢力があった事が裏付けられるのである。
そして、四道将軍で本州全土を支配した勢力が、
手を出せないほどの強大な弥生後期の北部九州の勢力があった
=邪馬台国の北部九州での実在の証明になる。
男性の頭蓋長幅指数の経年変化(中橋孝博)
頭蓋長幅示数・近世
北九州75.6、関東76.9、近畿78.7
頭蓋長幅示数・現代
北九州76.6、関東78.5、近畿80.7
近世から現代にかけて、頭蓋長幅指数の値は3地域とも増大傾向があった。
しかし、近畿地方は頭幅の拡大のみによって短頭化が進み、頭長の短縮を伴って短頭化が進んだ関東地方や北九州地方とは異なっていた。
頭型の時代変化を関東や近畿地方と比較してみるとFig.4のような結果が得られる。
まず中世以降の変化において、当地方では現代人へと徐々に短頭化していく様相がみられ、この変化傾向に関しては関東地方とも、そして一部は近畿地方とも共通しているようである。
ただ、近世人のみならず、現代人間においても北九州人は最も長頭に傾いており、近年の現代人骨の研究(現代日本人頭骨研究班,1981)でも、北九州地方人は北陸地方人等と共に全国で最も長頭傾向の強い集団であることが明らかにされている。
問題はこうした地域差がいつ頃から、どういった要因で生じたのか、ということであるが、まず上記の結果からして関東、近畿、そして北九州地方のそれぞれ都市部に限ってみれば、
その程度はやや異なるものの現代人骨間で認められるような頭型の地域関係が、少なくとも江戸時代には既に顕われているということになろう。
こうした頭型の変化や地域差に関してさらに興味深いのは、近畿地方との差である。Fig.4にも示したように、古墳時代でも大阪や大和といった畿内中心域出土のものに限れば既に短頭性が認められるとの指摘があり(島・寺門,1957)、
近世のみならず、既に古墳時代から両地方間にはかなりの差(永井,1985)が存在したことになる。
現代人における近畿地方の特異性が埴原(1984)によって改めて指摘された。
また、これまでも生体計測により近畿地方人の強い短頭性が明らかにされ、その成因を過去における朝鮮半島からの渡来に求める考察がなされたりもしている(小浜,1960)。
近畿地方人の短頭性の源を渡来人に求めるとすると、いずれにしてもまずその受入口になった筈の北九州地方人に何らかの痕跡が認められてもいいように思えるが、今のところそうした資料は見出し得ない。
それともこれは金関(1962)の言うように、近畿と北九州には異なった集団が渡来したことを示唆するものであろうか。
上顔高 (長岡朋人・解剖学)
縄文人66.5-------北九州69.3---関東70.7
歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人
九州---関東---------近畿
両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。
埴原は、現代日本人の頭蓋形態の地域差を分析し、近畿地方人の特異性を指摘した。
現代の近畿地方人は、比較的短頭で、頭蓋全体は大きいが脳頭蓋最大長はきわめて小さい。そして、その特徴によって近畿地方人は他地域の集団とかけ離れた位置をとる(埴原)。
また、生体計測学的研究の結果からみると、近畿地方人の頭形は、同心円状の地域分布の中心となることがわかっている(小濱)。
近畿地方人が最も短頭で、関東地方人、北九州地方人がこれに続くという地域関係は、現代のみならず、近世でも成立していた(長岡,2005)。
※近畿地方の現代人は、(欠田,1959)の現代人のデータを利用した。
頭蓋長幅示数
縄文人------北九州76.6---関東78.5-----近畿80.7
現代人のDNA形質で畿内を中心に同心円状に離れるほど中韓から遠くなる
日本の歴史の中心人物が渡来勢力で逆に平定され取り込まれた土着勢力が神になった
PCAプロット
中国南部----北京----韓国----------愛媛----本州--福岡----出雲---------沖縄
ADMIXTURE解析
Midland(岩手県花巻市、東京都、愛知県北名古屋市、兵庫県尼崎市)n=840
Fukuoka(福岡県)n=198
Ehime(愛媛県)n=158
Shimane1(島根県大田市)n=77
Shimane2(島根県出雲市)n=82
Ryukyu(沖縄県)n=184
日本人集団の微細な遺伝的構造と進化
竹内文彦(京都大学)、勝谷友宏(大阪大学)、木村亮介(琉球大学)、並河徹(島根大学)、磯村実(島根大学)、大久保孝義(東北大学)、田原康玄(京都大学)、山本健(九州大学)、横田充弘(名古屋大学)、加藤規弘(国立国際医療研究センター)
>>457 初めからあったって何時のこと言ってんの
邪馬台国論争なんて江戸時代からだぞ
それまではみんな大和のことだと思ってた
(隋書) 都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也
都の大和、魏志の邪馬台とおなじ
>>415 それだと時代が会わない。崇神の大規模古墳は存在する。
卑弥呼はそれより古い時代でなければならない。
女王に共立した時点では200mの前方後円墳はまだない。
200年ちょいくらいに共立したなら、アマタリシヒコの妻くらいだな。
孝昭天皇みまつひこかえしねのみことが尾張氏の姫を娶って談合政権が成立した。
男弟が公安だな。
兄が天足彦国押人命
>>468 記紀は吉備の豪族御間城氏と、
日向の豪族生目氏と、
山門王の丹波國造命の物語を、
一系になるように書いてあるだけだぞ。
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め
製造業でいえば日本でダントツなのは愛知
ただこれは明治以降、関西から企業を東京が奪い
工場等制限法で工場を関西から愛知に国策として移転したため
明治維新以降、日本は国策で、中央集権で東京を育成し、ついで名古屋を育成してきた
日本最大の港湾も名古屋
ちなみに産業不毛な都市が福岡
産業がないから人口ももともと少なかった
日本政府は国策で北九州市に製鉄を、筑豊に炭鉱を造り、産業を興したが福岡市は無視してきた
ちなみに九州の中心都市は伝統的に熊本市だった
福岡市は製造業に関係無い第三次産業、そして港湾の町。大企業もゼロ
>>434 あっても残ってないだけだろ。
墓誌がないからな。
他に国にすべての期間の記録が残ってるのかね?
「日本に文字を教えた」はずの朝鮮なんて満州にある広開土王碑くらいしかないじゃん。
まともな記録は14世紀だったか。
それともおれが知らんだけで朝鮮もベトナムもたくさんの記録があるのかね?
中国のすべての王朝の記録と辺境の有力者が記録を残してるのか?
吉備の豪族御間城氏が、
中国地方から畿内に進出し、
纏向に王都を築くまでが、
1世紀〜4世紀までの話になる。
一方、日向生目氏が、邪馬台国丹波狭穂彦王と争ったのが2世紀後期の話でで、
そこから邪馬台国の長官になったのが
〜3世紀中期頃の話だ。
>>129 > 白村江で北九州に唐が大使館を設営して長い期間駐屯してた
おお、これは初耳だけど、もし事実なら、非常に重要です。
関連文献など、教えてください。
唐軍による進駐というトラウマがあればこそ、その後の朝廷の
軍制改革や稲作大増産などの政策、そして記紀編纂・宮廷祭祀充実などの
「国粋化」政策の推進の要因になったと思われます。
当時の朝廷の軍制立て直し、また軍隊を支える糧食確保のための
米作りの拡大などの政策を招いた根本原因になる。
で、景行天皇が吉備津彦の娘と婚姻したのが、
恐らくこの3世紀中期〜後期頃で、
この婚姻をきっかけに大和に進出していったのが、
実際の日向の豪族の大和進出になる。
韓国民団のホムペ見てみろ。大和朝廷は百済によって建てられてると。権力争いに負けた百済王家が3度にわたって日本に来てるらしい。
>>453 あと
表立っては言わないが
「ド田舎の九州の方が我ら高貴な関西よりも先進地だったなんて絶対認めん」
というのもあるか
>>473 ソレはデタラメだ。
遣唐使を見れば明らかだろう。
>>476 完全には否定出来ないよね
中臣鎌足が百済人だっていう説まであるくらいだし
そもそも天孫降臨や記紀のエピソードの数々は渡来人の血筋を正当化して土着の伝承を取り込むためのものだと見ることも出来るし
>>478 昔あれだけ朝貢しまくってたのに
遣唐使は渡海に死ぬほど苦労したんだよな
>>439 北九州の墓からは後漢の遺物ばかり出て、魏の遺物は少ない。
しかも、魏の遺物は全国から出る。
つまり、魏の日本での威力は後漢時代は北九州にとどまってたものが、魏の時代になり
全国に波及した。
そもそも、4世紀前半には関東で前方後円墳が作られている。
もし、邪馬台国が北九州限定なら、前方後円墳が北関東まで広まるのが早すぎやしないか?
わずか、50〜100年足らずで北九州から畿内を征服し北関東まで勢力を伸ばし
前方後円墳みたいな巨大古墳を北関東に作るなんて可能なのであろうか?
>>480 むしろ、新羅王朝の第4代の王、
脱解尼師今が倭人で丹波出自という説の方が、
邪馬台国の丹波氏である説とマッチしている。
>>480 しかしゲノム解析的にみると渡来の血筋というのは中華北方の血筋ということがはっきりわかる
>>482 魏の文化の影響域と邪馬台国の勢力域を混同すんな
「同じ形式のものは同じ時代である」という作業仮説がもし成り立つとすると、早すぎるも遅すぎるもないんだよな
伝わるものは1年以内に伝わるし、中心地では旧世代を追い払って広まるのに30年かかるものが、辺地の方の方がむしろ新型の方があっという間に広まるということさえあるしな
>>485 魏の文化伝播の範囲と邪馬台国は比例するよ。もちろん、何にでも例外はあるだろうけど。
まず、魏は鏡を地方の首長に配れと卑弥呼に託している
>>482 先ず根本的に、平原遺跡の方格規矩四神鏡の
鉛同位体比の分析によって、
長江の銅が使えない時期の銅によって
作られている事が判明し、
ソレが即ち後漢鏡ではなく、
魏鏡を意味する事が明らかになっている。
そして青龍三年鏡の発掘によって、
実際に方格規矩四神鏡が
魏の時代に作られた鏡であることも分かった。
更に、平原遺跡から出土する甕棺墓の時代編年も、
卑弥呼の死亡時期と同一期であり、
平原遺跡の方格規矩四神鏡は
魏の時代に作られ贈られた鏡で決定している。
>>477 それは絶対ある
「日本は関西から始まりましたんや」というのが
東京の風下に立つ関西人の心の拠り所
実は九州から始まった王朝が関西に移動しただけとかなったら
関西人のアイデンティティが崩壊する
九州説の始まりは江戸時代の本居宣長が
「偉大なる大和朝廷が中国に朝貢などするわけがない!卑弥呼なんて九州の小国の酋長みたいな奴に決まってる!」
と言い出したことから
>>490 プライドとかそういうプーチンみたいな幼稚園児レベルの問題ではない。
そもそも、記紀には南九州から奈良を征服したと書いてある。
しかし、実際はその征服した奈良が邪馬台国で長髄彦であると言っておる。
奈良の邪馬台国を征服したのは宮崎の西都原の人たち。
そして、西都原の人たちは邪馬台国の前方後円墳の墓制を受け継いで故郷の西都原に凱旋し、関東まで進出していった。
つまり、源平合戦の時の院宣のような正当性の役割を
鏡や剣、前方後円墳が果たしていたのでしょう。
普通に考えたら九州だろ
朝鮮や中国との交流で有名なんだから
因みに、邪馬台国の超重要拠点の伊都国の、
卑弥呼の時代に作られた平原遺跡の墓が、
方墳であることで、
邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を
権威の象徴とする勢力なる畿内説は、
完全崩壊している。
>>499 福岡みたいな場所に都があったら、秒で中国や朝鮮半島から侵略されます。
>>496 考古学的には三種の神器は九州の風習のようだが
なぜか天皇家のしきたりになってしまったという……
>>501 むしろ、新羅王が丹波氏であり、
朝鮮半島に進出する様な勢力が、
邪馬台国の丹波氏であった。
よくわからんけど邪馬台国が大和王権と連続してないと困る奴でもいるの?
オリンピックを日本で開催しなければならない理由など何ひとつありません。
https://newsweekjapan.jp/stories/world/2022/02/2030-6.php たかり屋 IOC は他の国を当たれ!!
#Olympics
#札幌オリンピック反対
IOCに開催料を払わせたらどうか?
涎を垂らして物欲しそうにするから舐められる。
>>498 関東人だけが否定してるワケじゃなくて、関西人以外全員が畿内説を否定してて
さらに畿内説の中核である奈良県の考古学研究所の研究者までが畿内説を否定するようになったんだけど?
後漢書東夷伝にも、朝鮮半島南部に、
狗邪韓国という倭の領土があった事が
明記されており、崇神朝の時代に
初めて任那の使者と接した大和政権とは、
倭国は全く性質の異なる国である事が分かる。
記紀が捏造されてるとすれば、奈良の邪馬台国を征服して、西都原の王が乗っ取った
ことを正当化しようとして、
卑弥呼=アマテラスを自分の祖先のように捏造したということ。
そうすることで、出雲など国譲りした側からの不満の噴出をさけようとした。
>>461 「2000年、福岡県立大学に採用され、初めて九州の地を踏んだ時、(今では見慣れて普通になったが)それまで約10年いた関東に比べ、南方系に見える人の割合が多くて驚いた。
福岡や熊本出身の同僚たちが、自分は「大和民族ではない」「クマソだ」という(それまでの私から見れば斬新な)人間環境は、本書が自然な形で育まれる土台となった。
20世紀前半までの日本で、列島各地の人間の間に、見た目での差異がかなりあったという言説は、誇張ではない」
(岡本雅享・民族学)
「日本全国を旅行せしもの何人も其容貌に於て、其言語に於て、其性質に於て、其風俗習慣に於て、九州と、近畿と、東北と、同じ九州にても南部と北部との間に於て頗る著大なる差違あるを発見する所なるべし」
(檜山鋭『対外日本歴史』1904年6月)
「日本には昔色々種族が多くありましたが、最も大きなものが四つあります。天孫、出雲、蝦夷、熊襲である(後に加わったものには漢種族、韓種族もある)。この四大民族が結合して今日の日本民族をなしておる」
(『古代の内鮮関係』1937年)
「我国は古来日向に天孫族あり、出雲に出雲族あり、北に蝦夷族あり、九州に熊襲あり、隼人あり」
(津田剛、1941年)
地方別に見た縄文人の影響は? 高めなのは九州・東北
https://www.asahi.com/articles/ASNBG3HLFNBFULBJ00P.html 日本人約1万1千人の遺伝情報をもとに、47都道府県の人々が縄文人と渡来人の遺伝的影響をどの程度受けているかを、東京大学理学系研究科の大橋順准教授(人類遺伝学)らが調べたところ、
縄文人の影響度が高めに残るのは沖縄県と九州や東北の各県で、低めなのは近畿と四国だった。
>>1
牛勿 言正 才隹 シ則
言正 言正
才隹 才隹
シ則 シ則
まぁ少なくとも邪馬台国はどう見ても九州にあった
遺物の数から見ても当時クソ田舎の近畿にあった訳がない
それにもしも近畿にあったなら他の色んなクニも近畿にあった訳で
古代シナの人達は当時都会だった九州をスルーしていた事になるなw
ほんと畿内説とか唱えてる学者連中の意味が分からない
だが、邪馬台国から魏に援軍を
送っているんだよね。
それなりの人数と技術力が必要
だったはず。
赤壁の戦いのときに揚子江まで人員を
送るだけの国力が当時の福岡県だけで
達成出来るとは思えない。
ゴッドハンドの排除できなかった自浄能力ゼロの日本の考古学は
誰が何を言ってもファンタジー小説です
江戸時代の本居宣長あたりで倒幕からの国家神道作るための歴史捏造やってたんじゃないかとおもってる
邪馬台国もそれの一環で
九州全体ではなく博多湾を中心とした北部九州な
そのころの畿内は、建設中の一大拠点って感じ
完成後都になる
>>515 読売で少し前にゴッドハンドの顛末を簡単に特集してたけど
あれほんと酷いな
これ鉄さびじゃねーのという疑義も無視してとにかく行け行けドンドンw
まあ邪馬台国を九州にあったとするとちょっと疑問がなくもない
古代において最強の武器となる鉄器を邪馬台国は中国〜朝鮮半島〜対馬〜壱岐経由のルートで手に入れてたはず
鉄の武器を持つ邪馬台国が畿内の勢力に負けるってことがあるだろうか?
>>398 保元の乱なんなんだろうなあ
みたいなw
阿波に島流し?あ、讃岐か
遼日本国王府ってそう言う事?!
西都原古墳群には、
男狭穂塚、女狭穂塚がある通り、
コレは倭国大乱時には、
邪馬台国の側の丹波氏側の
勢力だった可能性が極めて高い。
邪馬台国が勢力拡大し、
日向北部に進出して、
日向生目氏と激突したのが、
倭国大乱であったと言えるだろう。
ここで敗北して倭姫命を共立した後、
再び天皇家の外戚として隆盛して、
西都原の地に狭穂彦王狭穂姫の塚を造ったのが、
男狭穂塚女狭穂塚ということになる。
突厥の傘下?唐の傘下?で
旧任那日本府領土返してもらったとか?
>>520 卑弥呼が死んだ途端に仲間割れ起こすような連中ですし
邪馬台国は狗奴国にボコられて泣き入れる程度の国だから
いくら武器が優秀でも物量に優る吉備大和の連合国には太刀打ちできなかったと思う
>>520 もちろん、畿内の勢力に負けるということは無かった。
逆に大和武尊の東征のごとく、
あっという間に日本を制圧してしまったのだ。
>>518 奈良盆地を開発して遷都したのは九州王朝だけどな
>>520 だから、戦争ではなく卑弥呼が共立されて平和裏に政権移譲された。
西日本を統一したのは出雲。おそらく、日本海側から直接鉄を入手した。
出雲が共立された卑弥呼へ政権移譲。
そこで、北九州の三種の神器の風習が畿内に入ってきた。
それが200〜250年の間でしょう。
つまり、その200年前後で北九州が栄えていたとしても、それは政権移譲前だから。
>>526 むしろ逆で、狗奴国と対峙する軍事力を、
本州に向けたら、
あっという間に日本を制圧してしまったということになる。
博多から広島岡山を経由して新大阪や奈良、京都までの国造りはスムーズ
しかし、博多から南に伸ばす国造りはスムーズにいかなかった
新幹線見てたらわかるよねw
>>520 中国の勢力の衰退とともに邪馬台国は衰退した
50年もあれば北部九州から東征して大和朝廷を樹立し、更に関東まで
勢力を広げることは充分に出来る。大昔の僅かな人口とお粗末な武器しか持って
いなかった畿内勢力は簡単に撃破された。
ちなみにほとんどのまともな学者は畿内説を唱えています
もちろん全員とは言いません
>>538 三角縁神獣鏡が大量に出土するたびに予算がつくんだよ
考古学者はそれに群がっただけ
そもそも福岡なんて畿内の都が完成するまでのパシりにしか過ぎないんで
大和武尊が出雲を征服したときの逸話が、
古事記に残っている。
大和武尊は出雲建に、
飾りは豪華だが、刃のない刀を、
出雲建の刀と交換して、
出雲建を謀略によって討ち取ったという。
この飾りは豪華だが刃のない刀が、
近年、出雲の荒神谷遺跡から発掘された、
大量の、x印の付いた銅剣である。
銅剣の生産地は北部九州であり、
当時は既に祭祀の道具となっていた銅剣。
これらを送って油断させ、実際に戦いとなって、
使おうとしたところ使えないのx印。
このようにして、邪馬台国は出雲を制圧したのである。
福岡の那珂八幡古墳を見るに奴国が邪馬台国からヤマト王権に寝返って邪馬台国は終わったんだと思う
つまり後漢の崩壊とともに邪馬台国は衰退したんだろう
橿原考古学研究所の研究者たちまでが畿内説は違う、本当は九州ですと言い始めてるから
畿内説の教授は目をつぶって「退職金を貰うまでは畿内説、畿内説」と呟いてるんだろうな
そもそも邪馬台国というのはたった一度
矛盾がある日程表記のところにたった一度出てくるだけで
女王がいたのは女王国なんだけどね
大国主命と大物主命が共同で國造を始めたのが、
実際に銅鐸の時代編年と密度分布によって明らかになり、
それはおよそ後1世紀中期〜後期の事と考えられている。
銅鐸の分布範囲によって、
実際に信州諏訪湖にまで、
その範囲が広がっていたという
記紀の記述も間違いない様だ。
で、大物主命が御間城崇神勢力に取り込まれたのが、
モモソヒメのパートに記述されており、
この時代に御間城崇神に取り込まれた訳で、
初期の国譲りは実際には無かったというのが、
現状の正しい分析になる。
九州が本家、畿内が分家
本家と新興の分家が対立して
本家に対抗するため中国と分家が手を結んだ
その裏切りによって本家は滅んだが分家も内紛で滅亡
その内紛で生き残った分家の豪族が日本の主たる支配者となった
という妄想してはダメだぞ
もともと九州説は本居宣長が提唱した説で、時代が下るにつれ支持者が増えている
畿内説の呪縛から解き放たれるときは近い
212年 - カラカラ帝がローマ帝国の全自由民にローマ市民権を与える(アントニヌス勅令)
216年 - ローマ市内のカラカラ浴場が完成する。
陽平関の戦いで曹操が漢中の五斗米道教団に勝利。合肥の戦いで曹操が孫権に勝利。
世界ではこういうことがあった時代なわけだ
それを日本の一部のオカルト的な歴史学者が【古代の謎】などといいつつ妄想をくりひろげているのが邪馬台国論争
論争ではなく邪馬台国妄想だよね
だって資料ないのに研究という言葉をつかって妄想を言い合ってるだけ
広く世界をみよう
古代ではない
世界の歴史をみよう
ローマの人々からすると土人だよ
>>542 奴国の範囲が大和政権下に入ったのは、
磐井の乱によって、
糟屋の頓倉が献上されたときであり、
それ以前に奴国が大和政権下にあった
という考えは間違っているだろう。
畿内に都が完成した後、知識人はほとんど畿内に移ったと見るべきだろう
つまり、倭国黎明期の象徴たる北部九州勢力も、もはや時代遅れのイナカモンに墜ちたってことだ
前述のように、高天原は奴国で間違いない。
と言う事で、高天原の王は須佐之男命であるので、
奴国王が居たとされるのが須久岡本遺跡であるので、
須佐之男命は須久岡本遺跡に眠っていたと
考えられるのである。
奈良に政権が移ったのは卑弥呼滅後数十年ほど経って江南の
水稲栽培技術が輸入され、大規模灌漑用で巨椋池が必要だったから
それまでは北九州の泥田で零細農業したが、特有の風土病「ジストマ」の
猖獗で耕作困難となったからだ
学者ならこれくらい調べてから、さも当然のような嘘を並べろ
福岡市在住の俺は韓国旅行は3回、大阪や京都はそれ以上行ったが
韓国人と関西人の容姿は喋らなければまったく見分けがつかん事に
気が付いた 畿内人=朝鮮人と考えて間違いない
>>548 本居宣長は天子さまの先祖が中国の家来になったなんてありえない
あれは九州の蛮族の話で日本の天子さまとは無関係ということだからな
>>550 まさしく
時代遅れの磐井に翻弄された九州
だが、糟屋屯倉は当時倭国の最新鋭の港湾施設
畿内ヤマトは半島属国化と、中華との交渉の窓口とするため、糟屋屯倉入手を急いだ
この奴国王須佐之男命が漢に朝貢して金印を貰ったのが紀元57年。
しかし、50年後の107年には、
倭面土国に覇権を握られ、
奴隷160人として、漢に送られている事が分かっている。
この時代から既に奴国は邪馬台国の属国になっていた様だ。
>>515 日本の国史系の研究は会津藩出身者が牛耳っていた帝大閥が今でも幅を利かせてるから
日本の歴史関係の業界全体が「東日本に有利な研究には無批判」だったのがアカンねん
因みに前方後円墳があるのは下記のみ
大阪府
京都府
奈良県
兵庫県
埼玉県
意外にもたった5府県のみ
>>555 福岡なんてほとんど朝鮮人でしょ。
>>550 中央集権体制ができたのは聖徳太子や律令制以後では?
本来であれば、高天原神代記の後、
丹波氏邪馬台国のパートが欲しかったが、
コレが藤原氏によって消された歴史になる。
>>561 もともと半島南部は九州を中心とする倭人(日本人)が支配していたけど
6世紀になって中央集権(大和朝廷)が新羅に負けて奪われたんだよ
もともとその中央集権の構築に、半島南部の倭人が多数かかわっていると思われるが。
邪馬台国は九州にあったのだろう
中国とやり取りはしてたが日本を束ねてたわけでもないんだから
近畿説のやつも目くじらたてて怒る必要もなかろう
>>545 そもそも女王が生まれた場所が邪馬台国、つまり奈良盆地の田原本辺りになる。
女王国が瀬戸内海辺りになるんだよ。
>>302 その辺は景行天皇に征伐された土蜘蛛(豊後古墳人)勢力で大和と関わりが薄いな
https://cultural-experience.blogspot.com/2020/12/bungonokuni-fudoki.html?m=1 九州地方の古墳人骨については、旧国でいえば筑前を中心として→肥前、あるいは→筑後→豊後→南九州といった方向で地理的勾配が認められ、これは渡来形質の拡散の結果として理解されている。
筑後川北岸に位置する朝倉地方の外之隈遺跡からは、卑弥呼がいた頃の青銅鏡といわれる画文帯神獣鏡などが見つかっている。
外之隈遺跡出土古墳人骨を頭蓋最大長・最大幅、中顔幅・上顔高、眼窩幅・眼窩高をそれぞれ2軸にとって、
筑前・筑後・肥前・豊後の古墳人女性人骨とともにプロットしてみた。
頭長幅示数は76.2で中頭に属しながらも、最大長・最大幅ともに値が小さいことがうかがえる。
1号墳1号墓人骨は上顔示数が64.2で過低顔、朝倉高校1号石棺人骨は68.8で低顔に属しており、やはり上顔高・中顔幅ともに小さい。
そしてサイズの小ささから、豊後古墳人に近いことも同時に知ることができる。
ところが眼窩を見ると、2体は中〜高眼窩に属しており、低眼窩に属する豊後古墳人とは差がある。
したがって、全体としては渡来的形質の筑前古墳人の平均的形質と、縄文的形質をより多く残す豊後古墳人の中間的な特徴をもつということができよう。
朝倉地方が筑前に含まれながらも、筑後・豊後へと至るルート上にあるという地理的位置を考えると興味深い。
素直にヤマト朝廷に頭を垂らしておけば良かったのよ
馬鹿な磐井は頑として半島利権を手放そうとしなかったからね
磐井の乱は527年であり、
筑紫国造が支配していた地域は、
筑前筑後肥前肥後豊前豊後の広大な範囲で、
ほぼ邪馬台国の範囲とイコールだろう。
このような勢力が都としていたのが山門八女であり、
古代の北部九州の中心地は
山門八女で間違いないだろう。
>>561 > 中央集権体制ができたのは聖徳太子や律令制以後では?
何をもって中央集権体制の成立と捉えるかによるのでは?
明文化された法律として一番古いのは近江令
では、明文化される前の中央集権じゃなかったのか?というと、そうでもない
>>550が磐井の乱について言及しているけど
磐井も中央から筑紫『国造』の役職を与えられているし
筑紫君磐井と書くように『君』の姓(かばね)を与えられている
もっと古い例でいえば、埼玉県の稲荷山銘鉄剣では乎獲居『臣』
島根県の岡田山1号墳出土大刀では額田部『臣』と刻まれている
『臣』もまた古い時代の姓(かばね)の一つ
筑後国風土記には磐井の乱の様子を「官軍が攻めてきた」と書いてたりもあるね
ヤマト王権が各地の豪族を従えていった時代のいつからを
中央集権と言うのか、はっきりと定義するのも難しい
橿原考古学研究所の役目は終わったから、これ以上税金の無駄遣いは
止めて研究所は廃止する事だな
方角を間違えるとは思えない
しかし魏志倭人伝に書かれている位置と実際の場所の方角が大きくズレている
過去に魏志倭人伝に忠実に方角を当てはめ九州の国を探そうとした研究家はいたけどうまくいかなかった
そもそも島の一支国の方角が少しズレている時点でおかしい
海流に流されて方角がズレたという説があるけど仮に行きで気づかなかったとしても帰り道で気がつくから
現に九州に上陸してからも方角のズレが続いていると言うか更に大きくズレだしてる
昔の人が地球は平らで果ては滝になっていると思ってたように太陽や星の位置が日本に来たらズレると思ってたとかあるのかもしれない
邪馬台国の都が畿内では無いというのであれば、それは都では無く、単なる地方勢力のアジトと見るべきだろう
昔のソビエト系新石器時代以降の巫女政治形態の時代(100年以上昔)は
こういう地域で最先端軍事実験や天体兵器や様々な人体実験などをしたものだが
基本的には朝鮮系民族によるロシアメリカユダヤ帝国などによる実験地域でしょう
実験が終わったら引っ越したりもとの「現実生活」に帰るもの、ほかの地域にいくものがいるのかね
基本的にはソビエト系の実験より先にフランス革命前後のユダヤ系秘密結社の古代文明遺跡と
軍事実験戦争時代を引きずってるのか
ヨーロッパやアメリカの学校休みが長いのもこういう事情だろうけど
一般日本人には行けないな在日韓国朝鮮人だけじゃん
君たちは奈良の壁画見たら、日本じゃないのはわかるだろ
1700年代のフランス革命前から古代エジプトや古代メソポタミアや古代インダス
古代中南米遺跡に行って遺跡作ったり、古代ギリシアアカデミーとか哲学化学芸術家が行ってたよね
何でも今のようにクローンに行かせるとかいう馬鹿朝鮮人がいるけどさ
1780年代ころには古代ギリシア文明遺跡に行くヨーロッパ人にクローンはいなかったと思うよ
いないんだろ?安東あんとん?
新撰姓氏録に。
アントン/アントーン(アントニウス)、アンドラーシ、アンダマン、アンドリュー…
うーんw
>>574 そんなおおきくズレてるか?
せいぜい対馬から南に一支があるくらいのズレで収まる範囲では?
>>574 方位磁針があるわけでもなし、ましてや地図もなければGoogleマップもない時代
多少のズレは仕方ない
東と南を間違えるようなミスはあり得んけどな
飛鳥を開発した蘇我氏の出自は全羅道と言われている
まず福岡と畿内では人種が違いすぎる
>>461-465 >>573 橿原考古学研究所は「奈良県立」機関
税金云々を言えるのは実は奈良県民だけ
畿内説者から「畿内が博多を支配していた証拠」は聞いたことがあるが
糸島、壱岐、対馬、釜山を支配していた証拠を聞いたことがない
だが倭人伝にある邪馬台国の勢力範囲はそこまで及んでいたわけで
畿内説が間違いなのは明白
開発したのかなんだか知らんが、陛下を尊ぶこともせず、ただ偉そうにしてたのならそら殺られるわな
>>568 > 筑紫国造が支配していた地域は、
> 筑前筑後肥前肥後豊前豊後の広大な範囲で
九州全域で20人くらいの国造がいたわけだけど・・・
古事記では九州を筑紫島と表すように
九州は筑紫国から始まったことを示唆している
久留米の高良(こうら)大社って渡来高麗人の心の拠り所なんだろうけど
日本人じゃないから困るな
>>473 正史にあるけど。
> 戦後交渉および唐との友好関係の樹立 編集
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。
この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、
熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた[23]。
天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。
670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、
遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている[24]。
後述するように天武期・持統期に一時的な中断を見たものの、遣唐使は長らく継続され、
唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。
遣唐使の話は逆に唐側からは朝貢と見ているし、
戦争に負けて朝貢してたら敗北としか言えない
また「筑紫都督府」って書いてあるだろ
あとは御説の通りで符合する
>>555 ダウト
畿内および三重こそ、中国南部の下戸遺伝子の集積地帯
>>574 角度がズレている理由はいろんな人が考えてくれてるけどどれも納得できるものはない
そして場所が特定されている国まででも70度のズレという現実が残る
>>590 国幣大社だし、高麗とは関係ない
> 高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、
高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、
高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。
山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。
現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。
なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前「高牟礼市民センター」や、
久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。
これでも読めば?
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html >>576 藤原は新羅派の葛城蘇我への対抗上百済に近づいただけだ
それは中大兄皇子の事情でもある
>>489 あんな立派な模様が入ってて魏の漢字も使われてる三角縁神獣鏡が
国産なわけないだろ
>>574 てか、当時の東西南北って日の出と日没の位置で知るか、
あるいは磁石を浮かべて方角知るだろ?
今から2000年近く前に地軸が今と同じであると考える方が不自然だと思うがな
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国の島は朝鮮海峡までの島以外に出てこないだろ?
>>597 ムキの意味がわからないが、
氏と姓と本貫とってから発言してね
バカすぎて実に笑える
八幡宮なのに。
邪馬台国九州説よりも胡散臭い九州王朝説。
やっぱりチョンの考えそうな浅はかな説だよな(笑)
>>598 大元は知らんけど、古墳ごとに磨き方が同じなので、
一つの古墳から出土したものは全部同じ職人による国産品
漢字の間違いに気づかないやつらね
>>601 うわー 市役所ぐるみなんだw
そうやって市民を洗脳するんだ こわー
ユーチューブのゆっくり動画でトンカラリンさんが邪馬台国1〜5で北部九州説で全て矛盾無く説明してる
凄く参考になるからお勧め。
>>574 ズレてるとしても15〜30度程度で90度はズレてないな。
乱交が趣味の武内を祀ってる神社じゃん
こんなの拝むなんてかなりのスキモノですな(笑)
>>561 日本で律令制がまともに機能したのは701年から僅かな期間だな
>>607 魏使が上陸した場所が東松浦半島の北端の呼子付近なんだよ。
>>586 根拠になってない
伊都国は女王国に属してたけどその女王国は何処なんだって話しだから
北部九州の国々の位置関係の説明は【ゆっくり解説】邪馬台国その 4
トンカラリンさんの動画にあるな。
>>602 邪馬台国九州説と九州王朝説は全く別物だよ
九州王朝に引っ張られた人間の多くは嘘ばっかり書くから、余計に邪馬台国九州説が胡散臭く見られる
いい迷惑だよ
伊都国以外には王が居ないんだよね
だったら伊都国の王がその一帯を統治してたと考えるのが自然
>>612 女王国は伊都国を含む邪馬台国の首都圏だな。
細かく半島から北九州の国をあげて最後にポーンと畿内に行くのは
素直に見る限り不自然ではある
だから最初に女王国があったという魏の記事では卑弥呼がいた国は北九州なんだと思う
それと別に畿内にヤマト政権につながると後世の人が考えたところの邪馬台国が
あったという話が途中で混在したんだろう
>>619 別に伊都国の王を卑弥呼だと断定できんよ
世有王と書いてるだけだし
>>619 違う
伊都国の王であって女王とも卑弥呼とも書いてない
伊都国の王は女王国に統属してたんでしょ
だったら卑弥呼な訳無いじゃん
伊都国以外の国、奴国等は女王国に属してなかったという事か
>>616 魏志「伊都国には代々王がいた」
後漢書「漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる」
>>624 伊都国には王が居るけどそれ以外は書いてないのよ
だったら伊都国の王が奴国を含め周辺国を統治してた
>>625 俺も伊都国には代々王が居て女王国に統属てのは
邪馬台国に統属してたと解釈してる
おお おう うお おほ
発音しやすいから倭人が叫んでたのを鵜呑みにして王と記しただけでしょ(笑)(笑)
邪馬台国が伊都国を支配してたとかじゃ無くて
伊都国は邪馬台国を構成する一員だと思ってる
>>520 負けたんじゃなくて内戦で衰退したんだよ。
畿内と戦う時代にはとっくに両方鉄器持ってた
>>625 「世有王」だから「代々王が居た」と訳すのは誤りなんだ
魏の世に伊都国には王(倭王卑弥呼)が居たとの意味なんだよ。
>>632 そういう微妙なニュアンスって中国の魏晋南北朝の学者はなんて理解してるんだろうな?
日本の学者の現代語和訳じゃなくて中国の学者の現代語訳が知りたいわ
>>621 断定できますよw
魏志倭人伝は中国の国家観で書かれている
王とは皇帝の家臣であり、倭国で王とは魏の皇帝から任命された倭王卑弥呼が唯一の正式な王です
後は、卑弥呼に対抗して王を自称している狗奴国の王がいるだけ
伊都国に卑弥呼と別に王を自称する者がいれは倭王卑弥呼に対する反逆者だよ。
>>623 女王国に統属してたのは伊都国ではなく倭の国々は皆だな。
始めに魏志倭人伝を訳した人が畿内説だったんで滅茶苦茶な訳をし
後世の人がこの無茶苦茶な訳に引っ張られて訳が分からなくなってただけだな。
そもそも卑弥呼って
実在した可能性がまだまだ高くないんじゃ?
>>635 後漢書だと「国々の王は皆」であってるけど魏志の場合は
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
ここまで伊都国の説明ぽい
>>637 卑弥呼は天照大御神だからね
キリシタンがやってきて
「あなたのアルジは誰ですか?」と聞いたら
「デウス様デス」って答えるだろ?
何も生きてる人間が卑弥呼とは言えない
すでに神格化してる人が卑弥呼と考えるのが妥当
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html 伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
日本の歴史を素直に読めばいい。
邪馬台国の系譜は土蜘蛛だろ。魏志倭人伝と土蜘蛛の文化風土が一致してるのになんで無視するんだろ。
>>640 日程で考えたら畿内もないだろ
通りすぎてw
>>642 畿内にたどり着くには方角も距離も日数も全部嘘にしないといけないからな
九州説の根拠を全部デタラメということにしないと畿内説が成立しないから
必死で魏志倭人伝は嘘、九州説はデタラメと言い張るが
全部ウソでデタラメなら畿内じゃなくて九州でも構わないという誤謬に陥るという
>>640 畿内派は方角も年代も違っている。
それで畿内派は終わったんだよ。
畿内に有ったのは日本、後のヤマト朝廷ね。
>>506 そんならさすがに畿内説が定説ではなくなってるだろ
けどそうなってないという事は考古史料その他はしっかり邪馬台国が畿内にあった事を示してるんだよ
いつまでも古い文献や古墳の話しても何も解決しないわ 当時の大陸国の視線で見れば九州北部しかない
>>645 どんだけ考古資料を持ち出してきても
あくまで大和朝廷の先祖だねという話にしかならないよ
せめて箸墓から景初三年紀年銘鏡が100枚くらい出てくればなんとか
>>598 それは流石にレベル低すぎる
国産を一枚も認めない考古学者は皆無
>>638 後漢書の「国々の王は皆」は倭奴国王が任命される前の時代のことだな
倭奴国王が任命される前は自称王だらけだったんだ
魏志倭人伝では
伊都国に倭王卑弥呼が居て
倭の国々は全て女王国に統属していた
伊都国に卑弥呼がいるから郡使は伊都国に常に留まっていたんだ。
>>603 全部同じ職人による外国産品かも知れないだろ?
陳是作鏡と明らかに中国人らしい名前の人が作ったと三角縁神獣鏡には彫ってある
>>649 逆に言えば景初三年鏡が大量に見つからない時点でアレは贋作の可能性が高いという話に
でもまあ親魏倭王金印が出たら決定的だとは思う
>>648 三角縁神獣鏡には輸入された舶載鏡と
国内で型を取って複製した?製鏡の2種類があるんだよ
強さは正義と言ったり、強さは野蛮と言ったり
手のひらクルクル忙しいな
>>647 もう考古学者も畿内説に見切りを付けてるね
今でも畿内説で権威のある人がいるらしくて適当に相槌を打って合わせてはいるみたい。
>>649 出てくるわけない
大量生産葬具としての国産三角縁神獣鏡以外は
配布するための威信財なのだから
>>652 まだどっかに埋まってるだけかも知れない
>>653 国産が舶来の方を取って作ったというのも古い説
三角縁神獣鏡には陳是作鏡
陳さんが作ったと彫ってあるから中国製
>>654 「正義なき力が無力であるのと同時に
力なき正義もまた無力なのですよ」
>>658 型をとった鏡と型を取られた元の鏡の
両方が見つかっているんだよ
九州は正しいんだけど、北九州は間違い。
北九州は松浦〜伊都国〜奴国とかがあったところ。
女王国の北に軍警組織的な一大卒があったと思うけど、それは北九州。
女王国はそれらより南にあるのは確実。
九州中部、または南部が自然と分かる。
東渡海すると倭人の国があるとか、
南は遠絶(絶は陸続きじゃないという意味)などから
九州の東南部とわかる。
宮崎県+鹿児島県を旧日向国というがこのあたり。
女王卑弥呼も日向(ヒムカ)という意味。
ちなみに、女王トヨは豊の国(福岡+大分あたり)が勢力圏。
>>520 原爆と枯葉剤を持ってたUSAはベトナムに勝てなかったしな
>>647 よくよく考えても
別にそれで奈良が得することなんかないよね。日本のスタートは変わらないんだから
>>664 女王国から南には遠絶(陸続きじゃない)の二十数国がある。
これは当然南西諸島。
南西諸島の先に強力な勢力あるということだから、
沖縄本島と考えるのが妥当だろう。
九州連合が攻めきれないのは離島のため。
言語の研究で沖縄の言葉と大和言葉が分離したのはこのころって話もある。
まあ、白石とか佐原が説を述べるときの顔つき、目つきを見ろや
白石のタンタンとした言い方、佐原の笑ったような目つき
内心とは違うことを言ってる目つきだ
景行天皇の侵攻に白旗掲げて三種の神器を差し出しつつ
地元の土蜘蛛を密告した神夏磯姫は九州北部の土着勢力だっけ?
神夏磯姫は畿内ヤマトに恭順したから土蜘蛛呼ばわりは避けられたのかも知らんが
畿内ヤマトに攻め込まれた九州各国は総崩れだろこれ
九州女王国連合は一致団結どころか裏切り仲間割れしまくりでろくな抵抗もできなかったと思うわ
>>668 女王国までしか行ってないから
その先はよく分からんと書いてるだけだよw
陸続きじゃないとかも書かれていない
邪馬台国=奈良説をとった場合
・邪馬台国に無断で名前を使って交渉をした王が伊都国にいた
邪馬台国=九州北部説をとった場合
・伊都国に王がいた。邪馬台国の手下
邪馬台国=九州北部の神話上の国説をとった場合
・伊都国に王がいた
邪馬台国ってそんなに知りたいかね
>>672 伊都国には一大卒が置かれて
邪馬台国の監視を受けていたとある
>>664 免田式土器=菊池川以南
鉄器の大量出土ライン(国境最前線)=菊池川から九州を南北に分断
狗奴国=熊襲=肥人=地下式横穴墓、板石積石棺墓の北限=隅本=熊本
>>650 伊都国の説明の中であってそこに卑弥呼が居たとも女王が居たとも書いてない
どうしても居たと言うのなら卑弥呼は倭王なんだから伊都国の王ではないはっきりした
解釈を書いてくれないと
>>612 伊都国=糸島だというなら畿内が糸島を属させていないと
邪馬台国にならないんだが?
根拠を示すべきは畿内説の方だ
>>601 ハタじゃないよ?パターさん
『ン』も無いからね?
チャンさんとかあんどうさんとか有り得ない。
🇯🇵日本人じゃ無い?
畿内説取るなら、勝手に名前使われた以外の選択肢ないでしょ
支配してるわけがないんだからね
>>671 はっきり絶と書いてある。
絶というのは陸続きじゃないっていう意味だよ。
他の箇所でも全てその意味で使っている。
あるいは連(陸続き)、あるいは絶(陸づづきじゃない)
とかあったでしょ。
だから、倭人伝の本文を重視するなら、
日本神話の通りに日向に
鏡好きの女性宗教指導者がいたとなる。
>>678 最初に言っとくと伊都国=糸島かどうかはわからない
それと俺は伊都国は邪馬台国を構成する国のひとつだと言っている
支配などとは言ってないからな
っていうか偽物だろ?
安藤って。藤田とか村上とか伊賀とか。
本名は。
ナ国だから那の津だ、異論は認めない、
というのが固定観念以外の何ものでもないよな
>>684 金印があるから絶対曲げないんだろうな
疑うと根拠にならないもんな
近畿圏、奈良にあったけど卑弥呼が九州まで出向いた
上陸という難関を作ることにより万が一の侵略に備えた
ぼくが正解です
これが分からない歴史研究家が多くてホント困ってます
かなり広範囲に点在する集落の連合国家だった
と思う大和朝廷が滅ぼしたか吸収した日本側の歴史書にないのは都合が悪い事があったから
ちゃんと神功皇后、熊襲討伐、土蜘蛛、田油津媛が出てきてるでしょ。隠された歴史でもなんでもない
>>682 伊都国が糸島でないとしても糸島が弥生時代の
朝鮮半島への重要な拠点だったのは
朝鮮系土器が多く出るとかの考古学的証拠で明らかだ
糸島を畿内が支配してないと畿内説は成り立たないが
その証拠を畿内説が出してこない
>>634 その想定は片手落ち
後漢の頃、漢倭奴国王が居るのに、国々には王がいた
君の理屈なら国々に王がいてはいけないはずだよ
國皆稱王丗丗傳統
>>680 邪馬台国は九州北部にある伊都国に一大卒を置いて支配
>>689 伊都国に一大率があって諸国が恐れてるとか書かれてるけど
こんなん諸国が恐れるか?
平安時代なんか流刑地扱いの辺境だぞ
「A属B」という中国語が「AはBに属す」というのは「まあそういうものかな」と思うが
「A統属B」が「AはBに統属す」つまり「AはBに属す」という意味だというのは、「んーそうかもしれないけどホントにそうかな?」という気にもなるかな
「AはBを統属す」、つまり「伊都国の方が女王国を統治していた」、ていう可能性はないものだろうか
25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178 > 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる
【邪馬台国の場所】日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に
>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
一大率のようなものも卑弥呼が置いたと言うより伊都国の役割だと思ってるけど
それに対し何らかの対価を貰ってただろう
>>20 別国だよ
@遣唐使が唐に神武の親父は天氏を名乗ったがやめたと伝えた
A神武は紀元前の存在であり紀元前天氏から改名している
B遣隋使の隋書に記される大王は天氏である。
C隋書は600年代の史書であり同時に600年天氏を名乗る大王は存在していた。
以上のことから日本はかなり代を重ねた傍流であり
寧ろ王族というより傍系に官位を賜った官位職ということになり魏志の記述から大倭か一大卒身分
いくら大きな古墳を畿内が持っていようと
朝鮮へのルートを確保してないと邪馬台国にはなりえない
糸島がなくても別ルートで朝鮮に行けるかもしれない
しかし対馬・壱岐を通らないわけにはいかないだろう
だが畿内が対馬・壱岐を支配していた根拠を
畿内説から聞いたことがない
北九州系土器が対馬・壱岐から多く出土してるので
支配していてかははっきりしないが関係が深いのは明らかで
九州説は矛盾がない
>>703 対馬と壱岐は食料が足りないから南北と交易してると書いてあるから頻繁に行き来してたんだろう
邪馬台国は伊都国に一大卒を置いて支配してたんだから
当然のごとく朝鮮に渡る航路も邪馬台国の支配下だろ
対馬周辺の海域は、昔は1つの国だったんだよな。
海洋王国、それが邪馬台国の真実。
ある日突然日光を奪われる、高層建築で暗闇を創造する企業
【権力】日蝕の積水ハウス【日蝕】
>>705 諸国がその一大率を恐れてくれればいいが
本州に各国があるなら辺境の地にある一大率なんか無視だろー
「海外からの侵入は俺様が守ってやるから交易品の1割を税金として貰うからな」
とか伊都国の王が言ってたんじゃないか
>>699 昔からある珍説
放射説は奴国や不弥国や投馬国の記述の根拠がないだろ
無理やり九州に収めるために榎一雄が思い付いた解釈
もし邪馬台国が北九州にあったら、魏志倭人伝にちゃんと書いてるはずなんだよね。
太宰府にあったとしても、奴国から南へ陸行半日の所に都はあるとか。
そういう記述はまるっきりなく、船旅一月、陸行一月って書いてあるし、こんなの誤植しようがない。
放射説が成り立つためには、陳寿が物凄く文章が下手で、切り貼りの仕方が不適切だった、という必要があるな
でもそれを言い出すと、何でも可能性ありになってしまうしな
できれば元の資料が見たいものだな
>>709 放射説なんて使う必要はなく
九州に納めるのは距離が誇張されてる説で十分
>>711 日数の部分は別資料から切り貼りしてきた情報という解釈なら
無理に放射読みする必要もなくなる
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、
>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの
免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する
考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白
伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれた
特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった
>>699 これだと陸行1月は無理じゃね
畿内説なら但馬から平坦な土地を進めば1月かかるけど
方角は九州説で説明つくけど里程は畿内説で説明つく
>>707 逆に近くなら一大卒を置く必要もないわけで
放射説なんて有り得ないし東を南に書き間違えたてのもまずない
陳寿の勘違いで関係ない資料を貼り付けたってのがしっくり来るんだがなあ
陳寿はわかってて書いたってのは考え難い
>>715 裴世清は約2ヶ月かけて筑紫から難波まで移動したが
それを参考にすると日本海ルートでは水行一月で鳥取あたり
瀬戸内ルートで水行一月は広島の呉あたりになる
そこから陸行一月する意味がわからない
九州の北から出発するのになんでわざわざ危険な瀬戸内海ルートを通るのか
そのまま日本海ルートだろ
日本海ルートがあったと思われたなかった昔ならわからないでもないけど
海流の方向から朝鮮半島から船出して自然に任せれば山陰〜能登半島〜秋田
付近まで到達するが、日本列島から壱岐・対馬を経由せずに船出しても
朝鮮半島には辿り着く事は出来ん、樺太まで流されて沿海州沿いに北朝鮮
に辿り着くがそれまで生きていられるのかは判らん
調べたら中国の学者の話が出てた
日本海ルートか瀬戸内海ルートかわからないけど
里程は畿内で合うらしいな
(2) 江向栄氏と張声振氏は大和説の主張である。狂氏は生産力水準の状況が邪馬台国所在地
断定の鍵だとの理論を提起し,弥生後期に生産力水準の最も高かった所は畿内であると強調し
た。張玉祥はまず《倭人伝》が不弥国から邪馬台国までの里程を里数で計算しないで日数で計
算した原因を究明,次にこの計算された里程から検討した上邪馬台国は正しく畿内に所在して
いたとの結論を得た。
>>722 里数ではなく日数で計算した原因とやらを知りたい
魏里と韓里?で違ってるなら、迂闊に「里」なんて使えないかな
しっかりした信念があるのならば、こんないい加減なサイトに書き込まず
出版した方が古代史ファンから信頼されるぞ
>>715 九州説だと「遠くの大国が朝貢に来たことにしたかった」で距離が誇張されてることが説明できるが
畿内説だとなんで九州に上陸した途端、方角が間違うのか説明できない
新羅倭国福岡
百済日本奈良
この対立なんだよ。
神武は中国が天氏の一族じゃないと認めないとのことで、奈良に強制連行されてる。
博多から出雲まで水行二十日なら残り水行十日で行けるのは鳥取
そこから陸行一月する意味がわからない
倭人伝は日本海ルートだし、陸行一月は豊岡で上陸してるよ
なぜなら丹後半島を越えちゃうと倭人らが小浜-琵琶湖-奈良のルートで数日で女王国に行ってるのがバレちゃうから
そこから攻められるのを防ぐために一月歩かせたの
履中天皇と応神天皇は兄弟かという話なんだが
履中天皇の名前は大江之伊邪本和気命
応神天皇の名前は品陀和氣命
狭穂姫命の子で、火中から助け出された本牟智和気命の後継の子なんじゃないの?母は違うと思うが
『上宮記』の逸文では継体天皇の先祖に、通常応神天皇(誉田別命)とされる人物として凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)の名が見える
「17×14kmの島」に過ぎない壱岐を
「方三百里=124.5km四方(1里415mとして)」とする倭人伝を
「距離を誇張してない」とする畿内説の方が意味不明なのだ
倭人伝の距離は明らかに誇張されている
それなのに「倭人伝の距離通りでは九州から飛び出す」
という畿内説の主張は意味がない
25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178 > 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
本牟智和気命は生まれた時から話せなかったエピソードが残っている
ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。
天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、肥川に橋を渡し、仮宮を造営して滞在していると、そこに出雲国造の祖先である岐比佐都美が青葉の木を飾り立てて川下に立て、食事を献上しようとした。
その時、皇子が「この川下に青葉の山のように見えるものは、山の様で山ではない。もしかすると、出雲の石硐の曽宮に坐す、葦原色許男大神を仕え奉る祭場ではないだろうか」と問うた。皇子が話せるようになったことを御供の王たちは喜び、皇子を檳榔の長穂宮に移すと、早馬を走らせて天皇に報告した。天皇はこれを喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。
26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる
邪馬台国の場所:日本史板の結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に
>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
>>729 今測ってみると豊岡までは520kmくらいあって
水行30日で豊岡まで行こうとするなら
瀬戸内ルートの裴世清の倍速で移動しなければいけなくなる
かなり無茶なのでは
邪馬台国は九州でいいんじゃないか?
大和朝廷とは無関係だったんだろう。
仮に邪馬台国が大和朝廷に繋がってるなら何故九州から近畿に遷都したのか説明が必要だしな。
>>586 そもそもその頃に博多自体の土地が海の底にしか無いんですよお客さん
>>739 だとしたら博多遺跡群に弥生期のものがあることが説明できない
博多湾岸には他にも西新町遺跡や藤崎遺跡といった海沿いの遺跡が存在している
伝承がどうであろうと考古学はそれを否定している
なお、奴国の都である須玖から1短里=75mで北西方向に逆算すると、100里ちょうどは天神あたり、山を避けて西新町遺跡まで行くと160里(12km)くらいある
誤差を許容してもこの辺が限度であり、西新町遺跡は伊都国の東端ということになるだろう
本牟智和気命の父は垂仁天皇
垂は大地の果ての遠くに垂れ下がった辺地の意、常世のことかもしれないね
垂仁天皇は、田道間守を常世国へ遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた
垂仁とは常世の仁?
二文字に込められた思いはなんだったのか?
割とどーでもいい話なんだが
三国志アプリにハマってから魏志倭人伝は曹操の使いだったのかと一人悦に浸ってるのは
会社の同僚には内緒ね
>>736 菊池川ではなく白川ラインだよな
熊本県北が邪馬台国と見ていい
>>11 関わってないぞ
見学させてもらっただけで当事者気取り
>>741 その頃は那の津。
博多は海の底、または砂州。
>>745 そうやって都合の悪い現実から逃げ続けた結果
>>1みたいに橿考研の研究者からも見捨てられたのが負け犬畿内
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F > 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。
> 概略
> 1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。
> 石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、
> 古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784870356801 > 関川尚功[セキガワヒサヨシ]
> 1951年、長野県生まれ。関西大学文学部史学科卒業。1974年、奈良県立橿原考古学研究所入所。
> 学生時代を含め約40年、大和の遺跡や古墳の発掘と検討に携わる。纒向遺跡、藤ノ木古墳、太安萬侶墓などの調査に従事。
>>1 最近畿内説の斜陽っぷりが酷いな
やっぱり九州が正しかったってことなんか
和の五王は
履中天皇→弟の応神天皇→仁徳天皇→仁徳天皇の子のニサンザイ古墳の主→その弟、雄略天皇?
かもねえ
仁徳天皇は5世紀中頃の人物で、大仙古墳はやっぱり仁徳天皇のお墓ということだろう
そもそも正史三国志が晋代に書かれたかなりいい加減な書なんだから
陳寿は賄賂を受け取って適当書いてだけ
>>696 https://www.zdic.net/hans/%E7%B5%B1%E5%B1%AC 统属 tǒngshǔ
[subordination] 统辖和隶属
统属关系
彼此不相统属
漢典みた方が。
>>733 宇佐神宮と出雲大社には古式の拝礼を保つ点で共通点がある(四拍手)
国東半島には杵築なる地名があり、出雲大社も古くは杵築大社を称した
応神天皇は息長から出たが、一説には宇佐国造の末裔というではないか
まさに祖霊を正しく祀ることで(しかも皇子という身分とはいえ親拝し)
祟りを解かれて言葉を得たということだ
見るからに倭國って🇭🇺ハンガリーや🇫🇮フィンランドに近かったんじゃw
倭国=ワクワクの国=フィリピンでしょ
卑弥呼=フィリピン人
>>752 あり得ない!
杵築の名前の由来は、以前は「木村」と名付けられたと言われていますが、1712年幕府から藩主松平重休に与えられた朱印状で「木村」を「杵築」と誤記されていたことからだそうです。 意外な地名の由来ですね。 また、この地は坂が多く、随所に凹凸があることからサンドイッチ型と言われているんです。
>>615 奴国は早良区南部、那珂川市、春日市、大野城市、筑紫野市方面だから問題ない。
>>676 魏志倭人伝には伊都国の王とは書かれていない
伊都国に王が居たと書かれている。
>>692 国々には王がいたのは漢の時代で倭奴国王が任命される前の状態
卑弥呼はそれよりも後の魏の時代の話
君は頭が混乱してるな。
>>693 一大率は女王国以北の諸国に置かれていた
伊都国に一大率はいないよw
>>695 一大率は女王国以北の諸国に置かれ
伊都国で女王卑弥呼が一大率を使い女王国以北の諸国を治めていたとあるね。
宇佐神宮の社家の一つは辛島氏だが、八幡神の顕現を受けたのは
社家のもう一つ、大神氏だという。むろん三輪山の大神氏だ
伝説では、饒速日が生駒に降臨する以前、宇佐の海域で軍団の半分を
息子の天香久山に与えて、自身は東へ向かったという
一部は宇佐地域に土着したろう。天界にあった香久山が二つに裂けて飛来した伝承を
加味すれば、その軍団は主には四国に張ったはずである
いずれにしても、国東と出雲と大和という不思議なリンクが見えてくる
>>755 承知しました。
ただ出雲と国東は遺物の点でも交流はあります
少し南に行くと、宮崎平野と吉備とが交流しているようです
3世紀ごろ畿内に都が開かれて落ち着いた頃、時代遅れのお山の大将率いる九州なんて全く価値がなくなったんだよ。
博多にいた阿曇などの優秀な氏族は畿内に拠点を移しているし
>>752 誉田別尊は伊都国生まれの不弥国育ちだろ
>>757 大神氏の根拠地は伊都国と奴国の間の日向峠周辺だよ?
>>761 三輪山の根本は日神祭祀だと思っていますよ
もともと本州にいた優秀海人族が、一時的に博多あたりに止まって畿内の都造りに参加した
畿内の都が無事完成し、同時に優秀氏族が畿内へ移動
しかし、何を勘違いしたのか九州土人は、本家である畿内ヤマトに何度も反乱を繰り返すのだった
>>762 福岡と糸島の市境は日向峠で隣に高祖山がある。
伊都国産の国内最大鏡で光通信して通信事業者として古代最大の勢力であった。
>>1 まあ普通に出土品を俯瞰して分析したら九州以外の結論にはならんからな
学閥の圧力で集団ゴッドハンドしてる畿内の罪は重い
>>11 やっぱりまともな研究者は九州って考えるよね
宮崎県は魏志倭人伝では投馬(つま)国
旧日向国国府であった都万(つま)神社
隼人の祖であった海幸彦の宮
それに対して弥生時代の倭の王都は伊都国
糸島の高祖神社は山幸彦(彦火火出見)を祭っている
高祖山周辺が記紀では神代の王都である筑紫の日向
北に筑紫の日向の小戸、東に日向川、南に日向峠
日向峠のすぐ上にクシフル山や日向山
筑紫の日向の小戸における伊奘諾の禊が神道における祝詞の中心教義であり、博多住吉神社の縁起でもある
なお、神武の別名も彦火火出見
神武が出発したのは宮崎県ではなく福岡県の筑紫の日向の高千穂宮
なぜなら、神武は伊都の彦火火出見の孫だから
魏志倭人伝「王は代々伊都にいる」
さて、倭王卑弥呼はどこにいたでしょうか?
>>1 5chでの議論では昔から九州説が有利だったけど世間が追いついてきたのか
摂津国一宮 住吉神社 筑紫で生まれた住吉の神を祭る
河内国一宮 枚岡神社 筑紫に降臨した天児屋根命を祭る
和泉国一宮 大鳥神社 天児屋根命の子孫を祭る
山城国一宮 上賀茂下鴨神社 筑紫からの神武の東征を助けた三島溝杭耳を祭る
紀伊国一宮 日前宮、国懸宮 筑紫に降臨した天道根命が持っていた鏡を祭る
ここまで筑紫と東征関連。
例外はこれ。
大和国一宮 大神神社 大物主を祭るとされるが、その実は山門郡太神村の磯上物部神社に由来するのだろう。三輪山の神とは、本来の畿内の支配者である物部氏のことであり、その祖は筑紫から来た天孫ニギハヤヒである。
畿内は筑紫からの入植地ですね。
あんまり貧相なものだから、本州人が情けをかけて少しだけ施してやったというのに
恩を忘れてすぐに増長し、裏切ろうとする九州土人
>>769 神武東征は、日向の次に大分県の地名が出て来て、
次に福岡県の地名が出て来るから、日向は宮崎県
だろ
>>769 NHKでも1度伊勢神宮の原郷が伊都国だという仮説をやったよ
蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´)
>>773 1度遠賀川まで行ってるから最初の日向方面が付け足しなんだよ
>>769 伊都国の王が神武なら
九州倭国の統治者が居なくなって
空白地帯となった九州倭国で後継者争い(倭国大乱)が勃発して
女王卑弥呼が共立されたというストーリーが成立しそうだな
九州では伊都では無く、八代こそが元伊勢だと洗脳されるよね
>>738 伊都国とか奴国と魏志倭人伝に書いてる九州がどうして邪馬台国になるんだ?
邪馬台国は大和国のこと
隋書にもそう書いてるしな
>>775 考古学は勝ち負けじゃないけどさぁ
カエルの骨?桃のタネ?
それで勝負ありwはあ?だよねww
>>775 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
弥生時代の鉄鏃 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
あとは金印とか養蚕とか絹とか弥生時代にあったと魏志倭人伝に載っているものは
何から何まで九州にはたくさんあるけど桃の種とか本当に弥生時代なの?
まぁ桃好きの人が奈良にいたのか知らないけどそれで邪馬台国作れたわけ?
魏志倭人伝にも無いし
神武東征も九州内を移動した話だし
万葉集で詠われた景色も九州だし
邪馬台国って変な名前つけないでね
大和国は奈良 ヤマト王権の都も大阪か奈良
邪馬台国は妄想だよw 大和国が邪馬台国であってほしいという中国人の妄想だわな
ヤマト王権が魏に朝貢してるわけねーべ?www
桃は穢れた人々に投げつける武器なの
中国王朝に貢いだ穢れが九州土人
ヤマトはそんなものには一切屈することは無かったから綺麗な体なのだ。
>>610 その説だと
壱岐島から末盧国(呼子)までの距離が千里でなく五百里になる
>>709 ついでに付け加えると
最近九州説は帯方郡を起点にする説がはやっている
伊都国を起点とする榎一雄説は魏の使者が伊都国までしか行っていないという根拠としたけど帯方郡放射説は帯方郡を起点とする根拠にすらない
最初の説明にはなかった投馬国が二度目の説明で出てくる不自然さ
最初に見たのは説明では朝鮮半島から日本へ行くのに海を渡ると説明していたのに二度目の絶命では水行がに変わる不自然さなど伊都国放射説よりも問題が多い
>>729 かなり距離の山を越えられるかな
>>737 対馬海流
>>784 九州にも山門があるからな
名前だけではどうにもなないね
>>787 出雲まで二十日かかったのならそこから十日だと鳥取までしか行かない
桃に嫌われている方々は精々、ユートピアを目指しましょうね(笑)(笑)
考古学者が考古学からの邪馬台国の位置の断定は無理って言ってるな
考古学でも推測の域を出ない
歴史学でも文献からの研究はやり尽くされてもう発展はないだろう
https://yumenavi.info/lecture.aspx?GNKCD=g004875 >>790 >現在は年代を特定できる技術も上がり、3世紀の暮らしぶりがだいぶわかってきました。そして、当時の「もの」や人の交流が現在の近畿、特に奈良を中心としていた事実はもはや疑う余地がないようです。
はたして魏志倭人伝に書かれている女王国(邪馬台国)は
日本列島規模のものだったのかそれとも九州地方規模のものだったのか
それくらいは文献資料から読み取れるだろ
・女王国の北の伊都国に一大率を置いて諸国を検察して諸国は一大率を恐れていた
・女王国の東に海を渡ればまた倭種の国がある
・女王国連合から魏への貢物はたったの生口10人布少々のみ(くっそしょぼい)
これが日本列島を牛耳る巨大国家の姿か?マジで言ってんのか?
文献から読めないから延々論争をやってきたんだろ
文献では埒が明かずに考古学も利用されだしたし
文献は解釈だからな 好きな様に解釈していいんだからマトモな議論にさえならん 後、古墳も好きな様に解釈してるし
免田は、むしろ投馬国から邪馬台国までの領域のようだ
中国人ですら文献からはやり尽くしてもわからないと言ってるから
(1) 都有恒氏は,この問題について日本史学界の研究は停滞したままで,文献から見てその
研究はもう項点に達し,一歩進めることは容易でないと述べ,突破ぱ新しい考古の発掘に侯た
ねばならないとの見解を示している。
https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/20/89chou.pdf もしかして距離、日数、戸数という数字の部分だけ辻褄が合わないという
中国の文献を研究してる人たちなら一番信用してはいけない箇所を争ってるだけなのでは?
もう畿内説派は罵詈雑言しかないんじゃん
情けなすぎる
日本で信じられない学問はいくつかある
社会学:活動家崩れのたまり場
経済学:失われた20年間になんの実績もない自称「実学」
そして
考古学:物証をでっち上げて歴史を捏造する実績だけがある
この3つは信頼のかけらもない似非学問だ
>>802 まあ経済学は後付けの学問だけども
会社が儲かっても労働者の給料は増えない時点で
旧来の学説は破綻してることを認めるところから始めないとダメかもな
>>795 文献と弥生時代の出土品と照らし合わせたら
奈良はゼロで九州が数百〜数千とかザラですよ
ゴッドハンドとかいう奈良が邪馬台国だったと証明するような
嘘つきとかいたりして奈良説を唱えていた人が強く出た歴史があって
なんとなぁく奈良説が未だに残っているだけって状況
文献とか考古学とか気象学とかでは奈良では無いっていうのが普通
というか「奈良はさすがにあり得ない」って思うのが普通
だって文献的に無理があって弥生時代の出土品があまりに少なくて
弥生時代は寒冷な時代でそこで米があまり取れないとわかっているからね
1945年までは天皇を頂点とした仕組みで動いてきてるから
どうしてもそこに寄せていかんとダメだったろうしな
いまぐらいがちょうどなんでも言える感じになってきてんじゃねの
ゴッドハンドみたいに疑われてる人っている?
あの人は次から次へと定説を覆す大発見をしつつ発見された状況が怪しいから疑われてたけど
欧米は炭素年代法やら遺伝子による解析であらゆることが解明されてるのに、
日本はまったく進んでないのはなんでだろう?
年輪年代法で木材の年も確認されてるのに、科学を否定する人が多いんだよね。
科学と人間の妄想なら科学の方が正確なのに。
そもそも中国の学者が魏志倭人伝を読むと邪馬台国は普通に北部九州だって言ってるんだよな
文献はその言語に通じた人間に読ませなきゃ駄目だよ
日本の学者モドキの自己解釈なんてクソの役にも立たんわ
>>804 北部九州も近畿もさして気候は変わりません。
北部九州は日本海から北風が吹き付けますから寒い。
>>807 科学をメインにしちゃうと畿内説が崩壊しちゃうから認められないのです
畿内説の希望だった箸墓古墳も卑弥呼より後の時代だと分かってしまったし畿内説には絶望しかない
nihonkodaishi.net/info-research/ronbun-pdf/koseikyokusen.pdf
> INTCAL20 によって、箸墓築造が
> 従来通説の4世紀前半に戻ったことを意味する。
>>35 >ではなぜ一切の痕跡を残さず邪馬台国は消滅したんだ?
>畿内は大和王朝があるぞ
大和王権に滅ぼされたんだろ
だから歴史から抹消された
親魏倭王の称号もらった大女王だから本来なら神社の一つや二つあっても良さそうなものだがそれすらない
滅ぼされたとしか思えない
唐古・鍵遺跡は環濠集落で弥生時代で一番大きい集落らしいじゃん。
中国の楼閣みたいな建物の描かれた絵も出土してるし
邪馬台国は八幡平に決まってるだろ
なぜ“はちまんたいら”と読まずに“はちまんたい”と読むと思ってるんだ?
>>810 田園調布にある前方後円墳も4世紀前半築造と言われてます。
東京と箸墓は同じ時期の築造なんですね。
>>812 そこはたった生口10人布少々のくっそしょぼい貢物にふさわしい遺跡持ってこないと
>>809 >北部九州も近畿もさして気候は変わりません。
>北部九州は日本海から北風が吹き付けますから寒い
それは冬
稲は熱帯が原産地だから、日本じゃ夏しか育てられんよ
高知や宮崎では昔は二期作やっていたけど、明治以降の話だろ
都はずっと畿内だよ 難波宮→飛鳥京→藤原京→平城京→平安京
窓口はずっと博多湾周辺だよ 奴国→伊都国(一大率)→那津官家→大宰府と鴻臚館
邪馬台国って当時の中国人が日本のことをそう呼んでいただけで、大して重要な事柄ではないよ
あと、邪馬台国は国全体の意味だったらしいから、どこにあるとか探るのはアホらしwww
窓口と都を離すのは当たり前じゃん
山東半島の先端に洛陽が存在したら困るもん
>>820 離すのは当たり前だが、当時の倭には馬がいなかったから、遠く離れた場所にするのは無理
>>773 その神武が上陸した大分県宇佐郡は北九州市のすぐ東隣り
橿原考古学研究所員も見放した畿内説にいつまでも未練がましく
しがみつく女の腐ったような関西人ww
>>818 こういう愚にもつかない言葉遊びでしか肯定できないのが
邪馬台国畿内説
>>817 邪馬台国は倭国(女王国)の都
倭国は邪馬台国や奴国など卑弥呼を共立した諸国の集合体
纏向学研究センターが畿内説前提に募った
クラウドファウンディングは、
わずか98人、達成度58%で終了。
最早、畿内説は誰にも支持されてない。
多分今後は畿内説派は一転して邪馬台国の矮小化に走る。
邪馬台国など取るに足らない地方集落だった、単に魏の史書に記述があって盛り上がっただけだと。
『地域別に見たる外鼻,顔面並に頭部形態の変化 及びそれらと鼻中隔畸形との関係』若盛宗雄
戦前長谷部,松村氏等により日本における全国的調査が行われ,戦後にも生体測定班により大規模な全国的研究が行われて,日本人の地方的差異は漸時明らかになりつつある,
地域的差異についての原因の詳細は不明であるが,鈴木教授は「恐らく遺伝因子に基ずく真の地方差のほか,他の因子即ち広義の環境の影響も加わって甚だ複雑な理由によるものと思われる」と述べている.
附田氏は20~60才の成人について北海道を除き全国各地を調査し,都市人がより広頭かつ短頭で高頭であること,これに対し農村漁村民がより長頭かつ狭頭で低頭であることを明らかにし,
又,古くから文化の中心地であり先進的地方であった近畿人が最も広頭短頭高頭であるのに対し,これと遠隔にありかつ文化的に後進的地域であった東北九州北陸地方人がより長頭狭頭低頭であることは,
正しく頭部形質が文化度と密接な関係にあることを物語るものであると報告している.
私の成績では何れも都会は農村より一定の有意性を以て短頭であり上記成績と一致する.
近畿地方人は,頭長短く,頭幅並びに頭高大にして,最も短頭且つ高頭型を示し,これを遠ざかる東北,北陸,九州地方人は比較して長頭且つ低頭である.
その中聞に位置する中国,四国,関東地方人は,頭径においても,その中間を占め,比較的短頭型に属する.
これらを10年乃至20年前の先人の成績に比較すると,その間多少の異変はあるが.頭長において約1.5mm内外の短縮が認められ,頭幅,頭高においては若干の伸長はあるが大差がない.
対馬島民の頭形は島村漁民でありながら町型に類似しており,九州地方に近接していながら,近畿地方人に近似した頭型を示している.これは特異な現象で所謂,種族差を表示せるものと認められる.
調査集団及人数の分類
東北8,086、北陸1,824、関東3,852、近畿10,917、中・四国10,017、九州9,437、対馬1,592、総計45,725
>>833 矮小化も何も九州説だと、九州北側の30程度の郡レベルだよ
畿内説だと西日本全体を使えるが、九州説=小さな集団にしかならないのは当たり前
九州説且つ壮大な大帝国はただの矛盾
俺はずっと九州北部の泡沫豪族集団説だけどな
>>830 倭国は今で言う日本の事だけど?
半島から船で行ったらなんか土地がありました
何と言う場所だと聞いたらワの地だと言う
じゃあワの国と名付けましょう
国名なんてそんなもん。ハワイとかもそう
「邪馬臺国」は、大河「吉野川」流域に展開する集落国群。
「狗奴国」は、黒潮太平洋岸に展開する集落国群。 @阿波
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、「辰砂」「青玉」など希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波
こんなのいくら研究したって想像でしか無い
タイムマシンでも開発されない限り、答えなんか出ない
「畿内に決まってる!」
↓
どうやら九州っぽい
↓
「答えなんか出ない!」
>>833 最初からそうだよ、華人が見たのはは九州北部だけ
何で訳も分からない初めての土地なのに瀬戸内海抜けて大阪上陸して、生駒越えて奈良に偶然辿り着けるんだよw
>>833 走らないって。北九州の国は後漢の時代だから。
魏からは明らかに全国シフトしてる。
西暦200年前と200年以後は明らかに政治的パラダイムシフトが起こってる。
九州説はそれを認めないと。
西暦50年〜150年頃の邪馬台国ではない微妙な遺跡をもってきて邪馬台国と騒いでるだけ。
>>845 プーチンと同じでプライドだけの誇大妄想
動かぬ、倭国(阿波)の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
縄文時代から「魏志倭人伝」時代にかけて、辰砂を採掘していたのは、後にも先にも全国で「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。 @阿波
会稽の海外に東鯷人あり(後漢書より)
これが関西方面日本海側に面した人だろ
北部九州や奈良湿地には、超先進文化技術国「邪馬臺国」や「狗奴国」が興る要素を見い出せない。
7万戸の正否はともかく、大勢の人が住んだ痕跡があるのは「阿波」だけ。 @阿波
>>845 九州にヤマト王権はないだろ
邪馬台国があったと言うだけで
何で邪馬台国=ヤマト王権だと思い込みたいのか不思議。
文献だけで考えたら九州だろ
文献を元に畿内説を唱えるのは相当な曲解をしないといけない
・魏志倭人伝で九州についてから一度も「渡海」していないから
九州から出ていない
・女王国から東に渡海した先にある倭種の国は
九州説なら本州・四国が該当するが
畿内説だとなんだかわからない
・魏志倭人伝では倭国が南北に長いように書いてある
九州説なら九州は南北に長いので矛盾がないが
畿内説では東西に長いように書かれないとおかしい
(実際に中国使者が畿内に行った隋書では
倭国が東西に長いように書いてある)
・後漢書に倭奴国が倭国の最南端と書かれていて
三国志でも邪馬台国の支配領域の最南端に奴国がある
奴国は北九州の国なので邪馬台国の支配領域は北九州範囲内に留まることになる
・日本書紀に「畿内政権が中国に行ったのは4世紀が初めて」と書かれていて
邪馬台国のように3世紀に中国に行ったことは書かれていない
邪馬台国は九州北部から中部、大和朝廷は日向の国から畿内へ移動した南九州人が作った。
無駄だ、まだ諦めないのか、九州説なぞ愚か。
卑弥呼は鬼道。
卑弥呼は老子道徳経を持ち込み、倭人は里を知らず季節を知らない中、陰陽で暦を使い惑わしたのだよ。
卑弥呼は五斗米道巫女。217年以降列島に現れ、布教を重ね、女王となった。
邪馬薹国、列島初代天皇太一は張魯の娘、張h瑛である。この中華宗教集団の流れを隠そうとしたのが記紀である。
禁忌説の人は当時すでに西日本は統一されていたとかんがえてるのかな?
「魏志倭人伝」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国」+「狗奴国」+讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波
数ある構成国(大河吉野川流域)よりなる「邪馬臺国」の首都が女王国(鮎喰川下流域集落群)。 @阿波
「山処(やまと)の地」
「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、
現在の三好郡と、美馬郡(木屋平村を除く)を合わせた七郷からなり、
徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。 @阿波
奈良にある橿原考古学研究所の先生が言ってるんだから、畿内説取り下げれば良いのに
オノコロ島は、忌部の郷 吉野川中流域に出来た大砂洲 「粟島」だろう。
「こをろこをろとかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった」
吉野川の洪水で、川底が「こをろこをろ」とかき回され、砂が積もり重なって砂洲「粟島」がオノコロ島となったのだろう。
淡路の沼島では、「積り重なって」が説明できない。 @阿波
天孫族が降り下った最初の開拓地 高千穂(豊葦原中国)が忌部の郷 「粟島」だったのだろう。 @阿波
五斗米老子道徳経、上善如水、岩にあたればしなやかに向きを変え、お椀に入れば丸くなり、升に入れば四角くなる。水は天地に従う。これが天地水、前方後円墳と呼ばれる物の正体。
列島初代天皇太一は張魯の娘、張h瑛以外に存在しない。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、「辰砂」「青玉」など希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波
唐古・鍵遺跡は環濠集落で弥生時代で一番大きい集落らしいじゃん。
2000年前の遺跡らしい
西暦20年の遺跡という事だな、
巫女たちが豊作を祈って踊りまくっていた
卑弥呼ってただの天気頭痛持ちのメンヘラだったってまじ?
気圧が下がって頭痛がする→雨乞い→雨降る
古代人なんてちょろそう
>>840 金印、銀印が出たらほぼ確定
金印は1個、銀印は全部で12個ある筈なので、出てくる可能性はある
何にしても物証に勝るものは無い
>>859 当時の中国語では「ヤマダ」と発音する。
(「ダ」は弱く発音するので「ヤマド」とも聞こえるような感じ)
卑弥呼は列島で初めて国を纏めた大王であり、倭五王の某将軍なぞ問題にならない親魏を与えられた女王だよ。優れていなければ陳寿も書き残すこともないし、張政らが尽くすこともない。列島初代天皇太一は水のように生きた巫女である。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、黒潮がもたらす豊かな海の恵によって漁労・航海術が発達、
内陸地域は温暖多雨による森林資源に恵まれ、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
また、「辰砂」「青玉(角岩チャート)」「蛇紋岩」「青石(緑色結晶片岩)」など希少価値の高い鉱物にも恵まれ、
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波
>>873 自分の予想では熊本平野なんだけど、
市街地は遺跡が見つかっても全然発掘してくれないんだよね。
>>852 関門海峡はわずか1〜2kmくらいしかない幅で、荒川や利根川、淀川とさして変わらない
>>877 発掘調査って地主の負担だったり、市の教育委員会の予算でやる
そんな物に金をかけたくないという市町村では、中々発掘調査が進まない
>>861 メンタル弱いから安本美典氏に論破されたんでしょ。
彼は橋下やひろゆきみたいだし。
>>874 ヤマト
クダラ
シラギ
何で全部🇭🇺ハンガリー語なのwwwww
任那日本府は匈奴に近かった?!
魏志倭人伝とか後漢書とか、なんでああわけのわからん書き方したんだよww
>>875 一応聞いてみるけど…
お前のその一連のキチガイ妄想、何か根拠あんの?
魏の使いが関門海峡を見たら絶対に何か記事を残したろう。
瀬戸内海の記事も日本海沿岸航行の記事もないんだ。
西日本に上陸してから奈良に辿り着くまでの途中の里程もまったく記事がない。
郡使は九州を出ることなく、伊都に留まっていた。
しかし卑弥呼に会って金印を授けている。
>>886 中国の歴史書だから、国外の事まで真面目に調べてないから
>>824 北九州市の到津がいとうづなんで高木彬光が伊都国と比定地に上げて宇佐を女王国としている
邪馬臺は翰苑に伊都に隣接とあり太宰府だったのは間違いなくその国名はマップを見れば歴然だが
風水的立地に置かれた山を左右に挟む平野部であり
山の門が由来。
そして現代も山門は地名として残っており
ヤマトと呼ばれた国はその立地自体を表している
>>892 伊都国=怡土郡=糸島市
古事記には怡土村、日本書紀には伊都県として登場する
>>894 邪馬台国ブームの頃の推理小説だから。
否定された糸島水道有りきの推理をしているし。
>>878 それがなんだ
畿内説なんか陸続きの東海地方を渡海と強弁してるぞ
>>878 それこそ必ず書くだろ
だいたい来た事もない奴が朝鮮から奈良まで辿り着けると思うか?
途中になんの記述もなく、いきなり奈良に?
地図見てごらん瀬戸内海がいかに複雑かを
卑弥呼の墓もうわかってるじゃん
すごく寂れてるけど
古墳好きはみんな知ってる
畿内説なんてとんでもバカサヨ自称学者しか
相手にしないでしょ
>>896 それに関しては近江(淡海)と遠江みたいな概念があるね
「人に委ねる国」と書いて「倭国」
これは中国が日本を属国と決めつけて付けた蔑称
正しくは「和国」
>>900 一説によると淡水湖の琵琶湖と浜名湖のことだそうで
>>902 だから中華の当て字に日本が選んだ字に変えただけでしょ。大和は当て字の最たるもの。
>>903 後付けだとは思うけど、
九州の宇佐を伊勢と見なして、漢字の伝来と共に大和中心の地名相似が北部九州に当てはめられているのが見えてくるね。
領域は島国で阿蘇山があると書かれていて、畿内節になるわけがない。朝鮮南部も支配地域の海峡国家の倭国は北部九州が首都。
その時の畿内は出雲や吉備などと同様に地方豪族にすぎない。磐井の乱で倭国に勝利し、倭国王族の糟屋の屯倉を少し手に入れたのが初の九州領土
>>902 何が「正しくは」だよ
こうあるべき!みたいな理想論かざして歴史を捏造するな
朝鮮人と同じだぞ
>>904 當て字なのか?w
「越後国〈略〉頸城郡〈略〉夷守 比奈毛里」〔二十巻本和名抄‐七〕
和名類聚抄などを参考にしたとか?
>>908 漢字の伝来は518年だっけ?
文字が無い仮名倭国にはそれまでは1部の人しか使えない文字だった。
漢字伝来からの名乗りなら
日ノ本でしょう。
「筑紫国(つくしのくに)を巡狩(めくりみそなは)す、始(はし)めて夷守(ヒナモリ)に到(いた)り」〔日本書紀‐景行一八年三月(北野本訓)〕
>>889 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF ここに全遣唐使のことが書いてあるんだが
すべての回において九州上陸から帰朝までの途中経路が書かれてないんだわ
昔の人は出発地点と目的地のことで精一杯で道中はあまり関心が無かった?
中国人女性に妊娠させた男もいたりしてなかなか面白い
ちなみに私は畿内説ではない
語源から考えてみる
「クニ」の語源説でもっとも有名なのは、本居宣長の「垣」(クネ)説であるようである。 『日本国語大辞典』(小学館)から、その語源説を引いておくと「(4)古語で分界のことをいうクマリの転で、クム、クモと同根〔東雅〕。
邪馬台国は九州北部で確定して、次は卑弥呼の宮殿や
卑弥呼のお墓がどこなのかの議論に進むのが正解
>>910 日本と名乗ったのは670年
それまでは国内でも「倭」
これが歴史なんです
>>910 と言うか、突厥は倭なんて呼んでないよ?
東の太陽よりさらに東にある国って呼んでる。
>>873 出てきた金印は邪馬台国のものではなくて奴国のもの
出てきた場所から推測するに奴国は博多湾の近くにあるとされる
邪馬台国の金印が出てきたらという仮定の話か
俺が間違えてた
>>917 金印は確かに出てきたらほぼそれで決定的だとは思うんだけども
景行天皇あたりで九州勢から三種の神器を巻き上げてるらしいと知って
お宝取り上げるなんてなんだかなあという気にはなったな
>>915 受動的な名乗りじゃ〜ん。
聖徳太子は我が国の我国とか考えていたんじゃないの?
>>769 日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂)
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波
>>894 伊都国=怡土郡=糸島市(東南部)糸
斯馬国=志摩郡=糸島市(北部)島
>>786 魏志倭人伝では渡海は一律に1000里とされているだけのこと
海峡の幅は平行する陸地が無く測量出来なかったんだよ
帯方郡を起点とする根拠は
@説明が里(距離)から日(時間)に変わっているからこれを続けて読む事は出来ない
何故なら続いているとすると目的地までの距離も時間も分からない意味不明の文章になるから
こんな馬鹿な文章を陳寿は書かない。
A壱岐対馬の外寸を距離として考えると12000里に達しており距離の説明が終了している。
B続けて読んだ場合、一旦陸上に上がり復船で旅した事になり極めて不自然な旅の工程となる。
これらの事から帯方郡から距離で説明し、更に同じ行程を今度は時間で説明しているとの結論が導きだされたんだ。
常識的に考えたら先進地域の朝鮮に近い北九州に決まってるわな小学生でも分かる
壱岐島から唐津市なら他の1000里と書かれている距離と同じくらいの距離になるけど
>>751 「丗有王 皆統屬女王國」
魏の世に(伊都国には)王(倭王卑弥呼)が居ました
(倭の国々は)皆女王国(女王卑弥呼の国)に統属していました。
「丗有王」を代々王が居たや、伊都国が女王国に統属とか誤読もいいとこだな
誰だよこんな変な誤訳を広めた馬鹿は?
>>932 海峡の幅を全て1000里とした事で実測してない事を示してるんだろうな。
三角縁神獣鏡の分布を見てると4世紀にヤマト王権が全国展開してるよな
原盤の三角縁神獣鏡を3世紀に手に入れてるとなるとやっぱ邪馬台国は畿内っぽく感じる
遠すぎて詳しくわからないと書いてるし
それに
>>786のいうように海を渡るから水行に変わったり投馬が急に出てきたりのほうが不可解すぎる
榎一雄の使者は伊都国止まりだから伊都国起点ほうがまだまし
>>934
狗邪韓国(巨済島)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町 出航地 厳原町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波 >>935 中国から出土しない鏡の原盤とはいったい
>>935
>三角縁神獣鏡の分布を見てると4世紀にヤマト王権が全国展開してるよな
「倭人(阿波勢力)」の全国進出だな。 @阿波 >>919 邪馬台国の金印の事やね
238年の最初の朝貢で金印1つと銀印2つ
卑弥呼・・・親魏倭王の金印
難升米・・・率善中郎将の銀印
牛利・・・率善校尉の銀印
243年の朝貢で銀印8つ
掖邪狗等8人・・・率善中郎将の銀印
合計金印1個、銀印10個貰ってる。銀印12は10の間違いやね
倭奴国の金印なんて1個中1個で見つかってるんだし
その11倍あるんだから、見つかる可能性はあると思う
>>935 >4世紀にヤマト王権が全国展開してる
妄想は根拠足りえないよw
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として里と日を1/5して、距離と方向を合わせると次のようになる。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
>>934
狗邪韓国(巨済島)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町 出航地 厳原町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦) @阿波 >>941 4世紀に全国展開して行ったのは確かじゃないの?
卑弥呼の3世紀ではなく
>>786 投馬国と邪馬台国は韓での馬韓や辰韓、弁韓みたいな地域の名前だ
伊都国や奴国等の都市国家の集合体のことだ
>>945
>4世紀に全国展開して行ったのは確かじゃないの?
「倭人(阿波勢力)」だ。 縄文時代後期からだがな。 @阿波 >>943 里数と日数の行程を続けて読むなよw
熊本県人?
>>917 志賀島の金印は、
漢倭奴国王ではなく、
漢の委奴(伊都)国王の
説が出てきている。
そういやintcal20の影響でもし古墳の年代観がズレるなら鏡の年代観も一緒にズレるもんなの?
>>933 > 誰だよこんな変な誤訳を広めた馬鹿は?
魚豢と范曄かな?
魏略と後漢書の書きっぷりが、伊都国にただ一人の王がいる事を否定してる
後漢書に注釈をつけた雍公叡が書いたのかもしれないけど
魏志倭人伝
世有王皆統属女王国
魏略
其国王皆属女王也
後漢書
國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
>>878 中国では黄河を渡る時は「渡河」、揚子江を渡る時は「渡江」と
川を渡る時も「渡」を使う
女王国以北は道里、戸数の詳細が得られているので
日程で2か月もよくわからないルートの先に女王国があることがありえない。
30国あるうち、21国はさらにその先にあってよくわからないということも補足されている。
日程記載は明らかに別の資料から転載されたものであり、行程記録の続きのルートではない。
>>947 4世紀初頭から畿内で作り始められた前方後円墳のその後の広がり具合を見るに
日本の古代の水行20日は、
日本書紀の神武記に、
高千穂から岡田宮(不彌国)まで
34日と明記されているので、
その3分の2の美々津が投馬国になる。
水行10日はその半分なので、
不彌国から宇佐大分となる。
陸行1月行は唐書や隋書に
倭国は東西五月行南北三月行と明記されているので、
1月行は100キロ一寸となる。
コレを邪馬台国の範囲に当てはめると、
宇佐大分から日田を経て山門八女までの行程に一致する。
>>958
4世紀初頭から畿内で作り始められた前方後円墳のその後の広がり具合を見るに
「倭人(阿波勢力)」の進出痕跡とわかる。 @阿波 畿内説の奴らは、
日本書紀に高千穂ー岡田宮が水行34日、
唐書や隋書に倭国は東西五月行、
南北三月行と書いてあると、
何辺言っても無視するので、
相手にしないほうがいい。
要するに、日本書紀や唐書隋書を無視しないと、
唱えられないのが畿内説なんで、
我々は日本書紀、唐書、隋書から、
邪馬台国は山門八女と言い切ればいい。
もう結論は出ちゃってる事なんで、
何時までも畿内説のアホに付き合うだけ時間の無駄。
>>958
4世紀初頭から畿内で作り始められた前方後円墳のその後の広がり具合を見るに
「倭人(阿波勢力)」の進出痕跡とわかる。 @阿波 文法から考えてみる
🇨🇳你吃饭[吗?]
🇬🇧[Do] you have a meal[?]
🇯🇵食事を持っています[か?]
🇨🇳你吃饭[了]吗?]
🇬🇧[Did] you have a meal[?]
🇯🇵食事を食べ[ました][か?]
🇨🇳我[正在]吃饭[呢]。
🇬🇧I [am] hav[ing] a meal.
🇯🇵食事を食べ[ている所]です。
>>952 後漢書も魏略も魏志倭人伝よりも前の時代の事だから魚豢と范曄は無関係だなw
昔は倭に大勢王が居たから魏代も同じだとした人
>>940 魏は椀飯振舞だな
>>953 「渡」だから川を渡る時も海を渡る時も「渡」だな
>>927 もし隋書の話なら阿蘇山は隋の時代の倭国の話だから邪馬台国と関係ない
🇭🇺👱?『honnan jottel?』
🇯🇵🤣「プークスクスwwwww」
>>967 魏略の記載を元に魏志倭人伝が書かれてるし、後漢書も明らかに魏志倭人伝を参考に書かれてるけど?
>>923 >なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
そりゃそうだ。
しかし山城や高地性集落に住んだという程度の意味なら理解できる範囲になる。
>それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
北方的な価値観を持っていたり、そもそも天皇家が北方系の由来も持っていたと考える根拠になる。
君は天皇家が江南から来たと思っているのかな?
自分の価値観に合わないから全否定するのはナンセンス。
書いてあることから、何を言わんとしていたのかを考えなくては。
筑紫の日向を宮崎県や鹿児島県にすると、筑紫の日向の小戸で伊奘諾が禊をして、福岡県に住吉の神が誕生するのはどう説明するんだ?
筑紫の日向の高千穂宮にいたはずの彦火火出見が伊都の高祖神社(高祖宮)に祭られているわけはどう考える?
>>968 これのことか
時代も邪馬台国と関係ないぞ
金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、
光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/ >>974 高天原は博多湾周辺の奴国の事である事が分かっているので何も問題はない。
卑弥呼が伊都国以外にいたというのなら、同じ時代に三種の神器を持っていた平原遺跡の倭国女王は何者なのかという矛盾が噴出する。
つまり卑弥呼の墓はもう発掘済みなんだよ。
平原遺跡しかない。
平原遺跡の世界最大の銅鏡である八咫の鏡は、記紀のアマテラスが卑弥呼をモデルとしていることを示唆している。
そうしたら、王宮は目の前の高祖宮こと筑紫の日向の高千穂宮でいいだろう。
山城(怡土城)でもあるので、魏志倭人伝にある宮城の楼閣高く、に合致するし、記紀のクシフル山の名も残っている。
天孫降臨は山城に拠点を構えたという意味で通じる。
>>973 魏略の記載を元に魏志倭人伝が書かれてるけど
魏略は卑弥呼が倭王に任じられる前の倭国争乱とかの時代
後漢書は魏志倭人伝を参考としたとしても倭統一以前の時代が「國皆稱王丗丗傳統」だって話。
天孫降臨伝説は、
ニギハヤヒにもあり、
コレが河内を拠点にして、
大和、そして遠くは長野県安積野へ、
進出していったと言われているが、
近年、大阪湾型銅戈が、
長野県の安積野で見つかった事で、
ニギハヤヒの天孫降臨が、
実際にあった事が明らかになった。
銅剣銅矛を祭祀の道具として祀る文化は、
博多湾周辺で盛んに行われていた事が分かっており、
ニギハヤヒが出自した高天原は、
博多湾周辺、弥生時代では
奴国の領域である事が確定している。
記紀の神代記は奴国の記述なのである。
>>979 >魏略は卑弥呼が倭王に任じられる前の倭国争乱とかの時代
<魏略より抜粋>
其国王皆属女王也
女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也
自帯方至女国万二千余里
>倭統一以前の時代が「國皆稱王丗丗傳統」だって話
<後漢書より抜粋>
國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
どっちもあなたの感想と記述は真逆だよ
>>977 卑弥呼は邪馬台国にいたと明記してあるので、
卑弥呼が伊都国にいないと矛盾が生じる
とか言ってるお前の脳に問題が生じている。
>>975 実は志賀島全体が卑弥呼の陵墓なんだよな
古い文献や伝説は何の証拠にもならんよ 当時の日本なんて最果ての地、ちゃんとした記録なんかないし、日本書紀なんて童話だからな 今の所、金印が江戸時代に九州北部で出たのが証拠だろ
>>984 その金印は「漢倭奴国王」の印ね
後漢書にも金印を渡したと書いてあるものが出てきてる
じゃあ魏志倭人伝に書いてある「親魏倭王」の金印も
どこかから出てくる可能性がある
書いてるけど実物が出てきてないから存在しないのか
書いてるけど見つかってないだけなのか
どっちだと思う?
> 古い文献や伝説は何の証拠にもならんよ
ならんよと断定できる確たる証拠でもあるんか?
志賀島には安曇族の氏神が祀られている志賀海神社がある。
安曇族は奴国の主要構成部族であり、
志賀島から奴国に贈られた金印が出たのは、
歴史の必然である。
>>985
「漢委奴國王」
そもそもこの5文字、意味成してるか? 黒田藩のチョンボだな。 @阿波 >>966 汝食穀︀乎?
汝食穀︀了乎?
我食穀未了。
どこにあったとしても、その程度の国だった、ってことで終わりでいいんじゃ?
別に奈良や九州が今の日本を作ったわけでもなし
邪馬台国の金印と福岡で見つかった金印を混同している人結構いるのが面白いね
日本の歴史を知る事は重要な事。
須佐之男命は奴国の王で、
長野県安積野は奴国の安曇族が
1世紀〜2世紀に実際に進出した地域。
こういうことが次々と判明していくのだからな。
いや…そんな無責任な事言ってちゃ
ダメじゃね𐩃
日本が書物沢山かっぱらってきたから?
銅鐸の時代編年と密度分布の変遷の分析により、
大国主命と大物主命の國造が
実際にあった事が証明された。
紀元1世紀中期の事である。
また、高地性集落は、国譲りで、
事代神が隠れたとされる、
青柴垣で間違いないだろう。
記紀には、1世紀からの日本の事が、
ガチで書かれているのだ。
コレは凄いことだぞ。
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